正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵他心通

正法眼蔵 第七十三 他心通 

    一 

西京光宅寺慧忠國師者、越州諸曁人也。姓冉氏。自受心印、居南陽白崖山黨子谷、四十餘祀。不下山門、道行聞于帝里。唐肅宗上元二年、勅中使孫朝進賚詔徴赴京。待以師禮。勅居千福寺西禪院。及代宗臨御、復迎止光宅精藍、十有六載、隨機説法。時有西天大耳三藏、到京。云得佗心慧眼。帝勅令與國師試験。三藏才見師便禮拝、立于右邊。師問曰、汝得佗心通耶。對曰、不敢。師曰、汝道、老僧即今在什麼處。三藏曰、和尚是一國之師、何得卻去西川看競渡。師再問、汝道、老僧即今在什麼處。三藏曰、和尚是一國之師、何得卻在天津橋上、看弄猢猻。師第三問、汝道、老僧即今在什麼處。三藏良久、罔知去處。師曰、遮野狐精、佗心通在什麼處。三藏無對。

僧問趙州曰、大耳三藏、第三度、不見國師在處、未審、國師在什麼處。趙州云、在三藏鼻孔上。

僧問玄沙、既在鼻孔上、爲什麼不見。玄沙云、只爲太近。

僧問仰山曰、大耳三藏、第三度、爲什麼、不見國師。仰山曰、前兩度是渉境心、後入自受用三昧、所以不見。

海會端曰、國師若在三藏鼻孔上、有什麼難見。殊不知、國師在三藏眼睛裏。

玄沙徴三藏曰、汝道、前兩度還見麼。

雪竇明覺重顯禪師曰、敗也、敗也。

大證國師の大耳三藏を試験せし因縁、ふるくより下語し道著する臭拳頭おほしといへども、ことに五位の老拳頭あり。しかあれども、この五位の尊宿、おのおの諦當甚諦當はなきにあらず、國師の行履を覰見せざるところおほし。ゆゑいかんとなれば、古今の諸員みなおもはく、前兩度は三藏あやまらず國師の在處をしれりとおもへり。これすなはち古先のおほきなる不是なり、晩進しらずはあるべからず。

古則の出典は『景徳伝灯録』五・慧忠章(「大正蔵」五十一・二四四・上)と思われますが、趙州・玄沙・仰山・海会・雪竇の五人による拈語の出典は『宗門統要集』二・慧忠章と思われ両本の合揉と推測されます。(『景徳伝灯録』には仰山・玄沙・趙州のみ(割注)・『宗門統要集』には前記+海会・雪竇が収録される)

まづは読み下し文にすると

西京光宅寺の慧忠国師は、越州諸曁(き)の人。姓は冉(さん)氏。心印を受けてより南陽河南省)の白崖山党子谷に居ること四十余年。山門を下らず、道行が帝里(長安)に聞えた。唐の肅宗(第七代天子)上元二年(761)に勅使の孫朝進に長安に赴んことを徴(召し出)された。肅宗は慧忠を師として待遇した。千福寺内の西禅院(陝西省西安市)に居するを命ず。代宗(第八代天子)の臨御(即位)に及び、復た光宅寺(陝西省西安市)精藍に十六年、随機説法す。その時西天(インド)の大耳三蔵が京(長安)に来て、他心通の慧眼を得たと云う。帝(代宗)は慧忠国師に試験するよう命じた。

三蔵は師〈慧忠国師〉を見るや礼拝し、師の右辺に立った。

師が問うて言う、汝は他心通を得ているか。(三蔵)対して云う、不敢(恐れ入ります)。

師が言う、汝道(い)え、老僧〈慧忠〉は今何処にいるか。

三蔵は云う、和尚〈慧忠〉は是れ一国の師、どうして西川(陝西省)に行って競渡(ペーロン)を見ましょうか。

師は再び問う、汝道え、老僧は今何処にいるか。

三蔵は云う、和尚は是れ一国の師、どうして天津橋上で、猢猻(猿)の曲芸を見ましょうか。

師は三度問う、汝道え、老僧は今何処にいるか。

三蔵良久(しばらく)しても、行った処を知らず。

師が言った、この野狐精、他心通は何処に在るか。

三蔵対する無し。

右の因縁話について五僧の拈語

僧が趙州に問うて云う、大耳三蔵は三度目には国師の在所を見ず、未審(はっきりしない)、国師は何処に在す。

趙州は言う、三蔵の鼻孔上に在す。

僧が玄沙に問う、既に鼻孔上に在るなら、どうして見えないのか。

玄沙は言う、ただ近すぎた為。

僧が仰山に問うて云う、大耳三蔵は三度目には、どうして国師が見えなかったか。

仰山は言う、前の二度は〈国師に〉渉境心(分別心)で、三度目は自受用三昧に入り、見えず。

海会端は言う、国師もし三蔵の鼻孔上に在るなら、どうして難見か。殊に〈趙州は〉知らず、国師が三蔵の眼睛裏に在るを。

玄沙は三蔵を徴(め)して言った、汝道え、前の二度も本当に見たか。

雪竇明覚重顕禅師が言った、敗也、敗也。

これから此の話頭に対する拈提の開始です。

大証国師の大耳三蔵を試験せし因縁、古くより下語し道著する臭拳頭多しと云えども、ことに五位の老拳頭あり。しかあれども、この五位の尊宿、おのおの諦当甚諦当はなきにあらず、国師の行履を覰見せざる処多し」

「下語」(あぎょ)は著語と同じく批評・感想の意で、「臭拳頭」は臭皮袋と同じく俗人と解し、「五位の老拳頭」の五位とは趙州従諗(788―897)・玄沙師備(835―908)・仰山慧寂(807―883)・海会端〈白雲守端〉(1025―1072)・雪竇重顕(980―1052)を指すが、先には「大耳三蔵の因縁、古くより下語する臭拳頭」に対し、五人に対しては「老拳頭」と置き換えての言葉使いです。因みに慧忠国師の没年は大暦十(775)年で、代宗の治世最後の元号で、趙州・仰山・玄沙は唐代、雪竇・海会は宋代の人です。

「諦当甚諦当はなきにあらず、国師の行履を覰見せざるところ多し」

五人の老宿それぞれの拈語は正解と言えなくもないが、慧忠国師の修行底力を見ない処が多い、と言ったものです。

「故いかんとなれば、古今の諸員みな思わく、前両度は三蔵あやまらず国師の在処を知れりと思えり。これすなはち古先の多きなる不是なり、晩進知らずはあるべからず」

「古今の諸員」とは五人の拈語者も含めた先輩達の解釈は、大耳三蔵の西川競渡と天津橋

猢猻という三蔵の答話を他心通と誤認する不是を説くもので、これから道元禅師特有な拈提です。この処の『御抄』(「註解全書」九・四)の註解は「正法眼蔵の内、大修行と他心通は心得にくく」と云われます。

 

いま五位の尊宿を疑著すること兩般あり。一者いはく、國師の三藏を試験する本意をしらず。二者いはく、國師の身心をしらず。しばらく國師の三藏を試験する本意をしらずといふは、第一番に、國師いはく、汝道、老僧即今在什麼處といふ本意は、三藏もし佛法を見聞する眼睛なりやと試問するなり。三藏おのづから佛法の佗心通ありやと試問するなり。當時もし三藏に佛法あらば、老僧即今在什麼處としめされんとき、出身のみちあるべし、親曾の便宜あらしめん。いはゆる國師道の老僧即今在什麼處は、作麼生是老僧と問著せんがごとし。老僧即今在什麼處は、即今是什麼時節と問著するなり。在什麼處は、這裏是什麼處在と道著するなり。喚什麼作老僧の道理あり。國師かならずしも老僧にあらず、老僧かならず拳頭なり。大耳三藏、はるかに西天よりきたれりといへども、このこゝろをしらざることは、佛道を學せざるによりてなり、いたづらに外道二乘のみちをのみまなべるによりてなり。

國師かさねてとふ、汝道、老僧即今在什麼處。こゝに三藏さらにいたづらのことばをたてまつる。國師かさねてとふ、汝道、老僧即今在什麼處。ときに三藏やゝひさしくあれども、茫然として祗對なし。國師ときに三藏を叱していはく、這野狐精、佗心通在什麼處。かくのごとく叱せらるといへども、三藏なほいふことなし、祗對せず、通路なし。

これから具体的な指摘が始まります。ここで言う「身心」は慧忠の人柄であり、修行の仕方等を指します。

「しばらく国師の三蔵を試験する本意を知らずと云うは、第一番に、国師いはく、汝道、老僧即今在什麼処といふ本意は、三蔵もし仏法を見聞する眼睛なりやと試問するなり。三蔵おのづから仏法の他心通ありやと試問するなり」

趙州等五人の老拳頭の不備を説く拈提で、道元禅師が主張する処は慧忠国師が云う老僧即今在什麽の基本的即答語法を試問し、さらに三蔵学者の他心通と仏法による他心通の差違の試問が本意との拈語です。

「当時もし三蔵に仏法あらば、老僧即今在什麼処としめされん時、出身の路あるべし、親曾の便宜あらしめん」

大耳三蔵に仏法が具備されていたなら、老僧即今在什麼処と慧忠国師から問われた時、西川競渡とか天津猢孫などとは答えるはずはない、と言う事を「出身の路あるべし、親曾の便宜あらしめん」と逆説的に言うものです。

「いはゆる国師道の老僧即今在什麼処は、作麼生是老僧と問著せんがごとし。老僧即今在什麼処は、即今是什麼時節と問著するなり。在什麼処は、這裏是什麼処在と道著するなり。喚什麼作老僧の道理あり。国師かならずしも老僧にあらず、老僧かならず拳頭なり」

ここでの「問著」は問いを指すのではなく『大悟』巻で説く問処は答処の如しの論理からすると、「老僧即今什麽処」=「作麽生是老僧」=「即今是什麽時節」は同義体語に解し、在什麽処は正法眼蔵に通底する語脈を理解するには重要な言句で、経豪和尚はこれを「仏法の大姿」と比せられ、また「這裏是什麽処在」は南嶽が云った説似一物即不中を借用し「即不中の理」と究理の仏法に喩え、さらに道元禅師は老僧をも什麽に置換する道理を提言されるが、この老僧の正体を『御抄』(「註解全書」九・六)では「辺際なき所」とイヅレも什麽・作麽の無限定を説くものです。ですから「国師必ずしも老僧にあらず」と禅問答のような語法ですが、国師=老僧という執着を払拭する為の言い様で、この処が『他心通』巻のクライマックスな箇所となります。

「大耳三蔵、はるかに西天より来たれりと云えども、この心を知らざる事は、仏道を学せざるによりてなり、いたづらに外道二乘のみちをのみ学べるによりてなり。

国師かさねて問う、汝道、老僧即今在什麼処。こゝに三藏さらにいたづらの言葉をたてまつる。國師かさねてとふ、汝道、老僧即今在什麼処。ときに三藏やゝひさしくあれども、茫然として祗対なし。国師ときに三藏を叱して云わく、這野狐精、他心通在什麼処。かくのごとく叱せらると云えども、三藏なほ云う事なし、祗対せず、通路なし」

大耳三蔵は遥か遠くのインドから来たが、老僧即今在什麼処の什麽の心意を答話出来なかった事は、仏道(法)学んでいない証拠であり外道的論法を学すると糾弾されますが、大耳三蔵が来唐した当時のインド仏教は密教化に変容されつつある時期であり、インド僧に対し「什麽・甚麽・恁麽」等の中国的語法で以ての詰問は些か噛み合わない気もするが、道元禅師の評は仏道を勉強していないからとの酷評です。

さらに慧忠国師の即今在什麽処に対しての西川看競渡や天津橋上看猢孫と云った答話は「

いたづらの言葉」と断じ、這野狐精・他心通在什麼処に対する三蔵の「祗対せず、通路なし」は、三蔵が他心通=在什麽処と云う仏法に通底する語義が理解されずとの解説です。

ここまでが慧忠国師と大耳三蔵との問答に対する道元禅師の基本的態度で、さらに考究されます。

 

    三

しかあるを、古先みなおもはくは、國師の三藏を叱すること、前兩度は國師の所在をしれり、第三度のみしらず、みざるがゆゑに、國師に叱せらるとおもふ。これおほきなるあやまりなり。國師の三藏を叱することは、おほよそ三藏はじめより佛法也未夢見在なるを叱するなり。前兩度はしれりといへども、第三度をしらざると叱するにあらざるなり。おほよそ佗心通をえたりと自稱しながら、佗心通をしらざることを叱するなり。國師まづ佛法に佗心通ありやと問著し試験するなり。すでに不敢といひて、ありときこゆ。そののち、國師おもはく、たとひ佛法に佗心通ありといひて、佗心通を佛法にあらしめば恁麼なるべし。道處もし擧處なくは、佛法なるべからずとおもへり。三藏たとひ第三度わづかにいふところありとも、前兩度のごとくあらば道處あるにあらず、摠じて叱すべきなり。いま國師三度こゝろみに問著することは、三藏もし國師の問著をきくことをうるやと、たびたびかさねて三番の問著あるなり。

「古先」とは趙州・仰山・海会・玄沙・雪竇を云うわけですが、「国師の三蔵を叱することー中略―国師に叱せらると思う。これ大きなるあやまりなり」と五老拳の不徹底を説くものですが、そもそも経録の話答設定に問題がありそうですが今は黙認します。

「おほよそ他心通を得たりと自称しながら、他心通を知らざる事を叱するなり」

大耳三蔵の他心通と道元禅師の他心通の解釈の思考法が相違する為、このような食い違いが生じます。

国師まづ仏法に他心通ありやと問著し試験するなり。すでに不敢と云いて、有りと聞こゆ。その後、国師思わく、たとひ仏法に他心通有りと云いて、他心通を仏法にあらしめば恁麼なるべし。道処もし挙処なくは、仏法なるべからずと思えり。三蔵たとひ第三度わづかに云う処有りとも、前両度の如く有らば道処有るにあらず、摠じて叱すべきなり」

此の処で、道元禅師の他心通に対する考え方が「道処もし挙処なくは、仏法なるべからず」と説かれますが、「三蔵たとひ第三度わづかに云う処有りとも摠じて叱すべきなり」との態度ならば在什麽処は際限なき言語ゲームに陥り兼ねません。この場合の他心通は「黙語」と著語すべきではないでしょうか。

「いま国師三度試みに問著することは、三蔵もし国師の問著を聞くことを得るやと、度々重ねて三番の問著あるなり」

これは先般に説く「いま五位の尊宿を疑著すること両般あり。一者いはく、国師の三蔵を試験する本意を知らず。二者いはく、国師の身心を知らず」の慧忠国師の大耳三蔵に対する三番問著に対する国師の本意を五老拳に対して説くものです。

二者いはく、國師の身心をしれる古先なし。いはゆる國師の身心は、三藏法師のたやすく見及すべきにあらず、知及すべきにあらず。十聖三賢およばず、補處等覺のあきらむるところにあらず。三藏學者の凡夫なる、いかでか國師の渾身をしらん。

この道理、かならず一定すべし。國師の身心は三藏の學者しるべし、みるべしといふは謗佛法なり。經論師と齊肩なるべしと認ずるは狂顛のはなはだしきなり。佗心通をえたらんともがら、國師の在處しるべしと學することなかれ。

前段に言う処の「五位の尊宿を疑著すること両般あり」の二つ目の慧忠国師の身心に関する道元禅師の拈提部です。

ここで説く「身心」は体と心を云うのではなく「いかでか国師の渾身を知らん」とあるように、概念化されたトピックを云うのではなく全体(什麽)を称して身心と呼ばしむるものです。

この全体を云う事を三蔵の学者には知見できない事は、仏法は無常(アニッチャ)を常としますから定型言句で以ての説法は「諦仏法」とされ、「経論師」の文字学者を慧忠国師と同列にしてはいけないと言われ、「他心通を得たらん輩、国師の在処知るべしと学することなかれ」と言う事は、大耳三蔵の答話自体が諦仏法であるとの拈提です。

 

    四

佗心通は、西天竺國の土俗として、これを修得するともがら、まゝにあり。發菩提心によらず、大乘の正見によらず。佗心通をえたるともがら、佗心通のちからにて佛法を證究せる勝躅、いまだかつてきかざるところなり。佗心通を修得してのちにも、さらに凡夫のごとく發心し修行せば、おのづから佛道に證入すべし。たゞ佗心通のちからをもて佛道を知見することをえば、先聖みなまづ佗心通を修得して、そのちからをもて佛果をしるべきなり。しかあること、千佛萬祖の出世にもいまだあらざるなり。すでに佛祖の道をしることあたはざらんは、なににかはせん。佛道に不中用なりといふべし。佗心通をえたるも、佗心通をえざる凡夫も、たゞひとしかるべし。佛性を保任せんことは、佗心通も凡夫もおなじかるべきなり。學佛のともがら、外道二乘の五通六通を、凡夫よりもすぐれたりとおもふことなかれ。たゞ道心あり、佛法を學せんものは、五通六通よりもすぐれたるべし。頻伽の卵にある聲、まさに衆鳥にすぐれたるがごとし。いはんやいま西天に佗心通といふは、佗念通といひぬべし。念起はいさゝか縁ずといへども、未念は茫然なり、わらふべし。いかにいはんや心かならずしも念にあらず、念かならずしも心にあらず。心の念ならんとき、佗心通しるべからず。念の心ならんとき、佗心通しるべからず。

しかあればすなはち、西天の五通六通、このくにの薙草修田にもおよぶべからず、都無所用なり。かるがゆゑに、震旦國より東には、先徳みな五通六通をこのみ修せず、その要なきによりてなり。尺璧はなほ要なるべし、五六通は要にあらず。尺璧なほ寶にあらず、寸陰これ要樞なり。五六通、たれの寸陰をおもくせん人かこれを修習せん。おほよそ佗心通のちから、佛智の邊際におよぶべからざる道理、よくよく決定すべし。しかあるを、五位の尊宿、ともに三藏さきの兩度は國師の所在をしれりとおもへる、もともあやまれるなり。國師は佛祖なり、三藏は凡夫なり。いかでか相見の論にもおよばん。

この段の前半は外道二乗の他心通ならびに五通六通と仏道との違いを述べるものですが、四年前に興聖宝林寺での『神通』巻では六神通を「いたづらに向外の馳走を帰家の行履とあやまれるのみなり」また「四果は仏道の調度なりと云えども正伝せる三蔵なし、算沙のやから、跉跰のたぐい、いかでかこの果実を得ることあらん」と説き、「六通四果を仏道に正伝するは平常心なり」と断言され、大耳三蔵の云う他心通は「毛呑巨海、芥納須弥・身上出水、身下出火等の五通六通であり小神通なり」の文言を底本にした文章だと思われます。

「頻伽の卵にある声、まさに衆鳥にすぐれたるが如し。いはんや今西天に他心通と云うは、他念通と云いぬべし。念起は些か縁ずと云えども、未念は茫然なり、笑うべし。如何に云わんや心必ずしも念にあらず、念必ずしも心にあらず。心の念ならん時、他心通知るべからず。念の心ならんとき、他心通知るべからず」

「頻伽」は梵語のカラヴィンカの音訳語迦陵頻伽の略語で、殻の中に居る時から鳴き出すと云われ、仏の声を形容する喩えですが、この場合は慧忠国師が問う在什麽処が頻伽の卵にある声で、大耳三蔵の云う西川・天津の答話を衆鳥に比喩せられたるものと思われます。

次に「心」と「念」の違いを心は全体的把捉態、念をその一形態部位に解釈されます。さらに云うならば心は三界唯心の心に該当され、念は慮知念覚の念に相当するものですから未念の語があるわけです。

「しかあればすなはち、西天の五通六通、この国の薙草修田にも及ぶべからず、都無所用なり」

西天(インド)の五通六通と云われる小神通は草を薙り田を修する百姓にも及ばず、都て所用すること無し(都無所用)である。

「かるが故に、震旦国より東には、先徳みな五通六通を好み修せず、その要なきに依りてなり」

ですから支那・日本の仏教界では、小乗的五通六通を理解していた為、修行する行者は存在しなかったと。

「尺璧はなほ要なるべし、五六通は要にあらず。尺璧なほ宝にあらず、寸陰これ要枢なり。五六通、たれの寸陰を重くせん人かこれを修習せん」

一尺の平らな玉(ぎょく)には使い道が有るが五通六通は役に立たず、わづかな時間(寸陰)の方が貴重で誰がこれ(五六通)を修行するのか

「おほよそ他心通のちから、仏智の辺際に及ぶべからざる道理、よくよく決定すべし。しかあるを、五位の尊宿、ともに三蔵先の両度は国師の所在を知れりと思える、最も錯まれるなり。国師は仏祖なり、三蔵は凡夫なり。いかでか相見の論にも及ばん」

外道二乗の他心通は仏道の足元に及ばない道理を心に定むべし。そうであるにも関わらず、趙州・玄沙・仰山・海会・雪竇の五人の尊宿と云われる人々は、三蔵が慧忠国師に答えた西川・天津の話頭を解会したとするのが「最も錯まれるなり」と。慧忠国師は仏祖、大耳三蔵は凡夫と二元項に入り、相見(面会)した意義に及ばなかったと能所・主客的論法での解釈法です。

 

    五

國師まづいはく、汝道、老僧即今在什麼處。

この問、かくれたるところなし、あらはれたる道處あり。三藏のしらざらんはとがにあらず、五位の尊宿のきかずみざるはあやまりなり。すでに國師いはく、老僧即今在什麼處とあり。さらに汝道、老僧心即今在什麼處といはず。老僧念即今在什麼處といはず。もともきゝしり、みとがむべき道處なり。しかあるを、しらずみず、國師の道處をきかずみず。かるがゆゑに、國師の身心をしらざるなり。道處あるを國師とせるがゆゑに、もし道處なきは國師なるべからざるがゆゑに。いはんや國師の身心は、大小にあらず、自佗にあらざること、しるべからず。頂あること、鼻孔あること、わすれたるがごとし。國師たとひ行李ひまなくとも、いかでか作佛を圖せん。かるがゆゑに、佛を拈じて相待すべからず。

國師すでに佛法の身心あり、神通修證をもて測度すべからず。絶慮忘縁を擧して擬議すべからず。商量不商量のあたれるところにあらざるべし。國師は有佛性にあらず、無佛性にあらず、虚空身にあらず。かくのごとくの國師の身心、すべてしらざるところなり。いま曹谿の會下には、青原南嶽のほかは、わづかに大證國師、その佛祖なり。いま五位の尊宿、おなじく勘破すべし。

さらに続けて在什麽処の考究ですが、「隠れたる処なし顕われたる道処」と答えを提示されます。在什麽処をなんの処にか在ると解読すると隠顕の義になるが、いづれの処にも在ると解会するなら道処は限定されませんから顕われたる道処と道得されるわけです。

「三藏の知らざらんは科にあらず、五位の尊宿の聞かず見ざるは錯まりなり。すでに国師云わく、老僧即今在什麼処とあり。さらに汝道、老僧心即今在什麼処と云わず。老僧念即今在什麼処と云わず。最も聞き知り、見咎むべき道処なり」

ここで焦点を三蔵から五位の尊宿に変え、大耳三蔵が在什麽処の意を知らなかったのは凡夫であるから科(とが)ではなく仕方なく、問題は後世の五人の尊宿の聞かず見ざるが錯まりと論究されます。その錯まりは心在什麽とか念在什麽とかを問い質しているのではなく、仏法の関棙子(急所)である在什麽と云う最も聞き知り親しんだ語を見咎むべきであるとの事です。

「しかあるを、知らず見ず、国師の道処を聞かず見ず。かるが故に、国師の身心を知らざるなり。道処あるを国師とせるが故に、もし道処なきは国師なるべからざるが故に。いはんや国師の身心は、大小にあらず、自他にあらざること、知るべからず。頂あること、鼻孔あること、忘れたるが如し。国師たとひ行李ひまなくとも、いかでか作仏を図せん。かるが故に、仏を拈じて相待すべからず」

このように親切に老僧即今在什麽処とだけ云っているのにも関わらず、五人の尊宿たちは慧忠国師を知らず聞かず見ずと断言され、さらには身心を知らざるなりと最初の設問の疑著する両般が繰り返されます。重説になりますが身心は渾身と同義語ですから、全一身・身一全・全一心・心一全と表現し得るものです。ですから身心には大中小の区分けは出来ず、さらに自他の二分立に分別する事など不可能です。この趙州等の五老人は慧忠国師に頭頂や鼻の穴がある真実人体と云う実体も見失ったようだと、痛烈なる批評です。

そして慧忠国師については、行李(生活)が間断なくても作仏という偶像は図らず、また仏という概念を持ち出して対比するような人物ではないとの拈提です。

国師すでに仏法の身心あり、神通修証をもて測度すべからず。絶慮忘縁を挙して擬議すべからず。商量不商量のあたれる処にあらざるべし。国師は有仏性にあらず、無仏性にあらず、虚空身にあらず。かくの如くの国師の身心、すべて知らざる処なり。いま曹谿の会下には、青原南嶽のほかは、わづかに大証国師、その仏祖なり。いま五位の尊宿、同じく勘破すべし」

国師=仏法=身心と三者を同義体語と解し、要は共々尽界を具現化する語句としての理解である。「仏法の身心」と云うより仏法は身心と云い換えた方が適語かも知れない。「神通修証」とは五通六通の染汚せられた小神通を指し、「絶慮忘縁」は無念無想的はからいで、「商量不商量」は問答審議の有り無し等で仏法は推し量る事は出来ないとの事です。

次に言う「国師は有仏性・無仏性・虚空身にあらず」とは一ツの状態状況に固定化を避ける為に、このような言い方をされます。

「曹谿」の六祖慧能の門下には四十三人の名が列挙されますが、その両頭には曹洞系に連なる青原行思(―740)・臨済系に列する南嶽懐譲(677―744)のほかに大証国師つまり南陽慧忠(―775)三人を特に仏祖なりと位置付けての論証で、これから五位の尊宿に対する批評(勘破)が始まります。

 

    六

趙州いはく、國師は三藏の鼻孔上にあるがゆゑにみずといふ。この道處、そのいひなし。國師なにとしてか三藏の鼻孔上にあらん。三藏いまだ鼻孔あらず、もし三藏に鼻孔ありとゆるさば、國師かへりて三藏をみるべし。國師の三藏をみること、たとひゆるすとも、たゞこれ鼻孔對鼻孔なるべし。三藏さらに國師と相見すべからず。

これから五老拳に対する拈語で趙州従諗和尚を取り挙げます。

まづ最初に僧問趙州日、大耳三蔵、第三度、不見国師在所、未審、国師在什麽処。の問いに対する趙州和尚が云った在三蔵鼻孔上を「国師は三蔵の鼻孔上に在るが故に見ず」と云い改め、この言い方では意味なしと断言されます。その理由を「三蔵にはまだ鼻孔が無いのに、どうして慧忠国師が三蔵の鼻孔の上に在れようか」とのコメントが此の段での要略となりますが、前々段で説くように「国師は仏祖なり、三蔵は凡夫なり」を承けての言辞で、三蔵には仏祖としての鼻孔はない事を「三蔵いまだ鼻孔あらず」と表現されるものです。

「もし三藏に鼻孔ありと許さば」とは三蔵が仏祖と成ったら、国師と三蔵は相見が適うを「国師かへりて三蔵を見るべし」と言われます。仮にも国師が三蔵を認めたとしても、身体の一部である鼻孔と鼻孔が向き合うに過ぎず、凡夫である三蔵には仏祖としての国師と相互に見参する事はないとのコメントです。

玄沙いはく、只爲太近。

まことに太近はさもあらばあれ、あたりにはいまだあたらず。いかならんかこれ太近。おもひやる、玄沙いまだ太近をしらず、太近をを參ぜず。ゆゑいかんとなれば、太近に相見なしとのみしりて、相見の太近なることしらず。いふべし、佛法におきて遠之遠なりと。もし第三度のみを太近といはば、前兩度は太遠在なるべし。しばらく玄沙にとふ、なんぢなにをよんでか太近とする。拳頭をいふか、眼睛をいふか。いまよりのち、太近にみるところなしといふことなかれ。

次に玄沙師備(835―908)和尚が云う「ただはなはだ近すぎた為」は「既在鼻孔上、為什麽不見」と先の趙州の言を承けての答話設定に注視を要す。

この「太近」に対する拈提では「さもあらばあれ、あたりにはいまだあたらず」と有りますが、さもあらばあれはそれはともかくも又はなにはともあれと解し、玄沙の太近の答話は云い得ていない的はずれである事を「あたりにはいまだあたらず」と言われます。

玄沙の太近の理解に至っては思いやられ、太近自体を知らず参究参学もいまだと『十方』巻『遍参』巻等で取り扱われた玄沙とは思われぬ酷評です。

太近を知らない理由は、近すぎると相見は出来ないと思い込み、相見そのものを解会していないからだと。玄沙の仏法理解は「遠之遠」方角違いであると。

「もし第三度のみを太近と云わば、前両度は太遠在なるべし」は、僧が趙州に問うた「大耳三蔵、第三度、不見国師在処、未審、国師在什麽処」を承けての第一第二答話を是とした趙州話を踏襲しての「前両度は太遠在なるべし」と玄沙に対し二極分限思考法と思われる拈提です。

最後に玄沙を問い質します。「はなはだ近い」ならば鼻孔のほかに拳や眼睛も同じように云うのかと。これより以後、太近であるが為に「慧忠国師は大耳三蔵が見えなかった」などと云うなとの叱声で終わらせます。

仰山いはく、前兩度是渉境心、後入自受用三昧、所以不見。

仰山なんぢ東土にありながら小釋迦のほまれを西天にほどこすといへども、いまの道取、おほきなる不是あり。渉境心と自受用三昧と、ことなるにあらず。かるがゆゑに、渉境心と自受用とのことなるゆゑにみず、といふべからず。しかあれば、自受用と渉境心とのゆゑを立すとも、その道取いまだ道取にあらず。自受用三昧にいれば、佗人われをみるべからずといはば、自受用さらに自受用を證すべからず、修證あるべからず。仰山なんぢ前兩度は實に國師の所在を三藏みるとおもひ、しれりと學せば、いまだ學佛の漢にあらず。

おほよそ大耳三藏は、第三度のみにあらず、前兩度も國師の所在はしらず、みざるなり。この道取のごとくならば、三藏の國師の所在をしらざるのみにあらず、仰山もいまだ國師の所在をしらずといふべし。しばらく仰山にとふ、國師即今在什麼處。このとき、仰山もし開口を擬せば、まさに一喝をあたふべし。

三人目に仰山慧寂(807―883)和尚に対する拈提ですが、一般的には「渉境心」とは分別心を「自受用三昧」とは自分自身に成りきる境涯を云うものですが、後に同等語の由を説かれます。

「仰山なんぢ東土に在りながら小釈迦の誉れを西天に施すと云えども、いまの道取、多きなる不是あり」

『御抄』(「註解全書」九・二一)では仰山のことばを「梵僧が梵語に飜して西天にて披露し、釈尊の再出世し給うかと云う。故に小釈迦の誉れ西天に施すと云う」と註解されますが、道元禅師は渉境心・自受用三昧の解釈は大きな誤釈と言われます。

「渉境心と自受用三昧と、異なるにあらず。かるが故に、渉境心と自受用との異なる故に見ず、と云うべからず。しかあれば、自受用と渉境心との故を立すとも、その道取いまだ道取にあらず。自受用三昧に入れば、他人われを見るべからずと云うわば、自受用さらに自受用を証すべからず、修証あるべからず」

道元禅師の見方は「渉境心」も「自受用三昧」も同義語として扱われますが、三昧に心を付けて渉境心・自受用三昧心とと並語することで「心」に内包されますから同義語とし、故に第三度目に三蔵が国師を見ずとは言えないとの論理法です。

自受用も渉境心も概念上での学問用語ですから、証明しようとしても言及できるものではありません。

自受用三昧だけを独立させてみても心の一部位で、連続態ですから「自受用さらに自受用を証すべからず」と言われ、さらに修と証を別々に取り出すことは出来ませんから「修証あるべからず」と著語されます。

「仰山なんぢ前両度は実に国師の所在を三蔵見ると思い、知れりと学せば、いまだ学仏の漢にあらず。凡そ大耳三蔵は、第三度のみにあらず、前了度も国師の所在は知らず、見ざるなり。この道取の如くならば、三蔵の国師の所在を知らざるのみにあらず、仰山もいまだ国師の所在を知らずと云うべし」

前二者同様に叱せられますが、問十答百の鷲子(『行持』巻)と称せられた仰山慧寂を「学仏の漢にあらず」さらに西天の三蔵と同位に比定する「仰山も未だ国師の所在を知らず」との評価です。

「しばらく仰山に問う、国師即今在什麼処。この時、仰山もし開口を擬せば、まさに一喝を与うべし」

あらためて仰山の語誤を糾すために在什麼処に対し答一でも云うものなら、「一喝を与うべし」との一喝を『御抄』(「註解全書」九・二二)では「云わずに在るようと云う心地」と解され、『聞書』(「同書」九・三三)では「国師の所在什麼処ならんには開口の義あるべからず」との見解です。

玄沙の徴にいはく、前兩度還見麼。

いまこの前兩度還見麼の一言、いふべきをいふときこゆ。玄沙みづから自己の言句を學すべし。この一句、よきことはすなはちよし。しかあれども、たゞこれ見如不見といはんがごとし。ゆゑに是にあらず。

玄沙が三蔵を呼び寄せて、前の二度は本当に見たのか。と三蔵を問い詰める設定で、この問い自体は的を得たものだが只これだけでは、見る見ないの能所見である為に是にあらずとの評著です。

これをきゝて、雪竇山明覺禪師重顯いはく、敗也、敗也。

これ玄沙のいふところを道とせるとき、しかいふとも、玄沙の道は道にあらずとせんとき、しかいふべからず。

四人目に雪竇重顕(980―1052)和尚の云う敗也敗也に対するものですが、これは雪竇が玄沙の前両度還見麼を是とし三蔵に対しやられたと云うもので、玄沙の言明を是としない時には敗也敗也などとは云うべからず、と平面的に捉えた著語です。

海會端いはく、國師若在三藏鼻孔上、有什麼難見。殊不知、國師在三藏眼睛裏。

これまた第三度を論ずるのみなり。前兩度もかつていまだみざることを、呵すべきを呵せず。いかでか國師を三藏の鼻孔上にあり、眼睛裏にあるともしらん。もし恁麼いはば、國師の言句いまだきかずといふべし。三藏いまだ鼻孔なし、眼睛なし。たとひ三藏おのれが眼睛鼻孔を保任せんとすとも、もし國師きたりて鼻孔眼睛裏にいらば、三藏の鼻孔眼睛、ともに當時裂破すべし。すでに裂破せば、國師の窟籠にあらず。五位の尊宿、ともに國師をしらざるなり。

最後に五人目の海会端つまり白雲守端(1025―1072)和尚に対する評価です。

趙州・仰山と同様に三度の国師の問いに対し第一第二は論ぜずに、第三度を論ずるのみなりと落胆されます。

「いかでか国師を三蔵の鼻孔上にあり、眼睛裏に有るとも知らん。もし恁麼云わば、国師の言句いまだ聞かずと云うべし」

慧忠国師の云う在什麼処の意も理解していないのに、どうして鼻孔上とか眼睛裏を知り得るかと。

「三蔵いまだ鼻孔なし、眼睛なし。たとひ三蔵おのれが眼睛鼻孔を保任せんとすとも、もし国師来たりて鼻孔眼睛裏に入らば、三蔵の鼻孔眼睛、ともに当時裂破すべし。すでに裂破せば、国師の窟籠にあらず。五位の尊宿、ともに国師を知らざるなり」

三蔵いまだ鼻孔なしは先に趙州いはくの段にて三蔵いまだ鼻孔あらずからの転成語ですが、三蔵は仏法を知らない凡夫の意と解し、三蔵おのれが眼睛鼻孔を保任せんとは菩提心を発して国師同様に仏祖となる事を指しますから、主客同一的状態となり国師と三蔵の見分けがつかない状況を「国師来たりて鼻孔眼睛裏に入らば、三蔵の鼻孔眼睛、ともに当時裂破すべし。すでに裂破せば、国師の窟籠にあらず」と能観所観一体を言うものです。

 

    六

國師はこれ一代の古佛なり、一世界の如來なり。佛正法眼藏あきらめ正傳せり。木槵子眼たしかに保任せり。自佛に正傳し、佗佛に正傳す。釋迦牟尼佛と同參しきたれりといへども、七佛と同時參究す。かたはらに三世諸佛と同參しきたれり。空王のさきの成道せり、空王ののちに成道せり。正當空王佛に同參成道せり。國師もとより娑婆世界を國土とせりといへども、娑婆かならずしも法界のうちにあらず、盡十方界のうちにあらず。釋迦牟尼佛の娑婆國の主なる、國師の國土をうばはず、罣礙せず。たとへば、前後の佛祖おのおのそこばくの成道あれど、あひうばはず、罣礙せざるがごとし。前後の佛祖の成道、ともに成道に罣礙せらるゝがゆゑにかくのごとし。

この段の前半部は慧忠国師を讃嘆する一代の古仏・一世界の如来釈迦牟尼仏と同参・空王仏に同参成道等の法語で満たされ、同様に慧忠を扱かった『即心是仏』巻(延応元年(1239))には「大証国師は曹谿古仏の上足なり、天上人間の大善知識なり」と有るを見ても、この巻に於ける大証慧忠国師の位置づけが窺われます。

なお古仏の尊称は「先師古仏」「曹谿古仏」「宏智古仏」「高祖古仏」「圜悟古仏」「黄檗古仏」「趙州古仏」等」を道元禅師は挙称されます。

「木槵子眼たしかに保任せり」の木槵子は羽子板の羽の核に当たるムクロジを云い、転じて眼睛(ひとみ)に喩えて坐禅を比喩する言い方です。

「自仏に正伝し、他仏に正伝す」云々は自他の分別を超越した事を云い、その自他なきを釈迦―七仏―三世諸仏を同参させ、自他という能観所観的見方を嫌う文言です。

「空王の先の成道せり、空王の後に成道せり。正当空王仏に同参成道せり」

空王はビッグバン以前の状態を指しますが、ビッグバンを境面として量子的世界から相対的次元に変成しても連続体は一次元ですから、ともに成道と言うキーワードでの包括的説明です。

後半部では慧忠国師釈迦牟尼仏との関係を「前後の仏祖の成道、ともに成道に罣礙せず」と前句同様成道で以て連関を表し、娑婆世界―法界―尽十方界の透脱化を説くものです。

大耳三藏の國師をしらざるを證據として、聲聞縁覺人、小乘のともがら、佛祖の邊際をしらざる道理、あきらかに決定すべし。國師の三藏を叱する宗旨、あきらめ學すべし。

いはゆるたとひ國師なりとも、前兩度は所在をしられ、第三度はわづかにしられざらんを叱せんはそのいひなし、三分に兩分しられんは全分をしれるなり。かくのごとくならん、叱すべきにあらず。たとひ叱すとも、全分の不知にあらず。三藏のおもはんところ、國師の懡羅なり。わづかに第三度しられずとて叱せんには、たれか國師を信ぜん。三藏の前兩度をしりぬるちからをもて、國師をも叱しつべし。

これから提唱の締め括りになり、大耳三蔵が慧忠国師を理解できなかった証拠として声聞縁覚人としますが、あらためて声聞縁覚人とは、大乗人に対する小乗人を指し、大乗が利他を修するに対し小乗の自利のみを修するを大耳三蔵と位置づけ、さらに慧忠国師が執拗なまでに三蔵を叱する宗旨が説かれます。

「たとひ国師なりとも、前両度は所在を知られ、第三度はわづかに知られざらんを叱せんはその云いなし、三分に両分知られんは全分を知れるなり」

仮に三蔵の二回の答えは正解で、三回目の質問が不答話であった為に、国師が叱ったと云うのは間違いであり、三回の内二回を他心通で見破ったと云うなら、全て見破れたと仮定する。

「かくの如くならん、叱すべきにあらず。たとい叱すとも、全分の不知にあらず。三蔵の思わん処、国師の懡羅なり」

そのように三蔵の三回の答話が正しかったら、叱する必要は有りませんが、例えば叱するにしても全分(三回)知らないのではないので、恥ずべき(懡羅)は国史の方ではないか、と云うのが三蔵のいい分であるとの拈提です。

「わづかに第三度知られずとて叱せんには、たれか国師を信ぜん。三蔵の前両度を知りぬる力を以て、国師をも叱しつべし」

たった一回(第三度)だけ知らないのを叱するようでは、世間の人は国師を信用しないだろう。今度は逆に三蔵が国師を叱ってやろうと、三蔵からのいい分を臭拳頭の解会として説かれるものです。

國師の三藏を叱せし宗旨は、三度ながら、はじめよりすべて國師の所在所念、身心をしらざるゆゑに叱するなり。かつて佛法を見聞習學せざりけることを叱するなり。この宗旨あるゆゑに、第一度より第三度にいたるまで、おなじことばにて問著するなり。

第一番に三藏まうす、和尚是一國之師、何卻去西川看競渡。しかいふに、國師いまだいはず、なんぢ三藏、まことに老僧所在をしれりとゆるさず。たゞかさねざまに三度しきりに問するのみなり。この道理をしらずあきらめずして、國師よりのち數百歳のあひだ、諸方の長老、みだりに下語、説道理するなり。

前來の箇々、いふことすべて國師の本意にあらず、佛法の宗旨にかなはず。あはれむべし、前後の老古錐、おのおの蹉過せること。いま佛法のなかに、もし佗心通ありといはば、まさに佗身通あるべし、佗拳頭通あるべし、佗眼睛通あるべし。すでに恁麼ならば、まさに自心通あるべし、自身通あるべし。すでにかくのごとくならんには、自心の自拈、いまし自心通なるべし。かくのごとく道取現成せん、おのれづから心づからの佗心通ならん。しばらく問著すべし、拈佗心通也是、拈自心通也是。速道々々。是則且置、汝得吾髓、是佗心通也。

前段は大耳三蔵の視点からの国師像でしたが、最終段では今一度国師についての考察です。

国師の三蔵を叱せし宗旨は、三度ながら、始めよりすべて国師の所在所念、身心を知らざる故に叱するなり」

慧忠国師が三度目の問いの後に遮野狐精と叱った理由は、最初から三問共々国師が云う老僧即今在什麼処の真意を解せず、不敢などと云うから叱するわけです。

「かつて仏法を見聞習学せざりける事を叱するなり。この宗旨ある故に、第一度より第三度に至るまで、同じ言葉にて問著するなり」

釈尊を本師とする仏法に於いても、時代状況や宗学宗旨等の違いで天地懸隔ほどの差が出る事があるから、国師は三度とも老僧即今在什麼処の語で以て問うてみたと。

「第一番に三蔵申す、和尚是一国之師、何却去西川看競渡。しか云うに、国師いまだ云わず、なんぢ三蔵、まことに老僧所在を知れりと許さず。たゞ重ねざまに三度頻りに問するのみなり」

国師と三蔵それぞれの認識の差異で、三蔵の認識する他心通は去西川であるので、国師いまだ云わずを黙認と可した三蔵とのすれ違い問答のような気がします。

「この道理を知らず明らめずして、国師よりのち数百歳の間、諸方の長老、妄りに下語、説道理するなり」

国師が三蔵の答話に対し無応答ならびに三度の同じ質問の老僧即今在什麼処を趙州以下の五人の長老たちは、什麼の真意を解さず只批評や道理を説くばかりだと。

「前来の箇々、云うこと全て国師の本意にあらず、仏法の宗旨に適わず。哀れむべし、前後の老古錐、おのおの蹉過せること」

前言の繰り返しで老古錐は大先輩の意で、蹉過はつまづく・すれちがうの意です。

「いま仏法の中に、もし他心通ありと云わば、まさに他身通あるべし、他拳頭通あるべし、他眼睛通あるべし。すでに恁麼ならば、まさに自心通あるべし、自身通あるべし。すでにかくの如くならんには、自心の自拈、いまし自心通なるべし。かくの如く道取現成せん、おのれづから心づからの他心通ならん」

これから数行が道元禅独自の論述法で、ここで言う他心通は五通六通の小神通ではなく、仏法のなかの他心通であることを認得しなければなりません。この場合は釈迦→摩訶迦葉に六祖慧能→青原・南嶽に単伝された仏法を「他心通」と言われ、その時には身心不二の論法に徹するならば「他身通」も有りなんで、「他拳頭通」も他身通を言い換えたもので「他眼睛通」も同様で、眼睛を生命そのものとする視点からすると他心通に包含されるものです。これらのように他が有るなら自心通さらには自身通も具備しなければなりません。

「すでにかくの如くならんには、自心の自拈、いまし自心通なるべし。かくの如く道取現成せん、おのれづから心づからの他心通ならん」

自心通・自身通があるならば「自心の自拈」つまり自分を自覚する事を言い、それが自心通であり、おのづから先程から説くように他心通に帰着するものであると。

「しばらく問著すべし、拈他心通也是、拈自心通也是。速道々々。是則且置、汝得吾随、是他心通也」

最後に我々に他心通を拈ずるを是とするか、自心通を拈ずるを是とするかを速道速道すみやかに言えと詰問されますが、これまで見て来たように、自他の区分けをする事は尽十方界を俯瞰する仏法とは呼べなくなり、どちらも是とすべきをこのように設問形式に置き換えられます。

結論は「汝得吾随、是他心通也」とのことですが、これは『葛藤』巻で説かれるように「祖道の皮肉骨髄は浅深にあらざるなり。見解に殊劣ありとも、祖道は得吾なるのみなり」と拈提され、また「正伝なき輩思わく、四子各所解に親疎あるによりて、祖道また皮肉骨髄の浅深不同なりー中略―かくの如く云うは未だ曾て仏祖の参学なく祖道の正伝あらざるなり」の文言からも推察されるように、他心通は人々の心根を探る事ではなく、得吾という自己の真実を得たことが他心通であり、また仏祖に参学したる正伝が他心通であり、決して人を驚嘆させたり大悟然たる態度を諌めるもので、日々底の真実体が「他心通」であるとの提唱です。

 

 

                          

正法眼蔵安居

正法眼蔵 第七十二 安居 

    一  

先師天童古佛、結夏小參云、平地起骨堆、虚空剜窟籠。驀透兩重關、拈卻黒漆桶。

しかあれば、得遮巴鼻子了、未免喫飯伸脚睡、在這裏三十年なり。すでにかくのごとくなるゆゑに、打併調度、いとまゆるくせず。その調度に九夏安居あり。これ佛々祖々の頂面目なり。皮肉骨髓に親曾しきたれり。佛祖の眼睛頂を拈來して、九夏の日月とせり。安居一枚、すなはち佛々祖々と喚作せるものなり。

安居の頭尾、これ佛祖なり。このほかさらに寸土なし、大地なし。夏安居の一橛、これ新にあらず舊にあらず、來にあらず去にあらず。その量は拳頭量なり、その様は巴鼻様なり。しかあれども、結夏のゆゑにきたる、虚空塞破せり、あまれる十方あらず。解夏のゆゑにさる、迊地を裂破す、のこれる寸土あらず。このゆゑに結夏の公案現成する、きたるに相似なり。解夏の籮籠打破する、さるに相似なり。かくのごとくなれども、親曾の面々ともに結解を罣礙するのみなり。萬里無寸草なり、還吾九十日飯錢來なり。

この『安居』巻の構文は最初に三則の古則話頭拈提、四則目には「清規」についての参究という多少長文の提唱ですが、毎巻の冒頭に主旨を述べる構成を考えると、『如浄語録』下(「大正蔵」四八・一二九・上)結夏小参に説く処の「平地に骨の丘を起こし、虚空に窟籠(ほら穴)を剜(えぐ)る。まっしぐらに先の二つの条件を透れば、黒漆桶という脱落を拈却できる」という如浄のことばを冒頭に据え、これから拈提に入りますが、因みに骨堆とは人間の集団つまり安居を意味し、窟籠は坐禅する場所つまり僧堂を云うものです。

「しかあれば、得遮巴鼻子了、未免喫飯伸脚睡、在這裏三十年なり。すでにかくのごとくなるゆえに、打併調度、いとまゆるくせず。その調度に九夏安居あり。これ仏々祖々の頂面目なり。皮肉骨髄に親曾しきたれり。仏祖の眼睛頂を拈来して、九夏の日月とせり。安居一枚、すなはち仏々祖々と喚作せるものなり。」

「得遮巴鼻子了、未免喫飯伸脚睡、在這裏三十年」この拈語が道元禅師の坐禅観を表徴した典型的言説です。所詮は「この二つのポイントを透脱しきっても、飯を食い脚を伸ばして睡る生活は生涯(三十年)変わらない」という修証一如を第一義にした上で修行という努力(

打併調度)には時間(いとま)を惜しんではいられない(ゆるくせず)。そのあり方(調度)に九旬安居という方法があり、九夏安居=頂=皮肉骨髄=眼睛=仏々祖々というように全存在を表す言辞で以ての論理づけは尋常の法です。

「安居の頭尾、これ仏祖なり。このほかさらに寸土なし、大地なし。夏安居の一橛、これ新にあらず旧にあらず、来にあらず去にあらず。その量は拳頭量なり、その様は巴鼻様なり」

これから安居という真実態の遠大性を述べる段で、「安居の頭尾」とは全体を指し、つまり安居自体を仏祖と位置づけ、「夏安居の一橛」とは雲水を一か所に繋ぎ留める棒杭には古い新しいはなく、来るとか去るとか云った流動性もないと云う意は、安居という真実は時処を超脱した道理を云うもので、そこで「その量は拳頭量なり、その様は巴鼻様なり」と独特な言い様で無限の表現をするものです。

「しかあれども、結夏のゆえに来たる、虚空塞破せり、あまれる十方あらず。解夏のゆえに去る、迊地を裂破す、残れる寸土あらず。このゆえに結夏の公案現成する、来たるに相似なり。解夏の籮籠打破する、去るに相似なり。かくのごとくなれども、親曾の面々ともに結解を罣礙するのみなり。万里無寸草なり、還吾九十日飯銭来なり」

先程は鳥瞰的視点からの考察でしたが、現実的には結制という行持が有るから雲水が各所から来参し、そこでは「虚空塞破」という虚空全体で以て安居の真実底を行持する為に、「あまれる十方あらず」と全てが安居一色ですから余地はないとの言で、逆に解制を迎えたら自ずと雲水は去り、今までの安居という虚空から解放され同時に「迊地裂破し寸土なし」と同義語を対句にした説明です。

さらに虚空塞破を「公案現成」という語に言い替え、その時には「来」と仮りに名づけ、一か所に参集した状態からの解散の状況を「籮籠打破」と表体し、去ると仮りに名づくと。

このように雲水の面々ともに結夏解制という安居の真実態は疑わないのである。つまりは「万里無寸草」という自由闊達な境涯、「還吾九十日飯銭来」と云う雲門匡真による九十日の安居を無駄にはするなとの洞山良介と雲門の言句で此の段は締め括ります。(万里無寸草については『景徳伝灯録』十五・潭州石霜山慶諸禅師章(「大正蔵」五一・三二一・上)・『行仏威儀』巻・『真字正法眼蔵』上・八二則等散見-飯銭来については『雲門匡真禅師広録』上(「大正蔵」四七・五五〇・下)・『真字正法眼蔵』下八則等散見)

 

黄龍死心和尚云、山僧行脚三十餘年、以九十日爲一夏。増一日也不得、減一日也不得。

しかあれば、三十餘年の行脚眼、わづかに見徹するところ、九十日爲一夏安居のみなり。たとひ増一日せんとすとも、九十日かへりきたりて競頭參すべし。たとひ減一日せんとすといふとも、九十日かへりきたりて競頭參するものなり。さらに九十日の窟籠を跳脱すべからず。この脱は、九十日の窟籠を手脚として跳するのみなり。九十日爲一夏は、我箇裏の調度なりといへども、佛祖のみづからはじめてなせるにあらざるがゆゑに、佛々祖々、嫡々正稟して今日にいたれり。

しかあれば、夏安居にあふは諸佛諸祖にあふなり。夏安居にあふは見佛見祖なり。夏安居ひさしく作佛祖せるなり。この九十日爲一夏、その時量たとひ頂量なりといへども、一劫十劫のみにあらず、百千無量劫のみにあらざるなり。餘時は百千無量等の劫波に使得せらる、九十日は百千無量等の劫波を使得するゆゑに、無量劫波たとひ九十日にあふて見佛すとも、九十日かならずしも劫波にかゝはれず。

しかあれば參學すべし、九十日爲一夏は眼睛量なるのみなり。身心安居者それまたかくのごとし。夏安居の活々地を使得し、夏安居の活々地を跳脱せる、來處あり、職由ありといへども、佗方佗時よりきたりうつれるにあらず、當處當時より起興するにあらず。來處を把定すれば九十日たちまちにきたる、職由を摸索すれば九十日たちまちにきたる。凡聖これを窟宅とせり、命根とせりといへども、はるかに凡聖の境界を超越せり。思量分別のおよぶところにあらず、不思量分別のおよぶところにあらず、思量不思量の不及のみにあらず。

今回の話頭の黄龍死心は黄龍慧南(1002―1069)―晦堂(黄龍)祖心(1025―1100)―死心(黄龍)悟新(1044―1115)と―超宗慧方と続く死心悟新のことですが、栄西に列なる法脈は黄龍祖心―黄龍惟清―長霊守卓と嗣続するもので傍流になります。

本文は「黄龍死心和尚が云う、山僧(死心)行脚修行すること三十年、九十日を以て一夏(安居)とし、一日も増減することはしなかった」と述懐にも似た明言ですが、云わんとする旨は一生涯(三十年)安居生活を中心に法身を修養した事への充足を云うものです。

「しかあれば、三十餘年の行脚眼、わづかに見徹するところ、九十日為一夏安居のみなり。たとえ増一日せんとすとも、九十日かへりきたりて競頭参すべし。たとえ減一日せんとすと云うとも、九十日かへりきたりて競頭参するものなり。さらに九十日の窟籠を跳脱すべか

ず。この跳脱は、九十日の窟籠を手脚として跳するのみなり。九十日為一夏は、我箇裏の調度なりと云へども、仏祖の自から始めてなせるにあらざるがゆえに、仏々祖々、嫡々正稟して今日に至れり」

ここでの「九十日」と云う数字は安居の真実体を説明するものですから、たとえ九十一日又は八十九日と増減されても九十日という真実底に収斂される喩えを「競頭参」で説明され、その上で九十日安居という絶対性(尽界の真実体)からは跳び出す事は出来ず、その中で増減云々を九十日の窟籠を手脚で踠(もが)いているようだと言うのです。

九十日為一夏の安居は、我々(我箇裏)の真実態を確認するやり方(調度)ではあるが、仏祖と云われる人物が始めたわけではなく無始本有の永劫無窮からの連続体で、こういう尽界の真実体を修証した事実を仏々祖々と呼び慣わし「嫡々正稟して今日に至れり」との見解です。

「しかあれば、夏安居にあうは諸仏諸祖にあうなり。夏安居にあうは見仏見祖なり。夏安居ひさしく作仏祖せるなり。この九十日為一夏、その時量たとひ頂量なりといへども、一劫十劫のみにあらず、百千無量劫のみにあらざるなり。餘時は百千無量等の劫波に使得せらる、九十日は百千無量等の劫波を使得するゆえに、無量劫波たとひ九十日にあうて見仏すとも、九十日必ずしも劫波に関われず」

ここで始めて夏安居と同義語句で以て「諸仏諸祖・見仏見祖・作仏祖」と認得し、次に「九十日一夏安居」の容量は「頂量」という思慮分別で計算可能だが、その容量は一劫十劫を超えた無量劫以上であると。

それ以外(余時)の平生の時間は無量の劫波(時間)に使われているが、九十日の安居に於いては劫波という時間の概念に縛られない無寸草なる境涯を言わんとするものです。

「しかあれば参学すべし、九十日為一夏は眼睛量なるのみなり。身心安居者それまたかくのごとし。夏安居の活々地を使得し、夏安居の活々地を跳脱せる、来処あり、職由ありといへども、他方他時より来たり移れるにあらず、当処当時より起興するにあらず。來処を把定すれば九十日忽ちに来たる、職由を摸索すれば九十日忽ちに来たる。凡聖これを窟宅とせり、命根とせりといへども、はるかに凡聖の境界を超越せり。思量分別の及ぶところにあらず、不思量分別のおよぶ処にあらず、思量不思量の不及のみにあらず」

先には安居の時間的無限性を説き、ここでは「九十日為一夏は眼睛量」と眼睛を生命活動と捉えての拈提です。また身の安居と心の安居に分析し、それぞれを「活鱍々地を使得」「活鱍々地を跳脱」と九十日安居に成りきる様子を活鱍々の躍動する語を以て表体するわけです。

同様な事項を「他方他時より来たり移れるにあらず―中略―職由を摸索すれば九十日忽ちに来たる」と安居は外観ではなく、安居という窟籠との同体同性同時下では去来処同等を言います。

さらなる安居の普遍性を「思量不思量の不及のみにあらず」と「凡聖の境界を超越」した、安居に喩えた真実底を思量不思量を以て説くわけですが、非思量を最後に付言することも

活鱍々の一場とはならないでしょうか。

 

    三

世尊在摩竭陀國、爲衆説法。是時將欲白夏、乃謂阿難曰、諸大弟子、人天四衆、我常説法、不生敬仰。我今入因沙臼室中、坐夏九旬。忽有人、來問法之時、汝代爲我説、一切法不生、一切法不滅。言訖掩室而坐。

しかありしよりこのかた、すでに二千一百九十四年〈當日本寛元三年乙巳歳〉なり。堂奥にいらざる兒孫、おほく摩竭掩室を無言説の證據とせり。いま邪黨おもはくは、掩室坐夏の佛意は、それ言説をもちゐるはことごとく實にあらず、善巧方便なり。至理は言語道斷し、心行處滅なり。このゆゑに、無言無心は至理にかなふべし、有言有念は非理なり。このゆゑに、掩室坐夏九旬のあひだ、人跡を斷絶せるなりとのみいひいふなり。これらのともがらのいふところ、おほきに世尊の佛意に孤負せり。

いはゆる、もし言語道斷、心行處滅を論ぜば、一切の治生産業みな言語道斷し、心行處滅なり。言語道斷とは、一切の言語をいふ。心行處滅とは、一切の心行をいふ。いはんやこの因縁、もとより無言をたうとびんためにはあらず。通身ひとへに泥水し入草して、説法度人いまだのがれず、轉法拯物いまだのがれざるのみなり。もし兒孫と稱ずるともがら、坐夏九旬を無言説なりといはば、還吾九旬坐夏來といふべし。

阿難に勅令していはく、汝代爲我説、一切法不生、一切法不滅と代説せしむ。この佛儀、いたづらにすごすべからず。おほよそ、掩室坐夏、いかでか無言無説なりとせん。しばらく、もし阿難として當時すなはち世尊に白すべし、一切法不生、一切法不滅。作麼生説。縱説恁麼、要作什麼。かくのごとく白して、世尊の道を聽取すべし。

おほよそ而今の一段の佛儀、これ説法轉法の第一義諦、第一無諦なり。さらに無言説の證據とすべからず。もしこれを無言説とせば、可憐三尺龍泉剣、徒掛陶家壁上梭ならん。

しかあればすなはち、九旬坐夏は古轉法輪なり、古佛祖なり。而今の因縁のなかに、時將欲白夏とあり。しるべし、のがれずおこなはるゝ九旬坐夏安居なり、これをのがるゝは外道なり。おほよそ世尊在世には、あるいは忉利天にして九旬安居し、あるいは耆闍崛山靜室中にして五百比丘ともに安居す。五天竺國のあひだ、ところを論ぜず、ときいたれば白夏安居し、九夏安居おこなはれき。いま現在せる佛祖、もとも一大事としておこなはるゝところなり。これ修證の無上道なり。梵網經中に冬安居あれども、その法つたはれず、九夏安居の法のみつたはれり。正傳まのあたり五十一世なり。

本則の読みは、

「世尊、摩竭陀(マガダ)国に在し、衆の為に説法す。この時まさに白夏(安居)に臨んで、乃ち阿難に謂うに日く、諸の弟子、人天四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)は、我れ常に説法すれども、敬仰せず。我れ今因沙臼室中に入り、坐夏九旬す。忽ち人有って、来って法を問う時、汝(アーナンダ)が代って我が為に説くべし、一切法は不生・一切法は不滅と。言い訖(おわ)ると因沙臼室で坐禅す」

マガダ(摩竭陀)国とは現在のインド北東部ビハール州周辺に位置した古代十六大国の一つで、同地にはブッダガヤ・王舎城霊鷲山・竹林精舎等あり、因沙臼室は霊鷲山にあったとされる南山石室・帝釈窟等の一つです。

「しかありしよりこのかた、すでに二千一百九十四年〈当日本寛元三年乙巳歳〉なり。堂奥にいらざる児孫、多く摩竭掩室を無言説の証拠とせり。いま邪党おもはくは、掩室坐夏の仏意は、それ言説を用いるは悉く実にあらず、善巧方便なり。至理は言語道断し、心行処滅なり。このゆえに、無言無心は至理にかなふべし、有言有念は非理なり。このゆえに、掩室坐夏九旬のあひだ、人跡を断絶せるなりとのみいひいふなり。これらのともがらの云うところ、おほきに世尊の仏意に孤負せり」

ここに云う文意は維摩の一黙雷又は禅宗門徒による不立文字に対する道元禅師の「摩竭掩室」に対する見解で、難解な文体ではありません。

二千百九十四年は釈迦入滅より寛元三年までの年数を述べたものですが、『景徳伝灯録』一・釈迦牟尼章では穆王の五十二年壬申の歳の二月十五日、つまり紀元前九五〇年入滅説を採用し寛元三年は一二四五ですからピタリと年代が符合します。因みに2016年現在の仏歴は西暦年+543を加えた算数で二五五九年を採用するのが南方仏教(ミャンマー・タイ等)。日本では紀元前483年とする二四九九、もしくは紀元前383年とする二三九九年とする諸説があります。

最後に無言説法等は「仏意に孤負せり」と仏の意志にそむくものだと断言されます。

「いはゆる、もし言語道断、心行処滅を論ぜば、一切の治生産業みな言語道断し、心行処滅なり。言語道断とは、一切の言語をいふ。心行処滅とは、一切の心行を云う。いはんやこの因縁、もとより無言をたうとびんためにはあらず。通身ひとへに泥水し入草して、説法度人いまだのがれず、転法拯物いまだのがれざるのみなり。もし児孫と称ずるともがら、坐夏九旬を無言説なりといはば、還吾九旬坐夏来と云うべし。」

この段にて「究竟指帰何処、言語道断、心行処滅、永寂如空」(『宗鏡録』九二「大正蔵」四八・九一九・下)の如くとする参学人に対し「治生産業」という現実の生活は表裏の関係にあって、無言説ばかりを玉石に比する身心一如の仏法世界では成り立たず、「通身に泥水入草」してして始めて「説法度人」の表裏一体となるのであり、無言説ばかりを云う学人には第一段で示した還吾九十日飯銭来を捩った「還吾九旬坐夏来」と無駄な日時を浪費するなとの道元禅流の拈提です。

「阿難に勅令して曰く、汝代為我説、一切法不生、一切法不滅と代説せしむ。この仏儀、いたづらに過ごすべからず。おほよそ、掩室坐夏、いかでか無言無説なりとせん。しばらく、もし阿難として当時すなはち世尊に白すべし、一切法不生、一切法不滅。作麼生説。縱説恁麼、要作什麼。かくのごとく白して、世尊の道を聽取すべし」

いよいよ拈提が佳境に入ります。世尊が阿難に代弁せよとの「一切法不生、一切法不滅」に対し、具体的に「作麼生」「恁麼」「什麼」と仏法の勘所を世尊に聴きなさいと、阿難に対する道元禅師の著語です。

「おほよそ而今の一段の仏儀、これ説法転法の第一義諦、第一無諦なり。さらに無言説の証拠とすべからず。もしこれを無言説とせば、可憐三尺龍泉剣、徒掛陶家壁上梭ならん。

しかあればすなはち、九旬坐夏は古転法輪なり、古仏祖なり。而今の因縁のなかに、時将欲白夏とあり。しるべし、逃れずおこなはるゝ九旬坐夏安居なり、これを逃るるは外道なり」

先の道元禅師の著語以前に戻り、世尊が説いた一切法不生・一切法不滅の義は「第一義諦・第一無諦」と最高の褒め言葉で以て礼賛しますが、この一切法不生・一切法不滅の義を掩室坐夏の無言説とする輩にとっては、三尺の名宝と云われる宝剣と晋(シン)の将軍の陶侃(259―334)が拾った織梭(しょくひ・はた織りの横糸を通す道具)を同列に並べるようなものだとの喩えですが(三尺龍泉剣は『嘉泰普灯録』二十八・仏性泰禅師章(「続蔵」七九・四六七・上・有句無句の段参照)、言わんとする要旨は世尊が言う一切法不生・一切法不滅は九旬の安居と同等体を言うにも関わらず、掩室坐夏を無言無心と心得る輩との差異を説くものです。

「しかあればすなはち、九旬坐夏は古転法輪なり、古仏祖なり。而今の因縁のなかに、時将欲白夏とあり。知るべし、逃れずおこなはるゝ九旬坐夏安居なり、これを逃るゝは外道なり」

ここで説く「古転法輪」「古仏祖」の意は古くからの・昔からのと云う時間軸を説くものではなく、自身の最も尊敬する形容語としての古であり、「九旬坐夏」つまり安居そのものが仏の教え・坐禅そのものが三世に通底する仏祖との解釈です。ですから世尊は「時まさに安居に入る」と言われ、この「九旬坐夏の安居」に同参同宿できない輩は外道との言明です。

「おほよそ世尊在世には、あるいは忉利天にして九旬安居し、あるいは耆闍崛山浄室中にして五百比丘ともに安居す。五天竺国のあひだ、ところを論ぜず、ときいたれば白夏安居し、九夏安居おこなはれき。いま現在せる仏祖、もとも一大事としておこなはるゝところなり。これ修証の無上道なり。梵網経中に冬安居あれども、その法伝はれず、九夏安居の法のみ

伝はれり。正伝まのあたり五十一世なり」

「忉利天九旬安居」の典拠を水野弥穂子氏は『仏昇忉利天為母説法経』上(「大正蔵」一七・七八七・中)とされます。「耆闍崛山」は霊鷲山のことで、「五天竺国」とは東印度六国・西印度十一国・南印度十六国・北印度二十一国・中印度三十国の合計八十四国を云う。(『大唐西域記』「大正蔵」五一・八六八・下)「梵網経中冬安居」の事例は『洗面』巻(寛元元(1243)年十月二十日吉峰寺重示衆)に「梵網菩薩戒経に云う、常に二時の頭陀、冬夏坐禅、結夏安居に応ずー中略―頭陀は正月十五日より三月十五日まで、八月十五日より十月十五日まで云々」と記される正月十五日からの冬安居の慣習は伝来せず、九夏安居つまり八月十五日よりの伝法伝来し、その正伝が釈迦牟尼仏大和尚から四十七世清了大和尚・四十八世宗珏大和尚・四十九世智鑑大和尚・五十世如浄大和尚、そして五十一世の自身にと印度より大宋国そして日本国に「安居」の真実態が伝来する自負心をも込めた文言での摩竭掩室の話頭拈提です。

 

    四

清規云、行脚人欲就處所結夏、須於半月前掛搭。所貴茶湯人事、不倉卒。

いはゆる半月前とは、三月下旬をいふ。しかあれば、三月内にきたり掛搭すべきなり。すでに四月一日よりは、比丘僧ありきせず。諸方の接待および諸寺の旦過、みな門を鎖せり。しかあれば、四月一日よりは、雲衲みな寺院に安居せり、庵裡に掛搭せり。あるいは白衣舎に安居せる、先例なり。これ佛祖の儀なり、慕古し修行すべし。拳頭鼻孔、みな面々に寺院をしめて、安居のところに掛搭せり。

しかあるを、魔儻いはく、大乘の見解、それ要樞なるべし。夏安居は聲聞の行儀なり、あながちに修習すべからず。かくのごとくいふともがらは、かつて佛法を見聞せざるなり。阿耨多羅三藐三菩提、これ九旬安居坐夏なり。たとひ大乘小乘の至極ありとも、九旬安居の枝葉花菓なり。

四月三日の粥罷より、はじめてことをおこなふといへども、堂司あらかじめ四月一日より戒臘の榜を理會す。すでに四月三日の粥罷に、戒臘牌を衆寮前にかく。いはゆる前門の下間の窓外にかく。寮窓みな櫺子なり。粥罷にこれをかけ、放參鐘ののち、これををさむ。三日より五日にいたるまでこれをかく。をさむる時節、かくる時節、おなじ。

かの榜、かく式あり。知事頭首によらず、戒臘のまゝにかくなり。諸方にして頭首知事をへたらんは、おのおの首座監寺とかくなり。數職をつとめたらんなかには、そのうちにつとめておほきならん職をかくべし。かつて住持をへたらんは、某甲西堂とかく。小院の住持をつとめたりといへども、雲水にしられざるは、しばしばこれをかくして稱ぜず。もし師の會裏にしては、西堂なるもの、西堂の儀なし。某甲上座とかく例もあり。おほくは衣鉢侍者寮に歇息する、勝躅なり。さらに衣鉢侍者に充し、あるいは燒香侍者に充する、舊例なり。いはんやその餘の職、いづれも師命にしたがふなり。佗人の弟子のきたれるが、小院の住持をつとめたりといへども、おほきなる寺院にては、なほ首座書記、都寺監寺等に請ずるは、依例なり、芳躅なり。小院の小職をつとめたるを稱ずるをば、叢林わらふなり。よき人は、住持をへたる、なほ小院をばかくして稱ぜざるなり。榜式かくのごとし。

 某國某州某山某寺、今夏結夏海衆、戒臘如後。

  陳如尊者

  堂頭和尚

   建保元戒

    某甲上座    某甲藏主

    某甲上座    某甲上座

   建保二戒

    某甲西堂    某甲維那

    某甲首座    某甲知客

    某甲上座    某甲浴主

   建暦元戒

    某甲直歳  某甲侍者

    某甲首座    某甲首座

    某甲化主    某甲上座

    某甲典座  某甲堂主

   建暦三戒

    某甲書記  某甲上座

    某甲西堂    某甲首座

    某甲上座    某甲上座

 右、謹具呈、若有誤錯、各請指揮。謹状。

  某年四月三日、堂司比丘某甲謹状

かくのごとくかく。しろきかみにかく。眞書にかく、草書隷書等をもちゐず。かくるには、布線のふとさ兩米粒許なるを、その紙榜頭につけてかくるなり。たとへば、簾額のすぐならんがごとし。四月五日の放參罷にをさめをはりぬ。

四月八日は佛生會なり。

四月十三日の齋罷に、衆寮の僧衆、すなはち本寮につきて煎點諷經す。寮主ことをおこなふ。點湯燒香、みな寮主これをつとむ。寮主は衆寮の堂奥に、その位を安排せり。寮首座は、寮の聖僧の左邊に安排せり。しかあれども、寮主いでて燒香行事するなり。首座知事等、この諷經におもむかず。たゞ本寮の僧衆のみおこなふなり。

維那、あらかじめ一枚の戒臘牌を修理して、十五日の粥罷に、僧堂前の東壁にかく、前架のうへにあたりてかく。正面のつぎのみなみの間なり。

これから『禅苑清規』結夏章(「続蔵」六三・五二八・中)に依用し安居に於ける具体事例の説明ですが、道元禅師は底本とする経典類を恣意的に改変する箇所が見当たりますが(『自照三昧』巻・「大慧録」等)本則に当る『禅苑清規』に於いても「半日」を「半月」と改訂し、「不倉卒」は原文「不至倉卒」からの改訂提唱ですが、後者の至は有っても無くても支障はないが、前者の半月には当時の僧堂生活での具体的行持の流れを垣間見る思いです。

「いはゆる半月前とは、三月下旬を云う。しかあれば、三月内にきたり掛搭すべきなり。すでに四月一日よりは、比丘僧ありきせず。諸方の接待および諸寺の旦過、みな門を鎖せり。しかあれば、四月一日よりは、雲衲みな寺院に安居せり、庵裡に掛搭せり。あるいは白衣舎に安居せる、先例なり。これ仏祖の儀なり、慕古し修行すべし。拳頭鼻孔、みな面々に寺院をしめて、安居のところに掛搭せり」

原文では四月十四日の昼食の後に掛搭(四月十四日斎後、掛念誦牌)と記されるが、実際には四月一五日の半月以上前から安居が始まるわけです。四月に入ると安居が行われる寺院では受処(接待)と旅僧の宿泊施設である旦過寮は閉鎖されるので、四月一日時点では安居に臨む雲衲は当該寺院又は寺院内の庵、さらには域内にある在俗舎(白衣舎)にそれぞれの事情で安居するという事が道元禅師在宋中での習慣であったのだろうと思われます。

「しかあるを、魔党いはく、大乗の見解、それ要枢なるべし。夏安居は声聞の行儀なり、あながちに修習すべからず。かくの如く云うともがらは、かつて仏法を見聞せざるなり。阿耨多羅三藐三菩提、これ九旬安居坐夏なり。たとひ大乘小乘の至極ありとも、九旬安居の枝葉花菓なり」

ここに云う「魔党」は旧仏教徒の南都系を指すのか、それとも新興の浄土系が云う処の言説が世間に流布しての事だと察せられます。

「阿耨多羅三藐三菩提」は無上正等正覚の境涯ですから、その正覚の現実態が「九旬の安居での坐」であり、大乗小乗と区分をするが安居中の枝葉花菓の表情は大乗の菩薩行・小乗の伝統という形態で維持され、基本が安居との見解です。

「四月三日の粥罷より、始めて事を行うと云えども、堂司あらかじめ四月一日より戒臘の榜を理会す。すでに四月三日の粥罷に、戒臘牌を衆寮前に掛く。いはゆる前門の下間の窓外に掛く。寮窓みな櫺子なり。粥罷にこれを掛け、放参鐘の後、これを収む。三日より五日にいたるまでこれを掛く。収むる時節、かくる時節、同じ」

四月三日の粥罷が終わってから安居に対する準備段階に入るが、堂司(維那)は雲衲に対する指導責任があるので、四月一日には参集した雲水の戒臘の牌に履歴を書いておく。いよいよ四月三日粥罷に衆寮の前に履歴を書いた戒臘牌を、衆寮の向かって左側(下間)の縦格子の窓の外に掛けるのである。朝貼り出し夜坐の終了を告げる放参鐘が鳴ったら収め、これを三日の朝から五日の晩まで同じくするのである。

「かの榜、書く式あり。知事頭首によらず、戒臘のまゝに書くなり。諸方にして頭首知事を経たらんは、おのおの首座監寺と書くなり。数職を務めたらんなかには、そのうちに務めて大きならん職を書くべし。かつて住持を経たらんは、某甲西堂と書く。小院の住持を務めたりと云えども、雲水に知られざるは、しばしばこれを隠して称ぜず。もし師の会裏にしては、西堂なるもの、西堂の儀なし。某甲上座と書く例もあり。多くは衣鉢侍者寮に歇息する、勝躅なり。さらに衣鉢侍者に充し、あるいは燒香侍者に充する、旧例なり。いはんやその餘の職、いづれも師命に従うなり。他人の弟子の来たれるが、小院の住持を務めたりと云えども、大きなる寺院にては、なほ首座書記、都寺監寺等に請ずるは、依例なり、芳躅なり。小院の小職を務めたるを称ずるをば、叢林笑うなり。よき人は、住持を経たる、なほ小院をば隠して称ぜざるなり」

戒臘牌には書く書式があり、僧侶としての法齢が重要視され、知事は都寺(つうす)・監寺(かんす)・副寺(ふうす)・維那(いの)・典座(てんぞ)・直歳(しっすい)の六知事、頭首は首座(しゅそ)・書記(しょき)・蔵主(ぞうす)・庫頭(くじゅう)・知客(しか)・浴主(よくす)の六頭首で各寮舎の責任者です。

「かつて住持を経たらんは、某甲西堂と書く」とありますが、東堂に対し西堂を云うもので、

東堂は前住持を西堂は他寺院の前住持を指し、長老僧の形容である。その西堂が他門の安居に参随する時には、某甲西堂・某甲上座と紹介され、衣鉢侍者寮に入り住持の侍者位に就くと。

他の安居従事者は主催寺院の長老に従い円滑に行持する事が肝心で、履歴を口宣する学人は笑いの対象であり、叢林とは人体の如くに五臓六腑は重要であるが、全体が連関する事で法身としての具現が出来るわけですから、自己(我)主張は勝躅にあらず。との説明です。

榜式かくのごとし。

 某國某州某山某寺、今夏結夏海衆、戒臘如後。

  陳如尊者

  堂頭和尚

   建保元戒

    某甲上座    某甲藏主

    某甲上座    某甲上座

   建保二戒

    某甲西堂    某甲維那

    某甲首座    某甲知客

    某甲上座    某甲浴主

   建暦元戒

    某甲直歳  某甲侍者

    某甲首座    某甲首座

    某甲化主    某甲上座

    某甲典座  某甲堂主

   建暦三戒

    某甲書記  某甲上座

    某甲西堂    某甲首座

    某甲上座    某甲上座

右、謹具呈、若有誤錯、各請指揮。謹状。

某年四月三日、堂司比丘某甲謹状

かくのごとくかく。しろきかみにかく。眞書にかく、草書隷書等をもちゐず。かくるには、布線のふとさ兩米粒許なるを、その紙榜頭につけてかくるなり。たとへば、簾額のすぐならんがごとし。四月五日の放參罷にをさめをはりぬ。

四月八日は佛生會なり。

 四月十三日の齋罷に、衆寮の僧衆、すなはち本寮につきて煎點諷經す。寮主ことをおこなふ。點湯燒香、みな寮主これをつとむ。寮主は衆寮の堂奥に、その位を安排せり。寮首座は、寮の聖僧の左邊に安排せり。しかあれども、寮主いでて燒香行事するなり。首座知事等、この諷經におもむかず。たゞ本寮の僧衆のみおこなふなり。

 維那、あらかじめ一枚の戒臘牌を修理して、十五日の粥罷に、僧堂前の東壁にかく、前架のうへにあたりてかく。正面のつぎのみなみの間なり。

戒臘牌の具体的な例示で説明されたもので、「陳如尊者」とは五比丘(阿若憍陳如・阿説示・摩訶摩男・婆提梨迦・婆敷)の筆頭悟道梵行第一を指し、「堂頭和尚」は安居寺院の住持者を筆頭第二とします。

「建保元戒」は諸本対校『建撕記』(六頁)には「建保元年(1213)癸酉四月九日、十四歳にして座主公円僧正に剃髪を任す。同十日延暦寺戒壇にて菩薩戒を受け比丘と作る」と記されますから、この時の状況を回顧しての事だと考えられます。

「建暦元戒」の建暦は建保の前の元号で、同じく諸本対校『建撕記』(六頁)では「建暦二年(1212)十三歳の春に横川千光房に登る」の記載がある事から、建暦二年の前後の「建暦元戒」」建暦三戒」の項を例示したのでしょうが、出来る事なら当時の実名が記されたものならと惜しまれる気がする。

「かくの如く書く。白き紙に書く。真書に書く、草書隷書等を用いず。掛くるには、布線の太さ両米粒許なるを、その紙榜頭につけて掛くるなり。たとへば、簾額のすぐならんが如し。四月五日の放参罷に収め終わりぬ」

白紙に楷書(真書)で書きなさいとの事で、くずし字(草書)や隷書(篆書を簡略にした字体)は使用せず、真っすぐに掛けて四月五日の坐禅終了の鐘で収めなさいとは先に説かれたものです。

「四月八日は仏生会なり。四月十三日の齋罷に、衆寮の僧衆、すなわち本寮につきて煎点諷経す。寮主ことを行なう。点湯焼香、みな寮主これをつとむ。寮主は衆寮の堂奥に、その位を安排せり。寮首座は、寮の聖僧の左辺に安排せり。しかあれども、寮主いでて焼香行事するなり。首座知事等、この諷経に赴かず。たゞ本寮の僧衆のみ行なうなり。

維那、あらかじめ一枚の戒臘牌を修理して、十五日の粥罷に、僧堂前の東壁に掛く、前架

の上にあたりて掛く。正面の次の南の間なり」

四月八日は仏生会とあるが、簡略にその様子がわかればと残念である。

四月十三日の中食の後に安居の前段階的行持である煎点諷経である。煎点を供し読経する茶礼儀式である。

「寮主」は各寮舎の責任者で一ヶ月又は半月あるいは十日で主は交替するらしく、別に寮首座という位もあり、この煎点諷経には安居での首座・知事は参加しないとあり、寺院内では相当に階層的ヒエラルキーが存在したらしい。

「維那」(堂司)は三日粥罷から五日放参鐘まで衆寮前に掛けた戒臘牌を、十五日の粥罷には僧堂前の東壁の僧堂外単の南側の柱と柱の前架に掛けるとの事情です。

四月十四日の齋後に、念誦牌を僧堂前にかく。諸堂おなじく念誦牌をかく。至晩に、知事あらかじめ土地堂に香華をまうく、額のまへにまうくるなり。集衆念誦す。

念誦の法は、大衆集定ののち、住持人まづ燒香す。つぎに知事頭首、燒香す。浴佛のときの燒香の法のごとし。つぎに維那、くらゐより正面にいでて、まづ住持人を問訊して、つぎに土地堂にむかうて問訊して、おもてをきたにして、土地堂にむかうて念誦す。詞云、

竊以薫風扇野、炎帝司方。當法王禁足之辰、是釋子護生之日。躬裒大衆、肅詣靈祠、誦持萬徳洪名、回向合堂眞宰。所祈加護得遂安居。仰憑尊衆念。

 清淨法身毘盧遮那佛  金打

 圓滿報身盧遮那佛   同

 千百億化身釋迦牟尼佛 同

 當來下生彌勒尊佛   同

 十方三世一切諸佛   同

 大聖文殊師利菩薩   同

 大聖普賢菩薩     同

 大悲觀世音菩薩    同

 諸尊菩薩摩訶薩    同

 摩訶般若波羅蜜    同

上來念誦功徳、竝用回向、護持正法、土地龍神。伏願、神光協贊、發揮有利之勲。梵樂興隆、亦錫無私之慶。再憑尊衆念。

十方三世一切諸佛 諸尊菩薩摩訶薩 摩訶般若波羅蜜

ときに鼓響すれば、大衆すなはち雲堂の點湯の座に赴す。點湯は庫司の所辨なり。大衆赴堂し、次第巡堂し、被位につきて正面而坐す。知事一人行法事す。いはゆる燒香等をつとむるなり。

ここでの提唱も『禅苑清規』二・結夏章に説く漢文体を訓読調に書き改めたもので、途中「十仏名」は記載なく自身が添語したもので、文面の如くです。

清規云、本合監院行事。有改維那代之。

すべからく念誦已前に冩牓して首座に呈す。知事、搭袈裟帶坐具して首座に相見するとき、あるいは兩展三拝しをはりて、牓を首座に呈す。首座、答拝す。知事の拝とおなじかるべし。牓は箱に複秋子をしきて、行者にもたせてゆく。首座、知事をおくりむかふ。

 牓式

   庫司今晩就

   雲堂煎點、特爲

   首座

   大衆、聊表結制之儀。伏冀

   衆慈同垂

   光降。

  寛元三年四月十四日  庫司比丘某甲等謹白

知事の第一の名字をかくなり。牓を首座に呈してのち、行者をして雲堂前に貼せしむ。堂前の下間に貼するなり。前門の南頬の外面に、牓を貼する板あり。このいた、ぬれり。

殻漏子あり。殻漏子は、牓の初にならべて、竹釘にてうちつけたり。しかあれば、殻漏子もかたはらに押貼せり。この牓は如法につくれり。五分許の字にかく、おほきにかゝず。殻漏子の表書は、かくのごとくかく。

   状請 首座 大衆    庫司比丘某甲等謹封

煎點をはりぬれば、牓ををさむ。

「清規に云う」の原文は前段の「知事一人行事す」に対する割注で、原文では「本合監院行事。有故即維那代之」と「故即」を「改」に変えるなど微妙な改変をされていて、如何に説かんとするかが窺えます。

「すべからく念誦已前に写牓して首座に呈す」は「念誦已前、先写牓呈首座請之」からのもので、「知事、搭袈裟帯坐具して首座に相見するとき、あるいは両展三拝し終わりて、牓を首座に呈す。首座、答拝す。知事の拝と同じかるべし。牓は箱に複秋子を敷きて、行者に持たせて行く。首座、知事を送り迎う」は道元禅師の補講文です。

「搭袈裟帯坐具」は正式な威儀法服で、「両展三拝」は初めに大展三拝、次に展坐具三拝、最後に触礼三拝を云い、人事(あいさつ)・陳賀等の場合に用いる。

「複秋子」は袱紗の事で、「行者(あんじゃ)」とは寺内に住する得度前の人で、六祖慧能の盧行者が最初と云う。

牓は「たて札」の意で、ここでの牓式も割注部位で「庫司(監院)は今晩、雲堂(僧堂)に就いて茶を煎点し、特(ことさら)に首座・大衆の為に、聊(いささ)か結制の儀を表す。伏して冀(ねがわ)くは衆慈同じく光降を垂れんことを」と『禅苑清規』からの直文で、実際に寛元三年の四月十四日に行持された事を同年六月十三日に提唱されているのでしょうか。

「知事の第一の名字を書くなり。牓を首座に呈してのち、行者をして雲堂前に貼せしむ。堂前の下間に貼するなり。前門の南頬の外面に、牓を貼する板あり。この板、塗れり。

殻漏子あり。殻漏子は、牓の初にならべて、竹釘にてうちつけたり。しかあれば、殻漏子もかたはらに押貼せり。この牓は如法につくれり。五分許の字にかく、おほきにかゝず。殻漏子の表書は、かくのごとくかく。状請 首座 大衆 庫司比丘某甲等謹封煎點終わりぬれば、牓を収む」

『禅苑清規』には不載で、自身による補講文です。「知事の第一の名字を書く」とは庫司比丘某甲の某甲に対し具体的に庫司の都寺・監寺・副寺に当たる三知事の筆頭名を書くようにとの事です。

「牓を首座に呈してのち、行者をして雲堂前に貼せしむ。堂前の下間に貼するなり。前門の南頬の外面に、牓を貼する板あり」

この儀は十五日の粥罷に戒臘牓を僧堂前に掛ける儀と同じ手順で行うもので、たて札(牓)を貼る板は漆塗りの板を使うとの規定です。

「殻漏子」は可漏(かろ)と同義語で封筒・書簡袋を指す。「五分許の字」は現在のメートル法では0・3センチ×5=1・5センチばかりの字幅になります。

十五日の粥前に、知事頭首、小師法眷、まづ方丈内にまうでて人事す。住持人もし隔宿より免人事せば、さらに方丈にまうづべからず。免人事といふは、十四日より、住持人、あるいは頌子あるいは法語をかける牓を、方丈門の東頬に貼せり。あるいは雲堂前にも貼す。

十五日の陞座罷、住持人、法座よりおりて堦のまへにたつ。拝席の北頭をふみて、面南してたつ。知事、近前して兩展三拝す。

一展云、此際安居禁足、獲奉巾瓶。唯仗和尚法力資持、願無難事。

一展、叙寒暄、觸禮三拝。

叙寒暄云者、展坐具三拝了、収坐具、進云、即辰孟夏漸熱。法王結制之辰、伏惟、堂頭和尚、法候動止萬福、下情不勝感激之至。

かくのごとくして、その次、觸禮三拝。ことばなし、住持人みな答拝す。

住持人念、此者多幸得同安居、亦冀某〈首座監寺〉人等、法力相資、無諸難事。首座大衆、同此式也。

このとき、首座大衆、知事等、みな面北して禮拝するなり。住持人ひとり面南にして、法座の堦前に立せり。住持人の坐具は、拝席のうへに展ずるなり。

つぎに首座大衆、於住持人前、兩展三拝。このとき、小師侍者、法眷沙彌、在一邊立。未得與大衆雷同人事。

いはゆる一邊にありてたつとは、法堂の東壁のかたはらにありてたつなり。もし東壁邊に施主の垂箔のことあらば、法鼓のほとりにたつべし、また西壁邊にも立すべきなり。

大衆禮拝をはりて、知事まづ庫堂にかへりて主位に立す。つぎに首座すなはち大衆を領して庫司にいたりて人事す。いはゆる知事と觸禮三拝するなり。

このとき小師侍者法眷等は、法堂上にて住持人を禮拝す。法眷は兩展三拝すべし、住持人の答拝あり。小師侍者、おのおの九拝す。答拝なし。沙彌九拝、あるいは十二拝なり。住持人合掌してうくるのみなり。

つぎに首座、僧堂前にいたりて、上間の知事床のみなみのはしにあたりて、雲堂の正面にあたりて、面南にて大衆にむかうてたつ。大衆面北して、首座にむかうて觸禮三拝す。首座、大衆をひきて入堂し、戒臘によりて巡堂立定す。知事入堂し、聖僧前にて大展禮三拝しておく。つぎに首座前にて觸禮三拝す。大衆答拝す。知事、巡堂一迊して、いでてくらゐによりて叉手してたつ。

住持人入堂、聖僧前にして燒香、大展三拝起。このとき、小師於聖僧後避立。法眷隨大衆。

つぎに住持人、於首座觸禮三拝。

いはく、住持人、たゞくらゐによりてたち、面西にて觸禮す。首座大衆答拝、さきのごとし。

住持人、巡堂していづ。首座、前門の南頬よりいでて住持人をおくる。

住持人出堂ののち、首座已下、對禮三拝していはく、此際幸同安居、恐三業不善、且望慈悲。

この拝は、展坐具拝三拝なり。かくのごとくして首座書記藏主等、おのおのその寮にかへる。もしそれ衆寮僧は、寮主寮首座已下、おのおの觸禮三拝す。致語は堂中の法におなじ。

住持人こののち、庫堂よりはじめて巡堂す。次第に大衆相隨、送至方丈。大衆乃退。

いはゆる住持人まづ庫堂にいたる、知事と人事しをはりて、住持人いでて巡堂すれば、知事しりへにあゆめり。知事のつぎに、東廊のほとりにあるひとあゆめり。住持人このとき延壽院にいらず。東廊より西におりて、山門をとほりて巡寮すれば、山門の邊の寮にある人、あゆみつらなる。みなみより西の廊下および諸寮にめぐる。このとき、西をゆくときは北にむかふ。このときより、安老勤舊前資頤堂單寮のともがら、淨頭等、あゆみつらなれり。維那首座等あゆみつらなるつぎに、衆寮の僧衆あゆみつらなる。巡寮は、寮の便宜によりてあゆみくはゝる。これを大衆相送とはいふ。

かくのごとくして、方丈の西階よりのぼりて、住持人は方丈の正面のもやの住持人のくらゐによりて、面南にて叉手してたつ。大衆は知事已下みな面北にて住持人を問訊す。この問訊、ことにふかくするなり。住持人、答問訊あり。大衆退す。

先師は方丈に大衆をひかず、法堂にいたりて、法座の堦前にして面南叉手してたつ、大衆問訊して退す、これ古往の儀なり。

しかうしてのち、衆僧おのおのこゝろにしたがひて人事す。

人事とは、あひ禮拝するなり。たとへば、おなじ郷間のともがら、あるいは照堂、あるいは廊下の便宜のところにして、幾十人もあひ拝して、同安居の理致を賀す。しかあれども、致語は堂中の法になずらふ。人にしたがひて今案のことばも存ず。あるいは小師をひきゐたる本師あり、これ小師かならず本師を拝すべし、九拝をもちゐる。法眷の住持人を拝する、兩展三拝なり。あるいはたゞ大展三拝す。法眷のともに衆にあるは、拝おなじかるべし。師叔師伯、またかならず拝あり。隣單隣肩みな拝す、相識道舊ともに拝あり。單寮にあるともがらと、首座書記藏主知客浴司等と、到寮拝賀すべし。單寮にあるともがらと、都寺監寺維那典座直歳西堂尼師道士等とも、到寮到位して拝賀すべし。到寮せんとするに、人しげくして入寮門にひまをえざれば、牓をかきてその寮門におす。その牓は、ひろさ一寸餘、ながさ二寸ばかりなる白紙にかくなり。かく式は、

  某寮   某甲

   拝 賀

 又の式

  巣雲   懷昭等

   拝 賀

 又の式

  某甲

   禮 賀

 又の式

  某甲

   拝 賀

 又の式

  某甲

   禮 拝

かくしき、おほけれど、大旨かくのごとし。しかあれば、門側にはこの牓あまたみゆるなり。門側には左邊におさず、門の右におすなり。この牓は、齋罷に、本寮主をさめとる。今日は、大小諸堂諸寮、みな門簾をあげたり。

堂頭庫司首座、次第に煎點といふことあり。しかあれども、遠島深山のあひだには省略すべし。たゞこれ禮數なり。退院の長老、および立僧の首座、おのおの本寮につきて、知事頭首のために特爲煎點するなり。

かくのごとく結夏してより、功夫辦道するなり。衆行を辦肯せりといへども、いまだ夏安居せざるは佛祖の兒孫にあらず、また佛祖にあらず。孤獨園靈鷲山、みな安居によりて現成せり。安居の道場、これ佛祖の心印なり、諸佛の住世なり。

「十五日の粥前に、知事頭首、小師法眷、まづ方丈内にまうでて人事す。住持人もし隔宿より免人事せば、さらに方丈にまうづべからず」は原文からの訳文で、「免人事」以下が粘提部になり、免人事とは挨拶の省略の意で、人事を省くには住持の偈頌等を方丈門又は僧堂の前に貼り出す必要があると事です。

「十五日の陞座罷、住持人、法座より降りて堦の前に立つ。拝席の北頭を踏みて、面南して立つ。知事、近前して両展三拝す」

原文は「陞座罷。知事近前両展三拝」から具体的に説明するものです。

「一展云、此際安居禁足、獲奉巾瓶。唯仗和尚法力資持、願無難事。一展、叙寒暄、觸禮三拝」は本文割注に見られ、「叙寒暄云者、展坐具三拝了、収坐具、進云、即辰孟夏漸熱。法王結制之辰、伏惟、堂頭和尚、法候動止万福、下情不勝感激之至。かくのごとくして、その次、触礼三拝。ことばなし、住持人みな答拝す」までが道元禅師の註解で、「叙寒暄と云うのは、

展坐具三拝のち坐具を収め、即辰孟夏漸く熱く、法王結制の辰、伏して惟れば堂頭和尚、法候動止万福、下情感激の至りに勝えず」と云い、次に触礼三拝の略式拝を成し、住持である堂頭は答拝で応じ、その時には言葉はないとの道元禅師の解説です。

「住持人念、此者多幸得同安居、亦冀某〈首座監寺〉人等、法力相資、無諸難事。首座大衆、同此式也」原文割注そのままで、「このとき、首座大衆、知事等、みな面北して礼拝するなり。住持人ひとり面南にして、法座の堦前に立せり。住持人の坐具は、拝席のうへに展ずるなり」は註解文です。

「つぎに首座大衆、於住持人前、両展三拝。このとき、小師侍者、法眷沙弥、在一辺立。未得与大衆雷同人事」は原文引用ですが、原文では「小師・侍者・卑(童)行・法眷・沙弥」とあるが提唱文では卑(童)行が削られる。「いはゆる一辺にありて立つとは、法堂の東壁のかたはらにありて立つなり。もし東壁辺に施主の垂箔のことあらば、法鼓のほとりに立つべし、また西壁辺にも立すべきなり」は註解文です。

「大衆礼拝終わりて、知事まづ庫堂に変えりて主位に立す。つぎに首座すなはち大衆を領して庫司に至りて人事す。いはゆる知事と触礼三拝するなり」は原文引用。「このとき小師侍者法眷等は、法堂上にて住持人を礼拝す。法眷は両展三拝すべし、住持人の答拝あり。小師侍者、おのおの九拝す。答拝なし。沙弥九拝、あるいは十二拝なり。住持人合掌して受くるのみなり」は註解文です。

つぎに首座、僧堂前に至りて、上間の知事床の南の端にあたりて、雲堂の正面にあたりて、面南にて大衆に向かうて立つ。大衆面北して、首座に向かうて触礼三拝す。首座、大衆を引きて入堂し、戒臘によりて巡堂立定す。知事入堂し、聖僧前にて大展礼三拝しておく。つぎに首座前にて触礼三拝す。大衆答拝す。知事、巡堂一迊して、出でて位によりて叉手して立つ。

住持人入堂、聖僧前にして焼香、大展三拝起。このとき、小師於聖僧後避立。法眷随大衆。

つぎに住持人、於首座触礼三拝。

いはく、住持人、たゞ位によりて立ち、面西にて触礼す。首座大衆答拝、先のごとし。

住持人、巡堂して出づ。首座、前門の南頬より出でて住持人を送る。

住持人出堂ののち、首座已下、対礼三拝していはく、此際幸同安居、恐三業不善、且望慈悲」は原文引用ですが、随所に補講された語句が見られる。「かくのごとくして首座書記藏主等、おのおのその寮にかへる。もしそれ衆寮僧は、寮主寮首座已下、おのおの觸禮三拝す。致語は堂中の法におなじ」は註解文です。

「住持人こののち、庫堂よりはじめて巡堂す。次第に大衆相随、送至方丈。大衆乃退」は原文引用で、「いはゆる住持人まづ庫堂に至る、知事と人事し終わりて」以下は道元禅師による老婆親語な説明になります。

住持人は庫院に至り、典座は住持の後方に随う。巡堂の時は延寿院には入らず安老(隠居僧)・勤旧(知事等の退役僧)・前資(副寺職を三回以上退休老宿)・頤堂(老宿僧)・単寮(独住する西堂・首座等退任僧)等を巡寮するを大衆相送と云うのである。

このように巡堂して最後は方丈の居室での人事作礼するが、「先師は方丈に大衆を引かず、法堂に至りて、法座の堦前にして面南叉手して立つ、大衆問訊して退す、これ古往の儀なり」

と如浄和尚の儀を懐古してのものです。

「しかうして後、衆僧おのおの心に随いて人事す」は原文引用です。

これからの「人事」の様子は正式な儀礼ではなく、法友・師資が互いに行うものです。

人事と云うのは互いに礼拝し合う事で、同郷人同志が照堂(僧堂裏のうす暗い通路)又は廊下等場所を選ばずに賀表し、致語は礼儀に則って行うが時宜に応じた祝語もありである。海衆のなかに師弟が同参の場合は、弟子が本師を九拝する。上下関係に依り両展大展三拝する。また僧堂内での隣席人には礼を尽し、知事・頭首等には各寮舎に出向き拝賀するが、多くの安居者が居る時には「某寮・某甲・拝賀」の牓を寮内に貼り付けるとの説明です。道元禅師在宋時の天童寺ではこのような光景だったのでしょうか。

「堂頭庫司首座、次第に煎点といふことあり。しかあれども、遠島深山のあひだには省略すべし。たゞこれ礼数なり。退院の長老、および立僧の首座、おのおの本寮につきて、知事頭首のために特為煎点するなり」は原文引用で、「かくの如く結夏」以下は道元禅師による結語で、仏祖の児孫・仏祖であるためには、安居の道場、これ仏祖の心印なり、諸仏の住世なり。との提言です。

 

    五

解夏七月十三日、衆寮煎點諷經。またその月の寮主これをつとむ。

十四日、晩念誦來日陞堂。人事巡寮煎點、竝同結夏。唯牓状詞語、不同而已。

庫司湯牓云、庫司今晩、就雲堂煎點、特爲首座大衆、聊表解制之儀。状冀衆慈同垂光降。

                 庫司比丘某甲  白

土地堂念誦詞云、切以金風扇野、白帝司方。當覺皇解制之時、是法歳周圓之日。九旬無難、一衆咸安。誦持諸佛洪名、仰報合堂眞宰。仰憑大衆念。

これよりのちは結夏の念誦におなじ。陞堂罷、知事等、謝詞にいはく、伏喜法歳周圓、無諸難事。此蓋和尚道力廕林、下情無任感激之至。

住持人謝詞いはく、此者法歳周圓、皆謝某首座監寺人等法力相資、不任感激之至。

堂中首座已下、寮中寮主已下、謝詞いはく、九夏相依、三業不善、惱亂大衆、伏望慈悲。知事頭首告云、衆中兄弟行脚、須候茶湯罷、方可隨意如有緊急縁事、不在此限。

この儀は、これ威音空王の前際後際よりも頂量なり。佛祖のおもくすること、たゞこれのみなり。外道天魔のいまだ惑亂せざるは、たゞこれのみなり。三國のあひだ、佛祖の兒孫たるもの、いまだひとりもこれをおこなはざるなし。外道はいまだまなびず、佛祖一大事の本懷なるがゆゑに、得道のあしたより涅槃のゆふべにいたるまで、開演するところ、たゞ安居の宗旨のみなり。西天の五部の僧衆ことなれども、おなじく九夏安居を護持してかならず修證す。震旦の九宗の僧衆、ひとりも破夏せず。生前にすべて九夏安居せざらんをば、佛弟子比丘僧と稱ずべからず。たゞ因地に修習するのみにあらず、果位の修證なり。大覺世尊すでに一代のあひだ、一夏も闕如なく修證しましませり。しるべし、果上の佛證なりといふこと。

しかあるを、九夏安居は修證せざれども、われは佛祖の兒孫なるべしといふは、わらふべし。わらふにたへざるおろかなるものなり。かくのごとくいはんともがらのこと葉をばきくべからず。共語すべからず、同坐すべからず、ひとつみちをあゆむべからず。佛法には、梵壇の法をもて惡人を治するがゆゑに。

たゞまさに九夏安居これ佛祖と會取すべし、保任すべし。その正傳しきたれること、七佛より摩訶迦葉におよぶ。西天二十八祖、嫡々正傳せり。第二十八祖みづから震旦にいでて、二祖大祖正宗普覺大師をして正傳せしむ。二祖よりこのかた、嫡々正傳して而今に正傳せり。震旦にいりてまのあたり佛祖の會下にして正傳し、日本國に正傳す。すでに正傳せる會にして九旬坐夏しつれば、すでに夏法を正傳するなり。この人と共住して安居せんは、まことの安居なるべし。まさしく佛在世の安居より嫡々面授しきたれるがゆゑに、佛面祖面まのあたり正傳しきたれり。佛祖身心したしく證契しきたれり。かるがゆゑにいふ、安居をみるは佛をみるなり、安居を證するは佛を證するなり。安居を行ずるは佛を行ずるなり、安居をきくは佛をきくなり、安居をならふは佛を學するなり。

おほよそ九旬安居を、諸佛諸祖いまだ違越しましまさざる法なり。しかあればすなはち、人王釋王梵王等、比丘僧となりて、たとひ一夏なりといふとも安居すべし。それ見佛ならん。人衆天衆龍衆、たとひ一九旬なりとも、比丘比丘尼となりて安居すべし。すなはち見佛ならん。佛祖の會にまじはりて九旬安居しきたれるは見佛來なり。われらさいはひにいま露命のおちざるさきに、あるいは天上にもあれ、あるいは人間にもあれ、すでに一夏安居するは、佛祖の皮肉骨髓をもて、みづからが皮肉骨髓に換卻せられぬるものなり。佛祖きたりてわれらを安居するがゆゑに、面々人人の安居を行ずるは、安居の人人を行ずるなり。恁麼なるがゆゑに、安居あるを千佛萬祖といふのみなり。ゆゑいかんとなれば、安居これ佛祖の皮肉骨髓、心識身體なり。頂眼睛なり、拳頭子柱杖なり、竹篦蒲團なり。安居はあたらしきをつくりいだすにあらざれども、ふるきをさらにもちゐるにはあらざるなり。

これから解夏(制)の儀についての説明と註解で、原文は『禅苑清規』です。

原文では「七月十四日晩念誦煎湯」とありますが、道元禅師は解夏の儀は七月十三日からの衆寮煎点諷経から始まり、その責任者は衆寮の月極め当番が行うとの事です。

「十四日、晩念誦来日陞堂。人事巡寮煎点、竝同結夏。唯牓状詞語、不同而已。

庫司湯牓云、庫司今晩、就雲堂煎点、特為首座大衆、聊表解制之儀。状冀衆慈同垂光降。

                 庫司比丘某甲  白

土地堂念誦詞云、切以金風扇野、白帝司方。当覚皇解制之時、是法歳周円之日。九旬無難、一衆咸安。誦持諸仏洪名、仰報合堂真宰。仰憑大衆念。

これよりのちは結夏の念誦におなじ。陞堂罷、知事等、謝詞にいはく、伏喜法歳周円、無諸難事。此蓋和尚道力廕林、下情無任感激之至。

住持人謝詞いはく、此者法歳周円、皆謝某首座監寺人等法力相資、不任感激之至。

堂中首座已下、寮中寮主已下、謝詞いはく、九夏相依、三業不善、悩乱大衆、伏望慈悲。知事頭首告云、衆中兄弟行脚、須候茶湯罷、方可随意」

ほとんどそのまま原文引用です。

「この儀は、これ威音空王の前際後際よりも頂量なり。仏祖の重くすること、たゞこれのみなり。外道天魔のいまだ惑乱せざるは、たゞこれのみなり。三国のあひだ、仏祖の児孫たるもの、未だ一人もこれを行なわざるなし。外道は未だ学びず、仏祖一大事の本懷なるが故に、得道のあしたより涅槃の夕べにいたるまで、開演するところ、たゞ安居の宗旨のみなり。西天の五部の僧衆異なれども、同じく九夏安居を護持して必ず修証す。震旦の九宗の僧衆、ひとりも破夏せず。生前にすべて九夏安居せざらんをば、仏弟子比丘僧と称ずべからず。たゞ因地に修習するのみにあらず、果位の修証なり。大覚世尊すでに一代のあひだ、一夏も闕如なく修証しましませり。知るべし、果上の仏証なりと云うこと」

これからが拈提・註解で、

「この儀(安居)は、これ威音空王の前際後際よりも頂量なり」

過去荘厳劫最初の仏を超脱した比喩を頂量と云う全体量で表現する事で、安居の連続性と無限体を説くものです。この連続性を印度・震旦・日本の「三国」の語で示唆し、仏祖の児孫と云われる者は釈尊の得道より涅槃に至るを安居と心得よとの註解です。

「西天の五部の僧衆異なれども、同じく九夏安居を護持して必ず修証す」

西天の五部とは釈迦入滅後百年の時、第四祖優婆毱多尊者の五弟子が法蔵部・説一切有部化地部飲光部・大衆部と五派に分かれ、それぞれが四分律十誦律・五分律・解脱戒経

摩訶僧祇律を典拠とする事を言われたもので、三年前提唱の『仏道』巻(寛元元(1243)年九月十六日吉峰寺示衆)に於いても「いま五宗の称を立するは世俗の混乱なり―中略―いかでか西天にある依文解義のともがら五部を立するが如くならん」と宋国では雲門・法眼・潙山・臨済・曹洞と五宗に分裂された事を嘆かれ、さらに寛元四(1246)年十一月初旬頃の上堂説法に於いても「参学の人、須らく邪正を知るべし。所謂、優婆毱多より已後、五部の仏法と称する、乃ち西天の凌替なり」(『永平広録』三・二〇七)と付法蔵第四祖以後インドに於ける仏法の衰退を悔やまれるものですが、これまでの説法のソース(起源)は宝慶(南宋代)元(1225)年に書き留めたとされる『宝慶記』(「曹洞宗全書」下・八)二十八問に堂頭(如浄)和尚が慈誨して道元禅師に伝言した「西天に五部有ると雖も一仏法也。東地の五僧(家)一つの仏法にしかざる也」(西天雖有五部、一仏法也。東地五僧、如不一仏法也)の言説を基に提唱・拈提されるものだと思われます。

「震旦の九宗の僧衆、ひとりも破夏せず」

ここでの「九宗」は華厳・律・法相・真言・禅・浄土(唐代)、天台・三論・倶舎(隋代)を云い、先の西天五部との引き合いにしたもので、分裂はしたものの安居という仏制を破った者はいないと。

「たゞ因地に修習するのみにあらず、果位の修証なり」

「因地」とは悟り(仏果)を求める上求菩提を云い、「果位」は仏(悟り)の境涯と云い得るが、安居の三か月間に於いても階梯の如くに三か月後の満願日を設定しての習練ではなく、修証一等なる態度で臨みなさいとの言辞で、その証在を始めも終わりもない打坐に比定し、その様子を「大覚世尊すでに一代の間、一夏も闕如なく修証した結果が、果上の仏証なり」と論証されます。

 

    六

しかあるを、九夏安居は修證せざれども、われは佛祖の兒孫なるべしといふは、わらふべし。わらふにたへざるおろかなるものなり。かくのごとくいはんともがらのこと葉をばきくべからず。共語すべからず、同坐すべからず、ひとつみちをあゆむべからず。佛法には、梵壇の法をもて惡人を治するがゆゑに。

「梵壇の法」とは黙擯とも梵天法冶とも云われ戒律違反冶罰で言葉を交わさない事ですが、安居最終日の自恣式にて懺悔滅罪が行われるが、ここでの言及は安居に同宿しない輩を指摘しての言句ですから多少「梵壇」の意とは差異しますが、仏制に則った叢林生活を第一義とする道元禅師の態度が窺われる文言です。

たゞまさに九夏安居これ佛祖と會取すべし、保任すべし。その正傳しきたれること、七佛より摩訶迦葉におよぶ。西天二十八祖、嫡々正傳せり。第二十八祖みづから震旦にいでて、二祖大祖正宗普覺大師をして正傳せしむ。二祖よりこのかた、嫡々正傳して而今に正傳せり。震旦にいりてまのあたり佛祖の會下にして正傳し、日本國に正傳す。すでに正傳せる會にして九旬坐夏しつれば、すでに夏法を正傳するなり。この人と共住して安居せんは、まことの安居なるべし。まさしく佛在世の安居より嫡々面授しきたれるがゆゑに、佛面祖面まのあたり正傳しきたれり。佛祖身心したしく證契しきたれり。かるがゆゑにいふ、安居をみるは佛をみるなり、安居を證するは佛を證するなり。安居を行ずるは佛を行ずるなり、安居をきくは佛をきくなり、安居をならふは佛を學するなり。

これまでは安居と仏祖の関係を「夏安居せざるは仏祖の児孫にあらず、また仏祖にあらず」から、この段では「九夏安居これ仏祖と会取すべし、保任すべし」と安居と仏祖の関係が確定的な表現に変わります。

その系譜を「正伝」というキーワードで以て西天→震旦→日本国また七仏→摩訶迦葉→西天二十八祖(震旦初祖)→二祖大祖正宗普覚大師→而今に正伝せり。と連続する仏法を証会させ、安居=仏を「見る・証する・行ずる・聞く・学す」と包括するものです。

おほよそ九旬安居を、諸佛諸祖いまだ違越しましまさざる法なり。しかあればすなはち、人王釋王梵王等、比丘僧となりて、たとひ一夏なりといふとも安居すべし。それ見佛ならん。人衆天衆龍衆、たとひ一九旬なりとも、比丘比丘尼となりて安居すべし。すなはち見佛ならん。佛祖の會にまじはりて九旬安居しきたれるは見佛來なり。われらさいはひにいま露命のおちざるさきに、あるいは天上にもあれ、あるいは人間にもあれ、すでに一夏安居するは、佛祖の皮肉骨髓をもて、みづからが皮肉骨髓に換卻せられぬるものなり。佛祖きたりてわれらを安居するがゆゑに、面々人人の安居を行ずるは、安居の人人を行ずるなり。恁麼なるがゆゑに、安居あるを千佛萬祖といふのみなり。ゆゑいかんとなれば、安居これ佛祖の皮肉骨髓、心識身體なり。頂眼睛なり、拳頭鼻孔なり。圓相佛性なり、拂子拄杖なり、竹篦蒲團なり。安居はあたらしきをつくりいだすにあらざれども、ふるきをさらにもちゐるにはあらざるなり。

この段での要点は「安居」と「見仏」の聯関を説くものですが、言わんとする点は安居と連関付属する法語の真意は、安居という真実体は諸仏諸祖の真実態と同体同時を「いまだかつて違反越度したことはない」と説き、その「見仏」の時々の表体を「人王・釈王・梵王・比丘僧」であったり、「人衆・天衆・龍衆」と言われるのです。

「一夏安居するは、仏祖の皮肉骨髄をもて、みづからが皮肉骨髄に換却せられぬるものなり。仏祖きたりてわれらを安居するが故に、面々人々の安居を行ずるは、安居の人々を行ずるなり」

これは能所・主客を脱居する文法で、安居と仏祖の関係をそれぞれの立場を換却・とりちがえて説く主客同一語法です。

「安居これ仏祖の皮肉骨髄、心識身体なり。頂眼睛なり、拳頭鼻孔なり。円相仏性なり、払子拄杖なり、竹篦蒲団なり」

通常の説き様で、安居=仏祖の皮肉骨髄だけに留め置く事で、カテゴライズされ概念化する危惧の為、「心識身体・頂眼睛・拳頭鼻孔」等とあらゆる身体部位、更には「払子拄杖・竹篦蒲団」等を動員させ、固着化を防ぎ不立文字化するものです。

「安居は新しきをつくりいだすにあらざれども、古きを更に用いるにはあらざるなり」

これは活粧々なる状態を喩えんが為のもので、安居の動中では新陳代謝の連続性を述べるものです。

 

    六

世尊告圓覺菩薩、及諸大衆、一切衆生言、若經夏首三月安居、當爲清淨菩薩止住。心離聲聞、不假徒衆。至安居日、即於佛前作如是言。我比丘比丘尼、優婆塞優婆夷某甲、踞菩薩乘修寂滅行、同入清淨實相住持。以大圓覺爲我伽藍、心身安居。平等性智、涅槃自性、無繋屬故。今我敬請、不依聲聞、當與十方如來及大菩薩、三月安居。爲修菩薩無上妙覺大因縁故、不繋徒衆。善男子、此名菩薩示現安居。

しかあればすなはち、比丘比丘尼、優婆塞優婆夷等、かならず安居三月にいたるごとには、十方如來および大菩薩とともに、無上妙覺大因縁を修するなり。しるべし、優婆塞優婆夷も安居すべきなり。この安居のところは大圓覺なり。しかあればすなはち、鷲峰山孤獨園、おなじく如來の大圓覺伽藍なり。十方如來及大菩薩、ともに安居三月の修行あること、世尊のをしへを聽受すべし。

これまでは『禅苑清規』の解説とも言うべき安居での結夏・解夏に於ける行儀の説明でした。

この段の本則話頭は『大方広円覚修多羅了義経』(「大正蔵」一七・九二一・上)からの引用経典で、

「若し夏首より三ヶ月の安居を経過すれば、当に清浄の菩薩に止住す。心は声聞を離れ、徒衆を仮らず。安居日に至り、即ち仏前に於いて是の如く言を作す。我れ比丘比丘尼、優婆塞優婆夷某甲、菩薩乗に踞して寂滅行を修し、同じく清浄の実相に入り住持す。大円覚を以て我が伽藍と為し、心身安居す。平等性智、涅槃自性は繋属無き故に。今我敬請す、声聞に依らず、当に十方如来及び大菩薩お三ヶ月の安居すべし。菩薩の無上妙覚大因縁を修せんが為の故に、徒衆を繋せず。善男子、此れを菩薩の示現安居と名づく。」

「しかあればすなはち、比丘比丘尼、優婆塞優婆夷等、必ず安居三月に到る毎には、十方如来および大菩薩と共に、無上妙覚大因縁を修するなり。知るべし、優婆塞優婆夷も安居すべきなり」

大乗経典では比丘比丘尼優婆塞優婆夷は仏弟子の基準値で、特に在家者と云われる居士・大姉に対する呼び掛けが人間道元を表徴する言葉です。

 

    七

世尊於一處、九旬安居、至自恣日、文殊倐來在會。迦葉問文殊、今夏何處安居。文殊云、今夏在三處安居。迦葉於是集衆白槌欲擯文殊。纔擧犍槌、即見無量佛刹顯現、一々佛所有一々文殊、有一々迦葉、擧槌欲擯文殊。世尊於是告迦葉云、汝今欲擯阿那箇文殊。于時迦葉茫然。

圜悟禪師拈古云、

 鐘不撃不響 鼓不打不鳴 迦葉既把定要津 文殊乃十方坐斷

 當時好一場佛事 可惜放過一著

 待釋迦老子道欲擯阿那箇文殊、便與撃一槌看、佗作什麼合殺。

 圜悟禪師頌古云、

 大象不遊兎徑 燕雀安知鴻鵠 據令宛若成風 破的渾如囓鏃

 徧界是文殊 徧界是迦葉 相對各儼然 擧椎何處罰 好一箚

 金色頭陀曾落卻

しかあればすなはち、世尊一處安居、文殊三處安居なりといへども、いまだ不安居あらず。もし不安居は、佛及菩薩にあらず。佛祖の兒孫なるもの安居せざるはなし、安居せんは佛祖の兒孫としるべし。安居するは佛祖の身心なり、佛祖の眼睛なり、佛祖の命根なり。安居せざらんは佛祖の兒孫にあらず、佛祖にあらざるなり。いま泥木素金七寶の佛菩薩、みなともに安居三月の夏坐おこなはるべし。これすなはち住持佛法僧寶の故實なり、佛訓なり。

おほよそ佛祖の屋裏人、さだめて坐夏安居三月、つとむべし。

古則話頭の出典は『圜悟録』十七(「大正蔵」四七・七九二・上)・『圜悟録』十九(「同経」・八〇五・上)です。

世尊於一処、九旬安居、至自恣日、文殊倐来在会。

世尊が一ツ処で安居されるに、自恣の日に至り、文殊がにわかに来て安居処に在。

迦葉問文殊、今夏何処安居。

迦葉が文殊に問う、今夏はどこで安居したか。

文殊云、今夏在三処安居。

文殊が云う、今夏は三ヶ処で安居する。

迦葉於是集衆白槌欲擯文殊。纔挙犍槌、即見無量仏刹顕現、一々仏所有一々文殊、有一々迦葉、挙槌欲擯文殊

迦葉はそこで大衆を集め白槌して文殊を追い出そうとし、わづかに犍槌を挙げると、すぐに無量の寺院が顕現し、一寺ごとに文殊・迦葉が居て、槌を挙げ文殊を追い出そうとするのを見た。

世尊於是告迦葉云、汝今欲擯阿那箇文殊

世尊はそこで迦葉に告げて云う、汝は今どの文殊を追い出そうとするか。

于時迦葉茫然。

時に迦葉は茫然とす。

先に出典は『圜悟録』十七・拈古からのものとしましたが、正確には『圜悟録』十九・頌古との合揉語で、迦葉が文殊を問い詰めた「三処」とは「魚行・淫坊・酒肆」と『御抄』(「註解全書」八・六三一)では註解しますが、「入店垂手、酒肆魚行、化令成仏」と世人を成仏させる意で、大乗の慈悲行・利他行を「三処」に喩えてのものです。言わんとする旨は安居処の遍在性を説くものです。

圜悟禅師拈古云、

圜悟禅師拈古に云う、

鐘不撃不響、

鐘は撃たなければ響かず、

鼓不打不鳴。

鼓は打たなければ鳴らず。

迦葉既把定要津、

迦葉既に要津を把定すれば、

文殊乃十方坐断。

文殊乃ち十方坐断す。

当時好一場仏事。

その時好一場の仏事なり。

可惜放過一著。

惜しむべし、一著を放過すること。

待釈迦老子道欲擯阿那箇文殊、便与撃一槌看、他作什麼合殺。

釈迦老子は阿那箇の文殊を擯せんと欲するを道うを待って、便ち

撃一槌を与え看るべし、他(迦葉)は什麼の合殺(とどめ)をか作す。

この処は先の「文殊の三処安居」に対する圜悟克勤の論評で、迦葉・文殊ともに「把定」「十方坐断」の語で認じ、さらに「什麼」の語法を用いての遍在・遍満性を云うものです。

圜悟禅師頌古云、

圜悟禅師頌古に云う、

大象不遊兎径、

大象は兎径に遊ばず、

燕雀安知鴻鵠。

燕や雀がどうして大鳥(鴻鵠)を知ろうか。

拠令宛若成風、

規則(仏制)に拠り宛(あた)かも風を成すが若し、

破的渾如囓鏃。

的をいるは渾て鏃をかむ如し。

徧界是文殊

徧界は是れ文殊

徧界是迦葉、

徧界は是れ迦葉、

相対各厳然。

相い対してそれぞれは厳然たり。

挙椎何処罰好一箚、

椎を挙げて何処にか罰すか好一箚、

金色頭陀曾落却。

金色の頭陀(迦葉)はとっくに椎を落とす。

「しかあればすなはち、世尊一処安居、文殊三処安居なりといへども、いまだ不安居あらず。もし不安居は、仏及菩薩にあらず」

これからが道元禅師による圜悟に対する著語です。

「一処」も「三処」も数量に喩えるものではなく、尽界を対象にした遍在・遍満を説くものですから、「いまだ不安居あらず」と著語し、安居実践により世尊・文殊・迦葉と敬称されるわけですから「不安居は仏菩薩にあらず」と表すわけです。

「仏祖の児孫なるもの安居せざるはなし、安居せんは仏祖の児孫と知るべし。安居するは仏祖の身心なり、仏祖の眼睛なり、仏祖の命根なり。安居せざらんは仏祖の児孫にあらず、仏祖にあらざるなり」

ここでの安居=仏祖児孫は結夏章最後部でのいまだ夏安居せざるは仏祖の児孫にあらずの繰り返しで、また「安居するは仏祖の身心・眼睛・命根」も同じく解夏章最後部での安居これ仏祖の皮肉骨髄・心識身体・頂眼睛を再度確認するものです。

「いま泥木素金七宝の仏菩薩、みな共に安居三月の夏坐おこなはるべし。これすなはち住持仏法僧宝の故実なり、仏訓なり。おほよそ仏祖の屋裏人、さだめて坐夏安居三月、努むべし」

ここでの安居三月の夏坐は前段「比丘比丘尼、優婆塞優婆夷等、必ず安居三月に到る毎には、十方如来および大菩薩と共に、無上妙覚大因縁を修するなり」を形容を変えての再言で、最後の「仏祖の屋裏人」とは先の比丘優婆塞泥木等の仏菩薩を示唆し、尽界の皆人を屋裏人と見なし日々常々つとめ励むを安居であるとの提唱です。

 

 

 

正法眼蔵鉢盂

正法眼蔵 第七十一 鉢盂 

    一

七佛向上より七佛に正傳し、七佛裏より七佛に正傳し、渾七佛より渾七佛に正傳し、七佛より二十八代正傳しきたり、第二十八代の祖師、菩提達磨高祖、みづから神丹國にいりて、二祖大祖正宗普覺大師に正傳し、六代つたはれて曹谿にいたる。東西都盧五十一代、すなはち正法眼藏涅槃妙心なり、袈裟鉢盂なり。ともに先佛は先佛の正傳を保任せり。かくのごとくして佛々祖々正傳せり。

次巻『安居』巻との聯関性から推察すると、鉢盂つまり応量器は修行生活に於ける必需品である事から、鉢盂を代名詞としての真実態を説く巻です。

現在の実用的応量器は食事に於ける食器を示し、禅宗寺院に於いても托鉢時には目線より上に応量器を捧げ、布施物を喜捨する光景が時折見かけられるが、東南アジア諸国では早朝の托鉢風景が地域社会の日常生活であり日々底であり、鉄鉢の中に直接日食を乞食し直接鉄鉢からの食で法身を維持する行法は、仏=法=僧=在俗という王法相依を認得するものです。

「七仏向上より七仏に正伝し、七仏裏より七仏に正伝し、渾七仏より渾七仏に正伝し、七仏より二十八代正伝しきたり」

七仏は過去七仏を云うものですが歴史的蓋然性ではなく、全体の連綿とした仏法の理法を言わんが為の語法で、他にも『古仏心』巻・『嗣書』巻等に散見されますが、道元禅師は特にこの仏々祖々正伝という仏語を好まれたようです。

菩提達磨高祖、みづから神丹国に入りて、二祖大祖正宗普大師に正傳し、六代伝はれて曹谿に至る。東西都盧五十一代、すなはち正法眼藏涅槃妙心なり、袈裟鉢盂なり。ともに先仏は先仏の正伝を保任せり。かくのごとくして仏々祖々正伝せり」

先に云う仏々祖々の正伝の実例を説くもので、達磨(東土初祖)から二祖慧可・六祖慧能と正伝し、インドから日本まで都盧(すべて)五十一代道元大和尚と連脈する事実を言語化したことばを正法眼蔵涅槃妙心との提言で、その具体的伝承物を袈裟・鉢盂と位置づけるものです。

 

    二

しかあるに佛祖を參學する皮肉骨髓、拳頭眼睛、おのおの道取あり。いはゆる、あるいは鉢盂はこれ佛祖の身心なりと參學するあり、あるいは鉢盂はこれ佛祖の飯埦なりと參學するあり、あるいは鉢盂はこれ佛祖の眼睛なりと參學するあり、あるいは鉢盂はこれ佛祖の光明なりと參學するあり、あるいは鉢盂はこれ佛祖の眞實體なりと參學するあり、あるいは鉢盂はこれ佛祖の正法眼藏涅槃妙心なりと參學するあり、あるいは鉢盂はこれ佛祖の轉身處なりと參學するあり、あるいは佛祖は鉢盂の縁底なりと參學するあり。かくのごとくのともがらの參學の宗旨、おのおの道得の處分ありといへども、さらに向上の參學あり。

これから鉢盂の千変万化なる用例を列挙する段ですが、最初に説く「仏祖を参学する皮肉骨髄、拳頭眼睛」は具体的実名を挙げるのではなく不特定多数を皮肉骨髄・拳頭眼睛で以て仏祖と表徴させ、これから鉢盂という単なる調度品ではなく不可分の関係を、鉢盂=仏祖の身心(以下仏祖は省略)・鉢盂=飯埦・鉢盂=眼睛・鉢盂=光明・鉢盂=真実体・鉢盂=正法眼蔵涅槃妙心・鉢盂=転身処・鉢盂=縁底とそれぞれの仏祖が道い得ているが、「さらに向上の参学あり」と無底の鉢盂という真実体の可能性を説くものです。

 

    三

先師天童古佛、大宋寶慶元年、住天童日、上堂云、記得、僧問百丈、如何是奇特事。百丈云、獨坐大雄峰。大衆不得動著、且教坐殺者漢。今日忽有人問淨上座、如何是奇特事。只向佗道、有甚奇特。畢竟如何、淨慈鉢盂、移過天童喫飯。

しるべし、奇特事はまさに奇特人のためにすべし。奇特事には奇特の調度をもちゐるべきなり。これすなはち奇特の時節なり。しかあればすなはち、奇特事の現成せるところ、奇特鉢盂なり。これをもて四天王をして護持せしめ、諸龍王をして擁護せしむる、佛道の玄軌なり。このゆゑに佛祖に奉献し、佛祖より附囑せらる。

佛祖の堂奥に參學せざるともがらいはく、佛袈裟は、絹なり、布なり、化絲のをりなせるところなりといふ。佛鉢盂は、石なり、瓦なり、鐵なりといふ。かくのごとくいふは、未具參學眼のゆゑなり。佛袈裟は佛袈裟なり、さらに絹布の見あるべからず。絹布等の見は舊見なり。佛鉢盂は佛鉢盂なり、さらに石瓦といふべからず、鐵木といふべからず。

本則話頭は『家常』巻(寛元元(1243)年十二月十七日禅師峰示衆)でも同則が取り挙げられますが、その時には「先師古仏示衆に日く」でしたが、今回は「先師天童古仏、大宋宝慶元年住天童日上堂に云く」とありますが、『如浄語録』下を見る限りでは、天童山景徳寺での嘉定十七(1224)年晋住した時の法語でありますから宝慶元(1225)年の法語ではありません。(

ここで指摘しておきたい事は道元禅師の古則公案を援用される場合、過去に説いた『家常』巻を再確認するのではなく、原典である『如浄語録』を見ながらの原稿作成である事が窺い知られることである。

まづ本則を試訳するに

「記得す、僧、百丈に問う、如何が是れ奇特の事。

百丈云く、独坐大雄峰。

大衆、動著すること得ざれ、且く者漢を坐殺せしめん。

今日忽ちに人有って浄上座に問う、如何が是れ奇特の事。

ただ他に向かって道うべし。

甚(なに)の奇特の事有らん、畢竟如何。浄慈の鉢盂、天童に移過して喫飯す。」

「しるべし、奇特事はまさに奇特人の為にすべし。奇特事には奇特の調度をもちいるべきなり。これすなはち奇特の時節なり。しかあればすなはち、奇特事の現成せるところ、奇特鉢盂なり」

奇特事を『家常』巻では平常底・日常底・平生と解釈しますから、当巻でもこのように奇特=平生=鉢盂という条目が成り立ちます。(『御抄』(「註解全書」八・五七五)では「仏祖の行住坐臥、進止動容は皆奇特なり」との註解あり)

「これをもて四天王をして護持せしめ、諸龍王をして擁護せしむる、仏道の玄軌なり。このゆえに仏祖に奉献し、仏祖より附嘱せらる」

先には奇特を奇妙奇天烈と云った俗界語とは捉えず日常と解釈する事から、ここで「四天王・龍王」を登場させ「仏道の玄軌」と見る視点は一種の神仏習合的考察も範疇に入れるべきでしょうか。(出典は『仏本行集経』三二・八〇一下段参照・「大正蔵」三)

「仏祖の堂奥に参学せざるともがら云わく、仏袈裟は、絹なり、布なり、化絲の織りなせるところなりと云う。仏鉢盂は、石なり、瓦なり、鉄なりと云う。かくの如く云うは、未具参学眼のゆえなり。仏袈裟は仏袈裟なり、さらに絹布の見あるべからず。絹布等の見は旧見なり。仏鉢盂は仏鉢盂なり、さらに石瓦と云うべからず、鉄木と云うべからず」

ここで鉢盂と袈裟を並記されるのは冒頭部で列挙したからで共に仏行での調度であるからですが、修行の経験のない旧見者は袈裟の材を絹や木綿又は八歳の女口より出る化絲と外観ばかり見るが、仏が著ければ袈裟になり鉢盂も同様で仏が食すれば仏鉢盂になるわけです。ですから糞掃が上品清浄に転衣するのもこういう道理です。(化絲については『法苑珠林』三五・五六一中段参照・大正蔵)五三)(絹布等の見については『伝衣』『袈裟功徳』巻参見)

 

    四

おほよそ佛鉢盂は、これ造作にあらず、生滅にあらず。去來せず、得失なし。新舊にわたらず、古今にかゝはれず。佛祖の衣盂は、たとひ雲水を採集して現成せしむとも、雲水の籮籠にあらず。たとひ草木を採集して現成せしむとも、草木の籮籠にあらず。その宗旨は、水は衆法を合成して水なり、雲は衆法を合成して雲なり。雲を合成して雲なり、水を合成して水なり。鉢盂は但以衆法、合成鉢盂なり。但以鉢盂、合成衆法なり。但以渾心、合成鉢盂なり。但以虚空、合成鉢盂なり。但以鉢盂、合成鉢盂なり。鉢盂は鉢盂に罣礙せられ、鉢盂に染汚せらる。いま雲水の傳持せる鉢盂、すなはち四天王奉献の鉢盂なり。鉢盂もし四天王奉献せざれば現前せず。いま諸方に傳佛正法眼藏の佛祖の正傳せる鉢盂、これ透脱古今底の鉢盂なり。しかあれば、いまこの鉢盂は、鐵漢の舊見を覰破せり、木橛の商量に拘牽せられず、瓦礫の聲色を超越せり。石玉の活計を罣礙せざるなり。碌塼といふことなかれ、木橛といふことなかれ。かくのごとく承當しきたれり。

「おほよそ仏鉢盂は、これ造作にあらず、生滅にあらず。去来せず、得失なし。新旧にわたらず、古今にかかわれず」

先に説いた仏鉢盂は仏鉢盂の道理を承けての文言で、鉢盂という真実態を具現した調度を人間味で以て、木地は何産塗は黒か赤かの商品価をつけると、ただの器物に変化するをこのような「造作にあらず、生滅にあらず」等と相対価値から絶対価値を説くものです。

「仏祖の衣盂は、たとひ雲水を採集して現成せしむとも、雲水の籮籠にあらず。たとひ草木を採集して現成せしむとも、草木の籮籠にあらず」

「衣鉢」の材料を「雲水」としたり「草木」と喩えての事ですが、ここに言う「雲水」は修行僧をも示唆する二重語義で掛けられます。「籮籠」とは魚鳥を捕らえる網・かごを指しますが、此の箇処では衣鉢の材料に執着されるものではないと説かれます。

「その宗旨は、水は衆法を合成して水なり、雲は衆法を合成して雲なり。雲を合成して雲なり、水を合成して水なり。鉢盂は但以衆法、合成鉢盂なり。但以鉢盂、合成衆法なり。但以渾心、合成鉢盂なり。但以虚空、合成鉢盂なり。但以鉢盂、合成鉢盂なり。鉢盂は鉢盂に罣礙せられ、鉢盂に染汚せらる」

ここでの「衆法合成」の説き方は『海印三昧』巻での「但以衆法、合成此身。起時唯法起、滅時唯法滅」を借用したもので、此処で言う「水は衆法を合成して水なり、水を合成して水なり」と説く「衆法」の意は、多くを表す万法と全てを包含した只一の二義が考えられます。所謂は袈裟を作製するには布・糸・針さまざまな材料が必要ですが、一旦出来上がった御袈裟は集(衆)合物ではなく、袈裟そのままと云う全機的意味合いを述べるものです。

次に鉢盂の成り立ちを先程の『維摩詰経』からの語法で以て、「鉢盂は但以衆法、合成鉢盂」と鉢盂はもろもろ(衆)の法で以て鉢盂という現成を成り立たせている事を、語順を入れ換え「但以鉢盂、合成衆法」と同義語とし、以下「但以渾心」・「但以虚空」・「但以鉢盂」と全てにカテゴライズする仕法は常道法で、これを「鉢盂は鉢盂に罣礙せられ、鉢盂に染汚せらる」と罣礙(妨げる)も染汚(けがされる)も不具合とする意ではなく一体とする逆説語法です。

「いま雲水の伝持せる鉢盂、すなはち四天王奉献の鉢盂なり。鉢盂もし四天王奉献せざれば現前せず。いま諸方に伝仏正法眼蔵の仏祖の正伝せる鉢盂、これ透脱古今底の鉢盂なり」

先の天童古仏段にて鉢盂と四天王・龍王との連関を説いた通理から、「四天王奉献の鉢盂」という句で全体の整合性を整えられ、「透脱古今底の鉢盂」と鉢盂という真実態は古今を超脱した真実人体と「雲水の伝持せる鉢盂」とを掛けた文言です。

「しかあれば、いまこの鉢盂は、鉄漢の旧見を覰破せり、木橛の商量に拘牽せられず、瓦礫の声色を超越せり。石玉の活計を罣礙せざるなり。碌塼といふことなかれ、木橛といふことなかれ。かくのごとく承当しきたれり」

「鉄漢の旧見」とは前段にいう袈裟の材を絹布と云い、鉢盂の材を石瓦・鉄木と云う輩で、この場合はガンコ者とでも解し、さらに鉢盂の無底の真実体を云う為に「瓦礫・石玉・碌塼」と凡聖を並べ、さらに先程の「木橛の商量(華林と百丈との問答)に掛けた鉢盂の材の「木橛ということなかれ」と多少入り混んだ文体説明ですが、主旨は鉢盂という仏具は単なる調度品ではなく、日常底の真実体を具現するもので、出来映えとか出自を問題とすべきではないとの提唱です

 

正法眼蔵虚空

正法眼蔵 第七十 虚空

    一

這裏是什麼處在のゆゑに、道現成をして佛祖ならしむ。佛祖の道現成、おのれづから嫡々するゆゑに、皮肉骨髓の渾身せる、掛虚空なり。虚空は、二十空等の群にあらず。おほよそ、空たゞ二十空のみならんや、八萬四千空あり、およびそこばくあるべし。

この巻の示衆年月日は寛元三(1245)年三月六日と前巻『自証三昧』巻(寛元二(1244)年二月二十九日)『大修行』巻(寛元二年三月九日)と一年ぶりの説法であり、その間は『建撕記』によると寛元二年二月二十九日には大仏寺選定地に鍬入れし四月二十一日には法堂の棟上儀式、三か月後の七月十八日には大仏寺開堂説法さらに九月一日には在家信者に対しての法会、十一月には僧堂棟上式等有っての『虚空』巻提唱です。

「這裏是什麼処在」の出典は『行持上』巻で説く宣宗と黄蘗との「不著仏求、不著法求、不著僧求、長老用礼何為」の宣宗書記の質問に対し黄蘗がいきなり平手打ちし、質問に対しては「不著仏求、不著法求、不著僧求、常礼如是事」と答え再度書記を平手打ちし、書記が怒り黄檗に対し「太麁生」つまり「ひどくあらっぽいな」と云った時に答えた黄檗のことばが「這裏是什麼処在、更説什麼麁細」と答えた前半部に云う「ここをどこだとおもっている」からの出典だと考えられますが、他にも『臨済録』勘辨に普化の発語としても知られます。

この巻での言わんとする要旨は「這裏・ここ」と「虚空」の無差別を言わんが為の巻頭言で、「皮肉骨髄の渾身せる掛虚空」は『摩訶般若波羅蜜』巻からの借用語で、如浄の語としてふと思い憑いた如くに付言されます。また虚空は『大品般若経』で説明するような「内空、外空、有為空、無為空」等々に概念化された「空」ではなく、尽十方界が虚空の真実であるとのイントロダクション(序論)です。

 

    二

撫州石鞏慧藏禪師、問西堂智藏禪師、汝還解捉得虚空麼。西堂曰、解捉得。師曰、儞作麼生捉。西堂以手撮虚空 師曰、儞不解捉虚空。西堂曰、師兄作麼生捉。師把西堂鼻孔拽。西堂作忍痛聲曰、太殺人、拽人鼻孔、直得脱去。師曰、直得恁地捉始得。

この古則が最初に取り挙げる公案ですが、出典は『景徳伝灯録』六・石鞏章(「大正蔵」五一・二四八・中)とされますが『真字正法眼蔵』下・四十九則にも取り扱われます。

石鞏道の汝還解捉得虚空麼。なんぢまた通身是手眼なりやと問著するなり。西堂道の解捉得。虚空一塊觸而染汚なり。染汚よりこのかた、虚空落地しきたれり。石鞏道の儞作麼生捉。喚作如々、早是變了也なり。しかもかくのごとくなりといへども、隨變而如去也なり。西堂以手撮虚空。只會騎虎頭、未會把虎尾なり。石鞏道、儞不解捉虚空。たゞ不解捉のみにあらず、虚空也未夢見在なり。しかもかくのごとくなりといへども、年代深遠、不欲爲伊擧似なり。西堂道、師兄作麼生。和尚也道取一半、莫全靠某甲なり。石鞏把西堂鼻孔拽。

しばらく參學すべし、西堂の鼻孔に石鞏藏身せり。あるいは鼻孔拽石鞏の道現成あり。しかもかくのごとくなりといへども、虚空一團、磕著築著なり。

西堂作忍痛聲曰、太殺人、拽人鼻孔、直得脱去。

從來は人にあふとおもへども、たちまちに自己にあふことをえたり。しかあれども、染汚自己即不得なり、修己すべし。

石鞏道、直得恁地捉始得。

恁地捉始得はなきにあらず、たゞし石鞏と石鞏と、共出一隻手の捉得なし。虚空と虚空と、共出一隻手の捉得あらざるがゆゑに、いまだみづからの費力をからず。

これから道元禅師によるコメントですが、これまでの拈提とは違い著語と云った方がいいでしょう。

まづは撫州(江西省臨川)の石鞏(地名)慧蔵(生没年不詳)が馬祖道一(709―788)の兄弟弟子の西堂智蔵(735―814)に問うた、「汝(智蔵)は虚空というものを捉えられるか」に対しての道元禅師の著語は「汝また通身是手眼なりやと問著するなり」と通身と虚空を同性と把捉しての著語で、ともに尽十方界と置き換えれば何ら違和感はありません。(『観音』巻冒頭に説く雲厳と道吾の話・参照)

先の石鞏の問いに対し西堂は「虚空を捉えることはできる」に対しての著語は、「虚空の一塊は触れて、虚空と宣揚した途端に間違い(染汚)になるとの意で、「染汚よりこのかた虚空落地しきたれり」は染汚と云う固定観念でものごとを把捉すると同時に、虚空と云う真実態は見えなくなる事を落地と云い換えたものです。

そこで石鞏が「你(西堂)はどのように捉えるか」に対しては「喚作如々、早是変了也」との著語ですが、作麼生(どのように)を如々と云い換えての事ですが、両方とも一場の一瞬を捉えての現成で、全体を把捉することは不可能ですから、如と作した時にはその数秒後には変化しているとの言で、物理学で云う量子力学の定点観測また分子生物学で云う動的平衡論で説明する特定法と似ています。

さらに「随変而如去也」と語調を変え常時変化し如の状態で去るとの著語で、「作麼」と「如」との普遍性を説くものです。

次に西堂が実際に示した「手で虚空をつまむ」動作に対しては、「只会騎虎頭、未会把虎尾」と「西堂の行為は虎の頭に騎っているが虎の尻尾は捉えていない」との言で、西堂の不徹底を言う著語です。

そこで兄弟子の石鞏の云う「你不解捉虚空」に対しては、「ただ不解捉」とのみ西堂を批評する石鞏を諫め、石鞏自身も「未だ虚空を夢に見てないぞ」と言い、それは「年代深遠、不欲為伊挙似」という『臨済録』行録(「大正蔵」四七・五〇五・上)での仰山慧寂(807―883)が師匠の潙山霊祐(771―853)に云ったように、「虚空は捉えられない(年代深遠)から伊(かれ)の為に挙似することはできない」と石鞏が云う処の「不解促」と否定ばかりでは老婆親切はないとの著語です。

西堂は石鞏から「不解促」との言に対し、西堂は居直ったかの態度での「師兄作麼生」に対し道元禅師は「和尚也道取一半、莫全靠某甲」と『真字正法眼蔵』上・一則に挙げる石頭希遷が青原行思に云い寄った語を借用し、西堂の態度を相手に投げ売りするのではなく、自分の過不足の半分を云い相手に任せるなとの著語です。

ここでの「石鞏把西堂鼻孔拽」は馬祖道一門下での典型的接化法だと思われ、『真字正法眼蔵』中・八十二則でも馬祖(709―788)と百丈懐海(749―814)による「野鴨子の話」として取り扱われますが、「石鞏が西堂の鼻の孔に手を掛け拽く」と云う態度に対しての著語は、「西堂の鼻孔に石鞏蔵身せり」また「鼻孔拽石鞏」と虚空と石鞏と西堂の同時現成とでも云い得る状況との著語で、さらに「虚空一団、磕著築著」と虚空は梵語で云うシュンニャータとは違い、『転法輪』巻で五祖法演(―1104)が説くように法性が充ち満ちているとのコメントですが、現代宇宙論でも云うように、我々を取り囲む空間は素粒子ダークマターと呼ばれる暗黒物質に充ち満ちているとの見解に合致するものです。

次に西堂が云った「太殺人(人殺し)拽人鼻孔(そんなに人の鼻孔を拽くと)直得脱去(すぐに鼻がもげてしまう)」に対しての、「従来は人に逢うと思えども、忽ちに自己に逢うことを得たり」の「人に逢う」とは虚空という真実を他人事としての意、「自己に逢う」とは全自己の自己・本来面目の自己・自証三昧の自己を意味するもので、前に云う処の虚空という真実が痛を介して石鞏と自身の同時現成を「自己に逢うことを得たり」との著語で、次に言う「染汚の自己は即ち不得なり」の染汚自己は全自己とは対極的な自我意識下の自己を云うもので、全自己を修せよ(修己)との西堂に対する道元禅師の老婆心です。

最後に云う石鞏の「直得恁地捉始得」直に恁地捉するを得て始めて得てん。とは石鞏が西堂に無理やり虚空の実体を痛得せしめた事を云うものですが、この石鞏の自信に満ちた言動も虚空の側面から俯瞰すれば、「捉得あらざる」であり「貴力をからず」との著語ですが理解しづらい所です。

おほよそ盡界には、容虚空の間隙なしといへども、この一段の因縁、ひさしく虚空の霹靂をなせり。石鞏西堂よりのち、五家の宗匠と稱ずる參學おほしといへども、虚空を見聞測度せるまれなり。石鞏西堂より前後に、弄虚空を擬するともがら面々なれども、著手せるすくなし。石鞏は虚空をとれり、西堂は虚空を覰見せず。大佛まさに石鞏に爲道すべし、いはゆるそのかみ西堂の鼻孔をとる、捉虚空なるべくは、みづから石鞏の鼻孔をとるべし。指頭をもて指頭をとることを會取すべし。しかあれども、石鞏いさゝか捉虚空の威儀をしれり。たとひ捉虚空の好手なりとも、虚空の内外を參學すべし 。虚空の殺活を參學すべし。虚空の輕重をしるべし。佛々祖々の功夫辦道、發心修證、道取問取、すなはち捉虚空なると保任すべし。

この段は語句ごとの著語の形式は用いずに、拈提という方式で全体の評を与えるもので、先程までの混み入った難解さはありません。

「おほよそ尽界には、容虚空の間隙なしといへども、この一段の因縁、ひさしく虚空の霹靂をなせり」

尽界=虚空と異句同義語と規定し、石鞏と西堂の問答は稲光り(霹靂)のようであると。

「石鞏西堂よりのち、五家の宗匠と称ずる参学おほしといへども、虚空を見聞測度せるまれなり。石鞏西堂より前後に、弄虚空を擬するともがら面々なれども、著手せるすくなし。石鞏は虚空をとれり、西堂は虚空を覰見せず」

石鞏・西堂の時代は九世紀晩唐に差し掛かる時代状況で、その頃は五家と云われる法眼・潙仰・曹洞・雲門・臨済等はなく、五祖法演(―1104)以降の北宋晩期から南宋初期の状況を説明するものです。

「石鞏は虚空をとれり、西堂は虚空を覰見せず」と字義通り解釈すると、石鞏は虚空を理解し西堂は理解していないと読み取れますが、語句ごとの著語でも示されたように「西堂が手でつまむように虚空を覰見」した道元禅師の拈語は「只会騎虎頭、未会把虎尾」と全否定ではないので、この処の解釈は『御抄』(「註解全書」八・五四四)でも云うように「覰見の見は見不見の見なるべし、虚空の上の見」との註解に従えば両人共に五分五分の理解とした道元禅師特有な言い様です。

「大仏まさに石鞏に為道すべし、いはゆるそのかみ西堂の鼻孔をとる、捉虚空なるべくは、みづから石鞏の鼻孔をとるべし。指頭をもて指頭をとることを会取すべし」

吉嶺の仮り住まいから大仏寺での最初の説法の意気込みから「大仏まさに石鞏に申し伝える」との語感があります。ここに言う「みづから石鞏の鼻孔をとるべし」とは先に説く著語で、「西堂の鼻孔に石鞏蔵身せり。あるいは鼻孔拽石鞏」の立場を変えて主客同物・能所合一を更に説いたものです。

「しかあれども、石鞏いさゝか捉虚空の威儀を知れり。たとひ捉虚空の好手なりとも、虚空の内外を参学すべし 。虚空の殺活を参学すべし。虚空の輕重を知るべし。仏々祖々の功夫辦道、発心修証、道取問取、すなはち捉虚空なると保任すべし」

前には石鞏の不徹底を説くものでしたが、そうではあるがと石鞏には「捉虚空の好手」と一定の評価を与えながら、「虚空の内外」「虚空の殺活」「虚空の軽重」等を参学し、「仏々祖々の功夫辦道、発心修証」等の虚空と云う真実態を身につけろ(保任)と石鞏慧蔵に思いを成す提唱です。

 

先師天童古佛道、渾身似口掛虚空。

あきらかにしりぬ、虚空の渾身は虚空にかゝれり。

この偈は『摩訶般若波羅蜜』巻にて取り挙げられた「渾身似口掛虚空、不問東西南北風、一等為他談般若。滴丁東丁滴丁東。」からの借用句で、わづか一行のみの拈語ですが、冒頭部に説く「皮肉骨髄の渾身せる、掛虚空」と、全てが虚空に包摂包含される状態を、先程の「虚空の内外を参学すべし」と連関させた導入句です。

 

    四

洪州西山亮座主、因參馬祖。祖問、講什麼經。師曰、心經。祖曰、將什麼講。師曰、將心講。祖曰、心如工伎兒、意如和伎者。六識爲伴侶、爭解講得經。師曰、心既講不得、莫是虚空講得麼。祖曰、卻是虚空講得。師拂袖而退。祖召云、座主。師廻首。祖曰、從生至老、只是這箇。師因而有省。遂隱西山、更無消息。

しかあればすなはち、佛祖はともに講經者なり。講經はかならず虚空なり。虚空にあらざれば一經をも講ずることをえざるなり。心經を講ずるにも、身經を講ずるにも、ともに虚空をもて講ずるなり。虚空をもて思量を現成し、不思量を現成せり。有師智をなし、無師智をなす。生知をなし、學而知をなす、ともに虚空なり。作佛作祖、おなじく虚空なるべし。

次に「心」と「虚空」についての考察ですが、この話題は『真字正法眼蔵』上・四則にも取り挙げるものですが試訳しますと、

洪州西山亮座主、因参馬祖。祖問、講什麼経。

洪州(江西省・現在の南昌市一帯)の西山(南昌山)という処の亮(生没年不詳)と云う座主(経論師)、因みに馬祖道一(709―788)に参禅す。馬祖が問う、什麼(なに)のお経を講ずるか。

師日、心経。

亮が答える、般若心経。

祖日、将心講。

亮は答える、心をもって講義します。

祖日、心如工伎児、意如和伎者。六識為伴侶、争解講得経。

馬祖は云う、心は工伎児(くぎじ・主役の役者)の如く、意は和伎者(わぎしゃ・脇役)の如し。六識(眼耳鼻舌心意)は付随で、どうして経を講じられるか。

師日、心既講不得、莫是虚空講得麼。

亮が云う、心で講じ得ないなら、虚空が講じ得ることはないですか。

祖日、却是虚空講得。

馬祖が云う、かえって虚空が(心を)講じ得る。

師払袖而退。

亮座主は衣の袖を払い退出した。(『景徳伝灯録』八・亮座主章には払袖の前に(「亮不肯(うけがわず)」の語がある)

祖召従生至老、只是這箇。

馬祖が云う、生より老に至るまで、ただこれだけ。

―此処に云う這箇は冒頭に説く這裏是什麼在に通底するものです―

師因而有省。遂隠西山、更無消息。

亮座主は這箇の一語で悟り、遂に西山(厭原山)に隠棲し、更に消息を絶った。

―この這箇とは馬祖が亮座主に呼びかけた「座主」という全存在の一語を示唆するもので、所謂は経文に説く概念論ではなく現成の生きた這裏は虚空という全機現と連通するものを言わ示さんが為で、消息を絶ったという事は馬祖との問答前は一寺の住持職を成し雲水も教導していた世間体の利害得失・名門利養を断捨離したことを云うものです。

「しかあればすなはち、仏祖はともに講経者なり。講経は必ず虚空なり。虚空にあらざれば一経をも講ずることを得ざるなり」

本則に対する拈提です。仏祖=講経者=虚空のセオリーで、全体を真実底と置き替えれば理解し易く、真実(虚空)が伴わなければ、どんな経文(ことば)も講じられないとの拈語です。

「心經を講ずるにも、身經を講ずるにも、ともに虚空をもて講ずるなり。虚空をもて思量を現成し、不思量を現成せり」

言わんとする要旨は前文と同様「虚空」を媒介にし過不足なく説かんが為のものです。

「有師智をなし、無師智をなす。生知をなし、学而知をなす、ともに虚空なり。作仏作祖、同じく虚空なるべし」

同様に虚空の遍満性を説かんが為の語法ですが、有師智・無師智を付言することで一年前の『自証三昧』巻との連関・連続性の意図を想定したものでしょうか。

 

    五

第二十一祖婆修盤頭尊者道、

心同虚空界 示等虚空法 證得虚空時 無是無非法

いま壁面人と人面壁と、相逢相見する墻壁心枯木心、これはこれ虚空界なり。應以此身得度者、即現此身、而爲説法、これ示等虚空法なり。應以佗身得度者、即現佗身、而爲説法、これ示等虚空法なり。被十二時使、および使得十二時、これ證得虚空時なり。石頭大底大、石頭小底小、これ無是無非法なり。かくのごとくの虚空、しばらくこれを正法眼藏涅槃妙心と參究するのみなり。

本則に提示される偈は二十一祖婆修盤頭ではなく第七祖婆須蜜の誤用で、虚空の語に傾中するあまりこのような誤りをしたものでしょう。

読みは「心は虚空界に同じく、虚空の法を示等す。虚空を証得する時、是も無く非法もなし」と訓読します。

「いま壁面人と人面壁と、相逢相見する墻壁心枯木心、これはこれ虚空界なり」

初句の心と虚空界についての拈語で、壁面人とは壁に面している人、人面壁は人が面する壁と解しますが、人も壁も共々変化しない在り様を只管打坐の別称で表現し、「相逢相見」と一体を説き更に変わらないものの代表に墻壁・枯木とし、初句は心と虚空界を同等視するものですから、墻壁心・枯木心は虚空界との拈提です。

「示等虚空法」に対する拈語を『法華経』普門品で説く「応以此身得度者、即現此身、而為説法」又は「応以他身得度者、即現他身、而為説法」と云うように、この二句で以て全体を表徴し虚空の中に包有せしめた考察です。

「被十二時使、使得十二時」は趙州従諗が僧に対し「汝は十二時にこき使われ、老僧は十二時を使い得る」の語を「証得虚空時」と同定するものですが、日常生活を虚空の証得としたものです。

「石頭大底大、石頭小底小」は『遍参』巻にも援用されますが、大きい石小さな石はそのままで過不足なくを云い、「是もなく非法も無し」との拈提です。

これらの今まで述べた全ての虚空(真実)を正法眼蔵涅槃妙心と同性同等に参究せよとの結論です。

気になる点がこの巻の奥書によると書写は後代の義雲で、次巻の『鉢盂』巻は懐弉が書写している以外は『出家』巻まで懐弉の名が刻されていない事と。『虚空』巻と『自証三昧』巻との間に一年のブランクに関連があるのか考察する余地がありそうです。

 

正法眼蔵 第七十 虚空

爾時寛元三年乙巳三月六日在越宇大仏寺示衆

 

 

正法眼蔵自証三昧

正法眼蔵 第六十九 自証三昧

    一

諸佛七佛より、佛々祖々の正傳するところ、すなはち修證三昧なり。いはゆる或從知識、或從經巻なり。これはこれ佛祖の眼睛なり。このゆゑに、曹谿古佛、問僧云、還假修證也無。僧云、修證不無、染汚即不得。しかあればしるべし、不染汚の修證、これ佛祖なり。佛祖三昧の霹靂風雷なり。

「自証三昧」の標題は、本巻中部に説く洞山道微(生没年不詳)と大慧宗杲(1089―1163)との問答での宗杲が云う「本具正眼自証自悟」から採用したものと思われるが、本巻での要旨は「諸仏七仏より仏々祖々の正伝するところ、すなはち修証三昧なり」に収斂されます。修証三昧とは修行と証行の同時同体を云うもので、教証三昧とも行証三昧とも云い替えられます。

その具体例を「或従知識、或従経巻」とされます。この用例は『仏性』・『光明』・『古鏡』・『授記』・『諸悪莫作』・『説心説性』等各巻にて援用されます。

さらにこれら(修証三昧・或従知識経巻)を別語で「仏祖の眼睛」と位置づけますが、これらの語義と同程文体が『看経』巻(仁治二(1241)年興聖寺示衆)冒頭に、「阿耨多羅三藐三菩提の修証、あるいは知識を用い、あるいは経巻を用いる。知識と云うは全自己の仏祖なり。全仏祖の自己、全経巻の自己なるが故にかくの如くなり。―中略―これ活眼睛なり」(「正法眼蔵」二・二〇五・水野・岩波文庫)と有ります。

さらに古則公案である「曹谿古仏、僧(南嶽懐譲)に問うて云わく、還って修証を仮るや也(また)無しや。僧云わく、修証は無きにあらず、染汚(ぜんな)することは即ち得ず」を取り挙げ「修証」の語義に注視させ、南嶽が提示した「不染汚の修証これ仏祖なり」と不染汚つまり無所得無所悟の実修実証こそが仏祖との定義づけで、さらに「仏祖三昧の霹靂風雷」と自然界の猛々しい音響を仏祖と直結させる文体です。

 

    第二段

或從知識の正當恁麼時、あるいは半面を相見す、あるいは半身を相見す。あるいは全面を相見す、あるいは全身を相見す。半自を相見することあり、半佗を相見することあり。神頭の披毛せるを相證し、鬼面の戴角せるを相修す。異類行の隨佗來あり、同條生の變異去あり。かくのごとくのところに爲法捨身すること、いく千萬廻といふことしらず。爲身求法すること、いく億百劫といふことしらず。これ或從知識の活計なり、參自從自の消息なり。瞬目に相見するとき破顔あり、得髓を禮拝するちなみに斷臂す。おほよそ七佛の前後より、六祖の左右にあまれる見自の知識、ひとりにあらず、ふたりにあらず。見佗の知識、むかしにあらず、いまにあらず。

「或従知識の正当恁麼時」とは前段で説いたように「知識といふは全自己の仏祖なり」(『看経』巻)を底本にすれば、尽界の全存在を意味しますから此処で説く「半面」「半身」「全面」「全身」「半自」「半他」は相対的範疇ではなく、全機現的意味合いを呈し半も全も絶対的見方を指します。

また「相見」とは「それぞれがそれなる道理」『御抄』(「註解全書」八・四〇九)と解し、全機なる道理を言うものです。

「神頭の披毛せるを相証し、鬼面の戴角せるを相修す。異類行の随他来あり、同条生の変異去あり」

「神頭披毛、鬼面戴角」とは異類行の具体例示をしたまでで、或従知識の正当恁麼時・つまり全自己の状態を、先程の半面を相見し半他を相見し、さらに奇妙奇天烈な神頭披毛を相証しと、「同条生」なる条件に於いても「変異」さまざまな事があると云うことを、一見不可解な文言で以て説く独特な論法です。

「かくのごとくのところに為法捨身すること、いく千万廻といふこと知らず。為身求法すること、いく億百劫といふこと知らず。これ或従知識の活計なり、参自従自の消息なり。瞬目に相見するとき破顔あり、得髄を礼拝するちなみに断臂す」

「為法捨身」とは「仮修証の義なり」『聴書』(「註解全書」八・四四一)と解する事により、「為法」と「捨身」は一等(同等)の位格と成り更に「為身求法」も同義句で、この「修証」という意識態を千万回・億百劫と繰り返す日常底を「或従知識の活計」はたらきと呼び、「参自従自」自己に参じ自己に従う消息であるとの明言です。

そこで為法捨身・為身求法の例示を馴れ親しむ「瞬目に相見するとき破顔」と霊山上での説法風景、さらに「得髄を礼拝するちなみに断臂」と云うおうに達磨と慧可との相見の様子を記述するものですが、先に修証は一等と説いたように釈尊と迦葉・達磨と慧可との一体性つまり解脱の姿を言うものです。

「おほよそ七仏の前後より、六祖の左右にあまれる見自の知識、ひとりにあらず、ふたりにあらず。見他の知識、昔にあらず、今にあらず」

或従知識の結語として過去七仏から六祖の両頭たる青原行思(―740)と南嶽懐譲(677―744)に至る数多の「見自の知識・見他の知識」所謂は、自他を超克した仏祖は時処に関わらず存在するとの言上です。

或從經巻のとき、自己の皮肉骨髓を參究し、自己の皮肉骨髓を脱落するとき、桃花眼睛づから突出來相見せらる、竹聲耳根づから、霹靂相聞せらる。おほよそ經巻に從學するとき、まことに經巻出來す。その經巻といふは、盡十方界、山河大地、草木自佗なり。喫飯著衣、造次動容なり。この一々の經典にしたがひ學道するに、さらに未曾有の經巻、いく千萬巻となく出現在前するなり。是字の句ありて宛然なり、非字の偈あらたに歴然なり。これらにあふことをえて、拈身心して參學するに、長劫を消盡し、長劫を擧起すといふとも、かならず通利の到處あり。放身心して參學するに、朕兆を抉出し、朕兆を趯飛すといふとも、かならず受持の功成ずるなり。

この段は「或従経巻」に対する拈提ですが、前段の或従知識同様に『看経』巻に言う「経巻といふは全自己の経巻なり、全経巻の自己なるがゆえに」に従えば、「或従経巻のとき、自己の皮肉骨髄を参究」つまり自己の全体(皮肉骨髄)の参究とは能見所見能聞所聞を設けずに全機の自己に成り切る事を云うもので、「喩えば三宝で云われる「僧」のようなものです。「僧」は個人ではなく僧団と云う「サンガ」を尊重するもので、個々人を見るのではなく、全体をトータルに捉える事が重要です。

ここでは皮肉骨髄の例示を霊雲の「桃花」また香厳の「竹声」に喩え、「桃花と眼睛」・「竹声と耳根」を別物とはせず「づから」と連続軌道に乗じての拈提です。

「おおよそ経巻に従学する時、まことに経巻出来す。その経巻と云うは、尽十方界、山河大地、草木自他なり。喫飯著衣、造次動容なり」

「経巻」の具体的説明は、「尽十方界」・「山河大地」・「草木自他」と大自然を皮肉骨髄・全自己と表徴し、また「喫飯著衣」・「造次動容」と云った日常底をも「経巻」という真実態であると説かれます。

「この一々の経典に従い学道するに、さらに未曾有の経巻、いく千万巻となく出現在前するなり」

今挙げた要素のひとつ一つが真実を構成する要体ですから、「未曽有・千万巻」と無尽数を言うもので、その真実が「現在出前」と現成の公案として説きます。

「是字の句ありて宛然なり、非字の偈あらたに歴然なり。これらに逢うことを得て、拈身心して参学するに、長劫を消尽し、長劫を挙起すと云うとも、必ず通利の到処あり。放身心して参学するに、朕兆を抉出し、朕兆を趯飛すと云うとも、必ず受持の功成ずるなり」

「是字」は肯定の字句「非字」は否定の偈との能所見で「宛然」「歴然」としますが、先程の「経巻というは尽十方界」から把捉すると、凡見とは異なり是も非も同等となります。

「これら」とは尽十方界の而今現成の事象を「拈身心」つまり尽十方界で拈じ参学すると「長劫」と云う無限の時間を使い尽くし消え失せると。次に言う「長劫を挙起すといふとも、かならず通利の到処あり」は無限の時間を経験するとしても、時処関わりなく通達できると。『聴書』では「通利」を「通彼通是の義」と説かれますが、わかりづらい箇所です。

さらに拈身心に対し「放身心」に対する拈語で、今度は長劫に対し「朕兆」を快出えぐり出し、さらに趯飛(てっぴ)飛び越えても、経巻に対する受持の功成ずるとし、『御抄』(「註解全書」八・四一五)では「長劫と朕兆・通利と受持只同じ道理」と解するが難解である。

 

    三

いま西天の梵文を、東土の法本に翻訳せる、わづかに半萬軸にたらず。これに三乘五乘、九部十二部あり。これらみな、したがひ學すべき經巻なり。したがはざらんと廻避せんとすとも、うべからざるなり。かるがゆゑに、あるいは眼睛となり、あるいは吾髓となりきたれり。頭角正なり、尾條正なり。佗よりこれをうけ、これを佗にさづくといへども、たゞ眼睛の活出なり、自佗を脱落す。たゞ吾髓の附囑なり、自佗を透脱せり。眼睛吾髓、それ自にあらず佗にあらざるがゆゑに、佛祖むかしよりむかしに正傳しきたり、而今より而今に附囑するなり。拄杖經あり、横説縱説、おのれづから空を破し有を破す。佛子經あり、雪を澡し霜を澡す。坐禪經の一會兩會あり。袈裟經一巻十袟あり。これら諸佛祖の護持するところなり。かくのごとくの經巻にしたがひて、修證得道するなり。あるいは天面人面、あるいは日面月面あらしめて、從經巻の功夫現成するなり。

段が変わり「経巻」についての概略的説明ですが、この処では「東土の法本に翻訳せる、わづかに半万軸にたらず。これに三乘五乘、九部十二部あり」と規定されますが、『優曇華

巻では「梅花の五葉は三百六十余会なり、五千四十八巻なり、三乗十二分教なり」さらに『仏教』巻でも「釈迦老漢すでに単伝の教法をあらしめんー中略―上乗一心といふは三乗十二分教これなり」(「正法眼蔵」二・二九六・水野・岩波文庫)と提示されるにも関わらず、敢えて「半万軸」五千に及ばずとされるのは、何がしらの意図が有るのでしょうか。

「これら皆、従ひ学すべき経巻なり。したがはざらんと廻避せんとすとも、得べからざるなり」

文意のままに解します。

「かるが故に、或いは眼睛となり、或いは吾髄となり来たれり。頭角正なり、尾条正なり。他よりこれを受け、これを他に授くと云えども、たゞ眼睛の活出なり、自他を脱落す。た陀吾髄の附嘱なり、自他を透脱せり。眼睛吾髄、それ自にあらず佗にあらざるが故に、仏祖昔より昔に正伝し来たり、而今より而今に附嘱するなり」

この「経巻」という真実を此の処では「眼睛」「吾髄」と拈語し、「頭角正」「尾条正」と全体が「正」という経巻に成り切っていると説き、『御抄』(「註解全書」八・四一七)では頭角正尾条正を「首尾相応したる心地」と解します。

さらに同様に経巻という真実を「他よりこれを受け、これを他に授く」とは自も他もが全てが「経巻」という真実で満ち満ちていますから、「自他を脱落」さらに「自他を透脱」と表現し、同じく「経巻」の象徴としての「眼睛」「吾髄」も言句こそ違いますが、尽界の真実の渦中に於いては「自にあらず他にあらず」と同等の事項と認識されます(尽十方界から眺めて)。

「拄杖経あり、横説縱説、おのれづから空を破し有を破す。払子経あり、雪を澡し霜を澡す。坐禅経の一会両会あり。袈裟経一巻十袟あり。これら諸仏祖の護持する処なり。かくの如くの経巻に従いて、修証得道するなり。あるいは天面人面、あるいは日面月面あらしめて、從経巻の功夫現成するなり」

ひとまずは「或従経巻」についての拈提の締め括りですが、ここでは日常底の調度である

「拄杖・払子・坐禅・袈裟」等を真実態である「経」に据え、それぞれに著語を付します。喩えば払子の先には白いヤクの尻尾が使用される事から、「雪を澡し霜を澡す」と言う具合です。

「これら諸仏祖の護持するところなり」以下は文意のままですが、次に説く処の「経巻に従いて修証得道」と当巻でのキーワードである「修証」の文言が使用されます。「天面人面」と「日面月面」は対句としての形容で、さまざまな日常底での現成が経巻であるとの事です。

しかあるに、たとひ知識にもしたがひ、たとひ經巻にもしたがふ、みなこれ自己にしたがふなり。經巻おのれづから自經巻なり。知識おのれづから自知識なり。しかあれば、遍參知識は遍參自己なり、拈百草は拈自己なり、拈萬木は拈自己なり。自己はかならず恁麼の功夫なりと參學するなり。この參學に、自己を脱落し、自己を契證するなり。これによりて、佛祖の大道に自證自悟の調度あり、正嫡の佛祖にあらざれば正傳せず。嫡々相承する調度あり、佛祖の骨髓にあらざれば正傳せず。かくのごとく參學するゆゑに、人のために傳授するときは、汝得吾髓の附囑有在なり。吾有正法眼藏、附囑摩訶迦葉なり

さほど難なく解読するが、或従知識・或従経巻つまり真実底は「みなこれ自己に従う」とある自己は全自己を云うもので、冒頭に説く「或従知識、或従経巻。これはこれ仏祖の眼睛」とも通底するものです。同様に「遍参知識は遍参自己」ならびに「自己」と「万木百草」との同体同等性を「拈」を介在して説き、これらの修証得道の参学には「自己を脱落し、自己を契証するなり」と『遍参』巻での「遍参はただ祇管打坐、身心脱落なり」(「正法眼蔵」三・二四九・水野・岩波文庫)に見合う拈提文辞です。

「これによりて、仏祖の大道に自証自悟の調度あり、正嫡の仏祖にあらざれば正伝せず。嫡々相承する調度あり、仏祖の骨髄にあらざれば正伝せず。かくの如く参学する故に、人の為に伝授する時は、汝得吾髄の附嘱有在なり。吾有正法眼蔵、附嘱摩訶迦葉なり」

「これによりて」の「これ」とは或従知識・或従経巻を指し、「仏祖の大道に自証自悟の調度あり」と説かれますが、此巻では他に四箇処「仏祖の大道」の語句が強調されます。因みに『遍参』巻冒頭では「仏祖の大道は究竟参徹なり」と説破されます。

ここで言う「自証自悟」は傲慢さを云うものではなく、全自己の「自」を指し更に「正嫡の仏祖にあらざれば・仏祖の骨髄にあらざれば」正伝せずと、他に七度にわたり「正伝」を列記し、後に説く大慧宗杲等との違いを表徴するものです。

「かくの如く」とは自証自悟・嫡々相承・仏祖の骨髄等を参学することで、「汝得吾髄」の如く釈尊と迦葉との不可分を言うもので、すべて全自己に包含される拈提です。

爲説はかならずしも自佗にかゝはれず、佗のための説著すなはちみづからのための説著なり。自と自と、同參の聞説なり。一耳はきゝ、一耳はとく。一舌はとき、一舌はきく。乃至眼耳鼻舌身意根識塵等もかくのごとし。さらに一身一心ありて證するあり、修するあり。みゝづからの聞説なり、舌づからの聞説なり。昨日は佗のために不定法をとくといへども、今日はみづからのために定法をとかるゝなり。かくのごとくの日面あひつらなり、月面あひつらなれり。佗のために法をとき法を修するは、生々のところに法をきゝ法をあきらめ、法を證するなり。今生にも法をたのためにとく誠心あれば、自己の得法やすきなり

「為説」は前段に言う汝得吾髄・吾有正法眼蔵附嘱摩訶迦葉の因縁話を指しますが、先程も自他の不可分を説いたように「自他に関われず」また「自と自と、同參の聞説なり」と、全自己(全機)である為に同体同等性が提起されます。

「一耳は聞き、一耳は説く。一舌は説き、一舌は聞く。乃至眼耳鼻舌身意根識塵等もかくの如し」一見すると論理破綻な文章のようですが、これまでに云う全自己や自他不可分を念頭に入れれば、「耳」が働く時には代用物はないわけで、耳のなかに「眼鼻舌身意」が混在すると云う見識です。

「さらに一身一心ありて証するあり、修するあり。耳づからの聞説なり、舌づからの聞説なり。昨日は他の為に不定法を説くと云えども、今日は自からの為に定法を説かるるなり。かくの如くの日面あひ連なり、月面あひ連なれり」

前には六根識等の耳と舌で能聞所聞なき旨を説かれましたが、今度は全体の「身心」の一如なる道理を「一身一心ありて証するあり、修するあり」と修証を入れ換えての拈語です。

「耳づからの聞説なり、舌づからの聞説なり」の「づから」の意は接尾語で、「上代の格助詞「つ」に名詞「から(故)」が付いたもので、名詞に付けてそのもの自身で、の意を表す。たとえば「己(おの)づから」「心づから」「手づから」「身づから」など(『全訳古語例解辞典』第二版・北原保雄編・小学館)と解され、前段に於いても「経巻おのれづから自経巻なり、知識おのれづから自知識なり」の用例があります。

次に同様に文言を「昨日は他の為に不定法を説く」対句として「今日は自からの為に定法を説く」と言うように自他は無い事をこのように言われ、さらに「日面月面」の語で以て能所・主客の設定を取り外されるわけです。

「他の為に法を説き法を修するは、生々の処に法を聞き法を明らめ、法を証するなり。今生にも法を他の為に説く誠心あれば、自己の得法易きなり」

自他の不各別道理を云うものです。

あるいは佗人の法をきくをも、たすけすゝむれば、みづからが學法よきたよりをうるなり。身中にたよりをえ、心中にたよりをうるなり。聞法を障礙するがごときは、みづからが聞法を障礙せらるゝなり。生々の身々に法をとき法をきくは、世々に聞法するなり。前來わが正傳せし法を、さらに今世にもきくなり。法のなかに生じ、法のなかに滅するがゆゑに。盡十方界のなかに法を正傳しつれば、生々にきゝ、身々に修するなり。生々を法に現成せしめ、身々を法ならしむるゆゑに、一塵法界ともに拈來して法を證せしむるなり。

しかあれば、東邊にして一句をきゝて、西邊にきたりて一人のためにとくべし。これ一自己をもて聞著説著を一等に功夫するなり。東自西自を一齊に修證するなり。なにとしてもたゞ佛法祖道を自己の身心にあひちかづけ、あひいとなむを、よろこび、のぞみ、こゝろざすべし。一時より一日におよび、乃至一年より一生までのいとなみとすべし。佛法を精魂として弄すべきなり。これを生々をむなしくすごさざるとす。

この段も前段からの自他一体観ならびに徹底した利他主義が説かれる段ですが、晩年に説く十二巻本の『発菩提心』巻を彷彿させる文体です。喩えば「発心とは始めて自未得度先度他の心を発すなり」「たとえ仏に成るべき功徳熟して円満すべしと云うとも、猶めぐらして衆生の成仏得道に回向するなり。この心、我れにあらず他にあらず」「菩提心を起こして後、三阿僧祇劫、一百大劫修行す」(「正法眼蔵」四・一七八・水野・岩波文庫)等々の提唱文を参照するに『自証三昧』巻(1244年二月)から建長年間に懸けての道元禅師変遷心が察せられます。

 

    四

しかあるを、いまだあきらめざれば人のためにとくべからずとおもふことなかれ。あきらめんことをまたんは、無量劫にもかなふべからず。たとひ人佛をあきらむとも、さらに天佛あきらむべし。たとひ山のこゝろをあきらむとも、さらに水のこゝろをあきらむべし。たとひ因縁生法をあきらむとも、さらに非因縁生法をあきらむべし。たとひ佛祖邊をあきらむとも、さらに佛祖向上をあきらむべし。これらを一世にあきらめをはりて、のちに佗のためにせんと擬せんは、不功夫なり、不丈夫なり、不參學なり。

これまでは全自己を以てすれば、東辺西辺・聞著説著・東自西自による能所観法は成立せず、一斉に修証と云う実践をと説いて来ましたが、この段では語調が変わり「未だ明らめざれば人の為に説くべからずと思う事なかれ」と言われます。普通は会得しない仏法を伝授する事は戒に抵触するように思われますが、道元禅師の仏法解釈では完全態は設定しませんから、こう言う提唱になるわけで更に「明らめん事を待たんは無量劫にも叶うべからず」と言明されます。

ここでの「あきらめ」とは納得のことで、全自己ではなく自我意識を云うものです。さらに仏法の無窮を説く為「人仏より天仏」「山の心より水の心」「因縁生法より非因縁生法」と、更に「仏祖向上を明らめよ」と仏法の無限性の提言で、結びには「これら無尽の仏法を理解した後で、他の為にせんと思うは、不功夫(工夫がない)不丈夫(勇猛身がない)不参学(向上心がない)」と言われます。

 

    五

およそ學佛祖道は、一法一儀を參學するより、すなはち爲佗の志気を衝天せしむるなり。しかあるによりて、自佗を脱落するなり。さらに自己を參徹すれば、さきより參徹佗己なり。よく佗己を參徹すれば、自己參徹なり。この佛儀は、たとひ生知といふとも、師承にあらざれば體達すべからず、生知いまだ師にあはざれば不生知をしらず、不生不知をしらず。たとひ生知といふとも、佛祖の大道はしるべきにあらず、學してしるべきなり。自己を體達し、佗己を體達する、佛祖の大道なり。たゞまさに自初心の參學をめぐらして、佗初心の參學を同參すべし。初心より自佗ともに同參しもてゆくに、究竟同參に得到するなり。自功夫のごとく、佗功夫をもすゝむべし。

段が変わり参学の第一歩は大風呂敷を広げるのではなく、「一法一儀」の日常態から積み上げるもので、それが利他行と云う天も衝くような志気になり、その時点で「自他を脱落」と説くように自他の境界域は消尽するとの拈語です。

「さらに自己を参徹すれば、先より参徹他己なり。よく他己を参徹すれば、自己参徹なり」

先に自他を脱落と表現しましたから、自己と他己の同体同性を説きます。

「この仏儀は、たとい生知と云うとも、師承にあらざれば体達すべからず、生知いまだ師に逢わざれば不生知を知らず、不生不知を知らず。たとひ生知と云うとも、仏祖の大道は知るべきにあらず、学して知るべきなり」

ここでの「仏儀」は仏性と捉えて「生知」は生まれつきの知性ですから、本覚的宗旨を説く参随達磨宗をも視界に入れた拈提でしょうか。

「生知」の非を説く提唱は他に『法性』巻(寛元元(1243)年冬)にて「たとい生知なりとも、必ず功夫辨道すべし」(「正法眼蔵」三・九四・水野・岩波文庫)との提唱は道元禅師の心底に通絡するものです。

「自己を体達し、他己を体達する、仏祖の大道なり。ただまさに自初心の参学をめぐらして、他初心の参学を同参すべし。初心より自他ともに同参しもてゆくに、究竟同参に得到するなり。自功夫の如く、他功夫をも勧むべし」

同じように「自他の同参」を初心の語としてキーワードに説くものです。

しかあるに、自證自悟等の道をきゝて、麁人おもはくは、師に傳受すべからず、自學すべし。これはおほきなるあやまりなり。自解の思量分別を邪計して師承なきは、西天の天然外道なり、これをわきまへざらんともがら、いかでか佛道人ならん。いはんや自證の言をきゝて、積聚の五陰ならんと計せば、小乘の自調に同ぜん。大乘小乘をわきまへざるともがら、おほく佛祖の兒孫と自稱するおほし。しかあれども、明眼人たれか瞞ぜられん。

第五段で説いた「自証自悟」は全自己の自を指すと注解しましたが、此処に言う「自証自悟」は次段での大慧宗杲が云う「本具正眼自証自悟、豈有不妄付授也」からのもので、「麁人」とは大慧の宗杲を指し、次節からは具体言辞を以て宗杲の麁人ぶりが説かれます。

なお此の処で「小乘の自調・大乗小乗」なる言句を使用されますが、一般的には小乗は南方仏教・大乗は北方仏教と単純に区分けされますが、「自調」の語に注目しなければならず、看話系の人達の指導法は大抵が出息入息の調整を指示するもので、「大乗の自調」なる語も並記すべきと思われます。

「明眼人」には大乗・小乗の選別は有り得ません。

 

    第六段

大宋國紹興のなかに、徑山の大慧禪師宗杲といふあり、もとはこれ經論の學生なり。遊方のちなみに、宣州の珵禪師にしたがひて、雲門の拈古および雪竇の頌古拈古を學す。參學のはじめなり。雲門の風を會せずして、つひに洞山の微和尚に參學すといへども、微、つひに堂奥をゆるさず。微和尚は芙蓉和尚の法子なり、いたづらなる席末人に齊肩すべからず。

杲禪師、やゝひさしく參學すといへども、微の皮肉骨髓を摸著することあたはず、いはんや塵中の眼睛ありとだにもしらず。あるとき、佛祖の道に臂香嗣書の法ありとばかりきゝて、しきりに嗣書を微和尚に請ず。しかあれども微和尚ゆるさず。つひにいはく、なんぢ嗣書を要せば、倉卒なることなかれ、直須功夫勤學すべし。佛祖受授不妄付授也。吾不惜付授、只是儞未具眼在。ときに宗杲いはく、本具正眼自證自悟、豈有不妄付授也。微和尚笑而休矣。

のちに湛堂準和尚に參ず。湛堂一日問宗杲云、儞鼻孔因什麼、今日無半邊。杲云、寶峰門下。湛堂云、杜撰禪和。杲、看經次、湛堂問、看什麼經。杲曰、金剛經。湛堂云、是法平等無有高下。爲什麼、雲居山高、寶峰山低。杲曰、是法平等、無有高下。湛堂云、儞作得箇座主。使下。又一日、湛堂見於粧十王處。問宗杲上座曰、此官人、姓什麼。杲曰、姓梁。湛堂以手自摸頭曰、爭奈姓梁底少箇幞頭。杲曰、雖無幞頭、鼻孔髣髴。湛堂曰、杜撰禪和。湛堂一日、問宗杲云、杲上座、我這裏禪、儞一時理會得。教儞説也説得、教儞參也參得。教儞做頌古拈古、小參普説、請益、儞也做得。祗是儞有一件事未在、儞還知否。杲曰、甚麼事未在。湛堂曰、儞祗欠這一解在。。若儞不得這一解、我方丈與儞説時、便有禪、儞纔出方丈、便無了也。惺々思量時、便有禪、纔睡著、便無了也。若如此、如何敵得生死 杲曰、正是宗杲疑處。後稍經載、湛堂示疾。宗杲問曰、和尚百年後、宗杲依附阿誰、可以了此大事。湛堂囑曰、有箇勤巴子、我亦不識佗。雖然、儞若見佗、必能成就此事。儞若見佗了不可更佗遊。後世出來參禪也。

この一段の因縁を撿點するに、湛堂なほ宗杲をゆるさず、たびたび開發を擬すといへども、つひに欠一件事なり。補一件事あらず、脱落一件事せず。微和尚そのかみ嗣書をゆるさず、なんぢいまだしきことありと勸勵する、微和尚の觀機あきらかなること、信仰すべし。正是宗杲疑處を究參せず、脱落せず。打破せず、大疑せず、被疑礙なし。そのかみみだりに嗣書を請ずる、參學の倉卒なり、無道心のいたりなり、無稽古のはなはだしきなり。無遠慮なりといふべし、道機ならずといふべし、疎學のいたりなり。貪名愛利によりて、佛祖の堂奥ををかさんとす。あはれむべし、佛祖の語句をしらざることを。稽古はこれ自證と會せず、萬代を渉獵するは自悟ときかず、學せざるによりて、かくのごとくの不是あり、かくのごとくの自錯あり。かくのごとくなるによりて、宗杲禪師の門下に、一箇半箇の眞巴鼻あらず、おほくこれ假底なり。佛法を會せず、佛法を不會せざるはかくのごとくなり。而今の雲水、かならず審細の參學すべし、疎慢なることなかれ。

前半部の和文道元禅師自身による大慧伝、漢文での本則は『大慧宗門武庫』からの引用です。和文体は平易に読み下され漢文体は後ほど訳文にしますが、先にも言明したように標題の「自証三昧」は大慧宗杲が云い切った「自証自悟」が元になり、これまでの提唱ならば「修証三昧」との標題でも障りないものでした。

大慧宗杲は元祐四(1089)年に安徽省宣州で生まれ隆興元(1163)年に化されますが、道元僧団とは因縁深く仁治年間(1240―1243)には義介・義演等日本達磨宗徒が参随し、生涯道元禅師の侍者位を温座した孤雲懐弉も大日能忍を祖とする達磨宗出自でありますが、能忍の師は大慧の宗杲の弟子である拙庵徳光(1121―1203)であることから、初期道元教団を担った人脈は紛れもなく邪禅と称した妙喜(宗杲の号)の薫陶を受けた僧団と起居を共にするも此れ現成でありましょうか。

紹興」は初期南宋時代に元号で1131年から1162年までを云います。

「径山(きんざん)の大慧禅師」とは紹興七(1137)年に浙江省径山能仁寺に住持するを云い、「宣州の珵禅師」は瑞竹(明教)紹珵(生没年不詳)を指し、「雲門の拈古」は雲門文偃(864―949)の『雲門広録』三巻・「雪竇の頌古拈古」は雪竇重顕(980―1052)『明覚録』六巻を指し、それらが大慧禅師の参学のスタートであったと。

「洞山の微和尚」は洞山道微(生没年不詳)を云い、江西省筠州洞山に住したことから洞山の微和尚と云う。「芙蓉和尚の法子」とは洞山良介から曹山・雲居と続く法脈で大陽警玄(943―1027)・投子義青(1032―1083)・芙蓉道楷(1043―1118)と続く法系で、後の道元禅師に列席する法絡は道微の法兄にあたる丹霞子淳(1064―1117)・真歇清了(1088―1151)と続き、同時代に宏智正覚(1091―1157)・大慧宗杲が法筵を広げたわけである。

次に道微和尚の入室を許されず湛堂準和尚(1061―1115)に参ずからの漢文を石井修道著『説心説性・自証三昧考』(駒沢大学仏教学部研究紀要第六十七号・平成二十一年三月・ダウンロ―ド可・以後自証三昧考と略記)からの訳出文を参考に記す。

➀湛堂一日問宗杲云、你鼻孔因什麼、今日無半辺。

你の鼻孔は何故(什麼)半分ないか。

杲云、宝峰門下。湛堂云、杜撰禅和。

宗杲が答う、宝峰(あなた)の門下ですから。湛堂云う、いいかげんな禅坊主が。

②杲、看経次、湛堂問、看什麼経。

宗杲が看経(かんきん)の時に湛堂が問うた、何の経を読むか。

杲日、金剛経

宗杲が答う、金剛(般若)経です。

湛堂云、是法平等無有高下。為什麼、雲居山高、宝峰山低。

湛堂が云うには、金剛経では高下あることなしと云うが、なんとしてか雲居山は高く、宝峰山は低いか。

杲曰、是法平等、無有高下。

宗杲が答うには、是(金剛経)の法は平等にして高下なし。

湛堂云、你作得箇座主。

湛堂が云うには、你(宗杲)は一人の教家人に作ってしまった。

③又一日、湛堂見於粧十王処。問宗杲上座曰、此官人、姓什麼。

又ある日湛堂が十王像を見て、宗杲上座に問うて云う。この官人の姓はなにか。

杲曰、姓梁。

宗杲が答える、姓(名)は梁です。

湛堂以手自摸頭曰、争奈姓梁底少箇幞頭。

湛堂は手で頭をなでて云った。姓が梁とする者(湛堂自身)に、幞頭(ずきん)が無いのはどうしたものか。

杲曰、雖無幞頭、鼻孔髣髴。

宗杲が云うのには、ずきんは無くても、鼻の孔はそっくり(髣髴)です。

湛堂曰、杜撰禅和。

湛堂は云う、いいかげん(杜撰)な禅坊主め

④湛堂一日、問宗杲云、杲上座、我這裏禅、你一時理会得。教你説也説得、教你参也参得。教你做頌古拈古、小参普説、請益、你也做得。祗是你有一件事未在、你還知否。

湛堂ある日、宗杲に問うて云う、杲上座、我が禅を、你は一気に理解した。你に説法させれば説き、你をして参禅させれば参ずる。你に頌古拈古、小参普説、請益を做(作の俗字)せれば、你また作得す。ただ是れ你には一件の事末在あり、你また知るや否や。

杲曰、甚麼事未在。

宗杲が云う、甚麼事(なに)が未在か。

湛堂曰、你祗欠這一解在。加。若你不得這一解、我方丈与你説時、便有禅、你纔出方丈、便無了也。惺々思量時、便有禅、纔睡著、便無了也。若如此、如何敵得生死。

湛堂は云う、你はただこの一解を欠くこと在り。繁(大悟徹底しカッと一声すること)。若し你がこの一解を得ないならば、我が方丈を出た途端に無くなってしまう。眼ざめて思量する時は禅が有るが、睡ってしまった途端に無くなってしまう。若しこのようであるならば、どうして生死(まよい)を相手に立ち向かえるか。

杲曰、正是宗杲疑処。

宗杲が答えるに、正に是れが宗杲の疑う処です。

⑤後稍径載、湛堂示疾。

のちに少々年を経て、湛堂は病を示した。

宗杲問曰、和尚百年後、宗杲依附阿誰、可以了此大事。

宗杲が問うに、和尚百年後、宗杲は誰に師事し、この大事を了ずればよいでしょか。

湛堂嘱曰、有箇勤巴子、我亦不識他。雖然、你若見他、必能成就此事。你若見他了不可更他遊。後世出來参禅也。

湛堂は云いつけた。勤巴子(圜悟克勤・四川省巴州出身による呼称)という者が居り、我もまた他(かれ)を識らない。你がもし他に見(あ)えば、必ず能くこの大事を成就できよう。你が若し彼に会見し終われば更に他所に遊山してはならない。後に参禅了畢できるだろう。

「この一段の因縁を検点するに、湛堂なお宗杲を許さず、たびたび開発を擬すと云えども、遂に欠一件事なり。補一件事あらず、脱落一件事せず。微和尚そのかみ嗣書を許さず、なんぢ未だしき事ありと勧励する、微和尚の観機明らかなること、信仰すべし。正是宗杲疑処を究参せず、脱落せず。打破せず、大疑せず、被疑礙なし。そのかみ妄りに嗣書を請ずる、参学の倉卒なり、無道心の到りなり、無稽古のはなはだしきなり。無遠慮なりと云うべし、道機ならずと云うべし、疎学の到りなり。貪名愛利によりて、仏祖の堂奥を犯さんとす。憐れむべし、仏祖の語句を知らざることを。」

これから古則話頭に対する拈提で平易な文体ですが、この徹底した批評は後段に説く『大慧語録』巻六「大慧普覚禅師塔銘」(以後「塔銘」に略記)の改変による影響でしょうか。(詳細は前出『自証三昧考』頁一―六)

「稽古はこれ自証と会せず、万代を渉猟するは自悟と聞かず、学せざるによりて、かくの如くの不是あり、かくの如くの自錯あり。かくの如くなるによりて、宗杲禅師の門下に、一箇半箇の真巴鼻あらず、多くこれ仮底なり。仏法を会せず、仏法を不会せざるはかくの如くなり。而今の雲水、必ず審細の参学すべし、疎慢なることなかれ」

ここに言う「稽古」も「万代を渉猟」も日常底の一コマですから、これを「自証自悟」とは認識できない事を、「仮底なり」つまり「うわべだけの人」「ニセ者」「まやかし」と断定されます。

次に説く「仏法を会せず、仏法を不会せざる」と毎巻の舌法で以て、宗杲の如くに嗣書を頂点に据えた思考法では片手落ちとの拈提です。

而今の雲水」とは懐弉・詮慧をも含む山内大衆に呼びかけるもので、次節に説く「神悟」に対し審細に参学し疎慢になるなとの道元禅師の老婆親語調です。

 

    七

宗杲因湛堂之囑、而湛堂順寂後、參圜悟禪師於京師之天寧。圜悟一日陞堂、宗杲有神悟、以悟告呈圜悟。悟曰、未也、子雖如是、而大法故未明。又一日圜悟上堂、擧五祖演和尚有句無句語。宗杲聞而言下得大安樂法。又呈解圜悟。圜悟笑曰、吾不欺汝耶。

これは『塔銘』(「大正蔵」四七・八三六・下)からの引用文ですが先ずは訳文にすると、

「宗杲は湛堂の云いつけで、湛堂示寂の後に、東京開封府(江南省開封市)の天寧寺に於いて圜悟克勤(1063―1135)に参禅した。圜悟がある日の陞堂(上堂)で、宗杲は神悟を感得し、その悟りを圜悟に報告した。圜悟が云うには、子(なんぢ)は神悟を得たと云っても大法は故(ことさ)らに未明だ。またある日圜悟は上堂し、五祖法演(―1104)和尚の有句無句の話頭を取り挙げた。(有句無句は『真字正法眼蔵』中・五十七則参照)宗杲は有句無句の話頭を聞き言下に大安楽法を得たと云い、また圜悟は笑って云う、吾(圜悟)は汝(宗杲)には欺かれなどはしない」

と訳し、さらに本則と比較する為前記『塔銘』を並記す。

「遂津致行季来京師。見勤于天寧。一日勤陞堂。師豁然神悟。以語勤。勤日。未也。子雖有得矣。而大法故未明。又一日勤挙演和尚有句無句語。師言下得大安楽法。勤拊掌日。始知吾不汝欺耶。」

比較すると提唱本則は原文そのままの引用ではなく、道元禅師による作為的改変の跡が見て取れます。

本則の・印の圜悟笑日の添語により圜悟と宗杲との距離は縮小されませんが、原文では圜悟は手を叩いて「吾(圜悟)は汝(宗杲)に欺かれていなかった」と師と弟子との距離の親近さが読み取れます。

これ宗杲禪師、のちに圜悟に參ずる因縁なり。圜悟の會にして書記に充す。しかあれども、前後いまだあらたなる得處みえず。みづから普説陞堂のときも得處を擧せず。しるべし、記録者は神悟せるといひ、得大安樂法と記せりといへども、させることなきなり。おもくおもふことなかれ、たゞ參學の生なり。

これから数段の懸けての拈提ですが、ここでは本則である『塔銘』には不載の「書記に充す」また「普説陞堂のときも得処を挙せず」と径山等での住持職時を取り挙げるが、本則に云う「神悟・得大安楽法」の根拠の未載を「ただ参学の生なり」と言わしめる拈提でしょうか。

 

    八

圜悟禪師は古佛なり。十方中の至尊なり。黄蘗よりのちは、圜悟のごとくなる尊宿いまだあらざるなり。佗界にもまれなるべき古佛なり。しかあれども、これをしれる人天まれなり、あはれむべき娑婆國土なり。いま圜悟古佛の説法を擧して、宗杲上座を撿點するに、師におよべる智いまだあらず、師にひとしき智いまだあらず、いかにいはんや師よりもすぐれたる智、ゆめにもいまだみざるがごとし。

圜悟克勤を黄檗希運と並び称する事例は他では見られませんが、「古仏」と称する尊宿は「先師古仏(如浄)」・「曹谿古仏(六祖慧能)」・「宏智古仏」・「趙州古仏」・「嵩山高祖古仏(菩提達磨)」それに『面授』巻にては「黄檗は古仏なり」(「正法眼蔵」三・一五六・水野・岩波文庫)と記され、いかに圜悟が評価されていたかが窺えますが、当時の宗教界では道元禅師が思う程には評価が成されていなかった事がわかります。

またこの段の拈提では宗杲を「上座」と呼び他では宗杲禅師と呼び、「圜悟禅師は古仏なり」と師と同様に尊称を以て書き分けることから、「上座」を一段下に置くと云う見方もあるようですが、「上座」は法臘20歳より49歳までの比丘、「和尚」を法臘10歳以上の智慧比丘とされますから、蔑称で以ての「宗杲上座」との呼びかけではないと思われます。

 

    九

しかあればしるべし、宗杲禪師は減師半徳の才におよばざるなり。たゞわづかに華嚴楞嚴等の文句を諳誦して傳説するのみなり。いまだ佛祖の骨髓あらず。宗杲おもはくは、大小の隱倫、わづかに依草附木の精靈にひかれて保任せるところの見解、これを佛法とおもへり。これを佛法と計せるをもて、はかりしりぬ、佛祖の大道いまだ參究せずといふことを。圜悟よりのち、さらに佗遊せず、知識をとぶらはず。みだりに大刹の主として雲水の參頭なり。のこれる語句、いまだ大法のほとりにおよばず。しかあるを、しらざるともがらおもはくは、宗杲禪師、むかしにもはぢざるとおもふ。みしれるものは、あきらめざると決定せり。つひに大法をあきらめず、いたづらに口吧々地のみなり。

ここでは再び宗杲に対する批評ですが、「減師半徳」とは師の徳を半分減ずの意で、師匠と同程度の力量で嗣法しても師匠の圜悟の評を下げるだけで、「見過於師」師を超えてこそ「方堪伝授」仏々の伝法に堪え得るとの意で、此処にも黄檗の言動と対比せられる文言です。

宗杲が考える仏法理解は、大なり小なりの隠遁者が先尼外道等が説く処の心常相滅の邪見を、仏法と勘違いしているから、仏祖の大道未だ参究はしていないと。

「圜悟よりのち、さらに他遊せず、知識をとぶらわず。妄りに大刹の主として雲水の参頭なり」

この文章、一般論では宗杲は圜悟の下で大悟(三十七歳)し、四十九歳で浙江省臨安府径山能仁寺に住持し、さらに六十八歳では浙江省慶元府阿育王山広刹寺に晋山されての事情を示唆し、更に雲水の参頭と云い放ち諸寺での住職とは認めぬものです。続けて『大慧語録』等の説法も「六寸の舌鋒」による吧々地と、親近者にとっては苦々しい言説であろう。(吧々地については『真字正法眼蔵』中・三十八則参照)

 

    十

しかあればしりぬ、洞山の微和尚、まことに後鑑あきらかにあやまらざりけりといふことを。宗杲禪師に參學せるともがらは、それすゑまでも微和尚をそねみねたむこと、いまにたえざるなり。微和尚はたゞゆるさざるのみなり。準和尚のゆるさざることは、微和尚よりもはなはだし。まみゆるごとには勘過するのみなり。しかあれども、準和尚をねたまず。而今およびこしかたのねたむともがら、いくばくの懡嫁なりとかせん

ここでは本則に挙げた洞山道微・湛堂文準を引き合いに出した拈提です。

道元禅師在宋時は『辨道話』にて「見在、大宋には臨済宗のみ天下にあまねし」(「正法眼蔵」一・一四・水野・岩波文庫)と言われるように、大慧宗杲の孫・曾孫時代であり士大夫(居士)も含めると相当数と見込まれ、その連中の一部が保身の為道微・文準両和尚を槍玉に挙げる状況を「懡嫁」つまり恥ずかしい事だと言われます。

 

    十一

おほよそ大宋國に佛祖の兒孫と自稱するおほかれども、まことを學せるすくなきゆゑに、まことををしふるすくなし。そのむね、この因縁にてもはかりしりぬべし。紹興のころ、なほかくのごとし。いまはそのころよりもおとれり、たとふるにもおよばず。いまは佛祖の大道なにとあるべしとだにも知らざるともがら、雲水の主人となれり。

ここも在宋留学時の状況を説明するもので、「紹興のころ」は宗杲四十四歳から七十四歳までの時期で、その間五十三歳から六十八歳の十五年間は湖南省衡州・広東省梅州に流罪されるという波乱万丈な人生でしたが、「今はその頃よりも」と提唱時の寛元二年1244年を以て「今」とするのか、在宋時の1225年頃とするのか判断しかねますが、宗杲の云う神悟・大安楽法をピックアップし、日本達磨宗・大日能忍の無師独悟を承認した仏照徳光、さらに徳光の弟子である浙翁如琰(1151―1225)・無際了派(1149―1229)それぞれに参禅した道元禅師からは、ここでの「今」は在宋時の前出両僧ならびに波著寺に住する懐鑑をも見据えた構文だと考察されます。

 

    十二

しるべし、佛々祖々、西天東土、嗣書正傳は、青原山下これ正傳なり。青原山下よりのち、洞山おのづから正傳せり。自餘の十方、かつてしらざるところなり。しるものはみなこれ洞山の兒孫なり、雲水に聲名をほどこす。宗杲禪師なほ生前に自證自悟の言句をしらず、いはんや自餘の公案を參徹せんや。いはんや宗杲禪老よりも晩進、たれか自證の言をしらん。

しかあればすなはち、佛祖道の道自道佗、かならず佛祖の身心あり、佛祖の眼睛あり。佛祖の骨髓なるがゆゑに、庸者の得皮にあらず。

『自照三昧』巻の締め括りの結語は道元禅師自身の法脈の正統性を強調するもので、六祖からの直系である青原・石頭・薬山と連綿する洞山・曹山に続く曹洞法脈を正禅と宣揚する論法は、『仏道』巻で言う「家風有別者、不是仏法也」(「正法眼蔵」三・二一・水野・岩波文庫)の言明から類推するに道元禅師の本意ではないようにも思われるが、このように説かざる得ない山内の閉塞感を払拭する意味合いをも含意する拈提であると読み解き擱筆とする。

 

    

 

正法眼蔵大修行

正法眼蔵 第六十八 大修行

一  

洪州百丈山大智禪師〈嗣馬祖、諱懷海〉、凡三次、有一老人、常隨衆聽法。大衆若退、老人亦退。忽一日不退。師遂問、面前立者、復是何人。老人對云、某甲是非人也、於過去迦葉佛時、曾住此山。因學人問、大修行底人、還落因果也無。某甲答佗云、不落因果。後五百生、墮野狐身。今請和尚代一轉語、貴脱野狐身。遂問云、大修行底人、還落因果也無 師云、不昧因果。老人於言下大悟。作禮云、某甲已脱野狐身、住在山後。敢告和尚、乞依亡僧事例。師令維那白槌告衆云、食後送亡僧。大衆言議、一衆皆安、涅槃堂又無病人、何故如是。食後只見、師領衆至山後岩下、以杖指出一死野狐。乃依法火葬。師至晩上堂、擧前因縁。黄蘗便問、古人錯對一轉語、墮五百生野狐身。轉々不錯、合作箇什麼。師云、近前來、與儞道。蘗遂近前、與師一掌。師拍手笑云、將爲胡鬚赤、更有赤鬚胡。

而今現成の公案、これ大修行なり。老人道のごときは、過去迦葉佛のとき、洪州百丈山あり。現在釋迦牟尼佛のとき、洪州百丈山あり。これ現成の一轉語なり。かくのごとくなりといへども、過去迦葉佛時の百丈山と、現在釋迦牟尼佛時の百丈山と、一にあらず異にあらず、前三々にあらず後三々にあらず。過去の百丈山きたりて而今の百丈山となれるにあらず、いまの百丈山さきだちて迦葉佛時の百丈山にあらざれども、曾住此山の公案あり。

この巻は因果論を説く為に「百丈野狐身」話頭を公案に据えての提唱ですが、この本則は十二巻本『深信因果』巻にも取り挙げられ、昔日来に渉り道元禅師因果変貌論とされた巻です。また『永平広録』にも四回(六十二則・仁治二年、九十四則・仁治三年、二百五則・寛元四年、五百十則・建長四年)と興聖寺時代から最晩年に渉り提示し続けた古則です。

而今現成の公案、これ大修行なり。老人道の如きは、過去迦葉仏の時、洪州百丈山あり。現在釈迦牟尼仏の時、洪州百丈山あり」

この巻の要旨は「而今現成の公案、これ大修行なり」の一語で言い尽くされる巻頭言です。

「現成の公案」とは現実の有り様を公案の名で言うもので、「公」には平等の意・「案」には守分の意が有りますから、現前の事象・事物が「大修行」なりと提言されます。

普段の我々の認識では迦葉仏時の過去と二千五百年前の釈尊の時代、現代の平成の時と区分して物事を思考しがちですが、道元禅師が説く「過去迦葉仏洪州百丈山、現在釈迦牟尼仏洪州百丈山」は現在から過去を見るのではなく、通時的視野からの洞察を言われるものです。

「これ現成の一転語なり。かくの如くなりと云えども、過去迦葉仏時の百丈山と、現在釈迦牟尼仏時の百丈山と、一にあらず異にあらず、前三々にあらず後三々にあらず」

「一転語」とは一語で以て翻身させる語義の事ですが、先に云う「過去迦葉仏洪州百丈山、現在釈迦牟尼仏百丈山」を同義語と見るか異義語と見るかの違いです。

また同じ百丈山でも全く同じとは云えず、また違うとも云えない喩えを、「前三々後三々にあらず」と決まり切ったものは無いとの拈語です。(前三々後三々については『真字正法眼蔵』中・二十七則参照)

「過去の百丈山来たりて而今の百丈山となれるにあらず、いまの百丈山さきだちて迦葉仏時の百丈山にあらざれども、曾住此山の公案あり」

文意は「因円果満」の理(因は果に、果は因に対立しない)を時間軸を例にして言うもので、「曾住此山」と言う絶対現成を「公案」に仕立てるものです。

爲學人道、それ今百丈の爲老人道のごとし。因學人問、それ今老人問のごとし。擧一不得擧二、放過一著、落在第二なり

「為学人道」・「因学人問」の設定は先程から云う、過去現在の洪州百丈山、一に非ず異に非ずを再三に渉り過去と現在の通底を言うものです。

「挙一不得挙二」は一ツを挙して二を挙するを得ず。「放過一著、落在第二なり」は一著を放過して第二に落在す。と読み、要は過去の話頭として見るのではなく、現今の事象として取り扱えば一なる同次元になり二はない事を、このような拈提になります。

 

過去學人問、過去百丈山の大修行底人、還落因果也無。

この問、まことに卒爾に容易會すべからず。そのゆゑは、後漢永平のなかに佛法東漸よりのち、梁代普通のなか、祖師西來ののち、はじめて老野狐の道より過去の學人問をきく。これよりさきはいまだあらざるところなり。しかあれば、まれにきくといふべし。

ここは文意に解し、「後漢永平」は明帝五十八年から七十五年のなかの永平十年(67)に摩騰伽、竺法蘭により仏法伝来を云い、「梁代普通」は梁(502―557)の普通(520―527)元年(520)に菩提達磨が渡海した事を指し、それ以前にはこのような「還落因果也無」の問いは無く、軽々に理解しては行けないとの拈提の緒言です。

大修行を摸得するに、これ大因果なり。この因果かならず圓因滿果なるがゆゑに、いまだかつて落不落の論あらず、昧不昧の道あらず。不落因果もしあやまりならば、不昧因果もあやまりなるべし。將錯就錯すといへども、墮野狐身あり、脱野狐身あり。不落因果たとひ迦葉佛時にはあやまりなりとも、釋迦佛時はあやまりにあらざる道理もあり。不昧因果たとひ現在釋迦佛のときは脱野狐身すとも、迦葉佛時しかあらざる道理も現成すべきなり。

これからが拈提の始まりで、「大修行を摸得」大修行を模索するに「これ大因果なり」とは因果の歴然性を云い、因果律は「円因満果」なる完全態である為、落不落・昧不昧の論述には及ばない。

「不落因果もし錯まりならば、不昧因果も錯まりなるべし。将錯就錯すと云えども、墮野狐身あり、脱野狐身あり」

これらは大因果の中での醪(もろみ)の泡状を云うもので、宇宙的真実底の渦中では、野狐に落ちる事も野狐から逃れる時も時事あるとの言底です。

「将錯就錯」は錯まりを以て錯まりに就くの意で、意訳すれば「すでに間違った事項を、状況に応じ上手に処理すること」と解し、物事は常に動的平衡性を維持し続けている為、完璧には云い尽くせませんから、常に威儀を行持し続ける状態を、道元禅師は「将錯就錯」の語で以て説明されるものです。

「不落因果たとい迦葉仏時には錯まりなりとも、釈迦仏時は錯まりにあらざる道理もあり。不昧因果たとい現在釈迦仏の時は脱野狐身すとも、迦葉仏時しかあらざる道理も現成すべきなり。」

先述からの繰り返しの言辞で、過去迦葉→不昧因果→錯≒現在釈迦→不昧因果→不錯の等式が成り立つわけです。『諸悪莫作』巻(延応二(1240)年八月十五日興聖寺示衆)にて説く「諸悪は此界の悪と他界の悪と同不同あり、天上の悪と人間の悪と同不同あり。善悪は時なり、時は善悪にあらず(「正法眼蔵」二・二三一・水野・岩波文庫)と通底される語義のようです。

 

    三

老人道の後五百生墮野狐身は、作麼生是墮野狐身。さきより野狐ありて先百丈をまねきおとさしむるにあらず。先百丈もとより野狐なるべからず。先百丈の精魂いでて野狐皮袋に撞入すといふは外道なり。野狐きたりて先百丈を呑卻すべからず。もし先百丈さらに野狐となるといはば、まづ脱先百丈身あるべし、のちに墮野狐身すべきなり。以百丈山換野狐身なるべからず。因果のいかでかしかあらん。

此の処では本則の「後五百生堕野狐身」と言う道元禅師の問いの設定に見えますが、先段からの拈語で察せられるように「堕」に限定された野狐身とも「換」と極言される野狐身とも、いづれもが「作麼生」であると認得する必要がありますが、その前提を踏まえての「先百丈」と「野狐」との関係性を外道観的考察から説かれ、因果の歴然性が説かれます。

因果の本有にあらず、始起にあらず、因果のいたづらなるありて人をまつことなし。たとひ不落因果の祗對たとひあやまれりとも、かならず野狐身に墮すべからず。學人の問著を錯對する業因によりて野狐身に墮すること必然ならば、近來ある臨濟徳山、およびかの門人等、いく千萬枚の野狐にか墮在せん。そのほか二三百年來の杜撰長老等、そこばくの野狐ならん。しかあれども、墮野狐せりときこえず。おほからば見聞にもあまるべきなり。あやまらずもあるらんといふつべしといへども、不落因果よりもはなはだしき胡亂答話のみおほし。佛法の邊におくべからざるもおほきなり。參學眼ありてしるべきなり、未具眼はわきまふべからず。

「因果」についての説明では、「本有」は本来有の略語で棒の如くに存するもの。「始起」は今から因果が始まると云った概念ではなく、また「因果」が人格性を備えて人間の面前に立ち、これより「因」の開始です。と云ったものが因果ではないと説かれます。

「たとい不落因果の祗対たとい錯まれりとも、必ず野狐身に墮すべからず」

人は「不落」の錯言で以て野狐身(悪)にと結びつける習癖を持ちますが、道元禅師が説く「不落因果」は「不落という状態での因果律」を説かんとするもので、悪言→野狐→堕落と云った理屈ではない事に留意する必要があります。

「学人の問著を錯対する業因によりて野狐身に墮すること必然ならば、近来ある臨済徳山、及びかの門人等、いく千万枚の野狐にか墮在せん。そのほか二三百年来の杜撰長老等、そこばくの野狐ならん」

ここは文言に適う文句ですが、臨済・徳山に対する不及の言は『即身是仏』巻(延応元(1239)年)・『葛藤』巻(寛元元(1243)年)・『仏道』巻(寛元元(1243)年九月十六日)・『密語』巻(寛元元(1243)九月二十日)・『無情説法』巻(寛元元(1243)年十月二日)と随処で酷評されますが、仏道・密語・無情説法の七十五巻配列は四十四・四十五・四十六と連関し、二週間の短期間での拈提と共通項の文体です。

因みに「学人問著錯対」の例としては『大悟』巻にて臨済義玄が説く「一人不悟者難得」に対し、「不悟者難得のみを知りて悟者難得を知らずは未足為足なり、参究せると云い難し」(「正法眼蔵」一・二一一・水野・岩波文庫)の拈提が念頭にあるものと思われます。

「しか有れども、墮野狐せりと聞こえず。多からば見聞にも余るべきなり。錯らずもあるらんと云うつべしと云えども、不落因果よりも甚だしき胡乱答話のみ多し。仏法の辺に置くべからざるも多きなり。参学眼ありて知るべきなり、未具眼はわきまうべからず」

此の処も前と同様文体で「胡乱」(うろん)とは「かりそめ・でたらめ・いい加減の意で、中国唐代の俗語」(『禅学大辞典』大修館書店)

 

しかあればしりぬ、あしく祗對するによりて野狐身となり、よく祗對するによりて野狐身とならずといふべからず。この因縁のなかに、脱野狐身ののち、いかなりといはず。さだめて破袋につゝめる眞珠あるべきなり。

これまでの繰言ですが、悪=畜生・善=人間とする視点では主客の分別が存するもので、仏法分別論では一つの固定した概念は設定しない為、野狐と真珠が同等視されるわけです。

 

    四

しかあるに、すべていまだ佛法を見聞せざるともがらいはく、野狐を脱しをはりぬれば、本覺の性海に歸するなり。迷妄によりてしばらく野狐に墮生すといへども、大悟すれば、野狐身はすでに本性に歸するなり。これは外道の本我にかへるといふ義なり、さらに佛法にあらず。もし野狐は本性にあらず、野狐に本覺なしといふは佛法にあらず。大悟すれば野狐身ははなれぬ、すてつるといはば、野狐の大悟にあらず、閑野狐あるべし。しかいふべからざるなり。

難解な文体ではないが、同様な文言が『辨道話』第十問答に於いても「生死を嘆く事なかれ、心性の常住なる理を知る也。この心性は滅する事なし、この身終わる時性海に入る。いたづらに閑坐して一生を過ごさん」(「正法眼蔵」一・三二・水野・岩波文庫)との見解を「全く仏法にあらず、先尼外道が見なり」と寛喜三(1231)年時点に於いても同様な提唱です。

今百丈の一轉語によりて、先百丈五百生の野狐たちまちに脱野狐すといふ、この道理あきらむべし。もし傍觀の一轉語すれば傍觀脱野狐身すといはば、從來のあひだ、山河大地いく一轉語となく、おほくの一轉語しきりなるべし。しかあれども、從來いまだ脱野狐身せず。いまの百丈の一轉語に脱野狐身す。これ疑殺古先なり。山河大地いまだ一轉語せずといはば、今百丈つひに開口のところなからん。

ここでは「傍観の一転語」がキーワードで、傍観は第三者つまり先百丈でも今百丈でもない第三者を「山河大地」に置き換えての拈提で、新しい拈提の展開です。『御抄』(「註解全書」八・四七五)では「山河大地の姿、是則一転語也」と読み込まれています。

「疑殺古先」の殺は、疑を強調する語で殺仏等と同義で、古先(先輩)たちも疑う事はなはだしと脱落―善悪と云うシェーマ(図式)を打論の拈語です。

 

    五

また往々の古徳、おほく不落不昧の道おなじく道是なるといふを競頭道とせり。しかあれども、いまだ不落不昧の語脈に體達せず。かるがゆゑに、墮野狐身の皮肉骨髓を參ぜず、脱野狐身の皮肉骨髓を參ぜず。頭正あらざれば尾正いまだし。

この処も今まで同様当時(宋留学時代)の世相を語るもので、「不落」が悪で「不昧」が善だとの各人が競って論じていたが、言葉尻だけの議論で、「大修行」に於いての不落不昧の語髄意を解していないから、「頭正尾正」の決めようがないとの意です。

老人道の後五百生墮野狐身、なにかこれ能墮、なにかこれ所墮なる。正當墮野狐身のとき、從來の盡界、いまいかなる形段かある。不落因果の語脈、なにとしてか五百枚なる。いま山後岩下の一條皮、那裏得來なりとかせん。不落因果の道は墮野狐身なり、不昧因果の聞は脱野狐身なり。墮脱ありといへども、なほこれ野狐の因果なり。

再び「後五百生野狐身」についての拈提で、「堕」についての考察で、「能堕」は主観的堕ですから、自から堕ちるの意で、「所堕」は客観的堕、他から堕とされると解され、「堕野狐身」の本体・本性は何かを参究してみよとの拈語です。

「正当堕野狐身の時、従来の尽界、今いかなる形段かある」

堕野狐身そのものが尽十方界と云う形である。との意ですが、正当脱野狐身の時、従来の尽界と置き換えても構わなく、堕野狐は全野狐・脱野狐も全野狐と云い換えらます。さらに「

後五百生堕野狐身」の原因を成した「不落因果」という因果律を無視したはずなのに、何故「五百枚(生)」の生まれ変わりが有ったのかとの提言です。

また「山の後方の岩の下の野狐の死骸は、那裏得末どこから来たか」との本則に対する拈語ですが、強豪和尚の解釈は「什麼物恁麼来と同程の言句で死野狐精が全皮なる道理」(「註解全書」八・四七八)との註解です。つまりは限定的な思惟を嫌う見方です。

「不落因果の道は堕野狐身なり、不昧因果の聞は脱野狐身なり。堕脱ありと云えども、なおこれ野狐の因果なり」

ここは第三段で説く「大修行を摸得するに、これ大因果なり。この因果必ず円因満果なるがゆえに、未だ曾て落不落の論あらず、昧不昧の道あらず」に通ずるものです。

 

    六

しかあるに、古來いはく、不落因果は撥無因果に相似の道なるがゆゑに墜墮すといふ。この道、その宗旨なし、くらき人のいふところなり。たとひ先百丈ちなみありて不落因果と道取すとも、大修行の瞞佗不得なるあり、撥無因果なるべからず。またいはく、不昧因果は、因果にくらからずといふは、大修行は超脱の因果なるがゆゑに脱野狐身すといふ。まことにこれ八九成の參學眼なり。しかありといへども、迦葉佛時、曾住此山。釋迦佛時、今住此山。曾身今身、日面月面。遮野狐精、現野狐精するなり。

「不落」と「撥無」は同じような語である為に両方とも錯の刻印で以て処理されるが、不落の現成・撥無の見成の宗旨が無理解の禅僧等を「暗き人」と拈語されます。

「たとい先百丈ちなみ(因)有りて不落因果と道取すとも、大修行の瞞佗不得なる有り、撥無因果なるべからず」

たとえば迦葉仏時の百丈がついでに不落因果と云ったとしても、大修行(大因果)の立場に於いては他(不落の因果)をだます事はなく、撥無因果と云う因果はないとする事とは違うとの意です。

「不昧因果は、因果にくらからずと云うは、大修行は超脱の因果なるが故に脱野狐身すと云う。まことにこれ八九成の参学眼なり」

次に不落因果に続いて「不昧因果」の説明で、前項と同様大修行(大因果)の超脱ですから「脱野狐」と云う論述は、ともに「大修行」という宇宙から地球を俯瞰した状況では、「不落」・「撥無」・「不昧」・「堕脱」と云った事柄は「大因果」に収斂されるとの意で、このことが「八九成の参学眼」と言う真実に近い表現をされたものです。真実は「什麼」という現成語でしか表明できない為に。

「しか有りと云えども、迦葉仏時、曾住此山。釈迦仏時、今住此山。曾身今身、日面月面。遮野狐精、現野狐精するなり」

一応の結論は過去と現在の各々の対比項目を述べて「遮野狐精、現野狐精するなり」と時処を超脱した、大修行・大因果の在り方を説く拈提です。

 

    七

野狐いかにしてか五百生の生をしらん。もし野狐の知をもちゐて五百生をしるといはば、野狐の知、いまだ一生の事を盡知せず、一生いまだ野狐皮に撞入するにあらず。野狐はかならず五百生の墮を知取する公案現成するなり。一生の生を盡知せず、しることあり、しらざることあり。もし身知ともに生滅せずは、五百生を算數すべからず。算數することあたはずは、五百生の言、それ虚説なるべし。もし野狐の知にあらざる知をもちゐてしるといはば、野狐のしるにあらず。たれ人か野狐のためにこれを代知せん。知不知の通路すべてなくは、

墮野狐身といふべからず。墮野狐身せずは脱野狐身あるべからず、墮脱ともになくは先百丈あるべからず、先百丈なくは今百丈あるべからず。みだりにゆるすべからず。大 修 行

かくのごとく參詳すべきなり。この宗旨を擧拈して、梁陳隋唐宋のあひだに、まゝにきこゆる謬説、ともに勘破すべきなり。

この段、難解な語はなく通常の読みで問題はないが、普段の我々の考えでは「百丈野狐身」の話は物語として捉え、野狐に算術の知識があるかなどとは思考の片隅にも有りませんが、道元禅師のような徹頭徹尾の参詳には落頭する思いで更に「謬説勘破すべし」と、眼前にある課題を蔑(ないがし)ろにするなとの重言です。

 

    八

老非人また今百丈に告していはく、乞依亡僧事例。

この道しかあるべからず。百丈よりこのかた、そこばくの善知識、この道を疑著せず、おどろかず。その宗趣は、死野狐いかにしてか亡僧ならん。得戒なし、夏臘なし、威儀なし、僧宗なし。かくのごとくなる物類、みだりに亡僧の事例に依行せば、未出家の何人死、ともに亡僧の例に準ずべきならん。死優婆塞、死優婆夷、もし請ずることあらば、死野狐のごとく亡僧の事例に依準すべし。依例をもとむるに、あらず、きかず。佛道にその事例を正傳せず、おこなはんとおもふとも、かなふべからず。いま百丈の依法火葬すといふ、これあきらかならず。おそらくはあやまりなり。しるべし、亡僧の事例は、入涅槃堂の功夫より、到菩提園の辦道におよぶまで、みな事例ありてみだりならず。岩下の死野狐、大 修 行

たとひ先百丈の自稱すとも、いかでか大僧の行李あらん、佛祖の骨髓あらん。たれか先百丈なることを證據する。いたづらに野狐精の變怪をまことなりとして、佛祖の法儀を輕慢すべからず。

佛祖の兒孫としては、佛祖の法儀をおもくすべきなり。百丈のごとく、請ずるにまかすることなかれ。一事一法もあひがたきなり。世俗にひかれ、人情にひかれざるべし。この日本國のごとくは、佛儀祖儀あひがたく、きゝがたかりしなり。而今まれにもきくことあり、みることあらば、ふかく髻珠よりもおもく崇重すべきなり。無福のともがら、尊崇の信心あつからず、あはれむべし。それ事の輕重を、かつていまだしらざるによりてなり。五百歳の智なし、一千年の智なきによりてなり。

しかありといふとも、自己をはげますべし、佗己をすゝむべし。一禮拝なりとも、一端坐なりとも、佛祖より正傳することあらば、ふかくあひがたきにあふ大慶快をなすべし、大福徳を懽喜すべし。このこゝろなからんともがら、千佛の出世にあふとも、一功徳あるべからず、一得益あるべからず。いたづらに附佛法の外道なるべし。くちに佛法をまなぶに相似なりとも、くちに佛法をとくに證實あるべからず。

しかあればすなはち、たとひ國王大臣なりとも、たとひ梵天釋天なりとも、未作僧のともがら、きたりて亡僧の事例を請ぜんに、さらに聽許することなかれ。出家受戒し、大僧となりてきたるべしと答すべし。三界の業報を愛惜して、三寶の尊位を願求せざらんともがら、たとひ千枚の死皮袋を拈來して亡僧の事例をけがしやぶるとも、さらにこれ、をかしのはなはだしきなり、功徳となるべからず。もし佛法の功徳を結良縁せんとおもはば、すみやかに佛法によりて出家受戒し、大僧となるべし。

「亡僧事例」に対する一千余文字による拈語ですが、繰り返し死骸野狐と先百丈との因果律を認めずの言辞で、なぜ百丈懐海の時代から四百年もの間、野狐を依法火葬とした百丈の「錯」を説く箇所です。我々の常考では迦葉仏時代の百丈㈠→不落因果の錯言㈡→五百生野狐㈢→﹋現在の百丈㈣→不昧因果の一転語㈤→脱野狐㈥→乞依亡僧事例㈦→依法火葬㈧との論述に物語としての矛盾は無いように見るが、道元禅師の視覚は現(見)成としての公案である為に、矢印の如くの連続性は認められず、各事象に於いて「大修行なる大因果」を前提にした拈提語です。

 

    九

今百丈、至晩上堂、擧前因縁。

この擧底の道理、もとも未審なり。作麼生擧ならん。老人すでに五百生來のをはり、脱從來身といふがごとし。いまいふ五百生、そのかず人間のごとく算取すべきか、野狐道のごと

く算取すべきか。佛道のごとく算數するか。いはんや老野狐の眼睛、いかでか百丈を覰見することあらん。野狐に覰見せらるゝは野狐精なるべし。百丈に覰見せらるゝは佛祖なり。このゆゑに、

枯木禪師法成和尚、頌曰、

百丈親曾見野狐  爲渠參請太心麁

而今敢問諸參學  吐得狐涎盡也無

しかあれば、野狐は百丈親曾眼睛なり。吐得狐涎たとひ半分なりとも、出廣長舌、代一轉語なり。正當恁麼時、脱野狐身、脱百丈身、脱老非人身、脱盡界身なり。

「前の因縁」とは依法火葬に到った出来事ですが、この至晩上堂自体の意味が「未審」はっきりせず、五百の算術そのものが人間界、畜生界、仏道界では立場が異質な為に整合性が無いとの拈語です。

「いわんや老野狐の眼睛、いかでか百丈を覰見する事あらん。野狐に覰見せらるるは野狐精なるべし。百丈に覰見せらるるは仏祖なり」

ここでも前項同様に野狐の眼玉では百丈を見ることは出来ず、野狐に対しては野狐精のみ、百丈の同等同時は仏祖であると、それぞれの世界の超出は不可との見です。

次に枯木禅師法成和尚(1071―1128)による頌を紹介されますが、出典は『禅宗頌古聯珠通集』巻一〇(「続蔵」六五・五三一・中)ですが、五十九人もの善知識からの選択頌です。他には圜悟克勤・大慧宗杲・宏智正覚等も列記されます。

「しか有れば、野狐は百丈親曾眼睛なり。吐得狐涎たとい半分なりとも、出広長舌、代一転語なり。正当恁麼時、脱野狐身、脱百丈身、脱老非人身、脱尽界身なり」

枯木和尚の「百丈親曾見野狐 為渠参請太心麁 而今敢問諸参学(原文は禅客) 吐得狐涎尽也無」に対する道元禅師の拈語は、「野狐は百丈親曾眼睛」と野狐は百丈の曾ての親しい眼睛であると、野狐と百丈との同体同性が説かれます。

「吐得狐涎たとい半分なりとも、出広長舌、代一転語なり」

「狐涎」とは狐のよだれですから、自然の生理現象として吐くものですから、「吐得狐涎」は尽十方界の真実態を意味し、半分の涎量であっても、「出広長舌」お釈迦さまの説法を超えるものであり、「代一転語」一転語に代わるものである。

この段の拈提の結論「正当恁麼」の時は「脱の野狐身」・「脱の百丈身」・「脱の老非人身」・「脱の尽界身」と、大修行・大因果に於いては各々の現成としての公案が解脱の状態であるとの見解です。

 

    十

黄蘗便問、古人錯對一轉語、墮五百生野狐身。轉々不錯、合作箇什麼。

いまこの問、これ佛祖道現成なり。南嶽下の尊宿のなかに黄蘗のごとくなるは、さきにもいまだあらず、のちにもなし。しかあれども老人もいまだいはず、錯對學人と。百丈もいまだいはず、錯對せりけると。なにとしてかいま黄蘗みだりにいふ、古人錯對一轉語と。もし錯によれりといふならんといはば、黄蘗いまだ百丈の大意をえたるにあらず。佛祖道の錯對不錯對は黄蘗いまだ參究せざるがごとし。この一段の因縁に、先百丈も錯對といはず、今百丈も錯對といはずと參學すべきなり。

本則の話題が変わり百丈懐海(749―814)の弟子だる黄檗希運(―856)の登場です。百丈の弟子には他に潙山霊祐(771―853)・大慈寰中(780―862)・「長慶大安(793―883)等々の名が見られます。

この黄檗が今百丈に問うた「古人の錯った一転語で五百生野狐身に堕した。もし錯まらなかったら、どうなっていたか」の問いを、「これ仏道現成なり」さらに「南嶽下の尊宿の中に黄檗の如くなるは、先にも後にもなし」と賛辞を送られますが、「しかあれども」と間髪置かず「黄檗みだりに云う」「黄檗未だ百丈の大意を得たるにあらず」と手の平を返すの言句で、「この一段の因縁に先百丈も錯対と言わずと参学すべきなり」と黄檗に注意を与える言句の真意は如何なるものでしょうか。(『仏性』・『行持上』・『面授』各巻黄檗章参照)

 

    十一

しかありといへども、野狐皮五百枚、あつさ三寸なるをもて、曾住此山し、爲學人道するなり。野狐皮に脱落の尖毛あるによりて、今百丈一枚の臭皮袋あり。度量するに、半野狐皮の脱來なり。轉々不錯の墮脱あり、轉々代語の因果あり、歴然の大修行なり。

いま黄蘗きたりて、轉々不錯、合作箇什麼と問著せんに、いふべし、也墮作野狐身と。黄蘗もしなにとしてか恁麼なるといはば、さらにいふべし、這野狐精。かくのごとくなりとも、錯不錯にあらず。黄蘗の問を、問得是なりとゆるすことなかれ。

前には黄檗による「古人錯対」の当否を問われましたが、この段に至り「錯」はなく「野狐皮一枚の臭皮袋」が因果歴然とした大修行であると。その途路には堕の状態も脱の時節もあると。

さらに「転々不錯、合作箇什麼」の問いには、「也堕作野狐身」また(也)堕して野狐身とな(作)ると。その時黄檗が何故と聞いたら、「この野狐精」と答話するよう百丈に入れ智慧し、結局黄檗が云う「錯不錯」の問い自体が適合しないとの拈語です。

 

また黄蘗、合作箇什麼と問著せんとき、摸索得面皮也未といふべし。また儞脱野狐身也未といふべし。また儞答佗學人、不落因果也未といふべし。

しかあれども、百丈道の近前來、與儞道、すでに合作箇這箇の道處あり。

黄蘗近前す、亡前失後なり。

與百丈一掌する、そこばくの野狐變なり。

百丈、拍手笑云、將爲胡鬚赤、更有赤鬚胡。

道取、いまだ十成の志気にあらず、わづかに八九成なり。たとひ八九成をゆるすとも、いまだ八九成あらず。十成をゆるすとも、八九成なきものなり。しかあれどもいふべし、

百丈道處通方、雖然未出野狐窟。黄蘗脚跟點地、雖然猶滯螗螂徑。與掌拍手、一有二無。赤鬚胡、胡鬚赤。

ここで言う「摸索得面皮也未」・「你脱野狐身也未」・「你答他学人、不落因果也未」の喩えは、前段最後部で説く「黄檗の問を、問得是なりと許すことなかれ」つまり黄檗が問うた「転々不錯、合作箇什麼」に対する答話を一つに限定させない為に、「箇の什麼をか作す」に対し「面の皮をさぐってみたか」「你自身は野狐を脱したか」「你(黄檗)は老非人に不落因果と答えるか」等々と「合作箇什麼」の什麼に対し列挙するものです。

「しか有れども、百丈道の近前来、与你道、すでに合作箇這箇の道処あり。黄蘗近前す、亡前失後なり。与百丈一掌する、そこばくの野狐変なり」

百丈(師)が黄檗に云った「近前来、与你道」を褒めるもので「道処」と言い、黄檗の「近前」を「亡前失後」と前後の取り違えた行為とし、逆に「与百丈一掌」した行為は「野狐変」つまり野狐を直接表現させたものとして評価する拈提です。

最後に百丈が笑って云った「将為胡鬚赤、更有赤鬚胡」の意は、「胡人(北方民族)の鬚は赤いと思ったら、更に赤い鬚の胡人が有る」上には上があるとの喩えで、百丈が黄檗印可した語です。

この百丈の語に対し「十成の志気にあらず、わづかに八九成なり」と、「わづかに」の語を使用されますが、十成と言う完全無欠に喩えると限定的になる為に、「たとえ八九成を許すとも未だ八九成あらず」「十成を許すとも八九成なきものなり」と融通無碍的な言い方になります。

そこで結論として参語とも言うべき拈語です。

㊀百丈道処通方・百丈の道う処は通じ、

②雖然未出野狐窟・然りと云えども未だ野狐窟を出でず。

黄檗脚跟点地・黄檗の脚は地に点じ、

④雖然猶滞螗螂径・然りと云えども猶螗螂(かまきり)の径に滞る。

⑤与掌拍手、一有二無・掌(黄檗)と拍手(百丈)、一は有二は無。

⑥赤鬚胡、胡鬚赤・赤鬚胡(百丈)、胡鬚赤(黄檗)。

説く要旨は百丈・黄檗をそれぞれを道元禅師独自な表現で賛辞した句で、「不落因果・不昧因果」を「赤鬚胡・胡鬚赤」に言い換えての提唱で、両方ともども「大修行のなかの大因果」で現成行持されているとの言説です。

 

 

 

正法眼蔵転法輪

正法眼蔵 第六十七 転法輪

    一

先師天童古佛上堂擧、世尊道、一人發眞歸源、十方虚空、悉皆消殞。

師拈云、既是世尊所説、未免盡作奇特商量。天童則不然、一人發眞歸源、乞兒打破飯椀。

標題の「転法輪」は本則の『大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経』略して『首楞厳経』の偽経に対しての道元禅師視点による、真箇の仏経観を「転法輪」の言辞で説くものです。

七十五巻本配列では前巻『三昧王三昧』巻で説く「 釈迦牟尼仏菩提樹下に跏趺坐しましまして、五十小劫を経歴し、六十劫を経歴し、無量劫を経歴しまします。あるいは三七日結跏趺坐、あるいは時間の跏坐、これ転妙法輪なり。これ一代の仏化なり、さらに虧欠せず。これすなはち黄巻朱軸なり」を承けての『転法輪』の巻と考えられ、七十五巻の連続性が認められると思われますが、奥書による示衆年月日では寛元二(1244)年二月二十七日「転法輪」の直近の示衆年月日は同年二月二十四日提唱の「三十七品菩提分法」ですが、七十五巻配列は道元禅師の前年に自身が拾勒されたものとすると、『三昧王三昧』巻と『転法輪』巻との間には二週間程の時差があり、先程云う眼蔵の連続性は後付けとも考えられる事から、寛元四(1246)年九月の『出家』巻までの提唱では体系的な目途はされていなかったと思われます。

本則は『如浄語録』下巻からの引用文で、「一人発真帰源、十方虚空、悉皆消殞」の経文は『首楞厳経』九「仏告阿難、及諸大衆、汝等当知、有漏世界十二類生、本覚妙明覚円心体、与十方仏無二無別―中略―則此十方微塵国土非無漏者、皆是迷頑妄想安立―中略―汝等一人発心帰元、此十方空、皆悉銷殞」(仏、阿難及び諸の大衆に告げ給わく、汝等当に知るべし、有漏の世界の十二類の生、本覚妙明覚円の心体は、十方の仏と無二無別なりー中略―則ち此の十方微塵の国土の無漏に非ざる者は、皆是れ迷頑妄想の安立なりー中略―汝等一人真を発して元に帰すれば、此の十方の空は、皆悉く銷殞す)

読みは先師天童古仏(如浄和尚)上堂にて挙す、世尊言く、一人の発真帰源は十方虚空なり悉皆消殞す。師(如浄)拈じて云う、既に是れは世尊の説く所、未だ尽く奇特商量を作すこと免れず。天童(如浄)は則ち然らず、一人の発真帰源は、乞児(乞食)の飯椀(応量器)を打破す。と素読されますが、文意は世尊の説く「一人発真帰源、十方虚空、悉皆消殞」に対し如浄は、世尊の所説ではあるけれども未だ説き尽くされていなく、一人発真帰源は乞食僧が応量器を打ち破る事。と「悉皆消殞」に対し日常生活の具体例での商量に如浄の仏法会が見られます。

 

    二

五祖山法演和尚道、一人發眞歸源、十方虚空、築著磕著。

佛性法泰和尚道、一人發眞歸源、十方虚空、只是十方虚空。

夾山圜悟禪師克勤和尚云、一人發眞歸源、十方虚空、錦上添花。

大佛道、一人發眞歸源、十方虚空、發眞歸源。

この段では五祖法演(―1104)・圜悟克勤(1063―1135)・仏性法泰(不詳)それぞれの「一人発真帰源」に対する拈語を紹介し、最後に道元禅師自身による拈語ですが、取り挙げる人物は臨済宗楊岐派と云われる法脈の師弟関係に当たる人選です。法演和尚は「

悉皆銷殞」に対し「築著磕著」と法性が充ち満ちていると拈語し、孫弟子の法泰和尚は「只是十方虚空」とそのものを云い、克勤和尚は「錦上添花」と郷里の特産物(蜀錦)を喩えにし、表現の帰源する処は「十方虚空」をそれぞれの云い様で表明したまでです。

最後に道元禅師の拈語は「「一人発真帰源」→「十方虚空」→「発真帰源」と円環帰結の同時同体同性同等を主張される拈語です。

因みにこの提唱は『如浄語録』を元に三人の和尚による同則拈提として取り挙げていますが、法演・法泰は共に『嘉泰普灯録』二十六・拈古からの引用、また克勤の拈語は『圜悟録』八・五月旦日上堂語を底本としますが、執筆当時どのように各々の禅籍渉猟をされたのでしょうか。現在ではパソコン検索機能を使い即座に検出可能ですが、侍者和尚であった懐弉が検索作業の助力をされていたのでしょうか。さらに云うと『三十七品菩提分法』巻と『転法輪』巻との間には「三日」しか期日がないこと、資料収集等に要する日時にはとの疑問が付き纏います。

いま擧するところの一人發眞歸源、十方虚空、悉皆消殞は、首楞嚴經のなかの道なり。この句、かつて數位の佛祖おなじく擧しきたれり。いまよりこの句、まことに佛祖骨髓なり、佛祖眼睛なり。しかいふこゝろは、首楞嚴經一部拾軸、あるいはこれを僞經といふ、あるいは僞經にあらずといふ。兩説すでに往々よりいまにいたれり。舊訳あり、新訳ありといへども、疑著するところ、神龍年中の訳をうたがふなり。しかあれども、いますでに五祖の演和尚、佛性泰和尚、先師天童古佛、ともにこの句を擧しきたれり。ゆゑにこの句すでに佛祖の法輪に轉ぜられたり、佛祖法輪轉なり。このゆゑにこの句すでに佛祖を轉じ、この句すでに佛祖をとく。佛祖に轉ぜられ、佛祖を轉ずるがゆゑに、たとひ僞經なりとも、佛祖もし轉擧しきたらば眞箇の佛經祖經なり、親曾の佛祖法輪なり。たとひ瓦礫なりとも、たとひ黄葉なりとも、たとひ優曇花なりとも、たとひ金襴衣なりとも、佛祖すでに拈來すれば佛法輪なり、佛正法眼藏なり。

これより五人による拈語に対する拈提を聴聞したい処ですが、本論では偽経に対する註釈を主要部となります。

「一人発真帰源、十方虚空、悉皆消殞は、首楞厳経のなかの道なり。この句、かつて数位の仏祖おなじく挙しきたれり。いまよりこの句、まことに仏祖骨髓なり、仏祖眼睛なり」

この一人発真帰源の言句は相当に気に入られたものと見え、全くの同文が『永平広録』二・一七九則(寛元四(1246)年六月下旬頃)にも取り挙げられ、仏祖の骨髄眼睛と絶賛の言辞です。

「しかいふこゝろは、首楞厳経一部拾軸、あるいはこれを偽経といふ、あるいは偽経にあらずといふ。両説すでに往々よりいまにいたれり。旧訳あり、新訳ありといへども、疑著するところ、神龍年中の訳をうたがふなり」

「しか云う」は一人発真帰源を指し、「こころ」は仏祖骨髄眼睛を言い、「首楞厳経一部拾軸」の拾軸とは十巻を拾軸と言われます。「偽経」とは偽作の経典を云い名を仏説に借りて後人が創作した経文を云うが、主に支那大陸南北朝・唐期)で創文されたものを云う。「旧訳新訳」とは玄奘(602―664)以前の訳経を旧訳(くやく)以後のものを新訳と呼びならわす。旧訳者の代表格は鳩摩羅什(350―409)である。「神龍年中の訳」とは『続古今訳経図紀』に説く処の首楞厳経は唐の中宗の神龍元年(705)五月に中インド僧の般刺蜜帝が訳出したとするを言うものです。

「しかあれども、いますでに五祖の演和尚、仏性泰和尚、先師天童古仏、ともにこの句を挙しきたれり。ゆゑにこの句すでに仏祖の法輪に転ぜられたり、仏祖法輪転なり」

「しかあれども」は世人が云う般刺蜜帝の訳経を偽経と云うが、百四十年前の法演和尚・百年前の仏性泰和尚、二十年前の如浄和尚がそれぞれ上堂にて拈語される事からして、偽経であっても仏祖の法輪に転ぜられるとの見解です。

「このゆゑにこの句すでに仏祖を転じ、この句すでに仏祖をとく。仏祖に転ぜられ、仏祖を転ずるがゆゑに、たとひ偽経なりとも、仏祖もし転挙しきたらば真箇の仏経祖経なり、親曾の仏祖法輪なり」

前句に引き続き同主旨たる文意ですが、このような拈提は当時の書誌学者等に対するもので、経論師の立場と仏法師との視点との大いなる差異論です。

「たとひ瓦礫なりとも、たとひ黄葉なりとも、たとひ優曇花なりとも、たとひ金襴衣なりとも、仏祖すでに拈来すれば仏法輪なり、仏正法眼藏なり」

ここでは偽経と仏法との比喩論を、このような「瓦礫・黄葉」⇆「優曇花・金襴衣」を例題にしての説明で、無価値な瓦礫黄葉も仏祖(真実)が拈来すれば、価値ある優曇華・金襴衣と同等同格同性に全一的存在が「仏正法眼藏」であるとの提示です。

 

    三

しるべし、衆生もし超出成正覺すれば佛祖なり。佛祖の師資なり、佛祖の皮肉骨髓なり。さらに從來の兄弟衆生を兄弟とせず。佛祖これ兄弟なるがごとく、拾軸の文句たとひ僞なりとも、而今の句は超出の句なり。佛句祖句なり、餘文餘句に群すべからず。たとひこの句は超越の句なりとも、一部の文句性相を佛言祖語に擬すべからず、參學眼睛とすべからず。而今の句を諸句に比論すべからざる道理おほかる、そのなかに一端を擧拈すべし。

衆生もし超出成正覚すれば仏祖なり」は前巻『三昧王三昧』巻冒頭で説く「驀然として尽界を超越してー中略―仏祖これをいとなみて」に通底するもので、七十五巻本正法眼蔵の連続性を読み取ることが出来ます。この場合の「仏祖」は真実と語換可能です。

「従来の兄弟衆生を兄弟とせず。仏祖これ兄弟なるがごとく、拾軸の文句たとひ偽なりとも、而今の句は超出の句なり」

超出成正覚以前は兄弟子弟弟子の如くの存在が、超出成正覚の真実態では同程に均等化され、先の首楞厳経が偽経であっても而今の句(一人発真帰源、十方虚空、悉皆銷殞)は超出(真実)の文言であるとの言辞です。

「この句は超越の句なりとも、一部の文句性相を仏言祖語に擬すべからず、参学眼睛とすべからず。而今の句を諸句に比論すべからざる道理おほかる、そのなかに一端を挙拈すべし」

相当に一人発真の句は気に入られたようですが、首楞厳経に説く全文言を「仏言祖語」と受け取ってはならず、参学の眼目にはするなとの、あくまで偽経を念頭に置いた提唱のようです。

 

    四

いはゆる轉法輪は、佛祖儀なり。佛祖いまだ不轉法輪あらず。その轉法輪の様子、あるいは聲色を擧拈して聲色を打失す。あるいは聲色を跳脱して轉法輪す。あるいは眼睛を抉出して轉法輪す。あるいは拳頭を擧起して轉法輪す。あるいは鼻孔をとり、あるいは虚空をとるところに、法輪自轉なり。而今の句をとる、いましこれ明星をとり、鼻孔をとり、桃花をとり、虚空をとるすなはちなり。佛祖をとり、法輪をとるすなはちなり。この宗旨、あきらかに轉法輪なり。轉法輪といふは、功夫參學して一生不離叢林なり、長連床上に請益辦道するをいふ。

この最終段にて「転法輪」の何たるかを説かれます。

「転法輪は、仏祖儀なり。仏祖いまだ不転法輪あらず」

「仏祖儀」の儀とは「たちふるまい・かたどる」の意がありますから、「坐の姿」を表徴するものと見れば前巻『三昧王三昧』巻との整合性が見られます。「仏祖」は真実とも云い換えられると先に云いましたので、真実(尽十方界)は常に法輪を転じ続けていると。所謂は常時新陳代謝している現成を「仏祖」と道元禅師は呼称されているのです。

そこで転法輪の具現例示し、

「あるいは声色を挙拈して声色を打失す。あるいは声色を跳脱して転法輪す。あるいは眼睛を抉出して転法輪す。あるいは拳頭を挙起して転法輪す。あるいは鼻孔をとり、あるいは虚空をとるところに、法輪自転なり」

このように、現場に即した各々の日常底が法輪という言句を以て円環していると。

而今の句をとる、いましこれ明星をとり、鼻孔をとり、桃花をとり、虚空をとるすなはちなり。仏祖をとり、法輪をとるすなはちなり。この宗旨、あきらかに転法輪なり」

而今の句」は発真帰源・十方虚空・悉皆銷殞の処在では、明星は明星・鼻孔は鼻孔・桃花は桃花・虚空は虚空とそのものの「当体」を「法輪」と見定め、その連続する当体を「転法輪」との意です。

「転法輪といふは、功夫参学して一生不離叢林なり、長連床上に請益辦道するをいふ。」

道元禅師の最終結論は「長連床上」僧堂にての坐禅修行を「請益辦道」といい、趙州従諗・馬祖道一等の口癖であった「不離叢林」で以て「功夫参学」を「転法輪」との提唱でした。