正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

原始経典と道元(ダンマパダと随聞記)

ダンマパダ(法句経)と道元(随聞記)

片山一良著『ダンマパダ』全詩解説―仏祖に学ぶひとすじの道(大蔵出版)-を参照

中村元岩波文庫)・水野弥穂子(ちくま文庫)による。

 

**ダンマパダ**

第一  一対の章(Yamaka-vagga1~20偈)

第二  不放逸の章(Appamada-vagga21~32偈)

第三  心の章(Citta-vagga33~43偈)

第四  花の章(Puppha-vagga44~59偈)

第五  愚者の章(Bala-vagga60~75偈)

第六  賢者の章(Pandita-vagga76~89偈)

第七  阿羅漢の章(Arahanta-vagga90~99偈)

第八  千の章(Sahassa-vagga100~115偈)

第九  悪の章(Papa-vagga116~128偈)

第十  鞭の章(Danda-vagga129~145偈)

第十一  老いの章(Jara-vagga146~156偈)

第十二  自己の章(Atta-vagga157~166偈)

第十三  世界の章(Loka-vagga167~178偈)

第十四 仏の章(Buddha-vagga179~196偈)

第十五 安楽の章(Sukha-vagga197~208偈)

第十六  愛するものの章(Piya-vagga209~220偈)

第十七  怒りの章(Kodha-vagga221~234偈)

第十八 垢の章(Mala-vagga235~255偈)

第十九 法住者の章(Dhammattha-vagga256~272偈)

第二十 道の章(Magga-vagga273~289偈)

第二十一種々の章(Pakinnaka-vagga290~305偈)

第二十二地獄の章 (Niraya-vagga306~319偈)

第二十三 象の章(Naga-vagga320~333偈)

第二十四渇愛の章(Tanha-vagga334~359偈)

第二十五比丘の章(Bhikkhu-vagga360~382偈)

第二十六バラモンの章(Brahmana-vagga383~423偈)

 

第一章 一対

 

1ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも、汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う。車をひく(牛)の足跡に車輪がついてゆくように。

道元―人の心、本より善悪なし。善悪は縁に随っておこる。(6-15)

 

2ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人に付き従う影がそのからだから離れないように。

道元―善縁にあへばよくなり、悪縁に近づけばわるくなるなり。我が心本よりわるしと思ふことなかれ。ただ善縁に随ふべきなり。(6-15)

 

3「彼はわれを罵った。彼はわれを害した。彼はわれにうち勝った。彼はわれから強奪した。」という思いを抱く人には、怨みはついに息むことがない。

4「彼はわれを罵った。彼はわれを害した。彼はわれにうち勝った。彼はわれから強奪した。」という思いを抱かない人には、ついに怨みが息む。

道元―一切に是(のごとく)なれば、彼も此れも遺恨有るべからざるなり。是のごとき事、人に対面をもし、出来る事に任せて能々思量すべきなり。所詮は事に触れて名聞我執を捨つべきなり。(2-16)

 

5実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。

道元―人は我れを殺すとも我れは報を加へじと思ひ定めつれば、先づ用心もせられず、盗賊も愁へられざるなり。時として安楽ならずと云ふ事無し。(4-4)

 

6「われらは、ここにあって死ぬはずのものである。」と覚悟をしよう。このことわりを他の人々は知ってはいない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。

道元―学人は必ずしも死ぬべき事を思ふべし。道理は勿論なれども、たとへばその言は思はずとも、しばらく先づ光陰を徒らにすぐさじと思うて、無用の事をなして徒らに時をすぐさで、詮ある事をなして時をすぐすべきなり。そのなすべき事の中に、また一切の事、いづれか大切なると云ふに、仏祖の行履の外は皆無用なりと知るべし。(3-14)

 

7この世のものを浄らかだと思いなして暮らし、(眼などの)感官を抑制せず、食事の節度を知らず、怠けて勤めない者は、悪魔にうちひしがれる。弱い樹木が風に倒されるように。

8この世のものを不浄であると思いなして暮らし、(眼などの)感官をよく抑制し、食事の節度を知り、信念あり、勤めはげむ者は、悪魔にうちひしがれない。岩山が風にゆるがないように。

道元―学人第一の用心は、先ず我見を離るべし。我見を離るとは、この身を執すべからず。(5-2)

 

9けがれた汚物を除いていないのに、黄褐色の法衣をまとおうと欲する人は、自制がなく真実もないのであるから、黄褐色の法衣はふさわしくない。

10けがれた汚物を除いていて、戒律を守ることに専念している人は、自制と真実とをそなえているから、黄褐色の法衣をまとうのにふさわしい。

道元―僧は清浄の中より来れば、物も人の欲をうご(か)すまじき物をもてよしとし、きよしとするなり。(5-8)

 

11まことではないものを、まことであると見なし、まことであるものを、まことではないと見なす人々は、あやまった思いにとらわれて、ついに真実(まこと)に達しない。

12まことであるものを、まことであると知り、まことではないものを、まことではないと見なす人は、正しい思いにしたがって、ついに真実に達する。

道元―ひろく知識を訪ひ、先人の言をも尋ぬべきなり。また先人の言なれども堅く執する事なかれ。(5-1)

 

13屋根を粗雑に葺いてある家には雨が漏れ入るように、心を修養していないならば、情欲が心に侵入する。

14屋根をよく葺いてある家には雨の漏れ入ることがないように、心をよく修養してあるならば、情欲の侵入することがない。

道元―後の事、明日の活計を思ふて捨つべき世を捨てず、行ずべき道を行ぜずして、あたら日夜を過ごすは口惜しき事なり。ただ思ひ切って、明日の活計なくは飢へ死にもせよ。寒ごへ死にもせよ、今日一日道を聞いて仏意に随って死なんと思ふ心を先づ発すべきなり。その上に道を行じ得ん事は一定なり。(3-13)

 

15悪いことをした人は、この世で憂え、来世でも憂え、ふたつのところで共に憂える。彼は自分の行為が汚れているのを見て、憂え、悩む。

道元―然れば、これほどにあだなる世に、極めて不定なる死期を、いつまで〈生〉きたるべしとて種々の活計を案じ、剰へ他人のために悪をたくみ思うて、徒らに時光を過ごす事、極めて愚かなる事なり。この道理真実なれば、仏も是れを衆生のために説き、祖師の普説法語にもこの道理をのみ説く。(3-11)

 

16善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、ふたつのところで共に喜ぶ。

彼は自分の行為が浄らかなのを見て、喜び、楽しむ。

道元― 初心の行者は、先づ世情なりとも人情なりとも、悪事をば心に制して、善事をば身に行ずるが、即ち身心をすつるにて有るなり。(3-1)

 

17悪いことをなす者は、この世で悔いに悩み、来世でも悔いに悩み、ふたつのところで悔いに悩む。「私は悪いことをしました。」といって悔いに悩み、苦難のところ(地獄など)におもむいて(罪のむくいを受けて)さらに悩む。

道元―よき僧、悪しき僧を差別し思ふ事無くて、仏弟子なれば此方を貴びて、平等の心にて供養帰敬もせば、必ず仏意に叶って、利益も速疾にあるべきなり。また冥機冥応、顕機顕応等の四句有る事を思ふべし。また現生後報等の三時業の事も有り。此等の道理能々学すべきなり。(2-15)

 

18善いことをなす者は、この世で歓喜し、来世でも歓喜し、ふたつのところで共に歓喜する。「私は善いことをしました。」といって歓喜し、幸あるところ(天の世界)におもむいて、さらに喜ぶ。

道元―主には知られずとも、人のためにうしろやすく、乃至未来の事、誰がためと思はざれども、人のためによからん料の事を作し置きなんどするを、真の人のため善きとは云ふなり。(4-3)

 

19たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。牛飼いが他人の牛を数えているように、かれは修行者の部類には入らない。

20たとえためになることを少ししか語らないにしても、理法にしたがって実践し、情欲と怒りと迷妄を捨てて、正しく気をつけていて、心が解脱して、執着することの無い人は、修行者の部類に入る。

道元―権実の教法、顕密の聖教を悟得すと雖も、この身を執する之心を離れず者、徒らに他の宝を数へて自ら半銭之分無し。(5-2)

 

第二章 不放逸

 

21つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境涯である。

つとめ励む人々は死ぬことがない。怠りなまける人々は、死者のごとくである。

22このことをはっきりと知って、つとめはげみを能(よ)く知る人々は、つとめはげみを喜び、聖者たちの境地を楽しむ。

23(道に)思いをこらし、堪え忍ぶことつよく、つねに健(たけ)く奮励する、思慮ある人々は、安らぎに達する。これは無上の幸せである。

道元―直饒飢へ死に寒へ死にすとも、一日一時なりとも仏教に随ふべし。万劫千生幾回か生じ幾回か死せん。皆是れ是のごとき世縁妄執なり。今生一度仏制に順って餓死せん、是れ永劫の安楽なるべし。(2-13)

 

 

24こころはふるいたち、思いつつましく、行いは清く、気をつけて行動し、みずから制し、法(のり)にしたがって生き、つとめ励む人は、名声が高まる。

道元―世人を見るに果報もよく、家をも起す人は、皆正直に、人のためにもよきなり。故に家をも持ち、子孫までも絶へざるなり。(4-3)

 

25思慮ある人は、奮い立ち、つとめ励み、自制・克己によって、激流も押し流すことのできない島をつくれ。

道元― 中々世智弁聡なるよりも、鈍根なるやうにて切なる志を出す人、速やかに悟りを得るなり。如来在世の周利盤特は、一偈を読誦する事は難かりしかども、根性切なるによりて一夏に証を取りき。ただ今ばかり我が命は存ずるなり。死なざる先に悟りを得んと、切に思ふて仏法を学せんに、一人も得ざるは有るべからざるなり。(3-17)

 

26智慧乏しき愚かな人々は放逸にふける。しかし心ある人は、最上の財宝(たから)をまもるように、つとめ励むのをまもる。

27放逸にふけるな。愛欲と歓楽に親しむな。怠ることなく思念をこらす者は、大いなる楽しみを得る。

道元―学道の最要は坐禅是れ第一なり。大宋の人多く得道する事、皆坐禅の力なり。一文不通にて無才愚鈍の人も、坐禅を専らにすれば、多年の久学聡明の人にも勝れて出来する。然れば、学人祗管打坐して他を管ずる事なかれ。仏祖の道はただ坐禅なり。他事に順ずべからず。(6-24)

 

28賢者が精励修行によって怠惰を退けるときには、智慧の高閣(たかどの)に登り、自らは憂い無くして(他の)憂いある愚人どもを見下ろす。山上にいる人が地上の人々を見下ろすように。

道元―人その家に生まれ、その道に入らば、先づその家の業を修すべし、知るべきなり。我が道にあらず、自が分にあらざらん事を知り修するは即ち非なり。今、出家の人として、即ち仏家に入り、僧道に入らば、すべからくその業を習ふべし。その儀を守ると云ふは、我執を捨て、知識の教に随ふなり。その大意は、貪欲無きなり。貪欲無からんと思はば、先づすべからく吾我を離るベきなり。吾我を離るるには、観無常是れ第一の用心なり。(2-2)

 

29怠りなまけている人々の中で、ひとりつとめはげみ、眠っている人々の中で、ひとりよく目覚めている思慮ある人は、疾くはしる馬が、足のろの馬を抜いて駆けるようなものである。

道元―人はいかにも思はば思へ、狂人とも云へ、我が心に仏道に順じたらば作し、仏法にあらずは行ぜずして一期をもすごさば、世間の人はいかに思ふとも、苦しかるべからず。遁世と云ふは、世人の情を心にかけざるなり。ただ仏祖の行履、菩薩の慈行を学行して、諸天善神の冥にてらす処に慚愧して、仏制に任せて行じもてゆかば、一切くるしかるまじきなり。さればとてまた、人のあししと思ひ云はん、苦しからずとて、放逸にして悪事を行じて人をはぢずあるは、是れまた非なり。ただ人目にはよらずして、一向に仏法によりて行ずべきなり。仏法の中にはまた、しかのごとくの放逸無慚をば制するなり。(3-10)

 

30マガヴァー(インドラ神)は、つとめ励んだので、神々の中での最高の者となった。つとめはげむことを人々はほめたたえる。放逸なることは常に非難される。

道元―孝順は尤も用ふる所なり。但し、その孝順に在家出家之別在り。在家は孝経等の説を守りて生をつかふ。死につかふる事、世人皆知れり。出家は恩を棄て無為に入って、無為の家の作法は、恩を一人に限らず、一切衆生斉しく父母の恩のごとく深しと思うて、作す所の善根を法界にめぐらす。別して今生一世の父母に限らず。是れ則ち無為の道に背かざるなり。日々の行道時々の参学、ただ仏道に随順しもてゆかば、其れを真実の孝道とするなり。(3-16)

 

31いそしむことを楽しみ放逸に恐れをいだく修行僧は、微細なものでも粗大なものでも全て心のわずらいを、焼きつくしながら歩む燃える火のように。

道元―実(まこと)の学道はやすかるべきなり。しかあれども、大宋国の叢林にも、一師の会下に数百千人の中に、実の得道得法の人は僅一二なり。しかあれば、故実用心も有るべき事なり。今これを案ずるに、志之至ると至らざるとなり。(3-11)

 

32いそしむことを楽しみ、放逸に恐れをいだく修行僧は、堕落するはずはなく、すでにニルヴァーナの近くにいる。

道元―ただ仏道を思うて衆生の楽を求むべし。況んや我れ年長大せる人、半ばに過ぎぬる人、余年幾なれば学道ゆるくすべき。(3-11)

 

第三章 心

 

33心は動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。英知ある人はこれを直くする、弓師が矢の弦を直くするように。

34水の中の住処から引き出されて陸「おか」の上に投げ捨てられた魚のように、この心は、悪魔の支配から逃れようとしてもがきまわる。

道元―ただ依り来る時に触れ、物に随って心器を調ふる事難きなり。学者、命を捨つると思うて、暫く推し静めて、云ふべき事をも修すべき事をも、道理に順ずるか順ぜざるかと案じて、道理に順ぜばいひもし、行じもすべきなり。(2-12)

 

35心は、捉え難く、軽々(かろがろ)とざわめき、欲するがままにおもむく。その心をおさめることは善いことである。心をおさめたならば、安楽をもたらす。

道元浮雲掩へども久しからず、秋風やぶるともひらくべし。臣わろくとも王の賢久しくは転ぜらるべからず。今仏道を存せんも是のごとくなるべし。何に悪をしばらくをかすとも、堅く守り、久しくたもたば、浮雲もきえ、秋風もとどまるべきなり。(5-6)

 

36心は極めて見難く、極めて微妙であり、欲するがままにおもむく。英知ある人は守れかし。心を守ったならば、安楽をもたらす。

道元―古人云ク、「霧の中を行けば覚えざるに衣しめる」と。よき人に近づけば、覚えざるによき人となるなり。(5-3)

 

37心は遠くに行き、独り動き、形体なく、胸の奥の洞窟にひそんでいる。この心を制する人々は、死の束縛から逃れるであろうだ

道元―夫れ衲子の行履は仏祖の風流を学ぶべし。三国ことなりと云へども、真実学道の者未だ是のごとき事有らず。ただ心を世事にいだす事なかれ。一向に道を学すべきなり。(2-13)

 

38心が安住することなく、正しい真理を知らず、信念が汚されたならば、さとりの智慧は全うからず。

39心が煩悩に汚されることなく、おもいが乱れることなく、善悪のはからいを捨てて、目ざめている人には、何も恐れることが無い。

道元―学道の人は人情をすつべきなり。人情を捨つると云ふは、仏法を順じ行ずるなり。世人多くは小乗根性なり。善悪を弁じ是非を分ち、是を取り非を捨つるは、なほ是レ小乗の根性なり。ただ世情を捨つれば仏道に入るなり。(3-4)

 

40この身体は水瓶のように脆いものだと知って、この心を城郭のように(堅固に)安立して、智慧の武器をもって、悪魔と戦え。勝ち得たものを守れ。しかもそれに執着することなく。

道元―ただなにとなく世間の人のやうにて、内心を調へもてゆく、是れ実の道心者なり。然れば、古人云く、「内空しくして外したがふ。」といひて、中心は我が身なくして外相は他にしたがひもてゆくなり。我が身わが心と云ふ事を一向にわすれて、仏法に入って、仏法のおきてに任せて行じもてゆけば、内外ともによく、今も後もよきなり。(3-8)

 

41ああ、この身はまもなく地上によこたわるであろう。意識を失い、無用の木片(きぎれ)のように、投げ捨てられて。

道元―命を軽くし生を憐れむ心深くして、身を仏制に任せんと思ふ心を発すべし。若し前よりこの心一念も有らば、失はじと保つべし。これほどの心一度発さずして、仏法を悟る事はあるべからず。(2-9)

 

42憎む人が憎む人にたいし、怨む人が怨む人にたいして、どのようなことをしようとも、邪なことをめざしている心はそれよりもひどいことをする。

道元―心にねがひてもとむる事無ければ即ち大安楽なり。(6-2)

 

43母も父もその他親族がしてくれるよりもさらに優れたことを、正しく向けられた心がしてくれる。

道元― 然らば、学人道心なくとも、良キ人に近づき、善縁にあふて、同じ事をいくたびも聞き見るべきなり。(6-15)

 

第四章 花

 

44だれがこの大地を征服するであろうか?だれが閻魔の世界と神々とともなるこの世界とを征服するであろうか?わざに巧みな人が花を摘むように、善く説かれた真理のことばを摘み集めるのはだれであろうか?

45学びにつとめる人こそ、この大地を征服し、閻魔の世界と神々とともなるこの世界とを征服するであろう。わざに巧みな人が花を摘むように、学びつとめる人々こそ善く説かれた真理のことばを摘み集めるであろう。

道元―学道の人、教家の書籍及び外典等学すべからず。見るべき語録等を見るべし。その余は且く是れを置くべし。今代の禅僧、頌を作り法語を書かん料に文筆等を好む、是れ即ち非なり。頌作らずとも、心に思はん事を書き至らん。文筆調はずとも、法門を書くべきなり。是れを悪しとて見たがらぬほどの無道心の人は、好き文筆を調へ、いみじき秀句ありとも、ただ言語計を翫んで、理を得べからず。(3-6)

 

46この身は泡沫のごとくであると知り、かげろうのようなはかない本性のものであると、さとったならば、悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くであろう。

道元― ただ請ふらくは学人静坐して道理を以てこの身之始終を尋ぬべし。身躰髪膚父母之二滴、一息に駐りぬれば山野に離散して終に泥土を作る。何を以ての故にか身を執せんや。況ンヤ法を以テ之レを見れば十八界之聚散、何の法をか定メて我身と為ん。教内教外別ナりトんや、我身之始終不可得なる事、之れを以て行道之用(心)と為る事、是れ同じ。先ずこの道理を達する、実に仏道顕然なる者なり。(5-2)

 

47花を摘むのに夢中になっている人を、死がさらって行くように、眠っている村を、洪水が押し流して行くように。

道元―古人多クは云く、「光陰虚しく度る事なかれ。」と。あるいは云く、「時光徒に過ごす事なかれ」と。(6-9)

 

48花を摘むのに夢中になっている人が、未だ望みを果たさないうちに、死に神が彼を征服する。

道元― 龐公は俗人なれども僧におとらず禅席に名を留めたるは、彼の人参禅の初め、家の財宝を以ちて出でて海にしづめんとす。人之れを諫めて云く、「人にも与へ、仏事にも用ふべし。」他に対へて云く、「我れ已にあたなりと思うて是れをすつ。焉んぞ人に与ふべき。財は身心を愁しむるあたなり」と。遂に海に入れ了りぬ。而して後、活命のためにはいかきをつくりて売つて過ぎ鳧(けり)。俗なれども是のごとく財をすててこそ禅人とも云はれけれ。何に況んや一向に僧はすつべきなり。(4-9)

 

49蜜蜂は(花の)色香を害(そこなわず)に、汁をとって、花から飛び去る。

聖者が村に行くときは、そのようにせよ。

道元―ある禅師云く、「直饒我が頭を打ち破る事七分にすとも、米をそろふる事なかれ」と、頌に作つて戒めたり。この心は、僧は斎食等を調へて食する事なかれ。ただ有るにしたがひて、よければよくて食し、あしきをもきらはずして食すべきなり。ただ檀那の信施、清浄なる常住食を以て餓を除き、命をささへて行道するばかりなり。味を思うて善悪をえらぶ事なかれと云ふなり。今我が会下の諸衆、この心あるべし。(3-18)

 

50他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ。

道元仏道に入るには善悪を分ち、よしと思ひ、あししと思ふ事を捨て、我が身よからん、我が心何と有らんと思ふ心を忘れ、よくもあれあしくもあれ、仏祖の言語行履に順ひ行くなり。

我が心によしと思ひ、また世人のよしと思ふ事、必ずよからず。然れば、人目も忘れ、心をも捨て、ただ仏教に順ひ行くなり。身も苦しく、心も患とも、我が身心をば一向に捨てたるものなればと思うて、苦しく愁つべき事なりとも、仏祖先徳の行履ならば為すべきなり。(3-4)

 

51うるわしく、あでやかに咲く花でも、香りの無いものがあるように、善く説かれたことばでも、それを実行しない人には実りがない。

52うるわしく、あでやかに咲く花で、しかも香りのあるものがあるように、善く説かれたことばも、それを実行する人には、実りがある。

道元― 学道の人、言を出さんとせん時は、三度顧みて、自利、利他のために利あるべければ是れを言ふべし。利な(か)らん時は止べし。是のごとき、一度にはしがたし。心に懸けて漸々に習ふべきなり。(1-3)

 

53うず高い花を集めて多くの華鬘(はなかざり)をつくるように、人として生まれまた死ぬべきであるならば、多くの善いことをなせ。

道元花の色美なりと云へども独り開くるにあらず。春の時を得て光を見る。学道の縁もまた是のごとし。(5-4)

 

54花の香りは風に逆らっては進んで行かない。栴檀(せんだん)もタガラの花もジャスミンもみなそうである。しかし徳のある人の香りは、風に逆らっても進んで行く。徳のある人はすべての方向に薫る。

55栴檀、タガラ、青蓮華、ヴァッシキーこれら香りのあるものどものうちでも、徳行の香りこそ最上である。

道元―道心と云ふは、昔より三国皆貧にして身を苦しめ、省約して慈有り道有るを実の行者と云ふなり。徳の顕はるると云ふも、財宝に饒に、供養に誇るを云ふにあらず。(3-3)

 

56タガラ、栴檀の香りは微かであって、大したことはない。しかし徳行のある人々の香りは最上であって、天の神々にもとどく。

道元―世間衣粮の資具は生得の命分なり。求むるに依って来らず、求めずとも来らざるにもあらず。正に任運として心をおく事なかれ。末法なり、下根なりと云って、今生に(心を)発さずは何れの生にか得道せん。直饒空生迦葉のごとくにあらずとも、ただ随分に学道すべきなり。(2-13)

 

57徳行を完成し、つとめはげんで生活し、正しい智慧によって解脱した人々には、悪魔も近づくによし無し。

道元―世間の事をも仏道の事をも思へ。明日、次の時よりも、何なる重病をも受けて、東西も弁ぜず、重苦のみかなしみ、またいかなる鬼神の怨害をも受けて頓死をもし、いかなる賊難にも逢ひ、怨敵も出来て殺害奪命せらるる事もや有ラん、真実に不定なり。(3-11)

 

58大道に捨てられた塵芥(ちりあくた)の山堆(やまずみ)の中から香しく麗しい蓮華が生ずるように。

59塵芥にも似た盲(めしい)た凡夫のあいだにあって、正しくめざめた人(ブッダ)の弟子は智慧をもって輝く。

道元―玉は琢磨によりて器となる。人は練磨によりて仁となる。何の玉かはじめより光有る。誰人か初心より利なる。必ずみがくべし、すべからく練るべし。自ら卑下して学道をゆるくする事なかれ。(5-4)

 

第五章 愚者

 

60眠れない人には夜は長く、疲れた人には一里の道は遠い。正しい真理を知らない愚かな者どもには、生死の道のりは長い。

道元― すべからく閑に坐して道理を案じて、終にうち立たん道を思ひ定むべし。主君父母も我れに悟りを与ふべきにあらず。恩愛妻子も我がくるしみをすくふべからず。財宝も死をすくはず。世人終に我れをたすくる事なし。非器なりと云って修せずは、何の劫にか得道せん。ただすべからく万事を放下して、一向に学道すべし。後時を存ずる事なかるべし。(6-9)

 

61旅に出て、もしも自分よりもすぐれた者か、または自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。愚かな者を道伴(づ)れにしてはならぬ

道元慈悲あり、道心ありて愚癡人に謗ぜられ譏らるるはくるしかるべからず。無道心にして人に有道と思はれん、是れを能々慎むべし。(3-3)

 

62「わたしたちには子がある。わたしには財がある。」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。

道元―ある時、僧正(栄西禅師)の門弟の僧云く、「今の建仁寺の寺屋敷河原に近し。後代に水難有リぬべシ」僧正云ク、「我等後代の亡失これを思ふべからず。西天の祇園精舎も礎計留れりしかども、寺院建立の功徳失すべからず。。また当時一年半年の行道、その功莫大なるべし」と。今これを思ふに、寺院の建立は実に一期の大事なれば、未来際をも兼ねて難無きやうにとこそ思ふべけれども、さる心中にも、是のごとキ道理を存ゼられし心のたけ、実にこれを思ふべし。(3-2)

 

63もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、愚者だと言われる。

道元― 我れ当年傍輩の中に我見を執して知識をとぶらひし、我が心に違するをば、心得ずと云って、我見に相叶ふを執して、一生虚しく仏法を会せざりしを見て、知発して、学道は然るべからずと思うて、師の言に随って、暫く道理を得き。その後看経の次に、ある経に云く、「仏法を学せんとおもはば、三世の心を相続する事なかれ」と。知りぬ、先の念を記持せずして、次第に改めゆくべきなり。 書に云く、「忠言は耳にさかふ」と。我がために忠なるべき言、耳に違するなり。違すれども強て随はば、畢竟じて益あるべきなり。(6-14)

 

64愚かな者は生涯賢者に仕えても、真理を知ることが無い。匙が汁の味を知ることができないように。

道元―無智の有道心、始終退する事多し。(6-5)

 

65聡明な人は瞬時(またたき)のあいだ賢者に仕えても、ただちに真理を知る。舌が汁の味をただちに知るように。

道元―智恵有る人、無道心なれどもつひに道心をおこすなり。当世現証是れ多し。しかあれば、先づ道心の有無をいはず、学道勤労すべきなり。(6-5)

 

66あさはかな愚人どもは、自己に対して仇敵(かたき)に対するようにふるまう。悪い行いをして、苦い果実(このみ)をむすぶ。

道元―ある時、弉(懐弉)、師に問うて云く、如何なるか是れ不昧因果底の道理。師云く、不動因果なり。云く、なにとしてか脱落せん。師云く、因果歴然なり。(2-4)

 

67もしも或る行為をした後に、それを後悔して、顔に涙を流して泣きながら、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善くない。

道元―人は世間の人も、衆事を兼ね学して何れも能もせざらんよりは、ただ一事を能して、人前にしてもしつべきほどに学すべきなり。(2-11)

 

68もしも或る行為をしたのちに、それを後悔しないで、嬉しく喜んで、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善い。

道元―命をも捨て、身肉手足をも斬る事は中々せらるるなり。然れば、世間の事を思ひ、名利執心のためにも、是のごとく思ふなり。(2-12)

 

69愚かな者は、悪いことを行っても、その報いの現れないあいだは、それを密のように思いなす。しかし、その罪の報いの現れたときには、苦悩を受ける。

道元―心に曲節あり人のためにあしき人は、たとひ一旦は果報もよく、家をたもてるやうなれども、始終あしきなり。縦ひまた一期はよくてすぐせども、子孫未ダ必ズシモ吉ナラざルなり。(4-3)

 

70愚かなものは、たとい毎月(苦行者の風習にならって一月に一度だけ)茅草の端につけて(極く少量の)食べ物を摂るようなことをしても、(その功徳は)真理をわきまえた人々の16分の1にも及ばない。

道元―今の世、出世間の人、多分は善事をなしては、かまへて人に識られんと思ひ、悪事をなしては人に知られじと思ふ。此れに依って内外不相応の事出来る。相構へて内外相応し、誤りを悔い、実徳を蔵して、外相を荘らず、好事をば他人に譲り、悪事をば己に向ふる志気有るべきなり。(2-17)

 

71悪事をしても、その業は、しぼり立ての牛乳のように、すぐに固まることはない(徐々に固まって熟する)その業は、灰に覆われた火のように、(徐々に)燃えて悩ましながら、愚者につきまとう。

道元― おほよそ因果の道理、歴然としてわたくしなし。造悪のものは堕し、修善のものはのぼる、毫釐もたがはざるなり。もし因果亡じ、むなしからんがごときは、諸仏の出世あるべからず、祖師の西來あるべからず、おほよそ衆生の見佛聞法あるべからざるなり。因果の道理は、孔子老子等のあきらむるところにあらず。ただ仏々祖々、あきらめつたへましますところなり。澆季の学者、薄福にして正師にあはず、正法をきかず、このゆゑに因果をあきらめざるなり。撥無因果すれば、このとがによりて、漭々蕩々として殃禍をうくるなり。撥無因果のほかに余悪いまだつくらずといふとも、まづこの見毒はなはだしきなり。しかあればすなはち、参学のともがら、菩提心をさきとして、仏祖の洪恩を報ずべくは、すみやかに諸因諸果をあきらむべし。(『正法眼蔵』「深信因果」)

 

72愚かな者に念慮(おもい)が生じても、ついにかれには不利なことになってしまう。その念慮は彼の好運(しあわせ)を滅ぼし、かれの頭を打ち砕く。

道元―昔、魯の仲連と云フ将軍ありて、平原君が国に有ツて能く朝敵を平ラぐ。平原君賞して数多の金銀等を与へしかば、魯の仲連辞して云ク、「ただ将軍の道なれば敵を討つ能を成す已而。賞を得て物を取ラんとにはあらず。」と謂ツて、敢て取ラずと言フ。魯仲連ガ廉直とて名よの事なり。俗なほ賢なるは、我レそノ人としてそノ道の能を成すばかりなり。代りを得んと思ハず。学人の用心も是ノごとクなるべし。(2-7)

 

73愚かな者は、実にそぐわぬ虚しい尊敬を得ようと願うであろう。修行僧らのあいだでは上位を得ようとし、僧房にあっては権勢を得ようとし、他人の家に行っては供養を得ようと願うであろう。

74「これは、わたしのしたことである。在家の人々も出家した修行者たちも、ともにこのことを知れよ。およそなすべきこととなすべからざることとについては、私の意に従え」愚かな者はこのように思う。こうして欲求と高慢(たかぶり)とがたかまる。

道元―宋土の海門禅師、天童の長老たりし時、会下に元首座と云ふ僧有りき。この人、得法悟道の人なり。長老にもこえたり。有る時、夜、方丈に参じて焼香礼拝して云く、「請ふらくは師、後堂首座を許せ」門、流涕して云く、「我れ小僧たりしより未だ是のごとくの事を聞かず、汝禅僧として首座長老を所望する事を。汝已に悟道せる事は、先規を見るに我れにも超えたり。然るに首座を望む事、昇進のためか。許す事は前堂をも乃至長老をも許すべし。余の未悟僧は之れを察するに、(余りあり)。仏法の衰微、是れを以テ知りぬべし」と云って流涕悲泣す。爰に僧恥ぢて辞すと雖も、なほ首座に補す。その後首座、この事を記録して自ら恥ぢしめ師の美言を彰はす。今之れを案ずるに、昇進を望み、物の首となり、長老にならん事をば、古人是れを恥ぢしむ。ただ道を悟らんとのみ思うて余事有るべからず。(4-5)

 

75一つは利得に達する道であり、他の一つは安らぎにいたる道である。ブッダの弟子である修行僧はこのことわりを知って、栄誉を喜ぶな。孤独の境地に励め。

道元―ただ我執を次第に捨て、知識の言に随ひゆけば昇進するなり。「理を心得たるように云へども、しかありと云へども、我れはその事が捨て得ぬ。」と云って執し好み修するは、弥沈淪するなり。禅僧の能く成る第一の用心は祇管打坐すべきなり。利鈍賢愚を論ぜず、坐禅すれば自然に好くなるなり。(2-2)

 

第六章 賢者

 

76(おのが)罪過(つみとが)を指し示し過ちを告げてくれる聡明な人に会ったならば、その賢い人につき従え。隠してある財宝のありかを告げてくれる人につき従うように。そのような人につき従うならば、善いことがあり、悪いことは無い。

道元―我レ大宋天童禅院に居せし時、浄老住持の時は、宵は二更の三点まで坐禅し、暁は四更の二点三点よりおきて坐禅す。長老ともに僧堂裏に坐す。一夜も闕怠なし。その間衆僧多く眠る。長老巡り行いて睡眠する僧をばあるいは拳を以て打ち、あるいはくつをぬいで打ち恥しめ勧めて睡りを覚す。なほ睡る時は照堂に行き、鐘を打ち、行者を召して燭を燃しなんどして卒時に普説して云く、「僧堂裏にあつまり居して徒らに眠りて何の用ぞ。然れば何ぞ出家入叢林する。(3-20)

 

77(他人を)訓戒せよ、教えさとせ。宜しくないことから(他人を)遠ざけよ。そうすればその人は善人に愛せられ、悪人からは疎まれる。

道元―外相を荘らずと云って、即ち放逸ならば、また是れ道理にたがふ。実徳をかくすと云って在家等の前に悪行を現ぜん、また是れ破戒の甚しきなり。ただ希有の道心者の由を人に知られんと思ひ、身に在る失を人に知られじと思ふ。諸天善神及び三宝の冥に知見する処を愧ぢずして、人に貴びられんと思ふ心を誡むるなり。ただ時に臨み事に触れて興法のため利生のため、諸事を斟酌すべきなり。(2-17)

 

78悪い友と交わるな。卑しい人と交わるな。善い友と交われ。尊い人と交われ。

道元―愚癡なる人はその詮なき事を思ひ云ふなり。此につかはるる老尼公、当時いやしげにして有るを恥づるかにて、ともすれば人に向っては昔上郎にて有りし由をかたる。喩へば今の人にさありけりと思はれたりとも、何の用とも覚えず。甚だ無用なりと覚ゆるなり。(5-7)

 

79真理を喜ぶ人は、心きよらかに澄んで、安らかに臥す。聖者の説きたもうた真理を、賢者はつねに楽しむ。

道元― この三十七品菩提分法、すなはち仏祖の眼睛鼻孔、皮肉骨髄、手足面目なり。仏祖一枚、これを三十七品菩提分法と参学しきたれり。しかあれども、一千三百六十九品の公案現成なり、菩提分法なり。坐断すべし、脱落すべし。(『正法眼蔵』「三十七品菩提分法」)

 

80水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯め、大工は木材を矯め、賢者は自己をととのえる。

道元―昔、倶胝和尚に使へし一人の童子のごときは、いつ学し、いつ修したりとも見えず、覚えざれども、久参に近づいしに悟道す。坐禅も自然に久しくせば、忽然として大事を発明して坐禅の正門なる事を知る時も有るべし。(5-3)

 

81一つの岩の塊りが風に揺るがないように、賢者は非難と賞賛とに動じない。

道元―世情の見をすべて忘れて、ただ道理に任せて学道すべきなり。我が身の器量をかへりみ、仏法にもかなふまじきなんど思ふも、我執をもてる故なり。(6-10)

 

82深い湖が、澄んで、清らかであるように、賢者は真理を聞いて、こころ清らかである。

道元―若し己見を存ぜば、師の言耳に入らざるなり。師の言耳に入らざれば、師の法を得ざるなり。また、ただ法門の異見を忘るるのみにあらず、また世事を返して、飢寒等を忘れて、一向に身心を清めて聞く時、親しく聞くにてあるなり。是のごとく聞く時、道理も不審も明らめらるるなり。真実の得道と云ふも、従来の身心を放下して、ただ直下に他に随ひ行けば、即ち実の道人にてあるなり。(1-14)

 

83高尚な人々は、どこにいても、執着することが無い。快楽を欲してしゃべることが無い。楽しいことに遭(あ)っても、賢者は動ずる色がない。

道元―求め思はずとも、任運として有るべき命分なり。直饒走り求めて財をもちたりとも、無常忽に来たらん時如何。故に学人はただ宜余事に心を留めず、一向に道を学すべきなり。(3-6)

 

84自分のためにも、他人のためにも、子を望んではならぬ。財をも国をも望んではならぬ。邪なしかたによって自己の繁栄を願うてはならぬ。(道にかなった)行いあり、明かな知慧があり、真理にしたがっておれ。

道元―後の事、明日の活計を思うて捨つべき世を捨てず、行ずべき道を行ぜずして、あたら日夜を過ごすは口惜しき事なり。ただ思ひ切って、明日の活計なくは飢へ死にもせよ。寒へ死にもせよ、今日一日道を聞いて仏意に随って死なんと思ふ心を先づ発すべきなり。その上に道を行じ得ん事は一定なり。(3-13)

 

85人々は多いが、彼岸(かなたのきし)に達する人々は少ない。他の(多くの)人々はこなたの岸の上でさまよっている。

 

86真理が正しく説かれたときに、真理にしたがう人々は、渡りがたい死の領域を超えて、彼岸(かなたのきし)にいたるであろう。

道元―今仏祖(の道)を行ぜんと思はば、所期も無く所求も無く、所得も無くして無利に先聖の道を行じ、祖々の行履を行ずべきなり。(4-8)

 

87賢者は、悪いことがらを捨てて、善いことがらを行え。家から出て、家の無い生活に入り、楽しみ難いことではあるが、孤独(ひとりい)のうちに、喜びを求めよ。

88賢者は欲楽をすてて、無一物となり、心の汚れを去って、おのれを浄めよ。

89覚りのよすがに心を正しくおさめ、執着なく貪りを捨てるのを喜び、煩悩を滅ぼし尽くして輝く人は、現世において全く束縛から解きほごされている。

道元―大安楽のために、一世幻化の身を苦しめて仏意に随はんは、行者の志に在るべし。然りと雖も、亦そぞろに身を苦しめ、作すべからざる事を作せと仏教にはすすむる事無きなり。戒行律儀に随ひゆけば、自然に身安く行儀も尋常に、人目も安きなり。ただ、今案の我見の安立をすてて、一向仏制に順ふべきなり。(3-20)

 

第七章 阿羅漢

 

90すでに(人生の)旅路を終え、憂いをはなれ、あらゆることがらにくつろいで、あらゆる束縛の絆をのがれた人には、悩みは存在しない。

道元―僧の威儀を守り、済度利生の行儀を思ひ、衆善を好み修して、本の悪をすて、今の善にとどこほらずして一期行じもてゆけば、是れを古人も漆桶を打破する底と云ふなり。仏祖の行履是のごとくなり。(4-8)

 

91こころをとどめている人々は努めはげむ。かれらは住居を楽しまない。白鳥が立ち去るように、かれらはあの家、この家を捨てる。

道元― 然れば、学人も世を離れ家を出ればとて、徒らに身をやすくせんと思ふ事、暫くも有るべからず。利有るに似て後大害有るなり。出家人の法は、またその職を収め、その業を修すべきなり。(3-20)

 

92財を蓄えることなく、食べ物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれらの行く路(足跡)は知り難い。空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。

道元―仏は是れ輪王の太子にてまします。一天をも御意にまかせ給ひつべし。財を以て弟子を哀み、所領を以て弟子をはごくむべくんば、何の故にか捨てて自ら乞食を行じ給ふべき。決定末世の衆生のためにも、弟子行道のためにも、利益ノ因縁有るべきが故に、財宝を貯へず、乞食を行じおき給へり。然つしより以来、天竺漢土の祖師の由、また人にも知られしは、皆貧窮乞食せしなり。況んや我が門の祖々、皆財宝を畜ふべからずとのみすすむるなり。(4-7)

 

93その人の汚れは消え失せ、食べ物をむさぼらず、その人の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれの足跡は知り難い。空飛ぶ鳥の迹の知り難いように。

道元―僧は三衣一鉢の外は財宝を持たず、居所を思はず、衣食を貪らざる間、一向に学道す。是れは分々皆得益有るなり。その故は、貧なるが道に親しきなり。(4-9)

 

94御者が馬をよく馴らしたように、おのが感官を静め、高ぶりをすて、汚れのなくなった、このような境地にある人を神々でさえも羨む。

道元―徳の顕はるるに三重あるべし。先ずは、その人、その道を修するなりと知らるるなり。次には、そノ道を慕ふ者出来る。後にはその道を同じく学し同じく行ずるなり。是れを道徳の顕はるると云ふなり。(3-3)

 

95大地のように逆らうことなく、門のしまりのように慎み深く、(深い)湖は汚れた泥がないように、そのような境地にある人には、もはや生死の世は絶たれている。

道元―学道の人はただ明日を期する事なかれ。(5-8)

 

96正しい智慧によって解脱して、やすらいに帰した人、そのような人の心は静かである。ことばも静かである。行いも静かである。

道元―一船に乗って海を渡るがごとし。心を同じくし、威儀を同じくし、互ひに非をあげ是をとりて、同じく学道すべきなり。是れ仏(在)世より行じ来れる儀式なり。(5-9)

 

97何ものかを信ずることなく、作られざるもの(ニルヴァーナ)を知り、生死の絆を断ち、(善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人、かれこそ実に最上の人である

道元然るに近代の学者、自らが情見を執して、己見にたがふ時は、仏とはとこそ有るべけれ、また我が存ずるやうにたがへば、さは有るまじなんどと言って、自が情量に似たる事や有ると迷ひありくほどに、おほかた仏道の昇進無きなり。また身を惜しみて、「百尺の竿頭に上って手足を放って一歩進め」と言ふ時は、「命有ってこそ仏道も学せめ」と云って、真実に知識に随順せざるなり。能々思量すべし。(2-10)

 

98村にせよ、林にせよ、低地にせよ、平地にせよ、聖者の住む土地は楽しい。

道元―学道の人、世情を捨つべきに就いて重々の用心有るべし。世を捨て、家を捨て、身を捨て、心を捨つるなり。能々思量すべきなり。世を遁レて山林に隠居し、我ガ重代ノ家を絶ヤサず、家門親族の事を思ふも有り。家を遁捨して親族の境界をも捨離すれども、我が身に苦しき事を為さじと思ひ、病発しつべき事を、仏道をも行ぜじと思ふは、未だ身を捨てざるなり。また身をも惜まず難行苦行すれども、心仏道に入らずして、我が心に違く事をば、仏道なれども為じと思ふは、心を捨てざるなり。(2-18)

 

99人のいない林は楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛著なき人々は楽しむであろう。かれらは快楽を求めないからである。

道元―衆のすくなきにはばかる事なかれ。身、初心なるを顧みる事なかれ。汾陽は纔に六七人、薬山は不満十衆なり。然れども仏祖の道を行じて是れを叢林のさかりなると云ひき。見ずや、竹の声に道を悟り、桃の花に心を明らめし、竹豈利鈍有り、迷悟有らんや。花何ぞ浅深有り、賢愚有らん。(5-4)

 

第八章 千

 

100無益な語句を千たびかたるよりも、聞いて心の静まる有益な語句を一つ聞くほうがすぐれている。

道元―この言一度聞き見れば、今は見聞かずともと思ふ事なかれ。道心一度発したる人も、同じ事なれども、聞くたびにみがかれて、いよいよよきなり。(6-15)

 

101無益な語句よりなる詩が千もあっても、聞いて心の静まる詩を一つ聞くほうがすぐれている。

道元―無常迅速なり、生死事大なり。暫く存命の間、業を修し学を好まんには、ただ仏道を行じ仏法を学すべきなり。文筆詩歌等その詮なきなり。捨つべき道理左右に及ばず。仏法を学し仏道を修するにもなほ多般を兼ね学すべからず。況んや教家の顕密の聖教、一向に擱くべきなり。仏祖の言語すら多般を好み学すべからず。一事を専らにせん、鈍根劣器のものかなふべからず。況んや多事を兼ねて心想を調へざらん、不可なり。(2-8)

 

102無益に語句よりなる詩を百もとなえるよりも、聞いて心の静まる詩を一つ聞くほうがすぐれている。

103戦場において百万人に勝つよりも、唯だ一つの自己に克つ者こそ、じつに最上の勝利者である。

道元―利益につき財欲にふけりて聚りたらん、一人なからんニなほ(お)とるべき。悪道の業因の自ら積みて仏法の気分無き故なり。(3-6)

 

104/105自己にうち克つことは、他の人々に勝つことよりもすぐれている。つねに行ないをつつしみ、自己をととのえている人、このような人の克ち得た勝利を敗北に転ずることは、神も、ガンダルヴァ(天の伎楽神)も、悪魔も、梵天もなすことができない。

道元―ふるく云く、「君子の力牛に勝れたり。しかあれども、牛とあらそはず」と。今の学人、我れ智恵を学人にすぐれて存ずとも、人と諍論を好む事なかれ。また悪口をもて人を云ひ、怒目をもて人を見る事なかれ。(6-7)

 

106百年のあいだ、月々千回ずつ祭祀を営む人がいて、またその人が自己を修養した人を一瞬間でも供養するならば、その供養することのほうが、百年祭祀を営むよりもすぐれている。

道元―今僧堂を立てんとて勧進をもし、随分に労する事は、必ずしも仏法興隆とは思はず。ただ当時学道する人も無く、徒らに日月を送る間、ただあらんよりもと思ふて、迷徒の結縁ともなれかし、また当時学道の輩の坐禅の道場のためなり。また、思ひ始めたる事のならずとても、恨み有るべからず。ただ柱一本なりとも立て置きたらば、後来も思ひ企てたれども成らざり鳬(けり)と見んも苦思すべからざるなり。(3-6)

 

107功徳を得ようとして、ひとがこの世で一年間神をまつり犠牲をささげ、あるいは火にささげ物をしても、その全部をあわせても、(真正なる祭りの功徳の)四分の一にも及ばない。行ないの正しい人々を尊ぶことのほうがすぐれている。

道元―清貧艱難してあるいは乞食し、あるいは果蓏等を食して、恒に飢饉して学道せば、是れを聞いて若し一人も来り学せんと思人有らんこそ実の道心者、仏法の興隆ならめと覚ゆる。(3-6)

 

108つねに敬礼を守り、年長者を敬う人には、四種のことがらが増大する。すなわち、寿命と美しさと楽しみと力とである。

道元―人は必ず陰徳を修すべし。必ず冥加顕益有るなり。たとい泥木塑像の麁悪なりとも、仏像をば敬礼すべし。黄紙朱軸の荒品なりとも、経教をば帰敬すべし。破戒無慚の僧侶なりとも僧躰をば信仰すべし。内心に信心をもて敬礼すれば、必ず顕福を蒙るなり。(4-8)

 

109素行が悪く、心が乱れていて百年生きるよりは、徳行あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。

道元―人は必ず陰徳を修すべし。必ず冥加顕益有るなり。たとい泥木塑像の麁悪なりとも、仏像をば敬礼すべし。黄紙朱軸の荒品なりとも、経教をば帰敬すべし。破戒無慚の僧侶なりとも僧躰をば信仰すべし。内心に信心をもて敬礼すれば、必ず顕福を蒙るなり。破戒無慚の僧なれば、疎相麁品の経なればとて、不信無礼なれば必ず罰を被るなり。しかあるべき如来の遺法にて、人天の福分となりたる仏像・経卷・僧侶なり。故に帰敬すれば益あり。(4-8)

 

110愚かに迷い、心の乱れている人が百年生きるよりは、知慧あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。

道元―光陰なにとしてかわが功夫をぬすむ。一日をぬすむのみにあらず、多劫の功徳をぬすむ。光陰とわれと、なんの怨家ぞ。うらむべし、わが不修のしかあらしむるなるべし。(『正法眼蔵』「行持」上)

 

111怠りなまけて、気力もなく百年生きるよりは、堅固につとめ励んで一日生きるほうがすぐれている。

道元―古来の仏祖いひきたれることあり、いはゆる「若人生百歳、不會諸佛機、未若生一日而能決了之」。これは一仏二仏のいふところにあらず、諸仏の道取しきたれるところ、諸仏の行取しきたれるところなり。百千万劫の回生回死のなかに、行持ある一日は、髻中の明珠なり、同生同死の古鏡なり。よろこぶべき一日なり、行持力みづからよろこばるるなり。(『正法眼蔵』「行持」上)

 

112物事が興りまた消え失せることわりを見ないで百年生きるよりも、事物が興りまた消え失せることわりを見て一日生きることのほうがすぐれている。

道元―今の上堂請益等にも、無常迅速、生死事大を云ふなり。返々もこの道理を心に忘れずして、ただ今日今時許と思うて、時光を失はず学道に心を入るべきなり。(3-11)

 

113不死の境地を見ないで百年生きるよりも、不死の境地を見て一日生きることのほうがすぐれている。

道元―朝に生じて夕に死し、昨日見し人今日無き事、眼に遮り耳に近し。是れは他の上にて見聞キする事なり。我ガ身にひきあてて道理を思ふ事を。直饒七旬八旬に命を期すべくとも、遂に死ぬべき道理有らば、そノ間の楽しみ悲しみ、恩愛怨敵を、思ひ〈解〉けば何にてもすごしてん。ただ仏道を思うて衆生の楽を求むべし。(3-11)

 

114最上の真理を見ないで百年生きるよりも、最上の真理を見て一日生きるほうがすぐれている。

道元―遂に捨行く命を、一日片時なりとも仏法のためすてたらば、永劫の楽因なるべし。(3-13)

 

第九章 悪

 

116善をなすのを急げ。悪から心を遠ざけよ。善をなすのにのろのろしたら、心は悪事を楽しむ。

道元―善悪と云フ事定メ難し。世間の綾羅錦繍をきたるをよしと云ひ、麁布糞掃をわるしと云ふ、仏法には是れをよしとし清しとす。金銀錦綾をわ(る)しとし穢れたりとす。是のごとく一切の事にわたりて皆然り。予がごときは聊か韵声をととのへ、文字をかきまぐるを、俗人等は尋常なる事に云ふも有り。またある人は、出家学道の身として是のごとき事知れると、そしる人も有り。何れを定めて善ととり悪とするべきぞ。文に云く、「ほめて白品の中に有るを善と云ふ。そしりて黒品の中におくを悪と云ふ」と。また云く、「苦をうくべきを悪と云ひ、楽を招くべきを善と云ふ」と。(5-8)

 

117人がもしも悪いことをしたならば、それを繰り返すな。悪事を心がけるな。悪が積み重なるのは苦しみである。

道元―諸悪莫作とねがひ、諸悪莫作とおこなひもてゆく。諸悪すでにつくられずなりゆくところに、修行力たちまちに現成す。この現成は、尽地尽界、尽時尽法を量として現成するなり。(『正法眼蔵』「諸悪莫作」)

 

118人がもし善いことをしたならば、それを繰り返せ。善いことを心掛けよ。善いことが積み重なるのは楽しみである。

道元―伝へ聞き、実否を知らざれども、故持明院中納言入道、ある時秘蔵の太刀をぬすまれたりけるに、さぶらひの中に犯人有りけるを、余のさぶらひ沙汰し出してまゐらせたりしに、入道の云く、「是れは我が〈太刀〉にあらず、ひが事なり」とてかへしたり。決定その太刀なれども、さぶらひの恥辱を思うてかへされたりと、人皆是れを知りけれども、その時は無為にて過ぎし。故に子孫も繁昌せり。俗なほ心あるは是のごとし。況んや出家人は、必ずこの心有るべし。(5-12)

 

119まだ悪の報いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遭うことがある。しかし悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遭う。

120まだ善い報いが熟しないあいだは、善人でもわざわいに遭うことがある。しかし善の果報が熟したときには、善人は幸福(さいわい)に遭う。

道元―人も知らざる時は潜に善事を成し、悪事を成して後は発露して咎を悔ゆ。是のごとくすれば即ち密々に成す所の善事には感応有り、露れたる悪事は懺悔せられて罪滅する故に、自然に現益も有るなり。当果をも知るべし。(2-15)

 

121「その報いは私には来ないだろう」とおもって、悪を軽んずるな。水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でも満たされるのである。愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば、やがてわざわいに満たされる。

道元―世人多く善事を成す時は人に知われんと思ひ、悪事を成す時は人に知られじと思ふに依って、この心冥衆の心にかなはざるに依って、所作の善事に感応なく、密に作す所の悪事には罰有るなり。己に依って返りて自ら思はく、善事には験なし、仏法の利益なしなんど思へるなり。是れ即ち邪見なり。尤も改むべし。(2-15)

 

122「その報いは私には来ないであろう」とおもって、善を軽んずるな。水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でも満たされる。気をつけている人は、水を少しずつでも集めるように善を積むならば、やがて福徳に満たされる。

道元―隋の文帝の云く、「密々の徳を修して〈称〉ぐるをまつ」と。言ふ心は、能き道徳を修してあぐるをまちて民を厳うするとなり。僧なほ及ばざらん、尤も用心スベキなり。(3-3)

 

123生きたいとねがう人が毒を避けるように、ひとはもろもろの悪を避けよ。

道元―仙の云ク、「仙を得んと思はば道をこのむべし」と。然あれば、学人仏祖を得んと思はば、すべからく祖道を好むべし。(6-3)

 

124もしも手に傷がなければ、その人は手で毒をとり去ることもできるであろう。傷の無い人に、毒は及ばない。悪をなさない人には、悪の及ぶことがない。

道元― 既に心あれば善悪を分別しつべし。手足あり、合掌行歩にかけたる事あるべからず。仏法を行ずるに品をえらぶべきにあらず。人界の生は皆是れ器量なり。余の畜生等の性にては叶ふべからず。学道の人はただ明日を期する事なかれ。今日今時ばかり、仏に随って行じゆくべきなり。(5-8)

 

125汚れの無い人、清くて咎のない人をそこなう者がいるならば、そのわざわいは、かえってその浅はかな人に至る。風にさからって細かい塵を投げると、(その人にもどって来る)ように。

道元―学道の用心、本執を放下すべし。身の威儀を改むれば、心も随って転ずるなり。先ず律儀の戒行を守らば、心も随って改まるべきなり。(1-5)

 

126或る人々は[人の]胎に宿り、悪をなした者どもは地獄に墜ち、行ないの良い人々は天におもむき、汚れの無い人々は全き安らぎに入る。

道元―仏祖の行道は必ず衆善の集まる所なり。諸法皆仏法なりと体達しつる上は、悪は決定悪にて仏祖の道に遠ざかり、善は決定善にて仏道の縁となる。(4-8)

 

127 大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の奥深いところに入っても、およそ世界のどこにいても、悪業から脱れることのできる場所は無い。

道元―志の到らざる事は、無常を思はざるに依るなり。念々に死去す、畢竟暫くも止らず。(1-7)

 

128大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の洞窟に入っても、およそ世界のどこにいても、死の脅威のない場所は無い。

道元― 如来在世に外道多く如来を謗じ悪むも有りき。仏弟子問うて云く、「本より柔和を本とし慈を心とす。一切衆生等しく恭敬すべし。何の故にか是のごとく随はざる衆生有る」仏言く、「我れ昔衆を領ぜし時、多く呵責羯磨をもて弟子をいましめき。是れに依つて今是のごとし」と。律中に見えたり。(4-6)

 

第十章 鞭

 

129すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。已が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺させてはならぬ。

道元―昔恵心僧都、一日庭前に草を食する鹿を人をして打ちおはしむ。時に人有り、問うて云く、「師、慈悲なきに似たり。草を惜しんで畜生を悩ます。」僧都云く、「我れ若し是れを打たずんば、この鹿、人に馴れて悪人に近づかん時、必ず殺されん。この故に打つなり」と。鹿を打つは慈悲なきに似たれども、内心の道理、慈悲余れる事是のごとし。(1-7)

 

130すべての者は暴力におびえ、すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。已が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺させてはならぬ。

道元―小人と云ふは、いささか人のあらき言に即ち腹立して、恥辱を思ふなり。大人はしかあらず。たとひ打つたりとも報を思はず。(5-12)

 

131生きとし生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害するならば、その人は自分の幸せをもとめていても、死後には幸せが得られない。

132生きとし生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害しないならば、その人は自分の幸せをもとめているが、死後には幸せが得られる。

道元―学道の人、各自ら己が身を顧みるべし。身を顧みると云ふは、身心何やうに持つべきぞと顧みるべし。然るに衲子は、則ち是れ釈子なり。如来の風儀を慣ふべきなり。身口意の威儀、皆千仏行じ来れる作法あり。各その儀に随ふべし。(1-8)

 

 

133荒々しいことばを言うな。言われた人々は汝に言い返すであろう。怒りを含んだことばは苦痛である。報復が汝の身に至るであろう。

134こわれた鐘のように、声をあらげないならば、汝は安らぎに達している。汝はもはや怒り罵ることがないからである。

道元―施恩は報をのぞまず、人に与えておうて悔ゆる事なかれ。口を守る事鼻のごとくすれば、万禍及ばず。と云えり。(6-20)

 

135牛飼いが棒をもって牛どもを牧場に駆り立てるように、老いと死とは生きとし生けるものどもの寿命を駆り立てる。

道元― 身の病者なれば、病を治して後に好く修行せんと思はば、無道心の致す処なり。四大和合の身、誰か病なからん。古人必ズしも金骨にあらず。ただ志の到りなれば、他事を忘れて行ずるなり。大事身に来れば小事は覚えぬなり。仏道を大事と思うて、一生に窮めんと思うて、日々時々を空しく過ごさじと思ふべきなり。(1-6)

 

136しかし愚かな者は、悪い行ないをしておきながら、気がつかない。浅はかな愚者は自分自身のしたことによって悩まされる。火に焼きこがれた人のように。

道元―まさにしるべし、今生のわが身、ふたつなしみつなし。いたづらに邪見におちて、むなしく悪業を感得せん、をしからざらんや。悪をつくりながら悪にあらずとおもひ、悪の報あるべからずと邪思惟するによりて、悪報の感得せざるにはあらず。(『正法眼蔵』「三時業」)

 

137−140 手むかうことなく罪咎の無い人々に害を加えるならば、次に挙げる十種の場合のうちのどれかに速やかに出会うであろう、(1)激しい痛み、(2)老衰、(3)身体の傷害、(4)重い病い、(5)乱心、(6)国王からの災い、(7)恐ろしい告げ口、(8)親族の滅亡と、(9)財産の損失と、(10)その人の家を火が焼く。この愚かな者は、身やぶれてのちに、地獄に生まれる。

道元―世人を見るに、財有る人は先づ瞋恚恥辱の二難定って来るなり。財有れば人是れを奪ひ取らんと欲ふ。我れは取られじと欲る時、瞋恚忽に起る。あるいは之れを論じて問注対決に及び、遂には闘諍合戦を致す。是のごとくの間に、瞋恚起り恥辱来るなり。貧にして而も貪らざる時は、先ずこの難を免る。安楽自在なり。(4-4)

 

141裸の行も、髻に結うのも、身が泥にまみれるのも、断食も、露地に臥すのも、塵や泥を身に塗るのも、蹲って動かないのも、疑いを離れていない人を浄めることはできない。

道元―行道の居所等を支度し、衣鉢等を調へて後に行ゼんと思ふ事なかれ。貧窮の人、世をわしらざれ。衣鉢の資具乏しくして死期日々に近づくは、具足を待って、処を待って行道せんと思ふほどに、一生空しく過ごすべきおや。ただ衣鉢等なくんば、在家も仏道は行ずるぞかしと思うて行ずべきなり。また衣鉢等はただあるべき僧躰の荘なり。実の仏道は其れにもよらず。得来らばあるに任ずべし。あながちに求むる事なかれ。ありぬべきをもたじと思ふべからず。(1-6)

 

142 身の装いはどうあろうとも、行ない静かに、心おさまり、身をととのえて、慎みぶかく、行ない正しく、生きとし生けるものに対して暴力を用いない人こそ、<バラモン>とも、<道の人>とも、また<托鉢遍歴僧>ともいうべきである。

道元―釈迦如来、牧牛女が乳の粥を得ても食し、馬麦を得ても食す。何も(ひ)としくす。

 法に軽重なし。情愛に浅深あり。(6-12)

 

143 みずから恥じて自己を制し、良い馬が鞭を気にかけないように、世の非難を気にかけない人が、この世に誰か居るだろうか? 

144 鞭をあてられた良い馬のように勢いよく努め励めよ。信仰により、戒しめにより、はげみにより、精神統一により、真理を確かに知ることにより、知慧と行ないを完成した人々は、思念をこらし、この少なからぬ苦しみを除けよ。

道元―大恵禅師の云く、「学道はすべからく人の千万貫銭をおへらんが、一文をももたざらん時、せめら(れ)ん時の心のごとくすべし。若しこの心有らば、道を得る事易し」と云へり。(6-18)

 

145 水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯め、大工は木材を矯め、慎しみ深い人々は自己をととのえる。

道元―事皆先証あり。敢て私曲を存ずるにあらず。西天東地の仏祖皆是のごとし。私に活計を至さん。(5-11)

 

第十一章 老い

 

146 何の笑いがあろうか。何の歓びがあろうか?世間は常に燃え立っているのに。汝らは暗黒に覆われている。どういて燈明を求めないのか?

道元―無道心の学人は、即ちあしざまにひきなされて、魔の眷属と成るなり。(3-8)

 

147 見よ、粉飾された形体を!(それは)傷だらけの身体であって、いろいろのものが集まっただけである。病いに悩み、意欲ばかり多くて、堅固でなく、安住していない。

道元― 学道の人、すべからく寸陰を惜しむべし。露命消えやすし、時光すみやかに移る。暫く存ずる間に余事を管ずる事無く、ただすべからく道を学すべし。(6-9)

 

148 この容色は衰えはてた。病いの巣であり、脆くも滅びる。腐敗のかたまりで、やぶれてしまう。生命は死に帰着する。

道元―一期は夢のごとし。光陰移り易し。露の命は待ちがたう。(4-3)

 

149  秋に投げすてられた瓢箪のような、鳩の色のようなこの白い骨を見ては、なんの快さがあろうか?

道元― 我が身下賤にして人におとらじと思ひ、人にすぐれんと思はば慢心のはなはだしきものなり。(6-23)

 

150  骨で城がつくられ、それに肉と血とが塗ってあり、老いと死と高ぶりとごまかしとがおさめられている。

道元―生死事大なり、無常迅速なり、心をゆるくする事なかれ。世をすてば実に世を捨つべきなり。仮名は何にてもありなんとおぼゆるなり。(4-2)

 

151 いとも麗しい国王の車も朽ちてしまう。身体もまた老いに近づく。しかし善い立派な人々の徳は老いることがない。善い立派な人々は互いにことわりを説き聞かせる。

道元―破戒なりとも還得受せば清浄なるべし。懺悔すれば清浄なり。(2-4)

 

152 学ぶことの少ない人は、牛のように老いる。かれの智慧は増えない。

道元―況んや無道心の人も、一度二度こそつれなくとも、度々重なれば、霧の中を行く人の、いつぬるるとおぼえざれども、自然に恥る心もおこり、真の道心も起るなり。故に、知りたる上にも聖教をまたまた見るべし、聞くべし。師の言も、聞きたる上にも聞きたる上にも重ね重ね聞くべし。弥深き心有るなり。(6-15)

 

153 わたくしは幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐって来た、家屋の作者(つくりて)をさがしもとめて。あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。

154 、 家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。

道元―恩愛を、今生人身を受けて仏教に遇へる時捨てたらば、真実報恩者の道理、何ぞ仏意に叶はざらん哉。(4-10)

 

155  若い時に、財を獲ることなく、清らかな行ないをまもらないならば、魚のいなくなった池にいる白鷺のように、痩せて滅びてしまう。

156  若い時に、財を獲ることなく、清らかな行ないをまもらないならば、壊れた弓のようによこたわる。昔のことばかり思い出してかこちながら。

道元―ただ暫くも存じたるほど、聊かの事につけても人のためによく、仏意に順はんと思ふべきなり。(4-3)

 

第十二章 自己

 

157 もしもひとが自己を愛しいものと知るならば、自己をよく守れ。賢い人は、夜の三つの区分のうちの一つだけでも、つつしんで目ざめておれ。

道元―所謂出家と云ふは、先づ吾我名利をはなるべきなり。是れをはなれずしては、行道頭燃をはらひ、精進手足をきれども、ただ無理の勤苦のみにて、出離にあらざるも有り。(6-21)

 

158  先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むひとが無いであろう。

道元―俗なほ「服、法に応じ、言、道に随ふべし」と云へり。一切私を用ふるべからず。(1-8)

 

159  他人に教えるとおりに、自分で行なえ。自分をよくととのえた人こそ、他人をととのええるであろう。自己は実に制し難い。

道元―道者は内外を論ぜず明暗を択ばず、仏制を心に存して、人の見ず知らざればとて、悪事を行ずべからざるなり。(3-10)

 

160  自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。

道元―学道の人は吾我のために仏法を学する事なかれ。ただ仏法のために仏法を学すべきなり。その故実は、我が身心を一物ものこさず放下して、仏法の大海に廻向すべきなり。(6-2)

 

161  自分がつくり、自分から生じ、自分から起った悪が智慧悪しき人を打ちくだく。金剛石が宝石を打ちくだくように。

道元―衲子の用心、仏祖の行履を守るべし。第一には財宝を貪るべからず。(4-7)

 

162  極めて性の悪い人は、仇敵がかれの不幸を望むとおりのことを、自分に対してなす。蔓草(つるくさ)が沙羅の木にまといつくように。

道元―たとへば藍にそめたる物はあをく、檗にそめたるものは〈黄〉なるがごとくに、邪命食をもてそめたる身心は即ち邪命身なり。この身心をもて仏法をのぞまば、沙をおして油をもとむるがごとし。(6-22)

 

163  善からぬこと、己れのためにならぬことは、なし易い。ためになること、善いことは、実に極めてなし難い。

道元―行者もし思惟それ善なれば、悪すなはち滅す。それ悪思惟すれば、善すみやかに滅するなり。(『正法眼蔵』「三時業」)

 

164  愚かにも、悪い見解にもとづいて、真理に従って生きる真人・聖者たちの教えを罵るならば、その人は悪い報いが熟する。カッタカという草は果実が熟すると自分自身が滅びてしまうように。

道元― あきらかにしるべし、撥無因果は招殃禍なるべし。往代は古徳ともに因果をあきらめたり、近世には晩進みな因果にまどへり。いまのよなりといふとも、菩提心いさぎよくして、仏法のために仏法を修学せんともがらは、古徳のごとく因果をあきらむべきなり。因なし、果なしといふは、すなはちこれ外道なり。(『正法眼蔵』「深信因果」)

 

165 みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない。

道元―他のそしりにあはず、他のうらみにあはず、いかでか我が道を行ぜん。徹得困の者、是れを得べし。(6-17)

 

166  たとい他人にとっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ。

道元―今の学人も、あるいは父母のため、あるいは師匠のために、無益の事を行じて、徒らに時を失ひ、勝れたる道を指おきて、光陰をすぐす事なかれ。(6-13)

 

第十三章 世界

 

167 下劣なしかたになじむな。怠けてふわふわと暮らすな。邪な見解をいだくな。世俗のわずらいをふやすな。

道元― 古人云く、「智者の辺にしてはまくるとも、愚人の辺にしてかつべからず」と。我が身よく知りたる事を、人のあしく知りたりとも、他の非を云ふはまた是れ我が非なり。法文を云ふとも、先人の愚をそしらず、また愚癡、未発心の人のうらやみ卑下しつべき所にては、能々是れを思ふべし。(6-23)

 

168 奮起せよ。怠けてはならぬ。善い行いのことわりを実行せよ。ことわりに従って行なう人は、この世でも、あの世でも、安楽に臥す。

169  善い行ないのことわりを実行せよ。悪い行ないのことわりを実行するな。ことわりに従って行なう人は、この世でも、あの世でも、安楽に臥す。

道元―但し、是れは土風に順って斟酌有るべし。なにとしても、利生も広く、我が行も進むかたに就くベきなり。是れ等の作法、道路不浄にして、仏衣を着けて行歩せば穢つべし。また人民貧窮にして次第乞食も叶ふべからず。行道も退くべし、利益も広からざる歟。ただ土風を守って、尋常に仏道を行じ居たらば、上下の輩自ら供養を作すべし。自行化他成就せん。(2-17)

 

170  世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない

道元真実志を至して随分に参学する人、また得ずと云ふ事無きなり。その用心のやう、何事を専らにし、その行を急にすべしと云ふ事は次の事なり。先づ欣求の志の切なるべきなり。たとへば重き宝をぬすまんと思ひ、強き敵をうたんと思ひ、高き色にあはんと思ふ心あらん人は、行住坐臥、事にふれをりにしたがひて、種々の事はかはり来れども、其れに随ひて隙を求め、心に懸くるなり。この心あながちに切なるもの、とげずと云ふ事なきなり。(3-11)

 

171 さあ、この世の中を見よ。王者の車のように美麗である。愚者はそこに耽溺するが、心ある人はそれに執著しない。

道元―この言、亦ただ仮令に観法なんどにすべき事にあらず。また無き事を造って思ふべき事にもあらず。真実の眼前の道理なり。人のをしへ、聖教の文、証道の理を待つべからず。(3-11)

 

172 また以前は怠りなまけていた人でも、のちに怠りなまけることが無いなら、その人はこの世の中を照らす。あたかも雲を離れた月のように。

道元―学道の人、自解を執する事なかれ。(5-1)

 

173  以前には悪い行ないをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす。雲を離れた月のように。

道元―在世の比丘必ずしも皆勝れたるにあらず。不可思議に希有に浅増しき心〈根〉、下根なるもあり。仏、種々の戒法等をわけ給ふ事、皆わるき衆生、下根のためなり。人々皆仏法の機なり。非器なりと思ふ事なかれ。依行せば必ず得ベきなり。(5-8)

 

174 この世の中は暗黒である。ここではっきりと(ことわりを)見分ける人は少ない。網から離れた鳥のように、天に至る人は少ない。

道元―是れほどの心発さずして、仏道と云ふほどの一念に生死の輪廻をきる大事をば如何が成ぜん。若しこの心有らん人は、下知劣根をも云はず、愚鈍悪人をも謂はず、必ず悟道すべきなり。またこの志を発さば、ただ世間の無常を思ふべきなり。(3-11)

 

175 白鳥は太陽の道を行き、神通力による者は虚空(そら)を行き、心ある人々は、悪魔とその軍勢にうち勝って世界から連れ去られる。

道元― これをまた四如意足といふ、無躊躇なり。釈迦牟尼仏言、未運而到名如意足。しかあればすなはち、ときこと、きりのくちのごとし。方あること、のみのはのごとし。(『正法眼蔵』―三十七品菩提分法))

 

176  唯一なることわりを逸脱し、偽りを語り、彼岸の世界を無視している人は、どんな悪でもなさないものは無い。

道元―なほ利をすてて一切へつらふ事なく、万事なげすつれば、必ずよき僧となるなり。(6-2)

 

177  物惜しみする人々は天の神々の世界におもむかない。愚かな人々は分かちあうことをたたえない。しかし心ある人は分かちあうことを喜んで、そのゆえに来世には幸せとなる

道元仏菩薩は、人の来って云ふ時は、身肉手足をも斬るなり。況んや人来って一通の状を乞はん、少分の悪事の名聞ばかりを思うてその事を聞かざらんは我執の咎なり。人は「ひじりならず、非分の要事云ふ人かな」と、所詮無く思ふとも、我れは名聞を捨て、一分の人の利益とならば、真実の道に相応すべきなり。(2-16)

 

178 大地の唯一の支配者となるよりも、全世界の主権者となるよりも、聖者の第一階梯(預流果)のほうがすぐれている。

道元―譬へば舟に乗りて行くには、故実を知らず、ゆくやうを知らざれども、よき船師にまかせて行けば、知りたるも知らざるも彼岸に到るがごとし。善知識に随って衆と共に行じて私なければ、自然に道人なり。(1-5)

 

第十四章 仏

 

179  ブッダの勝利は敗れることがない。この世においては何人も、かれの勝利には達しえない。ブッダの境地はひろくて涯しがない。足跡をもたないかれを、いかなる道によって誘い得るであろうか?

180 誘なうために網のようにからみつき執著をなす妄執は、かれにはどこにも存在しない。ブッダの境地は、ひろくて涯しがない。足跡をもたないかれを、いかなる道によって誘い得るであろうか?

道元―世間の男女老少、多く雑談の次で、あるいは交会淫色等の事を談ず。是れを以て心を慰めんとし興言とする事あり。一旦心も遊戯し、徒然も慰むと云ふとも、僧は尤も禁断すべき事なり。俗なほよき人、実しき人の、礼儀を存じ、げにげにしき談の時出来らぬ事なり。ただ乱酔放逸なる時の談なり。況んや僧は、専ら仏道を思ふべし。(2-14)

 

181  正しいさとりを開き、念いに耽り、瞑想に専中している心ある人々は世間から離れた静けさを楽しむ。神々でさえもかれを羨む。

道元― 坐はすなわち仏行なり。坐は即ち不為なり。是れ即ち自己の正躰なり。この外別に仏法の求むべき無きなり。(3-18)

 

182 人間の身を受けることは難しい。死すべき人々に寿命があるのも難しい。正しい教えを聞くのも難しい。もろもろのみ仏の出現したもうことも難しい。

道元―広劫多生の間、幾回か徒らに生じ、徒らに死せし。まれに人界に生まれて、たまたま仏法に逢ふ時、何にしても死に行くべき身を、心ばかりに惜しみ持つとも叶ふべからず。(3-13)

 

183 すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、これが諸の仏の教えである。

184 忍耐・堪忍は最上の苦行である。ニルヴァーナは最高のものであると、もろもろブッダは説きたもう。他人を害する人は出家者ではない。他人を悩ます人は<道の人>ではない。

185 罵らず、害わず、戒律に関しておのれを守り、食事に関して(適当な)量を知り、淋しいところにひとり臥し、坐し、心に関することにつとめはげむ。これがもろもろのブッダの教えである。

道元―学人祖道に随はんと思はば必ず善根をかろしめざれ。信教を専らにすべし。仏祖の行道は必ず衆善の集まる所なり。(4-8)

道元―みちを存ぜんと思ふ人は、山に入り水にあき、さむきを忍び餓えをも忍ぶ。先人くるしみ無きにあらず。是れを忍びてみちを守ればなり。(5-5)

道元―「叢林の勤学の行履と云ふは如何。」只管打坐なり。あるいは閣上、あるいは楼下にして常坐をいとなむ。人に交はり物語をせず、聾者のごとく唖者のごとくにして常に独坐を好むなり。(6-11)

 

186 たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。「快楽の味は短くて苦痛である」としるのが賢者である。

187 天上の快楽にさえもこころ楽しまない。正しく覚った人(仏)の弟子は妄執の消滅を楽しむ。

道元―而るを、愚人と為財宝を貯はへ、瞋恚を懐き、愚人と成らん事、恥辱の中の恥辱なり。貧にして而も道を思ふ者は先賢後聖之仰ぐ所、仏祖冥道之喜ぶ所なり。(4-4)

 

188 人々は恐怖にかられて、山々、林、園、樹木、霊樹など多くのものにたよろうとする。

189  しかしこれは安らかなよりどころではない。これは最上のよりどころではない。それらのよりどころによってはあらゆる苦悩から免れることはできない。

190 、191 さとれる者(仏)と真理のことわり(法)と聖者の集い(僧)とに帰依する人は、正しい知慧をもって、四つの尊い真理を見る。すなわち(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、(3)苦しみの超克と、(4)苦しみの終減におもむく八つの尊い道(八正道)とを(見る)。

 

192 これは安らかなよりどころである。これは最上のよりどころである。このよりどころにたよってあらゆる苦悩から免れる。

道元―内心に信心をもて敬礼すれば、必ず顕福を蒙るなり。破戒無慚の僧なれば、疎相麁品の経なればとて、不信無礼なれば必ず罰を被るなり。しかあるべき如来の遺法にて、人天の福分となりたる仏像・経卷・僧侶なり。故に帰敬すれば益あり、不信なれば罪を受くるなり。何に希有に浅増くとも、三宝の境界をば恭敬すべきなり。(4-8)

 

193  尊い人(ブッダ)は得がたい。かれはどこにでも生れるのではない。思慮深い人(ブッダ)の生れる家は、幸福に栄える。

道元―一子出家すれば七世の〈親〉得道すと見えたり。何ぞ一世の浮生の身を思つて永劫安楽の因を空しく過ごさんやと云ふ道理もあり。是れを能々自らはからふべし。(4-10)

 

194 もろもろの仏の現われたもうのは楽しい。正しい教えを説くのは楽しい。つどいが和合しているのは楽しい。和合している人々がいそしむのは楽しい。

道元―俗人なほ家をもち城を守るに同心ならでは終に亡ぶと云へり。況んや出家人は、一師にして水乳の和合せるがごとし。また六和敬の法あり。(5-9)

 

195 、196 すでに虚妄な論議をのりこえ、憂いと苦しみをわたり、何ものをも恐れず、安らぎに帰した、拝むにふさわしいそのような人々、もろもろのブッダまたその弟子たちを供養するならば、この功徳はいかなる人でもそれを計ることができない。

道元―仏像舎利は如来の遺骨なれば恭敬すべしといへども、また一へに是れを仰ぎて得悟すべしと思はば、還って邪見なり。天魔毒蛇の所領と成る因縁なり。仏説に功徳あるべしと見えたれば、人天の福分と成る事、生身と斉し。惣て三宝の境界、恭敬すれば罪滅し功徳を得る事、悪趣の業をも消し、人天の果をも感ずる事は実なり。是れによりて仏の悟りを得たりと執するは僻見なり。仏子と云ふは、仏教に順じて、直に仏位に到らんためには、ただ教に随って功夫弁道すべきなり。(2-1)

 

第十五章 安楽

 

197怨みをいだいている人々のあいだにあって怨むこと無く、われらは大いに楽しく生きよう。

怨みをもっている人々のあいだにあって怨むこと無く、われらは暮らしていこう。

198悩める人々のあいだにあって、悩み無く、大いに楽しく生きよう。悩める人々のあいだにあって、悩み無く暮そう。

199貪っている人々のあいだにあって、患い無く、大いに楽しく生きよう。貪っている人々のあいだにあって、むさぼらないで暮らそう。

道元―「倉の鼠食に飢ゑ、田を耕す牛の草に飽かず」と云ふ意は、財の中に有れども必ずしも食に飽かず、草の中に栖めども草に飢うる。人も是のごとし。仏道の中にありながら、道に合ざるものなり。希求の心止まざれば、一生安楽ならざるなり。(1-7)

 

200 われわれは一物をも所有していない。大いに楽しく生きて行こう。光り輝く神々のように、喜びを食(は)む者となろう。

道元―学道の人、衣粮を煩はす事なかれ。ただ仏制を守って、心を世事に出す事なかれ。仏言く、「衣服に糞掃衣あり、食に常乞食あり」と。何れの世にかこの二事尽くる事有らん。無常迅速なるを忘れて徒らに世事に煩ふ事なかれ。露命の暫く存ぜる間、ただ仏道を思うて余事を事とする事なかれ。(2-13)

 

201 勝利からは怨みが起る。敗れた人は苦しんで臥す。勝敗をすてて、やすらぎに帰した人は、安らかに臥す。

道元―何の暇にか人と諍論すべき。畢竟じて自他ともに無益なり。何に況んや世間の事においては、無益の論をすべからず。君子の力は牛にもすぐれたり。しかれども牛と相ひ争はず。我れ法を知れり、彼れにすぐれたりと思ふとも、論じて彼を難じ負かすべからず。(6-8)

 

202 愛欲にひとしい火は存在しない。博打に負けるとしても、増悪にひとしい不運は存在しない。このかりそめの身に等しい苦しみは存在しない。安らぎに優る楽しみは存在しない。

道元―出家人は財物なければ智恵功徳をもて宝とす。(5-12)

 

203 飢えは最大の病いであり、形成せられる存在(わが身)は最もひどい苦しみである。このことわりをあるがままに知ったならば、ニルヴァーナという最上の楽しみがある。

道元― 僧正答ヘて云く、「実に然るなり。但し、仏意を思ふに、身肉手足も分って衆生に施すべし。現に餓死すべき衆生には、直饒全躰を以て与ふとも仏意に叶ふべし。また我れこの罪に依っテ縦悪趣に堕すべくとも、ただ衆生ノ餓えを救ふべし」云々。先達の心中のたけ、今の学人も思ふべし、忘るる事なかれ。(3-2)

 

204 健康は最高の利得であり、満足は最上の宝であり、信頼は最高の知己であり、ニルヴァーナは最上の楽しみである。

道元―暫くも存ぜる間、時光を虚しくすごす事なかれ。(1-7)

 

205 孤独(ひとりい)の味、心の安らぎの味をあじわったならば、恐れも無く、罪過も無くなる、真理の味をあじわいながら。

道元―思ひ切って昼夜端坐せしに、一切に病作らず。如今各々も一向に思ひ切って修して見よ。十人は十人ながら得道すべきなり。(2-11)

 

206もろもろの聖者に会うのは善いことである。かれらと共に住むのはつねに楽しい。愚かなる者どもに会わないならば、心はつねに楽しいであろう。

207 愚人とともに歩む人は長い道のりにわたって憂いがある。愚人と共に住むのは、つねにつらいことである。仇敵とともに住むように。心ある人と共に住むのは楽しい。親族に出会うように。

208よく気をつけていて、明らかに智慧あり、学ぶところ多く、忍耐づよく、戒めをまもる、そのような立派な聖者・善き人、英知ある人に親しめよ。月がもろもろの星の進む道にしたがうように。

道元―いかにも本よりあしき心なりとも、善知識にしたがひ、良き人の久しく語るを聞けば、自然に心もよくなるなり。悪人にちかづけば、我が心にわるしと思へども、人の心に暫く随ふほどに、やがて真実にわるくなるなり。(6-15)

 

第十六章 愛するもの

 

209 道に違(たご)うたことになじみ、道に順(したが)ったことにいそしまず、目的を捨てて快いことだけを取る人は、みずからの道に沿って進む者を羨むに至るであろう。

210 愛する人と会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。

211それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらわしの絆が存在しない。

道元―今時の人、あるいは父母の恩すてがたしと云ひ、あるいは主君の命そむきがたしと云ひ、あるいは妻子の情愛離れがたしと云ひ、あるいは眷属等の活命我れを存じがたしと云ひ、あるいは世人謗つべしと云ひ、あるいは貧しうして道具調へがたしと云ひ、あるいは、非器にして学道にたへじと云ふ。是のごとき等の世情をめぐらして、主君父母をもはなれず、妻子眷属をもすてず、世情にしたがひ、財色ろ貪るほどに、一生虚しく過ごして、まさしく命の尽くる時にあたって後悔すべし。(6-9)

 

212愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?

道元―学道の人は先づすべからく貧なるべし。財多ければ必ずその志を失ふ。在家学道の者、なほ財宝にまとはり、居所を貪り、眷属に交はれば、直饒その志ありと云へども障道の縁多し。(4-9)

 

213愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生ずる。愛情を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?

道元―一人のためにうしなひやすき時を空しくすぐさん事、仏意にかなふべからず。(6-13)

 

214快楽から憂いが生じ、快楽から恐れが生じる。快楽を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?

道元―俗人の云く、「財はよく身を害す。昔も之れ有り、今も之レ有リ」と。言ふこころは、昔一人の俗人あり。一人の美女をもてり。威勢ある人これを〈請〉ふ。かの夫、是れを惜しむ。終に軍を興してかこめり。彼のいへ既にうばひとられんとする時、かの夫(云く)「なんぢがために命をうしなふべし」かの女云く、「我れ汝がために命をうしなわん。」と云って、高楼よりおちて死にぬ。その後、かの夫うちもらされて、命遁れし時いひし言なり。(6-3)

 

215 欲情から憂いが生じ、欲情から恐れが生じる。欲情を離れたならば、憂いは存しない。どうして恐れることがあろうか。

道元―人多く遁世せざる事は、我身を貪るに似て我身を思はざるなり。是れ即ち遠慮無きなり。また是れ善知識に逢はざるに依るなり。(3-12)

 

216妄執から憂いが生じ、妄執から恐れが生じる。妄執を離れたならば、憂いは存しない。どうして恐れることがあろうか。

道元仏道に入りては仏道のために諸事を行じて、代りに所得あらんと思ふべからず。(2-7)

 

217 徳行と見識とをそなえ、法にしたがって生き、真実を語り、自分のなすぺきことを行なう人は、人々から愛される。

道元―皆よき仏法者と云ふは、あるいは布衲衣、常乞食なり。禅門によき僧と云はれはじめおこるも、あるいは教院、律院等に雑居せし時も、禅僧の異をば身をすて貧人なるを以て異せりとす。(4-7)

 

218ことばで説き得ないもの(ニルヴァーナ)に達しようとする志を起し、意(おもい)はみたされ、諸の愛欲に心の礙げられることのない人は、(流れを上る者)とよばれる。

道元―ただ身心を仏法になげすてて、更に悟道得法までものぞむ事なく修行しゆく、是れを不染汚の行人と云ふなり。「有仏の処にもとどまらず、無仏の処をもすみやかにはしりすぐ」と云ふ、このこころなるべし。(6-21)

 

219久しく旅に出ていた人が遠方から無事に帰って来たならば、親戚・友人・親友たちはかれが帰って来たのを祝う。

220そのように善いことをしてこの世からあの世に行った人を善業が迎え受ける。親族が愛する人が帰って来たのを迎え受けるように。

道元―中々唐土よりこの国の人は無理に人を供養じ、非分に人に物を与ふる事有るなり。先づ人はしらず、我れはこの事を行じて道理を得たるなり。一切一物も思ひあてがふ事もなくて、十年余過ぎ送りぬ。一分も財をたくはへんと思ふこそ大事なれ。僅の命を送るほどの事は、何とも思ひ畜へねども、天然として有るなり。(4-9)

 

第十七章 怒り

 

221 怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。名称と形態とにこだわらず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない。

道元― 我をはなると云ふは、我が身心をすてて、我がために仏法を学する事無きなり。ただ道のために学すべし。(6-10)

 

222走る車をおさえるようにむらむらと起る怒りをおさえる人、かれをわれは<御者>とよぶ。他の人はただ手綱を手にしているだけである。(<御者>とよぶにはふさわしくない。)

道元―悪口をもて僧を呵嘖し、毀呰する事なかれ。悪人不当なりと云ふとも、左右無く悪毀る事なかれ。(2-5)

 

223怒らないことによって怒りにうち勝て。善いことによって悪いことにうち勝て。わかち合うことによって物惜しみにうち勝て。真実によって虚言の人にうち勝て。

道元―直饒我れを殺さんとしたる人なりとも、真実の道を聞かんと、真の心を以て問はんには、怨心を忘れて為に是れを説くべきなり。(3-9)

 

224 真実を語れ。怒るな。請われたならば、乏しいなかから与えよ。これらの三つの事によって(死後には天の)神々のもとに至り得るであろう。

道元―人、法門を問ふ、あるいは修行の方法を問ふ事あらば、衲子はすべからく実を以て是れを答ふべし。(1-8)

 

225生きものを殺すことなく、つねに身をつつしんで聖者は、不死の境地(くに)におもむく。そこに至れば、憂えることがない。

道元―縦ひ古人の語話を窮め、常坐鉄石のごとくなりと雖も、この身に著じて離れざラらん者、万劫千生仏祖の道を得べからず。(5-2)

 

226ひとがつねに目ざめていて、昼も夜もつとめ学び、ニルヴァーナを得ようとめざしているならば、もろもろの汚れは消え失せる。

道元― 然れば、明日死に、今夜死ぬべしと思ひ、あさましき事に逢うたる思ひをなして切にはげみ、志をすすむるに、悟りをえずと云ふ事無きなり。(3-17)

 

227アトゥラよ。これは昔にも言うことであり、いまに始まることでもない。沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。世に非難されない者はいない。

228ただ誹られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、現在にもいない。

229もしも心ある人が日に日に考察して、「この人は賢明であり、行ないに欠点がなく、智慧と徳行とを身にそなえている」といって称讃するならば、

230その人を誰が非難し得るだろうか?かれはジャンブーナダ河から得られる黄金でつくった金貨のようなものである。神々もかれを称讃する。梵天でさえもかれを称讃する。

道元―唐の太宗の時、魏徴奏して云く、「土民、帝を謗ずる事あり」帝の云く、「寡人仁あって人に謗ぜられば愁と為すべからず。仁無くして人に褒らればこれを愁ふべし」と。俗なほ是のごとし。僧は尤もこの心有るべし。(3-3)

 

231身体がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。身体について慎んでおれ。身体による悪い行ないを捨てて、身体によって善行を行なえ。

232 ことばがむらむらするのを、まもり落ち着けよ。ことばについて慎んでおれ。語(ことば)による悪い行ないを捨てて、語によって善行を行なえ。

233心がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。心について慎んでおれ。心による悪い行ないを捨てて、心によって善行を行なえ。

234落ち着いて思慮ある人は身をつつしみ、ことばをつつしみ、心をつつしむ。このようにかれれれらは実によく己れをまもっている。

道元―仏法陵遅し行く事眼前に近し。予、始め建仁寺に入りし時見しと、後七八年に次第にかはりゆく事は、寺の寮々に各々塗籠をし、器物を持ち、美服を好み、財物を貯へ、放逸之言語を好み、問訊、礼拝等陵遅する事を以て思ふに、余所も推察せらるるなり。仏法者は衣鉢の外は財をもつべからず。何を置かんために塗籠をしつらふべきぞ。人にかくすほどの物を持つべからざるなり。(4-4)

 

第十八章 垢

 

235汝はいまや枯葉のようなものである。閻魔王の従卒もまた汝はいま死出の門路に立っている。しかし汝には資糧(かて)さえも存在しない。

236だから、自己のよりどころをつくれ。すみやかに努めよ。賢明であれ。汚れをはらい、罪過がなければ、天の尊い処に至るであろう。

237 汝の生涯は終りに近づいた。汝は、閻魔王の近くにおもむいた。汝には、みちすがら休らう宿もなく、旅の資糧も存在しない。

238 だから、自己のよりどころをつくれ。すみやかに努めよ。賢明であれ。汚れをはらい、罪過がなければ、汝はもはや生と老いとに近づかないであろう。

道元―修行して未だ契はざる先に死せば、好き結縁として生を仏家にも受くべし。修行せずして身を久しく持つても詮無きなり。何の用ぞ。(2-11)

 

239 聡明な人は順次に少しずつ、一刹那ごとに、おのが汚れを除くべし、鍛冶工が銀の汚れを除くように。

道元―学道の用心と云ふは、我が心にたがへども、師の言、聖教のことばならば、暫く其れに随って、本の我見をすてて改めゆく。(6-14)

 

240 鉄から起った錆が、それから起ったのに、鉄自身を損なうように、悪をなしたならば、自分の業が罪を犯した人を悪いところ(地獄)にみちびく。

道元―衲子の行履、旧損の衲衣等を綴り補うて捨てざれば物を貪惜するに似たり。旧を捐て、当るに随ってすぐせば、新しきを貪惜する心有り。二つながら咎あり。いかん。問うて云く、畢竟じて如何が用心すべき。答ヘて云く、貪惜貪求の二をだにもはなるれば、両頭倶に失無からん。(3-15)

 

241 読誦しなければ聖典が汚れ、修理しなければ家屋が汚れ、身なりを怠るならば容色が汚れ、なおざりになるならば、つとめ慎しむ人が汚れる。

道元―念々に明日を期する事なかれ。当日当時許と思うて、後日は甚だ不定なり、知り難ければ、ただ今日ばかりも身命の在らんほど、仏道に順ぜんと思ふべきなり。(2-17)

 

242 不品行は婦女の汚れである。もの惜しみは、恵み与える人の汚れである。悪事は、この世においてもかの世においても(つねに)汚れである。

243この汚れよりもさらに甚だしい汚れがある。無明こそ最大の汚れである。修行僧らよ。この汚れを捨てて、汚れ無き者となれ。

道元―学人初心の時、道心有っても無くても、経論聖教等よくよく見るべく、学ぶべし。我れ初めてまさに無常によりて聊か道心を発し、あまねく諸方をとぶらひ、終に山門を辞して学道を修せしに、建仁寺に寓せしに、中間に正師にあはず、善友なきによりて、迷って邪念をおこしき。(5-7)

 

244恥をしらず、烏のように厚かましく、図々しく、ひとを責め、大胆で、心のよごれた者は、生活し易い。

245 恥を知り、常に清きをもとめ、執著をはなたれ、つつしみ深く、真理を見て清く暮す者は、生活し難い。

道元―所詮は事に触れて名聞我執を捨つべきなり。(2-16)

 

246 、247 生きものを殺し、虚言(いつわり)を語り、世間において与えられないものを取り、他人の妻を犯し、穀酒・果実酒に耽溺する人は、この世において自分の根本を掘りくずす人である。

248 人よ。このように知れ、慎みがないのは悪いことである。貪りと不正とのゆえに汝がながく苦しみを受けることのないように。

道元坐禅の時何れの戒か持たれざる、何れの功徳か来らざる。古人の行じおける処の行履、皆深き心あり。私の意楽を存せずして、ただ衆に従って、古人の行履に任せて行じゆくべきなり。(2-1)

 

249 ひとは、信ずるところにしたがって、きよき喜びにしたがって、ほどこしをなす。だから、他人のくれた食物や飲料に満足しない人は、昼も夜も心の安らぎを得ない。

250 もしひとがこの(不満の思い)を絶ち、根だやしにしたならば、かれは昼も夜も心のやすらぎを得る。

道元坐禅辦道して仏祖の大道に証入す。ただこれ、こころざしのありなしによるべし、身の在家出家にはかかはらじ。又ふかくことの殊劣をわきまふる人、おのづから信ずることあり。いはんや世務は仏法をさゆとおもへるものは、ただ世中に仏法なしとのみしりて、仏中に世法なきことをいまだしらざるなり。(『正法眼蔵』「辦道話」)

 

251 情欲にひとしい火は存在しない。不利な骰(さい)の目を投げたとしても、怒りにひとしい不運は存在しない。迷妄にひとしい網は存在しない。妄執にひとしい河は存在しない。

道元―況んや出世の仏法は、無始より以来修習せざる法なり。故に今もうとし。我が性も拙なし。高広なる仏法の事を、多般を兼ぬれば一事をも成ずべからず。一事を専らにせんすら本性昧劣の根器、今生に窮め難し、努々学人一事を専らにすべし。(2-11)

 

252 他人の過失は見やすいけれど、自己の過失は見がたい。ひとは他人の過失を籾殻のように吹き散らす。しかし自分の過失は、隠してしまう。狡猾な賭博師が不利な骰(さい)の目をかくしてしまうように。

道元―俗の野諺に云く「唖せず聾せざれば家公とならず」と。云ふ心は、人の毀謗をきかず、人の不可を云はざればよく我が事を成ずるなり。是のごとくなる人を、家の大人とす。是れ即ち俗の野諺なりと云へども、取つて衲僧の行履としつべし。(6-17)

 

253 他人の過失を探し求め、つねに怒りたける人は、煩悩の汚れが増大する。かれは煩悩の汚れの消滅から遠く隔っている。

道元―なんぞ自家の坐牀を抛却して、みだりに他国の塵境に去来せん。(『普勧坐禅儀』)

 

254 虚空には足跡が無く、外面的なことを気にかけるならば、<道の人>ではない。ひとびとは汚れのあらわれをたのしむが、修行完成者は汚れのあらわれをたのしまない。

255 虚空には足跡が無く、外面的なことを気にかけるならば、<道の人>ではない。造り出された現象が常住であることは有り得ない。真理をさとった人々(ブッダ)は、動揺することがない。

道元―況んや仏法は、事々皆世俗に違背せるなり。俗は髪をかざる、僧は髪をそる、俗は多く食す、僧は一食するすら、皆そむけり。然して後、還って大安楽人なり。故に一切世俗に背くべきなり。(3-19)

 

第十九章 法住者

 

256 あらあらしく事がらを処理するからとて、公正な人ではない。賢明であって、義と不義との両者を見きわめる人。

257 粗暴になることなく、きまりにしたがって、公正なしかたで他人を導く人は、正義を守る人であり、道を実践する人であり、聡明な人であるといわれる。

道元―ただ眼前の人のために、一分の利益は為すべからんをば、人の悪しく思はん事を顧みず為すべきなり。(2-16)

 

258 多く説くからとて、それゆえにかれが賢明なのではない。こころおだやかに、怨むことなく、恐れることのない人、かれこそ<賢者>と呼ばれる。

道元―古人云く、「言、天下に満ちて口過無く、行、天下に満ちて怨悪を亡ず」と。是れ則ち言ふべき処を言ひ、行ふべき処を行ふ故なり。至徳要道の行なり。世間の言行は私然を以て計らひ思ふ。恐らくは過のみあらん事を。衲子の言行ハ先証是レ定マれり。私曲を存ずべからず。仏祖行ひ来れる道なり。(1-8)

 

259 多く説くからとて、それゆえにかれが道を実践している人なのではない。たとい教えを聞くことが少なくても、身をもって真理を見る人、怠って道からはずれることの無い人かれこそ道を実践している人である。

道元―当世の人、多く造像起塔等の事を仏法興隆と思へり。また非なり。直饒高堂大観珠を磨いて金をのべたりとも、是れに因って得道の者あるべからず。ただ在家人の財宝を仏界に入れて善事をなす福分なり。小因大果を感ずる事あれども、僧徒のこの事を営むは仏法興隆にあらざるなり。ただ草庵樹下にても、法門の一句をも思量し、一時の坐禅をも行ぜんこそ、実の仏法興隆にてあれ。(3-6)

 

260 頭髪が白くなったからとて<長老>なのではない。ただ年をとっただけならば「空しく老いぼれた人」と言われる。

261誠あり、徳あり、慈しみがあって、傷わず、つつしみあり、みずからととのえ、汚れを除き、気をつけている人こそ「長老」と呼ばれる。

道元―古へも皆苦をしのび寒をたへて、愁ながら修道せしなり。今の学者、くるしく愁ふるとも、ただ強て学道すべきなり。(5-5)

 

262 嫉みぶかく、吝嗇(りんしょく=けち)で、偽る人は、ただ口先だけでも、美しい容貌によっても、「端正な人」とはならない。

263これを断ち、根絶やしにし、憎しみをのぞき、聡明である人、かれこそ「端正な人」とよばれる。

道元―予、後にこの理を案ずるに、語録公案等を見て、古人の行履をも知り、あるいは迷者のために説き聞かしめん、皆是れ自行化他のために無用なり。只管打坐して大事を明らめ、心の理を明らめなば、後には一字を知らずとも、他に開示せんに、用ひ尽くすべからず。故に彼の僧、畢竟じて何の用ぞとは云ひけると、是れ真実の道理なりと思うて、その後語録等を見る事をとどめて、一向に打坐して大事を明らめ得たり。(3-7)

 

264頭を剃ったからとて、いましめをまもらず、偽りを語る人は、<道の人>ではない。欲望と貪りにみちている人が、どうして<道の人>であろうか?

265大きかろうとも小さかろうとも悪をすべてとどめた人は、もろもろの悪を静め滅ぼしたのであるから、<道の人>と呼ばれる。

道元―況んや衲子の仏道を行ずる、必ず二心なき時、真に仏道にかなふべし。仏道には、慈悲智恵もとよりそなはれる人もあり。たとひ無けれども、学すればうるなり。ただ身心を倶に放下して、三宝の海に廻向して、仏法の教へに任せて私曲を存ずる事なかれ。(6-1)

 

266 他人に食を乞うからとて、それだけでは<托鉢僧>なのではない。汚らわしい行ないをしているならば、それでは<托鉢僧>ではない。

 

267この世の福楽も罪悪も捨て去って、清らかな行ないを修め、よく思慮して世に処しているならば、かれこそ<托鉢僧>と呼ばれる。

道元―故胤僧正云く、「道心と云ふは、一念三千の法門なんどを胸中に学し入れて持つたるを道心と云ふなり。なにとなく笠を頚に懸けて迷ひありくをば、天狗魔縁の行と云ふなり」と。(3-5)

 

268 、269ただ沈黙しているからとて、愚かに迷い無智なる人が<聖者>なのではない。秤を手にもっているように、いみじきものを取りもろもろの悪を除く賢者こそ<聖者>なのである。かれはそのゆえに聖者なのである。この世にあって善悪の両者を(秤りにかれてはかるように)よく考える人こそ<聖者>とよばれる。

道元―真実内徳無うして人に貴びらるべからず。(3-8)

 

270生きものを害うからとて<聖者>なのではない。生きとし生けるものどもを害わないので<聖者>と呼ばれる。

道元如来慈悲深重なる事、喩へを以て推量するに、彼の所為行履、皆是れ衆生のためなり。一微塵許も衆生利益のためならずと云ふ事無し。(4-7)

 

271 、272 わたしは、出離の楽しみを得た。それは凡夫の味わい得ないものである。それは、戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥すことによっても、得られないものである。修行僧よ。汚れが消え失せない限りは、油断するな。 

道元―学道の人、若し悟を得ても、今は至極と思うて行道を罷る事なかれ。道は無窮なり。さとりてもなほ行道すべし。(1-5)

 

第二十章 道

273もろもろの道のうちでは<八つの部分よりなる正しい道>が最もすぐれている。もろもろの真理のうちでは<四つの句>(四諦)がもっともすぐれている。もろもろの徳のうちでは<情欲を離れること>が最もすぐれている。人々のうちで<眼ある人>(ブッダ)が最もすぐれている。

274これこそ道である。(真理を)見るはたらきを清めるためには、この他に道は無い。汝らはこの道を実践せよ。これこそ悪魔を迷わして(打ちひしぐ)ものである。

275汝らがこの道を行くならば、苦しみをなくすことができるであろう。(棘が肉に刺さったので)矢を抜いて癒す方法を知って、わたくしは汝らにこの道を説いたのだ。

276汝らは(みずから)つとめよ。もろもろの如来(修行を完成した人)は(ただ)教えを説くだけである。心をおさめて、この道を歩む者どもは、悪魔の束縛から脱れるであろう。

道元―その教に順ずる実の行と云ふは、即ち今の叢林の宗とする只管打坐なり。(2-1)

 

277「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

道元―念々に留まらず日々に遷流して、無常迅速なる事、眼前の道理なり。知識経巻の教を待つべからず。(2-17)

 

278「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

279「一切の事物は我ならざるものである」(諸法無我)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

280 起きるべき時に起きないで、若くて力があるのに怠りなまけていて、意志も思考も薄弱で、怠惰でものをいう人は、明らかな智慧によって道を見出すことがない。

道元―また渡海の間に死にて本意をとげずとも、求法の志をもて死せば、玄奘三蔵のあとをも思ふべし。(6-13)

 

281 ことばを慎しみ、心を落ち着けて慎しみ、身に悪を為してはならない。これらの三つの行ないの道を浄くたもつならば、仙人(仏)の説きたもうた道を克ち得るであろう

道元「三覆して後に云へ」と云ふ心は、おほよそ物を云はんとする時も、事を行はんとする時も、必ず三覆して後に言ひ行ふべし。先儒多くは三たび思ひかへりみるに、三たびながら善ならば言ひおこなへと云ふなり。宋土の賢人等の心は、三覆をばいくたびも覆せよと云ふなり。言よりさきに思ひ、行よりさきに思ひ、思ふ時に必ズたびごとに善ならば、言行すべしとなり。衲子もまたかならずしかあるべし。(5-8)

 

282 実に心が統一されたならば、豊かな智慧が生じる。心が統一されないならば、豊かな智慧がほろびる。生じることと滅びることとのこの二種の道を知って、豊かな智慧が生ずるように自己をととのえよ。

道元公案話頭を見て聊か知覚あるやうなりとも、其れは仏祖の道にとほざかる因縁なり。無所得、無所悟にして端坐して時を移さば、即ち祖道なるべし。古人も看話、祗管打坐ともに進めたれども、なほ坐をば専ら進めしなり。また話頭を以て悟りをひらきたる人有りとも、其れも坐の功によりて悟りの開くる因縁なり。まさしき功は坐にあるべし。(6-24)

 

283一つの樹を伐るのではなくて、(煩悩の)林を伐れ。危険は林から生じる。(煩悩の)林とその下生えとを切って、林(煩悩)から離れた者となれ。修行僧らよ。

284たとい僅かであろうとも、男の女に対する欲望が断たれないあいだは、その男の心は束縛されている。乳を吸う子牛が母牛を恋い慕うように。

道元―人目をかへりみ、人情をはばかる、即ち我執の本なり。ただすべからく仏法を学すべし、世情に随ふ事なかれ。(6-10)

 

285自己の愛執を断ち切れ、池の水の上に出て来た秋の蓮を手で断ち切るように。静かなやすらぎに至る道を養え。めでたく行きし人(仏)は安らぎを説きたもうた。

道元―学道の人、身心を放下して一向に仏法に入るべし。(4-1)

 

286「わたしは雨期にはここに住もう。冬と夏とにはここに住もう」と愚者はこのようにくよくよと慮って、死が迫って来るのに気がつかない。

道元仏道修行は後日を待つまじきと覚ゆるなり。(1-6)

 

287子どもや家畜のことに気を奪われて心がそれに執著している人を、死はさらって行く。眠っている村を大洪水が押し流すように。

288子も救うことができない。父も親戚もまた救うことができない。死に捉えられた者を、親族も救い得る能力がない。

289心ある人はこの道理を知って、戒律をまもり、すみやかにニルヴァーナに至る道を清くせよ。

道元―利他の行も自行の道も、劣なるをすてて、すぐれたるを取るは大士の善行なり。老病をたすけんとて水菽の孝を至すは、今生暫時の妄愛迷情の悦びばかりなり。背きて無為の道を学せんは、たとひ遺恨はありとも、出世の縁となるべし。(6-13)

 

第二十一章 種々

 

290つまらぬ快楽を捨てることによって、広大なる楽しみを見ることができるのなら、心ある人は広大な楽しみをのぞんで、つまらぬ快楽を捨てよ。

道元―是のごとく道を求むる志切になりなば、あるいは只管打坐の時、あるいは古人の公案に向かはん時、若しくは知識に向かはん時、実の志をもてなさんずる時、高くとも射つべく、深くとも釣りぬべし。(3-11)

 

291他人を苦しめることによって自分の快楽を求める人は、怨みの絆にまつわれて、怨みから免れることができない。

292 なすべきことを、なおざりにし、なすべからざることをなす、遊びたわむれ放逸なる者どもには、汚れが増す。

293 常に身体(の本性)を思いつづけて、為すべからざることを為さず、為すべきことを常に為して、心がけて、みずから気をつけている人々には、もろもろの汚れがなくなる。

道元―たとひ千経万論を学し得、坐禅〈床〉をやぶるとも、この心無くは、仏祖の道を学し得べからず。ただすべからく身心を仏法の中に放下して、他に随うて旧見なければ、即ち直下に承当するなり。(6-18)

 

294(「妄愛」という)母と(「われありという慢心」である)父とをほろぼし、(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)二人の武家の王をほろぼし、(主観的機官と客観的対象とあわせて十二の領域である)国土と(「喜び貪り」という)従臣とをほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。

295 (「妄愛」という)母と(「われありという慢心」である)父とをほろぼし、(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)二人の、学問を誇るバラモン王をほろぼし、第五には(「疑い」という)虎をほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。

道元―ただ一事に付いて用心故実をも習ひ、先達の行履をも尋ねて、一行を専らはげみて、人師先達の気色すまじきなり。(2-3)

 

296 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常に仏を念じている。

297 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常に法を念じている。

298ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常にサンガ(修行者のつどい)を念じている。

299 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常に身体(の真相)を念じている。

300 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、その心は昼も夜も不傷害を楽しんでいる。

301 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、その心は昼も夜も瞑想を楽しんでいる

道元―仏法を行ぜず眠り臥して虚しく時を過ごさん、尤も愚かなり。(3-20)

 

302 出家の生活は困難であり、それを楽しむことは難しい。在家の生活も困難であり、家に住むのも難しい。心を同じくしない人々と共に住むのも難しい。(修行僧が何かを求めて)旅に出て行くと、苦しみに遇う。だから旅に出るな。また苦しみに遇うな

道元出家在家の儀、その心異なるべし。在家人の出家の心有らば出離すべし。出家人の在家の心有らば二重の僻事なり。作す事の難きにはあらず。よくする事の難きなり。(4-2)

 

303 信仰あり、徳行そなわり、名声と繁栄を受けている人は、いかなる地方におもむこうとも、そこで尊ばれる。

道元―学道の人、衣食を貪ることなかれ。人々皆食分あり、命分あり。非分の食命を求むとも来るべからず。況んや学仏道の人には、施主の供養あり(1-3)

 

304 善き人々は遠くにいても輝く、雪を頂く高山のように。善からぬ人々は近くにいても見えない夜陰に放たれた矢のように。

道元―いはゆる仏祖の光明は尽十方界なり、尽仏尽祖なり、唯仏与仏なり。仏光なり、光仏なり。仏祖は仏祖を光明とせり。この光明を修証して、作仏し、坐仏し、証仏す。(『正法眼蔵』「光明」)

 

305 ひとり坐し、ひとり臥し、ひとり歩み、なおざりになることなく、わが身をととのえて、林のなかでひとり楽しめ。

道元―不離叢林の行持、しづかに行持すべし。東西の風に東西することなかれ。十年五載の春風秋月、しられざれども声色透脱の道あり。その道得、われに不知なり、われに不会なり。行持の寸陰を可惜許なりと参学すべし。(『正法眼蔵』「行持」)

 

第二十二章 地獄

 

306いつわりを語る人、あるいは自分でしておきながら「わたしはしませんでした」と言う人、この両者は死後にはひとしくなる、来世では行ないの下劣な業をもった人々なのであるから。 

道元―他の無道心なるひが事なんどを直に面にあらはし、非におと(す)べからず。方便を以てかれ腹立つまじきやうに云ふべきなり。暴悪なるはその法久しからず。(5-12)

 

307袈裟を頭から纒っていても、性質が悪く、つつしみのない者が多い。かれらは、悪いふるまいによって、悪いところに(地獄)に生まれる。

308 戒律をまもらず、みずから慎むことがないのに国の信徒の施しを受けるよりは、火炎のように熱した鉄丸を食らうほうがましだ。

道元―人の心のありさま、初めは道心をおこして、僧にもなり知識に随へども、仏とならん事をば思はずして、身の貴く、我が寺の貴き由を施主檀那にも知られ、親類境界にも云ひ聞かせ、何にもして人に貴がられ、供養ざられんと思ひ、あまつさへ僧ども不当不善なれども我れ独り道心も有り、善人なるやうを、方便して云ひ聞かせ、思い知らせんとするやうもあり。是れは言ふに足らざるの人、五闡提等の在世の悪比丘のごとく、決定地獄の心ばえなり。是れを物もしらぬ在家人は、道心者、貴き人、なんど思ふもあり。(6-21)

 

309 放逸で他人の妻になれ近づく者は、四つの事がらに遭遇する。すなわち、禍をまねき、臥して楽しからず、第三に非難を受け、第四に地獄に墜ちる。

 

310禍をまねき、悪しきところ(地獄)に墜ち、相ともにおびえた男女の愉楽はすくなく、王は重罰を課する。それ故にひとは他人になれ近づくな。

 

311茅草でも、とらえ方を誤ると、手のひらを切るように、修行僧の行も、誤っておこなうと、地獄にひきずりおろす。

312その行ないがだらしなく、身のいましめが乱れ、清らかな行ないなるものもあやしげであるならば、大きな果報はやって来ない。

313もしも為すべきことであるならば、それを為すべきである。それを断固として実行せよ。行ないの乱れた修行者はいっそう多く塵をまき散らす。

道元―禅僧は善を修せず功徳を要せずと云って悪行を好む、きはめて僻事なり。先規未だ是のごとくの悪行を好む事を聞かず。丹霞天然禅師は木仏をたく、是れこそ悪事と見えたれども、是れも一段の説法施設なり。この師の行状の記を見るに、坐するに必ず儀あり、立するに必ず礼あり、常に貴き賓客に向かふがごとし。暫時の坐にも必ず跏趺し、叉手す。常住物を守る事眼睛のごとくす。勤修するもの有れば必ず加す。小善なれども是れを重くす。常図の行状勝れたり。彼の記をとどめて今の世までも叢林の亀鏡とするなり。(4-8)

 

314 悪いことをするよりは、何もしないほうがよい。悪いことをすれば、後で悔いる。単に何かの行為をするよりは、善いことをするほうがよい。なしおわって、後で悔いがない。

道元―所詮は悪心を忘れ、我が身を忘れ、ただ一向に仏法のためにすべき也。向かひ来らん事にしたがって用心すべきなり。(3-1)

 

315辺境にある、城壁に囲まれた都市が内も外も守られているように、そのように自己を守れ。瞬時も空しく過ごすな。時を空しく過した人々は地獄に墜ちて、苦しみ悩む。

道元―古人云く、「光陰虚シくわたる事なかれ」と。今問ふ、時光はをしむによりてとどまるか、をしめどもとどまざるか。また問ふ、時光虚しく度ず、人虚しく渡るか。時光をいたづらに過ごす事なく学道をせよと云ふなり。是のごとく参究、同心にすべし。(5-4)

 

316 恥じなくてよいことを恥じ、恥ずべきことを恥じない人々は、邪な見解をいだいて、悪いところ(地獄)におもむく。

317恐れなくてもよいことに恐れをいだき、恐れねばならぬことに恐れをいだかない人々は、邪な見解をいだいて、悪いところ(地獄)におもむく。

道元―世俗の礼にも、人の見ざる処、あるいは暗き室の中なれども、衣服等をもきかふる時、坐臥する時にも、放逸に陰処なんどをも蔵さず無礼なるをば天に慚ぢず鬼にも慚ぢずとてそしるなり。ひとしく人の見る時と同じく、蔵すべき処をも隠し、慚づべき処をもはづるなり。仏法の中にもまた戒律是のごとし。(3-10)

 

318 避けねばならないことを避けなくてもよいと思い、避けてはならぬ(必ず為さねばならぬ)ことを避けてもよいと考える人々は、邪な見解をいだいて、悪いところ(地獄)におもむく。

 

319遠ざけるべきこと(罪)を遠ざけるべきであると知り、遠ざけてはならぬ(必らず為さねばならぬ)ことを遠ざけてはならぬと考える人々は、正しい見解をいだいた、善いところ(天上)におもむく。

 

第二十三章  象

 

320 戦場の象が、射られた矢にあたっても堪え忍ぶように、われらはひとのそしりを忍ぼう。多くの人は実に性質(たち)が悪いからである。

321馴らされた象は、戦場にも連れて行かれ、王の乗りものとなる。世のそしりを忍び、自らをおさめた者は、人々の中にあっても最上の者である。

322 馴らされた騾馬は良い。インダス河のほとりの血統よき馬も良い。クンジャラという名の大きな象も良い。しかし自己をととのえた人はそれらよりもすぐれている。

道元―行者先ず心を調伏しつれば、身をも世をも捨つる事は易きなり。ただ言語に付き行儀に付きて人目を思ふ。この事は悪事なれば人悪く思ふべしとて作さず、我れこの事をせんこそ仏法者と人は見めとて、事に触れ能き事をせんとするもなほ世情なり。然ればとて、また恣に我意に任せて悪事をするは一向の悪人なり。(3-1)

 

323何となれば、これらの乗物によっては未到の地(ニルヴァーナ)に行くことはできない。そこへは、慎しみある人が、おのれ自らをよくととのえておもむく。

道元―伝ヘ聞く、故高野の空阿弥陀仏は、元は顕密の碩徳なりき。遁世の後、念仏の門に入って後、真言師ありて来って密宗の法門を問ひけるに、彼の人答ヘて云く、「皆忘れをはりぬ。一事もおぼえず」とて答へられざりけるなり。これらこそ道心の手本となるべけれ。(3-9)

 

324「財を守る者」という名の象は、発情期にこめかみから液汁をしたたらせて強暴になっているときは、いかんとも制し難い。捕らえられると、一口の食物も食べない。象は象の林を慕っている。

道元―若しみち有りては死すとも、み(ち)なうしていくる事なかれ、と云ふなり。(5-8)

 

325 大食いをして、眠りをこのみ、ころげまわって寝て、まどろんでいる愚鈍な人は、大きな豚のように糧を食べて肥り、くりかえし母胎に入って(迷いの生存をつづける)。

 

326この心は、以前には、望むがままに、欲するがままに、快きがままに、さすらっていた。今やわたくしはその心をすっかり抑制しよう、象使いが鉤をもって、発情期に狂う象を全くおさえつけるように。

道元―このゆゑに古人いはく、若人識得心、大地無寸土しるべし、心を識得するとき、蓋天撲落し、迊地裂破す。あるいは心を識得すれば、大地さらにあつさ三寸をます。(『正法眼蔵』「即心是仏」)

 

327つとめはげむのを楽しめ。おのれの心を護れ。自己を難処から救い出せ。泥沼に落ち込んだ象のように。

道元―世人親疎我れをほめそしればとて、彼の人の心に随ひたりとも、我が命終の時、悪業にもひかれ悪道に趣がん時、何にも救ふべからず。喩へば皆人に謗られ悪るとも、仏祖の道にしたがうて依行せば、その冥、実に我れをばたすけんずれば、人のそしればとて、道を行ぜざるべからず。(4-9)

 

328 もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができるならば、あらゆる危険困難に打ち克って、こころ喜び、念いをおちつけて、ともに歩め。

329しかし、もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができないならば、国を捨てた国王のように、また林の中の象のように、ひとり歩め。

330 愚かな者を道伴れとするな。独りで行くほうがよい。孤独(ひとり)で歩め。悪いことをするな。求めるところは少なくあれ。林の中にいる象のように。

道元―道のためにはさはりとなりぬべき事をば、かねて是れに近づくべからず。善友にくるしくわびしくとも近づき、行道すべきなり。(6-15)

 

331事がおこったときに、友だちのあるのは楽しい。(大きかろうとも、小さかろうとも)、どんなことにでも満足するのは楽しい。善いことをしておけば、命の終るときに楽しい。(悪いことをしなかったので)、あらゆる苦しみ(の報い)を除くことは楽しい。

332 世に母を敬うことは楽しい。また父を敬うことは楽しい。世に修行者を敬うことは楽しい。世にバラモンを敬うことは楽しい。

333 老いた日に至るまで戒めをたもつことは楽しい。信仰が確立していることは楽しい。明らかな智慧を体得することは楽しい。もろもろの悪事をなさないことは楽しい。

道元―学人の誤まり出来るやうは、人に貴びられて財宝出来たるを以て道徳彰たると自らも思ひ、人も知るなり。是れ即ち天魔波旬の心に付きたると知るべし。尤も思量すべし。教の中にも、是れをば魔の所為と云ふなり。(3-3)

 

第二十四章 渇愛

 

334恣(ほしいまま)のふるまいをする人には愛執が蔓草(つるくさ)のようにはびこる。林の中で猿が果実を探し求めるように、(この世からかの世へと)あちこちにさまよう。

335この世において執著のもとであるこのうずく愛欲のなすがままである人は、もろもろの憂いが増大する。雨が降ったあとにはビーラナ草がはびこるように。

336この世において如何ともし難いこのうずく愛欲を断ったならば、憂いはその人から消え失せる。水の滴が蓮華から落ちるように。

337さあ、みんなに告げます。ここに集まったみなさんに幸あれ。欲望の根を掘れ。(香しい)ウシーラ根を求める人がビーラナ草を掘るように。葦が激流に砕かれるように、魔にしばし砕かれてはならない。

道元―法門をよく心得る人は、必ず道心ある人のよく心得るなり。いかに利智聡明なる人も、無道心にして吾我をも離れず、名利をも捨て得ざる人は、道者ともならず、正理をも心得ぬなり。(6-1)

 

338 たとえ樹を切っても、もしも頑強な根を断たなければ、樹が再び成長するように、妄執(渇愛)の根源となる潜勢力をほろぼさないならば、この苦しみはくりかえし現われ出る。

339 快いものに向って流れる三十六の激流があれば、その波浪は、悪しき見解をいだく人を漂わし去る。その波浪とは貪欲にねざした想いである。

340 (愛欲の)流れは至るところに流れる。(欲情の)蔓草は芽を生じつつある。その蔓草が生じたのを見たならば、智慧によってその根を断ち切れ。

341人の快楽ははびこるもので、また愛執で潤される。実に人々は歓楽にふけり、楽しみをもとめて、生と老衰を受ける。

342 愛欲に駆り立てられた人々は、わなにかかった兎のように、ばたばたする。束縛の絆にしばられ愛著になずみ、永いあいだくりかえし苦悩を受ける。

343愛欲に駆り立てられた人々は、わなにかかった兎のように、ばたばたする。それ故に修行僧は、自己の離欲を除き去れ。

道元―心をもて仏法を計校する間は、万劫千生にも得べからず。心を放下して、知見解会を捨つる時、得るなり。見色明心、聞声悟道のごときも、なほ身を得るなり。然れば、心の念慮知見を一向すてて、只管打坐すれば、今少し道は親しみ得るなり。(3-21)

 

344 愛欲の林から出ていながら、また愛欲の林に身をゆだね、愛欲の林から免れていながら、また愛欲の林に向って走る。その人を見よ! 束縛から脱しているのに、また束縛に向って走る。

道元―ただ行学本より仏法なりと証して、無所求にして世事悪業等の我が心に作したくとも作さず、学道修行の懶きをもなして、この行を以て果を得きたるとも、我が心先より求むる事無くして行ずるをこそ、外に向って求むる事無しと云ふ道理には叶ふべけれ。(3-18)

 

345 、346鉄や木材や麻紐でつくられた枷を、思慮ある人々は堅固な縛とは呼ばない。宝石や耳環・腕輪をやたらに欲しがること、妻や子にひかれること、それが堅固な縛である、と思慮ある人々は呼ぶ。それは低く垂れ、緩く見えるけれども、脱れ難い。かれらはこれをさえも断ち切って、顧みること無く、欲楽をすてて、遍歴修行する。

道元―若シ今生ヲ捨テ仏道に入ツたらば、老母直饒餓死すとも、一子を放して道に入れしむる功徳、豈得道の良縁にあらざらんや。我レも広劫多生にも捨テ難き恩愛を、今生人身を受ケて仏教に遇へる時捨てたらば、真実報恩者の道理、何ぞ仏意に叶ハざラン哉。(4-10)

 

347愛欲になずんでいる人々は、激流に押し流される、蜘蛛がみずから作った網にしたがって行くようなものである。思慮ある人々はこれをも断ち切って、顧みることなく、すべての苦悩をすてて、歩んで行く。

道元―思ひきり、身心倶に放下すべし。(4-1)

 

348前を捨てよ。後を捨てよ。中間を棄てよ。生存の彼岸に達した人は、あらゆることがらについて心が解脱していて、もはや生れと老いとを受けることが無いであろう。

道元―古人云く、「百尺竿頭上なほ一歩を進む」と。何にも百尺の竿頭に上って足を放たば死ぬべしと思うて、つよくとりつく心の有るなり。其れを思ひ切りて一歩を進むと云ふは、よもあしからじと思ひきりて、放下するように、度世の業より始めて、一身の活計に至るまで、何にも捨て得ぬなり。其れを捨てざらんほどは、何に頭燃をはらひて学道するやうなりとも、道を得る事叶はざるなり。(4-1)

 

349あれこれ考えて心が乱れ、愛欲がはげしくうずくのに、愛欲を淨らかだと見なす人には、愛執がますます増大する。この人は実に束縛の絆を堅固たらしめる。

350あれこれの考えをしずめるのを楽しみ、つねに心にかけて、(身体などを)不浄であると観じて修する人は、実に悪魔の束縛の絆をとりのぞき、断ち切るであろう。

道元―学道はすべからく吾我をはなるべし。たとひ千経万論を学し得たりとも、我執をはなれずはつひに魔坑におつ。(6-10)

 

351さとりの究極に達し、恐れること無く、無我で、わずらいの無い人は、生存の矢を断ち切った。これが最後の身体である。

352愛欲を離れ、執著なく、諸の語義に通じ諸の文章とその脈絡を知るならば、その人は最後の身体をたもつものであり、「大いなる智慧ある人」と呼ばれる。

道元―我が本より知り思ふ心を、次第に知識の言に随って改めて去くなり。仮令仏と云ふは、我が本知りたるやうは、相好光明具足し、説法利生の徳有りし釈迦弥陀等を仏と知りたりとも、知識若し仏と云ふは蝦蟇蚯蚓ぞと云はば、蝦蟇蚯蚓を、是れらを仏と信じて、日比の知恵を捨つるなり。(2-10)

 

353われはすべてに打ち勝ち、すべてを知り、あらゆることがらに関して汚されていない。すべてを捨てて、愛欲は尽きたので、こころは解脱している。みずからさとったのであって、誰を(師と)呼ぼうか。

道元仏道に順ぜん者は、興法利生のために、身命を捨て諸事を行じ去るなり。(2-17)

 

354教えを説いて与えることはすべての贈与にまさり、教えの妙味はすべての味にまさり、教えを受ける楽しみはすべての楽しみにまさる。妄執をほろぼすことはすべての苦しみうち勝つ。

道元―若し仏法に志あらば、山川江海を渡っても来りて学すべし。(3-6)

 

355彼岸にわたることを求める人々は享楽に害われることがない。愚人は享楽のために害われるが、享楽を妄執するがゆえに、愚者は他人を害うように自分も害う。

道元―仏法の人をえらぶにはあらず、人の仏法に入らざればなり。(4-2)

 

356田畑は雑草によって害われ、この世は人々は愛欲によって害われる。それ故に愛欲を離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。

357田畑は雑草によって害われ、この世は人々は怒りによって害われる。これ故に怒りを離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。

358 田畑は雑草によって害われ、この世は人々は迷妄によって害われる。それ故に迷妄を離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。

359 田畑は雑草によって害われ、この世は人々は欲求によって害われる。それ故に欲求を離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。

道元―真の学道の人、なにとしてか富家なるべき。直饒浄信の供養も、多くつもらば恩の思を作して報を思ふべし。(1-4)

 

第二十五章 比丘

 

360 眼について慎しむのは善い。耳について慎しむは善い。鼻について慎しむのは善い。舌について慎しむのは善い。

361身について慎むのは善い。ことばについて慎しむのは善い。心について慎しむのは善い。あらゆることについて慎しむのは善いことである。修行僧はあらゆることがらについて慎しみ、すべての苦しみから脱れる。

道元―我れながら思ふ事も云ふ事も、主にも知られずあしき事も有るべき故に、先づ仏道にかなふやいなやとかへりみ、自他のために益有りやいなやと能々思ひかへりみて後に、善なるべければ、行ひもし言ひもすべきなり。行者若しこの心を守らば、一期仏意にそむかざるべし。(5-8)

 

362 手をつつしみ、足をつつしみ、ことばをつつしみ、最高につつしみ、内心に楽しみ、心を安定統一し、ひとりで居て、満足している、その人を<修行僧>と呼ぶ。

道元学人最も百丈の規縄を守るべし。然るにその儀式は護戒坐禅等なり。「昼夜に戒を誦し、専ら戒を護持す」と云ふ事は、古人の行李にしたがうて祗管打坐すべきなり。(2-1)

 

363口をつつしみ、思慮して語り、心が浮わつくことなく、事がらと真理とを明らかにする修行僧、かれの説くところはやさしく甘美である。

道元― 聖教の中にも、「麁強の悪業は人をして覚悟せしむ、無利の言説は能く正道を障ふ」と。ただ打ち出し言ふ語すら利無き言説は障道の因縁なり。況んや然のごとき言説のことばに引かれて、即ち心も起りつべし。尤も用心すべきなり。わざとことさらいでかくなんいはじとせずとも、あしき事と知りなば漸々に退治すべきなり。(2-14)

 

364真理を喜び、真理を楽しみ、真理をよく知り分けて、真理にしたがっている修行僧は、正しいことわりから墜落することがない。

道元―ただ身命をかへりみず発心修行する、学道の最要なり。(1-2)

 

365 (托鉢によって)自分の得たものを軽んじてはならない。他人の得たものを羨むな。他人を羨む修行僧は心の安定を得ることができない。

366 たとい得たものは少なくても、修行僧が自分の得たものを軽んずることが無いならば、怠ることなく清く生きるその人を、神々も称讃する。

道元―僧の損ずる事は多く富家よりおこれり。如来在世に調達が嫉妬を起しし事も、日々五百車の供養より起れり。ただ自を損ずる事のみにあらず、また他をしても悪を作さしめし因縁なり。(1-4)

 

367名称とかたちについて「わがもの」という想いが全く存在しないで、何ものも無いからとて憂えることの無い人、かれこそ<修行僧>とよばれる。

道元―衲子は雲のごとく定まれる住処もなく、水のごとく流れゆきてよる所もなきを、僧とは云ふなり。(6-22)

 

368仏の教えを喜び、慈しみに住する修行僧は、動く形成作用の静まった、安楽な、静けさの境地に到達するであろう。

369修行僧よ。この舟から水を汲み出せ。汝が水を汲み出したならば、舟は軽やかにやすやすと進むであろう。貪りと怒りとを断ったならば、汝はニルヴァーナにおもむくであろう。

370五つ(の束縛)を断て。五つ(の束縛)を捨てよ。さらに五つ(のはたらき)を修めよ。五つの執著を超えた修行僧は、<激流を渡った者>とよばれる。

371 修行僧よ。瞑想せよ。なおざりになるな。汝の心を欲情の対象に向けるな。なおざりのゆえに鉄丸を呑むな。(灼熱した鉄丸で)焼かれるときに、「これは苦しい!」といって泣き叫ぶな。

372 明らかな智慧の無い人には精神の安定統一が無い。精神の安定統一していない人には明らかな智慧が無い。精神の安定統一と明らかな智慧とがそなわっている人こそ、すでにニルヴァーナの近くにいる。

373修行僧が人のいない空家に入って心を静め真理を正しく観ずるならば、人間を超えた楽しみがおこる。

374個人存在を構成している諸要素の生起と消滅とを正しく理解するに従って、その不死のことわりを知り得た人々にとって喜びと悦楽なるものを、かれは体得する。

375これは、この世において明らかな智慧のある修行僧の初めのつとめである。感官に気をくばり、満足し、戒律をつつしみ行ない、怠らないで、淨らかに生きる善い友とつき合え。

376その行ないが親切であれ。(何ものでも)わかち合え。善いことを実行せよ。そうすれば、喜びにみち、苦悩を減するであろう。

道元―信心銘に云く、「至道かたき事なし、但揀択を嫌ふ」と。揀択の心を放下しつれば、直下に承当するなり。揀択の心を放下すと云ふは、我を離るるなり。(6-18)

 

377 修行僧らよ。ジャスミンの花が花びらを捨て落とすように、貪りと怒りとを捨て去れよ。

道元―古人云く、「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」と。今の学道の人、この心有るべきなり。(3-13)

 

378 修行僧は、身も静か、語(ことば)も静か、心も静かで、よく精神統一をなし、世俗の享楽物を吐きすてたならば、<やすらぎに帰した人>と呼ばれる。

道元―然れば道を得る事は、正しく身を以て得るなり。是れによりて坐を専らにすべしと覚ゆるなり。(3-21)

 

379みずから自分を励ませ。みずから自分を反省せよ。修行僧よ。自己を護り、正しい念いをたもてば、汝は安楽に住するであろう。

380実に自己は自分の主(あるじ)である。自己は自分の帰趨(よるべ)である。 故に自分をととのえよ。商人が良い馬を調教するように。

道元曹渓の六祖は新州の樵人、たき木を売って母を養ひき。一日市にして客の金剛経を誦ずるを聞いて発心し、母を辞して黄梅に参ず。銀三十両を得て母儀の衣糧にあてたりと見えたり。是れも切に思ひける故に天の与へたりけるかと覚ゆ。能々思惟すべし。是れ一の道理なり。(4-10)

 

381喜びにみちて仏の教えを喜ぶ修行僧は、動く形成作用の静まった、幸いな、やすらぎの境地に達するであろう。

道元―ただ一たび仏道に廻向しつる上は、二たび自己をかへりみず、仏法のおきてに任せて行じゆきて、私曲を存ずることなかれ。先証皆是のごとし。(6-2)

 

382たとい年の若い修行僧でも、仏の道にいそしむならば、雲を離れた月のように、この世を照らす。

道元―ただ内々に道業を修せば自然に道徳外に露れ人に知られん事を期せず望まず、ただ専ら仏教に随ひ祖道に順ひ行けば、人自ら道徳に帰するなり。(3-3)

 

第二十六章 バラモン

 

383バラモンよ。流れを断って。勇敢であれ。諸の欲望を去れ。諸の現象の消滅を知って、作られざるもの(ニルヴァーナ)を知る者であれ。

道元―学道の人は後日を待って行道せんと思ふ事なかれ。ただ今日今時を過ごさずして、日々時々を勤むべきなり。(1-6)

 

384バラモンが二つのことがら(止と観)について彼岸に達した(完全になった)ならば、かれはよく知る人であるので、かれの束縛はすべて消え失せるであろう。

道元―悟りは居所の善悪によらず。ただ坐禅の功の多少に有るべし。(5-10)

 

385 彼岸もなく、此岸もなく、彼岸・此岸なるものもなく、恐れもなく、束縛もない人、かれをわれはバラモンと呼ぶ。

道元―然れば、今も仏祖決定の説なれば、心を改めて、草木と云へば草木を心としり、瓦礫を仏と云へば即ち本執をあらため去ば、真に道を得べきなり。(5-6)

 

386静かに思い、塵垢(ちりけがれ)なく、おちついて、為すべきことをなしとげ、煩悩を去り、最高の目的を達した人、かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

道元―機に随ひ根に随ふべしと云へども、今祖席に相伝して専らする処は坐禅なり。この行、能く衆機を兼ね、上中下根等しく修し得べき法なり。(2-11)

 

387太陽は昼にかがやき、月は夜に照し。武士は鎧を着てかがやき、バラモンは瞑想に専念してかがやく。しかしブッダはつねに威力もて昼夜に輝く。

道元―仏二十年の福分を以て末法の我等に施す。是れに因って天下の叢林、人天の供養絶えず。如来神通の福徳自在なる、なほ馬麦を食して夏を過ごしましましき。末法の弟子豈是れを慕はざらんや。(2-13)

 

388 悪を取り除いたので<バラモン>と呼ばれ、行ないが静かにやまっているので<道の人>(沙門)と呼ばれる。おのれの汚れを除いたので、そのゆえに<出家者>と呼ばれる。

 

389バラモンを打つな。バラモンはかれ(打つ人)にたいして怒りを放つな。バラモンを打つものには禍がある。しかし(打たれて)怒る者にはさらに禍がある。

390愛好するものから心を遠ざけるならば、このことはバラモンにとって少なからずすぐれたことである。害する意(おもい)がやむにつれて、苦悩が静まる。

道元―ただ人をも言ひ折らず、我が僻事にも謂ひおほせず、無為にして止めるが好きなり。耳に聴き入れぬようにて忘るれば、人も忘れて怒らざるなり。第一の用心なり。(2-7)

 

391 身にも、ことばにも、心にも、悪い事を為さず、三つのところについてつつしんでいる人、かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

道元―今の学者知るべし、決定して自他のため仏道のために詮有るべき事ならば、身を忘れても言ひもし行ひもすべきなり。その詮なき事をば言行すべからず。宿老耆年の言行する時は、若臘にては言を交ふべからず、仏制なり。(5-8)

 

392正しく覚った人(ブッダ)の説かれた教えを、はっきりといかなる人から学び得たのであろうとも、その人を恭しく敬礼せよ、バラモンが祭の火を恭しく尊ぶように。

道元如来にしたがって得道するもの多けれども、また阿難によりて悟道する人もありき。新首座非器なりと卑下する事なかれ。(5-4)

 

393螺髪を結んでいるからバラモンなのではない。氏姓によってバラモンなのでもない。生れによってバラモンなのでもない。真理と理法とをまもる人は、安楽である。かれこそ(真の)バラモンなのである。

道元―また、まことの賢人はなほ賢の名をかくして、俸禄なれば使用するよしを云ふ。俗人なほ然り。学道の衲子、私を存ずる事なかれ。またまことの道を好まば、道者の名をかくすべきなり。(6-3)

 

394 愚者よ。螺髪を結うて何になるのだ。かもしかの皮をまとって何になるのだ。汝は内に密林(汚れ)を蔵して、外側だけを飾る。

道元―広学博覧はかなふべからざる事なり。一向に思ひ切って、留るべし。(2-3)

 

395 糞掃衣をまとい、痩せて、血管があらわれ、ひとり林の中にあって瞑想する人、かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

道元―然れば出家人は、学仏の力によりて食分も尽くべからず、白毫の一相、二十年の遺恩、歴劫に受用すとも尽くべきにあらず。行道を専らにして、衣食を求むべきにあらざるなり。身躰血肉だにもよくもてば、心も随って好くなると、医法等に見る事多し。況んや学道の人、持戒梵行にして仏祖の行履にまかせて、身儀ををさむれば、心地も随って整なり。(1-3)

 

396 われは、(バラモン女の)胎から生れ(バラモンの)母から生れた人をバラモンと呼ぶのではない。かれは「<きみよ>といって呼びかける者」といわれる。かれは何か所有物の思いにとらわれている。無一物であって執著のない人、かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

道元―龍牙云く、「学道は先づすべからく貧を学すべし。貧を学して貧なる後に道まさにしたし」と云へり。昔釈尊より今に至るまで、真実学道の人、一人も宝に饒なりとは、聞かず見ざる処なり。(5-10)

 

397 すべての束縛を断ち切り、恐れることなく、執著を超越して、とらわれることの無い人、かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

道元―今仏祖(の道)を行ぜんと思はば、所期も無く所求も無く、所得も無くして無利に先聖の道を行じ、祖々の行履を行ずべきなり。(4-8)

 

398 紐と革帯と網とを、手網ともども断ち切り、門をとざす閂(かんぬき)を滅ぼして、めざめた人、かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

道元―大小ノ律蔵によりて諸比丘をかんがふるに、不可思議の不当の心を起すも有りき。然れども、後には皆得道し羅漢となれり。しかあれば、我等も悪くつたなしと云へども、発心修行せば得道すべしと知りて、即ち発心するなり。(5-5)

 

399罪がないのに罵られ、なぐられ、拘禁されるのを堪え忍び、忍耐の力あり、心の猛き人、かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

道元衆生を思ふ事親疎をわかたず、平等に済度の心を存じ、世、出世間ノ利益、都て自利を憶はず、人に知られず主に悦ばれず、ただ人のため善き事を心の中になして、我れは是のごとくの心もつたると人に知られざるなり。この故実は、先づすべからく世を棄て身を捨つべきなり。(4-3)

 

400怒ることなく、つつしみあり、戒律を奉じ、欲を増すことなく、身をととのえ、最後の身体に達した人、かれをわれは<バラモン>とよぶ。

道元―一切の是非を管ずる事無く、我が心を存ずる事なく、成し難き事なりとも仏法につかはれて強ひて是れをなし、我が心になしたき事なりとも、仏法の道理になすべからざる事ならば放下すべきなり。(6-2)

 

401 蓮葉の上の露のように、錐の尖の芥子のように、緒の欲情に汚されない人、かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

道元―我が身をだにも真実に捨離しつれば、人に善く思はれんと云ふ心は無きなり。然れどもまた、人は何にも思はば思へとて、悪しき事を行じ、放逸ならんはまた仏意に背く。ただ好き事を行じ人のためにやすき事をなして代りを思ふに我がよき名を留めんと思はずして、真実無所得にて、先生の事をなす、即ち吾我を離るる第一の用心也。(4-3)

 

402 すでにこの世において自分の苦しみの滅びたことを知り、重荷をおろし、とらわれの無い人、かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

道元昔、智覚禅師と云いし人の発心出家の事、この師は初めは官人なり。富に誇るに正直の賢人なり。有る時、国司たりし時、官銭を盗んで施行す。旁の人、是れを官奏す。帝、聴いて大いに驚き恠しむ。諸臣皆恠しむ。罪過已に軽からず。死罪に行なはるべしと定まりぬ。爰に帝、議して云く、「この臣は才人なり、賢者なり。今ことさらこの罪を犯す、若し深き心有らんか。若し頚を斬らん時、悲しみ愁たる気色有らば、速やかに斬るべし。若しその気色無くんば、定めて深き心有り。斬るべからず」勅使ひきさりて斬らんと欲する時、少しも愁の気色無し。返りて喜ぶ気色あり。自ら云く、「今生の命は一切衆生に施す」と。使、驚き恠しんで返り奏聞す。帝云く、「然り。定めて深き心有らん。この事有るべしと兼ねて是れを知れり」と。仍ってその故を問ふ。師云く、「官を辞して命を捨て、施を行じて衆生に縁を結び、生を仏家に稟けて一向に仏道を行ぜんと思ふ」と。帝、是れを感じて許して出家せしむ。仍って延寿と名を賜ひき。殺すべきを、是を留むる故なり。今の衲子も是れほどの心を一度発すべきなり。(2-9)

 

403明らかな知慧が深くて、聡明で、種々の道に通達し、最後の目的を達した人、かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

道元―「行堅き人は自ら重ぜらる。才高き人は自ら伏せらる」「深く耕して浅く種うる、なほ天災あり。自ら利して人を損ずる、豈果報なからんや」学道の人、話頭を見る時、目を近づけ力をつくして能々是れを看るべし。(6-20)

 

404在家者・出家者のいずれとも交らず、住家がなくて遍歴し、欲の少ない人、かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

道元―諸ノ有道の師、先規悟道の祖、見聞するに皆戒行を守り威儀を調ふ。たとひ小善と云ふとも是れを重くす。未だ聞かず、悟道の師の善根を忽諸する事を。(4-8)

 

405 強くあるいは弱い生きものに対して暴力を加えることなく、殺さずまた殺させることのない人、かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

道元―仏子は、如来の家風を受け、一切衆生を一子のごとく憐れむべし。我れに属する侍者所従なればとて、呵責し煩はすべからず。何に況んや同学等侶耆年宿老等を恭敬する事、如来のごとくすべしと、戒文分明なり。(4-6)

 

406敵意ある者どもの間にあって敵意なく、暴力を用いる者どもの間にあって心おだやかに、執著する者どもの間にあさて執著しない人、かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

 

407芥子粒が錐の尖端から落ちるように、愛著と憎悪と高ぶりと隠し立てとが脱落した人、かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

道元―智恵ある人の真実なるは、法のまことの義をだにも心得つれば、云はずとも、我が非及び我が先徳の非を思ひ知り、あらたむるなり。是のごとき事、能々思ひ知るべし。(6-23)

 

408粗野ならず、ことがらをはっきりと伝える真実のことばを発し、ことばによって何人の感情をも害することのない人、かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

道元― ただその人の徳を取り失を取ることなかれ。君子は徳を取って失を取らずと云ヘる、この心なり。(4-7)

 

409この世において、長かろうと短かろうと、微細であろうと粗大であろうとも、浄かろうとも不浄であろうとも、すべて与えられていないもの物を取らない人、かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

道元―人皆生分有り。天地之れを授く。我れ走り求めざれども必ず有るなり。況んや仏子は、如来遺属の福分あり。求めざれども自ら得るなり。ただ一向に道を行ぜば是れ天然なるべし。是れ現証なり。(4-9)

 

410現世を望まず、来世をも望まず、欲求がなくて、とらわれの無い人、かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

道元―学人、人の施をうけて悦ぶ事なかれ。またうけざる事なかれ。故僧正云く、「人の供養を得て悦ぶは制にたがふ。悦ばざるは檀那の心にたがふ」と。是の故実は、我れに供養ずるにあらず(6-6)

 

411こだわりあることなく、さとりおわって、疑惑なく、不死の底に達した人、かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

 

412この世の禍福いずれにも執著することなく、憂いなく、汚れなく、清らかな人、かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

道元―顕には非分の僻事をすると人には見ゆれども、内には我執を破りて名聞を捨つる、第一の用心なり。(2-16)

 

413曇りのない月のように、清く、澄み、濁りがなく、歓楽の生活の尽きた人、かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

道元―花は年々に開くれども皆悟道するにあらず。竹は時々に響けども聴く物ことごとく証道するにあらず。ただ久参修持の功にこたへ、弁道勤労の縁を得て悟道明心するなり。(5-4)

 

414この障害・険道・輪廻(さまよい)・迷妄を超えて、渡りおわって彼岸に達し、瞑想し、興奮することなく、疑惑なく、執著することなくて、心安らかな人、かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

道元―古人云く、「光陰虚しくわたる事なかれ」と。(5-4)

 

415この世の欲望を断ち切り、出家して遍歴し、欲望の生活の尽きた人、かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

道元―学道の人、衣食に労することなかれ。この国は辺地小国なりといへども、昔も今も顕密二道に名を得、後代にも人に知られたる人、いまだ一人も衣食に饒なりと云ふ事を聞かず。皆貧を忍び他事をわすれて一向その道を好む時、その名をも得るなり。況んや学道の人は、世度を捨ててわしらず。何としてか饒なるべき。(1-4)

 

416この世の愛執を断ち切り、出家して遍歴し、愛執の生存の尽きた人、かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

道元―唐の太宗の時、異国より千里の馬を献ず。帝是れを得て喜ばずして自ら思はく、「直饒千里の馬なりとも、独り騎りて千里に行くとも、従ふ臣なくんばその詮なきなり」と。因みに魏徴を召シてこれを問ふ。徴云く、「帝の心と同じ」と。依って彼の馬に金帛を負せて還さしむ。今は云く、帝なほ身の用ならぬ物をば持たずして是れを還す。況んや衲子は衣鉢の外の物、決定して無用なるか。無用の物、是れを貯へて何かせん。(1-10)

 

417 人間の絆を捨て、天界の絆を越え、すべての絆をはなれた人、かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

 

418<快楽>と<不快>とを捨て、清らかに涼しく、とらわれることなく、全世界にうち勝った英雄、かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

道元―俗の云く、「我れ金を売れども人の買ふ事無ければなり」と。仏祖の道も是のごとし。道を惜しむにあらず、常に与ふれども人の得ざるなり。道を得ることは根の利鈍には依らず。人々皆法を悟るべきなり。ただ精進と懈怠とによりて得道の遅速あり。進怠の不同は志の到ると到らざるとなり。(1-7)

 

419 生きとし生ける者の生死をすべて知り、執著なく、よく行きし人、覚った人、かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

420 神々も天の伎楽神(ガンダルヴァ)たちも人間もその行方を知り得ない人、煩悩の汚れを滅ぼしつくした真人、かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

道元―我ガ心も、また本より習ひ来れる法門の思量をばすてて、ただ今見る処の祖師の言語行履に次(第)に心を移しもて行くなり。是のごとくすれば、知恵もすすみ、悟りも開くるなり。元来学する所の教家の文字の功も、捨つべき道理あらば捨て、今の義につきて見るべきなり。(3-4)

西天竺国には、髑髏をうり髑髏をかふ婆羅門の法、ひさしく風聞せり。これ聞法の人の髑髏形骸の功徳おほきことを尊重するなり。いま道のために身命をすてざれば、聞法の功徳いたらず。身命をかへりみず聞法するがごときは、その聞法成熟するなり。この髑髏は、尊重すべきなり。いまわれら、道のためにすてざらん髑髏は、佗日にさらされて野外にすてらるとも、たれかこれを礼拝せん、たれかこれを売買せん。今日の精魂、かへりてうらむべし。(『正法眼蔵』「行持」)

 

421前にも、後にも、中間にも、一物をも所有せず、無一物で、何ものをも執著して取りおさえることの無い人、かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

道元―古人の云く、「百尺の竿頭に更に一歩を進むべし」と。この心は、十丈のさをのさきにのぼりて、なほ手足をはなちて即ち身心を放下せんがごとし。是れについて重々の事あり。

今の世の人、世を遁れ家を出たるに似れども、行履をかんがふれば、なほ真の出家にては無きも有り。所謂出家と云ふは、先づ吾我名利をはなるべきなり。(6-21)

 

422牡牛のように雄々しく、気高く、英雄・大仙人・勝利者・欲望の無い人・沐浴者・覚った人(ブッダ)、かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

道元―先聖必ずしも金骨にあらず、古人豈皆上器ならんや。滅後を思へば幾ばくならず、在世を考ふるに人皆俊なるにあらず。善人もあり、悪人もあり。比丘衆の中に不可思議の悪行するものあり、最下品の器量もあり。然れども、卑下して道心をおこさず、非器なりといって学道せざるなし。今生もし学道修行せずは、何れの生にか器量の物となり、不病の者とならん(1-2)

 

423 前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を滅ぼしつくすに至って、直観智を完成した聖者、完成すべきことをすべて完成した人、かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

道元―食も人と同じく(食し、衣も人と同じく)服し、飢を除き寒を禦ぐ事も同じけれども、ただ頭を円にし衣を方にして斎粥等にすれば、忽に衲子となるなり。成仏作祖も遠く求むべからず。(1-7)

  

 

この資料は自身の勉学に供する為のものである(筆者)。