正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

『碧巌録』を読むヒント  末木文美士

『碧巌録』を読むヒント 

末木文美士

一 禅籍を訳すということ

 

「禅問答」といえば、わけのわからないものの代名詞のように使われる。確かに禅は言語分別を超えることを目標とするから、わざわざ通常の論理では通用しないようなことを言うので、常識では理解し難いところがある。しかし、それだけではない。当時の俗語をふんだんに使った禅文献は、内容以前に言葉が分らない。それ故、内容に立ち入る前のところで、言葉に拒絶されて、それ以上進むことができない。坐禅は坐らなければ分らない、とはしばしば言われることであり、もちろんそれはその通りであるが、しかし、禅の文献は必ずしも禅の実践と関係なく読むことができるはずである。それにはまず、内容はともかくとして、言葉が分らなければならない。翻訳が重要な意味をもつ所以である。

禅文献が日本に齎されたのは、古いところでは平安初期かそれ以前に遡ると考えられる。しかし、多数の文献が本格的に齎されたのは、鎌倉時代になって、宋との交流が盛んになり、日本僧が留学したり、中国僧が渡来するようになってからである。その後、五山版と呼ばれるように、京の五山を中心として、日本の各地の禅寺で、宋版や元版を模刻出版し、禅籍が普及するようになる。それに早い時期から訓点を施して読むことが行われ、また、抄物(しょうもの)といわれる注釈書が数多く著されて、禅籍の読解や研究が盛んになる。それがもとになって、江戸時代にさらに研究が深められる。江戸時代を代表する禅の学僧無著道忠の数多くの著作は、俗語の解説にもすぐれ、今日でも研究者にとってなくてはならない基礎文献となっている。

このように、禅籍の読解が決して疎かにされていたわけではない。ただ、例えば道忠のすぐれた成果がただちに当時の読み方に反映されたかというと、残念ながらそうとは言えず、次第に読み方が固定化して、いわゆる伝統的な禅籍の読み方が定着したのである。『碧巌録』の岩波文庫旧版(一九三七)は、円覚寺の老師として、禅者としても学者としても高名な朝比奈宗源老師の訓読により、こうした伝統的な読み方を生かした決定版とも言うべきものである。戦前においても知識人の間で禅はかなりのブームとなり、旧制高校生などにも岩波文庫旧版の『碧巌録』を胸に、朝比奈老師の門を叩いたものが少なくなかった。

しかし、岩波文庫旧版でどれだけ理解できたであろうか。試みに、第八則の本則と著語を引いてみよう。( 仮名遣いはそのまま。漢字は現代の通用漢字に改める)

挙す、翠巌夏末衆に示して云く。一夏以来、兄弟の為に説話す。〔口を開かば焉ぞ恁麼なることを知らん。〕看よ翠巌が眉毛在りや。〔只眼睛も也(また)地に落つることを贏(か)ち得たり。鼻孔に和して也失し了れり。地獄に入ること箭の射るが如し。〕保福云く、賊と作る人心虚なり。〔灼然。是れ賊賊を識る。〕長慶云く、生也(しょうぜり)。〔舌頭地に落つ。錯を将て錯に就く。果然。〕雲門云く、関。〔什麼の処にか走在し去る。天下の衲僧跳不出。敗也(はいや)。〕

注としては、「翠巌」に人名としての説明がある他、「眉毛」に「不浄説法をすると眉毛が落ちると云はる」、「心虚」に「虚怯。びくびくする」とついている。著語はともかく、本則はこれだけで大体のところは分らないではない。しかし、禅のことを少し知らないと、「夏末」と言っても、夏の終りだろうか、と思ってしまうだろう。また、「兄弟」を「ひんでい」と読むのも、曰くありげで、気になる。

ちなみに、禅籍では特殊な読み方をする言葉が多い。「経行」を「きんひん」、「下語」を「あぎょ」、「師兄」を「すひん」と読むような類である。これらは、通常の漢字の読み方である漢音・呉音のいずれとも相違し、唐音と呼ばれる。宋代以後の新しい時代の発音に基づくもので、古代音に較べると、現代中国語の発音に近くなっている。

ところで、著語のほうになると、非常に分りにくくなる。「恁麼」というのは、分らない禅語の代表のひとつと言ってもよい。「このように、そのように」の意であるが、日本では誤解されて疑問の意にも用いられているくらいであるから、早くから分りにくくなっていたと思われる。同様に、分りにくい禅語の代表として、「作麼生」があるが、こちらは「どのように」の疑問である。「什麼」も俗語の疑問詞であるが、これは「なに」とか「いずれ」とか、疑問詞らしく読む習慣である。

「只眼睛も也地に落つることを贏ち得たり」のところ、「也」を「また」と読むのも、古典にはない新しい語法である。それにしても、目の玉が落ちるのが、どうして「かちえた」ことになるのか、奇妙である。次の「鼻孔に和して」というのもよく分らない。

最後のほうで、「走在し去る」とか、「跳不出」とか、「敗也」を、なぜわざわざ音読のままにしておくのか、これも気になるところである。実は、「敗也」は別として、「走在」は一語ととるべきものであり、「跳不出」も、不可能表現として纏まっているから、このような読み方は語学的には適切ともいえるが、それにしても、これでは分りにくい。

それでは、岩波文庫新版では、この第八則をどのように読んでいるであろうか。岩波文庫新版はもともとはこの現代語訳と別にスタートした企画であったが、途中から現代語訳と協力しながら、現代語訳よりも先に完結したものである。そこでは、従来の訓読のスタイルを踏襲しながら、その範囲で可能な限り分りやすく、工夫を凝らした。第八則本則・著語は以下の通り。

挙(こ)す。翠巌(すいがん)、夏末(げまつ)に衆に示して云く、「一夏(いちげ)以来、兄弟(ひんでい)の為に説話す。〔口を開くも焉(いずくん)ぞ恁麼(いんも)なることを知らん。〕看よ、翠巌が眉毛在りや」。〔只だ贏(か)ち得たり、眼睛も也(ま)た地に落ち、鼻孔和(すら)も也た失い了れるを。地獄に入ること箭を射るが如し。〕保福(ほふく)云く、「賊を作す人は心虚なり」。〔灼然(あきらか)に是れ賊、賊を識る。〕長慶云く、「生ぜり」。〔舌頭(した)地に落つ。錯を将(もっ)て錯を就(な)す。果然(はた)して。〕雲門云く、「関」。〔什麼処(いずこ)にか走在(た)ち去る。天下の衲僧(のうそう)跳(ぬ)け出せず。敗れたり。〕

旧版と似ているが、微妙に異なっている。それに、ここだけで訳注が十一個も付されていて、それを手がかりにすると、かなり分ってくる。二、三、旧版の誤りを正しているところを指摘しておくならば、例えば、「贏ち得たり」を「眼睛」云々と「鼻孔」云々の両方にかけており、その「贏ち得たり」について、「結局のところ〜だけが収穫として残った。空しく〜という結末が得られただけだ」と注がついているから、これで文脈を取ることが可能であろう。また、「鼻孔に和して」では分らなかったが、「鼻孔和(すら)も」と読めば、理解できよう。次の著語の「灼然」を、旧版ではそこで切っているが、新版では「あきらかに」と読んで、次にかかる副詞と見ており、語法的にこの方が適当である。最後のところの著語でも、「走在し去る」よりも「走在(た)ち去る」のほうが、当然分りやすいであろう。

それにしても、訓読の形で、注を見ながら意味を取っていくのは、やはり読者にとって手のかかる作業である。いま煩を恐れて引用しないが、これを『現代語訳碧巌録』上巻一五五―一五六頁の現代語訳と較べていただければ、どれだけ現代語訳が分かりやすいか明白であろう。解釈の微妙な点はさておき、少なくとも翠巌と、彼の同門三人との丁々発止のやり取りが、何か面白そうだという気配は、誰が読んでも伝わってくるのではないだろうか。

今回、従来なかった『碧巌録』の現代語訳を提供する作業をあえて進めたのは、「恁麼」とか「作麼生」とかいう言葉だけで、何だか深遠そうでわからなく、敬遠されてしまう禅籍について、せめて言葉の面だけでも可能な限り分りやすく提供し、本書を限られた一部の参禅者だけの特権的所有物から解放し、言語・文学・宗教・思想等、さまざまな面から禅の再発見の糸口とできたら、という願いからである。あくまで試行錯誤の最初の試みであるから、誤りの多いことは十分に承知している。

上巻の序に記したように、文庫新版の段階で、芳澤勝弘氏が詳細に検討し、問題のある訳語について指摘してくださったが、今回の現代語訳についても、小川隆氏が「禅の語録を訳すということ」という上巻の書評でいくつか指摘してくださっている(『東方』二五八、二六〇。二〇〇二年)。小川氏の書評に対しては、いささかの反論を試みたところもあるが(『東方』二五九、二六一。二〇〇二年)、指摘の適切なところについては、今後機を見て修正していきたいと考えている。決してこれが決定版ではなく、むしろ最初の試みであり、今後よりよく工夫されたいろいろな訳が出版されることを願っている。

ところで、ここで付言しておきたいのは、岩波文庫新版や現代語訳の刊行は、必ずしもそれ以前の古い訓読を不要にするわけではないということである。芳澤氏は前述の論文で、ある僧堂で、岩波文庫新版を使うことを禁じたというエピソードを引いているが、それは十分にありうることであり、それで岩波文庫新版や現代語訳の価値が損なわれることは決してない。そもそも僧堂では、言語分別を嫌い、老師が提唱に用いる講本以外の書物を見ることを禁じるのが通例である。『碧巌録』はしばしば提唱に用いられるが、それはあくまで坐禅を助けるためであり、細かい箇所の意味を正確に理解することが求められているのではない。意味の穿鑿などにこだわっていては、それこそ坐禅にならなくなってしまう。通常、提唱の講本は江戸時代に開版された返点送り仮名つきの和刻本を用いており、その伝統は岩波文庫新版や現代語訳が出版されたからといって、変わるものではないであろう。伝統は伝統として重んじられ、その中で鍛えられてこそ、「単伝の仏法」は受け継がれてゆくのである。

だが、そのことは逆に、岩波文庫新版や現代語訳の試み自体を否定することではない。禅籍は僧堂だけの秘密の書物ではなく、公開され刊行されているものであるから、その限りでは研究対象とされることはまったく差し支えないはずである。従来、本書の研究が遅れていたひとつの理由は、僧堂の修行書という性格が強いために、研究者が手を着けることをためらっていたということがあるのではないかと思われる。しかし、実践と研究、伝統と新しい試みは必ずしも合致しなければならないものではないし、また二者択一というわけでもない。むしろ矛盾する両者があい俟ち、その緊張関係の中に置かれることによって、本書の価値はより高められ、新たな視点が開かれてくるのではないかと考えられる。その点の誤解はぜひ解いてもらいたいと思う。

 

二 頌古と拈古

 

『碧巌録』を読むための最低限の知識については、上巻の序や、もう少し詳しくは岩波文庫新版下巻に収録した「『碧巌録』を読むために」に記した。それ故、それを参照していただくことを前提に、ここではそれを補足しながら、『碧巌録』を読むヒントをいささか提示しておきたい。

まず、本書が雪盲重顕による頌古百則、いわゆる『雪盲頌古』に対する圜悟の注釈であるという性格を確認しておきたい。古則に対して、その境地を頌(詩)によって表わす頌古という形式は、宋代に汾陽善昭〈ふんようぜんしょう〉(九四七―一〇二四)によって発展させられたが、それを大成したのは雪竇であるといってよい。頌古以外に、古則に対して自らの境地を披露する方法に拈古がある。頌古と拈古について、『碧巌録』第一則頌評唱で、圜悟は「一般に頌古は回り道をして褝を説くもの、拈古はおおむね自白にもとづいて判決を下すもの」上巻、四三頁)と言っているが、具体的にどのように違うのであろうか。

実は雪竇には頌古百則以外に百則の古則に拈古を付したものがある。これは『雪竇重顕和尚語録』の中にも含まれているが、独立でも行われ、興味深いことに、これに対しても圜悟が著語・評唱を付している。『仏果撃節録』二巻である。ところで、頌古百則と拈古百則を較べてみると、本則が重なるものはほとんどない。ざっとみて両者で重複するのは第二八則「三聖金麟」(『碧巌録』第四九則)、第六九則「雲門三病」(同第八八則後半)、第七三則「智門般若」(同第九〇則)くらいではないかと思われる。あるいは雪竇は意図的に両者の重複を避けたのかもしれない。頌古と拈古を比較するために、本則が合致する『撃節録』第二八則=『碧巌録』第四九則の場合を見てみよう。まず、『撃節録』第二八則の原文を掲げると以下の通り。

挙、三聖問雪峰、透網金鱗以何為食。〔担枷過状。自己也不知〕峰云、待汝出網来、即向汝道。〔鈍滞殺人〕聖云、一千五百人善知識、話頭也不識。〔一任ボツ跳〕峰云、老僧住持事繁。〔時人尽道、雪峰有陥虎之機。要且不然〕

雪竇云、可惜放過。好与三十棒。這棒一棒也饒不得。〔為什麼如此〕直是罕遇作家。〔便打。祢也末是作家〕師云、問透網金鱗以何為食。若是担板漢、決定向食処活計。作家宗師、不妨奇特、待汝出網来、即向汝道。且道、是曾出網末、不曾出網来。聖云、一千五百人善知識云云。此語也毒。雪竇猶自道未在、好与三十棒。其意要顕本分草料、向雪峰頭上行。諸人若要転変自在麼。不然辜負雪峰。雪竇便打。是有過是無過。你若弁得出、拄杖子属你。

ここで、「挙」以下が本則、「雪竇云」以下が雪竇の拈古、「師云」以下が圜悟の評唱で、〔 〕内は圜悟の著語である。『碧巌録』と形式が似ていることが分ろう。ただし、『碧巌録』では、本則の評唱と頌の評唱が分かれていたのに対して、ここでは雪竇の拈古まで続けて、その後一纏めにして評唱が付されている(ただし、『碧巌録』でも本則と頌を纏めてその後に両者の評唱を入れるテキストもある)。もう少し検討するために、訳を付しておく。

三聖(さんしょう)が雪峰(せっぽう)に問うた、「網をくぐり抜ける金鱗の魚は、何を食べるのだろうか」。〔首かせをはめて、自白書を差し出している。自分でもわからない〕

雪峰「お前が網から抜け出したら、言ってやろう」。〔人をすっかりコケにした〕

三聖「一千五百人もの修行僧を指導する師匠が、問答のしかたすらご存じない」。〔勝手に飛び跳ねておれ〕

雪峰「わしは寺の仕事が忙しいでな(これで失礼)」。〔世人は皆、「雪峰には虎を陥れるはたらきがある」と言うが、要するにそうではない〕

雪竇「残念ながら、手を緩めた。三十棒食らわせてやれ。この棒一打ちでも許せない。〔どうしてこうなのか〕実にやり手のものには逢いがたい」。〔そこで打つ。お前もまだやり手ではない〕

(圜悟)師の言葉。「網をくぐり抜ける金鱗の魚は、何を食べるのだろうか」と問う。融通のつかない奴ならば、必ずや「食べる」ということでとぐろを巻くことになる。やり手の師匠はなかなかに素晴らしく、「お前が網から抜け出したら、言ってやろう」(と言った)。さて、網から出たことがあるのだろうか、出たことがないのだろうか。三聖「一千五百人もの修行僧を指導する師匠」云云。この言葉も辛辣だ。雪竇はやはり、「まだだめだ。三十棒を食らわせてやれ」と言った。その意は、本物のエサを顕わして、雪峰の頭上を行こうというのだ。皆のもの、自由自在に変化したいか。さもなければ、雪峰を裏切ることになる。雪盲はそこで打ったが、過ちがあったのか、なかったのか。お前がもしきちんと見分けられたら、挂杖はお前のものだ。

この本則は、三聖が「網をくぐり抜ける金鱗の魚」、即ち悟りを得た大力量の者のあり方を問うだのに対して、老獪な雪峰が、「お前がその境地に至ったら教えてやろう」とはぐらかす。三聖が、「弟子が一千五百人もいる大師匠だから、もう少しましな答をするかと思ったら、なんとつまらない」と謗ったところ、雪峰は「わしは寺の仕事が忙しいでな」と逃げてしまった、というものである。鋭く迫る三聖ととぼけてそれを外す雪峰のやり取りの妙味である。

雪竇の拈古は、主として雪峰の最後の言葉に向けられている。いかにも老獪な雪峰らしく、一直線に突き進む三聖に肩透かしを食らわせたところだが、かえって勢い込んだ三聖に自分勝手を許すことになってしまった。そんな緩い手でなく、厳しく棒打ちを食らわせてやるべきだった、というものである。三聖も雪峰もまだまだと、もうひとつ上に立って批評している。

このように見るならば、「拈古はおおむね自白にもとづいて判決を下すもの」という圜悟の定義がよく当てはまっていることが分ろう。三聖・雪峰のやり取りに基づいて、それに対して自分の境地からストレートに評価を下しているのである。雪竇自身が自らの境地に自信を持っていなければなし難いことである。

それに対して、『碧巌録』第四九則の雪竇の頌を見てみるならば、頌古のほうが「回り道をして禅を説くもの」と言われていることにも納得がいくてあろう。そこでは頌という文学的な表現を借りながら、「金鱗の魚」の境地の素晴らしさを歌い出している。

圜悟の著語と評唱を見てみよう。本則に対する著語を『碧巌録』第四九則と較べてみると、三聖に対する「勝手に飛び跳ねておれ」など、同じ著語もあり、方向は近いが、ただ、最後の雪峰に対しては、『碧巌録』では「この語は最も毒がある」と、雪峰を認めるが、『撃節録』では雪峰に対して批判的である。これは、次の雪竇の批判を引き出すためと思われる。雪竇の語に対する著語では、最後に、「やり手のものには逢いがたい」と歎く雪竇に、「お前もま

だやり手ではない」と厳しく断定する。

本則に対する評唱は、『碧巌録』のほうと較べると、非常に簡略である。概して、『撃節録』の評唱は簡略であり、『碧巌録』の評唱がなかなか工夫を凝らして長く、時に本則から離れて、登場人物の逸話にまで及ぶのとは対照的である。本則について簡単に注解し、続いて雪竇の意図を説いた上で、聴衆である修行者たちに呼びかけて終る。

このように、頌古に較べて、拈古のほうがストレートであり、本則からそのままつながる性質のものである。坐禅修行というところから考えれば、文学的な屈折をもっ頌古よりも、拈古のほうが適切なはずである。にもかかわらず、なぜ『撃節録』が普及せず、『碧巌録』が「宗門第一書」としての名声をほしいままにして、今日に至るまで広く読まれているのであろうか。

両者を較べてみれば分るが、『碧巌録』のほうがはるかにおもしろいのである。拈古は確かに雪竇の境地をストレートに述べてはいるか、それだけに本則からまっすぐにつながり、変化に乏しい。頌古のほうが、異なった形式で、本則と即かず離れず、あるいは時には一見すると本則からすっかり離れてしまうように見えながら、まさに「回り道をして」本則に戻っていく妙味がある。圜悟の評唱も『碧巌録』のほうがはるかに生き生きして、饒舌である。

このように『撃節録』と較べてみると、『碧巌録』の性格が非常によく分ってくる。圜悟の弟子大慧宗杲が、修行の害になると言って『碧巌録』を焼いたという伝説も、本書の文学として、思想書としての魅力があればこそである。

そう考えるならば、『碧巌録』は単純に坐禅の指南書というだけでなく、それだけに納まらない禅の文化の豊かな広がりを如実に表わすもっとも高度の達成ということができる。今日、『碧巌録』の多面的な性格が改めて問い直されなければならないのは、このような本書の性格によるものである。この現代語訳がそのために多少の役に立つならばはなはだ嬉しいことである。

 

三 『碧巌録』と圜悟の立場

 

圜悟克勤(一〇六三―一一三五)はもともと四川省の人で、成都で出家した。その後、江西省の五祖法演の下で修行を積み、その法を嗣いだ。崇寧年中(一一○二―一一〇六)に四川に戻り昭覚寺などに住したが、政和年中(一一一一―一一一七)には再び四川を出て、湖南省の夾山霊泉院や潭州道林寺などに住した。ちなみに、圜悟の墓は成都の昭覚寺に現存する。

『碧巌録』成立に関してもっとも詳しいのは、無党(むとう)の後序であるが、それによると、圜悟が成都にいたとき、その説を説き、後に夾山や道林に住したときに改めて講じ、前後三回の講義を行なったという。「碧巌」というのは夾山のことである。このように、三回講義が行なわれており、果たして『碧巌録』がそのうちどの講義の記録であるか、あるいは三回の講義の記録を取り合わせたものであるのか、その成立の事情は必ずしも明らかでない。普照の序によると、碧巌にいたときの講義であると言うが、そのようにも断定できない。このことは、『碧巌録』のテキストの問題と関わる。現行の『碧巌録』は、元代に成都で開版された張本と呼ばれるものの系統で、日本の五山版がもっともその古形を保っていると言われる。その五山版にも少なくとも二つの系統があるが、さらに興味深いのは、古い注釈である『不二鈔(ふにしょう)』『種電鈔(しゅでんしょう)』などに、福本・蜀本など、張本に先立つ異本との校合が記されており、それらを検討してみると、それらの諸本のほうが張本よりも古い形態を伝えていることが分る。

さらに、もうひとつ注目される異本として、『仏果碧巌破関撃節』、通称「一夜碧巌」「一夜本」と呼ばれる写本がある。これは道元が入宋したとき、帰国直前に見つけ、白山明神の加護のもとに一夜で写して将来したという伝承をもつものである。その伝承はともかく、張本に先立つもので現存する唯一の写本という点て重要であるが、照合すると、張本とはきわめて相違が大きい。一夜本のほうが古い形を残していると思われるところが多いが、あまりに相違が大きく、同一のテキストの異本とは言えず、別のテキストとして扱うほうがよいほどのものである。それ故、今回の現代語訳でも参照はしたが、基本的には現行の張本系に従って理解しようと努めた。

このように相違が大きいと、それが何に由来するかが問題になる。大慧が焼却したといわれ、その後、長い間それほど広まらず、張本によって普及することを考えると、伝承の過程で混乱が起ったことも考えられるが、到底それだけでこれはどの相違が生れるとは考えにくい。そもそも最初から三回の講義の記録があったわけであり、また、その講義録も必ずしも圜悟自身の公認のものではなく、いわば非公式のルートで広まったものであるから、そこにテキストの混乱のおおもとがあったということもありうる。特に現行の張本系は読みにくく、『種電鈔』などではしばしば他本によって修正を試みている。今回の現代語訳においても、それに従ったところが多い。

ともあれ、『碧巌録』は古則である本則に雪竇が頌を付したものに、さらに圜悟が垂示・著語・評唱を加えたものであるから、本則→ 雪盲の頌→圜悟の垂示・著語・評唱という三重の構造をなしているということができる。その場合、二つの方向から見ることができる。即ち、最終的には圜悟の著作という点からすれば、本則や頌をもとに、圜悟がどのようにそれを理解しているかというところが問題になる。しかし逆にみれば、圜悟の書いた部分は本則や頌を読むための注釈であり、そこから本則や頌、なかんずく本則へと戻っていかなければならない。圜悟の垂示・著語・評唱→雪竇の頌→ 本則という方向の読み方が必要になってくる。圜悟の理解にしたがって、どのように本則や頌を読み取るかということである。

ところで、ここでひとつ問題にしておきたいのは、本書で圜悟が示す教えと、このようなテキストに縛られずに圜悟が褝を説くときとで、いささか説き方が相違するように思われるという問題である。

いま、『碧巌録』第六二則を見てみよう。その本則は、「天地の内、宇宙の間、その中にひとつの宝が有り、肉体に隠れている。灯籠を掲げて仏殿の中へ行き、三門をとって灯籠の上に乗せる」という雲門の語である(中巻三五四頁)。「天地の内」から「肉体に隠れている」までは、評唱にいうように、僧肇作と伝えられる『宝蔵論』の言葉であり、「ひとつの宝」とは、仏教の用語でいえば「仏性」ということである。しかし、肉体の中に仏性がある、というのでは、あまりに単純すぎるし、「仏性」というものを何か実体視するようにも取られる。それに対する雲門のコメントは、あえて説明すれば、灯籠や三門という外のものを仏殿の中に収め込むということで、外なるものを内なる仏性に集約することを喩えたと解されるが、それではあまりに理屈に過ぎることになろう。むしろ凡情で理解できない仏性の自在なはたらきと見るほうがよいであろう。

圜悟の評唱には、仏性に関する古人の言葉がいろいろと引用されている。それらは必ずしも体系的ではないが、基本的には、仏性を固定化することを誡め、自由なはたらきを体得するところにポイントが置かれている。とりわけ雲門が加えた句については、「雲門はお前たちの為に一気に凡情からする考えや得失是非を打ち砕いたのだ」(中巻三五九頁)と、凡情による分別理解を誡めている。このように、第六二則の評唱でみる限り、仏性は前提としながらも、その力点はそれを実体化せずに、自由にはたらかせることを主眼としていると取ることができる。

ところが、『圜悟語録』巻一三に収められた「普説」(学人を指導するための説法)では、「天地の内、宇宙の間、その中にひとつの宝が有り、肉体に隠れている」という言葉を取り上げ、「諸仏が世に出、達磨が西から中国にきたのも、このことを教えるためであった」と、仏性の内在自体に重点を置いた説き方になっている。しかも、圜悟自身の修行もそれを明らかにすることによって完成されたと言われている。

この「普説」ではさらに、この宝= 仏性に当るものが、「一霊妙性」とか、「霊明妙性」とか呼ばれ、それを悟ることこそ根本であると説いている。このような語は何か霊的な存在が我々の中にあるのを認めているかのようで、誤解を招きやすく、『碧巌録』には出てこない言葉である。それが「普説」の説法では非常に重視されているのである。

もう少し『碧巌録』と「普説」を較べてみよう。『碧巌録』第九六則には、三つの頌が挙げられているが、その第三の頌に破竈堕(はそうだ)和尚の故事が取り上げられ、評唱でそれを詳しく説明している。それは「破竈堕」という名前の由来となった話で、彼が竈(かまど)の神を救った因縁と、それに関する弟子たちとの問答である。その眼目は、破竈堕が竈神に言った言葉、「お前は元々煉瓦や粘土が合わさってできたものなのに、霊妙なはたらきがどこから生じ、聖なるはたらきがどこから出てきたとて、かように生き物を煮殺すのだ」(下巻二七九上一八〇頁)というところにある。霊とか聖とか言っても、何かそれに当るようなものがあるわけでもない。どこか外からくるわけでもないし、はじめから内在しているわけでもない。しかし、その霊とか聖とかに捉われることから迷いが生ずるというのである。

ところで、圜悟は「普説」で、やはり破竈堕の故事を引くが、「霊妙なはたらきがどこから生じ、聖なるはたらきがどこから出てきた」というところを、外から来るのではなく、内在しているという意味にとっている。それが「霊明妙性」(霊妙な本性)と呼ばれるものである。このような言い方は、『碧巌録』の該当箇所には出てこない。『碧巌録』で見る限り、霊とか聖とかいう言語による固定化を嫌っており、これはこの箇所だけでなく、『碧巌録』全体を通じて言えることである。というか、そのような固定化を徹底的に排しようとする。それに対して、「普説」では明らかに自己の根本に「霊明妙性」なるものがあり、それを正しく知ることこそ、坐禅修行の目的とされるのである。

このように見るならば、「普説」と『碧巌録』は矛盾するかのようにさえ見える。どちらに圜悟の本音があるのであろうか。「普説」だけでなく、圜悟の説法を集めた『圜悟心要』にも悟られるべき自己の根本を肯定的に言葉で言いとめようとするところが認められ、必ずしもこのような傾向は「普説」に限られない。このように見れば、こうした捉え方は圜悟の思想のかなり根本的なところに位置していると言ってよい。禅でしばしばいう「見性」というのは、自己の本性を明らかにすることであり、その本性を言語によって規定しようとすれば、「仏性」といってもよいが、その表現の陳腐さを嫌うならば、「霊明妙性」などの表現によって常識を超えたところを示さなければならなかったものと考えられる。

ところが、『碧巌録』の位相は異なっている。『碧巌録』では、このような何か霊妙そうな言葉で言いとめられる危険のほうが繰返し、繰返し強調される。それはひとつには、本則を解釈し、雪竇の頌を解釈するという『碧巌録』の基本的な性格に関わる。第六二則では、「肉体の中にある宝」が決して否定されているわけではない。しかし、そこでの眼目は、それを「灯籠を掲げて仏殿の中へ行き、三門をとって灯籠の上に載せる」という常識を超えたはたらきによって示そうとする雲門の語をいかに理解するかというほうに力点が置かれることになる。それ故、『碧巌録』も「普説」も矛盾はしない。ただ、力点の置き方が異なるというだけのことである。

しかし、この相違は『碧巌録』を読むときにかなり重要である。即ち、そこで求められているのは、「肉体の中にある宝」に向って修行せよ、ということではなく、むしろ「肉体の中にある宝」という言葉で言いとめてしまうことから飛躍しなければならないということである。あえて言えば、両者の方向は、神を肯定的な言葉で論ずることを認める通常の神学と、それを否定的な言葉でしか表現できないとする否定神学の違いに似ているとも言えるかもしれない。

しかし、『碧巌録』の立場は、否定神学とも異なる。肯定とか否定とかいう二項対立を破棄するのである。「三門をとって灯籠の上に乗せる」ということは、考えてみれば分るように、およそナンセンスなことである。圜悟はそのナンセンスであることこそ重要であるというのである。「雲門はお前たちの為に一気に凡情からする考えや得失是非を打ち砕いたのだ」と言われる通りである。「凡情からする考え」というのは、具体的に言えば、言語的な概念で理解しようとする立場である。それ故、「三門をとって灯籠の上に乗せる」という言葉は、言葉でありながら、通常の言葉による規定を否定するための特殊な言葉なのである。言語による言語の世界の解体- 『碧巌録』における古則の解釈は、基本的にこのような方針で一貫している。『碧巌録』の魅力は、圜悟の著作でありながら、圜悟が他で言っていることをも超えて、この言葉の自己解体が貫徹してゆくところにある。

もちろん、これはひとつの『碧巌録』の読み方であり、必ずしもそう読まなければならないわけではない。ただ言えるのは、世間でいわれる禅の常識を前提として読むのではなく、むしろその常識を覆していくところにこそ眼目があるのであり、かなり神経を細かくして読み取っていかなければならないということである。本則に取り上げられた祖師たち、雪竇、そして圜悟が丁々発止と打ち合う真剣勝負の場に我々は立ち会うのである。いな、我々自身がその勝負に加わっていかなければならない。もっともらしい常識が打ち破られたとき、常識に捉われていたときにはまったく見えなかった新しい世界が突如として立ち現われてくる。それこそ圜悟の求める自由な世界である。

 

 

この論文はpdf形式からワード化し一部改変したものである。