正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

『正法眼蔵抄』『授記』の巻について 石 島 尚 雄

『正法眼蔵抄』 の考察 ―特に『授記』の巻についてー 石 島 尚 雄 一、序 私は、拙稿『道元褝師と引用天台典籍の研究(1)』で、『正法眼蔵抄』の中には、『法華経』あるいは天台教学と関連性がある巻があることを摘指した。今回は、それを受けて『授記』の…

『仏祖』『嗣書』『面授』考 石井  修道

『仏祖』『嗣書』『面授』考 石井 修道 一 はじめに 曹洞宗秋田県宗務所・禅センター主催の「講座『祖録に親しむ』」で、二十八巻本正法眼蔵の講義を継続している。平成十九年十一月三十日に第十二回目を迎えた時に『嗣書』となった。講義の準備の為に桜井秀…

『正法眼蔵』仏性巻における心について 米 野 大 雄

『正法眼蔵』仏性巻における心について ―特に発心について― 米 野 大 雄 一 問題の所在 道元(一二〇〇~一二五三)は質多心・汗栗多心・矣栗多心の三心説を採用(1)したことが知られている。その中でも特に質多心に関して、慮知心・慮知念覚心という語を用い…

平泉 澄氏インタビュー

東京大学旧職員インタビュー 平泉 澄氏インタビュー(一) このインタビューは、昭和五十三年十一月二十五日から一一十七日までの三日間(二十五日は打ち合せのみ)、福井県勝山市平泉寺町の、白山神社社務所を兼ねた氏の自宅で、東京大学百年史編纂のための調…

道元と白山信仰   中世古 祥道

道元と白山信仰ならびに吉峰・波著・禅師峰の関係について 中世古 祥道 一 白山天台と平泉寺(白山神社) 平泉寺は北越を中心に荘園等を有し、確かに白山信仰の一拠点を成したが、白山との関わりはそれ程古いものでもなく、白山は当初は園城寺(三井寺)の支…

平泉澄と権門体制論     今谷 明

平泉澄と権門体制論 今谷 明 はじめに 黒田俊雄(1926~1993)の「中世の国家と天皇」が発表だれたのは1963(昭和38年)二月のことで、すでに六十年(2022年現在)が経過している。当論文の評価については、発表直後はもとより、その後も…

禅における言語的意味の問題     井筒俊彦

禅における言語的意味の問題 井筒俊彦 一 現代思想は言語に関して多くの根本的な問題を提起した。言語に対する異常な関心は、現代人の思惟を主題的に特徴づけている。「意味」はそれらの根本的問題の中でも取り分け根本的な問題である。「意味」に対する関心…

庭前の柏樹子 小川 隆

庭前の柏樹子 ―いま禅の語録をどう読むかー 小川 隆 一 月をさす指 「不立文字」を標榜する禅宗は、それにも拘らず、ではなく、それゆえにこそ、膨大な量の「語録」を生み出し、代々それを伝えてきた。特定の教条の定立を拒む以上、真実は常に 時と処に応じ…

禅仏教における意味と無意味     井筒俊彦

禅仏教における意味と無意味 井筒俊彦 一 禅的ナンセンス 本章の主題は、禅における意味と有意味性の問題である。この主題と前章で議論した主題、つまり<自己>の基本構造とは、これから見るように、互いに密接であり不可分である。あるいは、言語と意味の問…

記号活動としての言語    井筒俊彦

記号活動としての言語 井筒俊彦 ものは何でも、見る人の見方で、実にいろんな風に見えるものである。 例えば一個の桃がある。腹が空いていれば、うまそうだ、と思うだろう。画家は静物画のモデルにいいと考えるかも知れないし、俳人は、これは風情があると一…

即心是仏 ―『言葉の思想史』よりー  末木 文美士

即心是仏 ―『言葉の思想史』よりー 末木 文美士 道元の即心是仏論 とふていはく、いまわが朝につたはれるところの法華宗・華厳教、ともに大乗の究竟なり。いはんや真言宗のごときは、毘盧遮那如来したしく金剛薩埵につたへて、師資みだりならず。その談ずる…

『正法眼蔵』―脱構築から再構成へ    末木 文美士

『正法眼蔵』―脱構築から再構成へ 一 本覚思想と道元―「弁道話」 ―『仏典を読む』よりー 末木 文美士 Ⅰ 修行は必要か 修行と悟りはひとつでないと思うのは、外道の見解である。仏法では、修行と悟りはひとつである(修証これ一等なり)。いまも悟った上での…

『正法眼蔵』「摩訶般若波羅蜜」巻に関する一考察     賴住  光子 

『正法眼蔵』「摩訶般若波羅蜜」巻に関する一考察 賴住 光子 ここに考察する『正法眼蔵』「摩訶般若波羅蜜」巻は、『正法眼蔵』全巻のうちで最も早く書かれている。その奥書には「爾時天福元年夏安居日在観音導利院示衆」とあり、天福元(一二三三)年に示衆…

禅語つれづれ 入矢 義高

禅語つれづれ 入矢 義高 一 禅臭 現在アメリカに滞在中の一老師から、十年ほど前に「日本の禅宗はあまりに禅臭(くさ)すぎる」という慨嘆を聞かされたことがある。「禅臭(くさ)い内はまだ脈があるんだ」という風に先走って、この言葉を捻ってしまわずに、…

石門洪覺範林間錄

No. 1624-A 洪覺範林間錄序 臨川 謝逸 撰 [0245a09] 洪覺範得自在三昧於 雲菴老人。故能游戲翰墨場中。呻吟謦欬皆成文章。每與林間勝士抵掌清談。莫非尊宿之高行.叢林之遺訓.諸佛菩薩之微旨.賢士大夫之餘論。每得一事。隨即錄之。垂十年間。得三百餘事。…

『正法眼蔵行持』と時間について 石井修道

【講演会】 『正法眼蔵行持』と時間について 石井 修道 ただ今ご紹介いただきました駒澤大学の石井修道でございます。駒澤大学の仏教学部長と共に禅研究所の所長も現在兼ねておりまして、こちらの愛知学院大学の禅研究所とも長いおつきあいがあり、日頃、大…

禅問答というもの      入矢義高

禅問答というもの 入矢 義高 かつて京都大徳寺の管長であった後藤瑞巌(1879―1965)老師はその任から退かれた後も、求道者に応接せられたが、英語に堪能であった為もあって、外人と会われる事も多かった。ある時、初めて訪れて来た一人の外人と対談の際、お…

雨垂れの音       入矢義高

雨垂れの音 入矢 義高 『碧巌録』第四十六則(「大正蔵」四八・一八二b一九)に「鏡清雨滴声」というのがある。その話はこうである。 あるとき鏡清和尚が僧に問うた、「門の外のは何の音かな」。 僧、「雨垂れの音です」。 鏡清、「衆生は顛倒して、己れを迷…

驢事と馬事 入矢義高

驢事と馬事 入矢 義高 満開の桃の花を見て悟りを開いたという霊雲禅師に、稜(りょう)道者が訊ねた、「仏法の大意は何でしょうか」と。大意とは根本義または本質のこと。これに対する霊雲に答えは、「驢事未だ去らざるに、馬事到来す」であった。「ロバの仕…

馬祖禅の核心 入矢義高

馬祖禅の核心 入矢 義高 中国の禅は、実質的に馬祖(709―788)から始まった。禅を以て仏教の帰結とする理念が明確な自覚として宣明されたからであり、しかもその自覚が、教義の解釈や研究という形でなしに、具体的な日常の営為のなかで、実践的に形成…

雲門の禅・その〔向上〕ということ 入矢 義高

雲門の禅・その〔向上〕ということ 入矢 義高 唐代の末期、九世紀後半から十世紀にかけて、中国の禅の主流は北と南に二分していた。「北に趙州あり、南に雪峰あり」という当時の通り言葉が示すように、河北の趙州禅師(778―897)と福建の雪峰禅師(8…

清涼山天龍寺と松尾芭蕉

清涼山天龍寺と松尾芭蕉 青園謙三郎 一、芭蕉と永平寺 元禄二年(1689)と云えば今から330年ほど前になる。松尾芭蕉が「奥の細道」の大旅行の帰り路、加賀の国から越前の国へ入り、一日目は松岡の天龍寺で一泊。翌日は永平寺へ参詣して福井に出た。福…

德山と臨濟    衣川賢次  

德山と臨濟 衣川賢次 一.『臨濟錄』勘辨「德山三十棒」一段の解釋 師聞第二代德山垂示云 「道得也三十棒,道不得也三十棒。」師令樂普去問 「『道得爲什麼也三十棒?』待伊打,汝接住棒送一送,看他作麽生。」普到彼,如敎而問。德山便打,普接住送一送。德…

道元の霊夢の中での大梅法常との出会いと修証観               石井   修道                         石井   修道

道元の霊夢の中での大梅法常との出会いと修証観 石井 修道 道元の修証観の特色は、本証妙修とか、証上の修と呼ばれている(1)。その主張はかの『弁道話』の次のような一説に見られる。 それ、修証はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり。仏法に…

中国禅と道元禅 石井 修道

退任記念講演 中国禅と道元禅 ―その連続面と非連続面とについて― 石井 修道 ただいま金沢篤学部長先生からご紹介がありましたように、私は平成二十六年三月末をもって定年退職いたします。今日、最終講義の日を迎え、どういう形式で行ったらよいのかよく分か…

鎌倉仏教と現代  末木  文美士  駒澤大学仏教学会主催 公開講演会

駒澤大学仏教学会主催 公開講演会 末木 文美士 鎌倉仏教と現代 批判仏教の問題提起を受けて はじめに 末木でございます。このような形でお話する機会を与えて頂きまして、光栄なことと思っております。また、お忙しいところお集まりいただきまして有難うござ…

中國初期禪宗の無修無作説と道元の本證妙修説 石井  修道

講 演 中國初期禪宗の無修無作説と道元の本證妙修説 石井 修道 道元の修證觀は本證妙修と一般に言われるが、この問題を嚴密に檢討したのは、鏡島元隆氏の「本證妙修の思想的背景」(『宗學研究』第七號、一九六五年、後に『道元禪師とその周邊』に補訂再録、…

正法眠藏における什麼の意義         酒井 得元

正法眠藏における什麼の意義 酒井 得元 一 禪録を見ると先ず我々は第一に、中國語の用法に熟逹しなければならぬことはともかくとして、その語感にまで通ずることが何よりも肝要である。普通の漢文讀みでは通じない點が非常に多い。それは禪道の性格と、それ…

永平高祖の見性批判について    酒 井  得元

永平高祖の見性批判について 酒 井 得元 一 正法眼蔵『四禅比丘』の巻に「六祖壇経に見性の言あり、かの書、これ偽書なり。付法蔵の書にあらず、曹谿の言句にあらず、仏祖の児孫、またく依用せざる書なり。」とあるように、永平高祖は見性という語に対しては…

黙 照 禅 の 本 質    酒 井 得元

黙 照 禅 の 本 質 酒 井 得元 一 褝堂と僧堂とは同一視されている現在、これは異を唱えるのはいささか、時代錯誤の感がないわけではない。しかしこの相違いが修道の相違でもあるとあっては、簡単に見逃すわけには行かない。しかし今更に何故にそんなことに…