正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

存在と佛性   酒井得元

存在と佛性   酒井得元

    一

大乗論部の破執分の論理的根幹をなすものは、一般的な性の概念を破して、無性を明かすことであつた。かくて、古來の佛者の努力の方向が、結局、この一點に終始していたということは、周知のところであろう。何故にこの一般的な性の概念を破しなければならなかつたか。即ち、これを明かすことが、佛道の根本的性格を明すことであつたからである。そこで先ず、この佛道への向上契機として、常に問題とされて來た性について、我々は根源的にその性格を追求して見なければならない。佛者は如何なる態度で性の概念を考えていたか、先ず龍樹の『中論』を見ることにする。「若汝見諸法、決定有性者、即爲見諸法、無因亦無縁(四諦品十六偈)(「大正蔵」三〇・三三中) とあつて、性そのものに對する態度をはつきりさせている。然し何故にこんなことが言われなければならなかつたかを考察しなければならない。

性とは元來、『大智度論』第三十一の「性名自有、不待因縁、若待因縁則是作法、不名爲性」(「大正蔵」二五・二九二中)にもあるように、自有、即ち自己の存在性を自己自身で決定するものでなければならない。故に、他によつて縁起されたもの、即ち作られたもの-作法-であつてはならない。かくしては、これが不變不改の原則として考えられるのは當然である。然るに、自有であつて、作法にあらざる性そのものというのは、主語とも述語ともなし得ないものでなければならない。故に、我々が日常とやかく考えたり論議するところのものは、眞實の意味に於ける性ではない。

概念に絶對になり得ないもの、これが性そのものの性格でなければならない。この意味に於て性は絶對である。故に性は思惟されるものではない。また、自覺され、経験されるものであつてはならない。これを支那佛教者は、不可得という語で表現したが、これによつて大乗佛教教理が、より深められたと言つてよいと思う。我々が日常、無造作に考えている-性は、性ではなかつた。ここに、眞實の意味に於ける性は、我々に意識されるものではあり得ない。然し思惟や経験によらない存在はない。故に思惟や経験を因縁和合とする佛者の立揚からは、「若不從因縁和会則無法、如是一切諸法性不可得故名性空」 (『大智度論』三一)(「大正蔵」二五・二九二中) と言われている。そして、この因縁和合が存在の原則であつたのである。そこで、この因縁和合を超越したものに就いて、その存在性が論ぜられることのあろう筈はない。この存在性が論ぜられ得ないということ、これが無法であつて、かかる性格を不可得といい、また性空といつたのである。

斯様に、絶對に経験も知覺も不可能であり、決して概念とはなり得ないにも拘らず、この性を経験し知覺し得られるものとして、また、それを概念として平氣で取扱つて、然もそこに何の矛盾も感じないでいるというのが、我々の日常である。この日常の現實に、鋭い批判が加えられるのは、當然と言わなければならない。これが、古來、佛法者の中に貫いている「破執」の精神に外ならないのである。

我々の日常というものは、元來、思惟が中枢をなしている。この思惟するということは、必ず事物を思惟するということでなければならない。即ち存在に絡らませなければ、思惟は出來なかつたのである。先ず、物として、または概念として固定することが、思惟・観察の基本的契機であつた。そこで、その固定の原理として性が要請されたのである。これが日常考えられている性の概念の性格である。またここに、我々の思惟の限界があるというものである。故に日常考えられている性は、嚴密に言うならば、思惟活動の構成要素であり、思惟の限界内の事項であつた。ところが、眞實の意味に於ける性の性格は、不可得でなければならなかつた。即ち、それは、絶對に認識對象となることはあり得ない、また、存在の概念を超えた、それ以前のものでなければならなかつた。ここに我々は、日常の性と、眞實の意味に於ける性とは、根本的相違というよりも、比較にならない、全く異つた次元であることに撞着するのである。

我々の日常の存在概念は有と無で始まる。佛教者は、これに對して如何なる態度を取つたか。「有無是諸見根、障中道本」(『中論疏』)(「大正蔵」四二・一一一中) にも見らるる通り、有無に基いて、諸見、即ち思想體系や生活體系といつたものが、創られてゆくというのである。然しながら、我々は何故に斯様な有無を持たなければならないのか。「問、衆生何因縁故起有無見。答、智度論云。愛多者著有、見多者著無。一切衆生唯有愛見」 (『中論疏』「同上」一一二上)) に示される通り、愛見、即人間の生活意欲にそれが起源することを、いみじくも指摘していると言わなければならない。意欲するところに有無の問題が起る。即ち有無は意欲の行動面に外ならない。そして在・不在は生活現象に於ける必須の條件であつたのである。

眞實の意味に於ける性は、かかる在・不在の問題を超えていなければならなかつた。故に、この性は生活をも當然超えていなければならないし、また、絶對に意欲の對象とはなり得るものではなかつた。斯様な性格を考察し來る時に、この人聞性を全く超えた性を不可得・寂滅という語を以て、この性格の消息を傳えんとしたニュアンスが、理解出來るというものではなかろうか。

斯様な性格を考察し來る時に、物の存在の確認の上に成り立つている日常に對して、「執法有性不見寂滅故。不能遠離虚妄分別」 (『大乗入楞伽經』五) (「大正蔵」一六・六一六下)と、存在・不存在に明け暮れする生活體系の不甲斐なさを極め付けるのも、佛者として當然であることが理解出來るであろう。

日常に於て我々は、性を存在の根據と考えている。然し、かく考えることを上述の『中論』偈は、「爲見諸法無因亦無縁」という素朴な型で誡めた。然し、存在の根族であると考えられるとき、性は、不攣不改でなければならなかつた。そして、そこでは因縁和合の生成存在を根擦づけ得ないという論理的矛盾を指摘した。凡そ、根據となるものは、その不改不變の原理、即ちそれ自らは、無因亦無縁でなければならない。然しこの無因亦無縁ということは、因縁和合を可能にするものではない。故に、かかる日常に於ける性は、却つて日常というものを否定し、存在も否定することになる。然し、この性を考える日常は、かくて論理的には矛盾はあつても、然もこの矛盾が、全く感ぜられることなく、存在は存在として認められているところに、日常の不思議がある。

日常、この存在が確認出來ない時には、その爲に必死の努力が繰り返される。然も、そのままにすますことには、非常な重圧感を堪えなければならないのも日常である。斯様な矛盾に成り立つている日常とはいえ、これは重圧感に堪えられぬまでも、如何にしても避け得られない、論理を超えた絶對的な事實であつたのである。

故に、この日常を否定しては、我々の生活も、我々自身も存在し得ない。ここで我々に残された道は、日常に随順することである。その随順は、何處までも、無因無縁の原理を排することであり、日常に性を考えることを排撃することである。何故ならば性を思惟の對象としてはならなかつた。そしてここに我々は、無性の眞實に當面し、不可得という語に無限の意味を感ずる。

   二

さて然らば、佛者は、経験の生活をどう見たかを考察しなければならない。経験の現實の構造を因縁和合とし、これを更に、より具體的に、分析解明して、有爲法となして、無爲法と区別を設けて説明していることは、既に、周知の通りである。有爲法は申すまでもなく、生活経験、即ち、生活の意欲活動である。生活それ自體は「生」のものである以上、「有爲諸法皆念滅、無停住義」(『佛性論』縁起分)(「大正蔵」三一・七八七上)「有爲法因縁力故本無今有、暫有還無」(『成唯識論巻』) (「大正蔵」三一・六上)にもあるように刹那生滅で一時の停止もあり得ない、これが我々の生活の實態である。しかも、斯く生きていかなければならないということは、生活の意識・無意識を超えた、嚴粛な事實であつて、誰人も廻避することが出來ない。この廻避することが出來ず、この意識的生活に明け暮れしなければならない自己の生活事實こそ、凡ゆるものを超えたものであることに當面する。即ち、必然的に、ここで我々の意識ではどうすることも出來ない、有爲法にして有爲に非ざる無爲法という事實に到達するのである。故に、無爲は意識生活を超えたもので、決して有爲の終着駅ではあり得ない。有爲は経験の世界にはあつても、無爲は、それを超えている以上、経験するということはあり得ない。故に「諸無爲法、離色心等一決定實有、理不可得」(『成唯識論論』二) には不可得の無爲の消息が述べられている。有爲そのものは、有爲であること、それ自體が、有爲ではなかつたのである。即ち、意識することそれ自體は意識的ではあり得ない、故に『大乗起信論』では「心性常無念」(「大正蔵」三二・五七七下)といつている。我々は意識するために意識することはあり得ない。故に『起信論』は「心起者、無有初相可知」(「同上」五七六中)といつて、更に、これを忽然念起(「同上」五七七下)といい、古人はこれに「無何所因起義」(山本儼識『冠導傍註大乗起信論義記』巻下)と註している。故に、これを無意識に意識すると言うことが出來る。有爲であることが、それ自體、無爲であつたのである。然し、有爲がそれ自體、無爲であつたということは、意識し、経験に上ることではあり得ない。即ちこれは単なる自覺反省であつてはならない。即ち意識を意識することが、自覺であり、反省であつた。これは、意識が意識を追うことで、意識されたものも意識である、これでは超えるどころか、全く循環を脱することはあり得ない。故に、常識的人格的反省には限界があると言わなければならない。何故ならば、この有爲はどこまで延長しても循環でこそあれ超えるということはあり得ないからである。たとえ超えたという自覺はあつても、それは意識されたもので、忽然念起の意識であつて、有爲法でこそあれ、無爲ではない。まして、この自覺を體験として持ち続けるに於ては、それは回想に生きているに過ぎない。

無爲は単に常識的自覺と反省の對照であつてはならない。却つて、そこには絶對に超えることのない有爲が、その有爲であることそれ自體、無爲の活動に外ならなかつた。故に、超えるということは、外に超えることではなく、内に超えることでなければならないのである。これを「心外無法」と我々は言い慣わしている。有爲を有爲と自覺すると否とに拘らず有爲であること、それが無爲である。有爲が有爲であること、それが無爲である。有爲が有爲であること自體、それ自體を超えているということは、意識的自覺にはあり得ないから、意識的生活の人間には縁のあることではない。何故ならば、彼等は意識的生活にのみ明け暮れしているからである。

かかる性格である有爲の根本構造を考えて見る。この意識生活々動の構造は、古い表現によるならば、能取、所取の對立であつた。現實に生きて、意識生活を続けるに於ては、この對立を脱することは出來ない。然し、「能所似分非隔別法こ」(『信心銘夜塘水』巻上) という古語にもあるように、能取、所取は単なる論理的對立ではない。對立それが意識活動である。自覺もこの對立するところに起る。覺するもののないところに自覺はない。その對立は念滅であり、無所有であり、「起而即謝」(「大正蔵」三一・七八七中)するものであるとは、世親菩薩の『佛性論』縁起分の指摘するところであつた。

日常、自覺、即ち、自己というものへの意識を、更に一歩堀り下げて見る時、その意識的なものは、本來、無意識的活動に外ならなかつたことになる。自覺は我々の行爲の意志的活動が始まつてより以後の問題であつた。然し、意志するそのこと自體は、何物かによりて意志されて意志したものではなかつた。即ちそれは無意志的であり、無意識的な活動であつたのである。故に我々は、日常、自己の意志することを疑うということはなかつた。即ち、これを疑わないでいられるというのが常識の生活であつた。疑うということは、對立があつてこそ疑うのである。即ち、疑うことがないということは、對立がないということである。

對立がないということは、無意識であるということである。即ち、そこには、意識しようとしても、意識すべき契機が存在しないからである。意識しようとしても、意識することの出來ない無意識は、意識を超えたものであるが故に、我々の経験以前の事實である。無意識には生活現象はない、勿論それには意志的行爲のあらう筈はないから無因縁である。從つて、そこには、凡そ人間的な努力が存しないから不生不滅である。即ち、これが無爲法でなければならない。「無爲法、名無因縁、常不生不滅、如虚室」(『大智大論』三一「大正蔵」二五・二八八下)) とは、よくこれを言い表わしている。

無意識は、我々が努力して到着し得るものではない。また経験し得られるものでないことは言うまでもないことである。佛者は、それ故に意識的生活を堀り下げて、内へ超える方向に努力しなければならなかつた。その努力が、幾く變遷かを経て到着したのが、唯識家になる阿頼耶識論理の創始であつた。故に阿頼耶識は論理的必然のもたらした、意識體であるから、最後的には止揚されて、無爲法に超えられるべき契機になつている。また、これが必しも阿頼耶識の型をとらない他の論理であつても差し障りはない。然るに、中世以降かかる性格が忘却され、兎角、絶對視され、論理的にも、心理的にも細分析され、抽象となり、更にその異議論事は論事を喚んで、煩瑣を増し、膨大なる末繹は末繹を重ねて、ますますその帰趨を晦澁に導いたことは、遺憾なことである。さりとは言え、佛者は、この論理を馳つて有爲法の精細な分析的理解に達し、無爲法へ超える契機を明確にしたことは確かである。故に、抽象に堕し、細密分析に進んだとは言え、本來的な意味に於いては、唯識創始者以上の論理的進展は得られなかつたと言えると思う。

有爲法を分析解明することによつて、無爲への超越契機を明確にした阿頼耶識論理は、因縁性の徹底的解明分析を本務とした。ために、その解明分析の終始は、却つて、因縁性の本來無意識的なものへの超越契機を明確にするどころか、その努力を削ぐ危瞼のあつたのも當然である。故に、必ず、三性三無性論理は阿頼耶識論に続き、それに基礎づけられることによつて成立するのであつた。

   三

我々の意識的世界は、一分二分三分四分、種々に論ぜられるとしても、「是諸識轉變、分別所分別」(『唯識三十頒』)(「大正蔵」三一・六一上) にもあるように、原本的な分別・所分別、即ち能取・所取の對立を、本來的構造としている。この對立そのものが、諸識の轉變即ちその時の生活活動であつて、発生的に見るならば因縁和合である。この因縁和合は、現實的には作爲であり、行爲である。この因縁和合そのものは本來「無何所因起」であり、「忽然念起」で、意志的ではなかつた。それが作爲的意志的であるというのは、その因縁和合の活動様相がそれだというのであつて、そのものは無意識的であつたのである。即ち、その因縁和合は、『大智度論』「有爲法名因縁和合生。所謂、五衆十二入・十八界等」(三十一巻)((「大正蔵」二五・二八八下) にもある如く、現實的には對立關係、意志的活動として現成し、具體的な有爲法の諸問題を展開させるのである。

かくて本來、對立を構造とする因縁和合は、有爲法として色々の事象を展開し、その中で我々は自己の生活活動を営むのである。然し、この生活活動は我々にとつては、嚴然たる事實である。この嚴然たる事實に直面した我々は、存在という問題に撞着しなければならなかつた。即ち、有無は、對立の必然が生んだものだつた。然しながら、有無は単なる概念ではなく、我々には生活の事實として、常にこれによつて、我々の生活は限定されていなければならない。故に、生活者には、有無は単なる對立的な問題ではなく、生活を成立させる契機であつた。

如何にしてこれらが生活の契機となるのであろうか。有・無は必ず、「何物」かの存在に連らなければならない。然も、その存在するものは、生活者には對象事實であるから、必ず決定性が要求されなければならない。そして、ここにこの存在するものに自性という概念の問題が起つて來る。『中論』第十五品の「Svabhava-pariksa」(自性の考察) が漢訳 (羅什) では有無品となつているのは、非常に意味深いことと言わなければならない。

斯くて誕生した自性の問題が、やがて、形而上學的な問題へ発達する契機をなすものである。有爲の終着駅は形而上學的問題である。佛教以外の一般宗教は、ここに開花する。然し有爲を超えて無爲へ努力する佛者には、これに安住することは許さないのである。自性は、存在關係に於いて、基本的概念となり、存在を決定づけることによつて、生活を成立させるのである。生活活動を営むものには、この自性は、必然的な要請でなければならなかつた。然し、自性はただ因縁和合の有無が生んだ事項では濟まされず、生れたものは、對立者として、生んだものに對する道理によつて、生活者は却つて、自性から限定された。

自性は生活者を限定することによつて自性性とでも言うべきものを確實にした。そして生活者はこれに奉仕し、趙州和伺の語によれば、これは「被十二時使」(『趙州録』「続蔵」六八・七八上)と言わなければならない。然し、これを超えて「使得十二時」の立揚へ轉換しなければならないというのが佛者趙州であつたことは申すまでもないことである。

自性は、所詮、因縁和合に於ける必然的一事象以上ではなかつた。因縁そのものは、本より我々の経験以前、意識以前の無爲の原理であつた。この本源的な無爲の立場に立つのでなければ、佛者は、自性の限定を脱することは出來ない。

然し自性は生活への契機として、どこまでも我々はこれに限定されなければならない。何故に限定されなければならないか。またここで、前記した『中論疏』の一文に答を仰がなければならない。「問、衆生何因縁故起有無見。答、 (中略) 一切衆生唯有愛見」とある、一「切衆生唯有愛見」に我々はこの解答が頂けると思う。即ち「愛見」は生活意欲であり、意欲的生活者が一切衆生であつた。これが因縁和合の現實的姿であり、生活するものの實相である。その愛見の根本契機をなすものが「自性」である。「愛見」は、現實的には個性的である。これは、「自性」を形成し、そしてそれから限定されるのである。即ち、自己を自性の活動としたのである。『無量義経』、『法華経』方便品等に、ごれを「性欲」といつたのは、適切な表現である。「愛見」は、途に自性を活動させてしまつた。活動を開始した自性は、「若人見有無見自性他性、如是則不見佛法眞實義」 (『中論』三)(「大正蔵」三〇・二〇上)に指摘されるまでもなく、我法二執の問題を発展させていつた。

前に嚴密なる意味に於ける「性」という概念について既に論じて來たので、今更、繰り返すまでもないが、要するに我々の人間生活よりは不可得であり、對立を超えて無性でなければならなかつた。然し、これに對して日常の生活々動にあつては、對象の存在物が不可欠であり、存在性はどこまでも確保されていなければならなかつた。そこで、當然、要請されるものが、その物の本質、即ち自性であつたことは既に考察し來つたところである。この要請は一般的にではなくて、個別的・個性的なものであつた。然もこの要請に何の疑いも持たれないところに、日常生活があり、そこに、我々は個性的な生活を営むのである。この生活が個性的であるのは、それが「性欲」に契機しているからである。性欲の個性活動は、意志的であるから、有目的的自己形成であつた。この有目的的であるということが、有爲法の核心であつたのである。

救濟・解脱等々を目指す一般宗教も、人闇の本來からなる性欲による必然の人聞の要求であつた。然しこれらが如何に目的が達せられたとしても、本來有目的的であるという意味で有爲を超えたものではない。最後的なものに達し得られると言うには、宗教独特の奇特玄妙の無理が行われていなければならない。何故ならば、目的の彼方に絶對が存在するのではないからである。また、それが達せられるものであるならば、それは絶對ではあり得ないのである。性欲活動のある限り、有目的的であり、その停止は死である。常に有目的的であるところに終着駅はない。然し我々の感情は、この限りなき流轉に堪えられない故に、絶對的なものへの要求は、却つて情的方向に偏執をもたらすのが一般である。宗教が兎角、超現實的魔術的であるのも、有爲の限界を情的偏執に逃避させた無理のしからしむるところと言わなければなちないであらう。そこには、絶對へ、即ち、無爲への超越の道が全く存しないからである。

   四

ここに我々は、『中論』の次の偈の「世間性」の語に注目ぜざるを得ない。「如來所有性、即是世間性、如來無有性、世間亦無性」(「大正蔵」三〇・三一上))。我々が有目的的な性欲の性格に從つて、その求める方向に、ただ進むのであるならば、情的偏執によつて、超越の感覺に憩うことはあり得る。然しそれは流轉輪廻の一駒ではあつても、永遠に有目的的であることを超えることは出來ない。即ち生活の方向を押し進めるに於いては超越はない。所有の性、即ち、存在するところの性は、それは自性であり、自性のあるところ個性的であつて、それは性欲であつた。性欲のあるところ、流轉輪廻の循環であつて、超越はない。これが世間性というのであつた。

大乗論部の破執分の論理の中心が、かかる自性を否定することを努力して來たことは、周知のところである。元來、存在は因縁和合の意志活動に契機したものであつた。日常は、この有無に限定されて生活し、然も、この限定されているそのことに一片の疑念をも懐くことのない。「十二時」に使われている世間性を指摘して、古人は斯病既深 (『中論疏』十四)(「大正蔵」四二・一一一中) と言つてその深さを慨いている。然しこの存在を超えることによる外には斯病から逃るる道は存しない。その存在を超えるということは、如何なることであるか。存在は意欲的なものをその根本契機としていることは、又繰り返すまでもないことであろう。この意欲的なものは、元來、無意志的、無意識的であつたのである。無意識的ということは、経験や自覺にはあり得ないことではなかつた。経験され自覚されるものであるならそれは無意識ではない。この無意識的ということは、意識を否定して得られるものではないことは、言うまでもないとで、故に、これを古人は「不可得」といつた。

この存在そのものた超える不可得は、存在を存在せしめるというような、「を」の助詞が用いられるようなものであつてはならない。故に「心不可得のことばをききて、心あるべきにあらずとばかりおもひて、かくのごとくとふにてあるらんとおぼゆ」(「心不可得」)にもあるように「あるべきにあらずと」と解してはならないという『正法眼藏』「心不可得」の巻の不可得の解釋は、此處において頂いておかねばならない。「不可得」は、意識や経験を超え、生活活動を止揚して、ただあるがままにあることでなければならない。これは、生活に努力することではなく、また斯くならんと努めるということでもない。ここにあらゆる生活的なもの、あらゆる有目的的なものを止揚することが現成する。即ち、或る事を斯くすることによつてというような、方法によつた現成ではなく、斯くあることが、現成であるのでなければならない。

これが、存在以前、存在を超えているという意味で、「無性」と言われている。故に『中論』で「如來無性」と言つていることが理解されると思う。斯く考察し來るとき、佛道の無所得無所悟の性格の眞實が理解されるのではなかろうか。

故に、この無性は、観念でも、概念でも、思想でもないし、また、その體験を他に物語れるものでもあつてはならない。凡そ、それが我々の自覺の上に現成し、そのものに就いて語られるようなものであるならば、これは逆戻りして、生活に堕し、全く超越ではあり得ない。ここに、古來の多くの佛學者の常に、不知不識の間に犯している誤謬の陥穽があつた。即ち無性は、ただ生活を止揚して、あるがままの行に現成するのであつた。斯くて、自性を止揚することによらなければ、無爲法はあり得ない。

一般的に、有無に絡始する生活を、『中論疏』では、「戯論」といい、「中道を障ふ」(「大正蔵」四二・一三中)といつた。これは、餘りにも現實を罵倒し、侮蔑するように感ぜしめることであろう。然し、好むと好まざるとに拘らず性欲の限りなき流轉輪廻の執拗な循環に明け暮れし、古人をして、「斯病既深」と慨せずにはおかなかつた、この現實を、超越せんとする揚聲止響であり、その激しさは人間性の深重を物語るものである。「顛倒見者、執法有性、不見寂滅。不見寂滅故、不能遠離虚妄分別」(『大乗入楞伽経』五) (「大正蔵」一六・六一六下)は、以上、葛藤に葛藤を加え來つた論旨を結ぶによい語であると思う。不寂滅の契機である性を止揚し、知覺や経験を超え、我々と縁のない不可得・寂滅の佛者自身の立揚を我々に明確ならしめ、更に我々をそれに導入するものがなければならない。その要請に應えたものが、佛性であつたのである。勿論、これは佛の本質であるのではなく、無性が佛性でなければならないのは當然である。この佛性によりて、上來の佛者の立場がより具體的に、より明確にされたのである。故に、この語が後期大乗経典になつて明確になつたのも、史的発展もさることながら、蹄結すべき理の當然であつたと言うべきである。

故に、佛性は有無を超え、存在を止揚し、自性を否定し、「非因非果、名爲佛性」(『大般涅槃経』二七)(「大正蔵」一二・五二四上) と言われなければならなかつた。一般的な生活を超えて、経験も、智覺もなし得ないものなるが故に、古來、その性格論争が賑つたのも、その性格のしからしむるところである。「佛性者名爲第一義」(「大正蔵」一二・五二三中)は餘りにも有名な定義になつている。第一義空は智慧であると続けて註することを忘れられてはいない。それに對して、「二室所顯眞如」と註する『佛性論』(「大正蔵」三一・七八七中)も、何れも概念を超えて、行に現成しなければならない契機を、示唆していることを見失つてはならない。不可得なる性空が、佛性という表現を持つたとき、大乗の行がより具體的となつた。それが「一切衆生悉有佛性」であつたのである。

生活を超えなければならない佛性は、「如是佛性、唯佛能知。非諸聲聞縁覺所及」(『大般涅槃経』八「大正蔵」一二・四一二中) といわれ、これが大乗佛者の常套語として膾炙されて、とかく、善善の臭の機縁とはなつた。然し「若得成就阿耨多羅三貌三菩提爾乃証知」(『同巻』七「大正蔵」一二・四〇八下) の片言は光を放つて、道元禅師をして、「佛性の道理は、佛性は成佛よりさきに具足せるにあらず、成佛よりのちに具足するなり、佛性かならず成佛と同参する」(『正法眼蔵』「仏性」)にまで到達せしめた。天桂和尚は「是故、成正覺後是謂佛性」と極言した。然し、斯くなつた時、大乗佛教は、具體的な行に発展し、浄土門の念佛行・禅門の只管打坐に具現していつたのである。

以上、存在から出発して、佛性を要請するまで論理を辿つみたのである。更に佛性の行への具現が、次に残された問題である。

 

「印度学仏教学研究 4(2), 351-360, 1956-03」より抜書(一部改変)

 

これは二谷がpdfからワード化したものであり、出典などはsat(「大正蔵テキストデータベース」)を援用したものであり、旧漢字と新漢字の混用など雑な作業になってしまい謝する次第である。 猶これは小拙の酒井先生に対する報(法)恩の一環である事を記す。