正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

酒井得元 龍吟提唱

、  龍吟提唱

 義雲頌著 第五十一龍吟 是什麼章句

吟曲付曾落五音、花開枯木帯春心、 

宮商角羽同和処、此引調高誰敢侵。

 

面山述賛 第五十一龍吟 述云  

三十二相是枯木、六十四音是龍吟、

了之回光則六凡四聖無分外底法、

賛言、一代時教、枯木龍吟、鴉鳴雀噪

總是梵音、機輪撥転上中下、言語道断古来今。

 

まず義雲の頌著から入ってまいります。皆さんもご存じの通り、この義雲さんは永平寺の五代さんで中興義雲大和尚と云われる人で、1253年から1333年までの人です。

義雲さんの龍吟に対する著語は、「是(これ)什麼(なん)の章句(しょうく)ぞ」ですが、これは禅語でありまして「什麼(なんの)」ということばが大事なんですね。実は私(得元老師)はこの「什麼(なんの)」を疑問詞とは採らないんです。「什麼」は中国読みでは「シェンモ」ですが我々は「シモ」と読んでいます。

「什麼物恁麼来」は六祖のことばで「なにものかいんもらい」と読みますが、この「なにもの」には正体はありませんぜ、これは。どれに限るものがない事が「なにもの」ですよ。これこそはと云ったものがないのが「なにもの」だ。つまり「なにもの」と云うのは一切の物を称して「なにもの」と云うわけだ。普通の我々の日常会話の「なにもの」と違いますよ。禅語はこの「なにもの」という語が使われるようになってから中国禅宗は趣きを発揮するようになったんです。元祖はこの六祖の「什麼物恁麼来」からですよ。これ以前には直接この「なにもの」は語録等に出て来ませんでした。『信心銘』の中にもこの言葉はなかった。五祖(大満弘忍)からもこの言葉は出て来ませんでした。六祖(大鑑慧能)が始めてこの言葉を開拓したとしてもいいんじゃないかと思う。

「什麼(なに)」という言葉を私流に申しますと云うと「真実」ということを表現し、このくらい仏法の真実という言葉を明確に示した言葉はないんじゃないかと思う。だいたい真実というものは「これこそが」というものはありませんもの。私たちが学問をやりまして一所懸命追求している、あの追求とうとうこれが本物だという・これが真実だというものは、真実じゃないんですね、私がそう思っただけのものだ。自分がそう思えるようなものを、どこまでも人間は追求している。だからして必ず反対論が出てきて、そうすると猛烈なケンカをすることになる。真実は取り消しになり、いつしかその真実を語った者が博物館入りしますね。そうして哲学史なら哲学史の中に入っちまう。哲学史というのは、これまで人間がどういう風な考えをしたかというものを並べ、昔こんなことをやったんだという宝物です。博物館にある鍋や釜を持ってきましても私らの飯は炊けませんものね。「真実」というのは、ああいう博物館入りの物ではなく、生きているんです。それで「なにもの」と云ったんです。

つまり「龍吟」という言葉がこれほどまでに「真実」を表現したことばはないと云うことですね。そういう著語ですよ。

まづ「禅」というものと「学問」との間に隔たりがあるのもその辺りから来るものです。残念ですけどね、これは。たとえ学問はどんなに進んでも、宗教としての「禅」は一致しません。仕方がない、これが「龍吟」の所以です。

吟曲不曾落五音 花開枯木帯春心

宮商角羽同和処 此引調高誰敢侵

まづ頌を見てみましょう。

吟曲曾(かつ)て五音に落ちず

花枯木に開いて春心を帯(お)ぶ

宮商角羽同和の処

此(こ)の引調高く誰か敢えて侵さん

私は始めの吟曲不曾落五音を見るとすぐ思い出す。これは洞山の玄中銘の句ですよ。

「胡笳曲子、不堕五音。韻出青霄、任君吹唱。」

胡笳ノ曲子ハ、五音ニ堕セズ。韻ハ青霄ヨリ出ズ、君ガ吹唱スルヲ任ズ。

「胡笳」というのは胡人ですね。北方民族・野蛮人のことでその連中が笛を吹くわけだ。ところがあの笛は音階に背いているそうですよ。

昔、沢木老僧がある所に講演に行ったそうですよ。そこでは講演の前に尺八を吹くんだそうですよ。その尺八が非常に気持ち良く、静まりかえって話もやりやすかったそうだ。そこで講演が終わったあとで、その尺八の演奏者の人たちに「今日の尺八は素晴らしかったですよ」と云ったそうだ。

そうしたら彼らが云うには「この頃の音楽界では私らの尺八を問題にしない」と。音階がないからだめだってさ。ドレミファソラシドの音階に当てはまらんそうだよ。それで音楽じゃないと笑われてバカにされると。

そういうことを聞いてまして、そこで和尚さっそく胡笳の五音には「吟曲不曾落五音」ということがありますから、ご心配なくと云ってやったと。

ですから、この偈を見るとその時のことを思い出すんですよ。音階というものはね、西洋音楽ではドレミファソラシドの八音でしょう。でもこればっかりが全てじゃありませんぜ。

―この間テープ欠けるー

これを称して枯木と云ったんだ。この枯木の絶対性を称して龍吟と表現したと取っていただきたい。従いまして、俺は徹夜して坐禅しておった。とうとう俺は絶対的な体験をした。何ともないというのが本当ですよ、これは。絶対的体験はある一時の興奮でしかすぎない。一時のある景色でしかすぎない。一度人間はそういう体験をすると、うれしくてしょうがないからね、嬉しかった事はなかなか忘れないものだよ。そうして何かあると嬉しかった物語を語るわけだ。今どうだと云うと、あの時の体験~。人間には記憶があるからよくない。それが普通の宗教的体験というものになる。神秘的経験とか、そんなとこになりますけどね。

この尽十方界真実というものは、あなたを喜ばせるものではない。感激させるものでもなんともない。私たちはそれに対して一向に感ずることはできない。この感ずる事ができない事を称して枯木と称したんだ。だから「枯木龍吟」というのは枯木であるというのが素晴らしい活動である。これを「龍吟」と表現した。必ずしも龍吟というのは音じゃありませんぜ。活動を称して「枯木裏の龍吟」と云ったんだ。

ですからして、「花枯木に開いて春心を帯ぶ」

仏教者という者は何処に気が付かなければならないか、どういう処に眼をつけなければならんか。この枯木に眼を開いていただきたい。枯木に眼を開く処に世界が開けてくるものだ。それが「花枯木に開いて春心を帯ぶ」という表現をしたんだ。私達は枯木ということに気がつき、そこに初めて私たちの人生に明るいものが生まれて来るわけだ。目や耳で見ようにも見えず聞くこともできない。感覚以前の問題だ。

そこで「宮商角羽同和の処」。この龍吟は五音なんていうものに左右されませんぜ、これは。そこでは皆な入っちまうんだ。宮も商も角もあったもんじゃなく、みんなそこで一緒くたんになっちまうんだ。同和の処。ケンカしませんぜ、これは。みなそこに収まっちまうんだ。今は宮だとか商だとか、そんなものありゃしない。

「此の引調、高し誰か敢えて侵さん」

これが全ての表現ですよ。枯木がもとですよ。枯木によって全てのものが支えられている。だから枯木は尽十方界真実人体というふうに解釈してもらうとわかる。この尽十方界の活動している処を称して同和の処と云ったんだ。

此の引調・音階だよ。非常に高尚だもの、宇宙いっぱいがそうだから。ですから誰か敢えて侵さん。だれもこいつをどうすることもできないよ。作ったものじゃないですから、自然のあり方ですから。それで此の引調高く誰か敢えて侵さんと云うんですね。

 

面山述賛 

述云、三十二相是枯木、六十四音是龍吟、了之回光則六凡四聖無分外底法、

賛言、一代時教、枯木龍吟、鴉鳴雀臊、總是梵音、機輪撥転上中下、言語道断古来今。

面山さんの生まれは1689年亡くなられたのが1769年の方で、正法眼蔵各巻に述賛というものを付けていらっしゃいます。読んでみましょう。

「述して云く、三十二相は是れ枯木、六十四音は是れ龍吟、之を了じて回光すれば、則ち六凡四聖分外底の法無し。賛に言く、一代の時教、枯木龍吟、鴉鳴雀臊、總て是れ梵音、機輪撥転す上中下、言語道断古来今。」

まづ「三十二相は是れ枯木」

三十二相八十種好と云いまして仏さんの人相のことですね。仏の姿を称して三十二相と云い、仏様の実態を称して八十種好と云ったと受け取ってください。これが「枯木」であります。こういうふうに面山さんは採ったんです。なかなか上手い表現をしたと思いますね。

それから六十四音と申しますのは、仏の声は六十四音あるそうです。つまり仏の表現を「枯木」であり「龍吟」であると云うことですね。

「之を了じて回光すれば則ち六凡四聖分外底の法無し」

之(枯木・龍吟)を了じて(理解して)回光(照らす)すれば、則ち六凡(六道)四聖(仏・菩薩・縁覚・声聞)分外底の法無し。こうなると皆「枯木」と「龍吟」の中に入ってしまうのね、これは。凡夫も枯木と龍吟の中に入ってしまいますぜ。

賛に言く。一代時教、枯木龍吟

お釈迦さまの一代で説かれた教えというものがあります。何を説かれたかと云うと、枯木龍吟以外説かれたものはなかったと云うことです。

概念の世界ですと「枯木龍吟」という感じは出て来ませんけどね。あの漢字がいっぱい羅列してあるものなんか見ても「枯木龍吟」なんて事は云ってませんぜ、これは。例えば倶舎論とか唯識のあれなんか。

沢木老僧が云ってましたよ。「ドウガクショ」(?)という36巻もの書があるものね。法隆寺の同級生が36巻の書を丸暗記しておったって云うものね。沢木老僧、法隆寺で正月は帰る寺がないものだから、憲道さんと云う法隆寺育ちの和尚は、その36巻もの「ドウガクショ」をよく覚えておったそうだ。丸暗記だもんな。正月の二月堂とか回る時その「ドウガクショ」を丸暗記で云うんだそうだ。実際呆れたそうだ、沢木老僧は。

しかし、この表現はいいでしょう。「一代時教、枯木龍吟」

「鴉鳴雀臊」鴉が鳴いたり、雀が臊(さわ)いだりするのも總て是れ梵音と云うことになる。

私が子供の頃、すぐ裏が東海道線でしたよ。時間の関係で汽車がひっきりなしで通過したもんですよ。振動が激しいんですよ、家がガタガタガタいう。普通の人は地震かと思うよ、地盤の関係です。人と話ができませんよ、これは。それが毎日年がら年中それを繰り返しておりますと、この振動がないと変になるのね。その振動のせいで胃袋が悪くなった人は一人もいないのね。生まれた時からこれ(振動)を梵音と聞いたらいいのね。自然の音調と聞いたら障りにならんでしょうね。私はこの總て梵音という処をいただきたい。

「機輪撥転上中下」

機輪とは真実の活動のことを云います。全てのものが真実の回転をしている(撥転)上中下と。

言語道断古来今

信心銘のことばを拝借したんだね。ことばで表現できないから言語道断で、古来今とは永遠ですから、永遠の真実はことばで以て表現できない。

要約しますと「枯木龍吟」ということは、言葉で以て表現出来るものではないと云う事になります。真実もことばで以て表現できない。ことばはただ讃嘆するだけで、讃嘆したところで実際に「枯木龍吟」は伝わるわけじゃありません。概念を超越してもらわないとならないと云うわけだな。

これが言語道断古来今ということですね。

 

これから本文に入ってまいります。

この「正法眼蔵第六十一」と申しますのは、先程も紹介しましたように七十五巻本の順序でございます。

舒州投子山慈済大師、因僧問、枯木裏還有龍吟也無。

師日、我道、髑髏裏有獅子吼

舒州というのは何処かと申しますと、安徽省安慶市懐寧県という処の寂住院という処に居りました。投子山という場所はそんなに不便な所でもないんですね。揚子江の近くですね、これは。この慈済大師は普通は投子大同(819―914)と呼ばれている人です。石頭希遷(700―790)から見ますと丹霞天然(739―824)・翠薇無学・投子大同となりますから曾孫に当たるんですね。

この投子大同に対し僧が質問しました。

「枯木裏還って龍吟有りや也(また)無しや」枯木には龍吟が有るだろうか無いだろうかと云う問題提起ですね、これは。

これに対して「我は道う、髑髏裏に獅子吼あり」髑髏はシャレコウベのことで、獅子吼とはお釈迦さまの説法を云い、第一義諦を獅子吼と受け取ってください。

シャレコウベの中に獅子吼があると云うと変な風に考えますぜ。この間ある所へ行きましたら、木材に詳しい和尚に会いましてね、説法聞いたよ。立派な本堂でしたよ。その和尚云うには、私の寺では欅は使っておりませんと。私らは欅が最高だと思ってましたが、その和尚が云うには欅は最高じゃありませんよと云うんだ。欅は20年位しか寿命がありませんと云うんだ。そこでは津軽のヒバを使うんだそうだ。津軽のヒバは半永久に使えるそうだ、はっきり知りませんけどね。ですから、その和尚の寺では安物の欅なんか使いませんとさ。

とにかく、全てのものには寿命がありますぜ。その寿命の事実を「枯木」と云ったんだ。宇宙の真実を称して「枯木」と云うんだ。「枯木」に花が咲いた所にいろんな様相があるんだ。この「枯木」に花が咲いた様相を「龍吟」と云ったんだ。

そこで本文に入ってまいりますと、

枯木死灰の談は、もとより外道の所教なり。

外道と云う者は理想主義ですぜ、みんな。必ず理想と云うものがありますよ。極点に向かって暴走させるのが外道ですぜ。外道の教祖は、自分で決め込んだ最高のものを持っていますよ。それを振り回すもんだから、そいつに騙されて一所懸命努力するようになる。

ですから、外道には尽十方界の真実はありませんし、個人の満足しかありません。外道と云うのは思想家と云ってもいいな。自家製の真実を持っている、これが外道やね。広い世界にありながら自分の部落を作って潜り込んでしまう。ちょうど貝殻みたいなもんだ。人間にはそういう風な貝殻的習癖がありますよ。それが外道ですよ。

しかあれども、外道のいふところの枯木と、仏祖のいふところの枯木と、はるかにことなるべし。

外道の云う枯木と仏祖の云う枯木は違いますよ。彼ら(外道)の枯木は理想像だ。煩悩が起こって来ないような、すかっとした状態。私(得元老師)は見たことはなかったんですが、中国のお坊さんには断食することがあったのね。沢木老僧が昭和のはじめに中国のお寺をずーと歩き回りました。その時に大きな寺に行きますと、片隅に大きなカメがあったそうだよ。それから姿勢の悪い仏さんがあったそうだ。漆が塗ってあってね、金箔が押してあるんだそうだ。ところが、あんまり姿勢が悪く、このカメは何だと聞くと私(中国僧侶)が死んだらこのカメに入れてもらうんだってさ。カメに入れて三年経ってミイラに成っていたら成仏した証となり、こいうふうに棚に祀ってもらえるんだそうだ。私の成仏は「これですよ」と云ったのを聞いて、沢木老僧変な感じをしたそうだよ。ミイラ崇拝になっちまう、これは仏法じゃないよ。

いつの間にやら人間の情と云うものが暴走するわけだな。それが「枯木」じゃありませんぜ、これは。

仏祖のいふところの枯木と、はるかにことなるべし

次元が違います。

外道は枯木を談ずといへども枯木をしらず、いはんや龍吟をきかんや

同じように、「枯木」を談ずるけれども枯木を知らない。私たちの本来のあり方が龍吟だ。大自然の動き、尽十方界の真実が「龍吟」ですよ。

外道は枯木は朽木ならんとおもへり

これは朽ちた木だ。腐った木と思ってしまう。

不可逢春と学せり

だから春にならんとな。人間の理想主義というのは、こんな所にまで暴走するんですからね。世の中では人間を「万物の霊長」と云いますけど、どうかなー。他の動物なんかは着物を着んでもいいしさ、デパート行って買い物せんでもいいしさ、ちゃーんと天然自然に毛皮が備わっているものな。寝間着に着替えんでも、どこでも寝られることになっている。人間は彼らの毛皮を剥いて人間が着てるものね、ミンクは恨んでいるだろうなー。こないだ電車に乗ったら、首が付いたの有ったぜ。

仏祖道の枯木は海枯の参学なり。海枯は木枯なり、木枯は逢春なり。木の不動著は枯なり。いまの山木・海木・空木等、これ枯木なり。萌芽も枯木龍吟なり。百千万囲とあるも、枯木の児孫なり。

「海枯不尽底」海枯れて底を尽くさずと云う言葉があります。海はどんなに枯れても底を現わさないということですね、これは。これが「海枯」という意味だね。太平洋が枯れたらどうだい、おもしろかろうなー。

「海枯の参学」の「海」とは無限を表すのね、無量無辺を云う。永遠に変化しないことが「海枯」です。やり終えた、仕上げたと云う事はありませんぜ。

「海枯は木枯なり」の木が枯れるとはどういう事かと云うと、「逢春なり」と云うことだ。変なことばだな、これは。実際困るでしょう、道元さん頭がどうかしてるんじゃないか?と思うでしょう。海が枯れて木が枯れる、関係ないじゃないか、こう云いたい処だ。つまり、木の枯れるということも逢春も「海枯」の一ツの風景だと見て下さい。つまりこの「海」は無量無辺を云うわけだ。無量無辺の中には、あらゆる事がその中に含まれているよ。含まれていなかったら「海」じゃないもんな。

「海」を考えてごらん。「大海不宿死屍」・大海は死屍を宿さずと云う言葉があるな。私(得元老師)は最初こう思ったんだ。海岸に死骸が上がってるでしょう、海は死骸が嫌いだから海岸に打ち上げたんだと思っていたんですよ。ところが「大海」というのは、そういう意味じゃないのね、「大海」というのは塩水ばっかりじゃないね。魚も鯨も何もかもあの(大海)中に生きてるんですよ。ですから「海」と云うのは全体を称して「海」と言うのね。

私の知り合いがこんな事云うたことがある。鯨が脱糞しますとね、大変だってね。その周辺が物凄く汚れるんだってね。量が多いんだってね、そのはずだよ一トンぐらい食べるんだから。その知り合いが云うには鯨というのは養殖ができないよ、と云っとったよ。あのエサの賄いが出来ないそうだよ。やっぱりあの鯨というのは「大海」でないと生活できないそうだよ。

日本海では、鯨の養殖は無理でエサが足りないそうです。その人は海洋学の先生だったよ。海洋学というのは潮の流ればかりと思ってましたが、規模が大きいんだね。

とにかく「海」というものは、あらゆるものを含んでいるから「海」と云うんだね。そうすると「大海不宿死屍」と云う死骸が海の中に入ったら死骸でなくなるのね。魚も「海」だよ、海の中にいる間は。

そうすると「海枯は木枯なり」という事もわかってもらえるでしょう。つまり木が枯れるという事も「海枯」の一ツの風景ですよ。それから春に逢うという事も「木枯」の一ツの風景ですね。

「木の不動著は枯なり」

変なことばでしょう。「不動」ということに「著」が付きましたね。「著」は助辞ですから「木の不動」ということですね。「不動」というのは絶対的なと云うことで、「木」は「木」であると云う事を称して「枯」と云ったんだ。

「いまの山木・海木・空木等、これ枯木なり」

今度は「山木」と云いました。「山」・「海」・「空」これは「海枯」の風景ですね。だからして「木」という言葉で以て「山という事を表現すると「山木」になり、「海」を表現すると「海木」になる。「空」は青空で、これも「海枯」の一ツの風景ですから同格になり「木」になり、「これ枯木なり」

「萌芽も枯木龍吟なり」

「萌芽」というのも「木」ですからこう云ったんで、芽も動きますから「枯木龍吟」と云ったんだ、それぞれ変化しますから。

「百千万囲とあるも、枯木の児孫なり」

百千万囲というのは、我々をとり囲んでいる全てのものを云い、これらも「枯木」の一族でないものはない。だからこの「枯木」は枯れ木じゃありませんぜ。この段で一番大事なことは、「仏祖道の枯木は海枯の参学なり」です。

 

枯の相・性・体・力は仏祖道の枯樁なり、非枯樁なり

枯の相性体力これは「十如是」のことを云ったんですね。『法華経』に於いては「十如是」というものがあります。つまり「十如是」というのは真実のあり方を「十如是」ということですね。ここでは真実そのものを「枯」と云ったんだ。真実というものは永久に変わらないものですよ。全てのものに影響されません、そのことを「枯」と云ったんだ。枯れて「枯」になったんじゃなく、いつ枯れたというものではない。

「枯の相性体力は仏祖道の枯樁なり」の「枯樁」とは杭のことを云い、棒杭です。「枯」というもののいろんな姿があり、これを棒杭であったり棒杭でなかったりと、いろんなことがある。

 

山谷木あり、田里木あり。山谷木、よのなかに松柏と称ず。田里木、よのなかに人天と称ず。依根葉分布(根に依って葉分布す)、これを仏祖と称ず。本末須帰宗(本末須らく宗に帰すべし)、すなはち参学なり。

道元禅師の仏法は必ず両面を採ります。片方だけは決して採りません。プラスと云いましたら必ずマイナスも採ることになっている。仏法と云ったら非仏法だな、必ず云います。会仏法なら不会仏法と、必ずなきゃならない。と申しますのは紙を使うのもね、裏があってこそ必ず字が書ける。裏に支えられて表があり、表ばっかりの紙も裏ばっかりの紙もありゃしないでしょう。

ですから「枯樁・非枯樁」があるわけだ。これは大事なことですぜ、喜びばっかりじゃ困るぜ悲観することもなきゃ。腹が減ることもありゃ、満腹することもある。あの満腹というのはおもしろいね。腹が減るからいいのね、ありゃ。腹が減らんかったら気持ち悪いね。朝起きたら腹が減ってるでしょう。あの気持ちのいいことな。腹が減らんかったら、こんなに不愉快なことないもんな。

ところがある時、これが悲劇になることがあるでしょう、飯がない。次の飯が望めないと云うことになるとね、時々刻々悲しみが近づいてくるものな。腹の中がドンドン淋しくなる、皆さんもそういう立場になってごらん。人生おもしろいから。

これが「枯樁なり、非枯樁なり」

「枯木」にもいろんな「枯木」があります。世の中の表情を「枯木」と受け取ってください。悲しむという事も「枯木」の表情・喜ぶという事も「枯木」の表情・病気する事も「枯木」の表情・死ぬという事も「枯木」の表情と思ったらいいでしょうが。

それを次に「山谷木あり、田里木あり、山谷木よのなかに松柏と称ず」と。

山谷木というのは山の中の木でしょう、あるいは里のき。

「田里木よのなかに人天と称ず」

山の中には人間はいません、里の方には人間が居ますから。我々は「田里木」ですよ。

「根に依って葉分布す」

根は単なる根ではありません。根があって葉が繁茂しなかったら根じゃないものね、これは。その根というものが「枯木」ですよ。「枯木」が繁茂している。

「これを仏祖と称ず」

仏祖というのは開山堂のお位牌じゃありません。道元禅師の「仏祖」は全自己の「仏祖」という意味になりまして、宇宙の真実を称して、つまり尽十方界の真実を称して「仏祖」と云うわけだ。「仏祖」を修行するから「仏祖」になったんですぜ、これは。

「本末須らく宗に帰すべし、すなはち参学なり」

私たちの修行というものは、「枯木」を修行することです。この「枯木」の修行法は「只管打坐」ということになるわけだ。つまりこの「只管打坐」の修行というものは、あらゆる現象に捉われないで、「枯木」を修行することだ。尽十方界の真実を修行することだ。もっとはっきり云うならば、「身心脱落」を修行することだ。精神的なもんじゃありません。人間は精神活動が盛んですから、やる事なす事ということが先行しております。唯物論とか観念論とか云う意味じゃありませんぜ、これは。唯物論というのは人間が考えた一ツの論理、唯心論というのも人間が考えた一ツの論理の世界だよ。人間の性格によって考えたことだ。人間の考えというのは夫々の生活によって違いますからね。いつの間にやら、その生活が人間の性格をつくってますよ。だからね、お寺なんかで育つというと、観念論的になるよ。それから普通の生活では拝金主義になるね。いづれにしろ、如何なる思想であっても、その人の思考法によるわけだ、真実じゃありませんぜ、これは。結局は真実というものは、人間が考えたものじゃありませんからね。宇宙の真実というものは、人間が考えることじゃありません。私たちの眼の前にある事実、同時にここに生きてる事実、この全ての事実が尽十方界の真実です。この事実に対して私たちはお目にかかることはできないし、感ずることもできない。あの時、体験したすばらしい経験も一ツの表情にしかすぎない。お天気のようなもんだ。今日は素晴らしい日本晴れ。日本晴れも、ほんのわづかの様相だよ。雨が降ったら日本晴れも吹っ飛んじまうわ-。昨日の日本晴れ何処行った?知らねえな。

これが本当の「脱落」だ。これを修行することだ。人間は苦しい時には、苦しみが無くなるようにと願いを持つ事になってる。例外なしにさ。私はこれまで、苦しい時にはもっと苦しむようにとか、受験勉強してどうか不合格になりますようにとか、こんなお願いは聞いた事ないな、人間の習性としては。病気になったら、治りますようにと駆け回り猶更疲れる。大抵の病人は治す為に苦労するんで、ノイロ-ゼ患者がそうでしょう。治す為にますます病気が重篤になる。

 ―テ―プ欠―

「脱落」というのは物がなくなる事じゃないですぜ。間違ってもらっちゃ困りますぜ。私は「脱落」したから親が死んでも悲しくないとか、悲しいことが無くなり楽しいことばっかり、そんなのはどうかしてるよ。なかにはそんな事狙って、一所懸命に修行する人もありますよ。そういう修行すると頭の構造が変になってくるのね。異常状態になる。異常を「さとり」と心得るバカ者もあるわけだ。人間なるが故にだな、これは。なるほど人間というのはそんなものだ。そこでこの「枯木」ということをよく学んでいただきたい。

だからここでは「本末須べからく宗に帰すべし、すなはち参学すべし」こいう風に言葉をかえる。修行というものはこれです。「もとに帰る」ということだな。特別の状態になる事じゃありませんぜ。

かくのごとくなる、枯木の長法身なり、枯木の短法身なり。もし枯木にあらざればいまだ龍吟せず、いまだ枯木にあらざれば龍吟を打失せず。幾度逢春不変心(幾度か春に逢うて心を変せず)は、渾枯の龍吟なり。宮商角徴羽に不群なりといへども、宮商角徴羽は龍吟の前後二三子なり

-提唱かわる-

「枯木」であるというは、一体どういう事であろうか。先ずこれを、はっきりとしていただきたい。「枯木」をはっきりしておかないと、この「龍吟」の巻はわからません。「枯木」とは木が枯れた事じゃございません。つまり「枯木」とは永久に変わらないものが「枯木」です。春になろうと秋になろうと、ちょっとも変わらない。夏になっても「枯木」冬になっても「枯木」。こいうのが「枯木」です。

実はこの巻の「枯木」は何を表したかと申しますと、「解脱」ということを「枯木」と言い換えたと受け取っていただきたい。「解脱」・「脱落」そのものですね。

要するに「枯木」とは尽十方界真実人体が「枯木」です。ですから「枯木」以外のものは世間にはないと云うことです。それを頭に入れて読んでいただくと、わかっていただけると思うんです。外道・二乗の連中が一所懸命努力して「解脱」するとか「脱落」するとか云いますと、人間否定で、乾物(ひもの)になることですよ。また自殺行為にもなりますよ。そういう行為は「仏法」じゃありませんぜ。私たちがこういう風に生きている事実には変わりありませんよ。例えば時が来れば腹が減り、風邪を引くこともある。風邪引くのも身体の「おつとめ」だな、仕方がない。不愉快と感ずることも、ガッカリすることも、喜ぶことも、全て避けることはできません。こういうことを『御抄』では「荘厳」と言ってますよ。おもしろい言葉ですね。お寺では本堂に幕を掛けるでしょう。本尊さんの前には御花を立てたり御供え物をしたりと、こういうのを「荘厳」と申します。「荘厳」とは実際の働きをすることですね。

これが私たちの宗旨です。ですから「さとり」というものは、人間が人為的に異常な状態を作り上げる事ではなかった、と云う事です。「灰身滅智」のように「枯木」を考えてはいけません。この「枯木」の活動は個人のものではございません。尽十方界真実の活動です。この様相を「龍吟」と云ったんです。「龍吟」の意は、龍が歌ったと云った小さな事じゃございませんよ、これは。宇宙全体の蠢きと云ったらいいかもしれない。これが「枯木裏龍吟」と云うことです。「龍吟」は「龍吟」として受け取ればいいのですが、いざ事があると表面上の波に引っ掻き回されて「龍吟」を忘れてしまう。これが人生であり凡夫という者だ。お釈迦様みたいな立派な人でも病気はしましたぜ。風邪も引いたでしょうね。お布施が少なかったら、がっかりしとったらしいから、私たちとちょっとも変わらないのね。

この人生上の全てのものを大切にしなければならない。苦しい事は苦しいまま、嬉しい時は嬉しいまま素直にいただくことが大事だ。これが「枯木龍吟」という意味にとっていただきたい。

「かくのごとくなる、枯木の長法身なり、枯木の短法身なり」

これはどういう事を云ったかと申しますと、我々の眼の前にはいろいろな人間が居ります。大きいのも居れば小さいのも居る。人間ばかりじゃありません。一枚の紙があるとすれば、隣りには大きい机がある。こういうのを称して「長法身法身」と云うわけだ。

この世の中にあるいづれの物も、勝手に存在してる物はありませんぜ。みな尽十方界の真実として存在して居ります。

人間ばかりが尽十方界真実じゃ御座いません。リンゴ一ツでも尽十方界真実リンゴと云っていい。また尽十方界真実ノミと云ってもいいな。この頃はノミをあんまり見かけませんけどね。昔は棚経に行きますと、あちこちの家からノミをいただいてくるんですぜ。着物を玄関で脱がされ裸になり、それから中に入ったもんだよ。そりゃ大変でしたぜ、この頃はノミがいなくて淋しいですぜ。体中にノミの斑点がついていたもんですよ。それが当たり前でしてね。ついつい昔を懐かしんで、こんな話をしてしまいました。

「もし枯木にあらざればいまだ龍吟せず、いまだ枯木にあらざれば龍吟を打失せず」

みんな「枯木」で御座います。「枯木」は永久に変わらないという事ですから、尽十方界の真実を称して、これを「枯木」と云う。春になろうと秋になろうと、いろいろ様相はありましょうけど、尽十方界真実に於いては変わりがない。これを「枯木」と云うわけだ。その働きを「龍吟」と云うわけです。「龍吟」とは全てのもののあり方を「龍吟」と云います。

「幾度逢春不変心」

これは大梅法常禅師(752―839)のことですね。大梅さんが山の中に入ってしまって全然出て来なかった。それで塩官斉安(―842)の道場の雲水が杖を探しに行って、道に迷ってしまって山を出る道を見失ってしまった。その時に一人の和尚が坐禅してをり、どういうふうに山を下ればいいですかと尋ねると、大梅法常は知らないと云う。いままで山を下りた事がないから知らないと云う。雲水はさらに聞くと、大梅は「隋他去」と云ったそうで、更に雲水は大梅に向かって何年山居するかと聞くと、山の樹々が芽吹き、緑になり、枯れ落ちる光景を「幾度か春に逢うて心変わらず」と云う話です。

「この心を変ぜざる」状態が「渾枯の龍吟なり」。

渾枯と申しますのは、尽十方界が「枯木」であるという事を云ったわけだ。「渾枯」と申しますのは、この宇宙全体が「枯木龍吟」で御座います。「枯木龍吟」以外のものは何もなかったと云う意味です。

「宮商角徴羽に不群なりといへども、宮商角徴羽は龍吟の前後二三子なり」

宮商角徴羽と云うのは中国の音階なんですね。西洋のドレミファソラシドが、中国ではこの五音になるわけだ。ここで「龍吟」と云うからには音として聞こえますから、こう表現したんです。「龍吟」と云うものは音階に填まりません。五音で処理するわけにはいきません。

義雲さんの頌の箇所でも云いましたが、洞山の『玄中銘』の句―胡笳の曲子は、五音に堕せず。韻は青霄より出づ、君が吹唱するを任す―を紹介しましたが、必ずしも音階に合わなかったら、音楽にならんと云う事はありませんぜ、これは。昔は日本の琴とか尺八とかは、音階に填まらないそうで、当時の演奏者は僻んでましたぜ、浪花節もそうやね。この頃はそういう事は云わなくなったそうです。本当の音楽は音階を超えたものでなければ、本物の音楽はありませんぜ、これは。

私らの処には声明というものがありますよね。あの声明も音階に表そうとして苦労している人がいるらしいね。あれはやっぱり音階じゃ表せないらしいですよ。私ら習う時にはね、個人と個人で習いまして、喉のここをこうするか、あ―するかが口伝らしいよ。今はすっかりご無沙汰だ。

この前同窓会がありまして賀茂川に行ったんです。(得元老師70歳の昭和55年頃)私が幹事やりましてね、世話人ですから行きましたよ。そうしたら唄歌えでしょう、わしゃ唄知らんもんな。皆歌うんだが、こちらだけは調子はずれだ。五音に堕せずと云うことになる。

「宮商角徴羽は龍吟の前後二三子なり」

つまり音階と云うものも「龍吟」の中に入ってしまうという事です。音階が全てじゃありませんよ、それを超えたものが「龍吟」と云う事です。この「龍吟の二三子」と云う表現なかなかいいでしょう。音楽家さん達は音階にばかり縛られてますけど、我々みたいに音階なしの唄を歌う、この方が本当だよ。そのかわり聞き手がないからね。

しかあるに、遮僧道の枯木裏還有龍吟也無は、無量劫のなかにはじめて問頭に現成せり、話頭の現成なり

遮僧の遮は「這󠄀」と同じですよ。遮(こ)の僧の道う所の枯木裏に還(かえ)って龍吟有りや也(また)無しや。この僧が「枯木裏云々」を発明したかどうかはわかりませんが、「枯木の中にかえって龍吟があるでしょうか、ないでしょうか。」次に云う「無量劫のなかに」の「無量劫」ということが大事なんだ。「無量劫」とは永遠のことですね。この「劫」は時間のことですが、大変な時間ですよ。それが無量ですよ、無量無辺ということです。我々が測ることができない事が無量無辺です。私たちはどういう風に生きてるか、知らんもんね、これが無量無辺ですよ。お医者さんでも、人間がどういう風に生きてるかをご存じないでしょう。どういうわけで新陳代謝をやっているのか。胃袋がどうして塩酸を出してやっているのか、ご存じないと思うな。胃袋の塩酸とか膵臓インスリンは生理学の実験でわかりますけど、自分の体はどうにもならんもんね。これが本当の無量無辺と云う事です。大自然の絶対的を称して無量無辺と云ったんです。この絶対的なことに対してびっくりしないものな。私らがびっくりすると云うのはね、大きな建物にびっくりしたりさ。私はいつも新宿へ行ったら高い建物に感心しますよ。ところがあそこに行った時には感心するんですけど、駒沢から見ると、あ―あれかと思うぐらいでしょう。大した事ないね、あれ(高層建物)。我々は絶対的なものに対しては、何ともないと云うことやね。我々が神様の恩恵を蒙ったり、大変な恩寵を感じたりする、碌なことないね。何ともないと云うことが本当の御利益だな、これは。有難いということだ。これを忘れたらいけませんぜ。これが無量劫ということだ。漢和辞典で調べても「無量劫」はわかりませんよ。

「はじめて問頭に現成せり」

これは単なる起語←調べて下さい。じゃ御座いません。

「枯木裏」すばらしい言葉だな。「龍吟有りやまた無しや」と云いますけど、「ありやまたなしや」と云う疑問詞がおもしろいな、これは。疑問詞と云うのは、禅語では必ず疑問詞という事が当たり前になってますね。と云うのは全てのものを断定する事は許されないからだ。「龍吟」と云ったら「龍吟」しか頭に考えないでしょう。この「龍吟」は宇宙の動きを称して「龍吟」と云ったんですぜ、これは。普通の人が考えた「龍吟」とは違いますから。仕方がないからここで「龍吟有りやまた無しや」と云う疑問詞を使っている処に含み置きを願いたい。禅語の特徴と思って下さい。断定したらいけないんだ。ですから中国の禅宗が発展したのは、疑問詞で発展したんですね、これは。大乗仏教の論部の方にはこういう表現はありませんぜ。禅に於いて初めてこういう形態になったんです。

「無量劫のなかにはじめて問頭に現成せり」

質問という形になって出て来たんだと。この質問という事が答えなんです。喩えて云いますと、「如何なるかこれ仏法の大意」と云うでしょう。仏法とは何ですか、と聞こえるでしょうが、ところが「如何なるかこれ仏法の大意」と云う事が、仏法の正体を云ってるんですよ、これは。単なる質問じゃありません。「いかなるか」は「いかなるも」と読んでもいいんですぜ。断定する事はできないから「いかなるか仏法の大意」ですよ。

それと同じで、「問頭」と云うのは仏法を最もよく表現したものです。ですから「問頭に現成せり」現成と云う言葉は、一体どういう言葉かと申しますと、いままで無かったものが現れるという事では御座いません。私らの「正法眼蔵」に於きましては、「現」と云うのは「生のまま」を「現」と云い、「成」とは生のままが完全と云う意で、私(得元老師)は「現成」とは「現実」というふうに解釈して居ります。

現実を眺めて見るときに、わかるものは何もありませんぜ、これは。みな「これは何だろうか」と見るのが本当のものの見方ですよ。はっきり知ませんぜ、言葉と云うものは不完全ですからね。ですから「活頭の現成なり」こう云う話になったと。いま一度「現成」とは、生きた真実であると。

「枯木裏かえって龍吟有りや無しや」

単なる言葉ですけど、これは生きた現実でありますから、「問頭に現成せり、活頭の現成なり」とこういうふうに云うわけです。

投子道の我道、髑髏裏有獅子吼は、有甚麼掩処なり。屈己推人也未休なり、髑髏遍野なり」

慈済大師の道場で、ある僧が「枯木裏かえって龍吟有りやまた無しや」と質問した。そこで投子が「我は道う」と云いますが、「枯木裏龍吟」の質問には答えていませんね。「髑髏裏に獅子吼有りシャレコウベの中に獅子吼がある」と答え、また「甚麼の掩処か有らん」を言葉を換えて云うならば、「何の隠される処があるだろうか」つまり「全部開けっ放しじゃないか」という意味です。この言葉はそっくりそのまま「枯木裏還有龍吟也無」を表現しているものです。これを「甚麼(なん)の掩処か有らん。」

「己を屈して人を推すや未休なり」

これは「おのれの他にまた人あるべからず」と云うことで、「一方を証すれば一方はくらし」(『御抄』「曹洞宗全書」注解二・一一四二上)と昔から註釈を加えて居ります。おのれを屈して人を推薦し、未だ休んだことがない。と申しますのは、何を云ったかと云いますと、「自己を主張しない」・「自分勝手な主張をしない」ことです。

「髑髏遍野なり」

「遍野」というのは「枯木」と同義語です。「髑髏」はシャレコウベのことで永久に変化しないもので、春になろうと夏になろうと、シャレコウベはシャレコウベ。つまり宇宙全体のことをシャレコウベ「髑髏」と云ったんです。「遍野」は尽界の意で、「髑髏」は「枯木」に置き換えただけの話です。

 

さて、それで昔の人たちが、こう云う問題を提起して居ります。

香厳寺襲燈大師、因僧問、如何是道。

師云、枯木裡龍吟。

僧日、不会。

師云、髑髏裏眼晴。

後有僧問石霜、如何是枯木裡龍吟。

霜云、猶帯喜在。

僧日、如何是髑髏裏眼晴。

霜云、猶帯識在。

又有僧問曹山、如何是枯木裡龍吟。

山日、血脈不断。

僧日、如何是髑髏裡眼晴。

山日、乾不尽。

僧日、未審、還有得聞者麼。

山日、尽大地未有一箇不聞。

僧日、未審、龍吟是何章句。

山日、也不知是何章句。

聞者皆喪。

香厳智閑(―898)に対して僧が問う、「いかなるかこれ道」。実際は答えを出しているんですぜ。それに対し香厳智閑、「枯木裡龍吟」と云ったんですね。僧は「不会」わかりませんと云った。これに対し香厳は「髑髏裏眼晴」と云ったんですね。

今度は後に僧あって石霜(807―888)に問うた、「いかなるかこれ枯木裡龍吟」。石霜云く、「なお喜びを帯ぶること在り」。僧が「いかなるかこれ髑髏裏眼晴」と云うと、石霜が「なお識を帯ぶること在り」。

それから今度は曹山(840―901)に問う、「いかなるかこれ枯木裡龍吟」と云ったら、曹山は「血脈不断」と申しました。僧が日く「いかなるかこれ髑髏裡眼晴」と云った時に、曹山は「乾不尽」と申しました。僧が日うには、「未審いぶかし、かえって得聞者有りや」聞く者が有るんでしょうか、と云ったら、曹山は「尽大地未だ一箇の不聞有らず」。僧日く「未審いぶかし、龍吟これ何の章句ぞ」曹山日く、「またこれ何の章句か知らず。聞く者皆喪す。」

  ―テープ欠―

尽十方界の真実と云うものは、「あ―わかった」と納得のいくもんじゃ御座いませんから、納得ができたらだめですぜ、これは。納得というものは、どういうものであるかを願いいただきたいんだ。納得というのは、自分にそういう思想があるんだ。その思想にぴったり合致した時に「あ―わかりました」と云うだろう。私もこういうふうに考えていました、だろう。宇宙の真実がそんな事で以て片づけられたら叶わんな。だから「不会」というのが正解ですよ、これは。そうなると、おもしろいですねこれは。学校の試験の時に「不会」と出したら、これ正解になるわけだな。落第一人もいなくなっちまうな。この「不会」わかりません、とは違うよ。答案書きとは違いますよ。

 

「後に僧有りて石霜に問う」この石霜という人は枯木堂で有名な人物ですね。この石霜に問うた。「如何是枯木裡龍吟」、石霜が云うには「なお喜びを帯ぶること在り」。これは何を云ったかと申しますと、「枯木というものも単なる枯木じゃなく喜びもあるぜ」と云い、次に云う「如何是髑髏裏眼晴」と云いますと、「なお識を帯ぶること在り」。何故こんな事云ったかと申しますと、先程「枯木」というものは尽十方界真実を称して「枯木」と云ったと、永久に変わらないものが宇宙の真実で、永久に変わらないものを「枯木」と云ったと。我々から云いますと、私たちの体というものは尽十方界真実人体で御座います。人生にはいろんな事があります。どんな事があっても尽十方界真実人体を超えることは出来ませんぜ、その中でやってるんだ。

この頃では宇宙にロケットを打ち上げてるでしょう。そうすると、人間の能力を超えたように思うけど超えては居りません。人間が考えたことなんです。つまり人間の生命活動の中であんな(宇宙探査)ことやってるんだ。尽十方界真実人体を飛び越えることは出来ませんぜ。錯覚を起こしたらいけませんぜ。尽十方界真実人体の中の風景ですぜ。その事を「なお喜びを帯する在り」と申します。

それから「如何是髑髏裏眼晴」

シャレコウベの中の眼玉。この眼玉という事が「龍吟」と同じやね。これは何を云ったかと申しますと、「枯木」のあり方を「龍吟」と云う、こう私は解釈いたしました。「枯木」の表情だな。この「髑髏裏の眼晴」はこのようにとって頂きたい。

必ずしも眼玉(眼晴)というわけじゃ御座いません。つまりこの髑髏というもので、人間は生活して居りますよ。髑髏を離れては人間は有りませんもんね。この髑髏が尽十方界真実人体ということになります。あらゆる事が髑髏裏のなかで活動して居ります。今の宇宙ロケットだって髑髏裏の活動ですよ。その活動の状態を称して「髑髏裏の眼晴」と云ったわけで、そうして石霜は「なお識を帯すること在り」・意識があるのは、そこから来たんだと。どんなに私たちが分別判断しようと大した事ありません。尽十方界真実人体の様相でしか過ぎない。これを超えるわけにはいかないと云う意味です。

今度は「又僧、曹山に問う」

この曹山という人物は曹山本寂です。この人が曹洞宗に於ける処の元はこの曹山ですね。この人が洞上五位説というものを創っています。洞山から五位顕訣というものを戴いて、曹山が普及させたと云う事になって居りますけれども、洞山には大勢のお弟子さん(法嗣二六人)が居りますけれども、他のお弟子さんには一人も取り扱って居りませんから、この五位顕訣は曹山が発明したものでしょうね。この五位説が当時の流行に乗りまして、宋の時代には盛んにもてはやされた訳だ、大変便利だから。それで五位説にあだ名が付いちゃった、曹洞(そうどう)と云うあだ名が。曹洞宗というのは五位宗のことですね、これは。その元祖がこの曹山という人。曹山という人は他の人と違いまして、非常に学問的な人だった、概念的な人だった。それが他のお弟子さん達と違うんですね、哲学的な人物です。こういう人物ですから、あういう五位説を創ったと見た方がいいかも知れない。

「如何なるか是れ枯木裡の龍吟」

これに対し曹山は「血脈不断」と云いました。「血脈」と申しますと、お寺には「血脈」というものがあります。これはお釈迦様から伝わった名前が書いてあるんですよ。これを普通は「血脈」と云いますけど、ここでの「血脈」はそんな事ではないのね、これは。

「血脈不断」と申しますのは、「枯木裡龍吟」と云うものは永久に変わらないと云う事ですから「血脈不断」と云うわけだ。云うならば仏が「血脈」である。仏祖が「血脈」である、と云うふうに取ったらいいかな。その正体は「枯木裡龍吟」と云う事が、「仏」であり「祖」である。永久に変わらないものですから「血脈不断」とこう云った。

「如何なるか是れ髑髏裡の眼晴 曹山が云う乾不尽」

「乾不尽」という事は乾れる事でしょう。乾れても尽くさないと云う事やね。先程私は「海枯れて底を尽さず」と云いました。無量無辺を海と云いました。ここでは「髑髏裡の眼晴」に対して「乾不尽」と云いました。これは「海が枯れても枯れ尽くす事はない」と云う無限を云うわけです。何故かと申しますと「髑髏裡の眼晴」だ。髑髏裡というものが、尽十方界真実人体をこう表現したわけだ。髑髏ですから人情も何もありませんし、人間的損得勘定もありません。これを「枯木」と同義語で取り扱ったんです。ここでは永久に変化しないものを「乾不尽」と云ったわけです。

「僧日く、未審(いぶかし)還(かえって)得聞者有り麼」

僧の問いは枯木裡龍吟に対しては血脈不断。髑髏裡眼晴に対しては乾不尽と、「龍吟」であるからには声を出すものであるという概念があるので、龍が吟ずるのを得聞者・聞く者は有りやと聞いたわけです。

そこで曹山は「尽大地一箇の不聞者未だ有らず」

龍吟の声を聞かない者は一人もいないと。何を云っているかと申しますと、この世に存在しているものは全て「龍吟」であると。これを「一箇の不聞者未だ有らず。」音があるから聞くんじゃありません。存在している事が真実を聞いている、と云う事です。私たちが呼吸しているのも尽十方界の真実を呼吸してるんです。ノミ一匹にしろ尽十方界真実がノミたらしめているんですよ。聞くというのは、耳で聞くばっかりじゃありませんぜ、これは。

そこで僧は「いぶかし(未審)、龍吟是れ何の章句ぞ」

「龍吟」は何を云ってるんでしょうかという事で、そこで曹山が云うには「也(また)是れ何の章句ぞ知らず」何を云ってるかわからないと。いちいち言葉で云ってるわけじゃなく、呼吸をしている事実が「聞いている事」ですよ、これは。ノミが跳ねることも「聞いている事」です。「聞く者皆喪す」の「喪」という事は全てのものが龍吟以外のものはありません。と云う事は全てが「龍吟」ですから聞くことは出来ない事を「喪」と云ったんです。

いま擬道する聞者吟者は、吟龍吟者に不斉なり。この曲調は龍吟なり

「擬道する聞者」の「擬道」は云おうとしている、「聞者」聞く人、あるいは「吟者」うたう人は、「吟龍吟者に不斉」吟龍吟者とは違い、「曲調は龍吟なり」ですが、これは何を云ったかと申しますと、聞者という者も質問するという事も「吟龍」ですね。ただ姿が違っているから、「吟龍吟者n不斉なり」と云ったんだな。しかし違ってはいますが、龍吟の表情としての曲調でしかありません。全てのものが「龍吟」の様相である。

枯木裡・髑髏裡、これ内外にあらず、自他にあらず。而今而古なり。

「枯木裡」ということ、あるいは「髑髏裡」ということ。この裡(うち)と云う言葉がありますけれども、この裡には内も外も御座いません。尽十方界のことを「枯木裡」と云い、「髑髏裡」も尽十方界のことを云ったものです。ですから「内外にあらず」。俺だお前だという事はありません、ですから「自他にあらず」。「而今而古」は恒古恒今・古(いにしえ)に恒(わた)り、今に恒る。永遠っということやね。

猶帯喜在はさらに頭角生なり、猶帯識在は皮膚脱落尽なり。

これはどういう事かと云いますと、「猶喜びを帯する在り」これは尽十方界真実の世界には、いろんな現象が御座います。お天気がそうでしょう。お天気と云いましても雨の降る日もあるし、寒い日もあるし、大風の吹く日もあります。春もあるし秋もある。こいう事が「なお喜びを帯すること在り」でしょうね。「頭角生なり」・『御抄』では「荘厳功徳」と云ってますね。枯木龍吟の上の荘厳功徳とは綾模様と云っていい。私たちの人生と云いましても、ただ飯を食ってるんじゃありませんぜ。食事と食事の間にもいろんな事がありますぜ、これは。本読んだり新聞見たり、井戸端会議を開いたりと様々なことをやってましょう。河の流れで云うと水面にいろいろと模様があるのは当たり前でしょう。その模様は河を塞いだりはしませんよ。お構いなく河は流れ続けて居りますよ。河の流れそのものを「解脱」と云うわけだ。「解脱」と云う事になる。ですからその中の感情に引っ張り回されない事ですね。大抵の人はそれ(感情)が人生の全てと思ってる。ですから、そういう人たちには「解脱」とか「身心脱落」というものは、わかっちゃもらえませんね。「身心脱落」とか「解脱」を一ツの心境のように考える、大きな間違いですよ。「なりゃ」しませんぜ、「なった」のは演出してるよ。タバコ飲んだようなものだな。

「猶帯識在は皮膚脱落尽なり」

いま申しましたように、河の表面にはいろんな模様があります。模様があっても「枯木」というもの「髑髏」というものを左右するものではありません。「髑髏」も「枯木」も相変わらずやって居ります。そのことを「皮膚脱落尽」と云ったんです。私らは着眼点を換えて見るというのが大事だな。私たちが坐禅するのは心境を作ることじゃありませんぜ、尽十方界真実人体を修行することです。尽十方界真実人体を実践することで、一寸坐れば一寸の仏と云い、日常の行為を棚上げした姿が坐禅です。どんな事が浮かんでこようが、手足を動かしませんから仕事はしませんぜ。私らの人生は頭の中に浮かんで来なかったら何にもしませんよ。思い出すから手足を動かし台所に行き、つまみ食いやるわけだ。自然に思い出す、おもしろいね。頭を振って思い出すもんじゃないものね、自然と思いが涌いて来る。そこに人間の生活が始まり、失望・落胆というものが出て来るんだ。そこが人生の荘厳というものだな。失望・落胆は人生の飾り物で、必ずあるものですからね、ご承知おき願いたい。それが「猶帯識在は皮膚脱落尽なり」ということです。

先程は「猶識を帯する在りは皮膚脱落尽なり」・解脱の事を云ったんですね。我々はいろんな儀式をして居りますが、全て「脱落」に於いてやっている。そういう事を「皮膚脱落尽」と云う表現をしたわけです。何を云ったかと申しますと、我々の人生というものは、皆「脱落尽」という事を云っているわけですね。

人生の一大事という事もありましょうが、決して一大事ではないんです。尽十方界真実の中でやってる事に過ぎませんから、心配しなくてもいいと云うのが「脱落尽」で、いろんな出来事が人生上では有りますが、尽十方界真実の風景・様相ですから、様相に振り回されたらいけない。

人間苦しい時には苦しさが無くなるように、病気の時には治りますようにと祈願しますが、これも一種の風景でして、病気は自然に治るもので治らなかったら死ぬだけですから、心配しなくていい。死も避ける事は出来ませんぜ。死んだ時には悲しい顔してお悔やみ申し上げる、冬の寒い時には綿入れを着る、これが風景です。夏の暑い時に綿入れを着、お悔やみの時にゲラゲラ笑ったら変ですぜ。これを総称して「皮膚脱落尽」という事です。

曹山道の血脈不断は、道不諱なり、語脈裏転身なり

「道不諱」の諱は忌み嫌うの「諱」です。「道」は「血脈不断」を指しますから、血脈不断を「嫌っても仕方ない」とのこと。つまり「血脈不断」と申しますのは、皆さんがこういうふうに生きていらっしゃる事が「血脈」です。尽十方界真実人体として生きている事が「血脈」で御座います。

「語脈裏転身なり」とは、「枯木裡龍吟」と云う事と「髑髏裏眼晴」という事です。この言葉で以てこの言葉の中で全てをやって居ります。それを「語脈裏転身」と云います。

乾不尽は海枯不尽底なり、不尽是乾なるゆゑに乾上又乾なり

乾いても乾いても尽きる事は出来ませんぜ、海がそうですからね。その事を「海枯不尽底」なり。この「海」は太平洋の海を云ったんじゃありませんぜ。この宇宙の事実を称して「海」と云ったんだ。「不尽底なり」尽くす事は出来ませんぜ。「不尽是乾」・絶対に乾くという事はないですぜ。と云うのは「枯木裡龍吟」という事は永久に無くなる事では御座いません。我々は「龍吟」をやって居ります。毎日朝から晩まで「龍吟」をやって居ります。腹が減っては「龍吟」、失望しても「龍吟」。ですから「乾上又乾なり」・何処までも続けて居ります。云いますと何処までも「龍吟」であります。乾き尽きる事はありません。ですから俺はもう「悟ったから」もう悩む事はないと云うバカな事はありません。いつまで経っても悩み続けます。喜ぶ事も失望する事もある。これらは「枯木の荘厳道具」ですから。

聞者ありやと道著せるは、不得者ありやといふがごとし。

「龍吟」を耳で聞いた事があるかと云うは、得る者はないと云う意で、何から何までも「龍吟」で御座います。朝から晩まで「龍吟」尽くしですから「不得者」・つまり聞いた事がない、と云う事です。「龍吟」は耳に届くばかりじゃありませんよ。我々の生きてる事も「龍吟」です。空気が有るという事実も「龍吟」です。全てが「龍吟」ですから特別の体験は有りませんぜ。仏法というものには特殊な体験・経験は有りませんぜ。絶対的な体験、そんなものはお前さんが思った事で、ノボセタだけの話だ。ノボセも一時的な事で、すぐに熱が冷めますよ。熱が冷めたら昔の事を思い出し悦に入るわけだ。そこが臨済の禅との違いで、よく心得ていただきたい。

尽大地未有一箇不聞は、さらに問著すべし、未有一箇不聞はしばらくおく、未有尽大地時、龍吟在甚処、速道速道。

甚大地とは尽十方世界のことで単なる空間を云うものではなく、全てが活動しています。これを「未有一箇不聞」と云うわけです。「さらに問著すべし」・問著は聞くと云う事ですけど、ここでは「問題にしなさい」との意で、「未だ一箇不聞は有らず」はしばらく置いて、「未だ尽大地有らざる時」・尽大地は尽十方界ですから、尽十方界が無くなる事はありません。「龍吟甚麼の処にか在る」・どこにも龍吟はあります。全て龍吟ばかりですよ。これを「甚(なん)の処にか在る」・特定された場所ではありませんから、「どこにでも在る」。

「速道速道」とは「さあ云え」との事ですが、念押しの言句です。何を云ったのかと云うと、仏の世界は特別の世界ではないという事だ。この現実世界が諸相実相で御座います。この事実が真実そのものです。その事をこう云ったわけだ。つまり「正法眼蔵の成仏」と云う事は、世の中が変わる事では御座いません。現実そのものが「成仏」ですよ。これが大乗仏教の極意というものです。

未審、龍吟是何章句は、為問すべし、龍吟はおのれづから泥裡の作声挙拈なり、鼻孔裏の出気なり。

「龍吟」は一体何を云ってるのかね、「為問」すべし」質問しなさい。

  (龍吟はおのれづから泥裡の作声挙拈なり)←聞き取れず

「鼻孔裏の出気」とは、鼻の孔(あな)から息を吐き出している。この呼気が「龍吟」です。皆さん生きていらっしゃる、その事が「龍吟」で御座います。「鼻孔裏の出気」というのは人間だけじゃありませんぜ、猫だって犬だって魚だってやってますぜ、みんな。この生きてる表情が「鼻孔裏の出気」です。これが「龍吟」と云うことだ。

也不知、是何章句は、章句裏有龍なり

「也(また)知らず、是(これ)何の章句ぞ」・言葉と云うのは人間世界の約束事でしてね、約束事ですから人種が違えば言葉が違うのは当たり前でしょう。生活が違うから言葉も違ってくる。ですからインドの言葉が、そっくりそのまま中国語に訳されるわけにはいきませんぜ、これは。中国人が夢にも見たことないような事が、インドにもある。またインド人からすると、中国人が使っている言葉がインドにはない事もありますよ。「章句裏有龍なり」・章句は表現ですね。その表現の中には龍がある。

聞者皆喪は、可惜許なり。

「聞者皆喪」は「聞くという事は皆(全部)亡くなってしまう」と。聞くというのは耳で聞くばかりではなく、眼で聞き、皮膚で聞いてますぜ。そういうように「龍吟」は耳で聞くものじゃ御座いません。そういう事を「聞者皆喪」と云うわけだ。「可惜許なり」・惜しい事だの意で、「龍吟」を聞く事はないから、惜しいことだ。

いま香厳・石霜・曹山等の龍吟来、くもをなし水をなす。不道道、不道眼晴髑髏、只是龍吟の千曲万曲なり。

いま古則公安をやりました。香厳のことば・石霜のことば・曹山のことば、三人の言葉を吟味して参りました。三人の言葉は性格により違って居りますけども、みな「龍吟来」に於いては変わりありません。それぞれの個性によって表現しました。つまり、この「龍吟来」というのは「雲をなし水をなす」・つまり雲水という自然活動だ。「不道道」は「不道」ということばと「道」ということばで以て表す。つまり「龍吟来」という事は音が聞こえる場合と、聞こえない場合があります。道の場合・不道の場合がありますからして。

同時に「不道眼晴髑髏」・シャレコウベのひとみは永久に道(い)わないですよ。この道わない事が「龍吟」をやってますよ。「只是龍吟の千曲万曲なり」・「龍吟」にはいろんな・あらゆる表現があります。これを「千曲万曲」と云うんですね。シャレコウベも白いものも欠けたのもあります。私は向こうに居りました時、昭和二十二年でしたかね、引き上げの間際になりましてね。まあ、あの時ぐらい日本人がよく死んだ時はなかったね。お医者がいないし薬がないでしょう、病気で死んじゃうんですよ。ところがね、葬式をする方法がない。仕方がないから山に置いてきたんです。ボロに包んでね、置いてきました。二十二年の暮れでしたけども、二十三年の秋にそこへ行って来ましたよ。そうしたらね、累々として有るんですよ、みんなね。シャレコウベが全部転がってます。その時に初めて知りましたね、シャレコウベってこんな格好してるんだって、直々手に取った事ありませんからね。そうしたら歯がみんな無いのね、死ぬとこういう風になるんだって事を。男か女かの区別はね、髪の毛がその辺にあるかどうかでしたね。何だか可哀そうな気がしましてね、お経を挙げてきましたけどね。白骨が山ほど有りましたぜ。こんな事も「龍吟の千曲万曲」という事になりますね。

猶帯喜在也蝦蟇啼、猶帯識在也蚯蚓  

「喜びを帯びる」とはどういう事かと申しますと、「枯木」は単なる枯れ木じゃ御座いません。そこに、いろんな風景があります。「蝦蟇」というのは「がまがえる」の事ですね。がまがえるが啼くと云うのも「枯木」の鳴き声ですね。あるいは「髑髏の龍吟」かも知れませんね。それから「猶識を帯する在り、也(また)蚯蚓鳴なり」・識というのは識別・意識ですね。この意識活動も蚯蚓みみずが鳴いているのと同じだ。私はまだ蚯蚓が鳴くのは聞いた事ないけどね。皆さん、聞いた事ありますか。おそらく聞いた事ないだろうな。

これによりて血脈不断なり、葫蘆嗣葫蘆なり。乾不尽のゆゑに、露柱懐胎なり、燈籠対燈籠なり。

これらは皆、尽十方界真実の姿ですから「血脈不断」と云ったわけだ。「葫蘆」と云うのはカヤですね。葫蘆はどこまでも葫蘆で御座います。去年もそこにカヤが生えて居った。今年もカヤが生えて居った。「乾不尽のゆゑに」・乾れる事はありませんね、これは。いつまで経っても生えて居るのを「乾不尽」と云ったんです。「露柱懐胎」と云う事は、ここに柱がありますね、外に出て居りますから「露柱」と云うんですね。この露柱が子供を孕むと云うと、この言葉は現実じゃ御座いません。これは禅語ですね。「露柱懐胎」と同義語で「石女夜生児」と云う言葉もありますね。また「石の上に華を植える」・そんなバカな事できますか。と云う事が「露柱懐胎」と云う事だ。つまり何を云ったかと申しますと、人間の常識で解決はできません。私たちだけが了解すると云う事が真実じゃ御座いません。我々は眼で確認して安心して居りますけれども、それだけで尽十方界の真実を尽くす事はできません。そこで「露柱懐胎」と云う言葉があるんです。「燈籠対燈籠」・燈籠は相も変わらず燈籠をやって居ります。我々が理解しようとしまいが石燈籠のままです。燈籠はいろんな影響は受けません。雨が降ろうと風が吹こうと燈籠をやって居ります。この事を「燈籠対燈籠」と云うわけだ。つまり「枯木」の姿には変わりがない。「龍吟」に於いては変わりはない、と云う事を云ってるわけです。

正法眼蔵第六十一。この六十一というのは七十五巻本の順序の六十一巻目です。

この時、寛元元年癸卯十二月二十五日。1242年です

禅師峰(ぜんじぶ)・これは勝山の付近ですね、今でもあります。

弘安二年と云いますと1279年・永平寺の於いて之を書写すと云うのは、懐奘禅師がお書きになったと思います。1280年に懐奘禅師は亡くなって居ります。亡くなる一年前の書写ですね。弘安二年三月五日永平寺に於いて之を書写す。

 

この提唱録は数年前に横浜の方より譲り受けたテープをもとに、自身の勉学用に作成したものであり、文中に於ける字句は正確さを欠くものと思われるが、御容赦願いたい。