正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

佛性の性格  酒井得元

佛性の性格  酒井得元

成佛を最後的なものとする佛教者は、自己を窮極にまで掘下げ、成佛という事實に到達すべく努力するものである。そして成佛とは如何なるものかが、第一に與えられる課題であつた。それはやがて本來成佛の自覚にまで具體化され、遂に大乗教を完成するに至つたのである。即ち自己の究明は如來藏としての自己を発見し、本來自性清浄心の自覚に到達し、一切衆生悉有佛性、更に本來成佛の信仰を確立するに至つたのである。その根本契機をなすものが佛性という自覚であつた。故に起信論的表現を借りるならば、佛性の性格を明確にすることが、正信を成就し、正法に生きることを可能ならしめることなのである。故に我々は先ず佛性の性格を自己自身の問題において考察しなければならない。

佛性には存在論的性格はない。勿論事物ではあり得ない。故に佛性は我々が如何にしても指摘し得ない、経験以前の絶対であつて、然も全く我々の定義の言語的習慣を受付けない非概念的な自覚でなければならなかつたのである。この意味で無自覚の自覚と言わなければならない。故に我々はこれを不可思量、不可思議、不可得、といい、この非概念的な言葉に當惑させられるのである。我々の思惟は、具體的なものを、そのまま理解することが出來ない。抽象することによつてのみ、それへの足がかりを得ている。即ち、思惟は、何かを抽象することによつて成立する。そして思惟は言語的習慣によつて概念構成し、そこに安佳の地を得て、更に進んでその抽象の趣くところ、観念の世界がある。かかる過程は起信論の三細六麁の明確に教えるところである。然るに思惟の対象とはならない非概念的自畳である佛性は、もし思惟によつて求めるならばそれは抽象輪廻の世界の観念的所産となつてしまうのである。然し日常走りやすい抽象的追求を所謂る求道と考えるならば、それは観念的流轉輪廻でこそあれ、この輪廻の現實を超えた絶對への道は永遠に開かれないのである。故に佛性に關する限り、それを追求することにこそ問題の契機があらねばなぢない。即ち求道そのものに、佛性そのものの具現がなければならない。絶對であるが故に佛性は追求の終局に顯現するものではない。即ち絶對ということには、絡局ということはない。故に、一切衆生悉有佛性と言われる時の佛性は、悉有とも三切衆生とも言われなければならないのである(正法眼藏佛性参照)。我々の思惟の抽象は一般を求めることはない。如何に一般と考えられたとしても思惟の対象である限り、特種であることをまぬがれない。故に佛性は、一般であるということにおいて、我々の思惟を超えるのである。一般に對しては全く手掛りを許されない思惟的な我々には、佛性は自覚されないのである。故にさきに私はこれを無自覚の自覚といつた。故に、ここに佛道を學ぶことの根本的難点がある。然し、この難点こそ、眞實なものへの契機であつたのである。

我々はこの一般としての佛性に戸惑い、なすすべのないのは、佛性が一般としての無自覚の自覚であつたからである。「問、如何是祖師西來意。師云庭前柏樹子」(『趙州録』「続蔵」六八・七七下)の有名な趙州の話頭が古來の禅者のよき公案となつて來たのも、一般そのものとしての佛性の絶封性を極めて巧妙にフィクションせるものである。さりとは言え、この事態に當面する學佛者は、この如何とも処置することの出來ないアポリヤ(困惑・当惑)に撞着して絶體絶命しなければならない。この絶體絶命のところにこそ一般そのものとしての佛性の性格の顯現があるのである。

以上によりて、一應佛性そのものの方向を見定めては來たのであるが、更に一般としてのその性格それ自體に一歩進めて見たいと思う。そして、それが如何に表現されているか、『涅槃経』の中から拾つて見ることにする。

「佛性者、名爲第一義空、第一義空名爲智慧」「善男子、佛性者即是一切諸佛阿耨多羅三貌三菩提中道種子」「善男子、是観十二因縁智慧、即是阿耨多羅三貌三菩提種子。以是義故十二因縁名爲佛性」(「大正蔵」十二・五二四上)

これらによつて、一聯の概念を列べることが出來る。佛性、第一義空、智慧、中道種子、観十二因縁。この六語を考察するに、佛性という語を枢軸とした同義語であることに氣付かせられるのである。そして、ここに佛性の性格が明示されているように思われる。ここで私は十二因縁を先ず最初に考えて見ることにする。この場合、十二因縁は、因縁一般と考えなければならない。十二因縁は、通常、我々には、現實構造の自覚と考られているようであるが、嚴密に因縁一般という立揚からするならば、この現實構造の自覚ということは成立しない。何故ならば、これも因縁であるからである。然らば、「観十二因縁」ということは一體如何なることであろうか、永遠の疑問とならなければならない。元來、十二因縁することそれ自體が因縁であり、観照することも因縁であつてみれば、観照 される因縁というものは存在しない。從つて十二因縁ということ、嚴密に言うならば、因縁が因縁自身を因縁していると言わなければならない。即ち、何と自覚して見ても、因縁であるより外にはあり得ない我々だつたのである。因縁が因縁を自覚して見ても因縁である以上、因縁を観照することはあり得ない、因縁は自己自身を対象とすることもあり得ない。故に因縁それ自體の自覚ということは成立しないのである。

因縁において、例え、主體的なものを考え得たとしても、それとても因縁に過ぎない。そして、結局、その主體というものも因縁の主體ではなく、それは我々の思惟的抽象の結果であつた。たとえ、我々の概念的安住がそこにあり得ても、それぱ因縁の一駒である。故に因縁そのものは思惟を超えたものでなければならない、故に古佛者が不可得、不可思量といつたその語感に、その性格が味到せられるのである。

十二因縁を自覚し得ても、それは因縁されたものであつて、観ぜられる十二因縁というものはなかつた。然らば如何にして「観十二因縁」ということがあり得るであろうか。とにかく我々は因縁の特種を超えなければ一般の大生命に生きることはあり得ないのである。然るに、この因縁の特種の循環の中に流轉する我々である。故に、『涅槃経』ではこれを「一切衆生不能見、十二因縁是故輪轉」(「大正蔵」十二・五二四上) といつている。然らば我々は精神的に安住するところを喪失してしまわなければならないのか。上來考察し來つた如く因縁は凡ゆるものの原理であるが、思惟をもつては、全く取りつく島のない絶對であつた。思惟以前の思惟を超えたこの絶對に戸惑い、我々は絶體絶望せざるを得ない。即ち、我々は、全く超絶した絶體の断崖に逢着するのである。そしてこの断崖に道を通ずるのでなければ、特種を超えて一般に生きる道は存在しないのである。ここで、一般と私が指摘して來たものを、往古の禅者の「平常心是道」「無事是貴人」「佛是無事凡夫」等々によつて具體的に表現し來つたことを、想起しなければならない。

「眼前の法さらに通路あるべからずと倉卒なるは佛學にあらざるなり」(『正法眼藏』「坐禅箴」) と道元禅師は言われたが、この絶對の不可得という實態に、即ち思惟を棚上げした處に、道を通ずるものが佛道であつたのである。この不可得は一般それ自體のあり方なのである。もし可得であるならば、それは一般ではなく、特種として、我々に對象するものとして、特種でなければならない。然らば不可得とは如何なる實態であるのであるのか。如何にしても受取り得ないものなるが故の不可得であつたことは繰返すまでもあるまい。結局、ここには第三者的傍観の立揚は勿論あつてはならないし、全く相對することがあつてもならない。然らば、具體的にそんなことがあり得るであろうか。此處で想起することは、「親きものは問はず」(『圜悟語録』「大正蔵」四七・七九九下)の古禅語の眞實である。不可得に「倉卒ならざる」時、更に、思惟、意慾的なものを忘れ去つたときこそ却つて不可得は不可得として顯現するのである。

常に可得の特殊に生死する一切衆生は、不可得の一般にあるに拘らず、蠶(かいこ)の繭(まゆ)の中に終始するが如く、自造結業の中に流轉生死するのである。この一切衆生の實態を「善男子、如蠶作繭生自死、一切衆生亦後如是。不見佛性、故自造結業流轉生死、猶如拍毬」(『涅槃経』「大正蔵」十二・五二四上))と指摘し、これを不見佛性と言つたのである。

思惟の特殊の立揚にある我々は、不可得の絶體絶命の事態に當面し、あらゆる努力にも拘らず、特殊に終始して、因縁の奔流に輪廻すること以外には何物でもなかつた。却つて作爲を放下した無目的、無所得、無所悟に行ずる時、見佛性として佛性は顯現する。故に見佛性は、行道であり、その行道が成佛でなければならない。ここに「佛性の道理は、佛性は成佛よりさきに具足せるにあらず成佛よりのちに具足するなり。佛性かならず成佛と同参するなり。」(『正法眼藏』「佛性」) の道元禅師の言葉の淵源に想到するのである。ここに聯も有目的的なものの一片なりとも介在するならば、はや因縁の特殊の奔流に輪轉しなければならないのである。

不可得の立揚において、観十二因縁と いう事實が現成する。これは論理の飛躍ではない。言語的習慣を超えた眞實である。観とは十二因縁を所對として能観することではない、十二因縁を超えることである。この超えることを無念と教えられるのである。この無念は、『大乗起信論』で「心起者無有、初相可知、而言知初相者、即謂無念」(「大正蔵」三二・五七六中)といい、この無念の時に、心相の生住異滅を知ると教えているのを考え合せねばならぬ。即ち、知ることのあり得ないのに、知るという無念。然もこの無念にして心相の生住異減を知る。この認識を飛躍した佛者の知るということは認識の内のことでないことを銘記せねばならない。

観十二因縁も斯様に知るのであり、これを智慧と言つている。これは自己認識、自己意識の介在は許さない能所泯亡ということである。故に観十二因縁は、特殊を超えた意識以前の一般として、「無常無断」(「大正蔵」十二・五二四上)) といわれている。「無常無断、即是観照十二因縁智。如是観智是名佛性」「是観十二因縁智慧、即是阿耨多羅三三貌三菩提種子。以是義一故十二因縁、名爲佛性」(「同上」)の一文に至つて佛性の一般としての性格が明らかにされてくる。即ち「無常無断」は認識以前の何の変哲もなき一般の姿である。即ち枯木死灰の徒として蔑視される無事の行者に、却つて見佛性の事實が現成しているのではあるまいか。驚異讃歎感激は却つて特殊の不見佛性の流轉生死に終るのである。かくて、見佛性は「佛性者即首楞嚴三昧」(「大正蔵」十二・五二四上)とある三昧王三昧の真實相であつたのである。

 

「印度学仏教学研究 5(1), 227-230, 1957-01」より抜書(一部改変)

 

これは二谷がpdfからワード化したものであり、出典などはsat(「大正蔵テキストデータベース」)を援用したものであり、旧漢字と新漢字の混用など雑な作業になってしまい謝する次第である。 猶これは小拙の酒井先生に対する報(法)恩の一環である事を記す。

酒井得元 提唱 三昧王三昧

正法眼蔵提唱 三昧王三昧 提唱(一) 酒井得元

面山述讃第二十一 三昧王三昧

述して曰く、三昧王三昧は九年面壁是なり。是を仏仏の要機祖祖の機要と謂う。二乗外道及び趙宗以来の異計の者は干茲に暗し。讃に言く、高して上無く。広うして涯なし古仏の軌範。柄子の模楷名を聞く者は六趣忽ちに超ゆ。縁に値う者は万劫乖れずして歴代祖伝法の真準たり。乃ち十方仏出世の本懐なり。光明徧界曽て匿さず。杲日天に当る十字街。

 

この度は、『三味王三昧』の巻に入ってまいりました。この三味王三昧の巻と言うのは、「正法眼蔵」の中でも特異な巻と言ってもいいでしょう。この巻は坐禅そのものをお説きになった巻です。是ほど大胆に坐禅をお説きになった巻はありません。私達は、三昧王三味の巻を本当に読んで、そうして、道元禅師の坐禅というものが、他の人達がねらつている坐禅とはぜんぜん種類、というよりは、この基盤が違う、次元じゃないですね。次元の違いならまだともかく、ぜんぜん異種なものであるということをよく知っていただきたい。大体が三昧というこの意味のとり方からして違う。三昧と言いますというと、普通の人達は、精神統一してしまった事を三味と心得ている。ところが、王三昧の巻をよ―く読んでいただきます

というと、私たちの生活の中のある特殊な状態を三味と言うのじゃ御座いません。うっかりしますというと、三昧に入ったとか、出たとか言いおる、入ったとか出たとか言うものじや御座いません。

先ずそういうようなところからこの巻に入っていくわけです。それで、何時もの通りこの巻に入る前に、面山さんの『述讃』に入ってまいります。この一番初めに拾遺第二十一と書いてあります。だいたいがこの二十一という番号はどういう番号かと申しますというとすぐこの裏の方に「正法眼蔵」第六十六とあります。これが本当の「正法眼蔵」の番号です。

正法眼蔵」の番号と言いますと、道元禅師が晩年になってから「正法眼蔵」を全部編集されました。そうして編集されて全部並べられた。それが七十五巻で御座います。そうしてこの七十五巻を後から補って百巻にしようとお考えになられたけども、百巻にすることができないで、十二巻程お書きになってお亡くなりになってしまった。五十三歳の時に道元禅師はお亡くなりになつてしまつた。

実に残念な事だという事が、八大人覚の終りの方に二祖さんが書いておられます。ですか

らしてこの六十六と云うのは、七十五巻本の中でも一番最後の部類に入っております。それで前のほうの述の方は、これは二十一とありますのは、これは六十巻本の「正法眼蔵」に入っていなかったわけです。入っていなかったので、面山という人は、六十巻本を定本に致しましてこの述讃を作られた。ですから、これは後から六十巻本を元にして拾い集められたものの二十一番目のものが是の「三昧王三味」という事になります。ちょっと変な感じがしますけどね。

面山さんの時代には『正法眼蔵』がどういような構造で最初から組み立てられたものであ

るか、という事の書誌学がまだその時分発達しておりませんでした。それでどういう風に編集されたのかという事がよく解っておりませんでしたからやむを得ない事でしょう。

先ず三昧王三味、述して曰く、三昧王三味は九年面壁是なり。是を仏仏の要機祖祖の機

要と言う。二乗外道趙宗以来の異計の者は是に暗し。それまでが述ですね。

是の「三味王三味」という事は、だいたいがサマーデイーということですが、この三

昧の意味合いは等持とか正受とかいう意味があります。

実は、この三昧ということは私達の生活の中における特殊な状態というものでは御座い

ません。私達が特殊な状態で在るならば本当の我々の安心立命にはなりません。正しい生

活の態度にはなりません。

と申しますのは、この三昧が生活活動の中の特殊な状態でしたらまたすぐ変化しなきや

ならん。変化しなきゃならんものを一つ状態で、ず―と持っていこうと云うのは無理な事で

す。異常状態はやっばり異常状態ですね。三昧が異常状態で在るならばろくな事はない。本当の私達の生命活動の基本原点、この原点が三昧と言うことが出来る。

全てのものはその原点の中において、我々は人間生活を送つていると考えたらよい。私は何時もの通り申しますというと、御天気でいうなら、好い御天気だなあと言うだけで、いっぺん雲が出たらおしまい。雨が降ったらそれでおしまい。それがあなた方の都合でず―と素晴らしい御天気が二、三日ぐらい続くならよいですけども、一月なり二月なり一年位続こうものならめちゃくちゃだもの。こういう事は願わない方がよい訳だ。何時も変化している。この変化しているということが私達には丁度よい事なんだ。その変化しているということは御天気の中に於ける変化です。

私達のこの生活活動というものは、 つまり言うならば身体が生命活動をしています。この生命活動の中のいろいろな模様風景そういうようなものが実は私達の人生です。こういうのが普通の人間性というものだ。これが三味であっちゃならない。

本当の絶対的なもの三昧正三味とはどういう事かと言いますと、尽十方界真実人体であります。

私達の身体というものは大自然そのものですよ。この身体の生命活動の中で私達は人生を送っている。私達のこの身体の絶対的な事実の中でもって人生を送っておりまして、これを超越するという事は絶対出来ません。また超越したなって考えるのは、唯それはお前さんがそう考えただけですよ。生きとるから考えたんだ。考えるという事さえも身体の生命活動の一つの表現でしかない。何処までも私達は身体の尽十方界真実人体を越える訳にいかん。其の中でしか暮らしていない。ですから尽 十方界真実人体をひとつ体験してやろうと思いましても体験出来ませんよ。これは、ひとつ体験してやろうと思う事自体が、身体の中で考えている事なんだ。

身体の生命活動の一つとして考えているだけで、ですからして絶対お目にかかる事も出来ない。肌に触ることも出来ない。この眼でひとつ確かめてやろうと思っても眼で確かめる事も出来ない。こういうようなのが本当の絶対とい云う事です。これを忘れたら困る。人間というものは殆どが尽十方界真実人体という事に気が付かないよ。気が付かないはずだ。体験が出来ないもの。眼で見ることも出来ない。肌で感ずる事も出来ない。色々考えるのも尽十方界真実人体の生命活動の一つとして考えているだけだから、飛び出す事も出来なきゃどうする事も出来ない。其の処に私達がどのような事をやりましても、この中でどのような情景、景色、それに引きづり回されて、いろんな事をやらかしても考えてみりゃ何でもない。私達が、悩んだって、迷ったと言いましても大した事ない。こんなところで仏法が三昧という言に到達したことになりますか。

 

正法眼蔵 三昧王三味 提唱(二)酒井得元

述して曰く、三味王三味は九年面壁是なり。是を仏仏の要機祖祖の機要と謂う。二乗外道及び趙宗以来の異計の者は干苑に暗し。

三昧王三味と言うのはつまり申しますと、自分の身体そのものと言う訳だ。三昧王三味と言うのは、特殊な精神状態や心理状態では無い。是を良く心得ておいてこの巻を読んでもらうとよくわかる。私達の修行というものが。

坐禅は一種の精神状態を操るものでは無い、と言うことを知っておいて頂きたい。是が此の巻の狙いです、そこで初めて、只管打坐というものが大変な事であったと言う事を、私達は解らせて頂く事が出来る訳だ。其の意味に於いて、道元禅師の坐禅「只管打坐」に関しての此の巻は、最も重大な巻です。

それで面山さんの述讃の一番最初に述に云く「三昧王三味」とはいったいどういう事か、どういう風に是を実証するのかと言いますと、其れに答えて九年面壁是なり、此れは達磨さんの九年面壁坐禅修行の事で、面壁と言う事は大変な事ですね。

鉄漢成就と言う言葉が有りますけど、壁に向かって坐っているという事は、何も探していないと云う事だ、何も求めていない、ただ壁に向かっているわ訳だ、目を働かしたりして探す事をしないから面壁と言う訳だ、面壁是なり、是は何も求めないで坐っているだけだ、此の坐つているだけが「三昧王三昧」ということになる。

申しますと言うと、私達の日常生活というものは、じっとして居られないのが人間です。何かを探さなきゃならん、頭の中に何か浮かんで来る、此れ浮かんで来なかったら面白いんですけど浮かんで来る。

朝起きて、浮かんで来るから洗面するでしよう、浮かんで来なかつたら洗面しないでしょうね、浮かんで来たのも気が付かないでやつてるもんね、それから、顔洗いますとご婦人方ならば直ぐ食事の支度をする、最もこの頃では、スイッチを入れてから顔を洗いに行くでしようね、ゆっくり顔を洗っているうちにご飯が出来るから、まあ好い世の中だ。

そういう事もみな浮かんで来るから、浮かんで来るという事を動機にして、手を動かし足を動かして、人生活動、生活活動が始まる訳だ。朝から晩まで頭に浮かんで来たやつを追っかけどうしで、晩になったらくたびれて寝て一日が終わりだ。

結局追っかけまわし続けるのが人生でしょう。うまくいったら喜んで、いかなかったらガッカリして、泣いたり笑ったり文句言ったり、愚痴ならべたリヒステリー起こしたり、こういうのが人生でしよう、なかなかお忙しい、此れが普通一般の人の人生です。

それは何かと言いますというと、生命活動の風景です、私達はこの生命現象の風景に引きずり回されて全体という真実と全然関係無しに過ごしてしまっている、それで面壁坐禅と申しますと、つまり生命活動を人生に切り替えないでそっくりそのままの状態を頂く、是が面壁九年と云う訳だ、つまり壁に向かって居りますから何かないかと探すこともありません、それから浮かんで来ましても手も足も動かさなきや首も動かさない、全然こうして居りますからして、其処には人生というものが始まっていない、つまり言いますと、こうして坐禅しているという事が、尽十方界真実を実践しているという事になる。

貴方の真実の事実であり、本当の姿を実践している事になる、貴方の本来の相が是で、尽十方界真実人体を実践する事になる。是を「三昧王三昧」と云うわけだ、是を達磨さんの面壁九年と云う風に表現されている訳だ、おそらく達磨さんが来られまして、人間と云う者は何時でも何か追求しているものが人間なんです。

その追求を一切止めてしまって年中壁に向かって坐っているなんて言いましたら、普通の人間は受け付けてくれません。馬鹿な奴だな案山子みたいじやないか、何もしないで無意味な事をやってるな、と云う風に受け取られるでしょうね。人間というものは何時も何か追求しているのが普通の人間ですから、ですから何も求めないで、じ―と坐っているなんてのは、普通の人間には受け入れられません。

人間という生き物は、誰かが教えてくれなかったらそんな事やりませんぜ。人間から言いますとこれほど無意味なことないものな、全く意義無しでしょう。此の意義無しと言う処、これが一番大切な事だ、そこに目を開いて頂きたいのが此の巻です。

そしてこれが仏仏の要機祖祖の機要と言う訳だ、つまり仏様そのもの、仏様そのもののはたらきと云うのが実は是ですね、私達は此の尽十方界真実人体の中でいろんな人生を送らせていただいているわけだ、どんな文明を発明しようと学問をしようと、どんな芸当をやろうと皆身体の中の出来事です。つまり尽十方界真実人体の中の風景に過ぎない、そんなものなのです、どんなに貴方が喜んで感心して涙を流して興奮しょうと、大した事ではない。

川の流れで申しますと波が立っただけの話だ、川の流れには全然関係ない、相変わらず流れ続けているじゃないですか。川の流れで言いますと、川の流れそのものが「三昧王三味」であり、あなた方の身体も川のようなものだ。ズーと生き続けていらっしゃる、生まれた時から死ぬまでズーと体まずですよ、そりや坐禅は休むこともあるし、仕事も休む事もあるよけど身体の方は決して怠けちやいないよ、大変ですよ、余計飯食って余計遊ぶと、身体はいい迷惑しますぜ、人生上の仕事はしませんけど、身体の生命活動というものは、絶える事なく休むことなく続けていますよ、ズーと進み続けておりますよ。

私はまだね、若がえった人を見た事ありません、みな前進状態だズーと前進しております、飯食おうと何だろうと一度も体まずに、のべつまくなしに前進状態を続けてる。此の前進状態と言う事が、川の流れに喩えますと、川は常に流れていると言う事が前進状態だ、是が向上事です。此の向上事が真実の姿です。ですから仏向上事とも言う。仏向上事の風景が本来の人間の相であるわけです。ですから私達は、仏向上事そのものをみっちり修行しよう、と言うところに仏道というものがある。それでみっちりと修行し続けている処を、仏仏の要機祖祖の機

仏祖と言うものは何だろうか、仏様ってどういうものだろうか、仏様とは宇宙の真実が仏様だ。つまり宇宙の真実とは生命活動そのもので生命活動は一時も休まず続いている其の中で私達は人生送らせていただいている。仏様其のものを実践するのが坐禅です、坐禅はあなたの修行ではなく仏行で御座います、仏を行ずる事です。私達の坐禅は行仏で御座います、仏行という言葉は他の宗教に無く道元禅師だけの言葉ですよ、其れを仏仏の要機祖祖の機要と謂う。

二乗外道及び趙宋以来の異計の者は于茲に暗し、二乗という人達は声聞縁覚です。どういう人達かと申しますと、悟りを一生懸命に求めてる人達です、大変熱心に脱線せずに、厳格な修行をし、戒法もよ―く守っているという真面日な人達です。お釈迦様と同じ悟りを開こうと思ってる人達です。

二乗は何故いけないかと申しますと、悟りという狙うものがある、という事は人生上の事ですぜ、人間ですぜ、此れは。狙うという事がどのようなものを狙っても人間という者であり満足がしたいという是が人間であるわけだ。事業やって成功したい、ああ良かったという満足感だけですよ。是がなかったら誰もやらないでしょうね、大きな事業をする会社をつくる、だんだんだんだん大きくなる、会社をつくってる人達はのべつまくなしに、大きくするばかりで小さくする人誰もいないでしょ、どんどん大きくしてる又発展した、いったい何処

まで発展するんだい、考えたら可笑しいでしょう。あれが人間性というもんだ。私は変な言葉発見した、人間のやってる事は、悟りが欲しいと言っても、悟りという我儘を欲しがって暴走する暴走族だな、若い者たちがオートバイ乗り回して、物凄い音立てて走る。

若い者に「どんな感じする」って聞いてみたら「この気持ちは和尚さんには分からんでしょうね」と言いやがる。「山の中の、人がいない道をスーと走る爽快な感じといったらそりや―ネエだからな」と言う。「和尚もやつてみろ」と言う。まっぴら御免。こういうような感じだな。

つまり云うと人間には、年齢に関係なく皆こういうような事が大好きだ、是を私はわがままの暴走族と言うのだが、悟りを一生懸命求めてやってる連中も、私は暴走族と言う。人間の求めるものは自分の嫌いなものは絶対に求めない、望むものも自分の嫌いなものは絶対望まない、だから考えてごらん、人間の理想というものを。あれくらい、いい加減なものないから。

如何にも自分では理想というと、美化したり正当化したりしますよ。大変な価値をもたせ美化してるよ。そうしてその為に私は飯を食わんでも良い、身体なんかどうでも良い、という事で暴走する.皆これ暴走族だ。言うと、我がままの暴走でしかないじやないかと言う事になるわけです。

私はね、お釈迦様が苦行を止められたのも其処だと思うな、お釈迦様の姿見てごらん、苦行してる姿、あれちょっと日向(ひなた)に出してごらん、乾物になるよ、骨はこうだし、腹はこうだし、腐らないから直ぐ乾物に成る。あの乾物の姿が何が尊いか。

真実というものは自分の好みの方向に暴走したと処にはない、人間はのぼせてしまって、大切な自分の身体の都合を無視してしまう、親方忘れてしまってそっちの方にだけ暴走する、其れに気が付かれた。

それで、それを止められた、そして尼連禅河(にれんぜんが)で身体を清められて、スジャータの供養の粥を取られ、体力を回復させてから、初めて菩提樹下で本当の坐禅を始められたわけです。

 

正法眼蔵 三昧王三昧 提唱(三) 酒井得元

面山述讃 第二十一 三昧王三昧

述して曰く、三昧王三昧は九年面壁是なり。是を仏仏の要機祖祖の機要と謂う。二乗外道及び趙宗以来の異計の者は干茲に暗し。

讃に言く、高して上無く。広うして涯なし古仏の規範。衲子の模楷。名を聞く者は六趣忽ちに超ゆ。縁に値う者は万劫乖れずして歴代祖伝法の真準たり。乃ち十方仏出世の本懐なり。光明徧界曾て匿さず。杲日天に当る十字街。

お釈迦様が菩提樹下で坐禅をしてお悟りを開かれたのち、先ず苦行林に行かれた。五比丘以下の連中は「シッダルタは堕落した」と言う訳で皆がよそ向いちゃった。こちらを向こうとしなかった。その内の一人が、うっかりとお釈迦様のお顔を見てしまった、すると、すっかり参ってしまって頭下げちやった。気が付いた時は、五人揃ってお釈迦様に礼拝をtてしまった。いうことは自分達の我がままの暴走ということに気づかれたのだろ。

お釈迦様御自身が、我がままの暴走がいかに愚かなものであるかを、身をもつてようくお示しになった訳だ。仏道修行というものも、うっかりしますというと我がままの暴走族になりかねない。是が二乗外道の修行だよ。

道元禅師が、この悟りを求める為の坐禅を否定されているのは、そういう処から来ている訳です。一生懸命に悟りを求める、いかにも真剣な真面目な態度に見えるでしょう。

ですからして二乗というような連中には、達磨様の面壁九年という坐禅が解ろうはずがないな。“堕落者 ”と言うことになるだろうね、それから外道というのは、“心外無別法”心外に法を求めると言って、勝手に自分の理想を外に追求する連中の事を言います。外道には必ず目標が有ります。自分で勝手に決めた理想を持っています。その理想を追究する者が外道ということで、ここでも同じ事ですね、こういう連中にはここのところが解ろうはずが無い。

趙宗以来異計の者は干茲に暗し。

趙宋というのは、大慧宗果あたりの看話禅、見性禅の事です。見性禅の者達は是が解らなかっただろうと言う事だ。

道元禅師が行かれた趙宋中国では、皆悟りを求める連中ばかりであったからです。非常に流行ってたんだ、全てがこの見性禅だったらしいね。『弁道話』の中に「臨済宗のみ天下にあまねし」と有ります様に…。

人間と云うのは昔からこういう目的を以て頑張るものなんだ。仕方がないな、人間とはそういう習性のものです。ですから、趙宋以来の異計者は暗し、この三昧王三昧というものも、とんでもない解釈をしている訳だ。

讃に言く。 高うして上無く、広うして涯なしというのは、無所得無所悟の事をこう言った訳だ。無所得無所悟ですから修行の仕上がりはありませんね、とうとうやり終えたと言う事はありません。

そんな際限の有るものではない、これが尽十方界だ。高して上無く 何処まで行ったらのぼり切るかつてものはありやしない、だいたい天上が無いんだから。

広うして涯なし 目的を達する事がないから。無所得無所悟の修行が、高うして上なく、広うして涯なしという言葉で表されている訳だ。 つまり仏法の真実というものは不可得という事です。

“俺はとうとう真実を得た”という時には、満足したんだから是は真実では御座いません。真実というものはどういうものかと言いますと、諸法実相という事です。ありとあらゆるものは真実の姿である。この宇宙全体が真実というものだ。

古仏の規範納子の模楷。古仏の規範というのは仏様の教えの手本の事で、仏様がどういうご修行をなさったかと言いますと、高して上なく広うして涯なし というのが仏様のご修行の原則だ。どんなにやつても是で終わりという事が無い。考えてみると、求める限界が上なく涯なしなのだから、求めることのない絶対の修行でなくてはならない。ですから 広うして涯なし。

納子の模楷というのはつまり修行僧の法式進退のことだ。

名を聞く者は六趣忽ちに超ゆ 名を聞くというのは三昧王三昧の坐禅に値うことだ。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、という六趣の迷いの世界は、三昧王三昧の世界からすればすでに超えており、六趣など消えてしまいます。それは、どこまでも尽十方界真実人体ということを修行しておりますから、六趣の中の綾模様なんてものは問題に成りません。だから忽ちに超ゆ。

縁に値う者は高劫乖れず 中々こう云うような縁に値うと言う事は難しい事です。無所得無所悟の三昧王三昧の坐禅に縁があるという事は、よほどの仏縁でもないかぎりね。そうしてこれが本当に真実に目が覚めた人、仏法というものに気が付いた人でなければ難しいでしようね。その時は高劫乖れず。永久に離れないだろうな。と言うのは、人間の求めているものが大した事無いと解つたらそれでいいでしょう……。

人間が最高のものだと思って求めているものは最高のものではないですョ、それがはっきり化けの皮がはがれた時は、そちらに振り向かなくなるでしょう。

歴代祖博法の真準たり。つまりお釈迦様からズーと今日まで仏法が伝わっております。そうして伝法という事が今に行われております。そして、その基準というものが三昧王三昧であったわけです。そうして、乃ち十方仏出世の本懐なり。何故出世という言葉が出てきたか、これは世間を超出することです。面白い言葉ですね。世間と云うのは人間界のことであり人生上の事です。私達は自分の身体の中の風景に引きずり回されている。私達が物事を考え

るということをようく考えて頂きたい。私達が物を欲しがると云うのは、個人の都合というここから来てるでしよう。残念ながらここからだ。「物が食いたいな―」それから餌を探し始める。そして、どうしたら美昧い物食えるだろうかと動き出す。動物たちの動いてるの見てごらん。

私はこのまえ駅のプラットホームで、電車の来るの待ってましたら、鳩が飛んで来ましてね。鳩の奴ね、飛んで来たらすぐこれだもんね、一遍も休んだ事ない。よく餌が有るね―。それからこっちつついてすぐとなり、あれより他、決してやらないものね。たまには景色でも見たらどうだい。決して見ない。「あ―なるほどな」と思いました。鶏がそうですね。笑えないな人間も同じじやないですか、やつぱり口だな。食べることだナ。

それからいろんな思考が発達する。思考というのは意思です。意思というのは物が欲しいという欲望の事、「欲しい欲しい」というのが考えの基本で、この欲しい「満足したい満足したい」というところから思考が始まる。それが食う物だけでなく、着物も満足する着物が着たい。家も満足する家に住みたい。飽きると又別の物を欲しがる。欲望の発展が始まる。そういうことばかりやって一生終わりだ。

思索という事もエゴです。人間の求めてる思想もそうです。どんな立派な哲学史も元々はエゴです。つまり自分の意思にかなったものを創り上げようとする。人間は、自分の生活状態の満足を求めようとする。生活状態の違う人とは意見が違ってくる。政治の革新と保守がそうです。頭の構造を変えて、共通の同じ立場に立たないとだめですね。それでそういうものはどうにもならん。人生上の悩みはどうにもならんナ

これが世間です。それに対して仏道は出世間です。出るという事は、こういうことを自分の中で風景、綾模様として見て、それに引っ張り回されない、これが解脱です。十方仏出世の本懐なりです。これが三昧王三昧の坐禅の行です。仏様のこの出世された本懐だったわけです。

光明編界曽て匿さず。光明はただの光ではない、大自然の恩寵といったらいいでしよう。尽十方界の真実のありかたが光明徧界です。永久に無くなるものではない、私達は実は、何時も尽十方界の真実に生かされ続けている。これを離れることは出来ません。

杲日天に営る十字街。果日は太陽がカンカン照りの事、天に営るは天いっぱい。つまり光明術界を言い換えているわけです。

私達は自然の恵みいっぱいに生かされているのです。ですから何も求めることはありません。

黙っていても十分に頂いております。ここに私達は目を醒ます。三昧王三昧の坐禅をしていることが仏様の恩寵を十分に頂いていたわけです。

私達が幸福と云う物を求めるのは、杲日天に当る十字街ということが解らないからです。光明徧界曾て匿さずという事を信ずることが出来ないからです。そのままで十分。

私達は何時も何か自分を救つてくれるものはないかと追い求めていますが、それは一時的なものであって、悟ったとか、解ったとか、得たぞ、とかいうものは、決して本当の救いではありません。

 

正法眼蔵 三昧王三昧 提唱(四) 酒井得元

 驀然として尽界を超越して、仏祖の屋裏に太尊貴生なるは、結跏趺坐なり。外道魔儻の頂□(寧+頁)を踏飜して、仏祖の堂奥に箇中人なることは結跏趺坐なり。仏祖の極之極を超越するはたゞこの一法なり。このゆゑに、仏祖これをいとなみて、さらに余務あらず。まさにしるべし、坐の尽界と余の尽界と、はるかにことなり。

この結跏趺坐とは、手を組み足を組んで、正身端坐しただけの事ですけども、この事がそれ程に意味があり、これが仏法の全体であるという事です。つまり申しますと、私達の結跏趺坐という事は、先ほどから何回か申し上げました通り、尽十方界真実人体と云うこの事実

を実践実証するもので、是より他に求むるべきもの無きなりということです。其の意味に於いてこの結跏趺坐は最も重要なことです。

なんだか書いたものを覗いて見たらこんな事書いてありました。腰掛坐禅とか出てまし

たが変なものだね。実は坐禅は静坐法じゃありませんから、静坐して精神統一することではありませんから。

私達の仏法は結跏趺坐(半跏趺坐も同じ)が全てです。結跏趺坐をしない時には三昧王

三味の現成は御座いません。これは私の信仰で御座います。又これが道元禅師の宗旨で御座います。志の有る人は坐りますよ。外国人も坐っています。便法はどうでもよい、要するに坐禅が仏の正法を行ずることです。こういう風に観ていただきたい、そして信じていただきたい、そこで本文最初のこういう言葉が有るわけです。

驀然として尽界を超越する、この驀然と言うのは一目散です。尽界は尽十方界です。尽十方界は宇宙全体、我々は宇宙と言うと目の前に展開している観察されたところを宇宙と考えますが、感覚でとらえる宇宙では御座いません。

私達が生きていると云う事そのまま全体が宇宙です、勝手に生きているのではありません。人間は人に生まれたいからと、一生懸命に頑張つて生まれて来たのではありません。知りませんね。気が付いたら人間だったというだけです。それからず―と人間やってます。一生懸命やってると言っても、ただ飯食って来ただけですよ。歳取ると数になるだけです、皆さんもそうだと思いますが。

一生懸命努力するという事はどういうことかと言いますと、何か目的を持ってグイグイ頑張つているだけでしょう。身体の為に頑張つているのは珍しいでしょう。もっとも最近では走る事が流行ってますが、だけどその人達の目的は健康の為だろう。悪いことでは無いが、ま―大したことではない、一種の満足感の追求です。

私は天桂伝尊さんの御蔭で、『宝積経』読み出しました。その中に、「仏曰く若し求むる所

有れば即ち涅槃に至るも名付けて悪欲と成す。是を名付けて如来秘密の説と名付く」(「大正蔵」十一・五〇二下)とあります。

これが如来の極意だそうだ。一生懸命求めて、「涅槃に到達したついにやり終えた」と言

つたらそれは間違いであると。そうしますと、好い気持ちに成ろうとか、腰掛けて好い精神

状態に成ろうとかというのは坐禅ではありません。仏道ではありません悪欲の側に入る。

私達が生きてるという事は、勝手に生きているのではない尽界を生きてる。人間は死

んでも命が有る様にと思う、殺そうとすると皆怖がる。当たり前だ、それが本当でしよう。

“死にたくない・死にたくない”これは誰からも習った訳ではない、習わなくともこれは

本当です。これは生命あるものとして好い事だなあ。死にたくないから自分のことを大切

にし守ろうとする。“死にたくない”という恐怖心が自分を守ろうとする心を起こし、考

えさせてもらつてる。この考えるという頭の働きが「死にたくない死んでも命が有る様に」

と自然に考えるようになつているわけだ。

あなたが勝手に考えているのではない。、いかにもお前さんの勝手な考えのように思いますけどそうではない、そういう風に考えさせて何まで皆させてもらつている訳だ。自分個

人でやつているのではありません。皆そういう風に出来ている。つまり言うとあなたの生

きてるという事、全ては大自然があなたを生かして下さつている。

人間は我が儘で悪欲ばっかりやってますよ。悪欲ということも矛盾してるじやないか

とお考えになるでしようが、私は何時もこのことを自動車のエンジンに喩えます。人間は

自然の恵みを過度に頂いている。車のエンジンは規定内の正常範囲だけの能力を出すエン

ジンが付いておつたらこれは危ない。余裕が無いと、余裕を持つたエンジンでないと安全

運転は出来ません。私達の身体も余裕のある恵みを頂いてます、ですから過度な事をして

しまう。

本当の生き方は節制が大事です。私がやりたいから、欲しいから、何をやつてもいいだろう。俺はこれがやりたいんだからいいじやないかやりたい放題することが自由じやないかと言いたい処だが、そういう我が儘の暴走というものが人間を滅ぼす。それは自然の恵みを無駄にしているから、私達が自然の恵みを余分に与えられているのは、安全運転が出来るようにとの事で与えられている。それを私達は謙虚に受け取ってブレーキをかけながら生きていく、これが本当の生き方です。こういう生き方が尽界を本当に頂くことです。

驀然として蓋界を超越して、 超越とはどういうことかと言いますと、完全に大自然の恵みを頂く事です。大自然の生命の恵みを全部そのまま純粋に頂戴する事が、尽界を超越すると言うことです。それが坐禅の形の結跏趺坐になります。だから我が儘をやると云うのは本当の自然の恵みを頂いていない事です。悟ってやろうなんていう事も大自然の恵みを本当に頂かないでお前の勝手な我が儘に暴走しているということです。

道元禅師の大切な言葉に「身心脱落」と言う言葉が有ります。脱落という事は落第する事ではない、落ちこばれだということでは無い。普通一般では脱落は落ちこばれのことを言いますが、この「身心脱落」はどういうことかと言いますと、身心は脱落である。脱落は身心である。

身心は全体である。その実態は尽十方界で御座います。そうしてこの尽十方界というものは永遠に活動し続けている宇宙の真実であります。今、身心をして、結跏趺坐している事そのことが大尊貴生なる三味王三味ということである。

 

 正法眼蔵 三昧王三昧 提唱(五) 酒井得元

原文

驀然として尽界を超越して、仏祖の屋裏に大尊貴生なるは、結跏趺坐なり、外道魔党の

頂□(寧+頁)を踏翻して、仏祖の堂奥に箇中人なることは、結跏趺坐なり、仏祖の極之極を超越するは、ただこの一法なり、このゆえに仏祖これをいとなみて、さらに餘務あらず。

まさにしるべし坐の尽界と餘の尽界と、はるかにことなり。この道理をあきらめて、仏祖

の発心・修行・菩提・涅槃を辦肯するなり。

提唱

身心はどんな事があっても身心を貫き通している、それが身心脱落という事です。脱落は、脱落の事実以外の事にはどのような事があっても左右されません。これが脱落身心ということです。川はどんな事があっても流れ続けています。

人生は尽界の中のあや模様であり風景です。ちょうど川が流れておれば、川の水面はたん

なる水面ではありません。波が立ったり、さざ波が起こったり、水しぶきが上がったり汚

れてみたり、いろんな状態があります。これは流れているから、いろんな風景があるのは

当たり前です。

お天気もそうです、晴れた日もあれば曇った日もある。いろんな事があって当たり前、私達の健康もそうです。風邪引いたり、腹痛やったり、癌に成ったり、肺結核やったり、いろんな事しながら生きている。生きているからには、これは風景ですから避ける事出来ません。当たり前です「平常心是道」だ。この大自然の恵みが「身心」という事であり、この大宇宙の真実が「脱落」ということです。止める訳にはいきません。

この尽十方界そのものを実践実証するものは坐禅より他には無い。この坐禅の小さな姿勢が、考えると大変な事やってます。

知らん顔してただ坐っているだけで尽十方界真実を行じているのですから、他人が見たら「可笑しなことやってるな」という風に見るだろうな。この「何ともない」ということが

超越ということです。

私達が平気な顔をしているということが、いかに偉大な事であるかということを知って

もらいたい。平常底の中で坐禅をしていることがいかに偉大な事であるか。この結跏趺坐

が、驀然として尽界を超越するもっとも平凡な坐禅であるという事です。平凡な坐禅がいかに偉大なものであるか、ということを心してもらいたい。

外道魔党の頂寧□(寧+頁)を踏翻して、仏祖の堂奥

に箇中人なることは結跏趺坐なり。

この外道と言うのは、前に「心外無別法」とありましたが、人間の独断で決め込んだ連中で

す。

「これが真実だ」、「この神様が一番偉くて宇宙を創造し全てを支配しているんだ」と、そして、神様神様と、唱えてるのが外道です。それは勝手に信じてる、だからそれを信じない他の部族は間違ってるといって、憎しみを感じ争いと成る。商売敵のようなものです。この外道は人間の、ただの感情内の生活をしているだけです。そんなところに偉大なものは有りません。こんな連中に、「只管打坐」「結跏趺坐」は解らないでしよう。それで外道魔党の頂寧□(寧+頁)を踏翻して、その頭を飛び越えているということです。

その自我以前の「本来の面目の自己」を現しているのです。だから仏祖であるわけで

す。

仏祖の極之極を超越するは、ただこの一法なり、

この私が仏祖の結跏趺坐をするということが、ただひたすらにうちすわる、「只管打坐「三昧王三昧」の一法だという事です。一法とはただ一つの二のない真実の道だと、

仏祖の堂奥に箇中人なることはというのは、仏祖の奥の奥に入り込んで仏祖その本来の面目の人に成り切ることです。箇中人とはそれは結跏趺坐することです。結跏趺坐している時は彼方は彼方をやめてしまっています。彼方の我が儘をやめれば仏様です。

つまり坐禅はそういう自我を止めた、ということです。先ほど申しましたように、「これこそは」と感覚で言う様なものが有ったのでは、極之極を超越する一法には成りません。

坐禅してると足が痛い。愉快だな痛いという事は、身体に虐められてる。痛くなきゃ身体に虐められる事ない。

何とか「楽しよう楽しよう」と考えるのは我が儘ですよ。痛い時は只痛いだけで、勝手な事出来ない、これが極之極を超越することになるでしょう。考えると痛いという事は有り難いことです。痛いままに「何ともない」、というところに超越がある。

難しいですが、坐禅は「何ともない坐禅」をしなければ超越ということにはなりません。せっかく坐禅しているのに、「ああ気持ちが好いな」、「ああ無念無想に成った」と、感心し

ているのでは駄目です。無念無想に成ったと思ってる時は、有念有想を一生懸命やってるときですよ。

このゆえに仏祖これをいとなみて、さらに餘務あらず。

仏祖は仏道を行じなければ仏祖ではありません。仏祖は結跏趺坐をしなければ仏祖

には成り得ません。仏祖はどこまでも結跏趺坐をやつてこそ初めて、仏祖と成りうる

わけです。只管打坐の結跏趺坐は、普通の人からみれば無意昧です。しかしこの無意

昧なものが、いかに有意義なものであるかということが、解ってもらえることが大切

なことです。

まさにしるべし坐の尽界と餘の尽界と。はるかにことなり、この道理をあきらめて、仏祖の発心修行菩提涅槃を辦肯するなり。

餘の尽界とは、「ああ宇宙広いな―何処までも何処までも限りが無いな―。」感心するのはそれは感覚の対象だよ、お前さんが感じて言ってるものだ。見た者はお前さんが無限と見てるだけだよ。無量無辺と彼方がそう言ってるだけだよ。それは感覚の問題だ。人生上の問題だよ。人間生活の問題だ。波であり、水しぶきですよ。

しかし坐の尽界は先ほどから何回か言ってるように、私達が生きてるということは尽十方界真実を生きてます。大自然を生きてます。生きてると云うのは生かされているという事で、悉有(しつう)という言葉がありますが、どれもこれもが、ですからしてこの坐の尽界は感覚の対象ではありません。生きてるというその事実を、感覚を越えて実証するのが坐禅です。それが坐の尽界であります。

そんなものが本当にあるのかと思うでしょうが「何とも無い」ということ。

そこには感心するものが何も無い。私達が感心するものに碌なものはない。本当の偉大なもの絶対的なものは感じません。ですから、「坐の尽界」と「餘の尽界」とはるかにことなり、これは次元の違いの問題ではありません。

このことをよ―く心得た上でないと正しい坐禅にはなりません。王三昧にはなりません。仏道修行にはなりません。「この道理をあきらめて仏祖の発心修行菩提涅槃を耕辦肯するり。」それをあきらかにして初め仏祖の発心修行が行持されていくのです。

私は『正法眼蔵』の中で、「全自己の仏祖」という言葉に感激したね。道元禅師は「仏

道をならうというは自己をならうなり」と、言われております。(現成公案の巻)この自

己が「全自己」です。この全自己は言葉を変えて言うならば尽十方界真実人体です。尽界です。大自然そのものです。皆さんが「私だ俺だ」と言ってるのは自我意識です。ですから、身体の調子によつて自我意識が働かないことがあります。栄養失調三度位やってごらんなさいよ、何も欲しくなくなります。無欲悟淡です。「俺これからどうしようかな」なんて考えも浮かんできません。一日中目を開けて、上向いて寝てても退屈しません。大きな声で呼ばれても聞こえません。傍で怒鳴られて初めて、やっと気づく。隣の寝ている人が夜中にうめき出すと、翌朝それで死んでいます。そういう経験を私も中国でして来ました。ですから自信持って言えますよ。

それから少し身体が良く成ってきて初めて「俺これからどうしようかな」と、考える。「腹減ったな」と気づく。それまでは腹減ったとも思わないし、楽なもんです。悩みは全然有りません。悩みが有るということは有り難いことです。悩みが有るということは欲望が有るということで、欲望が有るということは、体力が有るということです。怒ることも出来るし、有り難いことです。自殺するような元気な奴はもったいない―。

とにかく全自己というものは、私たちを生かして下さつている宇宙の真実「尽十方界真実人体」ということです。これが仏祖正伝の仏法でこの巻の「三昧王三昧」の坐禅、結跏趺坐です。

 

 正法眼蔵 三昧王三昧 提唱(六) 酒井得元

※原文

正当坐時は、尽界それ竪なるか横なるかと参究すべし。正当坐時、その坐それいかん。飜巾斗なるか、活々地なるか。思量か不思量か。作か無作か。坐裏に坐すや、身心裏に坐すや。坐裡身心裏等を脱落して坐すや。恁麼の千端万端の参究あるべきなり。身の結跏趺坐すべし、心の結跏趺坐すべし。身心脱落の結跏趺坐すべし。

先師古仏云、参禅者身心脱落也、祗管打坐始得。不要焼香礼拝念仏修懺看経。

※提唱

正当坐時は、尽界それ竪なるか、横なるかと参究すべし、

つまり言いますというと、自分が今坐つているのは自分勝手な坐禅をしてはいないか、尽界を本当に修行しているかどうか用心しなさいという意昧です。自分の満足追求ではないのか注意しなくてはならない。うっかりしますと満足追求に骨折っている場合がある。

一週間の摂心をしますというと、中で一炷位は大変気持ちの良い時間があります。それを間違えまして、無念無想に成ったような気分になることがあります。この一性の為に一週間あったような気持ちに成る。実際私も若い時そういう体験をしました。

これは異常状態です。長い間坐っているので身体が変に成ったのでしよう。そうしますと頭の働きも変に成ります。これは半分眠っていたのかもしれません。眠つているのは自分では分かりません、警策で打たれて初めて、自分は眠っていたのだと分かるようなものです。

このようにいろんな状態がありますが、有って当たり前なんですね。三昧は或る時の一点をいうのではない全体的な事をいうのです。

正当坐時、その坐それいかん、「如何」というのが解答です。「如何」というのは「こうこ

うこういうふうに」ならなきや成らない。というのではない。いかなる事も在り得るから

「如何」と言う。

禅の言葉は疑問詞が多い、この疑問詞が大事なんです。「如何なるか是れ仏法の大意」、「如何なるか是れ祖師西来意」質問ではない、言ってる本人は質問ですが、この「如何なるか」と、言うのが真実です。それは答えが無いからです。

答えを出すということは決めてしまう。さなものになってしまい真実が死んでしまいます。真実には「これこそは」というものが無いからです。坐の正体は「それいかん」ということです。

人間は物事が解決すると「あ〜良かつた」と言って納得する。こういうものがあったの

では本当の坐禅ではない。終わってしまい生命が無くなってしまう。永久に「如何」とい

うことが坐禅の正体です。これを良く知ってもらいたい。「なんともない」納得のいかない

坐禅を一生懸命やっていく、これでは救いが無いと思うでしょうが、それが大切なところ

です。

その坐それいかん、翻筋斗なるか、活々地なるか、思量か、不思量か、作か、無作か、

翻筋斗というのは引っくり返ることです。「か」というのは疑問詞になっていますが、全肯定と解した方が良い。ですから翻筋斗であることもある。活鱍々地であることもある。思量も不思量も作も無作もそうです。こういういろいろな状態が有るのが本当です。

お天気を考えてごらん、晴れの日もあれば雨の日もある。風も吹けば台風も来る地震もある。あらゆるものが揃ってなければお天気ではない。人間の身体もそうです、何時も元気という訳には行きません。風邪も引かなきやならんし腹痛もやらなきやならん、生きてるからにはいろんな事があります。

地球の表面も川があり山があり、いろんな形してます。これが本当のあり方です。「病気をしません様に」、「何時までも健康であります様に」、と願うのは人間的な望みです。

尽十方界もいろんなものが全部揃っているから尽十方界です。尽界です。何も無いのが尽界ではない。

そして坐裏に坐すや、身心裏に坐すや。

坐裏に坐すやというのは、坐禅の姿をいう。裏というのは表裏一体の事実、ただの表と裏

というのではない。 ″身心裏に坐すや″は、身心そのものを坐り切ること、身そのものを

坐ること。心そのものを坐り切ることです。

それから坐裏身心裏等を脱落して坐すや。

脱落はいわゆる脱落すること。坐はどこまでも坐であり、身心はどこまでも身心である。こういうことが脱落である。超越することが脱落であると前に出てきましたが。

恁麽の千端万端の参究あるべきなり。

参究は千端万端でなくてはなりません。坐禅中に煩悩が出て来ると、「このやろう」と云ってこれを無くしてやろうと、努力するのは坐禅でも仏道でもない。

身の結跏趺坐すべし、心の結跏趺坐すべし、身心脱落の結跏趺坐すべし。

「身心一如」「身心不二」とあるが。身と心とは同じものです。とにかく結跏趺坐をやり遂げていただく、そして身心脱落は結跏趺坐以外あり得ないという事。身心脱落は結跏趺坐の坐禅において、実践実修することが出来るということです。

先師古仏云、参禅者、身心脱落也、祗管打坐始得、不要焼香礼拝念仏修懺看経。

この言葉は道元禅師の文章にだけ出てくる言葉で、外には出て来ません。如浄禅師語録に

は「身心脱落」という言葉が御座いません。これは道元禅師が直接如浄禅師から問かれた

ものだと思います。

そしてこの言葉は、『辦道話』『無情説法の巻』、『仏教の巻』、「水平広録』、の中にも使われております。ですからこの言葉は、道元禅師が如浄禅師に参じていた時の言葉で非常に感激された言葉だと思います。この言葉が後で道元禅師の只管打坐の坐禅の根幹になったといってもいいでしょう。

道元禅師は『正法眼蔵坐禅儀』の中で〃参禅は坐禅なり〃という言葉を用いられております。この言葉が道元禅師の坐禅が、他の人達の坐禅と違うということを表しています。

何故かと言いますと、『辦道法』の最初の言葉によっても解ります。〃大衆若し坐すれば、衆に随って坐し、大衆若し臥せば衆に随って臥す。動静大衆に一如し死生叢林を離れず。群を抜けて益無し。″という言葉があります。

皆が坐る時には皆と一緒に坐る、皆が寝る時には皆と一緒に寝る。そして一生涯叢林生

活をまっとうする。自分だけ特別なものになろうなんて思ってはならない。

これがすなわち、身心脱落であり、現成公案であり、父母未生以前の公案です。

自分一人で、山の中に閉じ籠もったりしてする修行は、「好事不如無」(こうじもなきに

しかず)大変結構な事ではあるが、やらないほうが良い。「小人閑居をなして不善をなす」

という語もありますが。

一人で修行しますと、特別な心理状態に成りやすく、独善的に成ってしまう恐れがある。

私達の坐禅には、独善的なものは一切あってはなりません。

又自分が浸り込んでしまうものが有ってはならない。普通の修行は浸り込むものを求めている。道元禅師の坐禅には浸り込むものは一切有りません。その修行は「参禅」が一番良い。参禅とは身心脱落を修行することであり身心脱落を実践することです。

いわゆる「大衆一如」「不離叢林」といわれる、宗門の修行の指針もおわかりいただける

のではないかと思います。 

 

正法眼蔵 三昧王三昧 提唱(七) 酒井得元

資料欠本により、本文のみ掲載す。

あきらかに仏祖の眼睛を抉出しきたり、仏祖の眼睛裏に打坐すること、四五百年よりこのかたは、ただ先師ひとりなり、震旦国に斉肩すくなし。打坐の仏法なること、佛法は打坐なることをあきらめたるまれなり。たとひ打坐を仏法と体解すといふとも、打坐を打坐としれる、いまだあらず。いはんや仏法を仏法と保任するあらんや。しかあればすなはち、心の打坐あり、身の打坐とおなじからず。身の打坐あり、心の打坐とおなじからず。身心脱落の打坐あり、身心脱落の打坐とおなじからず。既得恁麼ならん、仏祖の行解相応なり。この念想観を保任すべし、この心意識を参究すべし。

 

正法眼蔵 三味王三味 提唱(八) 酒井得元

※原文

釈迦牟尼仏告大衆言、若結跏趺坐、身心証三昧。威徳衆恭敬、如日照世界。除睡懶覆心、身軽不疲懈。覚悟亦軽便、安坐如龍蟠。見画跏趺坐、魔王亦驚怖。何況証道人、 安坐不傾動。

しかあれば、跏趺坐を画図せるを見聞するを、魔王なほおどろきうれへおそるるなり。いはんや真箇に跏趺坐せん、その功徳はかりつくすべからず。しかあればすなはち、よのつねに打坐する、福徳無量なり。

※提唱

これは『大智度論』の七巻(「大正蔵」二五・一一一中)にある言葉です。原文通りじゃありません。道元禅師が解りやすいように文書を直されております。『大智度論』の言葉ですけども道元禅師はいつも釈迦牟尼仏のたまわくと言われています。

それでここでも釈迦牟尼仏、大衆に告げてのたまわく、結跏趺坐するがごときは、身心に三昧を証すと云っています。つまり結跏趺坐するという事は、私達の身心で三味を実証しているのです。三昧とはどういう事かと言うと身心の根本姿勢だ。こういったらいいな、三昧を訳しますと、正受、総持こういうふうに訳されてます。もう一度いいますと身心の根本的な姿が三昧だな。尽十方界の真実人体の本来の姿これが三味だ。つまり言うと私達の体、身心は宇宙でしょう。この宇宙のありかたを証してこれを実践したものだ。この事は大変なことですね。宇宙の真実の実証だからね、これ以上の絶対的なものは無いわけだ。だから威徳衆恭敬、威徳というのは身心が三昧を証した威徳だ。この威徳は自然の絶対性だ。これを皆尊ばねばならない。頭を下げざるを得ないじゃないか。

そしてそれは、日の世界を照らすが如し、まるで丁度太陽が、世界を照らしてるような偉大なものだ。だからして其れに対して、こういうような坐禅の姿をしなきゃならないじゃないか、そのような坐禅をしてこそ、この森厳さにたいして衆は自然と、頭を下げるのではないか、確かにそういうことありますね。

沢木老僧が昔ね初めて永平寺へ行った時に、まだ坊さんじゃなかったので永平寺では修僧としては入れません。断られたが自分は死んでも此処から帰らないというので仕方がない、ああいう所ですから男衆として置いてくれたわけだ。小間使いみたいに取り扱われておったのね。

その時に福井の町から東に行きますと竜雲寺という寺が有ります。その寺で開山忌か何かあったのね、それで人夫に頼まれて行ったわけだ。それであのうらめしい婆さんが居りましてね、それがうんと、こき使ったそうだ。ああせいこうせい、ああ茶碗を洗えこれ洗えとね。まあ一生懸命働いたそうだ。所謂小間使いだからな、それが終わつてああ今日はご苦労さんだった、休んでいいよとこういうことになった。昔私らもそうだったけども、布団部屋なんか入って寝たもんだよ。二十四時間ぶっ続きで寝た事あるよ。そんな時は起こされんから安心して寝れるよ。だからして姿が見えなくなったから、ああやってるなって訳で婆さん解ってる。それが何かの用事で座敷へやって来て、襖を開けたところ小僧座敷の真ん中で坐禅しとった。その時に婆さん、今までこき使って馬鹿にしとった小僧ですよ、その姿見て、ビツクリして南無釈迦牟尼仏、南無釈迦牟尼仏と、合掌礼拝をしたっちゅうもんな。それで坐禅というものは″何ぞあるぞ″ということを初めて知った。理由無しですよこれは。

だから坐禅というものには、本人がどんな思いで坐っていても、人が見るというと、そういう厳粛なものがあるということを初めて知らされたわけだ。これが沢木老僧が只管打坐の坐禅に入っていった一つの起縁に成っておりますね。ここでもこれと同じことですよ。

確かに坐禅してるところはそういう厳しいものがあるんですね。これは、坐禅が尊厳なものであり。その尊厳性をここで言ってるわけだ。威徳は衆の恭敬して日の世界を照らすが如しと。

それから次に坐禅を一生懸命やっておりますと睡懶覆心を除く。 一生懸命坐禅していましても眠くなることがある。叱られながら坐禅しておりますと、まあ目を開いているから自分を見つめる事が出来ているとしても。ところが眠ってしまったらお終いですよ、寝てしまったら三昧でも坐禅でもない睡懶だ。だからあくまで三昧を証した威徳の太陽の世界を照らすような坐禅をしなければならないわけだ。

だから身軽くして疲解せずという坐禅をしなければならないわけだ。坐禅は仕事したり物担いだりしてるのと違いますからね、坐禅は何かをしていることではありません。何もしておりませんから疲れるということはありません。

だから覚悟亦軽便なりという事です。この覚悟とはどういう事かと言うと、いろんな事が頭に浮かんできますね。この頭に浮かんで来るのが覚ですね。これも自然に浮かんで来る。何もしておりませんからね。野球なんかやっておりますと、集中力でもって玉が来たらひとつ打ってやろうと、一生懸命やってるでしょう。そうすると考え事出来ない、打つことに集中しなければいけないでしょう、あの連中は、一生懸命夢中にならなければいけないでしよう。のぼせだなあんなことせんでもええのにと思うことありますよ、ご苦労さんと言いたくなるね。坐禅はああいうことじゃないですョ。あ―いうような夢中になった気持ちじゃないんだ。これは、仕事してるからだ。坐禅は覚悟亦軽便なりで、そういう集中力をやってませんから静かな姿だな。ひとつ玉が来たらホームラン打つてやろうというのと違いますよ。うっかりしますと、坐禅もひとつ精神統一してやろうというようなことになると、間違いを起こすよ。そうではなく心身に三昧を証した結跏趺坐であればこそ覚悟亦軽便なりです。

安坐して龍の蟠(わだかま)るが如し坐禅している姿は非常に厳格であると同時に森厳なるものです。その厳しさは″龍の幡る″ようなものだ。よくこの言葉使いますよ。坐禅の姿は龍の幡るが如しという言葉はここから来ていたわけだ。

そうして跏趺坐を画くを見るに、魔王亦驚怖す。画に描いた坐禅の姿だナ。これを見ても魔王がびつくりする、恐れをなす。画でさえも魔王さんびつくりする。魔除けになるということだナ。

それで何に況や証道の人、本当に証道の人とは、この三昧の坐禅を実践してる人のことだ。結跏趺坐している人だ。

この証道の人は、安坐して傾動せざらんや、ごたごたしたりしない。傾いたりしないで、ただ安らかに″安坐″正身端坐をしていることじやないか。この言葉は大事な言葉ですよ。この一節は坐禅に対する説明において、こんな良い説明のものは有りません。『大智度論』の言葉です。次にこれについての道元禅師の垂示が、

しかあれば、跏趺坐を画図せるを、見聞するを魔王もなほおどろき、うれへおそるるなり。

だから坐禅の姿は魔除けにもなるわけだ。人間のい云う魔って大したことないや、悪魔なんかな魔除けなんか本来ありませんョ。迷いなんか本当は無いもの。

いはんや真箇に跏趺坐せん、その功徳はかりつくすべからず。しかあればすなわち、よのつねに打坐する、福徳無量なり。

坐禅するということは福徳無量を実現していることですね。福徳無量、つまり福徳が無量に現成していることでこの場合には、仏道から申しますと福徳そのものが跏趺坐ということです。福徳無量を実践していることで御座います。これは大変有り難いことですね。こんな縁起のいい話はないな。しかしこの福徳とは、あなたに腹一杯御飯を食べさせる事でもない。大いに儲かることでもない。又病気が全部治るということでもない。そんな福徳ではない。そんなことはどうでもよいのです。とにかく私達は、真実に生きるということが福徳ということです。人間の虫のいい願望が福徳ではありません。そのへんに目を開いて頂きたい。

 

正法眼蔵 三昧王三昧 提唱(九) 酒井得元

※原文

釈迦牟尼仏告大衆言、以是故、結跏趺坐。

復次如来世尊、教諸弟子、応如是坐。或外道輩、或常翹足求道、或常立求道、或荷足求道、如是狂狷心、没邪海、形不安穏。以是故、仏教弟子、結跏趺坐直身坐。何以故。直身心易正故。其身直坐、則心不懶。端心正意、繋念在前。若心馳散、若身傾動、摂之令還。欲証三昧、欲入三昧、種々馳念、種々散乱、皆悉摂之。如此修習、証入三昧王三昧。

(復た次に如来世尊、諸の弟子教えたまわく、応に是の如く坐すべし。或いは外道の輩、或いは常に翹足して道を求むる、或いは常に立ちて道を求むる、或いは荷足して道を求むる、

是の如きの狂狷心は邪海に没す、形安穏ならず。是を以ての故に、仏は弟子に教えたまわく、結跏趺坐し直身に坐すべし。何を以ての故に。直身は心正し易きが故に。其の身直坐すれば、則ち心は懶ならず。端心正意にして繋念在前なり。若しは心は馳散し、若しは身は傾動すれば、之を摂して還らしむ。三昧を証せんと欲い、三昧に入らんと欲わば、種々の馳念、種々の散乱、皆悉くに之を摂すべし。此の如く修習して、三昧王三昧に証入す)

提唱

前段を承けて『大智度論』七巻が続きます。

釈迦牟尼仏、大衆に告げてのたまわく、是を以ての故に結跏趺坐す」と大衆に告げられてから″この故に結珈映坐す″と実際に坐禅して‥‥応に是の如く坐すべし、と外道の輩の苦行によつて道を求めることへの誤りを示して、正しい王三昧の坐禅が、如何にあるべきか教示下さつています。

‥‥或いは外道の輩、或いは常に翅足して‥‥常立して‥‥荷足して道を求むる。是の如きの狂猾の心は邪海に没す。その当時、インドではこのような苦行をするのが沢山いたのですね、今でもいるそうですよ。これは外道の輩です。 ″翅足″といつて足の親指を逆に立てて変なふうにして立ってる。これは正常な姿勢ではないですよ、異常な無理なことをやってこれが求道だと思っている。又″常立″というのだから、決して横にならずに立ちっぱなし″或いは荷足して道を求む″と、足を担ぐような格好をして立ってる。見たことありませんけども要するに苦行者のことですね。いろんな苦行があるわけだ。つまり云う処の苦行というのは、身体を痛める事だね、これを″狂狷の心″といわれてますね、″猜″とは片意地を張ることで、こんなことをすると″邪海に没す″とはっきりいわれている訳だ。何故かというと形、安穏ならずと正常じゃないものね、異常ですよ、だからこの苦行の姿勢というものは決して安穏、安らかなものではない。人間の身体というものは、左右上下全体に調和がとれております。それをわざわざ変わった事をする。人間という者は苦行だとか、荒行だとか云って、あんな風になっちゃうもんだ。それが道を求める修行と心得ちがいするのだから哀れなもんだ。この前、私は広島県呉市へ行って来ましたら、山の中に洞穴が有りましたよ。そこは或る教祖さんが断食苦行した所だそうだ、中に入ってみましたよ、何てことな

いや、 ″邪海に没す″というような思いがしましたよ。そもそも″邪″というのは自分勝手、自己中心、有我に没した我が儘ものの事を言いますね。前に言った私の言葉で言いますと「我が儘の暴走族だなア」、人間はこれを悟りを開いたとか神通力を得たとか、霊能者になったとかいうのだから注意しないと。これは、のぼせ、かぶれ、狂ってるというのだナ。 ″邪海に没す″と″安穏ならず〃とはつきり間違いだと御説きになつているわけだ。

是の故に仏は弟子に結跏趺坐直身の坐を教えたもう。と直身というのは真っ直ぐに坐る正身端坐のことを言ってるのです、これが一番バランスのとれた正しい姿なんですよ。と申しますのは、足を組んで坐っていますから、重心が低く最も安定しています。二本足で立っていることはアンバランスでそれだけで疲れますよ。他の動物は四本足でしょう、彫刻も足は台にくっ付けていないと立てませんよ、くるくる回っている独楽は中心を定めてバランスよく立っていますが、あれは感心しますね。地球の垂直に合わせたバランスのとれた、いわゆる調和のとれた姿勢というものは変わらない真実の事だ。そういうわけで、直身に結跏趺坐している事は、最も定したバランスのとれた真実なことです。身体上からいっても大変合理的なことだ。静かに動かずに坐っているのだから、酸素も少なくてよく、呼吸も調い、脈拍も落ち着いて、身体全体が大自然のリズムとひとつになって調って安らかとなり、つまり安穏で穏やかになる。あなたの本来の面目というんだろうな―。

何を似ての故に。直身は、心正し易きが故に。其の身直く坐すれば、即ち心、懶(ものう)からず。だから今ここで説かれる結跏趺坐は正身端坐、直身をやかましく言います。道元禅師の、永平寺坐禅も正しい姿勢は厳しくい言われます。私が臨済に行ってるきは、正身端坐はやっちゃいなかったね。だいたい坐蒲が無い、あぐらかいてりやいい、握り飯を手で抱えているように坐っていても怒られたためしがない。″龍の幡る″が如くピーンと坐っている事はいけない。真っ直ぐ坐っちゃ公案考えることは出来ない、「考える時は考えるような顔しろ!」ということで、直身、正身端坐はありません。次の独参で何を言ってやろうかウンウン‥‥と。″直身は、心正し易きが故に。〃心を正すという心とは、身体の調子の

ことですね、この私達の身体の生命活動を正常で安易に穏やかにすることは正しい直身になることが、心を正し易くすることです。先にも重ねて申した通りです。私達の身体は、調和がとれリズミカルであることが大切なことです。変な雑音を長いこと無理に聞かされたり、生活のリズムを乱されると、頭が痛くなり、体調が狂い、、全身体が乱れて病気になるでしょう。憶えがあるでしょう。仕方がないなア……次に、″其の身直く坐すれば、即ち心、懶からず。″と、つまり身が直く調えられていれば、心は乱されない、これ身体が真っ直ぐだからだ。だから余計な浪費が少ないわけで、ストレスも溜まらないわけだ。″懶″とは気がとぼしいと云う事で、ここでは、〃ず″と否定してるので反対に、気力に満ちるということです。

次に端心正意にして繋念在前なりと″端心正意″とは心意識の正しい状態のことで、どういうことかと云いますと、″繋念在前″心の働きをそのまま″在前″ということはつまり前に在るままにしておくことで念以前ということ、心意識が起きてもそのままにしておけということだ。行動に移さないで、心の動きを起きっ放しにし、そのままにしておく。私達は頭の中に様々な、(思い、心、念)が起きます。次に、こうしようああしようと、次々に念いが続いて起きます。その念いを動機として、仕事を始める。例えば顔を洗うのも、洗うとおもい付かないと顔洗いません。思い付くから洗面所まで行って顔を洗うでしよう。″繋念在前″ この思いをそのままにしておけば、消えてゆく、そのままにしておくことが″在前〃ということだ。行動以前だ、繋念在前を保つことが不染汚の行だ。それを何か一つしでかしてやろうという事から、染汚を始めてしまう。しかし、だからと云ってそういう思いが全然解らなくなってしまった時は眠ってしまった事だ。これはだめで、それこそ何とか以前だ。注意しなければならない。剣道やっていて、相手の剣がどこに来るだろうか、そればかりに気にし過ぎて、こだわりになってしまうと「小手一本!」と取られてしまう。前にも出て来たように集中力が三昧ではない。これなんか良い例だろうなア。

続いて若しは心馳散し、若しは身傾動せば、之を摂して還らしむ。と″馳散″という事は、あれこれ心の中で考え過ぎる事だ。つまり言うと思索することだな。今も、眼蔵終わったらあれやらねばならんとか何とか、いろいろ空想してるんじゃないかナ。

次に″身傾動せば、″という事は、坐禅していると、足が痛くなる、そういう念が起きて来ても構いません。それに引きずり回されたり、乗っかったり、追いかけたりしない事が不染汚だ。辦道とは努めることでもある訳だ。禅者の努力はこれだ、そのまま黙って坐る。或る一つの状態に意識的に入って、例えば数息観とか、他の念想観をしたりする事は堅く戒められています。ただ只管打坐することだ。″之を摂して還らしむ。〃と「摂」という字は、おさめる、ととのえる、ただす、という意昧の通り元々の本来の面目に戻せばいいんだ。それが参禅辦道という事ですよ。不染汚の修証というのはこういう努力だ。

三昧を証せんと欲い、三昧に入らんと欲わば、種種の馳念、種種の散乱、皆悉くに之を摂す。と先ず″三昧を証せん‥三昧に入らん‥″とは只管打坐をすることだ。只管打坐の坐禅中でも、″種種の馳念、散乱″があれこれ頭に浮かんできますよ。そういうことがあっても″皆悉くに之を摂むべし″と又ここで″摂す″ べしといわれています。念いに馳せたり、心が散々に乱れても、本来の姿に正して、調えて、おさめなさいと重ねて言われている訳だ。否定する事じゃありません。妄想を袋の中に入れてしまうような事かな。この野郎出て来やがったな。と歯をくいしばって頑張って相手にして闘争するような事はしない。私に言わせれば皆これは一人相撲だなア。摂めて発展させない、消えてゆくままにする。先に出て来た″在前″そのまま前に起きたままにしておくことだ。大津波だって、自然におさまるものだ。ノイローゼ患者の顔見てるとくたびれた顔してる。彼はノイローゼを治したいと追いかけるから疲れてくたびれちゃうんだな。病は病に任せておけばいいんだがなア・‥。良寛さんも「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候」といっているじゃないか。道元禅師の伝える坐禅には無理は一切やっちゃいけない。本来の面日、本来の真実人体のままに任せ切ることです。下手な頑張りは要りません。

ここまで御説きになって最後に此の如く修習して、三昧王三昧に証入す。と結ばれています。三昧王三昧″は只管打坐することで御座います。只管打坐をすることが三昧王三昧です。こういうふうに只管打坐することが三昧王三昧を″此の如く修習して、三昧王三昧に証入す。″ということです。つまり云いますと、三昧王三昧を″修習″し、三昧正三昧を″証入″することは尽十方界真実人体の真実を実践することです。つまり私達の大宇宙いっぱいの生命の真実を、実修、実証する事実が三昧王三昧ということです。心境じゃありません。

 

正法眼蔵 三昧王三昧 提唱(一〇) 酒井得元

※原文

あきらかにしりぬ、結跏趺坐、これ三昧王三昧なり、これ証入なり。一切の三昧は、この王三昧の眷属なり。結跏趺坐は直身なり、直心なり直身心なり。直仏祖なり、直修証なり。直頂なり、直命脈なり。いま人間の皮肉骨髄を結跏して、三昧中王三昧を結跏頂□(寧+頁)するなり。世尊つねに結跏趺坐を保任しまします、諸弟子にも結跏趺坐を正伝しまします、人天にも結跏趺坐ををしへましますなり。七仏正伝の心印、すなはちこれなり。

※提唱

以上によりまして『大智度論』第七が一段落して、道元禅師の本文が始まるわけです。

此の如く修習して、三昧王三昧に証入す。を承けて

あきらかにしりぬ結跏趺坐、これ三昧王三昧なり、これ証入なり。と垂示して下さっています。 つまり私達が結跏趺坐することは、三昧王三昧を実証していることだ。だからしてこの事を″証入なりという訳だ。一般的な言葉で云うと悟りと言うことでしょう、私は悟りというよりは″証入″のほうがいいなア、実は悟りという言葉は日本語で、専門的には日本に入つてから翻訳しただけだ。悟りと言いますと何だか心理的なことのように受け取られていますが、心理的なことでは御座いません。心情ではないですからネ、内面的な感情というようなものではない。「自受用三昧」で「覚知にまじわるは證則にあらず。證則には迷情およばざるがゆえに‥…」といっておられます。

続いて一切の三昧は、この王三昧の眷属なり。つまり言うならば、三昧にあれこれあるが、三昧中の王三昧は結跏趺坐であって、この坐禅が最尊、最上、この上なき三昧の中の王三昧で、いわゆる王様の位にあたる三昧だ。他は、その眷属であり、属するものだとおっしゃっているわけだ。こう云うと王三昧とは難しいようですけど、王三昧というのは、私達の体全体が宇宙一杯に生かされている事実を実証しているのが坐禅で結跏趺坐する事です。王三昧ということが如何に重要、重大なことであるかと云う事を肝に命じておいて頂きたい。

道元禅師の坐禅は、内面的な心境の問題じゃない、結跏趺坐をして頂く事だ。その結跏趺坐というのは、どういうことかというと正身端坐ということだ。次に出てくるが、正身端坐という言葉は『永平広禄』あたりから盛んに用いられますけども、この『三昧王三昧』の時分にはまだこれは寛元二年ですから1244年で、吉峰寺に入られた時分ですから、正身

端坐はあまり使われておりませんが。次に出てくる結跏趺坐は直身なりの「直」は正身ということです。

結跏趺坐は、直身なり、直心なり、直身心なり、直仏祖なり、直修証なり。直頂□(寧+頁)なり、直命脈なり。

つまり結跏趺坐は、そつくりそのままが身そのものでもある。こういうふうに読んでみると解りますね。同時に仏祖そのものでもある。昧わい深いですねこうやってみると、結跏趺坐は、そのまま直修証なり、そのまま直頂□(寧+頁)なり、頂□(寧+頁)というと頭の天辺で高いということですね、それからそのまま直命脈なり、生命そのものでしょう。頂□(寧+頁)は仏さんと考え、如来さんそのものであると受け取るといい。気分の問題じゃないぞこれは、そういうふうに確信することだ。我々は結跏趺坐をどこまでも一生懸命努力することだ。そこで我々は形ということが非常に重要なことになる訳ですよ。

姿勢という事は、大事ですよこれは、我々の頭の働きというのは姿勢によつて定まるもの

で、逆に思いや考えがその人の姿勢を変えていくものです。よく考えて下さいよ。その頃の宗門では坐禅の姿勢のことあまり喧しく言わなくなつててネあの時代、それで沢木興道老師が、坐禅を盛んにした時分に、この『正法眼蔵』によって老師は正身端坐ということをネ非常に大事にした。そうして直身を大切にされた。

私は初めて伊豆の修善寺に安居した時、坐禅で正身端坐ということは知らなかった。正身端坐ということは全然考えてもいなかったナ。坐禅は要するに足を組めばいいとだけ考えてた。正身端坐を特に教えられなかった。旦過寮に入った時も、あぐらかいてると怒ってネ、客行和尚がやって来そうになると足を組み直してし知らん顔してたヨ、慣れないから足が痛いもんナ、うっかりしてると見つかって警策で殴られる。しかたがない運が悪いと思ってあきらめたヨ。そういう事で坐禅というものはただ足を組むものとばつかり考えとった。正身端坐ということが重要な事とは気が付かなかった。

それから後のことだが沢木老師のところ大中寺の天暁禅苑へ行ってみてびつくりした。というのは来る人来る人が非常に姿勢がいい。老師が直々に直されているから姿勢がいいわけだ。それから老師の話の中でも老師は坐相のことをよく言っていた。又老師は久留米市のセンエイ寺という寺で初めて参禅会を頼まれて行ったわけだ。或る時或る老僧が来とった。それが後で非常な深い縁を結ぶこととなりました、博多の明光寺の山本祖学という方だ。老師は、明光寺、駒沢大学総持寺、とつながっていったわけですから、その人が沢木老師の正しい坐相を見てびっくりしたという。

正身端坐は、姿勢を正しくすることが大切な事だと、坐禅というものは姿勢が正しくなき

ゃいけないなということを初めて気が付いたというな。これは、大変な発見だよこれは、『三昧王三昧』の巻を本当に読んどったら解るはずだけどネ、うっかり読んどったんだろう。

これは、坐禅、王三昧、結跏趺坐にとって大変大事なことですよ実は、この姿勢を正しく保つというこ事を努力することが結局坐禅の骨髄になるわけだ。

姿勢が乱れてしまうと、いろんな事を考えてしまうことになる。ああでもないか、こうでもないかとやらかすよ。つまり功夫辦道ということは姿勢を乱さないように努力することだ。これが辦道ということで一番大切なことだ。これが全てと言ってもいいな。

いま人間の皮肉骨髄を結跏して、三昧中王三昧を結跏するなり。

つまり皮肉骨髄を結跏すると云うことは皮肉骨髄つまり体全体総てで修証することだ。全部だよ、足だけの結跏じゃない。坐禅は、体全体で結跏することなんだ。私は若いころはじめ足は組むだけだと思ってたことがあったよ。実は三昧中の王三昧を結跏すること。つまり王三昧は直身心に体全体で正身端坐することだ。

世尊、つねに結跏趺坐を保任しまします。諸弟子にも結跏趺坐を正伝しまします。人天にも結跏趺坐をおしえましますなり。七仏正伝の心印、すなわちこれなり。

お釈迦様は何時でも結跏趺坐という事をおつとめなさっておられた。私達もこれを失わないよう何時も努力しつづけなきゃならない。それでお釈迦様はお弟子さん達にも結跏趺坐ということを正しくお伝えになつた。

禅宗禅宗と言いますけどもね、他の禅宗にはこういうふうに結珈趺坐ということを、これほど強調して示していない。結跏趺坐を正しく伝え教えられているのは、道元禅師の坐禅です。そのへんをよく知って肝に銘じて置いて頂きたい。そして天上界の天人にも、結跏趺坐をおしえましますといわれております。

七仏正伝の心印とはどういうことかといいますと、印とは判子のことで、 つまり証明しているということだ。過去七仏から証明し続けてきたのだとおっしゃっているわけだ。七仏正伝の心印すなわちこれなり。これは何かというと三昧王三昧の結跏趺坐です。理論じやありません。

 

正法眼蔵 三昧王三昧 提唱(十一) 酒井得元

※原文

七仏正伝の心印、すなはちこれなり。釈迦牟尼仏菩提樹下に跏趺坐しましまして、五十小劫を経歴し、六十劫を経歴し、無量劫を経歴しまします。あるいは三七日結跏趺坐、あるいは時間の跏坐、これ転妙法輪なり。これ一代の仏化なり、さらに虧欠せず。これすなはち黄巻朱軸なり。ほとけのほとけをみる、この時節なり。これ衆生成仏の正当恁麼時なり。

※提唱

「七仏正伝の心印、すなわちこれなり。」

七仏″とは過去七仏のことです。過去七仏とは、毎朝の朝課の祖堂諷経で唱えている釈迦牟

尼仏大和尚より前に唱えている毘婆戸仏大和尚から迦葉仏大和尚までの七仏の仏祖方のことです。仏教では、大恩教主と呼ばれることはありますが、教祖とか開祖とは呼びません。無限の過去から今世の仏陀が出世されるまで、既に仏法という正法はあつて、正しく伝えられているのが仏教の教義です。このことをよく踏まえて修行しておいていただきたい。

ここで″心印〃とは、仏心印とも言いますが、印とは印鑑のことです。何度押しても同じですから、正しく法が伝わることを表しているわけだ、判子のことですかネ。いわゆる証明されているということだナ。

続いて″すなわちこれなり。″とありますが″これ″とは何か。前に″これとは何かというと、三昧王三昧の結跏趺坐です。″と言っておいた通りですが、次の文を読んでみると、

釈迦牟尼仏菩提樹下に助映坐しましまして、五十小劫を経歴し、六十劫を経歴し、無量を経歴しまします。」と続いていますからここでいう″これ″とはしたがつて″菩提樹下の跏趺坐″のことですネ。跏趺坐とは、結跏趺坐のことで、菩提樹下の金剛坐上で坐禅したことを言ってます。このことはお釈迦様の教えの仏教にとって、最も大切なところですよ。出家されて苦行する後の話ですが、前にも出て来て話しましたので少しだけ触れておきますが、お釈迦様は、出家されて初め前正覚山の苦行林で五比丘達と一緒に苦行をされた。端坐六年の蹤跡ですネ、あの痩せ細った姿が像になって伝わっているように、死ぬ一歩手前までそこまでやった。そこまでやつたから、その苦行の何たるかに気が付いたんだナつまり苦行というものは、目的を持って、身の汚れを断つだとか、清浄なる悟を得るんだとか、目標を立て、それを果たす為には、身体はどうなってもかまわん。 一番大切な肝心なことを忘れてしまつていたんだナ。気が付いて、苦行を止められた。お釈迦様は山を下りて尼蓮禅河で身を浄め、村の娘の粥の供養を受けて、体力を回復してブッダガヤの菩提樹の本の下まで歩いていって、坐禅を組まれた。ここが本文に出てくる″菩提樹下に跏趺坐しましまして″というところになるわけだ。今、菩提樹下の金剛坐上に、結跏趺坐をしたということは、苦行の趺坐とは、同じ足を組んで坐ったとしても、向かっている方向が違う、次元が異っているわけだ。いわゆる、この坐禅は、七仏正伝の坐禅であり、無所得、無所悟の坐禅、三昧王三昧の結跏趺坐であり、いわゆる、只管打坐になつていくわけである。

次に続く文章を見ると〃五十小劫を経歴し、六十劫を経歴し、無量劫を経歴しまします。

″劫″という語は、長い時間の経過のことで、宇宙の生滅のくり返し程の長い時間の単位です。何々光年とでもいうものですか。芥子劫の説と、盤石劫の説とありますが仏教辞典で調べといて下さい。この″劫″が、五十、六十と重なり無量劫ということになると、無限大の長い時間のことになり、無量無辺という言葉もありますが、時間空間を超越した、その事柄の内容規模の大きいことを表していると受け止めるといいですネ。 つまり、坐禅というものが、かくも偉大なる規模のことであると理解するといいだろう。

〃経歴(けいりやく)しまします。″といつているが、ただ経過したということよりも意昧を持たせて使っている語句で、歴史的重みを持たせた、時間の経過であるというところだナ。これ程までに長い時間の経歴であるといつてますが、実際はどうかといいますと、次の文章を見て下さい。

「あるいは三七日、あるいは結跏趺坐、時間の跏坐、これ転妙法輪なり、これ一代の仏化な

り。さらに虧欠せず、」と、前の文章の続きとしては問題になりそうな一文がありますが、まづは″三七日″とは三×七の二十一日間のこと、〃時間の跏坐″とは一時の短い時間という意昧です。しかも、この短い時間の坐禅が″転妙法輪なり〃と妙法輪を転じているのだといつてます。大法輪という語はよく知られていますが、あの出版社の大法輪社もここから取つたんだろうなア、あたかも、太陽が輝いて光を照らして仏法を転じているようだというところかナ。 ″これ一代の仏化なり。″このことがお釈迦様の一生一代、八十年の生涯は″衆生成仏なり〃衆生の教化であつたのだと、言い切っており、″さらに居欠せず、″と重ねて念を押していわれています。虧欠(きけつ)とは欠けたところがないという語で、すなわち、欠けることのない完全なる真実なのだと断言しています。

菩提樹下の坐禅は、無量劫来の長い時間の経歴であるといわれて、続いて、二十一日間のひと時の坐禅であると反対のことを言われ。つづいて以上のことは、転妙法輪であり、 一代の仏化であると断しています。理解しにくい、話でもあります。

実は、仏教の説く本懐は、無量劫の昔から、今日に到る現在、そして未来永劫の先まで変わることなき、仏の実在を説いている。

伝灯歴代仏祖七仏の話にしても、迦葉仏大和尚から釈迦牟尼仏大和尚までが、 一宇宙が生まれて滅し又生まれる、ビツクバンの話は今はよく知られていますがそんな長い時間のことをいい、その七倍の長い時間とは、永遠無久の時間を越えた、宇宙の真実を物語つているわけだ。今この菩提樹下の金剛坐上の坐禅の規模が、尽十方世界の真実なのだといつてるわけだ。

五十小劫、六十劫の出典は、『法華経』従地涌出品第十五。序品第一の語句だが、法華経は、″久遠実成の本仏、一乗仏″の一貫した物語で、ここもこの金剛坐が、久遠すなわち、永遠、絶対の不壊なる実在の真実であることを言い表しているわけで、だから″転妙法輪″と、一代の仏化、衆生成仏″といわれているわけだ。道元禅師の真意が力強く伝わって来る大切な所であつたわけだ。

こんなところで次に行きますが

「これすなわち黄巻朱軸なり。ほとけの、ほとけをみる、この時節なり」法華経』が出て来たので、経典のことになるわけだ。仏教の経典のことを″黄巻朱軸″といいます。何故、黄巻朱軸かといいますと一つの話があります。仏教がインドから中国に伝播した時、中国の道教の人達が外来のものだから排斥した。仏教が入って来るのを反対した訳だ。そこで時の政府が一つの試みをした。道教の経典と、仏教の経典を、 一緒に積み上げ、それに火を付け

たそうだ。坊さんは頭がいいからちゃんと水で濡らしておいたそうだ。だから道教の経典の方はすぐに燃えてしまつた。ところが仏教のお経は燃えずにクスンだ色になつただけで済んだ。それで一応決着がついて、中国に仏典、仏教が伝わったとされている。これは仏教の人達の側の話ですがネ。まあ、それで燃えなかったということで信用を勝ち取って仏教が中国に伝わったという物語がありますョ。それで、お経に黄色い紙が多いわけですが、まだ虫が食べないようにした紙の製法の話もありますが……

「ほとけの、ほとけをみる、この時節なり。これ衆生成仏の正当急蕨時なり。」私達が、坐禅をするということは、〃ほとけが、ほとけをみる″ということだ。『唯仏与仏』の巻がありましたが、仏が仏を見るということは、坐禅の内容のことですネ。

坐禅は自己の正体なり、ということも言われています。沢木老僧も、 〃自分が自分で自分する″と言っていますが、よく言い当てている言葉ですネ。仏なる自己が、自己なる仏を実践しているのが坐禅することであったんだ。他人の真似をすることではないぞ。

この段の締めくくりになりましたが、 ど」れ衆生成仏の正当恁麽時なり。〃と結んでいます。我々の成仏というのは死んで棺桶の中に入ることではない、 ″あアあの人成仏した″なんて云ってるのは、あれは成仏じゃないんだなア。ここでいう本当の成仏とは、道元禅師がおっしやる″衆生成仏″とは、只管打坐、直身の結跏趺坐することです。そのことが″正当恁麽時″で御座います。この一言がいいたかつたんだ。私達の信仰は、只管打坐に努め精進することであったのです。 

 

 正法眼蔵 三昧王三昧 提唱(十二) 酒井得元

※原文

初祖菩提達磨尊者、西来のはじめより、嵩嶽少室峰少林寺にして面壁跏趺坐禅のあひだ、九白を経歴せり。それより頂□(寧+頁)眼睛、いまに震旦国に遍界せり。初祖の命脈、ただ結跏趺坐のみなり。初祖西来よりさきは、東土の衆生、いまだかつて結跏趺坐をしらざりき。祖師西来よりのち、これをしれり。しかあればすなはち、一生万生、把尾収頭、不離叢林、昼夜祗管跏趺坐して餘務あらざる、三昧王三昧なり。        正法眼蔵第六十六

爾時寛元二年甲辰二月十五日在越宇吉峰精舎示衆

※提唱

初祖菩提達磨尊者、西来の初めより、崇岳少室峰少林寺にして面壁跏趺坐禅のあいだ、九白を経歴せり。

この度の『正法眼蔵 三昧王三昧』の巻の締めくくりの段が前章の釈迦牟尼仏に続いて初祖達磨尊者で結ばれているのも、道元禅師の深いお心が伝わってくるところです。先ず″初祖″とは、西天中国から最初に正伝の仏法である坐禅、結跏趺坐を、東土中国に伝えられた菩提達磨尊者、いわゆる、達磨大師のことです^達磨様のことはご存じの通りですが実は歴史上、文献もはっきりしておらず、他に同名の人物も居たり、異説も多く通説が定まらないまま、その本当の正体がはっきりしないところがあります。それだけに数多くの物語が伝えられており画材にもこと欠かない人物です。しかしながら私達の禅門の初代祖師であることには異論のない方で、もっとも尊ばれて然るべき仏祖であるわけです。インド南天竺香至王の第三王子として誕生し、幼名は、菩提多羅とよばれていました。

西天仏祖二十七祖般若多羅尊者に四十年侍して第二十八祖となり、師の命により中国に渡来して、いわゆる西来して、仏法を弘通したが梁の武帝との相見に機いまだ熟せずと、崇山少林寺に面壁九年された。人は時に″壁観婆羅門〃と呼んだと伝えられている。そこへ 二祖となる慧可大師が道を求めて、雪の山中来たって断臂の誠を尽して心印をゆるされた。衣鉢と『楞伽経』を与えられたという。有名な伝法の偈を紹介をしておくと″吾本来茲土・伝法救迷情。一華開五葉。結果自然成。″この偈を残してイ

ンドに帰ろうとするが、兎門の千聖寺で西暦五528年、大通二年十月五日(異説あり)、入寂した。後に唐の代宗が円覚大師の号を論なされた。時に百五十歳だったと云う。『少室六門集』『達磨禅師観門』『菩提達磨四行論』『達磨真性偈』『無心論』『観心論』などの語録が伝えられてはいるが、先に述べた通りである。簡単に略伝を云ったが『宏智頌古』『従容録』第二則に、達磨廓然の話は宗門の安居結制の法戦式でよく知られた通りである。

ところで面壁坐禅という″面壁″ということで私達の道元禅師の坐禅では、この面壁坐禅が普通のことで何も不思議に思うことはありません、そのように伝え受け継がれていますからね。ところが臨済宗黄檗宗もそうですが″対坐″をしますよ。壁に背を向けて前を向いて坐禅をしてます。このことを、あの鈴木大拙さんが不思議に思つたらしく何かの文で読んだことがありますが、まあ初体験の坐禅が対坐だったんでしょうが、私も昔、このことについて無著道忠のものに目を通していたとき『小叢林略清規』の解説だったと思いますが「‥‥この頃、うちの宗旨(臨済宗)では面壁坐禅が全然なくなって忘れられてしまっている、残念なことだ。……これは黄檗宗の影響だろう‥…」と書いてましたよ。本来、初祖菩提達磨尊者の正伝の坐禅は面壁跏趺坐禅であることが伺え知れる話です。したがって道元禅師の時代、坐禅は皆、面壁坐禅であったに違いない。

日本の禅の歴史をみると鎌倉時代、その後の室町時代以後、戦国の乱世には禅は闇黒時代と云われ、坐禅が無くなり断絶していたのではといわれています。『正法眼蔵』も顧みられることなく、この時代の文献、人物もあまり伝わっていません。そして時代が経過して江戸時代。徳川時代、それも後期になると『正法眼蔵碩学、宗師家も多く現れて、坐禅も盛んにされるようになったと云う事情もあったようです。坐禅の建物の方で見てみると、坐禅堂の日本で一番古いものは、京都の興福寺に残っておりますが、あの坐禅堂も実は基本的に清規に照らして良しとする、七堂伽藍の僧堂といわれるものではありません。いわゆる坐禅堂ですね。もともと本堂と使って居ったものを坐禅堂にしたと云われています。その後、江戸後期になって黄檗宗隠元禅師が渡来して万福寺が建てられて、各禅宗が禅堂を造りはじめたわけだ。宗門では本山永平寺は別格で、代々正しい七堂伽藍が守られてきましたが、古い坐禅堂というのは宇治の興聖寺の僧堂です。深草の旧興聖寺ではなく、今の興聖寺のことだからずつと後代のことですね。坐禅堂、僧堂と云いましても、私達道元禅師門下には『永平清規』という確かなものが伝えられております。これが宗門のありがたいところだ。ですから修行の根本の規りが『永平清規』によってしっかり定められ正しく伝えられております。ですから儀式一切から食事作法、洗面、洗浄日日の行事が滞りなく日分月分年分と、如常に行われて来たわけだ。

それに比べて、私が久留米市の梅林僧堂に居りました時応量器は使っておりませんでしたよ、仏前に供える御霊膳は所謂応量器でした。あの中に匙と箸と刷(せつ)が付いております、箸と匙はよく解るんだが、ところが刷が何だか誰も知らない。私は日常使っておりましたからよく知ってましたよ、こういう風に使うものだと教えてやつたら感心してましたね。

それで、解るように本当の禅の修行、古いところを伝統的に受け継がれているのは、道元禅師の門下に正しく伝えられております。というのも『永平清規』のおかげです。有難いことです。伝統が正しく伝わるということは、坐禅においてもその通りだ、面壁坐禅ということも間違いなく受け継がれてきたわけです。

それより頂□(寧+頁)眼晴、いまに震旦国に遍界せり

″それより″とは達磨さんが正しい坐禅を″西来〃してより以後ということです。以後と以前の違いははっきりしておかなければならないことで後の文章でも出てきます。″頂□(寧+頁)眼晴″ この巻のめに出てきましたが頭の頂上、眼の玉とは、全体、一部分のことではない生命つまり、死にものではない無上の真実態そのことですね。坐禅の真骨頂、坐禅の真面日と云ったらいいでしよう。

″扁界せり″今ここ震旦国すなわち中国大陸の全域に遍く弘く繁栄しているということを云っているわけだ。道元禅師が修行していた頃の中国はまさに坐禅宗が五家七宗と遍く全土に弘がっていた時代です。

初祖の命脈、只結跏趺坐なり。初祖西来よりさきは、東上の衆生、いまだかつて結跡映坐を

知らざりき。初祖西来よりのちこれを知れり。

″初祖の命脈″と出てきましたが、前に″直命脈なり″と有りましたね、前にもどって本文を読んでみますと″あきらかにしりぬ、結跏趺坐、これ三昧王三昧なり、これ証入なり。 一切の三昧はこの王三昧の眷属なり。結跏趺坐は直身なり、直心なり直身心なり。直仏祖なり直修証なり。直頂□(寧+頁)なり、直命脈なり。″「直命脈なり」とありますネ前回のところですがどこを読んでいるか解りましたか―――。 ″直″をそつくりそのまま、そのものと言っておきましたね、

ところで達磨さんの伝える〃命脈〃とは生命、そのままのことです″脈″とはず―と続いてきた伝灯、繋がりが続いてきたということです。したがって前文の〃頂□(寧+頁)眼晴″の意昧する内容も″命脈す″も同じことを繰り返し強調しています。

この達磨さんの命脈は、西来より以前は東土中国の人々は知らなかったことで、西来より以後はじめてこの事実を知ったことなのであると、達磨の偉行を讃えているわけだ。であるのだから三昧王三昧の結跏趺坐、正身端坐、只管打坐はかくあるべきものだと、この巻の最後の結びとして強く断言しています.

しかあればすなはち、一生万生、把尾収頭、不離叢林、昼夜祗管跏趺坐して餘務あらざる、三昧王三昧なり。正法眼蔵第六十六 爾時寛元二年甲辰二月十五日在越宇吉峰精舎示衆

であるのだから三昧王三昧の結跏趺坐を生まれ変わり万生にも行じ続けることでございます。全身心をもつて排道精進し続けることでございます。直心是道場の言葉がありますが、修行道場を離れないことです。五祖さまの唯務坐禅のみなりの言葉がありますが餘そごとをせずただただ坐禅を務めてゆくことでございます。これが三昧王三昧なのであると。

これで『正法眼蔵』三昧王三昧、第六十六、ということにします。爾時、寛元二年甲辰、西暦1244年、道元禅師四十四歳の御歳。吉峰精舎において大衆に垂示す。とあります。

三昧王三昧(終)

 

この提唱録は福井県吉田郡永平寺町松岡春日1―64 清涼山 天龍寺が発行する季刊誌「枯木」に記録されたものを、二谷が編集したものである。「枯木」誌からワード化した為に原文とは多少の相違が生じた。     

 

 

酒井得元 提唱 袈裟功徳

正法眼蔵 袈裟功徳 提唱(一)酒井得元

 

※原文

「義雲頌著」第四十一袈裟功徳 非色非空。霊山付属線連金、火不曾焼一提不起。

此土西天何隔針、古今苗秀福田地。

※提唱

今回から『袈裟功徳』の巻に入つてまいります。此の袈裟というのは前の巻に『伝衣』の巻というのがありました。『伝衣』の巻においてお袈裟のことについては述べられておりますけども、「十二巻本」の方の第二番目がこの『袈裟功徳』の巻で御座います。『袈裟功徳』の巻において徹底的に袈裟の意味をお説きになつておられます。何故袈裟ということをお説きになつているかと申しますと、その『出家功徳』の巻にこういうことが御座いましたね、剃髪染衣、頭を剃って袈裟を掛ける、これは涅槃の因に因せられる。剃髪染衣ををしなかったならば本当の仏道修行は出来ないと、こういうことがはつきりとお示しになつておられました。

仏道修行者は、頭を剃ってお袈裟をかけるということは、これは装飾じや御座いません。これが修行のまず一番初め、これが大事なんだよ。こういう姿になつてこそ初めて仏道修行が完成するという意味ですねこれは、つまり私達の修行は仏様を修行することで、凡夫が分の満足追求の為に修行することじゃ御座いませんでした。私達が満足感を得たからといって人間は救われるものでは御座いません。どんなに満足感を持ちましても、喜んでおりましても、それはその時の状態ですね。つまり申しますと晴天に会ったようなもの晴天というものは本当に喜んじゃおられません。直ぐにくたびれちゃうと同時に断水状態になっちゃいます。やっぱり雨が降らなきゃいけない、喜んでばっかりおったって救いじゃありません。喜んでおる時に調度良い具合に不幸があるから不満足があるから調度人間は救われるもんです。ですからして普通の修行というものは満足感の追求だけで終わっております。仏道修行は満足感の追求の修行じゃありません、その辺の事をよく心得ておいて頂きたい。それじゃ何だといいますと、私達の体そのものが全て私達のものじゃ無かったんだ。私達はこういうように生かしていただいてる、人間の体をこういうように生かしていただいてる。皆そうですよ、その中で私達は人生を送ってるだけに過ぎない。私達の人生というものはこの仏法の中で人生を送ってるだけにすぎません。そこで私達は何時でも人間に走ってしまいまして、人間に走るというのはどういうことかと申しますと、ただ満足感の追求だけです。考えてごらんなさい、不幸を求めてる人を私は見たことないものな。こういうような人生に明け

暮れておったってしょうがない。本当の仏法を修行するという所に私達は仏様への感謝の

道がある、又感謝の道という事がこういう人生を送れるのは仏様のお蔭ですから、それに感謝する生活というものが本当の人生であるわけです。そこで仏の修行をするのには仏様と同じ格好をしなきゃならん。そこで剃髪染衣ということがある訳だ。剃髪染衣が基本であるという事は、『出家』の巻に十分にお説きになっております。しかもその剃髪染衣するということが涅槃の因に因せらるということ、その中で袈裟というものがどういうものであるかという事が大事な問題になる。頭を剃るのは簡単ですけどもお袈裟というものは頂かなきやならん、そこで袈裟ということを特に喧しく言われております。

先ずこの巻は袈裟の意味というものを義雲の頌著から入ってまいりましょう。義雲の頌著第四十一『袈裟功徳』この「四十一」と申しますのは義雲禅師が編集されました「六十巻本」の順序でいきますと「四十一」で御座います。この本文では第二とありますけども何回か申し上げておりますように「十二巻本」の第二番目で御座います。私はここでもつてず―と吉祥講の眼蔵会では初めから実は七十五巻本の順序でず―とゃって参りました。そうしてこの前のところで「第七十五」の『出家』の巻で全部終わりました。それで十二巻本に入って参りました。十二巻本で一番初めが『出家功徳』の巻で御座いました。それで第二番目が『受戒』の巻でした。それで第二番目にこの『袈裟功徳』の巻に入ったわけです。義雲の頌著は一番初めに第四十一『袈裟功徳』「非色非空」という言葉があります。これが著語ですね、著語と言うのは禅宗でよくある言葉ですけども『袈裟功徳』の巻に対する本当の意味ですね。これをたった四字でもって表現された根本義です。そういう風に受け取って頂きたい。

つまり袈裟というものはどういうものかと申しますと、非色非空であるということです。つまりどういう意味かと申しますと、袈裟ということの本来の意味は不正色という色です。壊色、これはどういう色かといいますと、正色というのは青黄赤白黒五色ですね。これが色の根本ですね、この青黄赤白黒のどの色でもない混じった色ですね。魅力のある色じゃありませんぜこれは。ようするにインドの生活は熱帯地方ですから白ですね白が在家の人達ですね、それに対しまして出家者はそういう白じやなく色の付いた物を着るように成りました。その色もですね人間の魅力を惹くような色であってはならないところから不正色、壊色と申します。ですから素晴らしい色とか有りませんから袈裟にファッションはありません。デパートとはちよつと違いますよね、そういう意味におきまして非色と言いますのはそういう意味ですね。これは人間という奴は奴と言っちゃ変ですけどもまあ奴という言葉で通用させていただきましようこの際は、人間という者は変なものでどんな人でも人に見せたいという心があります。何でも自分を人に見て貰いたい。見せかけといいますかそういう本能が有るんですね。他の人よりは俺の方が綺麗だよって格好がしてみたいんだ。だからね変な格好だと恥ずかしがってね、そうしてこの人間という奴はね劣等感を持ってますよ。他人よりは綺麗な格好してると劣等感を持ってますからその反作用で威張りたがる。人間の本性は劣等感でしょうね。どうも人間て奴はどいつもこいつもえ威張りたがる。威張りたいという本能がこの辺にあるんですね。そこで人間の世界だけでしょうね飾りたてるのは。権威というのは飾りたてからくるのね。

今じゃあんまりそういうこと有りませんけども、昔の国王を見て御覧なさい。もうこんな大きな格好しやがって、しやがってじゃない、なさいまして頭の上に重い王冠なんて物かぶって、取ったら同じ顔でしよう。あれが面白いな、あれが権威というものでしょう。見せたがり、あれも実際いうと本能としての劣等感の反作用で威張るのね。

昔の軍人は大礼服を着てました、私初めて大礼服を見た時びつくりしました。羽の付いた大礼服で可笑しな格好だなと思つたよ。中学時代のことでしたね。あれが人間性というものだ。本当の仏の解脱というものはそういうものから超越するものでしよう。だから袈裟のことを非色というのはその為です。

それから空に非ず非空ですねこれは。この非空という事もつまり袈裟は何にも無いということじゃありません。現実に表すもんでなきゃならんから非空という言葉で表した。非色非空という言葉でもつて袈裟の存在の意味を表すと同時に、仏道修行の根本をここでもってよ―く捉えているという風に受け取って頂きたい。

それから霊山の付属線、金に連なる。実はお袈裟というものは、材料は何かと言いますと世の中で要らなくなった物がお袈裟の材料です。それで出来たのが糞掃衣になるわけですけども、先ず世の中の人達が要らなくなって捨てた物、そういう物を集めて来てそして丈夫なところだけ取って集めて縫い合わせて作つたものがお袈裟ですね。それでお袈裟というものはお釈迦様より代々伝えられてきたものでこれは仏祖正伝であります。お袈裟の伝わらないところには仏法は無いということになつておりますから、それで霊山の付属というわけだ。

霊山というのはお釈迦様の事を申します。それから線、金に連なるというのはどういうこ

とかと申しますというと、お袈裟というものは一針一針縫ってあります。お袈裟は日常着るものでありぼろ布を集めた物であります。形は田んぼの形に似せて作られたものでありますから、針目がず―と通ってますねそのことを線と言ったんですね、金に連なる。つまり申しますというと金は黄金の金と違いますよ。そこに修行者の誠が表れております。お袈裟のいちいち縫ってある糸目はどういうものかと申しますと、修行者の誠心がそこに表れているわけです。それを金に連なるという表現にしたわけだ。

それから火曾って焼かず提不起、お袈裟というものは曾って焼かずだ。つまり言うと永遠にお袈裟というものは焼くものでは御座いません。だからして昔から焼いたことありません。つまり言うと真実ですからそういうことになつてる。提不起と申しますのはこれは絶対的な存在でありますから私達にとつてお袈裟というものは、絶対的なもので御座います。仏教者にとって、お袈裟は絶対的なもので御座います。つまりお釈迦様を頂いているという意味において提不起という表現をしました。

西天此土何ぞ針を隔てん。全部仏教者はお袈裟というものを頂かなきゃならないことになっています。そこにおいて区別は御座いません。お袈裟に区別は御座いません。西天であろうが中国であろうが日本であろうがお袈裟というものは区別が御座いません。あってはならない。その意味において西天此土何ぞ針を隔てん。針ほどの隔たりもありません皆ぶっ続きです。

それから古今の苗秀福田地。福田衣とも申しますね。お袈裟を掛けて修行するところに初めて成仏行が行われます。つまり申しますとお袈裟を掛けて坐禅をする所に本当の成仏ということが成り立つ訳だ。これは仏法における永遠の真実ですからして古今苗秀つまり苗秀と申しますのは仏弟子の事ですね。これは皆仏弟子が育つのはこのお袈裟の中において育つという意味においてお袈裟を福田地という言葉で表した。だいたいお袈裟を福田衣と申しますけどね、福田衣を福田地に変えたんですね。お袈裟を掛けて修行するそれが成仏である。お袈裟を掛けて修行する、私達ですと坐禅する事が成仏であるという意味の事を、この言葉でもって表現されております。

 

正法眼蔵 袈裟功徳(二)提唱 酒井得元

 

※原文

面山述賛 第四十一袈裟功徳

述云、毘盧六大法身、標名大福田衣、自非宿善深広者、則終身不能値之一頂戴、吾輩即今日日披之、鳴呼甚希有哉。

賛言、一披著此妙服、則四大五蘊匪身心、菩提花芳発春杪、涅槃果甘熟秋林、目下合成法報化、機前超脱去来今、妙高山功徳突兀、香水海福智甚深。

(毘盧六大法身標して大福田衣と名づく、宿釜口深広なる者に非ざるよりは、即ち身を終るまで之に値て一頂戴する事能わず、吾が輩即今日日之を被す、鳴呼甚はだ希有なる哉、ひとたび此の妙服を披著すれば、則ち四大五蘊身心に匪ず、菩提の花芳しく春杪を発す、涅槃の果甘く秋林に熟す、目下合成す法報化、機前超脱す去来今、妙高山の功徳突兀として、香水海福智甚深)

※提唱

毘盧六大法身標して大福田衣と名づく、宿善深広なる者に非ざるよりは即ち身を終るまで之に値て一頂戴する事能わず、吾が輩即今日日之を被す鳴呼甚はだ希有なる哉。

毘虚六大法身これは毘盧舎那仏ですね、つまり仏様の事を毘盧六大法身という言葉で表

した訳ですね。仏様の中で裸の人は一人も居ません、皆仏様はお袈裟を掛けていらっしゃ

る。お袈裟の無いのは仏様じゃありません。だから大福田衣と申します。つまり仏様を包

んでいるのはお袈裟しか御座いません。お袈裟を別名仏衣と申します。お袈裟と巡りあえ

たという事は生まれ方が良かったのかも知れませんね。宿善深広に非ざるよりは。つまり生まれかたが善くなかったならば終身お袈裟に逢うことがなかっただろうな。この世の中の人達は皆仏法で生きているんですよ。つまり仏というのは尽十方界の真実でしょう、これは人種も何も区別御座いませんよ、この宇宙全体がみんな仏だもの。神様とは言いませんよ、仏法と神様とは一緒じゃありませんよ、全部の真実が仏でして。ところが皆お袈裟を掛けたら良さそうですけど仏縁に逢う人逢わない人があるものね。お袈裟と巡り逢って仏様の縁を頂いたという事は有り難いじゃないですか。 つまり宿善深広なる者に非ざるよりは、よほど運の良い者でなかったならば則ち身の終るまで之に値うて一頂戴すること能わず。運が良かったからお袈裟を頂くことが出来たんだ。吾が輩即今日日之を被す。毎日お袈裟を頂戴いている、あ―何と有り難いことだろうか。面山和尚がねお袈裟に巡り逢ったことに感謝している言葉ですね。これをもう一度賛で以って表現します。

ひとたび此の妙服を披著すれば則ち四大五蘊身心に匪ず。菩提の花芳しく春杪を発す涅槃の果甘く秋林に熟す。

私達のこの体ですよ、世の中でこんな大切なものは有りません。これ以上のものはあり

ません。人間という者はそんな事は考えたりもしません。人間はいつも満足を求め続けております。これが人生でしょう、それ以外何も考えたことないものね。世の中の実業家を考えてごらんなさい、儲ける事しか考えていないじゃないか。それで儲かったら〃これが俺の生き甲斐だ″とか何とか盛んに言ってるでしょうが。この人間世界のことは皆いっしょでしょうが。それが、ひとたびお袈裟を掛けたら、それによりまして始めて仏の教えを頂戴いたことになります。そう致しますと得手勝手は出来ませんものね、坐禅をしてお袈裟を掛けることによつて初めて仏を行ずる事が出来た訳だ。仏を行ずることが出来たということは初めて本当の姿に成り得たという事です。次に四大五蘊これは人生のこ事ですよ、人間の生活を四大五蘊と言ったんです。

菩提の花芳しく春杪を発す。菩提というのは真実の事を菩提と申します。心境じゃあり

ません心境というのは或る時の精神状態です、何時でも同じ精神状態なんて有り得ないでしょう。素晴らしい事ばっかりだったら疲れちゃうわ、つまり菩提という事は、お袈裟を掛

けて坐禅することによって真実を行じた事になります。それが本来の姿を行じたという事です。菩提の花が咲いたというのはこの事実を云うのね。そこで春杪を発す、新鮮な匂いを発する事が出来るじやないですか。それと同時に涅槃果甘く春杪に熟す。涅槃と云うのは普通の解釈では亡くなる事を言うのですが、「三十八巻」ある『涅槃経』には亡くなるという事はどこにも書いてありません。涅槃という意味は成就という意味でした。つまり成就というのはいつも申しております尽十方界の真実の事なんです。永遠の真実なんです。全てのものは永遠に存在してますよ、私はこれを真実してると言うんです。この真実してる状態が涅槃してる。お袈裟を掛けて坐禅する姿をここでは甘くとか熟すという美味しそうな言葉で表現してるんです。

目下合成す法報化、機前超脱す去来今、妙高山の功徳突兀として、香水海福智甚深。

目下というのはお袈裟を掛けて坐禅してる姿です。合成というのは実現する事です。何

を実現してるかというと法身報身化身、仏の三身のことを法報化と中します。 つまり完全

な仏様がそこに出現されているんだ、三法身が完全に成立しているということやね。機前

と申しますのは物の働きの事です。分かり易く申しますと、袈裟を掛けて坐禅することを

機前と言います。その事が去来今を超脱している。去来今というのは過去現在未来、これは三時ですね。三時とはどういうことか、私もこの三時については考えさせられましたよ。猫にね、お前の将来どうなるかと聞いて見た事があります。お前には理想が有るかと聞いたらニャンとも言わんかったな。猫には未来が無いんだな。学生に聞いてみると会社の社長に成りたいとかね、それぞれ各人が理想を持ってます。ところが大や猫には将来が無いらしいな、理想を持たない、未来が無いもの。ところが人間というのは過去を持ってますよ。犬や猫には履歴が無いものね、たまには瞼の母に会いたいと言っても良さそうだが、そんな素振り一遍も無いものね。人間だけですよ過去現在未来が有るのはね、これが人間性ですよ、過去現在未来が有るという事は人生上の問題だ。つまり私達の坐禅と云うのは絶対的な坐禅ですよ、人生を超越したものです。人生というのは私達が生きてる一つの風景にしかすぎません。私はね、この頃身体の生命活動を川の流れに喩えておりますよ。と云うのは私達の身体は一時も休まず生き続けておりますから、この事からして人生というものは川の水面に現れる波紋と同じですよ。人生が全てじゃありません、生きてるから人生が有るんだ。つまり生かされてる風景ですね。寝てる時悩んだこと有りますか、無いでしよう。仇討ちだって出来やしません人生が無いもの。そこで私達が坐禅をするということは、こういう人生を超越した真実を実現する事これを解脱というんです。妙高山の功徳突兀たり。妙高山の功徳と申し

ますのは解脱を言ったんです。仏の功徳を言ったんですよ。香水海福智甚深。香水海というのはお袈裟を掛けて坐禅している雰囲気を香水海と表現したものです。福智甚深これ以上の有り難いものが無いものですから福智甚深という表現をしたんですねこれは。私達が有り難いと思うのは、恵まれたり何か貰ったりすると有り難いと思いますけどね、本当の福智というのはね、生かして頂いている以上の福智は御座いません。この福智というものを本当に感ずることが出来るのは仏道です、

本当の仏道と申しますのはお袈裟を掛けて坐禅するところに始めて完全なものがある訳ですから、それでこういうような表現を面山和尚はしているわけです。面山和尚の気持ちも

こういう偈を読んでますと良く表れていますね。述賛はこれぐらいにしておきましよう。

 

正法眼蔵 袈裟功徳 提唱(三) 酒井得元

※原文

仏仏祖祖正伝の衣法、まさしく震旦国に正伝することは、嵩嶽の高祖のみなり。高祖は釈迦牟尼仏より第二十八代の祖なり。西天二十八伝、嫡嫡あひつたはれり。二十八祖、したしく震旦にいりて初祖たり。震旦国人五伝して、曹渓にいたりて三十三代の祖なり、これを六祖と称ず。第三十三代の祖大鑑禅師、この衣法を黄梅山にして夜半に正伝し、一生護持しまします。いまなほ曹渓山宝林寺に安置せり。諸代の帝王、あひつぎて内裡に奉請し、供養礼拝す、神物護持せるものなり。唐朝中宗・粛宗。代宗、しきりに帰内供養しき。奉請のとき、奉送のとき、ことさら救使をつかはし、みことのりをたまふ。代宗皇帝、あるとき仏衣を曹渓山におくりたてまつるみことのりにいはく、今遣鎮国大将軍劉崇景頂載而送。朕為之国宝。卿可於本寺如法安置専令下僧衆親承宗旨者厳加守護、勿令遺墜。

(今、鎮国大将軍劉崇景をして、頂戴して送ら遣む。朕之を国宝と為す。卿、本寺に於いて如法に安置して専ら僧衆の親しく宗旨を承くる者をして、厳かに守護を加えじめ、遺墜せしむること勿る可し。)

※提唱

まず此処で仏仏祖祖正伝の衣法。正伝というのはお袈裟の作り方ですね。やっぱりデタラメでやつたら困りますからね、人間の好みのデザインやつたら困りますから。そこで正伝の衣法ということが成り立つわけですね。お袈裟というのはファッションじゃ御座いませんからね、それでこういうふうなことが書いてある。

まさしく震旦国に正伝することは。実は後の方にも書いてありますが、本当の仏道修行というものが伝わったのは達磨さんからだつたんですね。これは私たちの信仰です。それまでの中国の仏法というものは教学だけですよ。その時分の中国人は西域の文化として学んでおったんでしょうね。その方面の学問研究だったんですね、本当の宗教としての仏法は伝わっていなかったらしいですね。本当の仏法の修行が伝わるのには、やつぱり袈裟というものが伝わらなきゃ仏法の修行は伝わらないという処から、こう言われてるんです。それは達磨さんからですよ、まあこれは禅宗が言う言葉です、他の宗旨ではこんなこと言いません。私ら禅宗の者には、これが何よりの正伝の仏法ですから。

嵩嶽の高祖のみなり。達磨さん以外の人たちは仏法を伝えていない、というのが禅宗の信仰です。

高祖は釈迦牟尼仏より第二十八代の祖なり。

この二十八代というのは、私は絶対的なことと思っておりましたが、インド仏教とかいろんな勉強をしましたらね、私達がいう二十八祖の系統なんて何処にも書いて無いものね。変だなと思って疑問を持ったことがありましたよ。二十八代というのは何時から始まったのか。そんなこと悩んでね、いろいろ調べましたよ。どうして達磨さんから、あ―いう系統が出てきたのか、他の宗派に有ってもよさそうですがね。私が思うのにはね、宝林寺あたりから決まったんじゃないかと了解していますがね。今では禅宗が創作した伝統じゃないかと思ってがすがね、これは。禅宗としましては、これを正伝としなくちゃなりませんからね。本当はこんな風に言うものじやありませんけどね。学問なんかやりますと、こんな風になっちゃう、仕方ない。

西天二十八伝嫡嫡あひつたはれり。二十八祖したしく震旦にいりて初祖たり。震旦というのは昔の中国を震旦と申します。この達磨伝記についても、いろいろ考えたことがありましたよ。南インドの香至国の王子。南インドって何処だか調べたけどわからないね。古い文献には達磨さんのことは詳しく書いてありません。宋の頃の『景徳伝燈録』になると詳しく書いてありましてね、見送られる景色まで書いてあるよ。ところが唐の時代の記録にそれが無いものね。ところが敦違から文献が出土しましてね、そこからいろんなことがわかりましてね。達磨さんが本当に存在したかどうか疑問符が出て来ましてね、敦違の文献が出るまでは、私ら本当に達磨さんの存在を信じていましたからね。今ではそんな熱は醒めましたがね。あ―いう文献は無くても構わないということに落ち着きましたから。

震旦国人五伝して曹渓にいたりて三十三代の祖なりこれを六祖と称す。曹渓というのは慧能禅師のことです、六祖慧能だ。その慧能さんは、お釈迦様から申しますと三十三代の方です。それを私達は六祖と称しております。

第三十三代の祖大鑑禅師。大鑑禅師これがお名前ですよ、大鑑慧能と申しますから大鑑と言います。この方が衣法を黄梅山にして夜半に正伝すという物語があります。黄梅山というのは、湖北省の東側で揚子江の北側でしてね、安徽省に近い所に黄梅があります。この黄梅山にして夜半、夜中に仏法を伝えたということがあります。こういう風に道元禅師はお書きになっています。

この六祖さんという方は、お父さんが范陽という所、今の北京あたりの官吏やっとった。中国の役人というのはよく流されるんですね。汚職か何かやったんだろうな、それで広東省に流された。広東省というのは、昔は相当野蛮な所だつたそうですね、熱帯地方ですから。慧能さんはそういう状況で、広東省新興県で生まれたんですね。それから父親が亡くなってしまった。それで母親を自分が働いて養ってきたわけだ。その時の商売が薪屋さんだったそうです。ある時薪売りの最中、説法を高くことが出来た。その説法が『金剛経』だったそうだ、素晴しい説法で初めて聞いたらしい。そこで説教師に何処で学ばれたかと聞くと、黄梅山で習ってきたと答えたそうだ。それで黄梅山に行ったという話ですよ、これは。

それでいろんな話がありましてね。母親が一人になるから、だれかがお金を出したとか、スポンサーができたとか、いろんなことが書いてあるが、とにかく黄梅山に行きました。黄梅山では坊さんじゃないから、一人前に扱ってくれない。ところが米搗き小屋の人夫として取り扱ってくれた。だからこの時、盧行者と呼ばれた。それで米搗き小屋で修行しておった、どんな修行だか知りませんよ、私は生きていませんから。それで八ケ月修行したと。その時認められたのね、五祖に。あ―素晴しい男だなと。あれを跡継ぎにと思ったらしい。それには何かしなければと思つたらしく、五祖が自分の門下に布令を出した。

お前さん達は皆よく修行した、その成果を偈に書いて持って来いと。私の気に入った偈が有ったら、その者を後継者にしようという布令を出した。そこには大衆一番の神秀上座という者がいた、神秀は経授師という職でいつも大衆を指導しておった。そういう兄弟子がいたせいで、他の者は尻込みして偈を書かなかった。そこで神秀上座は他の者が提出しない為、責任を感じ提出を決意し、五祖の部屋に行こうとするのですが、自信がない為、何回も何回も部屋の前を行つたり来たりしたそうだ。最後はとうとう部屋の前の壁に貼りつけて、自分の部屋で小さくなつていたという話が伝わっています。

夜が明けて壁の偈を見て五祖は褒めたそうです。その偈は「身是菩提樹、心如明鏡台、時時勤払拭、莫使有塵埃」。そうしたらその偶を皆が口ずさんでおった。つぎに米搗き小屋の番人さん、みんなが朝から大騒ぎだ、そこで神秀の偈を大衆から聞いた。そうしたら盧行者が言うには、俺にも偈が出来たと、ところが字が書けんからと、小僧に云って偈を書かせ壁に貼った。それは「菩提本無樹、明鏡亦非台、本来無一物、何処惹塵埃」。そしたら大衆は又大騒ぎで、米搗き小屋にあんな偉いのがおったかと、 つぎに六祖になるのは盧行者だと言い出した。その時五祖が来てその偈を破り捨て、皆を解散させてしまった。

その晩のこと、五祖がみずから米搗き小屋に行って、盧行者に尋ねた。″米は仕上がつたか″と、盧は″仕上がりました″、しかしまだ〃篩ってありません″と答えた。精米と糠に分けるでしょう、その糠を吹くことを篩うと云うんです。そしたら五祖が自の淵を三回ポンポンポンと打って行ってしまつた。その意味は夜中の三更に、俺の所に来いよと、いう指示ですね。そこで五祖の房に行った折に五祖に嗣法し、ただちに故郷に帰り七年或いは十七年という説がありますが、一般群集に混じり、表に出て来るなと言われた。嗣法の証拠として、お袈裟と応量器﹇鉄鉢﹈を手渡した。―衣鉢を伝うーという言葉は、この物語からはじまったのです。

その衣鉢と共に五祖が六祖を船に乗せて、自分で漕いで揚子江の向こう岸に渡したという話あるね。その時六祖が言うには、お師匠様に舟を漕がすのは、申しわけないと云うと、五祖が言うには、弟子を渡すのは師匠の務めだと言ったという物語です。

広東省に入る前に、大庚嶺という山がありますね、その時一部の大衆が追いかけて来て、大庚嶺の頂上で追い着いた。六祖は身の危機を覚え、衣鉢を大きな岩の上に置き、側方から見ていると(蒙山)道明が見つけ、奪い取ろうとするがどうにもこうにも岩から離れない。そこで六祖が出て道明に謂うには、物の為に来たのか法の為に来たのかと聞くと、恥入つて弟子にしてほしいと言うことになつてしまつた。それで何とか収まったという話があります。こういった話は私が中学の時、校長から聞いて印象に残っているんです。その時のことが、『六祖壇経』に詳しく出てきますよ。

この衣法を黄梅山にして夜半に正伝し一生護持しまします。いまなほ曹渓山宝林寺に安置せり。この宝林寺というのは広東省の潮州に今でもあります。諸代の帝王あひつぎて内裏に奉請し供養礼拝す。このお袈裟というものが、唐の皇室に於いて非常に尊敬されまして、供養されたということが、ここに書いてあります。神物護持せるものなり。唐朝中宗、粛宗、代宗、しきりに帰内供養しき。このお袈裟を宮中にいただいて供養したと。奉請のとき奉送のとき、ことさら勅使をつかはしみことのりをたまふ。勅使をつかはして、最大の礼を以て、もてなしたことです。代宗皇帝あるとき、仏衣を曹渓山におくりたてまつる、みことのりにいはく、今鎮国大将軍劉崇景を頂載して送らしめた、朕之を国宝と為す、卿本寺に於て如法に安置して、専ら僧衆の親しく宗旨を承わる者は、厳しく守護を加え遺墜せしむること勿れ。と勅使を給ふた。これほど左様にお袈裟というものが、唐に於いては大事にされた、というひとつの物語ですね。それによりまして、お袈裟の価値を述べられたわけです。次回から本論に入ってまいります。

 

正法眼蔵 袈裟功徳 提唱(四) 酒井得元

※原文

まことに無量恒河沙の三千大千世界を統領せんよりも、仏衣現在の小国に、王としてこれを

見責供養したてまつらんは、生死のなかの善生、最勝の生なるべし。仏化のおよぶところ、三千界、いづれのところか袈裟なからん。しかありといへども、嫡嫡面授の仏袈裟を正伝せるは、ただひとり嵩嶽の曩祖のみなり、旁出は佛袈裟をさづけられず。二十七祖の旁出、跋陀婆羅菩薩の伝、まさに肇法師におよぶといへども、仏袈裟の正伝なし。震旦の四祖大師、また牛頭山の法融禅師をわたすといへども、仏袈裟を正伝せず。しかあればすなはち、正嫡の相承なしといへども、如来の正法その功徳むなしからず、千古万古みな利益広大なり。正嫡相承せらんは、相承なきとひとしかるべからず。

※提唱

前回までは、お袈裟というものを唐の皇室が非常に尊敬をし、お袈裟を国宝だといい、お袈裟に対しいかに眼を開いていたかということを、御示しになっておりました。それを受けまして、まことに無量恒河沙の三千大千世界を統領せんよりも、仏衣現在の小国に王としてこれを見聞供養したてまつらんは、生死のなかの善生、最勝の生なるべし。

いってみますならば、 ″無量恒河沙の三千大世界〃といいますと、大変大きな世界ですよ。これを″統領″する、 つまり支配すること。 ″仏衣現在の小国に王として″と申しますと、お袈裟が現在あるということだ。 ″見聞供養″と申しますのは、仏道修行が行なわれ、お袈裟に対する供養が行なわれるということです。供養というのは後でお話しますけど、仏道修行に於いては供養ということは非常に重要なことですね。そうしますと、 ″小国に王としてこれを見聞供養したてまつらんは、生死のなかの善生、最勝の生なるべし。″何だかこの言葉、どこかに有つたような気がするな。これは「修証義」の中にこの言葉を引っぱってたんですよ、とんでもない所に引っぱってますよ、本当は此処になきやいけない言葉だこれは。ま―あれはあれ、これはこれだ。人生やってるのに、仏衣の存在している所で以て、生死をしてるということは善生であるし、 〃最勝の生なるべし。〃云うてみるならば、こんな幸福はありませんがね。私はあんまり幸福っていう言葉は好きじやありません。最初は幸福ということは大事な言葉だと思ってましたけど、仏法やつてますと、幸福なんてどうでもいいことだなこれは。それよりも、こういう風に生まれついてるってことが有り難いことだったんです。感謝の気持ちのところに、善生と最勝の生ということが大事だと気が付いたのです。

仏化のおよぶところ三千界いずれのところか袈裟なからん。

仏様の教化の及ぶところ、仏法が伝わっているところ、三千界いずれのところか、三千

界というのは三千大千世界という言葉が御座いまして、これは大宇宙といつてもいいですね。つまり、仏化の及ぶところはどんなに広いところであつても、必ずお袈裟がなきやならないんですよ。

しかありといへども、嫡嫡面授して仏袈裟を正伝せるは、ただひとり嵩嶽の彙祖のみなり。

嫡嫡″というのは正式に伝えること、面授というのはバトンの手渡しじやありません。師

匠と弟子とが直接に伝授するのが面授です。お袈裟というのは、そういうようなものでなきやいけないのねこれは。 ″仏袈裟を正伝せるはただ一人嵩嶽の曇祖のみなり。″これは達磨様だけしか、本当のお袈裟を伝えていなかったぞという意味です。と云いますのは、仏法というのは学問じやありませんこれは。思想でも御座いません。仏法の意味するところは、いつも申し上げています通り、私達がこういう風に生かされておる事実そのものです。その宇宙のありとあらゆるものは、皆何をしているかと申しますと、あなた方で申しますと、あなた方は自分で自分をやつてるんじやありません。心臓ひとつもね、自分で運転してるわけじゃないでしよう。それから脳で考えることにしたって、自分で脳を働かしてるんじやないでしょう。脳が機能して、いろんなことが浮かんでくる、浮かんできたのを捕まえて、こうしよう、ああしようと、いかにも自分でやっているようですけどね。それもさせてもらつてるんですよこれは。

これをね、「尽十方界の真実」と申しましてね、「真実してる」と表現しています。この事実が仏法です。何回も申しています通り、仏法は普通の宗教と違うんだ。一般的宗教は神様を創りまして神託させる。私達の仏法は宇宙の真実が教えで御座います。ですから仏法には多くの神さまが仏法に参じて修行いたします。他の宗教にはこんなことは考えられません。例えばキリスト教に回教が入りますか、中近束をご覧なさい。宇宙の真実を修行することが仏道です。ところがインドでは学問になりまして学派になりました。言葉がなかったら学問は成立しません。概念もありません。私が思うにはインドの言葉だけでは、それほど仏教は発達しなかっただろうと思います。インドから中国に仏教が伝播し、漢訳されたことにより発展したと思われます。

私は昔、『唯識』をやつておりましたが、あの学問の状態を見ますと驚く程綿密ですね、あれは言葉のせいですね。学問というのはそういうものです。ですから学問の世界は概念の世界ですから、どうしても実体に到達しないのね。達磨さんはお経を持って来なかった「手ぶら」で来たもんな、あの「手ぶら」というのがおもしろいな、これは。「手ぶら」が本当の仏法だもの、これを持って来て本物を示されたのね。それと同時に本当の修行のありかたをお示しになったわけだ。

当時学問仏教やっていた連中は、びつくり仰天しただろうな。達磨さんの修行は人間の修行じゃなかった、仏を行ずることだったんだ。それを「行仏」といいます、「行仏」には必ずお袈裟という物がなきや行仏にはなりません。

傍出は仏袈裟をさづけられず。

傍出″というのは学問的人間です。或いは本当の修行に到達しなかった者と云っていいでしょう。坐禅を教えておりましても、本当の坐禅をなかなかやってくれませんね、せっかく坐禅やっても人間性に暴走するんですね。私はたびたび人間性の暴走という言葉を使います。

つまり人間性・人格とはどういうものかと云いますと、他の動物と違いまして、人間は理想というものを持っておりましてそれを追求する。理想は人間の必需品じやないですか。なかには理想がないと「だめだ」という者がいたり、人間として生まれたからには立派な理想を持てと。道徳や倫理又は思想というものは、結局理想の持ち方を教える「人間学」なんだ。ところが仏法に入りましても仏法の理想というものを作りましてね、仏法という理想の為に修行する、大抵はそんなもんなんだ。道元禅師がここで″傍出〃とおっしゃるのはこれですね。正伝の仏法というのは人間性を超越すること。 つまり理想を超越したものでなければならない。理想というのは何回も申し上げる通り、人間の望むものです。つまりその理想により、人間が満足感を得るものです。理想を越えた修行というのは無所得無所悟。これは仏法の原則ですよ。無所得無所悟みんな言葉では知っているが、実際は見性とか悟りを追い求めてる。これが人間性というものだ。こういう見性禅も傍出ですね、そういう連中にはお袈裟は眼に入らない。つまりお袈裟はどういうところから出てくるかというと、正身端坐というところから出てくるね。正身端坐は仏行ですから、体つきまで仏様と同じ格好をするということです。「身も心も放ち忘れて仏の家に投げ入れる」。「供養諸仏」、これが坐禅の実態だ。

このお袈裟を大切にされたのは道元禅師ですよ。他宗の方では、お袈裟はひとつの衣装みたいなもんだ。私達のお袈裟は衣装じゃ御座いません、これは。信仰の問題です。袈裟を見せびらかしたりは決してしません。

二十七祖の傍出。跛陀婆羅菩薩の伝、まさに肇法師に及ぶといへども、仏袈裟の正伝なし。震旦の四祖大師、また牛頭山の法融禅師をわたすといへども、仏袈裟を正伝せず。

達磨様が二十八祖ですからそのお師匠さん、つまり般若多羅尊者です。その正系でない人が跛陀婆羅菩薩、この人の系統が中国に伝わり肇法師に伝わりました。肇法師というのは鳩摩羅什のお弟子さんで、非常に優れた人で、この人の著物を『肇論』と云っております。禅宗の人達はこの『肇論』をよく勉強しまして、その一つに『法蔵論』があります。私も京都時代にこの『法蔵論』はよく読みました。残念だな、肇法師には伝わっていません。

四祖大師、大医道信という方です。大満弘忍という五祖さんのお師匠さんです。四祖さんのお弟子さんに牛頭法融という人がいます。この「わたす」、というのは済度したということです。つまり法融禅師を指導したというけれども、仏袈裟をお伝えにはなつていなかった。申しますと思想的に伝わっただけでして、正伝の坐禅が伝わっていないという意味です。

しかあればすなはち、正嫡の相承なしといへども、如来の正法その功徳むなしかさず、千古万古みな利益広大なり。正嫡相承せらんは、相承なきとひとしかるべからず。

如来の正法。〃私はこの正法というものに引っかかりましてね、昔から。正法があるから

には邪法があるはずだ。邪法を皆はね除けてしまって、純粋なものが正法と考えたことがありました。実は本当の正法というのは、そういうことではありません。この正法の意味が理解できたのは、もちろん正法眼蔵のおかげですが、もう一つは『法華経』でした。『法華経』の宗旨は「諸法実相」ということですが、邪法が出てきません。どれもこれもが皆如来の姿になつておる。邪というのは人間の独断でして、此の世の中に存在するものは、自分勝手に存在するものは有りませんでした。全てのものは宇宙の真実として存在している。邪法というのは人間がいうことでして、「これこそが正法だ」というものは正法じゃありません。如来の正法は選び出すものじゃありません。如来の正法から申しますと、″正嫡の相承なしといへども″と、排斥はしません。本来は皆正法の御陰を蒙つてますよ。″千古万古″というのは永遠のことです。 〃利益広大″というのは、仏様のご利益を皆いただいております。〃正嫡相承せらんは相承なきとひとしかるべからず。″こういったことに気をつけて仏道修行をやっていただきたい、それが正嫡相承だな。相承なきとひとしかるべからず。とは勝

手なことをやつてはいけないということです。如来の正法とは、全てのことを受け入れなければ、如来の正法にはなりません。 

 

正法眼蔵 袈裟功徳 提唱(五) 酒井得元

※原文

しかあればすなはち、人(にん)・天(てん)、もし袈裟を受持せんは、仏祖相伝(そうでん)の正伝を伝受すべし。印度震旦、正法(しょうぼう)・像法(ぞうほう)のときは、在家なほ袈裟を受持す。いま遠方(おんぼう)辺土(へんど)の澆(ぎょう)季(き)には、剃除鬚髪して仏弟子と称する、袈裟を受持せず、いまだ受持すべきと信ぜず、しらず、あきらめず、かなしむべし。いはんや体(たい)・色(しき)・量(りょう)をしらんや、いはんや著用の法をしらんや。袈裟はふるくより解脱服(げだっぷく)と称す。業障(ごっしょう)・煩悩障(ぼんのうしょう)・報障(ほうしょう)等、みな解脱すべきなり。龍、もし一縷(いちる)をうれば、三熱をまぬかる、牛、もし一角にふるれば、その罪おのづから消滅す。諸仏成道のとき、かならず袈裟を著す。しるべし、最尊最上の功徳なりといふこと。まことに、われら辺地にむまれて末法にあふ、うらむべしといへども、仏仏嫡嫡(てきてき)相承の衣法にあふたてまつる、いくそばくのよろこびとかせん。いづれの家門か、わが正伝のごとく、釈尊の衣法、ともに正伝せる。これにあふたてまつりて、たれか恭(く)敬(ぎょう)供養(くよう)せざらん。たとひ一日に無量恒河(ごうが)沙(しゃ)の身命をすてても、供養したてまつるべし。なほ生生(しょうしょう)世世(せせ)の値遇(ちぐう)頂戴(ちょうだい)、供養恭敬を発願(ほつがん)すべし。われら、仏生国(ぶっしょうこく)をへだつること十万余里の山海(せんがい)はるかにして通じがたしといへども、宿善のあひもよほすところ、山海に擁(よう)塞(そく)せられず、辺鄙(へんぴ)の愚蒙、きらはるることなし。この正法にあふたてまつり、あくまで日夜に修習す、この袈裟を受持したてまつり、常(じょう)恒(ごう)に頂載護持す。ただ一佛二佛のみもとにして、功徳を修せるのみならんや、すでに恒河沙等の諸佛のみもとにして、もろもろの功徳を修習せるなるべし。たとひ自己なりといふとも、たふとぶべし、随喜すべし。祖師伝法の深(じん)恩(おん)、ねんごろに報謝すべし。畜類なほ恩を報ず、人類いかでか恩をしらざらん。もし恩をしらずば、畜類よりも愚なるべし。

お袈裟をいただくことが、仏祖の正伝を伝受することで、又しなければならない、ということを仏祖相伝の正法を伝受すべし、と説きます。印度震旦、正法像法のときは、在家なほ袈裟を受持す。お釈迦様が亡くなってから五百年を正法と言い、次の五百年を像法、その後は末法と呼ばれます。正法の時にはお釈迦様と同じ修行と教えと悟りが有ったといわれます。像法の時代になるとお釈迦様の香りが薄れ、悟りがなくなり、修行と教えだけが残ったと伝えられています。いよいよ末法になりますと、教えだけが残り、悟りと修行はなくなるという説があります。ちょうど末法が始まった頃は道元禅師が出生された鎌倉時代ですよ。(正確には平安時代中期「1052年」・永承七年八月廿八日条に長谷寺が焼失したと『春記』に記載)その時代には盛んに末法論が論ぜられ、こういう言い方は当時の仏教界の常識でした。いま遠方辺土の澆季には、剃除鬚髪して仏弟子と称ずる、袈裟を受持せず、いまだ受持すべきと信ぜず、しらず、あきらめず、かなしむべし。いはんや体・色・量をしらんや、いはんや著用の法をしらんや。体・色・量というのは袈裟の構造のことで、体は袈裟の材料で、色は袈裟の色です。お袈裟の色というのは壊色と申しまして、黒衣といいましても、純粋の黒光りする黒じゃありませんぜ。木蘭と申しましても、純粋の木蘭色というのはありません。青・黒・木蘭を如法色と申しておりまして、青色と申しますのは青みかかった青、黒色は黒みかかった色、木蘭という色は赤みかかった色、これが如法色という〔いろ〕です。次に量というのは大きさのことで、体全体を覆う程度で充分で、大きすぎても小さすぎてもいけません。三・五肘というのが原則で、肘というのは「ひじ」の長さで、ほかにノベチュウといったり、握り肘といったりします。遠方辺土の仏弟子と自称する連中は体・色・量や著用の法を全く知らないということです。

次に袈裟は、ふるくより解脱服と称す。業障・煩悩障・報障等、みな解脱すべきなり。ここに解脱という言葉が出てきました。障というのは邪魔ですぜ。業に邪魔され、煩悩に邪魔される。こういう邪魔というものを、全然ないようにしなさい、というふうに、解脱を理解しますが全く違います。お袈裟を著けている時には業障も、煩悩障も、報障も全然はたらかない、ということです。つまりは仏道修行をしていると云うことで、業障・煩悩障・報障はわかり易く云うと、人間生活をこう云ったんです。人生上の問題です。人生上の問題というものは、根本的問題じゃありませんぜ。人間だけですよ、自殺するほど悩むのは。坐禅というのは解脱を修行するものです。解脱を修行する処には、必ずお袈裟がなきゃならないものです。龍、もし一縷をうれば、三熱をまぬかる、牛、もし一角にふるれば、その罪、おのづから消滅す。諸仏成道のとき、かならず袈裟を著す。しるべし、最尊最上の功徳なりということ。一縷というのはお袈裟の布きれで、そのお蔭で、龍が悩みをなくしたという話があります。それから、牛の罪が消滅するという話が、お袈裟の文献に記載されていることだけを紹介して、次にいきます。

諸仏成道のとき、かならず袈裟を著す。諸仏成道、つまりお袈裟を著けて坐禅をしなければ、本当の仏行にはならないということです。私達の坐禅は悩みをなくするものでもなければ、気分を良くするものでもありません。本来のあり方を修行するものです。しるべし、最尊最上の功徳なりということ。まことに、われら邊地にむまれて末法にあふ、うらむべしといへども、仏仏嫡嫡相承の衣法にあふたてまつる、いくそばくのよろこびとかせん。いづれの家門か、わが正伝のごとく、釈尊の衣法、ともに正伝せる。これにあふたてまつりて、たれか恭敬供養せざらん。たとひ一日に無量恒河沙の身命をすてても、供養したてまつるべし、なほ正正世世の値遇頂載、供養恭敬を発願すべし。まことに、われら辺地に生まれて末法にあう。ちょうど帰国当時のことを、おっしゃっているのね、考えてみれば中国から見たら、日本は本当に辺鄙な所だったでしょうね。とにかく道元禅師は、仏仏嫡嫡相承の衣法にあうたてまつる、という仏法に巡り遭った。いくそばくのよろこびとかせん、これは喜んでも、喜びきれるものじゃないか、という意味です。いづれの家門かわが正伝のごとく、釈尊の衣法ともに正伝せる。日本に帰朝され、日本の仏教界を眺められた時、現世利益的仏教、つまり密教呪術が盛んだったことから、道元禅師はいづれの家門、と言われたのです。ただ一日でも無量無辺の命を捨ててでも、正伝の仏法衣法は供養しなければならない。生生世世、生まれ変わり、死に変わり、永遠ということだ。値遇頂載と言うのは、お袈裟をいただくことが、供養恭敬できるようにお願いしなさい、という意味です。われら、仏生国をへだつること十万余里の山海はるかにして通じがたしといへども、宿善のあひもよほすところ、山海に擁塞せられず、辺鄙の愚蒙、きらはるることなし。仏生国というのは印度だな、これは。道元禅師の書物を読んでおりますとね、印度は理想の国で、憧れてましたね。印度史を見ますと、その当時は滅茶苦茶でしたね、だけど道元禅師の頭の中にある印度は、仏生国ですからね。宿善のもよほすところ、よほど私達は生まれ方が良かったんだな、運が良かったんだな。この正法にあふたてまつり、あくまで日夜に修習す、どこまでも私達は修行することができるじゃないか。この袈裟を受持したてまつり、常恒に頂載護持す、永遠に私達は、この袈裟をいただいてお護りしたい、これは仏行をする者にとっては当然のことでしょう。

ただ一仏二仏のみもとにして、功徳を修せるのみならんや、すでに恒河沙等の諸仏のみもとにして、もろもろの功徳を修習せるなるべし。たとひ自己なりといふとも、たふとぶべし、随喜すべし。今日こういう風に、お袈裟に巡り遭って仏道修行ができるということは、生まれ変わり死に変わり、何回も何回も正法に遭っていたということですね。全てが仏様をいただいている、ということを道元禅師は間接的に表現されているんです「自己」といっても尊ぶべきですよ、「自己」ということは、道元禅師は親切に説かれています。この「自己」というのは自我意識の「自己」ではありません。道元禅師の「自己」は『現成公案』の、“仏道をならふというは自己をならふなり”の「自己」です。つまり「自己」は万法に証せらるる「自己」、万法というのは尽十方界の真実の「自己」です。祖師伝法の深恩、ねんごろに報謝すべし。畜類なほ恩を報ず、人類いかでか恩をしらざらん。もし恩をしらずば、畜類よりも愚なるべし。今日まで仏法が伝わったということに、感謝しなければならんな。お釈迦様の仏法は発明じゃありませんぜ、大地有情同時成道ですよ。特殊な体験じゃありませんよ。全てのものが成道の姿ですよ、つまりは尽十方界真実の姿だったんだ。自分だけが成道したんじゃありませんよ、自分の本来の姿に気がつかれたんです。これが祖師の伝法ですよ、それをお示しになった。もし恩を知らなかったら、畜類よりも愚かになってしまう、と御示しになられました。

 

正法眼蔵 袈裟功徳 提唱(六) 酒井得元

※原文

この仏衣仏法の功徳、その伝仏正法の祖師にあらざれば、余輩いまだあきらめず、しらず。諸仏のあとを欣求(ごんぐ)すべくば、まさにこれを欣楽(ごんぎょう)すべし。たとひ百千万代ののちも、この正伝を正伝とすべし。これ仏法なるべし、証験まさにあらたならん。水を乳にいるるに相似すべからず、皇太子の、帝位に即位するがごとし。かの合水の乳(にゅう)なりとも、乳をもちいんときは、この乳のほかにさらに乳なからむやは、これをもちいるべし。たとひ水を合せずとも、あぶらをもちいるべからず、うるしをもちいるべからず、さけをもちいるべからず。この正伝も、またかくのごとくならん。たとひ凡師の庸流(ようる)なりとも、正伝あらんは、用乳のよろしきときなるべし。いはんや仏仏祖祖の正伝は、皇太子の即位のごとくなるなり。俗、なをいはく、先王の法服にあらざれば服せず、仏子いづくんぞ仏衣にあらざらんを著せん。後漢(ごかん)、孝(こう)明(めい)皇帝、永平十年よりのち、西天・東地に往還(おうげん)する出家・在家、くびすをつぎてたえずといへども、西天にして仏仏祖祖正伝の祖師にあふといはず、如来より面授相承の系譜なし。ただ経(きょう)論師(ろんじ)にしたがふて、梵本(ぼんぽん)の経(きょう)教(ぎょう)を伝来せるなり。仏法正嫡(しょうてき)の祖師にあふ、といはず、仏袈裟相伝の祖師あり、とかたらず。あきらかにしりぬ、仏法の閫奥(こんおう)にいらざりけりといふことを。かくのごときのひと、仏祖正伝の旨(むね)、あきらめざるなり。釈迦牟尼如来正法眼蔵無上菩提を、摩詗迦葉に附授しましますに、迦葉仏正伝の袈裟、ともに伝授しまします。嫡嫡相承して曹溪山大鑑禅師にいたる、三十三代なり。その体(たい)・色(しき)・量(りょう)、親伝せり。それよりのち、青(せい)原(げん)・南岳(なんがく)の法孫、したしく伝法しきたり、祖宗の法を搭(たっ)し、祖宗の法を製す。浣洗の法、および受持の法、その嫡嫡(てきてき)面授の堂(どう)奥(おう)に参学せざれば、しらざるところなり。

;提唱;

私達がお袈裟を著ける、ということは報恩行がなければなりません。お袈裟をいただく基本は報恩行です。ですから畜類なほ恩を報ず人類いかでか恩を知らざらん、もし恩を知らずば畜類よりも愚なるべし。これまで説いた処までで、お袈裟の概念が決まったと思います。その上更にお袈裟の功徳を、説かれているわけです。

この仏衣仏法の功徳、その伝仏正法の祖師にあらざれば、余輩いまだあきらめず、しらず。諸仏のあとを欣求すべくば、まさにこれを欣求すべし。仏衣仏法の功徳というのは、本当に仏法を伝えた者でなければわかりません。佛衣仏法の功徳をいただいた者が、伝仏正法の祖師ということになります。言葉を変えていうなら、伝仏正法の祖師というのは、仏行ができる人、つまりは坐禅が仏行に徹していること。只管打坐が徹底していること。「只管打坐」とは「正法眼蔵涅槃妙心」です。謂うなれば「正法眼蔵涅槃妙心」とは、仏衣仏法の功徳、すなわちお袈裟の功徳ということです。余輩いまだあきらめず。他の連中にはこれがわかりません。諸仏のあとを欣求すべくばまさにこれを欣求すべし。仏様のあとを一生懸命、願い求めるというならば、仏衣をお願いしなさい、という意味です。たとひ百千万代ののちも、この正伝を正伝とすべし。永遠の仏法修行者の実態でございます。これは時代により変化するものではありません。証験まさにあらたならん。私達の修行というものは貯蓄が出来ませんぜ、これは。亦人間の体には、食い溜めが出来るものではありません。腹一杯食べても、次の日の朝には、食べなきゃならん。つまり我々の体は貯蔵が効かないということです。私もこれまで修行や勉強は、よくさぼりましたが、飯を食うことだけは、さぼりませんね。修行というのは続けなければなりませんよ、坐禅に卒業はありまぜん。仕上がりもありませんぜ、飯を食ってる間はさぼれません、呼吸してる間も同様です。証験というのは実践すること。水を乳に入るるに相似すべからず。薄めちゃいけませんよ、他の物が入るといけませんぜ。皇太子の、帝位に即位するがごとし。皇太子はそのまま天皇の位になるでしょう、あれと同じことです。これは政治問題の評論じゃありませんよ。かの合水の乳なりとも乳をもちいんときは、この乳のほかにさらに乳なからんにはこれをもちいるべし。合水というのは乳の中に水を入れたもので、乳に似ているけど純粋の乳じゃありません。しかし薄めてあっても乳は乳ですから、それを飲みなさい、という表現です。たとひ水を合せずとも、あぶらをもちいるべからず、うるしをもちいるべからず、さけをもちいるべからず。代用品がありません。お袈裟にも代用品がありませんし、仏道修行にも代用品の修行はありません。この正伝も、またかくのごとくならん。たとひ凡師の庸流なりとも、正伝あらんは、用乳のよろしきときなるべし。凡夫の者でも正伝あるならば、最も修行に適した時である、つまりは、正伝の時には好く修行しなさい、ということです。

いはんや仏仏祖祖の正伝は、皇太子の即位のごとくなるなり。仏仏祖祖の正伝というのは、元々正伝でなきゃ正伝にはなりませんし、皇太子でなきゃ天皇にはなれません、同じことです。俗、なをいはく、先王の法服にあらざれば服せず。昔の王様の着られたものでしか、着ちゃならんといいますね、これは中国の諺にあります。それと同じように、仏法は仏法以外のこと、お袈裟は袈裟以外の衣は、著けてはいけないということです。仏子いづくんぞ仏衣にあらざらんを著せん。仏子は代用品を掛けちゃいけません。後漢、孝明皇帝、永平十年よりのち、西天・東地に往還する出家・在家、くびすをつぎてたえずといへども、西天にして仏仏祖祖正伝の祖師にあふといはず、如来より面授相承の系譜なし。仏法が伝わった年代が、後漢の孝明皇帝の永平十年とされていまして、その頃には絶えず人々が、印度と中国を往復していたんでしょう。印度に行って正伝の祖師に遭った、ということは聞いていないと、当時は学問仏教ですからね。従いまして旁流の彼らには、面授相承の伝統がなかったというわけです。ただ経・論師にしたがふて、梵本の経教を伝来せるなり、仏法正嫡の祖師にあふ、といはず、仏袈裟相伝の祖師あり、とかたらず。あきらかにしりぬ、仏法の閫奥にいらざりけりということを。かくのごときのひと、仏祖正伝の旨、あきらめざるなり。私達は三蔵法師という言葉を聴いていますが、彼らは言語学の専門家で、彼らのことを経論師と呼ばれます。梵本、つまりサンスクリット本の経典を大量に持ってきた。彼らは学者ですから、正嫡の祖師には遭っていません。仏様の袈裟を伝えたということも聞いていません。三蔵法師と呼ばれる人達は、仏法の真髄にまで到達していなかった、学問の仏教までしか、達していなかったということですね。かくの如きの人達は、仏祖正伝、つまり仏法の主旨がわかっていなかった、と道元禅師はおっしゃっています。正伝の仏法と申しますのは、言葉を変えていいますと、尽十方界の真実なんですよ、これは。尽十方界の真実は概念じゃありませんぜ、実物ですぜ。この実物が仏法ですぜ、人間の考える思想じゃありませんぜ。

釈迦牟尼如来正法眼蔵無上菩提を、摩訶迦葉に附授しましますに、迦葉仏正伝の袈裟、ともに伝授しまします。嫡嫡相承して曹溪山大鑑禅師にいたる、三十三代なり。その体・色・量、親伝せり。それよりのち、青原・南嶽の法孫、したしく傳法しきたり、祖宗の法を搭し、祖宗の法を製す。正法眼蔵無上菩提」を摩訶迦葉に附授す、と申しますと、何かプレゼントしたように思うでしょうが、その時に迦葉仏正伝の袈裟ともに伝授しまします。私達は「正法眼蔵無上菩提」を「涅槃妙心」と呼んでおります。この正体は何だい。御前に遣るよというのが有るのか、お釈迦様はそういうものを所有していたのか?。伝法の最後に〔我に正法眼蔵涅槃妙心あり摩訶迦葉に付属す〕、と言われましたが、道元禅師は「吾有正法眼蔵涅槃妙心」(永平広録428参照)と言われ、吾有は、あなたが生きていることが「正法眼蔵涅槃妙心」であると説かれたわけです。意訳して云うならば、特別な精神状態ではなく、平常心そのものということです。私達の最も偉大なものは;この体ですよ:。科学者の云うミクロな世界、乃至マクロの世界、そんなものは偉大じゃありませんぜ。彼らの扱う世界は、自身の視覚の範囲内の現象ですから、何ともなく生きている此の事実、これ以上偉大なるものはありません。亦真の偉大さには驚くことなく、中途半端なものには驚くという特性があります。例えば都会の高層ビルを思い浮かべてください。新宿の何百メートルもの建物だと、真下からでは頂上が拝めず、首が痛くなりますが、駒沢大学の屋上から眺めますと、そんな実感は湧きません。小さいもんですよ、青空の大きさ・高さ、と比べると。そこから「平常心是道」という言葉に無量無辺を感じるんです。この事実を摩訶迦葉一人が体得し、同時に袈裟を伝授したということです。嫡嫡相承。代代伝わり慧能に至り三十三代、と同時に体・色・量、つまりお袈裟の実体も親伝しました。六祖には大勢のお弟子さんがいましたが、残ったのが青原行思と南嶽懷譲の二系統が伝法し、祖宗の法を塔しというのは、お袈裟を著けることで、祖宗の法を製すというのは、お袈裟を作ることです。浣洗の法、および受持の法、その嫡嫡面授の堂奥に参学せざれば、しらざるところなり。お袈裟も洗濯しなきゃなりません。ですから浣洗の法、および受持の法、つまり私達はどういうふうに、袈裟をいただいているかということ。嫡嫡面授の堂奥に参学せざれば、そこまでよく究めなければ、浣洗の法も受持の法もわかりませんね。

今回はこれで終わります。

 

正法眼蔵 袈裟功徳提唱(七)  酒井得元 

※原文

 袈裟言有三衣、五條衣七條衣、九條衣等大衣也。上行之流、唯受此三衣、不畜餘衣、唯用三衣、供身事足。

 若經営作務、大小行來、著五條衣。爲諸善事入衆、著七條衣。教化人天、令其敬信、須著九條等大衣。

 又在屏處、著五條衣、入衆之時、著七條衣。若入王宮聚落、須著大衣。

 又復調和熅煗之時、著五條衣、寒冷之時、加著七條衣、寒苦嚴切、加以著大衣。

 故往一時、正冬入夜、天寒裂竹。如來於彼初夜分時、著五條衣。夜久轉寒、加七條衣、於夜後分、天寒轉盛、加以大衣。

 佛便作念、未來世中、不忍寒苦、諸善男子、以此三衣、足得充身。

 

〔袈裟は、言く三衣有り、五条衣・七条衣。九条衣等の大衣なり。上行の流は、唯だ此の三衣のみを受けて、余衣を畜えず、唯だ三衣のみを用いて、供身事足す。若し経営作務、大小の行来には、五条衣を著す。 諸の善事を為し入衆するには、七条衣を著す。人天を教化し、其をして敬信せしむるには、須く九条等の大衣を著すべし。又屏処に在らんには、五条衣を著す。入衆の時には、七条衣を著す。若し王宮聚落に入るには、須く大衣を著すべし。又復調和熅煙の時は、五条衣を著す。寒冷の時は、七条衣を加著す。寒苦厳切なるには、加えて以て大衣を著す。故往の一時、正冬の夜に入りて、天、寒くして竹を裂く。如来、彼の初夜分の時に於て、五条衣を著す。夜久しく転た寒きには、七条衣を加う。夜の後分に於て、天寒転た盛んなるには、加うるに大衣を以てす。仏、便ち念を作さく、未来世の中に、寒苦を忍びざらん諸の善男子は、此の三衣を以て、足して充身することを得ん、と。〕

塔袈裟法(袈裟を塔ける法)

偏袒右肩、これ常途の法なり。通両肩塔の法あり、如来および耆年老宿の儀なり。両肩を通ず、というとも、胸臆をあらはすときあり、胸臆をおほふときあり。通両肩塔は、六十条衣以上の大袈裟のときなり。塔袈裟のとき、両端ともに左臀肩にかさねかくるなり。前頭は左端のうへにかけて、臀外にたれたり。大袈裟のとき、前頭を左肩より通して、背後にいだし、たれたり。このほか種種の著袈裟の法あり、久参咨問すべし。

※提唱

袈裟は言く三衣あり、五条衣・七条衣。九条衣等の大衣なり。

袈裟はどういうものかといいますと、五条衣、七条衣、九条衣、とが有る。条というのは田圃の区画のことです。

上行の流は、唯だ此の三衣のみを受けて、余衣を蓄えず、

修行のよくできた者は、五条と七条と九条の三領のみをいただいて余分な物は持っていない。

唯だ三衣のみを用いて、供身事足す。若し経営作務大小の行来には、五条衣を著す。

日常生活のことを、経営作務大小行来と表現したんです。日ごろは五条衣を著す。

諸の善事を為し入衆するには、七条衣を著す。

入衆は皆と共に修行することで、諸の善事を為すとは、修行することで、そういう時には七条衣を著す。

人天を教化し、其をして敬信せしむるには、須く九条等の大衣を著すべし。又屏処に在らんには、五条衣を著す。入衆の時には、七条衣を著す。

つまり人前に出ない時、内輪にいる時には、五条衣を著す。入衆の時、つまり大衆と修行している時には、七条衣を著す、ですから七条衣のことを入衆衣とも言います。

若し王宮聚落に入るには、須く大衣を著すべし。

大衣というのは九条衣以上ですよ、九条から二十五条まであります。九品の大衣と申しまして九種類あります。九条。十一条。十三条。十五条・十七条・十九条。二十一条。二十三条、それに二十五条です。

又復調和熅煗の時は、五条衣を著す。

つまり暖かい時には五条衣を著す。

寒冷の時は、七条衣を加著す。

つまり五条衣の上に七条衣を重ね着することです。

寒苦厳切なるには、加えて以て大衣を著す。

さらに厳しい時には、更に大衣を著ける。

故往の一時、正冬の夜に入りて、天、寒くして竹を裂く。如来、彼の初夜分の時に於いて、五条衣を著す。夜久しく転た寒きには、七条衣を加う。夜の後分に於いて、天寒転た盛んなるには、加うるに大衣を以てす。仏、便ち念を作さく、未来世の中に、寒苦を忍びざらん諸の善男子は、此の三衣を以て、足して充身することを得ん、と。

日常生活では五条衣で過ごし、寒くなったらその上に七条衣を重ね、耐え難い時には九条衣を著けて修行せよ、という意味です。

塔袈裟法(袈裟を塔ける法)

偏袒右肩、これ常途の法なり。通両肩塔の法あり、如来および耆年老宿の儀なり。両肩を通ず、といふとも、胸臆をあらはすときあり、胸臆をおほふときあり。通両肩塔は、六十条衣以上の大袈裟のときなり。塔袈裟のとき、両端ともに左臀肩にかさねかくるなり。前頭は左端のうへにかけて、臀外にたれたり。大袈裟のとき、前頭を左肩より通して、背後にいだし、たれたり。このほか種種の著袈裟の法あり、久参咨問すべし。

塔袈裟というのはお袈裟の掛け方です。偏袒右肩は右の肩を裸にした状態です。先日、日本仏教学会で比叡山に参りました折、チベット僧のダライ・ラマが来てました。十月で寒かったので通両肩塔でしたが、釈迦堂で礼拝する時には、右肩を出した偏袒右肩になり三拝し、そして我々にも挨拶したよ。偏袒右肩というのは、普通のやり方ですから常途の法と言います。通両肩塔と云いますと普段はやりませんが、説法する時とか、師匠の立場に立つた場合に行います。通両肩塔は両方の肩を覆うから通両といいます。

お袈裟の掛け方の原則は、左肩の上で両端が重なることです。これは偏祖右肩も通両肩塔も同じですよ。宗門では左肩に三ツ折に掛けますが、あれは明治の終わり頃からだそうです。昔は環がついてましたから掛け方が違います。

亦お袈裟に衫が有ったらいけませんよ。あれは曹洞宗だけですよ。法戦式で首座和尚が衫をつけてますが、あれも時代の流行でしょうか。通両肩塔は六十条衣以上の大袈裟のときなり。とありますが、通両肩塔は略して通肩と申します。六十条衣とありますが、お袈裟は奇数ですから六十条衣はありません。この条文には昔の人も困ったそうですが、五条衣は一長一短・七条衣は二長一短。九条衣は三長一短です。ですから五条衣は五の二葉掛けで十、七条衣は七の三葉掛けで二十一、九条衣は九の四葉掛けで三十六、と計算しまして十五条衣の三長一短で計算しますと、十五の四葉掛けで六十という数字が出てまいります。ですから六

十条衣というのは、十五条衣のお袈裟のことだと思われます。このほか種種の著袈裟の掛け方がありますが、久参咨問、具体的なことは師匠に久しく参じてたずねなさいという所で終わりましょう。

 

正法眼蔵 袈裟功徳提唱(八)酒井得元

:原文;

粱(りょう)・陳(ちん)・隋(ずい)・唐(とう)・宋(そう)、あひつたはれて数百歳のあひだ、大小両乗の学者おほく講経の業(ぎょう)をなげすてて、究竟(くきょう)にあらずとしりて、すすみて仏祖正伝の法を習学せんとするとき、かならず従来の幣(へい)衣(え)を脱落して、仏祖正伝の袈裟を受持するなり。まさしくこれ捨邪帰正なり。如来の正法は、西天すなはち法本(ほうほん)なり。古今の人師、おほく凡夫の情量・局量の小見をたつ。仏界・衆生界、それ有辺・無辺にあらざるがゆえに、大小乗の教行人理、いまの凡夫の局量にいるべからず。しかあるに、いたづらに西天を本とせず、震旦国にして、あらたに局量の小見を今案して仏法とせる道理、しかあるべからず。しかあればすなはち、いま発心のともがら、袈裟を受持すべくば、正伝の袈裟を受持すべし、今案の新作袈裟を受持すべからず。正伝の袈裟というは、少林・曹溪正伝しきたれる、如来の嫡嫡相承なり、一代も虧闕(きけつ)なし。その法子法孫の著しきたれる、これ正伝袈裟なり、唐土の新作は正伝にあらず。いま古今に、西天よりきたれる僧徒の所著の袈裟、みな仏祖正伝の袈裟のごとく著せり。一人としても、いま震旦新作の、律学のともがらの所製の袈裟のごとくなるなし。くらきともがら、律學の袈裟を信ず、あきらかなるものは抛却(ほうきゃく)するなり。おほよそ仏仏祖祖相伝の袈裟の功徳、あきらかにして信受しやすし。正伝、まさしく相承せり、本(ほん)様(よう)、まのあたりつたはれり、いまに現在せり。受持、あひ嗣法して、いまにいたる。受持せる祖師、ともにこれ証(しょう)契(かい)伝法(でんぼう)の師資なり。しかあればすなはち、仏祖正伝の作袈裟(さけさ)の法によりて作法すべし。ひとりこれ正伝なるがゆえに、凡聖・人天・龍神、みなひさしく証知しきたれるところなり。この法の流布にむまれあひて、ひとたび袈裟を身体におほひ、刹那・須臾も受持せん、すなはちこれ決定成無上菩提の護身(ごしん)符子(ふす)ならん。一句・一偈を信心にそめん、長劫光明の種子(しゅうじ)として、つひに無上菩提にいたる。一法・一善を身心にそめん、亦復(やくぶ)如是なるべし。

 

 ※提唱

仏法が中国に入ってまいりましてから、時が経過し宋の時代になるまでの何百年もの間に、大乗小乗の学問仏教の学者が本当の仏教に気付いて、講経、つまりお経の講義を止めてしまいました。仏教学を研究しておりますと、最後には学問では解決しない、ということがよくわかります。つまり仏法は思想ではありません。仏法の究竟は、尽十方界の真実まで行き着きます。真実というのは人間の考えることではありませんよ、概念や文字の世界じゃ考えつきません。究極は”“体”自身の真実を修行するということになります。私達の修行は、本当の仏を実践しなければなりませんから、気分の高揚や成仏の為の坐禅の修行では、わがままな暴走と同じです。坐禅の実践は仏を行ずることであり、この臭皮袋というものも、自分の持ち物ではありません。この自分というのが、体の中の一情景で人生ですよ。いわば波の動きのようなものですが、時として、私達はその波の振幅が、人生の全てと思い込みますが、時間の経過と共に、どんな大きな波も元にもどります。この事実を尽十方界の真実と言い、それを仏と称し、その実践が仏行と成り、只管打坐の修行へと行きつくのです。本気で教学をやっている連中でも、正法に眼が醒めてみるならば、坐禅せざるを得なくなるものです。着ているものも同様に、お釈迦様と同じお袈裟を著けて同じような修行をするはずです。袈裟と坐禅は不即不離の関係と言えるでしょう。ですから道元禅師は非常に袈裟を大切にするのは、右記の御教示からも窺がい知れるでしょう。他の祖師方には、このような『袈裟功徳』のような記述はありませんよ。

 次に如来の正法は、西天すなはち法本なり。といいますのは、印度が源流ですから法本と云ったんです。しかし考えてみると印度が特産じゃありませんぜ。宇宙全体が仏法ですから片寄っちゃいけませんね。一応その時の常識として、西天は法本と言われたんです。古今の人師、おほく凡夫の情量・局量の小見をたつ。古今の人師というのは、仏道を学んだ人達、お師匠のことでしょう。凡夫というのはどういうことかと云いますと、自分の目的を達する為には手段を選ばないというのが、情量・局量の小見です。つまり、自己本位にしか、物事を考えることしかできない者を凡夫と云い、本当の仏道者は、その自己本位を制御できる者。それで凡夫の情量・局量の小見をたつ。と言ったんです。仏界・衆生界、それ有辺・無辺にあらざるがゆえに、大小乗の教行人理、いまの凡夫の局量にいるべからず。仏界・衆生界それ有辺・無辺にあらざるがゆえに。つまり申しますと有辺とは範囲が決まっている、範囲が決まっていないのが無辺です。ところが仏界・衆生界には有辺無辺はありません。だからしてあらざるがゆえに。大小乗の教行人理というのは、仏法の教え・修行は、普通の人間(凡夫)とは違うんだということやね。しかあるに、いたずらに西天を本とせず、震旦国にして、あらたに局量の小見を今案して仏法とせる道理、しかあるべからず。何故このように、言われるかと申しますかというと、中国に仏教が伝来以来、勝手に教理の解釈をしまして、中国人的趣向に合わせ、本来の意味を改変してしまいました。そのことを言ってるんです。特に顕著なのが服装でした。それでお袈裟も変化させられました。お袈裟の本来の目的は、体を覆い寒暑を防ぐものでした。ところが中国に伝来してからは飾り物になり、ついには権威の象徴になってしまいました。そいうわけで、道理しかあるべからず、と言われたんです。しかあればすなはち、いま発心のともがら、袈裟を受持すべくば、正伝の袈裟を受持すべし。発心して本当の袈裟を受持しようとするなら、正伝の袈裟、つまり人間の虚構を超越したものでなければいけません。今案の新作袈裟を受持すべからず鎌倉時代にでも、いろんな袈裟が有ったんでしようね。正伝の袈裟というは、少林・曹溪、正傳しきたれる。少林は達磨さん、曹溪は六粗さん。如来の嫡嫡相承なり、一代も虧闕なし。ずーと坐禅をする者が掛けるもの、という意味です。その法子法孫の著しきたれる、これ正伝袈裟なり、唐土の新作は正伝にあらず。つまり唐の流行の袈裟は正伝じゃありませんぜ、これは。虚構が作りあげたものです。仏法も中国に来てから虚構になったんですね。と云いますのは政治に利用されたからです。(テープ四行程聞き取れず)

 おほよそ仏仏祖祖相伝の袈裟の功徳、あきらかにして信受しやすし。この信受しやすし、というのは、正しい修行が行われる時には、お袈裟に対する信仰というものが生じてくるものです。袈裟に対して、お拝をするという宗旨は、ほかに(曹洞宗以外)知りません。正伝まさしく相承せり。お袈裟をお拝するわけですから、お袈裟の内容が違ってくるのも当然です。本様まのあたりつたはれり。本当のお袈裟ということが出てくる。いまに現在せり、あひ嗣法して、いまにいたる。だんだんと伝わってきた。受持せる祖師、ともにこれ証契伝法の師資なり。お袈裟が伝わるということは、証契伝法の師資でなければ伝わらないな、師資というのは師匠と弟子との関係ですよ。わが宗門の証契伝法は只管打坐です。伝法というのは、切り紙とか仏祖の名前を書くとか、そんな変なもんじゃありませんぜ、これは。しかあればすなはち、仏祖正伝の作袈裟の法によりて作法すべし。仏祖正伝の作袈裟というのはファッション・流行じゃありませんから、他人の視線を気に懸ける必要はありません。お袈裟は見栄えの格好ではなく、正しく修行することが目的です。ひとりこれ正傳なるがゆえに、凡聖・人天・龍神、みなひさしく證知しきたれるところなり。本来なら皆知っていることだ、知っているけれども、それに入らないだけの話。この法の流布にむまれあひて、ひとたび袈裟を身体におほひ、刹那・須臾も受持せん、すなはちこれ決定成無上菩提の護身符子ならん。仏法の中に生まれ値うことができ、袈裟を掛け、僅かな時間でもいただこうじゃないか。少しの時間でも坐禅をする、ということにより行仏行が行われる。そこで決定成無上菩提ということは、決定的成仏ということが、袈裟を掛け坐禅することにより、初めて完成し体を守ってくれる。そこで護身符子という言葉が出てくるわけです。一句・一偈を信心にそめん、長劫光明の種子として、つひに無上菩提にいたる。一法・一善を身心にそめん、亦復如是なるべし。宗門では聞法ということに重きを置いています。自分勝手な解釈を止めて聞法する。これが宗門の修行の原則です。それで一句一偈を信心にそめん、一法一善を身心にそめん。と説かれ、亦復如是なるべし、と説かれます。この如是ということは、真実が大事だということです。うっかりしますと、真実を曲解してしまいます。真実というのは自分が感心するものじゃありませんよ。真実を体験したと申しますが、体験には真実がないんだ。このあたりのことは、よくよく考えてみて下さい。

今回はこれで終わります。

 

 正法眼蔵 袈裟功徳 提唱(九)   酒井得元

※原文

心念も刹那生滅し、無所住なり、身体も刹那生滅し、無所住なりといへども、所修の功徳、かならず熟脱のときあり。袈裟、また作にあらず、無作にあらず、有所住にあらず、無所住にあらず、唯仏与仏の究竟(くきょう)するところなりといへども、受持する行者、その所得の功徳、かならず成就するなり、かならず究竟するなり。もし宿善なきものは、一生・二生、乃至無量生を経歴(きょうりゃく)すといふとも、袈裟をみるべからず、袈裟を著すべからず、袈裟を信受すべからず、袈裟をあきらめしるべからず。いま震旦国・日本国をみるに、袈裟をひとたび身体に著することうるものあり、えざるものあり、貴賎によらず、愚痴によらず。はかりしりぬ、宿善によれりということ。しかあればすなはち、袈裟を受持せんは、宿善、よろこぶべし、積(しゃつ)功(く)累(るい)徳(とく)、うたがふべからず。いまだえざらんは、ねがふべし、今生いそぎ、、その、はじめて下種(あしゅ)せんことをいとなむべし。さはりありて受持することえざらんものは、諸仏如来・仏法僧の三宝に、慚愧(ざんぎ)・懺悔(さんげ)すべし。他国の衆生、いくばくかねがふらん、わがくにも震旦国のごとく、如来の衣法、まさしく正伝親臨せまし、と。おのれがくにに正伝せざること、慚愧ふかかるらん、かなしむうらみあるらむ。われらなにのさいあひありてか、如来世尊の衣法正伝せる法に、あふたてまつれる。宿殖(しゅくじき)般若の大功徳力なり。

※             提唱

心念も刹那生滅し、無所住なり、身体も刹那生滅し、無所住なりといへども、所修の功徳、ならず熟脱のときあり。心念というのは私達の生命現象です。刹那生滅し、全てのものは無所住で、決まったものはありません。天気みたいなものです。体も同様で、無所住ですから、昨日の顔と今日の顔では違ってます。常に新陳代謝してますから、昨日のふるもの持って、皆さんの前に出て来ませんよ。皆さんだって同じで、昨日の顔と今日の顔は同じじゃありません。このことを、身体も刹那生滅し無所住なり、と言ったんです。尽十方界の真実は、これですよ。所修の功徳と申しますのは、私達の真実というものは、常に活動していることが真実で、ある特定の時期が真実じゃありません。この坐禅修行は、刹那生滅・無所住である実体を修行することが、坐禅の根本です。ですから坐禅は、ある時の心境じゃありません。ただ黙って坐る。この体は大自然の一部ですから、一時も休まず動き続けています。それをそのまま実践するのが坐禅の修行です。それで、ある一つのことを一生懸命考えてね、あーいう心理状態になってやろう、もっと素晴しい心境になろうと、歯を食い縛ってがんばる。飯も食わずにがんばる。これが人間の異常状態で、まともなことは嫌いでね。人間ぐらい酔っ払うことが好きな動物はいませんぜ。猫も酔っ払うのね、マタタビ食べた時だけ。人間世界だけですよ、酒飲み、タバコのみがいるのは。坐禅もうっかりしますと、酔っ払いの坐禅になりがちです。その代表格が腰掛け坐禅だろうな。やはり坐禅は正身端坐する、ということは尽十方界真実人体の実体を修行すること。それが、身体も刹那生滅し、無所住なりといへども、所修の功徳、かならず塾脱のときあり。ということで、塾脱というのは黙って坐禅している時です。つまり生命現象をそのまま現ずることです。塾脱のときには人生問題は成り立ちません。道元禅師は只管打坐について、正身端坐を先とすべし然して後調息致心す、と言われます。(永平広録第五・三九〇条参照)正身端坐というのは姿勢ですぜ。その時に調息が行われます。息を調えると書きますけど、数息観ではありません。数息観は人為的なものですから、感心しません。脳というものは常に働いてますよ。皆さんも、この文章読みながらでも、いろんなことが頭をよぎるでしょう。ですから、壁一枚隔てた音が聞こえ、認識できるでしょう。寝入っていたら、頭に浮かんでもこなければ、隣の雑音も聞こえません。つまり本当の姿というものは、呼吸も頭の働きも、正身端坐することによって始めて実践することになるじゃないか。ですから道元禅師は、打坐は正法眼蔵涅槃妙心、と言われるんです。(永平広録第四・三〇四条参照)

 袈裟、また作にあらず、無作にあらず、有所住にあらず、無所住にあらず、唯仏与仏究竟するところなりといへども、受持する行者、その所得の功徳、かならず成就するなり、かならず究竟するなり。この作にあらず、無作にあらず。人間がどうとか云う問題じゃありませんぜ。つまり、どんな格好がいいだろうか、どういう衣装がいいか、そんなことは、そこにはありませんぜ。有所住にあらず、無所住にあらず。これも同じことを繰り返しただけです。次に唯仏与仏の究竟する。といいますのは、唯仏与仏、仏と仏とのみなり、と言うことでして、この世の中は仏以外のものは、一つとして存在しない、ということです。ですから特別な事物ではなく、全存在が仏という考えです。唯仏与仏には乃能究尽がセットになります。仏であることは不完全なものはなく、徹底的に仏である、というのが唯仏与仏乃能究尽で、これが道元禅師の信仰ですよ。これが仏道修行の原則だよ。受持する行者、その所得の功徳、かならず成就するなり。これは、だれでもがお袈裟をいただいて修行でき、行仏行が完成できる、ということです。これは信仰の問題ですから、究竟する、という信念を持たなきゃなりません。

 私の昔話で、こんなことがありました。香厳の「撃竹の話」を聞きまして、竹に小石を投げてその音を聞いて、どいうのが悟りの音かとやっていたんです。そうしたらね、和尚がやって来て、「お前何やってるんだ」、と云いますから、例の悟りの話をしたんです。そしたら私の師匠が云うのに、坐禅して悟れるのは、お釈迦様か道元禅師みたいな、特別な人間しか悟れないし、我々が坐禅をしても、だめだよと教えられました。これは意味が違いますよ。坐禅の悟りは体験じゃありませんよ。パチンコ的な頭で考える者には、なかなか呑み込めないことです。

 もし宿善なきものは、一生・二生、乃至無量生を経歴すといふとも、袈裟をみるべからず、袈裟を著すべからず、袈裟を信受すべからず、袈裟をあきらめしるべからず。よほど運が良くなければ、仏法に巡り遭えないわけです。人間は足の先から頭の先までパチンコ的考えですから、只管打坐といわれても、なかなかやれるものじゃありません。人間性に反しますから。人間性というのは、自分の好みに暴走することですから、そこで道元禅師は非常に言葉を費やして、そこのところを説明されています。いま震旦国・日本国をみるに、袈裟をひとたび身体に著することうるものあり、えざるものあり、貴賎によらず、愚痴によらず。はかりしりぬ、宿善によれりといふこと。つまり私達がお袈裟に縁が有るということは、運が良かった、といいますか。宿善といいますのは、生まれ方が良かった、幸運だった、という意味です。しかあればすなはち、袈裟を受持せんは、宿善、よろこぶべし、積功累徳、うたがふからず。お袈裟をいただくことができたということは、宿善よろこぶべし、ですね。前世に良い種を撒いた因縁で以って、お袈裟に巡り遭ったということですかね。積功累徳と申しますのは、これまでの修行の成果で、それを信じなければならない、ということです。いまだえざらんはねがふべし。まだお袈裟にお眼にかかってない者は、巡り遭いたいという願いをしてください。今生いそぎ、その、はじめて下種せんことをいとなむべし。つまり、お袈裟に巡り遭えるとうな下地を、ひとつ努力する必要があります。さはりありて受持することえざらんものは、諸仏如来・仏法僧の三宝に、慚愧・懺悔すべし。どうしてもお袈裟をいただくことができない者は、恥じ入って過去の罪悪を悔い改めなさい。他国の衆生、いくばくかねがふらん、わがくにも震旦国のごとく、如来の衣法、まさしく正伝親臨せまし、と。他国の衆生達も、お袈裟についてどれほどか、お願いすることであろう。「せまし」というのは、してくれますようにと願うことです。おのれがくにに正伝せざること、慚愧ふかかるらん、かなしむうらみあるらむ。自分の国に正伝のお袈裟が伝わって来ないというのは、恥ずかしく思わなくてはいけませんよ、又悲しんで、怨むこともあるでしょう。われらなにのさいはひありてか、如来世尊の衣法正伝せる法に、あふたてまつれる。宿殖般若の大功徳力なり。私達が、衣法正伝の法に値うことができたということは、前世に於いて真面目に修行してきた御陰じゃないか。感謝しなければなりません。これほど切実に、お袈裟に対する真心が大事だということを強調するわけです。

今回はこれで終わりましょう。

 

正法眼蔵 袈裟功徳 提唱(十)  酒井得元

※             原文

いま末法悪時世は、おのれが正伝なきをはぢず、他の正伝あるをそねむ。おもはくは、魔党ならむ。おのれがいまの所有・所住は、前業にひかれて真実にあらず。ただ正伝仏法を帰敬せん、すなはちおのれが学仏の実帰なるべし。おほよそしるべし、袈裟は、これ諸仏の恭(く)敬(ぎょう)帰依(きえ)しましますところなり、仏身なり、仏心なり。解脱服と称し、福田衣と称し、無相衣と称し、無上衣と称し忍辱衣と称し、如来衣と称し、大慈大悲衣と称し、勝(しょう)幡(ばん)衣(え)と称し、阿耨多羅三藐三菩提衣と称す、まことにかくにごとく受持頂戴すべし。かくのごとくなるがゆえに、心にしたがうてあらたむべきにあらず。その衣財、また絹(けん)・布(ふ)、よろしきにしたがうてもちいる。かならずしも、布は清浄なり、絹は不浄なるにあらず。布をきらうて絹をとる、所見なし、わらふべし。諸仏の常法、かならず糞掃衣を上品とす。

 糞掃に十種あり、四種あり。いはゆる、火焼・牛嚼(ごしゃく)・鼠噛(そこう)・死人衣等。五印度ノ人、如レキ此等衣、棄二ツ之ヲ巷野一二。事同二ジ糞掃二一、名二糞掃衣一ト。行者取レテ之ヲ、浣染縫冶、用以テ供レ身二。<五印度の人、此の如き等の衣、之を巷野に棄つ。事、糞掃に同じ、糞掃衣と名づく。行者、之を取って浣染縫冶して、用いて以て身に供ず>。そのなかに絹類あり、布類あり。絹・布の見をなげすてて、糞掃衣を参学すべきなり。糞掃衣は、むかし阿耨達池(あのくだつち)にして浣染せしに、龍王、賛嘆・雨(う)華(け)・礼拝しき。小乗教師、また化(け)糸(し)の説あり。よところなかるべし、大乗人、笑ふべし、いづれか化糸にあらざらん。なんぢ、化をきくみみを信ずとも、化をみる目を疑ふ。

※             提唱

いま末法悪時世は、おのれが正伝なきをはぢず、他の正伝あるをそねむ。おもはくは、魔党ならん。今の末法悪時世に於きましては、自分の所に依法正伝がないのを、少しも恥ずかしいとは思わない。他の方を嫉妬する、思うに、こういう連中は悪魔ですね。おのれがいまの所有・所住は、前業にひかれて真実にあらず。つまり申しますと、今現在というものは、前からの習慣に引っ張られますから、真実が行われない。ただ正伝仏法を帰敬せん。ですから、正しくなる為には、正伝の仏法に帰依しよう、と説かれます。すなはちおのれが学仏の実帰なるべし。要するに正伝の仏法は一生懸命に、尊敬することしか、あり得ないじゃないか。おほよそしるべし、袈裟は、これ諸仏の恭敬帰依しましますところなり。いままでの処をまとめて申しますと、袈裟とは、諸佛の恭敬帰依する所でありまして、信仰のない者は仏じゃありませんぜ、これは。仏身なり仏心なり。解脱服と称し、福田衣と称し、無相衣と称し、無上衣と称し、忍辱衣と称し、如来衣と称し、大慈大悲衣と称し、勝幢衣と称し、阿耨多羅三藐三菩提と称す。仏身は仏の体、仏心は仏の御心。解脱服は解脱の服。福田衣はお袈裟によって仏が生まれること。無相衣は形に囚われないこと。無上衣はこれ以上尊いことがないこと。忍辱衣は六波羅蜜の中で説かれ、凡情に耐え忍ぶこと。如来衣はお袈裟のところに仏の行があること。大慈大悲衣は自我はありません。全てのものを包容し、排斥するものは何もない、これが大慈大悲です。勝幢衣は正法の目印です。阿耨多羅三藐三菩提衣はお袈裟を掛け坐禅するこにより、無上正等正覚が実践されています。

 私達の只管打坐の坐禅は、「正法眼蔵涅槃妙心」を実践しているんです。「正法眼蔵涅槃妙心」の真実を訳しますと、阿耨多羅三藐三菩提です。この真実は皆さんが感激するものじゃありませんよ。本当に偉大なものには、感激ということは有り得ません。中途半端なことには気が引っ張られます。この日常生活での呼吸していること、心臓が拍動していることに感嘆する人、いないでしょう。この宇宙の偉大なる真実は、この六尺の体が実践してるんですよ。この体の働きは、素晴しいというよりは、これ以上のものは存在しませんぜ、これは。科学が発達しまして、何億光年先の天体を観測しましても、それは、観測者自身の生命内活動の一分野のことでしかありません。この生命活動を飛び越えることは絶対にできません。このことを、よく考えて下さい。これほど、偉大にも関わらず、一度として感激したこともなければ、喜んだこともない、平常心だ。仏法の極意は、平常心是道ですが、これほど偉大なものはないな。人間が云うところの、素晴しい、感激した、というのは興奮ですから、たいしたことありません。こいうことが阿耨多羅三藐三菩提の説明です。まことにかくのごとく受持頂戴すべし。私達のお袈裟は、こういう意味に於きまして、いただいてください。かくのごとくなるがゆえに、心にしたがうてあらたむべきにあらず。お袈裟をファッションにし、自分勝手な方法で作ってはだめだ、ということです。

 その衣財、また絹・布、よろしきにしたがうてもちいる。いよいよ、お袈裟の実体に入ってまいります。布というのは木綿のことです。よろしきに従う、というのは、その時々の状態で構わないという意味です。かならずしも、布は清浄なり、絹は不浄なるにあらず。つまり木綿は清浄で、絹は不浄である。四分律律宗では、絶対に絹は用いませんよ。絹の糸は繭を殺生したものですから、決して使用しません。布をきらうて絹をとる、所見なし、わらふべし。また逆に木綿を嫌って絹を好む、笑うべし、と道元禅師は説かれます。諸仏の常法、かならず糞掃衣を上品とす。諸佛の常法というのは、お袈裟の材料ですよ。どいうものかというと、必ず糞掃衣を上品とする、というのが原則です。糞掃衣に十種あり、四種あり。いはゆる、火焼・牛嚼・鼠嚙・死人衣等。いろんな説があるんですが、代表的な四種です。焼きかけた布きれ。半分焼けた着物なんか、着れませんから捨てるでしょう。そんなのを拾ってきて、使える部分だけ切り取り、縫い合わせたのが糞掃衣ですから。牛嚼というのは牛がかじったボロ布。鼠噛というのはねずみがかじった布。死人衣は、インドでは死人に新しい着物をきせ、近くの草原まで運んで、そこで裸にして刃物で手足等を切断して、鳥や獣に供養するそうです。一種の風葬・鳥葬ですね。その時に出た着物を、死人衣といいます。五印度人、如此等衣、棄之巷野。事同糞掃、名糞掃衣。行者取之、浣洗縫治、用以供身。インドでは、これら役に立たない者は、巷野に棄ててしまったんです。世間で役に立たないものを糞掃と呼び、衣にしたものを糞掃衣と云います。これは糞を掃除する衣、つまり穢いものを拭き取る、という意味もありますが、糞のように価値がなく捨てた衣、つまり魅力もなく誰も欲しがらない。というのが糞掃衣の意味するところです。行者取之、浣洗縫治、用以供身。行者は価値のなくなった糞掃衣を手に取り、きれいに洗って縫い合わせて、用いて以って身に供する。ということです。そのなかに絹類あり、布類あり。絹・布の見をなげすてて、糞掃を参学すべきなり。糞掃の中には、絹もあるでしょうし木綿もあるでしょう。そこでは糞掃として見て、材料として見るんじゃありませんから、絹であろうが木綿であろうが、そういう見方は捨てて、糞掃を参学すべきなり。すべてのものを一体として見ることです。もともとの価値を見ない。仏法というのは「唯仏与仏乃能究尽」でございました。これは全てのものが仏様です。紙くずであろうが石ころであろうが、又、汚れた汚物であろうが唯仏与仏から申しますと、それ自身が乃能究尽ですぜ。どんなものでも勝手に存在しているものはありません。別な謂い方をすれば、尽十方界真実が真実している姿ですよ。仏法者からしましたら、区別して見ちゃいけませんぜ。それが糞掃という言葉にあらわれたんです。糞掃が仏法の原則で、糞掃は「唯仏与仏乃能究尽」に置き換えても構いません。ですから品物により区別するのではなく、皆、平等に取り扱わなければなりません。糞掃衣は、むかし阿耨達池にして浣洗せしに、龍王、賛嘆・雨華・礼拝しき。こういう物語も伝わっています。小乗教師、また化糸の説あり。よところなかるべし、大乗人、笑ふべし、いづれか化糸にあらざらん。なんぢ、化をきくみみを信ずとも、化をもる目を疑ふ。化というのは、ものが生まれるのに卵胎・湿・化生という考えがあります。卵から生まれるもの。胎盤を通して生まれるもの。湿潤な所から生まれるもの。化生というのは、仏様や神様が姿を現すことを化生と呼び、この化生という生まれ方が一番尊いことだとされています。(化糸の説については『伝衣』にも記述・『法苑珠林』三十五・法服篇〔『大正新脩大蔵経』五十三巻五百六十一頁・中段参照〕よところなかるべし、何も根拠がありません。大乗人わらふべし、大乗からいうと滑稽ですよ。いづれか化糸にあらざらん、意味するところは、全てが化糸じゃないか、どんなものでも仏様の姿ですから「唯仏与仏乃能究尽」ですぜ。化糸でないものは、どこにもないじゃないか。なんぢ化をきくみみを信ずとも、化というものを耳で聞いているけれども、耳で聞いただけの話で、すべてのものに化を見ることはできないじゃないか。ということは、仏法に於いては特殊なものを選り好みしません。仏法者はどんな立場にあっても僻むということはあってはいけません。劣等感も持ってはいけませんし、人様を馬鹿にしちゃいけませんぜ。皆それぞれ有り難い存在でなきゃなりません。

 今回はこれまでにしましょう。 

 

正法眼蔵 袈裟功徳 提唱(十一)  酒井得元

※原文

 しるべし、糞掃をひろふなかに、絹(けん)に相似なる布(ふ)あらん、布に相似なる絹あらん。土俗万差にして、造化(ぞうけ)、はかりがたし、肉眼(にくげん)のよくしるところにあらず。かくのごとくの物をえたらん、絹・布と論ずべからず、糞掃と称すべし。たとひ人天の、糞掃と生長(しょうちょう)せるありとも、非情ならじ、糞掃なるべし。たとひ松(しょう)・菊(きく)の、糞掃と生長せるありとも、非情ならじ、糞掃なるべし。糞掃の、絹・布にあらず、金銀・珠玉(しゅぎょく)にあらざる道理を信受するとき、糞掃現成するなり。絹・布の見解(けんげ)、いまだ脱落せざれば、糞掃也未(ふんぞうやみ)夢見(むけん)在(ざい)〈糞掃も也(ま)た未(いま)だ夢にも見ざること在り〉なり。ある僧、かつて古仏にとふ、黄梅(おうばい)夜半(やはん)の伝衣、これ布なりとやせん、絹なりとやせん、畢竟(ひっきょう)じて、なにものなりとかせん。古仏いはく、これ布にあらず、これ絹にあらず。しるべし、袈裟は絹・布にあらざる、これ仏道の玄訓なり。商那和(しょうなわ)修(しゅ)尊者(そんじゃ)は、第三の附法蔵なり。むまるるときより衣と倶(とも)に生ぜり。この衣(え)、すなはち在家のときは俗服なり、出家すれば袈裟となる。また鮮(せん)白(びゃく)比丘尼、発願施氎(ほつがんせじょう)ののち、生生(しょうしょう)のところ、および中有、かならず衣と倶(く)生(しょう)せり。今日(こんにち)、釈迦牟尼仏にあふたてまつりて出家するとき、生得(しょうとく)の俗衣、すみやかに転じて袈裟となる、和修尊物におなじ。あきらかにしりぬ、袈裟は、絹・布等にあらざること。いはんや、仏法の功徳、よく身心諸法を転ずること、それかくのごとし。われら出家・受戒のとき、身心依正、すみやかに転ずる道理あきらかなれど、愚蒙にしてしらざるのみなり。諸仏の常法、ひとり和修・鮮白に加して、われらに加せざることなきなり。随分の利益(りやく)、疑ふべからざるなり。

※提唱

しるべし、糞掃をひろふなかに、絹に相似なる布あらん、布に相似なる絹あらん。土俗万差にして、造化、はかりがたし、肉眼のよくしるところにあらず。糞掃のなかでも絹に似た木綿もありますし、木綿に非常に似た絹もありますよ、これは。土俗万差と申しますのは、その土地・場所により風俗が違いまして、ある民族では、絹を木綿のように使っていることもある。あるいは、木綿が絹のように重宝がられる所もありますから、造化はかりがたし。で、これが正しいか、間違いかはわかりません。ですから私達の見方で判断してはいけません。かくのごとくの物をえたらん、絹・布と論ずべからず、糞掃と称すべし。かくの如くを得たらん。と申しますのは、何でも構わないということです。絹とか木綿とかは問題ではありません。これらを糞掃としていただきなさい、こういう意味合いです。たとひ人天の、糞掃と、生長せるありとも、有情ならじ、糞掃なるべし。人天の世界では、糞掃を馬鹿にしますけどね。有情ならじ、というのは、自分の感情でものを云っちゃいけなせんよ。穢いからとか、糞掃だとか、そんな感覚で判断してはいけません。この糞掃は、穢いという意味じゃありませんぜ。これは、袈裟の材料に対する、名詞のように取り扱っていただきたい。たとひ松・菊の、糞掃と生長せるありとも、非情ならじ、糞掃なるべし。松・菊といいますのは、美しいものの形容です。糞掃は穢いものとは限りませんよ。美しい糞掃があっても構いません。金襴だって糞掃ですよ。非情というのは、感情の問題じゃありません。松・菊は綺麗ですから感情に引っ張られます。そこで非情ならじ、というのは、美しいという感情が消えませんから、非情ならじ、と表現したんです。ところが、どんなに綺麗でもお袈裟になりますと、糞掃なるべし、となります。ところが金襴でピカピカ着飾っても、正法から見ますと糞掃です。糞掃の、絹・布にあらず、金銀・珠玉にあらざる道理を信受するとき、糞掃現成するなり。糞掃というのは、絹だの木綿だの、というものじゃありません。金銀・珠玉にあらざる道理というのは、一般的なきれい、きたない、という価値観を超越する時、お袈裟の材料の価値がある。糞掃というものは、これらの価値観とは次元を異にするものです。絹・布の見解、いまだ脱落せざれば、糞掃也未夢見在なり。絹だの木綿だのと、頭から離れない者にとっては、糞掃というものを夢にも見ることができぬ、ということです。ある僧、かつて古仏にとふ、黄梅夜半の伝衣、これ布なりとやせん、絹なりとやせん、畢竟じて、なにものなりとかせん。「黄梅夜半」といいますのは六祖ですね。六祖はまだ出家していなかったので、盧(ろ)行者(あんじゃ)と呼ばれていた。盧というのは彼の俗姓です。米搗き小屋の人夫やっとったんです、これは。六祖は広東省で、母親を養うために薪売りをやってたんです。ある時、薪売りの配達先で『金剛般若経』の講釈を聞いて感激し、説教師に何処で勉強されましたか。と伺うと、「黄梅山」にて勉強しました、と。「黄梅山」という言葉を聞くと同時に、いても立っても、いたたまれなく、そのまま「黄梅山」の五祖の所に駆け込んだそうだ。お坊さんとしてではなく、米搗きの人夫さんの立場ですよ。それから八ヶ月の間、一生懸命修行しておった。五祖は最初から六祖の器量を見抜いてをり、八ヶ月目にして、山内大衆に修行の成果を偈にして提出するよう命じたわけだ。ところが、山内には神秀という先輩格の上座がいたので一人もしなかった。神秀上座はそれを察して、偈を作り持って行ったのですが、直接手渡せなかった。万が一、五祖が認めてくれなかったら、と思うと躊躇し、何度か五祖の部屋の前まで行っては、を繰り返した。とうとう最後は直接五祖の房には行けず、前の廊下の壁に偈を貼り付け、自信がない為、自房で縮こまっていたんだ。夜が明け五祖が発見し、山内の大衆にこう云った。「身是菩提樹、心如明鏡台 時時勤払拭、莫使染塵埃。」この神秀の偈のように修行すれば、お前たちも得道するからな。この偈をよく覚えておけ、と云った。皆が神秀の偈をブツブツ呟いておったが、六祖はいつものように米搗きをして、何だか外の様子がいつもと違うので、小僧に聞いてみると、先ほどの出来事を教えてくれた。そして神秀の偈も教えてくれたので、その小僧に頼んで六祖自信の偈を書いてもらい、それを廊下の壁に貼った。「菩提本無樹、明鏡亦非台 本来無一物、何処有塵埃。」そうしますと、山内の者は皆驚いたそうです。あまりに素晴しい出来映えに。これは六祖になるに間違いない、と異口同音に皆いった。米搗き小屋に、生身の菩薩がいたとは知らなかったな。彼が六祖になったら、わしらが最初に指導して貰おうと云ってたそうだ。

そこに五祖が現れ、何だこんなもの、と云って皆の前で破り捨てた。それで皆が意気消沈して、各自の房に帰った。ということが『六祖檀経』に書いてありますよ。その晩五祖が米搗き小屋に来て、「米は搗き終わったか」、と聞いた。六祖は「はい、搗き終わりました」と答えるが、まだ「篩(ふ)くってありません」と答う。篩くってないというのは、米と糠とを分けてありません、という意味です。その後五祖は臼の淵を三回、ポンポンポンと叩いて帰ってしまった。それは今晩三更に、方丈に来なさい、という意味で、その晩嗣法が行われ、それが「伝衣嗣法」です。その時に達磨宗の六祖を証明され、同時に黄梅山を離れ、郷里に帰るよう云われた。それから七年或いは十年の間、俗界に紛れ、修行するよう云われたわけですが、そのことによって、仏法の幅が非常に広くなったのね。その時、五祖に嗣法した証拠として、袈裟と鉄鉢を伝授されたんです。そこから゙衣鉢を伝ゔという語源は、ここから生まれたんですね。

五祖から六祖に伝わったお袈裟の材料は木綿ですか絹ですか、いったい何でしようか。そこで、古仏いはく、これ布にあらず、これ絹にあらず。しるべし袈裟は絹・布にあらざる、これ仏道の玄訓なり。布や絹じゃなく、お袈裟はお袈裟だということを、言われたわけです。これが仏道の元ですよ。

 次に商那和修尊者は、第三の附法蔵なり。むまるるときより衣と倶に生ぜり。この衣、すなはち在家のときは俗服なり、出家すれば袈裟となる。また鮮白比丘尼、発願施氎ののち、生生のところ、および中有、かならず衣と倶生せり。今日、釈迦牟尼仏にあふたてまつりて出家するとき、生得の俗衣、すみやかに転じて袈裟となる、和修尊者におなじ。あきらかにしりぬ、袈裟は絹・布等にあらざること。いはんや、仏法の功徳、よく身心諸法を転ずること、それかくのごとし。われら出家・受戒のとき、身心依正、すみやかに転ずる道理あきらかなれど、愚蒙にしてしらざるのみなり。諸仏の常法、ひとり和修・鮮白に加して、われらに加せざることなきなり。随分の利益、うたがふべからざるなり。商那和修尊者という方は、お釈迦様から三代目の方です。摩訶迦葉・阿難陀、次いで商那和修という人です。この人、生まれてきた時、着物を着たまま生まれたそうだ。ですから倶生せり。どんな着物か知りませんよ。これに対しては、胎盤のまま出産した、との説もありますが、神秘的説話はそのまま聞いておきましょう。それから、成長するにつれて、着物も大きくなったそうだ。出家すれば、その着物がお袈裟になったそうです。変な話ですが、これが有名な商那和修の話です。次に鮮白比丘尼、別名、白浄比丘尼と申します。この人は、迦毘羅衛国の、瞿沙という長者の娘だそうです。非常に美人だったそうですが、この人も、白い布に包まれて生まれてきたそうだ。そして、成長するごとに白い着物も大きくなり出家と同時に、白布がお袈裟に変化したそうです。(『撰集百縁経』八・比丘尼品・『大正新脩大蔵経』四巻二百三十九頁中段、又は大智度論九、倶舎論九等参照)この鮮白比丘尼は一生涯、白布と共に生きていた、というのが発願施氎の段です。次に、今日釈迦牟尼仏(略)生得の俗衣すみやかに転じて袈裟となる(略)袈裟は絹・布等にあらざること。出家したならば、普通の着物では具合が悪いですから、俗衣がそのまま袈裟に変化したと云われたんです。われら出家・受戒のとき、身心依正云々。身心依正というのは、私達の体のことを身心と申します。依正と申しますのは、依報正報と申しまして、正報というのは私達の体のことをいってます。体を考えて御覧なさい。昨日もこの体、今日もこの体を維持しているでしょう。依報というのは、この体があるということは、周囲の環境と共に存在するわけです。そのことを、身心依正と言われたんです。別の言葉で申すなら、尽十方界真実人体、と表現しても構いません。私達の仏道修行とは、どういうことかと申しますと、尽十方界を実践することで、具体的表現として、只管打坐と言われたんです。またそれを出家・受戒とも言われ、すみやかに転ずる道理あきらかなれど、とは元の本来の姿に戻ることです。

 

正法眼蔵 袈裟功徳 提唱(十二)  酒井得元

  ※    原文

 かくのごとくの道理、あきらかに功夫参学すべし。善来得戒(ぜんらいとくかい)の披(ひ)体(たい)の袈裟、かならずしも布にあらず、絹にあらず、仏化難思(ぶっけなんし)なり。衣(え)裏(り)の宝珠は、算沙(さんしゃ)の所能にあらず。諸仏の袈裟の体・色・量の有量・無量、有相・無相、明らめ参学すべし。西天東地、古往今来の祖師、みな参学正伝せるところなり。祖祖正伝の、明らかにして疑ふところなきを見聞しながら、いたづらにこの祖師に正伝せざらんは、その意楽(いぎょう)ゆるしがたからん。愚痴のいたり、不信のゆえなるべし。実をすてて虚をもとめ、本をすてて末をねがふものなり。これ如来を軽忽(きょうこつ)したてまつるならん。菩提心をおこさんともがら、かならず祖師の相伝を伝受すべし。われら、あひがたき仏法にあふたてまつるのみにあらず、仏袈裟正伝の法孫として、これを見聞し、学習し、受持することをえたり。すなはちこれ、如来をみたてまつるなり、仏(ぶつ)説法をきくなり、仏光明にてらさるるなり、仏受用(ぶつじゅゆう)を受用するなり、仏心を単伝するなり、仏髄をえたるなり。まのあたり、釈迦牟尼仏の袈裟をおほはれたてまつるなり、釈迦牟尼仏、まのあたりわれに袈裟をさづけましますなり。ほとけにしたがふたてまつりて、この袈裟は、うけたてまつれり。

提唱

 かくのごとくの道理、あきらかに功夫参学すべし。善来得戒の披体の袈裟。この、善来得戒の披体の袈裟、というのは、『出家功徳』にも出てまいりました。その中には、酔っ払ったバラモンが、お釈迦様の処に来て、出家させてくれと頼みに来た、と。そして得度させてしまった。それを「善来得戒」と云ったんです。「善来」とは「よく来たな」という意味です。近くにいた仏様のお弟子たちが云うには、あんなバラモンを、なぜ得度させたんですか、と。お釈迦様はその時言うには、あのバラモンはこの機会、つまり酔っ払わなかったら、絶対に得度させてくれとは云わなかったはずだ、と。だから得度させたんだ、と言われた。そこで仏弟子が云うには、そんなことしても無駄じゃないですか、と。しかしながら、この剃髪染衣、つまり頭を剃ってお袈裟を掛けてやった、ということが重要なことで、この因縁によって、将来バラモンの成仏得道になるだろう、と言われたんです。この話の類話は、後段に蓮華色比丘尼の物語にも出てまいります。蓮華色は踊りのために、他の尼僧さんのお袈裟を奪って、ふざけたんですが、現世では地獄界に落ちたんですが、来世では前世での袈裟という縁で以って、坊さんに生まれ変わって、幾度となくり返し、最後は尼僧で得道するまでに成った、という因縁譚があります。前話にも酔婆羅門の因縁話がありましたが、どれも袈裟の不可思議性を述べたものです。

 そもそも、仏教というものは理論じゃありませんぜ。私(酒井得元老師)も昔は理論ばかり、やってましたよ。第一、私達のこの体というのは、理論じゃありません。尽十方界の真実は、理論じゃ有り得ません。理論というのは、人間が作った言葉の上での組織ですぜ、これは。理論には、必ず決まった法則がありまして、その法則に合致すると、「わかった」・「納得した」と云う。これが理論でしょう。

 昔、田辺元という哲学者が、師匠である西田幾多郎に対して、西田哲学には「論理」がない、と詰め寄ったことがありました。西田さんの方は禅をやってましたから、「絶対的」という概念がわかっていたんですが、田辺さんの方は理論ばかりやってますから、結局折り合わなかった。田辺元は「ことば」の中に於いてしか生きていられなかった。理論というのは、頭で考えたことですから、「考える」以上のことは考えられません。これは、生命活動の一つの表現にしかすぎませんから、それ以上のものの中で「生きている」ということが、「理論家」にはわからないんですね。こいうことは、仏法に於いては特に必要なんです。そのあたりのことは、よく承知しておいていただきたい。ですからお袈裟は単なる着物じゃありませんぜ、これは。善来得戒の披体の袈裟、かならずしも布にあらず、絹にあらず、仏化難思なり。人間というのは、どうしても着物を着なきゃならないでしょう。生きていられませんよ。その材料(質)は何でも構いません。本来は着るということが大事なんです。後段で材料のことが述べられていますが、その時々の状況で材料が違うだけです。木綿も絹も麻もない場所では、何を着ればいいんですか。そんな状況の場合には、獣の皮だって構いません。こういうことが、此の『袈裟功徳』の後ろにも書いてあります。つまり申しますと、私達人間は、着物を着なければ生きていけません。そこにお袈裟の原理がありますね。修行者というのは姿が大事ですからね、これは。そこで、仏化難思、という言葉がある。仏化というのは、仏道修行そのもののことを、仏化と説きます。これは思考以前のものだ。衣裏の宝珠は、算沙の所能にあらず。宝珠はお袈裟の価値で、お袈裟の有り難さというものは、私達が想像するよりも優れている、ということを、言ったものです。

 次に諸仏の袈裟の体・色・量の有量・無量、有相・無相、明らめ参学すべし。西天東地、古往今来の祖師、みな参学正伝せるところなり。祖祖正伝の、明らかにして疑ふところなきを見聞しながら、いたづらにこの祖師に正伝せざらんは、その意楽ゆるしがたからん。愚痴のいたり、不信のゆえなるべし。先ず諸仏の袈裟の体・色・量。この説仏の説というのは、眼蔵独特の表現で、『説心説性』で説かれる説と同じ意味で、説とは口で述べることではなく、説とは、仏の表現・表情と、とっていただきたい。仏の姿と云ってもいいですね。説仏というのは、仏様の概念じゃなくて、実物の仏のことを説仏と云うんだ。〔原本は諸仏とあるが、酒井老師の口述のまま記載す〕つまりお袈裟は単なる衣装じゃございません。衣装と人間とは一体の関係です。それから体・色・量の有量・無量、有相・無相、明らめ参学すべし。体というのは材料のこと。色というのは色あいのこと。量というのは大きさのこと。材料は糞掃、色は壊色、量は体に合致したもの。有量・無量・有相・無相というのは、袈裟の正体は決まったものはありません。と云いますのは、袈裟製作者により、体・色・量等がそれぞれ差違がありますから、有量・無量・有相・無相と述べられたわけです。そのことを、明らめ参学すべし。と言われます。次に西天東地、古往今来の祖師、みな参学正伝せるところなり。といいますのは、西天東地といいますのは印度、中国。古往今来は、昔から今に至るまでの祖師方。参学正伝というのは、参学は身体全身で仏道修行すること。これを参学と云うんです。正伝はバトンの受け渡しではなく、正しく修行することが、正伝の包含する意味です。この参学正伝するところには、必ず袈裟がなければ、参学正伝にはなりません。祖師正伝の、明らかにして疑ふところなきを見聞しながら、いたづらにこの祖師に正伝せざらんは、その意楽ゆるしがたからん。といいますのは、正伝には袈裟がある、ということを知りながら、お袈裟を著けないという、祖師の意楽は容赦しがたく、愚痴でありそうなった。また本来の自己を信ずることができないから、と解釈します。

 仏法に於ける【信】。亦道元禅に於ける【信】。とは如何なるものか考えてみましょう。対象を信ずる「信」じゃありません。宗門に於ける「信」とは只管打坐ですぜ、これは。つまりは只管打坐とは、尽十方界真実の実践が打坐であり、人間生活を一時たな上げし、真実人体を自覚する行為なのです。自我意識も生きている生命活動の、一時の表情にしかすぎません。自我意識は絶対的な価値はありませんぜ。昼間の綾模様のようなもので、満足だけでは腹は膨れませんし、不満足・不平があってこそ、満足が生かされるものです。表裏の関係を理解しなければなりません。只管打坐とは、「身をも心をも、はなちわすれて、仏のかたよりおこなはる」というのが、坐禅の姿です。心境じゃありませんぜ。「信、現成のところ、仏祖現成」。そこに、お袈裟があることを自覚していただきたい。他の宗門では袈裟は問題にされません。『袈裟功徳』のようなものは管見する限り、道元禅師以外説かれなかったと思います。

 実をすてて虚をもとめ、本をすてて末をねがふものなり。根本を忘れて、末の方に走るからですよ。これ如来を軽忽したてまつるならん。菩提心をおこさんともがら、かならず祖師の相伝を伝受すべし。われら、あひがたき仏法にあふたてまつるのみにあらず、仏袈裟正伝の法孫として、これを見聞し、学習し、受持することをえたり。私達は、こういう縁に巡り遭ってることに対し、感謝しなくてはならない。すなはちこれ、如来をみたてまつるなり。私達の坐禅は「仏」を実践することですよ。私達がこういう風に生きてるということは、その中で「人生」をやってますけど、この大自然の真実が如来の御姿ですよ。仏説法をきくなり、仏光明にてらさるるなり、仏受用を受用するなり。言葉を何回か言い変えてますけど、これが本当に仏法を、いただくことになるんだ。仏心を単伝するなり、仏髄をえたるなり。仏心も仏髄も皆同じですよ。まのあたり、釈迦牟尼仏の袈裟をおほはれたてまつるなり。私達が袈裟を掛けるということは、釈尊の袈裟に覆われているということです。釈迦牟尼仏、まのあたりわれに袈裟をさづけましますなり。ほとけにしたがふたてまつりて、この袈裟は、うけたてまつれり。私達はお袈裟を、仏様からいただいているんだ。袈裟を法衣店で買った人もいるでしょうが、各人、御縁が有って、お袈裟を入手したことは間接的にでも、仏様から頂載したことになるんです。

 

正法眼蔵 袈裟功徳 提唱(十三)  酒井得元

※             原文

 浣袈裟法〈袈裟を浣(あら)う法〉 

袈裟をたたまず、浄(じょう)桶(つう)にいれて、香(こう)湯(とう)を百沸して、袈裟をひたして、一時ばかりおく。またの法、清き灰(かい)水(すい)を百沸して、袈裟をひたして、湯のひややかになるをまつ。いまは、よのつねに灰湯をもちいる。灰(かい)湯(とう)、ここには、あくのゆ、といふ。灰湯さめぬれば、きよくすみたる湯をもて、たびたびこれを浣洗するあひだ、両手にいれてもみあらはず、ふまず。あか、のぞこほり、油、のぞこほるを、期(ご)とす。そののち、沈香(じんこう)・栴檀香(せんだんこう)等を冷水に和して、これをあらふ。そののち、浄(じょう)竿(かん)にかけてほす。よく、ほしてのち、摺襞(しょうへき)して、たかく安(あん)じて、焼香・散華して、右遶数帀(うにょうすうそう)して、礼拝したてまつる。あるいは三拝、あるいは六拝、あるいは九拝して、胡跪(こき)合掌して、袈裟を両手にささげて、くちに偈を誦(じゅ)してのち、たちて、如法に著(ちゃく)したてまつる。

 世尊告大衆言、我往昔在寶藏佛所時、爲大悲菩薩。爾時大悲菩薩摩訶薩、在寶藏佛前、而發願言、

 世尊、我成佛已、若有衆生入我法中出家著袈裟者、或犯重戒、或行邪見、若於三寶輕毀不信、集諸重罪、比丘比丘尼優婆塞優婆夷、若於一念中、生恭敬心、尊重僧伽梨衣、生恭敬心、尊重世尊或於法僧、世尊如是衆生、乃至一人、不於三乘得受記莂、而退轉者、則爲欺誑十方世界、無量無邊阿僧祇等、現在諸佛。必定不成阿耨多羅三藐三菩提。

 世尊、我成佛已來、諸天龍鬼神、人及非人、若能於此著袈裟者、恭敬供養、尊重讚歎。其人若得見此袈裟少分、即得不退於三乘中。

 若有衆生、爲飢渇所逼、若貧窮鬼神、下賤諸人、乃至餓鬼衆生、若得袈裟少分乃至四寸、即得飲食充足、隨其所願、疾得成就。

 若有衆生、共相違反、起怨賊想、展轉闘諍、若諸天龍鬼神、乾闥婆阿修羅迦樓羅緊那羅摩睺羅伽狗辨荼毘舎遮、人及非人、共闘諍時、念此袈裟、依袈裟力、尋生悲心、柔輭之心、無怨賊心、寂滅之心、調伏善心、還得清淨。

 有人若在兵甲闘訟斷事之中、持此袈裟少分至此輩中、爲自護故、供養恭敬尊重、是諸人等、無能侵毀觸嬈輕弄。常得勝也、過此諸難。

 世尊、若我袈裟、不能成就如是五事聖功徳者、則爲欺誑十方世界、無量無邊阿僧祇等、現在諸佛。未來不應成就阿耨多羅三藐三菩提作佛事也。没失善法、必定不能破壞外道。

 善男子、爾時寶藏如來、申金色右臂、摩大悲菩薩頂、讚言、善哉善哉、大丈夫、汝所言者、是大珍寶、是大賢善。汝成阿耨多羅三藐三菩提已、是袈裟服、能成就此五聖功徳、作大利益。

 善男子、爾時大悲菩薩摩訶薩、聞佛讚歎已、心生歡喜、踊躍無量。因佛申此金色之臂、長作合縵。其手柔輭、猶如天衣、摩其頭已、其身即變、状如僮子二十歳人。

 善男子、彼會大衆、諸天龍神乾闥婆、人及非人、叉手恭敬、向大悲菩薩、供養種々華、乃至伎樂而供養之、復種々讚歎已、黙然而住。

 如来在世より今日にいたるまで、菩薩・声聞の経・律のなかより、袈裟の功徳をえらびあぐるとき、かならずこの五聖功徳を、むねとするなり。

 まことにそれ、袈裟は三世諸仏の仏衣なり。その功徳無量なりといへども、釈迦牟尼仏の法のなかにして袈裟をえたらんは、余仏の法のなかにして袈裟をえんにも、すぐれたるべし。ゆえいかんとなれば、釈迦牟尼仏、むかし因地のとき、大悲菩薩摩訶薩として、宝蔵仏のみまへにして、五百の大願をたてましますとき、ことさらこの袈裟の功徳におきて、かくのごとく誓願をおこしまします。その功徳、さらに無量不可思議なるべし。しかあればすなはち、世尊の皮肉骨髄いまに正伝するといふは、袈裟衣なり。正法眼蔵を正伝する祖師、かならず袈裟を正伝せり。この衣を、伝持し頂載する衆生、かならず二・三生のあひだに得道せり。たとひ戯笑のため、利益のために身に著せる、かならず得道因縁なり。

※             提唱

 浣袈裟法 袈裟をたたまず、浄桶にいれて、香湯を百沸して、袈裟をひたして、一時ばかりおく。浣袈裟法とはお袈裟の洗濯法です。袈裟をたたまないで、お香を煮立てて、ひさし、しばらくおく。これが基本です。またの法、清き灰水を百沸して、袈裟をひたして、湯のひややかになるをまつ。いまは、よのつねに灰湯をもちいる。灰湯、ここには、あくのゆ、という。灰湯さめぬれば、きよくすみたる湯をもて、たびたびこれを浣洗するあひだ、両手にいれてもみあらはず、ふまず。あか、のぞこほり、油、のぞこほるを、期とす。戦時中、大中寺にいた時に、石鹸がない為、灰を使って此の文のようにやりましたよ。灰水を百沸して、灰を入れた水を煮立てるんです。袈裟をひたし、湯のひややかなるをまつ。というのは、普通は灰水をしばらく置くと、上澄みは透明になりますよ。よのつねに灰湯をもちいる。道元禅師の時代には、灰の湯を用いたんですね。灰湯さめぬれば、きよくすみたる湯をもて、煮立てますと、汚れは下に沈み、上澄みは透明ですよ。両手にいれてもみあらはず、ふまず。手でもみ洗いや、踏み洗いは、いけません。あか、のぞこほり、油、のぞこほるを、期とす。自然と垢は落ちますよ。そののち、沈香栴檀香等を冷水に和して、これをあらふ。そののち、浄竿にかけてほす。よく、ほしてのち、摺襞して、たかく安じて、焼香・散華して、右遶数帀して、礼拝したてまつる。インド仏教では、尊敬する者に対しては、右回りに巡るという行法があって、遶行はその名残りです。あるいは三拝、あるいは六拝、あるいは九拝して、胡跪合掌して、袈裟を両手にささげて、くちに偈を誦してのち、たちて、如法に著したてまつる。偈を誦して、とありますが、大哉解脱服、無相福田衣、披奉如来教、広度諸衆生。の偈文を唱えてのち、立って如法に袈裟を掛けなさい。と言われます。

 次に段が変わりまして、五聖功徳について述べています。この五聖功徳は、お袈裟の本には必ず出てまいります。出典は『悲華経』です。(悲華経〔八〕・諸菩薩授記品・『大正新脩大蔵経』三巻・二百二十頁・上段)

 世尊、大衆に告げて言く、我れ往昔、宝蔵仏の所に在りし時、大悲菩薩たり。爾の時に大悲菩薩摩訶薩、宝蔵仏の前に在りて、発願して言く、世尊、我れ成仏し巳らんに、若し衆生の、我が法中に入りて、出家して袈裟を著する者有らんに、或いは重戒を犯し、或いは邪見を行じ、若しは三宝に於て軽毀して信ぜず、諸の重罪を集めたらん比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷、若し一念の中に於いて、恭敬の心を生じて、僧伽梨衣を尊重し、恭敬の心を生じて、世尊或いは法僧を尊重せん、世尊、是の如くの衆生は、乃至一人も、三乗に於いて記莂を受くることを得ずして退転する者ならば、則ち為れ十方世界、無量無辺阿僧祇等の現在の諸仏を欺誑す、必定して阿耨多羅三藐三菩提を成ぜじ。世尊、我れ成仏せしより巳来、諸の天龍・鬼神・人及び非人、若し能く此の著袈裟の者に於いて、恭敬供養し、尊重讃歎せん、其の人、若し此の袈裟の少分を見ることを得ば、即ち三乗の中に不退なることを得ん。若し衆生有りて、飢渇の為に逼まられ、若しは貧窮の鬼神、下賤の諸人、乃至餓鬼の衆生、若し袈裟の少分、乃至四寸を得ば、即ち飲食充足することを得ん、其の所願に随いて疾く成就することを得ん。若し衆生有りて、共に相違反し、怨賊の想を起こして、展転闘諍し、若しは諸の天龍・鬼神・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅緊那羅・摩睺羅伽・狗弁荼・毘舎遮・人及び非人、共に闘諍せん時、此の袈裟を念ぜば、袈裟の力に依りて、尋いで悲心・柔軟の心・無恩賊の心・寂滅の心・調伏の善心を生じて、還た清浄なることを得ん。人有りて、若し兵甲・闘訟・断事の中に在らんに、此の袈裟の少分を持して、此の輩の中に至らんに、自護の為の故に、供養し恭敬し尊重せん、是の諸人等、能く侵毀・触嬈・軽弄すること無くして、常に他に勝つことを得て、此の諸難を過ぎん。世尊、若し我が袈裟の、是の如くの五事の聖功徳を成就すること能わざるは、則ち為れ十方世界、無量無辺阿僧祇等の現在の諸仏を欺誑し、未来にも応に阿耨多羅三藐三菩提を成就して、仏事を作すべからず。況んや善法を失し、必定して外道を破壊すること能わじ。善男子、爾の時に宝蔵如来、金色の右臂を申べて、大悲菩薩の頂を摩でて讃めて言く、善哉善哉、大丈夫、汝が言う所は、是れ大珍宝なり、是れ大賢善なり。汝、阿耨多羅三藐三菩提を成じ巳りぬ。是の袈裟服は、能く此の五聖功徳を成就して、大利益を作す。善男子、爾の時に大悲菩薩摩訶薩、仏の讃歎を聞き巳りて、心に歓喜を生じ、踊躍無量なり。因みに仏、此の金色の臂を申ぶるに、長指合縵にして、その手の柔軟なること、猶天衣の如し。其の頭を摩で巳るに、その身即ち変じて、状、童子二十歳の人の如し。彼の会の大衆、諸天・龍神乾闥婆、人及び非人、叉手恭敬して、大悲菩薩に向いて、種種の華を供養し、乃至伎楽して之を供養す。復た種種に讃歎し巳りて、黙然として住す。

これが『悲華経』の引用文ですよ。

 如来在世より今日にいたるまで、菩薩・声聞の経・律のなかより、袈裟の功徳をえらびあぐるとき、かならずこの五聖功徳を、むねとするなり。お袈裟については、必ず五聖功徳ということが述べられています。『伝衣』の巻にも出てまいります。これがお袈裟に対する信仰ですね。まことにそれ、袈裟は三世諸仏の伝衣なり。その功徳無量なりといへども、釈迦牟尼仏の法のなかにして袈裟をえたらんは、余仏の法のなかにして袈裟をえんにも、するれたるべし。ゆえいかんとなれば、釈迦牟尼仏、むかし因地のとき、大悲菩薩摩訶薩として、宝蔵仏のみまへにして、五百の大願をたてましますとき、ことさらこの袈裟の功徳におきて、かくのごとく誓願をおこしまします。その功徳、さらに無量不可思議なるべし。しかあればすなはち、世尊の皮肉骨髄いまに正伝するといふは、袈裟衣なり。正法眼蔵を正伝する祖師、かならず袈裟を正伝せり。この衣を、伝持し頂戴する衆生、かならず二、三生のあひだに得道せり。たとひ戯笑のため、利益のために身に著せる、かならず得道因縁なり。私達のお袈裟は、信仰でなければいけません、これは。信仰の成り立つところに、袈裟が存在するということが述べられております。後半にいう、世尊の皮肉骨髄いまに正伝するといふは、袈裟衣なり。正法眼蔵を正伝する祖師、かならず袈裟を正伝せり。というのは、私達の坐禅は必ず、袈裟をいただけなければ坐禅になりません。袈裟がなければ仏行・行仏には生り得ません。たとひ戯笑のため、利益のために身に著せる、かならず得道因縁なり。という言葉通り、冗談で袈裟を掛けても、得道の因縁になるんだ。要するに、「お袈裟に縁が有る」という事実が非常に重要なことです。皆さんも、このように『袈裟功徳』の巻を拝読し、共に勉強しているということは、たいへんなことなんですよ、これは。

 

正法眼蔵 袈裟功徳 提唱(十四)  酒井得元

※             原文

 龍樹祖師曰、復次佛法中出家人、雖破戒墮罪、罪畢得解脱、如優鉢羅比丘尼本生經中説。佛在世時、此比丘尼、得六神通阿羅漢。入貴人舎、常讚出家法、語諸貴人婦女言、姉妹、可出家。諸貴婦女言、我等少壯容色盛美、持戒爲難、或當破戒。比丘尼言、破戒便破、但出家。問言、破戒當墮地獄、云何可破。答曰、墮地獄便墮。諸貴婦女笑之言、地獄受罪、云何可墮。比丘尼言、我自憶念本宿命時、作戲女、著種々衣服而説舊語。或時著比丘尼衣、以爲戲笑。以是因縁故、迦葉佛時、作比丘尼。時自恃貴姓端正生憍慢、而破禁戒。破禁戒罪故、墮地獄受種々罪。受畢竟値釋迦牟尼佛出家、得六神通阿羅漢道。以是故知。出家受戒、雖復破戒、以戒因縁故、得阿羅漢道。若但作惡無戒因縁、不得道也。我乃昔時世々墮地獄、從地獄出爲惡人。惡人死還入地獄、都無所得。今以證知、出家受戒、雖復破戒、以是因縁可得道果。

〈龍樹祖師日く、復(ま)た次に仏法中の出家人は、破戒して罪に堕(だ)すと雖(いえど)も、罪畢(おわ)りて解脱を得(う)、優鉢羅比丘尼本生経(うっぱらげびくにほんしょうきょう)の中に説くが如し。仏、在世の時、此の比丘尼、六神通阿羅漢(ろくじんつうあらかん)を得たり。貴人(きにん)の舎(いえ)に入りて、常に出家の法を讃(さん)して、諸(もろもろ)の貴人婦女(きにんぶにょ)に語りて言く、姉妹(しまい)、出家すべし。諸の貴婦女言く、我等少(わか)くして容色盛美なり、持戒は難しと為(な)す、或いは当(まさ)に破戒すべし、比丘尼の言く、戒を破(は)せば便ち破せ、但(た)だ出家せよ。問うて言く、破戒せば、当(まさ)に地獄に堕(だ)すべし、云(い)何(かん)ぞ破(は)すべけん。答えて言く、地獄に堕さば便(すなわ)ち堕せ。諸の貴婦女、之れを笑いて言く、地獄にては罪を受く、云(い)何(かん)ぞ堕すべけん。比丘尼言く、我れ自ら本宿(ぼんしゅく)命(みょう)を憶念(おくねん)するに、時に戯女(けにょ)と作(な)り、種種の衣服(えぶく)を著して旧語を説く。或る時、比丘尼(びくに)衣(え)を著して、以(もっ)て戯笑を為す。是の因縁を以ての故に、迦葉仏(かしょうぶつ)の時、比丘尼と作(な)りき。時に自ら貴姓(きしょう)端(たん)正(せい)なるを恃(たの)んで憍慢を生じて、禁(こん)戒(かい)を破す。禁戒を破する罪の故に、地獄に堕して種種の罪を受く。受け畢竟(おわ)りて、釈迦牟尼仏に値(あ)いて出家し、六神通阿羅漢道を得たり。是れを以ての故に知りぬ、出家・受戒せば、復(ま)た破戒すと雖も、戒の因縁を以ての故に、阿羅漢道を得(う)。若し但(た)だ作悪(さあく)して戒の因縁無きには、得道せざるなり、と。我れ乃ち昔時、世世(せせ)に地獄に堕し、地獄より出でては悪人為(た)りき。悪人死して還(ま)た地獄に入りて、都(すべ)て所得無し。今、以て証知す、出家受戒せば、復(ま)た破戒すと雖も、是の因縁を以て、道果を得べきことを。〉

 この蓮華(れんげ)色(しき)、阿羅漢得道の初因、さらに他の功にあらず、ただこれ袈裟を戯笑(けしょう)のためにその身に著せし功徳によりて、いま得道せり。二生(にしょう)、迦葉仏(かしょうぶつ)の法にあふたてまつりて比丘尼となれり、三生(さんしょう)に、釈迦牟尼仏にあふたてまつりて大阿羅漢となり、三明(みょう)・六通を具足せり。三明とは、天眼(てんげん)・宿命(しゅくみょう)・漏尽(ろじん)なり。六通とは、神境通・他心通・天眼通・天(てん)耳(に)通・宿命通・漏尽通なり。まことにそれ、ただ作悪(さあく)の人(ひと)とありしとき、むなしく死して地獄にいる。地獄よりいで、また作(さ)悪人(あくにん)となる。戒の因縁あるときは、禁戒(こんかい)を破(は)して地獄におちたりといへども、つひに得道の因縁なり。いま、戯笑のため袈裟を著せる、なほこれ三生に得道す。いはんや無上菩提のために、清浄の信心をおこして袈裟を著せん、その功徳、成就せざらめやは。いかにいはんや、一生のあひだ受持したてまつり、頂戴したてまつらん功徳、まさに広大無量なるべし。

 もし菩提心をおこさん人、いそぎ袈裟を受持頂戴すべし。この好世(こうせ)にあふて仏種をうえざらん、かなしむべし。南洲の人身(にんしん)をうけて、釈迦牟尼仏の法にあふたてまつり、仏法嫡嫡(てきてき)の祖師にむまれあひ、単伝直指(たんでんじきし)の袈裟をうけたてまつりぬべきを、むなしくすごさん、かなしむべし。いま袈裟正伝は、ひとり祖師正伝これ正嫡(しょうてき)なり、余師の、かたを斉(ひと)しくすべきにあらず。相承(そうじょう)なき師にしたがふて袈裟を受持する、なほ功徳甚(じん)深(じん)なり。いはんや嫡嫡面授しきたれる正師に受持せん、まさしき如来の法子法孫ならん、まことに如来の皮肉骨髄を正伝せるなるべし。おほよそ袈裟は、三世十方の諸仏正伝しきたれること、いまだ断絶せず。十方三世の諸仏菩薩・声聞縁覚、おなじく護持しきたれるところなり。

 袈裟をつくるには、麁(そ)布(ふ)を本(ほん)とす。麁布なきがごときは、細(さい)布(ふ)をもちいる。麁(そ)・細(さい)の布(ふ)、ともになきには、絹素(けんそ)をもちいる。絹(けん)・布(ふ)、ともになきがごときは、綾(りょう)羅(ら)等をもちうる、如来の聴許(ちょうこ)なり。絹布・綾羅等の類、すべてなきくには、如来また皮袈裟(ひけさ)を聴許しまします。

 おほよそ袈裟、そめて青(せい)・黄(おう)・赤(しゃく)・黒(こく)・紫色(ししょく)ならしむべし、いづれも色(しき)のなかの壊(え)色(じき)ならしむ。如来は、つねに肉色(にくじき)の袈裟を御(ぎょ)しましませり、これ袈裟(けさ)色(しき)なり。初祖相伝の仏袈裟は、青(せい)黒色(こくしょく)なり、西天の屈眴(くつじゅん)布(ふ)なり。いま、曹渓山(そうけいざん)にあり。西天、二十八伝し、震旦、五伝せり。いま曹渓古仏の遺(ゆい)弟(てい)、みな仏衣の故実を伝持せり、余僧のおよばざるところなり。

 おほよそ衣(え)に三種あり。一者糞掃(ふんぞう)衣(え)、二者毳(さい)衣(え)、三者衲(のう)衣(え)なり。糞掃は、さきにしめすがごとし。毳(せい)衣者(えとは)、鳥獣細(ちょうじゅうさい)毛(もう)、これをなづけて毳(せい)とす。行者若シ無二キニハ糞掃ノ可一レキ得、取レテ此ヲ為レス衣ト。衲衣ハ者、朽故破弊ルヲ、縫衲シテ供レズ身ニ。。不レ著二セ世間ノ好衣一ヲ〈行者(ぎょうじゃ)、若し糞掃の得べき無きには、此(これ)を取りて衣(え)と為す。衲衣は、朽故破弊(きゅうこはへい)せるを縫衲(ほうのう)して身に供(くう)ず。世間の好衣を著せず〉。

※             提唱

※              『大智度論』の文章から見てまいりましょう。(大正新脩大蔵経・二十五巻・百六十一頁・上段)

※先ずこの物語は、仏在世の時に蓮華色比丘尼が六神通、阿羅漢を得たと。それで貴人の家に行き、出家の法を讃歎しておった。そこで貴婦女に向かって出家せよ、と云うが、姉妹が云うには、私達は若くして容色盛んだと。持戒するは難し、破戒に及んでしまう、と。そこで蓮華色が云うには、破戒しても構わない。ただ出家しなさい、と。姉妹が云うには破戒すれば地獄行きだと。蓮華色云うには、地獄に堕ちたら、それでもいいと。姉妹は笑い、どのようにして地獄に堕ちずに居られよか、と。蓮華色は自分の経歴を述ぶるに、はじめは遊女となって、色々な着物を掛けて皆を喜ばしてた。ある時、袈裟を掛けて踊り、周囲の笑いを誘った。こ蓮華色は大変人気があったらしいです。この因縁で以て比丘尼となるが、驕慢生じ、破戒し地獄行きだ。そして、お釈迦様の時代に生まれ変わり、出家し六神通を得、また阿羅漢道も得たと。出家・受戒すれば、たとへ破戒しても、罪を補えば、後生に得道の道果を得。出家・受戒の因縁を受けていなかったならば、到底得道の因縁もなかっただろう。にと。『袈裟功徳』の前は『受戒』の巻でしたが、これで『受戒』との関係は、おわかりになることでしょうし、袈裟との関係もあります。宗門においては、これが信仰の要になっております。

※この蓮華色の得道は他の功罪に依るのではなく、ただ戯れに掛けた袈裟の功徳だと。ニ生の時、迦葉仏比丘尼。三生の時、釈迦牟尼仏で大阿羅漢となり神通を得た。これはお袈裟の御陰だったんです。仏道に因縁が有った、ということが大事なことです。冗談で袈裟を著けて三生に得道したのですから、無上菩提のために袈裟を掛けたなら、その功徳は成就しないはずがない。と。

菩提心が起こったら、急いで袈裟を拝受してください。いい時代にいて、仏の因縁を得ないというのは悲しいことで、また、袈裟を頂くことができるのに、見過ごしてしまうことも、また悲しいことです。祖師正伝これ正嫡なり。祖師正伝ということは、只管打坐のことですよ。相承なき師から袈裟を受持しても、功徳は甚深というわけです。皆が皆、正伝の袈裟ばかりに巡りあえるわけにもいきません。法衣屋のお袈裟でも功徳甚深だ。仏教者に袈裟を持たない者はおりません。南方のスリランカでも北方のチベットでも、袈裟の呼び名は違っても、皆奉持しています。

※袈裟を作る材料は麁布でいいんだ。麁というのはオソマツということです。その麁布がない時には細布を用いる。細というのは上等という意味です。世間とは逆ですね。麁・細、共にない時には絹素、お蚕を用いなさい、と。それもない時には綾羅を使いなさい。綾羅とは金襴みたいなものです。これらは代理がないので仕方ないから、如来が許した、と。それすらなかったら、皮の袈裟を許した、と言われます。

※お袈裟は、染めて青・黄・赤・黒・紫の五色いづれかの色にしなさい。この色を壊色と名づけます。壊色と申しますと、青みかかった穢い色・紫かかった穢い色ということです。如来は肉色の袈裟を著けるそうで、肉色とは茶色かかった色で、木欄です。達磨さんの袈裟は青黒色で、インド木綿だそうです。青黒・木欄・如法色という言葉があります。

※お袈裟には三種あり。一つは糞掃、次に毳衣、これは毛織物です。それから衲衣、これはボロです。行者は糞掃が手に入らない時には、鳥獣細毛の衣を著け、それすら入手不可の時はボロ布を縫い合わせ、著せよ。と示されています。

 

正法眼蔵 袈裟功徳 提唱(十五)  酒井得元

※             原文

具壽鄔波離、請世尊曰、大徳世尊、僧伽胝衣、條數有幾。

 佛言、有九。何謂爲九、謂、九條、十一條、十三條、十五條、十七條、十九條、二十一條、二十三條、二十五條。

 其僧伽胝衣、初之三品、其中壇隔、兩長一短、如是應持。次三品、三長一短、後三品、四長一短。過是條外、便成破衲。

 鄔波離、復白世尊曰、大徳世尊、有幾種僧伽胝衣。佛言、有三種、謂上中下。上者豎三肘、横五肘。下者豎二肘半、横四肘半。二内名中。鄔波離白世尊曰、大徳世尊、嗢羅僧伽衣、條數有幾。佛言、但有七條、壇隔兩長一短。鄔波離白世尊曰、大徳世尊、七條復有幾種。佛言、有其三品、謂上中下。上者三五肘、下各減半肘、二内名中。鄔波離白世尊曰、大徳世尊、安婆娑衣、條數有幾。佛言、有三、謂上中下。上者三五肘、中下同前。佛言、安婆娑衣、復有二種。何爲二。一者豎二肘、横五肘。二者豎二、横四。

 僧伽胝者、訳爲重複衣。嗢羅僧伽者、訳爲上衣。安婆娑者、訳爲内衣。又云下衣。

 又云、僧伽梨衣、謂大衣也。云、入王宮衣、説法衣。欝多羅僧、謂七條衣。中衣、又云、入衆衣。安陀會、謂五條衣。云、小衣。又云、行道衣、作務衣。

※〈具寿鄔波離(ぐじゅうぱり)、世尊に請して日く、大徳世尊、僧伽胝衣(そうぎゃちえ)は条数幾(いくば)くか有る。仏言く、九有り。何を謂(い)いてか九と為す。謂(いわ)く、九条・十一条・十三条・十五条・十七条・十九条・二十一条・二十三条・二十五条なり。其の僧伽胝衣、初めの三品は、其の中の壇隔(だんきゃく)は、両長一短なり、是(かく)の如く持すべし。次の三品(さんぼん)は、三長一短、後の三品は、四長一短。是の条を過ぐるの外(ほか)は、便ち破衲(はのう)と成る。鄔波離、復(ま)た世尊に白(もう)して日く、大徳世尊、幾種の僧伽胝衣か有る。仏言く、三種有り、謂く、上・中・下なり。上(じょう)は竪(たて)三肘(ちゅう)、横五肘。下(げ)は竪二肘半、横四肘半。二者の内を中と名づく。鄔波離、世尊に白して日く、大徳世尊、嗢旦羅僧伽(うったらそうぎゃ)衣(え)、条数幾くか有る。仏言く、ただ七条のみ有り、壇隔は両長一短なり。鄔波離、世尊に白して日く、其れに三品有り、謂く上・中・下なり。上は三五肘、下は各半肘を減ず、二の内を中と名づく。鄔波離、世尊に白して日く、大徳世尊、安旦婆娑(あんだばさ)衣(え)、条数幾くか有る。仏言く、五条有り、壇隔は一長一短なり。鄔波離、復た世尊に白して言く、安旦婆娑衣、幾種か有る。仏言く、三有り、謂く上・中・下なり。上は三五肘、中・下は前に同じ、各半を減ず。

※仏言く、安旦婆娑、復た二種有り。何をか二と為す、一は竪二肘、横五肘。二は竪二肘、横四肘。僧伽胝は、訳して重複衣と為す。嗢旦羅僧伽は、訳して上衣と為す。安旦婆娑は、訳して内衣(ないえ)と為す、又、下衣(げえ)と云う。又云く、僧伽(そうぎゃ)梨(り)衣(え)は、謂く大衣なり、亦た、入(にゅう)王宮(おうぐう)衣(え)と云い、又、説法衣と云う。鬱(うつ)多羅(たら)僧(そう)は、謂く七条衣なり、中衣と云い、又、入(につ)衆(しゅ)衣(え)と云う。安陀会(あんだえ)は、謂く五条衣なり、小衣と云い、又、行(ぎょう)道(どう)衣(え)、作務衣(さむえ)と云う。〉

※この三衣、かならず護持すべし。又、僧伽胝衣に、六十条の袈裟あり、かならず受持すべし。

※おほよそ、八万歳より百歳にいたるまで、寿命の増・減にしたがふてそう、身量の長・短あり。八万歳と一百歳と、ことなることあり、といふ、また、平等なるべし、といふ。そのかに、平等なるべし、といふを正伝とせり。仏(ぶつ)と人(にん)と、身量はるかにことなり、人身(にんしん)ははかりつべし、仏身はつひにはかるべからず。このゆえに、迦葉仏(かしょうぶつ)の袈裟、いまの釈迦牟尼仏、著(じゃく)しましますに、長(ながき)にあらず、ひろきにあらず。今(こん)釈迦牟尼仏の袈裟、弥勒如来、著しましますに、みじかきにあらず、せばきにあらず。仏身の、長・短にあらざる道理、あきらかに観見し、決断し、照了し、警察(きょうさつ)すべきなり。梵王の、たかく色界にある、その仏頂をみたてまつらず。目連、はるかに光明(こうみょう)幡(ばん)世界にいたる、その仏声(ぶっしょう)をきはめず。遠(おん)・近(ごん)の見聞(けんもん)ひとし、まことに不可思議なるものなり。如来の一切の功徳、みなかくのごとし。この功徳を念じたてまつるべし。

※袈裟を裁縫するに、割截(かつせつ)衣(え)あり、揲(じょう)葉(よう)衣(え)あり、襵(しょう)葉(よう)衣(え)あり、縵(まん)衣(え)あり、ともにこれ作法なり。その所有(しょう)にしたがふて受持すべし。仏言、三世仏袈裟、必定却刺。

※その衣財をえんこと、また清浄を善なりとす。いはゆる糞掃衣を最上清浄とす。三世の諸仏、ともにこれを清浄としまします。そのほか、信心檀那(だんな)の所施の衣、また清浄なり。あるいは浄財をもて、いちにしてかふ、また清浄なり。作衣(さえ)の日限ありといへども、いま末法澆(まっぽうぎょう)季(き)なり、遠方(おんぽう)・辺邦(へんぽう)なり。信心のもよほすところ、裁縫をえて、受持せんにはしかじ。

※在家の人天なれども、袈裟を受持することは、大乗最極(さいごく)の秘訣なり。いまは、梵王・釈王、ともに袈裟を受持せり、欲(よく)・色(しき)の勝躅(しょうちょく)なり、人間には勝(しょう)計(け)すべからず。在家の菩薩、みなともに受持せり、震旦国には粱(りょう)の武(ぶ)帝(てい)、隋の煬(よう)帝(だい)、ともに袈裟を受持せり、代宗(だいそう)・粛宗(しゅくそう)、ともに袈裟を著し、僧家(そうけ)に参学し、菩薩戒を受持せり。その余の居士(こじ)・婦女等の、受袈裟・受仏戒のともがら、古今の勝躅なり。日本国には、聖徳太子、袈裟を受持し、法華(ほっけ)・勝鬘(しょうまん)等の諸経講説のとき、天雨宝華(てんうほうけ)の奇(き)瑞(ずい)を感得す。それよりこのかた、仏法、わがくにに流通(るづう)せり。天下の摂籙(しょうろく)なりといへども、すなはち人天の導師なり、ほとけのつかひとして、衆生の父母(ぶも)なり。いまわがくに、袈裟の体(たい)・色(しき)量ともに訛謬(かびょう)せりといへども、袈裟の名字(みょうじ)を見聞する、ただこれ聖徳太子の御(おん)ちからなり。そのとき、邪(じゃ)をくだき正(しょう)をたてずば、今日(こんにち)、かなしむべし。のちに聖(しょう)武(む)皇帝、また袈裟を受持し、菩薩戒をうけまします。しかあればすなはち、たとひ皇位なりとも、たとひ臣下なりとも、人身(にんしん)の慶(けい)幸(こう)、これよりもすぐれたるあるべからず。

※有言、在家受持袈裟、一名単縫、二名俗服。乃未用却刺針而縫也。又言、在家趣道場時、具三法衣・楊枝・澡水・食器・坐具、応如比丘修行浄行。〈有るが言く、在家の受持する袈裟は、一に単縫と名づけ、二に俗服と名づく。乃ち未だ却刺針して縫うことを用いざるなり。又言く、在家の、道場に趣く時は、三法衣・楊枝・澡水・食器・坐具を具し、応に比丘の如くに浄行を修行すべし。〉

※古得の相伝、かくのごとし。ただし、いま仏祖単伝しきたれるところ、国王・大臣・居士・士民にさづくる袈裟、みな却(きゃく)刺(し)なり。盧(ろ)行者(あんじゃ)、すでに仏袈裟を正伝せり、勝躅なり。おほよそ袈裟は、仏弟子の標(ひょう)幟(し)なり。もし袈裟を受持しをはりなば、毎日に頂戴したてまつるべし。頂上に安じて、合掌してこの偈を誦す、

※大哉(だいさい)解脱服(げだつふく)、無相(むそう)福田(ふくでん)衣(え)、披奉(ひぶ)如来(にょらい)教(きょう)、広度(こうど)諸衆生(しょしゅじょう)。

※しかうしてのち著すべし。袈裟におきては、師想・塔想をなすべし。浣衣頂戴のときも、この偈を誦するなり。

※仏言、剃頭著袈裟、諸仏所加護、一人出家者者、天人所供養。

※あきらかにしりぬ、剃頭著袈裟よりこのかた、一切諸仏に加護せられたてまつるなり。この諸仏の加護によりて、無上菩提の功徳円満すべし。この人をば、天衆・人衆ともに供養するなり。

※提唱

※具寿鄔波離、これはウパリ尊者ですね。ウパリが世尊を拝請して云うには、僧伽胝衣は条数が何条あるかと。九つある、と。九から二十五までの奇数条あります。九条・十一条・十三条は両長一短の壇隔で、十五条・十七条・十九条は三長一短の壇隔で、二十一条・二十三条・二十五条の袈裟は四長一短の壇隔になります。これ以上の袈裟は破衲と成り、袈裟として扱いません。次に僧伽胝衣は何種類ありますか、と。上・中・下の三種あり。上は竪三肘、横五肘、と決まってますが、肘は寸法ではなく、その人の体に合った長さです。次に鄔波離が世尊に、嗢旦羅僧伽衣の条数は何条か、と。これは七衣のみで、壇隔は両長一短で、それにも上・中・下の三品ある、と。次に安旦婆娑衣、これは普通は安旦衣と略します。条数は五条あって、壇隔は一長一短で、これも上・中・下と三品あります。安旦衣には二種あり、一つは竪五肘、横五肘。いま一つは竪五肘、横四肘で、内衣ともいいます。僧伽胝は大衣で裏がありますから、重複衣といい、嗢旦羅僧伽は上衣ともいいます。また僧伽梨衣は説法衣とも、入王宮衣とも、鬱多羅僧は入衆衣とも供養衣とも、安陀会は作務衣と、それぞれ謂い方があります。

※この三衣を護持しなさい。僧伽胝衣に六十条の袈裟と有りますが、これは十五条衣のことです。おほよそ八万歳より百歳にいたるまで、寿命の増・減にしたがふて、身量の長短あり。~仏身の、長・短にあらざる道理、あきらかに観見し、決断し照了し警察すべきなり。という文章は、説話として取り扱うのではなく、尽十方界真実人体の仏として観ると皆平等ですから、形態の違いで、このような文章になったわけです。梵王の、たかく色界にある、その仏頂をみたてまつらず。~この功徳を念じたてまつるべし。という梵王は梵天で、先程と同じく尽十方界真実の世界を表したもので、光明幡世界も此界の世界も同等性を述べたものです。

※次は袈裟の構造で、袈裟の裁縫には割截・揲葉・襵葉・縵衣があります。三世諸仏の袈裟は却し針で縫います。糸が切れても全て解けない為です 

※その衣財をえんこと、また清浄を善なりとす。~作衣の日限ありといへども、受持せんにはしかじ。裁縫の日数は律に書いてありますが、信心で袈裟縫しているので、気に止めず裁縫しなさい、と言ってます。

※在家の人でも、袈裟を受持することが、大乗の極みと言い、袈裟は仏弟子の標幟なり、とし、毎日、頂上に安じて、〈大哉解脱服、無相福田衣、披奉如来教、広度諸衆生〉と、合掌しこの偈を誦す。         

袈裟功徳―終わり

 

これにて酒井老師の提唱録は終られますが、最後の眼蔵本文を附して擱筆とす。二谷 拝。

  世尊告智光比丘言、法衣得十勝利。

 一者、能覆其身、遠離羞恥、具足慚愧、修行善法。

 二者、遠離寒熱及以蚊蟲惡獣毒蟲、安穏修道。

 三者、示現沙門出家相貌、見者歡喜、遠離邪心。

 四者、袈裟即是人天寶幢之相、尊重敬禮、得生梵天

 五者、著袈裟時、生寶幢想、能滅衆罪、生諸福徳。

 六者、本制袈裟、染令壞色、離五欲想、不生貪愛。

 七者、袈裟是佛淨衣、永斷煩惱、作良田故。

 八者、身著袈裟、罪業消除、十善業道、念々増長。

 九者、袈裟猶如良田、能善増長菩薩道故。

 十者、袈裟猶如甲胄、煩惱毒箭、不能害故。

 智光當知、以是因縁、三世諸佛、縁覺聲聞、清淨出家、身著袈裟、三聖同坐解脱寶牀。執智慧剣、破煩惱魔、共入一味諸涅槃界。

 爾時世尊、而説偈言、

  智光比丘應善聽  大福田衣十勝利

  世間衣服増欲染  如來法服不如是

  法服能遮世羞恥  慚愧圓滿生福田

  遠離寒暑及毒蟲  道心堅固得究竟

  示現出家離貪欲  斷除五見正修行

  瞻禮袈裟寶幢相  恭敬生於梵王福

  佛子披衣生塔想  生福滅罪感人天

  肅容致敬眞沙門  所爲不染諸塵俗

  諸佛稱讚爲良田  利樂群生此爲最

  袈裟神力不思議  能令修植菩提行

  道芽増長如春苗  菩提妙果類秋實

  堅固金剛眞甲胄  煩惱毒箭不能

  我今略讚十勝利  歴劫廣説無有邊

  若有龍身披一縷  得脱金翅鳥王食

  若人渡海持此衣  不怖龍魚諸鬼難

  雷電霹靂天之怒  披袈裟者無恐畏

  白衣若能親捧持  一切惡鬼無能近

  若能發心求出家  厭離世間修佛道

  十方魔宮皆振動  是人速證法王身

 この十勝利、ひろく佛道のもろもろの功徳を具足せり。長行偈頌にあらゆる功徳、あきらかに參學すべし。披閲してすみやかにさしおくことなかれ。句々にむかひて久參すべし。この勝利は、たゞ袈裟の功徳なり、行者の猛利恒修のちからにあらず。

 佛言、袈裟神力不思議。

 いたづらに凡夫賢聖のはかりしるところにあらず。

 おほよそ速證法王身のとき、かならず袈裟を著せり。袈裟を著せざるものの法王身を證せること、むかしよりいまだあらざるところなり。その最第一清淨の衣財は、これ糞掃衣なり。その功徳、あまねく大乘小乘の經律論のなかにあきらかなり。廣學咨問すべし。その餘の衣財、またかねあきらむべし。佛々祖々、かならずあきらめ、正傳しましますところなり、餘類のおよぶべきにあらず。

 中阿含經曰、復次諸賢、或有一人、身淨行、口意不淨行、若慧者見、設生恚惱、應當除之。諸賢或有一人、身不淨行、口淨行、若慧者見、設生恚惱、當云何除。諸賢猶如阿練若比丘、持糞掃衣、見糞掃中所棄弊衣、或大便汚、或小便洟唾、及餘不淨之所染汚、見已、左手執之、右手舒張、若非大便小便洟唾、及餘不淨之所汚處、又不穿者、便裂取之。如是諸賢、或有一人、身不淨行、口淨行、莫念彼身不淨行。但當念彼口之淨行。若慧者見、設生恚惱、應如是除。

 これ阿練若比丘の、拾糞掃衣の法なり。四種の糞掃あり、十種の糞掃あり。その糞掃をひろふとき、まづ不穿のところをえらびとる。つぎには大便小便、ひさしくそみて、ふかくして浣洗すべからざらん、またとるべからず。浣洗しつべからん、これをとるべきなり。

 十種糞掃衣

 一、牛嚼衣。二、鼠噛衣。三、火燒衣。四、月水衣。

 五、産婦衣。六、神廟衣。七、塚間衣。八、求願衣。

 九、王職衣。十、往還衣。

 この十種、ひとのすつるところなり、人間のもちゐるところにあらず。これをひろうて袈裟の淨財とせり。三世諸佛の讚歎しましますところ、もちゐきたりましますところなり。

 しかあればすなはち、この糞掃衣は、人天龍等のおもくし擁護するところなり。これをひろうて袈裟をつくるべし。これ最第一の淨財なり、最第一の清淨なり。いま日本國、かくのごとくの糞掃衣なし、たとひもとめんとすともあふべからず、邊地小國かなしむべし。たゞ檀那所施の淨財、これをもちゐるべし。人天の布施するところの淨財、これをもちゐるべし。あるいは淨命よりうるところのものをもて、いちにして貿易せらん、またこれ袈裟につくりつべし。かくのごときの糞掃、および淨命よりえたるところは、絹にあらず、布にあらず。金銀珠玉、綾羅綿繍等にあらず、たゞこれ糞掃衣なり。この糞掃は、弊衣のためにあらず、美服のためにあらず、たゞこれ佛法のためなり。これを用著する、すなはち三世の諸佛の皮肉骨髓を正傳せるなり、正法眼藏を正傳せるなり。この功徳、さらに人天に問著すべからず、佛祖に參學すべし。

袈裟功徳(終)

 

この提唱録は福井県吉田郡永平寺町松岡春日1―64 清涼山 天龍寺が発行する季刊誌「枯木」に記録されたものを、二谷が「枯木」誌よりワード化し編集したものである。本文中に於ける旧漢字と新漢字の交錯など乱雑な作業となってしまった事を謝する次第である。

  

        

正法眼蔵随聞記

正法眼蔵随聞記 一

01示に云く、はづべくんば明眼の人をはづべし。予、在宋の時、天童浄和尚、侍者に請ずるに云く、「外国人たりといへども元子器量人なり。」と云ってこれを請ず。

予、堅く是を辞す。その故は、「和国にきこえんためも、学道の稽古のためも大切なれども、衆中に具眼の人ありて、外国人として大叢林の侍者たらんこと、国に人なきがごとしと難ずる事あらん、尤もはづべし。」といひて、書状をもてこの旨を伸べしかば、浄和尚、国を重くし、人をはづることを許して、更に請ぜざりしなり。

 

02示に云き、有る人の云く、「我れ病者なり、非器なり、学道にたへず。法門の最要をききて、独住隠居して、性をやしなひ、病をたすけて、一生を終へん。」と云うに、

示に云く、先聖必ズしも金骨にあらず、古人豈皆上器ならんや。滅後を思へば幾ばくならず、在世を考ふるに人皆俊なるにあらず。善人もあり、悪人もあり。比丘衆の中に不可思議の悪行するものあり、最下品の器量もあり。然れども、卑下して道心をおこさず、非器なりといって学道せざるなし。今生もし学道修行せずは、何れの生にか器量の物となり、不病の者とならん。ただ身命をかへりみず発心修行する、学道の最要なり。

 

03示に云く、学道の人、衣食を貪ることなかれ。人々皆食分あり、命分あり。非分の食命を求むとも来るべからず。況んや学仏道の人には、施主の供養あり、常の乞食に比すべからず。常住物これあり、私の営みにもあらず。菓・乞食・信心施の三種の食、皆是れ清浄食なり。その余の田商仕工の四種は、皆不浄邪命の食なり。出家人の食分にあらず。

昔一人の僧ありき。死して冥界に行きしに、閻王の云く、「この人、命分未だ尽きず。帰すべし。」と云ひしに、有る冥官の云く、「命分ありといへども、食分既に尽きぬ。」王の云く、「荷葉を食せしむべし。」と。然しより蘇りて後は、人中の食物食することをえず、ただ荷葉を食して残命をたもつ。

然れば出家人は、学仏の力によりて食分も尽くべからず、白毫の一相、二十年の遺恩、歴劫に受用すとも尽くべきにあらず。行道を専らにして、衣食を求むべきにあらざるなり。身躰血肉だにもよくもてば、心も随いて好くなると、医法等に見る事多し。況んや学道の人、持戒梵行にして仏祖の行履にまかせて、身儀ををさむれば、心地も随いて整なり。学道の人、言を出さんとせん時は、三度顧みて、自利、利他のために利あるべければ是レを言ふべし。利な(か)らん時は止べし。是ノごとき、一度にはしがたし。心に懸けて漸々に習ふべきなり。

 

04雑話の次、示に云く、学道の人、衣食に労することなかれ。この国は辺地小国なりといへども、昔も今も顕密二道に名を得、後代にも人に知られたる人、いまだ一人も衣食に饒なりと云ふ事を聞かず。皆貧を忍び他事をわすれて一向その道を好む時、その名をも得るなり。況んや学道の人は、世度を捨ててわしらず。何としてか饒なるべき。

大宋国の叢林には、末代なりといへども、学道の人千万人の中に、あるいは遠方より来り、あるいは郷土より出で来るも、多分皆貧なり。しかれども愁とせず、ただ悟道の未だしき事を愁て、あるいは楼上若しくは閣下に、考妣を喪せるがごとくにして道を思ふなり。親り見しは、西川の僧、遠方より来リし故に所持物なし。纔に墨二、三箇の直両三百、この国の両三十にあたれるをもて、唐土の紙の下品なるは、きはめて弱きを買ひ取り、あるいは襖あるいは袴に作りて着れば、起居に壊るる〈音〉してあさましきをも顧りみず、愁ず。人、「自ら郷里にかへりて道具装束せよ。」と言フを聞イて、「郷里遠方なり。路次の間に光陰を虚シくして学道の時を失ハん事」を愁て、更に寒を愁ずして学道せしなり。

然れば大国にはよき人も出来るなり。伝え聞く、雪峰山開山の時は、寺貧にしてあるいは絶烟あるいは緑豆飯をむして食して日を送って学道せしかども、一千五百人の僧、常に絶えざりけり。昔の人もかくのごとし。今もまた此のごとくなるべし。僧の損ずる事は多く富家よりおこれり。

如来在世に調達が嫉妬を起しし事も、日々五百車の供養より起れり。ただ自を損ずる事のみにあらず、また他をしても悪を作さしめし因縁なり。真の学道の人、なにとしてか富家なるべき。直饒浄信の供養も、多くつもらば恩の思を作して報を思ふべし。この国の人は、また我がために利を思ひて施を至す。笑って向へる者に能くあたる、定まれる道理なり。他の心に随はんとせば、是れ学道の礙なるべし。ただ飢を忍び寒を忍びて、一向に学道すべきなり。

 

05一日示に云く、古人云く、「聞くべし、見るべし。」と。また云く、「〈経〉ずんば見るべし、〈見〉ずんばきくべし。」と。言は、きかんよりは見るべし。見んよりは〈経〉べし。いまだ〈経〉ずんば見るべし。いまだみずんば聞くべしとなり。

また云く、学道の用心、本執を放下すべし。身の威儀を改むれば、心も随って転ずるなり。先ず律儀の戒行を守らば、心も随って改まるべきなり。宋土には俗人等の常の習ひに、父母の孝養のために、宗廟にして各集会して泣くまねをするほどに、終には実に泣くなり。学道の人も、はじめより道心なくとも、ただ強て道を好み学せば、終には真の道心もおこるべきなり。

初心の学道の人は、ただ衆に随って行道すべきなり。修行の(用)心故実等を学し知らんと思ふ事なかれ。用心故実等も、ただ一人山にも入り市にも隠れて行ぜん時、錯なくよく知りたらばよしと云ふ事なり。衆に随って行ぜば、道を得べきなり。譬へば舟に乗りて行くには、故実を知らず、ゆくやうを知らざれども、よき船師にまかせて行けば、知りたるも知らざるも彼岸に到るがごとし。善知識に随いて衆と共に行じて私なければ、自然に道人なり。学道の人、若し悟を得ても、今は至極と思うて行道を罷る事なかれ。道は無窮なり。さとりてもなほ行道すべし。良遂座主、麻谷に参ぜし因縁を思ふべし。

 

06示に云く、学道の人は後日を待って行道せんと思ふ事なかれ。ただ今日今時を過ごさずして、日々時々を勤むべきなり。

爰にある在家人、長病あり。去年の春の比相契りて云く、「当時の病療治して、妻子を捨て、寺の辺に庵室を構へて、一月両度の布薩に逢ひ、日々の行道、法門談義を見聞して、随分に戒行を守りて生涯を送らん。」と云ひしに、その後種々に療治すれば少しき減気在りしかども、また増気在りて、日月空しく過ごして、今年正月より俄に大事になりて、苦痛次第に責むるほどに、思ひきりて日比支度する庵室の具足運びて造るほどの隙もなく、苦痛逼るほどに、先づ人の庵室を借りて移り居て、纔に一両月に死去しぬ。前夜、菩薩戒を受け、三宝に帰して、臨終よくて終りたれば、在家にて狂乱して、妻子に愛を発して死なんよりは尋常なれども、去年思ヒよりたりし時、在家を離れて寺に近づきて、僧に馴れて一年行道して終りたらば勝れたらましと存ずるにつけても、仏道修行は後日を待つまじきと覚ゆるなり。身の病者なれば、病を治して後に好く修行せんと思はば、無道心の致す処なり。四大和合の身、誰か病なからん。

古人必ずしも金骨にあらず。ただ志の到りなれば、他事を忘れて行ずるなり。大事身に来れば小事は覚えぬなり。仏道を大事と思うて、一生に窮めんと思うて、日々時々を空しく過ごさじと思ふべきなり。

古人の云く、「光陰虚しく度ることなかれ」と。若しこの病を治せんと営むほどに除ずして増気して、苦痛弥逼る時は、痛みの軽かりし時行道せでと思ふなり。然れば、痛みを受けては重くならざる前にと思ひ、重くなりては死せざる前にと思ふべきなり。病を治するに除るもあり、治するに増ずるもあり。また、治せざるに除くもあり、治せざれば増ずるもあり。これ能々思ひ入るべきなり。また行道の居所等を支度し、衣鉢等を調へて後に行ぜんと思ふ事なかれ。貧窮の人、世をわしらざれ。衣鉢の資具乏しくして死期日々に近づくは、具足を待って、処を待って行道せんと思ふほどに、一生空しく過ごすべきおや。ただ衣鉢等なくんば、在家も仏道は行ずるぞかしと思うて行ずべきなり。また衣鉢等はただあるべき僧躰の荘なり。

実の仏道は其れにもよらず。得来らばあるに任ずべし。あながちに求むる事なかれ。ありぬべきをもたじと思ふべからず。わざと死せんと思うて治せざるもまた外道の見なり。仏道には「命を惜シむ事なかれ。命を惜シまざる事なかれ。」と云ふなり。より来らば灸治一所瀉薬一種なんど用ひん事は、行道の礙ともならず。行道を指置いて、病を先とし、後に修行せんと思ふは礙なり。

 

07示に云く、海中に龍門と云ふ処あり。浪頻に作なり。諸の魚、波の処を過ぐれば必ず龍と成るなり。故に龍門と云ふなり。

今は云く、彼の処、浪も他処に異ならず、水も同じくしははゆき水なり。然れども定まれる不思議にて、魚この処を渡れば必ず龍と成るなり。魚の鱗も改まらず、身も同じ身ながら、忽に龍と成るなり。衲子の儀式も是れをもて知るべし。処も他所に似たれども、叢林に入れば必ず仏となり祖となるなり。食も人と同じく(食し、衣も人と同じく)服し、飢を除き寒を禦ぐ事も同じけれども、ただ頭を円にし衣を方にして斎粥等にすれば、忽に衲子となるなり。成仏作祖も遠く求むべからず。ただ叢林に入ると入らざるとなり。龍門を過ぐると過ぎざるとなり。

また云く、俗の云く、「我れ金を売れども人の買ふ事無ければなり。」と。仏祖の道も是のごとし。道を惜しむにあらず、常に与ふれども人の得ざるなり。道を得ることは根の利鈍には依らず。人々皆法を悟るべきなり。ただ精進と懈怠とによりて得道の遅速あり。進怠の不同は志の到ると到らざるとなり。志の到らざる事は、無常を思はざるに依るなり。念々に死去す、畢竟暫くも止らず。暫くも存ぜる間、時光を虚しくすごす事なかれ。「倉の鼠食に飢ゑ、田を耕す牛の草に飽かず。」と云ふ意は、財の中に有れども必ずしも食に飽かず、草の中に栖めども草に飢うる。人も是のごとし。仏道の中にありながら、道に合ざるものなり。希求の心止まざれば、一生安楽ならざるなり。道者の行は善行悪行皆おもはくあり。人のはかる処にあらず。

昔恵心僧都、一日庭前に草を食する鹿を人をして打ちおはしむ。時に人有り、問うて云く、「師、慈悲なきに似たり。草を惜しんで畜生を悩ます。」僧都云く、「我れ若し是れを打たずんば、この鹿、人に馴れて悪人に近づかん時、必ず殺されん。この故に打つなり。」と。鹿を打つは慈悲なきに似たれども、内心の道理、慈悲余れる事是のごとし。

 

08一日示に云く、人、法門を問ふ、あるいは修行の方法を問ふ事あらば、衲子はすべからく実を以て是れを答フベシ。若しくは他の非器を顧み、あるいは初心未入の人意得べからずとて、方便不実を以て答ふべからず。菩薩戒の意は、直饒小乗の器、小乗の道を問ふとも、ただ大乗を以て答ふべきなり。如来一期の化儀も尓前方便の権教は実に無益なり。ただ最後実教のみ実の益あるなり。然れば、他の得不得をば論ぜず、ただ実を以て答ふべきなり。若し此の中の人(これ)を見ば、実徳を以て是れをうる事を得べし。仮徳を以て是れをうる事を得べし。外相仮徳を以て是れを見るべからず。

昔、孔子に一人有って来帰す。孔(子)問うて云く、「汝何を以てか来って我れに帰する。」彼の俗云く、「君子参内の時是れを見しに仰々として威勢あり。依つて是れに帰す。」と。孔子、弟子をして乗物・装束・金銀・財物等を取り出して是れを与へき。「汝我れに帰するにあらず。」と。

また云く、宇治の関白殿、有る時鼎殿に到って火を焼く処を見る。鼎殿見て云く、「何者ぞ、左右なく御所の鼎殿へ入るは。」と云っておひ出されて後、さきの悪き衣服を脱ぎ改めて、仰々として取り装束して出給ふ時に、前の鼎殿、遥にみて恐れ入ってにげぬ。時に殿下、装束を竿に掛けられて拝せられけり。人、是れを問ふ。「我れ人に貴びらるるも我が徳にあらず。ただこの装束の故なり。」と。愚かなる者の人を貴ぶ事是のごとし。経教の文字等を貴ぶ事もまた是のごとし。

古人云く、「言、天下に満ちて口過無く、行、天下に満ちて怨悪を亡ず。」と。是れ則ち言ふべき処を言ひ、行ふべき処を行ふ故なり。至徳要道の行なり。世間の言行は私然を以て計らひ思ふ。恐らくは過のみあらん事を。衲子の言行は先証是れ定まれり。私曲を存ずべからず。仏祖行ひ来れる道なり。学道の人、各自ら己が身を顧みるべし。身を顧みると云ふは、身心何やうに持つべきぞと顧みるべし。然るに衲子は、則ち是れ釈子なり。如来の風儀を慣ふべきなり。身口意の威儀、皆千仏行じ来れる作法あり。各その儀に随ふべし。俗なほ「服、法に応じ、言、道に随ふべし。」と云へり。一切私を用ふるべからず。

 

09示に云く、当世学道する人、多分法を聞く時、先ず好く領解する由を知られんと思うて、答の言の好からんやうを思ふほどに、聞くことは耳を過ごすなり。詮ずる処道心なく、吾我を存ずる故なり。ただすべからく先づ我れを忘れ、人の言はん事を好く聞いて、後に静かに案じて、難もあり不審もあらば、逐ても難じ、心得たらば逐って帰すべし。当座に領(解)する由を呈せんとする、法を好くも聞かざるなり。

 

10示に云く、唐の太宗の時、異国より千里の馬を献ず。帝是れを得て喜ばずして自ら思はく、「直饒千里の馬なりとも、独り騎って千里に行くとも、従ふ臣なくんばその詮なきなり。」と。因みに魏徴を召してこれを問ふ。徴云く、「帝の心と同じ。」と。依りて彼の馬に金帛を負せて還さしむ。今は云く、帝なほ身の用ならぬ物をば持たずして是れを還す。

況んや衲子は衣鉢の外の物、決定して無用なるか。無用の物、是れを貯へて何かせん。俗なほ一道を専らにする者は、田苑荘園等を持する事を要とせず。ただ一切の国土の人を百姓眷属とす。地相法橋子息に遺嘱するに、「ただ道を専らにはげむべし。」と云へり。況んや仏子は、万事を捨て、専ら一事をたしなむべし。是れ用心なり。

 

11示に云く、学道の人、参師聞法の時、能々窮めて聞き、重ねて聞いて決定すべし。問ふべきを問はず、言ふべきを言はずして過ごしなば、我が損なるべし。師は必ず弟子の問ふを待って発言するなり。心得〈経〉たる事をも、幾度も問うて決定すべきなり。師も、弟子に能々心得たるかと問うて、云ひ聞かすべきなり。

 

12示に云く、道者の用心、常の人に殊なる事有り。故建仁寺の僧正在世の時、寺絶食す。有る時一人の檀那請じて絹一疋施す。僧正悦びて自ら取って懐中して、人にも持せずして、寺に返りて知事に与へて云く、「明旦の浄粥等に作さる(べし)。」然るに俗人のもとより所望して云く、「恥がましき事有って絹二三疋入る事あり。少々にてもあらば給はるべき」よしを申す。僧正則ち先の絹を取り返して則ち与へぬ。

時にこの知事の僧も衆僧も思ひの外に不審す。後に僧正自ら云く、「各、僻事にぞ思はるらん。然れども、我れ思はくは、衆僧面々仏道の志ありて集まれり。一日絶食して餓死すとも、苦しかるべからず。俗の世に交はれるば、指当りて事闕らん苦悩を助けたらんは、各々のためにも、一日の食を去って人の苦を息めたらんは、利益勝れたるべし。」と。道者の案じ入れたる事、是のごとし。

 

13示に云く、仏々祖々皆本は凡夫なり。凡夫の時は必ず悪業もあり、悪心もあり。鈍もあり、癡もあり。然れども皆改めて知識に従ひ、教行に依リしかば、皆仏祖と成りしなり。今の人も然るべし。我が身おろかなれば、鈍なればと卑下する事なかれ。今生に発心せずんば何の時をか待つべき。好むには必ず得べきなり。

 

14示に云く、俗の帝道の故実を言ふに云く、「虚襟にあらざれば忠言を入れず。」と。言は己見を存ぜずして、忠臣の言に随いて、道理に任せて帝道を行なふなり。衲子の学道の故実もまた是のごとくなるべし。若し己見を存ぜば、師の言耳に入らざるなり。師の言耳に入わざれば、師の法を得ざるなり。

また、ただ法門の異見を忘るるのみにあらず、また世事を返して、飢寒等を忘れて、一向に身心を清めて聞く時、親しく聞くにてあるなり。是のごとく聞く時、道理も不審も明らめらるるなり。真実の得道と云ふも、従来の身心を放下して、ただ直下に他に随ひ行けば、即ち実の道人にてあるなり。これ第一の故実なり。

 

正法眼蔵随聞記 二

01一日示に云く、『続高僧伝』の中に、ある禅師の会に一僧あり。金像の仏と、また仏舎利とを崇め用ひて、衆寮等にも有りて、常に焼香礼拝し恭敬供養す。

有る時禅師の云く、「汝が崇むる処の仏像舎利は、後には汝がために不是あらん。」と。その僧肯ず。師云く、「是れ天魔波旬の付処なり。早く是れを捨てざらんや。」その僧憤然として出づれば、師、僧の後に云ひ懸けて云く、「汝、箱を開いて是れを見るべし。」(僧)、怒りながら是れを開いて見れば、果して毒蛇蟠つて臥せり。是れを思ふに、仏像舎利は如来の遺骨なれば恭敬すべしといへども、また一へに是れを仰ぎて得悟すべしと思はば、還りて邪見なり。天魔毒蛇の所領と成る因縁なり。

仏説に功徳あるべしと見えたれば、人天の福分と成る事、生身と斉し。惣て三宝の境界、恭敬すれば罪滅し功徳を得る事、悪趣の業をも消し、人天の果をも感ずる事は実なり。是れによりて仏の悟りを得たりと執するは僻見なり。仏子と云ふは、仏教に順じて、直に仏位に到らんためには、ただ教に随いて功夫弁道すべきなり。その教に順ずる実の行と云ふは、即ち今の叢林の宗とする只管打坐なり。是れを思ふべし。また云く、戒行持斎を守護すべければとて、また是れをのみ宗として、是れを奉公に立て、是れに依りて得道すべしと思ふもまた是れ非なり。

ただ衲僧の行履、仏子の家風なれば従ひゆくなり。是れを能事と云へばとて、あながち是れをのみ宗とすべしと思ふは非なり。然ればとて、また破戒放逸なれと云ふにあらず。若しまた是のごとく執せば邪見なり、外道なり。ただ仏家の儀式、叢林の家風なれば随順しゆくなり。

是れを宗とすと、宋土の寺院に住せし時も、衆僧に見ゆべからず。実の得道のためにはただ坐禅功夫、仏祖の相伝なり。是れに依りて一門の同学五根房、故用祥僧正の弟子なり、唐土の禅院にて持斎を固く守りて、戒経を終日誦せしをば、教へて捨てしめたりしなり。

弉公問うて云く、叢林学道の儀式は百丈の清規を守るべきか。然るに、彼にはじめに「受戒護戒をもて先とす。」と見えたり。また今の伝来、相承の根本戒をさづくと見えたり。当家の口決面授にも、西来相伝の戒を学人に授く。是れ則ち今の菩薩戒なり。然るに今の戒経に、「日夜に是れを誦せよ。」と云へり。何ぞ是れを誦するを捨てしむるや。

師云く、然り。学人最も百丈の規縄を守るべし。然るにその儀式は護戒坐禅等なり。「昼夜に戒を誦し、専ら戒を護持す。」と云ふ事は、古人の行李にしたがうて祗管打坐すべきなり。坐禅の時何の戒か持たれざる、何の功徳か来らざる。古人の行じおける処の行履、皆深き心あり。私の意楽を存せずして、ただ衆に従いて、古人の行履に任せて行じゆくべきなり。

 

02一日示に云く、人その家に生まれ、その道に入らば、先づその家の業を修すべし、知るべきなり。我が道にあらず、自が分にあらざらん事を知り修するは即ち非なり。今、出家の人として、即ち仏家に入り、僧道に入らば、すべからくその業を習ふべし。その儀を守ると云ふは、我執を捨て、知識の教に随ふなり。

その大意は、貪欲無きなり。貪欲無からんと思はば先ずすべからく吾我を離るべきなり。吾我を離るるには、観無常是れ第一の用心なり。世人多く、我れは元来人に能しと言はれ思はれんと思ふなり。それが即ちよくも成り得ぬなり。

ただ我執を次第に捨て、知識の言に随ひゆけば昇進するなり。「理を心得たるように云へども、しかありと云へども、我れはその事が捨て得ぬ。」と云いて執し好み修するは、弥沈淪するなり。禅僧の能く成る第一の用心は祇管打坐すべきなり。利鈍賢愚を論ぜず、坐禅すれば自然に好くなるなり。

 

03示に曰く、広学博覧はかなふべからざる事なり。一向に思ひ切って、留るべし。ただ一事に付いて用心故実をも習ひ、先達の行履をも尋ねて、一行を専らはげみて、人師先達の気色すまじきなり。

 

04ある時、弉、師に問うて云く、「如何なるか是れ不昧因果底の道理」。師云く、「不動因果なり」。云く、「なにとしてか脱落せん」。師云く、「因果歴然なり」。云く、「是のごとくならば、果引き起すや」。師云く、「惣て是のごとくならば、南泉猫児を截る事、大衆已に道得す。即ち猫児を斬却し了りぬ。後に趙州草鞋ヲ脱して載き出し、また一段の儀式なり」。

また云く、我れ若し南泉なりせば即ち道ふべし、「道ひ得たりとも即ち斬却せん。道不得なりとも即ち斬却せん。何人か猫児を争ふ、何人か猫児を救ふ。」と。大衆に代って道はん、「既に道得す。請ふ、和尚猫児を斬らん(ことを)。」と。また大衆に代って道はん、「南泉ただ一刀両段のみを知りて一刀一段を知らず。」と。弉云く、「如何なるか是れ一刀一段」。師云く、「大衆道不得、良久不対ならば、泉、道ふべし、大衆已に道得すと云って猫児を放下せまし」。

古人云く、「大用現前して軌則を存せず。」と。また云く、「今の斬猫は是れ即ち仏法の大用、あるいは一転語なり。若し一転語にあらずは、山河大地妙浄明心とも云ふべからず。また即心是仏とも云ふべからず。即ちこの一転語の言下にて、猫児が躰仏身と見、またこの語を聞いて学人も頓に悟入すべし」。また云く、「この斬猫即ち是れ仏行なり。喚んで何とか道ふべき。喚んで斬猫とすべし」。また云く、「是れ罪相なりや」。云く、「罪相なり。何としてか脱落せん」。云く、「別。並び具す」。云く、「別解脱戒とは是のごときを道ふか」。云く、「然なり」。また云く、「但し是のごとき料簡、直饒好事なりとも無からんにはしかじ」。

弉問うて云く、「犯戒と言ふは、受戒以後の所犯を道ふか、ただしまた未受以前の罪相をも犯戒と道ふべきか」。師答えて云く、「犯戒の名は受後の所犯を道ふべし。未受以前所作の罪相をばただ罪相、罪業と道いて、犯戒と道ふべからず」。問うて云く、「四十八軽戒の中に、未受戒の所犯を犯と名づくと見ゆ。如何」。答えて云く、「然らず。彼の未受戒の者、今受戒せんとする時、所造の罪を懺悔する時、今の戒に望めて十戒を授くるに、軽戒を犯せるを犯すと云ふなり。以前初造の罪を犯戒と云ふにあらず」。問ふて云く、「今受戒せん時、所造の罪を懺悔せんために、未受の者をして懺悔せしむるに、十重四十八軽戒を教へて読誦せしむべし。と見えたり。また下の文に、未受戒の前にして説戒すべからず。と云へり。二度の相違如何」。答えて云く、「受戒と誦戒とは別なり。懺悔のために戒経を誦ずるはなほ是れ念経なるが故に、未受の者、戒経を誦せんとす。彼がために戒経を説かん事、咎有るべからず。下の文には利養のための故に、未受の前に是れを説くことを修せんとす。最も是れを教ふべし」。問うて云く、「受戒の時は七逆の懺悔すべしと見ゆ。如何」。答えて云く、「実に懺悔すべし。受戒の時許さざる事は、且く抑止門とて抑ふる儀なり。また上の文は、破戒なりとも還得受せば清浄なるべし。懺悔すれば清浄なり。未受には同じからず」。問うて云く、「七逆既に懺悔を許さばまた受戒すべきか、如何」。答えて云く、然なり。故僧正自ラ立つ所の義なり。既に懺悔を許さばまた是れ受戒すべし。逆罪なりとも悔いて受戒せば授くべし。況んや菩薩は、直饒自身は破戒の罪を受くとも、他のために受戒せしむべし」。

 

05夜話に云く、悪口をもて僧を呵嘖し、毀呰する事なかれ。悪人不当なりと云ふとも、左右無く悪毀る事なかれ。先づ何にわるしと云ふとも、四人已上集会し(行)ずべければ、僧の躰にて国の重宝なり。最も帰敬すべき者なり。住持長老にてもあれ、若しくは師匠知識にてもあれ、不当ならば慈悲心老婆心にて能教訓し誘引すべきなり。その時直饒打つべきをば打ち、呵嘖すべきをば呵嘖すとも、毀呰謗言の心を起すべからず。

先師天童浄和尚住持の時、僧堂にて衆僧坐禅の時、眠りを警むるに履を以て是れを打ち謗言呵嘖せしかども、僧皆打たるる事を喜び、讃嘆しき。ある時、また上堂の次でには、常に云く、「我れ已に老後の今は、衆を辞し、庵に住して老を扶けて居るべけれども、衆の知識として各々の迷ひを破り、道を助けんがために住持人たり。是れに因りてあるいは呵嘖の言を出し、竹篦打擲等の事を行ず。是れ頗る恐れあり。然れども、仏に代りて化儀を揚ぐる式なり。諸兄弟、慈悲をもてこれを許し給へ。」と言へば、衆僧流涕しき。是のごとき心を以てこそ、衆をも接し化をも宣ぶべけれ。住持長老なればとて猥りに衆を領じ、我が物に思うて呵嘖するは非なり。況んやその人にあらずして人の短を謂ひ、他の非を謗るは非なり。能々用心すべきなり。他の非を見て、わるしと思うて、慈悲を以てせんと思はば、腹立つまじきやうに方便して、傍の事を言ふやうにてこしらふべし。

 

06また物語に云く、故鎌倉の右大将、始め兵衛佐にて有リし時、内府の辺に一日はれの会に出仕の時、一人の不当人在りき。その時、大納言のおほせて云く、「是れを制すべし。」(大)将の云く、「六波羅におほせらるべし。平家の将軍なり。」大納言の云く、「近々なれば。」大将の云く、「その人にあらず。」と。是れ美言なり。この心にて、後に世をも治めたりしなり。今の学人もその心あるべし。その人にあらずして人を呵する事なかれ。

 

07 夜話に云く、昔、魯の仲連と云ふ将軍ありて、平原君が国に有りて能く朝敵を平らぐ。平原君賞して数多の金銀等を与へしかば、魯の仲連辞して云く、「ただ将軍の道なれば敵を討つ能を成す已而。賞を得て物を取らんとにはあらず。」と謂って、敢て取らずと言ふ。魯仲連が廉直とて名よの事なり。

俗なほ賢なるは、我れその人としてその道の能を成すばかりなり。代りを得んと思はず。学人の用心も是のごとくなるべし。仏道に入りては仏道のために諸事を行じて、代りに所得あらんと思ふべからず。内外の諸教に、皆無所得なれとのみ進むるなり。心を取る。

法談の次に示して云く、直饒我れ道理を以て道ふに、人僻事を言ふを、理を攻めて言ひ勝つは悪きなり。次に、我れは現に道理と思へども、「我が非にこそ。」と言いて負けてのくもあしばやなると言ふなり。ただ人をも言ヒ折らず、我が僻事にも謂ひおほせず、無為にして止めるが好きなり。耳に聴き入れぬようにて忘るれば、人も忘れて怒らざるなり。第一の用心なり。

 

08示に云く、無常迅速なり、生死事大なり。暫く存命の間、業を修し学を好まんには、ただ仏道を行じ仏法を学すべきなり。文筆詩歌等その詮なきなり。捨つべき道理左右に及ばず。仏法を学し仏道を修するにもなほ多般を兼ね学すべからず。況んや教家の顕密の聖教、一向に擱くべきなり。

仏祖の言語すら多般を好み学すべからず。一事を専らにせん、鈍根劣器のものかなふべからず。況んや多事を兼ねて心想を調へざらん、不可なり。

 

09示に云く、昔、智覚禅師と云いし人の発心出家の事、この師は初めは官人なり。富に誇るに正直の賢人なり。有る時、国司たりし時、官銭を盗んで施行す。旁の人、是れを官奏す帝、聴いて大いに驚き恠しむ。諸臣皆恠しむ。罪過已に軽からず。死罪に行なはるべしと定まりぬ。爰に帝、議して云く、「この臣は才人なり、賢者なり。今ことさらこの罪を犯す、若し深き心有らんか。若し頚を斬らん時、悲しみ愁たる気色有らば、速やかに斬るべし。若しその気色無くんば、定めて深き心有り。斬るべからず。」勅使ひきさりて斬らんと欲する時、少しも愁の気色無し。返りて喜ぶ気色あり。自ら云く、「今生の命は一切衆生に施す。」と。使、驚き恠しんで返り奏聞す。帝云く、「然り。定めて深き心有らん。この事有るべしと兼ねて是れを知れり。」と。仍ってその故を問ふ。師云く、「官を辞して命を捨て、施を行じて衆生に縁を結び、生を仏家に稟けて一向に仏道を行ぜんと思ふ。」と。帝、是れを感じて許して出家せしむ。仍って延寿と名を賜ひき。殺すべきを、是を留むる故なり。今の衲子も是れほどの心を一度発すべきなり。命を軽くし生を憐れむ心深くして、身を仏制に任せんと思ふ心を発すべし。若し前よりこの心一念も有らば、失はじと保つべし。これほどの心一度発さずして、仏法を悟る事はあるべからず。

 

10夜話に云く、祖席に禅話を覚り得る故実は、我が本より知り思ふ心を、次第に知識の言に随いて改めて去くなり。仮令仏と云ふは、我が本知りたるやうは、相好光明具足し、説法利生の徳有りし釈迦弥陀等を仏と知りたりとも、知識若し仏と云ふは蝦蟇蚯蚓ぞと云はば、蝦蟇蚯蚓を、是れらを仏と信じて、日比の知恵を捨つるなり。この蚯蚓の上に仏の相好光明、種々の仏の所具の徳を求むるもなほ情見改まらざるなり。ただ当時の見ゆる処を仏と知るなり。

若し是のごとく言に従って、情見本執を改めてもて去けば、自ら合ふ処あるべきなり。

然るに近代の学者、自らが情見を執して、己見にたがふ時は、仏とはとこそ有るべけれ、また我が存ずるやうにたがへば、さは有るまじなんどと言いて、自が情量に似たる事や有ると迷ひありくほどに、おほかた仏道の昇進無きなり。

また身を惜しみて、「百尺の竿頭に上って手足を放ちて一歩進め。」と言ふ時は、「命有りてこそ仏道も学せめ。」と云いて、真実に知識に随順せざるなり。能々思量すべし。

 

11夜話に云く、人は世間の人も、衆事を兼ね学して何れも能もせざらんよりは、ただ一事を能して、人前にしてもしつべきほどに学すべきなり。況んや出世の仏法は、無始より以来修習せざる法なり。故に今もうとし。我が性も拙なし。高広なる仏法の事を、多般を兼ぬれば一事をも成ずべからず。一事を専らにせんすら本性昧劣の根器、今生に窮め難し、努々学人一事を専らにすべし。

弉問うて云く、「若し然らば、何事いかなる行か、仏法に専ら好み修すベき」。

師云く、「機に随ひ根に随ふべしと云へども、今祖席に相伝して専らする処は坐禅なり。この行、能く衆機を兼ね、上中下根等しく修し得べき法なり。我れ大宋天童先師の会下にしてこの道理を聞いて後、昼夜定坐して極熱極寒には発病しつべしとて諸僧暫く放下しき。我れその時自ら思はく、直饒発病して死ぬべくとも、なほただ是れを修すべし。病まずして修せずんば、この身労しても何の用ぞ。病して死なば本意なり。大宋国の善知識の会にて修し死にて、よき僧にさばくられたらん、先づ結縁なり。日本にて死なば是れほどの人々に如法仏家の儀式にて沙汰すべからず。修行して未だ契はざる先に死せば、好き結縁として生を仏家にも受くべし。修行せずして身を久しく持つても詮無きなり。何の用ぞ。況んや身を全くし病作らずと思ふほどに、知らず、また海にも入リ、横死にも逢はん時は後悔如何。是のごとく案じつづけて、思ひ切って昼夜端坐せしに、一切に病作らず。如今各々も一向に思ひ切りて修して見よ。十人は十人ながら得道すべきなり。先師天童のすすめ是のごとし」。

 

12示に云く、人は思ひ切りて命をも捨て、身肉手足をも斬る事は中々せらるるなり。然れば、世間の事を思ひ、名利執心のためにも、是のごとく思ふなり。ただ依り来る時に触れ、物に随いて心器を調ふる事難きなり。学者、命を捨つると思うて、暫く推し静めて、云ふべき事をも修すべき事をも、道理に順ずるか順ぜざるかと案じて、道理に順ぜばいひもし、行じもすべきなり。

 

13示に云く、学道の人、衣粮を煩はす事なかれ。ただ仏制を守りて、心を世事に出す事なかれ。仏言く、「衣服に糞掃衣あり、食に常乞食あり。」と。何れの世にかこの二事尽くる事有らん。無常迅速なるを忘れて徒らに世事に煩ふ事なかれ。露命の暫く存ぜる間、ただ仏道を思うて余事を事とする事なかれ。

ある人問うて云く、「名利の二道は捨離しがたしと云へども、行道の大なる礙なれば捨てずんばあるべからず。故に是れを捨つ。衣粮の二事は小縁なりと云へども行者の大事なり。糞掃衣、常乞食、是れは上根の所行、また是れ西天の風流なり。神丹の叢林には常住物等あり。故にその労なし。我が国の寺院には常住物なし。乞食の儀も即ち絶えたり、伝はらず。下根不堪の身、如何がせん。

しからば予がごときは、檀那の信施を貪らんとするも虚受の罪随ひ来る。田商仕工を営むも是れ邪命食なり。ただ天運に任せんとすれば果報また貧道なり。飢寒来らん時、是れを愁として行道を碍つべし。ある人諌めて云く、「汝が行儀太あらじ。時機を顧みざるに似たり。下根なり、末世なり。是のごとく修行せばまた退転の因縁と成リぬべし。あるいは一檀那をも相語らひ、若しくは一外護をも契りて、閑居静所にして一身を助けて、衣粮に労する事無くして仏道を行ずべし。是れ即ち財物等を貪るにあらず。時の活計を具して修行すべし。と。この言を聞くと云へども未だ信用せず。是のごとき用心如何。」

答へて云く、「夫れ衲子の行履は仏祖の風流を学ぶべし。三国ことなりと云へども、真実学道の者未だ是のごとき事有らず。ただ心を世事にいだす事なかれ。一向に道を学すべきなり。仏言く、「衣鉢の外は寸分も貯えざれ。乞食の余分は、飢えたる衆生に施す。」と。

直饒受け来るとも寸分も貯ふべからず。況んや馳走有らんや。外典に云く、「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり。」と。直饒飢ゑ死に寒え死にすとも、一日一時なりとも仏教に随ふべし。万劫千生幾回か生じ幾回か死せん。皆是れ是のごとき世縁妄執なり。今生一度仏制に順いて餓死せん、是れ永劫の安楽なるべし。何に況んや未だ一大蔵教の中にも、三国伝来の仏祖有りて一人も餓ゑ死に寒え死にたるを聞かず。世間衣粮の資具は生得の命分なり。求むるに依りて来らず、求めずとも来らざるにもあらず。正に任運として心をおく事なかれ。末法なり、下根なりと云いて、今生に(心を)発さずは何れの生にか得道せん。直饒空生迦葉のごとくにあらずとも、ただ随分に学道すべきなり。

外典に云く、「西施毛嬙にあらざれども色を好む者は色を好む。飛兎緑耳にあらざれども馬を好む者は馬を好む。龍肝豹胎にあらざれども味を好む者は味を好む。」と。ただ随分の賢を用ふるのみなり。俗なほこの儀有り。(僧)また是のごとくなるべし。況んやまた仏二十年の福分を以て末法の我等に施す。是れに因りて天下の叢林、人天の供養絶えず。如来神通の福徳自在なる、なほ馬麦を食して夏を過ごしましましき。末法の弟子豈是れを慕はざらんや。問うて云く、破戒にして空しく人天の供養を受け、無道心にして徒らに如来の福分を費やさんよりは、在家人にしたがうて在家の事を作して、命いきて能く修道せん事、如何。答へて云く、誰か云いし破戒無道心なれと。ただ強ひて道心をおこし、仏法を行ずべきなり。何に況んや持戒破戒を論ぜず、初心後心をわかたず、斉しく如来の福分を与ふとは見えたり。未だ破戒ならば還俗すべし、無道心ならば修行せざれとは見えず。誰人か初めより道心ある。ただ是のごとく発し難きを発し、行じ難きを行ずれば自然に増進するなり。人々皆仏性有るなり。徒らに卑下する事なかれ。また云く、文選に云く、「(一)国は一人の為に興り、先賢は後愚の為に廃る」と。文。言ふ心は、国に賢一人出来らざれば賢の跡廃るとなり。是れを思ふべし。

 

14雑話の次でに云く、世間の男女老少、多く雑談の次で、あるいは交会淫色等の事を談ず。是れを以て心を慰めんとし興言とする事あり。一旦心も遊戯し、徒然も慰むと云ふとも、僧は尤も禁断すべき事なり。俗なほよき人、実しき人の、礼儀を存じ、げにげにしき談の時出来らぬ事なり。ただ乱酔放逸なる時の談なり。況んや僧は、専ら仏道を思ふべし。希有異躰の乱僧の所言なり。

宋土の寺院なんどには、惣て雑談をせざれば、左右に及ばず。我が国も、近ごろ建仁寺の僧正存生の時は、一向あからさまにも是のごとき言語出来らず。滅後も在世の門弟子等少々残り留まりし時は、一切に言はざりき。近ごろ七八年より以来、今出の若人達時々談ずるなり。存外の次第なり。

聖教の中にも、「麁強の悪業は人をして覚悟せしむ、無利の言説は能く正道を障ふ。」と。ただ打ち出し言ふ語すら利無き言説は障道の因縁なり。況んや然のごとき言説のことばに引かれて、即ち心も起りつべし。尤も用心すべきなり。わざとことさらいでかくなんいはじとせずとも、あしき事と知りなば漸々に退治すべきなり。

 

15夜話に云く、世人多く善事を成す時は人に知られんと思ひ、悪事を成す時は人に知られじと思ふに依りて、この心冥衆の心にかなはざるに依りて、所作の善事に感応なく、密に作す所の悪事には罰有るなり。己に依りて返りて自ら思はく、善事には験なし、仏法の利益なしなんど思へるなり。是れ即ち邪見なり。

尤も改むべし。人も知らざる時は潜に善事を成し、悪事を成して後は発露して咎を悔ゆ。是のごとくすれば即ち密々に成す所の善事には感応有り、露れたる悪事は懺悔せられて罪滅する故に、自然に現益も有るなり。当果をも知るべし。爰に有る在家人、来りて問うて云く、「近代在家人、衆僧を供養じ仏法を帰敬するに多く不吉の事出来るに因りて、邪見起りて三宝に帰(敬)せじと思ふ、如何。」と。答えて云く、即ち衆僧、仏法の咎にあらず。即ち在家人の自が誤なり。

その故は、仮令人目ばかり持戒持斉の由現ずる僧をば貴くし、供養じ、破戒無慚の僧の飲酒肉食等するをば不当なりと思うて供養せず。この差別の心、実に仏意に背けり。因りて帰敬の功も空しく、感応無きなり。戒の中にも処々にこの心を誡めたり。僧と云はば、徳の有無を択ばず、ただ供養すべきなり。殊にその外相を以て内徳の有無を定むべからず。末世の比丘、聊か外相尋常なる処と見ゆれども、また是れに勝りたる悪心も悪事もあるなり。仍て、好き僧、悪しき僧を差別し思ふ事無くて、仏弟子なれば此方を貴びて、平等の心にて供養帰敬もせば、必ず仏意に叶いて、利益も速疾にあるべきなり。また冥機冥応、顕機顕応等の四句有る事を思ふべし。また現生後報等の三時業の事も有り。此等の道理能々学すべきなり。

 

16夜話に云く、若し人来りて用事を云ふ中に、あるいは人に物を乞ひ、あるいは訴訟等の事をも云はんとて、一通の状をも所望する事出来有るに、その時、我れは非人なり、遁世篭居の身なれば、在家等の人に非分の事を謂はんは非なりとて、眼前の人の所望を叶へぬは、その時に臨み思量すべきなり。実に非人の法には似たれども、然有らず。その心中を捜るに、なほ我れは遁世非人なり、非分の事を人に云はば人定めて悪しく思ひてんと云ふ道理を思うて聞かざらんは、なほ是れ我執名聞なり。ただ眼前の人のために、一分の利益は為すべからんをば、人の悪しく思はん事を顧みず為すべきなり。この事非分なり、悪しとてうとみもし、中をも違はんも、是のごとき不覚の知音中違ん、何か悪かるべき。顕には非分の僻事をすると人には見ゆれども、内には我執を破りて名聞を捨つる、第一の用心なり。

仏菩薩は、人の来りて云ふ時は、身肉手足をも斬るなり。況んや人来りて一通の状を乞はん、少分の悪事の名聞ばかりを思ウてその事を聞かざらんは我執の咎なり。人は「ひじりならず、非分の要事云ふ人かな」と、所詮無く思ふとも、我れは名聞を捨て、一分の人の利益とならば、真実の道に相応すべきなり。古人もその義あるかと見ゆる事多し。予もその義を思ふ。少々檀那知音の思ひ懸けざる事を人に申し伝へてと云ふをば、紙少分こそ入れ、一分の利益をなすは、やすき事なり。

弉問うて云く、「この事、実に然なり。但し善き事に人の利益とならん事を、人にも云ひ伝へんはさるべし。若し僻事を以て人の所帯を取らんと思ひ、あるいは人のために悪しき事を云ふをば、云ひ伝ふべき乎、如何」。

師答へて云く、「理非等の事は我が知るべきにあらず。ただ一通の状を乞へば与ふれども、理非に任せて沙汰すべき由、云ふ人にも、状にも載すべし。請け取りて沙汰せん人こそ、理非をば明らむべけれ。我が分上にあらず。是のごとき事を理を枉げて人に云はん事、また非なり。また現の僻事なれども、我れを大事にも思ふ人の、この人の云はん事は善悪違へじと思ふほどの知音檀那の処へ、僻事を以て不得心の所望をなさば、其れをば、今の人の所望をば、一往聞くとも、彼の状にも、去り難く申せば申すばかりなり、道理に任せて沙汰有るべしと云ふべきなり。一切に是(のごとく)なれば、彼も此れも遺恨有るべからざるなり。是のごとき事、人に対面をもし、出来る事に任せて能々思量すべきなり。所詮は事に触れて名聞我執を捨つべきなり」。

 

17夜話に云く、今の世、出世間の人、多分は善事をなしては、かまへて人に識られんと思ひ、悪事をなしては人に知られじと思ふ。此れに依りて内外不相応の事出来る。相構へて内外相応し、誤りを悔い、実徳を蔵して、外相を荘らず、好事をば他人に譲り、悪事をば己に向ふる志気有るべきなり。

問うて云く、「実徳を蔵し外相を荘らざらん事、実に然るべし。但し、仏菩薩の大悲は利生を以て本とす。無智の道俗等、外相の不善を見て是れを謗難せば、謗僧の罪を感ぜん。実徳を知らずとも外相を見て貴び供養せば、一分の福分たるべし。是れ等の斟酌いかなるべきぞ。答へて云く、外相を荘らずと云いて、即ち放逸ならば、また是れ道理にたがふ。実徳をかくすと云いて在家等の前に悪行を現ぜん、また是れ破戒の甚しきなり。ただ希有の道心者の由を人に知られんと思ひ、身に在る失を人に知られじと思ふ。諸天善神及び三宝の冥に知見する処を愧ぢずして、人に貴びられんと思ふ心を誡むるなり。ただ時に臨み事に触れて興法のため利生のため、諸事を斟酌すべきなり。「擬して後言ひ、思うて後行じて率暴なる事なかれ。」となり。所詮は一切の事に臨みて、道理を案ずべきなり。

念々に留まらず日々に遷流して、無常迅速なる事、眼前の道理なり。知識経巻の教を待つベからず。念々に明日を期する事なかれ。当日当時許と思うて、後日は甚だ不定なり、知り難ければ、ただ今日ばかりも身命の在らんほど、仏道に順ぜんと思ふべきなり。仏道に順ぜん者は、興法利生のために、身命を捨テ諸事を行じ去なり。問うて云く、仏教の進めに順いて乞食等を行ずべき歟、如何」。

答へて云く、「然るべし。但し、是れは土風に順いて斟酌有るべし。なにとしても、利生も広く、我が行も進むかたに就くべきなり。是れ等の作法、道路不浄にして、仏衣を着けて行歩せば穢つべし。また人民貧窮にして次第乞食も叶ふべからず。行道も退くべく、利益も広からざる歟。ただ土風を守りて、尋常に仏道を行じ居たらば、上下の輩自ら供養を作すべし。自行化他成就せん。是のごとき事も、時に臨み事に触れて、道理を思量して、人目を思はず自の益を忘れ、仏道利生の方によきやうに計らふべし」。

 

18示に云く、学道の人、世情を捨つべきに就いて重々の用心有るべし。世を捨て、家を捨て、身を捨て、心を捨つるなり。能々思量すべきなり。世を遁れて山林に隠居し、我が重代の家を絶やさず、家門親族の事を思ふも有り。家を遁捨して親族の境界をも捨離すれども、我が身に苦しき事を為さじと思ひ、病発しつべき事を、仏道をも行ぜじと思ふは、未だ身を捨てざるなり。また身をも惜まず難行苦行すれども、心仏道に入らずして、我が心に違く事をば、仏道なれども為じと思ふは、心を捨てざるなり。

 

正法眼蔵随聞記 三

01示に云く、行者先ず心を調伏しつれば、身をも世をも捨つる事は易きなり。ただ言語に付き行儀に付きて人目を思ふ。この事は悪事なれば人悪く思ふべしとて作さず、我れこの事をせんこそ仏法者と人は見めとて、事に触れ能き事をせんとするもなほ世情なり。然ればとて、また恣に我意に任せて悪事をするは一向の悪人なり。所詮は悪心を忘れ、我が身を忘れ、ただ一向に仏法のためにすべき也。向カひ来らん事にしたがいて用心すべきなり。初心の行者は、先づ世情なりとも人情なりとも、悪事をば心に制して、善事をば身に行ずるが、即ち身心をすつるにて有るなり。

 

02示に云く、故僧正建仁寺に御せし時、独の貧人来りて道うて云く、「我が家貧にして絶煙数日に及び、夫婦子息両三人餓死しなんとす。慈悲をもて是れを救ひ給へ。」と云ふ。その時、房中に都て衣食財物等無りき。思慮をめぐらすに計略尽きぬ。時に薬師の仏像を造らんとて、光の料に打ちのべたる銅少分ありき。これを取って自ら打ち折りて束円めて彼の貧客に与へて云く、「是れを以て食物をかへて、餓を塞ぐベし。」と。彼の俗悦んで退出ぬ。門弟子等難じて云く、「正しく是れ仏像の光なり。以て俗人に与ふ、仏物己用の罪如何。」僧正答ヘて云く、「実に然るなり。但し、仏意を思ふに、身肉手足モ分つて衆生に施すべし。現に餓死すべき衆生には、直饒全躰を以て与ふとも仏意に叶ふべし。また我れこの罪に依りて縦悪趣に堕すべくとも、ただ衆生の餓ゑを救ふべし。」云々。

先達の心中のたけ、今の学人も思ふべし、忘るる事なかれ。またある時、僧正の門弟の僧云く、「今の建仁寺の寺屋敷河原に近し。後代に水難有りぬべし。」僧正云く、「我等後代の亡失これを思ふべからず。西天の祇園精舎も礎計留れりしかども、寺院建立の功徳失すべからず。また当時一年半年の行道、その功莫大なるべし。」と。今これを思ふに、寺院の建立は実に一期の大事なれば、未来際をも兼ねて難無きやうにとこそ思ふべけれども、さる心中にも、是のごとき道理を存ぜられし心のたけ、実にこれを思ふべし。

 

03夜話に云く、唐の太宗の時、魏徴奏して云く、「土民、帝を謗ずる事あり。」帝の云く、「寡人仁ありて人に謗ぜられば愁と為すべからず。仁無くして人に褒らればこれを愁ふベし。」と。俗なほ是のごとし。僧は尤もこの心有るべし。慈悲あり、道心ありて愚癡人に謗ぜられ譏らるるはくるしかるべからず。無道心にして人に有道と思はれん、是れを能々慎むべし。

また示に云く、隋の文帝の云く、「密々の徳を修して〈称〉ぐるをまつ。」と。言ふ心は、能き道徳を修してあぐるをまちて民を厳うするとなり。僧なほ及ばざらん、尤も用心すべきなり。ただ内々に道業を修せば自然に道徳外に露れ、人に知られん事を期せず望まず、ただ専ら仏教に随ひ祖道に順ひ行けば、人自ら道徳に帰するなり。此に学人の誤まり出来るやうは、人に貴びられて財宝出来たるを以て道徳彰たると自らも思ひ、人も知るなり。是れ即ち天魔波旬の心に付きたると知るべし。尤も思量すべし。教の中にも、是れをば魔の所為と云ふなり。未だ聞かず、三国の例、財宝に富み、愚人の帰敬を以て道徳と為すべしとは。

道心と云ふは、昔より三国皆貧にして身を苦しめ、省約して慈有り道有るを実の行者と云ふなり。徳の顕はるると云ふも、財宝に饒に、供養に誇るを云ふにあらず。徳の顕はるるに三重あるべし。先ずは、その人、その道を修するなりと知らるるなり。次には、その道を慕ふ者出来る。後にはその道を同じく学し同じく行ずるなり。是れを道徳の顕はるると云ふなり。

 

04夜話に云く、学道の人は人情をすつべきなり。人情を捨つると云ふは、仏法を順じ行ずるなり。世人多くは小乗根性なり。善悪を弁じ是非を分ち、是を取り非を捨つるはなほ是れ小乗の根性なり。ただ世情を捨つれば仏道に入るなり。仏道に入るには善悪を分ち、よしと思ひ、あししと思ふ事を捨て、我が身よからん、我が心何と有らんと思ふ心を忘れ、よくもあれあしくもあれ、仏祖の言語行履に順ひ行くなり。

我が心によしと思ひ、また世人のよしと思ふ事、必ずよからず。然れば、人目も忘れ、心をも捨て、ただ仏教に順ふ行くなり。身も苦しく、心も患とも、我が身心をば一向に捨てたるものなればと思うて、苦しく愁つべき事なりとも、仏祖先徳の行履ならば為すべきなり。この事は能き事、仏道に叶うたりと思ふとも、なしたく行じたくとも、仏祖の心になからん事をなすべからず。是れ即ち法門をも能く心得たる事にて有るなり。

我が心も、また本より習ひ来れる法門の思量をばすてて、ただ今見る処の祖師の言語行履に次(第)に心を移しもて行くなり。是のごとくすれば、知恵もすすみ、悟りも開くるなり。元来学する所の教家の文字の功も、捨つべき道理あらば捨て、今の義につきて見るべきなり。法門を学する事はもとより出家得道のためなり。我が学する所多年の功を積めり、何ぞやすく捨てんとなほ心深く思ふ、即ちこの心を生死繋縛の心と云ふなり。能々思量すべし。

 

05夜話に云く、故建仁寺の僧正の伝をば顕兼の中納言入道書いたるなり。その時辞する言に云く、「儒者に書かせらるべきなり。その故は、儒者は元来身を忘れて、幼きより長るまで学問を本とす。故に書いたる物に誤り無きなり。只人は、身の出仕交衆を本として、かたはら事に学問をするあひだ、自らよき人あれども、文筆の道にも誤り出来るなり。」と。

これを思ふに、昔の人は外典の学問も身を忘れて学するなり。また云く、故胤僧正云く、「道心と云ふは、一念三千の法門なんどを胸中に学し入れて持ちたるを道心と云ふなり。なにとなく笠を頚に懸けて迷ひありくをば、天狗魔縁の行と云ふなり。」と。

 

06夜話に云く、故僧正云く、「衆各用ゐる所の衣粮等の事、予が与ふると思ふ事なかれ。皆是れ諸天の供ずる所なり。我れは取り次ぎ人に当りたるばかりなり。また各々一期の命分具足す。奔走する事なかれ。」と常にすすめられければ、是れ第一の美言と覚ゆるなり。

また大宋宏智禅師の会下、天童は常住物千人の用途なり。然れば、堂中七百人、堂外三百人にて千人につもる常住物なるによりて、長老の住したる間、諸方の僧雲集して堂中千人なり。その外五、六百人ある間、知事、宏智に訴へ申すに云く、「常住物は千人の分なり。衆僧多く集まりて用途不足なり。枉げてはなたれん(ことを)。」と申ししかば、

宏智云く、「人々皆口有り。汝が事に干らず。歎く事なかれ」云々。今これを思ふに、人皆生得の衣食有り。思ふによりても出来らず、求めずとも来らざるにあらず。在家人すらなほ運に任せ忠を思ひ孝を学ぶ。何に況んや出家人は惣て他事を管ぜず。釈尊遺付の福分あり、諸天応供の衣食あり。また天然生得の命分あり。求め思はずとも、任運として有るべき命分なり。直饒走り求めて財をもちたりとも、無常忽に来たらん時如何。故に学人はただ宜余事に心を留めず、一向に道を学すべきなり。またある人云く、「末世辺土の仏法興隆は、衣食等の外護の外に累なくて修行せば、其れに付いて有相著我の諸人集まり学せんほどに、その中に若し一人の発心の人も出来るべし。故に閑居浄処を構へ、衣食具して仏法修行せば利益も弘かるべし。」と。

今は思ふに然らず。直饒千万人、利益につき財欲にふけりて聚まりたらん、一人なからんになほ(お)とるべき。悪道の業因の自ら積みて仏法の気分無き故なり。清貧艱難してあるいは乞食し、あるいは果蓏等を食して、恒に飢饉して学道せば、是れを聞いて若し一人も来り学せんと思人有らんこそ実の道心者、仏法の興隆ならめと覚ゆる。艱難貧道によりて一人も無からんと、衣食饒にして諸人聚まりて仏法なからんと、ただ八両と半斤となり。また云く、当世の人、多く造像起塔等の事を仏法興隆と思へり。また非なり。直饒高堂大観珠を磨いて金をのべたりとも、是れに因りて得道の者あるべからず。ただ在家人の財宝を仏界に入れて善事をなす福分なり。小因大果を感ずる事あれども、僧徒のこの事を営むは仏法興隆にあらざるなり。ただ草庵樹下にても、法門の一句をも思量し、一時の坐禅をも行ぜんこそ、実の仏法興隆にてあれ。今僧堂を立てんとて勧進をもし、随分に労する事は、必ずしも仏法興隆とは思はず。ただ当時学道する人も無く、徒らに日月を送る間、ただあらんよりもと思ふて、迷徒の結縁ともなれかし、また当時学道の輩の坐禅の道場のためなり。また、思ひ始めたる事のならずとても、恨み有るべからず。ただ柱一本なりとも立て置きたらば、後来も思ひ企てたれども成らざり鳬(けり)と見んも苦思すべからざるなり。

またある人すすみて云く、「仏法興隆のため関東に下向すべし。」と。

答へて云く、「然らず。若し仏法に志あらば、山川江海を渡りても来りて学すべし。その志なからん人に往き向かいてすすむとも、聞き入れん事不定なり。ただ我が資縁のため人を誑惑せん、財宝を貪らんためか。其れは身の苦しければ、いかでもありなんと覚ゆるなり。また云く、学道の人、教家の書籍及び外典等学すべからず。見るべき語録等を見るべし。その余は且く是れを置くべし。今代の禅僧、頌を作り法語を書かん料に文筆等を好む、是れ即ち非なり。頌作らずとも、心に思はん事を書いたらん。文筆調はずとも、法門を書くべきなり。是れをわるしとて見たがらぬほどの無道心の人は、好き文筆を調へ、いみじき秀句ありとも、ただ言語計を翫んで、理を得べからず。我れも本幼少の時より好み学せし事にて、今もややもすれば、外典等の美言案ぜられ、文選等も見らるるを、詮無き事と存ずれば、一向に捨つべき由を思ふなり」。

 

07一日示に云く、我れ在宋の時、禅院にして古人の語録を見し時、ある西川の僧の道者にて有りしが、我れに問うて云く、「なにの用ぞ。」云く、「郷里に帰りて人を化せん。」僧云く、「なにの用ぞ。」云く、「利生のためなり。」僧云く、「畢竟じて何の用ぞ。」と。

予、後にこの理を案ずるに、語録公案等を見て、古人の行履をも知り、あるいは迷者のために説き聞かしめん、皆是れ自行化他のために無用なり。只管打坐して大事を明らめ、心の理を明らめなば、後には一字を知らずとも、他に開示せんに、用ひ尽くすべからず。故に彼の僧、畢竟じて何の用ぞとは云ひけると、是れ真実の道理なりと思うて、その後語録等を見る事をとどめて、一向に打坐して大事を明らめ得たり。

 

08夜話に云く、真実内徳無うして人に貴びらるべからず。この国の人は真実の内徳をばさぐりえず、外相をもて人を貴ぶほどに、無道心の学人は、即ちあしざまにひきなされて、魔の眷属と成るなり。人にたっとびられじと思はん事、やすき事なり。中々身をすて世をそむく由を以てなすは、外相計の仮令なり。ただなにとなく世間の人のやうにて、内心を調へもてゆく、是れ実の道心者なり。

然れば、古人云く、「内空しくして外したがふ。」といひて、中心は我が身なくして外相は他にしたがひもてゆくなり。我が身わが心と云ふ事を一向にわすれて、仏法に入りて、仏法のおきてに任せて行じもてゆけば、内外ともによく、今も後もよきなり。仏法の中にも、そぞろに身をすて、世をそむけばとて、すつべからざる事をすつるは非なり。此土の仏法者、道心者を立つる人の中にも、身をす(て)たればとて、人はいかにも見よと思うて、ゆゑなく身をわろくふるまひ、あるいはまた世を執せぬとて、雨にもぬれながらゆきなんどするは、内外ともに無益なるを、世間の人は即ち是れを貴き人、世を執せぬなんどと思へるなり。中々仏制を守りて、戒、律儀をも存じ、自行他行仏制に任せて行ずるをば、名聞利養げなると人も管ぜざるなり。其れがまた我がためには、仏教にも順ひ、内外の徳も成るなり。

 

09夜話に云く、学道の人、世間の人に、知者もの知りと〈知〉られては無用なり。真実求道の人の一人も有らん時は、我が知るところの仏祖の法を説かざる事あるべからず。直饒我れを殺さんとしたる人なりとも、真実の道を聞かんと、真の心を以て問はんには、怨心を忘れて為に是れを説くべきなり。その外は、教家の顕密及び内外の典籍等の事、知りたる気色して全く無用なり。

人来りて是のごとき事を問ふに、知らずと答へたらんに一切苦しかるベからざるなり。其れを、物しらぬはわろしと人も思ひ、愚人と自らも覚ゆる事を傷れて、もの知らんとて博く内外典を学し、剰へ世間世俗の事をも知らんと思うて、諸事を好み学し、あるいは人にも知られたる由をもてなす、極めたる僻事なり。学道のために真実に無用なり。知りたるを知らざる気色するも六借し、やうがましければ、かへりてたうと気色にてあしきなり。もとより知らざらん、一の事なり。我れ幼少の昔、紀伝等を好み学して、其れが今も伝法するまでも、内外の書籍ひらき、方言を通ずるまでも、大切の用事、また世間のためにも尋常なり。俗なんども尋常の事に思ヒたる、かたがた用事にて有れども、今倩(つらつら)思ふに学道の碍にてあるなり。ただ聖教をみるとも、文に見ゆる所の理を次第にこころえてゆかば、その道理をえつべきを、先づ文章に対句韵声なんどを見て、よき、あしきぞと心に思うて、後に理をば見るなり。

然らばなかなか知らずして、はじめより道理を心得てゆかばよかるべきなり。法語等を書くも、文章におほせて書かんとし、韵声たがへば礙へられなんどするは、知りたる咎なり。語言文章はいかにもあれ、思ふままの理をつぶつぶと書きたらば、後来も文章わろしと思ふとも、理だにもきこえたらば、道のためには大切なり。余の才学も是のごとし。

伝ヘ聞く故高野の空阿弥陀仏は、元は顕密の碩徳なりき。遁世の後、念仏の門に入りて後、真言師ありて来りて密宗の法門を問ひけるに、彼の人答ヘて云く、「皆忘れをはりぬ。一事もおぼえず。」とて答へられざりけるなり。これらこそ道心の手本となるべけれ。などか少々おぼえでも有るべき。しかあれども、無用なる事をば云はざりけるなり。一向念仏の日はさこそ有るべけれと覚ゆるなり。今の学者もこの心有るべし。直饒元教家の才学等有りとも、皆わすれたらん、よき事なり。況んや今学する事、努々有るべからず。宗門の語録等、なほ真実参学の道者はみるべからず。その余は是れを知るべし。

 

10夜話に云く、今この国の人は、多分あるいは行儀につけ、あるいは言語につけ、善悪是非、世人の見聞識知を思うて、その事をなさば人あしく思ひてん、その事は人よしと思ひてん、乃至向後までもと執するなり。

是れまた全く非なり。世間の人、必ずしも善とする事あたはず。人はいかにも思はば思へ、狂人とも云へ、我が心に仏道に順じたらば作し、仏法にあらずは行ぜずして一期をもすごさば、世間の人はいかに思ふとも、苦しかるべからず。遁世と云ふは、世人の情を心にかけざるなり。ただ仏祖の行履、菩薩の慈行を学行して、諸天善神の冥にてらす処に慚愧して、仏制に任セて行じもてゆかば、一切くるしかるまじきなり。

さればとてまた、人のあししと思ひ云はん、苦しからずとて、放逸にして悪事を行じて人をはぢずあるは、是れまた非なり。ただ人目にはよらずして、一向に仏法によりて行ずべきなり。仏法の中にはまた、しかのごとくの放逸無慚をば制するなり。

また云く、世俗の礼にも、人の見ざる処、あるいは暗キ室の中なれども、衣服等をもきかふる時、坐臥する時にも、放逸に陰処なんどをも蔵さず無礼なるをば天に慚ぢず鬼にも慚ぢずとてそしるなり。ひとしく人の見る時と同じく、蔵すべき処をも隠し、慚ずべき処をもはづるなり。仏法の中にもまた戒律是のごとし。しかあれば、道者は内外を論ぜず明暗を択ばず、仏制を心に存して、人の見ず知らざればとて、悪事を行ずべからざるなり。

 

11一日学人問うて云く、「某甲なほ学道心に繋けて年月を運ぶといへども、未だ省悟の分有らず。古人多く道ふ、聡明霊利に依らず、有知明敏をも用ひずと。しかあれば、我が身下根劣智なればとて卑下すべきにもあらずと聞えたり。若し故実用心の存ずべきやうありやいかん。」

示に云く、「しかあり。有智高才を須ひず霊利弁聡に頼らず。実の学道あやまりて盲聾癡人のごとくになれとすすむ。全く多聞高才を用ひざるが故に下々根劣器ときらふべからず。実の学道はやすかるべきなり。しかあれども、大宋国の叢林にも、一師の会下に数百千人の中に、実の得道得法の人は僅一二なり。しかあれば、故実用心も有るべき事なり。今これを案ずるに、志之至ると至らざるとなり。真実志を至して随分に参学する人、また得ずと云ふ事無きなり。その用心のやう、何事を専らにし、その行を急にすべしと云ふ事は次の事なり。先づ欣求の志の切なるべきなり。たとへば重き宝をぬすまんと思ひ、強き敵をうたんと思ひ、高き色にあはんと思ふ心あらん人は、行住坐臥、事にふれをりにしたがひて、種々の事はかはり来れども、其れに随ひて隙を求め、心に懸くるなり。この心あながちに切なるもの、とげずと云ふ事なきなり。是のごとく道を求むる志切になりなば、あるいは只管打坐の時、あるいは古人の公案に向かはん時、若しくは知識に向かはん時、実の志をもてなさんずる時、高くとも射つべく、深くとも釣リぬべし。是れほどの心発さずして、仏道と云ふほどの一念に生死の輪廻をきる大事をば如何が成ぜん。若しこの心有らん人は、下知劣根をも云はず、愚鈍悪人をも謂はず、必ず悟道すべきなり。またこの志を発さば、ただ世間の無常を思ふべきなり。この言またただ仮令に観法なんどにすべき事にあらず。また無き事を造りて思ふべき事にもあらず。真実の眼前の道理なり。人のをしへ、聖教の文、証道の理を待つべからず。朝に生じて夕に死し、昨日見し人今日無き事、眼に遮り耳に近し。是れは他の上にて見聞きする事なり。我が身にひきあてて道理を思ふ事を。直饒七旬八旬に命を期すべくとも、遂に死ぬべき道理有らば、その間の楽しみ悲しみ、恩愛怨敵を、思ひ〈解〉けば何にてもすごしてん。ただ仏道を思うて衆生の楽を求むべし。況んや我れ年長大せる人、半ばに過ぎぬる人、余年幾なれば学道ゆるくすべき。この道理もなほのびたる事なり。世間の事をも仏道の事をも思へ。明日、次の時よりも、何なる重病をも受けて、東西も弁ぜず、重苦のみかなしみ、またいかなる鬼神の怨害をも受けて頓死をもし、何なる賊難にも逢ひ、怨敵も出来りて殺害奪命せらるる事もや有らん、真実に不定なり。然れば、これほどにあだなる世に、極めて不定なる死期を、いつまで〈生〉きたるべしとて種々の活計を案じ、剰へ他人のために悪をたくみ思うて、徒らに時光を過ごす事、極めて愚かなる事なり。この道理真実なれば、仏も是れを衆生のために説き、祖師の普説法語にもこの道理をのみ説く。今の上堂請益等にも、無常迅速、生死事大を云ふなり。返々もこの道理を心に忘れずして、ただ今日今時許と思うて、時光を失はず学道に心を入るべきなり。その後真実に易きなり。性の上下、根の利鈍、全く論ずべからず」。

 

12夜話に云く、人多く遁世せざる事は、我身を貪るに似て我身を思はざるなり。是れ即ち遠慮無きなり。また是れ善知識に逢はざるに依るなり。たとひ名聞を思ふとも、仏祖の名を得て古徳後賢是れを聞いて悦ばしめん。たとひ利養を思ふとも常楽の益を得、龍天の供養を得べし。

 

13夜話に云く、古人云く、「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり。」と。今の学道の人、この心有るべきなり。広劫多生の間、幾回か徒らに生じ、徒らに死せし。まれに人界に生まれて、たまたま仏法に逢ふ時、何にしても死に行くべき身を、心ばかりに惜しみ持つとも叶ふベからず。遂に捨行く命を、一日片時なりとも仏法のためすてたらば、永劫の楽因なるべし。

後の事、明日の活計を思うて捨つべき世を捨てず、行ずべき道を行ぜずして、あたら日夜を過ごすは口惜しき事なり。ただ思ひ切りて、明日の活計なくは飢ゑ死にもせよ。寒え死にもせよ、今日一日道を聞いて仏意に随いて死なんと思ふ心を先づ発すべきなり。その上に道を行じ得ん事は一定なり。この心無くて世を背き道を学するやうなれども、なほしり足を踏みて、夏冬の衣服等の事をした心にかけ、明日明年の活命を思うて仏法を学せんは、万劫千生学すともかなふべしとも覚えず。またさる人もや有らんずらん、存知の意趣、仏祖の教には有るべしともおぼえざるなり。

 

14夜話に云く、学人は必ずしも死ぬべき事を思ふべし。道理は勿論なれども、たとへばその言は思はずとも、しばらく先づ光陰を徒らにすぐさじと思うて、無用の事をなして徒らに時をすぐさで、詮ある事をなして時をすぐすべきなり。そのなすべき事の中に、また一切の事、いづれか大切なると云ふに、仏祖の行履の外は皆無用なりと知るべし。

 

15或る時弉問うて云く、「衲子の行履、旧損の衲衣等を綴り補うて捨てざれば物を貪惜するに似たり。旧きを捐(す)て、新しきに随いて用れば、新しきを貪惜する心有り。二つながら咎あり。畢竟じて如何が用心すべき」。

答ヘて云く、「貪惜貪求の二つをだにもはなるれば、両頭倶に失無からん。但し、やぶれたるをつづりて久しからしめて、あたらしきを貪らずんば可なり」。

 

16夜話の次に弉公問うて云く、「父母の報恩等の事、作すべき耶」。

示に云く、「孝順は尤も用ふる所なり。但し、その孝順に在家出家之別在り。在家は孝経等の説を守りて生をつかふ。死につかふる事、世人皆知れり。出家は恩を棄て無為に入りて、無為の家の作法は、恩を一人に限らず、一切衆生斉しく父母の恩のごとく深しと思うて、作す所の善根を法界にめぐらす。別して今生一世の父母に限らず。是れ則ち無為の道に背かざるなり。日々の行道時々の参学、ただ仏道に随順しもてゆかば、其れを真実の孝道とするなり。忌日の追善中陰の作善なんど、皆在家に用ふる所なり。衲子は父母の恩の深き事をば実のごとく知るべし。余の一切また同じく重くして知るべし。別して一日をしめて殊に善を修し、別して一人をわきて回向をするは仏意にあらざる歟。戒経の「父母兄弟死亡の日」の文は、暫く在家に蒙らしむ歟。大宋の叢(林)の衆僧、師匠の忌日にはその儀式あれども、父母の忌日は是れを修したりとも見えざるなり」。

 

17一日示に云く、人の鈍根と云ふは、志の到らざる時の事なり。世間の人、馬より落つる時、未だ地に落ちざる間に種々の思ひ起る。身をも損じ、命をも失するほどの大事出来たる時、誰人も才覚念慮を起すなり。その時は、利根も鈍根も同じく物を思ひ、義を案ずるなり。

然れば、明日死に、今夜死ぬべしと思ひ、あさましき事に逢うたる思ひをなして切にはげみ、志をすすむるに、悟りをえずと云ふ事無きなり。中々世智弁聡なるよりも、鈍根なるやうにて切なる志を出す人、速やかに悟りを得るなり。

如来在世の周利盤特は、一偈を読誦する事は難かりしかども、根性切なるによりて一夏に証を取りき。ただ今ばかり我が命は存ずるなり。死なざる先に悟りを得んと、切に思うて仏法を学せんに、一人も得ざるは有るべからざるなり。

 

18一夜示に云く、大宋の禅院に麦米等をそろへて、あしきをさけ、よきを取りて飯等にする事あり。是れをある禅師云く、「直饒我が頭を打ち破る事七分にすとも、米をそろふる事なかれ。」と、頌に作りて戒めたり。この心は、僧は斎食等を調へて食する事なかれ。ただ有るにしたがひて、よければよくて食し、あしきをもきらはずして食すべきなり。ただ檀那の信施、清浄なる常住食を以て餓を除き、命をささへて行道するばかりなり。味を思うて善悪をえらぶ事なかれと云ふなり。今我が会下の諸衆、この心あるべし。

因みに問うて云く、「学人若し自己仏法なり、也外に向いて求むべからず。」と聞いて、深くこの語を信じて、向来の修行参学を放下して、本性に善悪業をなして一期を過ごさん、この見如何」。

示に云く、「この見解、語と理と相違せり。外に向いて求むべからずと云いて、行をすて、学を放下せば、行をもて求むる所有りと聞えたり、求めざるにあらず。ただ行学本より仏法なりと証して、無所求にして世事悪業等の我が心に作したくとも作さず、学道修行の懶きをもなして、この行を以て果を得きたるとも、我が心先より求むる事無くして行ずるをこそ、外に向いて求むる事無しと云ふ道理には叶ふべけれ。南岳の磚を磨して鏡を求めしも、馬祖の作仏を求めしを戒めたり。坐禅を制するにはあらざるなり。坐はすなわち仏行なり。坐は即ち不為なり。是れ即ち自己の正躰なり。この外別に仏法の求むべき無きなり」。

 

19一日請益の次に云く、近代の僧侶、多く世俗にしたがふべしと云ふ。思ふに然らず。世間の賢すらなほ民俗に随ふ事を穢れたる事と云いて、屈原のごときは「皆酔へり。我れは独醒めたり。」とて、民俗に随はずしてつひに滄浪に没す。況んや仏法は、事々皆世俗に違背せるなり。俗は髪をかざる、僧は髪をそる、俗は多く食す、僧は一食するすら、皆そむけり。然して後、還って大安楽人なり。故に一切世俗に背くべきなり。

 

20一日示に云く、治世の法は、上天子より下庶民に至るまで各皆その官に居する者、その業を修す。その人にあらずしてその官をするを乱天の事と云ふ。政道天意に叶ふ時、世清み民康きなり。故に帝は三更の三点におきさせ給うて、治世する時としませり。たやすからざる事、ただ職のかはり、業の殊なるばかりなり。国王は自思量を以て治道をはからひ、先規をかんがへ、有道の臣を求めて政天意に相合する時、是れを治世と云ふなり。若し是れを怠れば天に背き世を乱し、民を苦しむるなり。其れより以下、諸侯大夫人士庶民、皆各所官の業有り。其れに随ふを人と云ふなり。其れに背く、天を乱す事を為して天之刑を蒙るなり。

然れば、学人も世を離れ家を出ればとて、徒らに身をやすくせんと思ふ事、暫くも有るべからず。利有るに似て後大害有るなり。出家人の法は、またその職を収め、その業を修すべきなり。世間の治世は先規有道を嗜み求むれども、なほ先達知識のたしかに相伝したるなければ、自らし、たがふる事も有るなり。仏子はたしかなる先規教文顕然なり。また相承伝来の知識現在せり。我れに思量あり。四威儀の中において一々に先規を思ひ、先達にしたがひ修行せんに、必ず道を得べきなり。

俗は天意に合せんと思ひ、衲子は仏意に合せんと修す。業等しくして得果勝れたり。一得永得、大安楽のために、一世幻化の身を苦しめて仏意に随はんは、行者の志に在るべし。然りと雖も、またすぞろに身を苦しめ、作すべからざる事を作せと仏教にはすすむる事無きなり。戒行律儀に随ひゆけば、自然に身安く行儀も尋常に、人目も安きなり。ただ、今案の我見の安立をすてて、一向仏制に順ふべきなり。

また云く、我れ大宋天童禅院に居せし時、浄老住持の時は、宵は二更の三点まで坐禅し、暁は四更の二点三点よりおきて坐禅す。長老ともに僧堂裏に坐す。一夜も闕怠なし。その間衆僧多く眠る。長老巡り行いて睡眠する僧をばあるいは拳を以て打ち、あるいはくつをぬいで打チ恥しめ勧めて睡りを覚す。なほ睡る時は照堂に行き、鐘を打ち、行者を召して燭を燃しなんどして卒時に普説して云く、「僧堂裏にあつまり居して徒らに眠りて何の用ぞ。然れば何ぞ出家入叢林する。見ず麼、世間の帝王官人、何人か身をやすくする。王道を収め忠節を尽くし、乃至庶民は田を開き鍬をとるまでも、何人か身をやすくして世をすごす。是れをのがれて叢林に入りて虚く時光を過ごす、畢竟じて何の用ぞ。生死事大なり、無常迅速なり。教家も禅家も同じくすすむ。今夕明旦、何なる死をか受け何なる病をかせん。且く存ずるほど、仏法を行ぜず眠り臥して虚しく時を過ごさん、尤も愚かなり。故に仏法は衰へ去くなり。諸方仏法のさかりなりし時は、叢林皆坐禅を専らにせり。近代諸方坐をすすめざれば、仏法澆薄しもてゆくなり。」

是のごとく道理を以て衆僧をすすめて坐禅せしめし事、親しくこれを見しなり。今の学人も彼の風を思ふべし。

またある時、近仕の侍者等云く、「僧堂裡の衆僧眠りつかれ、あるいは病も発り、退心も起りつべし。坐久き故歟。坐禅の時尅を縮らればや。」と申しければ、長老大いに諫めて云く、「然るべからず。無道心の者、仮名に僧堂に居するは、半時片時なりともなほ眠るべし。道心ありて修行の志あらんは、長からんにつけ喜び修せんずるなり。我れ若かりし時、諸方の長老を歴観せしに、是のごとくすすめて眠る僧をば拳のかけなんとするほど打ちせめしなり。今は老後になりて、よわくなりて、人をも打得せざるほどに、よき僧も出来らざるなり。諸方の長老も坐を緩くすすむる故に、仏法は衰微せるなり。弥々打つべきなり。」とのみ示されしなり。

 

21また云く、得道の事は心をもて得るか、身を以て得るか。教家等にも「身心一如」と云いて、「身を以て得」とは云へども、なほ「一如の故に」と云ふ。正しく身の得る事はたしかならず。今我が家は、身心倶に得るなり。その中に、心をもて仏法を計校する間は、万劫千生にも得べからず。心を放下して、知見解会を捨つる時、得るなり。

見色明心、聞声悟道のごときも、なほ身を得るなり。然れば、心の念慮知見を一向すてて、只管打坐すれば、今少し道は親しみ得るなり。然れば道を得る事は、正しく身を以て得るなり。是れによりて坐を専らにすべしと覚ゆるなり。

 

正法眼蔵随聞記 四

01示に曰く、学道の人、身心を放下して一向に仏法に入るべし。古人云く、「百尺竿頭上なほ一歩を進む。」と。何にも百尺の竿頭に上りて足を放たば死ぬべしと思うて、つよくとりつく心の有るなり。

其れを思ひ切りて一歩を進ムと云ふは、よもあしからじと思ひきりて、放下するように、度世の業より始めて、一身の活計に至るまで、何にも捨て得ぬなり。其れを捨てざらんほどは、何に頭燃をはらひて学道するやうなりとも、道を得る事叶はざるなり。思ひきり、身心倶に放下すべし。

 

02ある時比丘尼云く、「世間の女房なんどにも、仏法とて学すれば、比丘尼の身には少々の不可ありとも何で叶はざルべきと覚ゆ。如何。」と云ひし時、

示に云く、「この義然るべからず。在家の女人その身ながら仏法を学んでうる事はありとも、出家人の出家の心なからんは得べからず。仏法の人をえらぶにはあらず、人の仏法に入らざればなり。出家在家の儀、その心異ねるべし。在家人の出家の心有らば出離すべし。出家人の在家の心有らば二重の僻事なり。作す事の難きにはあらず。よくする事の難きなり。出離得道の行は、人ごとに心にかけたるに似たれども、よくする人の難きなり。生死事大なり、無常迅速なり、心をゆるくする事なかれ。世をすてば実に世を捨つべきなり。仮名は何にてもありなんとおぼゆるなり」。

 

03夜話に云く、世人を見るに果報もよく、家をも起す人は、皆正直に、人のためにもよきなり。故に家をも持ち、子孫までも絶えざるなり。心に曲節あり人のためにあしき人は、たとひ一旦は果報もよく、家をたもてるやうなれども、始終あしきなり。縦ひまた一期はよくてすぐせども、子孫未だ必ずしも吉ならざるなり。また人のために善き事を為して、彼の主に善しと思はれ悦びられんと思うてするは、悪しきに比すれば勝れたれども、なほ是れは自身を思うて、人のために実に善きにあらざるなり。主には知られずとも、人のためにうしろやすく、乃至未来の事、誰がためと思はざれども、人のためによからん料の事を作し置きなんどするを、真の人のため善きとは云ふなり。

況んや衲僧は、是れには超えたる心を持つべきなり。衆生を思ふ事親疎をわかたず、平等に済度の心を存じ、世、出世間の利益、都て自利を憶はず、人に知られず主に悦ばれず、ただ人のため善き事を心の中になして、我れは是のごとくの心もちたると人に知られざるなり。

この故実は、先づすべからく世を棄て身を捨つべきなり。我が身をだにも真実に捨離しつれば、人に善く思はれんと云ふ心は無きなり。然れどもまた、人は何にも思はば思へとて、悪しき事を行じ、放逸ならんはまた仏意に背く。ただ好き事を行じ人のためにやすき事をなして代りを思ふに我がよき名を留めんと思はずして、真実無所得にて、先生の事をなす、即ち吾我を離るる第一の用心也。この心を存ぜんと欲はば先づすべからく無常を念ふべし。

一期は夢のごとし。光陰移り易し。露の命は待ちがたうして、時は人を知らぬならひなれば、ただ暫くも存じたるほど、聊かの事につけても人のためによく、仏意に順はんと思ふべきなり。

 

04夜話に云く、学道の人は尤も貧なるべし。世人を見るに、財有る人は先づ瞋恚恥辱の二難定めて来るなり。財有れば人是れを奪ひ取らんと欲ふ。我れは取られじと欲る時、瞋恚忽ちに起る。あるいは之れを論じて問注対決に及び、遂には闘諍合戦を致す。是のごとくの間に、瞋恚起り恥辱来るなり。貧にして而も貪らざる時は、先ずこの難を免る。安楽自在なり。証拠眼前なり。教文を待つべからず。

加之先人後賢之れを譏り、諸天仏祖皆之れを恥ぢしむ。而るを、愚人と為財宝を貯はへ、瞋恚を懐き、愚人と成らん事、恥辱の中の恥辱なり。貧にして而も道を思ふ者は先賢後聖之仰ぐ所、仏祖冥道之喜ぶ所なり。仏法陵遅し行く事眼前に近し。予、始め建仁寺に入りし時見しと、後七八年に次第にかはりゆく事は、寺の寮々に各々塗籠をし、器物を持ち、美服を好み、財物を貯へ、放逸之言語を好み、問訊、礼拝等陵遅する事を以て思ふに、余所も推察せらるるなり。

仏法者は衣鉢の外は財をもつべからず。何を置かんために塗籠をしつらふべきぞ。人にかくすほどの物を持つべからず。持たずは返ってやすきなり。人をば殺すとも人には殺サれじなんどと思ふ時こそ、身もくるしく、用心もせらるれ。人は我れを殺すとも我れは報を加へじと思ひ定めつれば、先づ用心もせられず、盗賊も愁へられざるなり。時として安楽ならずと云ふ事無し。

 

05一日示に云く、宋土の海門禅師、天童の長老たりし時、会下に元首座と云ふ僧有りき。この人、得法悟道の人なり。長老にもこえたり。有る時、夜、方丈に参じて焼香礼拝して云く、「請ふらくは師、後堂首座を許せ。」門、流涕して云く、「我れ小僧たりしより未だ是のごとくの事を聞かず、汝禅僧として首座長老を所望する事を。汝已に悟道せる事は、先規を見るに我れにも超えたり。然るに首座を望む事、昇進のためか。許す事は前堂をも乃至長老をも許すべし。余の未悟僧は之れを察するに、(余りあり)。仏法の衰微、是れを以て知リぬべし。」と云いて流涕悲泣す。爰に僧恥ぢて辞すと雖も、なほ首座に補す。その後首座、こも事を記録して自ら恥ぢしめ師の美言を彰はす。今之れを案ずるに、昇進を望み、物の首となり、長老にならん事をば、古人是れを恥ぢしむ。ただ道を悟らんとのみ思うて余事有るべからず。

 

06一夜示に云く、唐の太宗即位の後、旧き殿に栖み給へり。破損せる間、湿気あがり、風霧〈侵〉して玉躰侵さるべし。臣下造作すべき由を奏しければ、帝の云く、「時、農節なり。民定めて愁有るべし。秋を待ちて造るべし。湿気に侵されば地に受けられず、風雨に侵されば天に叶はざるなり。天地に背かば身有るべからず。民を煩はさずんば自ら天地に叶ふべし。天地に叶はば身を犯すべからず。」と云いて、終に宮を作らず、古き殿に栖み給へり。

況んや仏子は、如来の家風を受け、一切衆生を一子のごとく憐れむべし。我れに属する侍者所従なればとて、呵責し煩はすべからず。何に況んや同学等侶耆年宿老等を恭敬する事、如来のごとくすべしと、戒文分明なり。然れば今の学人も、人には色に出て知られずとも、心中に上下親疎を別たず、人のためによからんと思ふべきなり。大小の事につけて、人をわづらはし心を傷す事有るべからざるなり。

如来在世に外道多く如来を謗じ悪むも有りき。仏弟子問うて云く、「本より柔和を本とし慈を心とす。一切衆生等しく恭敬すべし。何の故にか是のごとく随はざる衆生有る。」仏言く、「我れ昔衆を領ぜし時、多く呵責羯磨をもて弟子をいましめき。是れに依りて今是のごとし。」と。律中に見えたり。

然れば即チ住持長老として衆ヲ領ジたりとも、弟子の非をただしいさめんとて呵責の言を用ふべからず。柔和の言を以ていさめすすむとも、随ふべくは随ふべきなり。況んや衲子は、親疎兄弟等のためにあらき言を以て人をにくみ呵責する事は、一向に止むべきなり。能々用意すべきなり。

 

07また云く、衲子の用心、仏祖の行履を守るべし。第一には財宝を貪るべからず。如来慈悲深重なる事、喩へを以て推量するに、彼の所為行履、皆是れ衆生のためなり。一微塵許も衆生利益のためならずと云ふ事無し。

その故は、仏は是れ輪王の太子にてまします。一天をも御意にまかせ給ひつべし。財を以て弟子を哀み、所領を以て弟子をはごくむべくんば、何の故にか捨てて自ら乞食を行じ給ふべき。決定末世の衆生のためにも、弟子行道のためにも、利益の因縁有るべきが故に、財宝を貯へず、乞食を行じ給へり。然りしより以来、天竺漢土の祖師の由、また人にも知られしは、皆貧窮乞食せしなり。

況んや我が門の祖々、皆財宝を畜ふべからずとのみすすむるなり。教家にもこの宗を讃たるに、先づ是れをほめ、記録の家にもこの事を記して讃むるなり。未だ財宝に富み饒にして仏法を行ぜし事を聞かず。皆よき仏法者と云ふは、あるいは布衲衣、常乞食なり。禅門によき僧と云はれはじめおこるも、あるいは教院、律院等に雑居せし時も、禅僧の異をば身をすて貧人なるを以て異せりとす。宗門の家風、先ずこの事を存ずべし。聖教の文理を待つべからす。

我が身にも田園等を持ちたる時も有りき。また財宝を領ぜし時も有りき。彼の時の身心と、このごろ貧しくして衣盂に乏しき時とを比するに、当時の心勝れたりと覚ゆ。是れ現証なり。

また云く、古人云く、「その人に似ずしてその風を語ることなかれ。」と。言ふ心は、その人徳を学ばず知らずして、その人の失なるを、その人はよけれども、その事あしきなり、(あしき)事をよき人もすると思ふべからず。ただその人の徳を取り失を取ることなかれ。君子は徳を取りて失を取らずと云へる、この心なり。

 

08一日示に云く、人は必ず陰徳を修すべし。必ず冥加顕益有るなり。たとい泥木塑像の麁悪なりとも、仏像をば敬礼すべし。黄紙朱軸の荒品なりとも、経教をば帰敬すべし。破戒無慚の僧侶なりとも僧躰をば信仰すべし。内心に信心をもて敬礼すれば、必ず顕福を蒙るなり。破戒無慚の僧なれば、疎相麁品の経なればとて、不信無礼なれば必ず罰を被るなり。しかあるべき如来の遺法にて、人天の福分となりたる仏像・経卷・僧侶なり。故に帰敬すれば益あり、不信なれば罪を受くるなり。

何に希有に浅増くとも、三宝の境界をば恭敬すべきなり。禅僧は善を修せず功徳を要せずと云いて悪行を好む、きはめて僻事なり。先規未だ是のごとくの悪行を好む事を聞かず。

丹霞天然禅師は木仏をたく、是れこそ悪事と見えたれども、是れも一段の説法施設なり。この師の行状の記を見るに、坐するに必ず儀あり、立するに必ず礼あり、常に貴き賓客に向かふがごとし。暫時の坐にも必ず跏趺し、叉手す。常住物を守る事眼睛のごとくす。勤修するもの有れば必ず加す。小善なれども是れを重くす。常図の行状勝れたり。彼の記をとどめて今の世までも叢林ノ亀鏡とするなり。しかのみならず、諸の有道の師、先規悟道の祖、見聞するに皆戒行を守り威儀を調ふ。たとひ小善と云ふとも是れを重くす。未だ聞かず、悟道の師の善根を忽諸する事を。

故に学人祖道に随はんと思はば必ず善根をかろしめざれ。信教を専らにすべし。仏祖の行道は必ず衆善の集まる所なり。諸法皆仏法なりと体達しつる上は、悪は決定悪にて仏祖の道に遠ざかり、善は決定善にて仏道の縁となる。知るべし、若し是のごとくならば何ぞ三宝の境界を重くせざらんや。

また云く、今仏祖(の道)を行ぜんと思はば、所期も無く所求も無く、所得も無くして無利に先聖の道を行じ、祖々の行履を行ずべきなり。所求を断じ、仏果をのぞむべからず。さればとて修行をとどめ、本の悪行にとどまらば、還りて是れ所求に堕し、棄臼にとどまるなり。全く一分の所期を存ぜずして、ただ人天の福分とならんとて、僧の威儀を守り、済度利生の行儀を思ひ、衆善を好み修して、本の悪をすて、今の善にとどこほらずして一期行じもてゆけば、是れを古人も漆桶を打破する底と云ふなり。仏祖の行履是のごとくなり。

 

09一日僧来りて学道之用心を問ふ次に示に云く、「学道の人は先づすべからく貧なるべし。財多ければ必ずその志を失ふ。在家学道の者、なほ財宝にまとはり、居所を貪り、眷属に交はれば、直饒その志ありと云へども障道の縁多し。古来俗人の参ずる多けれども、その中によしと云へども、なほ僧には及ばず。僧は三衣一鉢の外は財宝を持たず、居所を思はず、衣食を貪らざる間、一向に学道す。是れは分々皆得益有るなり。その故は、貧なるが道に親しきなり。龐公は俗人なれども僧におとらず禅席に名を留めたるは、彼の人参禅の初め、家の財宝を以ちて出でて海にしづめんとす。人之れを諫めて云く、「人にも与へ、仏事にも用ふべし。」他に対へて云く、「我れ已にあたなりと思うて是れをすつ。焉んぞ人に与ふべき。財は身心を愁しむるあたなり。」と。遂に海に入れ了りぬ。而して後、活命のためにはいかきをつくりて売りて過ぎ鳧(けり)。俗なれども是のごとく財をすててこそ禅人とも云はれけれ。何に況んや一向に僧はすつべきなり」。

僧の云く、「唐土には寺院定まり、僧祇物あり、常住物等ありて僧のために行道の縁となる。その煩無し。この国はその儀無ければ、一向棄置せられても、中々行道の違乱とならん。是のごとく、衣食の資縁を思ひあててあらばよしと覚ゆ、如何」。

示に云く、「然らず。中々唐土よりこの国の人は無理に人を供養し、非分に人に物を与ふる事有るなり。先づ人はしらず、我れはこの事を行じて道理を得たるなり。一切一物も思ひあてがふ事もなくて、十年余過ぎ送りぬ。一分も財をたくはへんと思ふこそ大事なれ。僅の命を送るほどの事は、何とも思ひ畜へねども、天然として有るなり。人皆生分有り。天地之れを授く。我れ走り求めざれども必ず有るなり。況んや仏子は、如来遺属の福分あり。求めざれども自ら得るなり。ただ一向に道を行ぜば是れ天然なるべし。是れ現証なり」。

また云ク、「学道の人、多分云く、若しその事をなさば世人是れを謗ぜんかと。この条甚だ非なり。世間の人何とも謗ずとも、仏祖の行履、聖教の道理にてだにもあらば依行すべし。世人挙げて褒るとも、聖教の道理にあらず、祖師も行ぜざらん事ならば依行すべからず。その故は、世人親疎我れをほめそしればとて、彼の人の心に随ひたりとも、我が命終の時、悪業にもひかれ悪道に趣かん時、何にも救ふべからず。喩へば皆人に謗られ悪るとも、仏祖の道にしたがうて依行せば、その冥、実に我れをばたすけんずれば、人のそしればとて、道を行ぜざるべからず。また是のごとく謗讃する人、必ずしも仏道に通達し、証得せるにあらず。何としてか仏祖の道を善悪をもて判ずべき。然も世の人情には順ふべからず。ただ仏道に依行すべき道理あらば、一向に依行すべきなり」。

 

10また僧云く、「某甲老母現在せり。我れは即ち一子なり。ひとへに某甲が扶持にて度世す。恩愛もことに深し。順孝の志も深し。是れに依りて聊か世に順ひ人に随いて、他の恩力をもて母の衣糧にあづかる。若し遁世籠居せば一日の活命も存じ難し。是れに依りて世間に存り。一向仏道に入らざらん事も難治なり。若しなほただすてて道に入るべき道理有らば、その旨何なるべきぞ」。

示に云く、「この事難治なり。他人のはからひにあらず。ただ我れ能く思惟して、誠に仏道に志あらば、何なる支度方便をも案じて、母儀の安堵活命をも支度して仏道に入らば、両方倶によき事なり。こはき敵、ふかき色、おもき宝なれども、切に思ふ心ふかかれば、必ず方便も出来るやうもあるべし。是れ天地善神の冥加も有りて必ず成るなり。曹渓の六祖は新州の樵人、たき木を売りて母を養ひき。一日市にして客の金剛経を誦ずるを聞いて発心し、母を辞して黄梅に参ず。銀三十両を得て母儀の衣糧にあてたりと見えたり。是れも切に思ひける故に天の与へたりけるかと覚ゆ。能々思惟すべし。是れ一の道理なり。母儀の一期を待ちて、そノ後障碍無く仏道に入らば、次第本意のごとくして神妙なり。知らず、老少は不定なれば、若し老母は久しく止まつて我れは前に去る事も出来らん時は、支度相違せば、我れは仏道に入らざる事をくやみ、老母は許さざる罪に沈みて、両人共に益なくして互ひに罪を得ん時如何。若し今生を捨て仏道に入りたらば、老母直饒餓死すとも、一子を放して道に入れしむる功徳、豈得道の良縁にあらざらんや。我れも広劫多生にも捨て難き恩愛を、今生人身を受けて仏教に遇へる時捨てたらば、真実報恩者の道理、何ぞ仏意に叶はざらん哉。一子出家すれば七世の〈親〉得道すと見えたり。何ぞ一世の浮生の身を思つて永劫安楽の因を空しく過ごさんやと云ふ道理もあり。是れを能々自らはからふべし」。

 

正法眼蔵随聞記 五

01一日参学の次、示に云く、「学道の人、自解を執する事なかれ。縦ひ所会有りとも、若しまた決定よからざる事もあらん、また是れよりもよき義もや有らんと思うて、ひろく知識を訪ひ、先人の言をも尋ぬべきなり。また先人の言なれども堅く執する事なかれ。若し是れもあしくもや有らん、信ずるにつけてもと思うて、勝れたる事あらば次第につくべきなり。

昔忠国師の会に、有る供奉来れりしに、国師問うて云く、「南方の草の色如何。」奉云く、「黄色なり。」また、国(師)の童子の有りけるに問へば、同じく童子も「黄色なり。」と答へしかば、国師、供奉に云く、「汝が見、童子にこえず。汝も黄色なりと云ふ。童子も黄色なりと云ふ。是れ同見なるべし。然れば、童子、国皇の師として真色を答へし、汝が見所常途にこえず。」と。

後来、有る人云く、「供奉が常途に越えざる、何のとがか有らん。童子と同じく真色を説く。是れこそ真の知識たらめ。」と云いて、国師の義をもちゐず。故に知りぬ、古人の言をもちゐず、ただ誠の道理を存ずべきなり。疑心はあしき事なれども、また信ずまじき事をかたく執して、尋ぬべき義をもとぶらはざるはあしきなり」。

 

02また示に云く、学人第一の用心は、先ず我見を離るべし。我見を離ると者、この身を執すべからず。縦ひ古人の語話を窮め、常坐鉄石のごとくなりと雖も、この身に著じて離れざらん者、万劫千生仏祖の道を得べからず。いかに況んや権実の教法、顕密の聖教を悟得すと雖も、この身を執する之心を離れず者、徒らに他の宝を数ヘて自ら半銭之分無し。ただ請ふらくは学人静坐して道理を以てこの身之始終を尋ぬべし。

身躰髪膚父母之二滴、一息に駐りぬれば山野に離散して終に泥土を作る。何を以ての故にか身を執せんや。況んや法を以て之れを見れば十八界之聚散、何の法をか定めて我身と為ん。教内教外別なりと雖も、我身之始終不可得なる事、之れを以て行道之用(心)と為る事、是れ同じ。先づこの道理を達する、実に仏道顕然なる者なり。

 

03一日示に云く、古人云く、「霧の中を行けば覚えざるに衣しめる。」と。よき人に近づけば、覚えざるによき人となるなり。昔、倶胝和尚に使へし一人の童子のごときは、いつ学し、いつ修したりとも見えず、覚えざれども、久参に近づいしに悟道す。坐禅も自然に久しくせば、忽然として大事を発明して坐禅の正門なる事を知る時も有るベし。

 

04嘉禎二年臘月除夜、始めて懐弉を興聖寺の首座に請ず。即ち小参の次、秉払を請ふ。初めて首座に任ず。即ち興聖寺最初の首座なり。

小参に云く、「宗門の仏法伝来の事、初祖西来して少林に居して機をまち時を期して面壁して坐せしに、その年の窮臘に神光来参しき。初祖、最上乗の器なりと知りて接得す。衣法ともに相承伝来して児孫天下に流布し、正法今日に弘通す。初めて首座を請じ、今日初めて秉払をおこなはしむ。衆のすくなきにはばかる事なかれ。身、初心なるを顧みる事なかれ。汾陽は纔に六七人、薬山は不満十衆なり。然れども仏祖の道を行じて是れを叢林のさかりなると云ひき。見ずや、竹の声に道を悟り、桃の花に心を明らめし、竹豈利鈍有り、迷悟有らんや。花何ぞ浅深有り、賢愚有らん。花は年々に開くれども皆悟道するにあらず。竹は時々に響けども聴く者ことごとく証道するにあらず。ただ久参修持の功にこたへ、弁道勤労の縁を得て悟道明心するなり。是れ竹の声の独り利なるにあらず、また花の色のことに深きにあらず。竹の響き妙なりと云へども自らの縁を待ちて声を発す。花の色美なりと云へども独り開くるにあらず。春の時を得て光を見る。学道の縁もまた是のごとし。人々皆道を得る事は衆縁による。人々自ら利なれども道を行ずる事は衆力を以てするが故に、今心を一つにして参究尋覓すべし。玉は琢磨によりて器となる。人は練磨によりて仁となる。何の玉かはじめより光有る。誰人か初心より利なる。必ずみがくべし、すべからく練るべし。自ら卑下して学道をゆるくする事なかれ。古人云く、「光陰虚しくわたる事なかれ。」と。今問ふ、時光はをしむによりてとどまるか、をしめどもとどまざるか。また問ふ、時光虚しく度らず、人虚しく渡るべからず。時光をいたづらに過ごす事なく学道をせよと云ふなり。是のごとく参究、同心にすべし。我れ独り挙揚せんに容易にするにあらざれども、仏祖行道の儀、皆是のごとくなり。如来にしたがいて得道するもの多けれども、また阿難によりて悟道する人もありき。新首座非器なりと卑下する事なく、洞山の麻三斤を挙揚して同衆に示すべし」と云いて、座をおりて、再び鼓を鳴らして、首座秉払す。是れ興聖最初の秉払なり。弉公三十九の年なり。

 

05一日示に云く、俗人の云く、「何人か厚衣を欲せざらん、誰人か重味を貪らざらん。然れども、みちを存ぜんと思ふ人は、山に入り雲に眠り、寒きを忍び餓ゑをも忍ぶ。先人くるしみ無きにあらず。是れを忍びてみちを守れば、後人是れを聞いてみちをしたひ、徳をこふるなり。」と。

俗の賢なる、なほ是のごとし。仏道豈、然らざらんや。古人も皆金骨にあらず、在世もことごとく上器にあらず。大小の律蔵によりて諸比丘をかんがふるに、不可思議の不当の心を起すも有りき。然れども、後には皆得道し羅漢となれり。しかあれば、我等も悪くつたなしと云へども、発心修行せば得道すべしと知りて、即ち発心するなり。古へも皆苦をしのび寒をたへて、愁ながら修道せしなり。今の学者、くるしく愁ふるとも、ただ強て学道すべきなり。

 

06学道の人、悟りを得ざる事は、即ち古見を存ずる故なり。本より誰教へたりとも知らざれども、心と云へば念慮知見なりと思ひ、草木なりと云へば信ぜず。仏と云へば相好光明あらんずると思うて、瓦礫と説けば耳を驚かす。即ちこの見父も相伝せず、母も教授せず。ただ無理に久しく人の言ふにつきて信じ来れるなり。然れば、今も仏祖決定の説なれば、心を改めて、草木と云へば草木を心としり、瓦礫を仏と云へば即ち本執をあらため去ば、真に道を得べきなり。

古人云く、「日月明らかなれども浮雲之れを掩ふ、叢蘭茂せんとするとも秋風之れを吹き破る。」と。貞観政要に之れを引いて賢王と悪臣とに喩ふ。

今は云く、「浮雲掩へども久しからず、秋風やぶるともひらくべし。臣わろくとも王の賢久しくは転ぜらるべからず。今仏道を存せんも是のごとくなるべし。何に悪をしばらくをかすとも、堅く守り、久しくたもたば、浮雲もきえ、秋風もとどまるべきなり」。

 

07一日示に云く、学人初心の時、道心有りても無くても、経論聖教等よくよく見るべく、学ぶべし。我れ初めてまさに無常によりて聊か道心を発し、あまねく諸方をとぶらひ、終に山門を辞して学道を修せしに、建仁寺に寓せしに、中間に正師にあはず、善友なきによりて、迷いて邪念をおこしき。教道の師も先づ学問先達にひとしくよき人(と)なり、国家に知られ、天下に名誉せん事を教訓す。よりて教法等を学するにも、先ずこの国の上古の賢者にひとしからん事を思ひ、大師等にも同じからんと思うて、因みに高僧伝、続高僧伝等を披見せしに、大国の高僧、仏法者のやうを見しに、今の師の教へのごとくにはあらず。また我がおこせる心は、皆経論伝記等には厭ひ悪みきらへる心にて有りけりと思ふより、漸く心つきて思ふに、道理をかんがふれば、名聞を思ふとも当代下劣の人によしと思はれんよりも、上古の賢者、向後の善人を恥づべし。ひとしからん事を思ふとも、この国の人よりも唐土天竺の先達高僧を恥づべし。かれにひとしからんと思ふべし。乃至諸天冥衆、諸仏菩薩等を恥ぢ、かれにひとしからんとこそ思ふべきに、道理を得て後には、この国の大師等は、土〈瓦〉のごとく覚えて、従来の身心皆改めぬ。また云く、愚癡なる人はその詮なき事を思ひ云ふなり。此につかはるる老尼公、当時いやしげにして有るを恥づるかにて、ともすれば人に向いては昔上郎にて有りし由をかたる。喩へば今の人にさありけりと思はれたりとも、何の用とも覚えず。甚だ無用なりと覚ゆるなり。皆人のおもはくは、この心有るかと覚ゆるなり。道心無きほども知らる。此らの心を改めて、少し人には似べきなり。

またあるいは入道の極めて無道心なる、去り難き知音にて有るに、道心おこらんと仏神に祈祷せよと云はんと思ふ。定めて彼腹立して中たがふ事有らん。然れども道心をおこさざらんには、得意にてもたがひに詮なかるべし。

 

08示に云く、「三覆して後に云へ」と云ふ心は、おほよそ物を云はんとする時も、事を行はんとする時も、必ず三覆して後に言ひ行ふべし。先儒多くは三たび思ひかへりみるに、三たびながら善ならば言ひおこなへと云ふなり。宋土の賢人等の心は、三覆をばいくたびも覆せよと云ふなり。言よりさきに思ひ、行よりさきに思ひ、思ふ時に必ずたびごとに善ならば、言行すべしとなり。衲子もまたかならずしかあるべし。

我れながら思ふ事も云ふ事も、主にも知られずあしき事も有るべき故に、先づ仏道にかなふやいなやとかへりみ、自他のために益有りやいなやと能々思ひかへりみて後に、善なるべければ、行ひもし言ひもすべきなり。行者若しこの心を守らば、一期仏意にそむかざるべし。

昔年建仁寺に初めて入りし時は、僧衆随分に三業を守りて、仏道のため利他のためならぬ事をば言はじ、せじと各々心を立てしなり。僧正の余残有りしほどは是のごとし。今年今月はその儀無し。今の学者知るべし、決定して自他のため仏道のために詮有るべき事ならば、身を忘れても言ひもし行ひもすべきなり。その詮なき事をば言行すべからず。宿老耆年の言行する時は、若臘にては言を交ふべからず。仏制なり、能々これを忍ぶべし。身を忘れてみちを思ふ事は俗なほこの心なり。

昔、趙の藺相如(りんしょうじょ)と云ひし者は、下賤の人なりしかども、賢によりて趙王にめしつかはれて、天下を行ひき。趙王の使として趙璧と云ふ玉を秦国へつかはされしに、かの璧を十五城にかへんと秦王云ひし故に、相如に〈持〉たしめてつかはすに、

余の臣下議して云く、「これほどの宝を相如ほどのいやしき人にもたせつかはす事、国に人なきに似たり。余臣の恥なり。後代のそしりなるべし。路にしてこの相如を殺して玉を奪ひ取れ。」と議しけるを、

時の人、相如にかたりて、「この使を辞して命を守るべし。」と云ひければ、

相如云く、「某甲敢て辞すべからず。相如、王の使として玉をもち秦に向かふに、倭臣のためにころさると後代に聞えん、我がために悦びなり。我が身は死すとも、賢の名はのこるべし。」と云いて、終に向かひぬ。

余臣この言を聞いて、「我等この人をうちえん事有るべからず。」とて留まりぬ。

相如、終に秦王にまみえて、璧を秦王に与へしに、秦王十五城を与へまじき気色を見て、はかり事を以て秦王に語りて云く、「その玉、きず有り。我れ是れを示さん。」と云いて、玉を乞ひ得て後相如云く、

「王の気色を見るに、十五城を惜しめる気色あり。然れば我が頭この玉をもて銅柱にあててうちわりてん。」と云いて、怒れる眼を以て王をみて、銅柱のもとによる気色、まことに玉をも犯しつべかりし。時に秦王云く、「汝玉をわる事なかれ。十五城与ふべし。相はからはんほど、汝璧をもつべし。」と云ひしかば、

相如ひそかに人をして璧を本国にかへしぬ。また湯池にて趙王と秦王と共にあそびしに、趙王は琵琶の上手なり。秦王命じて弾ぜしむ。趙王相如にも云ひあはせずして即ち琵琶を弾ぜし時に、相如、命にしたがへる事をいかりて、我れ行きて秦王に簫をふかしめんとて、秦王に告げて云く、

「王は簫の上手なり。趙王聞かんとねがふ。王、ふき給ふべし。」と云ひしかば、秦王是れを辞せしかば、相如云く、「若し辞せば王をうつべし。」と云いて近づく。時に秦の将軍剣をぬかずしてかへりしかば、秦王終に簫を吹くと云へり。

また後に、大臣として天下を行ひし時に、かたはらの大臣我れにかさむ事をそねみて打たんとす。時に相如、所々ににげかくれ、わざと参内の時は参内せず、おぢおそれたる気色なり。

時に相如が家人、「かの大臣を打たん事、やすき事なり。何の故にかおぢかくれ給ふ。」相如云く、「我れ彼れをおづるにあらず。我れ目をもて秦の(将)をも退け、秦の玉をも奪ひき。彼の大臣打つべき事、云ふにもたらず。然れども、軍をおこし、つはものをあつむる事、敵国のためなり。今、左右の大将として国を守る、若し二人中たがひて軍を興さば、一人死せば隣国の一方かけぬる事をよろこびて、軍を興すべし。故に二人ともに全くして国を守らんと思ふによりて、かれと軍を興さず。」と。彼の大臣、この言をかへり聞いて恥ぢて来り拝して、二人和して国を治む。相如、身を忘れ道を存ずる事是のごとし。

仏道を存ぜん事も、かの相如が心のごとくなるべし。「若しみち有りては死すとも、み(ち)なうしていくる事なかれ。」と云ふなり。また云く、善悪と云ふ事定め難し。世間の綾羅錦繍をきたるをよしと云ひ、麁布糞掃をわるしと云ふ、仏法には是れをよしとし清しとす。金銀錦綾をわ(る)しとし穢れたりとす。是のごとく一切の事にわたりて皆然り。

予がごときは聊か韵声をととのへ、文字をかきまぐるを、俗人等は尋常なる事に云ふも有り。またある人は、出家学道の身として是のごとき事知れると、そしる人も有り。何れを定めて善ととり悪とするべきぞ。

文に云く、「ほめて白品の中に有るを善と云ふ。そしりて黒品の中におくを悪と云ふ。」と。また云く、「苦をうくべきを悪と云ひ、楽を招くべきを善と云ふ。」と。是のごとく子細に分別して、真実の善をとりて行じ、真実の悪を見てすつべきなり。僧は清浄の中より来れば、物も人の欲をうご(か)すまじき物をもてよしとし、きよしとするなり。

また云く、世間の人多分云く、「学道の志あれども世のすゑなり、人くだれり。我が根劣なり。如法の修行に堪ふべからず。ただ随分にやすきにつきて結縁を思ひ、他生に開悟を期すべし。」と。

今は云く、この言ふ事は、全く非なり。仏法に正像末を立つ事、しばらく一途の方便なり。真実の教道はしかあらず。依行せん、皆うべきなり。在世の比丘必ずしも皆勝れたるにあらず。不可思議に希有に浅増しき心〈根〉、下根なるもあり。仏、種々の戒法等をわけ給ふ事、皆わるき衆生、下根のためなり。

人々皆仏法の機なり。非器なりと思ふ事なかれ。依行せば必ず得ベきなり。既に心あれば善悪を分別しつべし。手足あり、合掌行歩にかけたる事あるべからず。仏法を行ずるに品をえらぶべきにあらず。人界の生は皆是れ器量なり。余の畜生等の性にては叶ふべからず。学道の人はただ明日を期する事なかれ。今日今時ばかり、仏に随いて行じゆくべきなり。

 

09示に云く、俗人の云く、「城を傾くる事は、うちにささやき事出来るによる。」また云く、「家に両言有る時は針をもかふ事なし。家に両言無き時は金をもかふべし。」と。俗人なほ家をもち城を守るに同心ならでは終に亡ぶと云へり。

況んや出家人は、一師にして水乳の和合せるがごとし。また六和敬の法あり。各々寮々を構へて身心を隔て、心々に学道の用心する事なかれ。一船に乗りて海を渡るがごとし。心を同じくし、威儀を同じくし、互ひに非をあげ是をとりて、同じく学道すべきなり。是れ仏(在)世より行じ来れる儀式なり。

 

10示に云く、楊岐山の会禅師、住持の時、寺院旧損してわづらい有りし時に、知事申して云く、「修理有るべし。」会云く、「堂閣やぶれたりとも露地樹下には勝れたるべし。一方やぶれてもらば一方もらぬ所に居して坐禅すべし。堂宇造作によりて僧衆得悟すべき者、金玉をもてもつくるべし。悟りは居所の善悪によらず。ただ坐禅の功の多少に有るべし。」と。

翌日の上堂に云、「楊岐はじめて住するに屋壁疎なり。満床にことごとくちらす雪の珍珠。くびを縮却してそらに嗟嘘す。かヘりて思ふ古人の樹下に居せし事を。」と。ただ仏道のみにあらず。政道も是のごとし。

太宗は〈居家〉をつくらず。龍牙云く、「学道は先づすべからく貧を学すべし。貧を学して貧なる後に道まさにしたし。」と云へり。昔釈尊より今に至るまで、真実学道の人、一人も宝に饒なりとは、聞かず見ざる処なり。

 

11一日ある客僧の云く、「近代の遁世の法、各々斎料等の事、かまへて、後、わづらひなきやうに支度す。これ小事なりと云へども学道の資縁なり。かけぬれば事の違乱出来る。今この御様を承り及ぶに、一切その支度無く、ただ天運にまかすと。実にかくの如くならば、後時の違乱あらん。如何。」

示に云く、「事皆先証あり。敢て私曲を存ずるにあらず。西天東地の仏祖皆是のごとし。私に活計を至さん、尽期有るべからず。またいかにすべしとも定相なし。この様は、仏祖皆行じ来れるところ、私なし。若し事闕如し絶食せば、その時こそ退し、方便をもめぐらさめ。かねて思ふべきにあらず」。

 

12示に云く、伝へ聞く、実否を知らざれども、故持明院中納言入道、ある時秘蔵の太刀をぬすまれたりけるに、さぶらひ(侍)の中に犯人有りけるを、余のさぶらひ沙汰し出してまゐらせたりしに、入道の云く、「是レは我が〈太刀〉にあらず、ひが事なり。」とてかへしたり。決定その太刀なれども、さぶらひの恥辱を思うてかへされたりと、人皆是れを知りけれども、その時は無為にて過ぎし。故に子孫も繁昌せり。

俗なほ心あるは是のごとし。況んや出家人は、必ずこの心有るべし。出家人は財物なければ智恵功徳をもて宝とす。他の無道心なるひが事なんどを直に面にあらはし、非におと(す)べからず。方便を以てかれ腹立つまじきやうに云ふべきなり。「暴悪なるはその法久しからず。」と云ふ。

たとひ法をもて呵責すれども、あらき言なるは法も久しからざるなり。小人と云ふは、いささか人のあらき言に即ち腹立して、恥辱を思ふなり。大人はしかあらず。たとひ打ちたりとも報を思はず。国に小人多し。つつしまずはあるべからず。

 

正法眼蔵随聞記 六

01一日示に云く、仏法のためには身命ををしむ事なかれ。俗なほみちを思へば、身命をすて親族をかへりみず忠節をつくす。是れを忠臣とも賢者とも云ふなり。

昔、漢の高祖、隣国と軍を興す。時に有る臣下の母、隣国に有りき。官軍も二心有らんかと疑ひき。高祖も若し母を思うて敵国へ〈去〉る事もや有らんずらん、若し〈去〉るならば軍やぶるべしとあやぶむ。ここに母も、我が子若し我れ故に二心もや有らんずらんと思うて、いましめて云く、

「我れによりて我が国に来る事なかれ。我れによりて軍の忠をゆるくする事なかれ。我れ若し〈生〉きたらば汝二心もこそ有らん。」と云いて、剣に身をなげてうせしかば、その子、もとより二心なかりしかば、その軍に忠節を至す志深かりけると云ふ。

況んや衲子の仏道を行ずる、必ず二心なき時、真に仏道にかなふべし。仏道には、慈悲智恵もとよりそなはれる人もあり。たとひ無けれども、学すればうるなり。ただ身心を倶に放下して、三宝の海に廻向して、仏法の教へに任せて私曲を存ずる事なかれ。漢の高祖の時、ある賢臣の云く、「政道の理乱は縄の結ほれるを解くがごとし。急にすべからず。能々結び目をみて解くべし。」と。

仏道も是のごとし。能々道理を心得て行ずべきなり。法門をよく心得る人は、必ず道心ある人のよく心得るなり。いかに利智聡明なる人も、無道心にして吾我をも離れず、名利をも捨て得ざる人は、道者ともならず、正理をも心得ぬなり。

 

02示に云く、学道の人は吾我のために仏法を学する事なかれ。ただ仏法のために仏法を学すべきなり。その故実は、我が身心を一物ものこさず放下して、仏法の大海に廻向すべきなり。その後は一切の是非を管ずる事無く、我が心を存ずる事なく、成し難き事なりとも仏法につかはれて強ひて是れをなし、我が心になしたき事なりとも、仏法の道理になすべからざる事ならば放下すべきなり。あなかしこ、仏道修行の功をもて代りに善果を得んと思ふ事なかれ。ただ一たび仏道に廻向しつる上は、二たび自己をかへりみず、仏法のおきてに任せて行じゆきて、私曲を存ずることなかれ。

先証皆是のごとし。心にねがひてもとむる事無ければ即ち大安楽なり。世間の人にまじはらず、己が家ばかりにて生長したる人は、心のままにふるまひ、おのれが心を先として人目を知らず、人の心をかねざる人、必ずあしきなり。学道の用心も是のごとし。衆にまじはり、師に随ひて我見を立せず、心をあらため行けば、たやすく道者となるなり。学道は先づすべからく貧を学すべし。なほ利をすてて一切へつらふ事なく、万事なげすつれば、必ずよき僧となるなり。

大宋によき僧と人にも知られたる人は、皆な貧道なり。衣服もやつれ、諸縁ともしきなり。往日天童山の書記道如上座と云ひし人は、官人宰相の子なり(し)かども、親族にもむつびず、世利をもむさぼらざりしかば、衣服のやつれ、破壊したる、目もあてられざりしかども、道徳人に知られて、大寺の書記ともなりしなり。予、かの人に問うて云く、「和尚は官人の子息、富貴の孫なり。何ぞ身に近づくるもの皆下品にして貧道なる。」これ答ヘて云く、「僧となれればなり。」

 

03一日示に云く、俗人の云く、「財はよく身を害す。昔も之れ有り、今も之れ有り。」と。言ふこころは、昔一人の俗人あり。一人の美女をもてり。威勢ある人これを〈請〉ふ。かの夫、是れを惜しむ。終に軍を興してかこめり。彼のいへ既にうばひとられんとする時、かの夫(云く)、「なんぢがために命をうしなふべし。」かの女云く、「我れ汝がために命をうしなわん。」と云いて、高楼よりおちて死ぬ。その後、かの夫うちもらされて、命遁れし時いひし言なり。

昔、賢人、州吏として国を行なふ。時に息男あり、父を拝してさる時、一疋の絹をあたふ。息の云く、「君、高亮なり。この絹いづくよりか得たる。」父云く、「俸禄のあまり有り。」息かへり皇帝に参らす。(帝)はなはだその賢を感ず。かの息男申さく、「父はなほ名をかくす。我れはなほ名をあらはす。父の賢すぐれたり。」と。この心は、一疋の絹は是れ少分なれど賢人は私用せざる事、聞こえたり。また、まことの賢人はなほ賢の名をかくして、俸禄なれば使用するよしを云ふ。

俗人なほ然り。学道の衲子、私を存ずる事なかれ。またまことの道を好まば、道者の名をかくすべきなり。また云く、仙人ありき。有る人問うて云く、「如何がして仙をえん。」仙の云く、「仙を得んと思はば道をこのむべし。」と。然あれば、学人仏祖を得んと思はば、すべからく祖道を好むべし。

 

04示に云く、昔、国皇有り。国ををさめて後、諸臣に告ぐ。「我れよく国を治む。賢なり。」

諸臣皆云く、「帝は甚だよくをさむ。」一臣ありて云く、「帝、賢ならず。」帝云ク、「故如何。」臣云ク、「国を打ち取りし時、帝の弟にあたへずして息にあたふ。」帝の心にかなはずしておひたてられて後、また一臣に問ふ、「朕よく仁なりや。」臣云く、「甚だよく仁なり。」

帝云ク、「その故如何。」云く、「仁君には忠臣有り、忠臣には直言あるなり。前の臣、はなはだ直言なり。是れ忠臣なり。仁君にあらずばえじ。」即ち帝、これを感じて前の臣をめしかへされぬ。

また云く、、秦の始皇の時、太子、花園をひろげんとす。臣の云く、「尤もなり。もし花園をひろうして鳥類多くは、鳥類をもて隣国の軍をふせいつべし。」よりてその事とどまりぬ。また宮殿をつくり、柱をぬらんとす。臣の云く、「最も然るべし。柱をぬりたらば敵はとどまらん。」よりてその事もとどまりぬ。云ふ心は、儒教の心は是のごとし。たくみに言を以て悪事をとどめ、善事をすすめしなり。衲子の人を化する善巧としてその心あるべし。

 

05一日僧問うて云く、「智者の無道心なると、無智の有道心なると、始終如何。」

示に云く、「無智の有道心、始終退する事多し。智恵有る人、無道心なれどもつひに道心をおこすなり。当世現証是れ多し。しかあれば、先づ道心の有無をいはず、学道勤労すべきなり」。

また云く、「内外の書籍に、まづしうして居所なく、あるいは滄浪の水にうかび、あるいは首陽の山にかくれ、あるいは樹下露地に端坐し、あるいは塚間深山に草庵する人あり。また富貴にして財多く、朱漆をぬり、金玉をみがき、宮殿等をつくるもあり。倶に書籍にのせたりと云へども、褒めて後代をすすむるには皆貧にして無財なるを以て本とす。そしりて来業をいましむるには、財多きをば驕奢のものと云いてそしるなり」。

 

06示に云く、学人、人の施をうけて悦ぶ事なかれ。またうけざる事なかれ。故僧正云く、「人の供養を得て悦ぶは制にたがふ。悦ばざるは檀那の心にたがふ。」と。是の故実は、我れに供養ずるにあらず、三宝に供ずるなり。故に彼の返り事に云ふべし。「この供養、三宝定めて納受あるらん。申しけがす。」と云ふべきなり。

 

07示に云く、ふるく云く、「君子の力牛に勝れたり。しかあれども、牛とあらそはず。」と。

今の学人、我れ智恵を学人にすぐれて存ずとも、人と諍論を好む事なかれ。また悪口をもて人を云ひ、怒目をもて人を見る事なかれ。今の世の人、多く財をあたへ恩をほどこせども、瞋恚を現じ、悪口を以て謗言すれば必ず逆心を起すなり。

 

08示に云く、真浄の文和尚、衆に示して云く、「我れ昔雪峰とちぎりを結びて学道せし時、雪峰同学と法門を論じて、衆寮に高声に諍談す。つひにたがひに悪口に及ぶ。よりて喧嘩す。事散じて、峰、真浄にかたりて云く、「我れ汝と同心同学なり。契約あさからず。何が故に我れ人とあらそふに口入れせざる。」浄、揖して恐惶せるのみなり。その後、「かれも一方の善知識たり、我れも今住持たり。そのかみおもへらく、法門論談すら畢竟じて無用なり。況んや諍論は定めて僻事なるべし。我れ争いて何の用ぞと思ひしかば、無言にして止りぬ。」と。

今の学人も門徒も、その跡を思ふべし。学道勤労の志有らば、時光を惜しんで学すべし。何の暇にか人と諍論すべき。畢竟じて自他ともに無益なり。何に況んや世間の事においては、無益の論をすべからず。君子の力は牛にもすぐれたり。しかれども牛と相ひ争はず。我れ法を知れり、彼れにすぐれたりと思ふとも、論じて彼を難じ負かすべからず。

若し真実に学道の人有りて法を問はば、惜しむべからず。ために開示すべし。然れども、なほ其れも三度問はれて一度答ふべし。多言閑語する事なかるべし。この咎は身に有り。是れ我れを諫らるると思ひしかば、その後人と法門を諍論せず。

 

09示に云く、古人多くは云く、「光陰虚しく度る事なかれ。」と。あるいは云く、「時光徒に過ごす事なかれ。」と。学道の人、すべからく寸陰を惜しむべし。露命消えやすし、時光すみやかに移る。暫く存ずる間に余事を管ずる事無く、ただすべからく道を学すべし。

今時の人、あるいは父母の恩すてがたしと云ひ、あるいは主君の命そむきがたしと云ひ、あるいは妻子の情愛離れがたしと云ひ、あるい眷属等の活命我れを存じがたしと云ひ、あるいは世人謗つつべしと云ひ、あるいは貧しうして道具調へがたしと云ひ、あるいは、非器にして学道にたへじと云ふ。

是のごとき等の世情をめぐらして、主君父母をもはなれず、妻子眷属をもすてず、世情にしたがひ、財色貪るほどに、一生虚しく過ごして、まさしく命の尽くる時にあたりて後悔すべし。すべからく閑に坐して道理を案じて、終にうち立たん道を思ひ定むべし。主君父母も我れに悟りを与ふべきにあらず。恩愛妻子も我がくるしみをすくふべからず。財宝も死をすくはず。世人終に我れをたすくる事なし。非器なりと云いて修せずは、何の劫にか得道せん。ただすべからく万事を放下して、一向に学道すべし。後時を存ずる事なかるべし。

 

10一日示に云く、学道はすべからく吾我をはなるべし。たとひ千経万論を学し得たりとも、我執をはなれずはつひに魔坑におつ。

古人云く、「仏法の身心なくは、焉んぞ仏となり祖とならん。」と。我をはなると云ふは、我が身心をすてて、我がために仏法を学する事無きなり。ただ道のために学すべし。身心を仏法に放下しつれば、くるしく愁ふれども、仏法にしたがつて行じゆくなり。乞食をせば人是れをわるしと思はんずるなんど、是のごとく思ふほどに、何にも仏法に入り得ざるなり。世情の見をすべて忘れて、ただ道理に任せて学道すべきなり。我が身の器量をかへりみ、仏法にもかなふまじきなんど思ふも、我執をもてる故なり。人目をかへりみ、人情をはばかる、即ち我執の本なり。ただすべからく仏法を学すべし、世情に随ふ事なかれ。

 

11一日弉問うて云く、「叢林の勤学の行履と云ふは如何。」

示に云く、只管打坐なり。あるいは閣上、あるいは楼下にして常坐をいとなむ。人に交はり物語をせず、聾者のごとく唖者のごとくにして常に独坐を好むなり。

 

12一日参ノ次に示に云く、泉大道の云く、「風に向いて坐し、日に向いて眠る。時の人の錦被たるにまされり。」と。

 このことば、古人の語なれどもすこし疑ひ有り。時の人と云ふは、世間貪利の人を云ふか。若し然らば、敵対尤もくだれり。何ぞ云ふにたらん。若し学道の人を云ふか。然らば何ぞ錦を被ると云はん。この心をさぐるに、なほ被を重くする心有りやと聞ゆ。聖人はしからず。金玉と瓦礫とひとしくす。執する事なし。故に釈迦如来、牧牛女が乳の粥を得ても食し、馬麦を得ても食す。何も(ひ)としくす。

 法に軽重なし。情愛に浅深あり。今の世に金玉を重しとて人の与ふれども取らず、木石をば軽しとて是レを愛するも有り。思ふべし、金玉も本来土中より得たり、木石も大地より得たり。何ぞ一つをば重しとて取らず、一つをば軽しとて愛せん。この心を案ずるに、重きを得て執すべき心有らんか。軽きを得て愛する心有らば、とがひとしかるべし。是れ学人の用心すべき事なり。

 

13示に云く、先師全和尚入宋せんとせし時、本師叡山の明融阿闍梨、重病に沈み、すでに死なんとす。そノ時この師云く、「我れ既に老病に沈み、死去せんとする事近きにあり。汝一人老病をたすけて、冥路をとぶらふべし。今度の入唐暫く止りて、死去の後その本意をとげらるべし。」と。

 時に先師、弟子及び同朋等をあつめて商議して云く、「我れ幼少の時双親の家を出でて後、こノ師の覆育を蒙りて今成長せり。世間養育の恩尤も重し。また出世ノ法門の事、大小権実の教文、因果をわきまへ是非を知りて、等輩にもこえ、名誉を得たる事も、また仏法の道理を知りて、今入宋求法の志をおこすまでも、彼の恩にあらずと云ふ事無し。然るに今年すでに窮老して、重病の床に臥し給へり。余命存じがたし。後会期すべきにあらず。よりてあながちに是れをとどむ。彼の命もそむき難し。今身命を顧みず入宋求法するも、菩薩の大悲利生のためなり。彼の命にそむき、宋土にゆかん道理如何。各々存知をのべらるべし。」

 時に人々皆云く、「今年の入宋止るべし。老病已に窮れり、死去定なり。今年ばかり止りて、明年の入唐尤も然るべし。彼の命をもそむかず、重恩をも忘れず、今一年半年の入唐の遅々、何のさまたげか有らん。師弟の本意も相違せず、入宋の本意も如意なるべし。」時に我れ、末臘にて云く、「仏法の悟り、今はさて有りなんとおぼしめさるる義ならば、御とどまり然るべし。」

 先師の云く、「然あるなり。仏法修行のみち、是れほどにてさても有りなんと存ず。始終是のごとくならば、さりとも出離、などかと存ず。」我れ云く、「その義ならば御とどまり有るべし。」

 時に先師、皆の議をはりて云く、「各々の議定、皆とどまるべき道理なり。我が所存は然らず。今度止りたりとも、決定死ぬべき人ならば、其れによりて命のぶべからず。また、我れとどまりて看病外護せんによりて、苦痛もやむべからず。また最後に我があつかひ勧めんによりて決定生死を離るべき道理にもなし。ただ一旦命に随ひたるうれしさばかりか。是れによりて出離得道のために一切無用なり。誤りて求法の志を〈障〉へて、罪業の因縁となるべし。然るに、若し入唐求法の志を遂げて、一分の悟りをもひらきたらば、一人有漏の迷情にこそたがふとも、多人得道の縁となるべし。功徳若し勝れば、また師の恩報じつべし。たとひまた渡海の間に死にて本意をとげずとも、求法の志をもて死せば、玄奘三蔵のあとをも思ふべし。一人のためにうしなひやすき時を空しくすぐさん事、仏意にかなふべからず。よりて今度の入唐、一向に思ひきりをはりぬ。」とて、終に入宋しき。

 先師にとりて真実の道心と存ぜし事、是等の心なり。然れば、今の学人も、あるいは父母のため、あるいは師匠のために、無益の事を行じて、徒らに時を失ひ、勝れたる道を指おきて、光陰をすぐす事なかれ。

 時に弉公云く、真実求法のためには、有漏の父母師僧の障縁をすつべき道理、然るべし。但し、父母恩愛等のかたをば一向に捨離すとも、また菩薩の行を存ぜん時、自利をさしおきて、利他をさきとすべきか。然ルるに老病にしてまた他人のたすくべきもなく、我れ一人その人にあたりたるを、自らの修行を思ツて彼をたすけずは、菩薩の行にそむくか。また大士の善行を嫌ふべからず。縁に対し事に随いて、仏法を存ずべきか。若し是れらの道理によらば、またゆいてたすくべきか、如何。

 示に云く、利他の行も自行の道も、劣なるをすてて、すぐれたるを取るは大士の善行なり。老病をたすけんとて水菽の孝を至すは、今生暫時の妄愛迷情の悦びばかりなり。背きて無為の道を学せんは、たとひ遺恨はありとも、出世の縁となるべし。是れを思へ、是れを思へ。

 

14一日示に云く、世間の人、自ら云く、「某甲師の言を聞くに、我が心にかなはず。」と。

我れ思ふに、この言非なり。その心如何。若し聖教等の道理を心得をし、すべてその心に違する、非なりと思ふか。若し然らば、何ぞ師に問ふ。またひごろの情見をもて云ふか。若し然らば、無始より以来の妄念なり。

 学道の用心と云ふは、我が心にたがへども、師の言、聖教のことばならば、暫く其れに随いて、本の我見をすてて改めゆく、この心、学道の故実なり。

 我れ当年傍輩の中に我見を執して知識をとぶらひし、我が心に違するをば、心得ずと云いて、我見に相叶ふを執して、一生虚しく仏法を会せざりしを見て、知発して、学道は然るべからずと思うて、師の言に随いて、暫く道理を得き。その後看経の次に、ある経に云く、「仏法を学せんとおもはば、三世の心を相続する事なかれ。」と。知りぬ、先の念を記持せずして、次第に改めゆくべきなり。書に云く、「忠言は耳にさかふ。」と。我がために忠なるべき言、耳に違するなり。違すれども強て随はば、畢竟じて益あるべきなり。

 

15一日雑話の次に云く、人の心元より善悪なし。善悪は縁に随いておこる。仮令、人発心して山林に入る時は、林家はよし、人間はわるしと覚ゆ。また退心して山林を出る時は、山林はわるしと覚ゆ。是れ即ち決定して心に定相なくして、縁にひかれてともかくもなるなり。故に善縁にあへばよくなり、悪縁に近づけばわるくなるなり。我が心本よりわるしと思ふことなかれ。ただ善縁に随ふべきなり。また云く、人の心は決定人の言に随ふと存ず。

 大論に云く、「喩へば愚人の手に摩尼を以てるがごとし。是れを見て、『汝下劣なり、自ら手に物をもてり。』と云ふを聞いて思はく、『珠は惜しし、名聞は有り。我れは下劣ならじ。」と思ふ。思ひわづらひて、なほ名聞に引かれて、人の言について珠をおいて、後に下人に取らしめんと思ふほどに珠を失ふ。」と云ふ。

 人の心は是のごとし。一定此の事我がためによしと思へども、人の語につく事あり。されば、いかにも本よりあしき心なりとも、善知識にしたがひ、良き人の久しく語るを聞けば、自然に心もよくなるなり。悪人にちかづけば、我が心にわるしと思へども、人の心に暫く随ふほどに、やがて真実にわるくなるなり。また、人の心、決定してものをこの人にとらせじと思へども、あながちにしひて切に重ねて云へば、にくしと思ひながら与ふるなり。決定して与へんと思へども、便宜あしくて時すぎぬれば、さてやむ事も有り。

 然らば、学人道心なくとも、良き人に近づき、善縁にあふて、同じ事をいくたびも聞き見るべきなり。この言一度聞き見れば、今は見聞かずともと思ふ事なかれ。道心一度発したる人も、同じ事なれども、聞くたびにみがかれて、いよいよよきなり。況んや無道心の人も、一度二度こそつれなくとも、度々重なれば、霧の中を行く人の、いつぬるるとおぼえざれども、自然に恥る心もおこり、真の道心も起るなり。

 故に、知りたる上にも聖教をまたまた見るべし、聞くべし。師の言も、聞きたる上にも聞きたる上にも重ね重ね聞くべし。弥深き心有るなり。道のためにはさはりとなりぬべき事をば、かねて是れに近づくべからず。善友にくるしくわびしくとも近づき、行道すべきなり。

 

16示に云く、大恵禅師、ある時尻に腫物を出す。医師是れを見て、「大事の物なり。」と云ふ。恵云く、「大事の物ならば死すべしや。」医云く、「ほとんどあやふかるべし。」恵云く、「若し死ぬべくは弥坐禅すべし。」と云いて、なほ強盛に坐したりしかば、かの腫物うみつぶれて、別の事なかりき。

 古人の心是のごとし。病を受けては弥坐禅せしなり。今の人の病なからん、坐禅ゆるくすべからず。病は心に随いて転ずるかと覚ゆ。世間にしやくりする人、虚言をもし、わびつべき事をも云ひつけつれば、其れをわびしき事に思ひ、心に入れて、陳ぜんとするほどに、忘れてその病止るなり。我れも当時入宋の時、船中にして痢病をせしに、悪風出来りて船中さわぎし時、病忘れて止まりぬ。是れを以つて思ふに、学道勤学して他事を忘れば、病もおこるまじきかと覚ゆるなり。

 

17示に云く、俗の野諺に云く、「唖せず聾せざれば家公とならず。」と。云ふ心は、人の毀謗をきかず、人の不可を云はざればよく我が事を成ずるなり。是のごとくなる人を、家の大人とす。是れ即ち俗の野諺なりと云へども、取つて衲僧の行履としつべし。他のそしりにあはず、他のうらみにあはず、いかでか我が道を行ぜん。徹得困の者、是れを得べし。

 

18示に云く、大恵禅師の云く、「学道はすべからく人の千万貫銭をおへらんが、一文をももたざらん時、せめら(れ)ん時の心のごとくすべし。若しこの心有らば、道を得る事易し。」と云へり。

 信心銘に云く、「至道かたき事なし、但揀択を嫌ふ。」と。揀択の心を放下しつれば、直下に承当するなり。揀択の心を放下すと云ふは、我を離るるなり。所謂我が身仏道をならんために仏法を学する事なかれ。ただ仏法のために仏法を行じゆくなり。たとひ千経万論を学し得、坐禅〈床〉をやぶるとも、この心無くは、仏祖の道を学し得べからず。ただすべからく身心を仏法の中に放下して、他に随うて旧見なければ、即ち直下に承当するなり。

 

19示に云く、春秋に云く、「石の堅き、是れをわれどもその堅きを奪ふべからず。丹のあかき、是れをわれどもそのあかき事を奪ふべからず。」と。玄沙因に僧問ふ、「如何なるか是れ堅固法身。」沙云く、「膿滴々地。」と。けだし同じ心なるべきか。

 

20示に云く、古人云く、「知因識果の知事に属して、院門の事すべて管せず。」と。言ふ心は、寺院の大小の事、すべからく管せず、ただ工夫打坐すべしとなり。また云く、「良田万頃よりも薄芸身にしたがふるには如かず。」「施恩は報をのぞまず、人に与へておうて悔ゆる事なかれ。」「口を守る事鼻のごとくすれば、万禍及ばず。」と云へり。「行堅き人は自ら重ぜらる。才高き人は自ら伏せらる。」「深く耕して浅く種うる、なほ天災あり。自ら利して人を損ずる、豈果報なからんや。」

 学道の人、話頭を見る時、目を近づけ力をつくして能々是れを看るべし。

 

21示に云く、古人の云く、「百尺の竿頭に更に一歩を進むべし。」と。この心は、十丈のさをのさきにのぼりて、なほ手足をはなちて即ち身心を放下せんがごとし。是れについて重々の事あり。

 今の世の人、世を遁れ家を出たるに似れども、行履をかんがふれば、なほ真の出家にては無きも有り。所謂出家と云ふは、先づ吾我名利をはなるべきなり。是れをはなれずしては、行道頭燃をはらひ、精進手足をきれども、ただ無理の勤苦のみにて、出離にあらざるも有り。大宋国にも離れ難き恩愛をはなれ、捨て難き世財をすてて、叢林に交はり、祖席を〈経〉れども、審細にこの故実を知らずして行じゆくによりて、道をもさとらず、心をも明らめずしてきたづらに一期をすぐすも有り。

 その故は、人の心のありさま、初めは道心をおこして、僧にもなり知識に随へども、仏とならん事をば思ハずして、身の貴く、我が寺の貴き由を施主檀那にも知られ、親類境界にも云ひ聞かせ、何にもして人に貴がられ、供養ざられんと思ひ、あまつさへ僧ども不当不善なれども我れ独り道心も有り、善人なるやうを、方便して云ひ聞かせ、思い知らせんとするやうもあり。是れは言ふに足ラざルの人、五闡提等の在世の悪比丘のごとく、決定地獄の心ばえなり。是れを物もしらぬ在家人は、道心者、貴き人、なんど思ふもあり。

 このきはをすこしたち出でて、施主檀那をも貪らず、親類恩愛をもすてはてて、叢林に交はり行道するも有れども、本性懶惰懈怠なる者は、ありのままに懈怠ならん事もはづかしきかして、長老首座等の見る時は相構へて行道する由をして、見ざる時は事にふれてやすみ、いたづらならんとするも有り。是れは在家にしてさのみ不当ならんよりはよけれども、なほ吾我名利のすてられぬ心ばへなり。

 またすべて師の心をもかねず、首座兄弟の見不見をも思はず、つねに思はく、仏道は人のためならず、身のためなりと云いて、我が身心にて仏になさんと真実にいとなむ人も有り。是れは以前の人々よりは真の道者かと覚ゆれども、是れもなほ吾我を思いて、我が身よくなさんと思へる故に、なほ吾我を離れず。また諸仏菩薩に随喜せられんと思ひ、仏果菩提を成就せんと思へる故に、名利の心なほ捨てられざるなり。

 是レまではいまだ百尺の竿頭をはなれず、とりつきたるごとし。ただ身心を仏法になげすてて、更に悟道得法までものぞむ事なく修行しゆく、是れを不染汚の行人と云ふなり。「有仏の処にもとどまらず、無仏の処をもすみやかにはしりすぐ。」と云ふ、このこころなるべし。

 

22示に云く、衣食の事、兼ねてより思ひあてがふ事なかれ。たとひ乞食の処なりとも、失食絶煙の時、その処にして乞食せん、その人に用事云はんなんど思ひたるも、即ち物をたくはへ、邪食にて有るなり。衲子は雲のごとく定まれる住処もなく、水のごとく流れゆきてよる所もなきを、僧とは云ふなり。直饒衣食の外に一物ももたずとも、一人の檀那をもたのみ、一類の親族をも思ひたらんは、即ち自他ともに結縛の事にて、不浄食にてあるなり。

 是のごとき不浄食等をもてやしなひもちたる身心にて、諸仏の清浄の大法を悟らん、心得んと思ふとも、何にもかなふまじきなり。たとへば藍にそめたる物はあをく、檗にそめたるものは〈黄〉なるがごとくに、邪命食をもてそめたる身心は即ち邪命身なり。この身心をもて仏法をのぞまば、沙をおして油をもとむるがごとし。ただ時にのぞみて、ともかくも道理にかなふやうにはからふべきなり。兼ねて思ひたくはふるは皆たがふ事なり。能々思量すべきなり。

 

23示に云く、学人各々知るべし、人々一の非あり。僑奢是れ第一の非なり。内外の典籍に同じく是れをいましむ。外典に云く、「貧しくしてへつらはざるは有れども、富みておごらざるは無し。」と云いて、なほとみを制しておごらざる事を思ふなり。この事大事なり。能々是れを思ふべし。我ガ身下賤にして人におとらじと思ひ、人にすぐれんと思はば慢心のはなはだしきものなり。是れはいましめやすし。仮令世間に財宝ゆたかに、福力もある人、眷属も囲遶し、人もゆるす、かたはらの人のいやしきが、此れを見て卑下する、このかたはらの人の卑下をつつしみて、自躰福力の人、いかやうにすべき。僑心なけれども、ありのままにふるまへば、傍らの賤しき、此れをいたむ。すべての大事なり。是れをよくつつしむを、偏奢をつつしむと云ふなり。我が身〈富〉めれば、果報にまかせて、貧賤の見うらやむをはばからざるを僑心と云ふなり。

 古人の云く、「貧家の前を車に乗りて過ぐる事なかれ。」と云へり。然れば、我が身車にのるべくとも、貧人の前をば憚るべしと云へり。外典に是のごとし、内典もまた是のごとし。

然るに、今の学人僧侶は、知恵法文をもて宝とす。是れを以ておごる事なかれ。我れよりおとれる人、先人傍輩の非義をそしり非するは、是れ僑奢のはなはだしきなり。

 古人云く、「智者の辺にしてはまくるとも、愚人の辺にしてかつべからず。」と。我が身よく知りたる事を、人のあしく知りたりとも、他の非を云ふはまた是れ我が非なり。法文を云ふとも、先人の愚をそしらず、また愚癡、未発心の人のうらやみ卑下しつべき所にては、能々是れを思ふべし。

 建仁寺に寓せしとき、人々多く法文を問ひき。非も咎も有りしかども、この儀を深く存じて、ただありのままに法の徳をかたりて、他の非を云はず、無為にてやみき。愚者ノ執見深きは、我が先徳の非を云へば、瞋恚をおこすなり。智恵ある人の真実なるは、法のまことの義をだにも心得つれば、云はずとも、我が非及び我が先徳の非を思ひ知り、あらたむるなり。是のごとき事、能々思ひ知るべし。

 

24示に云く、学道の最要は坐禅是れ第一なり。大宋の人多く得道する事、皆坐禅の力なり。一文不通にて無才愚鈍の人も、坐禅を専らにすれば、多年の久学聡明の人にも勝れて出来する。然れば、学人祗管打坐して他を管ずる事なかれ。仏祖の道はただ坐禅なり。他事に順ずべからず。

 弉問うて云く、打坐と看話とならべて是れを学するに、語録公案等を見るには、百千に一つはいささか心得られざるかと覚ゆる事も出来る。坐禅は其れほどの事もなし。然れどもなほ坐禅を好むべきか。

示に云く、公案話頭を見て聊か知覚あるやうなりとも、其れは仏祖の道にとほざかる因縁なり。無所得、無所悟にして端坐して時を移さば、即チ祖道なるべし。古人も看話、祗管打坐ともに進めたれども、なほ坐をば専ら進めしなり。また話頭を以て悟りをひらきたる人有りとも、其れも坐の功によりて悟りの開くる因縁なり。まさしき功は坐にあるべし。

 

 先師永平弉和尚学地に在りし日、学道の至要聞くに随いて記録す。所以に随聞と謂ふ。雲門室中の玄記のごとく、永平の宝慶記のごとし。今六冊を録集して巻を記し仮名正法眼蔵拾遺分の内に入る。六冊倶に嘉禎年中の記録なり。

 康暦二年五月初三日宝慶寺浴主寮に於て書す焉。

   三州旛頭郡中島山 長円二世暉堂が写しなり。

 寛永二十一甲申歳八月吉祥日

 

 

水野 弥穂子 訳

正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫から抜書(一部改変)

酒井得元 著作述 一覧

酒井得元 著作述 一覧

 

駒沢大学と私(退任記念講演)―dl可―

駒沢大学仏教学部論集 (18), p1-22, 1987-10

 

永平広録について―dl可―

禅研究所紀要 (11), p1-31, 1982

 

天台止観と只管打坐―酒井得元老師著作集Ⅱ―

宗学研究 (18), p243-250, 1976-03

 

〔書評〕『訳註禅苑清規』についてーdl可―

駒澤大学佛教学部論集 (3), 165, 1972-12

 

禅における身体の意義について

宗学研究 (12), 3-12, 1970-03

 

黙照禅の本質―酒井得元老師著作集Ⅱ―dl可

駒沢大学仏教学部研究紀要 (26), 9-24, 1968-03

 

六祖壇経における自性について―酒井得元老師著作集Ⅱ―

宗学研究 (7)1965-04

 

六祖壇経における見性の意義―酒井得元老師著作集Ⅱ―

宗学研究 (6)1964-04

 

永平高祖の見性批判について―酒井得元老師著作集Ⅱ―dl可

駒沢大学仏教学部研究紀要 (22)1964-04

 

禅における行の元意義 

日本仏教学会年報 (30), 341-355, 1964

 

道元禅の信決定について―酒井得元老師著作集Ⅱ―dl可

駒澤大學佛教學部研究紀要 (20), 19, 1962-03

 

授記の意義について--正法眼蔵授記を中心として―酒井得元老師著作集Ⅱ―

宗学研究 (3)1961-03

 

坐禅について--特輯・禅の探究と特質 

日本及日本人 11(1), 42-47, 1960-01

 

禅における偏向 

宗学研究 (2)1960-01

 

正法眼蔵仏性の巻研究序説―酒井得元老師著作集Ⅱ―dl可

駒澤大學研究紀要 (17), 97, 1959-03

 

法界の論理的考察―酒井得元老師著作集Ⅱ―dl可

印度学仏教学研究 7(1), 123-126, 1958-12

 

佛性と時節―酒井得元老師著作集Ⅱ―dl可

印度學佛教學研究 6(2), 441-442, 1958

 

正法眼蔵における什麽の意義―酒井得元老師著作集Ⅱ―dl可

駒沢大学研究紀要 (15)1957-03

 

仏性の性格―酒井得元老師著作集―dl可

印度学仏教学研究 5(1), 227-230, 1957-01

 

存在と仏性―dl可―

印度学仏教学研究 4(2), 351-360, 1956-03

 

因縁の考察―酒井得元老師著作集Ⅱ―dl可

印度學佛教學研究 3(2), 670-672, 1955

 

沢木老師に参じて 

道元 14(6), 10-14, 1952-06

 

単行本

『従容録』〈上巻〉(1974年)  行秀・酒井 得元 | 1974/1/1

 

道元禅参究』(1976年)  沢木 興道・酒井 得元 | 1976/1/1

 

『禅に生きる沢木興道』  酒井得元 誠信書房

 

『沢木興道聞き書き』(講談社学術文庫) 1984/6/1

 

『安心して悩め―正法眼蔵現成公案提唱』 1985/9/1

 

『光明蔵三昧講話』1991/3/1

 

正法眼蔵「真実の求め」 摩訶般若波羅蜜の巻』 1999/12/1

 

正法眼蔵』「すべては仏のいのち」仏性の巻 2003/3/1

 

正法眼蔵―ありのままを生きる 現成公案の巻』 2005/6/1

 

坐禅の真実 「正法眼蔵 坐禅儀」「大智禅師法語」提唱』 2017/10/10

 

 

正法眼蔵坐禅』―酒井得元老師著作集〈1〉酒井得元老師著作集刊行会 | 2008/9/1

・「永平広録」

・「正法眼蔵坐禅

・「正法眼蔵禅者の基本姿勢について」

・「禅の真髄」

・「僧堂生活」

・「曹洞宗

・「道元禅師の本質―只管打坐」

・「道元禅師の出家の意義」

・「証道歌」

 

 

道元禅の解明』―酒井得元老師著作集〈2〉酒井得元老師著作集刊行会 | 2009/10/1

・「因縁の考察」

・「永平高祖の見性批判について」

・「授記の意義について」

・「正法眼蔵と伝光録について」

・「正法眼蔵における什麽の意義」

・「正法眼蔵仏性の巻研究序説」

・「禅における行の意義」

・「禅における身体の意義について」

・「存在と仏性」

・「大乗戒義と禅戒の源流としての梵網経略抄」

・「天台止観と只管打坐」

・「道元禅の信決定について」

・「仏性と時節」

・「仏性の性格」

・「法界の論理的考察」

・「黙照禅の本質」

・「六祖壇経における見性の意義」

・「六祖壇経における自性について」

 

〇「禅から見た生と死」

『大法輪』昭和四十三年五月

 

〇「坐の信仰について」

『大法輪』昭和四十三年十月

 

〇「厳しい生涯の特異性」

『仏教の思想 古仏のまねび 道元』月報 昭和四十四年 角川書店

〇「普勧坐禅儀と坐禅箴」

『傘松』昭和四十九年十月

 

〇「後夜の坐禅と暁天坐禅

『傘松』昭和五十二年十一月

 

〇「正法眼蔵の宗教」上中下

『大法輪』昭和六十年二月

 

〇「禅界の現状とその問題」(曹洞宗

出典 未詳

 

 

「現成公案」―15本(45分テープ・以下略す)675分収録)最晩年の大野郡、宝慶寺接心会にて

「現成公案」別録―5本・225分収録・最晩年の名古屋、妙元寺で収録歟。

「摩訶般若波羅蜜」―4本・180分 妙元寺収録歟

「摩訶般若波羅蜜」―5本・225分 音源不明

「仏性」―5本・225分 音源不明

「身心学道」欠

「即心是仏」―3本・135分 音源不明

「行仏威儀」―30本・1350分 永平寺眼蔵会

「一顆明珠」―14本。630分 永平寺眼蔵会

「心不可得」―7本・180分 永平寺眼蔵会

「後心不可得」―8本・225分 永平寺眼蔵会

「古仏心」―15本・675分 永平寺眼蔵会

「大悟」―9本・405分 永平寺眼蔵会

坐禅箴」―9本・405分 音源不明

「海印三昧」―13本・585分 永平寺眼蔵会

「空華」―9本・405分 永平寺眼蔵会

「光明」―12本・540分 永平寺眼蔵会

「光明」別録―6本・270分 音源不明

「行持」上―24本・1080分 永平寺眼蔵会

「行持」下―19本・855分 永平寺眼蔵会

「恁麽」―19本・855分 永平寺眼蔵会 

「観音」―13本・585分 永平寺眼蔵会

「古鏡」―27本・1215分 永平寺眼蔵会

「有時」―17本・765分 永平寺眼蔵会

「授記」―4本・180分 永平寺眼蔵会

「全機」―7本・315分 東京別院

「都機」―8本・360分 音源不明

画餅」―4本・180分 永平寺眼蔵会歟

「谿声山色」―11本・495分 永平寺眼蔵会

「仏向上事」―13本・585分 永平寺眼蔵会

「別本仏向上事」―16本・720分 永平寺眼蔵会

「仏向上事」別録―12本・540分 音源不明

「夢中説夢」―11本・495分 永平寺眼蔵会

「礼拝得髄」―5本・225分 永平寺眼蔵会

「山水経」―13本・585分 永平寺眼蔵会

「山水経」別録―5本・225分 音源不明

「看経」―12本・540分 永平寺眼蔵会

「看経」別録―10本・450分 音源不明

「諸悪莫作」―13本・585分 永平寺眼蔵会歟

「諸悪莫作」別録―8本・360分 音源不明

「伝衣」―16本・720分 永平寺眼蔵会

「伝衣」別録―3本・135分 音源不明

「道得」―7本・315分 永平寺眼蔵会

「道得」別録―9本・405分 東京別院

「仏教」―11本・495分 永平寺眼蔵会歟

「仏教」別録―8本・360分 音源不明

「神通」―13本・585分 東京別院

「神通」別録―2本・90分 音源不明

「阿羅漢」―3本・135分 音源不明

「春秋」―9本・405分 音源不明

「春秋」別録―3本・135分 音源不明

「葛藤」―10本450分 音源不明

「葛藤」別録―16本・720分 音源不明

「嗣書」―6本・270分 音源不明

「柏樹子」―7本・315分 永平寺眼蔵会

「三界唯心」―6本・270分 永平寺眼蔵会

「説心説性」―4本・180分 永平寺眼蔵会

「諸法実相」―14本・630分 永平寺眼蔵会

仏道」欠

「密語」―8本・360分 永平寺眼蔵会

「無情説法」―6本・270分 永平寺眼蔵会

「仏経」―6本・270分 永平寺眼蔵会歟

「法性」―6本・270分 永平寺眼蔵会 

「陀羅尼」―8本・360分 永平寺眼蔵会

「洗面」―6本・270分 永平寺眼蔵会歟

「面授」―9本・405分 永平寺眼蔵会

「仏祖」―1本・45分 永平寺眼蔵会

「梅花」―5本・225分 永平寺眼蔵会歟

「洗浄」―6本・270分 永平寺眼蔵会

「十方」―2本・90分 永平寺眼蔵会歟

「見仏」―6本・270分 永平寺眼蔵会

「遍参」―9本・405分 永平寺眼蔵会

「眼睛」―5本・225分 永平寺眼蔵会

「家常」―3本・135分 永平寺眼蔵会

「三七品」―15本・675分 永平寺眼蔵会

「三七品」別録―7本・315分 音源不明

「龍吟」―5本・225分 永平寺眼蔵会

「祖師西来意」―4本・180分 永平寺眼蔵会

「祖師西来意」別録―2本・90分 音源不明

「発無上心」―7本・315分 永平寺眼蔵会

優曇華」―10本・450分 永平寺眼蔵会

優曇華」別録―9本・405分 音源不明

如来全身」―4本・180分 永平寺眼蔵会

如来全身」別録―2本・90分 音源不明

「三昧王三昧」―6本・270分 永平寺眼蔵会

「三昧王三昧」別録―4本・180分 音源不明

「転法輪」―5本・225分 永平寺眼蔵会

「転法輪」別録―3本・135分 音源不明

「大修行」―11本・495分 音源不明

「大修行」別録―6本・270分 永平寺眼蔵会

「自証三昧」―7本・315分 永平寺眼蔵会

「自証三昧」別録―10本・450分 音源不明

「虚空」―9本・405分 音源不明

「虚空」別録―4本・180分 永平寺眼蔵会歟

「鉢盂」―7本・315分 永平寺眼蔵会

「鉢盂」別録―4本・180分 音源不明

「安居」―9本・405分 永平寺眼蔵会

「他心通」―12本・540分 永平寺眼蔵会

「他心通」別録―6本・270分 音源不明

「王索仙陀婆」―5本・225分 永平寺眼蔵会

「王索仙陀婆」別録―6本・270分 音源不明

「出家」―5本・225分 永平寺眼蔵会

・「75巻」での総テープ数878本(2巻を欠く)。658時間分

 

「出家功徳」―7本・315分 永平寺眼蔵会

「出家功徳」別録―12本・540分 音源不明

「受戒」―3本・135分 音源不明

「袈裟功徳」―12本・540分 永平寺眼蔵会

「発菩提心」―6本・270分 音源不明

「供養諸仏」―8本・360分 音源不明

「供養諸仏」別録―8本・360分 音源不明

「帰依三宝」―7本・315分 音源不明

「深信因果」―6本・270分 音源不明

「深信因果」別録―7本・315分 音源不明

「三時業」―9本・405分 音源不明

「三時業」別録―7本・315分 音源不明

「四馬」―4本・180分 音源不明

「四馬」別録―2本・90分 音源不明

「4禅比丘」―11本・495分 音源不明

「百八法門」―16本・720分 音源不明

「八大人覚」―5本・225分 音源不明

・「12巻」での総テープ数130本97時間分

 

「法華転法華」―6本・270分 音源不明

「永平清規」―16本・720分 音源不明

「永平広録」―396本・17820分 音源不明

「永平広録」続―137本・6165分 音源不明

「光明蔵三昧」―19本・855分 音源不明

「宏智広録」―175本・7875分 音源不明

「宏智広録」―52本・2340分 音源不明

「大智偈頌」―12本・540分 音源不明

「伝心法要」―48本・2160分 音源不明

「頓悟要門」―64本・2880分 音源不明

「如浄語録」―139本・6255分 音源不明

「法服格正」―28本・1260分 音源不明

「梵網経抄」―49本・2205分 音源不明

「三百則」― 70本・3150分 音源不明

・「語録」等での総テープ数1211本908時間分

 

・現在、私の手許には列挙した資料が在り、報恩行の一環として、日々僅かながらも

老師の肉声を纏めているものである。

・これら2000本以上もの酒井老師の肉声が私の手許に在る事情を記す。

・2013年の盆前後と思われるが、福井県吉田郡永平寺町松岡春日1―64天龍寺住持である大路博法老僧より連絡を頂き訪寺すると、そこには段ボールにして数十箱分のカセットテープが乱雑に入り乱る状況であった。

天龍寺にテープを施行(提供)した人は、横浜に住した山崎(﨑か)氏と聞き及んでいるが、長らく居士として酒井老師に参随された学人であったようである。紹介したテープ資料は数十年にわたる山崎氏が集積した貴重なものであったが、終命と共に令夫人より天龍寺に寄贈されたものであると聞き及んでいる次第である。

・これらのテープ以外にも、青松寺などでの提唱録もあったが、録音不調や纏まった類本ではなく、小拙の判断で廃棄したのであるが、今となっては残念な思いである。

・山崎氏のテープ背面に記録したものから類推するに、永平寺での眼蔵会・名古屋での夏季勉強会を中心に参随し、随時に東京別院や青松寺・泉岳寺などに随喜された模様である。音源不明と記した音源は、ほとんどが妙元寺と思われる。

・これらの資料は先の天龍寺をはじめ、数人の有志の学人に配布し、小拙はタイに移住し細々と「75巻」の注釈作業に日々を費やす次第であるが、60の手習いで始めたパソコンに打ち込む時間は限られて居り、仏恩に報ゆる暁天を願う次第である。

 

                                 於タイ国 記す。

 

 

 

吉田郡について

      

 

吉田郡について 『福井県史』通史編2中世より抜書(一部改変)

 

 吉田郡の初見は建久元年で(資2 宮内庁書陵部 (その他)二号)、その成立は平安末期であろう。郡名の由来は詳らかでないが、いかにも中世的な佳名である。足羽郡と対照的に領域的で大きな荘園が成立し、郡域のほとんどがこれらの荘園で埋められる観を呈した。また大覚寺統の公家領荘園があまりみえないのも特徴的である。河合斎藤系の本拠地であり、彼らと平氏政権の関わりが荘園の成立に重要な意義をもち、また東隣りにある大野郡白山平泉寺の影響力も強かった。

 志比荘(旧吉田郡志比谷村・上志比村・下志比村)は九頭竜川中流南岸域の大荘園である。永平寺町法寺岡の地名は当荘の牓示の打たれた場所に由来するという。高倉天皇生母建春門院が法住寺殿内に造営した御願寺最勝光院の当初の寺領とみられる。疋田斎藤系の一族に志比大夫と号した藤原為隆という人物がみえるので(『尊卑分脈』)、彼が当荘成立期の有力領主と思われる。鎌倉殿勧農使を務めた比企朝宗が地頭で(『吾妻鏡』建久五年十二月十日条)、のち波多野氏が地頭となる。六波羅評定衆を務めた波多野義重は道元を当荘に招請し、永平寺を開いた(本章七節二参照)。鎌倉末期に志比荘の領家は二条家一族の尋源だった(資2 宮内庁書陵部 (その他)四号)。そのころになると最勝光院自体も衰微し、正中元年(一三二四)に後醍醐は最勝光院の本家職を東寺に寄進し、当荘もその一つとされた(せ函武九)。しかし本年貢の綿一〇〇〇両はいっこうに納入されず、翌二年末に後醍醐は地頭に本年貢の直納を命じ、以後長く東寺と波多野氏の相論が続いた。

 

 吉野保(旧吉田郡吉野村)は荒川の上流域で、前述のように梨本門跡領だった。

 藤島荘は福井市街北部の九頭竜川以南にあった荘園で、荘域はほぼ旧吉田郡東藤島村・中藤島村・西藤島村にわたる。平家没官領で当初源頼朝はこれを平泉寺に寄進し、藤島保もしくは藤島領とよばれた(『吾妻鏡』建久元年四月十九日条、資2 宝生院文書一号)。ついで天台座主慈円延暦寺に始めた勧学講の料所となり、のちには青蓮院の所伝によると右衛門尉藤原助近相伝の私領だったといい、また平重盛の所領ともいう(「勧学講条々」)。河合斎藤系の本流に属するこの助近は当地の開発領主とみられ、その子実近・実光はそれぞれ志原(松岡町芝原)・中村(福井市上中町・下中町)を苗字とした。その兄弟一族は越前の在地や有力寺社に重い地位を占めたが、源平の合戦で平家方に属して滅びた。助近も寿永二年六月の加賀国篠原(石川県加賀市)の合戦で木曾義仲に討たれたという。平泉寺はこうした在地勢力が依拠した地方有力寺院であるが、平安末期には延暦寺の末寺(別院)となる。慈円はそうした本末関係を利用して当荘を入手し、開発を進めて自分の門跡領に取り込んでいった。建暦二年の目録によれば、藤島荘の所当は米四八〇〇石・綿三〇〇〇両という大きなものであった(「門葉記」)。藤島荘の在地は大きく上郷・下郷に分かれ、下司・公文が置かれていた(資2 武田健三氏所蔵文書一号)。

 今泉荘(福井市北今泉町・東今泉町)は藤島荘中村の南隣りに位置し、平安末期に摂関家一族の皇嘉門院領だった(資1 九条家文書)。曾万布荘(福井市曾万布町)は十一世紀中ごろに成立し、法成寺東北院領で殿下渡領に編成される。鎌倉末期に春日社西御塔造営料所に寄進され、そののち長く興福寺西南院が知行した(資2 宮内庁書陵部 九条家文書三号)。

 河北荘(旧吉田郡河合村・森田村)は九頭竜川以北の大荘園で、古代の足羽郡川合郷の名を継いで河合荘ともいわれた。仁和寺相応院の僧隆憲が御室守覚法親王に寄進した所領がその前身となり、建久元年その見作田六〇町を二品守覚法親王の品田に充てて親王家領として立荘が認められた。この隆憲の生家はもと摂関家の家司の家柄に属したが、藤原頼長外戚方であったために保元の乱ののちに家が没落したものである。兄の頼円も仁和寺の僧で、当時越前にもいくつかの寺領のあった法金剛院の執行を務めた。この河合の地は吉田郡・足羽郡一帯に大きな勢力をもった河合斎藤系諸氏全体の苗字の地で、稲津氏の祖実澄や平泉寺長吏斉命の子が河合と号したという(『尊卑分脈』)。これまでたびたびふれた河合斎藤氏に属する検非違使藤原友実は、元服する以前から殺されるまで守覚法親王に従い、仁和寺内に屋地を給わり住んでいたという。前述のように仁和寺領の丹生郡石田荘地頭であり、法金剛院領の今立郡河和田荘の「地頭下司」を自称し、越前の寺領支配に深く関与していた。当荘の成立と支配にも彼が直接関係していたものと推定される。この守覚法親王の家領は河北御領もしくは河北御品田ともよばれ、御所の北院薬師堂領に編成されて隆憲の知行が認められた。二代将軍頼家の代までに地頭が補任され、頼家はその停止を請け合っている(資2 仁和寺文書一・二号)。

 河南荘は妙法院門跡の管領する所領で、三郷からなっていた。河北荘に対して九頭竜川以南の地と考えられる(資2 妙法院文書四・九号)。

吉峰寺に関する論考

吉峰寺に関する論考

    一

                 二谷 正信

はじめに

道元禅師に関わる著作・論文等は、これまで先輩諸氏等によって数限りなくといっていいほど発表・刊行されていて、あえて私などが論ずる事もなさそうに思われるのですが、特に入越後に於ける動静について禿筆を執ってみたいと思います。

  •    吉峰寺・禅師峰・波著寺各寺のよび名及び・るびについて

先ず大久保道舟氏著、『道元禅師伝の研究』中に収められている箇所を引用すると、「第八章北越入山の真相、第二節永平寺僧団の創設、第一項吉峰寺掛錫と禅師峰行化中」には、

正法眼蔵の奥書によると、その移錫の当初一時吉峰寺に掛錫し、また禅師峰(やましぶ)にも行化せられたことが見えているが、この両寺の創立由緒に関しては全く明らかではない。中について吉峰寺は、卍山が『越前州吉峰寺略記』(卍山広録第二十八)一篇を書いているが、その草創由来に関しては何事も触れていない。しかし正法眼蔵密語・嗣書・大悟・大修行などの奥書には「吉峰古寺草庵」「吉峰古寺」「吉峰古精舎」等と見えているから、その伽藍が禅師入山以前から存したことは疑いない。而してこれは吉峰寺(きっぽうじ)と読むのではなく「よしみねでら」と訓読すべきである。それは『正法眼蔵梅華』の奥書に「吉嶺寺」と識されているのを見ても明瞭である。ところでその名称は公的なものかといえば、恐らく土地の名を冠した私称であったと思う。即ち吉峰(よしみね)なる地名に因んで古寺の名を呼ばれたので、公然たる寺名ではなかったと想像する。然らばそれは何宗に属していたかというに、この志比荘が東寺最勝光院の荘園であった点から推測して、だいたい真言宗系統の山寺―(中略)―しかし禅師にはこの吉峰寺在錫中、寛元元年十一月より翌二年正月にいたる約三箇月の間、一時禅師峰にも行化せられたことがある。同処は現今勝山街道に沿って荒川の奥に位置し、大野群下庄村に属している。面山はその創立に関し、訂補に「禅師峯ハ天台平泉寺ノ近所ニテ、古ハ山師峯と書ス、山法師ノ居スル峯ト云意カ、後ニ禅師峯と書ス、今モ禅師峯村と云フ、祖師モト叡山ノ僧ナレバ、コノ禅師峯ニ天台ノ僧侶多キユヘ、聞法ノ為ニ請セシナルベシ」と記しているが、その天台宗との関係云云は一概に信じられないと思う。」

また同書「後篇第一章原始僧団と日本達磨宗との関係、第二項永平寺僧団の開設と懐鑒の慫慂」に於いては

「若し想像の自由を許されるならば、これは懐鑒の本據たる波著寺と同系統の真言寺院ではなかったかと考える。」

と記され、波著寺については「同篇四一六頁」に

「波著寺の所在については根本的な史料がないので正確なところはわからないが、(中略)ともかく本来は泰澄の開基であるが、後真言宗に属し、特に観音の霊場(波著観音)として知られていた。」

と以上のように述べられて居ります。

次に私は平泉澄氏による道元禅師観なるものを掲示いたします。御承知かも知れませんが両博士ともに越前生まれの碩学でありまして、年齢もほぼ同じであります(最終頁にて略歴記す)。

先ずは『父祖の足跡』第二十深山雪夜の段であります。

「(前段略)禅師は京に生れて京に育ち、支那から帰って後も、京都または其の附近に居ったが、寛元元年その四十四歳の秋七月、北国越前に入った。その冬、禅師は初めて北国の深雪を経験した。『正法眼蔵梅華』の巻の奥書に「爾時日本国仁治四年癸卯十一月六日、在越州吉田県吉嶺寺、深雪三尺、大地漫漫」とある。仁治四年は、春二月二十六日改元あって、寛元元年となった。後嵯峨天皇、前年正月践祚あり、三月即位あって、一年後に代始めの改元となったのである。しかるに其の事、禅師の耳に入り、承知されたのであらうに、十一月になっても、仁治四年と記された事は、道を行じ、道を説くに専心して、俗界との交渉に無関心であった事を語るものであらう。吉田県とあるのは、即ち吉田郡であって、本来からいふ郡は無かったのが、平安時代の末から、一郡として独立したのであらう。吉嶺寺とあるのは、即ち吉峰寺であるが、之を吉峰寺と書かないで、吉嶺寺と書かれてある事は、頗る注意に値する。といふのは、吉峰寺は、後世すべて之を音読してキッポウジと呼んでいるが、古い時代には音読ではなく、訓読してヨシミネデラと呼ばれていた事が、之によって知られるからである。もともと此の吉峰寺は、同年に道元禅師が止住し説法した禅師峰と共に、白山平泉寺の境内に近く、わづかに其の境内四至のはづれに在って、完全に其の勢力圏内、もしくは其の影響下に在った。禅師峰は、白山社の四至の一隅ある禅師王子の峰つづきであった。その白山関係の諸霊場は、大抵訓読であった。たとへば大谷(おほたに)寺、豊原(とよはら)寺、大滝(おほたき)寺の類である。平泉寺がひとり音読で例外であるやうに見えるが、是も古くは平清水(ひらしみづ)と呼ばれた証拠がある。そして寺とはいふものの、是等はいづれも神を祀り、社殿をその本来の中心としたものであって、寺といふは、単に霊場といふ意味に解すればよい。道元禅師の生涯に深い関係のあるのは、白山の神であって、その入宋に際しても、「仏法大統領白山妙理大権現」に祈願を籠めたといふ。―中略―かねて信仰する白山権現の因縁もあり、且つまた先師如浄が支那越州の人であった関係もあって、越の地をなつかしく思ったのであろう。」

平泉澄氏は述べられて居ります。音読・訓読について今一つ同氏の解説付き『泰澄和尚伝記』を紹介いたしましょう。「略註十五」では

「三外往生伝に、天承二年に長逝した勝義大徳の伝を記して、「越前国山麓、平清水之常住也」とあるのを見れば、古くは平清水または平泉とよばれていたのであらう。大谷にしても、豊原にしても、泰澄大師の関係のある所は、多く訓読せられ、又必ずしも寺号を称しないのを特色とするのである。」

と解説しているところからも、吉峰寺に於いても泰澄大師開基と伝えられて居るところから、やはり訓読が適切に思われる。

さらに同氏による『明治の源流』では百八頁に於いて次の如く示されて居られます。

道元は帰朝後の四年を京の建仁寺で、次の十二三年を宇治の興聖寺で送ったが、今や方向を転じて僻地遠境に入り、深山幽谷の中に在って一箇半箇の開悟を志すに至った。之を案内したのは義重であったが、之を招いたのは白山権現であったらう。道元はかねてより白山の神を信仰し、「仏法擁護の大統領」と称していた。そして越前に入るや、義重によって永平寺が創立せられるまでの一年半は、或は禅師峰に在り、或は吉峰寺に住して、法を説いた。禅師峰は、白山社の境内(四至)、東北隅に虚空蔵、東南隅に荒神、西北隅に観音、西南隅に禅師王子を祀った。その禅師王子の鎮座によって山を禅師峰と呼んだのであり、一方吉峰寺は白山平泉寺の末寺であったのであるから、二つながら白山社との関係が深い。(後段略)」

と考へて居られる平泉澄氏に基を置き、吉峰寺・禅師峰・波著寺各寺のよび名、及びるびについての私なりの結論を導く段の前に、波著寺について郷土資料とも云うべき二つの資料を採りあげてみましょう。

先ず『帰鴈記』(二二)に

「福井の西なる愛宕権現は、本地勝軍地蔵にてまします。羽明明神(はあかりみょうじん)は薬師を安置す。又当山に七面(ななおもて)の社あり。波着寺(なみつきでら)・松尾寺といふには観世音を安置す。天魔が池といふも此山にあり。

と、るびが附してあります。波着の着は著が正しいと思われます。

今一つ、山田秋甫氏の『泰澄大師の恩徳』を参考本としてみる事に致します。先程の波著寺に関しては同書三六頁に、越前国中卅三所観音廻礼詠歌の一覧表があり、丹生郡坂井郡・大野郡・福井・吉田郡・足羽郡・南條郡各地域の寺院の名があげられています。

十八番 波着寺

  ふだらくや彼岸もちかき波着寺

    舟ならねどもいたるなりけり

と詠われています。明らかに、「はぢゃく」とは云へず、「なみつき」と呼ばれていたことが伺われます。因みに先程紹介した平泉澄氏著『父祖の足跡』にみるところの大谷寺、豊原寺、についても書き記してみましょう。

 六番 大谷寺

    恵み来る功徳はここに大谷寺

      数の仏に縁をむすびて

 十番 豊原寺

    紫の雲のこちいに豊原寺

      あかのながれやくすりなるらん

と詠われて居ります。

 これら『越前国中三三所観音廻札所詠歌』・『帰鴈記』・『父祖の足跡』・『明治の源流』・『泰澄和尚伝記註解』・『道元禅師伝の研究』で以て結論づけるには、あまりにも貧弱すぎるのではありますが、とりあえず云い放ちまと、

吉峰寺・禅師峰・波著寺・それぞれ元来的にはよしみねでら、やましぶ、なみつきでらと呼ぶことが正しく思われます。ただし元来的と附記したように、現代から八百年近く前の事であり、言葉はもともと「ことだま」と云われたように時々変遷するものでありますから、吉峰寺も私などは、「きっぽうじさん」と呼び親しんでいるのですが、いざまとまった論文やその他附随したものを口述または書す場合に於いては、はっきりと当時は「よしみねでら」であったようです。と述べるなり、るびを附すべきと考えられます。人名に於いても然りであります。道元禅師に関連した人物では、藤原定家源通親を例にとってみますに、一般的に定家はていかと呼び親しんでいますが元来的と云うか本名はさだいえであり、当時の民衆が「さだいえ」と呼び捨てにするには抵抗感があり尊敬の念も含めて、「ていか」と呼ばれていたことが八百年近く過ぎても、私共も「ふじわらていか」と呼び親しんで居る事実であります。源通親にしても然りで、今では「みちちか」と呼んでいますが、当時は「とうしんのきょう」と云われた如くであります。今のことばで云ふなら愛称・つまりニックネームを本名の如く思う人を思うと、るびの重要性をつくづく考えざるをえません。

(二)吉峰寺・禅師峰に於ける正法眼蔵奥書についての考察

ただいまから述べる考察は、鴻昭社発行、本山版縮刷『正法眼蔵』が基底である。

先ず吉峰寺・禅師峰両寺に於ける道元・懐弉による正法眼蔵奥書を列記す。       

一  三界唯心 爾時寛元元年癸卯閏七月初一日在越宇禅師峰頭示衆

二  一顆明珠 寛元元年癸卯閏七月二十三日書写于越州吉田郡志比荘吉峰寺院主房侍者比丘懐弉

三  説心説性 爾時寛元元年癸卯在于日本国越州吉田県吉峰寺示衆

四  仏道   爾時寛元元年癸卯九月十六日在越州吉田県吉峰寺示衆

五  諸法実相 爾時寛元元年癸卯九月日在于日本越州吉峰寺示衆

六  密語   爾時寛元元年癸卯九月二十日在越州吉田県吉峰古精舎示衆

七  嗣書   寛元癸卯九月二十四日掛錫於越州吉田県吉峰古寺草菴 華字

八  仏経   爾時寛元元年癸卯秋九月菴居于越州吉田県吉峰寺示衆

九  無情説法 寛元元年癸卯十月二日在越州吉田県吉峰寺示衆

一〇 坐禅箴  爾時同四年癸卯冬十一月在越州吉田県吉峰精舎

一一 法性   于時日本寛元元年癸卯孟冬在越州吉峰精舎

一二 陀羅尼  爾時寛元元年癸卯九月二十日在越于吉峰寺示衆

一三 洗面   寛元元年癸卯十月二十日在越州吉田県吉峰寺示衆

        建長二年庚戌正月十一日越州吉田郡吉祥山永平寺示衆

一四 面授   爾時寛元元年癸卯十月二十日吉峰精舎示衆

一五 坐禅儀  爾時寛元元年癸卯冬十一月在越州吉田県吉峰精舎示衆

一六 梅華   爾時日本国仁治四年癸卯冬十一月六日在越州吉田県吉嶺寺深雪三尺大地漫漫

一七 十方   爾時寛元元年癸卯十一月十三日在日本国越州吉峰精舎示衆

一八 見仏   爾時寛元元年癸卯冬十一月朔十九日在禅師峰山示衆

一九 徧参   爾時寛元元年癸卯十一月二十七日在越于禅師峰下茅菴示衆

二〇 眼睛   爾時寛元元年癸卯十二月十七日在越州禅師峰下示衆

二一 家常   于時寛元元年十二月十七日在越于禅師峰下示衆

二二 龍吟   于時寛元元年十二月二十五日在越于禅師峰下示衆

二三 春秋   于時寛元二年甲辰在越宇山奥示衆逢仏事而転仏麟経祖師道衆角雖多一麟足矣

二四 授記   寛元二年甲辰正月二十日書写于越州吉峰寺侍者寮

二五 大悟   而今寛元二年甲辰正月二十七日駐錫越宇吉峰古寺而書示於人天大衆

二六 祖師西来 爾時寛元二年甲辰二月四日在越宇深山裏示衆

二七 優曇華  爾時寛元二年甲辰二月十二日在越宇吉峰精藍示衆

二八 発無上心 爾時寛元二年甲辰二月十四日在越州吉田県吉峰精舎示衆

二九 発菩提心 爾時寛元二年甲辰二月十四日在越州吉田県吉峰精舎示衆

三〇 如来全身 爾時寛元二年甲辰二月十五日在越州吉田県吉峰精舎示衆

三一 三昧王  爾時寛元二年甲辰二月十五日在越宇吉峰精舎示衆

三二 菩提分法 爾時寛元二年甲辰二月十四日在越宇吉峰精舎示衆

三三 転法輪  于時寛元二年甲辰二月二十七日在越宇吉峰精舎示衆

三四 自証三昧 爾時寛元二年甲辰二月二十九日在越宇吉峰精舎示衆

三五 大修行  爾時寛元二年甲辰三月九日在越宇吉峰古精舎示衆

三六 摩訶般若 爾時寛元二年甲辰三月二十一日在越宇吉峰精舎侍者寮書写之

  • まずは吉峰寺に対する呼称について

吉峰精舎―14回・吉峰寺―8回・吉峰古寺―2回

吉峰古精舎―1回・吉峰精藍―1回

  • 同日提唱奥書きの違い

一三 洗面―吉峰寺示衆

一四 面授―吉峰古精舎示衆

  • 懐弉による奥書き

二 一顆明珠―吉峰寺院

三六摩訶般若―吉峰古精舎

これらの奥書き表記から読みとれることは、入越当初は②に示す如くに、「吉峰寺・吉峰精舎」を並記呼称していた事実。を示し、時間経過と共に吉峰寺→吉峰精舎にと変遷する事実は、③に示す懐弉の奥書きからも確認できる。

  • 禅師峰について

この④             禅師峰の呼び名も恐らくは俗称であり、禅師王子に聯関するものであろう。「一 三界唯心―禅師峰頭」は誤記と思われる。禅師峰での提唱は「一八見仏から二二龍吟」、期間は「寛元元年(1243)十一月十九日から同年十二月二十日」の約一か月と限定されたもので、川向に位置する白山神社境内に南谷(清僧6000坊)北谷(妻帯僧2400坊)を擁する天台系列に属する学徒への特別集中講義とも位置づけられる。呼称については①禅師峰山②禅師峰下③禅師峰下茅菴。と三種の表記が確認できるが、現地調査(1999年頃)を通しての実感では、現在地に位置し明治期に創建された禅師峰寺福井県大野市西大月)周辺に茅菴のような小舎が在ったものと想像される。

これら列記した示衆から特に「一六梅華奥書き」について考察する。

まず「日本国仁治四年癸卯冬十一月六日」の記述であります。前章に於いても紹介した平泉澄氏著『父祖の足跡』では、「仁治四年は、春二月二十六日改元あって、寛元元年となった。―中略―十一月になっても、仁治四年と記された事は、道を行じ、道を説くに専心して、俗界との交渉に無関心であった事を語るものであらう」と指摘されるが、「一〇坐禅箴」でも「仁治四年癸卯冬十一月」と十一月に何がしかの意図が内在するもの歟。

次に「吉田県」について考察する。結論から云うと、吉田県なるものは無いと云う事である。『古今類聚越前国誌』の郡界並旧地では、「倭名類聚鈔日、北陸郡第六十三越前国管六敦賀(都留我)丹生(爾不)今立(伊万太千)足羽(安須波)大野(於保乃)坂井(佐加乃井)越前古五郡なり弘仁十四年(823)丹生郡を分て今立郡を置六郡となれり、三代格延喜式の文上出す、後南条・吉田二郡を割て八郡とす、時代未だ詳ならず。吉田郡―旧坂井郡後に割て一郡とす、大野郡の西にあり、南足羽郡に界し西北坂井郡に至る」

因みに吉田郡なる名が始めて資料に登場するのは建久元年(1190)の事である。

何故「吉田県」に固執するかについて小拙の愚説を披瀝する。

先ず入越までの正法眼蔵つまり葛藤の巻までを見ると、「一顆明珠―雍州宇治即心是仏―雍州宇治仏祖―雍州宇治心不可得―雍州宇治看経―雍州宇治阿羅漢―雍州宇治柏樹子―雍州宇治夢中説夢―雍州宇治葛藤―雍州宇治」と書き記される。

次に正法眼蔵本文には、「有時―葉県の帰省禅師は・仏性―杭州鹽官県斉安国師・行持―漢州十方県人」と当時の宋の地名を表している事から察して、正法眼蔵執筆当初は彼の留学地での想い、呼び習わし・習慣・習俗等々さまざまの要因が折り重なり宇治県と書き表わされ、後に本来の宇治郡と記したと考えられる。こういう観点からみてくると、入越後の吉峰寺示衆にだけ吉田県を記し後に永平寺山門に見られるように宝治二年には「越前國吉田郡志比庄傘松峯從今日名吉祥山」と書し、「一三洗面」に於ける奥書きでも建長二年示衆では吉田郡とし、この事からだけしても禅師の息づかいが窺われる。つまり吉峰寺・禅師峰それぞれの説法には禅師の意気込みが伝わり、前述するように敢えて吉田県と奥書きしたのには、帰朝当初の心意気・魂の雄叫びにも似た情感さへ感ぜられる筆法である。勿論そこには京から越前に至る原因である諸々の事情があったからこそ、一新更なる気構えが起こったのであろう。

次に同じく『梅花』巻に見られる「吉嶺寺」なるものに注目してみる。

『新選漢和辞典小林信明編)によると、嶺―レイ・リョウ・みね・やまみち・さか・やまなみ・連山、峰―ホウ・フ・みねー山の頂上・高い山・峰はとがったものの意味がある・山の突端をいう、峯・峰の正字とあります。

興聖寺での著述に於ける峰・嶺の各字体を見てみる。

辦道話―大白一顆明珠―雪有時―高古鏡―雪行仏威儀―雪山、仏向上事―巌頭雪行持―三庵、海印三昧―高頭、授記―雪光明―少室道得―雪葛藤―雪。以上十二巻で「峰」の字が使われる。

一顆明珠―出仏性南人、行持上猿啼、光明―烏石古仏心―大庾。五巻で確認される。

因みに懐弉『光明蔵三昧』に於いては、「雪」亦『義雲和尚語録偈頌』山居二首では「吉祥頭人間」と記される。さらに『泰澄和尚伝記』原文では峯と嶺を次のように区別しています。「和尚於越知、白山高、常念攀登彼雪

以上御覧いただいてもわかるように、本来的には「よしみねでら・吉嶺寺」と訓読せしむるようにの字面を『梅華』の奥書きでは使用するが、他の諸巻の奥書きでは通字としてのの書体を使用したと思われるが、山門の額には正字であるを書き記されたものと考察するものである。

最後に『梅華』奥書きに示された「深雪三尺大地漫漫」なる詞に注目してみよう。奥書に気象要件が書き添えられた巻は、『光明』『梅華』の両巻のみである。

百錬抄寛元元年(1243)十一月五日条には「五日丁未。今朝深盈尺。豊年呈瑞。去承元五年(1211)以後無如此之雪云々」と記録され、京の都では承元五年以来三十二年ぶりの大雪に見舞われ、翌日の六日には線状降雪帯が嶺北永平寺周辺に移動し、三尺ものドカ雪を眼前にした驚きを、『梅華』奥書きに記録されたのであるが、雪雷を伴うような身の危険をも感じさせる豪雪は、恐らく始めての経験であったろうと推測されます。

このような状況にて、奥書きに「吉田県・吉嶺寺・深雪三尺」の情報を後世の我々学徒に示された御恩は測り知れない仏徳の賜物である。

 

(三)白山神社(平泉寺)と吉峰寺との関係

まずは白山神社(平泉寺)と書いた事から説明する。平泉澄氏著『南越五六号』では「平泉寺・白山神社について」なる論考を紹介する。

「平泉寺といいますと、いかにも寺のように聞こえます。しかし本来の平泉寺は寺ではありませぬ。それは白山神社の別号といってもよく、又は白山神社を本体とし、しの神社に奉仕している人々をも包含して称したものといってもよいのであります。神社でありながら、平泉寺というのは、不思議なゆでありますが、それは神仏混淆の世には随分多かった事で、昔としては必ずしも不思議ではなかったのであります。寺であるか、神社であるか、を決定するものは仏を安置してあるか、神が祀られてあるか、という点でありますが、平泉寺では、本堂にに当たりますのが、白山の本社であり、本尊に当たりますのが、伊弉冊尊であります。そして拝殿には白山平泉寺という額が今もかけられています。それ故に明治維新の際、神仏分離の断行せられますと共に政府がはっきりと之を神社であると認定せられたのは、当然の事であります。」

と説明せられ、同様に田中卓氏著『神社と祭祀』に於いても次の如く述べられる。

「中央の史料で、白山の麓の「平清水」といふ名が早く見えるのは、、『三外往生記』である。これは平安時代の末期に沙弥蓮禅によって編纂された異相往生人の伝記集であるが、その中に「勝義大徳」(1063―1132)のことを述べて、「越前国山麓平清水之常住也」と記してゐる。これによると、「平清水」といふ地名が、勝義の常住した場所といふことになるが、この「平清水」は前述の白山神社境内の御手洗の池のことで、そのあたり一帯が当時、「平清水」の名で呼ばれてゐたことが知られよう。それだけではない、この頃にはまだ「平泉寺」といふ寺名は確立してゐなかったらしい、といふことが推量せられる」(三〇三頁)

さらに同書三〇七頁では

「「平泉寺」と書いても、これを当初から「へいせんじ」と訓んだのではなく、もともとは「ひらいづみでら」と呼んでゐたと思はれることは、平安時代末期の編纂とせられる『伊呂波字類抄』の部類立てでは、「平泉寺」が「部」(ヘ)の項には見えず、「比」(ヒ)の条下に収められてゐることによって明らかである。逆に遡って、長寛元年(1163)の成立とみられる『白山之記』(白山比咩神社叢書)にも、「越前馬場」や「越前下山七社」の名称はあっても、「平泉寺」とは出てこない。また保安二年(1121)藤原敦光撰の『白山上人縁起』(本朝続文粋)にも「平泉寺」の名は現れない。さらに天徳元年(957)の撰述とせられる『泰澄和尚伝記』を検討しても、その文中に「平泉寺」はない。要するに、久安三年(1147)以前の確実な史料に、「平泉寺」の寺名は見当らないのである。以上によって、元来は「白山神社」であったのが、社領の一部の平清水に僧侶が住みつき、平安時代の末以降、恐らくは比叡山との本末関係が出来た後に、「平泉寺」と呼ばれるようになったが、その名称も、当初は平清水(ひらしみづ)に因んで「ひらいづみでら」と呼ばれてゐたことが知られよう。」

このように平泉氏の直弟子である田中氏は、詳細に白山神社と平泉寺との関係性を解き明かされます。

次いで白山社と吉峰寺との関わりを四氏の論考で考察する。

平泉澄『明治の源流』一〇八頁

「禅師峰は、白山社の境内(四至内)、東北隅に虚空蔵、東南隅に荒神、西北隅に観音、西南隅に禅師王子を祀った。その禅師王子の鎮座によって山を禅師峰と読んだのであり、一方吉峰寺は白山平泉寺の末寺であったのであるから、二つながら白山社との関係が深い。」

平泉洸氏著「平泉寺の白山神社」『我等の郷土と人物』第二巻・七一頁

「禅師と白山とは深い関係にあり、禅師が越前に入られて最初に移られた禅師峰にしても、吉峰寺にしても皆当時は平泉寺の末寺であり、入宋の時に白山神を祈念された事といい、恐らく禅師のお若い時代の修養信仰と関係があると考えられるのであります。」

竹内道雄氏著『孤雲懐弉禅師伝』一九六頁

「おそらく道元禅師は、北越入山に当たっての白山天台の勧誘と厚意に応え、かつまた自己の正伝の仏法の立場と入山の意義を宣布すべく最初の説法の場所として禅師峯頭を選んだのであろう。(中略)ところで道元禅師を中核とした僧団が北越入山後早々に厳修した冬安居は、吉峯寺と禅師峯の両方において修行することが予め計画されていたようである。すなわち寛元元年の十月十六日の結制から十一月中旬までの最初の一ヵ月間は吉峯寺を中心にし、十一月中旬以後十二月までの一ヵ月半は禅師峯を中心にし、翌寛元二年一月十五日の解制までの最後の半月は吉峯寺を中心にして修行したと思われる。このように冬安居の修行道場を禅師峯をいれて二ヵ所に置いたことは、道元禅師が多分に白山天台を意識したためと推測される。」

守屋茂氏著道元禅師と北越移錫の真相」『道元思想大系』第三巻所収

「寛元元年七月末道元が志比荘に着かれてから、約一年有半の間の活動は、常識では何としても理解のつきかねる事柄が多い。こうしたことは夙に故平泉澄博士が、「歴史に於ける実と真」(『我が歴史観所収)に於いてふれておられるように、文献的に二様以上の史料であることもあろうが、文献による合理主義的な対象的解釈だけでなく、仏教者としての道元の全人格的な視点を無視したなら、最早真の道元その人を見ることは出来ないということにもなろう。道元の只管打坐に対し、白山天台の推移、もと達磨宗所属の僧衆、乃至は延暦寺末寺院の動きなど、概念的には直ちに諒解出来るものではなく、是等のものは、何等かの共通した、強い絆にて結ばれているであろうことに注目しなければならない。」

以上四氏の論考をみてきたのであるが、いずれも白山神社と吉峰寺との繋がりは述べては居られるが、具体的地域名等は挙げておられない。それは後述するとして、その前に前述の『歴史に於ける実と真』での要所を捉え、史家のありように迫ってみたい。

「歴史的真を得る為には、史家はその人物の性情を理解して之に同感し得ると共に、それ以上に出でて高処よりその人物や事件の意義を把握しなければならない。(中略)信なくして歴史は成り立たない。もし信を除外してひとえに実を漁る時は、父も果たして父なりや、母も果たして母なりや、誰か之を証明し得よう。父母を父母とするは信により、信あってそこに徳の実現を見、やがて我が家の歴史の成立をみる。」

と、かくの如く歴史を学ぶ者に対しての態度がうたわれてある。

さて、いよいよ白山神社(平泉寺)と吉峰寺との関係の段に踏み込む事としよう。

上志比村史』吉田森氏編「白山天台教圏の志比庄への拡散」(二八二頁)から興味深い項を紹介する。

「寛元元年(1243)七月一日京都深草観音導利興聖宝林寺から平泉寺の禅師王子に到着し、直ちに吉峯寺に仮住した時、ここには圓了坊が居住していて道元一行を迎えたという事実である。(中略)竹原村と藤巻村との間を北流する北河内川の竹原集落より上流部を午谷川と呼ぶ。この谷の左右両山麓は平泉寺末坊多く並び、右岸入口には多珍坊・東輪坊、その奥には辰ノ坊、その南西谷底に福千坊、及び多繁坊、谷の口には地蔵坊と並んでいた。左岸には福千坊の北西部に弁財天堂、その北に二つの小坊が存在し(中略)、多珍坊は、現場には庭石のみ残しているのみであるが、平泉寺末坊最後の坊主教然が、真宗本願寺顕如に帰依し(云々)」

と現地踏査の模様を記されるが、吉峯寺周辺に残る多くの坊舎跡の遺構は筆者自身も確認した次第であるが、残念ながら圓了坊なる人物に関しては、編纂者である吉田森氏はすでに亡くなり(平成12年時点)、村史関係者に聞き及ぶも出典籍などに関しても、何らの情報も得られず余念を残す結果となる。

光明寺白山神社の由来記』早津良規氏著「若越郷土研究」

「波多野志比地頭の花谷館も安全性の一部を光明寺で守り得た。平安時代末治承年中(1177―1181)平清盛が、平泉寺に志比庄を寄進したことが見えて、その後平泉寺の第一関門とした。それ以後光明寺白山神社は平泉寺の支配下に入り、毎年の例祭には祈祷を勤めていた。この別当寺が光明寺で、現在は廃寺になってその跡さえ不明である。」

『平泉寺史要』(五〇六頁)に於いても

吉田郡下志比村光明寺は治承年中平清盛、厚く白山社に帰依し、吉田郡志比の庄三里を寄附したる時、光明寺は一の関門を置かれし所にして、現今の上志比・下志比両村は平泉寺領たりしなり。」

このように吉峰寺と白山社とは親密なる関係にある事がわかる。

これまでは吉峰寺周辺と白山神社(平泉寺)との関係をみてきたが、次に平泉寺領について考察する。

福井県の歴史』白山信仰の一大拠点―平泉寺」(二九〇頁)

室町時代の平泉寺は「九万石、九千貫の神領、四八宮、三六堂甍を並べ、僧坊六千(内妻帯者三千人)」(明和四年1767)「北国白山並越前国大野郡白山中宮平泉寺由緒書」といわれた。平泉寺の四至は丑寅(うしとら・北東)の虚空蔵、辰巳(たつみ・南東)の荒神石、未申(ひつじさる・南西)の禅師王子、戌亥(いぬい・北西)の比島観音を結んだ範囲である。この四至内は、近世を通じ上高島村・下高島村・下毛屋村・猪野毛屋村・若猪野村・井野口村・北市村を四至内七か村と呼んだことからして、この地域が直接支配の平泉寺領であったとみて差し支えないと思う。天文八年(1539)の「平泉寺賢聖院々領所々目録」によれば(中略)、現在の勝山市域と大野市域の坂谷地区と下庄地区の大半は、平泉寺の院房の所領であったと推定できる。」

などと地域名が確認できる。

『日本の神々(神社と聖地)』足立尚計氏著(一六一頁)には

「県内における白山信仰の分布は、各郡ごとの白山神社の数によって知ることができる。白山神社と称する神社は、福井県神社庁所管の全神社数一七〇三社中三〇三社あり、全体の一八%にも及んでいる。それも白山に近い勝山市では全体の半数、大野市では四〇%が白山神社であり、この割合は大野盆地から遠ざかるにつれて減少し、武生(越前市)・鯖江など南越では一二%、若狭の三方郡では二%、最も遠方の大飯郡ではゼロになっている。このように、白山信仰は越前の最も代表的な神社信仰と考えてよいであろう。」

 

これらの諸資料を包括的に検討してみるならば、おのずと道元禅師の入越時に於ける白山神社(平泉寺)の勢力範囲が知られよう。結論としては入越当初の吉峰寺は、白山社の末寺あるいは末坊であったと断定してよいと思われる。

最後ではあるが、吉峰寺に入寺されるに当たっては波多野義重や波著寺関係者たちが、額汗されたであろう事項には論じられなかった。今後の課題にし擱筆とする。

追記

この論考は2000年(平成12)に永平寺の機関誌である「傘松」に掲載されたものを一部改変し提供するものである。

あわせて「泰澄和尚」「泰澄の伝記について」も併読されたい。

平泉澄―1895年(明治28)2月16日―昭和59年(1984)2月18日帰幽。

大久保道舟―1896年(明治29)7月1日―平成6年(1994)9月5日遷化。

殊に平泉博士の場合には、戦後歴史学の立場からは蛇蝎の如く嫌われ、その

影響からか道元研究者からも無視される存在であったが、今谷明氏による「

平泉澄と権門体制論」(『中世の寺社と信仰』)に説示される『中世に於け

る社寺と社会との関係』は、道元研究に於いても必読書であろう。

大久保博士の場合には、なんと言っても『道元禅師伝の研究』は半世紀以上

前の著作ではあるが、いまだ色褪せない名著であり、一度は熟読すべき古典と

もいうべき研究書である。