正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵第七十四「王索仙陀婆」を読み解く

正法眼蔵第七十四「王索仙陀婆」を読み解く

 

 有句無句、如藤如樹。餧驢餧馬、透水透雲。

 すでに恁麼なるゆゑに、

 大般涅槃經中、世尊道、譬如大王告諸群臣仙陀婆來。仙陀婆者、一名四實。一者鹽、二者器、三者水、四者馬。如是四物、共同一名。有智之臣善知此名。若王洗時索仙陀婆、即便奉水。若王食時索仙陀婆、即便奉鹽。若王食已欲飲漿時索仙陀婆、即便奉器。若王欲遊索仙陀婆、即便奉馬。如是智臣、善解大王四種密語。

 この王索仙陀婆ならびに臣奉仙陀婆、きたれることひさし、法服とおなじくつたはれり。世尊すでにまぬかれず擧拈したまふゆゑに、兒孫しげく擧拈せり。疑著すらくは、世尊と同參しきたれるは仙陀婆を履践とせり、世尊と不同參ならば、更買草鞋行脚、進一歩始得。すでに佛祖屋裏の仙陀婆、ひそかに漏泄して大王家裏に仙陀婆あり。

 大宋慶元府天童山宏智古佛上堂示衆云、擧、僧問趙州、王索仙陀婆時如何。趙州曲躬叉手。雪竇拈云、索鹽奉馬。

 師云、雪竇一百年前作家、趙州百二十歳古佛。趙州若是雪竇不是、雪竇若是趙州不是。且道、畢竟如何天童不免下箇注脚。差之毫釐、失之千里。會也打草驚蛇、不會也燒錢引鬼。荒田不揀老倶胝、只今信手拈來底。

 先師古佛上堂のとき、よのつねにいはく、宏智古佛。

 しかあるを、宏智古佛を古佛と相見せる、ひとり先師古佛のみなり。宏智のとき、徑山の大慧禪師宗杲といふあり、南嶽の遠孫なるべし。大宋一國の天下おもはく、大慧は宏智にひとしかるべし、あまりさへ宏智よりもその人なりとおもへり。このあやまりは、大宋國内の道俗、ともに疎學にして、道眼いまだあきらかならず、知人のあきらめなし、知己のちからなきによりてなり。

 宏智のあぐるところ、眞箇の立志あり。

 趙州古佛、曲躬叉手の道理を參學すべし。正當恁麼時、これ王索仙陀婆なりやいなや、臣奉仙陀婆なりやいなや。

 雪竇の索鹽奉馬の宗旨を參學すべし。いはゆる索鹽奉馬、ともに王索仙陀婆なり、臣索仙陀婆なり。世尊索仙陀婆、迦葉破顔微笑なり。初祖索仙陀婆、四子、馬鹽水器を奉す。馬鹽水器のすなはち索仙陀婆なるとき、奉馬奉水する關棙子、學すべし。

 南泉一日見鄧隱峰來、遂指淨甁曰、淨甁即境、甁中有水、不得動著境、與老僧將水來。峰遂將甁水、向南泉面前瀉。泉即休。

 すでにこれ南泉索水、徹底海枯。隱峰奉器、甁漏傾湫。しかもかくのごとくなりといへども、境中有水、水中有境を參學すべし。動水也未、動境也未。

 香嚴襲燈大師、因僧問、如何是王索仙陀婆。嚴云、過遮邊來。僧過去。嚴云、鈍置殺人。

 しばらくとふ、香嚴道底の過遮邊來、これ索仙陀婆なりや、奉仙陀婆なりや。試請道看。

 ちなみに僧過遮邊去せる、香嚴の索底なりや、香嚴の奉底なりや、香嚴の本期なりや。もし本期にあらずは鈍置殺人といふべからず。もし本期ならば鈍置殺人なるべからず。香嚴一期の盡力道底なりといへども、いまだ喪身失命をまぬかれず。たとへばこれ敗軍之將さらに武勇をかたる。おほよそ説黄道黒、頂寧眼睛、おのれづから仙陀婆の索奉、審々細々なり。拈柱杖、擧拂子、たれかしらざらんといひぬべし。しかあれども、膠柱調絃するともがらの分上にあらず。このともがら、膠柱調絃をしらざるがゆゑに、分上にあらざるなり。

 世尊一日陞座、文殊白槌云、諦觀法王法、法王法如是。世尊下座。

 雪竇山明覺禪師重顯云、

  列聖叢中作者知  法王法令不如斯

  衆中若有仙陀客  何必文殊下一槌

 しかあれば、雪竇道は、一槌もし渾身無孔ならんがごとくは、下了未下、ともに脱落無孔ならん。もしかくのごとくならんは、一槌すなはち仙陀婆なり。すでに恁麼人ならん、これ列聖一叢仙陀客なり。このゆゑに法王法如是なり。使得十二時、これ索仙陀婆なり。被十二時使、これ索仙陀婆なり。索拳頭、奉拳頭すべし。索拂子、奉拂子すべし。

 しかあれども、いま大宋國の諸山にある長老と稱ずるともがら、仙陀婆すべて夢也未見在なり。苦哉々々、祖道陵夷なり。苦學おこたらざれ、佛祖命脈まさに嗣續すべし。たとへば、如何是佛といふがごとき、即心是佛と道取する、その宗旨いかん。これ仙陀婆にあらざらんや。即心是佛といふはたれといふぞと、審細に參究すべし。たれかしらん、仙陀婆の築著磕著なることを。

 

 正法眼藏第七十四

 

  爾時寛元三年十月二十二日在越州大佛寺示衆

正法眼蔵を読み解く王索仙陀婆」(二谷正信著)

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/ousakusendaba

 

詮慧・経豪による註解書については

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/2020/03/14/000000

 

禅研究に関しては、月間アーカイブをご覧ください

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道元永平寺―『福井県史』通史編2中世より抜書(一部改変)

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/2021/08/14/173407

 

 

 

 

 

 

 

 

 

正法眼蔵第七四 王索仙陀婆 註解(聞書・抄)

詮慧・経豪 正法眼蔵第七四 王索仙陀婆 註解(聞書・抄)

有句無句、如藤如樹。餧驢餧馬、透水透雲。すでに恁麼なるゆゑに、

大般涅槃経中、世尊道、譬如大王告諸群臣仙陀婆来。仙陀婆者、一名四実。一者鹽、二者器、三者水、四者馬。如是四物、共同一名。有智之臣善知此名。若王洗時索仙陀婆、即便奉水。若王食時索仙陀婆、即便奉鹽。若王食已欲飲漿時索仙陀婆、即便奉器。若王欲遊索仙陀婆、即便奉馬。如是智臣、善解大王四種密語。

この王索仙陀婆ならびに臣奉仙陀婆、きたれることひさし、法服とおなじくつたはれり。世尊すでにまぬかれず挙拈したまふゆゑに、児孫しげく挙拈せり。

疑著すらくは、世尊と同参しきたれるは仙陀婆を履践とせり、世尊と不同参ならば、更買草鞋行脚、進一歩始得。すでに仏祖屋裏の仙陀婆、ひそかに漏泄して大王家裏に仙陀婆あり。

詮慧 大涅槃経中。

〇「善解大王四種密語。有句無句」と云う。是は無別義、有無の詞と也。正法眼蔵第一『見成公案』に、「諸法(の)仏法なる時節」有るのみあり。又、無のみ挙げらるるが如く、「有句無句も如藤如樹」とあれば、無能所(の)よう(に)、仏見の方には索仙陀婆ならぬ者なし。衆生見(と)仏見(は)変わるに似たれども、仏法と談ずる他心通の義も只如此。

法華経の時にてこそあれ無量義経の時になれば、一法より外の物なし(を)一法出生(の)無量義と談ず。

〇生滅の四諦、常住の四諦(と)仏法の詞(に)同不同なり。四教(の)差別(は)又同じ。

〇在世滅後、其の気異なり、但生滅の詞を不改、生也全機現死也全機現なれば、生滅(は)更不改。一法纔かに通ずれば万法共に通ずと云う。所詮、衆生処々著引之令得土(出典不明)と云う詞を不可忘者也。

〇「如藤如樹」と云う。打ち任せて世間には、藤ばかり生長する事はなし、必ず物に灰掛かりて生長する物なる故に如藤如樹とて、淵の植物に寄るが如しと云うなり。しかれども、かく云う時は能所彼我の差別ありと聞こゆる時に、こなたには藤々によると云い来たれり、其の心地にて今「如藤如樹」と云うなり。有と云えばとて無に対して可心得にあらず、ただ有は有、無は無なるべしと云う心地を「藤如樹」と云うなるべし。

〇「餧驢餧馬」とは驢と馬とを飼うなり。是も無別子細、驢を飼い馬を飼うなり。

〇「透水透雲」とは、透は解脱の心地なり、水をも解脱し、雲をも解脱するとなり。

〇「恁麼なる故に」と云う、「有句無句、如藤如樹。餧驢餧馬、透水透雲」すでに恁麽なる故にと云う(は)皆索仙陀婆なり、この有無事在現成公案これ索仙陀婆なり。

〇抑も今の「王索仙陀婆(は)一名四実」の事を「有無藤樹驢馬雲水」等に引き寄すらん事(は)不審也。仙陀婆の詞一(ツ)なれども鹽器水馬の四(ツ)をも奉る。「有句無句、如藤如樹」などと云う心地は、無能所彼此心地なれば相望の法なるべきをは何可被引寄哉。但宏智上堂の段を可了見。王索仙陀婆時如何と向かう時(に)趙州曲躬叉手し、雪竇拈じて云うには索盬奉馬とあり。「一名四実」と云えばとて必ず「盬・器・水・馬」を立て、食(する)時、必ず(しも)奉盬のみならず。索盬の時、奉馬と云う程になりぬれば、「有句無句、如藤如樹」の詞にも不可相違。一名一実とも一名四実とも四名四実とも云いつべし。

〇「世尊と不同参ならば、更買草鞋行脚、進一歩始得」と云う。この仙陀婆(は)法眼と同じく伝われりと云えば、世尊と同参と聞こゆ。故に「仙陀婆を履践とせり」と、この故(に)不同参なるは、更買草鞋行脚進一すべしと也。

〇大王家の仙陀婆、ひそかに仏家裏より漏泄すと云う(は)如文。

経豪

  • 「有句無句、如藤如樹」とて繋縛の詞に打ち任せては仕うなり。樹倒藤枯とて解脱の詞に仕付たり、此の有無の詞、世間には水火の事也。今仏法の上に「有句無句」の詞を談(ずる)は「如藤如樹」とて、有なれば全有、無なれば全無なるべし。「餧」と「驢」とは共に馬なり、只一体の物也。「透水透雲」の義も、雲水の差別不可有。「水」と談ぜん時は水の一法なるべし、「雲」と談ぜん時、又同(じく)有句無句の道理の下に、皆此の道理あるべきなり(餧は飼うと読む詞)
  • 是は大王の仙陀婆と云う時は、如経文。「有智之臣善知此名」(は)王の願いに随って「盬器水馬」等を王に奉る事、如願索物を奉る。以今理、仏法の上に置きて仙陀婆の理を被述なり。一名四実と云い、一名は仙陀婆也、四実者、盬・水・器・馬等を指す也。
  • 「智臣知王」(の)意、「随索奉四種物」(の)事、経文等(にて)分明也。但是は大王与智臣のあわい(間)如此なり。仏法の上には不可然、其の故は大王索洗時奉盬、大王欲遊時奉水、大王食訖求漿時奉馬ならん、更不可有相違。或索仏性時奉狗子並蚯蚓等、乃至索僧堂仏殿等時奉三昧陀羅尼等、是如智臣仏弟子なるべし。
  • 此の「王索仙陀婆、並びに臣奉仙陀婆」昔より久(しく)伝えて法眼と同(じく)伝われりと云う也。世尊すでに此事を免れず。「挙拈し給う」と云うは、今の経文是なり。この故に児孫此の仙陀婆を挙拈すと云うなり。世間には大王に索を付け臣に索を付けて談ぜん、不可有相違。錯まりて猶、親切なる義とも云いぬべし。
  • 是れは「世尊と同参しきたれるは仙陀婆を履践とせり」と云うは、世尊の法を同参したらん者は、仙陀婆を履践とすべしと云う也。又「世尊と不同参ならば、更買草鞋行脚、進一歩始得」とは、世尊(は)法を不通達、物は更買草鞋行脚して、進一歩して得べしと云う心(地)也。証は只能々、功夫参学すべしと云うなり。又、今の草子の面の如きは、大王家裏の仙陀婆ひそかに漏泄して、仏祖屋裏の仙陀婆ありとぞ云いぬべき。頗(すこぶ)る今の御詞(は)逆なるように聞こえれども、必ず仙陀婆の上の前後不可有不知。又、仏祖屋裏の仙陀婆が漏泄して、王家裏の仙陀婆ともや成りけん、不審の事也。

 

大宋慶元府天童山宏智古仏上堂示衆云、挙、僧問趙州、王索仙陀婆時如何。趙州曲躬叉手。雪竇拈云、索鹽奉馬。師云、雪竇一百年前作家、趙州百二十歳古仏。趙州若是雪竇不是、雪竇若是趙州不是。且道、畢竟如何天童不免下箇注脚。差之毫釐、失之千里。会也打草驚蛇、不会也焼銭引鬼。荒田不揀老倶胝、只今信手拈来底

先師古仏上堂のとき、よのつねにいはく、宏智古仏。しかあるを、宏智古仏を古仏と相見せる、ひとり先師古仏のみなり。宏智のとき、径山の大慧禅師宗杲といふあり、南嶽の遠孫なるべし。大宋一国の天下おもはく、大慧は宏智にひとしかるべし、あまりさへ宏智よりもその人なりとおもへり。このあやまりは、大宋国内の道俗、ともに疎学にして、道眼いまだあきらかならず、知人のあきらめなし、知己のちからなきによりてなり。

宏智のあぐるところ、真箇の立志あり。趙州古仏、曲躬叉手の道理を参学すべし。正当恁麼時、これ王索仙陀婆なりやいなや、臣奉仙陀婆なりやいなや。

雪竇の索鹽奉馬の宗旨を参学すべし。いはゆる索鹽奉馬、ともに王索仙陀婆なり、臣索仙陀婆なり。

世尊索仙陀婆、迦葉破顔微笑なり。初祖索仙陀婆、四子、馬鹽水器を奉す。馬鹽水器のすなはち索仙陀婆なるとき、奉馬奉水する関棙子、学すべし。

詮慧 宏智上堂段 大宋慶元府。

〇「信手拈来底」、「趙州曲躬叉手」、只今何と云う事見えず。索奉の詞も只曲躬程に、しばらく承けて置くべきなり。始終道理に符合(する)也。

〇「索鹽奉馬」と云う此の詞、「如何仙陀婆」の義は索鹽すれば奉盬にてこそ有るべきに、盬を求むる奉馬(の)理(は)当たらずと聞こえ、但王臣の索仙陀婆よりは仏家の索仙陀婆はるかに超越すべし。ただ盬を索むれば奉盬し、索水すれば奉水(の)義も有るべし。諸法(は)諸法なり、実相(は)実相なりと云わん(が)如し。又索鹽に奉馬の義も有りぬべし、盬に滞り馬に滞らば似世間法。又、水の要ならんには馬を以ても使い、馬の要ならんには盬を以ても用いるこそ、仏家の世間に超越したるにては有るべけれ。故に雪竇は「索鹽奉馬」と(の)云い方にも心得ぬべし。但是は「曲躬の正当恁麼時、これ王索仙陀婆なりやいなや」と云う時に、「索」と「奉」と同別かと云うにてこそ有れば、「鹽」と「馬」とをば不審すべからず。「索」と「奉」と心得うべし、索と云うも奉と云うも別也とは不可云。故に「索鹽奉馬」はともに「王索仙陀婆也、臣索仙陀婆也」と云う。所詮「世尊索仙陀婆、迦葉破顔微笑なり。初祖索仙陀婆、四子、馬鹽水器を奉す」と云う。初祖の四子(四人弟子なり)得皮肉骨髄なり、索水能所にあらず彼此にあらず、仏家には索奉を分くべからず。又求めずとも奉の義もあるべし、仏法には更に不足闕如と云う事あるべからず。「索」と「奉」と「王」と「臣」と自他各別し、彼此相対の法に作らば不可謂仏法なり。

〇「王索仙陀婆」は共に一切衆生悉有仏性と心得べし。「悉」は一切衆生の方、「有」は仏性の方とこそ覚えたれども、すでに「悉有」の一分を衆生と云い仏性とこそ談ずる時に、王臣と分くべからず。我本立誓願欲令一切衆如我等無異(我本(もよ)誓願を立てて、一切の衆をして我が如く等しくして異なる無からしめん)と云う故に(『法華経』方便品「大正蔵」九・八中)。

〇「趙州と雪竇と是不是事」。これは迦葉仏是ならば釈迦仏は不是、迦葉仏不是ならば釈迦仏是と云わんが如し。「差之」と云うも「失之」と云うも喩えば同じ詞なるべし。「毫釐」と云い「千里」と云う、これは遥かに事(が)変わりたる詞と聞こゆれども、較べて云う時こそあれ、只毫釐とも千里とも一を挙げて云わん。何の差別懸隔か有らん、会不会(と)同じ上に仕う程の事也。

〇「会也打草驚蛇、不会也焼銭引鬼」と云う会也。ただ一の道理、不対・不会也。ただ一の道理不対、会打草驚蛇も其の一なり、焼銭引鬼に相い対する事なし、ただ此の道理なり。

〇「荒田不揀老倶胝、只今信手拈来底」と云う「荒田」は所名也。「倶胝」は禅師の名なり。荒田に必ず、倶胝ばかりて長老と定めるにあらず、後にも前にも長老あるべし。故に倶胝を揀(えら)ばぬとなり。「信手拈来底」とは只手を延べて拈(じ)来るとなり。喩えば物を結する詞駐車場也底ぞ而已などと云うが如し。「信手」の両字は拈来に著きて「手」と云う。

経豪

  • 今、宏智の上堂詞を被挙。「僧、趙州に王索仙陀婆と問する時、趙州、曲躬叉手す。是を後に雪竇、被拈(ずるに)、索鹽奉馬と云えり」。此の趙州の曲躬叉手の姿は、索鹽奉馬の理なるべし。打ち任せては「索鹽奉馬」は、大いに相違の法王の意にも可違と聞こえたり。仏法の上にては此の索鹽奉馬の理、殊(に)親切なるべし。然者、趙州曲躬叉手の理与雪竇索鹽奉馬の理、尤も可普(符)合也。「一百年前作家、百二十歳古仏」と云うは、趙州と雪竇とを讃嘆(する)詞なるべし。又「趙州若是は雪竇不是、雪竇若是、趙州不是」とは、此是不是、全非得失義。趙州与雪竇のあわい程のなり、「是不是なるべし。「且道、畢竟如何天童不免下箇注脚」とは、宏智我が詞を可下と云う也。又「差之毫釐、失之千里。会也打草驚蛇、不会也焼銭引鬼。荒田不揀老倶胝、只今信手拈来底」とは、「差」と云うも「失」と云うも会也不会也。仏法の上の所談也。得失浅深に関わるべからず。「打草驚蛇引鬼」と云うは古き詞也、只それかれと云う程の詞(で)違わぬ心なり。「荒田」とは所名なり。「老倶胝」とは祖師名也。「信手拈来底」とは、此の倶胝は人の法を問いけるに、いづれの詞にも、只指を挙げたり。一法究尽なる理を、ここに被引寄歟不審なり。
  • 是は無別子細、如御釈。古仏を古仏と知るは古仏也と云う也。且与宏智古仏相見『如浄録』下・六則「大正蔵」四八・一二七上)。先師を被讃嘆(する)詞歟。又宗杲禅師を宏智よりも、猶その人なりと思える僻見を次に被述也。如文。
  • 此の「趙州の曲躬叉手」の姿が、「王索仙陀婆」とも云われ、「臣奉仙陀婆」とも云わるべき道理を、「なりやなりや」とは被述なり。
  • 趙州曲躬叉手の姿を王索仙陀婆・臣索仙陀婆と取り、今は「雪竇の索鹽奉馬の宗旨」を又、「王索仙陀婆・臣索仙陀婆」と談(ずる)也。打ち任せては王索仙陀婆は本(もと)の詞なり、臣奉仙陀婆とぞ云うべきを、今は「臣索仙陀婆」とあり。相違して聞こゆれども、索奉の道理、王臣のあわい(間)、更(に)不各別差別すべからざる道理を、如此云い表されたるなり。
  • 世尊の拈華瞬目し迦葉破顔微笑の姿。初祖の四人の門人に汝得吾髄等を被授(するは)、今の「馬鹽水器を奉ずる」道理なるべし。是等の道理を挙ぐるを「関棙子を学すべし」とは云う也。

 

南泉一日見鄧隠峰来、遂指浄甁曰、浄甁即境、甁中有水、不得動著境、与老僧将水来。峰遂将甁水、向南泉面前瀉。泉即休。すでにこれ南泉索水、徹底海枯。隠峰奉器、甁漏傾湫。しかもかくのごとくなりといへども、境中有水、水中有境を参学すべし。動水也未、動境也未。

詮慧 南泉段。 南嶽―馬祖―南泉・鄧隠峰(は)兄弟也。

〇「南泉一日―瀉泉即休」。此の甁水の動不動の問答は、「南泉の索水は徹底海枯・「隠峰の奉器、甁漏傾湫」なり。南泉の索水は徹底海枯なれば、水ならぬ所あるべからず、然者何をか奉ずべき、この故に甁漏傾湫と云う。「甁漏」とはもるなり、「傾湫」は水のある所、傾きぬる時に海枯の心なるべし。此の公案に仙陀婆の詞(は)不聞、但以義云うべしとなり。南泉の索仙陀婆は「索水徹底海枯」にあて、「隠峰の奉器」をば「甁漏傾湫」にて当てんとにはあらず。今はこの索仙陀婆(の)奉水奉馬は仏法に談ずる所、已前の儀にも可超越。これ索鹽奉馬なるべし。

〇「境中有水、水中有境」と云う(は)、尽十方界沙門一隻眼ほどの心地なるべし。「水中有境」(は)如此親切(の)義なり。この時は何境何水と難定、故に「動水也未、動境也未」なるべし。「也未」と云う心は受けて歟と云う程の詞也。

〇たとえば、今の水瓶の道理は六道輪廻の衆生境にて、水は仏性と心得べし。(又は)真如実相と可心得歟。然者、三界の悪を断じ終わりて、法性を表すと習うを、この煩悩の瓶を動かさずして法性と明らむるぞ。瓶を動ぜずして水を持ち来たるにては有るべき。今の「動」と云うは世間の動に不可准。「瓶の不動」は今持て来たるぞ、不動なる瓶の能なる故に。例えば針を云うに、物を縫う針は曲ならんをば嫌うべし、曲がれと。又釣り針は直ならんをば嫌うべし、曲ならずと。此の定めにも心得て「動不動」は明らむべし。いわんや又「境中有水、水中有境」と云う時は、いづれか「境」いづれか「水」(の)心境二と云うべからず。衆生の中には仏性あり、仏性の中に仏性あり、仏性の中に衆生ありと云う程の事也。

経豪

  • 南泉の「索水徹底海枯」とは、此海の姿(が)全海なる時、索水徹底海枯と云わるる也。「隠峰奉器、甁漏傾湫」とは破木杓黒漆桶などと云うように,解脱の姿を如此挙也。「缺け漏れ傾く」と云うは、悪しき詞に似たれども、皆解脱の詞なるべし。又「境中有水、水中有境を参学すべし」とは、境与水(は)無差別なる道理也。此の道理が「動水也未、動境也未」とは所詮、動水も動境も只同じ理なるべし。

 

香厳襲燈大師、因僧問、如何是王索仙陀婆。厳云、過遮辺来。僧過去。厳云、鈍置殺人。しばらくとふ、香厳道底の過遮辺来、これ索仙陀婆なりや、奉仙陀婆なりや。試請道看。

ちなみに僧過遮辺去せる、香厳の索底なりや、香厳の奉底なりや、香厳の本期なりや。

もし本期にあらずは鈍置殺人といふべからず。もし本期ならば鈍置殺人なるべからず。

香厳一期の尽力道底なりといへども、いまだ喪身失命をまぬかれず。たとへばこれ敗軍之将さらに武勇をかたる。

おほよそ説黄道黒、頂□(寧+頁)眼睛、おのれづから仙陀婆の索奉、審々細々なり。拈柱杖挙払子、たれかしらざらんといひぬべし。

しかあれども、膠柱調絃するともがらの分上にあらず。このともがら、膠柱調絃をしらざるがゆゑに、分上にあらざるなり。

詮慧 香厳段 香厳襲燈大師。

〇「厳云、鈍置殺人」。先(の)いかなるかこれ王索仙陀婆と云う詞あたらざる事也。すでに一名四実とて仙陀婆と云えば、鹽器水馬等を奉ずる如きならん。上問のことば(は)不似世間道理。すでに仏家の法変わる処顕然也。「如何是」と云うは臣奉仙陀婆の心地也。「過遮辺来」は王索仙陀婆也。王索仙陀婆は鈍置殺人」。しからば索仙陀婆なりや奉仙陀婆なりや。

〇「香厳の索底なりや奉底なりや本期なりや。もし本期にあらずは鈍置殺人と云うべからず。もし本期ならば鈍置殺人なるべからず」と云う。索奉無二の義を「なりやなりや」とは明かす也。「本期にあらず」(とは)誠(に)云うべからず。又(は)本期也とも、本期の上は何の詞か有らんとなり。

〇凡そ仙陀婆の義は、一名四実とは云えども世間の実にはあらざるべし。すでに索鹽奉馬と云う相違の詞なり。又索奉をも二とは云わず王と臣とも能所に置かず。又香厳の詞の「過遮辺来」と云うも、相違の詞と聞こゆ、すぐと云うに来と云うべからず。又来たれと云うに過去これ相違也。香厳の「本期と鈍置殺人」と相違すべきものか、一つなるべきかと不審也。「本期にあらずは鈍置殺人と云うべからず」とあれば、相対の名目と聞く程に、もし本期ならば鈍置殺人なるべからずと、ある時に相違の法と聞こゆ。又奥に「敗軍の将さらに武勇を語る」という事も、敗れたる戦の将いかでか武勇を語るべき。これも相違して聞こゆ「説黄道黒、頂□(寧+頁)眼睛」と云う。「膠柱調絃」と云う全て此の仙陀婆を仏家に可心得事、如此「鈍置殺人の詞」(を)雖非可棄、先ずこれは鈍置なりと謗りて殺人とは云う也。

〇「膠柱調絃」と云う。喩えば絃の調子を調べて合いたればとて、其の柱を膠に付けたらん後の調子に合うべからずと云う也。今「膠柱調絃する輩の分上にあらず」と云いて、又「この輩、膠柱調絃を知らざるが故に、分上にあらざるなり」と云うは、膠にて作ると知りたらん由、膠にて作ると知らざる也。仏法には膠にて付けぬ物なしと習うべし、真如(も)仏性(も)皆膠にて付けたるなり、実相付けたるなり、如三世諸仏説法之儀式なるなり。

〇仏法にはいづれの調子の琴柱(ことじ)も膠に付けたりとも、作法には用いんずるに違(たが)う調子あるべからず。皆合う調子なるべし、琴柱に違う事なき也。琴柱に膠を作るは違うべしと、世間に仰せて心得所を、分上にあらずとは云う也。食事(に)鹽を奉り、水の時(は)器物を奉るぞ(とは)世間の心地なる。如此心得付けたる琴柱こそ膠にて付けたるにあれ、境を不動して水を持ち来たる風情を膠に付けたるとは云うべし。

経豪

  • 是は僧(が)香厳に「如何是王索仙陀婆」と問して、厳云く「過遮辺来」と云われて、「僧忽ちに過ぎ去る」、その時「香厳云、鈍置殺人」と被仰、是の詞を被釈に、「香厳道底の過遮辺来、これ索仙陀婆なりや」とあれば、此の過遮辺来の詞か。索仙陀婆にてもあり、奉仙陀婆にてもあるべきなり。詮は一事已上仙陀婆ならぬ一法あるべからずと可心得也。
  • 是は過遮辺来せる香厳の索とすべきか、香厳の奉底とすべきかと云う也。此の過遮辺来せる詞(は)、香厳の索底なり香厳の奉底也。索与奉のあわい(間)、都(て)不可隔一物なるべき故に、如此云う也。香厳の本期とは過遮辺来の詞を指(す)歟、香厳の所存に叶わばと云う心歟。
  • 打ち任せては、世間に利鈍の二を立つるに、利根は善く利鈍は悪しし、今の詞も嫌いたる詞と聞こゆ。今の「鈍置殺人」と云うは、利鈍の二を分けて云うにあらず。詮は香厳と今の僧と、例の非各別体鈍置殺人と云うも、鈍置殺人なるべからずと云うも、得失にあらず。会・不会ほどに可心得歟、香厳上の理に仰せて可心得合也。
  • 「香厳一期の尽力道底」とは、今の過遮辺来等の詞を指す歟。是は香厳の云い出したる詞に似たれども、一切仏祖の尽力道底なるべし。故に「いまだ喪身失命をまぬかれず」とは云う也。敗軍の将の軍に負けたらんは、無面目の人に語るべからず。しかれども、是は喪身失命を不免程の理なる上は、武勇を語るべき也。香厳の面目ならず、三世十方の仏祖、尽力道成なるが故に、私ならず隠れぬ義なるべし。
  • 如文。所詮黄也と説き黒と道い、頂□(寧+頁)眼睛、悉今は仙陀婆の索奉、審々細々なるべしと也。仙陀婆ならぬ一法あるべからず。一一(の)諸法、皆仙陀婆なるべき道理、分明に聞きたり、拄杖を拈じ払子を挙ぐる、誰か仙陀婆にあらずと知らんと云う也。
  • これは琴の琴柱を立つるには、時の調子に随って、ともかくも立て替えて六調子の楽をば可引也。琴の琴柱を膠にて付け固めなん後は、彼是の調子に成して用いる事不可叶。其の定めに凡見と云うは、迷悟去来有無善悪等の法、思い付けつる見解を、あちこち成す事、都てふ叶也。故に膠柱調絃の輩は、文上にあらずとは被嫌なり。今(の)仏法の上の膠柱調絃と云わんずるは、膠柱調絃とば云えども、自在無窮に六調子に渡りて、少しも無煩を仏法の関捩子とは云うべき也。故に此の膠柱調絃を知らざるが故に、文上にあらずとは云う也。

 

世尊一日陞座、文殊白槌云、諦観法王法、法王法如是。世尊下座。雪竇山明覚禅師重顕云、

列聖叢中作者知、法王法令不如斯。衆中若有仙陀客、何必文殊下一槌。

しかあれば、雪竇道は、一槌もし渾身無孔ならんがごとくは、下了未下、ともに脱落無孔ならん。もしかくのごとくならんは、一槌すなはち仙陀婆なり。すでに恁麼人ならん、これ列聖一叢仙陀客なり。このゆゑに法王法如是なり。

使得十二時、これ索仙陀婆なり。被十二時使、これ索仙陀婆なり。索拳頭、奉拳頭すべし。索払子、奉払子すべし。しかあれども、いま大宋国の諸山にある長老と称ずるともがら、仙陀婆すべて夢也未見在なり。苦哉々々、祖道陵夷なり。苦学おこたらざれ、仏祖命脈まさに嗣続すべし。

たとへば、如何是仏といふがごとき、即心是仏と道取する、その宗旨いかん。これ仙陀婆にあらざらんや。即心是仏といふはたれといふぞと、審細に参究すべし。たれかしらん、仙陀婆の築著磕著なることを。

詮慧 世尊段 世尊一日陞座。

〇「世尊下座。雪竇山明覚禅師重顕云、列聖叢中作者知」。「列聖」と云うは諸仏集会中程なるべし、諸仏叢林中也。此の「作」は造作の作にてはあるまじ、作仏作祖と云う程に可心得。「知」は又仏知なるべし、列聖中の作なるが故に、造作の作にはあるまじ。

〇「法王法令不如斯。衆中若有仙陀客」(この仙陀客は田舎人とは、うまし仙陀婆なり)。仏

陞座の上は衆中の仙陀客(と)ある条(は)勿論、仍って「何必文殊下一槌」とあるなり。

〇「世尊一日陞座、文殊白槌」。これは世尊(は)仙陀婆也。雪竇頌の心は一槌、即ち仙陀婆也。「下了未下。脱落無孔」ならんには、何(ぞ)一槌を下すとなり。

〇「法王法如是」なりと云うは、「十二時を使得する、索仙陀婆也、十二時を使得せらるる索仙陀婆也、索拳頭、奉拳頭すべし」なり。

〇「如何是仏と云い即心是仏と道取する」これ仙陀婆也。

〇「仙陀婆の築著磕著」と云う(は)、当たらずと云う事なき心なり。

経豪

  • 是は如文。「世尊一日説法其時、文殊一槌して、諦観法王法如是と被仰せたり、其後世尊何と被仰事なくして、下座し給えり」。其れを雪竇(は)前の道理を述べ給う、今の偈是也。「列聖叢中作者知」とは、今の世尊陞座の時、列する衆を云う歟。「法王法令不如斯」とは、前の文殊の詞を指す歟、「如斯」ぞとあるべきを、の字(を)加えたる(は)頗る難心得けれども、是又、必ずしも不の字に滞るべきにあらず。此の一字に付けて、其理の向背すべきにあらず。「衆中若有仙陀客」とは、此の列衆中に若仙陀客の詞を聞き知りたるにあらば、「何ぞ必ずしも文殊一槌を下して」という様に聞こえたり。右に委有御釈。
  • 此の「一槌」の姿に、無量無辺の義闕けたる事不可有。此の道理が「渾身無孔」とは云わるべき也。「下了未下ともに脱落無孔ならしむ」とは、諦観法王法、法王法如是と、文殊の被仰たりし後、世尊下座し給いき。下不下この心地は、只同じかるべしと云う義なり。所詮、只此の「一槌」の姿に満足すべき故也。
  • 「十二時を使得すと云うも、十二時に被使と云うも、索仙陀婆なるべし」。今の十二時と云うも、寅卯辰などの十二時にあらず、索仙陀婆なるべし。「索拳頭、奉拳頭すべし」とは索奉・拳頭ともに非各別。索も奉も拳頭も一物なるべし。「索払子、奉払子」の理(も)又同じかるべし、是又「仙陀婆」なるべし。「諸山の長老と称する輩、仙陀婆の道理かつて不知」を被載なり。
  • 是は「如何是仏と云う時、即心是仏と云う程の道理也」とは、索鹽のとき奉鹽、欲遊のとき奉馬。或いは又索鹽奉馬の姿、如此なるべしと云う也。実にも仙陀婆の理、索鹽の時、何物も不中(あたらず)と云う物(は)不可有。即心是仏と問わん時、無量無辺の調度を取り出さんずる時、如此被引出也と可心得、故に仙陀婆にあらざらんやと云う也。「即心是仏と云うは、たれぞと審細に可参究」とは、即心是仏(は)一物に関わるべからざる道理か、如此云わるるなり。仙陀婆の理の法界に周遍する理が「築著磕著」とは云わるべき也。

王索仙陀婆(終)

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。

正法眼蔵他心通

正法眼蔵 第七十三 他心通 

    一 

西京光宅寺慧忠國師者、越州諸曁人也。姓冉氏。自受心印、居南陽白崖山黨子谷、四十餘祀。不下山門、道行聞于帝里。唐肅宗上元二年、勅中使孫朝進賚詔徴赴京。待以師禮。勅居千福寺西禪院。及代宗臨御、復迎止光宅精藍、十有六載、隨機説法。時有西天大耳三藏、到京。云得佗心慧眼。帝勅令與國師試験。三藏才見師便禮拝、立于右邊。師問曰、汝得佗心通耶。對曰、不敢。師曰、汝道、老僧即今在什麼處。三藏曰、和尚是一國之師、何得卻去西川看競渡。師再問、汝道、老僧即今在什麼處。三藏曰、和尚是一國之師、何得卻在天津橋上、看弄猢猻。師第三問、汝道、老僧即今在什麼處。三藏良久、罔知去處。師曰、遮野狐精、佗心通在什麼處。三藏無對。

僧問趙州曰、大耳三藏、第三度、不見國師在處、未審、國師在什麼處。趙州云、在三藏鼻孔上。

僧問玄沙、既在鼻孔上、爲什麼不見。玄沙云、只爲太近。

僧問仰山曰、大耳三藏、第三度、爲什麼、不見國師。仰山曰、前兩度是渉境心、後入自受用三昧、所以不見。

海會端曰、國師若在三藏鼻孔上、有什麼難見。殊不知、國師在三藏眼睛裏。

玄沙徴三藏曰、汝道、前兩度還見麼。

雪竇明覺重顯禪師曰、敗也、敗也。

大證國師の大耳三藏を試験せし因縁、ふるくより下語し道著する臭拳頭おほしといへども、ことに五位の老拳頭あり。しかあれども、この五位の尊宿、おのおの諦當甚諦當はなきにあらず、國師の行履を覰見せざるところおほし。ゆゑいかんとなれば、古今の諸員みなおもはく、前兩度は三藏あやまらず國師の在處をしれりとおもへり。これすなはち古先のおほきなる不是なり、晩進しらずはあるべからず。

古則の出典は『景徳伝灯録』五・慧忠章(「大正蔵」五十一・二四四・上)と思われますが、趙州・玄沙・仰山・海会・雪竇の五人による拈語の出典は『宗門統要集』二・慧忠章と思われ両本の合揉と推測されます。(『景徳伝灯録』には仰山・玄沙・趙州のみ(割注)・『宗門統要集』には前記+海会・雪竇が収録される)

まづは読み下し文にすると

西京光宅寺の慧忠国師は、越州諸曁(き)の人。姓は冉(さん)氏。心印を受けてより南陽河南省)の白崖山党子谷に居ること四十余年。山門を下らず、道行が帝里(長安)に聞えた。唐の肅宗(第七代天子)上元二年(761)に勅使の孫朝進に長安に赴んことを徴(召し出)された。肅宗は慧忠を師として待遇した。千福寺内の西禅院(陝西省西安市)に居するを命ず。代宗(第八代天子)の臨御(即位)に及び、復た光宅寺(陝西省西安市)精藍に十六年、随機説法す。その時西天(インド)の大耳三蔵が京(長安)に来て、他心通の慧眼を得たと云う。帝(代宗)は慧忠国師に試験するよう命じた。

三蔵は師〈慧忠国師〉を見るや礼拝し、師の右辺に立った。

師が問うて言う、汝は他心通を得ているか。(三蔵)対して云う、不敢(恐れ入ります)。

師が言う、汝道(い)え、老僧〈慧忠〉は今何処にいるか。

三蔵は云う、和尚〈慧忠〉は是れ一国の師、どうして西川(陝西省)に行って競渡(ペーロン)を見ましょうか。

師は再び問う、汝道え、老僧は今何処にいるか。

三蔵は云う、和尚は是れ一国の師、どうして天津橋上で、猢猻(猿)の曲芸を見ましょうか。

師は三度問う、汝道え、老僧は今何処にいるか。

三蔵良久(しばらく)しても、行った処を知らず。

師が言った、この野狐精、他心通は何処に在るか。

三蔵対する無し。

右の因縁話について五僧の拈語

僧が趙州に問うて云う、大耳三蔵は三度目には国師の在所を見ず、未審(はっきりしない)、国師は何処に在す。

趙州は言う、三蔵の鼻孔上に在す。

僧が玄沙に問う、既に鼻孔上に在るなら、どうして見えないのか。

玄沙は言う、ただ近すぎた為。

僧が仰山に問うて云う、大耳三蔵は三度目には、どうして国師が見えなかったか。

仰山は言う、前の二度は〈国師に〉渉境心(分別心)で、三度目は自受用三昧に入り、見えず。

海会端は言う、国師もし三蔵の鼻孔上に在るなら、どうして難見か。殊に〈趙州は〉知らず、国師が三蔵の眼睛裏に在るを。

玄沙は三蔵を徴(め)して言った、汝道え、前の二度も本当に見たか。

雪竇明覚重顕禅師が言った、敗也、敗也。

これから此の話頭に対する拈提の開始です。

大証国師の大耳三蔵を試験せし因縁、古くより下語し道著する臭拳頭多しと云えども、ことに五位の老拳頭あり。しかあれども、この五位の尊宿、おのおの諦当甚諦当はなきにあらず、国師の行履を覰見せざる処多し」

「下語」(あぎょ)は著語と同じく批評・感想の意で、「臭拳頭」は臭皮袋と同じく俗人と解し、「五位の老拳頭」の五位とは趙州従諗(788―897)・玄沙師備(835―908)・仰山慧寂(807―883)・海会端〈白雲守端〉(1025―1072)・雪竇重顕(980―1052)を指すが、先には「大耳三蔵の因縁、古くより下語する臭拳頭」に対し、五人に対しては「老拳頭」と置き換えての言葉使いです。因みに慧忠国師の没年は大暦十(775)年で、代宗の治世最後の元号で、趙州・仰山・玄沙は唐代、雪竇・海会は宋代の人です。

「諦当甚諦当はなきにあらず、国師の行履を覰見せざるところ多し」

五人の老宿それぞれの拈語は正解と言えなくもないが、慧忠国師の修行底力を見ない処が多い、と言ったものです。

「故いかんとなれば、古今の諸員みな思わく、前両度は三蔵あやまらず国師の在処を知れりと思えり。これすなはち古先の多きなる不是なり、晩進知らずはあるべからず」

「古今の諸員」とは五人の拈語者も含めた先輩達の解釈は、大耳三蔵の西川競渡と天津橋

猢猻という三蔵の答話を他心通と誤認する不是を説くもので、これから道元禅師特有な拈提です。この処の『御抄』(「註解全書」九・四)の註解は「正法眼蔵の内、大修行と他心通は心得にくく」と云われます。

 

いま五位の尊宿を疑著すること兩般あり。一者いはく、國師の三藏を試験する本意をしらず。二者いはく、國師の身心をしらず。しばらく國師の三藏を試験する本意をしらずといふは、第一番に、國師いはく、汝道、老僧即今在什麼處といふ本意は、三藏もし佛法を見聞する眼睛なりやと試問するなり。三藏おのづから佛法の佗心通ありやと試問するなり。當時もし三藏に佛法あらば、老僧即今在什麼處としめされんとき、出身のみちあるべし、親曾の便宜あらしめん。いはゆる國師道の老僧即今在什麼處は、作麼生是老僧と問著せんがごとし。老僧即今在什麼處は、即今是什麼時節と問著するなり。在什麼處は、這裏是什麼處在と道著するなり。喚什麼作老僧の道理あり。國師かならずしも老僧にあらず、老僧かならず拳頭なり。大耳三藏、はるかに西天よりきたれりといへども、このこゝろをしらざることは、佛道を學せざるによりてなり、いたづらに外道二乘のみちをのみまなべるによりてなり。

國師かさねてとふ、汝道、老僧即今在什麼處。こゝに三藏さらにいたづらのことばをたてまつる。國師かさねてとふ、汝道、老僧即今在什麼處。ときに三藏やゝひさしくあれども、茫然として祗對なし。國師ときに三藏を叱していはく、這野狐精、佗心通在什麼處。かくのごとく叱せらるといへども、三藏なほいふことなし、祗對せず、通路なし。

これから具体的な指摘が始まります。ここで言う「身心」は慧忠の人柄であり、修行の仕方等を指します。

「しばらく国師の三蔵を試験する本意を知らずと云うは、第一番に、国師いはく、汝道、老僧即今在什麼処といふ本意は、三蔵もし仏法を見聞する眼睛なりやと試問するなり。三蔵おのづから仏法の他心通ありやと試問するなり」

趙州等五人の老拳頭の不備を説く拈提で、道元禅師が主張する処は慧忠国師が云う老僧即今在什麽の基本的即答語法を試問し、さらに三蔵学者の他心通と仏法による他心通の差違の試問が本意との拈語です。

「当時もし三蔵に仏法あらば、老僧即今在什麼処としめされん時、出身の路あるべし、親曾の便宜あらしめん」

大耳三蔵に仏法が具備されていたなら、老僧即今在什麼処と慧忠国師から問われた時、西川競渡とか天津猢孫などとは答えるはずはない、と言う事を「出身の路あるべし、親曾の便宜あらしめん」と逆説的に言うものです。

「いはゆる国師道の老僧即今在什麼処は、作麼生是老僧と問著せんがごとし。老僧即今在什麼処は、即今是什麼時節と問著するなり。在什麼処は、這裏是什麼処在と道著するなり。喚什麼作老僧の道理あり。国師かならずしも老僧にあらず、老僧かならず拳頭なり」

ここでの「問著」は問いを指すのではなく『大悟』巻で説く問処は答処の如しの論理からすると、「老僧即今什麽処」=「作麽生是老僧」=「即今是什麽時節」は同義体語に解し、在什麽処は正法眼蔵に通底する語脈を理解するには重要な言句で、経豪和尚はこれを「仏法の大姿」と比せられ、また「這裏是什麽処在」は南嶽が云った説似一物即不中を借用し「即不中の理」と究理の仏法に喩え、さらに道元禅師は老僧をも什麽に置換する道理を提言されるが、この老僧の正体を『御抄』(「註解全書」九・六)では「辺際なき所」とイヅレも什麽・作麽の無限定を説くものです。ですから「国師必ずしも老僧にあらず」と禅問答のような語法ですが、国師=老僧という執着を払拭する為の言い様で、この処が『他心通』巻のクライマックスな箇所となります。

「大耳三蔵、はるかに西天より来たれりと云えども、この心を知らざる事は、仏道を学せざるによりてなり、いたづらに外道二乘のみちをのみ学べるによりてなり。

国師かさねて問う、汝道、老僧即今在什麼処。こゝに三藏さらにいたづらの言葉をたてまつる。國師かさねてとふ、汝道、老僧即今在什麼処。ときに三藏やゝひさしくあれども、茫然として祗対なし。国師ときに三藏を叱して云わく、這野狐精、他心通在什麼処。かくのごとく叱せらると云えども、三藏なほ云う事なし、祗対せず、通路なし」

大耳三蔵は遥か遠くのインドから来たが、老僧即今在什麼処の什麽の心意を答話出来なかった事は、仏道(法)学んでいない証拠であり外道的論法を学すると糾弾されますが、大耳三蔵が来唐した当時のインド仏教は密教化に変容されつつある時期であり、インド僧に対し「什麽・甚麽・恁麽」等の中国的語法で以ての詰問は些か噛み合わない気もするが、道元禅師の評は仏道を勉強していないからとの酷評です。

さらに慧忠国師の即今在什麽処に対しての西川看競渡や天津橋上看猢孫と云った答話は「

いたづらの言葉」と断じ、這野狐精・他心通在什麼処に対する三蔵の「祗対せず、通路なし」は、三蔵が他心通=在什麽処と云う仏法に通底する語義が理解されずとの解説です。

ここまでが慧忠国師と大耳三蔵との問答に対する道元禅師の基本的態度で、さらに考究されます。

 

    三

しかあるを、古先みなおもはくは、國師の三藏を叱すること、前兩度は國師の所在をしれり、第三度のみしらず、みざるがゆゑに、國師に叱せらるとおもふ。これおほきなるあやまりなり。國師の三藏を叱することは、おほよそ三藏はじめより佛法也未夢見在なるを叱するなり。前兩度はしれりといへども、第三度をしらざると叱するにあらざるなり。おほよそ佗心通をえたりと自稱しながら、佗心通をしらざることを叱するなり。國師まづ佛法に佗心通ありやと問著し試験するなり。すでに不敢といひて、ありときこゆ。そののち、國師おもはく、たとひ佛法に佗心通ありといひて、佗心通を佛法にあらしめば恁麼なるべし。道處もし擧處なくは、佛法なるべからずとおもへり。三藏たとひ第三度わづかにいふところありとも、前兩度のごとくあらば道處あるにあらず、摠じて叱すべきなり。いま國師三度こゝろみに問著することは、三藏もし國師の問著をきくことをうるやと、たびたびかさねて三番の問著あるなり。

「古先」とは趙州・仰山・海会・玄沙・雪竇を云うわけですが、「国師の三蔵を叱することー中略―国師に叱せらると思う。これ大きなるあやまりなり」と五老拳の不徹底を説くものですが、そもそも経録の話答設定に問題がありそうですが今は黙認します。

「おほよそ他心通を得たりと自称しながら、他心通を知らざる事を叱するなり」

大耳三蔵の他心通と道元禅師の他心通の解釈の思考法が相違する為、このような食い違いが生じます。

国師まづ仏法に他心通ありやと問著し試験するなり。すでに不敢と云いて、有りと聞こゆ。その後、国師思わく、たとひ仏法に他心通有りと云いて、他心通を仏法にあらしめば恁麼なるべし。道処もし挙処なくは、仏法なるべからずと思えり。三蔵たとひ第三度わづかに云う処有りとも、前両度の如く有らば道処有るにあらず、摠じて叱すべきなり」

此の処で、道元禅師の他心通に対する考え方が「道処もし挙処なくは、仏法なるべからず」と説かれますが、「三蔵たとひ第三度わづかに云う処有りとも摠じて叱すべきなり」との態度ならば在什麽処は際限なき言語ゲームに陥り兼ねません。この場合の他心通は「黙語」と著語すべきではないでしょうか。

「いま国師三度試みに問著することは、三蔵もし国師の問著を聞くことを得るやと、度々重ねて三番の問著あるなり」

これは先般に説く「いま五位の尊宿を疑著すること両般あり。一者いはく、国師の三蔵を試験する本意を知らず。二者いはく、国師の身心を知らず」の慧忠国師の大耳三蔵に対する三番問著に対する国師の本意を五老拳に対して説くものです。

二者いはく、國師の身心をしれる古先なし。いはゆる國師の身心は、三藏法師のたやすく見及すべきにあらず、知及すべきにあらず。十聖三賢およばず、補處等覺のあきらむるところにあらず。三藏學者の凡夫なる、いかでか國師の渾身をしらん。

この道理、かならず一定すべし。國師の身心は三藏の學者しるべし、みるべしといふは謗佛法なり。經論師と齊肩なるべしと認ずるは狂顛のはなはだしきなり。佗心通をえたらんともがら、國師の在處しるべしと學することなかれ。

前段に言う処の「五位の尊宿を疑著すること両般あり」の二つ目の慧忠国師の身心に関する道元禅師の拈提部です。

ここで説く「身心」は体と心を云うのではなく「いかでか国師の渾身を知らん」とあるように、概念化されたトピックを云うのではなく全体(什麽)を称して身心と呼ばしむるものです。

この全体を云う事を三蔵の学者には知見できない事は、仏法は無常(アニッチャ)を常としますから定型言句で以ての説法は「諦仏法」とされ、「経論師」の文字学者を慧忠国師と同列にしてはいけないと言われ、「他心通を得たらん輩、国師の在処知るべしと学することなかれ」と言う事は、大耳三蔵の答話自体が諦仏法であるとの拈提です。

 

    四

佗心通は、西天竺國の土俗として、これを修得するともがら、まゝにあり。發菩提心によらず、大乘の正見によらず。佗心通をえたるともがら、佗心通のちからにて佛法を證究せる勝躅、いまだかつてきかざるところなり。佗心通を修得してのちにも、さらに凡夫のごとく發心し修行せば、おのづから佛道に證入すべし。たゞ佗心通のちからをもて佛道を知見することをえば、先聖みなまづ佗心通を修得して、そのちからをもて佛果をしるべきなり。しかあること、千佛萬祖の出世にもいまだあらざるなり。すでに佛祖の道をしることあたはざらんは、なににかはせん。佛道に不中用なりといふべし。佗心通をえたるも、佗心通をえざる凡夫も、たゞひとしかるべし。佛性を保任せんことは、佗心通も凡夫もおなじかるべきなり。學佛のともがら、外道二乘の五通六通を、凡夫よりもすぐれたりとおもふことなかれ。たゞ道心あり、佛法を學せんものは、五通六通よりもすぐれたるべし。頻伽の卵にある聲、まさに衆鳥にすぐれたるがごとし。いはんやいま西天に佗心通といふは、佗念通といひぬべし。念起はいさゝか縁ずといへども、未念は茫然なり、わらふべし。いかにいはんや心かならずしも念にあらず、念かならずしも心にあらず。心の念ならんとき、佗心通しるべからず。念の心ならんとき、佗心通しるべからず。

しかあればすなはち、西天の五通六通、このくにの薙草修田にもおよぶべからず、都無所用なり。かるがゆゑに、震旦國より東には、先徳みな五通六通をこのみ修せず、その要なきによりてなり。尺璧はなほ要なるべし、五六通は要にあらず。尺璧なほ寶にあらず、寸陰これ要樞なり。五六通、たれの寸陰をおもくせん人かこれを修習せん。おほよそ佗心通のちから、佛智の邊際におよぶべからざる道理、よくよく決定すべし。しかあるを、五位の尊宿、ともに三藏さきの兩度は國師の所在をしれりとおもへる、もともあやまれるなり。國師は佛祖なり、三藏は凡夫なり。いかでか相見の論にもおよばん。

この段の前半は外道二乗の他心通ならびに五通六通と仏道との違いを述べるものですが、四年前に興聖宝林寺での『神通』巻では六神通を「いたづらに向外の馳走を帰家の行履とあやまれるのみなり」また「四果は仏道の調度なりと云えども正伝せる三蔵なし、算沙のやから、跉跰のたぐい、いかでかこの果実を得ることあらん」と説き、「六通四果を仏道に正伝するは平常心なり」と断言され、大耳三蔵の云う他心通は「毛呑巨海、芥納須弥・身上出水、身下出火等の五通六通であり小神通なり」の文言を底本にした文章だと思われます。

「頻伽の卵にある声、まさに衆鳥にすぐれたるが如し。いはんや今西天に他心通と云うは、他念通と云いぬべし。念起は些か縁ずと云えども、未念は茫然なり、笑うべし。如何に云わんや心必ずしも念にあらず、念必ずしも心にあらず。心の念ならん時、他心通知るべからず。念の心ならんとき、他心通知るべからず」

「頻伽」は梵語のカラヴィンカの音訳語迦陵頻伽の略語で、殻の中に居る時から鳴き出すと云われ、仏の声を形容する喩えですが、この場合は慧忠国師が問う在什麽処が頻伽の卵にある声で、大耳三蔵の云う西川・天津の答話を衆鳥に比喩せられたるものと思われます。

次に「心」と「念」の違いを心は全体的把捉態、念をその一形態部位に解釈されます。さらに云うならば心は三界唯心の心に該当され、念は慮知念覚の念に相当するものですから未念の語があるわけです。

「しかあればすなはち、西天の五通六通、この国の薙草修田にも及ぶべからず、都無所用なり」

西天(インド)の五通六通と云われる小神通は草を薙り田を修する百姓にも及ばず、都て所用すること無し(都無所用)である。

「かるが故に、震旦国より東には、先徳みな五通六通を好み修せず、その要なきに依りてなり」

ですから支那・日本の仏教界では、小乗的五通六通を理解していた為、修行する行者は存在しなかったと。

「尺璧はなほ要なるべし、五六通は要にあらず。尺璧なほ宝にあらず、寸陰これ要枢なり。五六通、たれの寸陰を重くせん人かこれを修習せん」

一尺の平らな玉(ぎょく)には使い道が有るが五通六通は役に立たず、わづかな時間(寸陰)の方が貴重で誰がこれ(五六通)を修行するのか

「おほよそ他心通のちから、仏智の辺際に及ぶべからざる道理、よくよく決定すべし。しかあるを、五位の尊宿、ともに三蔵先の両度は国師の所在を知れりと思える、最も錯まれるなり。国師は仏祖なり、三蔵は凡夫なり。いかでか相見の論にも及ばん」

外道二乗の他心通は仏道の足元に及ばない道理を心に定むべし。そうであるにも関わらず、趙州・玄沙・仰山・海会・雪竇の五人の尊宿と云われる人々は、三蔵が慧忠国師に答えた西川・天津の話頭を解会したとするのが「最も錯まれるなり」と。慧忠国師は仏祖、大耳三蔵は凡夫と二元項に入り、相見(面会)した意義に及ばなかったと能所・主客的論法での解釈法です。

 

    五

國師まづいはく、汝道、老僧即今在什麼處。

この問、かくれたるところなし、あらはれたる道處あり。三藏のしらざらんはとがにあらず、五位の尊宿のきかずみざるはあやまりなり。すでに國師いはく、老僧即今在什麼處とあり。さらに汝道、老僧心即今在什麼處といはず。老僧念即今在什麼處といはず。もともきゝしり、みとがむべき道處なり。しかあるを、しらずみず、國師の道處をきかずみず。かるがゆゑに、國師の身心をしらざるなり。道處あるを國師とせるがゆゑに、もし道處なきは國師なるべからざるがゆゑに。いはんや國師の身心は、大小にあらず、自佗にあらざること、しるべからず。頂あること、鼻孔あること、わすれたるがごとし。國師たとひ行李ひまなくとも、いかでか作佛を圖せん。かるがゆゑに、佛を拈じて相待すべからず。

國師すでに佛法の身心あり、神通修證をもて測度すべからず。絶慮忘縁を擧して擬議すべからず。商量不商量のあたれるところにあらざるべし。國師は有佛性にあらず、無佛性にあらず、虚空身にあらず。かくのごとくの國師の身心、すべてしらざるところなり。いま曹谿の會下には、青原南嶽のほかは、わづかに大證國師、その佛祖なり。いま五位の尊宿、おなじく勘破すべし。

さらに続けて在什麽処の考究ですが、「隠れたる処なし顕われたる道処」と答えを提示されます。在什麽処をなんの処にか在ると解読すると隠顕の義になるが、いづれの処にも在ると解会するなら道処は限定されませんから顕われたる道処と道得されるわけです。

「三藏の知らざらんは科にあらず、五位の尊宿の聞かず見ざるは錯まりなり。すでに国師云わく、老僧即今在什麼処とあり。さらに汝道、老僧心即今在什麼処と云わず。老僧念即今在什麼処と云わず。最も聞き知り、見咎むべき道処なり」

ここで焦点を三蔵から五位の尊宿に変え、大耳三蔵が在什麽処の意を知らなかったのは凡夫であるから科(とが)ではなく仕方なく、問題は後世の五人の尊宿の聞かず見ざるが錯まりと論究されます。その錯まりは心在什麽とか念在什麽とかを問い質しているのではなく、仏法の関棙子(急所)である在什麽と云う最も聞き知り親しんだ語を見咎むべきであるとの事です。

「しかあるを、知らず見ず、国師の道処を聞かず見ず。かるが故に、国師の身心を知らざるなり。道処あるを国師とせるが故に、もし道処なきは国師なるべからざるが故に。いはんや国師の身心は、大小にあらず、自他にあらざること、知るべからず。頂あること、鼻孔あること、忘れたるが如し。国師たとひ行李ひまなくとも、いかでか作仏を図せん。かるが故に、仏を拈じて相待すべからず」

このように親切に老僧即今在什麽処とだけ云っているのにも関わらず、五人の尊宿たちは慧忠国師を知らず聞かず見ずと断言され、さらには身心を知らざるなりと最初の設問の疑著する両般が繰り返されます。重説になりますが身心は渾身と同義語ですから、全一身・身一全・全一心・心一全と表現し得るものです。ですから身心には大中小の区分けは出来ず、さらに自他の二分立に分別する事など不可能です。この趙州等の五老人は慧忠国師に頭頂や鼻の穴がある真実人体と云う実体も見失ったようだと、痛烈なる批評です。

そして慧忠国師については、行李(生活)が間断なくても作仏という偶像は図らず、また仏という概念を持ち出して対比するような人物ではないとの拈提です。

国師すでに仏法の身心あり、神通修証をもて測度すべからず。絶慮忘縁を挙して擬議すべからず。商量不商量のあたれる処にあらざるべし。国師は有仏性にあらず、無仏性にあらず、虚空身にあらず。かくの如くの国師の身心、すべて知らざる処なり。いま曹谿の会下には、青原南嶽のほかは、わづかに大証国師、その仏祖なり。いま五位の尊宿、同じく勘破すべし」

国師=仏法=身心と三者を同義体語と解し、要は共々尽界を具現化する語句としての理解である。「仏法の身心」と云うより仏法は身心と云い換えた方が適語かも知れない。「神通修証」とは五通六通の染汚せられた小神通を指し、「絶慮忘縁」は無念無想的はからいで、「商量不商量」は問答審議の有り無し等で仏法は推し量る事は出来ないとの事です。

次に言う「国師は有仏性・無仏性・虚空身にあらず」とは一ツの状態状況に固定化を避ける為に、このような言い方をされます。

「曹谿」の六祖慧能の門下には四十三人の名が列挙されますが、その両頭には曹洞系に連なる青原行思(―740)・臨済系に列する南嶽懐譲(677―744)のほかに大証国師つまり南陽慧忠(―775)三人を特に仏祖なりと位置付けての論証で、これから五位の尊宿に対する批評(勘破)が始まります。

 

    六

趙州いはく、國師は三藏の鼻孔上にあるがゆゑにみずといふ。この道處、そのいひなし。國師なにとしてか三藏の鼻孔上にあらん。三藏いまだ鼻孔あらず、もし三藏に鼻孔ありとゆるさば、國師かへりて三藏をみるべし。國師の三藏をみること、たとひゆるすとも、たゞこれ鼻孔對鼻孔なるべし。三藏さらに國師と相見すべからず。

これから五老拳に対する拈語で趙州従諗和尚を取り挙げます。

まづ最初に僧問趙州日、大耳三蔵、第三度、不見国師在所、未審、国師在什麽処。の問いに対する趙州和尚が云った在三蔵鼻孔上を「国師は三蔵の鼻孔上に在るが故に見ず」と云い改め、この言い方では意味なしと断言されます。その理由を「三蔵にはまだ鼻孔が無いのに、どうして慧忠国師が三蔵の鼻孔の上に在れようか」とのコメントが此の段での要略となりますが、前々段で説くように「国師は仏祖なり、三蔵は凡夫なり」を承けての言辞で、三蔵には仏祖としての鼻孔はない事を「三蔵いまだ鼻孔あらず」と表現されるものです。

「もし三藏に鼻孔ありと許さば」とは三蔵が仏祖と成ったら、国師と三蔵は相見が適うを「国師かへりて三蔵を見るべし」と言われます。仮にも国師が三蔵を認めたとしても、身体の一部である鼻孔と鼻孔が向き合うに過ぎず、凡夫である三蔵には仏祖としての国師と相互に見参する事はないとのコメントです。

玄沙いはく、只爲太近。

まことに太近はさもあらばあれ、あたりにはいまだあたらず。いかならんかこれ太近。おもひやる、玄沙いまだ太近をしらず、太近をを參ぜず。ゆゑいかんとなれば、太近に相見なしとのみしりて、相見の太近なることしらず。いふべし、佛法におきて遠之遠なりと。もし第三度のみを太近といはば、前兩度は太遠在なるべし。しばらく玄沙にとふ、なんぢなにをよんでか太近とする。拳頭をいふか、眼睛をいふか。いまよりのち、太近にみるところなしといふことなかれ。

次に玄沙師備(835―908)和尚が云う「ただはなはだ近すぎた為」は「既在鼻孔上、為什麽不見」と先の趙州の言を承けての答話設定に注視を要す。

この「太近」に対する拈提では「さもあらばあれ、あたりにはいまだあたらず」と有りますが、さもあらばあれはそれはともかくも又はなにはともあれと解し、玄沙の太近の答話は云い得ていない的はずれである事を「あたりにはいまだあたらず」と言われます。

玄沙の太近の理解に至っては思いやられ、太近自体を知らず参究参学もいまだと『十方』巻『遍参』巻等で取り扱われた玄沙とは思われぬ酷評です。

太近を知らない理由は、近すぎると相見は出来ないと思い込み、相見そのものを解会していないからだと。玄沙の仏法理解は「遠之遠」方角違いであると。

「もし第三度のみを太近と云わば、前両度は太遠在なるべし」は、僧が趙州に問うた「大耳三蔵、第三度、不見国師在処、未審、国師在什麽処」を承けての第一第二答話を是とした趙州話を踏襲しての「前両度は太遠在なるべし」と玄沙に対し二極分限思考法と思われる拈提です。

最後に玄沙を問い質します。「はなはだ近い」ならば鼻孔のほかに拳や眼睛も同じように云うのかと。これより以後、太近であるが為に「慧忠国師は大耳三蔵が見えなかった」などと云うなとの叱声で終わらせます。

仰山いはく、前兩度是渉境心、後入自受用三昧、所以不見。

仰山なんぢ東土にありながら小釋迦のほまれを西天にほどこすといへども、いまの道取、おほきなる不是あり。渉境心と自受用三昧と、ことなるにあらず。かるがゆゑに、渉境心と自受用とのことなるゆゑにみず、といふべからず。しかあれば、自受用と渉境心とのゆゑを立すとも、その道取いまだ道取にあらず。自受用三昧にいれば、佗人われをみるべからずといはば、自受用さらに自受用を證すべからず、修證あるべからず。仰山なんぢ前兩度は實に國師の所在を三藏みるとおもひ、しれりと學せば、いまだ學佛の漢にあらず。

おほよそ大耳三藏は、第三度のみにあらず、前兩度も國師の所在はしらず、みざるなり。この道取のごとくならば、三藏の國師の所在をしらざるのみにあらず、仰山もいまだ國師の所在をしらずといふべし。しばらく仰山にとふ、國師即今在什麼處。このとき、仰山もし開口を擬せば、まさに一喝をあたふべし。

三人目に仰山慧寂(807―883)和尚に対する拈提ですが、一般的には「渉境心」とは分別心を「自受用三昧」とは自分自身に成りきる境涯を云うものですが、後に同等語の由を説かれます。

「仰山なんぢ東土に在りながら小釈迦の誉れを西天に施すと云えども、いまの道取、多きなる不是あり」

『御抄』(「註解全書」九・二一)では仰山のことばを「梵僧が梵語に飜して西天にて披露し、釈尊の再出世し給うかと云う。故に小釈迦の誉れ西天に施すと云う」と註解されますが、道元禅師は渉境心・自受用三昧の解釈は大きな誤釈と言われます。

「渉境心と自受用三昧と、異なるにあらず。かるが故に、渉境心と自受用との異なる故に見ず、と云うべからず。しかあれば、自受用と渉境心との故を立すとも、その道取いまだ道取にあらず。自受用三昧に入れば、他人われを見るべからずと云うわば、自受用さらに自受用を証すべからず、修証あるべからず」

道元禅師の見方は「渉境心」も「自受用三昧」も同義語として扱われますが、三昧に心を付けて渉境心・自受用三昧心とと並語することで「心」に内包されますから同義語とし、故に第三度目に三蔵が国師を見ずとは言えないとの論理法です。

自受用も渉境心も概念上での学問用語ですから、証明しようとしても言及できるものではありません。

自受用三昧だけを独立させてみても心の一部位で、連続態ですから「自受用さらに自受用を証すべからず」と言われ、さらに修と証を別々に取り出すことは出来ませんから「修証あるべからず」と著語されます。

「仰山なんぢ前両度は実に国師の所在を三蔵見ると思い、知れりと学せば、いまだ学仏の漢にあらず。凡そ大耳三蔵は、第三度のみにあらず、前了度も国師の所在は知らず、見ざるなり。この道取の如くならば、三蔵の国師の所在を知らざるのみにあらず、仰山もいまだ国師の所在を知らずと云うべし」

前二者同様に叱せられますが、問十答百の鷲子(『行持』巻)と称せられた仰山慧寂を「学仏の漢にあらず」さらに西天の三蔵と同位に比定する「仰山も未だ国師の所在を知らず」との評価です。

「しばらく仰山に問う、国師即今在什麼処。この時、仰山もし開口を擬せば、まさに一喝を与うべし」

あらためて仰山の語誤を糾すために在什麼処に対し答一でも云うものなら、「一喝を与うべし」との一喝を『御抄』(「註解全書」九・二二)では「云わずに在るようと云う心地」と解され、『聞書』(「同書」九・三三)では「国師の所在什麼処ならんには開口の義あるべからず」との見解です。

玄沙の徴にいはく、前兩度還見麼。

いまこの前兩度還見麼の一言、いふべきをいふときこゆ。玄沙みづから自己の言句を學すべし。この一句、よきことはすなはちよし。しかあれども、たゞこれ見如不見といはんがごとし。ゆゑに是にあらず。

玄沙が三蔵を呼び寄せて、前の二度は本当に見たのか。と三蔵を問い詰める設定で、この問い自体は的を得たものだが只これだけでは、見る見ないの能所見である為に是にあらずとの評著です。

これをきゝて、雪竇山明覺禪師重顯いはく、敗也、敗也。

これ玄沙のいふところを道とせるとき、しかいふとも、玄沙の道は道にあらずとせんとき、しかいふべからず。

四人目に雪竇重顕(980―1052)和尚の云う敗也敗也に対するものですが、これは雪竇が玄沙の前両度還見麼を是とし三蔵に対しやられたと云うもので、玄沙の言明を是としない時には敗也敗也などとは云うべからず、と平面的に捉えた著語です。

海會端いはく、國師若在三藏鼻孔上、有什麼難見。殊不知、國師在三藏眼睛裏。

これまた第三度を論ずるのみなり。前兩度もかつていまだみざることを、呵すべきを呵せず。いかでか國師を三藏の鼻孔上にあり、眼睛裏にあるともしらん。もし恁麼いはば、國師の言句いまだきかずといふべし。三藏いまだ鼻孔なし、眼睛なし。たとひ三藏おのれが眼睛鼻孔を保任せんとすとも、もし國師きたりて鼻孔眼睛裏にいらば、三藏の鼻孔眼睛、ともに當時裂破すべし。すでに裂破せば、國師の窟籠にあらず。五位の尊宿、ともに國師をしらざるなり。

最後に五人目の海会端つまり白雲守端(1025―1072)和尚に対する評価です。

趙州・仰山と同様に三度の国師の問いに対し第一第二は論ぜずに、第三度を論ずるのみなりと落胆されます。

「いかでか国師を三蔵の鼻孔上にあり、眼睛裏に有るとも知らん。もし恁麼云わば、国師の言句いまだ聞かずと云うべし」

慧忠国師の云う在什麼処の意も理解していないのに、どうして鼻孔上とか眼睛裏を知り得るかと。

「三蔵いまだ鼻孔なし、眼睛なし。たとひ三蔵おのれが眼睛鼻孔を保任せんとすとも、もし国師来たりて鼻孔眼睛裏に入らば、三蔵の鼻孔眼睛、ともに当時裂破すべし。すでに裂破せば、国師の窟籠にあらず。五位の尊宿、ともに国師を知らざるなり」

三蔵いまだ鼻孔なしは先に趙州いはくの段にて三蔵いまだ鼻孔あらずからの転成語ですが、三蔵は仏法を知らない凡夫の意と解し、三蔵おのれが眼睛鼻孔を保任せんとは菩提心を発して国師同様に仏祖となる事を指しますから、主客同一的状態となり国師と三蔵の見分けがつかない状況を「国師来たりて鼻孔眼睛裏に入らば、三蔵の鼻孔眼睛、ともに当時裂破すべし。すでに裂破せば、国師の窟籠にあらず」と能観所観一体を言うものです。

 

    六

國師はこれ一代の古佛なり、一世界の如來なり。佛正法眼藏あきらめ正傳せり。木槵子眼たしかに保任せり。自佛に正傳し、佗佛に正傳す。釋迦牟尼佛と同參しきたれりといへども、七佛と同時參究す。かたはらに三世諸佛と同參しきたれり。空王のさきの成道せり、空王ののちに成道せり。正當空王佛に同參成道せり。國師もとより娑婆世界を國土とせりといへども、娑婆かならずしも法界のうちにあらず、盡十方界のうちにあらず。釋迦牟尼佛の娑婆國の主なる、國師の國土をうばはず、罣礙せず。たとへば、前後の佛祖おのおのそこばくの成道あれど、あひうばはず、罣礙せざるがごとし。前後の佛祖の成道、ともに成道に罣礙せらるゝがゆゑにかくのごとし。

この段の前半部は慧忠国師を讃嘆する一代の古仏・一世界の如来釈迦牟尼仏と同参・空王仏に同参成道等の法語で満たされ、同様に慧忠を扱かった『即心是仏』巻(延応元年(1239))には「大証国師は曹谿古仏の上足なり、天上人間の大善知識なり」と有るを見ても、この巻に於ける大証慧忠国師の位置づけが窺われます。

なお古仏の尊称は「先師古仏」「曹谿古仏」「宏智古仏」「高祖古仏」「圜悟古仏」「黄檗古仏」「趙州古仏」等」を道元禅師は挙称されます。

「木槵子眼たしかに保任せり」の木槵子は羽子板の羽の核に当たるムクロジを云い、転じて眼睛(ひとみ)に喩えて坐禅を比喩する言い方です。

「自仏に正伝し、他仏に正伝す」云々は自他の分別を超越した事を云い、その自他なきを釈迦―七仏―三世諸仏を同参させ、自他という能観所観的見方を嫌う文言です。

「空王の先の成道せり、空王の後に成道せり。正当空王仏に同参成道せり」

空王はビッグバン以前の状態を指しますが、ビッグバンを境面として量子的世界から相対的次元に変成しても連続体は一次元ですから、ともに成道と言うキーワードでの包括的説明です。

後半部では慧忠国師釈迦牟尼仏との関係を「前後の仏祖の成道、ともに成道に罣礙せず」と前句同様成道で以て連関を表し、娑婆世界―法界―尽十方界の透脱化を説くものです。

大耳三藏の國師をしらざるを證據として、聲聞縁覺人、小乘のともがら、佛祖の邊際をしらざる道理、あきらかに決定すべし。國師の三藏を叱する宗旨、あきらめ學すべし。

いはゆるたとひ國師なりとも、前兩度は所在をしられ、第三度はわづかにしられざらんを叱せんはそのいひなし、三分に兩分しられんは全分をしれるなり。かくのごとくならん、叱すべきにあらず。たとひ叱すとも、全分の不知にあらず。三藏のおもはんところ、國師の懡羅なり。わづかに第三度しられずとて叱せんには、たれか國師を信ぜん。三藏の前兩度をしりぬるちからをもて、國師をも叱しつべし。

これから提唱の締め括りになり、大耳三蔵が慧忠国師を理解できなかった証拠として声聞縁覚人としますが、あらためて声聞縁覚人とは、大乗人に対する小乗人を指し、大乗が利他を修するに対し小乗の自利のみを修するを大耳三蔵と位置づけ、さらに慧忠国師が執拗なまでに三蔵を叱する宗旨が説かれます。

「たとひ国師なりとも、前両度は所在を知られ、第三度はわづかに知られざらんを叱せんはその云いなし、三分に両分知られんは全分を知れるなり」

仮に三蔵の二回の答えは正解で、三回目の質問が不答話であった為に、国師が叱ったと云うのは間違いであり、三回の内二回を他心通で見破ったと云うなら、全て見破れたと仮定する。

「かくの如くならん、叱すべきにあらず。たとい叱すとも、全分の不知にあらず。三蔵の思わん処、国師の懡羅なり」

そのように三蔵の三回の答話が正しかったら、叱する必要は有りませんが、例えば叱するにしても全分(三回)知らないのではないので、恥ずべき(懡羅)は国史の方ではないか、と云うのが三蔵のいい分であるとの拈提です。

「わづかに第三度知られずとて叱せんには、たれか国師を信ぜん。三蔵の前両度を知りぬる力を以て、国師をも叱しつべし」

たった一回(第三度)だけ知らないのを叱するようでは、世間の人は国師を信用しないだろう。今度は逆に三蔵が国師を叱ってやろうと、三蔵からのいい分を臭拳頭の解会として説かれるものです。

國師の三藏を叱せし宗旨は、三度ながら、はじめよりすべて國師の所在所念、身心をしらざるゆゑに叱するなり。かつて佛法を見聞習學せざりけることを叱するなり。この宗旨あるゆゑに、第一度より第三度にいたるまで、おなじことばにて問著するなり。

第一番に三藏まうす、和尚是一國之師、何卻去西川看競渡。しかいふに、國師いまだいはず、なんぢ三藏、まことに老僧所在をしれりとゆるさず。たゞかさねざまに三度しきりに問するのみなり。この道理をしらずあきらめずして、國師よりのち數百歳のあひだ、諸方の長老、みだりに下語、説道理するなり。

前來の箇々、いふことすべて國師の本意にあらず、佛法の宗旨にかなはず。あはれむべし、前後の老古錐、おのおの蹉過せること。いま佛法のなかに、もし佗心通ありといはば、まさに佗身通あるべし、佗拳頭通あるべし、佗眼睛通あるべし。すでに恁麼ならば、まさに自心通あるべし、自身通あるべし。すでにかくのごとくならんには、自心の自拈、いまし自心通なるべし。かくのごとく道取現成せん、おのれづから心づからの佗心通ならん。しばらく問著すべし、拈佗心通也是、拈自心通也是。速道々々。是則且置、汝得吾髓、是佗心通也。

前段は大耳三蔵の視点からの国師像でしたが、最終段では今一度国師についての考察です。

国師の三蔵を叱せし宗旨は、三度ながら、始めよりすべて国師の所在所念、身心を知らざる故に叱するなり」

慧忠国師が三度目の問いの後に遮野狐精と叱った理由は、最初から三問共々国師が云う老僧即今在什麼処の真意を解せず、不敢などと云うから叱するわけです。

「かつて仏法を見聞習学せざりける事を叱するなり。この宗旨ある故に、第一度より第三度に至るまで、同じ言葉にて問著するなり」

釈尊を本師とする仏法に於いても、時代状況や宗学宗旨等の違いで天地懸隔ほどの差が出る事があるから、国師は三度とも老僧即今在什麼処の語で以て問うてみたと。

「第一番に三蔵申す、和尚是一国之師、何却去西川看競渡。しか云うに、国師いまだ云わず、なんぢ三蔵、まことに老僧所在を知れりと許さず。たゞ重ねざまに三度頻りに問するのみなり」

国師と三蔵それぞれの認識の差異で、三蔵の認識する他心通は去西川であるので、国師いまだ云わずを黙認と可した三蔵とのすれ違い問答のような気がします。

「この道理を知らず明らめずして、国師よりのち数百歳の間、諸方の長老、妄りに下語、説道理するなり」

国師が三蔵の答話に対し無応答ならびに三度の同じ質問の老僧即今在什麼処を趙州以下の五人の長老たちは、什麼の真意を解さず只批評や道理を説くばかりだと。

「前来の箇々、云うこと全て国師の本意にあらず、仏法の宗旨に適わず。哀れむべし、前後の老古錐、おのおの蹉過せること」

前言の繰り返しで老古錐は大先輩の意で、蹉過はつまづく・すれちがうの意です。

「いま仏法の中に、もし他心通ありと云わば、まさに他身通あるべし、他拳頭通あるべし、他眼睛通あるべし。すでに恁麼ならば、まさに自心通あるべし、自身通あるべし。すでにかくの如くならんには、自心の自拈、いまし自心通なるべし。かくの如く道取現成せん、おのれづから心づからの他心通ならん」

これから数行が道元禅独自の論述法で、ここで言う他心通は五通六通の小神通ではなく、仏法のなかの他心通であることを認得しなければなりません。この場合は釈迦→摩訶迦葉に六祖慧能→青原・南嶽に単伝された仏法を「他心通」と言われ、その時には身心不二の論法に徹するならば「他身通」も有りなんで、「他拳頭通」も他身通を言い換えたもので「他眼睛通」も同様で、眼睛を生命そのものとする視点からすると他心通に包含されるものです。これらのように他が有るなら自心通さらには自身通も具備しなければなりません。

「すでにかくの如くならんには、自心の自拈、いまし自心通なるべし。かくの如く道取現成せん、おのれづから心づからの他心通ならん」

自心通・自身通があるならば「自心の自拈」つまり自分を自覚する事を言い、それが自心通であり、おのづから先程から説くように他心通に帰着するものであると。

「しばらく問著すべし、拈他心通也是、拈自心通也是。速道々々。是則且置、汝得吾随、是他心通也」

最後に我々に他心通を拈ずるを是とするか、自心通を拈ずるを是とするかを速道速道すみやかに言えと詰問されますが、これまで見て来たように、自他の区分けをする事は尽十方界を俯瞰する仏法とは呼べなくなり、どちらも是とすべきをこのように設問形式に置き換えられます。

結論は「汝得吾随、是他心通也」とのことですが、これは『葛藤』巻で説かれるように「祖道の皮肉骨髄は浅深にあらざるなり。見解に殊劣ありとも、祖道は得吾なるのみなり」と拈提され、また「正伝なき輩思わく、四子各所解に親疎あるによりて、祖道また皮肉骨髄の浅深不同なりー中略―かくの如く云うは未だ曾て仏祖の参学なく祖道の正伝あらざるなり」の文言からも推察されるように、他心通は人々の心根を探る事ではなく、得吾という自己の真実を得たことが他心通であり、また仏祖に参学したる正伝が他心通であり、決して人を驚嘆させたり大悟然たる態度を諌めるもので、日々底の真実体が「他心通」であるとの提唱です。

 

 

                          

正法眼蔵第七十三「佗心通」を読み解く

正法眼蔵第七十三「佗心通」を読み解く

 

 西京光宅寺慧忠國師者、越州諸曁人也。姓冉氏。自受心印、居南陽白崖山黨子谷、四十餘祀。不下山門、道行聞于帝里。唐肅宗上元二年、勅中使孫朝進賚詔徴赴京。待以師禮。勅居千福寺西禪院。及代宗臨御、復迎止光宅精藍、十有六載、隨機説法。時有西天大耳三藏、到京。云得佗心慧眼。帝勅令與國師試験。三藏才見師便禮拝、立于右邊。師問曰、汝得佗心通耶。對曰、不敢。師曰、汝道、老僧即今在什麼處。三藏曰、和尚是一國之師、何得卻去西川看競渡。師再問、汝道、老僧即今在什麼處。三藏曰、和尚是一國之師、何得卻在天津橋上、看弄猢猻。師第三問、汝道、老僧即今在什麼處。三藏良久、罔知去處。師曰、遮野狐精、佗心通在什麼處。三藏無對。

 僧問趙州曰、大耳三藏、第三度、不見國師在處、未審、國師在什麼處。趙州云、在三藏鼻孔上。

 僧問玄沙、既在鼻孔上、爲什麼不見。玄沙云、只爲太近。

 僧問仰山曰、大耳三藏、第三度、爲什麼、不見國師。仰山曰、前兩度是渉境心、後入自受用三昧、所以不見。

 海會端曰、國師若在三藏鼻孔上、有什麼難見。殊不知、國師在三藏眼睛裏。

 玄沙徴三藏曰、汝道、前兩度還見麼。

 雪竇明覺重顯禪師曰、敗也、敗也。

 大證國師の大耳三藏を試験せし因縁、ふるくより下語し道著する臭拳頭おほしといへども、ことに五位の老拳頭あり。しかあれども、この五位の尊宿、おのおの諦當甚諦當はなきにあらず、國師の行履を覰見せざるところおほし。ゆゑいかんとなれば、古今の諸員みなおもはく、前兩度は三藏あやまらず國師の在處をしれりとおもへり。これすなはち古先のおほきなる不是なり、晩進しらずはあるべからず。

 いま五位の尊宿を疑著すること兩般あり。一者いはく、國師の三藏を試験する本意をしらず。二者いはく、國師の身心をしらず。

 しばらく國師の三藏を試験する本意をしらずといふは、第一番に、國師いはく、汝道、老僧即今在什麼處といふ本意は、三藏もし佛法を見聞する眼睛なりやと試問するなり。三藏おのづから佛法の佗心通ありやと試問するなり。當時もし三藏に佛法あらば、老僧即今在什麼處としめされんとき、出身のみちあるべし、親曾の便宜あらしめん。いはゆる國師道の老僧即今在什麼處は、作麼生是老僧と問著せんがごとし。老僧即今在什麼處は、即今是什麼時節と問著するなり。在什麼處は、這裏是什麼處在と道著するなり。喚什麼作老僧の道理あり。國師かならずしも老僧にあらず、老僧かならず拳頭なり。大耳三藏、はるかに西天よりきたれりといへども、このこゝろをしらざることは、佛道を學せざるによりてなり、いたづらに外道二乘のみちをのみまなべるによりてなり。

 國師かさねてとふ、汝道、老僧即今在什麼處。こゝに三藏さらにいたづらのことばをたてまつる。

 國師かさねてとふ、汝道、老僧即今在什麼處。ときに三藏やゝひさしくあれども、茫然として祗對なし。國師ときに三藏を叱していはく、這野狐精、佗心通在什麼處。かくのごとく叱せらるといへども、三藏なほいふことなし、祗對せず、通路なし。

 しかあるを、古先みなおもはくは、國師の三藏を叱すること、前兩度は國師の所在をしれり、第三度のみしらず、みざるがゆゑに、國師に叱せらるとおもふ。これおほきなるあやまりなり。國師の三藏を叱することは、おほよそ三藏はじめより佛法也未夢見在なるを叱するなり。前兩度はしれりといへども、第三度をしらざると叱するにあらざるなり。おほよそ佗心通をえたりと自稱しながら、佗心通をしらざることを叱するなり。

 國師まづ佛法に佗心通ありやと問著し試験するなり。すでに不敢といひて、ありときこゆ。そののち、國師おもはく、たとひ佛法に佗心通ありといひて、佗心通を佛法にあらしめば恁麼なるべし。道處もし擧處なくは、佛法なるべからずとおもへり。三藏たとひ第三度わづかにいふところありとも、前兩度のごとくあらば道處あるにあらず、摠じて叱すべきなり。いま國師三度こゝろみに問著することは、三藏もし國師の問著をきくことをうるやと、たびたびかさねて三番の問著あるなり。

 二者いはく、國師の身心をしれる古先なし。いはゆる國師の身心は、三藏法師のたやすく見及すべきにあらず、知及すべきにあらず。十聖三賢およばず、補處等覺のあきらむるところにあらず。三藏學者の凡夫なる、いかでか國師の渾身をしらん。

 この道理、かならず一定すべし。國師の身心は三藏の學者しるべし、みるべしといふは謗佛法なり。經論師と齊肩なるべしと認ずるは狂顛のはなはだしきなり。佗心通をえたらんともがら、國師の在處しるべしと學することなかれ。

 佗心通は、西天竺國の土俗として、これを修得するともがら、まゝにあり。發菩提心によらず、大乘の正見によらず。佗心通をえたるともがら、佗心通のちからにて佛法を證究せる勝躅、いまだかつてきかざるところなり。佗心通を修得してのちにも、さらに凡夫のごとく發心し修行せば、おのづから佛道に證入すべし。たゞ佗心通のちからをもて佛道を知見することをえば、先聖みなまづ佗心通を修得して、そのちからをもて佛果をしるべきなり。しかあること、千佛萬祖の出世にもいまだあらざるなり。すでに佛祖の道をしることあたはざらんは、なににかはせん。佛道に不中用なりといふべし。佗心通をえたるも、佗心通をえざる凡夫も、たゞひとしかるべし。佛性を保任せんことは、佗心通も凡夫もおなじかるべきなり。學佛のともがら、外道二乘の五通六通を、凡夫よりもすぐれたりとおもふことなかれ。たゞ道心あり、佛法を學せんものは、五通六通よりもすぐれたるべし。頻伽の卵にある聲、まさに衆鳥にすぐれたるがごとし。いはんやいま西天に佗心通といふは、佗念通といひぬべし。念起はいさゝか縁ずといへども、未念は茫然なり、わらふべし。いかにいはんや心かならずしも念にあらず、念かならずしも心にあらず。心の念ならんとき、佗心通しるべからず。念の心ならんとき、佗心通しるべからず。

 しかあればすなはち、西天の五通六通、このくにの薙草修田にもおよぶべからず、都無所用なり。かるがゆゑに、震旦國より東には、先徳みな五通六通をこのみ修せず、その要なきによりてなり。尺璧はなほ要なるべし、五六通は要にあらず。尺璧なほ寶にあらず、寸陰これ要樞なり。五六通、たれの寸陰をおもくせん人かこれを修習せん。おほよそ佗心通のちから、佛智の邊際におよぶべからざる道理、よくよく決定すべし。しかあるを、五位の尊宿、ともに三藏さきの兩度は國師の所在をしれりとおもへる、もともあやまれるなり。國師は佛祖なり、三藏は凡夫なり。いかでか相見の論にもおよばん。

 國師まづいはく、汝道、老僧即今在什麼處。

 この問、かくれたるところなし、あらはれたる道處あり。三藏のしらざらんはとがにあらず、五位の尊宿のきかずみざるはあやまりなり。すでに國師いはく、老僧即今在什麼處とあり。さらに汝道、老僧心即今在什麼處といはず。老僧念即今在什麼處といはず。もともきゝしり、みとがむべき道處なり。しかあるを、しらずみず、國師の道處をきかずみず。かるがゆゑに、國師の身心をしらざるなり。道處あるを國師とせるがゆゑに、もし道處なきは國師なるべからざるがゆゑに。いはんや國師の身心は、大小にあらず、自佗にあらざること、しるべからず。頂寧あること、鼻孔あること、わすれたるがごとし。國師たとひ行李ひまなくとも、いかでか作佛を圖せん。かるがゆゑに、佛を拈じて相待すべからず。

 國師すでに佛法の身心あり、神通修證をもて測度すべからず。絶慮忘縁を擧して擬議すべからず。商量不商量のあたれるところにあらざるべし。國師は有佛性にあらず、無佛性にあらず、虚空身にあらず。かくのごとくの國師の身心、すべてしらざるところなり。いま曹谿の會下には、青原南嶽のほかは、わづかに大證國師、その佛祖なり。いま五位の尊宿、おなじく勘破すべし。

 趙州いはく、國師は三藏の鼻孔上にあるがゆゑにみずといふ。この道處、そのいひなし。國師なにとしてか三藏の鼻孔上にあらん。三藏いまだ鼻孔あらず、もし三藏に鼻孔ありとゆるさば、國師かへりて三藏をみるべし。國師の三藏をみること、たとひゆるすとも、たゞこれ鼻孔對鼻孔なるべし。三藏さらに國師と相見すべからず。

 玄沙いはく、只爲太近。

 まことに太近はさもあらばあれ、あたりにはいまだあたらず。いかならんかこれ太近。おもひやる、玄沙いまだ太近をしらず、太近を參ぜず。ゆゑいかんとなれば、太近に相見なしとのみしりて、相見の太近なることしらず。いふべし、佛法におきて遠之遠なりと。もし第三度のみを太近といはば、前兩度は太遠在なるべし。しばらく玄沙にとふ、なんぢなにをよんでか太近とする。拳頭をいふか、眼睛をいふか。いまよりのち、太近にみるところなしといふことなかれ。

 仰山いはく、前兩度是渉境心、後入自受用三昧、所以不見。

 仰山なんぢ東土にありながら小釋迦のほまれを西天にほどこすといへども、いまの道取、おほきなる不是あり。渉境心と自受用三昧と、ことなるにあらず。かるがゆゑに、渉境心と自受用とのことなるゆゑにみず、といふべからず。しかあれば、自受用と渉境心とのゆゑを立すとも、その道取いまだ道取にあらず。自受用三昧にいれば、佗人われをみるべからずといはば、自受用さらに自受用を證すべからず、修證あるべからず。仰山なんぢ前兩度は實に國師の所在を三藏みるとおもひ、しれりと學せば、いまだ學佛の漢にあらず。

 おほよそ大耳三藏は、第三度のみにあらず、前兩度も國師の所在はしらず、みざるなり。この道取のごとくならば、三藏の國師の所在をしらざるのみにあらず、仰山もいまだ國師の所在をしらずといふべし。しばらく仰山にとふ、國師即今在什麼處。このとき、仰山もし開口を擬せば、まさに一喝をあたふべし。

 玄沙の徴にいはく、前兩度還見麼。

 いまこの前兩度還見麼の一言、いふべきをいふときこゆ。玄沙みづから自己の言句を學すべし。この一句、よきことはすなはちよし。しかあれども、たゞこれ見如不見といはんがごとし。ゆゑに是にあらず。これをきゝて、

 雪竇山明覺禪師重顯いはく、敗也、敗也。

 これ玄沙のいふところを道とせるとき、しかいふとも、玄沙の道は道にあらずとせんとき、しかいふべからず。

 海會端いはく、國師若在三藏鼻孔上、有什麼難見。殊不知、國師在三藏眼睛裏。

 これまた第三度を論ずるのみなり。前兩度もかつていまだみざることを、呵すべきを呵せず。いかでか國師を三藏の鼻孔上にあり、眼睛裏にあるともしらん。もし恁麼いはば、國師の言句いまだきかずといふべし。三藏いまだ鼻孔なし、眼睛なし。たとひ三藏おのれが眼睛鼻孔を保任せんとすとも、もし國師きたりて鼻孔眼睛裏にいらば、三藏の鼻孔眼睛、ともに當時裂破すべし。すでに裂破せば、國師の窟籠にあらず。

 五位の尊宿、ともに國師をしらざるなり。國師はこれ一代の古佛なり、一世界の如來なり。佛正法眼藏あきらめ正傳せり。木槵子眼たしかに保任せり。自佛に正傳し、佗佛に正傳す。釋迦牟尼佛と同參しきたれりといへども、七佛と同時參究す。かたはらに三世諸佛と同參しきたれり。空王のさきの成道せり、空王ののちに成道せり。正當空王佛に同參成道せり。國師もとより娑婆世界を國土とせりといへども、娑婆かならずしも法界のうちにあらず、盡十方界のうちにあらず。釋迦牟尼佛の娑婆國の主なる、國師の國土をうばはず、罣礙せず。たとへば、前後の佛祖おのおのそこばくの成道あれど、あひうばはず、罣礙せざるがごとし。前後の佛祖の成道、ともに成道に罣礙せらるゝがゆゑにかくのごとし。

 大耳三藏の國師をしらざるを證據として、聲聞縁覺人、小乘のともがら、佛祖の邊際をしらざる道理、あきらかに決定すべし。國師の三藏を叱する宗旨、あきらめ學すべし。

 いはゆるたとひ國師なりとも、前兩度は所在をしられ、第三度はわづかにしられざらんを叱せんはそのいひなし、三分に兩分しられんは全分をしれるなり。かくのごとくならん、叱すべきにあらず。たとひ叱すとも、全分の不知にあらず。三藏のおもはんところ、國師の懡羅なり。わづかに第三度しられずとて叱せんには、たれか國師を信ぜん。三藏の前兩度をしりぬるちからをもて、國師をも叱しつべし。

 國師の三藏を叱せし宗旨は、三度ながら、はじめよりすべて國師の所在所念、身心をしらざるゆゑに叱するなり。かつて佛法を見聞習學せざりけることを叱するなり。この宗旨あるゆゑに、第一度より第三度にいたるまで、おなじことばにて問著するなり。

 第一番に三藏まうす、和尚是一國之師、何卻去西川看競渡。しかいふに、國師いまだいはず、なんぢ三藏、まことに老僧所在をしれりとゆるさず。たゞかさねざまに三度しきりに問するのみなり。この道理をしらずあきらめずして、國師よりのち數百歳のあひだ、諸方の長老、みだりに下語、説道理するなり。

 前來の箇々、いふことすべて國師の本意にあらず、佛法の宗旨にかなはず。あはれむべし、前後の老古錐、おのおの蹉過せること。いま佛法のなかに、もし佗心通ありといはば、まさに佗身通あるべし、佗拳頭通あるべし、佗眼睛通あるべし。すでに恁麼ならば、まさに自心通あるべし、自身通あるべし。すでにかくのごとくならんには、自心の自拈、いまし自心通なるべし。かくのごとく道取現成せん、おのれづから心づからの佗心通ならん。しばらく問著すべし、拈佗心通也是、拈自心通也是。速道々々。是則且置、汝得吾髓、是佗心通也。

 

 正法眼藏第七十三

 

  爾時寛元三年乙巳七月四日在越宇大佛寺示衆

 

正法眼蔵を読み解く他心通」(二谷正信著)

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/tashintsuu

 

詮慧・経豪による註解書については

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/2020/03/13/000000

 

禅研究に関しては、月間アーカイブをご覧ください

https://karnacitta.hatenablog.jp/

 

道元永平寺―『福井県史』通史編2中世より抜書(一部改変)

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/2021/08/14/173407

 

 

 

 

 

 

正法眼蔵第七三 佗心通 註解(聞書・抄)

詮慧・経豪 正法眼蔵第七三 佗心通 註解(聞書・抄)

西京光宅寺慧忠国師越州諸曁人也。姓冉氏。自受心印、居南陽白崖山黨子谷、四十餘祀。不下山門、道行聞于帝里。唐肅宗上元二年、勅中使孫朝進賚詔徴赴京。待以師礼。勅居千福寺西禅院。及代宗臨御、復迎止光宅精藍、十有六載、随機説法。時有西天大耳三蔵、到京。云得佗心慧眼。帝勅令與国師試験。三蔵才見師便禮拝、立于右邊。師問曰、汝得佗心通耶。対曰、不敢。師曰、汝道、老僧即今在什麼処。三蔵曰、和尚是一国之師、何得却去西川看競渡。師再問、汝道、老僧即今在什麼処。三蔵曰、和尚是一国之師、何得却在天津橋上、看弄猢猻。師第三問、汝道、老僧即今在什麼処。三蔵良久、罔知去処。師曰、遮野狐精、佗心通在什麼処。三蔵無対。僧問趙州曰、大耳三蔵、第三度、不見国師在処、未審、国師在什麼処。趙州云、在三蔵鼻孔上。

僧問玄沙、既在鼻孔上、為什麼不見。玄沙云、只為太近。

僧問仰山曰、大耳三蔵、第三度、為什麼、不見国師。仰山曰、前兩度是渉境心、後入自受用三昧、所以不見。海会端曰、国師若在三蔵鼻孔上、有什麼難見。殊不知、国師在三蔵眼睛裏。

玄沙徴三蔵曰、汝道、前両度還見麼。

雪竇明覚重顕禅師曰、敗也、敗也。

大証国師の大耳三蔵を試験せし因縁、ふるくより下語し道著する臭拳頭おほしといへども、ことに五位の老拳頭あり。しかあれども、この五位の尊宿、おのおの諦当甚諦当はなきにあらず、国師の行履を覰見せざるところおほし。

ゆゑいかんとなれば、古今の諸員みなおもはく、前両度は三蔵あやまらず国師の在処をしれりとおもへり。これすなはち古先のおほきなる不是なり、晩進しらずはあるべからず。いま五位の尊宿を疑著すること両般あり。

一者いはく、国師の三蔵を試験する本意をしらず。二者いはく、国師の身心をしらず。しばらく国師の三蔵を試験する本意をしらずといふは、第一番に、国師いはく、汝道、老僧即今在什麼処といふ本意は、三蔵もし仏法を見聞する眼睛なりやと試問するなり。三蔵おのづから仏法の佗心通ありやと試問するなり。当時もし三蔵に仏法あらば、老僧即今在什麼処としめされんとき、出身のみちあるべし、親曾の便宜あらしめん。

いはゆる国師道の老僧即今在什麼処は、作麼生是老僧と問著せんがごとし。老僧即今在什麼処は、即今是什麼時節と問著するなり。在什麼処は、這裏是什麼処在と道著するなり。喚什麼作老僧の道理あり。国師かならずしも老僧にあらず、老僧かならず拳頭なり。

詮慧

〇「西京光宅寺慧忠国師者―三蔵無対、この野狐精、佗心通在什麼処」と云う詞(は)、一向三蔵を叱したるのみならず。その故は三界唯一心とは脱落し、諸法実相とは脱体すとも、三界を棄てよとは嫌わず。什麽処と国師に云われん野狐精非可棄也。

〇「三蔵曰、和尚是一国之師、看競渡」と云う、是は国師の心の所在を軽しめたる詞なり。但国師は「老僧即今什麼処」と問す心の所在を云わず。

〇大耳三蔵の佗心通は小乗門(の)義歟。国師の試験は大乗の心地也、乃(ち)三問(は)只同(じ)詞也。二度の答は慮知念覚の凡心に仰ぎて云い、北轅行越程の事也。第三度に至りて茫然也。

〇「玄沙徴三蔵曰」とあり、此の段は雪竇明覚禅師の詞を取らんが為、問いとなる故に挙げら(れ)る。玄沙の詞(は)、第二の尊宿の詞となりて、先に挙ぐ「只為太近」これなり。国師、時に三蔵を叱して云く、「遮野狐精、佗心通在什麼処」まことに三蔵争(いかで)か祗対せん国師の後、五位尊宿(は)詞を下す。然而、永平寺和尚(道元)一々勘破之せらる。尊宿等の見解は、三蔵の第三度無対をのみ下語して、初度第二度の見をば許すに似たり、今永平寺和尚(は)、三度ながら重ねて被勘破之。

経豪

  • 国師与三蔵問答の詞、見于文。「正法眼蔵」七十(五)帖の内、何と云いながら殊(に)『大修行』、今の『佗心通』心得にくく、見解の邪正も紛れぬべき也。其の故は、現文の面は尋常なるように見えて、しかも其の義にてはなき処が、殊(に)迷いぬべき也。能々可了見也。
  • 先(ず)此の国師と三蔵との問答の様を、打ち任せて人の心得たる三度問答の内、先(の)両度は三蔵より国師の在所を知れり、第三度ばかりを知らずと心得たり。是が大(い)なる僻見にてある也。随五位の尊宿等の、さまざま詞を付けられたるも、皆二度は三蔵云い得たり。第三度の時、国師入自受用三昧也、故に国師の在所を不知して、無対なるとのみ被云いたるように、文の面、、見(え)たり。故に先師(道元)(は)後学の錯まりを省りみて、詞に尽くして重々此の事を釈し表わさる也。但五位の尊宿等の所存(を)、余も然るには有らじなれども、現文の面に付けて、如何にも僻見(を)出で来ぬべき所を委被釈也。左に見(え)たり。
  • 「僧問趙州日―在三蔵鼻孔上」。三蔵の鼻孔上に有と趙州被仰せたり、仮令鼻孔上なむど(などと)云えば余りに近くて、不見と云う様に被心得ぬべし。

僧問玄沙

  • 「只為太近」。是はさわざわと只為太近とあれば眉毛をも不見、眼を眼は不見などと云う風情もあれば、其の心地とも覚すべし。
  • 「僧問仰山日―入自受用三昧、所以不見」。是は三度(の)問答の内、先(の)両度は是れ渉境心也。後には入自受用三昧、故に不見とあり。是は三蔵の一番(始め)の詞に、「和尚是一国之師、何得却在天津橋上、看弄猢猻」と云う詞とを、渉境心とは名づけたり。故に第三度のたび、国師自受用三昧に入る故に、三蔵国師の所在を不知して、無対なると云うと心得ぬべき也。今の「却去西川看競渡」と云うは、掛かる事を、其の時(に)国師の心地に掛かりけるを、今の三蔵は云いたりけるが、又第二度の詞に、「何得却在天津橋上、看弄猢猻」と云う詞も同(じく)国師の其の時節に、心に掛かりける事を云いけるかと覚ゆ。第三度には自受用三昧に入りたる間、却其心難伺得に依りて「無対」也と云うと(は)心得ぬべし。「猢猻」とは猿を云う也。いかさま(如何様)にも、何とも談ぜよ(とは)、当たるべからず。凡そ「佗心通」とは、打ち任せて人の思いたるは人の思う所を知るを多分、佗心通を得たる者とは心得たり。乃至五通六通、佗心宿命等を、「佗心通」とは云う歟。然者今、仏祖所談の佗心通に夢々当たるべからざる事なり。かかる故に今の問答(を)如何様と云うも、現文の面にては心得にくきを、今は仏祖上の理にて此の道理を心得合わすべきなり。
  • 「海会端曰―在三蔵眼睛裏、是も鼻孔上にあらば、什麼難見、殊不知、国師在三蔵眼睛裏」(と)云えば、鼻孔上は猶見つべし。眼睛は眼睛を不知道理なれば、如此云うかと被心得ぬべし。
  • 「玄沙徴三蔵曰―還見麼」。是は如文さわさわと聞(こえ)たり。所詮、「前両度還見麼」と云うべしとあり。此の心地は、前両度はされば見(た)か、然らざるかと云う詞也。前両度(は)見たりと云うも、はや見(た)と受けらるる詞歟。「徴す」と云う詞は呵責の詞なり。論議などをするに、答もなき所を、重ねて云えなどと責(む)心地なるべし。
  • 「雪竇明覚重顕禅師曰―敗也、敗也」とは敗れぬ敗れぬと云う詞(で)、嫌いたる詞と聞こゆ。此の詞は玄沙の、前両度還見麼の詞を讃むる心地也。此の玄沙の詞に、前両度(は)見たりと云うも、敗れぬはと云う也。
  • 如御釈。「諦当甚諦当はなきにあらず、国師の行履を覰見せざる所多し」とは、此の尊宿(は)各々此の道理を知らず、心得ざるにはあらねども、今(の)詞の面に、猶邪見の出できぬべき所を、先師(は)返々被釈述也。さらに五位の尊宿等を、下げらるるにはあらざるべし。此心を得ざらん輩、此の草子を被覧しては、此の五位の尊宿等を先師(は)一向(に)被非と心得ぬべし。甚不可然、如文無別子細、世人あやまれる処を、表さるる許也。是は先師(が)国師の三度まで只同じ詞を被出、此の本意はかかるぞと被釈顕也、起きる。御釈分明也。如此第三度まで被示時、若し三蔵(が)仏法をも得たらば、出身の道もあり、親曾の便宜もあらしめんと也。
  • 今「国師道の老僧即今在什麼処は、作麼生が是老僧と問著せんが如し」とあり、非可不審、実にも此の老僧の詞(は)、如此此理あるべきなり。只老いたる僧を何処(いづく)に在るぞと問いて、何の用か有るべき。又「老僧即今在什麼処は、即今是什麼時節と問著するなり」とは、今の即今在什麼処とあるは、什麼時節と問著するなりとあり。是又、即今在什麼処の道理(は)、什麼時節なる道理なるべし。又「這裏是什麼処在(と)道著するなり」とあり、此の詞常に祖門に用いる詞也。所詮仏法の大姿(は)、這裏是什麼処在なるべし、即不中の理也。又「喚什麼作老僧の道理あり」とは如前云い、此の老僧の姿(の)辺際なき所が如此云わるる也。

 

大耳三蔵、はるかに西天よりきたれりといへども、このこゝろをしらざることは、仏道を学せざるによりてなり、いたづらに外道二乗のみちをのみまなべるによりてなり。

国師かさねてとふ、汝道、老僧即今在什麼処。こゝに三蔵さらにいたづらのことばをたてまつる。国師かさねてとふ、汝道、老僧即今在什麼處。ときに三蔵やゝひさしくあれども、茫然として祗対なし。国師ときに三蔵を叱していはく、這野狐精、佗心通在什麼処。かくのごとく叱せらるといへども、三蔵なほいふことなし、祗対せず、通路なし。

しかあるを、古先みなおもはくは、国師の三蔵を叱すること、前両度は国師の所在をしれり、第三度のみしらず、みざるがゆゑに、国師に叱せらるとおもふ。これおほきなるあやまりなり。国師の三蔵を叱することは、おほよそ三蔵はじめより仏法也未夢見在なるを叱するなり。前両度はしれりといへども、第三度をしらざると叱するにあらざるなり。おほよそ佗心通をえたりと自称しながら、佗心通をしらざることを叱するなり。国師まづ仏法に佗心通ありやと問著し試験するなり。すでに不敢といひて、ありときこゆ。そののち、国師おもはく、たとひ仏法に佗心通ありといひて、佗心通を仏法にあらしめば恁麼なるべし。道処もし挙処なくは、仏法なるべからずとおもへり。三蔵たとひ第三度わづかにいふところありとも、前両度のごとくあらば道処あるにあらず、総じて叱すべきなり。

いま国師三度こゝろみに問著することは、三蔵もし国師の問著をきくことをうるやと、たびたびかさねて三番の問著あるなり。

経豪

  • 如文、三蔵を被嫌うなり。
  • 先(の)両度の三蔵の詞を「いたづらなる詞を奉る」と嫌う也。第三度の詞に「良久あれども、茫然として祗対なし」とは、無対と云える姿を云う也。此の時(に)国師(が)三蔵を叱する詞に、「這野狐精、佗心通在什麼処」と叱せらる、此の心地は野狐の変じたる程の事なり。佗心通は、つやつや(副詞・打消しを伴って・まったく)知らざりけるはと、叱せらるるなり。然而「三蔵云う事なし、祗対せず、通路なきなり」、不知仏法によりて如此なる也、難治の事也。
  • 無殊子細、古先の錯まる所を被釈顕なり。
  • 三蔵国師の問著の心地を、つやつや不得して、いたづらの詞を出す事を云う也。是は先師(が)、五位の尊宿を疑著する事、両般ありと被仰(ぎ)つる一(つ)を被挙也。此の次(の)二者と云うは、第二番を挙也。

 

二者いはく、国師の身心をしれる古先なし。いはゆる国師の身心は、三蔵法師のたやすく見及すべきにあらず、知及すべきにあらず。十聖三賢およばず、補処等覚のあきらむるところにあらず。三蔵学者の凡夫なる、いかでか国師の渾身をしらん。この道理、かならず一定すべし。国師の身心は三蔵の学者しるべし、みるべしといふは謗仏法なり。経論師と斉肩なるべしと認ずるは狂顛のはなはだしきなり。佗心通をえたらんともがら、国師の在処しるべしと学することなかれ。

佗心通は、西天竺国の土俗として、これを修得するともがら、まゝにあり。発菩提心によず、大乗の正見によらず。佗心通をえたるともがら、佗心通のちからにて仏法を証究せる勝躅、いまだかつてきかざるところなり。佗心通を修得してのちにも、さらに凡夫のごとく発心し修行せば、おのづから仏道に証入すべし。たゞ佗心通のちからをもて仏道を知見することをえば、先聖みなまづ佗心通を修得して、そのちからをもて仏果をしるべきなり。しかあること、千仏万祖の出世にもいまだあらざるなり。すでに仏祖の道をしることあたはざらんは、なににかはせん。仏道に不中用なりといふべし。佗心通をえたるも、佗心通をえざる凡夫も、たゞひとしかるべし。仏性を保任せんことは、佗心通も凡夫もおなじかるべきなり。

学仏のともがら、外道二乗の五通六通を、凡夫よりもすぐれたりとおもふことなかれ。たゞ道心あり、仏法を学せんものは、五通六通よりもすぐれたるべし。頻伽の卵にある声、まさに衆鳥にすぐれたるがごとし。

いはんやいま西天に佗心通といふは、佗念通といひぬべし。念起はいさゝか縁ずといへども、未念は茫然なり、わらふべし。いかにいはんや心かならずしも念にあらず、念かならずしも心にあらず。心の念ならんとき、佗心通しるべからず。念の心ならんとき、佗心通しるべからず。しかあればすなはち、西天の五通六通、このくにの薙草修田にもおよぶべからず、都無所用なり。かるがゆゑに、震旦国より東には、先徳みな五通六通をこのみ修せず、その要なきによりてなり。尺璧はなほ要なるべし、五六通は要にあらず。尺璧なほ宝にあらず、寸陰これ要樞なり。五六通、たれの寸陰をおもくせん人かこれを修習せん。おほよそ佗心通のちから、仏智の辺際におよぶべからざる道理、よくよく決定すべし。

経豪

  • 如御釈。「三蔵学者、十聖三賢、補処等覚あきらむべからず。凡夫なる三蔵学者、争か国師の渾身をしらん」と云う也。文に分明也。
  • 御釈分明也。「他神通を修得するもの、凡夫の如く発心修行せば、おのづから仏道証入する」事はありとも、「他神通を得たる輩、他神通の力に依りて、仏法を証究せる事、未曾不聞」と云う事を被釈也。打ち任せては他神通を得たるをば、如仏思習わしたり不知、此の理(の)故なり。
  • 御釈分明也。無殊子細。
  • 是は打ち任せては、他人の所念をここにて、知を他神通とは名づけたる歟。しからば是をば「他念通と云うべし」とあり。尤有謂、其の故は、此念の境に移る処を知るを他神通と云わば、尤(も)他念通と云うべき道理顕然なり。
  • 故に「念起は聯縁すと云えども」とあり、若し「未念ならん時は茫然なるべし」とあり。其の上(に)、「心必ずしも念に非ず、念必ずしも心にあらず。心の念ならん時、他神通不可知、念を心と談ぜん時、他神通不可知」(との)理、又顕然也。「心必非念、念必非心」と云わるるは、打ち任せては心の上に置いて念起する也。今、仏祖の心と念との談(ずる)様(の)事(は)旧了。
  • 心と取る時は全心(で)、三界唯一心なるべし、念なるべくば全念なり。然者、心にて念を知と不可談、又「心の念ならん時」、実(際には)、他神通いづれの所にあるべきぞや。心の上にこそ念あるべけれ、「心を念とせんとき、他神通しるべからず」、「念が又心ならんとき、他神通あるべからず」と云う也。尤有謂也。此の故に「西天の五通・六通、都無所用」とは云わるる也。非仏通は都無詮条勿論事也。

 

しかあるを、五位の尊宿、ともに三蔵さきの両度は国師の所在をしれりとおもへる、もともあやまれるなり。国師は仏祖なり、三蔵は凡夫なり。いかでか相見の論にもおよばん。

国師まづいはく、汝道、老僧即今在什麼処。この問、かくれたるところなし、あらはれたる道処あり。三蔵のしらざらんはとがにあらず、五位の尊宿のきかずみざるはあやまりなり。

すでに国師いはく、老僧即今在什麼処とあり。さらに汝道、老僧心即今在什麼処といはず。老僧念即今在什麼処といはず。もともきゝしり、みとがむべき道処なり。しかあるを、しらずみず、国師の道処をきかずみず。かるがゆゑに、国師の身心をしらざるなり。道処あるを国師とせるがゆゑに、もし道処なきは国師なるべからざるがゆゑに。

いはんや国師の身心は、大小にあらず、自佗にあらざること、しるべからず。頂□(寧+頁)あること、鼻孔あること、わすれたるがごとし。

国師たとひ行李ひまなくとも、いかでか作仏を図せん。かるがゆゑに、仏を拈じて相待すべからず。国師すでに仏法の身心あり、神通修証をもて測度すべからず。絶慮忘縁を挙して擬議すべからず。商量不商量のあたれるところにあらざるべし。

国師は有仏性にあらず、無仏性にあらず、虚空身にあらず。かくのごとくの国師の身心、すべてしらざるところなり。いま曹谿の會下には、青原南嶽のほかは、わづかに大証国師、その仏祖なり。

いま五位の尊宿、おなじく勘破すべし。

経豪

  • 此の五位の尊宿の事、如御釈は、一向(に)彼(の)尊宿等を下げられたるように聞こゆ。実にもさ(ように)見たり。但此の尊宿達、殊(に)祖門に抜群せる人々也。争(か)錯なり有らん、又国師の所在を知らざらん。只文の面のさわさわと、後学の邪見の出で来たらんずる所を、如此釈し表わさるる也。此の子細を知らざらん人、此の草子を見ん時は、先師(は)此の尊宿を一向(に)被非たりと、一筋に心得ん事(は)不可然也。此の心地を心得て可了見なり。
  • 如文。
  • 是又御釈分明也。実(に)国師の道は「老僧即今在什麼処」とあり、さらに心と念との詞なし、実尤聞知、見咎むべき事也。「国師の道処を聞かず見ず」と云いつべし、「国師の身心を知らず、道処あるを、、国師とせる故に」、「道処なきは国師なるべからざる故に」と云う也。
  • 国師の身心、大小自他に拘わるべからざる条」勿論事也、「国師の頂□(寧+頁)鼻孔ある、忘れたるが如し」と云う尤有謂。
  • 国師の行李は暇なくとも、作仏を期せざるべし、かるが故に仏を拈じて、相待するにてはなし。国師すでに仏法の身心なるべし」。打ち任せては五通六通等の「神通修証を以て、測度すべきにあらず、絶慮忘縁を挙して擬議し、商量不商量の可及にはあらざるべき」也。●国師国師なるべきに、実(に)「有仏性・無仏性にあらざるべし、虚空身にてもあらざる」べき道理は事旧了。然而国師国師なるべき理、今一重親切なるべし。「大証国師、其の仏祖なるべし」とは、国師を被讃嘆(する)詞也。
  • ここより五位の詞共を挙げらるる也。

 

趙州いはく、国師は三蔵の鼻孔上にあるがゆゑにみずといふ。この道処、そのいひなし。国師なにとしてか三蔵の鼻孔上にあらん。三蔵いまだ鼻孔あらず、もし三蔵に鼻孔ありとゆるさば、国師かへりて三蔵をみるべし。国師の三蔵をみること、たとひゆるすとも、たゞこれ鼻孔対鼻孔なるべし。三蔵さらに国師と相見すべからず。

詮慧

〇「趙州日在鼻孔上」と。永平寺御詞(に)云う「国師何としてか三蔵の鼻孔上にあらん」とあり。大象不遊兎径の心なり、其の上「三蔵鼻孔なし」とあり、勿論事也。「国師の三蔵を見る事、たとい許すとも、ただ是鼻孔対鼻孔なるべし」と云々。見る人と云い、師を見るとは云わず、其の人の心(や)、芸能等をも見たらんを見るとは云うべし。又師を見ると云うも、其の智を見るべし故に国師の三蔵を見ること、何をか見ん。只我が鼻孔をや、国師御覧ぜん故に「鼻孔対鼻孔」(と)云わるる也。

経豪

  • 是は「三蔵の鼻孔上に在」と、趙州被仰たる詞を、先被上也。「此の道処無謂(そのいひなし)」とて、被下に取りて「国師何としては三蔵の鼻孔上にあるべきぞ、若し三蔵に鼻孔有りとゆるさば、国師かへりて三蔵を見るべし」とは、国師は仏祖也、三蔵は凡夫何り。実に争か三蔵の鼻孔上に国師あらん。「三蔵いまだ鼻孔あらず」とは、三蔵に仏祖の鼻孔あるべからずとなり。「もし三蔵とは鼻孔有りとゆるさば、国師かへりて三蔵を見るべし」とは、三蔵に鼻孔あらば、国師と一体の力量なるべし。「たとい国師の三蔵を見るとゆるさば、只これ鼻孔対鼻孔」の道理なるべし。仏性が仏性を見る程の理なるべし。

 

玄沙いはく、只為太近。まことに太近はさもあらばあれ、あたりにはいまだあたらず。いかならんかこれ太近。おもひやる、玄沙いまだ太近をしらず、太近を参ぜず。ゆゑいかんとなれば、太近に相見なしとのみしりて、相見の太近なることしらず。いふべし、仏法におきて遠之遠なりと。

もし第三度のみを太近といはば、前両度は太遠在なるべし。しばらく玄沙にとふ、なんぢなにをよんでか太近とする。拳頭をいふか、眼睛をいふか。いまよりのち、太近にみるところなしといふことなかれ。

詮慧

〇「玄沙云、只為太近」と。永平寺御詞(に)云う「太近はさもあらばあれ、あたりにはあたらず、玄沙いまだ太近をしらず、第三度のみを太近」と云い、「前両度は太遠在なるべし」と云い、又「何をよんでか太近とする、拳頭をいふか、いまより後、太近にみることなかれ」と云々。

経豪

  • 此の詞は世間に(まつ)毛は、あまりに近くて不見と云う事あり、其の定めた「鼻孔上に在る故に、只為太近」と云う文の面は見えたり、故に太近の詞なきにあらず。但今如此心得るは「あたらず」と云う也。是も一筋に玄沙を被非ように聞こゆ。玄沙争(か)国師の心地に違せん、仏法の道理に尤(も)太近あるべし。去りて近にあらず、来って近にあらず。只阿耨多羅三藐三菩提を皆近と云うとあり。「太近の相見なしとのみ知りて」、やがて「相見が太近なる道理を不知」故に「仏法に置きて遠之遠」と被嫌也。
  • 是は「第三度を太近といわば、前両度をば太遠在」と云うべきかと也。実にも前両度は、すでに国師の所在を見たり、第三度のみ不見と云いたるように文面は見たり。然者「第三度は太近なるに依りて不見といわば、前両度は太遠在なるべし」やと示さるる也。又「玄沙に問うて、拳頭を云うか、眼睛を云うか」とあり、仏祖の拳頭眼睛の姿、不始于今、今「太近」の詞、近くに寄りて不見と云うは、非仏祖所談所を「今より後太近に見所なしと云う事なかれ」とは云う也。

 

仰山いはく、前両度是渉境心、後入自受用三昧、所以不見。仰山なんぢ東土にありながら小釈迦のほまれを西天にほどこすといへども、いまの道取、おほきなる不是あり。

渉境心と自受用三昧と、ことなるにあらず。かるがゆゑに、渉境心と自受用とのことなるゆゑにみず、といふべからず。しかあれば、自受用と渉境心とのゆゑを立すとも、その道取いまだ道取にあらず。自受用三昧にいれば、他人われをみるべからずといはば、自受用さらに自受用を証すべからず、修証あるべからず。

仰山なんぢ前兩度は實に国師の所在を三藏みるとおもひ、しれりと學せば、いまだ学仏の漢にあらず。おほよそ大耳三蔵は、第三度のみにあらず、前両度も国師の所在はしらず、みざるなり。この道取のごとくならば、三蔵の国師の所在をしらざるのみにあらず、仰山もいまだ国師の所在をしらずといふべし。

しばらく仰山にとふ、国師即今在什麼処。このとき、仰山もし開口を擬せば、まさに一喝をあたふべし。

詮慧

〇「仰山云、前両度是渉境心、後入自受用三昧、所以不見」と。永平寺御詞(に)云う「大きなる不是あり、渉境心と自受用三昧と、異なるにあらず」。

〇「渉境心と自受用三昧と、異なるにあらざらん」には、見不見と同じかは、分くべき仏法には元より見不見を立てず、会不会を分けず眼所聞声方得知とも説く。如何誠(に)、渉境心(と)自受用三昧(は)異なるに非ずと談ぜん時、見も不見も共に許すべき道理も有るとも、ここには渉境心に引かれて自受用三昧も異ならずと云う心地なり。仏を談ずるにも四教の仏、勝劣なきにあらず。庭前柏樹子は境と云わるる詞あり、祖意と解脱する詞あり。随語の上下あれば、自受用三昧異ならずと云えばとて、やがて見不見許せとは云い難きをや。又渉境心は三界唯一心なるべし、三界を置いて一心と云う故に。自受用三昧は心外無別法なるべし、無別法が故に。

〇趙州・玄沙の両位は前両問の詞をば云わず、三蔵の答当たるにはあらざれども、第三度の答茫然に尽きて詞を下さるると被推度云々。仰山は分明に前両度は渉境心、後入自受用三昧と云えば、其の見明らかに聞こゆ。仰山も国師の所在を知らずと云うべしと見たり。

〇「仰山に問う、国師即今在什麼処。この時、仰山開口を擬せん、一喝を与うべし」と云う。国師の所在什麽処ならんには、開口の義あるべからず、什麽処なる故に開口しても何と可答哉と云う義あり。什麽処は如何是仏とも云い、什麽物恁麽来とも云いしが如し。又渉境心と心得ん上は、自受用三昧を何と開口すとも当たるまじき上は、又喝すべきに当たるなり。

経豪

  • 仰山の詞に「前両度是渉境心、後入自受用三昧、所以不見」云々。此の詞を不是也とは云わるる也。仰山は殊(に)由々しき祖師也。仰山の詞を梵僧(は)梵語に翻飜して、西天にて披露したりける程に、此の詞を余りに賞翫して、釈尊再出世し給うかと云いけり、故に小釈迦の誉れ、西天に施すとは云う也。
  • 実(に)仏祖の所談に、渉境心と自受用三昧と異なるべからず。然者、境心と自受用三昧と異なるに依りて、不見とは云うべからざる事也。如此談ぜば非祖門仏法。「自受用と渉境心との故を立すとも、その道取いまだ道取に非ず」とは、自受用と渉境心との故、如何にも祖門の方よりは不可被立。故にその道取未道取に非とは云わるる也。「自受用さらに自受用を証すべからず、修証あるべからず」とは、自受用は深し、渉境心は浅し。かるが故に自受用三昧に入る時は、他人われを見ずなどと云う程、自受用は自受用の自受用を証すと云う義。「修証す」と云う事は、あるべからずの道理なるべし。
  • 是は「前両度は国師の所在を三蔵知り、第三度は入自受用三昧故に不知と云う見解」を被破なり。如此「仰山学せば学仏法の漢にあらず」と云う也。「大耳三蔵は、第三度のみにあらず、前両度も国師の所在をば更に不見不知也」と云う也。又「三蔵ばかり不知のみにもあらず、仰山も国師の所在を不知」と、しばらく被嫌也。
  • 是は仰山に国師の詞、「即今在什麽処」とある詞を問わせ(し)む時、「仰山もし開口して答えば、一喝を与えし」とは、一喝を与うと云う詞は、祖門(の)善悪にわたりて云い付けたる詞也。この詞は只嫌いたる詞と可心得、其の故は仰山(の)已前両度は実に国師の所在を、三蔵(が)見ると思い知れりと思う程ならば、只いわでありなんと云う心地を、「一喝を与うべし」とは云う也。

 

玄沙の徴にいはく、前両度還見麼。いまこの前両度還見麼の一言、いふべきをいふときこゆ。玄沙みづから自己の言句を学すべし。この一句、よきことはすなはちよし。しかあれども、たゞこれ見如不見といはんがごとし。ゆゑに是にあらず。

詮慧

〇「玄沙の徴に云く、前両度還見麼」と云う此の詞を、永平和尚も云うべきを云う時、聞こゆと誉め御す。但自己の言句を学すべし。「是見如不見」と云わんが如しと被仰は、我詞を加えずとなり。

経豪

  • 是は趙州・仰山等は、前両度は国師の所在を知り、第三度は在鼻孔上、或又自受用三昧に入りむ。只為太近なる故に不見などと云う所を、今の玄沙の詞に「前両度も還見麼」とあれば、前両度も等しと見たりと難定。此の詞は受けて聞く時に決定して、国師の住所を前両度見たりと取り防がたき所を、暫く「還見麼」の一言云うべきを、云うと聞こゆとは受けらるる也。但此の「還見麼」の詞、いかにと取り伏すべきぞ。若見不見に拘わりぬべき詞ならば、許し難き所を、「玄沙みづから自己の言句を学すべし」とは云う也。此の詞よくは聞こゆれども、実に国師の詞の如く、不符合は許し難き所を、ただ「是見如不見」とは云わるる也、玄沙の心地を猶探らるる也。「故に是に非ず」とは、しばらく云う也。「徴」とは、せんと云う心地歟、仮令論義等をするにも、一問答して重ねて疑いなどを為すを「徴」と云うべきか。如所領にも、物せめなんとする者をば、徴使などと名(づく)歟、せむる義に付けたる名字なり。ここの「徴」は尊宿等、面々に詞を付けらるるに、重ねて云い出す所をと云うべき歟。

 

これをきゝて、雪竇山明覚禅師重顕いはく、敗也、敗也。これ玄沙のいふところを道とせるとき、しかいふとも、玄沙の道は道にあらずとせんとき、しかいふべからず。

詮慧

〇「雪竇山明覚重顕禅師云、敗也敗也」。永平寺御詞云う、「玄沙の道とせる時ぞ敗也の詞もあるべき、玄沙の道にあらず」とせん時、しかいふべからずと被仰也。「敗也」と云うは、大耳三蔵の心を敗すると也。玄沙のまさしきさとりの詞を出ださざらん程は、争(か)敗也と云うべきと也。

経豪

  • 今の「敗也敗也」の詞は、やぶれぬと云う也。是は玄沙の詞をほむるか、但如御釈。「玄沙の所云を道とせん」時は、讃嘆尤謂あるべし。「若玄沙の道を道にあらずとせん時」は、讃嘆の詞も頗可違乎。此還見麽の詞、もし仏祖の心地にて云わば、敗也敗也なるべし。此見詞の能見所見なるべくは、しか云うべからずとある也。

 

海会端いはく、国師若在三蔵鼻孔上、有什麼難見。殊不知、国師在三蔵眼睛裏。これまた第三度を論ずるのみなり。前両度もかつていまだみざることを、呵すべきを呵せず。いかでか国師を三蔵の鼻孔上にあり、眼睛裏にあるともしらん。もし恁麼いはば、国師の言句いまだきかずといふべし。

三蔵いまだ鼻孔なし、眼睛なし。たとひ三蔵おのれが眼睛鼻孔を保任せんとすとも、もし国師きたりて鼻孔眼睛裏にいらば、三蔵の鼻孔眼睛、ともに当時裂破すべし。すでに裂破せば、国師の窟籠にあらず。五位の尊宿、ともに国師をしらざるなり。

詮慧

〇「海会端云、国師若在三蔵鼻孔上、有什麼難見と殊不知國師在三蔵眼睛裏、これまた第三度を論ずるのみ也。前両度かつていまだ見ざる事を」と云う。

〇「国師来たりて鼻孔眼睛裏に入らば、三蔵の鼻孔眼睛、共に当時裂破すべし。すでに裂破せば、国師の窟籠にあらず」と云い、「五位の尊宿、共に国師を知らざるなり」と云う。汝得吾髄是他神通也、云々。

経豪

  • 如御釈。是は「鼻孔上にあらば、何とかして見難からん、殊に不知国師は三蔵の眼睛裏に在る故に見ざる也」と云うと聞こえたり。是は第三度を論ずると聞こえたり。「前両度も曾て見ざる事を、呵すべきを呵せず」とは被下也。実にも前両度も曾て見ざらんを、第三度を論ぜん事あるべからず。「国師争三蔵の鼻孔上、眼睛裏に在りとも知らん」とは、海会端を被下心地歟。此の所存ならば、国師の老僧此今在什麽処の詞をば、聞かずと也。
  • 三蔵実に争か仏祖の鼻孔眼睛等あらん、然者国師と同じかるべし(かるべしは、形容詞ク活用で難しの意の古語)、夢也未見在なるべし。「三蔵の鼻孔眼睛裏に入らば、三蔵の鼻孔眼睛ともに裂破せん」とあり。三蔵の鼻孔と国師の鼻孔と天地懸隔の論に不及。上は「三蔵の鼻孔眼睛裏に国師入らん時は、三蔵の鼻孔も眼睛も皆裂破すべし」と云う也。是は三蔵の鼻孔眼睛等に国師入るは、三蔵(の)面は皆破れて、国師同等の三蔵なるべしと云う心地なり。「すでに又裂破せば、国師の窟籠にあらず」とは、鼻孔も眼睛も裂破せば、国師の窟籠あるべからざる道理顕然なり。

 

国師はこれ一代の古仏なり、一世界の如来なり。仏正法眼蔵あきらめ正伝せり。木槵子眼たしかに保任せり。自仏に正伝し、佗仏に正伝す。釈迦牟尼仏と同参しきたれりといへども、七仏と同時参究す。かたはらに三世諸仏と同参しきたれり。空王のさきの成道せり、空王ののちに成道せり。正当空王仏に同参成道せり。

国師もとより娑婆世界を国土とせりといへども、娑婆かならずしも法界のうちにあらず、尽十方界のうちにあらず。釈迦牟尼仏の娑婆国の主なる、国師の国土をうばはず、罣礙せず。たとへば、前後の仏祖おのおのそこばくの成道あれど、あひうばはず、罣礙せざるがごとし。前後の仏祖の成道、ともに成道に罣礙せらるゝがゆゑにかくのごとし。

大耳三蔵の国師をしらざるを証拠として、声聞縁覚人、小乗のともがら、仏祖の辺際をしらざる道理、あきらかに決定すべし。

経豪

  • 是は無殊子細。如文、国師を讃嘆(する)御詞也。「三世諸仏と同参し来たれり。空王の前の成道せり、空王の後に成道せり」などと云うは、国師の身心三世諸仏と親切なる道理を以て、如此同参とは仕う也。空王のさき空王の後の詞も今の国師の姿、前後を超越したる心地なり。空王などと云えば久しく遥かなる心地に仕う。仏性は成仏より前に具足せず、成仏已後具足するなどと云う程の詞なるべし。
  • 是は打ち任せては国土は国土にて出現し、釈迦も此の国土に出現し、十方の諸仏(は)皆此の娑婆世界を所居の国土として、面々仏祖出給うと心得たり。今(の)儀は非爾、国師与娑婆世界、釈尊与娑婆国土のあわい、更(に)非各別、尽十方界、総(すべ)にて娑婆世界は別なるにあらず。釈尊の娑婆国土なる時は、釈尊の娑婆国土にて、前後際断し、国師与娑婆世界のあわいも、又如此なるべし。故に国土を奪わず、罣礙せずとは云う也。前後の仏祖、各幾つの成道あれども、奪わず。罣礙せざると云うも、此の道理なるべし。
  • 如文無子細。

 

国師の三蔵を叱する宗旨、あきらめ学すべし。いはゆるたとひ国師なりとも、前両度は所在をしられ、第三度はわづかにしられざらんを叱せんはそのいひなし、三分に両分しられんは全分をしれるなり。かくのごとくならん、叱すべきにあらず。たとひ叱すとも、全分の不知にあらず。三蔵のおもはんところ、国師の懡羅なり。わづかに第三度しられずとて叱せんには、たれか国師を信ぜん。

三蔵の前両度をしりぬるちからをもて、国師をも叱しつべし。

国師の三蔵を叱せし宗旨は、三度ながら、はじめよりすべて国師の所在所念、身心をしらざるゆゑに叱するなり。かつて仏法を見聞習学せざりけることを叱するなり。この宗旨あるゆゑに、第一度より第三度にいたるまで、おなじことばにて問著するなり。

第一番に三蔵まうす、和尚是一国之師、何却去西川看競渡。しかいふに、国師いまだいはず、なんぢ三蔵、まことに老僧所在をしれりとゆるさず。たゞかさねざまに三度しきりに問するのみなり。この道理をしらずあきらめずして、国師よりのち数百歳のあひだ、諸方の長老、みだりに下語、説道理するなり。前来の箇々、いふことすべて国師の本意にあらず、仏法の宗旨にかなはず。あはれむべし、前後の老古錐、おのおの蹉過せること。

いま仏法のなかに、もし佗心通ありといはば、まさに佗身通あるべし、佗拳頭通あるべし、佗眼睛通あるべし。すでに恁麼ならば、まさに自心通あるべし、自身通あるべし。すでにかくのごとくならんには、自心の自拈、いまし自心通なるべし。かくのごとく道取現成せん、おのれづから心づからの佗心通ならん。

しばらく問著すべし、拈佗心通也是、拈自心通也是。速道々々。是則且置、汝得吾髄、是佗心通也。

詮慧

〇「拈佗心通也是、拈自心通也是。速道々々。是則且置、汝得吾髄、是佗心通也」。

〇此の巻、難心得事あり、其故者三蔵の詞、初度第二と無以無謂而五位尊宿無難詞、如何第三度の答なき事を被叱如何。今見永平寺御詞其難難遁一々有謂。然而此の五位の祖は、祖に取りて皆不学閑。或(いは)古仏といわれ或(いは)小釈迦とほめらる。争(か)三蔵の所存、計り知らせ給わざらん。但つらつら按此事、初度二度の答は有答已沙汰外也。仰山の被仰る渉境心なるが故に、不及被被加了見。罣礙せずとは云う也。前後の仏祖、各幾つの成道あれども、奪わず。

〇不無答第三度の義、有沙汰哉、全非五位の越度歟。且其意趣は玄沙徴する詞に、前両度還見麽云、此の一句よき詞也と誉めらる。しかあれば旁(かたがた)五位尊宿、初度二度の答を許すにあらず。然而永平寺は今残さず被𠮟るものなり。

経豪

  • 御釈に聞こえたり。所詮国師也とも、三蔵前両度は所在を知り、第三度はわづかに知られざらんを叱せんは、その謂いなし。三分の物を両分知らん、三蔵の高名なるべし、三蔵の思わん所はずかし。前両度は知られ、第三度を不被知と叱せば、誰か国師也とも信ぜんとなり。
  • 国師前両度は知られたりと思わば、三蔵かえりて国師をも叱しつべし。
  • 如文。
  • 如御釈。是は無風情数百歳の間、諸方長老此事を明らめずして過ごすを如此被下なり。
  • 実(に)「仏法の中に、他神通と云う事」を談ずべくは、尤(も)他神通も、(他)拳頭通も、乃至他眼睛通も、そこばくの通あるべき也。心せばく他神通許に限るべからず。又「恁麽ならば自心通あるべし」。自心通あるべしとは、他心通と云う道理あるべくは、自心通も自身通もあるべしと云う也。此の自他・旧見を超越する故に、如此云う也。此の自他の詞(の)相違、不可類凡見也。「すでに如此ならんには自拈、いまし(は強めの助詞)自心通なるべし」とは、已に此の自心通・自身通の道理、自他に拘わらざる。自心通・自身通なる上は、只自を自が拈ずる程の理を、如此云わるる也。如此談ずる時、今の自心通とは云うべき也とあり、能々閑了見事也。
  • 「蹔らく問著すべし、拈佗心通也是、拈自心通也是。速道々々。是則且置、汝得吾髄、是佗心通也」とは、拈佗心通也是、拈自心通也是とあれば、他心通与自心通をいづれが勝劣なるべきぞと、分別しかねたる詞かと聞こゆ、非爾。所詮、他心通と云うも、自心通と云うも、此の自他如前云、辺際に拘わらず。凡見を越えつる上は、彼も是も、皆是の理ならずと云う事なし。此の理が速道とは云わるるなり。人を置きて云うべしと責めるにあらず。又「是はしばらく置く」とは、此の是の詞が、猶紛れぬべき所を、しばらく置くとは云う歟。初祖与二祖の間の汝得吾髄の詞、更自他を相対の義にあらず。故に今の他心通と云えるも、只此の汝得吾髄程の他心通なるべしと可心得也と被釈なり。

佗心通(終)

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。

 

 

正法眼蔵安居

正法眼蔵 第七十二 安居 

    一  

先師天童古佛、結夏小參云、平地起骨堆、虚空剜窟籠。驀透兩重關、拈卻黒漆桶。

しかあれば、得遮巴鼻子了、未免喫飯伸脚睡、在這裏三十年なり。すでにかくのごとくなるゆゑに、打併調度、いとまゆるくせず。その調度に九夏安居あり。これ佛々祖々の頂面目なり。皮肉骨髓に親曾しきたれり。佛祖の眼睛頂を拈來して、九夏の日月とせり。安居一枚、すなはち佛々祖々と喚作せるものなり。

安居の頭尾、これ佛祖なり。このほかさらに寸土なし、大地なし。夏安居の一橛、これ新にあらず舊にあらず、來にあらず去にあらず。その量は拳頭量なり、その様は巴鼻様なり。しかあれども、結夏のゆゑにきたる、虚空塞破せり、あまれる十方あらず。解夏のゆゑにさる、迊地を裂破す、のこれる寸土あらず。このゆゑに結夏の公案現成する、きたるに相似なり。解夏の籮籠打破する、さるに相似なり。かくのごとくなれども、親曾の面々ともに結解を罣礙するのみなり。萬里無寸草なり、還吾九十日飯錢來なり。

この『安居』巻の構文は最初に三則の古則話頭拈提、四則目には「清規」についての参究という多少長文の提唱ですが、毎巻の冒頭に主旨を述べる構成を考えると、『如浄語録』下(「大正蔵」四八・一二九・上)結夏小参に説く処の「平地に骨の丘を起こし、虚空に窟籠(ほら穴)を剜(えぐ)る。まっしぐらに先の二つの条件を透れば、黒漆桶という脱落を拈却できる」という如浄のことばを冒頭に据え、これから拈提に入りますが、因みに骨堆とは人間の集団つまり安居を意味し、窟籠は坐禅する場所つまり僧堂を云うものです。

「しかあれば、得遮巴鼻子了、未免喫飯伸脚睡、在這裏三十年なり。すでにかくのごとくなるゆえに、打併調度、いとまゆるくせず。その調度に九夏安居あり。これ仏々祖々の頂面目なり。皮肉骨髄に親曾しきたれり。仏祖の眼睛頂を拈来して、九夏の日月とせり。安居一枚、すなはち仏々祖々と喚作せるものなり。」

「得遮巴鼻子了、未免喫飯伸脚睡、在這裏三十年」この拈語が道元禅師の坐禅観を表徴した典型的言説です。所詮は「この二つのポイントを透脱しきっても、飯を食い脚を伸ばして睡る生活は生涯(三十年)変わらない」という修証一如を第一義にした上で修行という努力(

打併調度)には時間(いとま)を惜しんではいられない(ゆるくせず)。そのあり方(調度)に九旬安居という方法があり、九夏安居=頂=皮肉骨髄=眼睛=仏々祖々というように全存在を表す言辞で以ての論理づけは尋常の法です。

「安居の頭尾、これ仏祖なり。このほかさらに寸土なし、大地なし。夏安居の一橛、これ新にあらず旧にあらず、来にあらず去にあらず。その量は拳頭量なり、その様は巴鼻様なり」

これから安居という真実態の遠大性を述べる段で、「安居の頭尾」とは全体を指し、つまり安居自体を仏祖と位置づけ、「夏安居の一橛」とは雲水を一か所に繋ぎ留める棒杭には古い新しいはなく、来るとか去るとか云った流動性もないと云う意は、安居という真実は時処を超脱した道理を云うもので、そこで「その量は拳頭量なり、その様は巴鼻様なり」と独特な言い様で無限の表現をするものです。

「しかあれども、結夏のゆえに来たる、虚空塞破せり、あまれる十方あらず。解夏のゆえに去る、迊地を裂破す、残れる寸土あらず。このゆえに結夏の公案現成する、来たるに相似なり。解夏の籮籠打破する、去るに相似なり。かくのごとくなれども、親曾の面々ともに結解を罣礙するのみなり。万里無寸草なり、還吾九十日飯銭来なり」

先程は鳥瞰的視点からの考察でしたが、現実的には結制という行持が有るから雲水が各所から来参し、そこでは「虚空塞破」という虚空全体で以て安居の真実底を行持する為に、「あまれる十方あらず」と全てが安居一色ですから余地はないとの言で、逆に解制を迎えたら自ずと雲水は去り、今までの安居という虚空から解放され同時に「迊地裂破し寸土なし」と同義語を対句にした説明です。

さらに虚空塞破を「公案現成」という語に言い替え、その時には「来」と仮りに名づけ、一か所に参集した状態からの解散の状況を「籮籠打破」と表体し、去ると仮りに名づくと。

このように雲水の面々ともに結夏解制という安居の真実態は疑わないのである。つまりは「万里無寸草」という自由闊達な境涯、「還吾九十日飯銭来」と云う雲門匡真による九十日の安居を無駄にはするなとの洞山良介と雲門の言句で此の段は締め括ります。(万里無寸草については『景徳伝灯録』十五・潭州石霜山慶諸禅師章(「大正蔵」五一・三二一・上)・『行仏威儀』巻・『真字正法眼蔵』上・八二則等散見-飯銭来については『雲門匡真禅師広録』上(「大正蔵」四七・五五〇・下)・『真字正法眼蔵』下八則等散見)

 

黄龍死心和尚云、山僧行脚三十餘年、以九十日爲一夏。増一日也不得、減一日也不得。

しかあれば、三十餘年の行脚眼、わづかに見徹するところ、九十日爲一夏安居のみなり。たとひ増一日せんとすとも、九十日かへりきたりて競頭參すべし。たとひ減一日せんとすといふとも、九十日かへりきたりて競頭參するものなり。さらに九十日の窟籠を跳脱すべからず。この脱は、九十日の窟籠を手脚として跳するのみなり。九十日爲一夏は、我箇裏の調度なりといへども、佛祖のみづからはじめてなせるにあらざるがゆゑに、佛々祖々、嫡々正稟して今日にいたれり。

しかあれば、夏安居にあふは諸佛諸祖にあふなり。夏安居にあふは見佛見祖なり。夏安居ひさしく作佛祖せるなり。この九十日爲一夏、その時量たとひ頂量なりといへども、一劫十劫のみにあらず、百千無量劫のみにあらざるなり。餘時は百千無量等の劫波に使得せらる、九十日は百千無量等の劫波を使得するゆゑに、無量劫波たとひ九十日にあふて見佛すとも、九十日かならずしも劫波にかゝはれず。

しかあれば參學すべし、九十日爲一夏は眼睛量なるのみなり。身心安居者それまたかくのごとし。夏安居の活々地を使得し、夏安居の活々地を跳脱せる、來處あり、職由ありといへども、佗方佗時よりきたりうつれるにあらず、當處當時より起興するにあらず。來處を把定すれば九十日たちまちにきたる、職由を摸索すれば九十日たちまちにきたる。凡聖これを窟宅とせり、命根とせりといへども、はるかに凡聖の境界を超越せり。思量分別のおよぶところにあらず、不思量分別のおよぶところにあらず、思量不思量の不及のみにあらず。

今回の話頭の黄龍死心は黄龍慧南(1002―1069)―晦堂(黄龍)祖心(1025―1100)―死心(黄龍)悟新(1044―1115)と―超宗慧方と続く死心悟新のことですが、栄西に列なる法脈は黄龍祖心―黄龍惟清―長霊守卓と嗣続するもので傍流になります。

本文は「黄龍死心和尚が云う、山僧(死心)行脚修行すること三十年、九十日を以て一夏(安居)とし、一日も増減することはしなかった」と述懐にも似た明言ですが、云わんとする旨は一生涯(三十年)安居生活を中心に法身を修養した事への充足を云うものです。

「しかあれば、三十餘年の行脚眼、わづかに見徹するところ、九十日為一夏安居のみなり。たとえ増一日せんとすとも、九十日かへりきたりて競頭参すべし。たとえ減一日せんとすと云うとも、九十日かへりきたりて競頭参するものなり。さらに九十日の窟籠を跳脱すべか

ず。この跳脱は、九十日の窟籠を手脚として跳するのみなり。九十日為一夏は、我箇裏の調度なりと云へども、仏祖の自から始めてなせるにあらざるがゆえに、仏々祖々、嫡々正稟して今日に至れり」

ここでの「九十日」と云う数字は安居の真実体を説明するものですから、たとえ九十一日又は八十九日と増減されても九十日という真実底に収斂される喩えを「競頭参」で説明され、その上で九十日安居という絶対性(尽界の真実体)からは跳び出す事は出来ず、その中で増減云々を九十日の窟籠を手脚で踠(もが)いているようだと言うのです。

九十日為一夏の安居は、我々(我箇裏)の真実態を確認するやり方(調度)ではあるが、仏祖と云われる人物が始めたわけではなく無始本有の永劫無窮からの連続体で、こういう尽界の真実体を修証した事実を仏々祖々と呼び慣わし「嫡々正稟して今日に至れり」との見解です。

「しかあれば、夏安居にあうは諸仏諸祖にあうなり。夏安居にあうは見仏見祖なり。夏安居ひさしく作仏祖せるなり。この九十日為一夏、その時量たとひ頂量なりといへども、一劫十劫のみにあらず、百千無量劫のみにあらざるなり。餘時は百千無量等の劫波に使得せらる、九十日は百千無量等の劫波を使得するゆえに、無量劫波たとひ九十日にあうて見仏すとも、九十日必ずしも劫波に関われず」

ここで始めて夏安居と同義語句で以て「諸仏諸祖・見仏見祖・作仏祖」と認得し、次に「九十日一夏安居」の容量は「頂量」という思慮分別で計算可能だが、その容量は一劫十劫を超えた無量劫以上であると。

それ以外(余時)の平生の時間は無量の劫波(時間)に使われているが、九十日の安居に於いては劫波という時間の概念に縛られない無寸草なる境涯を言わんとするものです。

「しかあれば参学すべし、九十日為一夏は眼睛量なるのみなり。身心安居者それまたかくのごとし。夏安居の活々地を使得し、夏安居の活々地を跳脱せる、来処あり、職由ありといへども、他方他時より来たり移れるにあらず、当処当時より起興するにあらず。來処を把定すれば九十日忽ちに来たる、職由を摸索すれば九十日忽ちに来たる。凡聖これを窟宅とせり、命根とせりといへども、はるかに凡聖の境界を超越せり。思量分別の及ぶところにあらず、不思量分別のおよぶ処にあらず、思量不思量の不及のみにあらず」

先には安居の時間的無限性を説き、ここでは「九十日為一夏は眼睛量」と眼睛を生命活動と捉えての拈提です。また身の安居と心の安居に分析し、それぞれを「活鱍々地を使得」「活鱍々地を跳脱」と九十日安居に成りきる様子を活鱍々の躍動する語を以て表体するわけです。

同様な事項を「他方他時より来たり移れるにあらず―中略―職由を摸索すれば九十日忽ちに来たる」と安居は外観ではなく、安居という窟籠との同体同性同時下では去来処同等を言います。

さらなる安居の普遍性を「思量不思量の不及のみにあらず」と「凡聖の境界を超越」した、安居に喩えた真実底を思量不思量を以て説くわけですが、非思量を最後に付言することも

活鱍々の一場とはならないでしょうか。

 

    三

世尊在摩竭陀國、爲衆説法。是時將欲白夏、乃謂阿難曰、諸大弟子、人天四衆、我常説法、不生敬仰。我今入因沙臼室中、坐夏九旬。忽有人、來問法之時、汝代爲我説、一切法不生、一切法不滅。言訖掩室而坐。

しかありしよりこのかた、すでに二千一百九十四年〈當日本寛元三年乙巳歳〉なり。堂奥にいらざる兒孫、おほく摩竭掩室を無言説の證據とせり。いま邪黨おもはくは、掩室坐夏の佛意は、それ言説をもちゐるはことごとく實にあらず、善巧方便なり。至理は言語道斷し、心行處滅なり。このゆゑに、無言無心は至理にかなふべし、有言有念は非理なり。このゆゑに、掩室坐夏九旬のあひだ、人跡を斷絶せるなりとのみいひいふなり。これらのともがらのいふところ、おほきに世尊の佛意に孤負せり。

いはゆる、もし言語道斷、心行處滅を論ぜば、一切の治生産業みな言語道斷し、心行處滅なり。言語道斷とは、一切の言語をいふ。心行處滅とは、一切の心行をいふ。いはんやこの因縁、もとより無言をたうとびんためにはあらず。通身ひとへに泥水し入草して、説法度人いまだのがれず、轉法拯物いまだのがれざるのみなり。もし兒孫と稱ずるともがら、坐夏九旬を無言説なりといはば、還吾九旬坐夏來といふべし。

阿難に勅令していはく、汝代爲我説、一切法不生、一切法不滅と代説せしむ。この佛儀、いたづらにすごすべからず。おほよそ、掩室坐夏、いかでか無言無説なりとせん。しばらく、もし阿難として當時すなはち世尊に白すべし、一切法不生、一切法不滅。作麼生説。縱説恁麼、要作什麼。かくのごとく白して、世尊の道を聽取すべし。

おほよそ而今の一段の佛儀、これ説法轉法の第一義諦、第一無諦なり。さらに無言説の證據とすべからず。もしこれを無言説とせば、可憐三尺龍泉剣、徒掛陶家壁上梭ならん。

しかあればすなはち、九旬坐夏は古轉法輪なり、古佛祖なり。而今の因縁のなかに、時將欲白夏とあり。しるべし、のがれずおこなはるゝ九旬坐夏安居なり、これをのがるゝは外道なり。おほよそ世尊在世には、あるいは忉利天にして九旬安居し、あるいは耆闍崛山靜室中にして五百比丘ともに安居す。五天竺國のあひだ、ところを論ぜず、ときいたれば白夏安居し、九夏安居おこなはれき。いま現在せる佛祖、もとも一大事としておこなはるゝところなり。これ修證の無上道なり。梵網經中に冬安居あれども、その法つたはれず、九夏安居の法のみつたはれり。正傳まのあたり五十一世なり。

本則の読みは、

「世尊、摩竭陀(マガダ)国に在し、衆の為に説法す。この時まさに白夏(安居)に臨んで、乃ち阿難に謂うに日く、諸の弟子、人天四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)は、我れ常に説法すれども、敬仰せず。我れ今因沙臼室中に入り、坐夏九旬す。忽ち人有って、来って法を問う時、汝(アーナンダ)が代って我が為に説くべし、一切法は不生・一切法は不滅と。言い訖(おわ)ると因沙臼室で坐禅す」

マガダ(摩竭陀)国とは現在のインド北東部ビハール州周辺に位置した古代十六大国の一つで、同地にはブッダガヤ・王舎城霊鷲山・竹林精舎等あり、因沙臼室は霊鷲山にあったとされる南山石室・帝釈窟等の一つです。

「しかありしよりこのかた、すでに二千一百九十四年〈当日本寛元三年乙巳歳〉なり。堂奥にいらざる児孫、多く摩竭掩室を無言説の証拠とせり。いま邪党おもはくは、掩室坐夏の仏意は、それ言説を用いるは悉く実にあらず、善巧方便なり。至理は言語道断し、心行処滅なり。このゆえに、無言無心は至理にかなふべし、有言有念は非理なり。このゆえに、掩室坐夏九旬のあひだ、人跡を断絶せるなりとのみいひいふなり。これらのともがらの云うところ、おほきに世尊の仏意に孤負せり」

ここに云う文意は維摩の一黙雷又は禅宗門徒による不立文字に対する道元禅師の「摩竭掩室」に対する見解で、難解な文体ではありません。

二千百九十四年は釈迦入滅より寛元三年までの年数を述べたものですが、『景徳伝灯録』一・釈迦牟尼章では穆王の五十二年壬申の歳の二月十五日、つまり紀元前九五〇年入滅説を採用し寛元三年は一二四五ですからピタリと年代が符合します。因みに2016年現在の仏歴は西暦年+543を加えた算数で二五五九年を採用するのが南方仏教(ミャンマー・タイ等)。日本では紀元前483年とする二四九九、もしくは紀元前383年とする二三九九年とする諸説があります。

最後に無言説法等は「仏意に孤負せり」と仏の意志にそむくものだと断言されます。

「いはゆる、もし言語道断、心行処滅を論ぜば、一切の治生産業みな言語道断し、心行処滅なり。言語道断とは、一切の言語をいふ。心行処滅とは、一切の心行を云う。いはんやこの因縁、もとより無言をたうとびんためにはあらず。通身ひとへに泥水し入草して、説法度人いまだのがれず、転法拯物いまだのがれざるのみなり。もし児孫と称ずるともがら、坐夏九旬を無言説なりといはば、還吾九旬坐夏来と云うべし。」

この段にて「究竟指帰何処、言語道断、心行処滅、永寂如空」(『宗鏡録』九二「大正蔵」四八・九一九・下)の如くとする参学人に対し「治生産業」という現実の生活は表裏の関係にあって、無言説ばかりを玉石に比する身心一如の仏法世界では成り立たず、「通身に泥水入草」してして始めて「説法度人」の表裏一体となるのであり、無言説ばかりを云う学人には第一段で示した還吾九十日飯銭来を捩った「還吾九旬坐夏来」と無駄な日時を浪費するなとの道元禅流の拈提です。

「阿難に勅令して曰く、汝代為我説、一切法不生、一切法不滅と代説せしむ。この仏儀、いたづらに過ごすべからず。おほよそ、掩室坐夏、いかでか無言無説なりとせん。しばらく、もし阿難として当時すなはち世尊に白すべし、一切法不生、一切法不滅。作麼生説。縱説恁麼、要作什麼。かくのごとく白して、世尊の道を聽取すべし」

いよいよ拈提が佳境に入ります。世尊が阿難に代弁せよとの「一切法不生、一切法不滅」に対し、具体的に「作麼生」「恁麼」「什麼」と仏法の勘所を世尊に聴きなさいと、阿難に対する道元禅師の著語です。

「おほよそ而今の一段の仏儀、これ説法転法の第一義諦、第一無諦なり。さらに無言説の証拠とすべからず。もしこれを無言説とせば、可憐三尺龍泉剣、徒掛陶家壁上梭ならん。

しかあればすなはち、九旬坐夏は古転法輪なり、古仏祖なり。而今の因縁のなかに、時将欲白夏とあり。しるべし、逃れずおこなはるゝ九旬坐夏安居なり、これを逃るるは外道なり」

先の道元禅師の著語以前に戻り、世尊が説いた一切法不生・一切法不滅の義は「第一義諦・第一無諦」と最高の褒め言葉で以て礼賛しますが、この一切法不生・一切法不滅の義を掩室坐夏の無言説とする輩にとっては、三尺の名宝と云われる宝剣と晋(シン)の将軍の陶侃(259―334)が拾った織梭(しょくひ・はた織りの横糸を通す道具)を同列に並べるようなものだとの喩えですが(三尺龍泉剣は『嘉泰普灯録』二十八・仏性泰禅師章(「続蔵」七九・四六七・上・有句無句の段参照)、言わんとする要旨は世尊が言う一切法不生・一切法不滅は九旬の安居と同等体を言うにも関わらず、掩室坐夏を無言無心と心得る輩との差異を説くものです。

「しかあればすなはち、九旬坐夏は古転法輪なり、古仏祖なり。而今の因縁のなかに、時将欲白夏とあり。知るべし、逃れずおこなはるゝ九旬坐夏安居なり、これを逃るゝは外道なり」

ここで説く「古転法輪」「古仏祖」の意は古くからの・昔からのと云う時間軸を説くものではなく、自身の最も尊敬する形容語としての古であり、「九旬坐夏」つまり安居そのものが仏の教え・坐禅そのものが三世に通底する仏祖との解釈です。ですから世尊は「時まさに安居に入る」と言われ、この「九旬坐夏の安居」に同参同宿できない輩は外道との言明です。

「おほよそ世尊在世には、あるいは忉利天にして九旬安居し、あるいは耆闍崛山浄室中にして五百比丘ともに安居す。五天竺国のあひだ、ところを論ぜず、ときいたれば白夏安居し、九夏安居おこなはれき。いま現在せる仏祖、もとも一大事としておこなはるゝところなり。これ修証の無上道なり。梵網経中に冬安居あれども、その法伝はれず、九夏安居の法のみ

伝はれり。正伝まのあたり五十一世なり」

「忉利天九旬安居」の典拠を水野弥穂子氏は『仏昇忉利天為母説法経』上(「大正蔵」一七・七八七・中)とされます。「耆闍崛山」は霊鷲山のことで、「五天竺国」とは東印度六国・西印度十一国・南印度十六国・北印度二十一国・中印度三十国の合計八十四国を云う。(『大唐西域記』「大正蔵」五一・八六八・下)「梵網経中冬安居」の事例は『洗面』巻(寛元元(1243)年十月二十日吉峰寺重示衆)に「梵網菩薩戒経に云う、常に二時の頭陀、冬夏坐禅、結夏安居に応ずー中略―頭陀は正月十五日より三月十五日まで、八月十五日より十月十五日まで云々」と記される正月十五日からの冬安居の慣習は伝来せず、九夏安居つまり八月十五日よりの伝法伝来し、その正伝が釈迦牟尼仏大和尚から四十七世清了大和尚・四十八世宗珏大和尚・四十九世智鑑大和尚・五十世如浄大和尚、そして五十一世の自身にと印度より大宋国そして日本国に「安居」の真実態が伝来する自負心をも込めた文言での摩竭掩室の話頭拈提です。

 

    四

清規云、行脚人欲就處所結夏、須於半月前掛搭。所貴茶湯人事、不倉卒。

いはゆる半月前とは、三月下旬をいふ。しかあれば、三月内にきたり掛搭すべきなり。すでに四月一日よりは、比丘僧ありきせず。諸方の接待および諸寺の旦過、みな門を鎖せり。しかあれば、四月一日よりは、雲衲みな寺院に安居せり、庵裡に掛搭せり。あるいは白衣舎に安居せる、先例なり。これ佛祖の儀なり、慕古し修行すべし。拳頭鼻孔、みな面々に寺院をしめて、安居のところに掛搭せり。

しかあるを、魔儻いはく、大乘の見解、それ要樞なるべし。夏安居は聲聞の行儀なり、あながちに修習すべからず。かくのごとくいふともがらは、かつて佛法を見聞せざるなり。阿耨多羅三藐三菩提、これ九旬安居坐夏なり。たとひ大乘小乘の至極ありとも、九旬安居の枝葉花菓なり。

四月三日の粥罷より、はじめてことをおこなふといへども、堂司あらかじめ四月一日より戒臘の榜を理會す。すでに四月三日の粥罷に、戒臘牌を衆寮前にかく。いはゆる前門の下間の窓外にかく。寮窓みな櫺子なり。粥罷にこれをかけ、放參鐘ののち、これををさむ。三日より五日にいたるまでこれをかく。をさむる時節、かくる時節、おなじ。

かの榜、かく式あり。知事頭首によらず、戒臘のまゝにかくなり。諸方にして頭首知事をへたらんは、おのおの首座監寺とかくなり。數職をつとめたらんなかには、そのうちにつとめておほきならん職をかくべし。かつて住持をへたらんは、某甲西堂とかく。小院の住持をつとめたりといへども、雲水にしられざるは、しばしばこれをかくして稱ぜず。もし師の會裏にしては、西堂なるもの、西堂の儀なし。某甲上座とかく例もあり。おほくは衣鉢侍者寮に歇息する、勝躅なり。さらに衣鉢侍者に充し、あるいは燒香侍者に充する、舊例なり。いはんやその餘の職、いづれも師命にしたがふなり。佗人の弟子のきたれるが、小院の住持をつとめたりといへども、おほきなる寺院にては、なほ首座書記、都寺監寺等に請ずるは、依例なり、芳躅なり。小院の小職をつとめたるを稱ずるをば、叢林わらふなり。よき人は、住持をへたる、なほ小院をばかくして稱ぜざるなり。榜式かくのごとし。

 某國某州某山某寺、今夏結夏海衆、戒臘如後。

  陳如尊者

  堂頭和尚

   建保元戒

    某甲上座    某甲藏主

    某甲上座    某甲上座

   建保二戒

    某甲西堂    某甲維那

    某甲首座    某甲知客

    某甲上座    某甲浴主

   建暦元戒

    某甲直歳  某甲侍者

    某甲首座    某甲首座

    某甲化主    某甲上座

    某甲典座  某甲堂主

   建暦三戒

    某甲書記  某甲上座

    某甲西堂    某甲首座

    某甲上座    某甲上座

 右、謹具呈、若有誤錯、各請指揮。謹状。

  某年四月三日、堂司比丘某甲謹状

かくのごとくかく。しろきかみにかく。眞書にかく、草書隷書等をもちゐず。かくるには、布線のふとさ兩米粒許なるを、その紙榜頭につけてかくるなり。たとへば、簾額のすぐならんがごとし。四月五日の放參罷にをさめをはりぬ。

四月八日は佛生會なり。

四月十三日の齋罷に、衆寮の僧衆、すなはち本寮につきて煎點諷經す。寮主ことをおこなふ。點湯燒香、みな寮主これをつとむ。寮主は衆寮の堂奥に、その位を安排せり。寮首座は、寮の聖僧の左邊に安排せり。しかあれども、寮主いでて燒香行事するなり。首座知事等、この諷經におもむかず。たゞ本寮の僧衆のみおこなふなり。

維那、あらかじめ一枚の戒臘牌を修理して、十五日の粥罷に、僧堂前の東壁にかく、前架のうへにあたりてかく。正面のつぎのみなみの間なり。

これから『禅苑清規』結夏章(「続蔵」六三・五二八・中)に依用し安居に於ける具体事例の説明ですが、道元禅師は底本とする経典類を恣意的に改変する箇所が見当たりますが(『自照三昧』巻・「大慧録」等)本則に当る『禅苑清規』に於いても「半日」を「半月」と改訂し、「不倉卒」は原文「不至倉卒」からの改訂提唱ですが、後者の至は有っても無くても支障はないが、前者の半月には当時の僧堂生活での具体的行持の流れを垣間見る思いです。

「いはゆる半月前とは、三月下旬を云う。しかあれば、三月内にきたり掛搭すべきなり。すでに四月一日よりは、比丘僧ありきせず。諸方の接待および諸寺の旦過、みな門を鎖せり。しかあれば、四月一日よりは、雲衲みな寺院に安居せり、庵裡に掛搭せり。あるいは白衣舎に安居せる、先例なり。これ仏祖の儀なり、慕古し修行すべし。拳頭鼻孔、みな面々に寺院をしめて、安居のところに掛搭せり」

原文では四月十四日の昼食の後に掛搭(四月十四日斎後、掛念誦牌)と記されるが、実際には四月一五日の半月以上前から安居が始まるわけです。四月に入ると安居が行われる寺院では受処(接待)と旅僧の宿泊施設である旦過寮は閉鎖されるので、四月一日時点では安居に臨む雲衲は当該寺院又は寺院内の庵、さらには域内にある在俗舎(白衣舎)にそれぞれの事情で安居するという事が道元禅師在宋中での習慣であったのだろうと思われます。

「しかあるを、魔党いはく、大乗の見解、それ要枢なるべし。夏安居は声聞の行儀なり、あながちに修習すべからず。かくの如く云うともがらは、かつて仏法を見聞せざるなり。阿耨多羅三藐三菩提、これ九旬安居坐夏なり。たとひ大乘小乘の至極ありとも、九旬安居の枝葉花菓なり」

ここに云う「魔党」は旧仏教徒の南都系を指すのか、それとも新興の浄土系が云う処の言説が世間に流布しての事だと察せられます。

「阿耨多羅三藐三菩提」は無上正等正覚の境涯ですから、その正覚の現実態が「九旬の安居での坐」であり、大乗小乗と区分をするが安居中の枝葉花菓の表情は大乗の菩薩行・小乗の伝統という形態で維持され、基本が安居との見解です。

「四月三日の粥罷より、始めて事を行うと云えども、堂司あらかじめ四月一日より戒臘の榜を理会す。すでに四月三日の粥罷に、戒臘牌を衆寮前に掛く。いはゆる前門の下間の窓外に掛く。寮窓みな櫺子なり。粥罷にこれを掛け、放参鐘の後、これを収む。三日より五日にいたるまでこれを掛く。収むる時節、かくる時節、同じ」

四月三日の粥罷が終わってから安居に対する準備段階に入るが、堂司(維那)は雲衲に対する指導責任があるので、四月一日には参集した雲水の戒臘の牌に履歴を書いておく。いよいよ四月三日粥罷に衆寮の前に履歴を書いた戒臘牌を、衆寮の向かって左側(下間)の縦格子の窓の外に掛けるのである。朝貼り出し夜坐の終了を告げる放参鐘が鳴ったら収め、これを三日の朝から五日の晩まで同じくするのである。

「かの榜、書く式あり。知事頭首によらず、戒臘のまゝに書くなり。諸方にして頭首知事を経たらんは、おのおの首座監寺と書くなり。数職を務めたらんなかには、そのうちに務めて大きならん職を書くべし。かつて住持を経たらんは、某甲西堂と書く。小院の住持を務めたりと云えども、雲水に知られざるは、しばしばこれを隠して称ぜず。もし師の会裏にしては、西堂なるもの、西堂の儀なし。某甲上座と書く例もあり。多くは衣鉢侍者寮に歇息する、勝躅なり。さらに衣鉢侍者に充し、あるいは燒香侍者に充する、旧例なり。いはんやその餘の職、いづれも師命に従うなり。他人の弟子の来たれるが、小院の住持を務めたりと云えども、大きなる寺院にては、なほ首座書記、都寺監寺等に請ずるは、依例なり、芳躅なり。小院の小職を務めたるを称ずるをば、叢林笑うなり。よき人は、住持を経たる、なほ小院をば隠して称ぜざるなり」

戒臘牌には書く書式があり、僧侶としての法齢が重要視され、知事は都寺(つうす)・監寺(かんす)・副寺(ふうす)・維那(いの)・典座(てんぞ)・直歳(しっすい)の六知事、頭首は首座(しゅそ)・書記(しょき)・蔵主(ぞうす)・庫頭(くじゅう)・知客(しか)・浴主(よくす)の六頭首で各寮舎の責任者です。

「かつて住持を経たらんは、某甲西堂と書く」とありますが、東堂に対し西堂を云うもので、

東堂は前住持を西堂は他寺院の前住持を指し、長老僧の形容である。その西堂が他門の安居に参随する時には、某甲西堂・某甲上座と紹介され、衣鉢侍者寮に入り住持の侍者位に就くと。

他の安居従事者は主催寺院の長老に従い円滑に行持する事が肝心で、履歴を口宣する学人は笑いの対象であり、叢林とは人体の如くに五臓六腑は重要であるが、全体が連関する事で法身としての具現が出来るわけですから、自己(我)主張は勝躅にあらず。との説明です。

榜式かくのごとし。

 某國某州某山某寺、今夏結夏海衆、戒臘如後。

  陳如尊者

  堂頭和尚

   建保元戒

    某甲上座    某甲藏主

    某甲上座    某甲上座

   建保二戒

    某甲西堂    某甲維那

    某甲首座    某甲知客

    某甲上座    某甲浴主

   建暦元戒

    某甲直歳  某甲侍者

    某甲首座    某甲首座

    某甲化主    某甲上座

    某甲典座  某甲堂主

   建暦三戒

    某甲書記  某甲上座

    某甲西堂    某甲首座

    某甲上座    某甲上座

右、謹具呈、若有誤錯、各請指揮。謹状。

某年四月三日、堂司比丘某甲謹状

かくのごとくかく。しろきかみにかく。眞書にかく、草書隷書等をもちゐず。かくるには、布線のふとさ兩米粒許なるを、その紙榜頭につけてかくるなり。たとへば、簾額のすぐならんがごとし。四月五日の放參罷にをさめをはりぬ。

四月八日は佛生會なり。

 四月十三日の齋罷に、衆寮の僧衆、すなはち本寮につきて煎點諷經す。寮主ことをおこなふ。點湯燒香、みな寮主これをつとむ。寮主は衆寮の堂奥に、その位を安排せり。寮首座は、寮の聖僧の左邊に安排せり。しかあれども、寮主いでて燒香行事するなり。首座知事等、この諷經におもむかず。たゞ本寮の僧衆のみおこなふなり。

 維那、あらかじめ一枚の戒臘牌を修理して、十五日の粥罷に、僧堂前の東壁にかく、前架のうへにあたりてかく。正面のつぎのみなみの間なり。

戒臘牌の具体的な例示で説明されたもので、「陳如尊者」とは五比丘(阿若憍陳如・阿説示・摩訶摩男・婆提梨迦・婆敷)の筆頭悟道梵行第一を指し、「堂頭和尚」は安居寺院の住持者を筆頭第二とします。

「建保元戒」は諸本対校『建撕記』(六頁)には「建保元年(1213)癸酉四月九日、十四歳にして座主公円僧正に剃髪を任す。同十日延暦寺戒壇にて菩薩戒を受け比丘と作る」と記されますから、この時の状況を回顧しての事だと考えられます。

「建暦元戒」の建暦は建保の前の元号で、同じく諸本対校『建撕記』(六頁)では「建暦二年(1212)十三歳の春に横川千光房に登る」の記載がある事から、建暦二年の前後の「建暦元戒」」建暦三戒」の項を例示したのでしょうが、出来る事なら当時の実名が記されたものならと惜しまれる気がする。

「かくの如く書く。白き紙に書く。真書に書く、草書隷書等を用いず。掛くるには、布線の太さ両米粒許なるを、その紙榜頭につけて掛くるなり。たとへば、簾額のすぐならんが如し。四月五日の放参罷に収め終わりぬ」

白紙に楷書(真書)で書きなさいとの事で、くずし字(草書)や隷書(篆書を簡略にした字体)は使用せず、真っすぐに掛けて四月五日の坐禅終了の鐘で収めなさいとは先に説かれたものです。

「四月八日は仏生会なり。四月十三日の齋罷に、衆寮の僧衆、すなわち本寮につきて煎点諷経す。寮主ことを行なう。点湯焼香、みな寮主これをつとむ。寮主は衆寮の堂奥に、その位を安排せり。寮首座は、寮の聖僧の左辺に安排せり。しかあれども、寮主いでて焼香行事するなり。首座知事等、この諷経に赴かず。たゞ本寮の僧衆のみ行なうなり。

維那、あらかじめ一枚の戒臘牌を修理して、十五日の粥罷に、僧堂前の東壁に掛く、前架

の上にあたりて掛く。正面の次の南の間なり」

四月八日は仏生会とあるが、簡略にその様子がわかればと残念である。

四月十三日の中食の後に安居の前段階的行持である煎点諷経である。煎点を供し読経する茶礼儀式である。

「寮主」は各寮舎の責任者で一ヶ月又は半月あるいは十日で主は交替するらしく、別に寮首座という位もあり、この煎点諷経には安居での首座・知事は参加しないとあり、寺院内では相当に階層的ヒエラルキーが存在したらしい。

「維那」(堂司)は三日粥罷から五日放参鐘まで衆寮前に掛けた戒臘牌を、十五日の粥罷には僧堂前の東壁の僧堂外単の南側の柱と柱の前架に掛けるとの事情です。

四月十四日の齋後に、念誦牌を僧堂前にかく。諸堂おなじく念誦牌をかく。至晩に、知事あらかじめ土地堂に香華をまうく、額のまへにまうくるなり。集衆念誦す。

念誦の法は、大衆集定ののち、住持人まづ燒香す。つぎに知事頭首、燒香す。浴佛のときの燒香の法のごとし。つぎに維那、くらゐより正面にいでて、まづ住持人を問訊して、つぎに土地堂にむかうて問訊して、おもてをきたにして、土地堂にむかうて念誦す。詞云、

竊以薫風扇野、炎帝司方。當法王禁足之辰、是釋子護生之日。躬裒大衆、肅詣靈祠、誦持萬徳洪名、回向合堂眞宰。所祈加護得遂安居。仰憑尊衆念。

 清淨法身毘盧遮那佛  金打

 圓滿報身盧遮那佛   同

 千百億化身釋迦牟尼佛 同

 當來下生彌勒尊佛   同

 十方三世一切諸佛   同

 大聖文殊師利菩薩   同

 大聖普賢菩薩     同

 大悲觀世音菩薩    同

 諸尊菩薩摩訶薩    同

 摩訶般若波羅蜜    同

上來念誦功徳、竝用回向、護持正法、土地龍神。伏願、神光協贊、發揮有利之勲。梵樂興隆、亦錫無私之慶。再憑尊衆念。

十方三世一切諸佛 諸尊菩薩摩訶薩 摩訶般若波羅蜜

ときに鼓響すれば、大衆すなはち雲堂の點湯の座に赴す。點湯は庫司の所辨なり。大衆赴堂し、次第巡堂し、被位につきて正面而坐す。知事一人行法事す。いはゆる燒香等をつとむるなり。

ここでの提唱も『禅苑清規』二・結夏章に説く漢文体を訓読調に書き改めたもので、途中「十仏名」は記載なく自身が添語したもので、文面の如くです。

清規云、本合監院行事。有改維那代之。

すべからく念誦已前に冩牓して首座に呈す。知事、搭袈裟帶坐具して首座に相見するとき、あるいは兩展三拝しをはりて、牓を首座に呈す。首座、答拝す。知事の拝とおなじかるべし。牓は箱に複秋子をしきて、行者にもたせてゆく。首座、知事をおくりむかふ。

 牓式

   庫司今晩就

   雲堂煎點、特爲

   首座

   大衆、聊表結制之儀。伏冀

   衆慈同垂

   光降。

  寛元三年四月十四日  庫司比丘某甲等謹白

知事の第一の名字をかくなり。牓を首座に呈してのち、行者をして雲堂前に貼せしむ。堂前の下間に貼するなり。前門の南頬の外面に、牓を貼する板あり。このいた、ぬれり。

殻漏子あり。殻漏子は、牓の初にならべて、竹釘にてうちつけたり。しかあれば、殻漏子もかたはらに押貼せり。この牓は如法につくれり。五分許の字にかく、おほきにかゝず。殻漏子の表書は、かくのごとくかく。

   状請 首座 大衆    庫司比丘某甲等謹封

煎點をはりぬれば、牓ををさむ。

「清規に云う」の原文は前段の「知事一人行事す」に対する割注で、原文では「本合監院行事。有故即維那代之」と「故即」を「改」に変えるなど微妙な改変をされていて、如何に説かんとするかが窺えます。

「すべからく念誦已前に写牓して首座に呈す」は「念誦已前、先写牓呈首座請之」からのもので、「知事、搭袈裟帯坐具して首座に相見するとき、あるいは両展三拝し終わりて、牓を首座に呈す。首座、答拝す。知事の拝と同じかるべし。牓は箱に複秋子を敷きて、行者に持たせて行く。首座、知事を送り迎う」は道元禅師の補講文です。

「搭袈裟帯坐具」は正式な威儀法服で、「両展三拝」は初めに大展三拝、次に展坐具三拝、最後に触礼三拝を云い、人事(あいさつ)・陳賀等の場合に用いる。

「複秋子」は袱紗の事で、「行者(あんじゃ)」とは寺内に住する得度前の人で、六祖慧能の盧行者が最初と云う。

牓は「たて札」の意で、ここでの牓式も割注部位で「庫司(監院)は今晩、雲堂(僧堂)に就いて茶を煎点し、特(ことさら)に首座・大衆の為に、聊(いささ)か結制の儀を表す。伏して冀(ねがわ)くは衆慈同じく光降を垂れんことを」と『禅苑清規』からの直文で、実際に寛元三年の四月十四日に行持された事を同年六月十三日に提唱されているのでしょうか。

「知事の第一の名字を書くなり。牓を首座に呈してのち、行者をして雲堂前に貼せしむ。堂前の下間に貼するなり。前門の南頬の外面に、牓を貼する板あり。この板、塗れり。

殻漏子あり。殻漏子は、牓の初にならべて、竹釘にてうちつけたり。しかあれば、殻漏子もかたはらに押貼せり。この牓は如法につくれり。五分許の字にかく、おほきにかゝず。殻漏子の表書は、かくのごとくかく。状請 首座 大衆 庫司比丘某甲等謹封煎點終わりぬれば、牓を収む」

『禅苑清規』には不載で、自身による補講文です。「知事の第一の名字を書く」とは庫司比丘某甲の某甲に対し具体的に庫司の都寺・監寺・副寺に当たる三知事の筆頭名を書くようにとの事です。

「牓を首座に呈してのち、行者をして雲堂前に貼せしむ。堂前の下間に貼するなり。前門の南頬の外面に、牓を貼する板あり」

この儀は十五日の粥罷に戒臘牓を僧堂前に掛ける儀と同じ手順で行うもので、たて札(牓)を貼る板は漆塗りの板を使うとの規定です。

「殻漏子」は可漏(かろ)と同義語で封筒・書簡袋を指す。「五分許の字」は現在のメートル法では0・3センチ×5=1・5センチばかりの字幅になります。

十五日の粥前に、知事頭首、小師法眷、まづ方丈内にまうでて人事す。住持人もし隔宿より免人事せば、さらに方丈にまうづべからず。免人事といふは、十四日より、住持人、あるいは頌子あるいは法語をかける牓を、方丈門の東頬に貼せり。あるいは雲堂前にも貼す。

十五日の陞座罷、住持人、法座よりおりて堦のまへにたつ。拝席の北頭をふみて、面南してたつ。知事、近前して兩展三拝す。

一展云、此際安居禁足、獲奉巾瓶。唯仗和尚法力資持、願無難事。

一展、叙寒暄、觸禮三拝。

叙寒暄云者、展坐具三拝了、収坐具、進云、即辰孟夏漸熱。法王結制之辰、伏惟、堂頭和尚、法候動止萬福、下情不勝感激之至。

かくのごとくして、その次、觸禮三拝。ことばなし、住持人みな答拝す。

住持人念、此者多幸得同安居、亦冀某〈首座監寺〉人等、法力相資、無諸難事。首座大衆、同此式也。

このとき、首座大衆、知事等、みな面北して禮拝するなり。住持人ひとり面南にして、法座の堦前に立せり。住持人の坐具は、拝席のうへに展ずるなり。

つぎに首座大衆、於住持人前、兩展三拝。このとき、小師侍者、法眷沙彌、在一邊立。未得與大衆雷同人事。

いはゆる一邊にありてたつとは、法堂の東壁のかたはらにありてたつなり。もし東壁邊に施主の垂箔のことあらば、法鼓のほとりにたつべし、また西壁邊にも立すべきなり。

大衆禮拝をはりて、知事まづ庫堂にかへりて主位に立す。つぎに首座すなはち大衆を領して庫司にいたりて人事す。いはゆる知事と觸禮三拝するなり。

このとき小師侍者法眷等は、法堂上にて住持人を禮拝す。法眷は兩展三拝すべし、住持人の答拝あり。小師侍者、おのおの九拝す。答拝なし。沙彌九拝、あるいは十二拝なり。住持人合掌してうくるのみなり。

つぎに首座、僧堂前にいたりて、上間の知事床のみなみのはしにあたりて、雲堂の正面にあたりて、面南にて大衆にむかうてたつ。大衆面北して、首座にむかうて觸禮三拝す。首座、大衆をひきて入堂し、戒臘によりて巡堂立定す。知事入堂し、聖僧前にて大展禮三拝しておく。つぎに首座前にて觸禮三拝す。大衆答拝す。知事、巡堂一迊して、いでてくらゐによりて叉手してたつ。

住持人入堂、聖僧前にして燒香、大展三拝起。このとき、小師於聖僧後避立。法眷隨大衆。

つぎに住持人、於首座觸禮三拝。

いはく、住持人、たゞくらゐによりてたち、面西にて觸禮す。首座大衆答拝、さきのごとし。

住持人、巡堂していづ。首座、前門の南頬よりいでて住持人をおくる。

住持人出堂ののち、首座已下、對禮三拝していはく、此際幸同安居、恐三業不善、且望慈悲。

この拝は、展坐具拝三拝なり。かくのごとくして首座書記藏主等、おのおのその寮にかへる。もしそれ衆寮僧は、寮主寮首座已下、おのおの觸禮三拝す。致語は堂中の法におなじ。

住持人こののち、庫堂よりはじめて巡堂す。次第に大衆相隨、送至方丈。大衆乃退。

いはゆる住持人まづ庫堂にいたる、知事と人事しをはりて、住持人いでて巡堂すれば、知事しりへにあゆめり。知事のつぎに、東廊のほとりにあるひとあゆめり。住持人このとき延壽院にいらず。東廊より西におりて、山門をとほりて巡寮すれば、山門の邊の寮にある人、あゆみつらなる。みなみより西の廊下および諸寮にめぐる。このとき、西をゆくときは北にむかふ。このときより、安老勤舊前資頤堂單寮のともがら、淨頭等、あゆみつらなれり。維那首座等あゆみつらなるつぎに、衆寮の僧衆あゆみつらなる。巡寮は、寮の便宜によりてあゆみくはゝる。これを大衆相送とはいふ。

かくのごとくして、方丈の西階よりのぼりて、住持人は方丈の正面のもやの住持人のくらゐによりて、面南にて叉手してたつ。大衆は知事已下みな面北にて住持人を問訊す。この問訊、ことにふかくするなり。住持人、答問訊あり。大衆退す。

先師は方丈に大衆をひかず、法堂にいたりて、法座の堦前にして面南叉手してたつ、大衆問訊して退す、これ古往の儀なり。

しかうしてのち、衆僧おのおのこゝろにしたがひて人事す。

人事とは、あひ禮拝するなり。たとへば、おなじ郷間のともがら、あるいは照堂、あるいは廊下の便宜のところにして、幾十人もあひ拝して、同安居の理致を賀す。しかあれども、致語は堂中の法になずらふ。人にしたがひて今案のことばも存ず。あるいは小師をひきゐたる本師あり、これ小師かならず本師を拝すべし、九拝をもちゐる。法眷の住持人を拝する、兩展三拝なり。あるいはたゞ大展三拝す。法眷のともに衆にあるは、拝おなじかるべし。師叔師伯、またかならず拝あり。隣單隣肩みな拝す、相識道舊ともに拝あり。單寮にあるともがらと、首座書記藏主知客浴司等と、到寮拝賀すべし。單寮にあるともがらと、都寺監寺維那典座直歳西堂尼師道士等とも、到寮到位して拝賀すべし。到寮せんとするに、人しげくして入寮門にひまをえざれば、牓をかきてその寮門におす。その牓は、ひろさ一寸餘、ながさ二寸ばかりなる白紙にかくなり。かく式は、

  某寮   某甲

   拝 賀

 又の式

  巣雲   懷昭等

   拝 賀

 又の式

  某甲

   禮 賀

 又の式

  某甲

   拝 賀

 又の式

  某甲

   禮 拝

かくしき、おほけれど、大旨かくのごとし。しかあれば、門側にはこの牓あまたみゆるなり。門側には左邊におさず、門の右におすなり。この牓は、齋罷に、本寮主をさめとる。今日は、大小諸堂諸寮、みな門簾をあげたり。

堂頭庫司首座、次第に煎點といふことあり。しかあれども、遠島深山のあひだには省略すべし。たゞこれ禮數なり。退院の長老、および立僧の首座、おのおの本寮につきて、知事頭首のために特爲煎點するなり。

かくのごとく結夏してより、功夫辦道するなり。衆行を辦肯せりといへども、いまだ夏安居せざるは佛祖の兒孫にあらず、また佛祖にあらず。孤獨園靈鷲山、みな安居によりて現成せり。安居の道場、これ佛祖の心印なり、諸佛の住世なり。

「十五日の粥前に、知事頭首、小師法眷、まづ方丈内にまうでて人事す。住持人もし隔宿より免人事せば、さらに方丈にまうづべからず」は原文からの訳文で、「免人事」以下が粘提部になり、免人事とは挨拶の省略の意で、人事を省くには住持の偈頌等を方丈門又は僧堂の前に貼り出す必要があると事です。

「十五日の陞座罷、住持人、法座より降りて堦の前に立つ。拝席の北頭を踏みて、面南して立つ。知事、近前して両展三拝す」

原文は「陞座罷。知事近前両展三拝」から具体的に説明するものです。

「一展云、此際安居禁足、獲奉巾瓶。唯仗和尚法力資持、願無難事。一展、叙寒暄、觸禮三拝」は本文割注に見られ、「叙寒暄云者、展坐具三拝了、収坐具、進云、即辰孟夏漸熱。法王結制之辰、伏惟、堂頭和尚、法候動止万福、下情不勝感激之至。かくのごとくして、その次、触礼三拝。ことばなし、住持人みな答拝す」までが道元禅師の註解で、「叙寒暄と云うのは、

展坐具三拝のち坐具を収め、即辰孟夏漸く熱く、法王結制の辰、伏して惟れば堂頭和尚、法候動止万福、下情感激の至りに勝えず」と云い、次に触礼三拝の略式拝を成し、住持である堂頭は答拝で応じ、その時には言葉はないとの道元禅師の解説です。

「住持人念、此者多幸得同安居、亦冀某〈首座監寺〉人等、法力相資、無諸難事。首座大衆、同此式也」原文割注そのままで、「このとき、首座大衆、知事等、みな面北して礼拝するなり。住持人ひとり面南にして、法座の堦前に立せり。住持人の坐具は、拝席のうへに展ずるなり」は註解文です。

「つぎに首座大衆、於住持人前、両展三拝。このとき、小師侍者、法眷沙弥、在一辺立。未得与大衆雷同人事」は原文引用ですが、原文では「小師・侍者・卑(童)行・法眷・沙弥」とあるが提唱文では卑(童)行が削られる。「いはゆる一辺にありて立つとは、法堂の東壁のかたはらにありて立つなり。もし東壁辺に施主の垂箔のことあらば、法鼓のほとりに立つべし、また西壁辺にも立すべきなり」は註解文です。

「大衆礼拝終わりて、知事まづ庫堂に変えりて主位に立す。つぎに首座すなはち大衆を領して庫司に至りて人事す。いはゆる知事と触礼三拝するなり」は原文引用。「このとき小師侍者法眷等は、法堂上にて住持人を礼拝す。法眷は両展三拝すべし、住持人の答拝あり。小師侍者、おのおの九拝す。答拝なし。沙弥九拝、あるいは十二拝なり。住持人合掌して受くるのみなり」は註解文です。

つぎに首座、僧堂前に至りて、上間の知事床の南の端にあたりて、雲堂の正面にあたりて、面南にて大衆に向かうて立つ。大衆面北して、首座に向かうて触礼三拝す。首座、大衆を引きて入堂し、戒臘によりて巡堂立定す。知事入堂し、聖僧前にて大展礼三拝しておく。つぎに首座前にて触礼三拝す。大衆答拝す。知事、巡堂一迊して、出でて位によりて叉手して立つ。

住持人入堂、聖僧前にして焼香、大展三拝起。このとき、小師於聖僧後避立。法眷随大衆。

つぎに住持人、於首座触礼三拝。

いはく、住持人、たゞ位によりて立ち、面西にて触礼す。首座大衆答拝、先のごとし。

住持人、巡堂して出づ。首座、前門の南頬より出でて住持人を送る。

住持人出堂ののち、首座已下、対礼三拝していはく、此際幸同安居、恐三業不善、且望慈悲」は原文引用ですが、随所に補講された語句が見られる。「かくのごとくして首座書記藏主等、おのおのその寮にかへる。もしそれ衆寮僧は、寮主寮首座已下、おのおの觸禮三拝す。致語は堂中の法におなじ」は註解文です。

「住持人こののち、庫堂よりはじめて巡堂す。次第に大衆相随、送至方丈。大衆乃退」は原文引用で、「いはゆる住持人まづ庫堂に至る、知事と人事し終わりて」以下は道元禅師による老婆親語な説明になります。

住持人は庫院に至り、典座は住持の後方に随う。巡堂の時は延寿院には入らず安老(隠居僧)・勤旧(知事等の退役僧)・前資(副寺職を三回以上退休老宿)・頤堂(老宿僧)・単寮(独住する西堂・首座等退任僧)等を巡寮するを大衆相送と云うのである。

このように巡堂して最後は方丈の居室での人事作礼するが、「先師は方丈に大衆を引かず、法堂に至りて、法座の堦前にして面南叉手して立つ、大衆問訊して退す、これ古往の儀なり」

と如浄和尚の儀を懐古してのものです。

「しかうして後、衆僧おのおの心に随いて人事す」は原文引用です。

これからの「人事」の様子は正式な儀礼ではなく、法友・師資が互いに行うものです。

人事と云うのは互いに礼拝し合う事で、同郷人同志が照堂(僧堂裏のうす暗い通路)又は廊下等場所を選ばずに賀表し、致語は礼儀に則って行うが時宜に応じた祝語もありである。海衆のなかに師弟が同参の場合は、弟子が本師を九拝する。上下関係に依り両展大展三拝する。また僧堂内での隣席人には礼を尽し、知事・頭首等には各寮舎に出向き拝賀するが、多くの安居者が居る時には「某寮・某甲・拝賀」の牓を寮内に貼り付けるとの説明です。道元禅師在宋時の天童寺ではこのような光景だったのでしょうか。

「堂頭庫司首座、次第に煎点といふことあり。しかあれども、遠島深山のあひだには省略すべし。たゞこれ礼数なり。退院の長老、および立僧の首座、おのおの本寮につきて、知事頭首のために特為煎点するなり」は原文引用で、「かくの如く結夏」以下は道元禅師による結語で、仏祖の児孫・仏祖であるためには、安居の道場、これ仏祖の心印なり、諸仏の住世なり。との提言です。

 

    五

解夏七月十三日、衆寮煎點諷經。またその月の寮主これをつとむ。

十四日、晩念誦來日陞堂。人事巡寮煎點、竝同結夏。唯牓状詞語、不同而已。

庫司湯牓云、庫司今晩、就雲堂煎點、特爲首座大衆、聊表解制之儀。状冀衆慈同垂光降。

                 庫司比丘某甲  白

土地堂念誦詞云、切以金風扇野、白帝司方。當覺皇解制之時、是法歳周圓之日。九旬無難、一衆咸安。誦持諸佛洪名、仰報合堂眞宰。仰憑大衆念。

これよりのちは結夏の念誦におなじ。陞堂罷、知事等、謝詞にいはく、伏喜法歳周圓、無諸難事。此蓋和尚道力廕林、下情無任感激之至。

住持人謝詞いはく、此者法歳周圓、皆謝某首座監寺人等法力相資、不任感激之至。

堂中首座已下、寮中寮主已下、謝詞いはく、九夏相依、三業不善、惱亂大衆、伏望慈悲。知事頭首告云、衆中兄弟行脚、須候茶湯罷、方可隨意如有緊急縁事、不在此限。

この儀は、これ威音空王の前際後際よりも頂量なり。佛祖のおもくすること、たゞこれのみなり。外道天魔のいまだ惑亂せざるは、たゞこれのみなり。三國のあひだ、佛祖の兒孫たるもの、いまだひとりもこれをおこなはざるなし。外道はいまだまなびず、佛祖一大事の本懷なるがゆゑに、得道のあしたより涅槃のゆふべにいたるまで、開演するところ、たゞ安居の宗旨のみなり。西天の五部の僧衆ことなれども、おなじく九夏安居を護持してかならず修證す。震旦の九宗の僧衆、ひとりも破夏せず。生前にすべて九夏安居せざらんをば、佛弟子比丘僧と稱ずべからず。たゞ因地に修習するのみにあらず、果位の修證なり。大覺世尊すでに一代のあひだ、一夏も闕如なく修證しましませり。しるべし、果上の佛證なりといふこと。

しかあるを、九夏安居は修證せざれども、われは佛祖の兒孫なるべしといふは、わらふべし。わらふにたへざるおろかなるものなり。かくのごとくいはんともがらのこと葉をばきくべからず。共語すべからず、同坐すべからず、ひとつみちをあゆむべからず。佛法には、梵壇の法をもて惡人を治するがゆゑに。

たゞまさに九夏安居これ佛祖と會取すべし、保任すべし。その正傳しきたれること、七佛より摩訶迦葉におよぶ。西天二十八祖、嫡々正傳せり。第二十八祖みづから震旦にいでて、二祖大祖正宗普覺大師をして正傳せしむ。二祖よりこのかた、嫡々正傳して而今に正傳せり。震旦にいりてまのあたり佛祖の會下にして正傳し、日本國に正傳す。すでに正傳せる會にして九旬坐夏しつれば、すでに夏法を正傳するなり。この人と共住して安居せんは、まことの安居なるべし。まさしく佛在世の安居より嫡々面授しきたれるがゆゑに、佛面祖面まのあたり正傳しきたれり。佛祖身心したしく證契しきたれり。かるがゆゑにいふ、安居をみるは佛をみるなり、安居を證するは佛を證するなり。安居を行ずるは佛を行ずるなり、安居をきくは佛をきくなり、安居をならふは佛を學するなり。

おほよそ九旬安居を、諸佛諸祖いまだ違越しましまさざる法なり。しかあればすなはち、人王釋王梵王等、比丘僧となりて、たとひ一夏なりといふとも安居すべし。それ見佛ならん。人衆天衆龍衆、たとひ一九旬なりとも、比丘比丘尼となりて安居すべし。すなはち見佛ならん。佛祖の會にまじはりて九旬安居しきたれるは見佛來なり。われらさいはひにいま露命のおちざるさきに、あるいは天上にもあれ、あるいは人間にもあれ、すでに一夏安居するは、佛祖の皮肉骨髓をもて、みづからが皮肉骨髓に換卻せられぬるものなり。佛祖きたりてわれらを安居するがゆゑに、面々人人の安居を行ずるは、安居の人人を行ずるなり。恁麼なるがゆゑに、安居あるを千佛萬祖といふのみなり。ゆゑいかんとなれば、安居これ佛祖の皮肉骨髓、心識身體なり。頂眼睛なり、拳頭子柱杖なり、竹篦蒲團なり。安居はあたらしきをつくりいだすにあらざれども、ふるきをさらにもちゐるにはあらざるなり。

これから解夏(制)の儀についての説明と註解で、原文は『禅苑清規』です。

原文では「七月十四日晩念誦煎湯」とありますが、道元禅師は解夏の儀は七月十三日からの衆寮煎点諷経から始まり、その責任者は衆寮の月極め当番が行うとの事です。

「十四日、晩念誦来日陞堂。人事巡寮煎点、竝同結夏。唯牓状詞語、不同而已。

庫司湯牓云、庫司今晩、就雲堂煎点、特為首座大衆、聊表解制之儀。状冀衆慈同垂光降。

                 庫司比丘某甲  白

土地堂念誦詞云、切以金風扇野、白帝司方。当覚皇解制之時、是法歳周円之日。九旬無難、一衆咸安。誦持諸仏洪名、仰報合堂真宰。仰憑大衆念。

これよりのちは結夏の念誦におなじ。陞堂罷、知事等、謝詞にいはく、伏喜法歳周円、無諸難事。此蓋和尚道力廕林、下情無任感激之至。

住持人謝詞いはく、此者法歳周円、皆謝某首座監寺人等法力相資、不任感激之至。

堂中首座已下、寮中寮主已下、謝詞いはく、九夏相依、三業不善、悩乱大衆、伏望慈悲。知事頭首告云、衆中兄弟行脚、須候茶湯罷、方可随意」

ほとんどそのまま原文引用です。

「この儀は、これ威音空王の前際後際よりも頂量なり。仏祖の重くすること、たゞこれのみなり。外道天魔のいまだ惑乱せざるは、たゞこれのみなり。三国のあひだ、仏祖の児孫たるもの、未だ一人もこれを行なわざるなし。外道は未だ学びず、仏祖一大事の本懷なるが故に、得道のあしたより涅槃の夕べにいたるまで、開演するところ、たゞ安居の宗旨のみなり。西天の五部の僧衆異なれども、同じく九夏安居を護持して必ず修証す。震旦の九宗の僧衆、ひとりも破夏せず。生前にすべて九夏安居せざらんをば、仏弟子比丘僧と称ずべからず。たゞ因地に修習するのみにあらず、果位の修証なり。大覚世尊すでに一代のあひだ、一夏も闕如なく修証しましませり。知るべし、果上の仏証なりと云うこと」

これからが拈提・註解で、

「この儀(安居)は、これ威音空王の前際後際よりも頂量なり」

過去荘厳劫最初の仏を超脱した比喩を頂量と云う全体量で表現する事で、安居の連続性と無限体を説くものです。この連続性を印度・震旦・日本の「三国」の語で示唆し、仏祖の児孫と云われる者は釈尊の得道より涅槃に至るを安居と心得よとの註解です。

「西天の五部の僧衆異なれども、同じく九夏安居を護持して必ず修証す」

西天の五部とは釈迦入滅後百年の時、第四祖優婆毱多尊者の五弟子が法蔵部・説一切有部化地部飲光部・大衆部と五派に分かれ、それぞれが四分律十誦律・五分律・解脱戒経

摩訶僧祇律を典拠とする事を言われたもので、三年前提唱の『仏道』巻(寛元元(1243)年九月十六日吉峰寺示衆)に於いても「いま五宗の称を立するは世俗の混乱なり―中略―いかでか西天にある依文解義のともがら五部を立するが如くならん」と宋国では雲門・法眼・潙山・臨済・曹洞と五宗に分裂された事を嘆かれ、さらに寛元四(1246)年十一月初旬頃の上堂説法に於いても「参学の人、須らく邪正を知るべし。所謂、優婆毱多より已後、五部の仏法と称する、乃ち西天の凌替なり」(『永平広録』三・二〇七)と付法蔵第四祖以後インドに於ける仏法の衰退を悔やまれるものですが、これまでの説法のソース(起源)は宝慶(南宋代)元(1225)年に書き留めたとされる『宝慶記』(「曹洞宗全書」下・八)二十八問に堂頭(如浄)和尚が慈誨して道元禅師に伝言した「西天に五部有ると雖も一仏法也。東地の五僧(家)一つの仏法にしかざる也」(西天雖有五部、一仏法也。東地五僧、如不一仏法也)の言説を基に提唱・拈提されるものだと思われます。

「震旦の九宗の僧衆、ひとりも破夏せず」

ここでの「九宗」は華厳・律・法相・真言・禅・浄土(唐代)、天台・三論・倶舎(隋代)を云い、先の西天五部との引き合いにしたもので、分裂はしたものの安居という仏制を破った者はいないと。

「たゞ因地に修習するのみにあらず、果位の修証なり」

「因地」とは悟り(仏果)を求める上求菩提を云い、「果位」は仏(悟り)の境涯と云い得るが、安居の三か月間に於いても階梯の如くに三か月後の満願日を設定しての習練ではなく、修証一等なる態度で臨みなさいとの言辞で、その証在を始めも終わりもない打坐に比定し、その様子を「大覚世尊すでに一代の間、一夏も闕如なく修証した結果が、果上の仏証なり」と論証されます。

 

    六

しかあるを、九夏安居は修證せざれども、われは佛祖の兒孫なるべしといふは、わらふべし。わらふにたへざるおろかなるものなり。かくのごとくいはんともがらのこと葉をばきくべからず。共語すべからず、同坐すべからず、ひとつみちをあゆむべからず。佛法には、梵壇の法をもて惡人を治するがゆゑに。

「梵壇の法」とは黙擯とも梵天法冶とも云われ戒律違反冶罰で言葉を交わさない事ですが、安居最終日の自恣式にて懺悔滅罪が行われるが、ここでの言及は安居に同宿しない輩を指摘しての言句ですから多少「梵壇」の意とは差異しますが、仏制に則った叢林生活を第一義とする道元禅師の態度が窺われる文言です。

たゞまさに九夏安居これ佛祖と會取すべし、保任すべし。その正傳しきたれること、七佛より摩訶迦葉におよぶ。西天二十八祖、嫡々正傳せり。第二十八祖みづから震旦にいでて、二祖大祖正宗普覺大師をして正傳せしむ。二祖よりこのかた、嫡々正傳して而今に正傳せり。震旦にいりてまのあたり佛祖の會下にして正傳し、日本國に正傳す。すでに正傳せる會にして九旬坐夏しつれば、すでに夏法を正傳するなり。この人と共住して安居せんは、まことの安居なるべし。まさしく佛在世の安居より嫡々面授しきたれるがゆゑに、佛面祖面まのあたり正傳しきたれり。佛祖身心したしく證契しきたれり。かるがゆゑにいふ、安居をみるは佛をみるなり、安居を證するは佛を證するなり。安居を行ずるは佛を行ずるなり、安居をきくは佛をきくなり、安居をならふは佛を學するなり。

これまでは安居と仏祖の関係を「夏安居せざるは仏祖の児孫にあらず、また仏祖にあらず」から、この段では「九夏安居これ仏祖と会取すべし、保任すべし」と安居と仏祖の関係が確定的な表現に変わります。

その系譜を「正伝」というキーワードで以て西天→震旦→日本国また七仏→摩訶迦葉→西天二十八祖(震旦初祖)→二祖大祖正宗普覚大師→而今に正伝せり。と連続する仏法を証会させ、安居=仏を「見る・証する・行ずる・聞く・学す」と包括するものです。

おほよそ九旬安居を、諸佛諸祖いまだ違越しましまさざる法なり。しかあればすなはち、人王釋王梵王等、比丘僧となりて、たとひ一夏なりといふとも安居すべし。それ見佛ならん。人衆天衆龍衆、たとひ一九旬なりとも、比丘比丘尼となりて安居すべし。すなはち見佛ならん。佛祖の會にまじはりて九旬安居しきたれるは見佛來なり。われらさいはひにいま露命のおちざるさきに、あるいは天上にもあれ、あるいは人間にもあれ、すでに一夏安居するは、佛祖の皮肉骨髓をもて、みづからが皮肉骨髓に換卻せられぬるものなり。佛祖きたりてわれらを安居するがゆゑに、面々人人の安居を行ずるは、安居の人人を行ずるなり。恁麼なるがゆゑに、安居あるを千佛萬祖といふのみなり。ゆゑいかんとなれば、安居これ佛祖の皮肉骨髓、心識身體なり。頂眼睛なり、拳頭鼻孔なり。圓相佛性なり、拂子拄杖なり、竹篦蒲團なり。安居はあたらしきをつくりいだすにあらざれども、ふるきをさらにもちゐるにはあらざるなり。

この段での要点は「安居」と「見仏」の聯関を説くものですが、言わんとする点は安居と連関付属する法語の真意は、安居という真実体は諸仏諸祖の真実態と同体同時を「いまだかつて違反越度したことはない」と説き、その「見仏」の時々の表体を「人王・釈王・梵王・比丘僧」であったり、「人衆・天衆・龍衆」と言われるのです。

「一夏安居するは、仏祖の皮肉骨髄をもて、みづからが皮肉骨髄に換却せられぬるものなり。仏祖きたりてわれらを安居するが故に、面々人々の安居を行ずるは、安居の人々を行ずるなり」

これは能所・主客を脱居する文法で、安居と仏祖の関係をそれぞれの立場を換却・とりちがえて説く主客同一語法です。

「安居これ仏祖の皮肉骨髄、心識身体なり。頂眼睛なり、拳頭鼻孔なり。円相仏性なり、払子拄杖なり、竹篦蒲団なり」

通常の説き様で、安居=仏祖の皮肉骨髄だけに留め置く事で、カテゴライズされ概念化する危惧の為、「心識身体・頂眼睛・拳頭鼻孔」等とあらゆる身体部位、更には「払子拄杖・竹篦蒲団」等を動員させ、固着化を防ぎ不立文字化するものです。

「安居は新しきをつくりいだすにあらざれども、古きを更に用いるにはあらざるなり」

これは活粧々なる状態を喩えんが為のもので、安居の動中では新陳代謝の連続性を述べるものです。

 

    六

世尊告圓覺菩薩、及諸大衆、一切衆生言、若經夏首三月安居、當爲清淨菩薩止住。心離聲聞、不假徒衆。至安居日、即於佛前作如是言。我比丘比丘尼、優婆塞優婆夷某甲、踞菩薩乘修寂滅行、同入清淨實相住持。以大圓覺爲我伽藍、心身安居。平等性智、涅槃自性、無繋屬故。今我敬請、不依聲聞、當與十方如來及大菩薩、三月安居。爲修菩薩無上妙覺大因縁故、不繋徒衆。善男子、此名菩薩示現安居。

しかあればすなはち、比丘比丘尼、優婆塞優婆夷等、かならず安居三月にいたるごとには、十方如來および大菩薩とともに、無上妙覺大因縁を修するなり。しるべし、優婆塞優婆夷も安居すべきなり。この安居のところは大圓覺なり。しかあればすなはち、鷲峰山孤獨園、おなじく如來の大圓覺伽藍なり。十方如來及大菩薩、ともに安居三月の修行あること、世尊のをしへを聽受すべし。

これまでは『禅苑清規』の解説とも言うべき安居での結夏・解夏に於ける行儀の説明でした。

この段の本則話頭は『大方広円覚修多羅了義経』(「大正蔵」一七・九二一・上)からの引用経典で、

「若し夏首より三ヶ月の安居を経過すれば、当に清浄の菩薩に止住す。心は声聞を離れ、徒衆を仮らず。安居日に至り、即ち仏前に於いて是の如く言を作す。我れ比丘比丘尼、優婆塞優婆夷某甲、菩薩乗に踞して寂滅行を修し、同じく清浄の実相に入り住持す。大円覚を以て我が伽藍と為し、心身安居す。平等性智、涅槃自性は繋属無き故に。今我敬請す、声聞に依らず、当に十方如来及び大菩薩お三ヶ月の安居すべし。菩薩の無上妙覚大因縁を修せんが為の故に、徒衆を繋せず。善男子、此れを菩薩の示現安居と名づく。」

「しかあればすなはち、比丘比丘尼、優婆塞優婆夷等、必ず安居三月に到る毎には、十方如来および大菩薩と共に、無上妙覚大因縁を修するなり。知るべし、優婆塞優婆夷も安居すべきなり」

大乗経典では比丘比丘尼優婆塞優婆夷は仏弟子の基準値で、特に在家者と云われる居士・大姉に対する呼び掛けが人間道元を表徴する言葉です。

 

    七

世尊於一處、九旬安居、至自恣日、文殊倐來在會。迦葉問文殊、今夏何處安居。文殊云、今夏在三處安居。迦葉於是集衆白槌欲擯文殊。纔擧犍槌、即見無量佛刹顯現、一々佛所有一々文殊、有一々迦葉、擧槌欲擯文殊。世尊於是告迦葉云、汝今欲擯阿那箇文殊。于時迦葉茫然。

圜悟禪師拈古云、

 鐘不撃不響 鼓不打不鳴 迦葉既把定要津 文殊乃十方坐斷

 當時好一場佛事 可惜放過一著

 待釋迦老子道欲擯阿那箇文殊、便與撃一槌看、佗作什麼合殺。

 圜悟禪師頌古云、

 大象不遊兎徑 燕雀安知鴻鵠 據令宛若成風 破的渾如囓鏃

 徧界是文殊 徧界是迦葉 相對各儼然 擧椎何處罰 好一箚

 金色頭陀曾落卻

しかあればすなはち、世尊一處安居、文殊三處安居なりといへども、いまだ不安居あらず。もし不安居は、佛及菩薩にあらず。佛祖の兒孫なるもの安居せざるはなし、安居せんは佛祖の兒孫としるべし。安居するは佛祖の身心なり、佛祖の眼睛なり、佛祖の命根なり。安居せざらんは佛祖の兒孫にあらず、佛祖にあらざるなり。いま泥木素金七寶の佛菩薩、みなともに安居三月の夏坐おこなはるべし。これすなはち住持佛法僧寶の故實なり、佛訓なり。

おほよそ佛祖の屋裏人、さだめて坐夏安居三月、つとむべし。

古則話頭の出典は『圜悟録』十七(「大正蔵」四七・七九二・上)・『圜悟録』十九(「同経」・八〇五・上)です。

世尊於一処、九旬安居、至自恣日、文殊倐来在会。

世尊が一ツ処で安居されるに、自恣の日に至り、文殊がにわかに来て安居処に在。

迦葉問文殊、今夏何処安居。

迦葉が文殊に問う、今夏はどこで安居したか。

文殊云、今夏在三処安居。

文殊が云う、今夏は三ヶ処で安居する。

迦葉於是集衆白槌欲擯文殊。纔挙犍槌、即見無量仏刹顕現、一々仏所有一々文殊、有一々迦葉、挙槌欲擯文殊

迦葉はそこで大衆を集め白槌して文殊を追い出そうとし、わづかに犍槌を挙げると、すぐに無量の寺院が顕現し、一寺ごとに文殊・迦葉が居て、槌を挙げ文殊を追い出そうとするのを見た。

世尊於是告迦葉云、汝今欲擯阿那箇文殊

世尊はそこで迦葉に告げて云う、汝は今どの文殊を追い出そうとするか。

于時迦葉茫然。

時に迦葉は茫然とす。

先に出典は『圜悟録』十七・拈古からのものとしましたが、正確には『圜悟録』十九・頌古との合揉語で、迦葉が文殊を問い詰めた「三処」とは「魚行・淫坊・酒肆」と『御抄』(「註解全書」八・六三一)では註解しますが、「入店垂手、酒肆魚行、化令成仏」と世人を成仏させる意で、大乗の慈悲行・利他行を「三処」に喩えてのものです。言わんとする旨は安居処の遍在性を説くものです。

圜悟禅師拈古云、

圜悟禅師拈古に云う、

鐘不撃不響、

鐘は撃たなければ響かず、

鼓不打不鳴。

鼓は打たなければ鳴らず。

迦葉既把定要津、

迦葉既に要津を把定すれば、

文殊乃十方坐断。

文殊乃ち十方坐断す。

当時好一場仏事。

その時好一場の仏事なり。

可惜放過一著。

惜しむべし、一著を放過すること。

待釈迦老子道欲擯阿那箇文殊、便与撃一槌看、他作什麼合殺。

釈迦老子は阿那箇の文殊を擯せんと欲するを道うを待って、便ち

撃一槌を与え看るべし、他(迦葉)は什麼の合殺(とどめ)をか作す。

この処は先の「文殊の三処安居」に対する圜悟克勤の論評で、迦葉・文殊ともに「把定」「十方坐断」の語で認じ、さらに「什麼」の語法を用いての遍在・遍満性を云うものです。

圜悟禅師頌古云、

圜悟禅師頌古に云う、

大象不遊兎径、

大象は兎径に遊ばず、

燕雀安知鴻鵠。

燕や雀がどうして大鳥(鴻鵠)を知ろうか。

拠令宛若成風、

規則(仏制)に拠り宛(あた)かも風を成すが若し、

破的渾如囓鏃。

的をいるは渾て鏃をかむ如し。

徧界是文殊

徧界は是れ文殊

徧界是迦葉、

徧界は是れ迦葉、

相対各厳然。

相い対してそれぞれは厳然たり。

挙椎何処罰好一箚、

椎を挙げて何処にか罰すか好一箚、

金色頭陀曾落却。

金色の頭陀(迦葉)はとっくに椎を落とす。

「しかあればすなはち、世尊一処安居、文殊三処安居なりといへども、いまだ不安居あらず。もし不安居は、仏及菩薩にあらず」

これからが道元禅師による圜悟に対する著語です。

「一処」も「三処」も数量に喩えるものではなく、尽界を対象にした遍在・遍満を説くものですから、「いまだ不安居あらず」と著語し、安居実践により世尊・文殊・迦葉と敬称されるわけですから「不安居は仏菩薩にあらず」と表すわけです。

「仏祖の児孫なるもの安居せざるはなし、安居せんは仏祖の児孫と知るべし。安居するは仏祖の身心なり、仏祖の眼睛なり、仏祖の命根なり。安居せざらんは仏祖の児孫にあらず、仏祖にあらざるなり」

ここでの安居=仏祖児孫は結夏章最後部でのいまだ夏安居せざるは仏祖の児孫にあらずの繰り返しで、また「安居するは仏祖の身心・眼睛・命根」も同じく解夏章最後部での安居これ仏祖の皮肉骨髄・心識身体・頂眼睛を再度確認するものです。

「いま泥木素金七宝の仏菩薩、みな共に安居三月の夏坐おこなはるべし。これすなはち住持仏法僧宝の故実なり、仏訓なり。おほよそ仏祖の屋裏人、さだめて坐夏安居三月、努むべし」

ここでの安居三月の夏坐は前段「比丘比丘尼、優婆塞優婆夷等、必ず安居三月に到る毎には、十方如来および大菩薩と共に、無上妙覚大因縁を修するなり」を形容を変えての再言で、最後の「仏祖の屋裏人」とは先の比丘優婆塞泥木等の仏菩薩を示唆し、尽界の皆人を屋裏人と見なし日々常々つとめ励むを安居であるとの提唱です。

 

 

 

正法眼蔵第七十二「安居」を読み解く

正法眼蔵第七十二「安居」を読み解く

 

 先師天童古佛、結夏小參云、平地起骨堆、虚空剜窟籠。驀透兩重關、拈卻黒漆桶。

 しかあれば、得遮巴鼻子了、未免喫飯伸脚睡、在這裏三十年なり。すでにかくのごとくなるゆゑに、打併調度、いとまゆるくせず。その調度に九夏安居あり。これ佛々祖々の頂寧面目なり。皮肉骨髓に親曾しきたれり。佛祖の眼睛頂寧を拈來して、九夏の日月とせり。安居一枚、すなはち佛々祖々と喚作せるものなり。

 安居の頭尾、これ佛祖なり。このほかさらに寸土なし、大地なし。夏安居の一橛、これ新にあらず舊にあらず、來にあらず去にあらず。その量は拳頭量なり、その様は巴鼻様なり。しかあれども、結夏のゆゑにきたる、虚空塞破せり、あまれる十方あらず。解夏のゆゑにさる、迊地を裂破す、のこれる寸土あらず。このゆゑに結夏の公案現成する、きたるに相似なり。解夏の籮籠打破する、さるに相似なり。かくのごとくなれども、親曾の面々ともに結解を罣礙するのみなり。萬里無寸草なり、還吾九十日飯錢來なり。

 黄龍死心和尚云、山僧行脚三十餘年、以九十日爲一夏。増一日也不得、減一日也不得。

 しかあれば、三十餘年の行脚眼、わづかに見徹するところ、九十日爲一夏安居のみなり。たとひ増一日せんとすとも、九十日かへりきたりて競頭參すべし。たとひ減一日せんとすといふとも、九十日かへりきたりて競頭參するものなり。さらに九十日の窟籠を跳脱すべからず。この跳脱は、九十日の窟籠を手脚として勃跳するのみなり。九十日爲一夏は、我箇裏の調度なりといへども、佛祖のみづからはじめてなせるにあらざるがゆゑに、佛々祖々、嫡々正稟して今日にいたれり。

 しかあれば、夏安居にあふは諸佛諸祖にあふなり。夏安居にあふは見佛見祖なり。夏安居ひさしく作佛祖せるなり。この九十日爲一夏、その時量たとひ頂寧量なりといへども、一劫十劫のみにあらず、百千無量劫のみにあらざるなり。餘時は百千無量等の劫波に使得せらる、九十日は百千無量等の劫波を使得するゆゑに、無量劫波たとひ九十日にあふて見佛すとも、九十日かならずしも劫波にかゝはれず。

 しかあれば參學すべし、九十日爲一夏は眼睛量なるのみなり。身心安居者それまたかくのごとし。夏安居の活鱍々地を使得し、夏安居の活鱍々地を跳脱せる、來處あり、職由ありといへども、佗方佗時よりきたりうつれるにあらず、當處當時より起興するにあらず。來處を把定すれば九十日たちまちにきたる、職由を摸索すれば九十日たちまちにきたる。凡聖これを窟宅とせり、命根とせりといへども、はるかに凡聖の境界を超越せり。思量分別のおよぶところにあらず、不思量分別のおよぶところにあらず、思量不思量の不及のみにあらず。

 世尊在摩竭陀國、爲衆説法。是時將欲白夏、乃謂阿難曰、諸大弟子、人天四衆、我常説法、不生敬仰。我今入因沙臼室中、坐夏九旬。忽有人、來問法之時、汝代爲我説、一切法不生、一切法不滅。言訖掩室而坐。

 しかありしよりこのかた、すでに二千一百九十四年〈當日本寛元三年乙巳歳〉なり。堂奥にいらざる兒孫、おほく摩竭掩室を無言説の證據とせり。いま邪黨おもはくは、掩室坐夏の佛意は、それ言説をもちゐるはことごとく實にあらず、善巧方便なり。至理は言語道斷し、心行處滅なり。このゆゑに、無言無心は至理にかなふべし、有言有念は非理なり。このゆゑに、掩室坐夏九旬のあひだ、人跡を斷絶せるなりとのみいひいふなり。これらのともがらのいふところ、おほきに世尊の佛意に孤負せり。

 いはゆる、もし言語道斷、心行處滅を論ぜば、一切の治生産業みな言語道斷し、心行處滅なり。言語道斷とは、一切の言語をいふ。心行處滅とは、一切の心行をいふ。いはんやこの因縁、もとより無言をたうとびんためにはあらず。通身ひとへに泥水し入草して、説法度人いまだのがれず、轉法拯物いまだのがれざるのみなり。もし兒孫と稱ずるともがら、坐夏九旬を無言説なりといはば、還吾九旬坐夏來といふべし。

 阿難に勅令していはく、汝代爲我説、一切法不生、一切法不滅と代説せしむ。この佛儀、いたづらにすごすべからず。おほよそ、掩室坐夏、いかでか無言無説なりとせん。しばらく、もし阿難として當時すなはち世尊に白すべし、一切法不生、一切法不滅。作麼生説。縱説恁麼、要作什麼。かくのごとく白して、世尊の道を聽取すべし。

 おほよそ而今の一段の佛儀、これ説法轉法の第一義諦、第一無諦なり。さらに無言説の證據とすべからず。もしこれを無言説とせば、可憐三尺龍泉剣、徒掛陶家壁上梭ならん。

 しかあればすなはち、九旬坐夏は古轉法輪なり、古佛祖なり。而今の因縁のなかに、時將欲白夏とあり。しるべし、のがれずおこなはるゝ九旬坐夏安居なり、これをのがるゝは外道なり。

 おほよそ世尊在世には、あるいは忉利天にして九旬安居し、あるいは耆闍崛山靜室中にして五百比丘ともに安居す。五天竺國のあひだ、ところを論ぜず、ときいたれば白夏安居し、九夏安居おこなはれき。いま現在せる佛祖、もとも一大事としておこなはるゝところなり。これ修證の無上道なり。梵網經中に冬安居あれども、その法つたはれず、九夏安居の法のみつたはれり。正傳まのあたり五十一世なり。

 清規云、行脚人欲就處所結夏、須於半月前掛搭。所貴茶湯人事、不倉卒。

 いはゆる半月前とは、三月下旬をいふ。しかあれば、三月内にきたり掛搭すべきなり。すでに四月一日よりは、比丘僧ありきせず。諸方の接待および諸寺の旦過、みな門を鎖せり。しかあれば、四月一日よりは、雲衲みな寺院に安居せり、庵裡に掛搭せり。あるいは白衣舎に安居せる、先例なり。これ佛祖の儀なり、慕古し修行すべし。拳頭鼻孔、みな面々に寺院をしめて、安居のところに掛搭せり。

 しかあるを、魔儻いはく、大乘の見解、それ要樞なるべし。夏安居は聲聞の行儀なり、あながちに修習すべからず。かくのごとくいふともがらは、かつて佛法を見聞せざるなり。阿耨多羅三藐三菩提、これ九旬安居坐夏なり。たとひ大乘小乘の至極ありとも、九旬安居の枝葉花菓なり。

 四月三日の粥罷より、はじめてことをおこなふといへども、堂司あらかじめ四月一日より戒臘の榜を理會す。すでに四月三日の粥罷に、戒臘牌を衆寮前にかく。いはゆる前門の下間の窓外にかく。寮窓みな櫺子なり。粥罷にこれをかけ、放參鐘ののち、これををさむ。三日より五日にいたるまでこれをかく。をさむる時節、かくる時節、おなじ。

 かの榜、かく式あり。知事頭首によらず、戒臘のまゝにかくなり。諸方にして頭首知事をへたらんは、おのおの首座監寺とかくなり。數職をつとめたらんなかには、そのうちにつとめておほきならん職をかくべし。かつて住持をへたらんは、某甲西堂とかく。小院の住持をつとめたりといへども、雲水にしられざるは、しばしばこれをかくして稱ぜず。もし師の會裏にしては、西堂なるもの、西堂の儀なし。某甲上座とかく例もあり。おほくは衣鉢侍者寮に歇息する、勝躅なり。さらに衣鉢侍者に充し、あるいは燒香侍者に充する、舊例なり。いはんやその餘の職、いづれも師命にしたがふなり。佗人の弟子のきたれるが、小院の住持をつとめたりといへども、おほきなる寺院にては、なほ首座書記、都寺監寺等に請ずるは、依例なり、芳躅なり。小院の小職をつとめたるを稱ずるをば、叢林わらふなり。よき人は、住持をへたる、なほ小院をばかくして稱ぜざるなり。榜式かくのごとし。

 某國某州某山某寺、今夏結夏海衆、戒臘如後。

  陳如尊者

  堂頭和尚

   建保元戒

    某甲上座    某甲藏主

    某甲上座    某甲上座

   建保二戒

    某甲西堂    某甲維那

    某甲首座    某甲知客

    某甲上座    某甲浴主

   建暦元戒

    某甲直歳  某甲侍者

    某甲首座    某甲首座

    某甲化主    某甲上座

    某甲典座  某甲堂主

   建暦三戒

    某甲書記  某甲上座

    某甲西堂    某甲首座

    某甲上座    某甲上座

 右、謹具呈、若有誤錯、各請指揮。謹状。

  某年四月三日、堂司比丘某甲謹状

 かくのごとくかく。しろきかみにかく。眞書にかく、草書隷書等をもちゐず。かくるには、布線のふとさ兩米粒許なるを、その紙榜頭につけてかくるなり。たとへば、簾額のすぐならんがごとし。四月五日の放參罷にをさめをはりぬ。

 四月八日は佛生會なり。

 四月十三日の齋罷に、衆寮の僧衆、すなはち本寮につきて煎點諷經す。寮主ことをおこなふ。點湯燒香、みな寮主これをつとむ。寮主は衆寮の堂奥に、その位を安排せり。寮首座は、寮の聖僧の左邊に安排せり。しかあれども、寮主いでて燒香行事するなり。首座知事等、この諷經におもむかず。たゞ本寮の僧衆のみおこなふなり。

 維那、あらかじめ一枚の戒臘牌を修理して、十五日の粥罷に、僧堂前の東壁にかく、前架のうへにあたりてかく。正面のつぎのみなみの間なり。

 清規云、堂司預設戒臘牌、香華供養〈在僧堂前設之〉。

 四月十四日の齋後に、念誦牌を僧堂前にかく。諸堂おなじく念誦牌をかく。至晩に、知事あらかじめ土地堂に香華をまうく、額のまへにまうくるなり。集衆念誦す。

 念誦の法は、大衆集定ののち、住持人まづ燒香す。つぎに知事頭首、燒香す。浴佛のときの燒香の法のごとし。つぎに維那、くらゐより正面にいでて、まづ住持人を問訊して、つぎに土地堂にむかうて問訊して、おもてをきたにして、土地堂にむかうて念誦す。詞云、

 竊以薫風扇野、炎帝司方。當法王禁足之辰、是釋子護生之日。躬裒大衆、肅詣靈祠、誦持萬徳洪名、回向合堂眞宰。所祈加護得遂安居。仰憑尊衆念。

 清淨法身毘盧遮那佛  金打

 圓滿報身盧遮那佛   同

 千百億化身釋迦牟尼佛 同

 當來下生彌勒尊佛   同

 十方三世一切諸佛   同

 大聖文殊師利菩薩   同

 大聖普賢菩薩     同

 大悲觀世音菩薩    同

 諸尊菩薩摩訶薩    同

 摩訶般若波羅蜜    同

 上來念誦功徳、竝用回向、護持正法、土地龍神。伏願、神光協贊、發揮有利之勲。梵樂興隆、亦錫無私之慶。再憑尊衆念。

 十方三世一切諸佛 諸尊菩薩摩訶薩 摩訶般若波羅蜜

 ときに鼓響すれば、大衆すなはち雲堂の點湯の座に赴す。點湯は庫司の所辨なり。大衆赴堂し、次第巡堂し、被位につきて正面而坐す。知事一人行法事す。いはゆる燒香等をつとむるなり。

 清規云、本合監院行事。有改維那代之。

 すべからく念誦已前に冩牓して首座に呈す。知事、搭袈裟帶坐具して首座に相見するとき、あるいは兩展三拝しをはりて、牓を首座に呈す。首座、答拝す。知事の拝とおなじかるべし。牓は箱に複秋子をしきて、行者にもたせてゆく。首座、知事をおくりむかふ。

 牓式

   庫司今晩就

   雲堂煎點、特爲

   首座

   大衆、聊表結制之儀。伏冀

   衆慈同垂

   光降。

  寛元三年四月十四日  庫司比丘某甲等謹白

 知事の第一の名字をかくなり。牓を首座に呈してのち、行者をして雲堂前に貼せしむ。堂前の下間に貼するなり。前門の南頬の外面に、牓を貼する板あり。このいた、ぬれり。

 殻漏子あり。殻漏子は、牓の初にならべて、竹釘にてうちつけたり。しかあれば、殻漏子もかたはらに押貼せり。この牓は如法につくれり。五分許の字にかく、おほきにかゝず。殻漏子の表書は、かくのごとくかく。

   状請 首座 大衆    庫司比丘某甲等謹封

 煎點をはりぬれば、牓ををさむ。

 十五日の粥前に、知事頭首、小師法眷、まづ方丈内にまうでて人事す。住持人もし隔宿より免人事せば、さらに方丈にまうづべからず。

 免人事といふは、十四日より、住持人、あるいは頌子あるいは法語をかける牓を、方丈門の東頬に貼せり。あるいは雲堂前にも貼す。

 十五日の陞座罷、住持人、法座よりおりて堦のまへにたつ。拝席の北頭をふみて、面南してたつ。知事、近前して兩展三拝す。

 一展云、此際安居禁足、獲奉巾瓶。唯仗和尚法力資持、願無難事。

 一展、叙寒暄、觸禮三拝。

叙寒暄云者、展坐具三拝了、収坐具、進云、即辰孟夏漸熱。法王結制之辰、伏惟、堂頭和尚、法候動止萬福、下情不勝感激之至。

 かくのごとくして、その次、觸禮三拝。ことばなし、住持人みな答拝す。

 住持人念、此者多幸得同安居、亦冀某〈首座監寺〉人等、法力相資、無諸難事。

 首座大衆、同此式也。

 このとき、首座大衆、知事等、みな面北して禮拝するなり。住持人ひとり面南にして、法座の堦前に立せり。住持人の坐具は、拝席のうへに展ずるなり。

 つぎに首座大衆、於住持人前、兩展三拝。このとき、小師侍者、法眷沙彌、在一邊立。未得與大衆雷同人事。

 いはゆる一邊にありてたつとは、法堂の東壁のかたはらにありてたつなり。もし東壁邊に施主の垂箔のことあらば、法鼓のほとりにたつべし、また西壁邊にも立すべきなり。

 大衆禮拝をはりて、知事まづ庫堂にかへりて主位に立す。つぎに首座すなはち大衆を領して庫司にいたりて人事す。いはゆる知事と觸禮三拝するなり。

 このとき小師侍者法眷等は、法堂上にて住持人を禮拝す。法眷は兩展三拝すべし、住持人の答拝あり。小師侍者、おのおの九拝す。答拝なし。沙彌九拝、あるいは十二拝なり。住持人合掌してうくるのみなり。

 つぎに首座、僧堂前にいたりて、上間の知事床のみなみのはしにあたりて、雲堂の正面にあたりて、面南にて大衆にむかうてたつ。大衆面北して、首座にむかうて觸禮三拝す。首座、大衆をひきて入堂し、戒臘によりて巡堂立定す。知事入堂し、聖僧前にて大展禮三拝しておく。つぎに首座前にて觸禮三拝す。大衆答拝す。知事、巡堂一迊して、いでてくらゐによりて叉手してたつ。

 住持人入堂、聖僧前にして燒香、大展三拝起。このとき、小師於聖僧後避立。法眷隨大衆。

 つぎに住持人、於首座觸禮三拝。

 いはく、住持人、たゞくらゐによりてたち、面西にて觸禮す。首座大衆答拝、さきのごとし。

 住持人、巡堂していづ。首座、前門の南頬よりいでて住持人をおくる。

 住持人出堂ののち、首座已下、對禮三拝していはく、此際幸同安居、恐三業不善、且望慈悲。

 この拝は、展坐具拝三拝なり。かくのごとくして首座書記藏主等、おのおのその寮にかへる。もしそれ衆寮僧は、寮主寮首座已下、おのおの觸禮三拝す。致語は堂中の法におなじ。

 住持人こののち、庫堂よりはじめて巡堂す。次第に大衆相隨、送至方丈。大衆乃退。

 いはゆる住持人まづ庫堂にいたる、知事と人事しをはりて、住持人いでて巡堂すれば、知事しりへにあゆめり。知事のつぎに、東廊のほとりにあるひとあゆめり。住持人このとき延壽院にいらず。東廊より西におりて、山門をとほりて巡寮すれば、山門の邊の寮にある人、あゆみつらなる。みなみより西の廊下および諸寮にめぐる。このとき、西をゆくときは北にむかふ。このときより、安老勤舊前資頤堂單寮のともがら、淨頭等、あゆみつらなれり。維那首座等あゆみつらなるつぎに、衆寮の僧衆あゆみつらなる。巡寮は、寮の便宜によりてあゆみくはゝる。これを大衆相送とはいふ。

 かくのごとくして、方丈の西階よりのぼりて、住持人は方丈の正面のもやの住持人のくらゐによりて、面南にて叉手してたつ。大衆は知事已下みな面北にて住持人を問訊す。この問訊、ことにふかくするなり。住持人、答問訊あり。大衆退す。

 先師は方丈に大衆をひかず、法堂にいたりて、法座の堦前にして面南叉手してたつ、大衆問訊して退す、これ古往の儀なり。

 しかうしてのち、衆僧おのおのこゝろにしたがひて人事す。

 人事とは、あひ禮拝するなり。たとへば、おなじ郷間のともがら、あるいは照堂、あるいは廊下の便宜のところにして、幾十人もあひ拝して、同安居の理致を賀す。しかあれども、致語は堂中の法になずらふ。人にしたがひて今案のことばも存ず。あるいは小師をひきゐたる本師あり、これ小師かならず本師を拝すべし、九拝をもちゐる。法眷の住持人を拝する、兩展三拝なり。あるいはたゞ大展三拝す。法眷のともに衆にあるは、拝おなじかるべし。師叔師伯、またかならず拝あり。隣單隣肩みな拝す、相識道舊ともに拝あり。單寮にあるともがらと、首座書記藏主知客浴司等と、到寮拝賀すべし。單寮にあるともがらと、都寺監寺維那典座直歳西堂尼師道士等とも、到寮到位して拝賀すべし。到寮せんとするに、人しげくして入寮門にひまをえざれば、牓をかきてその寮門におす。その牓は、ひろさ一寸餘、ながさ二寸ばかりなる白紙にかくなり。かく式は、

  某寮   某甲

   拝 賀

 又の式

  巣雲   懷昭等

   拝 賀

 又の式

  某甲

   禮 賀

 又の式

  某甲

   拝 賀

 又の式

  某甲

   禮 拝

かくしき、おほけれど、大旨かくのごとし。しかあれば、門側にはこの牓あまたみゆるなり。門側には左邊におさず、門の右におすなり。この牓は、齋罷に、本寮主をさめとる。今日は、大小諸堂諸寮、みな門簾をあげたり。

 堂頭庫司首座、次第に煎點といふことあり。しかあれども、遠島深山のあひだには省略すべし。たゞこれ禮數なり。退院の長老、および立僧の首座、おのおの本寮につきて、知事頭首のために特爲煎點するなり。

 かくのごとく結夏してより、功夫辦道するなり。衆行を辦肯せりといへども、いまだ夏安居せざるは佛祖の兒孫にあらず、また佛祖にあらず。孤獨園靈鷲山、みな安居によりて現成せり。安居の道場、これ佛祖の心印なり、諸佛の住世なり。

 解夏七月十三日、衆寮煎點諷經。またその月の寮主これをつとむ。

 十四日、晩念誦。

 來日陞堂。人事巡寮煎點、竝同結夏。唯牓状詞語、不同而已。

 庫司湯牓云、庫司今晩、就雲堂煎點、特爲首座大衆、聊表解制之儀。状冀衆慈同垂光降。

                 庫司比丘某甲  白

 土地堂念誦詞云、切以金風扇野、白帝司方。當覺皇解制之時、是法歳周圓之日。九旬無難、一衆咸安。誦持諸佛洪名、仰報合堂眞宰。仰憑大衆念。

 これよりのちは結夏の念誦におなじ。

 陞堂罷、知事等、謝詞にいはく、伏喜法歳周圓、無諸難事。此蓋和尚道力廕林、下情無任感激之至。

 住持人謝詞いはく、此者法歳周圓、皆謝某首座監寺人等法力相資、不任感激之至。

 堂中首座已下、寮中寮主已下、謝詞いはく、九夏相依、三業不善、惱亂大衆、伏望慈悲。知事頭首告云、衆中兄弟行脚、須候茶湯罷、方可隨意如有緊急縁事、不在此限。

 この儀は、これ威音空王の前際後際よりも頂寧量なり。佛祖のおもくすること、たゞこれのみなり。外道天魔のいまだ惑亂せざるは、たゞこれのみなり。三國のあひだ、佛祖の兒孫たるもの、いまだひとりもこれをおこなはざるなし。外道はいまだまなびず、佛祖一大事の本懷なるがゆゑに、得道のあしたより涅槃のゆふべにいたるまで、開演するところ、たゞ安居の宗旨のみなり。西天の五部の僧衆ことなれども、おなじく九夏安居を護持してかならず修證す。震旦の九宗の僧衆、ひとりも破夏せず。生前にすべて九夏安居せざらんをば、佛弟子比丘僧と稱ずべからず。たゞ因地に修習するのみにあらず、果位の修證なり。大覺世尊すでに一代のあひだ、一夏も闕如なく修證しましませり。しるべし、果上の佛證なりといふこと。

 しかあるを、九夏安居は修證せざれども、われは佛祖の兒孫なるべしといふは、わらふべし。わらふにたへざるおろかなるものなり。かくのごとくいはんともがらのこと葉をばきくべからず。共語すべからず、同坐すべからず、ひとつみちをあゆむべからず。佛法には、梵壇の法をもて惡人を治するがゆゑに。

 たゞまさに九夏安居これ佛祖と會取すべし、保任すべし。その正傳しきたれること、七佛より摩訶迦葉におよぶ。西天二十八祖、嫡々正傳せり。第二十八祖みづから震旦にいでて、二祖大祖正宗普覺大師をして正傳せしむ。二祖よりこのかた、嫡々正傳して而今に正傳せり。震旦にいりてまのあたり佛祖の會下にして正傳し、日本國に正傳す。すでに正傳せる會にして九旬坐夏しつれば、すでに夏法を正傳するなり。この人と共住して安居せんは、まことの安居なるべし。まさしく佛在世の安居より嫡々面授しきたれるがゆゑに、佛面祖面まのあたり正傳しきたれり。佛祖身心したしく證契しきたれり。かるがゆゑにいふ、安居をみるは佛をみるなり、安居を證するは佛を證するなり。安居を行ずるは佛を行ずるなり、安居をきくは佛をきくなり、安居をならふは佛を學するなり。

 おほよそ九旬安居を、諸佛諸祖いまだ違越しましまさざる法なり。しかあればすなはち、人王釋王梵王等、比丘僧となりて、たとひ一夏なりといふとも安居すべし。それ見佛ならん。人衆天衆龍衆、たとひ一九旬なりとも、比丘比丘尼となりて安居すべし。すなはち見佛ならん。佛祖の會にまじはりて九旬安居しきたれるは見佛來なり。われらさいはひにいま露命のおちざるさきに、あるいは天上にもあれ、あるいは人間にもあれ、すでに一夏安居するは、佛祖の皮肉骨髓をもて、みづからが皮肉骨髓に換卻せられぬるものなり。佛祖きたりてわれらを安居するがゆゑに、面々人人の安居を行ずるは、安居の人人を行ずるなり。恁麼なるがゆゑに、安居あるを千佛萬祖といふのみなり。ゆゑいかんとなれば、安居これ佛祖の皮肉骨髓、心識身體なり。頂寧眼睛なり、拳頭鼻孔なり。圓相佛性なり、拂子柱杖なり、竹篦蒲團なり。安居はあたらしきをつくりいだすにあらざれども、ふるきをさらにもちゐるにはあらざるなり。

 世尊告圓覺菩薩、及諸大衆、一切衆生言、若經夏首三月安居、當爲清淨菩薩止住。心離聲聞、不假徒衆。至安居日、即於佛前作如是言。我比丘比丘尼、優婆塞優婆夷某甲、踞菩薩乘修寂滅行、同入清淨實相住持。以大圓覺爲我伽藍、心身安居。平等性智、涅槃自性、無繋屬故。今我敬請、不依聲聞、當與十方如來及大菩薩、三月安居。爲修菩薩無上妙覺大因縁故、不繋徒衆。善男子、此名菩薩示現安居。

 しかあればすなはち、比丘比丘尼、優婆塞優婆夷等、かならず安居三月にいたるごとには、十方如來および大菩薩とともに、無上妙覺大因縁を修するなり。しるべし、優婆塞優婆夷も安居すべきなり。この安居のところは大圓覺なり。しかあればすなはち、鷲峰山孤獨園、おなじく如來の大圓覺伽藍なり。十方如來及大菩薩、ともに安居三月の修行あること、世尊のをしへを聽受すべし。

 世尊於一處、九旬安居、至自恣日、文殊倐來在會。迦葉問文殊、今夏何處安居。文殊云、今夏在三處安居。迦葉於是集衆白槌欲擯文殊。纔擧犍槌、即見無量佛刹顯現、一々佛所有一々文殊、有一々迦葉、擧槌欲擯文殊。世尊於是告迦葉云、汝今欲擯阿那箇文殊。于時迦葉茫然。

 圜悟禪師拈古云、

  鐘不撃不響 鼓不打不鳴 迦葉既把定要津 文殊乃十方坐斷

  當時好一場佛事 可惜放過一著

 待釋迦老子道欲擯阿那箇文殊、便與撃一槌看、佗作什麼合殺。

 圜悟禪師頌古云、

  大象不遊兎徑 燕雀安知鴻鵠 據令宛若成風 破的渾如囓鏃

  徧界是文殊 徧界是迦葉 相對各儼然 擧椎何處罰 好一箚

  金色頭陀曾落卻

 しかあればすなはち、世尊一處安居、文殊三處安居なりといへども、いまだ不安居あらず。もし不安居は、佛及菩薩にあらず。佛祖の兒孫なるもの安居せざるはなし、安居せんは佛祖の兒孫としるべし。安居するは佛祖の身心なり、佛祖の眼睛なり、佛祖の命根なり。安居せざらんは佛祖の兒孫にあらず、佛祖にあらざるなり。いま泥木素金七寶の佛菩薩、みなともに安居三月の夏坐おこなはるべし。これすなはち住持佛法僧寶の故實なり、佛訓なり。

 おほよそ佛祖の屋裏人、さだめて坐夏安居三月、つとむべし。

 

 正法眼藏第七十二

 

  爾時寛元三年乙巳夏安居六月十三日在越宇大佛寺示衆

 

正法眼蔵を読み解く安居」(二谷正信著)

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/ango

 

詮慧・経豪による註解書については

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/2020/03/12/000000

 

如浄語録(漢文)

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/nyojou-goroku

 

禅研究に関しては、月間アーカイブをご覧ください

https://karnacitta.hatenablog.jp/

 

道元永平寺―『福井県史』通史編2中世より抜書(一部改変)

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