正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

東洋思想 井筒俊彦

 

      東洋思想

井筒俊彦

 

 古来、東洋には多くの思想潮流、思想伝統が現われて、それぞれ重大な文化史的役割を果たしてきた。それら相互間に生起した対立、闘争、影響、鍵概念の借用・流用、移植と摂取の歴史。時代と場所を異にする多くの思想伝統が、直接間接、多重多層の相互連関において織り出してきた壮大華麗な発展史的全体テクストを、我々はそこに見る。東洋思想の、この歴史的連関性の展開史を、構造的構成要素の同位的相互連関性に組み直す事が出来るなら、東洋思想は、そこに、一つの共時的構造テクストとして定立されるであろう。上記の目的の為には、このように、東洋思想全体を、一つの有機的秩序体として捉え直す事によって、全包括的・統合的な俯瞰図を描いて見る事が、どうしても必要である。こういう知的操作を通した上で、始めて我々は東洋思想を、全人類的思想の普遍性の地平において論じる事が出来るようになるのではないか。東洋思想を一つの有機的構造として組み立てる事、それこそー我々が<東洋>を、来るべき世界の思想文化パラダイムの構想の一貫として生かそうと望む場合―我々の第一に考えるべき課題であろう、と思う。

 とは言え、<東洋思想>には、さまざまな側面があり、それらの中のどの側面に焦点を合わせるか、どういう視角からアプローチするか、によって、全体像が大きく違ってくる。おずれにしても、すべてを包括的に統合しようとする試みは、所詮、著しい単純化の操作たらざるを得ないのであって、不可避的に無数の取りこぼしが残る事は目に見えている。それを承知の上で、筆者(井筒俊彦)は以下、<東洋思想>の全体像(らしきもの)を、そのごく極限された一側面において、ある特殊な角度から、略述してみようとする。

 <東洋思想>の全体的構造を根本的に規制する座標軸として、筆者は、ここで、言語と存在の原初的連関に対する、東洋の思想家たちの根深い、執拗な関心を指摘したい。そしてまた、このような主体的態度から生じてくる東洋思想の、極めて特徴ある哲学的パラダイムを解読する為の鍵言葉が俗に云う<言語不信>である、と云う事を。

 ここで言語不信と云うのは、もちろん、哲学的ないし存在論的意味機能によって、ごく簡単に言えば、次のような事態を指す。まず、コトバは、その存在分節的意味機能によって、至る所に存在者(事物事象)を生み出していく、と考えること。次に、こうして生み出された個々の存在単位は、すべて、個別的な語の意味が実体化された物に過ぎない、とすること。存在者が言語的意味の実体化に過ぎないのであれば、全ての事物事象は、臨済の言うように、「みな、これ夢幻」であって真実在ではない、と云う事にならざるを得ない。自分自身を始めとして、自分を取り巻く一切の事物事象を、そのままそこに存在する、客観的対象であると思い込んでいる人々は、だから実は、「至る所に空名を見」ているのみだ、と臨済は言うのである。<存在=空名>と云う形でフォーミュラ化する事の出来るこの見地が、東洋の存在論を根底的に規定する一つの重要な哲学的立場である事を、冒頭に指摘しておきたい。

 <存在=空名>と云うこの立場に対して、古来、東洋には、<名→存在=実在>と云う立場もある。つまり、コトバと存在との間に、一対一の実在的対応関係を認める立場である。古代インドでは、小乗仏教アビダルマや、ヒンドゥー哲学のサーンキヤ(数論〔すろん〕派)、ニヤーヤ(正理派)、ヴァイシェーシカ(勝論〔かつろん〕派)などがそれを代表する。簡単に言えば、物が実在し、それをコトバ(<名>)が実在対応的に指示すると云う立場である。

 例えばヴァイシェーシカ(Vaisesika)は徹底した実在論的思想家のグループである。この問題についての彼らの主張を要約すれば、次のような事である。個物としての牛は実在する。それは正確に対応して<牛>と云う語がある。もちろん、<牛>と云う語が、もともと概念的普遍者としての牛を意味する事は、彼らも知っていた。だが、普遍者も、個物と同じ存在度をもって、そのまま外的に実在する、と彼らは主張した。有意味的なコトバ(<名>)があれば、それがどんな<名>であれ、必ず、可感的個物ないし非可感的普遍者が、独立の外在者としてこれに対応する、と云うのである。

 <存在=空名>の立場を取る人々に言わせれば、ヴァイシェーシカ流の実在論者は、コトバの意味分節単位に過ぎないものを、誤って、直ちに外在する事物事象と考えているに過ぎない。むろん、実在論の側では、それを認めない。経験界で我々が出会う全ての事物事象は、始めからそこに、客観的に実在する存在者なのであって、外在するそれらの事物事象をコトバが指示する、それが意味(意味作用)と呼ばれる現象なのだ、と彼らは考える。この立場からすれば、コトバは存在真相の正確な鏡である。一点の陰りもない鏡が、物のあるがままの姿を歪みなく映し出すように、コトバは客観的存在リアリティの構造を忠実に映す。それが、コトバと存在との間に、本来的に成立している対応性である。

 コトバと存在との間には、このような本源的な対応関係があると云う、この実在論的立場を、非常に特徴的な形で展開したのが、孔子の思想に直接淵源する初期儒教の場合である。経験的存在世界は、本質に依拠して成立する<実有>的世界である。と云うのが、孔子の揺るぎない信念だった。彼の孫、子思の著として伝えられる『中庸』の冒頭の一句、「天の命ずる、これを性と謂う」(天命之謂性)が明言する如く、宇宙の森羅万象、その一つ一つが天の命令によって(つまり、先天的に)定められた本性を中核として存在している。経験世界の事物事象は、それぞれ、永遠不変の本質を存在根拠として持つ。要するに個々の物は、謂わば天与の本質を持つ事によって、まさにその物なのであり、同時にそれによて完全に実存性を保証される。そして、言語的意味分節単位としての<名>は、この本質(本性)と厳密な指示的対応関係にある。すなわちコトバは、本質を第一次的、直接的に指示し、本質指示を通じて、外在的存在者を第二次的、間接的に指示するのである。

 だが、孔子はコトバが実在を忠実に映す鏡であるとは言わなかった。それは彼の主たる関心事ではなかった。もしこの同じ比喩を使うとすれば、彼はきっと、コトバは実在を忠実に映す鏡であるべきである、と言った事であろう。であるとであるべきであるとの、この隙間に、孔子はある重大な政治的・倫理的含意を読み取ったのだった。

 己れの生きる現実の世界の至る所に、孔子は<名>と<実>(コトバと<実有>)との食違いを見た。彼の目に、それは深刻な文化的危機として映った。社会生活のあらゆる所に彼が目撃した分裂は、彼にとって、彼が文化の理想的パラダイムとした周王朝の<礼>秩序の内部崩壊を意味した。例えば<王>と云う<名>が、王たる者の本質を具現化していない人物(むしろ、<盗賊>と云う<名>にこそふさわしい人物)に当てられている、と云うような具合に。本質と直接かつ厳密な対応関係にあるコトバと、そのコトバが現実に適用されている対象との間に、このようなずれが生じる時、社会生活は拠るべき規範を失って混乱に陥る。<名>と<実>とが正しく対当するように言語秩序を立て直していく事、それを孔子は「名を正す」と言う。「必ずや名を正さんか」(必也正名乎、『論語』十三)。<正名>こそ、孔子の政治理念の根基であった。言語秩序の回復→存在秩序の回復→社会秩序の回復。

 <名>が正しく定まって、始めて転嫁は治まる、と云う孔子のこの言語中心的政治(倫理)思想は、やがて戦国時代、荀子(じゅんし)に至って、精緻を極めた<正名論>にまで発展する。一般に春秋戦国時代(いわゆる「諸子百家」時代)は、思想的には、まさに名実論の時代である。多くの第一級の論客が現われ、コトバとその指示対象との関係を巡って思想界は沸き立った。

 古代中国のそれとは思想文化の系統を全く異にするが、ユダヤ教イスラームに於いても名実論に当たる思想が非常に重要な位置を占める。もちろん、ここでは、濃密な神話的形象のナラティブ的展開と云う形を取るので、表面に現われた姿を見る限り、中国の名実論の概念的論理性とはまるで別物のように見えるけれども、思想の骨子は同じである。

 「神、光あれと言えば、光があった」と旧約聖書「創世記」の冒頭に言う。天地開闢、すなわち存在世界の最初の顕現、の叙述であるが、それが、神のコトバ(あるいは、根源的コトバそのものである神)による存在生起の事態、として描かれている事が注目される。ヒカリ(原ヘブライ語ではorオール)と云う<声>の発動と共に、それに応じて<光>と云うものが、それの指示対象として現出してくる。「ヨハネ伝」最初の一句(「はじめにコトバありき・・コトバは神なりき」)にある如く、神がコトバであり、コトバが根源的に神であるならばーこの点で、古代インド思想における宇宙的絶対実在<ブラフマン>が、もともとヴェーダ聖句の誦唱や祭官の呪言に内在するコトバの靈力であった事が憶い起こされようし、また日本の真言密教における大日如来のコトバ(「法身説法」)、「阿字本不生」的根源語の存在喚起性が思い合わされるであろうー神的なコトバの拡散である全ての個別的語は、必然的に自立的実在者であるはずであり、そしてまた、もしそうであるとするならば、自律的実在であるコトバから現出する事物事象もまた、すべて自律的・外在的な実在者でなければならない。

 イスラーム聖典コーラン』でも、天地創造は神のコトバによるものとされている。如何なるものであれ、「神がただひと言、あれと言えば、それはある」(十六、四十二)と。ただ、『コーラン』の場合、経験世界のすべての存在者(事物事象)も、それら各々の<名>も、神の被造物として同位・同格的であり、神の第一次的創出に係るものとされている。すなわち、コトバもものも、ともに被造物としての実在性を持つ。しかも、この場合も、<名>と<実>との間には完璧な実在的直接対応関係が成立すると云う形で、創出・制定されているのである。

 先に触れた「創世記」の一節にしても、神はヒカリと云う語で、<光>と云うものを創造したと云うのであるから、<名>と<実>との連関性は絶対に恣意的では有り得ない。この意味で、コトバの対象指示性は完全に的確である。コトバは決して人を欺かない。<名>の指さす線を辿ってゆけば、さの先に、必ず人は<実>(実在する対象)を見出す。

 この点で、上述した古代インドのヴァイシェーシカが、<事物><もの>をpadarthaと云う語で術語的に表わしている事は、興味深い。<パダールタ>(<パダ>・<アルタ>pada-artha)

とは、文字通り「語の意味」と云う事。つまり、コトバの意味が、そのまま、ものである、と云う考えであって、我々はここに、言語の実在指示性に対する深い信頼感の端的な発露を見る。始めに一言した<言語不信>の、まさに対極をなす立場である。

 <言語不信>。事実、東洋には古くから、<名>と実との関係について、言語不信とも云うべき徹底的な言語否定的立場があった。コトバの実在指示性を根底から疑い、否定する立場。ナーガールジュナ以後の大乗仏教や、老子荘子道家哲学が、それを代表する。

 我々がごく自然な形で経験する世界(華厳哲学のいわゆる<事法界>)は、無数の事物が、それぞれ本質的自己同一性を保ちつつ、自立的実在性のおいて存在している世界だと思っている。しかし、唯識哲学では、それを<遍計所執性>と呼んで、その実在性を否定する。

 <遍計所執>とは、要するに<妄念分別>と云うこと。この術語にはっきり示されているように、<分別>とは存在を、<実有>的存在分節単位としての、個別的事物事象に分割して見る見方であって、そのような<分別>によって成立する謂わゆる経験的現実は、根本的に<妄念>の所産であり、偽りの世界である、と考えるのである。

 仏教哲学と親密な関係にあるヴェーダーンタの代表的哲学者シャンカラは、これを<ブラフマン>の幻力(マーヤー)の織り出すスクリーンに現われる幻影に喩えた。<マーヤーmaya>とは、何も無い所から、様々な事物事象の形姿を、恰も砂漠の地平線上に浮かび上がる蜃気楼のように現出させる宇宙的な幻想能力である。プラトンの「洞窟の住人たち」が、一生、太陽に背を向けたまま、眼前の岸壁に映る事物の影だけを眺めて暮らし、それを現実だと思い込んでいるように、マーヤーの垂れ幕の表面に描き出される幻影の如き事物を、客観的に実在する事物と思い込んでいる人たちは、マーヤーの垂れ幕の彼方(真実在〔ブラフマン〕自体)見ようとはしない。

 何が、いったい、このような存在幻影を作り出すのか。今我々が問題にしている言語否定的立場の思想家たちは、コトバにその究極的な原因がある、と言う。彼らによれば、人間言語は、意味分節=存在分節を第一の本源的機能とする。すべての語は、それぞれ特有の意味を持つが、この意味の表示する<区画>線(荘子のいわゆる<封><畛>)によって、存在が様々の違った形に分別されるのである。「夫れ道は未だ始めより封(ほう)有らず。言は未だ始めより常あらず。是が為にして畛(しん)有るなり」(夫道未始有封。言未始有常。為是而有畛、『荘子』二 そもそも存在リアリティの真相なるものには、なんの限界もない。他方、それに対応するコトバには一定不変の意味があるわけではなく、ただ相対的、差異的にのみ事物を区別して示す。このゆえに、存在リアリティが言語化されると、そこに様々な境界線〔畛=田のあぜ〕が現われてくるのである)。

 コトバにの意味による存在のこの境界づけを、仏教哲学では<区分け>(<分別>vikapa)と呼び、漢訳仏典はこれを<妄想分別>と訳す。実際には無い存在区別を、コトバの意味ゲシュタルトが作り出していくのだ。こうして妄想的に立てられた存在の差別相が、存在の無限定的形而上性(絶対空)を覆って見えなくしてしまうのである。

 大乗仏教哲学の創始者ナーガールジュナ(龍樹)は、コトバのこういう本源的存在分節機能、言語的意味の存在ゲシュタルト喚起作用を<プラパンチャprapanca>と呼んだ。それの漢訳は<戯論>。<戯論>と云うと、何か非常に特殊な色合いを帯びるが、もとのサンスクリット語では、<多様化>とか<拡散>とか云う意味である。ただし<拡散>は、この大乗仏教哲学的コンテクストにおいては、意味分節的存在単位(<仮有>的存在者)の現象的<拡散>と云う<仮有>的事態の生起を意味する。すなわち、本来、内的<区分け>の無い無縫の存在リアリティが、様々な語の意味分割に促されて分散し散乱して、様々な事物事象の形姿を幻影的に現出させること、である。

 こうして、意味分節を根源的機能とするコトバは、渾然として無差別・無限定な存在の表層に無数の分割線を引いて、そこに<分別>的存在風景を描き出す。この立場からすれば、我々が普通ものと呼びものと考え慣わしている存在単位は、言語意味的文節単位の、謂わば素朴実在論的実体化に過ぎないと云う事になるのである。つまり、普通一般に存在界と考えられているものは、実は<名>の世界、老子のいわゆる<有名>(無数の<名>によって様々に分割された存在次元)に他ならない。「道の常(=真相)は名無し」(道常無名、『老子』三十二)、「道は隠れて名無し」(道隠無名、『老子』四十一)。<道>、すなわち存在の究極的境位は、<有名>でなくて<無名>でなくてはならない。<無名>、すなわちコトバ以前、存在の言語的分節以前のあり方、絶対無分節、そしてその意味での<無>。

 コトバ(<名>)とその指示対象(<実>)との関係に関する限り、大乗仏教老荘ヴェーダーンタも、原則的には、同じく言語否定的立場(コトバは<実有>を指示しえない)を取る、例えば、『荘子』(外篇)の一節は断言する、コトバによって伝えられるのは名と声だけであり、名と声とは事物事象の真実を伝え得ない、と。

 同様に、古代インド哲学の源泉であるウパニシャッドは次のように説く(『チャーンドーギヤ』六、一、四)。一塊の土が、色々な器物に作り変えられる、壺とか碗とか皿とか。それらは、全く同じ一つの土の変容(ヴィカーラ)に過ぎない。<変容vikara>とは、存在論的差異態、特殊態、個物態、と云う事。それらの器物は、相互に異なる独立の存在者として認知されるが、その差異は、要するにコトバ、すなわち<名称nama-dheya>の違いであって、結局、どれも土器である。「土である」と云うだけが事の真相なのである、と。この場合、「土」と云うのは、比喩構造的に、万有の根源である<ブラフマン>を指す。つまり、<ブラフマン>は、それ自体としては絶対無限定的存在リアリティなのであって、それが様々に分別(分節)され、分別されたものそれぞれが<名>を帯びる事によって、個別的なものの世界が現象する。その世界では、意味の差異に依拠する<名>の差異によって、一つ一つのものは<仮有>的自己同一性を保っている。しかし<仮有>的自己同一性は、コトバの意味的幻影に過ぎない。こうして現象的存在世界全体が、一つの巨大な、宇宙的言語幻想に還元されるのである。

 とは云っても、コトバの意味分節に依拠して生起する個々の存在単位が、それ自他でそのまま幻想であるとか、妄念の所産であるとか云うのではない。コトバで区分けされた意味分節単位し過ぎないものを、自己原因的に自立する客観的存在者(いわゆる<実態>)と誤認する事を妄念・妄想と云うのである。そのように誤認された限りに於いて、我々の経験的現実は<コトバの虚構>、偽りの存在世界に転成する。つまり、言語的意味分節に起因する、事物の<仮有>的自己同一性に<実有>的自己同一性を賦与する所に、<コトバの虚構>の虚構性がある。だから、この虚構性を脱する為には、ただ、現象的事物の自己原因的自立性(<実体>性)を否定すれば足りる。解体論的に云うなら、ものの実体性の解体である。

 すでに中世(十三世紀)のスペインのユダヤ哲学者アブー・ラアフィアが、この事を、より形象性の強い表現を使って、存在の「結ぶこぶを解きほぐす」こと、と言っている。アブー・ラアフィアによれば、日常意識の目に映る形での事物は、すべて<粗大>な事物である。<粗大>な事物の形姿が、一枚布のように広がる存在リアリティの至る所に、無数の<結びこぶ>を作り出す。それが、我々の経験世界の自然のあり方であって、それらの<結びこぶ>を解きほぐす事によって、事物は<粗大>な姿から<微細>な姿に戻り、存在はその本来の非実体的流動性に於いて覚知される事になる、と云う。

 非実体的流動性。見せかけの実体性を解体された事物事象は、固定性の拠り所を失って浮遊し、それら相互間の境界は不明確・不分明となり、ついには全てが根源的無差異性の中に消えていく。仏教的あるいは老荘的に言えば、存在が、その本源的無分節性を露呈する、のである。

 コトバの意味的差異によって、様々に分別された存在の現象的あり方は、唯識哲学の謂わゆる<遍計所執性>の世界であり、虚構の世界である。虚構の世界ではあるけれども、それがそのまま虚無であると云う訳ではない。先に一言した如く、この意味的虚構の世界も、現象現成としての存在性を持っているからである。しかも、それこそが我々にとっては、最も切実な経験的事実であるのだ。事実上、そういう形で現に経験される限りに於いて、この虚構の世界を、仏教哲学は<仮有>として定立する、半ば否定的、半ば肯定的に。

 無でありながら有、有でありながら無、と云う<仮有>のこの中間的存在性は、二つの対照的見方を可能にする。第一に、<仮有>を<実有>として見る立場。そうすると<仮有>は現象的虚構の世界となる。これに対して、<仮有>を厳密に<仮有>として見る立場もある。ナーガールジュナによれば、この第二の見方こそ、存在の唯一の正しい見方なのであって、彼はこの意味での<仮有>を<空>と呼ぶ。<空>の原語<シューニヤsunya>が、文字通りには、「からっぽ」「空虚」を意味する所から、ナーガールジュナの<空>も、通俗的には、よくそういう意味に誤解されるが、実は彼の術語としての<空>は、空虚(から)を意味するのではなく、前述の如く実体性(自己原因的自立性)を解体されてーあるいは、実体性を本来持たずにー浮遊する事物事象の原初的な<仮有>性を指示するのである。そして、このように解された<空>をナーガールジュナは構造的に<縁起>と同定する。

 <縁起pratitya-samutpada>とは、現象界に生起する一切の存在者の相互依存性と云う事である。唯識哲学は、これを<依他起性>と云う。<依他起性>、他による現象的存在のあり方。この存在ヴィジョンにおいては、本来的な意味での自なるものは存在しない。すべてのものは、それぞれ他に依存し、他との相依相関性においてのみ、仮に自として現われているだけ。<依他起>的な自を、他から切り離し、恰も他に依拠せぬ独立の自であるかのように考える、その虚構性に、前述の<遍計所執性>が成立する。我々の認識機構の性質上、<依他起>はいともたやすく<遍計所執>にずれ込んでしまうのだ。しかしまた、そうであればこそ、<遍計所執>を<依他起>に引き戻し、<転換>させるだけで、<仮有>的存在の実相が把握され、こうして<仮有>が<仮有>として把握される事において、唯識<三性論>の存在論的極致である<円成実性>が現成するのである。

 だが、この<三性論>的(あるいは<中論>的)存在論の基底にはーナーガールジュナはそれを意図的、方法論的に主題化しなかったけれどー絶対無分節としての<空>、相対的<空>に対する<空>(絶対無)の境位が措定されている事は言うまでもない。禅が、全存在世界を<本来無一物><廓然無聖>などの表現で一挙に払拭し撥無し去る時の、その<無>が即ちそれである。

 注意すべきは、ナーガールジュナ的為での<空>(=<縁起>)の世界は、形而上的絶対無限定性、今言った絶対無的<無>ではなくて、すでに存在分節の始まっている現象現成的世界だと云う事である。すなわち、様々に意味分節された事物事象は、可感的な形で、そこにある。ただ、それらの存在者は、いずれも相互依存性、純粋差異性に於いて、それらであるのであって、<実有>的自己同一性に於いて存在しているのではない、と云う事である。事物事象の<実有>的自己同一性と見えるものは、実はコトバが意味的に喚起する<妄想>に過ぎないと云う事を、仏教の<仮有>論者たちは明確に意識していた。

このような<空>的(=<縁起>)的、<依他>的)存在観が、大乗仏教の哲学を特徴づけるものである事は言うまでもないが、決して仏教だけに特有の考えではなく、寧ろそれは、東洋哲学一般の根源的思惟パターンの一つとして、色々な所に、色々な形で現われてくる。例えば荘子存在論の鍵概念<渾沌>など。<渾沌>は、単純になんにもないことではない。文字自体がその事を示している。やはり、少なくとも第一次的には、現象的世界の存在度が問題とされているのである。

 考察の出発点は、<空>の場合と同じく、意味的に分節された無数の事物の構成する世界。しかし、よく見ると、それらの事物を相互に分ける分節境界は茫漠として浮動的、どこにも明確な分割線は引かれていない。と云う事は即ち、いかなるものも、<意味=本質>的な自己同一性を持たず、例えば善悪、美醜、大小、長短の如き二項対立的相対性に於いてのみ成立する疑似的・浮動的な意味凝固性を持つに過ぎない、と云う事である。ものとものとを互いに分別対立させる存在境界は、コトバの意味分節機能に依拠する人間意識の妄想的所産である。それを取り去ってしまう事が出来さえすれば、一切は渾然たる無差別性の中に没入してしまうはずである。

 存在境界の末消は、従って、人間の存在認識機能から、その妄想性を払拭していく事によってのみ可能である、と荘子は考える。それが彼の説く存在<渾沌>化のプロセスである。このプロセスの主体的側面はここでは論じない事にして、存在論的側面だけを、ごく大まかに述べるとすると、存在<渾沌>化は、全体として、二段階に分けて考える事が出来ると思う。第一段階の<渾沌>は、あらゆる存在者が、言語意味的相依相関性によって、危うく存在性を保持している状態、完全無化への謂わば一歩手前。この段階での<渾沌>は、前述したナーガールジュナの<縁起>的<空>と、ほとんど違わない。<縁起>とは要するに、事物事象の相依相関的無自性性と云う事だかある。

 しかし荘子の説く存在<渾沌>化のぷろは、この段階に留まってはしまわない。ナーガールジュナ的<空>が、その背後に絶対<空>を想定し、それと理論的に直結していたように、荘子の<渾沌>化はさらに進んで、絶対無(絶対無分節という意味での<無>)に至る。<渾沌>は極限的に<無>なのである。そして、<渾沌>の極限としての<無>が、ここでもまたコトバ以前である事は言うまでもない。

 東洋哲学において、非常に多くの場合、コトバ以前が、存在の絶対究極的境位とされている事は周知の通りである。コトバ以前という表現には、通俗的解釈から哲学的解釈に及ぶ様々な理解の仕方があるけれども、哲学的には、それは言語的意味分節以前(老子のいわゆる<無名>の境位)、すなわち、存在論的未分節・無分節を意味する。

 この絶対無分節境位を、肯定的に、根源的<有>と措定するか、否定的に、根源的<無>と措定するかによって、東洋の形而上学は大きく二つに分かれるー<有>の形而上学と、無の形而上学と。だが、存在の始原、根源、極限を無分節と解する限り、結局は同じ所に帰一してしあうのである。

 通常、<有>の立場の代表として挙げられるウパニシャッド(『チャーンドーギヤ』六、二、一)に、「太初、有(sat)だけがあった。それは絶対無二であった」とある。根源実在、宇宙万有に太源としての<ブラフマン>についての立言であって、これだけ見ると、いかにも絶対に無化の入り込む余地のない純粋<有>的な形而上学の根本命題であるかのようだが、この<有>は、これに続く一節に於いて、次々に段階的に自己限定を重ねる事によって、存在世界を生み出してゆく太源として叙述されている。つまり<有>はここでは、まだ分化していない、自己限定以前の、存在分節以前の絶対者<ブラフマン>として理解されているのである。この事は『チャーンドーギヤ』と並ぶ、もう一つの最重要な古ウパニシャッド(『ブリハッド・アーラニヤカ』一、四

十一)の次の立言と比べる事によって、もっとはっきりする。日く、「太初、世界にはブラフマンだけがあった。それは全く独一であって、まだ分化・開展もない絶対無限定的全一なのであるから、有(sat)は<非有a-sat>(→<無>)と畢竟、同じ事である。絶対無分節の<有>は、無分節(未分節)であると云う意味で、つまり、まだそこに何ものの表徴も無いと云う意味において、完全に<無>と同定され得る<有>なのである。

 事実、ウパニシャッドの中には、<有>ではなくて、逆に<無>を存在の太源とする立場もはっきり打ち出されている。例えば『タイッテイリーヤ』(二、七)はこう断言する、「太初には非有だけがあった。そこから有が生じた」と。この立場は『リグ・ヴェーダ』まで遡る非常に古い思想である。なお、<無>を<無>と言わないで、<非有>と言っている事も、頗る示唆的である。

 <無>をコトバ(<名>)の存在分節機能と直結させて、『老子』(一)は「無名は天地の始」(無名天地之始)と言っている。コトバ以前、すなわち、意味分節が起こる前の境位こそ、<天地>(<名>によって分別された存在世界開展の始点)の根源である、という事である。この場合は、<無>は<有>に限りなく近い。と云うより寧ろ、<無>即<有>、すなわち<無>と<有>との鏡映的相互同定なのである。なぜなら、<無>を絶対無分節という意味に解する限り、それはまだ万有に分化する以前の、存在論的に未発動の状態なのであって、これから自己分化、自己限定、自己分節の動的プロセスに移ろうとしている<無>は、あらゆる存在者を潜勢的に包蔵していると云う点から見て、すでに<有>であるのだから。

 以上のような考察によって、東洋哲学の性格を根本的に規定する<有><無>の概念が、単純な<有><無>ではない、と云う事を我々は知る。いずれの場合にも、<有>と<無>の、一見それとわからぬ形での相互滲透がある。<無>の側からすれば、<無>は<無>であってしかも<有>。<無>である事が、すなわち<有>であること(「真空妙有」、「空即是色」、老子の「槖籥(たくやく)」の比喩、など)。反対に<有>の側からすれば、<有>はその存在充実の極致に於いて還って<無>(「無極而太極」)。因みに、周濂渓(しゅうれんけい)・朱子の「無極にして太極」とは、陰陽二気に原分化する以前の存在の<有>的根源である<太極>が、その究極的無分節性に於て<無極>である、と云う事である。また、ここではその理論的特殊性についての詳説は避けるが、<色即是空>も、要するに、<有>即<無>、<有>である事が即ち<無>である、と云う事に他ならない。

 東洋哲学における<有><無>の形而上学に関しては、まだまだ論ずべき事が多い。そしてまた、ここで取り上げる事が出来ないが、この形而上学との密接な連関性に於て、東洋的主体性(<我>)も、東洋哲学の構造論的概説には、欠かす事の出来ない枢要な主題である。

 

これは筆者が井筒論文と禅との聯関について改めて考究し、自身暖皮にも少なからずに井筒氏筆致の薫習を体現すべくに公開するものであり、一部修訂を加えた。(タイ国にて・二谷)

 

 禅における内部と外部―1973年度エラノス講演― 井筒俊彦

   禅における内部と外部―1973年度エラノス講演―

井筒俊彦

 

   一 東アジアの画と書

 

 内部と外部、あるいは内部世界と外部世界との間の区別と関係の問題は、東アジア的精神性の形成過程において並外れて重要な役割を演じてきた。その考えは、事実、宗教的思考、哲学、絵画、書道、建築、造園、剣道、茶道等々といった多様な分野における東アジア文化の最も特徴的な多くの側面の発展、形成、洗練に、多大な寄与をもたらしてきた。

 わたは、禅仏教において内部と外部との間の区別がどのように扱われているのか議論する前に、予備的考察として、絵画と書道の分野から、同様の顕著な例をいくつか取り上げてみたいと思う。

 中国絵画の最初期の、そして最重要な理論家の一人、五世紀の謝赫(しゃかく)は、著書『古画品録』において、絵画の有名な「六原則」〔「六宝」〕を確立した人物であり、「気韻生動(生き生きと脈打つ精神的韻律)」という標題で、内部と外部との間の相互作用の問題を提起した。「六原則」〔「六宝」〕のうちの最初の原則であるこの「気韻生動」は優れた絵画の中には、人間の内的リズムと外部の<自然>の生命的リズムとの間の、完璧な調和的照応が実現されなければならないということを示している。それは、結果的にいわく説明しがたい精神的韻律が絵画の全体に浸透し、最も繊細なやり方で絵画に生命を与え、描かれる対象が何であっても、それに形而上学的意義を分け与えるという方法で、実現されなければならない。画家がこの原則の現成(げんじょう)に成功すると、その作品は、生命のリズミカルな脈動において自身を表現する、ある種特殊な精神的エネルギーに満ちる。それは、宇宙的<生命>そのもののリズムが全体にみなぎる作品となり、その中で、人間の精神は<天地>の内的リアリティと直接的に交感する。「気韻」あるいは「「精神的韻律」は、このように人が精神的生命力をまるごと用いて絵画制作するという、人の能動的な参加を通じてのみ実現されるものである。それは、描かれた物の自然な気韻に帰せられるべきものではない。白黒二色の風景画〔水墨画〕(それは通常、この原則の実現の例として挙げられる)は、この点で非常に誤解されやすい。例えば、遠く離れた、霧の中に霞んでいる山、あるいは雲のかかった、峰々のふもとの岩が織りなす渓谷に注ぐ急流といったものは、絵画の気韻が<自然>という外部世界にある気韻の反映、あるいは転移でしかないという印象をたやすく私たちにもたらす。しかしながら、実際のところは石、草、野菜―例えばキュウリやナスーといった身近な客体でさえ、山や川を描いた広大な風景に劣らない気韻を、絵画的に表象することがあるのだー画家が、描こうとしている物の本質を見ることに対して精神エネルギーをいかに集中させるのか、自分の精神をいわば物の精神に調和させ、そして筆の力を通じて作品にいかに注入させるかを知っている限りにおいては、もし画家が之に成功したら、その時は結果として、客体の精神は、画家の内的精神の脈動と完璧に調和しながら紙幅の上で動き、生きているように表現されるだろう。

 ここで内部と外部との根源的な弁証法を明らかにするという観点から、そのプロセス全体を再構築してみたい。今、東アジアの画家が竹の水墨画を描こうとしていると仮定しよう。画家は最初、その似姿を表象することには関心がない。というのも、彼はまず真っ先に、竹の内的リアリティに貫入し、そしてその「精神」がまるで竹の自然な流出であるかのように筆から流れ出るようにさせることに関心を払っているからだ。

 東アジアの美学の伝統では、画家が題材の「魂」と完全に自己同一化すること、すなわち画家が題材の精神的本質と完璧に一つになることが、この種の絵画での高度な、いかなる達成のためにも絶対必要条件と見なされている。

 描きたい対象と徹底的に一つになるために、画家は、精神的な落ち着きを不可避的に邪魔する心の動揺からの完璧な離脱を最初に達成しなければならない。集中した心の深い静寂状態でのみ、画家はすべてに浸透する宇宙的<生命>の波動mysteriumに貫入し、<自然>の働きと自分の精神とを調和させる事が出来るからである。それゆえ、東アジアの画家の間では、優れた絵画を作り出す前提条件として、「静坐」の実践が重要視されたのである。例えば、宋代の有名な風景画家、米元暉(べいげんき)はこう述べている、「私が僧のように脚を組み、静かに坐って、すべての雑事を忘れ、己を広大な青い空に調和させている時、(外部の)物は、私に触れてきたり、私を刺激したりはしない。

 ここで、竹の画を描こうとしている画家の例に戻ると、画家が最初にしなければならないことは、瞑想うぃ通じて、精神的な「動揺のない状態」を、深い内的静寂の状態を実現させ、そうして自分の心を全面的に自由にして、阻碍のないようにさせる事である。

 次に、そのような「純化された」心の状態で、画家は竹と向き合う。彼は一心にそれを注視する。その物質的形態を越えてその内部まで注視する。自身の脈動と同一化したものとして、自分自身の中に竹の脈動の神秘的な共振を感じるまで、竹の生きた精神に自分自身をまるごと投げ入れるのだ。そして、画家は内部から竹を把握する。あるいは、東洋美学の特徴的な表現を用いるなら、彼は「竹になる」のだ。そして、その時にのみ、かれは筆をとって、紙幅に、意識的努力なしに、いかなる反省もなしに、把握したものを描くのである。それはどのような作品になるだろうか。内部と外部の点からこのような行為の結果について分析してみよう。

 一まず初めに、このようなやり方で描かれた竹は必然的に、竹の生命リズムと調和した画家自身の精神の内的リズムの、直接的な表現である。それは、画家の精神的リアリティの絵画的自己表現であるという意味での、画家の精神の風景である。この意味では、竹の絵は、内面の外面化である。

 二しかしながら、ある種の実存的共感を通じて画家によって最初に捉えられたものは、竹(それはもともと自然物、つまり外的世界の物である)の内的リアリティであるのだから、絵画は、芸術家の筆を通じての外的世界の自己表現の鼓動と共に脈打ち、そしてそれを示しているように感じられる。<自然>は、画家の芸術的行為を通じてそれ自身の「内部」を外面化するのである。

 三こうしてここに、二重の内面の外面化が観察されることになる。画家は自分の「内面」つまり自分の心の状態あるいは精神的リアリティを外面化し、その一方、<自然>の方は、画家の筆を通じて自身の「内面」つまり全宇宙に浸透し、<自然>を貫いている内的リズムを外面化するのである。

 ただ注意したいのは、このように二重の外面化のプロセスとして分析できることは、実際には単一・単独の行為として行われているという事だ。すなわち画家が自分の内面を表現する行為そのものがそもそも、<自然>がそれ自身の内面を表現する行為に他ならないという事である。その結果として私たちは、上で「気韻生動」あるいは「生き生きと脈打つ精神的韻律」として言及したものを得るのである。

 

 書道という東アジアの芸術には、非常に単純でより直接的なやり方での内面の外面化のプロセスが認められる。中国文化の歴史を通じて、絵画と書道とが常に密接に関係してきた事は偶然ではない。事実、この二つの芸術は互いに最も親密な関係性をもって中国では発展して来たため、両者はしばしば一つの芸術と見なされて来たのである。というのも、東アジアの書道は心の絵画であるからだ。

 だが、書道の「対象」が表意文字、つまり本質的には抽象的であり、従ってもともと単独では、自然物を特徴づける生命リズムがすっかり欠けている記号ないし象徴であるという点で、書道は絵画とは異なる。その対象は、いわば冷たく、生命のないものなのだ。生命のない、死んだ記号が生き、そして生物の鼓動を打ち始めるのは、書家の精神的エネルギーが吹き込まれる時だけである。換言すれば、その記号が審美的な表現となるのは、達人が手にした筆の創造的行為を通じてのみである。表意文字は、純粋な抽象にまどろんでいる状態から起こされ、芸術家の精神の注入を通じて、一気に生命を脈打たせる事になる。その時、表意文字はもはや抽象的記号ではなくなる。それは人間の心の外面的顕現になるのだ。

 この転成のプロセスでは、東アジアの絵画の典型に認められたものと同じ内面の外面化が認められるが、しかしそれは絵画の場合よりも遥かに曖昧ではない形で認められ得る。このことは、漢字を構成している一画一画が分離して‘おり、またその一画一画が単独では意味が欠けているという事に概ね起因している。垂直、水平、斜め、上昇あるいは下降、あるいは点といった構成要素の一画一画は、それらが構成する全体、つまり一文字が確定的な意味を有するということ以外には何も意味しないのである。

 しかし、これに関して最も注目すべきは、一文字の構成要素としての一画一画は確定的なものを何も示さないのだが、それが書道芸術においては、十分に意義のある表現豊かなものへと突然転成するという事である。というのも、書道の達人が書く時には、一画一画はその芸術家の心の状態の直接無媒介な自己表現であるからだ。彼の心のなんらかの表現を伴わない筆の動きはないのである。筆は、それを用いる人の心の動きの一つ一つに忠実に従い、それを反映させている。そして、筆の動きの一つ一つは、瞬間瞬間の心の内的構造の直接的な発現なのである。東アジアの書道が、書家の心の肖像あるいは自画像と見なされている事は理由のない事ではない。そういうものとして、書道は常に、きわめて特別な精神芸術の一種として評価されて来たのである。

 だが、私たちの論点にとって取り分け重要なことは、「書道は心の絵画である」という言明が意味するものが、単に書き手の心理的細部が紙幅を筆が動くにつれて、露わになっているという事ではないと云うことだ。憂鬱な気分の人が書いた線や画は、意気消沈して弱々しいものになりがちだと云うのはごく当然の事である。たまたま幸せで陽気な人は自ずから活力と生命力に満ちた文字を書く。心が動揺していたり、怯えていたりする人が描く線は、ほとんど必然的に不安定で震えている。だが、東アジアの書道の観点からして、それより遥かに重要なのは、作品が高潔な人物の自己表現であるべき事、作品は精神的に訓練された人の内面状態の外的顕現であるべきだと云う事である。書道は、高度に訓練された「内面」の直接無媒介の外面化でなければ、「心の絵画」としての精神芸術では有り得ないのである。

 このことで、私は、東アジアの書道の伝統的形式においては、「書の悟り」と呼ぶのが最もふさわしいものが有り得るのだと云う事実を述べている。何年も何年も精力的に努力し、厳しい訓練を積んだ後―それは筆の技術だけではなく、心の純化と、深い内的落ち着きに達しようとする事でもあるー、浄化された「内面」全体が突然、筆先を通じて恰も物質のように流出し、文字列の形で紙幅に「内面」を現成させていくように感じる決定的な瞬間が書家に訪れる。そのような状況では、彼は全く何も為すことが出来ない。筆を動かそうとする時に命じているのは、むしろ彼の「内面」なのである。書の悟りのそのような「瞬間」を一度経た後にのみ、その人は本物の書家になるのだ。その瞬間までは、美しく力強く筆を動かす事にどれほど熟達し巧みであったとしても、彼は単なる学人、見習いなのであって、師ではないのだ。そして、書が「内面の外面化」としての典型的な東アジアの芸術になるのは、そのような精神訓練のレベルに於いてなのである。

 事実、そのような経験を一度経た者によって描かれている東アジアの書の作品にはどれにも、外面的な形で直接にまた自然に内面を表現している、その人の精神状態が例外なく認められる。このことは、禅の書においては最も容易に見てとれる。しかし、書の他の流派でも、内面の外面化は、その「内面」の内容がそれぞれの場面で、どれほど異なっていたとしても、明確に認めることが出来る。

 日本の書の最も基本的な形態、例えば、ひらがなで書かれた和歌の書は、禅とは関係がない。そして、かな文字の書道的美しさは、漢字の美しさとは顕著に異なる。日本の書では、美しさは主に優美に流れる線によって形作られる。線のゆっくりとしたリズミカルで優美な流れは、日本人には、内面的ポエジーの形態をとった、書家の内面的ポエジーそのものなのである。線そのものは、深く詩的である。線が詩情なのである。そしてこの意味で、日本の書は、内面の外面化の優れた例証である。なぜなら、禅の書の「内面」とは全く異なっていようとも、ここでもその「内面」は厳格厳密に訓練を経たものだからである。

 ここまで私は、東アジアにおける精神文化の形成において、内面と外面との区別が演じてきた重要な役割を理解してもらうために、その内面と外面の問題を、東洋美術の典型的な二つの形態に関連づけて簡潔に扱ってきた。この予備的考察をもって、これから私たちの特別な主題、禅仏教における内部と外部との間の区別と関係性に向かいたいと思う。

 

   二 禅における疑似問題

 

 内部と外部との区別は、人間の心に固有のある種の幾何学であるようだ。ガストン・バシュラール(1884―1962・フランスの哲学者)が曾て述べたように、「内部と外部の弁証法」は私たちの心の最も基礎的で初源的な地層に属している。それは私たちの思考の根深い習慣なのである。事実、私たちは何処にでも内部と外部との対立を見出す。「家の中」対「家の外」、「国内」対「国外」、「地球の内」対「地球の外」、「内的(秘教的esoteric)意味」対「外的(通俗的exoteric)意味」、私たちの「内側」としての自我あるいは心、対、私たちの「外側」としての外界あるいは<自然>、私たちの「内側」としての魂、対、私たちの「外側」としての身体、等々。内部と外部の対照的・幾何学的イメージに基づく日常的存在論は、それゆえ思考の最も基礎的なパターンの一つを形成する。それによって、私たちの日々の振舞いは大きく規定されている。「それ(内部と外部の弁証法)は」とバシュラールは言っている、「イエスとノーも弁証法の鋭さを有しており、それはすべてを決定する。注意を払わない限り、それは肯定的思考と否定的思考のすべてを支配するイメージの基礎になる」。

 

 禅もまた内部と外部についてしばしば語る。禅の教えと修行においては、両者の区別が多く用いられ、その大半の場合、「内部」は心あるいは意識に当てはまり、「外部」はー客体に対立する主体として立っている人間の自我に対立するー<自然>の世界に当てはまる。禅文献にはその例は数多くある。臨済禅師(?―867)の『臨済録』から、いくつかの例を取り上げてみよう。

 

  もし昔の師のようになりたければ、外を見てはいけない。お前たちが抱いた考えから輝き出る純粋性の光は、お前たち自身の内のダルマカーヤDharmakaya〔法身〕(究極的<リアリティ>)なのだ。

 

  私がただ願うのは、お前たちが外界の客体の後を追うのをやめることだ。

 

  お前たち自身の内にあるものではなく、近隣者を夢中になって見渡したりして、大きな誤りに陥ってはいけない。・・ただお前たち自身の内側を見るのだ。

 

 議論の余地なく禅の中核であり本質であるディヤーナdhyana〔禅定〕の実践とは通常「外側の」事物の後を私たちの心が追いかける事を止めて、心そのものの「内面的」リアリティへと心を「内向」させる事にあると理解されている。その事を省みるだけで、この区別の禅仏教における並外れた重要性は十分分かる事だろう。

 

 しかし、禅の観点から厳密に言うならば、内部と外部の問題は、それがどのような形態であろうとも、疑似問題にすぎない。なぜなら、悟った人の眼から見れば、内部と外部とは互いに区別されるべき二つの領域ではないからである。区別には何のリアリティもない。それは、心の弁別活動に特有の、思考の構築物にすぎないのである。ヌーメナルなもの〔叡智によって知られる性質のもの〕と現象との妨げのない相互貫入〔理事無礙〕として、さらには現象的事物間の相互貫入(事事無礙)として、華厳形而上学が示すものを自分の精神的な眼で見た者にとって、その区別は無意味であり、外部に対して立っている内部について語ることは馬鹿げた事でさえあるだろう。

 このように、内部と外部の問題は疑似問題なのである。なぜなら、この問題の提起において、私たちは無理矢理に、おわば独立した二つの領域を設定し、両者を対立的に立たせ、両者の関係を議論するが、一方で実際には作られるべき、そのような区別などないからである。それが疑似問題であるのは、何もない処に提起された問題だぁらであり、そして人は、それをリアルな問題であるかのように議論するからだ。問題全体は、特徴的な禅の表現を用いるなら、「実際には何もない処に、不必要な混乱を生じさせている」という事である。

 だが、次のことを覚えておくべきである。つまり禅は、内部と外部の問題の他にも、多くの疑似問題を、特定の目的の為に利用しているのだ。疑似問題は方便として、誤まった思考の解消へと導く教えの手段として用いられ得るのである。毒をもって毒を制すのだ。禅の古典的な文献は、この意味での、疑似問題に満ち溢れている。

 事実、弟子が訪問僧から悟達の禅師へと向けられたものとして、有名な公案集やその他の禅の文献に残されている殆んど全ての問いは、疑似問題なのである。

 

 「犬には仏性があるか」。

  (すなわち、犬のいうな動物には、悟って仏陀になるための内在的能力はあるのか)

 

 「趙州とは誰か」。

  (趙州禅師本人に向けられた問い)

 

 「禅の祖師がはるばるインドからやって来たことの意義とは何か」。

  (すなわち、菩提達磨はインドから何をもたらしたのか。仏教の本質とは何なのか)

 

 「あなたは誰なのか」。

  あるいは「私は誰なのか」。

 

 悟りに達した禅師(例えば、趙州のような)の立場からすると、この種の問いは単純に意味がない。それらは「不必要な混乱」なのである。

 しかし現実的には、これらのそして類似の疑似問題が、禅では意図的・意識的に利用される。そして、それらが利用される方法は、禅に極めて特徴的であり、禅独特のものである。まず簡単にこの点を説明しよう。

 通常の会話あるいは対話では、問いを尋ねる人は最初から、彼が問いを差し向けた人からの合理的な答え、自分の問いと調和するような答えを期待している。このような問いと答えの一般的なパターンは、問答として知られている禅の対話では全く適用されない。

 禅の文脈では、問いは、答えを与えられる為ではなく、徹底的に拒絶される為に提示されるのだ。合理的な答えを期待して、「犬には仏性があるか」と尋ねる者は、禅の理解を全く持ち合わせていない。すでにある程度の禅の知識に達していて、自分の師に「犬には仏性があるか」と尋ねる僧は、もっぱらいかにして師がこの問いを粉砕するかを、自分自身の眼で、あるいは自分の身心全体で目撃することを目的としている。人と人との間の実存的緊張の只中にあって、弟子は、師が疑似問題をいかにして瞬時に無効化するかを観察し、その観察によって、師の精神的境位の片鱗を把握しようと努め、それによって、もし可能ならば同じ状態に達する為のチャンスを得ようとするのである。あるいは、問いを尋ねる僧がたまたま悟った人であるまらば、彼はそれによって、師の精神的覚知の深さを測ろうとする。

 いずれの場合でも、このような問いと答えのパターンは構造的に、答える師(A)と尋ねる弟子(B)との間の次元的な不一致が現実にあることを前提としている。換言すれば、AとBとが、精神的覚知の異なる二つの次元に立っているという想定に基づいている。Aは、Bと同じ覚知のレベルに立ちながら、Bの問いに答えを与えるとは想定されていない。問いはBのレベルで発せられたものであり、一方、それに対する答えはAのレベルで与えられるーこれが、禅問答の通常の形式である。別の表現をするなら、Aによって与えられた答えは、通常の意味でのBへの答えにはならない。むしろ、本当の禅問答でのリアルな答えとは、AとBとの間に横たわる精神的不一致を暴くと同時に無効化するものである。

 このように、Bの問いへの答えとしてAから何が出てくるかは分からないのである。

 

  ある僧が一度、雲門(864―949)に尋ねた、「仏陀たちはどこからやってくるのですか」。(すなわち、仏性の究極的真理とは何か。)

  雲門は答えた、「ほら!東山は水上を流れて行く(『雲門広録』上「大正蔵」四七・五七五下」。

 

  ある僧が趙州(778―897)に尋ねた、「菩提達磨がインドから中国にやってきた本当の意義とは何か」。

  趙州は答えた、「庭の柏の木!(『趙州語録』「続蔵」六八・七七c二)」

 

 これら各々のケースの答えは、明らかに無意味であり、Bを混乱困惑させてしまう。答え

はしばしば、棒や蹴り、平手打ち、叫び等々の鋭い一撃の形でも与えられる。しかし、答えが言語的なものであれ非言語的なものであれ、どのような形であろうとも、基礎的構造は常に同じままである。すなわち、AとBとの間の不一致を無効化することによって、A自身が立っている精神的次元をBに目撃させ、もし可能ならばBにその精神的次元を体験させるために、Aは生死をかけた挑戦をするのである。

 もう一つ、私たちの主題にかかわる例を出そう。

 

  ある僧が趙州に尋ねた、「趙州とは誰なのか」。

  師は答えた、「東門、西門、南門。北門(『趙州語録』「続蔵」六八・七九c一三)」

 

 この答えは、通常の文脈では当然全くナンセンスなものだろうが、それこそこの特別な文脈では、リアルで優れた答えなのである。

 Aが与えた答えが、あたかもBの問いと同じレベルに立っているかのようなケースもある。その場合、状況全体は非常に誤解しやすいものになりがちである。趙州の有名な「無」を例に取ろう。

 ある僧が一度、趙州に尋ねた、「犬には仏性があるか」。それに対し、師は答えた、「無!」もし、この答えが、僧が発した問いと同じレベルで与えられていると仮定するなら、この「無!」はほとんどおのずから、「いや、犬には仏性がない」という意味になるだろう。こうなると、趙州の意図は全く見失われてしまうことになる。だが実際には、師の答えは、第一に、僧が起こした疑似問題を無効にするだけでなく、その僧の実存的意識そのものを無効化することを目的としているのだ。一撃で、趙州と僧との間の精神的不一致が無に帰することを目的としているのである。そして、そのようなものが、禅の文脈において、すべての疑似問題に与えられた答えの最も真正な形なのである。

 禅は、疑似問題を立てることを、無意味で使い物にならないとは見なさない。全く逆に、学人が多くのケースで禅的体験に導かれるのは、疑似問題が立てられ、そして一度立てられたなら、即座に暴力的に無効化させられるという、一見したところ迂遠な方法を通じてなのである。このプロセスは、私が前に、形而上学的観点から明らかにしたことと対応している。そこでは、絶対的に非分節的な<無>が分節されて、感覚的に具体的な形態になり、それから即座に、つまり分節の瞬間に否定される。したがって元の<無>は、ほんの一瞬、ちらとだけ露わになるというプロセスを私は分析した。現段階で問題となっていることは、ちょうど同じ構造を有している。ここでも疑似問題は、最初にBによってBの精神的次元から提示される。次に、その問いが提示された瞬間、Bの眼に向けてAの内面状態が露わになり晒されるように、Aの精神的次元から発する言語的なものか、その他のものかの一撃をもって、Aによって即座にその問いが無効化されるのである。

 

 すでに述べたように、内部と外部の問題もまた典型的な疑似問題の一つである。禅は、内部と外部との間を明確に切り分けた区別を作り出すことから始め、両者をはっきりと対立させ、それから実際にはそんな区別などないのだと断言することによって、全く唐突に初学者に衝撃を加えるのである。

 悟りの体験を描写するにあたって、禅師たちはしばしば、「内部と外部tおは均(なら)されて一枚になる」〔内外打成一片〕という表現を用いる。悟りの瞬間の覚知の状態が「絶対的な、内部と外部との統一状態」おして描かれることも少なくない。そこで一つ典型的な例を挙げるなら、無門禅師(1183―1260)は、弟子たちがいかにして「『趙州の無』の公案を通過する」べきか提言する中で、次のように述べている。

 

  この障壁を通過しようとするなら、身心全体を一個の<疑い>の玉に変えて、「この『無』   とは何か」という問いに集中せよ。この問いに日夜集中するのだ。・・ただこの問題に集中し続けるのだ。するとまもなく、赤く熱せられた鉄の玉を口に入れて、喉に詰まり、呑み込むことも吐き出すことも出来なくなったかのような感覚を持ち始めるだろう。(そのような絶望的な状態の時)、得て来た不必要な知識のすべてと覚知の誤った形式のすべては、次々に洗い流されるだろう。そして、果実が次第に熟するように、お前の時間も熟し、自然に、お前の内部と外部とは最終的に均されて一枚になるだろう。〔八万四千毫竅、通身起箇疑団、参箇無字、昼夜提撕、莫作虚無会、莫作有無会、如呑了箇熱鉄丸、相似吐又吐不出、蕩尽従前悪知悪覚、久久純熟、自然内外、打成一片〕(『無門関』「大正蔵」四八・二九三a三)

 

  正確に言えば、ことの最初から、リアルな区別はなかったのだから、「内部と外部とは均されて一枚になる」は、リアリティの誤った描写に他ならない。しかしながら、その表現を禅修行の過程で実際に体験するものの描写と見なすなら、そこにはある程度の真理が含まれているということも否定できない。

  事実、悟りにまだ達していない者の観点からすると、彼の内部と外部とは明らかに二つの異なる体験領域である。私はこのテーブルを見る。見ている主体である「私」は、見られている対象であるテーブルとは隔たっている。一方は内部で。他方は外部である。区別がそのリアリティを喪失し、そのため内部と外部とが絶対的・形而上学的統一体に転成するという瞬間的プロセスは、この禅独特の表現、「内部と外部とは均されて一枚になる」によって忠実に再現されている。

  したがって、内部と外部との間の区別と関係の問題は、それが明白に疑似問題であるにも拘らず、禅仏教においては意味ある哲学的問題として扱われる権利を得るのは、悟りに向かう途上の、悟っていない者たちの為の問題としてのみである。だが、このような意味でこの問題を扱うに当っては、洞察眼を開け続けたまま、問題の最初から最後までの全体を見渡さなければならない。そしてそのような眼は、必ずや、すでに悟りに達した者の眼でなければならない。

  私たちの状況は、この方法では、いささか複雑なものとなる。禅の観点から内部と外部の問題を扱うためには、外界がはっきりと自分の心とは区別されて二つの分離した存在者として存在していると考える、普通の人間の素朴な世界体験から私たちは始めなければならず、それと同時に、内部と外部との間の関係の問題が究極的に、悟りの体験によっていかに解決されるべきかという事を意識し続けなければならないのだ。これが、本章の残りの部分で沿っていく手順である。

 

  三 悟りの体験

 

この問題の議論は、洞山守初(910―990)と雲門禅師(864―949)との最初

の出会いに関する説話を考察することから始めたいと思う。その当時、洞山はまだ若い禅の修学者であった。後に彼は、唐代の最も卓越した禅師の一人となる。

 洞山が雲門に教えを受けにやって来た時、雲門は彼に尋ねた、「お前は何処から来たのだ?」問答はここから始まる。

 

  洞山「私は査渡から来ました」。

  雲門「夏は何処で過ごした?」

  洞山「湖南地方の某所です」。

  雲門「私はお前に棒で三十打つのを許す(お前はそれに十分値する)。帰ってよろしい」。

 

 次の日、洞山は雲門の処にやって来て再び尋ねた、「三十回叩くに値するほど悪いことを、昨日、私は何かしたのでしようか」。すると、師は鋭い叱責の一声を浴びせた、「この愚かな米袋め!そんなやり方で、お前は国中を放浪しているのか?」〔近離甚処、僧云査渡。師云夏在甚処。僧云、湖南報慈。師云、甚時離彼。僧云、去年八月。師云、你三頓棒。僧至来日、却上問訊云、昨日蒙和尚放三頓棒、不知過在什麼処。師云、飯袋子。江西湖南便漝麼去〕(『雲門広録』下「大正蔵」四七・五七二a二三)

 洞山と雲門との間のこの対話には、典型的な禅がある。だが、どうして洞山は、師の眼には三十打の棒打ちに値したのであろうか。この問題についてしばし考えてみよう。

 

 「お前は何処から来たのか?」 これは、禅師が新たにやって来た僧にしばしば差し向ける、一見素朴な質問の一つである。言語的なものか非言語的なものかに拘らず、与えられた答えによって、師がすぐさま新参者を見抜くことが出来る。さらに質問しなくても、師は、その僧が立ってゐる精神修行の段階が分かるのである。僧がどのように答えようと、あるいは口を開いて言葉を発する前からでさえも、問いに答える僧の心的態度は、自分自身といわゆる「外部」あるいは客体世界との間の関係をどのように見ているかを、師の眼に露わにする。

 「お前は何処から来たのか?」 この一見したところ実に慣習的な問いに見える単純な言葉は、こうして禅の文脈では並外れた重きをなす。というのも、その問いは、その人自身の存在の基礎に、自分自身の実存のリアルな場所に関わっているからである。別の表現をすれば、「お前は何処から来たのか?」は、内部と外部の点から十分、再形式化できるものである。「お前は元々、内側から来たのか、外側から来たのか?」 すなわち、「お前に家は何処にある?」 あるいは「お前は本当は何処に住んでいる?」ということだ。

 師の言葉(「お前は何処から来たのか?」を、私がやって来た場所の地理的位置について尋ねたものとして、「私は東京から来ました」と言うと仮定しよう。禅文献によるなら、数え切れない程の僧が、この落とし穴にはまってきた。「だが、お前が意味しているのはどんな類の『東京』なのか」。師は通常、わざわざそのような形で問い掛けたりはしない。だが、もし言語的な形式を取ったとしたら、師の態度は必然的にそのような形になるはずである。そして、師によってこの二番目の問いが、暗示的にしろ明示的にしろ問われるや否や、外部的な「東京」は、即座に内面化される。こうして内面化された「東京」はまさに、禅が通常もっと特徴的な表現、「両親が生まれる以前の、自分の本来の<顔>」〔父母未生以前本来の面目〕によって示すものであるだろう。

 外部、すなわち地理的な場所としての東京から私は来たという、普通の感覚での言明は、禅の対話では全く意味ないものである。私が東京からやって来たという事実は、精神的な意味で、すなわち精神的覚知の次元で遂行されるものとして理解されなければならない。この「やって来る」における私の一歩一歩が、禅にとっては、自己実現self-realizationの一歩なのである。禅師は、最初から、外的な地理には関心がない。師にとって本当に重要なのは、私の内的地理、つまり自分が東京から来たことが、どの程度精神的出来事として私には分かっているのかと云う事なのである。

 しかし、内面化された東京を、「外的」世界に対立している「内面」場所と見なすような間違いをしてはならない。そのように理解された内的場所は、単にまた別の外的場所であるだろう。本当に意味するのは、内部と外部とに二分化される以前の、根源的な非差異状態で、そのリアリティが示される精神的領域なのである。

 若い洞山が棒で三十回叩かれるに値したのは、彼が雲門の問いを、外的地理として受け取ったからである。また彼の答えが、内的世界に殆んど関わらず、もちろん、ましてや内的・外的地理の区別さえ越えた所にある非差異の精神的領域には関わっていなかったからである。

 こうして、禅が内部と外部との区別を立てることから始まること、しかしこの区別そのものが究極的には廃棄されなければならないものと、見なされるべき事は明らかになるだろう。

 ここで出発点に一度戻り、内部と外部の始めの分節が無効化されて、二つの存在論的領域が「均されて一枚になる」プロセス全体を再び見てみよう。

 

 内部と外部との関係の点から、私たちが正しく禅体験と呼べるようなもの(すなわち、悟りの状態の個人的実現personal realization)分析するに当っては、私たちは、二つの理論的可能性を見出す。それを次のように描いてみたい。

  一 外部になる内部、あるいは内面の外部化。

  二 内部になる外部、あるいは外的世界の内面化。

 最初の場合(それは、「人が物になる」という言い方で一般的に述べられる)、人は、自分の「私(内部)」が自身の実存的自己同一性を失い、完全に「外部」の客体と融合して同一化することを、突然体験する。人が花になる。人が竹になる。しかしこの体験は、自分の同一化した一つの花や竹が、精神的覚知において<存在>世界全体を含んで見られるまでに更に進んで行かない限り、正当な禅体験としては認められない。そこまで至った段階dえは、「私」は宇宙の極限まで拡大する。すなわち、「私」はもはや独立した存在者としての私ではない。それはもはや客体的世界に対して立っている主体ではないのである。

 二番目のケース、つまり外部の内面化においては、自分にとってそれまで「外部」と見なされてきたものが、突然、心に入ってくる。そして、いわゆる「外部」の世界で生じ、観察されるものはすべて心の作用として、心独自の自己判断として見られるようになる。「外部」の出来事の一つ一つは、「内部」の出来事として見られるようになる。人は、「外側」からやって来る一切の事物に抵抗を示すような実存的不透明性を喪失して、自分の身心が完全に透明になったという否定しがたい実感に満たされたように感じる。寒山(十六世紀)の表現を用いるなら、人は自分が「永遠に輝き、穏やかに輝ける偉大な一全体」であると感じる。その心は今や、<自然>の光輝と美の一切を伴って山河大地が自由に反射している全包囲的な鏡に喩えられるべきものである。こうして「外部」の世界は、異なる次元で「内部」の景色として再創造されるのである。だが、そのような状態の人の心はもはや個人の個別的な心ではない。それは今や、仏教が<心>と呼ぶものなのである。

 これら二つの(見た目には対立しているが、しかし究極的に実際には同一の)禅体験の解釈においては、より詳細な解明が求められる。それをこれから行っていく。

 だが、さらに細部に入って行く前に、数頁を割いて、ある特殊な精神体験について議論したいと思う。その体験は、禅に典型的なものであり、また事実、内部と外部との基礎的関係にかかわる、悟りの構造を小規模ながら提示している。

 

 内部と外部との照応は、今簡単に触れた第一の可能性から近づこうと、あるいは第二の可能性から近づこうと、究極的には両者の完全な統一化へと導いていくのだが、その内部と外部との照応は、内部と外部との間で瞬間的な交感が実現される決定的瞬間を「生きる」体験において、最も簡明で集中的な形で、はっきり認められる。カチッというスイッチに入る音が、ある特別な精神面に作り出されるだけで、悟りはすでにそこにあり、十全に現成(げんじょう)しているのである。

 精神的出来事としてのこの「クリック」が人に到来する特殊な様式は、香厳(きょうげん)禅師(―898)が如何にして人生で初めての悟りを体験したかを物語る有名な説話に見事に例示されている。

 悟りに達する為の絶望的で無駄な努力を何年も行った後、香厳は、完全な絶望状態で、<リアリティ>の秘密を見る事は現世では出来ない運命であり、それゆえ、修行の代わりに価値のある仕事に専念した方が良いと結論づけるに至った。彼は有名な師(慧忠国師)の為の墓守りになろうと決意し、自分の為に茅葺き小屋を建て、人々から完全に離れてそこに隠遁した。ある日、地面を掃いていると、小石が竹にこつんと当たった。当然、全く思いがけず、石が竹に当る音を耳にして、心の中に、それまで無想だにしなかった事が起った。それが先に言及したカチッというスイッチの入る音であった。そして、それが悟達だったのである。覚醒は、彼の自我と客体世界全体とがすっかり打ち砕かれて無差異の状態になった体験として、彼に訪れたのである。

 これについて、香厳は、次のような有名な偈を作った。

 一撃、所知を忘ず

 更に修治を仮らず

 動容に古路を揚ぐ

 悄然の機に堕ちず

 処処に踪跡無し

  (竹を打つ石の鋭い音!

   そして、私が学んだものはすべて一度に忘れた。

   修行の必要は何もなかった。

   日々の生活の一つ一つの動きを通じて

   私は永遠の<道>を顕現させる。

   隠された罠にもう陥るまい。

   後に何の痕跡も残さず、私はどこへでも行こう。)

 

 数多くの禅者が、全く些細なーそのように部外者には見えるー知覚の刺激によって、この種の<覚醒>に至ったことが記録されている。その刺激は鳥の声、花の開花への一瞥(いちべつ)等々だ。心が精神的に熟している時には、いかなるものでも、それまで夢にも思わなかったやり方で、内的エネルギーの爆発を引き起こす火花となり得るのである。仏陀は、明けの明星を偶然見たときに、<覚醒>を突然経験したと言われている。無門禅師(1182―1260)は、上述の趙州の「無!」の公案に六年間取り組んだ。ある日、食事の時を告げる太鼓の音を聞いて、彼は突然覚醒した。日本の名高い白隠禅師(1686―1769)は、ある寒い冬の夜に、深い瞑想状態で坐していたとき、夜明けを告げる鐘の音を聞いて<覚醒>を得た。彼は喜び溢れて飛び上がったと言われている。霊雲禅師(生没不詳)は、最も厳格な修行を行ったが、悟りに達することはなかった。旅の道中、彼は休憩のために腰を下ろし、何気なく遠方の山の麓の村に眼を向けた。その時は春だった。全く偶然に、満開の桃の花が彼の眼にとまった。豁然と、彼は自分が覚者であることに気づいた。この種の例は、ほとんど数限りなく挙げられる。

 この人たちには何が起ったのだろうか。この点を解明するために、香厳禅師が竹を打った小石の音を聞いて、ついに悟りに導かれたプロセスを再構築してみたい。

 香厳は地面を掃いていた。彼は作業に専念していた。彼の心はすべての雑念と観念を空にして、絶対的な集中で、地面を掃いており、何も考えず、自分の体の動きさえも意識していなかった。厳格に瞑想修行を積んだ者には、地面を掃くという行為それ自体が、実践的サマーディsamadhi〔三昧〕の一形態であった。地面を掃くことが、心の純化の象徴的な意義を有するのではない。地面を掃くという行為に、身心共にその人のすべてが浸っていると云う事が、丁度深い瞑想に専心しているのと同じ機能を果たしているのである。それは、禅が通常「無心」と呼ぶ状態の現成なのだ。

 そのような状態では、「外部」の客体としての地面、落ち葉、石についての意識はない。行為の「内面」根源として地面を掃いている「私」の意識もない。すでに、この実践的なサマーディあるいは「無心」の状態で、禅は十分に実現されている。事物と区別されたものとしての「私」の意識は無いのであるから、内部と外部との区別はここには無い。そこにあるのは香厳だけだ。あるいは、そこには世界があるだけだ。そのような状態での香厳は、香厳である一方で、<一切>であるのだ。香厳と世界は、こうして完全に一つになっている。しかしながら、これはまだ悟りの状態ではない。

 これがすべて特別に「悟り」として実現される為には、この内部と外部との絶対的な統一体が、必ず根源的・絶対的な単一状態にある意識の輝かしい光の内へと持たらされなければならない。香厳禅師の場合、彼が竹に向って掃いた小石も音によって火花は用意された。この感覚的な刺激によって、彼hあサマーディの状態から目覚めたのである。全く不意に、彼は大地と地面の葉に気づいた。彼を含む世界全体が、彼へと回帰してきた。しかしながら香厳にとって、それは単に外界が何処からともなく現れただえの事ではない。かれの古い自我の蘇生でもない。それはむしろ、内部と外部へと分岐する以前のリアリティの顕現あるいは蘇生なのである。換言すれば、地面を掃いている事に夢中になっている間に内部と外部とはすでに「一枚」であったのだということ、そしてそれが<リアリティ>の根源的な存在様態なのだと云うことを、香厳はまさにその瞬間、閃光の只中で分かったのである。禅が理解するものとしての悟りの瞬間は、人が主客二分を超越している精神的平面で主体と客体の覚知を取り戻す時に訪れるのだ。

 したがって、サマーディの只中に居た香厳禅師が竹に当たった小石の音を耳にした時、彼は自分自身が、竹に当たった小石の音であったのである。そして、その音は宇宙全体であったのだ。白隠が寺の鐘が鳴る音で瞑想から目覚めた時、彼が聞いたのは、鳴っている彼自身の音であった。宇宙全体が鐘の音だったのである。そして白隠自身、鐘の音を聞く鐘の音だったのだ。同様に、霊雲が遠方の桃の花をみたことで悟った時、かれは桃の花であったのだ。宇宙は芳香であり、そして彼自身、芳しい宇宙だったのである。

 これらのケースにおいて実際に体験され実現されるものは、「外部」世界に存在している事物と、それを外側から眺めているものとして通常考えられている人間主体との双方を含んだ、一切事物の存在論的透明性の突発的実現として描写するのが恐らく最適かも知れない。「外部」の事物と人間の「内部」との双方が、自身の存在論的不透明性を剥ぎ取り、全面的に透明となって互いに浸透し合い、溶け合って一つになるのである。

 その他数多くの神秘主義の伝統と同じく、禅においても、そのような状況がしばしば存在の本質的光輝として描写されている事は何ら偶然ではない。「光」は、超感覚的にして超知性的な心の次元において見られる。事物の特殊な性質に対するメタファーでしかない。だが、そのメタファーは極めて的確なものであるため、多くの神秘家たちは、人間の「私」と「外部」世界の事物との相関関係、および異なる事物同士の相関関係を、異なる諸々の光の相互貫入として実際に体験したのだ。主体と客体、内部と外部は、ここでは二つの異なる光と見なされ、それぞれの光は独立した光のままではあるものの、双方の側からのわずかな妨げもなしに自由に貫入し合うため、双方は溶けて、純粋に光り輝く全体として己自身を照明している、あらゆる者に浸透する一つの<光>となるのである。

 

  四 内面の外部化

 

 以上の予備的考察を以て、禅体験あるいは禅の<存在>ヴィジョンと正しく呼び得るものを解釈する上述の二つの理論的可能性、すなわち一、内面の外部化、二、外部の内面化、についての議論へと向かいたいと思う。私がこの見かけ上対立的な二つの方法を「理論的」可能性として扱うのは、いずれを選んだとしても、確実に丁度同じ結果に導かれるからである。内面を外部化しても外部を内面化しても、結局のところ同一の<存在>ヴィジョンに至るであろう。だが、歴史的事実の問題としては、二つの方法のうちの最初の方法を取る禅師もいれば、二番目の方法を選ぶ禅師もいる。まずは、内面の外部化を議論してみよう。

 

 禅の文脈における内面の外部化は、「外部」の客体と出会っている人間の側の自我意識の喪失から出発する。経験的自我主体―それは、仏教によれば、まさしく私たちの心眼を覆い隠す原因であり、そのため<存在>の形而上学的基礎の認識を妨げるものであるーの意識を喪失して、人は客体の中に沈潜する。禅の典型的な表現を再び用いるなら、「人が物になる」。例えば、「人が竹になる」、あるいは「人が花になる」。道元禅師は、『正法眼蔵』の有名なくだりでこう述べている。

 

  迷いは、あなたが自我主体を確立し、その自我を通じて客体へ働きかけることにある。反対に、悟りは、事物をあなたに対して働きかけるがままにさせ、その事物があなた自身を照らすがままにさせる事にある。・・・ものを見る時には、あなたの身心を丸ごと其の行為の中に置きなさい。音を聞く時には、あなたの身心を丸ごと其の行為に置きなさい(自我が喪失し、見ている、あるいは聞いている者の中へと沈潜するようなやり方で)。その時、ただその時にのみ、根源的なありのままの状態の<リアリティ>を把握する事が出来るようになる。そのような場合、物の精神的把握は、何かのイメージを映している鏡、あるいは水面に反射する月とは全く異なるものとなるだろう。(鏡とそこに映ったもの、あるいは月と水は、二つの存在者のままに留まり、各々は自身の自己同一性を維持しているのだ)。(あなた自身と物との精神的統一がなされている場合には、反対に、)二つのうちの一方がもし顕現するなら、他法は完全に隠れ、後者は前者の中に沈潜している(いわば、ここで特に問題にしている状況では、「私」が完全に消滅し、物だけが顕現したままになっている)。仏の<道>において修行するとは、あなた自身の「私」を正しく扱う修行することに他ならない。あなた自身の「私」お忘れることに他ならない。あなた自身の「私」お忘れる事とは、「外部」の物にあなたが照らされる事を意味する。物に照らされると云うことは、あなた自身の(いわゆる)自我と、他の物の(いわゆる)自我との間の区別を抹消することを意味する。

 

 <自然>の一切事物との深い精神的共感が、人間の自我の客体への全面的沈潜―あまりにも完全で全面的な為、「客体」という語がその意味的基盤を喪失するような沈潜―とおう形で体験された内面の外部化を特徴づけるものである事は、明白であろう。より限定的な美的鑑賞の分野においても、この種の共感は、例えば魅力的な音楽を熱心に聴いている時に、普遍的に体験している。

 

  あまりに深く聞こえた音楽、

  そのため、それは全く聞こえず、自分が音楽になっている。

  音楽が続いてる間は・・   (エリオット「四重奏」)

 

 ウイリアム・ジョンストン教授が的確に述べているように、「この種の典型的な、夢中になった瞬間の音楽は、あまりに深く聞こえる為、もはや聴いているいる人と聞こえる音楽とは存在しない。音楽に対する『私』はない。そこにはただ主体と客体のない音楽があるだけだ」。換言すれば、宇宙全体が音楽に満たされているのであり、宇宙全体が音楽なのである。同じことは少し異なる形でも表現できる。「私」が死んで、音楽の形で生き返ったのだ、と。この種の美的体験では、それを禅と呼ぶか否かに拘わらず、禅がすでに実現されていると言えるだろう。しかし、禅は、ただ音楽を聴いている間だけでなく、あらゆるものに関してちょうど同じ状態でなければならないと要求する。人は竹にならなければならない。山にならなければならない。鐘の音にならなければならない。それは、禅が「事物の本質を見る」〔見性〕という表現で意味するものである。

  しかし、これに関連して覚えておくべき最も重要なことは、人が単に自分自身を喪失して、音楽、竹、花その他のものに「なる」ことでは、語の十分な意味での禅体験を為さないと云うことである。「客体」と完全に一つの状態にある間、その「客体」が何であろうと、自分がその事物の観想の中に全面的に吸収されていることで、それは実現されており、ほとんど禅の門口にいる。だが、厳格に言えば、この状態はまだ禅ではない。それが何か他のものになる時に、禅体験へと発展していくだろう。禅の伝統的理解での悟りが現成するにはまだ遠い。

 例えば、私が一心に花を見つめていると仮定しよう。さらに、そうしながら、私が自分を忘れて、上で説明したような仕方で花の中に入り込んだと仮定しよう。私は今や花になっている。私は花である。私は花として生きている。だが、禅の観点からすると、これは精神修行の最終段階と見なされるべきものではないのである。禅は、東洋哲学の伝統的述語で主客未分の状態と呼ばれるものに達するまで、さらに進まなければならないことを強調する。つまり、花への私の実存的沈潜が、私自身の意識も、花の意識さえも絶対的にない状態になるまで、完全・完璧でなくてはならないのだ。心理学的にはある種の無意識であるような、この絶対的統一の精神状態は、「私」の痕跡がないのと同じように、花はなく、音楽はない。ここで実際に現成するものは、絶対的に無差異的で無分割的な<何か>である。それは、主体も客体みおない純粋にして単一の<覚知>である。

  しかし、これさえも、まだ禅の修行において到達すべき究極段階ではないのだ。悟りの体験があるためには、人はこの純粋な<覚知>から目覚めなければならない。絶対的な無分割的な<何か>は、「私」と、そして例えば花として再び己自身を分割する。そしてこの二分のまさにその瞬間、花は唐突に思いがけなく、絶対的な<花>として顕現するのである。画家は自分の絵の中に絶対的な<花>を描く。詩人は、誌の中でこの絶対的な<花>を詠う。花は、今や自身を<花>として、絶対的な<花>として再確立したのである。その<花>は、普通の花が咲いている圏域とは本質的に異なる精神的圏域の中で咲いている花である。しかし、この二つは同一の花である。この状況は、たとえ同じ曾ての山河であっても、「(悟りの状態で現れる)山河は、普通の山河と混同してなならない」と道元が述べた時に示したものである。

 しばしば引用される青原禅師(十一世紀)の言葉において他に、この禅の世界観が確立されていくプロセスを、よりよく、またより禅の典型的なやり方で提示するものはない。彼はこう述べている。

 

  三十年前、この老僧(つまり私)が禅の修行に入る前、私は山を山として、川を川とし  て見ていた。

  その後、悟った師たちに会う機会があって、彼らの指導のもと、私はある程度の悟りに達することができた。この段階では、私が山を見ると、それは山ではなかった。川を見ると、それは川ではなかった

  しかし、最近、私は最終的な静寂の立場に落ち着いた。以前最初に見たように、今の私は山をただ山として、川をただ川として見る。

 

三つの特徴的な段階へと見事に分析された、<リアリティ>についての禅特有の見解がここに見られる。

一 最初の段階では、普通の人間の世界体験に対応しており、そこではしる者と知られる者とは二つの分離した存在者として互いにはっきりと区別され、またそこでは、例えば山は、「山」と呼ばれる客体物として、知覚する「私」にとって見られている。

二 中間段階は、私が絶対的な統一状態、主客未分の精神状態として先ほど説明したものと対応している。この段階では、いわゆる「外部」の世界は、その存在論的堅固さを剥奪されている。ここでは「私は山を見る」という表現は厳格には間違った言明である。というのも、見る「私」も見られる山も存在しないからである。もしここに何かがあるとすれば、それは、世界全体としての己自身を永遠に照らしている<何か>の絶対的に無分割的な覚知である。そのような状態では、山はもちろん山ではない。そのような状態で見られている山は、ただ「言語に絶した」―あるいは「言語と思考を越えた」ものである。なぜなら、それは「無」であるからだ。その体験的事実への理性的反省によって言えるのは、山は無山だ、ということだけである。

三 最終段階、それは無限の自由と落ち着きの段階であり、この段階では、無分別な<何か>はその根源的一性の状態の只中で主体と客体とに己を分割する。その一性は、見かけ上の主客二分化にも拘らず、損なわれないままの状態である。そしてその結果、主体と客体(「私」と山)とは互いに分れ、そして互いに融合する。その分離と融合は、根源的に無分割的な<何か>の同一の行為である。したがって、「私」と山とが<何か>から出て来るその瞬間、両者は互いに溶け合い一つになる。そして、この一つの物は、絶対的な<山>として自らを確立させる。しかしながら、その絶対的な<山>は、今述べたような複雑な性質を己の内に隠しつつ、それはただの山である。上述の趙州の「庭の柏の木」は、この種の「外部」のものの典型的な一例だ。そしてそのようなものが、事実、私たちが禅において理解する、内面の外部化の性質なのである。

 

   五 外部の内面化

 

 さてここで、先ほど議論したのとは逆のこと、つまり外部の内面化、<自然>の世界(いわゆる「外部」の世界)が内面化され、「内的」風景として確立されるようになる精神的プロセスに戻ることにしよう。前に示したように、根底にある精神的出来事そのものはどちらの場合でも同一である。それ以外はあり得ない。と云うのも、互いに正反対に対立しているような、二つの異なる禅体験などあり得ないからである。禅はその歴史を通じて、常に一つであり続けて来たが、しかし主に理論的想定のレベルでは相違する形態を作り出して来た。相違は、人が実際に悟りの瞬間を体験する方法と、その後に何が起るのかと云う事とに関しても現れてきた。これから議論する外部の内面化は、只このような意味で、内面の外部化とは異なっているだけである。

 私たちが先ほど考察した内面の外部化の場合、基調となっているものは、人間の側での<自然>の事物すべてとの浸透的共感である。人が自分の「私」を喪失し、自分自身を放棄して「外」の物へと融合し、それから「外」の物を見失い、そして最終的には<存在>世界全体の具象的顕現として、特定の「外」の物の形態で蘇生するようになる。と云うのがその基本的範式だ。要するに、人が物になり、そして物であるのだ。そして、物であることによって、<一切>なのである。

 外部の内面化の場合、対照的に、自分にとって「外部」であると考えていた物が、法有等は「内部」にあると突然実感するようになる。世界は私の外側には存在していない。それは私自身の内にあるのであり、それは私なのだ。人間がそれまで自分の外側で行われていると想像していたものがすべて、実際には内的空間で行われていたのである。だが、本当の問題は、この「内的空間」をどのように理解したらいいのだろうか、と云うことである。人間の心は、一切の事物が存在し、「内的」な物と「内的」な出来事として生じる内的空間を構成しているのだろうか。こうして私たちは直接的に、禅が理解する<心>の問題へと導かれていく。

 慧能の「風にはためく幡」の有名な公案が、この場合に相応しい例証として、ここに挙げられるだろう。

 五祖弘忍(601―674)の元で悟りに達した後、慧能は南方に行って、広州に留まった。そこで、ある日、ある寺で仏教の講義を聴いていた。突然、風が起り、寺門の旗がはためきだした。公案に関連する事件が起こったのはその時であった。公案は次のように述べている。

 

  六祖がそこに居た時、風が旗をはためかせ始めた。そこには二人の僧が居て、二人はそれについて議論を始めた。一人が言った、「見ろ!旗が動いている」。もう一人が言い返した、「違う!動いているのは風だ」。

  彼らの議論は真理に達することなく、際限なしに続いた。

  (突然、慧能が、その実りのない議論に割って入って)こう言った、「風が動いているのではない。旗が動いているのではない。尊敬すべき同胞たちよ、実際に動いているのは、あなた方の心だ!」二人の僧は仰天して立ちつくした。

 

 ここには外部の内面化の最も顕著なケースがある、と云うように見えるだろう。風が心中

で吹いている。旗が心の中ではためいている。全ては心の中で起っている。心の外側には何

もない。風にはためく旗は、外界で起っている出来事である事を止める。出来事全体(そし

て暗示的には、宇宙全体)は内面化され、内部空間にあるものとして表象される。しかし実

際には、ここで問題にしている「内面化」の構造は、禅の教えの前提的知識を何も持たずに、

この公案を読む者がそう思うほど単純なものではない。少し違った角度からこの点を解明

してみよう。

 同じ『無門関』のある一節では、まだ学人だった趙州が、師の南泉(748―834)に尋ねている。「<道>(つまり絶対的な<リアリティ>)とは何ですか?」そして次のような答えを得ている。「普通の心、それが<道>だ」〔平常心是れ道〕。このよく知られた格言、「普通の心、それが<道>だ」には、この公案を批評する無門禅師の詩的解釈が添えられている。

 

  春に百花有り秋に月有り、

  夏に涼風有り冬に雪有り。

  若し閑事の心頭に挂くる無くんば、

  便ち是れ人間の好時節

  (春の芳しい花、秋の銀月。

   夏のそよ風、冬の白雪!

   もし心がくだらない問題に煩わされないなら、

   毎日が人々の人生の幸福な時であり。)

 

 それならば、中では春には花が咲き、秋には月が輝き、夏には涼しい風が吹き、冬には雪が白いと云うこの「普通の心」とは一体何なのだろうか。四季に特徴的なこれらのものは、「普通の心」の内的風景として無門が提示したものであり、それは丁度、心の内的な働きとして慧能が提示した旗のはためきと同様である。

 まず明らかな事は、ここで語られている「心」は悟った人の心、悟った心だと云う事だろう。南泉の「普通」の心は、この意味では、普通の心ではない。全く逆である。語の通常の理解での、自我実体の経験的意識からは遠く離れていて、「普通の心」が意味するものは、主客未分の分岐を越えた精神状態で実現される<心>(術語的には「無心」と呼ばれる)であり、宇宙全体の極限にまで拡張した心なのである。それは、私たちの経験的意識の場所としての普通の心なのではない。それが意味するものは、<リアリティ>であり、<存在>の基礎なのであり、それが永遠に己自身を覚知しているのである。

 だが、この<心>に関して奇妙なことがある。それは、<心>が、私たちの経験的意識と完全に同一化された場合を除いては、具体的に機能しない(できない)と云うことである。<心>は、現象に於てだけ昨日するヌーメナルな何ものかsomeshing noumenalである。南泉が「普通の心」と呼んでいるのは、まさにその意味においてである。そして、ただこの意味に於てのみ、旗のはためきや春の花の開化は、「内的」出来事として説明し得るだろう。このように理解すると、事実、「心」の外側には何も存在しないし、「心」の外側では何も生じない。現象としてのいわゆる外界に存在するものはすべて、「心」の、ヌーメナルなものthe noumenal〔叡智によって知られる性質のもの〕の顕現形態でしかない。外界で生じる如何なるものも、「心」のヌーメナルなものの動きである。「心」と云う単語の語頭を大文字のMで記した意味はそこにある。〔本訳では<心>と記した〕。

 このように理解された<心>の構造は複雑なものである。なぜなら、見かけ上、自己矛盾的性質のものであるからだ。一方では、超感覚的で超理性的な<存在>の次元にあるのだから、経験的意識とは全面的に異なっているが、しかし他方でそれは、経験的意識と不可分に完全に同一であるのだ。南泉の「普通の心、それが<道>である」は、心のこの後者の側面を述べている。

 「山河大地―存在するもの、生じるものすべてはー、例外なく自分自身の心である」。こういう古い禅の言明がある。この言葉を批評して、日本の鎌倉時代末期の夢窓国師(1275―1351)は、次のように述べている。食べ、飲み、手を洗い、衣服を脱ぎ着し、床に入る等々といった日常的行為はすべて、禅の修行には全く関わりのない世俗的な行為であると考えがちな僧侶たちが居る。彼らは、自分が真剣に禅の修行に取り組んでいるのは、ただ坐禅している時だけだと考える。そのような人々は、夢窓禅師によれば、由々しい過ちに陥っている。「なぜなら、彼らは、心の外側の事物を認めているからだ」。つまり、彼らは自分の心の外側に世界が存在していると信じているからだ。彼らは、「山河大地は自分自身の心である」と云う言明の本当の意味を理解していない者たちである。換言すれば、そのような人々は、個人の「普通」の心として如何なる瞬間にも活動している<心>の性質に全く無知なのである。

 

  ある僧が一度、趙州禅師に尋ねた、「私の心とはどんな類のものですか?」

  これに対して、趙州はその僧に、こう尋ねる事で答えた、「もう食事は済んだのか?」

  僧「はい、食べました」

  趙州「それなら、茶碗を洗いなさい!」

 

 僧は腹が空いて、食事を摂る、食べ終われば、茶碗を洗う。趙州は、そのような自然な日常行為すべての只中で、如何に<心>が活動しているのかを示す。つまり、最もありきたりな行動を通じて機能している各々の心の中で、<心>は間違いなく活動していると云うことである。このように、「普通の心」とは無限の精神的エネルギーの場であり、一旦、個人の境界が取り除かれると、自ずから宇宙全体の極限まで広がるエネルギーなのである。

 南泉や趙州と云った悟達した禅師の観点からすると、「普通の心」は何ら特殊なものではない。彼らにとって、「普通の心」は只の普通の心である。しかし、その背後には<心>の覚知がある。「無心」の覚知を通じて達成されるのは、普通の心であるー私たちが前に、内面の外部化の議論で語った普通の山が、無山の段階を経た後に到達した、ただの普通の山であったように。換言すれば、南泉の「普通の心」は元から与えられている私たちの経験的意識ではないのである。それは悟りの実際体験を通じて実現された「普通の心」なのである。

 禅を学ぶ者にとって、この点を把握するのがどれほど難しかったかを示す例は、古い禅の記録に多くある。

 

  ある僧が一度、長沙禅師に尋ねた、「山河大地を転成(内面化)させて、私自身の心に還元することは、どうしたら可能でしょうか?」

  長沙「山河大地を転成させて、私自身の心に還元することは、一体どうしたら可能だろうか?」

  僧「私には理解できません」。

 

 この有名な問答の中で、僧は「一切は<心>である」という格言の確かさを問うている。その時、彼は明らかに、素朴なリアリズムの立場をとっている。僧にとって「心」とは、<心>の段階を経る以前の普通の心である。その心は「客体」として心の外部にある山や川に対立して立っている経験的意識である。長沙の答えは修辞疑問であり、その意味は、「外部」の世界をそのような心の内的空間にもたらす事は全く不可能だと云うことである。僧はその点を理解できなかった。

 長沙自身が理解する「心」が外界に対して立っている内的世界では無いと云うことは、次の有名な問答によって明らかに示される。

 

  ある僧が長沙に尋ねた、「私の心とはどのような類のものですか?」

  長沙「宇宙全体がお前の心だ」。

  僧「もしそうなら、私自身を容れる場所が無くなってしまいます」。

  長沙「全く逆だ。それこそが、お前にとってのお前自身を容れる為の場所だ」。

  僧「ならば、私にとっての私自身を容れる場所とは何なのですか?」

  長沙「無限の海!水は深い、底知れず深い!」

  僧「私の理解を越えています」。

  長沙「巨大な魚と小魚を見ろ。思いのままに上や下に泳いでいる!」

 

 僧と長沙との間には、明らかに根本的な理解の欠落がある。と云うのも、僧は心について、自分自身の個人的・経験的意識について語っているのだが、その一方、長沙は<心>について語っているからである。経験的心と宇宙的<心>との実際的な同一性を強調すると云うよりむしろ、師はここで、意図的に前者と後者と区別し、僧が自分自身の心であると考えている者とは、実際には大小の魚、つまり存在する一切のものが、それぞれ自分に固有の場所を見つけて、限りない実存的自由を享受している、底知れぬ深さの無限の海のような<何か>であることwp、その僧に分からせようとしている。

 同じ考えは、次のような宏智(わんし)禅師(1091―1157)の詩的表現でも与えられている。

  水清(す)んで底に徹(とお)って〔水清徹底兮〕

  魚の行くこと遅々〔魚行遅々〕

  空闊(ひろ)くして涯(かぎ)りなければ〔空闊莫涯兮〕

  鳥の飛ぶこと杳々(ようよう)なり〔鳥飛杳々〕

 

そして道元

  うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、

  鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。(「現成公案」)

 

 事実、これらの言葉ほど美しく<心>の「内的」風景を描き出しているものは他にないだろう。そして、「山河大地」が「心の内側」だと言い得るのは、ただ<心>の形而上学的次元に於てのみである。と云うのも、個々の物はそれぞれ此処では<心>のあれこれの側面であり、そして個々の出来事はそれぞれ<心>のあれこれの動きであるから’だ。そして、そのようなものが、禅が理解する外部の内面化なのである。

 

 しかし、最後に私は、最初に強調した処に読者の注意を戻さなければならない。すなはち、内部と外部の問題は結局の処、禅の観点からすると疑似問題に過ぎないのだ。内部と外部との間の区別が一度作られると、両者がどのように互いに関係しているのかと云う問題は、内面の外部化と外部の内面化の見地から展開されるだろうし、恐らくそうしなければならない。しかし、厳密に言えば、そのような区別はないのである。区別そのものが妄想なのだ。ここでもう一度、前に何の説明もなしに引用した公案を再び引かせてもらいたい。

 

  ある僧が一度趙州に尋ねた、「趙州とは誰ですか?」

  趙州が答えた、「東門、西門。南門、北門!」

 

 つまり、趙州は完全に開かれている。<街>のすべての門は開かれており、何も隠すものはない。趙州は<街>の丁度真ん中に、つまり<宇宙>の真ん中に立っている。人は彼をどの方向からでも会いに来ることが出来る。「内部」と「外部」と隔てる為に一度人工的に建てられた<門>は、今や広く開かれている。そこには「内部」はない。「外部」もない。そこにはただ趙州が居るだけだ。そして彼は全くの透明なのである。

 

*1973年度エラノス講演より

 

これは筆者が井筒論文と禅との聯関について改めて考究し、自身暖皮にも少なからずに井筒氏筆致の薫習を体現すべくに公開するものであり、一部修訂を加えた。(タイ国にて・二谷)

 

禅的意識のフィールド構造 井筒俊彦

禅的意識のフィールド構造

井筒俊彦

 

 本稿の原テクストは、一九六九年度のエラノス講演<The Structure of Selthhood in Zen Buddhism >であって、禅における主体性の特殊なあり方の分析解明を主題とする。私がエラノスの講演者の列に加わったのは一九六七年のことだから、この学会との私の関連から言えば、極初期の講演である。そこに述べられている思想の要点だけは、今日でもまだ聊かも変ってはいないものの、とにかく今読み直してみると、欠陥ばかり目立つ。この機会を利用して、出来る限りそれらの欠陥を訂正し、補足しようと努めた。だが結局は、原テクストの忠実な翻訳でもなく、さればと云って完全な書き直しでもなく、中途半端な処に留まることになってしまった。読者の御寛恕を請う次第である。

 

 さて、その年のエラノス学会の綜合テーマは《Sinn und Wandungen des Menschenbildes》―英語では《The Image of Man》と簡略化されていたーで、要するに様々に異なる文化パラダイム、いろいろな学問領域の枠付けの中で、「人間」の根源的イマージュがどう変って現れてくるか、またそれらのイマージュが、それぞれの文化枠の中でどのような史的変転を示すか、と云うことが、主催者側から提出された問題であった。私のほかに参加者は、スイスのヘルムート・ヤーコブゾーン(Helmuth Jacobsohn古代エジプト宗教思想)、イスラエルのサンブルスキー(Schmuel Sambursky原子物理学者)、フランスのアンリ・コルバン(Henry Corbanイスラーム学)、同じくフランスのジルベール・ジュラン(Gilbert Durand比較社化学)、ドイツのベンツ(Ernst Benz宗教学)、イスラエルのゲルショム・ショーレム(Gershom Scholemユダヤ神秘主義)、アメリカのヒルマン(James Hillmanユング心理学)、スイスのポルトマン(Adolf Portmann生物学)、オランダのクウィスペル(Gilles Quispelグノーシス)の九人で、「人間」イマージュの種々相が多彩な形で論議された。私自身は禅を選んだ。 

 中国から日本にかけて、数世紀にわたる禅思想の発展史なかで、私は特に「人間」イマージュの実存的ダイナミクスを最も鋭い形で提示する(と私の考える)臨済の「人(にん)」に焦点を合せつつ、この極めて特徴ある臨済的人間イマージュ(「赤肉団上、無位真人」)の

活鱍々地たる働きの深部に伏在して、そのメカニズムを操るところのーそして、実は、臨済だけでなく、全ての禅的精神現象に構造的に通底するところのー意識のフィールド性を論究してみようと考えたのである。

 たまたまエラノスでは、私が参加する数年前に、鈴木大拙翁が招かれて2年連続で禅について講演されていた。聴衆は多大の感銘を受けたらしく、禅に対する異常な関心が昴まっていた。しかし、翁の話を聴いた人々の大部分は、煙に巻かれたような感じで、本当は良くわからなかったのだ、と云う。わからないが、何か深いものがそこにある。あるに違いない、と感じた、と。そこの処を、何とか説き明かしてはもらえないだろうか、と云う要求も出されていた。上記のような論題を私が選んだ、それが一つの理由。だが、単にそれだけの事ではなかった。少なくとも私にとっては、東西文化パラダイムに関わる興味ある事態がそこにあった。その辺の事情を簡単に説明した上で、本題に入る事にしよう。

 

   一 「我の自覚」―問題の所在

 

 今から振り返ると、もう一昔前の古い話だが、「我の自覚」という概念が日本の哲学界を騒然たらしめた事があった。「我の自覚」―この場合の「我」とは、言うまでもなくデカルト的コギトの「我」を意味した。この概念が、西洋哲学なるものを学び始めたその頃の日本人にとって、どうしてそれほどまでに重大な問題を惹き起こしたのか。簡単に言ってしまえば、デカルト的「我」が、思想史的に、近代の始点として理解されたからである。

 西洋的「我の自覚」が、本当はデカルトを越して遠くアウグスティヌスにまで遡るものであるにしても、とにかくデカルト的「我」の発見、「我」意識の自証、から西洋の近代哲学が始まると云う事は、大雑把な見方をする限り、思想史的事実であると言わざるを得ない。と云うことは、すなわち裏側から見れば、「我」の自覚を欠く、或いは「我」の自覚の曖昧な、東洋の伝統的思想の非近代性、、前近代性を指摘する事でもある。滔々たる世界の近代化の波に乗って、近代世界に仲間入りする為には、日本の哲学は、先ず何よりも「我」の自覚を持たなくてはならない、と云う訳だったのである。そこに当時の日本哲学の直面した焦眉の問題があった。

 ここでデカルト的「我」の自覚とは、第一義的には個の自覚と云うことである。そして個の自覚とは、人間が自分の個的存在性を、その主体性の先端において覚知すること。要するに個的実存としての自我の主体的確立を意味する。そして、このような意味での自我、人間的主体性、の問題がデカルト以来、西洋哲学の基本的問題として、近代哲学の全かってん過程を支配して来た事もまた事実である。

 個的「我」の自覚、一切の他者・他己を徹底的に排除して行く処に始めて成立する自己のアイデンティティ。そこに、近代的人間の主体性を特徴づける絶対自律性が、直証的確実性を以て覚知されるはずである。もしそうとすれば、西洋哲学の、このような近代的「我」の自覚の見地から見て、日本の、或いは東洋一般の、しゅたいせいの捉え方が、著しく前近代的と感じられた事も当然でなければならない。

 茫洋として捉え処もないような東洋的我「我」。いわゆる我執の跋扈する実生活の次元は別として、少し深い処まで行くと「我」などと云うものが、有るのか無いのかすら問題になってくるような「我」。そう言えば、確かに「我」に関する伝統的東洋思想の一般的傾向としては、個的主体を確立するよりは、むしろ個我的自己を消去することの重要性が強調されてきた。自と他、自我と他我との間の境界線すら曖昧で、ともすれば両者が融合してしまいそうな「我」は、自主独立的、自律的主体性としての「我」ではあり得ない。

 とはいえ、東洋でも、無論、「我」の問題が重要視されて来なかったという訳ではない。それどころか、例えば古代インドにおけるブラフマンアートマンの窮極的相互同定と云うテーゼ一つだけ取ってみても、「我」すなわち人間的主体性がいかに東洋思想の中心問題であったかが分かる。仏教もまたその通り、分けても、本論の主題である禅に至っては、徹頭徹尾、実存的主体性が関心の焦点なのであって、「我」の真相開顕の課題を余所にしては禅そのものも無い、と云っても良い程である。ただ、その「真の自己」の探求が、上述の西洋的近代性の立場から見ると、全体的に著しく非近代的な形で行われて来た、と云うことであるに過ぎない。そして、その前近代的性格とは、今も一言した通り、東洋の精神的伝統における「我」の観念が、漠然として無限定的であって、くっきりした輪郭を持たず、特に禅などでは自我と他我との区別も明確でない(少なくとも表面的には、そのように見える)と云うこと。要するに「自我」―独立自立的な個我意識として、他者あるいは世界に対立し対抗する自己完結的「我」のアイデンティティが確立されていないと云う事にある。

 私は、どちらが良いとか悪いとか言っているのではない。ただ、「我」探求の方向が、そして「我」の定立の形が、この点では、西と東とまるで違っていると云う事実を指摘したいだけの事だ。西方では近代フューマニズム的人間像確立の基となったデカルト的「我」が、東方では、「傲物高心の者は我、壮(さかん)なり」(大珠慧海「続蔵」六三・二五c九)と云うように我執の源として否定される。道元の有名な言葉を引用するまでもなく、ここでは「我を忘れる」こと、つまり自我意識を無化することこそ、真の自己の自覚に至る第一歩とされる。主体性は、その極限的形態においては、主体性そのものを否定し脱却し、「脱我的主体性」の働きの場には、いわゆる「我」の意識はない。「物が一如」などと云う表現によく現われているように、我と物との間に明確な境界線は引かれない。我と物との区別が不定であれば、無論、「我」そのものの観念も不定になる。それが近代性の欠如として感じられるのは当然でなければならない。確かに、ある意味からすれば(すなわち、デカルト的「我」を近代性の始点とする立場に立つかぎり)このような東洋的「我」の捉え方は前近代的と言わざるを得ない。

 

 だが、ここでもう一歩立ち入って考えてみれば、事態は見かけほど単純でもなさそうだと云うことになって来る。第一、当の西洋の内部で、近代はその史的発展の過程において、何回か深刻な危機を繰り返した挙句、ついに「終焉」に達してしまった事を我々は知っている。そして、終焉に達した西洋の近代文化が、今やポスト・モダン的解体の道を急速に走りつつあること、もまた。モダンからポスト・モダンにわたるこの数百年の間に、個我の自覚としての西洋的主体性の観念は、思いもかけなかったような変転を経験した。西洋的「我の自覚」のこの変転の全道程を、現代アメリカの代表的ポスト・モダニスト哲学者、マーク・テイラー(MarkC Taylor)が、その主著『さまよう』の中で、実に鮮明に描き出している。ついでながら、テイラーには、『さまよう』以前に、同じ問題をやや違う角度から追求した『自己への旅路・ヘーゲルキルケゴール』という著書がある。もって近代的人間主体の運命に対する彼の関心の根深さを知るに足る。

 今、かなり複雑に錯綜する線を辿るテイラーの所論の筋書きを、ここで再現する余裕は、勿論、ない。ただこれから本論に述べようとする東洋、あるいは禅に特有の「我」の自覚と際立った対照を示す若干の論点を、極く単純な形で考察し直す事によって、禅意識のフィールド構造をよりよく理解する為の、いわば地均しをしておきたい。

 

 デカルトが個的実存の基盤としての「我」の観念を樹立し、それによって西洋哲学史の近代を拓いた時、事は頗る簡単であるかのように見えた。恰も神中心的な中世的世界像は解体され、今まで全てを支配してきた神に代って、人間が存在世界の支配者の位置についた、かのように。絶対超越的他者としての神のイマージュは消え、その空席に人間主体の自主独立性が据えられた。人間の自律性の自覚。それは数世紀を越えて現代のオルタイザー的「神の死」の観念に直結する。

 だが果たして神は本当に死んだのだろうか。無神論的フューマニズムは確実な根拠を獲得したのであろうか。そうでないことは、近代思想のその後の発展によって如実に示された。いや、神が死に、死んだ神に代って人間が主権者になったという、考え方自体に内蔵されている根源的矛盾は、すでにデカルト自身の思想において、余す所なく暴露されていたのだ。要するに、主権が神から人間の手に移ったと云うことは、人間の側の一種の主観的幻想に過ぎなかったのであって、実は、全てが、神的コンテクストあるいは神学的思想風土の内部での出来事に過ぎなかったのである、神の退陣も、人間の自律性の確立も。

 皮肉なことにデカルトは、コギト的「我」の存在を直証的確実性において証明した後、それに基づいて、神の存在を証明した。皮肉なことにと言うのは、神の存在が証明されれば、当然、人間主体の自主独立性は否定されざるを得ないからである。神が存在する限り、人間は神との相依相関に於てのみ存立出来るのであって、事態は従来の如く神の独裁ではないにしても、二つの主権の並立である。並立は対立となり、結局は、また元の通り神が絶対主権者になってしまう。その場合、昔の情勢との違いは、今まで顕在的だった神が、一応、背後に退いて姿を隠した、というだけのこと。顕在的であれ、隠在的であれ、神の存在が人間の自律性を脅かすことには少しも違いはない。しかもこの場合、神は絶対超越的他者として、他者性一般の代表である。自律的「我」が、一切の他者性の排除に於て始めて成立し得るものである事については、前に一言した。

 神との関連において、始めからデカルト的自我観念に内在していたこの根源的矛盾は、時と共に先鋭化し、近代哲学の史的発展がカント、ヘーゲルを経てニーチェに達する頃には、完全に危機的状況に落ち込んでいく。要するに、一旦手に入れた(と人々が思った)「我」の主権を守り通す為には、どうしても神が主権の座から曳きずり下さなければならない、と云うことだ。神が排除されなければならない。「奴隷の叛乱」が起る。元々「主体」を表すsubject(subjectum)という語は、文字通りには「下に投げつけられたもの」(=「奴隷」)を意味した。神の絶対超越的他者性が喚起する実存的恐怖から脱却する為に、「奴隷」たちは蜂起する。蜂起して彼らは己れの主人、神を殺そうとする。「神殺し」は、フロイト深層心理学のコンテクストでは「父親殺し」である。

 だが、とテイラーは言う、皮肉なことに、人間が神を殺し、神が死ぬ時、人間は自滅し、人間的主体性も死ぬ。「神だけが死ぬのではない、自己もまた死滅する」と。この結論がどこまで正しいか、私は知らない。またこうしてポスト・モダン的状況に進み入った西洋的「我」のイマージュが、今後どのような方向に進み、どのような形で自己のアポリアを解決することになるのか、それも私には予想できない。それに、第一、今テイラーに従って略述したような自我論が、西洋近代の自我論の全てではないし、また唯一の史的発展形態でもない。しかしとにかく、デカルト的「我」の自覚が、少なくともこのような方向に展開する可能性を持っていたと云うこと自体、この型の自我論を特徴づける為の有力な手掛かりになるのではなかろうか。

 が、いづれにしても、それは本論の直接関知する処ではない。本論への直接の関わりは、ここの素描した西洋的「我」の近代哲学的イマージュが、以下の諸節で問題となる禅的主体性のイマージュに対して、興味深い対照を示すであろうと云うことだけである。

 

 神の居る世界像においてはーその神が全システムの中心を占めているにせよ、周辺地域に追いやられて居るにせよ、またそれが顕在的神であるにせよ隠在的神であるにせよー人間は純粋に、完全に独立に自分では有り得ない。人がそれらを意識するとしないとに関わらず、そこでは「我」は窮極的には神という絶対他者の鏡に映った自分である。要するにimagoDeiなのであって、その意味では根源的に自己疎外された形での自分なのである。そこに西洋の近代的「我」にとっての深刻な問題があった。

 それでは、神の居ない世界―神が人間によって殺されたり、殊更に追い払われることによって居なくなった(ように見える)世界ではなしに、始めから神が居る必要のない世界―そういう東洋的世界像の全体的コンテクストの中では、「我」の自律性の問題は、一体どうなっているのだろうか。

 絶対主権者である神が存在しないからには、人間は無条件に自由であり自律的であるはずだと考えられるかも知れない。だが、このような安易な解答で満足してはいられない事は、「我」と云う観念の成り立ちを反省して見ればすぐ明らかになる。臨済の説く「随所に主となる」という人間の自由自律性は、こんな簡単な意味での自由自律性ではないのだ。

 先の述べたimageDeiとしての西洋的「我」意識の場合、「我」は神という絶対他者の鏡面に映った自分の姿を基として成立するものであった。この意味で、「我」は鏡像であり、いわば神の影、「影法師」、である。これに反して仏教的世界像においては、確かに他者としての神は居ない。だがこの場合には、自分自身が他者としての働きをする。他者としての自分が鏡となって自分を映す、その原初的鏡像が「我」の意識を生む。もしそうとすれば、テイラーの説くナルシシズムと異なるところはない。そしてナルシサスは自殺する。

 しかし、禅本来の立場からすれば、このような形で成立する「我の自覚」は真の「我の自覚」ではない、ということに注意すべきである。むしろこのような鏡像的(すなわち対自的)の真性を否定するところからこそ、禅の「我」論は始まるのだ。

 経験的意識の鏡面に現われてくるような自己を、禅は真の自己でない自己、虚構の「我」、として否定する。真の自己は、まさしくそのような鏡像的自己が否定されつくし、滅尽したしたところに始めて現成する。そういう意味で。先ず鏡像的「我」が完全に払拭されなければならない、対他的鏡像は云うまでもなく、対自的鏡像も。だが、鏡像だけを消し去ることは出来ない。鏡面に映る「我」の姿を余す所なく消し去る為には、それを映し出す鏡そのものを粉砕してしまう事が必要である。「身心脱落」―そこから全てが始まるのだ。

 「身心脱落」とは、先ず何よりも先に、人間主体の自我的構造の解体である。映される自己(鏡像)も映す自己(鏡)も共に払拭されてしまうこと、要するに謂わゆる自我が徹底的に無化されることである。鏡中無一物、鏡もまた無。だが、こうして解体された実存的主体の自我構造は、構造解体の否定性、消極性にそのまま止ってしまいはない。自己の無い、従って勿論他己も無い、この空無の空間(「廓然無聖」「不識」)が、構造解体の次の段階で、そのまま逆に自己構造化して、真の自己、「我」の自覚として甦るのである。「清風匝地、何の極まりか有らん」―さわやかな風が限りなき宇宙を遍く吹き渡る。「身心脱落」の境位で否定し尽された自己が、直ちに「脱落身心」的主体性として肯定されるのだ。この第二の境位において、「自性」の枠付けを脱け出た無「自性」的、あるいは脱「自性」的主体性が、通常の経験的現実の世界で機能する時、それはフィールド構造という名に相応しい特殊な内的構造を露呈する。それがどのような構造であるかを分析することが、本論全体のテーマである。

 

 今から約三十年前、私が日本を離れて外国の大学に籍を移した頃、人間的主体性のあり方についての禅の立場に、多くの知識人たちの関心が向きつつあることを私は発見した。みんなが鈴木大拙の著作を読んでいた。この人たちが禅の立場をどう理解したかは別として、神と人という二つの主体性の鏡映関係から生起する理論的葛藤が直接に指向する方向―今ではそれが、解体的であるにせよ、構築的であるにせよ、いわゆるポスト・モダニズム的思想展開である事が明らかになったのだが、―を離れて、何か全く別の方向に、「我」のあり方に対する全く新しいアプローチを模索しようとする人たちであった。わけても、一九六九年度のエラノス講演の聴衆の間にはそういう関心が非常に顕著だった。禅をよく知っているわけでもない、しかしそこに何か自分たちの内心の要求に呼応するものが有りそうだと感じて、禅独特の「我」の把握の仕方に強い関心を、少なくとも旺盛な知的好奇心を、抱く人々、そんな人に対して、私は禅の「我」観を説き明かさなければならなかった。この目的が私の論述のスタイルをおのずから決定した。本稿を通貫する思考方法が、終始テクスト解釈的であるのもそのためである。

 

 元来、禅は説明を嫌い、己れが解釈されることに烈しく反撥する。禅は本質的に言語を超えた体験的事実であるのに、およそ説明とか解釈とか云うものは徹頭徹尾言語的な操作だからである、と。だから禅を言葉で説明し解釈することは、どんなにそれが見事に行われようとも、所詮は第二義門に堕した作業にすぎない、と。もとより私はそれを否定しはしない。ただここで一言しておきたいのは、禅に対するこのような禅自身の言い分は、あくまで宗教的実践道としての禅の立場表明であって、禅を取り扱う哲学者にはおのずからそれとは違う言い分がある、と云うことである。禅本来の立場から見て第二義門であるものこそ、哲学にとっては第一義門なのであり、禅自身が第一義門とするものは、哲学的にはたかだか思想の前ロゴス的準備段階であり、思考の為の素材であり、第二義門であるに過ぎない。禅は体験である事は否定すべくもないが、体験だけが禅なのではない。

 他面、東洋哲学の諸伝統を、新時代の要請に応ずる形で組み直そうと志す人間にとって、禅の限りなく豊饒な思想的可能性は、無視するには余りに魅力的であり過ぎる。すでに高度に思想化され、精緻を極めた体系にまでえ哲学化されて現代に伝えられて来た他の大乗仏教諸派には見られない瑞々しい精神的創造力が禅には今なお溌剌と生きているのだから。それをどう哲学化して行くかと云うことに、私は尽きせぬ「テクスト(読み)の悦楽」を感じる。「テクスト」という語を、その原義に引き戻して考える時、―textの語源texo,texereはラテン語で「織る」の意。Texy=texture―禅的エクリチュールは実に多彩な意味形象の図柄を我々の前に織り出して見せるのであって、それをどう読みほぐしていくか、そこに一つの興味深い現代思想の課題を私は見る。

 およそこのような主旨に基づいて、私は以下、禅の根源的主体性のフィールド構造を、可能な限界までロゴス化してみようと思う。

 

  二 主・客対立の認識メカニズムを解体する

 

 禅は簡単に言えば、真の自己(「我」)を、その根源性において据え、それをそのままに現実的経験の世界に機能させようとする人間の営みである。だから主体性という事が始めから最も重要な問題であった。「直指人心、見性成仏」とは、真の自己の覚知を意味する。

 だが、主体に対する関心は、客体に対する関心と表裏一体である。もともと主・客は、本性上、相互相関的概念であって、もしもし客体を定立しないなら、主体なるものは考える必要もないし、考えることすら出来ない。主が客に対立し、客が主に対立することは必然的なのである。ことさらに指摘することまでも無いごく当り前の事だ。しかし、この一見平凡極まり無いところから、禅のすべてが始まるのである。

 

 主・客の必然的相関関係のプロブレマティークを明確な言葉で提示したものの一つに、禅思想史最初期の作品、哲学詩『信心銘』がある。その一節に日く、「能は境に随って滅し、境は能を逐って沈む。境は能に由って境たり、能は境に由って能たり。両段を知らんと欲せば、元是れ一空。一空、両に同じ、斉しく万象を含む」。

 この一節の前半は簡単だ。「主体(能)は客体(境)が無くなると共に無くなり、客体の方も主体が消滅すればそれにつれて消え去る。主体があるからこそ、それに対して客体は客体なのであり、反対に客体があるからこそ、それに対して主体は主体として定立されるのである」と。まさに主・体の必然的相互依存性(「縁起」性)を説いて頗る明快。問題はそれに続く後半である。日く、「今、私は主・体(能・境)を二項対立的な形で語ったが、これらの二項が本来何であるのか、と究めて見れば、両者は(縁起的にのみ、すなわち、相互の純関係性においてのみ存立するとという意味で)もともと同じ一つの空である。同じ一つの空ではあるけれども、(つまり、それ自体としては何らの実体的差別性を持ってはいないけれども)、しかもまた同時に、(それ自体に本具する縁起的機能を通じて、非実体的差別性を現成し、主・客二項に自己分岐する。この意味で)一空は、互いに対立する所のこれら二項と自体的に完全に同定されるのであって、従ってまた、ありとあらゆる事物事象が、例外なく、本有的に含まれているとも言い得るのである」と。禅の立場から見た主・客関係に著しくダイナミックな可塑性が、ここに示唆されている。

 今、この問題の詳細に入る事は出来ない。それこそ本稿全体の論究すべき課題なのだから。だが、話の糸口を付ける為にも、次の事だけは指摘しておきたい。

 先ず。主・客という認識論的対立二項が、本来、「空」であるち云うこと。それは、右に引用した一節の前半に明言されている通り、主と客とが完全に相関的、相互依存的であって、両者それぞれが本質的に無「自性」的であること、言い換えれば、主も客も、独立した実体性を持った存在者ではない、と云う事を意味する。

 次に、現実的には主・客両端に分れて機能している「空」が、その主・客機能面において、そのまま、全存在世界の顕現・現成である。と云うこと。全く内部分節のない「一空」が、即、参差(しんし)たる現象的存在の差別界なのである。普通、「空」とか「無」とか云うと、我々は何となく形而上的超越性を考えがちであるが、そういう超越性は、ここではっきり否定されている。そしてこのような非超越的意味に理解された「空」(あるいは「無」)を、禅は大乗仏教哲学に従って、「心」(「心性」「心法」)という術語で表現するのである。それをまた「自己」とも云う(臨済の「人」も同じ)。そういう形で禅は人間の真の自己、「我」、主体性、の在処を考えるのである。主・客的二項対立の構成要素としての主を真の主体性とは考えない。

 だから、禅本来の考え方からすれば、主・客対立における主だけを切り出して、それを何処まで追求して行っても、人は「本来の面目」に出逢うことはない。主・客対立における主ではなく、主・客の対立そのものを包み込む全体構造、すなわち「空→主・却→存在世界」全体の自覚が真の主体性なのであり、それがいわゆる「父母未生以前本来の面目」なのである。「那箇是自己」(那箇か是れ自己、どれが汝の真の自己か)という雲門禅師の問いが、「尽大地」、すなわち経験的世界の森羅万象の全て、が汝の真の自己である、という答を喚び起す、喚び起さざるを得ない、のはこの故である。(『碧巌録』第八十七則、「大正蔵」四八・二一二a一一)。全存在世界がすなわち「自己」という。一見、いわゆる汎神論のようだが、それとは根本的に異なる。そのことは今まで述べて来た処からだけでも推察されると思うが、いずれにせよ、論述の進行につれて、次第にもっと明確になっていくであろう。

 

 認識的事態における主体と客体との関係性、相互依存性はなにも禅独特の見解ではない。そのこと自体としては、むしろ、いつ何処にでも見られる常識的な見解である。特に、見方により、見る人によって同じ一つの物が色々に変って見えると云うような形では、主・客の相関性に異議を唱える人は少ない。日常的な物の考え方ばかりでなく、専門の哲学の領域でも日常的思惟を基礎にして哲学する人々は、この意味での主・客相関性を事物認識の不確実性の論拠として使う。例えばバートランド・ラッセルの<priblems of philosophy>(『哲学の諸問題』)。彼は言う。日常生活で我々はよく「机の色」などと云う表現を使う、「色」colourに定冠詞を付けて。つまり、何処でも、誰にとっても、机には一つの決まった色があるものと云うことがわかる。これが机の色である、と言えるような一定の色は何処にもない。見る角度が変れば、机の色は変る。人が二人いれば、必ず見る角度が違う。「それに全く同一の角度から見るにしても、自然光によるか人為的照明によるかで違って見えるはずだし、その人が色盲であるか、色眼鏡をかけているかによっても色は違ってくる。それどころか暗闇の中なら何の色も現われはしない」と。しごく当り前の話で、禅者であろうと誰であろうと、否定する人は恐らくいないだろう。だが、そんなことが問題なのではない。私がここで、わざわざこのような文章を引用したのは、禅の問題とする主・客相関性が、これとは全く似て非なるものである事を際立たせたいからである。

 禅もよく、一見、ラッセルと同じような形で主体と客体との関係性を問題にする。確かに、主体のあり方いかんによって、客体(すなわち物)は変って見える。しかし、と禅は付け加える、主体のあり方によって物がどんなに変った姿を現わそうとも、その主体が客体と対立するような主体である限り、物の真相は現われて来ない。主体を対客体的な認識主体のままにして置いて、どれほどその視覚を変え、視点を移し、外的状態を変えて見ても、物は絶対にその真相を顕わしはしない。存在をしてその真相を露呈させる為には、主体の立場を同一平面上であちこち移すのではなく、一挙に、謂わば垂直に転向させなければならない。言い換えるならば、主体が普通の意味での主体である事を止めなくてはならない。

 主体が普通の意味での主体を止めるとは、ここでは、対客体的認識主体が、前述の如く、「一空→主・客→世界」を己れの全体領域として現成すると云う形での脱自的主体に転成することを意味する。

 「ある僧、(興善惟寛に)問う、道は何処にか在る。師日く、只だ目前に在り。日く、我、なんぞ見ざる。師日く、汝有るが故に見ず」(『景徳伝灯録』七「大正蔵」五一・二五五b八)。存在の日常的経験に様々な形で客体認知的に機能する主体を一挙に消去することによって、そこに現成する新たな主体性を、禅は「無心」と呼ぶ。「無心」とは単に心が無い、つまり一切の意識活動の無い、謂わば死んだような心の状態を意味するのではない。主・客対立そのものの本源的空・無性の覚知であると云う処から「無心」と呼ぶだけの事である。だから、前述の「心」と云う語の了解の仕方によっては、「無心」と「心」とが完全な同義語として区別なく使われる事も少なくない。

 いずれにもせよ、「無心」的主体においては、主・客対立的認識の根本的特徴である「分別」作用は払拭され尽して影もない。それがここでの「無」の一番大切な意味である。「分別」については後に改めて主題的に述べる機会があろう。要するに、簡略して言えば、仏教術語としての「分別」は、現代の哲学的意味論で説く存在分節のこと。つまり本来、何処にも切れ目、裂け目のない存在リアリティーそれを禅では「無縫塔」などと云う(全宇宙、是れただ「箇の無縫塔」―慧忠国師)―に、コトバの意味の指示する区分、区劃に従って、縦横に切れ目を入れ、その一つひとつを本質的に独立した事物事象として定立する事である。従って、そういう意味での「分別」作用を停止した心(「無心」)は、呆然自失して一物も見ない空虚な心ではない。「無心」にはそれ独特の次元における強烈な作用があるのだ。換言すれば、「無心」とは心の無ではなくて、「無心」という一種独特の意識機能なのである。「縦(ほしいまま)に観て写し出す飛禽の跡(雪竇)。一切は無「分別」的境位を経た上で、改めて無分節的、超分節的全体性において見直おされ分節し直され理解する為には、もっと迂遠な分析的解明の道を通過する必要があろう。

 問題の核心は、「無心」と呼ばれる脱自的主体の実際に機能する場所が、通常の見聞覚知の当処であると云うことである。右の説明でも分かる通り、勿論、「無心」は通常の見聞覚知を超絶してはいる。が、見聞覚知を離れて、全く別の次元で働くわけではない。見聞覚知を超えた「無心」が生きて働く場所は、まさに見聞覚知の他にはないのだ。「但、見聞覚知の処においてのみ本心(=「無心」の働き)を読む。しかも本心は見聞覚知に属せず、また見聞覚知を離れず」(黄檗『伝心法要』「大正蔵」四八・三八〇c二)

 

 認識論的コンテクストにおいて「無心」とか「無」とか云う言葉を聞くと、多くの人はすぐ主客合一とか主客未分と云うことを考えがちである。「未だ主もなく客もない」。勿論、こういう意味での主客未分も禅意識形成の一局面ではある。が、禅本来の立場からすれば、それは単に一局面あって全てではない。ましてや禅意識の絶対的極所でもないし、根源でもない。それに、主客未分、「未だ主もなく客もない」と云っても、普通いわゆる神秘主義で問題となる主客未分とは、禅の「無心」的主体性はその内実も意義づけも微妙に違っている。

 禅にとって遥かに重要なのは、神秘主義的な主客未分そのものではなくて、主客未分に当るような状態を一契機として、主客をいわば上から包み込むような形で現成する全体的意識フィールドであり、そういう全体的意識フィールドの活作用なのである。確かに主も客も一度は無化される。その意味では、主客未分を云々することも出来よう。だが本当の問題は、一度無化され、解体された主・客関係が今度は全体フィールド的に甦って、経験的現実として働く、その働き方なのである。そしてその働きの場所は、先に引いた黄檗希運の言葉にあった通り、ただ見聞覚知の現場のみ、である。

 こう考えてみると、「無心」とは云っても、この名で呼ばれる禅意識は、いわゆる主客未分の忘我的状態とは程遠いことを我々は知る。なぜなら、それは見聞覚知の現場で躍動する心なのだから。具体的現実の事物を、それははっきり観ている。ただその観方が、普通の主・客対立的認識構造のそれとは根本的に違うだけのことだ。では、何処が違うのか。

 

 「山河不在鏡中観」、山河は鏡中の観に在らず、と雪竇が言っている。鏡の表面に映った山河は本物の山河ではない。自然の風景を映す鏡像が、どんなに本当の自然とそっくりでも、それはじかに見られた自然とは違う、というのだ。無論、「鏡」という比喩をどう取るかにもよるのだが、少なくともここでは「鏡」は。始めから私が話題にしてきた主・客対立関係における「主」を比喩的に指示している。主体(私)が客体(山河)を見る。外的相互連関性において成立している主体が己れの認識対象として、己れの前に立つ山河を見る。そういう認識関係における主体を、「鏡」に譬えるのだ。その上で、「鏡」に映った対象としての事物は、事物の真相ではあり得ない、という。この意味での鏡像を、夢の中に現われる事物の姿に譬える人もある。南泉普願の「南泉一株花」。『碧巌録』第四十則(「大正蔵」四八・一七八b一九)。世に有名な公案である。

 

 ある時、陸亘(りくこう)という唐朝の役人が、南泉和尚を訪ねて会話していた。陸亘は学識ある人だ。ふと、彼はこんなことを言った。肇(じょう)法師(『肇論』の著者、格義仏教の大立物)の言葉に、「天地と我と同根。万物我と一体(天地与我同根、万物与我一体)」とありますが、実に驚嘆すべき発言だと思います。(しかしどうも未だその深意が掴めないでおります)、と。この時、南泉は庭前に咲く花を指して、「世間一般の人がこの一株の花を見る見方は、まるで夢の中で見ているかのようだ」と言ったと伝られる。「時の人、この一株の花を見ること夢の如くに相似たり(時人見此一株花、如夢相似)」。

 いわゆる現実の世界に咲いている現実の花。世人の目に映るこの花は、まるで夢の中に咲く花のようなものだ。と云うのである。南泉はここで、先刻から私が問題としている主・客対立的関係において、「主(私)が見る「客」(花)は、私から離れて、私の向う側に、独立して存在する一個の客観的対象である。そのような形で認識された花は、花の真相を表わしてはいない。あたかも夢に見た花が花の真相を表わしていないように。つまり、この場合、私は花を直接、直に、見ていないと云うことだ。だからこそ、「天地我と同根、万物我と一体」と云う肇法師の言葉が、素晴らしいとは思うものの、同時に何となく空々しく響きもするのである。

 

 日常的な主・客対立関係における存在認識を決定的に特徴づけるものは言語である。この認識次元では、あらゆる事物事象の一つひとつが「名」を持っているのであって、「名」のないものは存在しないに等しい。逆に言えば、およそ存在するものは、全て「名」の喚起する「意味」によってがっしり固定されていると云うこと。このような状況において、「意味」は一々の事物事象の「本質」として把握される。「本質」という語に当るものを仏教では一般に「自性」(svabhava)と呼ぶ。例えば花は花の「自性」によって花である。花は、「花」という名を帯びることによって、この名の意味によって本質規定されて動きの取れないものとなる。花と云う語の意味が決定する一定の存在範囲があって、花はその範囲を出ることが出来ない(つまり、「花」が「鳥」になることは出来ない)。反対に、また、異物がこの範囲に侵入して来ることも出来ない(つまり、「鳥」が「花」と云う名を帯びることは出来ない)。あくまで「花は花」。ここに、いわゆる同一律が成立する。

 主・客対立の作り出す事物認識の場は、こうして同一律の全面的支配の下にある。「花は花」、あるいはより一般的に「AはA」。同一律の支配する世界においては、全ての物が、それぞれに自閉的である。いや、物だけではない、物をそのように同一律に見る主体そのものも、また同一律支配下にある。だから例えば「私が花を見る」という場合、見る主体である「私」も、見られる客体である「花」も、共にそれぞれがそれぞれの「自性」に固着して自閉的である。互いに相手に対して自らを閉ざした「私」と「花」とが向い合う。勿論、互いに外在的であり他者である。この相互的他者性は、主と客のそれぞれに本来的に内在する(と想定されている)「自性」に由来する。

 およそこのような認識の現場に於いて見られた「花」を、南泉は「夢の中で見る花」と言ったのだった。明らかに、常識の見方とは正反対である。常識の見方では、主・客間の相互他者関係に於いて成立する処の、有「自性」的な花、すなわち「自性」(「本質」、花性)によって己れ自身に固定された花こそ、唯一の現実の「花」であるのだから。

 と云うことは即ち、禅は、一切の事物事象が無「自性」であるとする、と云うことに他ならない。そして無「自性」性こそが存在の真相だ、と云うのである。主体も無「自性」、客体も無「自性」。一切の「本質」的固着性は、ここにはない。限りなき存在柔軟性をもって、すべてが全てに向って開けている。「私が花を見る」。ここでは「私」と「花」とは互いに他ではない。両者の関係は融通無礙。「私」と「花」との区別がないわけではない。区別はあるが、それが自閉的自己同定の(つまり同一律的な)区別ではないのである。だから、「私が花を見る」と云う認識的事態が、そのまま全体を挙げて「私」でもあり得る(全宇宙、是れ一箇の自己)。また明歴々として「私が花を見る」でもあり得る。まさに「天地と我と同根、万物我と一体」である。そしてこのような認識風景が、前述の「無心」的主体性の視野に現成する全体フィールドそのものなのである。

 

 「無心」の意識論、存在論を以上のように理解しておいて、試みに『碧巌録』第四十六則「鏡清雨滴声」を読んでみよう。因みに、この会話の主人公、鏡清道怤(きょうせいどうふ)は八世紀後半から九世紀初めにかけて活躍した禅匠で、雪峰義存の嗣。

  「鏡清、僧に問う、門外これ什麽(なん)の声ぞ。僧云く、雨滴声。清云く、衆生、顛倒し、己れに迷って物を逐う。」

 

 雨が降っている、その雨垂れの音を、ただ雨垂れの音、と思って、そう答えた僧に向って、「衆生、顛倒し、己れに迷って物を逐う」と言う。ここで鏡清の言う「己れ」と「物」が、それぞれ主・客対立的認識構造における主体であり客体であることは言うまでもない。雨垂れの音を聞く僧と、彼によって聞かれる雨垂れの音とは、互いに外在的他者である。それぞれが、「自性」固定的な自己同一性によって相手から切り離されている。世人は大抵このような顛倒した見方をする、お前もその通りだ、と鏡清は僧に言うのだ。

 もしこの僧が、主・客対立的立場でなく、主・客対立をそのまま包み込んだ「無心」的主体性の見地に立って事態に対処していたとすれば、たとえ表面的には全く同じく「雨滴声」と答えたにしても、彼は鏡清からこんな否定的批判を受ける事はなかったのであろう。「無心」的主体性の立場で聞く「雨滴声」、それは客観的外界の現象として主体に対立する雨の音ではなく、主も客も共に捲き込んだ渾然たる全体フィールドそのものが、たまたま一極限定的に「雨」としいぇ現成している、その「雨滴声」である。十方世界、ただ雨垂れの音。天地一杯のこの雨の音が、すなわち「父母未生以前本来の面目」としての「我」そのものの姿なのである。

 「山河、自己、寧(なん)ぞ等差あらんや。為什麽(なんとしてか)、却って渾(すべ)て両辺に成り去る」と圜悟克勤が問いかける(『碧巌録』第六十則「垂示」・「大正蔵」四八・一九二b九)。自然の事物(山や川)と我々の主体との間には、本来(つまり、両者がそれぞれ無「自性」的に開けているかぎり)何の差別もありはしない(「天地と我と同根、万物我と一体」)。それが何故、客観的な対象界と認識主体という二項対立形式になってしまうのか、と圜悟禅師は言うのだ。

 客観的な対象界と認識主体とを二つに分断し、さらに客観的対象界を、無数の事物事象に分割して相互に対立させるものが、この次元の存在を根本的に支配するコトバの意味分節作用であることは、前に書いた。AはそのA性(「本質」)に故に何処までもAである。もし我々が、AをAたらしめているA性を、本来的には言語的意味の喚起する虚像であるとして否定し去るなら、AはAであることに固執し停滞することを止めて、そこに自由の境位は拓かれるのであろう。

 『臨済録』の一節に言う、「道流、錯ることなかれ(君たち、間違ってはいけない)、世出世の諸法は(世間も出世間もひっくるめて一切の存在者は)、皆な自性なく、亦た生性無し(本質もないし、またそれの現象形態も本物ではない)。但だ空名有るのみにして、名字も亦た空なり。你、祗麽(しも)に他の閑名を認めて実と為す(ところが君たちは、そんな空虚な名前を有り難がって実だと思っている)。大いに錯り了れり」と。コトバによって支配される主・客対立的認識の世界にある一切の事物は、全て無「自性」。ただあるものは空名のみ。「唯有空名。幻花空花、不労把捉」(「幻花空花、把捉を労せず」の一句は、先に触れた『信心銘』からの引用)。

 

 繰り返すようだが、禅的主体としての「無心」とは、心が無い、心が働かない、ということを意味しない。何ものにも縛られない心を自在に働かせながら、存在世界に処していく事を「無心」と云うのだ。ここで何ものにも縛られないとは、すでに述べた処から明らかであるように、事物事象の(本当は実在しない)「自性」なるものを、実と間違えてそれに凝住固着することがない、と云う事に他ならない。古来禅のテクストによく引用される『金剛経』の一句、「応無所住而生其心」がそのことを、この上もなく簡潔に、かつ適確に表現している。

 「応に住する所無くして、而も其の心を生ずべし」。六祖慧能はこの一句を聞いて悟ったと伝えられている。要するに、どこにも、何ものにも凝住固着することなしに(無所住)、しかも(心の一切の働きを停止してしまうのでなく)、「無住」のままで心を起し、自在に働かせていくべきである、ということ。サンスクリットの原文では、

 

 Evam apratisthitam cittam utpadayitavyam

  Yan na kvacit-pratisthitam cittam utpadayitavyam

  (かくのごとく、固着せぬ心が起さるべきである。何かに固着したような心は一切起されるべきではない)

となっている。「固着した心」(pratisthitam cittam)―何に固着するのか。勿論、ものの「自性」に、あるいは「自性」をもつものに、である。前述の通り、例えばハナという語に対応する意味形象を存在論的「本質」(すなわち「自性」)と誤認して、そこに主体から独立した客観的なものとしての「花」を認めること。普通なら、心を起せばーこの場合「心」は主・客対立的認識構造における「主」を意味するー心は忽ち対象に引っかかってしまう。実体化された言語的意味形象の葛藤の中に捲き込まれて動きがとれなくなる。つまり心は一処に固定され、一物に固着して、無分節性の自由を失う。「応無所住・・」とは、存在の本源的無分節性の自由を保ちながら、しかも存在分節し、存在分節しながら、しかもその分節態に縛られない、そのような形で心を働かせていくべきである、と云うのだ。これが「無心」的主体の本来のあり方である。

 このような「無心」的主体の働きの特異性を、いかにも禅らしい鮮烈なイマージュに写して趙州は「急水上打毬子」(急水上にも毬子を打し、急流の上で毬をつく)と言っている。流れて止まぬ激流はいわゆる対象界、一瞬も停止せぬ毬の動きは心の働き。まさに摩拏羅尊者の偈として伝えられる「心随万境転、転処実能幽」(心は万境に随って転ず、転ずる処実に能く幽なり)という境位である。

 ここで「転ずるところ幽」であり得るのは、すべてが転じつつ、しかも転じない処があるからである。趙州の「急水」は流れ流れてしかも
流れない。分節が無化されて無分節となり、その無分節が無分節のままに自己分節する。それを「転ずる処実に能く幽」と云うのである。同一律は一旦否定されて(無)矛盾律が犯されるが、このようにして一旦否定された同一律は、また元の同一律に戻る。(A=A)→(A=non- A)→(A´=A´)。この最後の境位を、通俗的表現で、「柳は緑、花は紅」などと言う。より詳しく、この同一律変転の全プロセスを叙したものとしては、青原惟信の世に有名な述懐がある。

 

 「老僧三十年前、未だ禅に参ぜざる時、山を見るに是れ山、水を見るに是れ水。

  後来、親しく知識(奥義を究めた禅匠)に見(まみ)えて箇の入処(聊か悟る処)有るに至るに及んで、山を見るに是れ山にあらず、水を見るに是れ水にあらず。

  而今、箇の休歇の処を得て、依然として山を見るに祗だ是れ山、水を見るに祗だ是れ水なり」

 

 蛇足ながら、最初の「山は山」は主・客対立の認識的事態、「山は山にあらず」は、成立直後の(あるいは成立して間もない)「無心」的主体性の見る緊迫感に充ちた事態、二度目の「山は山」は、時が経つとともに、やや余裕の出来た「無心」的主体の自由な働きを特徴づける存在の非分節的分節の事態。

 我々の普通の理解では、人が何か(例えば「一株の花」)を認識することは、意識の鏡に対象としての「花」の姿が映ることとして形象される。前にも言ったように、この場合、主と客とは互いに他である。しかるに主と客とが共に自閉的であることを止めて、脱自的に己れを開いて互いに向き合う時、そこに面々相対する二つの明鏡に譬えられるような事態が生起する。禅的な表現では、これを「人、花を見る」↔「花、人を見る」という。ここでは人は確かに花を見ている。決して花も何も見ないのではない。だが、それが同時に、花が人を見ることでもあるのだ。互いに相手を映し合う二つの鏡の間には、いずれが主、いずれが客とも区別し難い一つの「幽なる」空間の限りない深みが開けていく。渺々として言葉にし難いこの「無心」的存在意識の風光を、宏智正覚禅師の『坐禅箴』が次のように、見事に描き出す。

 

 「・・事に触れずして知り(自分の外に客観的対象を見ることなくして認識し)、縁に対せずして照す(外境に対立することなくして、しかも了々と存在界を照明する)。事に触れずして知る、その知おのずから微なり。縁に対せずして照らす、その照おのずから妙なり。その知おのずから微、曾て分別(差別)の思なし。その照おのずから妙、曾て毫忽の兆なし。曾て分別の思なし、その知、偶なくして奇なり(対立するものはない)。曾て毫忽の兆なし、その照、取なくして了す。

   水清くして底に徹す、魚行いて遅遅たり。

   空闊くして涯(かぎ)りなし、鳥飛んで杳杳たり。」

  (仏仏要機、祖祖機要。)

不触事而知、不対縁而照。不触事而知、其知自微。不対縁而照、其照自妙。其知自微、曾無分別之思。其照自妙、曾無毫忽之兆。曾無分別之思、其知無偶而奇。曾無毫忽之兆、其照無取而了。水清徹底兮、魚行遅遅。空闊莫涯兮、鳥飛杳杳。

 

 宏智のこの『坐禅箴』をモデルとした道元の『坐禅箴』では、最後の二句が「水清くして地に徹す、魚行いて魚に似たり。空闊くして天に透る、鳥飛んで鳥の如し」となっている。無「自性」的に分節された魚は、魚であるよりも魚に似ているのであり、鳥は鳥のごとく飛ぶのである。

  (仏仏要機、祖祖機要。)

不思量而現、不回互而成。不思量而現、其現自親。不回互而成、其成自証。其現自親、曾無染汚。其成自証、曾無正偏。曾無染汚之親、其親無委而脱落。曾無正偏之証、其証無図而功夫。水清徹地兮、魚行似魚。空闊透天兮、鳥飛如鳥。

 

 「夫れ心月孤明にして、光、万象を呑む。光、境を照らすに非ず、境また存するに非ず。光境ともに亡ず。また是れ何物ぞ。」(盤山宝積)

 

   三 「我、花を見る」

 

 主・客対立的主体の構成する世界、と「無心」的主体に開示される世界と。上来、私はこれら二つの存在認識のあり方を対照的に、すなわち両者の根本的差違性に焦点を合わせつ恰も両者が互いに全く異質的であり、離絶しているかの如くに。しかしまた同時に私は、両者が実は互いに無関係なのではない、と云うことも、叙述の途中で、機会あるごとに示唆してきた。互いに無関係どころか、本当は、両者の間には、ほとんど相互同定的とも云うべき緊密な連関があるのだ。そのことは、「山は山」という単純な「自性」的同一律の次元から、「山は山にあらず」という矛盾命題の定立を経て、再び「山は山」の同一律に戻ることから見ても明らかであろう。全体を通して見れば、「自性」的同一律が、「自性」の撥無によって非「自性」的同一律となって現れるという、同一律の根本的な内的変質のプロセスに過ぎないのである。要するに、「無心」の視座が導入されることによって、主・客対立的認識構造自体が、意外な様相を呈示するに至る、と云うことでもあるのだ。以下、私は差違性から連関性に問題の中心を移しつつ、両認識次元がどういう形で結びついているかを考察し、次にそれに基づいて、本稿の題目とした禅意識のフィールド構造を解明する方向に論を進めたい。これまで、最初から、私は「フィールド」とか「フィールド構造」とか云う表現を何回も使ってきた。しかし、「フィールド」という語で自分が何を意味しようとしているのか、については、まだほとんど一言も説明していない。

 

 この目的を追求する為の分析操作として、私はここに佐藤通次(『仏教哲理』理想社1968年)によって案出された究めて有効な範式的表現法の使用を試みてみようと思う。周知のように佐藤氏は元来ドイツ語学・ドイツ文学の専門家であって、氏の提案による範式(フォーミュラ)が、仏教学の専門家や宗門の人々の間でどう評価されているのか、寡聞にして私は知らない。しかし、それはとにかく、私見による限り、氏の範式表記法は、他に類例を見ない、勝れたものである。但し、この範式を本稿のコンテクストで実際に借用するに当っては、必要に応じてかなり自由な形で細部を改変しなければならないであろう。さらに、記号表記の内的な読みそのものが、本稿でここまでに説明して来た私自身の禅に対する了解の仕方に終始することは言うまでもない。

 

 佐藤氏の範式も、日常的な感覚・知覚的認識主体の存在理解と、脱日常的な「悟り」の覚的主体の存在理解とを、一応、互いに根本的に異なる存在開顕の二つの地平として峻別し、前者をローマ字の小文字、後者を大文字で表記する。具体的に例示してみよう。

 今、私の目の前に一輪の花が咲いている。私はそれを見る、「我、花を見る」(因みに佐藤氏自身は「花」の代りに「これ」という代名詞を使う。その方が色々な点から見て正確度が高いし、便利でもあるけれども、ここでは私は前述の「南泉一株花」の公案に因んで「花」とする)。

 あの公案の僧のように、私は今、庭前に咲く花を見ている。この場合、「私」は感覚・知

覚的認識主体であり「花」は「私」の外に実在する客観的対象である。「私」と「花」とは、

ともにそれぞれ有「自性」的に独立して、互いに他である。前に詳しく説明した通り、両者

の関係は純然たる外的関係であって、内面的な結び付きではない。このような主・客対立的

認識状況を、範型的には全部小文字を使ってi see flowerという形で表記し(この際、英文

法の定冠詞、不定冠詞の別は一切考慮しない)、それをもう一段抽象化し一般化してs→oと

する。sはsubject「主体」、oはobject「客体」(対象)の略字。これに対して、大文字のI

SEE  FLOWERは、「無心」的認識の事態を表わす。すなわちⅠは「無心」的主体、あるい

は脱自的主体。SEEは「無心」的覚知(仏教的術語ではprajna「般若」の知)、すなわち前

述の「住する所なき心」(apratisthitam cittam)。FLOWERは、そのような心の非固着的働

きによって、無分節的に分節される存在の本源的形態としての「花」。「我、花を見る」とい

う認識経験の命題を、このようにi see flower―I SEE  FLOWER、小文字大文字二様の記号

で表記してみると、大文字の方が禅の特徴的見方を表していることは一見して明らかであ

ろう。しかしそれよりもっと特徴的なのは、小文字で表記された事態(i see flower)の裏側

には大文字表記の事態(I SEE  FLOWER)が伏在していること、と言うよりむしろ、i see

 flowerの全体を、I SEE  FLOWERのSEEが貫流していると云うことである。つまりSEE

を通じてi see flowerとI SEE  FLOWERとは密接に連関し、交流し合っているのである。

もっとも、前「無心」的な普通人の普通の認識経験としてのi see flowerの次元では、そこ

に働くSEEが経験の表面には全く現れていないのであるけれども。

 日常的、感覚知覚の奥に伏在して、全体の認識機構を支配しているこのSEEを、昔の禅者は「心」とか「心法(心のリアリティ)」とか呼んだ。臨済が言っている、「心法は無形、十方に通貫す。眼に在りては見と日い、耳に在りては聞と日い、鼻に在りては香を嗅ぎ、口に在りては談論し、手に在りては執促し、足に在りては運奔す。本、是れ一精明(もともと一つの無実体の自照性)、分れて六和合(六つの身体的知覚器官)となる」<心法無形通貫十方。在眼曰見。在耳曰聞。在鼻嗅香。在口談論。在手執捉。在足運奔。本是一精明。分為六和合>と。この「心法」を、根源的一心という意味で、臨済はまた「心地」とも呼ぶ。日く、「山僧が説法、什麽の法をか説く。心地の法を説く(説心地法)。便ち能く凡に入り聖に入り、浄に入り穢に入り、真に入り俗に入る」<山僧説法説什麼法。説心地法。便能入凡入聖。入浄入穢。入真入俗>。それ自体としては全く内的分析を持たないこの無差別の根源意識(「宇宙意識」とでもいうべき生命の創造力)は、あらゆる存在の次元に、限りない差別の世界を作り出しながら永遠、無始無終の自己分節を続けていく。「我、花を見る」(i see flower)が、このようなSEEの活鱍鱍地たる自己分節機能の現れの具体的な場所であることは言うまでもない。

 そして、もしi see flowerの全体を、こういう意味でのSEEが貫流しているとすれば、それは、当然、私が現に花を見ているという、このささやかな認識事態を構成する契機としての「我」(小文字のⅰ)の内部にも「花」(小文字のflower)の内部にも働いていると考えなくてはならない。すなわち、小文字の「我」の背後にはSEEがあり、小文字の「花」の背後にもSEEがある。このような姿において把握された「我」「花」は、日常的経験意識に現われる「我」「花」とは微妙に、しかし根本的に、違う。この違いを記号化するために、我々は(SEE→)iおよび(SEE→)fという表記法を使い、さらに抽象化を進めて、これを(SEE→)s→(SEE→)oとする。この場合、小文字の「エス」はsubject(主体)の略、「オウ」はobject(客体)の略。なお、SEEが括孤に入れてあるのは、日常的存在意識の次元ではSEEの働きが表面に顕われていない、つまりまだ気づかれていない、ことを表わす。括孤が取り払われ、SEEが顕在化すれば(すなわち覚知されれば)ⅰはⅠとなり、flowerはFLOWERとなる。この場合、FLOWERはflowerに対し、Ⅰはⅰに対してメタ記号的位置を占める。

 先に私は、禅意識の構造的展開過程の中間において、必然的に(無)矛盾的否定が起ることを指摘した。すなわちA=A(「山は山」あるいは「花は花」)がA=non-A(「山は山にあらず」あるいは、「花は花にあらず」)に転成するということ。今ここに導入した括弧づけのSEEは、まさにその事態を表示する。例えば(SEE→)fは、「花」がもはや「花」として自立自足できないということ、つまり「花」に「自性」喪失を表わす。「自性」的分節態であることを止めた「花」はもはや「花」ではない(A=non-A)。だが、それはまた、(SEE→)fという形で、つまり「自性」的には「花」であることを止めた非「自性」的「花」として、メタ記号的に、もとの同一律的形姿(A=A)に還帰するのである。

 第一次的な記号flowerに対してFLOWERがそれのメタ記号、同様にⅰに対してⅠがそれのメタ記号であるとすれば、第一次的な記号的事態i see flower全体に対してI SEE  FLOWERはメタ記号的事態を表わすということになろう。なお、ここで記号(的事態)というのは、例えば「花」という語が花という対象を同一律的に意味するという場合のように、コトバが、有「自性」的に分節され固定されたものやことを指示対象として持つような存在認識の次元を指す。これに対してメタ記号(的事態)とは、コトバが、言語本来の意味分節機能を越えて、上に述べたような形で第二次的に、非分節的に、働く場合を指す。(中略)

 

   四 時間軸と無時間軸との交叉点で

 法眼文益といえば、九世紀末から十世紀中葉に現われ、その著しい哲学性によって、禅思想史の流れを大きく変えた重要な人物だが、この人には世に知られた「三界唯心」と題する哲学的な頌があって、今我々が論題としつつあるSEEの構造に深く関わる思想がそこに述べられている。その大意は次の通り。「全宇宙がただ一つの心。存在するものは、ことごとく、ただ一つの識。全てはただ識のみであり、あらゆるものは一つの心である故にこそ、眼が様々な声を聞き取り、耳が様々な色を見分けることができるのだ。もし色が耳に入らぬようならば、どうして声が眼に触れることがあり得よう」。だがしかし、宇宙に遍満するこの「心」は涯しなく広漠として、限りなき可能性を内蔵する故に、たまたま色が眼に応じ。声が耳に応ずることもある。そんな時、「心」の深みから、耳が声に適応する時、一切の事物事象が分別され認知される。一切のものがこのようにして分別的に認知されないならば、どうして夢幻の如き存在の姿が現われてこよう。だがしかし、これらすべての山々、川、大地の中で、一体、何が変化し、何が変化しないのか」。

 「何が変化し、何が変化しないのか」という。変わるもの(存在の時間的秩序)と変らぬもの(存在の無時間的秩序)とが同時に、そして見分け難く融合して、成立するのだ。ここにSEEの具体的顕現様式の、一見奇妙な二重性がある。一瞬一瞬に遷流して止まぬ「事」的経験の世界と、永遠不易の「理」てき経験の世界とが、SEEの働きの中に同時現成する。記号的事態の中に、それを通じて、それと一体となって、メタ記号的事態が具体化する。言い換えれば、意識の時間軸と無時間軸とが交叉するところ、その都度その都度の「いま、ここ」の一点、がSEE現成の唯一のトポスなのである。

 無時間的現在(=現前)性と、フィジカルな時空的現象性。この二つが合致して同時に生起するところでなければ、SEEは絶対に具現しない。古来有名な禅の文句、詩歌、絵画などが、非常に多くの場合、まるで自然界の客観的描写であるかの如き観を呈するのはこの故である。禅の書物によく引かれて問題となり夾山善会の風景詩がその一例。

 

  猿は子を抱いて青嶂の後に帰り(猿抱子帰青嶂裏)

  鳥は草を衡んで碧巌の前に落つ(鳥銜華落碧巌前)

 

 この詩は、「如何なるか是れ夾山の境」という、ある人の質問に対する夾山禅師の答であることに注意する必要がある。この問いが、禅師が現に住んでいる夾山の風景を訊ねるのではないことは、禅の自己表現の形式に多少とも親しんでいる人にとっては自明のことである。夾山の山奥に隠棲している、あなたの現在の内的境位は如何なるものか、と問うているのだ。

 とはいえ、ここに描かれた自然は、決して内的境位のメタファではない。本当の自然描写である。ただ、その風景を観る禅師の目がSEEの目なのである。子を抱いて青嶂の奥に帰っていく猿も、花を嘴にくわえて碧巌の前に降りる鳥も、ここに描かれている全ての出来事を、この目は、存在の幽邃な無時間的事態の、時間的存在次元への「現前」として見ているのである。しかし、言葉の表面には、出来事の時間的、感覚的側面しか現われていない。先刻話題にした、哲学的思考の鋭さで、世に知られたあの法眼文益すら、夾山のこの詩について、迂闊にも、わしは三十年も長い間、これを自然描写だとばかり思ってきた(「我、三十年来、錯って境の会をなせり」)と告白しているほどである。いずれにしても、この種の自然描写の禅哲学的な意味は、それを意識フィールド内に正確に位置づけることによって始めて明らかになるであろう。だが、それは次節の主題であって、ここでは論じない。論述の現テクストにおいて、一番大切な点は、本節の最初から強調してきたこと、すなわち、先の臨済からの引用文で「心法」と呼ばれた「宇宙的自己」が、具体的な人間個人個人の個的自己を通じてのみ本来の機能を発揮できると云うことである。

 

  「心法、形無くして十方に通貫し、目前に現用す。」(心法、無形通貫十方、目前現用)

  「心法は無形、十方に通貫す。眼に在りては見と日い、耳に在りては聞と日い。」

   (心法無形、通貫十方、在眼曰見、在耳曰聞)

 

 要するに、先に使った範式的表示法で言うなら、主体的には(大文字の)Ⅰは(小文字の)iを通じてのみ働くという事であり、それに対応して客体的には、存在の無時間的事態は必ずフィジカルな時間的事態の形を取って現実化する、という事である。有名な龐居士(龐蘊)の言葉「好雪片片、別処に落ちず」(『碧巌録』第四十二則)がそれを見事に言い表わしている。

 「好雪片片不落別処」。降りしきる雪を見ながら龐居士が言う、素晴らしい雪、ひらひらと舞い下りつつ、しかもどこにも落ちはしない、と。しんしんと雪が降っている。外的自然の現象としては、確かに雪のひとひらひとひらが大地に向って落ちてくる。だが、前に詳しく説明したように、無時間的な「心」のメタ記号的風景としては、尽乾坤、白一色の世界、全宇宙が雪そのもの。全宇宙を挙げて雪であるような状況において、雪はどこにも落ちるべき場所をもたない。およそ動きは、いかなる動きであっても、ただ相対的な世界においてのみ起る。いわゆる参照軸の外在しない所で動きを云々する事は無意味である。それでもなお降る雪を考えると云うのであれば、すべての雪片が(つまり「心」そのものが)それら自身の場所(「心」)に向って落ちる、とでも言うほかはないだろう。「心」が「心」に向って落ちる、それは何ものも、どこにも落ちない、ということと同じである。だが、他面、現実の感性的経験としては、確かに雪は降っている。現実に地上に落ちていく雪の片々を別にしては、どこにも落ちない雪というものは現成し得ないのである。

 意識・存在のこの相互矛盾的二次元性を、龐居士はこの上もなく簡潔な形で表現している。すなわち、「好雪片片」の四字で時間的、感性的動の側面を、そして「不落別処」の四字で無時間的静の側面を。

 これと全く同性質の事態を、もっと丁寧に言い表わした別の例がある。黄龍慧南の言葉(『語録』続補)がそれである。日く、

  

  「春雨淋漓として、宵に連なり曙に徹す。点点無私にして、別処に落ちず。且らく道え、什麽の処にか落つ。自ら云く、汝の眼睛を滴破し、爾の鼻孔を浸爤す。」

 

 雪に代わって今度は降り続く春雨、ここでもまた降りしきる雨が「別処に落ちず」と言われている。その理論的根拠は、龐居士の「雪」の場合と全く同じ。SEEの開示する宇宙的石の地平では、全宇宙そのものが「雨」(大文字のRAIN)なのであって、それは何処にも落ちようがない。が同時に、もう一つの経験次元で、雨(小文字のrain)は、最も具体的に、個的人間の身体を濡らして降り注いでいる、という。無時間的「静」の次元だけではSEEは現成しない。時間的「動」の場において、それとの緊密な機能的連結において、はじめてSEEがそのフィールド性を全顕現するのである。

 

   五 禅意識のフィールド構造

 「心法無形、十方に通貫す」と臨済は言った。しかし、それ自体では全く無形(不可視、不可触)であるこの「心法」―上来、私はそれをSEEとして表記してきたーが、「十方に通貫」して働く場所は、個的人間の眼であり、耳であり、鼻、口、手、足などの身体的器官であった。すなわち、「無心」的主体(大文字のⅠ―それのそれの本源的機能性がSEEである)が現成する時、この主体は、有形・可視的な経験的主体(小文字のi)の具体性を通じて、それを通じてのみ、自己を機能的に顕現するのである。謂わば「無心」的主体が、「有心」的主体と協同して作り出す意識・存在的機能磁場がSEEである、とも考えられよう。

 だから、「無心」的主体とは、普通の意味では、主・客対立的認識機構における「主」という意味では、決して主体ではない。前にも言ったように、それは、経験的世界で働く主・客対立機構を、謂わばすっぽり包み込んで、それを上から(あるいは裏から)支配し、自由自在に操作する「何か」なのである。「棚頭に傀儡を弄するを看取せよ。抽牽都来、裏に人

あり」(看取棚頭弄傀儡、抽牽都来裏有人・舞台の上であやつり人形が様々に動作する、その動きをよく観察してみるがいい。人形たちが動くのは、みんな上から糸で引いている人が裏に居るのだ)と臨済は言う。「光影を弄する底の人、是れ諸仏の本源」(光影底人、是諸仏之本源)とも。臨済が、インド系仏教の形而上的匂いのする「心」「心法」の代りに、しばしば、より中国人的な「人(にん)」という語をSEEに当てたことは前にも書いた通りである。そういう非常に特殊な意味で、「無心」的主体(SEE)は主体(Ⅰ)なのである。

 そして、これもまた前に指摘したことだが、こうして「無心」的主体の全体的機能フィールドに取り込まれた主・客対立的主と客とは、ともに無「自性」されて、元々それらを経験的次元において根本的に特徴づけていた相互対立性を奪われ、「固着することなき心」(「無住性」)によって見られた「固着することなき(無「自性」的)主および客として、互いに限りなく柔軟な「無礙」状態に入る。この境位での主と客との、この柔軟な無礙性こそ、これから述べようとする「無心」的意識のフィールド構造成立を可能にするものである。なぜなら、無「自性」的に成立する主と、無「自性」的に成立する客とは、もはや実体的に対立する主・客ではなくて、互いに純粋機能的相互依存性において成立するーと言うより、それ自体が純粋機能性そのものであるようなー主と客であって、両者の相互流通を妨げる実体性は全然そこに存在していないからである。

 このような境位に立って見れば、我々が通常、最も具体的で最も原初的、と考えている「我」と「物」(主と客、認識主体と認識対象)は、実は、ある種の第二次的操作によって、存在経験の根源的所与から抽出されたものと謂わなければならない。原初的なのは、いわゆる現実ではない。本当に原初的なのは、いわゆる現実、すなわち感性的に認知可能な(つまり「自性」固着的な)実体的主・客に作り出す世界、の深層に伏在してフィジカルな経験の表面には現れない非「自性」的主・客の世界、すなわち主と客とがともに非固着的で、両者の間を分かつ分割線が微妙に流動的であるような、そんな意識・存在の全体的領野なのである。この全体領域が、能動的部分領域と受動的部分領域とに分割され、それぞれが自立する実体として把握される時、そこにいわゆる主・客が生起する。

 であるから、逆に言うと、表面的には自立して、互いに他者として対立する主・客も、深層においては、それぞれがSEEの全領域の自己顕示(「全機独露」)なのである。両者いずれも同じSEEの全体を挙げての顕現形態である故に、両者は互いに流通し合う。

 今、この特殊な事態を、「私は此れを見る」という単純な命題を例として、その内部構造を、先に導入した範式で表記してみよう。これを普通の認識経験の命題だとすれば、全部小文字でI see thisと表記されるわけであるが、現に問題としている「無心」的主体の活躍する次元では、当然、全部大文字のI SEE THISに変る。この場合、I SEE THISは無分節的SEEが、無「自性」的に自己分節することによって展開する機能フィールドを表わす。従って主体Ⅰも、客体THISも、ともに同じI SEE THIS全体を内に含み、それぞれがそれぞれの形での全フィールドの顕現である。すなわち、Ⅰは実はI(=I SEE THIS)であり、THISは(I SEE THIS=)THISである。

 だから、この境位で私が「私」と言う時、勿論、「私」という語は経験的主体としての「私」(小文字のi)を意味しない。私がここで意味するのは、I SEE THIS全領域そっくりそのままの、自己収約滴現実化としての私(大文字のⅠ)である。確かに、それは現に「私」として顕現し機能してはいる。だがこの「私」は、共通のフィールドであるI SEE THISを通じていつでも自由に、たちどころに「此れ」(THIS)に転成し得るだけの内的能力を具えた「私」なのである。

 

 この「無心」的主体・客体の著しくダイナミックな相関性を次の説話が明快な形で提示す

る。説話の主人公は、中国禅思想史の黄金時代を代表する禅匠、馬祖道一(709―788)

と百丈懐海(720―814)の二人。後に禅界の最高峰の一人となる百丈は、この時点で

はまだ馬祖に師事する若者としては登場する。この説話は公案史の上でも極めて重要な位

置を占める有名なもので、『碧巌録』では「百丈野鴨子」(第五十三則)と題して古来多くの

人々に親しまれてきた。『馬祖語録』にも、(百丈惟政、政上座、を主人公として)ほとんど

同じ形で記録されている。

 

  馬大師、百丈と行く次(ついで)、野鴨子の飛び過ぐるを見る。

  大師云く、是れ什麽(なん)ぞ。(『語録』所載のテクストには「大師問う、身辺什麽物

 ぞ」今、すぐそこに居たのは何物だ、とある。この種の問いは、禅の慣習としては、眼前

 に現在する事物の「何」<小文字>を問うことを通じて、SEEそのものの「何」<大文字>を指向する。百丈は、無論、それに気づかない。)

  丈云く、野鴨子。

  大師云く、什麽処(いずこ)に去るや。

  丈云く、飛び過ぎ去れり。

  大師、遂に百丈の鼻頭を扭(ねじ)る(いきなり鼻をつかんでねじり上げた)。丈、忍  痛の声を作す。

  大師云く、何ぞ曾て飛び去らん(全然、飛び去ってなんかいないではないか。『語録』「猶お這裏に在り、何ぞ曾て飛び過ぎん」)。ここに至って、百丈は豁然として大悟した、と伝えられる。

 

 この説話の第一の中心点は自分のすぐ側を野鴨が飛び去るのを眺めている年若い百丈である。この時の彼の見ている野鴨は、それを見ている彼とは独立に存立している一個の客体。我々の使ってきた表記法では小文字で書かれるべき野鴨、すなわち「自性」固着的な認識対象であって、見ている百丈も、当然、「自性」固着的な、(小文字)の「我」でなければならない。だが彼は馬祖に鼻を扭り上げられて痛いと感じた瞬間、忽然として、野鴨が彼の「心」から独立の存立している有「自性」的対象ではなかったことに気づく。空の彼方に飛び去ったものと思っていた野鴨が、実はまだ彼の元に居ること、いや、彼の「自己」そのものであったこと、をかれは悟る。

 全体的意識・存在フィールドの客体的側面(それを野鴨が具現する)が、突然、同じ意識・存在フィールの主体的側面(百丈自身がそれを具現する)の方に急傾斜し、客が主に転向する体験的現場を、この説話は生々と描いている。全体的フィールドのダイナミクスが、ここに如実に提示される。

 勿論この主・客転換が、これとは全く逆方向を取ることも有り得る。すなわちフィールドの強調点(現成点)が、主から客に移る場合だ。世に知られた趙州「庭前の柏樹子」の公案がそれの典型的な例。この公案は、今読んだ「野鴨子」よりもっと有名である。但し「野鴨子」と違って、この場合は、主体から客体への転向の動的プロセスについては一切語られていない。ただ転向の結果だけが投げ出されている。あるいは、始めから転向など全くなく、じかに客体が現成したのだとも考えることが出来よう。但しこの場合でも、本来なら主体としても現成し得るものがここでは特に客体として現成したという事ではある。とにかくI SEE THISという全フィールドが、THISの一点となって我々の眼前に屹立するのである。

 

  「趙州、因みに僧問う、如何なるか是れ祖師西来意。

   州云く、庭前の柏樹子。」(『無門関』第三十七則)

 

 ある時、ある僧が趙州に問いかける、「如何是祖師西来意」と。禅の始祖達磨がインドから中国へやって来たことの真意は、というこの問い、禅のレトリックに多少とも親しんでいる人なら、これが、禅の真精神は何かという意味の質問であることを知っている。それに対して趙州はただ一言、「庭前柏樹子」と答える。『無門関』所載の公案としてはこれで全てがおしまいだが、『趙州録』のテクストでは、これに続きがあって、この答を得た僧は趙州に抗議して言う、「和尚、境を将って人に示すなかれ」(そんな外界の事物を持ち出して誤魔化すなかれ)と。その続き、「師云く、我、境を将って人に示さず。(僧)云く、如何なるか是れ祖師西来の意(と同じ質問を繰り返す)。師云く、庭前の柏樹子(と同じ答を繰り返す)。

 この説話の内的メカニズムは、前の「野鴨子」のそれと全く同じ。それと違うところは、フィールド全体に充満する創造的生命のエネルギーが正反対の方向、つまり客体性の方向に傾き流れているだけのこと。「我、境を将って示さず」という趙州の発言は、この点について誠に示唆的だ。「境」とは外的自然界の事物という事であるから。すなわち、この発言は、趙州の意味する「柏樹」が、決して自然界の(「自性」固着的)柏の樹ではない事を明示する。この「柏樹」の中には同じフィールドの主体性の側面(非「自性」固着的な「我」)が内部構造的に組み込まれているのだ。「野鴨」の場合には、全フィールド(I SEE THIS)が、「我」の側に凝集して現われていた、I(=I SEE THIS)という形で。趙州の「柏樹子」のおいては、同じフィールド(I SEE THIS)に遍満するエネルギーがTHISの側に、(I SEE THIS=)THISという形で凝集して現われている。やや誇張した言い方をするなら、この「柏樹」は、宇宙的柏樹なのであり、それの永遠・無時間的現在・現前が、時間的、現象的次元で、「いま、ここ」に、具体的な形で具現しているのである。華厳哲学的には、まさに「理事無礙」の境位、「一塵飛んで、無限の空全体が曇り、一塵落ちて、全大地が覆われり」(牛頭法融)という次第である。

 

 以上の考察によって我々は、禅思想においては意識・存在のリアリティが、動的で伸縮自由な一種のフィールドとして考想されていることを知る。「主体」「客体」を二つの磁極とし、両者の間に流れる意識・存在的緊張のエネルギーの振幅の内に自ずから形成される不可視のフィールド。

 このフィールドの両極をなす「主体」「客体」が、普通の意味での主・客ではなく、一方は全フィールド(I SEE THIS)を挙げての「我」であり、他方もまた全フィールド(I SEE THIS)を挙げての「此れ」であることは、すでに明らかであろう。両極のいずれの側にエネルギーが流れようとも、フィールドそれ自身には何の加増も欠少も起らない。ただ、両極

間のバランスの、その都度生起し現成する具体的な場所が、純粋主体性の極点から純粋客体性の極点まで、フィールド全体を通して絶えず動いているだけの事である。この内的可動性が、フィールドに、四つの主要な現成形態を与える。

 

 意識・存在フィールにとっての四つの主要な現成形態、それを定型化し、体系化したものに、古来、臨済の「四料簡」として知られるものがある。「四料簡」とは、物事を判定的に分類するための四つの基準というような意味。この名称は『臨済録』の中には見出されないので、臨済自身の命名か否かは定かでないが、思想内容そのものは、この上もなく明晰な形でテクスト上に打ち出されている。日く、

 

  有る時は奪人不奪境。

  有る時は奪境不奪人。

  有る時は人境俱奪。

  有る時は人境俱不奪。

 

 これらは、SEEの「全機」発現の四つの基本型、言い換えれば、「無心」的主体が「有心」的主・客対立の現場を借りて作り出す意識・存在フィールドの四つの基本的な機能形態である。第一の「奪人不奪境」は全フィールドが客体(「境」)になりきってしまって主体(人)が完全に姿を消してしまう場合、第二の「奪境不奪人」は勿論それの正反対で、全フィールドの力がそっくり「人」の方に移ってしまった場合。第三の「人境俱奪」は「人」も「境」も共にその顕現性を消去されて、全フィールドが謂わば空無の場所と化して現われている場合。第四の「人境俱不奪」は、主と客とが共に、並んで現われている場合。「人」(主)「境」(客)を両極とするこれら四つの基本的な全体全体発現形態の力動的な相互関係のうちに、意識・存在フィールドの根源的柔軟性が看取される。

 「四料簡」の意味については、師家が己れの指導下にある学人の境位の深度を計る基準であるとか、師家が学人を悟りにまで導いていく為の四つの手段であるとか、云う説がかなり広く行われて来たが、私は取らない。勿論、第二次的にそういう実践上の目的でも使われて来たであろう事は否定しないけれども、とにかく第一次的には、「四料簡」の四項の間に段階的な差異が有るというような事は、到底信じられない。

 「四料簡」を、上述の如く、SEEの全機発現の基本型として考察する時、禅の問題とする意識・存在の「メタ記号的次元」×「記号的次元」的フィールド構造は、およそ次のような体系的叙述を許すであろう、と思う。ここでは、上記臨済自身の「四料簡」の順序を崩し、「人境俱奪」を出発点とする。あくまで叙述の便宜上の事であって、いわゆる「主客未分」とか「無」とか云う境位に優先的あるいは支配的位置を与えるわけではない。

 

 ➀「人境俱奪」 フィールド全体がそのまま安全な安定性を得て、しかも何処にも特に目立つ中心点がない場合。フィールドがその全体を挙げて絶対普遍的な自照性と化す。「光、境を照すに非ず、境また存するに非ず。光境俱に亡ず。また是れ何物ぞ」(盤山宝積)。主・客が無くなってしまうと云うのではない。ただ「我」(Ⅰ)も「此れ」(THIS)も、ともに意識・存在フィールドの表面には姿を見せないと云うこと。I SEE THISが、そういう形で自己否定的に自己顕現しているのだ。禅はこの状態を指して「無」「無一物」などと云う。「廓然として一物も無し、光明十方を照らす」(葉県帰省)。

 

 ➁「奪境不奪人」 今述べた「人境俱奪」は無の世界。微動だにするものなく、永遠の静謐が支配していた。だが、時とすると、この無と沈黙のただ中から、忽然として眩いばかりの「我」の意識が生起してくる。今まで全フィールドを満遍なく満たしていた生命エネルギーが、静から動の状態に転じつつ、フィールドの主体的側面に向って奔出する。フィールドは、またその全体を挙げて「主体」となり、それまであらゆる所に拡散していたエネルギーは、了々自照する「我」の一点に凝縮する。全宇宙、悉く「我」。他の何物も視界にはない。「百丈、独坐大雄峯」。高々たる孤峯頂上に全身を現わす「我」である。この時、人は「万法と侶(とも)ならざるもの」であって、「箇箇、壁立千仭」、何人も何物もこれに寄りつくことは出来ない。

 

➂「奪人不奪人」 ある時は反対に、全フィールドに遍満するエネルギーが「客体」的側面に流集し、孤立する個体の形を取って現われる。前述、趙州の「庭前柏樹子」はその典型的な例。「人」は表面から完全に姿を消し、全フィールドが「境」だけとなる。またその同じ「境」が、個物の形に凝縮する代わりに、広大な自然の風景となって展開することも、しばしば、ある。第四節において、論及する所のあった夾山善会の詩句、「猿は子を抱いて・・」は、まさしくその一例である。

 禅にはこの種の自然描写が多い。このような自然描写は、単なる自然描写ではない。勿論、第一義的には自然の風景を描いてはいる。が、同時に、表には見えない形で、「心」を描いてもいる。I SEE THISの「客体」極であるTHISしか表面に現われていないので、恰も純客観的な外的自然の描写のように見えはするが、実はそのTHISが全フィールド(I SEE THIS)の挙体顕現である故に、当然「主体」極としての「我」(Ⅰ)もそこに在るのだ。「秋深く天気爽か、万象ともに沈沈、月塋(あきらか)にして池塘は静か、風清く松檜陰(かげ)る」<秋深天気爽。万象共沈沈。月瑩池塘静。風清松檜陰>という、表面的には自然の事物事象の列挙に過ぎないかの如く見える言句に対して、圜悟克勤が、「頭頭(これらの物の一つひとつ)外物に非ず、一一本来心なり」<頭頭非外物。一一本来心>(『圜悟語録』八)と言っていることを見ても、そのことは明白である。ここで圜悟の謂わゆる「本来心」が何を意味するかは、言わずして明らかであろう。

 これと全く同じことを、もっと遥かに詩的な風景描写について、環渓惟一(南宋末期の禅匠)が述べている。「秋風地を捲き、秋水天に連なる。千山影痩せ、万木背負う善䔥然たり。魚笛数声江上の月、撨歌一曲嶺頭の烟―諸人、恁麽の告報を聞いて、切に忌む、境の話の会をなすことを(これを外的自然の描写だと理解しては、絶対に、いけない)。既に境の会をなさず、畢竟、作麽生か会せん。仏身法界に充満して、普く一切衆生の前に現ず」。要するに「心境一致」なのであって、単なる「境」ではないと云うこと。ただ、その「心境一如」(SEE=I SEE THIS)的フィールドの現成形態としては、「心」を消し、「境」のみとして現われている、と云うことなのである。

 

➃「人境俱不奪」 フィールド全体のバランスが、「主体」極にも「客体」極にも傾くことなく、しかも両者それぞれの本来の位置を占めて間然顕現する状態、それが「人境俱不奪」である。すなわちI SEE THISの両極であるIとTHISとが、全く同じ重みをもって表面に現われている。顕在化したこのI SEE THISをI see thisと誤読すれば、「もとの日常底」に還帰した、ということになろう。それがいわゆる「柳は緑、花は紅」の世界である。

 

この世界には「我」が居る、「我」に対面する「此れ」もある。だが内部構造的には、それが普通の主・客対立ではなくて、最初に述べた通り、主・客対立を包み込んだ「無心」的主体の自己顕現なのである。「如何なるか是れ祖師西来の意」(例によって例の如き問い)と質問された虚堂智愚(きどうちぐ)が答えて言った。「山深くして過客無く、終日猿の啼くを聴く」―深山‘の庵を訪れて来る客とてなく、ただ私は終日猿の啼く声を聴いている、と。ここに浮び上ってくる「主体」と「客体」とが、「尽大地是れ汝が自己」(雪峰義存)、「尽十方世界是れ爾の心」(長沙景岑)、「山河大地日月星辰、総べて汝の心を出でず。三千世界は都来(すべて)是れ汝が箇の自己なり」(黄檗希運)などという場合の我であり自然であることは言うまでもない。

この種の我と此の種の自然との、全フィールド顕現的対面は、例えば雪竇重顕の「春山乱青を畳み、春水虚碧を漾(ただよ)わす。寥寥たる天地の間、(我)独り立ちて望む、何んぞ極まらん」というような極度に詩的な形象で描かれる場合が非常に多い。が、それとは正反対に、「私は花を見る」の如く日常的な形で現われることも少なくない。要するに、I SEE THISの自己表現としては、どちらの形も内容的に全く同じことなのである。

 

以上、臨済の「四料簡」を略述した。「無心」的主体の拓く意識・存在の全領域は、これら四つの基本的顕現形態の間を自由に移行しつつ、その都度その都度の「いま、ここ」に現成する。四つのうちのどの形を取って現われようとも、同じ一つのSEEがそこにある。「法身は無相(SEEそのものには決まった一つの形があるわけではない)物に応じて形(あら)わる。般若は無知(無心的主体性の知―I SEE―は、それ自体の固着的対象をもっているわけではない)縁に対して照らす。青青たる翠竹、鬱鬱たる黄花、手に信(まか)せて拈じ来れば、随所に顕現す青青翠竹<鬱鬱黄花信手拈来、随処顕現>(『宏智広録』五「大正蔵」四八・七一b一八)。表面に現われているものが、「我れ、此れを見る」であっても、「我」だけであっても、「此れ」だけであっても、いや、そこに「我」も「此れ」も無くとも、全ては「随処に顕現」する「無心」的主体性の姿なのである。「無心」的主体性の、このようなあり方を、私はそれの「フィールド構造」と呼ぶ。

禅的意識。存在のこのフィールド性を、生きた生身の人間を通じて働くそれの機能現場で捉えて、臨済は「人」という形でイマージュ化した。「人(にん)」、より詳しくは、「無位の真人(しんにん)」。

 

「赤肉団上に一無位の真人有り。常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は、看よ看よ。」<赤肉団上有一無位真人。常従汝等諸人面門出入。未証拠者看看>(「大正蔵」四七・四九六c一〇)

 

「真人」が「無位」であると言われていることについては、今さら多言を必要としないであろう。それ自体は絶対無限定(無固着的)であるSEEの、フィールド的自由無礙な柔軟性を、それは意味している。

なお、この引用箇所における「真人」の描写を見て、人はよく「内なる人」を云々したり、『新訳』のパウロ的体験を引き合いに出したりするが、勿論、それは比喩的イマージュとしてのみ正しいのであって、臨済の真意は、我々のこの身心的からだ(赤肉団)の中にもう一人の霊的、あるいは純精神的な人が宿って居て、それが我々の身心機能を支配している、と云うようなことでは決してない。ただ、「内面的人間」と云うこの比喩的イマージュの長所は、それによってSEEが実際に機能するのは必ず具体的個別人間(この人)に於てである、と云う事をよく示唆する処にある。この一事を別にすれば、「無位の真人」は、前に引用した、同じ臨済の文章に出て来る(より抽象的、より形而上学的な)「心法」と聊かも異なる所はない。「心法無法、通貫十方。在眼曰見、在耳曰聞、在鼻嗅香、在口談論、在手執捉、在足運奔。本是一精明、分為六和合」。「心法」は個々人の感覚器官を通じてのみ具体的に機能する。それが、「人(にん)」的メタファ系統の言説では、「常に汝等諸人の面門より出入」する「無位の真人」として形象化されるのである。

臨済の「人」は、「無心」的主体性の開示する意識・存在リアリティのフィールド構造が、個々の人間を通じて実存体験的に生きられなければ、ならないと云う事を強調する。

                      

(『思想』一九八八年八月)

 

これは筆者が井筒論文と禅との聯関について改めて考究し、自身暖皮にも少なからずに井筒氏筆致の薫習を体現すべくに公開するものであり、一部修訂を加えた。(タイ国にて・二谷)

 

公案を通じての思考と非思考 井筒俊彦

公案を通じての思考と非思考

井筒俊彦

 

一 思考に対する不信

 

 これまで度々「公案」について言及して来たが、しかしその言葉の体系的な説明はまだ与えていなかった。公案とはどんな類のものなのか、そしてそれは如何に正しく扱われるべきかと云う正確な知識なしに、禅のリアリティは理解され得ないと云う観点から、私は本章で、公案の本質的構造と、禅の文脈でのよく知られた実際の使用について解明を試みようと思う。とりわけて扱う問題は、禅が伝統的に理解して来た瞑想と知的思考との間の関係に関してである。最初に断っておくと、「知的思考」と云う言葉は、ここでは思考力の活動あるいは論証的知性の弁別機能の意味で使われる。そう理解するなら、問題が提出されるや否や、答えー唯一の与えられるべき正しいと思われる答えーが、すぐに見つかるかのようである。と云うのも、実践的であれ理論的であれ、禅に関する何らかの知識を持つ者は皆、瞑想と知的思考と云う二つの用語が絶対に両立し難いものだと云う事に疑う事なく同意するからである。

 事実、禅は、心の中に絶えず生じて飛び回り、心の平静を乱すような乱雑な思考と観念の形態は言うまでもなく、知性主義、言語表現主義。概念主義の形態をすべて蔑視する。ただ、「師」すなわち、すでに達した者が、心的な空白と沈黙の状態に留まると云う訳ではない。全く逆である。彼らは、思考機能の完全な所有状態にあり、それを彼らは自由に自発的に行使するのである。換言すれば、彼らもまた、ある意味で、思考するのだ。しかしながら注意すべきは、彼らの思考は、私たちが日常的環境で親しんでいる物とは全く異なる意識の別のレベルで、完全に異なる形態で展開すると云う事である。問題のこの側面については後ほど扱う事にしたい。「弟子」すなわち、まだ悟りに達していない者に関しては、彼らは師から、思考する事を厳格に禁じられている。真剣に考えれば考えるほど最終的な「突破」を体験するのは絶望的になる、と彼らは教えられている。瞑想と云う禅の修行の最初の一歩は、弟子の心に深く根ざしている思考の、慣習的なパターンをすべて心から消し去る事である。

 従って、自我の固有領域において、十分に有効で確固たる物であろうデカルト的な「コギトcogito」は、禅の観点からすると、私たちを直接的に、人間実存のリアリティ覚知へと導く者からは遠く隔たっている。逆にコギトは、実存に関するあらゆる錯覚の根源そのものと考えられている。コギトは、私たちを本当にあるがままのリアリティの、直接無媒介的把握から遠くへ導く障礙なのである。

 

 一般的に、理性的推論あるいは思考への、根深く根絶不可能な不信が禅には内在している。禅は疑惑の眼を以て哲学を見、哲学を知性の弁別機能の典型的な例と見做す。知的思考に対するこの否定的態度は、禅にとって問題となるものが、第一に、あるいは専ら、初源的な非差異状態にあるリアリティの直接体験なのだと云う事によって、容易に説明できるように思われる。それは、禅の術語では、しばしば「両親が生まれる以前の自分の本来の<顔>」〈父母未生以前本来の面目〉と呼ばれている。「本来の<顔>」の純粋性は、論証的知性の差異化し弁別する活動によって穢されている。それゆえ、あらゆる種類の抽象的・理論的思考を生来的に嫌うのである。

 さらには、抽象的思考、とりわけ哲学に対する禅の不信には、歴史的な基礎がある。歴史的に禅は、インドと中国で発展してきた大乗哲学の膨大な体系に対する、激しい反動として中国で起こったものである。その大乗哲学の膨大な体系において、仏教思想家たちは極めて複雑で、亦しばしば些末な抽象的議論に没頭していたのであった。それらの議論を単純に論証的知性の無駄な足手まといに他ならないと見做す禅は、哲学的思考の巨大な諸体系を閉め出すこと、そして仏教を、最も単純で、最も根源的な形態、謂わば、禅の観点では、歴史的な仏陀自身の根本的・個人的体験であるものへと引き戻そうとする事によって始まった。この態度は、時代を通じて完全な形で保たれて来たし、反知性主義は常に、中国であっても日本であっても、すべての禅の教えの核心であり続けてきた。

 禅者は、仏教のあらゆる歴史的形態を、仏陀自身の悟り体験へと還元し、その元来の形態において再体験し、知性の限界を越えた処にある、魂の領域における精神的、生の深みに垂直に降下する事を目指す。禅者が修行において、また原則的に、禅の教えの中心部分の理解において、如何なる知性の使用にも反対しなければならない事は、ごく当然のことであろう。『法華経』には、次のような一節がある。「この(ダルマDharma〈法〉)は、思考と知性の行使を通じて理解されるべきではない」。禅者にとって、これはまだ控え目な表現である。より積極的に、方法的・体系的に、一切の知的思考が排除されなければならない。如何に微細な形であろうとも、知性が活動しているままである限り、仏陀本来の悟り体験を、再体験する事は決して望めないのである。それ以外で有り得ないことは、禅が仏陀本来の体験と見做すものとは、第一に、超意識の次元への覚醒、あるいは知性の弁別活動を通じて、多様な事物・事象へ分節される事に先立つ、純粋な「ありのまま」での〈存在〉の存在論的覚知である事から明らかだ。

 

 事実、中国で禅が興って以来、禅師たちは皆、絶え間なく、思考の徹底的な放棄を、弟子たちに要求してきた。絶対に考えるな! 何も理解しようとしてはならない。理解されるべきものは何もないのだ。思考する代わりに、それでは弟子たちは、悟りに達する為に何をすべきなのか。内面的な集中力の全体を、絶えず押し寄せる思考の波に対して戦う事に、そして最終的には、すべてのイメージ、観念、概念を自分の意識から消し去る事に、集中させなければならない。ただその時にのみ、心の最深底において開かれた、魂の全面的に新しい領域に立ち会う事が出来るにだ、と弟子は言いつけられる。

 半ば伝説的な中国禅の初祖、菩提達磨は、中国の後継者である慧可(487―593)に、絶対的な〈リアリティ〉の領域(道)に入るには、どうしたら良いのかと尋ねられた時、次のように述べたと言われている。

 

 外に諸縁を息(や)み

 内心に喘ぐこと無く

 心牆壁の如くして 

 以て道に入る可し

  (外界における動揺はもはやなく、

   内面的に心の動揺はもはやなく、

   心が直立した壁のようになるとき、

   ただその時のみ、〈リアリティ〉の領域に入ることができる。)

 

 これは、瞑想修行への強い勧告に他ならない。菩提達磨はここで彼の将来の後継者に、心が直立した岩壁のように転成した、動ずる事のない瞑想を通じての、魂の修行の絶対的な必要性を力説している。

 因みに菩提達磨は、伝説によると、湖南地方の少林寺に隠居して、洞窟の中で、高い岩壁に向かい合って坐り、九年間続けて瞑想したと云う。それはともかく、禅が、最初からまた常に、瞑想に基づく、そして瞑想以外のものでないような一宗教―もしそのようなものを「宗教」と名づけるならーであり続けた事は明らかである。禅における瞑想修行は、坐禅と呼ばれるものであり、それはすなわち、ディヤーナdhyana〔禅定〕あるいは瞑想の状態で坐ることである。より具体的には、坐禅とは、心の深い一点集中状態で、蓮華坐もしくは半蓮華坐で坐る事を意味する。

 一言加えれば、瞑想そのものは、少なくともある程度、ほとんどの宗教において観察され得る共通の現象である。また、仏教の宗派で瞑想修行を免ずるものは一つもない。だが、仏教の禅宗を特徴づけるのは、その歴史的起源と基礎的構造との両者において、全面的に瞑想に基づく宗教であるということである。菩提達磨の言葉に私たちが丁度見たように、禅者の第一の、あるいは唯一のとも言える関心とは、「絶対的な<リアリティ>の領域に入る」ことであり、、そして絶対的な<リアリティ>の領域に入る事は、瞑想状態で坐る事を通じてのみ現成可能なのである。禅の観点から見れば、私たちは一歩先に進んで、瞑想状態で坐る事が絶対的な<リアリティ>の領域に入ることであると言わなければならない。この意味は後ほど、十三世紀の創始者道元に代表される日本の曹洞禅の立場を論議する際に明確になるだろう。そうすると問題は、インドのヨーガの多様な体系から禅を区別するものは一体何なのか、と云う点におのずからなって来るだろう。この事は、中国と日本における歴史過程で発展して来た禅の瞑想テクニックの特徴について後に説明する際に明らかになるだろう。今しばらくは、禅の反知性主義的側面への注目に専念して見よう。

 

   二 論証的思考の排除

 

 興味深いことに、禅者たち自身が何らかの「哲学」として、禅を理解する事を嫌うにも拘らず、禅の、この反知性主義の背景には、明確に描かれた哲学がある。いずれにせよ、それは、形而上学的で心理学的な基礎的観念であり、また語の通常の理解での「哲学」ではないにも拘らず、形而上学深層心理学の巨大なスケールの体系へと発展し、作り上げられ得るような基礎的観念である。この基礎的な観念あるいはヴィジョンは、これから見るように、禅の修行と思想の構造全体の根底にあるのだが、それは初祖菩提達磨に帰せられる有名な詩句の中で最初期の明確な公式が与えられている。また菩提達磨は、この句において、中国における禅宗の基礎の最初の宣言をしたと言われている。その詩句の後半は次の通りである。

 

  直指人心 (直接の<心>を指し示す。

  見性成仏 己の<性>に見入ることで<仏性>に達する。)

 

 この二行が示す考えは次の通りである。すなわち、人間各々の実存的深みには、術語的に<性(しょう)>―<仏性>とも呼ばれるーとして知られているヌーメノンnoumenon<叡智によって知られるもの>が隠されたままになって居り、その突然の実現こそが、仏性に達すること、つまり、悟りあるいは仏教的意味での覚醒に他ならないと云うことである。<性>は、あらゆる現象の究極的土台としてのヌーメノンである。それは、<存在>そのものの形而上学的深奥であり、一切事物の<一性Unity>である。ここでの「一性Unity」という語は、多数の事物を一つの場所に「統一する」という意味ではなく、初源的な無差異、すなわち自我存在者と客体世界とへ二分される以前の一切事物の形而上学的<基礎>―「両親が生れる以前の自分の本来の<顔>」―という意味である。

 このような場合に、私たちが、各々の実存的深みに隠れたままでいる<性>を語ることが出来るのではない。それは、<存在>世界全体に浸透し行き渡っている。それは、超個体的なのだ。しかし、このヌーメノンについて興味深いことは、ただ具体的な個別の事物においてしか「実在exist」(あるいは「出=在ex-ist」)出来ないと云うことであり、具体的な個人の意識においてしか実現され得ないものであると云うことである。個人各々は、この意味で二重人格者である。人は同時に、個人であり、超個人である。すなわち、狭い個人的な境界を無限に乗り越えていく宇宙的な実在エネルギーが集中する個的な一点として、人は実在しているのである。しかしながら、通常、人はこの事に気づかない。つまり、今ここでの彼自身の肉体の中の超個人的なヌーメノンについての覚知は彼の内にはないのである。この実現は思考によって妨害されているのだ。ほんのわずかな論証的知性の活動でさえも、初源の<非差異体>の直接無媒介的把握を全く不可能なものにしてしまう。と云うのも、論証的知性が機能し出す瞬間に、<非差異体>は必然的に差異化されてしまうからだ。ヌーメノンは、現象に転じる。「私」つまり経験的自我は、外界に対立して立っている分離した存在者としての「私」の意識になり、「私」と「非私」の結果的な二元論が割り込んできて、根源的な無差異を汚染するのである。

 

 思考を経ることで、根源的な無差異から差異化へと微(かす)かに移行するその様をよりよく描いているものは、『臨済録』の有名な一段をおいて他にない。唐の傑出した禅師、臨済(―866)は、その中で「無位の真人」と呼ぶものを描写している。「無位」―それは謂わば、境界設定が無い事である。これは、菩提達磨が<性>と<心>として、上に引用した句で示したものに対する典型的な中国的表現である。興味深いことに、菩提達磨の句に於ては抽象的観念の形態で現われたものを、臨済は生気漲る実に生き生きした人間の形で提示している。つまり、経験的自我に限定されるのではなく、経験的自我の中で、経験的自我を通じて己を顕現させる<真人>として提示しているのである。その段落は次の通りである。

 

 上堂して言った、「この肉体には無位の真人がいて、常にお前たちの顔から出入りして居る。まだこれを見届けて居ない者は、見ろ、見ろ」。その時、一人の僧が進み出て問うた、「その無位の真人とは、一体何者ですか」。師は席を下りて、僧の胸倉を掴んで言った、「さっさと言え!言え!」僧はもたついた。師は僧を突き飛ばし、「何と見事なカチカチの糞の棒だ!」と云うと、そのまま居間に帰った。<上堂云。赤肉団上有一無位真人。常従汝等諸人面門出入。未証拠者看看。時有僧出問。如何是無位真人。師下禅床把住云。道道。其僧擬議。師托開云。無位真人是什麼乾屎橛。便帰方丈>(「大正蔵」四七・四九六c一二)

 

 一瞬、僧は縮み上がるか躊躇した。彼は師の暴力的な促しに対し、適切な答えをする為に、一瞬自省した。これが論証的思考が活動した瞬間だったのだ。その瞬間に、無位の<真人>は使い物にならない乾屎橛に変ってしまった事に注目すべきである。

 

 如何なる形態で現れようとも、理性的推論あるいは思考は常に、何かの意識となる「私」(自我存在者)を含んでいる。それは、「・・の意識」の基礎構造の内にある。考える自我と考えられる対象とは互いに分離している。両者は、相対して立っている。「・・の意識」は二元論である。だが、何よりも禅が関わっているものは、「・・の意識」ではなくして、純粋で単純な「意識」の現成である。言語形態では似ているものの、「純粋で単純な意識」と「・・の意識」とは別物の世界である。前者は、考える主体がなく、また考えられる対象がない、絶対的・形而上学的<覚知>である。それは私たちの「外界」についての覚知ではない。むしろそれは、私たちの中で、私たちを通じて己を覚知するようになる<存在>世界全体である。そして、菩提達磨が<心>や<性>の語でもって、また臨済が無位の<真人>という特異な表現で言及しているのは、この<存在>の形而上学的覚知についてなのである。ここで問われている形而上学的な状態は、純粋な主体性として解釈されるかも知れない。それはまた、純粋な客体性としても解釈され得る。実の所、それは主体性と客体性両者の上に、両者を越えてある。しかしその形而上学的状態は、絶対的な<主体>の形態と現象的事物の形態とに於いて、如何なる瞬間にも、それ自身を実現しようとしている状態である。何故禅がすべての思考形態」を、悟りへの到達に対する致命的な障碍と見なすかも、今やまさに納得できることだろう。論証的思考は、なんとしても抑制されなければならない。悟りの考えを頭の中に抱くことでさえも、修行に於いては恐ろしい障碍として働く。大慧(1089―1163)は『書簡』の中で、次のように記している。「もし悟りに達しようとほんのわずかの努力でもしようとするなら、悟りに達することは決して出来ないだろう。そのような努力は、無限の空間を自分の手で摑もうとすることに比せられる。全くの時間の無駄だ!」

 十七世紀日本の有名な禅者、鈴木正三(1579―1655)は、仏性への到達について尋ねられて、次のように述べている。

 

  仏性への到達は、まさに「空になること」を意味している。「私」「他者」「真理」「仏陀」の一点もない、(無差異の)初源的な状態へと帰ることを意味している。すべてを突き放し、すべてから手を洗い。自分のために、自由の無限空間を作り出すことを意味している。自分の心の内に何か残っている間は、それが悟りについての考えであっても、このことは現成できないものだ。

 

 この種の、心を空にするということは、達成するには容易な仕事ではない。なぜなら、そ

れは単に思考が起こることを抑制すると云う問題ではないからだ。思考が起こることを阻

止しようと意識的に努めることは、それ自体が一つの思考なのだ。妄念を喚起することを控

えようとする考えそのものもまた妄念なのである。もう一人、日本の禅者、盤珪(1622

―1693)は、この点を次のように説明している。

 

もし、<不生>の状態へと達しようと欲して、怒り、憤り、後悔、渇望などが起こる

のを控えようとするなら、それらの感情を控えようとするその意図が、元の一つの心を二つの心に変えてしまう。それは、同じ速さで走っている他の人を追いかけるようなものだ。意識的に粗野な思考を起こすことを控えようと努め続ける限り、その思考は止むことはない。なぜなら、思考を起こす事とそれを止めるべきだと云う思考とが、際限なく、互いに対する絶望的な戦いに加わるからである。・・・あなたが為すべき唯一重要なことは、二つの心に分離されようとする事から、一つの心を保つことである。

 

 思考と観念のこのような徹底した除去が成し遂げられるのは、ただ厳格で方法的な心の訓練を通じてのみである事は明らかだろ。と云うのも、要求されているのは、すべての雑念から心を純化ざせる事だけではなく、 その心それ自身の為に、心を純化させる事でもあるからだ。心は、もし訓練されないままならば、そのような方向に向かうことは望めない。そのような心の純化を遂行する為の最も効果的な方法として、禅は、歴史的な発展において、二つの異なる瞑想修行を案出して来た。その一つは、曹洞宗独自の瞑想方法。「黙照」であり、もう一つは、臨在宗独自の公案修行である。だが、これら二つの坐禅形態の内的構造を考察する前に、私たちはもう少し、禅における心的純化の積極的側面に関する議論に時間を費やさなければならない。と云うのも、ここで問題にされている修行方法は、実際には、静寂な無活動と云う純粋に消極的な状態、あるいは意識の全面的空白の誘発を修行において目指すことからは、かけ離れているからだ。全く逆に、第一にそれが目指すものは、充実した心の養成、覚知のダイナミックな強化であり、それは、心を緊張と集中の状態に保つことを許すーあるいは強いるーものなのである。このように、禅の瞑想修行の明確に積極的な側面は存在する。そして、このことの理解が、禅の理解における最重要点へと私たちを直ちに至らせるのである。

 

   三 非思考的思考

 

 これまで私たちは、専ら禅の否定的側面、取り分け知性に対する禅の否定的態度に注目してきた。この否定は、不動の事実である。反知性主義が禅の修行と、禅の思考との最も顕著な特徴の一つである事は否めない。

 だが、論証的思考の除去(それ自身で、ある消極的な状態、すなわち意識の全面的な停止を導き得る)は、禅の瞑想の実践的修行において計画されたものであって、そのため、それは心を意図的に一点集中させる漸次的な心の統一化のプロセスと同調していなければならない、と云う事を私たちは忘れてはならない。そして、この後者のプロセスは、純粋に否定的な意味での「心なし」の代わりに、「充実した心¥のみを導き得る。瞑想訓練の間、心をはっきりとした覚知の状態に保ち、そうする事によって、ダイナミックな集中力が結集されなければならない。そしてこの事実は、心理的な静寂の状態で坐り、生起するすべての思考とイメージから心を空にして、漸次的に無心の空白状態に、下降して行くことを学ぶと云った受動的内省のテクニック(西洋での「静寂の祈り」の例)と、坐禅とを区別する。瞑想の、こ          の二つのテクニックの違いは、私たちが禅の伝統的な公案修行に含まれる「生死の    戦い」と呼ばれるものを 観察するだけで、眼に飛び込んでくるものである。すべての公案は、弟子の心を著しく敏捷で活動的に保つために、見事に案出されている。与えられた公案に取り組んでいる間、弟子は思考の欠けた放心状態のままで、明らかな落ち着きの内に穏やかに安心して安らぐ事を必ずや阻止される。もしそのような落ち着きを体験するなら、さらに自分自身を引き締め、心そのものの、そのような落ち着きの状態を突破しなければならない。

 禅は否定的な性質の言葉と表現との使用を好む。禅的思考のキータームの多くは、「無」「居」「空」「無心」「最初から何もない」と云ったように、事実、言語的には否定的なものである。これらの否定的表現からは、心理学的に捉えるなら、もし無感動や麻痺でないならトランスや無意識と云ったものを連想しがちである。しかしながら、そのように心を受動的に非活動化することは、禅が達しようとするものとは正反対のものなのである。無心が意味するものは、心が機能停止した純粋に否定的な状態ではない。上で指摘したように、無心とは充実した心である。それは、充実した心の極限へと達すべきある特異状態、心の異常なほど強められた活動によってもたらされる見かけ上の無活動状態なのである。逆説的に聞えるかも知れないが、思考の完全な停止が、≪思考≫を活動させるのだと言ってもいいだろう。すなわち、イメージと概念のレベルでの思考の停止が、心の潜在領域において別種の「思考」を活動させているのである。この意味で禅的瞑想は、明らかに叡智的noetic性質のものである。禅的瞑想は、活動的な覚知、すなわち意識の超概念的次元における<存在>の形而上学的知識へと達する為の特異なタイプの「思考」(あるいは≪思考≫)を伴っていると云う点で、叡智的特性を持っているのである。

 禅のよく知られた反知性主義の文脈の只中にあって、ある種の特別な思考について語り得る可能性があるということは、非常に重要で興味深いことである。ただ確実に、それは普通に思考として理解されるものでは無いyぷな特異な性格のものである。と云うのも、「思考」はー少なくとも西洋のデカルト的伝統においてはー、明晰で判明な諸観念の意識的操作であるからだ。

 

 ここで、≪思考≫の内的構造に眼を転じてみよう。まず、≪思考≫として指示されているものが、私たちの新しく発明した概念ではないのだと云う事実に注意を払いたい。それは逆に、禅仏教の歴史において十分確立された概念なのである。ただここでも禅は、「不思量not-thinking」あるいは「思考thinking」の代わりに「非思考a- thinking」という否定的な表現を好んで用いてきたのではあるが。この問題に関する標準的典拠は、唐代の傑出した禅僧薬山(745―828)と訪問僧との間の有名な問答である。

 

 一度、薬山禅師は、深い瞑想状態のい坐していた。その時、ある僧がやって来て尋ねた、「岩のようにじっと坐って、あなたは何を思考しているのですか?

 師は答えた、「絶対に思考できないもの(不思量)、『思考されない』ものを思考している。

 僧「絶対的に思考できないものをどうして思考できるのか?」

 師「非思考的思考(非思量)、『思考ではない思考』によってだ」。

 

 この問答を評して道元は、この薬山の場合、僧が考えたような「思考」と「絶対的に思考できないもの」との間の矛盾は何もないと考察している。と云うのも、道元が言うには、ここでの「思考」は、観念と概念の通常の思考ではなく、深い思考、「リアリティの精髄へと下降する深い思考」を意味するからだ。同様に、ここで問題にされている「思考できない」ものは、思考の把握を逃れる、通常の心的対象としては受け取れないものである。それは寧ろ、リアリティの精髄に属する「思考できない」ものなのである。そのような意味で思考出来ないものについて考える深い思考は、考える主体が考えられる客体としての何ものかを考え、主体と客体の両者が、意識の同一レベルに留まっているような思考の、通常のパターンとは決して同じではない。この意味での深い思考は、思考ではない。それは「非思考」であるのだ。それは、思考ではない思考であると言っても良いだろう。なぜなら、対象としての何かについて思考する行為ではないからだ。

 通常の形では、私たちの思考は、考えられるべき客体なしには機能することが出来ない。この意味で心は、空虚の中では働き得ない。思考は常に、「・・についての」思考、「・・に関する」思考である。それは何か手放さずに置くものを必要とする。さきほど引用した問答においても、薬山の最初の言明は、言葉の上では、「・・に関する」思考として≪思考≫を提示している。それは、恰も思考が方向づけられている、ある明確な対象を有する通常の思考パターンを、彼が意図しているかのようである。しかしながら、その「対象」は、考えられないものと云う性質を持ってしまうので、この場合の思考は、明確に限定づけられた対象の無いまま宙に浮いてしまう。薬山の理解している≪思考≫は、対象なしの思考である。

 しかし、対象なしの思考は、同時に主体なし、すなわち考える主体なしの思考である。絶対的な「対象」なしの思考は、禅に従うなら、考える主体の中に、「主体」意識すなわち自我意識が留まる限り、現成不可能なものである。≪思考≫は対象なしであり、主体なしであり、それはまさに薬山が「非思量」という術語で、すなわち「思考ではない思考」で意味したものなのである。

 ただここで非常に重要なことは、禅の観点からすると、「対象と主体のない≪思考≫」とは、対象と主体双方の意識が除去された思考活動を意味するする訳ではないと云うことだ。そのような場合には、≪思考≫は単に特殊な心理学的事態になってしまうだろう。むしろ禅が意図するのは、<存在>そのもの、あるいは純粋な<実在Existence>がそれ自身を主体と客体、知りものと知られるものーあるいは「私」と世界とも言い得るだろうーに分ける以前の、当の<存在>そのもの、あるいは純粋な<実在>のダイナミックな形而上学的覚知である。この点は、もう一つの同じく有名な問答の中で最もよく示されている。そこでは禅師が、どうしたら悟りに達する事が出来るかと尋ねた弟子の一人に答えている。「悟りには達せられるものである」と彼は言う、「ただ<無>を見ることによって」と。

 

 弟子は師に問い続ける、「あなたは無と言いました。しかし、それはすでに見られる『何か』(すなわち考えられる対象)ではないですか?」

 師「そこには確かに『見る』ことはある。しかし、その対象は『何か』を構成しないのだ!」

 弟子「もしそれが『何か』を構成しないなら、『見る』こととは何なのですか?」

 師「絶対的に対象がないところを見ること、それが本当の『見る』ことだ」。

 

 この言及は、サマーディsamadhi(三昧)の見かけ上の無思考に関するものである。意識の表面では、もはや動いている思想ではない。なぜなら、二分化する知性は完全に機能停止しているからだ。しかし、そのような状態の心はもはや、語の通常の意味での「心」ではない。それはむしろ、「対象がない処を見る」―それに私たちは「主体のない処」を付け加えなければならないーと此処で呼んでいる照明された<覚知>として、己を自発的に開現させる<存在>の充溢である。「主体も対象もない処」とは、絶対的な「空」に他ならない。しかし、注意すべき重要な点は、ここで問題となる「空」が、意識において何も存在しないと云う心理状態なのではないと云うことだ。それは寧ろ、空の形而上学的状態であり、主体的にも客体的にも一定の事物に限定されないのであるから、その状態は当に<存在>の充溢なのである。

 従って、禅における瞑想修行の最重要点をなす≪思考≫(あるいは、思考の非思考形態)は、いわゆる無意識の潜在領域さえ越えた、己の実存的深みへと直に跳び入ることに存する。しかし、そうする事によって、人はもはや自分の存在の深みを突き止めるのではない。実際には、意識の経験的平面を過ぎゆくイメージと概念の流れによっては、永遠に触れられないままでいる<存在>そのものの、形而上学的基礎の深みを探る当てているのである。ここで現成しているのは、我と汝I-and-Thouでも、私とそれI-and-itでもない。と云うのも、そこには主体的存在者としての私も、客体的存在者としての汝やそれも、もはや存在していないからだ。そこに留まって居るのは只の≪存在IS≫、自ら光輝く「is」であり、それこそ正しく≪思考≫なのである。

 

   四 曹洞禅と臨済

 

 禅史の初期段階においては、その最初期から瞑想そのものは常に実践されて来たものの、そこには瞑想修行の体系的方法はなかった。唐代末期まで、禅者は各人、自分独自の方法で訓練した。しかし、前節で説明したように、歴史の流れの中で、弟子志望者が≪思考≫あるいは非思考である思考を自身の内で活動させる事を手助けする為の特別な訓練方法が案出された。その訓練方法は、「坐禅ののみ」(只管打坐)の方法と公案という方法として、それぞれ知られる二つの主な種類からなる。前者は、曹洞宗を特徴づけ、後者は臨済宗を特徴づける。禅は、中国で当時栄えたライバル同士の二宗派のルートを通じて、鎌倉時代(十二―十三世紀)に中国から日本に紹介され、両宗派はそれぞれ異なる精神修行の方法を提供した。この二宗派は日本において今日まで存続しており、そして二つの訓練方法はいまだに数千の場所で実践されている。

 

 日本で道元(1200―1253)が創始した曹洞宗は、中国の唐代の二人の偉大な師、洞山良价(807―869)と彼を引き継いだ弟子、曹山本寂(840―901)にまで遡る。「黙照禅」という名のもとにこの宗派は知られるようになったがこの普及した名称が明確に示しているように、曹洞宗は何よりもまず瞑想状態で坐ることの重要性を強調する。悟りは、弟子の全面的な参与とその全人格の転成を通じてのみ、達成できると云うのがその基礎的考えである。悟達は、突然起こるものでは有り得ないし、そうあるべきではない。それは、精神的成熟の漸次的プロセスでなければならない。瞑想状態で長期間坐る事によってのみ、人格の全面的な転成は遂行されうる。そのような落ち着いた心の照明〔黙照〕の漸次的プロセスの最後に、またその結果として、<自己>の本当の性質すなわち<存在>の本当の性質が実現され得る。このような立場の為、「頓悟」の宗派として知られる臨済宗とは対照的に、曹洞宗は「漸悟」の宗派として知られている。

 臨済宗は、その名称が示すように、殴打と叫びの使用を通じて弟子を訓練する暴力的方法で知られる唐代の有名な禅師、臨済義玄(?―867)にまで遡る。しかし現在、その特徴的な公案訓練によって私たちが知っている臨済禅は、むしろ宋代のこの宗派の傑出した師、大慧に遡るものである。彼は代表的な公案を集成し編纂して、それらを訓練過程において体系的な方法で使用できるようにした。栄西(1141―1215)によって日本に紹介された臨済禅は、この独特な形態のものであった。

 臨済宗は、曹洞宗の「漸悟」と対照的に、「頓悟」を主張する。曹洞宗が静的ならば、臨済宗は本質的に勢いよく動的である。臨済宗は、何にもまして行動とダイナミズムを強調し、平穏な瞑想状態で坐ることを拒絶し批難する。瞑想修行をすっかり拒絶すると云うのではない。全く逆である。しかし、弟子を訓練する為の実践は、静的瞑想の「黙照」の類ではない。臨済宗の観点からすると、ただ全てのイメージと思考を空にした心で、落ち着いて穏やかに坐っていることは、空虚という「悪魔の陥穽に陥ること」に他ならない。

 曹洞宗の静的瞑想に対して、臨済禅は動的な瞑想、すなわち瞑想中に、活発で動的な心の活動を観察する独特なタイプの瞑想を主張する。公案は、この独特な目的の為に用いられる。弟子は、師から与えられた公案を、瞑想を通じて解決するよう厳格に命じられる。彼は瞑想状態で坐っている間、「身心ともに」その問題に取りかかるよう命じられる。当然、瞑想はある種の精神的な戦場となる。公案は、「疑念の鉄球」〔疑団〕へと成長し、弟子の心的資質をすべて消耗させる。不意に、疑念の球は粉々に砕け、<性Self-nature>が実現される。このように臨済宗の場合、悟りは漸次的・段階的には到来し得ず、ただ不意突然の精神的出来事としてのみ到来し得るのだと考える。

 

 ここで私たちは、曹洞宗臨済宗によって考え出された瞑想修行の内的構造の一層詳細な考察に向かおう。まずは曹洞宗の立場から扱っていきたい。

 上に記したように、瞑想に関する曹洞宗の立場は、一般的に「坐禅のみ」〔只管打坐〕あるいは「黙照」として知られている。青原行思(?―740)にまで歴史的に遡及できる曹洞宗の立場は、著しく静寂主義に彩られている。それは「<心>の根源的純粋性」の落ち着いた静寂な観想の重要性を強調する。この立場は、意識が「表層レベル」と「深層レベル」から成る、大まかに二層構造のものである、という基本的な理論的仮定の上に立っている。ただこれは比喩的な言い方にしか過ぎず、禅に忠実な見解では、意識の中に区別されるべき実際の「階層」など、無いのだと云うことは言うまでもない。禅の理解する所の意識は、何らかの構造を有する存在者ではないのである。だが、実際的な説明の為には、二層構造理論はとても都合が良いのである。「表層レベル」が意味するものは、止むことのない動揺によって特徴づけられた、私たちの通常の目覚めている意識である。その動揺は、イメージ、観念、思考形態の制御不能な増殖によって、とりわけ外界の対象の後を追って、決して止むことのない論証的思考の活動によってもたらされる。「深層レベル」は、「表層レベル」で観察され得る止むことのない動揺にも関らず、平穏で乱されないままに留まっている同じ意識を指し示す。禅は好んでこの意識構造を、表層では波が揺れ動いているが、深層には永遠に平穏な領域がある、海のイメージによって表象する。

 そのようなイメージを念頭に置くなら、曹洞宗が理解する坐禅の第一の目的が、心的エネルギーの全てを統一の強烈な集中状態に運び、そのことで、今や完全に一点に集中したが、通常の状態では不可視に留まり、思考形態の「波」の下に沈んでいる「深層レベル」を、直に目撃する事なのだと理解する事は容易であろう。

坐禅のみ」〔只管打坐〕タイプの瞑想は、肉体的には、結跏趺坐あるいは半跏の姿勢で脚を組み、背筋をまっすぐ立て、リズミカルに腹の底から規則的に息を出し入れし、「岩のようにじっと不動のまま」、しっかり落ち着いて坐ることが基本である。

 

 このようにしっかり据え置いた体で、人は、内面的な一点集中、油断なく注意深いままに保たれた心を強化し続けなければならない。しかし奇妙なことに、この一点に集中した意識は、焦点を合わせるべき明確なものを何も持つべきではないのである。つまり、集中の具体的対象が、実際には何も用意されていないのだ。頼るべき物を何も持たず、心は謂わば空虚に取り残されている。その集中は、臨済宗タイプの坐禅に於いてあるような、公案の解決へ向けて全ての注意を傾ける事に支えられるべきものではない。あるいは、何らかの形やパターンの持続的な映像化や、心眼の前に何らかの明確な考えを抱く行為によっても支えられていない。息を数えたり、出る息、入る息を追うような最も基本のヨーガのテクニックにさえも依存することはない。ただ高度な集中の状態のみが持続されるべきであり、心は謂わば、より深くに沈み、思考と概念の領域を越え、それから幻影visionsの潜在領域を越えて、<存在>の純粋に一点集中された覚知に入るまで深く沈んでいくのである。

 そのようなことが要するに、曹洞宗の、「坐禅のみ」の宗派の瞑想修行の根底にある基本的考えである。そして、そのような坐禅の理解は、道元の見解に於いて頂点に達した。彼は、日本の曹洞禅の創始者であり、瞑想状態で坐ることに於いて、<仏性>そのものの現成、つまり<存在>の本来的に非差異的な一性を見たのである。道元にとって坐禅は、悟りに達する為に、人工的に案出されたテクニックではない。事実、道元によって確立された禅の最高度の原則とは、悟りと修行とは丁度一つであり同じものだ、と云うものである〔修証一等〕。瞑想状態で坐ることで、気づいているか否かに拘らず、人は悟っているのである。と云うのも、そのような状態で坐ることは、単に肉体的な姿勢ではないからである。寧ろそれは、最高度にある実存的充溢の最も澄んだ覚知なのである。「彼〔悟った人〕は坐る事そのものである。そして「彼」は<存在>の覚知である。「彼」は普遍的な<生>の生きた結晶点なのである。道元は述べる。

 

  坐禅はただ落ち着いて坐ることにある。それは何かを求める為の手段ではない。坐る事そのものが悟りなのだ。もし、普通の人が考えるように、修行が悟りと異なっているなら、この二つは互いの意識になってしまうだろう(すなわち、人は坐禅に取り組んでいる間に、悟りを意識するようになり、悟りの状態に達した後に自己訓練のプロセスを意識し続けたままだろう)。このような類の意識によって穢されたような悟りは、本当の悟りではない。

 

 明らかに、「黙照」タイプの瞑想は、本質的に静的性格のものであり、純粋な静

寂主義を導きがちである。静寂主義は禅の精神に反するとして、臨済宗は強くこのような傾向に対抗する。そうする中で、臨済宗は、六祖慧能のダイナミズムを支持する。

 何宗の教えの継承において慧能を継いだ南嶽禅師は、次のようなやり方で弟子の一人を諭したと言われている。

 

  お前は坐禅の師になりたいのか、それとも仏性に達しようとしているのか! もしお前の意図が禅そのものを学ぶことであるなら、(お前は知るべきだ、)禅は坐ったり横たわったりすることではない。脚を組んで坐った姿勢で仏性に達しようとするのか? しかし、仏陀には特定の形はない。・・瞑想状態でただ脚を組んで坐ることで仏性に達しようとすることは、仏陀を殺すことに他ならない。お前がそのような坐った姿勢に好んで留まる限り、お前は決して<心>に達することは出来ない。

 

 この点で六祖の教えに忠実に従う臨済宗は、曹洞宗の瞑想方法に非常に強く反

対する。その為、上述の臨済宗の禅寺大慧は次のように言っている。

 

  客と話している時には、ただお前のエネルギーを客との話に集中するのだ。瞑

想状態で静かに坐っていると感じるなら、お前のエネルギーを静かに坐る行

為に集中させて坐るのだ。だが、坐っている間に、坐る事を何か崇高なものと

決して見なしてはならない。近頃、「黙照」状態で静かに坐る事が禅の究極な

のだと云う教えで、弟子たちを迷いに導いているような、誤まった禅師たちが 

たくさん居る。

 

「誤った禅師たち」と云う表現で、大慧が曹洞宗の禅師たちの事を述べている事は

極めて明らかである。

 それにも拘らず、臨済宗は瞑想を免除する訳ではない。まったくその反対である。臨済宗の人々にとっても、瞑想状態で坐ることは、悟りに進んでいく為の全プロセスの中枢なのである。しかし、臨済宗の瞑想の内的構造は、曹洞宗のそれとは全面的に異なっている。臨済宗が理解する坐禅とは、全ての思考を空にした心で、落ち着いた静寂な瞑想状態で坐る事ではない。寧ろ、坐禅は、生気溢れる実存的<問題>あるいは<考え>に専ら強く意識を集中させて、その事で心がすっかりその<問題>に、<考え>になる事ににある。それはつまり、「私」が、自らを消失させながら、謂わば全面的にその<考え>へと転成される事だ。要するに、これが≪思考≫、すなわち「非思考である思考」についおての臨済宗の理解である。そして、この実存的な転成は、公案という手段によってもたらされるのだ。

 

   五 公案

 

 もともと唐代では、同類の事件を解決する為に依拠すべき先例を定めた、その法的論拠を指す法律用語であった公案は、宋代後期に、瞑想の為の特別な問題や題目を意味する禅の術語として用いられるようになった。公案修行は、十一世紀に大慧によって標準化され、それ以来、過去八世紀の間、中国と日本の臨済宗において継承され続けてきた。多くの公案集が編纂されたが、『碧巌録』(1125年編纂)と『無門関』(1228年編纂)は、中でも最も名高い。

 公案は、すべて瞑想の題目になるように意図されたものであり、次のようなものから人為的に作られたものである。➀唐代と宋代初期の師と弟子との有名な古い問答、➁仏典の断片、➂師たちの言説の重要な一節、そして➃師たちの様々な局面に関する説話。

 公案は、内容がどれほど多様であっても、瞑想の題目と見なされる限り、すべて同一の構造を持つ。その各々は、パラドキシカルで、ショッキングな、あるいは不可解な言語表現であり、禅が理解するものとしての究極的<リアリティ>についての表現である。それは、言語形式による<存在>の直接的な力強い提示を意味し、その<存在>とは、前章で説明したように、根源的な<非差異体>のむき出しになった個的結晶である。師によって弟子に与えられる問題としては、多くの場合、それは故意に意味のないものである。知性の到達する領域をはるかに越えて、肉体と心と云う全人格を含んだ、実存的理解の特別な段階を弟子の内に目覚めさせる為に、論証的思考を最初から困惑させるような、やり方で公案は作られている。

 だが、公案を混乱した非理性的なものや、意味の無いものとだけ考えるのは誤りである。公案が元々、初期の問答、説話等から構成されたものである事を念頭に置くなら、虚構か現実かに拘らず、私たちが公案を歴史的文脈に返し、そのような角度から近づく事が出来さえすれば、その公案の各々が禅哲学の縮図とも見なされ得るような特殊な意味があるのだ。

 従って、公案は原則的に二次元構成であると云う事になる。そこには二つの全く異なる次元があり、それぞれに於いて公案は異なって扱われ得る。そして、この事実の考察は非常に重要な事である。なじなら、二つの次元は混同されがちであり、事実、しばしば混同されて来たし、その混同が臨済禅の正しい理解にとって、致命的なものになってしまうからである。

 二つの次元の一つ(第一次元と呼ぶことにしたい)に於いては、初見では如何に無意味に見えようとも、公案は、意味のある発言や説話として取り扱うべきものである。この次元に於いては、公案は知性によって完全に掌握可能な堅固な、哲学的意味を確かに持っている。この意味での公案は、知的解釈を許すようなある種の「歴史的」記述である。最初は、如何なる知的アプローチも越える事の出来ない障壁を、表しているように見えるかも知れないが、しかし、その障壁は、究極的には乗り越えられ得る類のものなのである。

 上で分けた二つの次元の内、第二の次元では対照的に、公案は如何なる意味においても意味ある発現や説話ではない。少なくとも、そのようなものとして取り扱われる事は想定されない。この次元に於いては、公案は全く非理性的な問題であり、それは精神障害の状態に、ほとんど等しい恐るべき内的緊張状態を心に通過させ、そうして心を最終的な「突破」に導く為に、思考の慣習的パターンへと通ずる可能な道をすべて次から次へと塞いで、心を袋小路へともたらす事が最初からも目論まれている。各公案はこの側面においては、ある種、弟子に心理的なショックを与える為に、人為的に工夫された手段である。しかし、これに関して注目すべきは、私たちの心は、知的理解のレベルで働く事にしっかり慣らされて居り、また何らかの言語的な発言や言明の中に、「意味」を見出すまで決してじっとして居る事がない為、暴力的で強烈な心理的ショックとしての公案に、私たちの心が取り組み始める事は、殆ど不可能に近いものに見えると云う事である。従って、あらゆる禅師の厳しい警告は、「思考」に対するもの、公案の意味を「理解」しようとする弟子の側のあらゆる試みに対するものである。

 

 ここで、概観してきた公案の二つの異なる次元を例証しよう。例に挙げるのは、次の有名な公案、趙州の「庭の柏の木」〔庭前の柏樹子〕である。

 

  一度、ある僧が趙州に尋ねた、「祖師が西方からやってきた意義(つまり禅仏教の究極的真理)とは何か、私に教えてください」。

  趙州は答えた、「庭の柏の木だ!」

 

 「庭の柏の木」と、菩提達磨によってインドから中国にもたらされた仏教のリアルで生き生きとした本質との間に、如何なる関係が在るというのだろうか。普通の状況では、趙州の答えは無意味であり、意味の完全な欠如に見えるだろう。しかしながら、禅哲学(つまり第一次元)の観点からは、趙州の言葉は確かに、僧の問いに対する答えとして、意味あるものなのだ。簡潔に述べるなら、趙州の<柏の木>は、前述の<無位の真人>と同じものを当に指しているのである。両者がただ違うのは、後者では初源的な<非差異体>が純粋に主体性として提示されている一方、前者では同じ<非差異体>が純粋な客体性として自己顕現していると云う事である。前に考察したように、禅が想定する初源的な<非差異体>は、それ自身、主体性と客体性とを越えたものであるが、しかし同時に、場合に応じて、己を絶対的<主体>として、あるいは絶対的<客体>として、あるいは両者つまり<主体・客体>としても、自由に自己顕現できり性質のものなのである。

 

 重要なのは、<非差異体>が、本来の無差異状態では、出=在ex-ist出来ないと云う事である。出=在する為には、必ず己自身を差異化しなければならない。つまり主体的にであれ客体的にであれ、何ものかとして己自身を具体的に結晶化させなければならないのである。そして、<非差異体>が己自身の全体を挙げて差異化する、つまり余す所なく、無数の事物の一つ一つへと差異化するのであるから、無分節と分節の点を除けば、それら各々の事物は<非差異体>とは異なるものではない。

 世界全体が<柏の木>なのだ。趙州は<柏の木>である。僧もまた<柏の木>である。結局の処、そこには<柏の木>の<覚知>以外には何もない。なぜなら、この形而上学ゼロポイントでは、まさに<無差異>状態にある<存在>そのものが、同時に単一かつ普遍な<柏の木>としての己自身を照明しているからである。

 

 また少し異なる形式で、禅的形而上学の同じ側面を例示している、もう一つの公案を解釈して見よう(もちろん第一次元で)。その公案は、単文のとても簡単な命令文で成り立っている。

 

 隻手あり、その声を聞け。(片手の音を聞け!)

 

禅文献で通常言及される大半の公案は、中国起源のもので、唐代の禅師の言行に

関するものなのだが、それとは異なり、この短い公案は、日本臨済宗のあらゆる禅師の中でも最も偉大な、十八世紀の白隠(1686―1769)によってあたらしく工夫された、オリジナルの瞑想題目である。白隠禅師の〔隻手の音声〕として広く知られるその公案は、実際の禅の訓練において大変効果があると判明した為、日本では、趙州の無と、ほとんど同じ位の人気を獲得するようになった。

 さて、白隠は弟子に、片手の発する音を聞けと要求する。もし両手を打ち合わせれば、音は自然に生み出される。では、片手の発する音とは何なのだろうか。普通の状況では、これは単にナンセンスな問いであろう。しかし、<柏の木>の場合と同様、この公案には、「第一次元」の知性へと開かれるであろう形而上学的な隠れた意味が伏在している。

 この哲学的意味をよりよく把握する為、最初に、世界に於ける風の遍在に関する有名な禅の説話を読むことを提案したい。登場人物は、唐代の麻谷(まよく)禅師と、ある僧である。

 

 ある時、麻谷禅師が扇を使っていると、僧がやって来て言った、「風性(風そのもの、あるいは風のヌーメナルなリアリティ)は永遠に遍在するのだから、風が及ばない場所は全世界の中の何処にも在りません。そうだとすれば、何故あなたは扇を使うのでしょうか?」

 麻谷「お前が知っているのは、ただ風が世界中に広がっていると云う(理論)だけだ」。

 僧「ならば、世界中に広がっている風の本当の意味とは何なのでしょうか?」

 師はただ扇をぎ続けるだけだった。

 僧は拝礼した。

 

風性」とは、実のところ、「仏性」「性」「心」等々のような、より一般的な名

称の元に私たちが知っているものと本質的に異なるものではなく、それら全ては、禅の理解する<絶対者>、すなわち、主体・客体の二分化以前にある本当にありのままの<リアリティ>、まだ差異化されていない¥が、しかし同時に現象的な風として、己自身を差異化させようとしている初源的な<非差異体>を指し示している。

「風性」は、世界の四隅まで広く行き渡っている。それに満たされていない場

所など一つもない。そして、禅の典型的な考え方に従うなら、それこそまさしく、

人が扇を用いる所では、何処でも実際に涼しい「風」がある理由だ。だが、最も重

要な点は、永遠に至る所にある「風性」は、人が自分を扇がない限り、今ここでは

現成しないと云う事であり、普遍的な<風>は、人が扇を用いると云う唯一の行為

を通じてのみ、出=在できるのだと云う事である。こうして、<非差異体>は己自

身の差異化を通じてのみ出=在するのだと云う、前述の馴染みの形而上学的理論

に私たちは再び連れ戻される事になる。

 

ここで白隠の「片手」の公案に戻ろう。麻谷の「風」の公案を理解した後では、

「片手」の内的構造の把握は極めて容易なものとなろう。「風性」が至る所にあるように、片手の音―謂わば「音性」―は永遠に至る所にある。この場合に「片手の音」として提示される「音性」は、何処にでもあり、何時でも何処でも人が両手を打つ事を選択するなら、経験的に耳にし得る音として、如何なる瞬間にも己自身を現成しようとして居るのである。禅はさらに進んで、音が経験的に現成する前でさえ、片手の段階でさえも、<心>はその音を聞いて居るのだと言う。こうして、「片手の音」あるいは「音性」において、私たちは、物理的に聞こえる音として己自身を分節しようとする特別な存在論的傾向の<非差異体>に、再び出会う事になる。この場合の禅は、「音性」が微かに動き始め、そして分節に向かう固有の性質を開現させる丁度その瞬間の、「音性」を「見る」ことにある。これが、片手の音が意味する処なのである。ただし、両手が実際に打ち合される時、分節はすでに行われ、「音性」は物理的に聞こえる音の背後に自らを隠してしまうのだ。

 また別の日本の高名な禅師、盤珪が、寺の鐘が鳴る前に、その音を聞く事を次のように評しているのは、この状況に拘わる事である。

 

 聞け、鐘が今鳴っている。あなた方はその音を聞いている。

 (正しく言うなら)あなた方は全く永遠に止むことなく、鐘が打たれる前でさえも、そして音が実際に聞こえる前にも、鐘の音に気づいているのだ。鐘が鳴る前の鐘の音への透明な覚知、そのような覚知は、私が未生の<仏心>と呼ぶものである。ただ鐘が鳴ってから鐘に気づくようになるのは、単にすでに行われたものによって残された痕跡を追っているに過ぎない。その時、あなた方は、すでに、第二の立場に陥っている(つまり、あなた方はもはや、<非差異体>の最初の立場にはいない)。

 

 純粋な絶対的<主体>―盤珪の「未生の<仏心>」―は、常に目覚めたままであり、絶え間なく鐘の音を聞き続けている。そのため、鐘が打たれると、私たちはすぐさま、つまり一瞬の遅れもなしに、鐘の音としてその音に気づくようになるのだ。ここに反省の余地はない。そして、禅の見解では、このような文脈での絶対的な<主体>は、全面的にその音(あるいは「音性」)と同一化されている。絶対的<主体>が音なのである。

 

 これらのそして他の同様の解釈は、しかしながら、結局のところ公案の「第一次元」に属する問題である。つまり、厳格な禅の観点からすると副次的な問題である。実際のところ、私たちはそのような知的理解の次元の存在を単純に否定する事は出来ない。だが、禅師たちの方法論的観点からすると、つまり上に言及した公案の「第二次元」に関するなら、あらゆる知的解釈は、本質的に不必要で、無駄で、有害なものとして、無条件に拒絶されなければならない。

 事実、公案の完璧な知的理解の獲得によっては、人は重要なものには何も到達しないのである。逆に公案は、人が知的理解を深めれば深めるほど、その精神から、禅の訓練の唯一の目標である直接無媒介的把握から、ますます必然的に遠ざかっていくような性質のものなのである。したがって、禅の観点からすると、知性による如何なる公案のどのような理解も、それがどれ程深く正確なものであっても、禅修行を遂行する者の道に妨害しか作り出さないのである。

 注意すべきは、禅における公案のあらゆる知的理解の拒絶は、絶対的で徹底的なものであると云う事だ。公案を理解しようとする精神的態度そのものが、最初から拒絶されなければならないものなのである。と云うのも、知性が機能する意識のレベルこそ、当に何としても乗り越えられなければならない類のものであるからだ。これが、禅があらゆる哲学的思索Philosophierenを無条件に拒絶する主な理由である。人は、公案の知的解釈に基づいて深い哲学体系を作り上げていくことに成功するかも知れない。だがその時には、人は弁別的知性の次元に尚留まっている。<無分節体>の直接無媒介的把握―それこそ禅が専ら関心を寄せるものであるーに向けての人間の全面的転成としては、何も達成されていないのである。

 

「第二次元」での公案、すなわち、修行の実践手段としての、「方法」としての公案は、知性によっては理解されるべきものではない。それは逆に、禅の学人の思考が絶対に機能しないような実存的状況へと、ほとんど力づくで追い込む目的の為に、特別に工夫されたテクニックとして扱われるべきものである。その原理と一致して、学人は瞑想状態で坐り、日夜与えられた公案に精神を集中させ、公案について考えたり、その意味を理解しようと努めたりするのではなく、ただ単にそれを全面的に完全に解決するように教えられる。しかし、最初から解決不能を意図している問題を、如何にして解決する望みが在ると云うのだろうか。それこそ、学人が最初から立ち向かわなければならない問題なのである。公案を解決する為の唯一頼りになる方法は、臨済禅での伝統的な見方では、「公案になる」こと、完璧にその公案と一つになる事である。例えば、<趙州の柏の木>の解決は、自分が<柏の木>になることにある。<白隠の片手>の解決は、自分が「片手の音」になることにある。だがしかし、より具体的に言って、人が「公案になる」事とは、どういう意味なのだろうか。「公案になること」は、実存的プロセスを暗示しているようだ。ならば、そのプロセスの内的メカニズムとは、どのようなものだろうか。

この基本的な問いに対する答えとしては、<趙州の無>が、臨済宗において伝統的に、学人の修行の為の最良の手段として、用いられてきたと云う事を考えるのが最もいいであろう。公案そのものは、「趙州狗子」あいし「趙州無字」として広く知られているが、それは次のようなものだ。

 

ある僧が一度、趙州禅師に尋ねた、「犬には仏性がありますか?」

師は答えた、「無!」

 

この公案の「第一次元」の理解、つまり、この公案の哲学的な「意味」は、もう多くの説明なくして明らかだろう。<仏性>(すなわち<絶対者>)は普遍的に全ての事物に内在しているのだ、と云う見解を持っている大乗仏教形而上学を前提にして、僧は趙州に、犬のような動物でさえも<仏性>を有しているのか否かを尋ね、それによって趙州の禅の把握の深度を測ろうとしている。例の通り、師は、僧に対して直接的に<無>を、超概念的リアリティそのものを指摘して見せる事で、その僧が問う時に立っている概念レベルを粉々も砕く。彼が示しているように見える<絶対者>は、犬が「有している」か「有していない」かを超越している。「有している」か「有していない」かの問題は、趙州の立っている次元では、単純に存在していない。そのような問題は、ただ知的分別のレベルに固執している限、その問題のリアルな解決には達し得ない。それゆえ、趙州は、肯定的であるにしろ否定的であるにしろ、僧の問いに答えを与える代わりに、その僧の鼻先に、<無>という形で、<仏性>そのものを、すなわち初源的な<非差異体>を唐突に突きつけるのである。この意味での<無>は、<柏の木>や「片手の音」と丁度同じ役割を演じている。

ちなみに、この説話には、その前公案状態でのもう一つの、より基本的なーあついは、より原初的なと言おうかー次元がある事にふれて置く事も有益かもしれない。元の形では、公案の限定的な形式を与えられる以前、そしてそのようなものとして用いられる以前には、より教義的な性質の、より長い説話であったのであり、その中で趙州は、二つの異なる機会に、二人の異なる僧から尋ねられた丁度同じ質問に対して、肯定と否定という二つの矛盾した答えを与えるものとして描かれている。公案になる前の説話の好例として、ここに、元の形の原初の部分を再現して見たい。そこでは趙州は否定的な立場をとっている。

 

  ある僧が趙州に尋ねた、「犬には仏性がありますか、ありませんか?」

  趙州「無い!」

  僧が「(仏典に従うなら)すべての有情には仏性が授けられています。ならば、どうして犬に仏性が分け与えられていないと云う事が有り得ましょうか?」

  趙州「犬は犬自身のカルマによって存在しているからだ」

 

 趙州の最後の言明は、私たちの言葉では次のように説明出来るかも知れない。犬のカルマkarma〔業識性〕を通じて(つまり、犬として己自身を現成しようとする本来的な存在論的傾向を通じて)、<仏性>が、個別一匹の形を帯びたと云う事によって、(遍在する)<仏性>は全面的に無効化されている。私たちの側に、個別的に差異化された犬についての意識がある限り、<非差異体>の超時間的・超空間的<覚知>の痕跡はない。この解釈がただしいか否かに拘わらず、説話全体が仏教教義の一側面に触れており、そしてこの特定の状況での趙州の無は、犬における<仏性>の実在を否定する通常の「無」として受け取られるべきものだと云う事は確かである。そのことは、道元が述べているように、本質的に絶対的な<非限定体>である仏性は、元の純粋状態のままでは、限定されたものとして存在しないし存在できないのだ、という事をおおよそ意味する。従って、この説話はすでに前公案状態で、何が公案状態での上述の第一次元を構成するかをはっきり示しているのである。

 

しかし、繰り返し指摘して来たように、そのような理解は、「第二次元」の観点からすると、不必要な知的な罠に他ならない。この後者の次元に於て、「無」は、全面的に異なる機能を果たさなければならない。公案の資格での説話は、心理的迪ニックとして働かなければならないのであり、「無」は禅の学人の心理メカニズムの全面的な転成を誘発する推進力として、扱われるべきものなのである。

公案の意味を解こうと努める代わりに、学人は、主体性がすっかり溶解し、<無>へと転じるまで、その<無>を観照し続けるよう厳格に命じられる。学人がしなければならない事は、<無>について考える事なしに、把握不可能な<無>に向かい合う事である。『無門関』の有名な撰者、無門禅師は、こう勧告している。「この<無>を絶対的な空や無と間違えてはあらない。それを『ある』や『ない』のいずれとしても受け取ってはならない」。換言すれば、趙州の<無>は、犬における<絶対者>の実在の否定として受け取るべきものではないのである。問題は、如何なるものの実在あるいは非実在も越えてある。心の全く異なる次元で、<問題>は、「呑み込んでしまい、どう努力しても吐き出す事の出来ない赤く熱い鉄球の如きもの」へと転成されなければならない。

深い一点集中の状態に落ち着いて、学人は身心全体が消失し、<無>という言葉によって示された特殊な状態になるまで、つまり趙州自身が、主体と客体への意識の分岐を越えて<無!>という言葉を発したと想定されるのと同じ意識レベルに達するまで、静かに或いは大声で<無>という言葉を自分自身に向けて繰り返しながら、粘り強く一心不乱に<無>を凝視し続けなければならない。そのような張り詰めた集中状態において<無>という単一の言葉を唱える事が、マントラの唱名と殆んど同一の心理的効果を生み出す事は疑い得ない事である。だが、<無>という言葉の特定の意味内容はまた、学人の内に、主体と客体とが合体して、純粋な<覚知>の絶対的な単一体になった特殊な心理状態を誘発する事に大いに貢献する。と云うのも、<無>を自分の前に凝視すべき「もの」として置き、その<無>を客体化する事から始めたかも知れない学人は、<無>の意味構造そのものが、客体としての把握を不可能にするのだと云う事、そして己の意識に革命を起こす事によってのみ、また<無>が「ありのまま」での形而上学的リアリティ、<存在>の絶対的に非差異的な充溢という意味での≪無≫として現成する、全面的に新しい次元を<無>の為に開く事によってのみ、その<無>は獲得され得るのだと云う事を、遅かれ早かれ理解しなければならないからだ。学人はその時、「自分」が最早そこには存在しない事を、「私」も「非私」も存在せず、二元性の微塵もない。ただの<無>しか無い事を理解するだろう。

これが公案の手段的(第二次元)側面の概略である。このような短い説明でも、二つの異なる次元から私たちが公案を考える時、同一の公案がどれほど異なって現れるかが明らかになっただろう。「第一次元」では、<無>はヌーメナルthe noumenal〔叡智によって知られる性質のもの〕、形而上学的なものであり、それ自体単独で禅の形而上学である処の<無>の現成である。「第二次元」では逆に<無>は手段であり、それによって禅の学人が、己の意識の「深層レベル」と私たちが前に呼んだもののヴェールを剝ぐ事に向けて修行する為のものである。だが、この事は同時に、公案のこれら二つの「次元」相互の緊密な結びつきを明るみに出す。と云うのも、ヌーメナルなものとしての<無>が今ここで現成するのは、<無>の方法論的な使用によって、そのようにヴェールを剥がされた意識の「深層レベル」に於てのみだからである。

 

本章では、曹洞宗臨済宗によって歴史的に発展してきた禅の瞑想テクニックの説明を試みてきた。その中での私たちの主な目的は、坐禅あるいは瞑想状態で坐ることが、禅では、全面的な精神的空白を導くという意味での、心の空化の為のテクニックではない事、逆に、主体と客体とが互いに差異化されないようなある意識レベルで、最大限に張り詰め集中して働く心の活動を含意するものであると云うこと、そして最後にそのような心の働きが、非常に特異なタイプの「思考」と見なすに値するものだと云うこと、そう云った(私たちが前の各章で確証した)事実をさらに解明すると云うものであった。これは、¥臨済禅での公案と云う手段の使用に於て最も明らかな事であるが、曹洞宗の「坐禅のみ」〔只管打坐〕の方法に於いても、「深い思考」として私たちが前に示したものは、喩え余りはっきりしない形態であっても、間違いなく働いているのである。

 

原題は、「日本の禅仏教における瞑想と思考作用」Meditation and Intellection in

Japanese Zen Buddismという題名で、『観照と行為の伝統様式』から出版された論文である。

 

これは筆者が井筒論文と禅との聯関について改めて考究し、自身暖皮にも少なからずに井筒氏筆致の薫習を体現すべくに公開するものであり、一部修訂を加えた。(タイ国にて・二谷)

「理事無礙」から「事事無礙」へ 井筒俊彦

 

一 「理事無礙」から「事事無礙」へ

井筒俊彦

 

   一

 この講演のテーマとして私が選びました「事事無礙」は、華厳的存在論の極致。壮麗な華厳哲学の全体系が、ここに窮まると云われる重要な概念であります。しかし「事事無礙」という考え自体、すなわち経験的世界のありとあらゆる事物、事象が互いに滲透し合い、相即渾融するという存在論的思想そのものは、華厳あるいは中国仏教だけに特有なものではなく、東西の別を越えて、世界の多くの哲学者たちの思想において中心的な役割を果たしてきた重要な、普遍的思想パラダイムであります。今日。後ほどお話ししようと思っておりますイスラームの哲学者、イブヌ・ル・アラビーの存在一性論もその典型的な一例ですし、その他、中国古代の哲人、荘子の「混沌」思想、後期ギリシャ、新プラトン主義の始祖プロティノスの脱我的存在ヴィジョン、西洋近世のライプニッツモナドロギーなど、東西哲学史に多くの顕著な例を見出すことが出来ます。これらの哲学者たちの思想は、具体的には様々に異なる表現形態を取り、いろいろ違う名称によって伝えられておりますが、それらはいずれも、華厳的術語で申せば「事事無礙」と呼ばれるにふさわしい、一つの共通な根源的思惟パラダイムに属するものであります。

 わけても、プロティノスが『エンネアデス』の一節で、彼自身の神秘主義的体験の存在ヴィジョンを描く所などに至っては、まさしく『華厳経』の存在風景の描写そのままであります。『エンネアデス』と『華厳経』の異常なまでの類似は、我が国でも、中村元教授によって夙に指摘されている所ではありますが、「事事無礙」をめぐって華厳とスーフィズムとの思想構造的対応性を論じようとする、今日の私の主題に近づく為の好適な第一歩として、ここにプロティノスの一節を引用し、それを考察する事によって、事物の相互滲透という事を、哲学者たちの思想的に分析し始める前に、予め一種の形而上的存在風景として、イマージュ的に捉えておきたいと思います。

 この引用箇所で、プロティノスは深い瞑想によって拓かれた非日常的意識の地平にと突如として現れてきる世にも不思議な(と常識的人間の目には映る)存在風景を描き出します。「あちらでは・・」と彼は語り始めます。「あちら」、ここからずっと遠い向こうの方―勿論、空間的にではなく、次元的に、日常的経験の世界から遥かに遠い彼方、つまり、瞑想意識の深みに開示される存在の非日常的秩序、ということです。「あちらでは、すべてが透明で、暗い翳りは何処にもなく、遮るものは何一つない。あらゆるものが互いに底の底まですっかり透き通しだ。光が光を貫通する。ひとつ一つのものが、どれも己の内部に一切のものを包蔵しており、同時に一切のものを、他者の一つの中に見る。だから、至る所に一切があり、一切が一切であり、ひとつ一つのものが、即、一切なのであって、燦然たるその光輝は際涯を知らぬ。ここでは、小・即・大である故に、すべてのものが巨大だ。太陽がそのまますべての星々であり、ひとつ一つの星、それぞれが太陽。ものは各々自分の特異性によって、判然と他から区別されておりながら(従って、それぞれが別の名をもっておりながら)、しかもすべてが互いが他のなかに映現している」。

 すべてのものが、「透明」となり「光」と化して、経験的世界における事物特有の相互障礙性を失い、互いに他に滲透し、互いに他を映し合いながら、相入相即し渾融する。重々無尽に交錯する光に荘厳されて、燦爤と現成する世界。これこそ、まさに華厳の世界、海印三昧と呼ばれる禅定意識に現れる蓮華蔵世界海そのものの光景ではないでしょうか。とにかく、華厳仏教の見地からすれば、今ここに引用したプロティノスの言葉は、「事事無礙」的事態の、正確な、そして生き生きとした描写に外ならないものでありまして、もしこの一節が『華厳経』のなかに嵌め込まれてあったとしても、少しも奇異の感を抱かせない事であろうと思います。

 プロティノスと華厳との此の著しい類似は、一体どこから来たのでしょうか。一つの考え方としては、先ほど一言したように、「事事無礙」を普遍的な根源的思惟パラダイムとして説明する事です。そうすれば事は簡単ですし、危険も少ない。私自身も、少なくとも今の処、そういう立場に傾いているのですが、学者の中には、もっと積極的に、プロティノスが華厳的思想を直接知っていて、その影響を受けたのではないかと考えている人もある。そう考えたくなるのも当然です。なにしろプロティノスが、インドの宗教・哲学に対して、憧憬に近い関心を抱いていた事は周知の事実ですし、それに彼がアレクサンドリア、ローマで活躍していた西暦三世紀は、インドにおける大乗仏教の活力溢れる興隆期であったという事も、今問題としている事に無関係ではなさそうです。いや、そればかりではありません、この方面の権威の一人であった、ドイツの故エルンスト・ベンツ教授が、数年前、私に個人的に話してくれた処によると、その頃の地中海の大国際都市アレクサンドリアには、すでに相当有力な仏教コミュニティーが存在していたらしいとの事で、もしそれが本当だとすれば、あれほど烈しくインドの惹かれていたプロティノスが、彼らに接触していなかったとは、到底考えられません。

 私は今、この問題に早急に判定を下そうなどとは全然思っておりませんし、またその能力も資格もございません。しかし、とにかく、プロティノスと華厳との間には、たぶん偶然の一致ということ以上に、何か不思議な縁(えにし)が有るかのような気がしてなりません。両者を結ぶその縁の具体的な形は、「光」のイマージュ、「光」のメタファーの氾濫という事です。

 『華厳経』が、徹頭徹尾、「光」のメタファーに満たされている事は、皆様ご承知の通りですが、先刻引用した『エンネアデス』の一節も、終始一貫して「光」のメタファーの織り出すテクストでした。華厳もプロティノスも、ともに存在を「光」として形象する、あるいは、「光」として転義的に体験する。「光」のメタファーとは云っても、ここでは、単に表現形式上の飾りとしての比喩ではありません。観想意識の地平で生起する、実存転義そのものとしての比喩なのです。質料的不透明性を脱却して、完全に相互滲透的となった存在は、「光」的たらざるを得ない。そのような様態における存在は、おのずから、実在転義的に「光」となって現れる。だからこそ、二つのものが有る時、「光が光を貫く」という事が、そこに起るのです。プロティノスの語る「光燦々」とは、このような意味で実在的に転義し、メタファー化した存在世界の形姿に外なりません。

 

 プロティノスと華厳。両者を、いま申しましたように、「光」のメタファーで繋いでみますと、その延長線上に、いろいろ興味ある事が見えてきます。先ず第一に『華厳経』自体、このお経の展開する存在ビジョンが、隅から隅まで「光」のメタファーの限りない連鎖、限りない交錯、限りない重層の作るなす盛観である事は、ちょっとでも『華厳経』を開いた事のある人なら、誰でも知っているはずですが、この「光」の世界全体の中心点が、眩いばかりに光り輝く毘盧遮那仏であることに、特に注目したいと思います。「毘盧遮那」、原語はヴァイローチャナVairocana(語根は「燦然と輝く」)、万物を遍照する太陽、「光明遍照」、「光」の仏、を意味します。華厳的世界の原点、『華厳経』の教主が、このように根源的「光」の人格化としての太陽仏であるという事実に、私は何となくイラン的なものを感じます。ゾロアスター教の「光」の神、アフラ・マズダの揺曳する面影を、どうしてもそこに見てしまうのです。

 古代イランの「光」の宗教が、華厳の存在感覚の形成に影響したのではないかー直接の影響とまでは言わないにしても、深層意識的に両者を結びつける何かが在ったのではないかーというのは、今のところ、単なる推測に過ぎませんけれど、だからと言って、全く無根拠な憶測だとも言いきれない処もあるのです。

 『華厳経』が、現在我々の手にあるような、一大経典の形に編纂されたのは、西北インドまたは西域に於いてであり、特に天山南路の仏教の拠点、于闐(うてん・ホータン)が、恐らくこの大事業の中心地だったのではないか、と言われております。いずれにしても、この地域はギリシャ文化とイラン文化との交流する処、わけても西域は、その全体がイラン文化の圧倒的支配圏だったのであります。ですから、ここで華厳がゾロアスター教と深密な関係に入ったとしても、なんの不思議もございません。また、そうでなくとも、中央アジアタクラマカンの縹渺たる砂の海に照りわたる太陽の光の実感が、華厳経の本尊を、無限の空間に遍満する「光」の源泉として形象させたとしても、これ又聊かも不思議ではないのであります。

 とにかく、こうして出来上がった仏教の「光」の経典、『華厳経』は、シルクロードを通って、今度は中国の国際都市、長安にもたらされたのでした。ここでも又、古代イラン的「光」のメタファーの潜勢力が、奇妙な経路で中国仏教の深みに沁み込んで行きます。今、私は中国における華厳哲学の中心人物、法蔵という人の深層意識的イラン性を想像しているのです。

 賢首大師、法蔵(643―712)。中国華厳宗の第三祖。華厳哲学の大成者。紛れもな

い中国の思想家です。が、純粋な中国人ではない。少なくとも人種的には、漢族ではない、

というべきでしょうか。とにかく、中国人として中国に生れ、中国で育ち、中国仏教の中心

地、長安で仏教学の研鑽を積んだ法蔵は、実は西域人だったのです。彼の祖父は中央アジア

康居国、ソグディアナ、で高位を占めていた人で、彼の父の代に一家が中国に移って来たの

でした。ですから、中国に生れ育ったとはいえ、法蔵はソグド人。この天才児の肉体の中に

は、古代イラン文化の心が色濃い血となって流れていたはずです。とすれば、『華厳経』の

「光」の世界像に対する彼の、あの異常な傾倒を、ゾロアスター教的「光」の情熱の密かな

薫習に結びつけて考える事も、強ち荒唐無稽な想像とばかりは言えないでしょう。

 そればかりでは有りません。先に私は、プロティノスが華厳の影響を受けていたかも知れ

ないという考えをご紹介しましたが、もしそれが本当だとすれば、華厳は、プロティノス

通して、イスラーム哲学にも、中世ユダヤ哲学にも深く関わって来る事になるのです。イス

ラーム哲学、特にスーフィズムは、プロティノスの強い影響の下に発展した思想潮流ですし、

タムルード期以後のユダヤ哲学の史的発展もまた、プロティノスを抜きにしては考えられ

ません。なかんずくユダヤ教神秘主義の主流をなすカッバーラーなどに至っては、それの基

礎経典である『ゾーハルの書』の「ゾーハル」が元々「光暉」を意味する語である事からも

分かる通り、根本的に「光」のメタファーの形而上的展開です。また、イスラームの方では、

現にこの講演の第二部で主題的にお話しする事になっている、イブヌ・ル・アラビー(11

65―1240)の「存在一性論」も、プロティノスのの影響を受けております。彼の「理

理無礙」→「事事無礙」的存在論が、華厳哲学と如何に類似しているかは、後で詳しく主題

的に取り上げます。

 しかし、「光」の世界という点で、『華厳経』にもっと近いイスラームの思想家としては、

イブヌ・ル・アラビーと同時代のイラン人、スフラワルディー(1153―1191)の名

を挙げるべきでしょう。彼の主著『黎明(しののめ)の叡智』は、グノーシス的観想体験を

通じて「存在」を「光」に実在転義しmそれに基づいて、全存在世界を多層的な「光の殿堂」

として表象するものでありまして、唯一絶対の神的光源である「光の光」の反照を受けつつ、

一段また一段と重層的に現出していく光彩陸離たる「光」の世界。まさしく、『華厳経』の

世界像そのままであります。「光の光」という形に実在転義されたイスラームの神、アッラ

ーの姿に華厳の毘盧遮那仏、あの宇宙的「光」の仏、の分身をみる事も、決して考えられな

い事ではないでしょう。

 こう申しましても、イスラームグノーシスの極致と云われ、ゾロアスター教的「光」の

宗教のイスラーム化と謂われる、このスフラワルディーの存在ヴィジョンに華厳の影響が

ある、と言う訳ではございません。ただ、両者の間には、何らかの形での、少なくとも間接

的な、密かな繋がりが有るのかも知れない、と思っているだけの事です。因みに、「光の光」

から発出した「光」が次第に純粋度を失って、ついに最下層の経験的世界の物質性の「闇」

に消えていく、「光」の多層的、段階的構造の理論的構成において、スフラワルディーは、

明らかにプロティノスの流出論の影響を蒙っております。

 

 以上、想像とも推測ともつかぬ事柄を色々と申し述べてまいりました。先に一言いたしま

した通り、華厳の「事事無礙」的思想を、一つの普遍的思惟パラダイムと考えますならば、

それが東西の哲学の至る処、歴史的に何の親縁関係のない処にも、様々な形を取って現れて

来るであろう事は、当然、予想される訳でありますけれど、猶その外に、華厳を巡って、史

的親縁性の複雑に錯綜する網が、それこそ「事事無礙」的に、張り巡らされているのではな

かろうか、その可能性は確かにある、という事を、申し上げてみたかったのであります。

 しかし、こうした事は、学問的には、ほとんど全て仮説の域を出ません。この辺で、推測

に基づく考え方は切り上げて、以下、もっと具体的に華厳哲学そのものの考察に取りかかり

たいと存じます。

 

   二

 

 日常的経験の世界に存在する事物の最も顕著な特徴は、それらの各々が、それぞれ己れの

分限を固く守って自立し、他と混同される事を拒む、つまり己れの存在それ自体によって他

を否定する、ということです。華厳的な言い方をすれば、事物は互いに礙(さまた)げ合う

ということ。AにはAの本性があり、BにはB独自の性格があって、AとBとはそれによ

ってハッキリ区別され、混同を許さない。AとBとの間には、「本質」上の差違がある。A

の「本質」とBの「本質」とは相対立して、互いに他を否定し合い、この「本質」的相互否

定の故に、両者の間には自ずから境界線が引かれ、Aがその境界線を越えてBになったり、

Bが越境してAの領分に入ったりする事は出来ない。そうであればこそ、我々が普通「現

実」と呼び慣わしている経験的世界が成立するのであって、もしそのような境界線が事物

の間から取り払われてしまうなら、我々の日常生活は、その成立している基盤そのものを

失って。たちまち収拾すべからざる混乱状態に陥ってしまうでしょう。

 森羅万象―存在が数限りない種々多様な事物に分かれ、それぞれが独自の「名」を帯びて

互いに他と混同せず、しかもそれらの「名」の喚起する意味の相互連関性を通じて、有意味

的秩序構造を為して拡がっている。こんな世界に、人は安心して日常生活を行きているので

す。つまり、事物相互間を分別する存在論的境界線―荘子が「封」とか「畛(しん)」(原義

は耕作地の間の道)とか呼んだものーは、我々が日常生活を営んでいく上に、欠く事の出来

ないものでありまして、我々の普通の行動も思惟も、すべて、無数の「畛」の構成する有意

味的存在秩序の上に成立しているのであります。

 このように、存在論的境界線によって互いに区別されたものを、華厳哲学では「事(じ)」

と名づけます。とは申しましても、華厳思想の初段階において、第一次的に「事」と名づけ

ておく、ということでありまして、もっと後の段階で、「理事無礙」や「事事無礙」を云々

するようになりますと、「事」の意味も自ずから柔軟になり、幽微深遠な趣を帯びて来ます

が、それについては、いずれ適当な場所で詳しくお話する事と致しなして、とにかく今の段

階では、常識的人間が無反省的に見ているままの事物、千差万別の存在の様相、おれが「事」

という術語の意味である。とお考えおき願いたいと思います。

 

 ところが、事物を事物として成立させる相互間の境界線あるいは限界線―存在の「畛」的

枠組みとでも云ったらいいかと思いますが、―を取りはずして事物を見るということを、古

来、東洋の哲人たちは知っていた。それが東洋的思惟形態の一つの重要な特徴です。

 「畛」的枠組みをはずして事物を見る。ものとものとの存在論的分離を支えて来た境界線

が取り去られ、あらゆる事物の間の差別が消えてしまう。と云う事は、要するに、ものが

一つもなくなってしまう、と云うのと同じ事です。限りなく細分されていた存在の差別相が

一挙にして茫々たる無差別性の空間に転成する。この境位が真に覚知された時、禅ではそれ

を「無一者」とか「無」とか呼ぶ。華厳哲学の術語に翻訳して云えば、さっきご説明しまし

た「事」に対する「理」、さらには「空」、がそれに当たります。

 しかし、それよりもっと大事な事は、東洋的哲人の場合、事物間の存在論的無差別性を覚

知しても、そのまま、そこに坐り込んでしまわずに、また元の差別の世界に戻って来ると云

う事であります。つまり、一度はずした枠をまたはめ直して見る、と云う事です。そうする

と、当然、千差万別の事物が再び現われてくる。外的には以前と全く同じ事物、しかし内的

には微妙に変質した事物として、はずして見る、はめて見る。この二重の「見」を通じて、

実在の真相が始めて顕わになる、と考えるのでありまして、この二重操作的「見」の存在論

的「自由」こそ、東洋の哲人たちをして、真に東洋的たらしめるもの(少なくともその一つ)

であります。

 

  常無欲以観其妙

  常有欲以観其徼

 

 「常無欲、以て其の妙を観、常有(ゆう)欲、以て其の徼(きょう)を観る」―絶対的

無執著(存在無定立)の心をもって、(聖人は)存在を無差別相において見、同時にまた、

絶対的執著(存在定立)の心をもって、存在の境界差別を見る、と老子が言っています。『老

子』のこの文の読み方については、昔から異論がありまして、「常無、以て其の妙を観んと

欲し、常有、以て其の徼を観んと欲す」とも読まれておりますが、「常無」「常有」は大体に

おいて、仏教の「真空」「妙有」に当ると考えて良かろうと思いますので、結局、意味する

処は同じです。

 要するに、たった今お話しました東洋的哲人の、「畛」的限定をはずして事物を観想し、

はじめて観想する自由無礙の意識と、この二重操作に応じて顕現の相を変える存在の心の

あり方とを、この文は述べようとしたものに他なりません。

 ただ、二重の「見」とか二重操作とか申しましても、これら二つの操作が次々に行われる

のでは、窮極的な「自由」ではない。禅定修行の段階としては、実際上、それも止むを得な

いかも知れませんけれど、完成した東洋的哲人にあっては、両方が同時に起るのでなければならないのです。境界線をはずして見る。決して華厳だけ、あるいは仏教だけの話ではありません。例えば、イスラームスーフィズムでも、意識論的に、また存在論的に「拡散(ファルク)」―「収斂(ジャムウ)」「収斂の後の拡散」という三「段階」を云々いたしますが、ここで「収斂の後の拡散」と云うのは、修行上の談回ウィ考えての事でありまして、本当は、

「収斂・即・拡散」の意味でなければならない。そういう境位が、最高位に達したスーフィーの本来的なあり方であるとされるのです。だからこそ、スーフィズムの理論的伝統はそのような人の事を、「複眼の士」と呼んでいる。どんなものを見ても、必ずそれをー先ほどの

老子』の表現を使って言えば、―「妙」と「徼」の両側面において見る事の出来る人という意味です。しかし、すぐおわかりになると思いますが、事物を「妙」「徼」の両相において同時に見るという事は、とりも直さず、華厳的に言えば「理事無礙」の境位以外の何物でもありません。しかも、華厳哲学においても、イブヌ・ル・アラビーの存在一性論においても、「理事無礙」はさらに進んで「事事無礙」に窮極するのであります。

<後略>

 

   三

 

仏経に限らず、広く東洋哲学の諸伝統は、非常に多くの場合、思惟の窮極処において、「無」あるいは「無」に相当するものを、その思想の中に導入して来る事を顕著な特徴とします。「無」の導入は、東洋哲学の根源的パターンの一つと考えてよろしいかと思います。「無」に当るものを、『般若経』系統の大乗仏教では「空」と申します。

上来、私は事物間の境界を取り払う、「畛」的枠組みをはずす、と云うような表現を盛んに使ってまいりました。それは、要するに、存在ヴィジョンの中に「空」を導入して来ると云うこと、つまり、存在を「空」化すると云う事なのであります。ここで存在と申しますのは、前にご説明致しました「事」的存在秩序を意味します。簡単に言えば、存在論的に見た日常的「現実」の世界のことです。そういう世界の存在秩序を「空」化する、「空」によって破壊する。ですから、存在ビジョンの中に「空」を導入すると云うのは、これをもっと現代風に言い直せば、存在解体という事になりましょう。「事」的存在世界の秩序を解体する、それが仏教の説く「空」の第一の意味です。

 ところで、「事」てき存在世界とは、前述の如く、無数のものが、それぞれ(相対的に)他から独立しーつまり、互いに相異しながらー自立している分別の世界。様々に異なる事物が、緊密な相互連関性において日常的存在秩序をなしている。この存在秩序の成立根拠は、それを構成しているものが、それぞれ自立していると云う事です。AとBとが、互いに相異して、Aは何処までもAであり、Bは何処までもBであってこそ、AとBとの結びつき、存在秩序、と云うものが考えられるのですから。

ものそれぞれの自立性。AをAたらしめ、AをBから区別し、Bとは相異する何かであらしめる存在論的原理を、仏教の術語では「自性」(svabhava)と申します。「空」の導入は、まさに存在のこの「自性」的構造の中核を破壊します。その意味での存在解体なのであります。『華厳経』のいわゆる「一切は、本来、空なりと観ず」とはそのこと。我々ならば存在解体とでも云う処を、仏教は「一切皆空」と表現するわけです。

「一切皆空」という。やたらに使われすぎて、今ではまるで空念仏のように耳に響きますが、実はこの一句、元々、大乗哲学の最も根本的な立場を宣言したものであったのです。一切のものは、悉く空である、という、その「空」の語が、すべての存在者の「自性」の否定を意味する事は、先程の簡単な説明からも明らかでありましょう。裏から言えば、全てのものが「無自性(nihsvabhava)であると云う主張です。

 我々の日常的意識は、元来、素朴実在論的です。目の前に見えている全ての事物が、それぞれ、そのまま、そこに、そのもの自体として実在していると思っている。さっきもちょっと申しましたように、Aは何処までもAというものである。すなわち、このように存在を見る事に慣れている認識主体にとっては、AはAとして、自己同一的に自立する実体だ、と云う事です。Aのこの実体性、全てのものの実体性、を徹底的に否定するのが、「一切皆空」という命題の意図であり、それが又、存在「空」化、存在解体、の仏教哲学的意味であるのです。

 存在は、常識的には、それぞれが自己同一的に自立する無数の事物からなる「世界」という形の、がっしりした構造体として表象されているのですが、そこに「空」の覚知の光が差し込むと、今まで恒常不変であるかの如く見えていた、この存在の分別的秩序が揺らぎだし、解体してしまう。元々、AなるものをA性において把握し、BなるものをB性において把握し、そうする事によってAとBとの間に分け目をつける(と考えられていた)「自性」が、AとBだけでなく、すべてのものについて一様に否定される訳ですから、事物間の差異が消えてしまう事は当然です。ここで「自性」の否定というのは。今問題としている仏教思想のコンテクストでは、「自性」が実在するものではなく、「妄念」すなわち、人間の分別意識(存在を千差万別の事物に分けて見る、分けて見ずにはいられない認識主体)の所産に過ぎない、ということ。「自性」の実在性が否定されれば、ものとものとの間の境界線がなくなってしまう。『信心銘』にいわゆる「忘絶境界」(境界を忘絶す)という訳であります。そして、「境界を忘絶」され、お互いの間の分け目を消された全ての事物は、おのずから融合して、「混沌」化し、ついには、存在世界全体が「一物もない」無的空間に変貌してしまう。この無的空間を指して、禅が「廓然無聖」などと言っている事はご承知だろうと思いますが、とんかくこれが存在「空化」、すなわち、仏教的意味での存在解体プロセスの、一応の、終点です。

 

 存在解体の一応の終点と、今、申しましたが、事実、解体にはそのあとがあるのでして、実は、そこでこそ華厳哲学は、その独自性を発揮するのであります。「理事無礙」も「事事無礙」も、すべて存在解体のあとの問題、存在解体の、いわば華厳的な後始末なのです。しかし、この後始末を主題的に取り上げる前に、存在「空」化のもう一つの側面、つまり、認識主体との、それの関わりと云う重大な問題がある。

 

   四

 

 前節で私は、存在「空化」、すなわち、仏教哲学の考える存在解体が、どんな内的構造を持つものであるか、と云う事について概説的なお話しを致しましたが、このような存在解体は、我々が何もしないでジッとしていても、自然に起って来る訳ではない。存在を「空」的に見る為には、それを見る主体、つまり意識の側にも、「空」化が起らなくてはなりません。意識の「空」化が、存在「空」化の前提条件なのであります。ここで「空」化されるべき意識と云うのは、普通、仏教で「分別心」と呼ばれている我々の日常的意識のこと。「分別心」という表現そのものが示す如く、、そして又私が前節で縷々述べて参りましたように、様々な事物のひとつ一つに「自性」を認めて分別し、存在を差異性の相において見ようとするする、日常的主体に深く沁みついた認識傾向を意味します。このような意識が「空」化されなければならない。と云うのであります。

 法蔵の用語で申しますと、日常的意味は「空」化されて「無礙心」になる。「無礙心」にして始めて存在世界を「無礙境」として見る事が出来る。「無礙心」と「無礙境」とは表裏一体。それを「心境無礙」と申します。

 ところで、「無礙心」とは、文字どおり、何のさまたげも無い心、要するに、引っかかりの無い心、と云う事ですが、もしそうとすれば、「空」化以前の日常的意識の方は、引っかかりの有る心であるはずです。日常的意識が、一体どこに引っかかるのか、と云えば、それは、すでにお話した事からすぐお分かり頂けるように、存在の差別相に、そして存在差別相の中核を為す事物の「自性」に、であります。本当は実在しない「自性」を実在すると思い込み、それを中核と‘して自己同一的な実体としてのものを立て、それに引っかかって動きがとれない、これが仏教の見た日常的意識のあり方です。それを「分別心」とか「妄念」とか、云うのであります。

 「妄念」、すなわち存在分別的意識は、一体、何処から起って来るのか。この意識の成立の基盤を為す事物の「自性」妄想は何によって惹き起こされるのか。先に私は、意識の「空」化が存在「空」化の前提条件であると申しましたが、意識の「空」化は、この問いに対する正確な答えが突き止められない限り、実現不可能であるはずです。もし「自性」なるものが実在せず、従って事物の自己同一的実体性も存在論的虚像に過ぎないとすれば、そもそも何に唆されて、意識はそのようなものを分別し出すのか。それが重大な問題となって来るのであります。

 この問いにどう答えるか。答え方の如何によって、哲学が決定的に性格づけられてしまいます。仏教に限らず、一般に東洋哲学には、言語に対する根深い不信がある事は、皆様ご承知の事と思いますが、この場合、華厳も、ナーガールジュナ(龍樹)以来の伝統に従って、言語を「妄念」の源泉と考えます。人間の意識の働きは、コトバによって根源的に支配されている。コトバと云うより、もっと正確には、「意味」の支配です。この点で、華厳哲学は、唯識派言語哲学に全面的に依拠しております。

 『華厳経』(十地品)の、あの有名な「唯心偈」に「三界虚妄、但是一心作」と言われ、また法蔵は、「一切法皆唯心現、無別自躰」と一節に言っておりますが、これらの言葉は、これと同趣旨の無数の他の表現と同じく、いずれも要するに、唯識派の根本テーゼである「万法唯識」の展開に過ぎません。

 「万法唯識」。一切の存在者は、、根源的に、識の生み出す所である、と云う。この識は、委しく言えば、唯識哲学の措定する意識の構造モデルにおける第八層、いわゆる「アラヤ識」のこと。「アラヤ識」の原語alaya-vijnanaは「蔵識」、すなわち内的貯蔵庫の働きをする意識の深層レベル。意識の奥処に潜み、一切の存在者の元となる「種子(しゅうじ)」を貯えている深層領域として形象されます。様々な存在者の形を生み出す「種子」とは、もっと近代的な言葉に直すなら、潜在的、あるいは、暗在的状態における意味エネルギーとでも云ったら良いでしょう。「アラヤ識」は、つまり、潜在的意味のトポス。太古以来、個人を越えて、人類全体の経験してきたあらゆる事が、意味エネルギーに転生して、奔流の如く波立ち渦巻く、暗い、存在可能性の世界―比喩的イマージュで描いてみれば、まあ、そんな事だろうと思います。

 この深層意識的意味エネルギーは、全体が一様に等質的な存在可能性の流れではなくて、謂わば、強弱いろいろに度合いの違う、凝固性の差異によって句切られているのが特徴です。なかでも特に凝固度の高い処は、「名」によって固定されて独立し、記号学のいわゆる「シニフィアン(signifian指すもの・注)」ー「シニフィエ(signifie指されるもの・注)」結合体となって、表層意識で正式の言語記号として機能する。

 今日の記号論の常識からすれば「シニフィアン」に裏打ちされない「シニフィエ」などと云うものは、理論的に有り得ない訳ですけれど、唯識の「種子」理論を意味論的に読み直す為には、それを聊か拡張解釈して、まだ「シニフィアン」を見出すに至っていない。潜在的、暗在的「シニフィエ」と云うようなものを指して考えた方がいい。要するに、まだ「名」によって固定されていない、凝固しかけの「意味」可能体が、「アラヤ識」の中に、たくさん揺れ動いている、と云う訳です。

 このような有名無名の形で、意識の深層領域に貯えられている意味エネルギーの働きで、様々な存在形象が表層意識の鏡面に立ち現れてくる。存在形象は、すなわち、意味形象。「夢幻空華(虚華)、何ぞ把捉(はしゃく)を労せん」と『信心銘』の言う、まさに「夢幻空華」の如き意味形象を、常識的意識は実在するものとして認識するのであります。コトバのこのような意味形象喚起作用、すなわち、実在する(かくの如く見える)事物を、至る処に喚び起し、撒き散らして止まぬ作用を、唯識派の出現より前に、龍樹は「プラパンチャ」(prapanca)と呼んでいました。漢訳仏典では「戯論」という面白い訳語が当てられておりますが、「プラパンチャ」とは、元来、「多様性」「多様化」、何かが種々様々な形で現れる事、を意味します。龍樹はこう言います、「すべての(存在)分別はプラパンチャによる」。そして、さらにそれに加えて、「プラパンチャのこの働きは、人が空を覚知する時にのみ消滅する」と(『中論』十八、五・「大正蔵」三十・二三c二九・注)。「プラパンチャ」とは、ほかならぬ「空」そのものの「多様化」であったのです。

 

 こう考えて見ますと、「空」は本源的に意識と存在の前言語的あり方であり、意識論的にも存在論的にも、「コトバ以前」でなければなりません。そして「コトバ以前」が、ここでは、第一義的に「意味以前」として理解されなければならないと云う事は、すでに述べた処から明らかであろうと思います。

 ですから、本節の冒頭で問題としました意識の「空」化とは、「離言」すなわちコトバを超え、意味の存在喚起エネルギーの支配から脱却する事であります。いわゆる「言語道断」(コトバの道の断絶)の境に踏み込むことです。この事を華厳は、「世間施設の仮名字を捨離する」(日常世界において、人々が社会契約的に取り決めて立てた、仮の名を捨て去ること)などと表現しております。これは「名」によって固定され、「シニフィアン」―「シニフィエ」関係がすでに顕在的に成立している語の、はっきり限定づけられた「意味」形象を頭に置いての発言ですが、勿論、さっきお話し申し上げた処によれば、そういう意味ばかりでなく、まだ一定の「シニフィアン」を見出していない浮動的「意味」可能体までも含めて、一切の、存在形象の源泉となる「意味」エネルギーそのものが捨離されなければならない訳です。そのような形で、コトバを超え、意味の支配を超脱する、それが意識「空」化と云う事なのであります。

 存在「空」化の前提条件である意識「空」化は、従って、唯識コンテクストで申しますと、「アラヤ識」も「空」化と云う事になります。意識の「アラヤ識」的深層レベルにおける意味形象(=存在形象)の生成機能を、ピタッと停止させてしまう事。まごうかたなき「アラヤ識」の「無」化、「空」化です。唯識哲学では、しかし、これを「アラヤ識」の「空」化とはせずに、「アラヤ識」を「無垢識」に転成させる事、あるいは「アラヤ識」のさらに奥底に「無垢識」と呼ばれる是対的深層レベルを拓く事、と云うふうに考えます。

 「無垢識」(amala-vijnana)―華厳の「自性清浄心」に当るーは、文字通り、穢れ無きこころ。「妄念」が生み出すものの影さえない意識。「無垢識」は「空」意識であり、「空」そのものであって、この意識空間の形而上的清浄性を穢すものは一つもない、と云うわけです。

 ところが、意識の「空」化がここまで来て、存在が完全に「空」化されますと、そこに突然、実に意外な事態が起こって来る。つまり、今まで「三界虚妄」などと謂われていた、分別的存在世界が、逆に虚妄では無くなって来るのです。

 元来、「無垢識」は「空」化がそのままであり、いわゆる根源的「無分別智」なのでありまして、もし、この識が何かを見るとすれば、「空」だけしか見ないはずです。ところが、この「無分別智」が、「無分別」的でありながら、しかも、様々に「分別」された存在世界を見る、という事が起る。前に私は、二重の「見」と云うような事を申しました。まだご記憶の事と思いますが、「空」でありつつ、「不空」を見る。「空」と「不空」を同時に、いわば二重写しに見ると云う事でありまして、「不空」すなわち参差(しんし)たる事物の世界が、「空」を透き通して、また現われて来るのであります。「無垢識」本来の万象「空」化の光を、分別意識の平面に反映させ、一切事物を「無」化しつつ「有」化する、そういう目で現象世界を見直す、と云っても良いでしょう。コトバ(意味)を超えた所に立ちながら、コトバ(意味)の現出する多彩な事実世界を見直す、と云う事も出来るでしょう。『肇論』の、聖人を叙した有名な一節に、「処有名之内、而宅絶言之郷」(「大正蔵」四五・一五七a三・注)と云う言葉がありますが、それこそ、まさに、いま話している二重の「見」の実相です。「有名の内に処(お)いて、しかも絶言の郷に宅(やど)る」、すなわち、「名」の支配する世界、コトバの世界、意味的に分節されたものの世界、に身を置きながら、しかもコトバを絶した境位を離れない、と云うこと。「分別」と「無分別」、存在の意味的分節と無分節との同時成立。ここに、全く新しい存在の地平が拓け、以前とは、まるで違う存在風景が見えてくる。華厳独自の存在論は、そう云う処から始まるのです。

 

   五

 

 存在解体にはあとがある、と私は申しました。存在解体の後。前にも言った事ですけれど、大乗仏教に限らず、一般に東洋哲学の主流を為す思想伝統の根柢には、多くの場合、存在解体がありまして、それが色々な形で現れて来ます。しかし、東洋思想の立場から申しますと、存在解体そのものよりも、むしろ、存在解体の後で、一体、何が起るのか、と云う事の方がもっと大事なのです。勿論、哲学的な存在ヴィジョンとして、と云う事ですが。存在解体の後、存在解体の後始末。存在を解体してしまった後の、その後始末び付け方が、時代により、場所により、文化の性格によって、大きく違ってくる。私の今日の話、第一部の主要テーマである、華厳哲学の「事事無礙」も、その典型的な一例なのであります。典型的な一例というより、華厳哲学こそ、数ある東洋哲学の諸伝統の中でも、存在解体の後始末を、哲学的な意味で、最も見事に付ける事に成功した場合である、と言うことが出来ようと思います。存在解体後の存在論、それが華厳哲学の本領であります。

 

 存在解体のあとは、存在解体の跡を意味する、とも私は申しました。存在解体、すなわち存在「空」化は、禅定体験上の事実として、極限的境位においては、文字通りの「空」(虚空)であり、一物の影も留めぬ絶対「無」であるにしても、一瞬の閃光にも比すべき、この存在の絶対的、「空」化体験に続いて成立する「空」意識にとっては、解体され尽くした存在の残す崩れ跡が、ありありと見えて来るのであります。破壊され、粉砕され、無に帰した(はずの)ものたちの姿が、その傷痕を負ったままで、つまり、「無」化されながら「有」化すると云う形で、再び立ち昇って来る。元々、存在の「空」化と申しましても、ある意味では、前にもご説明しましたように、事物の自己同一的実体性が、否定される事に過ぎませんので、それらの事物が、実体性を奪われたまま、つまり、無「自性」的に生起して来ると云う事が、充分考えられる訳であります。

 「空」の立場から「不空」を見る、「無」を見て来た目で、そのまま「有」を見る、「無」と「有」とを二重写しに見ると云う、あの二重の「見」がここに現成するのです。「我、諸法の空相を見るに、変ずれば即ち有、変ぜざれば即ち無。三界唯心、万法唯識」(『臨済録』「大正蔵」四七・五〇〇a一八)と臨済が言っていますが、この意味では、普通の人は片目で世界を見ている、東洋の哲人は「複眼」で世界を見る、とも言えるでしょう。華厳哲学は、まさしく、「複眼の士」の見る存在ビジョンの存在論なのであります。

 

 このような見地に立って、「空」をもう一度見直して見ますと、「空」が決して単純に存在否定的ではなくて、存在肯定的である事が分かってまいります。「空」は、元来、字義そのものからして、何もない、がらんどう、と云う事で、存在の全面否定です。しかし「空」には、同時に、存在肯定的側面がある。絶対的な「無」には、絶対的であるだけに、却って「有」に向う顔がある、とでも申しましょうか。『老子』の一節に言われている通りです。「天地の間は、其れなお橐籥(たくやく)のごときか。虚にして屈(つ)きず、動いて、愈(いよいよ)出づ」(天地之間、其猶橐籥乎。虚而不屈、動而愈出)、と。天と地の間(全宇宙)に広がる無辺の空間は、ちょうど(無限大の)鞴(ふいご)のようなもので、中は空っぽだが、動けば動くほど(風が)出てくる、という‘のです。

 仏教の「空」の構想にも、この点では、これと全く同じ考え方が働いています。「無一物」、空っぽで、それ自体は何ものでも無いからこそ、逆に何ものでも有り得る。絶対的「無」であるからこそ、無限に「有」の可能性を秘めている。「空」概念そのものに内在する「無」「有」のこの微妙な構造的両義性を、仏教で古くから使われてきた「真空妙有」と云う言葉がよく表しています。「空」は、勿論、ものではないのですから、側面などと云うのも本当はおかしな話ですが、敢えて、構造モデル的に、「空」に二つの相反する側面、すなわち、「有」的側面(「妙有」)と「無」的側面(「真空」)とがある、とする訳です。

 だから、当然、同じ「空」哲学でも、「真空」的側面に力点を置くか、「妙有」的側面を前方に押し出すかによって、存在論の構図が著しく変ってきます。華厳哲学は、その中心部分をなす存在論に於いて、後者の立場を取る、つまり、根本的に「有」的であり、存在肯定的であります。但し、存在肯定的とは言っても、一度完全に「空」化され解体された存在の肯定し直しなのであって、解体以前の素朴な日常意識の存在肯定とは、全く思惟レベルが違います。意味的虚構としての「自性」を取り去られ、実体性を奪われた事物が、どんな新しい秩序を構成するか、それが華厳的存在論のテーマなのでありまして、要するに、さっきお話した「存在解体のあと」の存在論です。

 

 「妙有」的側面が脚光を浴びて前に現れ、「真空」的側面が背後の闇に隠れる場合、当然の事ながら、「空」は、思想的に、強力な存在肯定的原理として機能し始めます。「空」が、本来的には、否定性そのものであり、存在肯定的であった事を、恰も忘れてしまったかのように。すなわち、元来、存在「無」化のプロセスの終点として現成した「空」が、今度は、限りない存在エネルギーの創造的本源として、積極的に働きだす事になる。そのような形で、否定から肯定に向きを変え、「有」的原理に転換した「空」を、華厳哲学は「理」と呼びます。「理」は「事」と対を成して、華厳的存在論の中枢を成す重要な概念です。

 しかし、たとえ「理」という仮面を付けて、哲学的思惟の舞台に登場しても、「空」は依然として「空」。そして「空」は「空」である限り、存在否定的性質を失う事はないはずです。「理」における「空」のこの否定的契機は、存在論的無分別(無分節)という形で保持されます。すなわち、「空」は、ここでは、「コトバ以前」、つまり、コトバの深層的意味エネルギーによる存在分節の前、という資格で現われて来るのです。

「コトバ以前」と云うこと自体は、前に存在「空」化のプロセスをご説明した時、触れました。が、あの場合と今の場合とでは、その方向性が根本的に違います。前のコンテクストでは、無分節は「無」を意味した。絶対無分節、一物も分別、分節されていない、従って何ものも無い。ところが、今の場合では、無分節は、すなわち、分節可能性です。絶対無分節は、無限の分節可能性。先刻、『老子』の宇宙的鞴の比喩に関連して申し上げた事を、思い出して頂きたいと思います。それ自体が完全に中空で、空っぽだからこそ、動けば動く程、限り風が出てくる。「空」(=「理」)は、絶対無分別であるからこそ、無限に自己分節して行く可能性でもある。まだ何ものでもないから、、還って、何ものにでも成れるのです。

「無」が(「無」でああるが故に)還って「有」。「空」が(「空」であるが故に)還って「不空」。「空」(シューニャ・sunya)即「不空」(ア・シューニャ・a-sunya)という、常識的には誠に奇妙な事態が、ここに起って来ます。この考え方の底には、「如来蔵」系の思想の影響が有るのだと思いますが、とにかく、こういう考えが進展しますと、「空」(すなわち「無」)が「有」の極限的充実に転成し、ついには、ありとあらゆる存在者を、可能態において内包する「蔵(くら)」(「胎」)、一切の存在論的可能性の、貯蔵庫の如きものとして、形象化されるに至ります。

 

そう言えば、この講演の第二部でお話する予定のスーフィ哲学者、イブヌ・ル・アラビーの存在論でも、「秘めた宝」(kanz makhfi)という鍵概念がありまして、ここでも貯蔵庫のイマージュが重要な働きをして居ります。「秘めた宝」、地中深く埋め隠されて、地上の人には絶対に見えない宝物―神がその本源的「無」意識から一歩立ち出て、自らの意識に目覚めた状態、その神的自意識の形而上的構造を描くに用いた有名な比喩。それ自体においては、絶対的一であり、無分別でありながら(すなわち、不可視の、秘めた宝でありながら)、無限の現象的形態に自己展開していく、存在論的可能性(すなわち、秘めた宝)である、「無」的真実性の「有」的あり方を、神の自意識として描いたものでありまして、仏教的に申しますならば、まさに「空」の「妙有」的側面に当ります。

 

このように考えられた「空」が、すなわち、華厳哲学の「理」。無限の存在可能性である「理」は、一種の力動的、形而上的想像力として、永遠に、不断に、至るところ、無数の現象的形態に自己分節していく。無分節の存在エネルギーが自己分節する事に成立する、それらの現象的形態のひとつ一つが、それぞれもの(「事」)として我々の目に映じるのです。「空」(「理」)の、このような現われ方を、華厳哲学の術語で「性起」と申します。

 

   六

 

「理」が、すなわち、「有」的様態における「空」、本源的存在エネルギーとしての「空」、を指示する華厳哲学の術語である事は、ただ今、見た通りです。そしてまた、このように理解された「理」が、存在論的には絶対無分節者であって、それの様々な自己分節が、我々のいわゆる存在世界、万象差別の世界を現出するもの、つまり、一切存在の根基であり根源であると云う事も。

 絶対無分節者の自己分節などと申しますと、あたかも「理」が無数に分裂して、バラバラに成るかのように聞えるかも知れませんが、無論、そんな事はあり得ません。もともと「分節」とか「(妄)分別」とか云うのは、すでにご説明しましたように、窮極的には、われ意識の深層領域に潜む様々な「意味」的「種子」の喚起する虚構の区別に過ぎないのですから、現象界にどれほど多くの事物の形姿が分節し出されましょうとも、その源(もと)になる「理」そのものには何の変化もない。前にもちょっと出しましたが、仏典でよく使う通俗的な比喩で申しますなら、海面に立ち騒ぐ波浪と海水そのものとの関係のようなもの。どんなに多くの波が、現に、水面上で分節差別されていても、水それ自体は常に平等一味、という訳です。この意味で「理」は、虚空が一切処に遍在しながら無差別不分である如くに、「遍一切処、恒常不変」と言われます。

 「分別」と云うことを、以上のように理解した上であれば、我々は安んじて、ここに言う事が出来ると思います。「理」は、本来、絶対無分別であるが、しかも現象的には千差万別に分節されて現われる、と。仏教ではありませんけれど、ヒンドゥー教聖典『バガヴァド・ギーター』の一節を、私は思い出します。「無始なる至高のブラフマン」のあり方を叙した箇所です。「(かのブラフマンは、それ自体は)無分割であるが、しかも、様々な事物のなかに、あたかも分割されているかのごとくに、存立する」(Avibhaktam ca bhutesu vibhaktam iva ca sthitam)。存在分節の機微を捉えて間然するところなき短文と言えるでしょう。

 

 このように、本来は絶対に無分節である(すなわち「空」である)「理」が、一切のもの、ひとつ一つのものという形で、自己分節的に、現象してくる。そこに、我々が通常、「現実」とか経験的世界とか呼び慣わしている現象的存在次元、森羅万象の世界が生起する。要するに、「理」の「事」的顕現です。それを華厳では「性起」というじゅつで表すのであります。

 「性起」の意味を理解する上で、華厳哲学的に一番大切な点は、それが挙体「性起」であるという事です。つまり「理」は、いかなる場合でも、常に必ず、その全体を挙げて「事」的に顕現する、と云うこと。だから、およそ我々の経験世界にあると云われる一切の事物、そのひとつ一つが、「理」をそっくりそのまま体現している。という事になります。どんな小さなもの、それがたとえ、野に咲く一輪の花であっても、いや、空中に浮遊する一微塵であっても、「理」の存在エネルギーの全投入である、と考える。これが華厳哲学の特徴的な考え方であります。先ほども申しましたが、、「理」の「分節」とは云っても、何か「理」というものがあって、それが幾つかの部分に分割され、それら部分のひとつずつが、別々の「事」的個物を作り出す、と云うような事ではありません。何時でも何処でも、「理」は挙体的にのみ「性起」する、と考えるのであります。「遍一切処」―「理」が一切処に遍在するーと云うのは、この事を空間的表象で表現したものに過ぎなかったのです。世界に存在する無数の事物の、どの一つを取り上げて見ても、必ずそこに「理」がある、いや、それがそのまま「理」である、と云う事です。

 

 以上で、「理」と「事」の関係がどのようなものか、ほぼお分かり頂けた事と存じます。今お話したような形而上的プロセス、あるいは出来事によって、存在の「事」的次元が現象する。「事」は存在の差別相であり、事物分節の世界。この分節の世界は、「分節以前」としての「理」を、己れの現出の本源として反照する。この「理」「事」関係を、より華厳哲学的な言葉に写し取ってみれば、次のような事になるでしょう。すなわち、「理」は何の障礙(さまたげ)もなしに「理」を体現し、結局は「理」そのものである、と。「理」と「事」とは、互いに交徹し渾融して、自在無礙。この「理」「事」関係の実相を、華厳哲学は「理事無礙」という術語え表わすのです。

 凡夫、すなわち素朴実在論的認識主体、の目で見られた世界には差別しかない。互いに相異する無数のものが見えるだけです。前にも申しましたように、それらのものには一々「名」が付いている。「名」が付いていないまでも、少なくとも有「意味」的である。「名」を持っていても、いなくても、およそ「もの」と認められる限り、それらは、謂わば様々に違う度合における「意味」凝固体であります。ものが「意味」凝固体であると云うことは、それらがそれぞれ自己主張的であるという事。つまり、ものはみな存在論的に不透明なのです。だから、それを見る人間の視線は、そこに突き当って止ってしまって、それを透過する事は出来ない。例えば、花を見る目は、ハナという「意味」分節の壁に突き当って、その向う側に「理」(すなわち「意味」分節以前)を見る事が出来ない。このような認識主体にとっては「事」から「理」への通路が塞がれている。「事」と「理」の間は障礙されているのです。

 これに反して、仏、すなわち一度、存在解体を体験し、「空」を識った人は、一切の現象的差別の影に無差別を見る。二重の「見」を行使する「複眼の士」は、「事」を見ていながら、それを透き通して、そのまま「理」を見ている。というよりも、むしろ、「空」的主体にとっては、同じものが「事」であって「理」である、「理」でありながら「事」である、と言った方がいいでしょう。「事」が如何に千差万別であろうとも、それらの存在分節の裏側には、「虚空のごとく一切処に遍在する」無分節がある。分節と無分節とは同時現成。この存在論的事態を「理事無礙」(「事理無礙」)と云うのであります。

 

 以上で大体、「事」、「理」、「理事無礙」という華厳哲学の三つの鍵概念を説明いたしました。この三つに、これからお話する「事事無礙」を加えて、「四法界」とか「四種法界」とか申します。これら四つの概念を基礎として、その上に華厳的存在論を整然たる形で構造づけたのは、法蔵自身ではなくて、その後継者、中国華厳第四祖、清涼(しょうりょう)大師、澄観(738―839)であります。この「四法界」の思想は、法蔵およびその先行者たちによって展開されて来た思想潮流を、実に見事に体系化し、構造化したものでありまして、その後、大変有名になり、ついには、華厳と言えば一般の人はすぐ「四法界」「四種法界」を憶う、と云う程になりました。法蔵自身の作り出した体系ではないとはいえ、彼の思想はそこに充分生かされており、私の考えております「存在解体のあと」の存在論としての華厳哲学を、典型的な形で呈示するものであると考えます。

 ところで、「四法界」という名称の示す通り、ここでは、華厳的存在論の四つの基礎概念が、「事法界」、「理法界」、「理事無礙法界」、「事事無礙法界」と云うふうに、それぞれ「法界」を付して呼ばれております。なぜ、わざわざ「法界」などと云う言葉を付加するのか。何でもない事のようですが、これが中々難問でして、特に「法界」の「界」の字が何を意味するかについては、異説があって容易に決定出来ません。しかし、今、この問題の詳細に入っても仕方が御座いませんので、私自身の考えを簡単に申し述べて、早く先に進みたいと思います。

 「法界」という漢(訳仏典の)語はサンスクリットの原語に戻して見ますと、dharma-dhatuでありまして、「存在(者)の根拠」というような意味。諸法(ダルマ)を法として成立させる所以のもの(ダートゥ)、存在を存在たらしめる根拠、つまり、存在解体の後で存在を再び、新しい形で、成立させる存在論的プリンシプル、と云う事になりましょう。存在解体によって一切のものが「空」化され尽した空間に、またものの姿が現れて来て新しい構造を作り出していく、そのプロセスを分析的に把握する為の基底概念と云うことです。

 従って、このコンテクストでは、、前にもちょっと言いましたが、特に「事」原理が、微妙な二重性を帯びる事になります。「事」は、第一次的には、常識的、素朴実在論的認識主体の見る事物、「自性」を存在論的中核として自立する実体でありました。それが、今、存在解体後のコンテクストでは、第二次的に、「自性」を喪失しながらも、しかも猶ものであるようなものとして現われて来る。それがここでの「事」でありまして、またそうであればこそ、「事事無礙」と云うような事が成立するのです。「自性」すなわち本質を失った「事」は、常識的人間の立場からすれば、もはや「事」ではあり得ない。そこに、第二次的意味の「事」の異常な性格があります。「事」の「自性」喪失が、存在論的に、どれ程根本的に重大な事であるか。それは次節で明らかになるでしょう。「事事無礙法界」が次節の主題です。

 

   七

 

 華厳存在論は、「事事無礙法界」のレベルに至って、その展開の窮極に達する。この事は前に申し上げました。「事事無礙」が、なぜ華厳存在論の終点なのか。華厳の哲学的思惟は、素朴実在論的意味での「事」の否定から出発して、「空」に至り、そこから返って、「事」の復活に至る。第一次的「事」から第二次的「事」へ。哲学的思惟の展開の轍跡が、一つの存在論的円を描く。構造的には、「理事無礙」は完結の一歩手前、「事事無礙」は最終段階です。その意味でも、「理事無礙」は「事事無礙」の思想根拠でありまして、「理事無礙」の基盤がなければ、絶対に「事事無礙」と云う事はあり得ないのであります。

 

 ところで、「理事無礙」の概念をご説明した際、詳しく申し上げました通り、無分節的「理」の自己分節として「性起」する「事」は、「有」でありながら、しかも同時に「無」であると云う矛盾的性格を帯びています。「事」的世界、すなわち経験的事物の世界を構成する限りに於いて、それらの事物のひとつ一つは、確かに、そこにある。しかし、「理」的実相に於いては、それらは全て「空」であり、ないものである。ないとは、ここでは、「自性」なし、の意味です。存在解体を経たあとの事物の、それが本当のあり方なのです。

 だが、しかし、「自性」のない事物が個々のものである、と云うような事が、一体、有り得るでしょうか。元々、「自性」とは、事物相互の差異の原理です。AはAであり、BはBであって、AとBとは違うものであると云うのは、Aには A性という「自性」があり、BにはB性と云う「自性」が有るからではないでしょうか。AにもBにも「自性」がなければ、AとBとは差異性を失って、そのまま融合して一つに成ってしまうはずです。そして、そう考える事こそ、実は存在「空」化の第一歩であったのです。

 ところが華厳存在論は、「事事無礙」のレベルに至って、ものには「自性」は無いけれども、しかも、ものとものとの間には区別がある、と主張する。つまり、Aは無「自性」的にAであり、Bは無「自性」的にBであり、同様に他の一切のものが、それぞれ無「自性」的にそのものである、と云うのです。どうしてそんな事が可能なのでしょうか。Aが Aである所以のもの(「自性」)を失って、どうしてAであり得るのか。この時点で、存在論的関係性と云う、華厳的存在論ので一番重要な概念が登場して来るのです。

 すべてのものが無「自性」で、それら相互の間には「自性」的差異が無いのに、しかもそれらが個々別々であると云う事は、すべてのものが全体的関連に於いてのみ存在していると云うこと。つまり、存在は相互関連性そのものなのです。根源的に無「自性」である一切の事物の存在は、相互関連的でしか有り得ない。関連あるいは関係と言っても、単にAとBとの関係と云うような個物間の関係の事では在りません。全てがすべてと関連し合う、そういう全体的関連性の網が先ず有って、その関係的全体構造の中で、始めてAは Aであり、BはBであり、AとBとは個的に関係し合うと云う事が起るのです。

 「自性」のないAが、それだけで、独立してAである事は出来ません。それはBでもCでも同様です。「自性」を持たぬものは、例えばAであるとか、Bであるとか云うような固定性を持っていない。ただ、限りなく遊動し流動していく存在エネルギーの錯綜する方向性があるだけの事。「理」が「事」に自己分節すると云うのは、ものが突然そこに出現する事ではなくて、第一次的には、無数の存在エネルギーの遊動的方向線が現われて、そこに複雑な相互関連の網が成立する事だったのです。

 この状態においては、ものはまだ無い。ものは無くて、関係だけがある。ABCD・・・というような、いわゆるものは、すべて「理」的存在エネルギーの遊動する方向線の交差点に出来る仮の結び目に過ぎません。出来上がった結果から言えば、だから、ABCD・・・等すべてのものは、相依り相俟って、すなわち純粋相互関連性においてのみ、それぞれがAであり、Bであり、C・・・であるのです。

 従って、例えばAというもののAとしての存立には、BもCも、その他あらゆるものが関わっている。Bというもの、Cというもの、その他一切、これと全く構造は同じです。結局、全てが全てに関わり合うのであって、全体関連性を無視しては一物の存在も考える事が出来ない。あらゆるものの、この存在論的全体関連構造を、仮に図式的に視覚化すれば(図版は省略、ABC・・・互いに聯関する図様)、<中略>謂わば共時的(サンクロニック)な構造です。しかしこの存在関連においては、ABC・・・などの内の、ただ一つが動いても、もうそれだけで全体の構造が変って来るわけでして、従って、一瞬一瞬に違う形が現成する。つまり、全体を通時的(ディアクロニック)な構造としても考えなければなりません。

 しかし、とにかく、どの瞬間においても、例えばAという一つのものは、他の一切のものとの複雑な相互関連においてのみ、Aというものであり得る。と云うことは、Aの内的構造そのものの中に、反面、まさにその同じ全体的相互関連性の故に、AはAであって、BでもCでも、X、Yでもない、という差異性が成立するのです。

 ただ一つのものの存在にも、全宇宙が参与する。存在世界は、このようにして、一瞬一瞬に新しく現成していく。「一一微塵中、見一切法界」と、『華厳経』(「大正蔵」九・四一二c八)に言われています。あらゆるものの生命が互いに融通しつつ脈動する壮麗な、あの華厳的世界像が、ここに拓けるのです。路傍に一輪の花開く時、天下は春爛漫。「華開世界起の時節、すなわち春到なり」(『正法眼蔵』「梅華」、「大正蔵」八二・二一八a八)という道元の言葉が憶い出されます。

 ある一物の現起は、すなわち、一切万法の現起。ある特定のものが、それだけで個的に現起すると云う事は、絶対にあり得ない。常にすべてのものが、同時に、全体的に現起するのです。事物のこのような存在実相を、華厳哲学は「縁起」と言います。「縁起」は「性起」と並んで、華厳哲学の中枢的概念であります。

 

 「縁起を見る者は空を見る」という龍樹の有名な発言からも分かりますように、「縁起」は、「空」哲学としての大乗仏教の、そもそもの始めから、決定的に重要な働きをして来た鍵概念であったのです。「縁起を見る者は空を見る」。すなわち、「縁起」と「空」の同定です。「空」と言っても、勿論、純粋否定性としての「空」を、それ自体の形而上的抽象性において考えれば、「縁起」と同定する事は出来ません。しかし経験界あるいは現象界から翻って、そこに具体的に作用しつつある様態において見る時、「空」は「縁起」としてしか現成し得ない。つまり、前に申しましたようにのみ存在し得る、と云うことです。要するに、現象的存在次元に成立する事物相互間の差異性、相異性(分別、意味分節、存在分節)を、その本来の「空」性の立場から見たものを「縁起」とするのです。

 こう考えてみますと、「性起」と「縁起」、これら華厳哲学の二つの重要な術語が、ほとんど同じ事態を指示するものである事に、お気づきになるでしょう。同じ一つの存在論的事態を「性起」は「理事無礙」的側面から、「縁起」は「事事無礙」的側面から、眺めると云うだけの違いです。日本における華厳哲学の代表的思想家、東大寺の凝念(1240―1321)が、このような観点から見た「理」と「事」の関係を、こう説いています。「分と分と相対して互いに障礙あり。しかれども理を以て事事を融通す。理、融するを以ての故に、事事相融す」(『華厳法海義鏡』)と。現象的存在の次元における様々なものは、それぞれ己れの境界の中に閉じこもって対立し、互いに礙げ合っていて、それらが互いに滲透し合うという事はない(普通の人には、そう見える)。だが、考えてみれば、ものとものとが相互にどれほど違って見えようとも、実は、それら全てを通じて唯一不可分の「理」が遍在しているのであって、そのために、ものとものとの間の境界は透過可能なのであり、結局、すべてのものは「理」を通して互いに円融し、相即相入しているのだーと、まあ大体、そんな意味であろうと思います。「理事無礙」と「事事無礙」との表裏関係を叙して、頗る明晰かつ周到、と云うべきでありましょう。

 ついでながら、「縁起」は、原語ではpratitya-samutpada、文字通りには、「(他者)のほうに行きながら、(他者)のもとに赴きながら(pratitya)、現起すること(samutpada)」と云う意味です。「他者のほうに行く」とは、他者に依拠する、と云うこと。自分だけでは存在し得ないものが、自分以外の一切のものに依り掛かりながら、すなわち、他の一切のものを「縁」として、存在世界に起って来る、という事です。漢訳仏典では、これを簡単に「縁起」と訳すのです。すべてのものが、互いに依り掛かり、依り掛かられつつ、全部が一挙に現成する、という。前にお話した、「事」的存在の根源的関連性を、この語はよく表わしております。

 

 華厳哲学の、このような「縁起」的思惟パターンは、事物の生成現起を、原因・結果の関係で説明するアリストテレス的思惟パターンとは、全然その性質を異にするものです。後者、すなわち、因果律的な考え方は、西洋では中世スコラ哲学、東洋ではイスラームの神学で支配的な位置を占めました。簡単に言えば、ものを、その原因によって説明しようとする思惟形態です。すべて、ものの存在には、必ず原因がなければならない。例えば、Aというものが存在するとしますと、それはAの原因であるBの結果として説明される。そして、その

Bはまた、それの原因であるCによって、と云うふうに原因から原因へと遡っていって、最後にもうこれ以上は原因―結果系列が辿れない窮極の原因(X)に達します。どんなものの、どんな原因―結果系列を考えても、必ずXに行きついて終る。Xは、あらゆる原因―結果系列の線の終点、つまり全てのものの最終原因でありますが、それ自体は原因を持たない自己原因的原因なのであって、「第一原因」(アリストテレス)と呼ばれます。

 あらゆる存在者の窮極的始源として、「第一原因」は、当然、全存在界の中心点の位置を占め、これが、西洋の中世哲学やイスラームユダヤ教的スコラ哲学のコンテクストでは、『聖書』あるいは『コーラン』の神と同定されて、生ける人格神、万有の創造主の哲学的代理とされるのであります。

 結果から出発してそれの原因に至り、そこから又その前の原因に、という上昇的コースを取るにせよ、逆に「第一原因」から出発して結果から結果へ、という下降的コースを取るにせよ、いずれにしても、この思惟形態は一本線的な考え方です。これに反して華厳の「縁起」は、複線的。と云うより、限りなく重なり合い、限りなく錯綜する無数の線の、相互連関的網目構造を考えるのです。すでに何遍も言いましたように、Aという一つのものの存在を説明するのに、A以外の一切のものの同時的参与を考えるのです。

 従って、また、こうして現起する存在世界には、中心というものがない。無中心的、または脱中心的世界です。もし「中心」というなら、何処にでもちゅうのある世界、と考えてもいい。Aを取ればAが宇宙の中心、Bを取ればBが宇宙の中心、と云うふうに。あるいは、全体がそっくりそのまま中心である世界、とも言えるでしょう。しかし、それは結局、無中心と同じ事です。元々、存在解体、存在「空」化、とは、存在の無中心化と云う事でもあったのです。そんな無中心的純粋関連性の、力動的(ダイナミック)で遊動的な構造体として、華厳は存在世界を見る。そして、そのような形で見られた存在世界の構造的特徴を、「事事無礙」と云う言葉で記入し、存在テクスト化するのです。

 

 「事事無礙」。上来、私はこの語を、特に主題的に取り上げる事なしに、自由に使用して参りました。「事事無礙」がどんな存在論的事態を指すものであるか、これまで申し上げて来た事だけでも、大体の所はお分かりになったのではなかろうかと思いますが、ここで改めて、それを、もっと華厳的存在ヴィジョンに密着した形で叙述し直してみる事で、この講演の第一部を終わらせて頂きたいと存じます。

 

 すべてのものは、相依相関的に、瞬間ごとに現起する。存在のこの流動的関連性は、無限蔭に延び広がって、一塵と雖もそれから外れる事はない。と、簡単に言えば、これが「縁起」という事であります。一一のものが、すべてのものに繋がっている。この事をイマージュ的に表現する為に、一塵起って全宇宙が動く、などと申します。ただ一個に微塵が、かすかに動いても、その振動は、全体的存在聯関の複雑な糸を伝って、宇宙の涯まで伝わっていく、というのです。

 しかし、ここで華厳が考えている存在関連は、単にすべての事物が相互に繋がっている、と云うだけの事では有りません。もっと重要な事は、すべてのものが、相互滲透的に関連し合っていり、と云う事なのです。

 この講演の最初に引用したプロティノス『エンネアデス』の一節に、ひとつ一つのものが全てのものであり、全てのものが一つのものであり、すべてが全ての中にある、と云うような意味の事が言われておりました。ただ一個のアトムの中に、全宇宙が、無数の層を成して繰り込まれている。一個のアトムが全宇宙であり、全宇宙が一個のアトム。「光が光を貫いて走る」。華厳的に云うなら、「自性」をなくして「光」となった、あるいは光のように透き通しになった、全ての事物間の相互滲透性を形象的に描いたものですが、それが華厳哲学の説く「事事無礙」なのであります。

 華厳哲学の極致と称されるだけあって、「事事無礙法界」は、法蔵自身も、かれの継承者たちも、これを色々違う形で叙述しております。以下、その中の二つを取り上げて、華厳的「事事無礙」観の一端を覗いて見る事に致しましょう。ここで取り上げる一つのアプローチ、その一は世に有名な鏡灯の比喩、その二は「有力」「無力」の原理に基づく「主伴」の論理。前者は、言うまでもなく、「事事無礙」のイマージュ的再現、後者はそれの構造理論的解明であって、これら二つを合わせれば、法蔵の華厳哲学の性格を、ほぼ正確に理解する事が出来ます。

 

 先ず第一に鏡灯の比喩。すでにご承知の方も多い事と存じますので、その大要だけを、これまでお話して来た事に照らして、ごく簡単に。

 今、一つの燭台うを真中にして、全部がそれに面を向けるような形で、多くの鏡を設置するとします。燭台に火を点ずると共に、すべての鏡がその火を映して一時に輝き出す。それと同時に、ひとつ一つに映る火が自分以外の全ての鏡に映っている、その火をも含めてー限りなく映していく。と、云う具合に、鏡は鏡を映し、火は火に照らし照らされて、その相互映発は、どこまでも続く。こうして、多くの鏡に映る一つの光が、無数の光に分れ、それらの光は重々無尽に交錯しつつ、無限の奥行きを持った、光の多層空間を作り出していくのであります。

 この講演の冒頭で、私はイスラームグノーシス的思想家スフラワルディーの「光の哲学」に触れましたが、彼の描く宇宙的「光の殿堂」も、唯一の光源から発出する無数の光が重々に織りなす光明世界のイマージュでありまして、思想構造としては、今ここに略述しました華厳の鏡灯の世界と、全く同じ性質のものです。一つの「光」から分れ出る無数の「光」は、別々の「光」でありながら、しかもすべてが唯一無二の「光」。「光」と「光」が互いに映発しつつ滲透し合い、相即相入して円融無礙。そこに、炳然と現出する多層的光明世界。いずれにしても、「事事無礙」的存在ヴィジョンを、この上もなく巧みに比喩化して再現したもの、と言えるでありましょう。なお、あらゆる存在者の重々無尽の相即相入をイマージュ的に描き出すものとしては、このほかに「因陀羅網」すなわちインドラ神(帝釈天)の宮殿に懸かる宝珠の網、の比喩が古来有名ですが、鏡灯の比喩と全く同趣旨ですから、ここではこれ以上お話しない事にして、次に進みたいと思います。

 

 第二番目に取り上げたいのは、「有力」「無力」に基づく「主伴」的存在論理であります。元来、この「有力」「無力」という概念は、法蔵自身の思想大系の中では、領域的にかなり限定された形で使われているものです。つまり、すべての存在者について、「体」(そのもの自体)と「用」(それの機能)と、の二面を分け、「有力」「無力」を、特に後者、すなわちものの働きの面、に於ける原理とするのであります。すべてのものは、互いに機能的に「有力」「無力」の関係に立つ。しかも、その関係は、どれが本来的に「有力」でどれが本来的に「無力」、と云うふうに固定される事なく、「有力」「無力」、相互に転換し合って融通無礙である、と云う。しかし私は、ここで、この重要な二概念の含意を、純存在論的に読み取って、現象界に於ける存在の構造そのものの、理論的基底として組み立て直してみたいと思うのです。

 

 今、仮に、ABCという三つのものー具体的には、例えば「鳥」と「花」と「石」―があるとする。すでにご説明した「性起」と「縁起」の原理によって、ABCが、いずれも、「空」の「有」的側面である絶対無分節者の分節的現起の形であること、そしてまた、その限りに於いて、ABCが、それぞれ、違うものでありながら、しかも互いに相通して、円融的に一であること、は明らかでありましょう。と、云うことは、すなわち、ABCは、いずれも、まったく同じ無限数の存在論的構成要素(abcde・・・)から成っている、と云う事にほかなりません。A=(abcde・・・)であるなら、またB=(abcde・・・)であり、Cも同じ。

 すべてが全てを映現する、あるいは、一一のものの中に全宇宙が含まれている、と云う鏡灯的「縁起」の原則によって、これらの存在論的構成要素(abcde・・・)は、ABCのどの場合に於いても、全部が一挙に起り、互いに交流し渉入し合いながら、Aを現成させ、Bを現成させ、またCを現成させていく。

 存在を記号化し、ものをすべて、記号的機能性に於いて把握しようとする現代の記号学の立場で考えるなら、今ここで問題としている存在論的状況では、Aは「シニフィアン」、(abcde・・・)はその「シニフィエ」と云う事になりましょう。つまり、「シニフィアン」Aー「シニフィエ」aと云うような、単純な一対一の記号構造ではない、と云う事です。たしかに、常識的な存在観に基づく記号学では、事態は、原則として、このように単純化されて呈示されるでしょう。しかし、華厳的記号学―仮にそのようなものが有るとしての話ですが、―では、、記号化されたものの存在論的意味構造は、「シニフィアン」A―「シニフィエ」(abcde・・・)と云う形を取る。しかも、「シニフィアン」は違っても、「シニフィエ」の方は、いつも同じ(abcde・・・)なのです。

 複合的「シニフィエ」の構成要素は、どの場合でも、全く同じであるのに、「シニフィアン」はAであったり、Bであったり、Cであったりする。どうして、そんな事が起るのか。「シニフィエ」が全く同じであるのに、どうしてAはAであってBでもなくCでもないと云うような事が有り得るのか。みな同一の複合的構成要素から成るちは云え、それらの相互の間には、常に必ず「有力」「無力」の違いがある、と華厳哲学は考えます。構造要素群の中のどれか一つ(あるいは幾つか)が「有力」である時、残りの要素は「無力」の状態に引き落される。「有力」とは積極的、顕現的、自己主張的、支配的と云う事。従って、「無力」とは、勿論、消極的、隠退的、自己否定的、被支配的である事です。「有力」な要素だけが表に出て光を浴び、「無力」な要素は闇に隠れてしまう。普通の人には、「有力」な要素だけしか見えない。しかも、(abcde・・・)のうち、どれが「有力」の位置を占めるかは、場合場合で力動的に異なるのです。つまり、「性起」の仕方、無分節者の自己分節の仕方、が場合場合で違う。この存在分節の違いは、ひとえに、どの要素が「有力」的に現起し、どれが「無力」的に現起するか、によって決まる。「有力」的に現起したものは主となり、「無力」的に現起したものは従となる。それがすなわち「主伴」の論理であります。

 AがAであってBやCでない、BがBであってAやCとは違う、云々という、もの相互間の存在論的差異性は、「主伴」論理によって支配されます。すなわち、A がAであるのは、その構成要素(abcde・・・)のうち、例えばaが「有力」で、b以下すべての他の要素を「無力」化してしまうからであり、B がBであるのは、例えばbがたまたま「有力」で、そのために、Aの場合には「有力」であったaも含めて、残りの要素が全部「無力」状態に置かれるからである、と考えるのです。全く同じ構成要素を共通に持ちながら、ABCが互いに違うものであるという、一見奇妙な事態が、こうして説明されます。

 すべてのものは、結局、それらの共有する構成要素の、「有力」「無力」的布置いかんによって、とは明らかです。「無礙」とは、元々、障礙(さまたげ)が無いと云う事なのですから。A はAでありながら、BでもありCでもある、それでいて事実上はAであっても、BでもなくCでもない。こんな存在論的境位では、すべてのものが互いに融通無礙であることは当然ではないでしょうか。差異が無いわけではない。しかしその差異は、謂わば透き通しの差異なのです。

 我々の日常的経験の世界、すなわち存在の現象的次元では、「有力」な要素だけが浮き出ていて、「無力」な要素は、全然、目に入りません。また、それだからこそ、ものがものとして個々別々に見えている訳なのですが、だからと言って、「無力」な要素が見えないと言っても、それは我々普通の人間の場合のことで、仏教の語る仏や菩薩たち、つまり前にお話した「複眼の士」には、ものの「無力」的側面も「有力」的側面も、同時に見える。我々の認識能力は、何を見ても、それの「有力」的側面にだけに焦点を絞るように出来ているので、「無力」的側面は完全に視野の外に出てしまうのですが、「複眼の士」の目は、常に必ず、存在の「無力」の構成要素を、残りなく、不可視の暗闇から引き出して来て、如何なるものをも、「有力」「無力」両側面に於いて見る事が出来るのです。このような状態で見られた存在世界の風景を叙して、華厳は、あらゆるものが深い三昧のうちにある、と云うのであります。

 

 以上、私は、紆余曲折を経ながら、「事」に始まり「事事無礙」に至る華厳哲学の長い道を辿って参りました。法蔵の存在論そのものについては、まだたくさん申し残した事が有りますけれど、これで、とにかく、華厳の「理事無礙」→「事事無礙」を主題とする第一部を、ひとまず終る事と致しました。

 

〈後半は省略〉

 

 

これは『思想』誌上に掲載されたものを、ワード化したものであり、

一部修訂を加えたが、大意は損なわないものであり、後半部は略した。

                               (タイ国にて・二谷)

十二巻本『正法眼蔵』―『大修行』と『深信因果』の関係

 

十二巻本『正法眼蔵』―『大修行』と『深信因果』の関係

石井修道

 

 ここでは十二巻本で論争の発端となり、最も重要な問題として取り上げられている『大修行』と『深信因果』の問題であろう。両巻に共通の公案に「百丈野狐の話」があり、その解釈が全く異なる事が指摘され続けている。

 寛元二年(1244)三月九日に吉峰寺で示衆された『大修行』では、

  大修行を摸得するに、これ大因果なり。この因果かならず円因満果なるがゆゑに、いま

だかつて落不落の論あらず、昧不昧の道あらず。不落因果もしあやまりならば、不昧因果もあやまりなるべし。

とあったのが、『深信因果』では、

  しかあるに、参学のともがら、因果の道理をあきらめず、いたづらに撥無因果のあやまりあり。あはれむべし、澆風一扇して祖道陵替せり。不落因果はまさしくこれ撥無因果なり、これによりて悪趣に墮す。不昧因果はあきらかにこれ深信因果なり、これによりて聞くもの悪趣を脱す。あやしむべきにあらず、疑ふべきにあらず。近代参禅学道と称ずるともがら、おほく因果を撥無せり。なにによりてか因果を撥無せりと知る、いはゆる不落と不昧と一等にしてことならずとおもへり、これによりて因果を撥無せりと知るなり。

とあって、『大修行』では、「不落因果」を否定していなかったが、『深信因果』では、これ

を「撥無因果」と断定されるに至る。これを道元の思想の変化とするか、示衆対象を異にし

ての別々の意図とするかで意見が分かれる事になる。鏡島元隆(1912―2001)氏は

「十二巻本『正法眼蔵』の位置づけ」(『道元禅師とその宗風』)で次のように言う。

  『大修行』巻は、不落不昧一等の立場から不落因果の道理を説いたものであり、『深信

因果』巻は、不落不昧対立の立場から不昧因果の道理を示したものである。(中略)『大修行』巻と『深信因果』巻は、一方を捨てなければ他方が成り立たない二者択一的な関係ではなく、互いに相補的な関係にあるのである。

 同じような説が多くの研究者から出され、『大修行』には『大修行』を説いた意図を認めて、『深信因果』があっても、それを放棄するような性格ではないのである。

 確かに寛元二年の『大修行』の示衆の時点で、「大」修行を論じ、「大」因果を論じ、「円因満果」が問題にされたので、不落不昧一等と説かれたのである。だが、十二巻本が示衆されたその時点では、その説を認める事が出来なくなったのではなかろう歟。

 ここで、十二巻本がいつ書かれ、なぜ書かれるに至ったかの問題を絡めて取り上げる。そこには、鎌倉行化が深く関わると考えられる。

 かつて『正法眼蔵随聞記』巻三では、

  また、ある人すすみて曰く、「仏法興隆のため関東に下向すべし」と、

  答えて曰く、然らず。若し仏法に志あらば、山川江海を渡っても、来って学すべし。その志ならん人に、往き向ってすすむとも、聞き入れん事不定なり。ただ我が資縁のため、人を誑惑せん、財宝を貪らんためか。其れは身の苦しければ、いかでも、ありなんと覚ゆるなり。

とあるように、関東への教化は認めていなかったはずであるが、道元は四十八歳の八月三日

より四十九歳の三月十三日まで、鎌倉に下向したのである。その間に『涅槃経』「梵行品」

を引用した『鎌倉名越白衣舎示誡』(現存部分は外道説のみであるから、逆説として使用し

たか、後半の耆婆の説が欠けたかであろう)が残っている。そして『永平広録』巻三・二五

一上堂が帰山上堂となるのである。

  宝治二年《戊申》(1248)三月十四日の上堂。云く、山僧、昨年(1248)八月初三の日、山を出でて相州鎌倉郡に赴き、檀那俗弟子の為に説法す。今年今月昨日寺に帰って、今朝、陞座す。這の一段の事、或いは人有って疑著す。幾許の山川を渉りて、俗弟子の説法する、俗を重んじ、僧を軽んずるに似たりと。又た疑う、未だ曾て説かざるの法、未だ曾て聞かざるの法有りやと。然れども都(すべ)て未だ曾て説かざるの法、未だ曾て聞かざるの法無し。只だ他の為に、修善の者は昇り、造悪の者は堕つ、修因感果、塼を抛って玉を引くと、説くのみ。是の如くなりと雖然(いえど)も、這の一段の事、永平老漢、明得し、説得し、信得し、行得す。大衆、這箇の道理を会せんと要すや。良久して云く、尀耐(ほない)たり、永平が舌頭、因を説き果を説くに由無し。功夫耕道多少の錯りぞ。今日憐れむべし水牛と作ること。這箇は是れ説法の句、帰山のく作麽生が道(い)わん。山僧出て去る半年の余。猶お孤輪の太虚に処(お)るが若し。今日山に帰れば雲、喜びの気あり。山を愛するの愛は初めよりも甚だし。

 「修善の者は昇り、造悪の者は堕つ」の説が『深信因果』の「おほよそ因果の道理、歴然

としてわたくしなし。造悪のものは堕し、修善のもにはのぼる、毫釐もたがはざるなり」と

結びつくことは、多くの研究者の指摘するところである。この帰山上堂を分析すると、鎌倉

行化は失敗と挫折であった事への反省であろう。鎌倉行化は、『出家』の示衆の翌年に当た

ることからも。これが十二巻本の撰述の動機の遠因と考えられる。しかしながら、帰山後は、

永平寺の僧団の清規についての撰述を含めて、中国風の叢林の定着に努め、「行」を強調す

るに至ったと考えるものである。それ故に、十二巻本の撰述時期については、建長元年(1

249)の八月二十五日と思われる三四六上堂と、それに続く九月一日の三四七上堂より後

の巻五以降と考えている。『永平広録』の巻二から巻四の侍者懐弉編から、巻五から巻七の

侍者義演編に偏者が替わる時期とも重なり合うのである。鏡島元隆氏等よりは、異論が出さ

れてはいるが、筆者(石井修道・注)は、この年の九月十日に著わされた『尽未来際不離吉

祥山示衆』に注目しているのである。

  (建長元年)九月初十日、師、衆に示して云く、「今日より尽未来際、永平老漢恒常に山に在って、昼夜当山の境を離れず、国王の宣明を蒙ると雖も、亦た誓って当山を離れず。其の意如何。唯だ昼夜間断無く精進し、経行し、積功累徳せんと欲するが故なり。此の功徳を以て、先ず一切衆生を度さんとして、見仏聞法せしめて仏祖の窟裏に落とさんとするなり。其の後、永平、大事を打開して、樹下に坐して魔破旬を破り、最正覚を成ぜん」と。

  重ねてこの義を宣べんと欲して、偈をもって説いて云く、

    古仏の修行多く山に有り、春秋冬夏亦た山に居す、

    永平、古の蹤跡を慕わんと欲して、十二時中常に山に在り。

 『弁道話』の「弘法救生」の願いを果すために、正法の弘通には「王勅をまつ」とした思

いを間然に断ったのである。宝治元年六月十日の異例の後深草天皇聖節上堂を残しながら

も続いて起った鎌倉行化の失敗は、改めての誓願が必要だったのであろう。つまり、『発菩

提心』にいう、

  菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願

  しいとなむなり

であり、また、

  「発心」とは、はじめて「自未得度先度他」の心をおこすなり、これを初発菩提心といふ。この心をおこすよりのち、さらにそこばくの諸仏にあふたてまつり、供養したてまつるに、見仏聞法し、さらに菩提心をおこす、雪上加霜なり。

ということであろう。まさしく『出家功徳』に引用される『釈迦如来五百大願経』の内容や

『供養諸仏』の瓦師の発願に通じるものがある。このことは、その後の『永平広録』巻六に

ある建長三年(1251)の四三〇上堂の、

  上堂。二十五有に流転するの際(あいだ)、最も得難きの事有り。謂ゆる生れて仏法に

  値うなり。既に仏法に遇えども、菩提心を発すこと、亦た最も難きなり。既に仏法を

  得たれども、親を捨てて出家すること、亦た最も得難し。既に親を捨てて出家することを得れども、又た六親を引導して仏道に入らしむこと、亦た最も難きなり。

や、四三四上堂の、

  上堂。仏々祖々、先ず誓願を発して衆生を済度し、苦を抜いて楽を与う、乃ち家風なり。

とも通じあうであろう。

 因みに建長二年(1250)六月下旬頃の『永平広録』巻五・三八一上堂に『賢愚経』「出

家功徳尸利苾提品」より引用された長文の福増の出家物語があるが、それを前提として『出

家功徳』や『四禅比丘』が撰述された可能性もそれを裏付けるであろう。同様に考えられる

のは、同年の七月初旬の三八三上堂や翌年の正月十五日の四一二上堂における三教一致批

判と『四禅比丘』との関係などである。建長二年の年頭には、波多野義重より大蔵経を書写

して永平寺に安置したいとする手紙が届き、それに対する感謝の三六一上堂が残っている

が、その大蔵経が「十二巻本」の原典となった事も考えられる。

 ここに『大修行』と『深信因果』との関係で、取り上げられる建長四年(1252)六月

下旬頃の『永平広録』巻七・五一〇上堂を見る。

  上堂。云く、学道の人、因果を撥無することを得ること莫かれ。因果若し撥(はら)えば、修証終(つい)に乖(そむ)く。百丈野狐の話を挙し了りて、乃ち云く、或る者疑いて云く、「野狐は是れ畜生、那ぞ五百来生を知ることを得ん」と。此の疑い、最も愚なり。汝等、須らく知るべし、衆生の類、或いは畜、或いは人、生得の宿通を具すること之れ有り。或いは云く、「不落・不昧は乃ち一等なり、然れども、堕・脱は只だ是れ自然なるのみなり」と。是の如きの見解は、乃ち外道なり。今日永平、一句の語を著けん。若し不落因果を道わば、必ず是れ撥無因果、若し不昧因果と道わば、未だ他の隣珍を数うることを免れず。良久して云く、多歳住山す烏拄杖、龍と作りて、一旦、風雷を起す。

 石井清純氏の「十二巻本『正法眼蔵』と『永平広録』―「百丈野狐」の話を中心として」

(『宗学研究』30号)で述べるように、「若し不昧因果と道わば、未だ他の隣珍を免れず」

とあって、「若し不昧因果と道わば、これ深信因果なり」とは言わないが、かと言って『大

修行』の説のように並列的に肯定しているとは思われない。やはり上堂全体は、まず撥無因

果を否定し、不落不昧一等の説は外道といい、不落因果は撥無因果と説いているから、基本

的には十二巻本の主張と同様と解してよいと思っている。そのように解すれば、道元の晩年

は十二巻本の説を重視していた事は間違いないであろう。

 

 建長四年二月初旬の『永平広録』巻七・四八五上堂がそれを裏付けてくれる。

  上堂。云く、夫れ仏祖の児孫、必定して仏祖の大道を単伝す。我が仏如来言く、「仮令

  い百劫を経とも、所作の業亡ぜじ、因縁会遇せん時、果報還って自ら受く」と。第十九祖鳩摩羅多尊者、闍夜多尊者に示して日く、「且く善悪の報に三時有り。凡そ人は但だ仁なるものは夭(いのちなが)し、暴なるものは寿(いのちなが)し、逆なるものは吉にして、義なるものは凶なりとのみ見て、便ち因果を亡じ、罪福を虚しと謂(おも)えり。影響相い随うこと、毫釐も忒(たが)うこと靡(な)く、縦(たと)い百千劫を経とも、亦た磨滅せざることを知らず」と。仏祖の道は斯(か)くの如し。仏祖の児孫、直須(ただ)骨に刻み肌に銘ずべきのみ。

  外道六師の中の第一富蘭那迦葉、諸弟子の為に是の如きの言を説く、「黒業有ること無く、黒業の報い無し。白業有ること無く、白業の報い無し。黒白業無く、黒白業の報い無し。上業及以(および)下業有ること無し」と。第六尼乾陀若提子、諸弟子の為に是の如きの言を説く、「悪無く善無く、父無く母無く、今世無く、後世無く、阿羅漢無く、修道無し。一切衆生、八万劫を経て、生死の輪に於て自然に得脱す。有罪無罪、悉く亦た是の如とし」と。

  明らかに知りぬ、仏祖の所説と外道の邪見と、終(つい)に同ずべからず。謂く、業報に三種あり、一には現在受業、二には生受業、三には後受業、影と響の相い随うが如く、鏡を以て像を鋳るに似たり。

 この上堂と『三時業』が同一資料を使用し、同一の説を展開している事は、明らかな事で

あり、道元の晩年の主張は十二巻本の説を示衆していたのであり、「仏祖の児孫」への説示

は、十二巻本が単に対象として永平寺教団に入門してくる初心者にあったのではないかと

言える。『一百八法明門』にも「いま初心晩学のともがらのために、これを撰す。師子の座

にのぼり、人天の師となれらんともがら、審細参学すべし」と、あることが注目される。

 それでは、十二巻本をなぜ書かねばならなかったのかを、七十五巻本おの関わりで考える。

そのことを問題にする時に参考となるのが、徹通義介(1219―1309)と孤雲懐弉(1

198―1280)との問答を記す『御遺言記録』(1255年の条)に見出せる。

  同(正月)六日、夜参に二談有りし次(おり)、義介、諮問して云く、「義介、先年、同

一類の法内に、談ずる所に云く、『仏法の中に於て諸悪作すこと莫し、衆善は奉行すべしと。故に仏法中にては諸悪は元来莫作なり、故に一切の行は皆な衆善なり。所以に挙手・動足の一切の作す所、凡て一切諸法の生起にして、皆な仏法なり、云々』と。此の見は正見なるや」。

和尚(懐弉)、答えて云く、「先師(道元)の門徒の中に、此の邪見を起こせし一類有り、故に在世の時に義絶し畢(おわ)りぬ。門徒を放たるること明白なり。この邪見を立つるに依りてなり、若し先師の仏法を慕わんと欲するの輩ならば、共に語り同(とも)に坐すべからず。是れ則ち先師の遺誡なり」。

道元の門下への批判は、まさしく栄西の『興禅護国論』の日本達磨宗批判と類似する事は明らかである。

  問うて日く、「或る人、妄に禅宗を称して名づけて達磨宗と日ふ。しかしてみづから云

  く、行無く修無し、本より煩悩無く、元よりこれ菩提なり。この故に事戒を用ひず、只  

  だ応に偃臥を用ふべし。何ぞ念仏を修し、舎利を供し、長斎節食することを労せんや、と云々と。この義、如何」。

  答へて日ふ、「其の、悪として造らざること無きの類なり。聖教の中に空見と言へるもののごとき、これなり。この人と共に語り。同すべからず、応に百由旬を避くべし・・」。

 

 しかも道元の場合、門下を「義絶」するという出来事は、平穏なはずの禅宗修行道場にお

いて、特異な事件といえるであろう。道元の長年の指導にも拘らず、それが正しく伝わらな

かった事への反省は自覚されたに違いない。ここに「遺誡」の語があるが、基本的な内容を

説くこと、ではなかったのではなかろうか。それは「挙手・動足の一切の作す所、凡て一切

諸法の生起にして、皆な仏法なり」とする「邪見」の排除という具体的な示衆内容である。

『三時業』では次のようにいう。

  いまのよに因果をしらず、業報wpあきらめず、三世をしらず、善悪をわきまへざる邪見のともがらには群すべからず。

また、

  行者かならず邪見なることなかれ。いかなるか邪見、いかなるか正見と、かたちをつくすまで学習すべし。まづ因果を撥無し、仏法僧を毀謗し、三世および解脱を撥無する、ともにこれ邪見なり。

 それゆえに『出家』では、

  出家の日のうちに、三阿僧祇劫を修証するなり。出家之日のうちに、住無辺劫海、転妙法輪するなり。

とあったのを、『出家功徳』では、無限の修証を強調するのである。

  いはゆる「学般若」菩薩とは祖々なり。しかあるに、阿耨多羅三藐三菩提は、かならず出家即日に成熟するなり。しかあれども、三阿僧祇劫に修証し、無量阿僧祇劫に修証するに、有辺無辺に染汚するにあらず。学人しるべし。

 『発菩提心』においても、同様である。

  この発菩提心、おほくは南洲の人身に発心すべきなり。八難処にもすこしきはあり、おほからず。菩提心をおこしてのち、三阿僧祇劫、一百大劫修行す。あるいは無量劫おこなひてほとけになる。あるいは無量劫おこなひて、衆生をさきにわたして、みづからはつひにはほとけにならず、ただし衆生をわたし、衆生を利益するもあり。菩薩の意楽にしたがふ。

 

 このように、十二巻本の撰述の遠因として鎌倉行化の失敗と反省があり、門下の修証論の

深刻な自覚が、「邪見」の撥無因果の排除から深信因果へと向かって行った結果と言えるの

ではなかろうか。

 ただ、十二巻本について、示唆に富んだ内容分析と提言を含んだ石川力山氏の「道元

《女身不成仏論》についてー十二巻本『正法眼蔵』の性格をめぐる覚書」が指摘するように、

出家至上の立場を貫いたのは、寛元元年(1243)に京都を離れ、越前へ向かった時の決

意が、後の十二巻本の『出家功徳』へ影響した事を否定するものではない。また確かに石井

修道「『礼拝得髄』考」で述べたように、道元の魅力的な得法の男女平等論や女人結界批判

の説が存在していたにも関わらず、第一『出家功徳』では、

  聖教のなかに在家仏教の説あれど正伝にあらず、女身成仏の説あれど、またこれ正伝にあらず、仏祖正伝するは出家成仏なり。

となって展開した。このことを現代という視点で見ると、後退した説となったのは、石川氏

が結論するように、道元も変成男子説として、当時の仏教界の説を、確認した感があるのは

残念と言えよう。

 

 

これは石井修道氏による『正法眼蔵』に対する巻末に於ける「解題」としての文章を

書き改めたものであり、一部修訂を加えた。(タイ国にて・二谷)

 

十二巻本『正法眼蔵』の性格―重視説として

十二巻本『正法眼蔵』の性格―重視説として

 

『八大人覚』の「奥書」の意味する処を、筆者(石井修道・注)の結論‘を踏まえて、その文を大幅に補って解釈すると、ほぼ次のようだと考える。

 

  原本の先師の『八大人覚』の奥書に言う、「建長五年(1253)正月六日に永平寺

て書く」と。

今、建長七年乙卯(1255)の年の解安居の終る前日に、義演書記に原本の清書をさせて書写が終った。懐弉は、同じ日に先師の原本と義演の書写本とを校合した。

右の『八大人覚』は、先師の最後の御病気中の草稿である。先師が生前に言われたことは次のようになる。「前に書いた仮字の『正法眼蔵』の巻々は(先師は京都時代の四十巻までは暫定的に編集されたが、越前時代のものを含めては、まだ完全な編集を終えられることはなかった。そこで懐弉は、越前時代のものは、示衆の順序を基本にして列べて、旧草を仮に七十五巻として、病中の先師の生前の壬子(1252)の年に纏め、先師に確認しておいた。七十五巻の編集は暫定的であるから)、全てにおいて書き改めるつもりであり(書き改めるつもりとは、ある巻は大幅に書き改め、ある巻は全面的に書き改め、ある巻は部分的に書き改め、ある巻はほとんど書き改めなくてもよいものなどがある)、それら旧草のもの(懐弉が仮に七十五巻としたもの)と新草のもの(鎌倉息が転機となって、新たなる意図をもって新たに『正法眼蔵』を編集しようとされたが、十二巻しか残らなかった)とを、全部合わせて百巻の『正法眼蔵』を書くつもりである、などと」。

すでに新たな編集に加えるために始められた草稿のこの『八大人覚』の巻は、第十二巻目に相当する。この『八大人覚』を書いた後は、先師の病気がだんだんと重くなったので、新たな巻を書き進めたり、旧草を書き改めて新たな編集に加えることは、そのまま止まってしまった。それゆえに、この『八大人覚』(や『一百八法明門』)などは、先師の最後の教えとなった。私達は不幸にして百巻の草稿は拝見できない。このことは、私達にとって最も残念におもうところである。もしも先師を恋慕する人は、必ずこの第十二の巻の『八大人覚』を書写して、これを護持しなさい。(なぜならば、)この『八大人覚』の教えは、釈尊最後の教えであり、同時にそれはその釈尊の教えについて説かれた先師の最後に残された教えの巻であるからだ。

  懐弉が以上のことを(『八大人覚』の奥書として)記す。

 

(一)『出家』から『出家功徳』『受戒』へ

『出家』が七十五巻本『正法眼蔵』の最後に収められ、その示衆が寛元四年九月十五日であることは、すでに述べた。十二巻本『正法眼蔵』の最初に『出家功徳』『受戒』があるが、

その関係はどのようになっているのであろうか。

 『出家』の冒頭は、『禅苑清規』の引用で始まっている。

  禪苑清規云、三世諸佛、皆曰出家成道。西天二十八祖、唐土六祖、傳佛心印、盡是沙門。蓋以嚴淨毘尼、方能洪範三界。然則、參禪問道、戒律爲先。既非離過防非、何以成佛作祖。

受戒之法、應備三衣鉢具幷新淨衣物。如無新衣、浣染令淨、入壇受戒。不得借衣鉢。一心專注、愼勿異縁。像佛形儀、具佛戒律、得佛受用、此非小事、豈可輕心。若借衣鉢、雖登壇受戒、竝不得戒。若不曾受、一生爲無戒之人。濫厠空門、虚受信施。初心入道、法律未諳、師匠不言、陷人於此。今玆苦口、敢望銘心。

既受聲聞戒、應受菩薩戒。此入法之漸也。

あきらかにしるべし、諸佛諸祖の成道、たゞこれ出家受戒のみなり。諸佛諸祖の命脈、たゞこれ出家受戒のみなり。いまだかつて出家せざるものは、ならびに佛祖にあらざるなり。佛をみ、祖をみるとは、出家受戒するなり。

 この文は『出家功徳』の最後に引用され、次のようにまとめられる。

   禪苑清規第一云、三世諸佛、皆曰出家成道。西天二十八祖、唐土六祖、傳佛心印、盡是沙門。蓋以嚴淨毘尼、方能洪範三界。然則參禪問道、戒律爲先。既非離過防非、何以成佛作祖。

  しかあればすなはち、「三世諸佛、皆曰出家成道」の正傳、もともこれ最尊なり。さらに出家せざる三世諸佛おはしまさず。これ佛々祖々正傳の正法眼藏涅槃妙心、無上菩提なり。

 ここでは、出家に限定されている。そのことは、『出家』と同文の『禅苑清規』を冒頭

に引用した『受戒』では、これまた次の受戒の説示に限定されているのである。

   西天東地、佛祖相傳しきたれるところ、かならず入法の最初に受戒あり。戒をうけざればいまだ諸佛の弟子にあらず、祖師の兒孫にあらざるなり。

 この引用を見ただけでも、あきらかに『出家』が『出家功徳』と『受戒』に分けられ、

それぞれが示衆の目的をもって詳説されていることがわかるのである。

 次に『出家』に引用される『輔行伝弘決』巻二之五の文がある。

   大論第十三曰、佛在祇洹、有醉婆羅門、來至佛所、欲作比丘。佛勅諸比丘、與剃頭著袈裟。酒醒驚怪見身、變異忽爲比丘、即便走去。諸比丘問奉佛、何以聽此醉婆羅門、而作比丘、而今歸去。佛言、此婆羅門、無量劫中、無出家心。今因醉後、暫發微心、爲此縁故、後出家。如是種々因縁、出家破戒、猶勝在家持戒。以在家戒不爲解脱。

佛勅の宗旨あきらかにしりぬ、佛化はたゞ出家それ根本なり。いまだ出家せざるは佛法にあらず。如來在世、もろもろの外道、すでにみづからが邪道をすてて佛法に歸依するとき、かならずまづ出家をこふしなり。

 この文を『出家功徳』においては、その原文に相当する『大智度論』巻十三をわざわざ引用するのである。

    復次如佛在祇桓、有一醉婆羅門。來到佛所、求作比丘。佛勅阿難、與剃頭著法衣。醉酒既醒、驚怪己身忽爲比丘、即便走去。諸比丘問佛、「何以聽此婆羅門作比丘」。佛言、「此婆羅門、無量劫中、初無出家心、今因醉故、暫發微心。以此因縁故、後當出家得道」。如是種々因縁、出家之功徳無量。以是白衣雖有五戒、不如出家。

 『輔行伝弘決』の「出家破戒、猶勝在家持戒。以在家戒不爲解脱」の文より、『大智度論

の「出家之功徳無量。以是白衣雖有五戒、不如出家」の語が、『出家功徳』にふさわしいこ

とは一見して明らかである。その『大智度論』巻十三「釈初品中讃尸羅波羅蜜義」の酔婆羅

門の物語は、『出家功徳』冒頭にある長文の『大智度論』の引用から、蓮華色比丘尼の出家

の物語の引用に続き分離独立させ、十六条戒を説くに至っては、当然、新たな撰述目的が

存在するのである。それゆえに、秘本の『出家』の奥書にある「右出家後、有御龍草本、以

之可書改。仍可破之」の語は、「御龍草本」に相当する十二巻本の『出家功徳』の成立によ

り、『出家』は破棄されるべきだと云うことを述べたものと理解すべきで、たとい懐弉の語

ではないと認めたとしても、それ以外には考えられないであろう。

 

 (二)『伝衣』から『袈裟功徳』へ

 『伝衣』と『袈裟功徳』とは密接な関係がある。そのことはその他の諸研究論文にも指摘

されている。『伝衣』に袈裟の五聖功徳についての示衆があるが、興味ある問題が浮上する。

  佛言、若有衆生、入我法中、或犯重罪、或墮邪見、於一念中、敬心尊重僧伽梨衣、諸佛

及我、必於三乘授記。此人當得作佛。若天若龍、若人若鬼、若能恭敬此人袈裟少分功徳、

即得三乘不退不轉。若有鬼神及諸衆生、能得袈裟、乃至四寸、飲食充足。若有衆生、共

相違反、欲墮邪見、念袈裟力、依袈裟力、尋生悲心、還得清淨。若有人在兵陣、持此袈

裟少分、恭敬尊重、當得解脱。

しかあればしりぬ、袈裟の功徳、それ無上不可思議なり。これを信受護持するところに、

かならず得授記あるべし、得不退あるべし。

 この出典は『律宗新学名句』巻中によると思われる。

  袈裟五種功徳《悲華経》。一、入我法中、或犯重邪見、於一念中、敬心尊重、必於三乗授記。二、天龍人鬼、若能恭敬、此人袈裟少分、即得三乗不退。三、若能鬼神諸人、得袈裟乃至四寸、飲食充足。四、若衆生共相違反、念袈裟力、尋生悲深。五、若在兵陣、持此少分、恭敬尊重、当得解脱。(続蔵経一〇五・三一九左下)

 これに対して『袈裟功徳』は、直接に『悲華経』から長文の原文が引用されて、次のようにまとめられる。

  如来在世より今日にいたるまで、菩薩・声聞の経律のなかより、袈裟の功徳をえらびあぐるとき、かならずこの五聖功徳をむねとするなり。

 このまとめは『律宗新学名句』の文を介して『悲華経』から引用したことを示唆したと受

けとめられるのではあるまいか。つまり、『伝衣』と『袈裟功徳』との関連箇所を見てみる

と、『伝衣』は「五聖功徳」が明確ではないが、『袈裟功徳』は「五聖功徳」が明確なのであ

る。『悲華経』が直接引用されることによって、袈裟功徳の示衆の意図が明確になり、『伝衣』

を書き改められたことにより、両書の存在は必要でなくなるであろう。

 このように七十五巻本『正法眼蔵』の『出家』や『伝衣』が、『出家功徳』や『袈裟功徳』

へと書き改められていったことを認めてよいとすれば、十二巻本『正法眼蔵』の諸巻に関連

性があり、その順序に意味があるかどうかである。すでに『出家』に引用された『禅苑清規』

の一文が、『出家功徳』と『受戒』の順序にそれぞれに主題に沿って再び引用されているこ

とを指摘したが、このこと一つをとってみても、『出家』と『受戒』は切り離せない内容で

あり、また、順序としても前後することはない。それは出家受戒に必要な「袈裟」の受持に

繋がり、『袈裟功徳』で詳細に説かれるのも当然関連してくることは言うまでもないことで

ある。『出家功徳』で説く出家行法の四依の一つである「尽形寿著糞掃衣」は、『伝衣で』も

『出家』でも説かないところの「袈裟」の説であるが、『袈裟功徳』の重要な説示が「糞掃

衣」の問題となる。

 また、『出家功徳』に引用される「婆娑一百二十云、『発心出家尚名聖者、況得忍法』も、

『出家』に説かないが、『出家功徳』に「無上菩提のために菩提心をおこし出家受戒せん、

その功徳無量なるべし」と説くのは、明らかに『発菩提心』の示衆と関連してこようし、同

じく「まことにその発心得道、さだめて刹那よりするものなり」の「刹那」の説は、『発菩

提心』に詳しく出てくるのである。また、『出家功徳』に引用される『大毘婆沙論』巻七六

の「若無過去世、応無過去仏。若無過去仏、無出家受具」の偈が、『供養諸仏』の冒頭に引

用されていくのである。さらに『出家功徳』には、臨済義玄の「出家」説を解釈して、

  いはゆる「平常真正見解」といふは、深信因果、深信三宝なり

とあるのは、『帰依仏法僧宝』や『深信因果』がすでに予想されているとも言えよう。また、

『一百八法明門』は、『仏本行集経』に基づくが、『出家功徳』に『仏本行集経』を引用する

に当たって、「最後身の菩薩」として、仏伝が述べられるのも、『一百八法明門』と深く関係

している。このように新たに書かれた十二巻本『正法眼蔵』の最初の『出家功徳』に十二巻

の内の多くの巻の連関が考えられる。

 このようにして、『受戒』になると、『出家功徳』に引用の『禅苑清規』の文が改めて同じ

く引用され、加えて「受戒之法、応備三衣鉢具幷新浄衣物」以下が引用されるが、受戒で必

要とすべき「三衣」が『袈裟功徳』で取り上げられるのは当然のことであろう。

 『発菩提心』になると、「『発心』とは、はじめて『自未得度先度佗』の心をおこすなり、

これを初発菩提心といふ。この心をおこすよりのち、さらにそこばくの諸仏にあふたてまつ

り、供養したてまつるに、見仏聞法し、さらに菩提心をおこす、霜上加霜なり」とあって、

次の『供養諸仏』と繋がっているのである。また『発菩提心』の「菩薩の初心のとき、菩提

心を退転すること、おほくは正師にあはざるによる。正師にあはざれば正法をきかず、正法

をきかざればおそらくは因果を撥無し、解脱を撥無し、三宝を撥無し、三世等の諸法を撥無

す」の説は、『深信因果』の末尾の「澆季の學者、薄福にして正師にあはず、正法をきかず、

このゆゑに因果をあきらめざるなり。撥無因果すれば、このとがによりて、漭々蕩々として

殃禍をうくるなり」へと繋がっていくであろう。同時に『三時業』とも重なることにもなろ

う。さらに『発菩提心』には『仏本行集経』を引用するに当たって、「一生補処菩薩、まさ

に閻浮提にくだらんとするとき、覩史多天の諸天のために、最後の教をほどこすにいはく、

菩提心是法明門、不断三宝故』」と『一百八法明門』の一部が関連して引用され、「三宝

は『帰依仏法僧宝』と関連している。また、『供養諸仏』の「『諸法実相を大師とする』とい

ふは、仏法僧の三宝を供養恭敬したてなつるなり」も『帰依仏法僧宝』と関連しよう。同時

に、『供養諸仏』の重要な引用典籍が、『一百八法明門』を説く『仏本行集経』であることは、

言うまでもないことである。

 このようにして、十二巻本を書き進めるに当たって、第十一『一百八法明門』までは、関

連を持ちながら纏りを以て構成されたことが窺える。『三時業』には、三時の「業の不亡」

を主題にしながら、その中に次の文が見出せる。

  四禅比丘、臨命終のとき謗仏せしによりて四禅の中陰かくれて阿鼻地獄に堕せり。かくのごとくなるを順次生受業となづく。

 この文が『四禅比丘』と容易に結びつくことが察せられ、その関連を認められよう。一見、

関連が見出しにくいのが、『四馬』であろう。外道問仏で始まるこの巻は、良馬や快馬を話

題にしながら、「世尊に聖黙聖説の二種の施設」に言及する。それらは本書の注にも指摘す

るように、天台典籍と深く関係してくる。確かに『宗門統要集』と『景徳伝灯録』の合楺

説から始まった外道問仏の話であるが、それを纏めるのに、『法華玄義』や『輔行伝弘決』

と続いて展開していくのである。天台典籍でいえば、『三時業』の提婆達多への言及は、『法

華文句』や『法華文句記』で示衆され、『四禅比丘』の『輔行伝弘決』に引用へと関連して

いるのである。さらに『四禅比丘』に出る天台山外脈の孤山智円の三教一致説批判は、天台

学そのものの課題とも通じ合うのである。そのように捉えると、『四馬』の次の文はまさし

く十二巻本の課題ともいえよう。

   これを涅槃経の四馬となづく。学者ならはざるなし、諸仏ときたまはざるおはしまさず。ほとけにしたがひたてまつりてこれをきく、ほとけをみたてまつり、供養したてまつるごとには、かならず聴聞し、仏法を伝授するごとには、衆生のためにこれをとくこと、歴劫におこたらず。つひに仏果にいたりて、はじめ初発心のときのごとく、菩薩声聞、人天大会のためにこれをとく。このゆゑに、仏法僧宝種不断なり。

 「見仏・聞法」は『出家功徳』の四種最勝の説であり、「供養」は『供養諸仏』の主題で

あり、「初発心」が『発菩提心』と関連することは言うまでもない事であり、「仏法僧宝種不

断」は『帰依仏法僧宝』と結び付いているのである。このように『四馬』もまた十二巻本と

して決して例外とは言えない事が判明する。

 『八大人覚』が道元の病の為に、十二巻本の最後に位置づけられているが、百巻構想があ

ったとすれば、あるいは「第十二」でなかったであろう事は、認めて良いかも知れない。

 以上、概観したように、十二巻本は、各巻が互いに密接な関係を持ちながら、撰述された

事は認めてよいであろう。

 

これは石井修道氏による『正法眼蔵』に対する巻末に於ける「解題」としての文章を

書き改めたものであり、一部修訂を加えた。(タイ国にて・二谷)