正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

佛性と時節  酒井得元

佛性と時節  酒井得元

佛性は、佛教を學ぶものの、先ず第一に問題としなければならぬことで、この性格を明確にすることが、その人の佛道の方向を明確にする。故に、古來、立教開宗の祖と言われる人達には、それぞれの佛性論がものされて來た。そもそも佛性というものは、『涅槃經』の中において我々は至れり盡せりの提唱を聞かされている。結局、それは「佛性者不可思議、乃是諸佛如來境界、非諸聲聞縁覺所知、善男子佛性者非陰界入、非本無今有非己有還無、從善因,縁、衆生得見」(「大正藏」十二・五二六) と云われているように、即ち、本無今有、己有還無に非ざる佛境界が佛性であつた。それが佛境界である以上、凡夫・二乗の全く知るところでないが、善因縁による時、衆生の上にもこれは現成するのであつた。善因縁とは如何なるものであるか。「首楞厳三昧力故能得二明了一」(「大正蔵」十二・五二五中)によつて善因縁が首樗嚴三昧であることがわかつた。

然らば、その首楞厳三昧とは如何なるものであるのか、「首楞者名一切畢竟、嚴者名堅、一切畢竟、而得堅固名首楞嚴、以是故言首楞嚴、定名爲佛性」(大正十二、五二五)といつている。結局一切畢寛である首楞嚴定はあらゆる事實の根柢である。その根柢であるという意味において永遠に不變でなければならない。即ち、あらゆるものの根柢は、観測を超越し、獨立を絶した他物のない、一として、絶對でなければならない。故に、この絶對を「一切諸法性本自空、、何以故、一切法不可得故」(「大正蔵」十二・五一五)といつて不可得で表現した。またこれを空といつたのである。故に、「汝言見空空是無爲中何所見、善男子、如是如是、菩薩摩詞薩實無所説、無所見者即無所有、無所有即一切法。」(「大正蔵」十二・五二一中)といつているのは當然である。即ち、空が無所見無所有であるのは當然である。然もそれは、観念としてではなく、一切法として現實の事實であつたのである。この一切法は他に観測者を持ないものなるが故に、「菩薩摩詞薩修大涅槃、於一切法悉無所見」(「大正蔵」十二・五二一中)と言われなければならなかつたのである。もし、所見所有が存するならば「若有見者、不見佛性」(「大正蔵」十二・五二一中) であつたのである。然らば、ここで言うところの無所見ということは、一體、如何なることであるか。そんなことが實際にあり得ることであろうかと疑を持ないではおられないことであろう。「慧眼見故不得明了。佛眼見故得明了」(「大正蔵」十二・五二七下)とあれば、この無所見のところが佛眼見であり、これが「於一切法悉無所見」であつた。

斯樣な無所見であつても、畢竟、これは經験上の事實ではない。故に、斯樣な表現の仕方が用いられて來た。無所見、無所有、一切法が同義語にとかれて來ているのは注目しなければならない。即ち、一切法の根本的性格が斯樣なものであつたのである。観測者を他に持ないのが一切法であつて見れば、その性格は經験の上には全く無縁であるのは當然である。人は經験を越えたものと言えばすぐ神秘的なものを豫想する。然し神秘はどこまでも經験内のことである。勿論、これが観念的に考えられたり、憧れの對象となるものであつてはならないことは論を俟ない。かくて私達は、無所有無所見に思惟的なもの一切を止揚して、自己を處せざるを得ない。無所有無所見ということは結局観測的な自己を止めて、一切法の中に沈潜することである。これを『佛性論』は「堪然常任、無生故説寂、無滅故説静」(「大正蔵」三一・八〇二下)と表現した。凡そ何かを求めて止まない人間が一切の人間的営みを止揚するとあつては、この現實をどうしようというのかという問題にぶつかるが、どうなるということもない、かくあることがまた現實である。如何なる生活型態にあるとしても、現實には變りはない。

かくて大乗佛者の立場が自ら判りとして來なければならない。十二因縁に對しても、即ち彼等には、これは輩なる現實の分析に止まるものではない。現實はそのままにして、有爲法であつた縁起は無爲法にまで高められ、観測者の立場から、その中に沈潜する、かくしてこの因縁は絶對となる。かくて『涅槃經』は「十二因縁其義甚深、無知無見不可思惟、乃是諸佛菩薩」(「大正蔵」十二・五二四上)といつているのである。頑強なる佛性未具足の衆生が如何にしたらば、佛性具足たり得るであろうか。ここで「欲見佛性、應當観察、時節形色」(「大正蔵」十二・五三二上) にこの解答を得ることが出來る。即ち具體的に首楞厳三昧を學ぶことが出來るのである。「時節形色」は、現實の一切法の姿である。此を観察せよとあつても、これは一切法なるが故に観測の場はなかつた。欲見佛性の我々は、ここで、如何にしても解決出來ない、所謂、難解難入に當面するのである。元來、無所見、無所有であつた佛性にあつて、人間の解決のあり得る筈はない。却つて難解難入こそ眞實であり、佛性の現成に外ならなかつたのである。然らば、凡夫人は如何がしたらよいのか。「夫出家人但随時及笛使得、寒即寒熱即熱、欲知佛性義、當観時節因縁。但守分随時過好」(五灯會元十巻)の法眼文益の言葉によつて蘇生の思いをさせられるのである。守分随時の生活の営みが「色上に非色の解を作すことなかれ、また色の解をなすことなかれ」によつてより佛性ははつきりするのである。

 

「印度學佛教學研究 6(2), 441-442, 1958」より抜書(一部改変)

 

これは二谷がpdfからワード化したものであり、出典などはsat(「大正蔵テキストデータベース」)を援用したものであり、旧漢字と新漢字の混用など雑な作業になってしまい謝する次第である。 猶これは小拙の酒井先生に対する報(法)恩の一環である事を記す。