正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

因縁の考察  酒井得元

因縁の考察  酒井得元

因縁ということは、「阿頼耶識與雑染法互爲因縁、如炷與焔展轉生焼、又如束蘆互相依住唯依此二建立因縁、所余因縁不可得故」(成唯識論第二春)(「大正蔵」三一・八下)にもある如く、我々の生命現象の基本的購造を説明する概念として、自明の事の如く取扱われている。また因と果もこの公式の要素であるということを、余り疑うものもあるまい。然しこの日常性に慊(あきたら)ず、ここに疑問をもち、この論理構造を徹底的に追求して、その不成立を論証する中論者の努力は、仏者としては、余りにも當然なものと言わなければならない。

嘉群大師吉藏の「以観此正因縁不生不滅、乃至不來不去一故。此因縁即中道。因於中道発生正観」(中論疏一本一八)(「大正蔵」四二・五下)という言葉は、よく因縁という概念の性格を指摘している。因縁の根本的な性格の把握が正観の発生であり、その正観の発生が眞實生活の創造であつたのである。そしてかの八不中道という特殊な概念が我々にもたらされたのである。一應、因と果を根本的要素として因縁を現實に掘下るには、先ずこの概念を超えなければならない。その越えられた非概念的な概念が、八不中道という表現を齎らしたものである。

先ずその因縁を考えて見よう。それは何の因縁であるか、申すまでもなく自己の因縁であらねばならない。因縁が観ぜられるものとするならば、その観ずるものは自己でなければならない。この場合、観ずるものと観ぜられるものの対立が考えられなければならない。観ずるということは結局、対立することである。単なる観などという客観的なものはあり得ない。更に一歩退いて考えて見ると、観ずること、これは自己の生態であり、因縁である。因縁を観じようとするならば因縁が因縁を観ずることになる。こんなことは、論理の上ではあり得ても、事實の上にはあり得ることではない。古人はこれを無窮の過として示した。故に因縁は観ずることは出來ないことになる。即ち推論することはあり得ても、経験することはあり得ない。嚴密に言えば、更にかく推論するそのことも因縁であつたのである。故に斯く我々が生活現象を日々現ずるそのことが、因縁の自己表現であつたというより外には言いようはない。故に如何に推論して見ても因縁の事實は把握されるものではあり得ない。

八不中道は因縁が本來、我々の概念以前の事實であることを、概念の過程を通すことによつて、我々に自覚させんとする、不断の努力であつたと言いたい。なぜならばこれを概念というのには妥當ではない。即ち「以大乗法説因縁相、所謂一切法不生不滅、不一不異等、畢寛空無所有。」(中論青自繹大正三〇-一)(「大正蔵」六五・一〇四中)にもある如く畢寛空、無所有などは、概念とはなり得ない概念である。因縁は我々の概念成立以前の、然も、概念を成立させるものである以上、我々の直接経験し得ないのは當然である。かくて現實の我,々の経験は、因縁によつて縁起したものだつた。然も、その我々自身が因縁したものであるから、無媒介では八不中道といつたものは全く自覚される筈はない。

我々の生活要求は外界を限定することによつて発展する。限定には、先ず対立ということがなければならない。つまり限定は必ず対立の上に咲く生活現象の花であつたのである。故に因縁の問題はそれ以前にあらねばならない。対立には必ず實體的なものの要求がある。そこに、中論で示されるごとき、自性他性の概念の確立に始まつて、我々の生活々動の構成が概念化される。「善悪由身身田於貧貧由分別虚妄、虚妄分別由於顛倒、是以顛倒所見爲在家出家愛見本也」(中論疏一維摩経疏取意) (「大正蔵」四二・二下)の顛倒所見は限定活動の性格を働に即して明確にしたものと思われる。かくて自己自身が因縁であることを自覚出來ないものにして始めて、自己の生活の絶対性が確信され、その生活の中には、實體的なものが導入され、確立されるのである。神の支配を受けたり、絶対的権威の下に服從したりするなどは、この限界内にのみ生活を自覚するものの當然の宿命である。かかる實態を、即ち限定以前の自己自身の縁起の立場よりする時、これを顛倒と言うのである。從つて「神とは人間の愛そうとする欲求の象徴である」(フロム)(『精神分析と宗教』)など、此場合、愛見本として我々も受入れてよい。

因縁は我々の生存の限定生活以前の實態であるとするならば、因縁という語がどうして生じたのであろうか。僧肇に「覺觀麁心言語之本」(註維摩経三)(「大正蔵」三八・三四六中)と明示されたように、限定のないところに、この因縁の語さえ生ずる余地はない筈である。然もこの因縁の語を通じなければ因縁という實態を我々は考えることは出來ない。かくてこのアポリヤが今私達の前に立塞つて來るのである。このアポリヤが我々自身に処理出來るものであるならばアポリヤでも何でもない。我々にはどうにも出來ないこのアポリヤこそ、生活以前の直接的自己表現でなくてなんであろうか。このアポリヤこそ眞實の因縁の自己表現である。アポリヤというのは、通常、認識の枠では受附けないなまの事實である。なまでは、限定の世界に生きる我々は不安に堪えられないであろう。然し、アポリヤの因縁を通じなければ、眞實への道は開かれないのである。

我々は此処で一休することは許されない。何故ならば佛法は生のものとして、滞留は許さないからである。もしここで我々が結論に到着したならばそれは滞留である。結論は認識の成立を意味するが、成立した認識は滞留であるから眞實の表現ではない。故に眞實を表現するものとして洞山大師「徒敲布鼓誰是知音」(玄中銘)(「大正蔵」四七・五一五下)の語のある所以である。

中論観因縁品では、はつきりと、因縁そのものを破し「若果非有生、亦復非無生、亦非有無生、何得言有縁」(九偈)(「大正蔵」三〇・三上)とあるは、却つて道に親しきものと言わなければならない。然るにもし安易にこれを否定と解するならば、理解は速いかも知れぬ。然し、それは徒に虚無圭義とはなつても中論者の意途を理解するものとは言えない。何故ならば認識以前の生きた實相を見つめんとする佛法は元來、體系の確立であつてはならない。ヤスパースも「體系は眞理から道をそらす邪道である」(『理性と實存』)と言つているが、體系は佛教の術語では「見」であつた筈である。フロイトの夢の解明にもあるように、人聞は、生理的に體系を作るように宿命づけられている。即ち無意識的に思想するものである。唯識家が遍行の中に思を入れているのは意昧深いことである。現實の自覚的生活というものは、この思想形成の上に作られるのである。

「妄息無他伎、断々了妄本、妄本實無」(指月用心記不能語)、「如實諦観、起即無義」(般若灯縮暑一-六〇)(「大正蔵」三〇・五二中)は、佛教の行の定石である。この無義はその生成の基盤、即ち我々の思業以前の立場に立つた無意識のことでなければならない。思業以前のなまの立場に體系のあろう筈.はない。然るに、更にここで、かかる立場に自己の立場を決めるならば、體系が成立してヤスパースの一笑を招くことになる。この循環を超えることは、思業の領域にあつては全く不可能である。ここに路を開くために無分別智というものが要請された。無分別智といえば概念である。これを追求するところに、眞實の顯現はあり得ない。何故ならば生は無限定であるからである。印ち實相は何物をも媒介とするものであつてはならない。また特殊な知識、體験であつてもならない。先哲の破邪顯正の努力は體系を脱することでもあつたが、嚴密にはなまの無分別智の活動だつたと言わなければならぬ。然しこれをも體系と言つてしまえばそれまでである。

嘉鮮大師吉藏が戯論を繹して「一者愛論、於一切法有取著心、二者見論、於一切法作決定解」(中論疏幽本四十四)(「大正蔵」四二・一二中)と註しているのを此処で改めて取上げて見なければなるまい。日常、我々が問題にする因縁の實態は、認識されることではなくしたぐ推論上に現實構成原理として體系的に形成されたものだつた。然るに、從來の我々は、この因縁の概念の生成に關して、何の疑問を持つたことはなかつた。然し佛者は、この因縁の概念の成立に關心事があつたのである。即ちその求めるところは體系の確立ではなく、體系以前にあつた。故に多年辛苦の結晶であつた體系をも一挙に捨去つた先哲の遣芳は、今日の我々の、なお生かさなければならないことで、これこそは大乗論部に精實に取組むものの心構えである。

中論では、因縁品で因縁を総破している、その総破のところに眞實の因縁が顯現されるのである。構成されたところのものは有爲法であつても無爲法ではない。また認識されるものは有爲法であつても無爲法ではない。眞實の因縁は無爲法でなければならない。無爲法が我々の自覚出來るものではない、故に無爲の自覚は絶対に不可能であろうか。斯く考えることこそ、凡そ無爲と違つた方向への努力である。何故ならば考えるということは何かを考え、何かを想念する。つまりそれは能取所取の対立である。その目指すところは自己了解である。了解が生むものは體系である。然し、高い立場、印ち思業以前の立場よりする時は、この體系が生れ、活動するのは本來、無意識的活動であり、自己本來の律動だつたの'である。斯くて現實に、無爲の活動が自覚されるのである。この現實を離れては、無爲法はあり得ない。この現實を如實に受入る正受の三昧印ち無所得無所悟の行、これこそ生の無爲法の現成である。かくして現實に流されることなく現實を受入れ「よき人の教え」に服した親鷲上人、深信因果の只管打生の佛行に生きた道元禅師に、眞實の因縁の具體的なものを學ぶことが出來るのである。そして「因果是衆議之大宗、立信之根本」(中論疏第十七)(「大正蔵」四二・一三二上)に因縁の眞意義を見出すものである。

 

「印度學佛教學研究 3(2), 670-672, 1955」より抜書(一部改変)

 

これは二谷がpdfからワード化したものであり、出典などはsat(「大正蔵テキストデータベース」)を援用したものであり、旧漢字と新漢字の混用など雑な作業になってしまい謝する次第である。 猶これは小拙の酒井先生に対する報(法)恩の一環である事を記す。