正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵安居

正法眼蔵 第七十二 安居 

    一  

先師天童古佛、結夏小參云、平地起骨堆、虚空剜窟籠。驀透兩重關、拈卻黒漆桶。

しかあれば、得遮巴鼻子了、未免喫飯伸脚睡、在這裏三十年なり。すでにかくのごとくなるゆゑに、打併調度、いとまゆるくせず。その調度に九夏安居あり。これ佛々祖々の頂面目なり。皮肉骨髓に親曾しきたれり。佛祖の眼睛頂を拈來して、九夏の日月とせり。安居一枚、すなはち佛々祖々と喚作せるものなり。

安居の頭尾、これ佛祖なり。このほかさらに寸土なし、大地なし。夏安居の一橛、これ新にあらず舊にあらず、來にあらず去にあらず。その量は拳頭量なり、その様は巴鼻様なり。しかあれども、結夏のゆゑにきたる、虚空塞破せり、あまれる十方あらず。解夏のゆゑにさる、迊地を裂破す、のこれる寸土あらず。このゆゑに結夏の公案現成する、きたるに相似なり。解夏の籮籠打破する、さるに相似なり。かくのごとくなれども、親曾の面々ともに結解を罣礙するのみなり。萬里無寸草なり、還吾九十日飯錢來なり。

この『安居』巻の構文は最初に三則の古則話頭拈提、四則目には「清規」についての参究という多少長文の提唱ですが、毎巻の冒頭に主旨を述べる構成を考えると、『如浄語録』下(「大正蔵」四八・一二九・上)結夏小参に説く処の「平地に骨の丘を起こし、虚空に窟籠(ほら穴)を剜(えぐ)る。まっしぐらに先の二つの条件を透れば、黒漆桶という脱落を拈却できる」という如浄のことばを冒頭に据え、これから拈提に入りますが、因みに骨堆とは人間の集団つまり安居を意味し、窟籠は坐禅する場所つまり僧堂を云うものです。

「しかあれば、得遮巴鼻子了、未免喫飯伸脚睡、在這裏三十年なり。すでにかくのごとくなるゆえに、打併調度、いとまゆるくせず。その調度に九夏安居あり。これ仏々祖々の頂面目なり。皮肉骨髄に親曾しきたれり。仏祖の眼睛頂を拈来して、九夏の日月とせり。安居一枚、すなはち仏々祖々と喚作せるものなり。」

「得遮巴鼻子了、未免喫飯伸脚睡、在這裏三十年」この拈語が道元禅師の坐禅観を表徴した典型的言説です。所詮は「この二つのポイントを透脱しきっても、飯を食い脚を伸ばして睡る生活は生涯(三十年)変わらない」という修証一如を第一義にした上で修行という努力(

打併調度)には時間(いとま)を惜しんではいられない(ゆるくせず)。そのあり方(調度)に九旬安居という方法があり、九夏安居=頂=皮肉骨髄=眼睛=仏々祖々というように全存在を表す言辞で以ての論理づけは尋常の法です。

「安居の頭尾、これ仏祖なり。このほかさらに寸土なし、大地なし。夏安居の一橛、これ新にあらず旧にあらず、来にあらず去にあらず。その量は拳頭量なり、その様は巴鼻様なり」

これから安居という真実態の遠大性を述べる段で、「安居の頭尾」とは全体を指し、つまり安居自体を仏祖と位置づけ、「夏安居の一橛」とは雲水を一か所に繋ぎ留める棒杭には古い新しいはなく、来るとか去るとか云った流動性もないと云う意は、安居という真実は時処を超脱した道理を云うもので、そこで「その量は拳頭量なり、その様は巴鼻様なり」と独特な言い様で無限の表現をするものです。

「しかあれども、結夏のゆえに来たる、虚空塞破せり、あまれる十方あらず。解夏のゆえに去る、迊地を裂破す、残れる寸土あらず。このゆえに結夏の公案現成する、来たるに相似なり。解夏の籮籠打破する、去るに相似なり。かくのごとくなれども、親曾の面々ともに結解を罣礙するのみなり。万里無寸草なり、還吾九十日飯銭来なり」

先程は鳥瞰的視点からの考察でしたが、現実的には結制という行持が有るから雲水が各所から来参し、そこでは「虚空塞破」という虚空全体で以て安居の真実底を行持する為に、「あまれる十方あらず」と全てが安居一色ですから余地はないとの言で、逆に解制を迎えたら自ずと雲水は去り、今までの安居という虚空から解放され同時に「迊地裂破し寸土なし」と同義語を対句にした説明です。

さらに虚空塞破を「公案現成」という語に言い替え、その時には「来」と仮りに名づけ、一か所に参集した状態からの解散の状況を「籮籠打破」と表体し、去ると仮りに名づくと。

このように雲水の面々ともに結夏解制という安居の真実態は疑わないのである。つまりは「万里無寸草」という自由闊達な境涯、「還吾九十日飯銭来」と云う雲門匡真による九十日の安居を無駄にはするなとの洞山良介と雲門の言句で此の段は締め括ります。(万里無寸草については『景徳伝灯録』十五・潭州石霜山慶諸禅師章(「大正蔵」五一・三二一・上)・『行仏威儀』巻・『真字正法眼蔵』上・八二則等散見-飯銭来については『雲門匡真禅師広録』上(「大正蔵」四七・五五〇・下)・『真字正法眼蔵』下八則等散見)

 

黄龍死心和尚云、山僧行脚三十餘年、以九十日爲一夏。増一日也不得、減一日也不得。

しかあれば、三十餘年の行脚眼、わづかに見徹するところ、九十日爲一夏安居のみなり。たとひ増一日せんとすとも、九十日かへりきたりて競頭參すべし。たとひ減一日せんとすといふとも、九十日かへりきたりて競頭參するものなり。さらに九十日の窟籠を跳脱すべからず。この脱は、九十日の窟籠を手脚として跳するのみなり。九十日爲一夏は、我箇裏の調度なりといへども、佛祖のみづからはじめてなせるにあらざるがゆゑに、佛々祖々、嫡々正稟して今日にいたれり。

しかあれば、夏安居にあふは諸佛諸祖にあふなり。夏安居にあふは見佛見祖なり。夏安居ひさしく作佛祖せるなり。この九十日爲一夏、その時量たとひ頂量なりといへども、一劫十劫のみにあらず、百千無量劫のみにあらざるなり。餘時は百千無量等の劫波に使得せらる、九十日は百千無量等の劫波を使得するゆゑに、無量劫波たとひ九十日にあふて見佛すとも、九十日かならずしも劫波にかゝはれず。

しかあれば參學すべし、九十日爲一夏は眼睛量なるのみなり。身心安居者それまたかくのごとし。夏安居の活々地を使得し、夏安居の活々地を跳脱せる、來處あり、職由ありといへども、佗方佗時よりきたりうつれるにあらず、當處當時より起興するにあらず。來處を把定すれば九十日たちまちにきたる、職由を摸索すれば九十日たちまちにきたる。凡聖これを窟宅とせり、命根とせりといへども、はるかに凡聖の境界を超越せり。思量分別のおよぶところにあらず、不思量分別のおよぶところにあらず、思量不思量の不及のみにあらず。

今回の話頭の黄龍死心は黄龍慧南(1002―1069)―晦堂(黄龍)祖心(1025―1100)―死心(黄龍)悟新(1044―1115)と―超宗慧方と続く死心悟新のことですが、栄西に列なる法脈は黄龍祖心―黄龍惟清―長霊守卓と嗣続するもので傍流になります。

本文は「黄龍死心和尚が云う、山僧(死心)行脚修行すること三十年、九十日を以て一夏(安居)とし、一日も増減することはしなかった」と述懐にも似た明言ですが、云わんとする旨は一生涯(三十年)安居生活を中心に法身を修養した事への充足を云うものです。

「しかあれば、三十餘年の行脚眼、わづかに見徹するところ、九十日為一夏安居のみなり。たとえ増一日せんとすとも、九十日かへりきたりて競頭参すべし。たとえ減一日せんとすと云うとも、九十日かへりきたりて競頭参するものなり。さらに九十日の窟籠を跳脱すべか

ず。この跳脱は、九十日の窟籠を手脚として跳するのみなり。九十日為一夏は、我箇裏の調度なりと云へども、仏祖の自から始めてなせるにあらざるがゆえに、仏々祖々、嫡々正稟して今日に至れり」

ここでの「九十日」と云う数字は安居の真実体を説明するものですから、たとえ九十一日又は八十九日と増減されても九十日という真実底に収斂される喩えを「競頭参」で説明され、その上で九十日安居という絶対性(尽界の真実体)からは跳び出す事は出来ず、その中で増減云々を九十日の窟籠を手脚で踠(もが)いているようだと言うのです。

九十日為一夏の安居は、我々(我箇裏)の真実態を確認するやり方(調度)ではあるが、仏祖と云われる人物が始めたわけではなく無始本有の永劫無窮からの連続体で、こういう尽界の真実体を修証した事実を仏々祖々と呼び慣わし「嫡々正稟して今日に至れり」との見解です。

「しかあれば、夏安居にあうは諸仏諸祖にあうなり。夏安居にあうは見仏見祖なり。夏安居ひさしく作仏祖せるなり。この九十日為一夏、その時量たとひ頂量なりといへども、一劫十劫のみにあらず、百千無量劫のみにあらざるなり。餘時は百千無量等の劫波に使得せらる、九十日は百千無量等の劫波を使得するゆえに、無量劫波たとひ九十日にあうて見仏すとも、九十日必ずしも劫波に関われず」

ここで始めて夏安居と同義語句で以て「諸仏諸祖・見仏見祖・作仏祖」と認得し、次に「九十日一夏安居」の容量は「頂量」という思慮分別で計算可能だが、その容量は一劫十劫を超えた無量劫以上であると。

それ以外(余時)の平生の時間は無量の劫波(時間)に使われているが、九十日の安居に於いては劫波という時間の概念に縛られない無寸草なる境涯を言わんとするものです。

「しかあれば参学すべし、九十日為一夏は眼睛量なるのみなり。身心安居者それまたかくのごとし。夏安居の活々地を使得し、夏安居の活々地を跳脱せる、来処あり、職由ありといへども、他方他時より来たり移れるにあらず、当処当時より起興するにあらず。來処を把定すれば九十日忽ちに来たる、職由を摸索すれば九十日忽ちに来たる。凡聖これを窟宅とせり、命根とせりといへども、はるかに凡聖の境界を超越せり。思量分別の及ぶところにあらず、不思量分別のおよぶ処にあらず、思量不思量の不及のみにあらず」

先には安居の時間的無限性を説き、ここでは「九十日為一夏は眼睛量」と眼睛を生命活動と捉えての拈提です。また身の安居と心の安居に分析し、それぞれを「活鱍々地を使得」「活鱍々地を跳脱」と九十日安居に成りきる様子を活鱍々の躍動する語を以て表体するわけです。

同様な事項を「他方他時より来たり移れるにあらず―中略―職由を摸索すれば九十日忽ちに来たる」と安居は外観ではなく、安居という窟籠との同体同性同時下では去来処同等を言います。

さらなる安居の普遍性を「思量不思量の不及のみにあらず」と「凡聖の境界を超越」した、安居に喩えた真実底を思量不思量を以て説くわけですが、非思量を最後に付言することも

活鱍々の一場とはならないでしょうか。

 

    三

世尊在摩竭陀國、爲衆説法。是時將欲白夏、乃謂阿難曰、諸大弟子、人天四衆、我常説法、不生敬仰。我今入因沙臼室中、坐夏九旬。忽有人、來問法之時、汝代爲我説、一切法不生、一切法不滅。言訖掩室而坐。

しかありしよりこのかた、すでに二千一百九十四年〈當日本寛元三年乙巳歳〉なり。堂奥にいらざる兒孫、おほく摩竭掩室を無言説の證據とせり。いま邪黨おもはくは、掩室坐夏の佛意は、それ言説をもちゐるはことごとく實にあらず、善巧方便なり。至理は言語道斷し、心行處滅なり。このゆゑに、無言無心は至理にかなふべし、有言有念は非理なり。このゆゑに、掩室坐夏九旬のあひだ、人跡を斷絶せるなりとのみいひいふなり。これらのともがらのいふところ、おほきに世尊の佛意に孤負せり。

いはゆる、もし言語道斷、心行處滅を論ぜば、一切の治生産業みな言語道斷し、心行處滅なり。言語道斷とは、一切の言語をいふ。心行處滅とは、一切の心行をいふ。いはんやこの因縁、もとより無言をたうとびんためにはあらず。通身ひとへに泥水し入草して、説法度人いまだのがれず、轉法拯物いまだのがれざるのみなり。もし兒孫と稱ずるともがら、坐夏九旬を無言説なりといはば、還吾九旬坐夏來といふべし。

阿難に勅令していはく、汝代爲我説、一切法不生、一切法不滅と代説せしむ。この佛儀、いたづらにすごすべからず。おほよそ、掩室坐夏、いかでか無言無説なりとせん。しばらく、もし阿難として當時すなはち世尊に白すべし、一切法不生、一切法不滅。作麼生説。縱説恁麼、要作什麼。かくのごとく白して、世尊の道を聽取すべし。

おほよそ而今の一段の佛儀、これ説法轉法の第一義諦、第一無諦なり。さらに無言説の證據とすべからず。もしこれを無言説とせば、可憐三尺龍泉剣、徒掛陶家壁上梭ならん。

しかあればすなはち、九旬坐夏は古轉法輪なり、古佛祖なり。而今の因縁のなかに、時將欲白夏とあり。しるべし、のがれずおこなはるゝ九旬坐夏安居なり、これをのがるゝは外道なり。おほよそ世尊在世には、あるいは忉利天にして九旬安居し、あるいは耆闍崛山靜室中にして五百比丘ともに安居す。五天竺國のあひだ、ところを論ぜず、ときいたれば白夏安居し、九夏安居おこなはれき。いま現在せる佛祖、もとも一大事としておこなはるゝところなり。これ修證の無上道なり。梵網經中に冬安居あれども、その法つたはれず、九夏安居の法のみつたはれり。正傳まのあたり五十一世なり。

本則の読みは、

「世尊、摩竭陀(マガダ)国に在し、衆の為に説法す。この時まさに白夏(安居)に臨んで、乃ち阿難に謂うに日く、諸の弟子、人天四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)は、我れ常に説法すれども、敬仰せず。我れ今因沙臼室中に入り、坐夏九旬す。忽ち人有って、来って法を問う時、汝(アーナンダ)が代って我が為に説くべし、一切法は不生・一切法は不滅と。言い訖(おわ)ると因沙臼室で坐禅す」

マガダ(摩竭陀)国とは現在のインド北東部ビハール州周辺に位置した古代十六大国の一つで、同地にはブッダガヤ・王舎城霊鷲山・竹林精舎等あり、因沙臼室は霊鷲山にあったとされる南山石室・帝釈窟等の一つです。

「しかありしよりこのかた、すでに二千一百九十四年〈当日本寛元三年乙巳歳〉なり。堂奥にいらざる児孫、多く摩竭掩室を無言説の証拠とせり。いま邪党おもはくは、掩室坐夏の仏意は、それ言説を用いるは悉く実にあらず、善巧方便なり。至理は言語道断し、心行処滅なり。このゆえに、無言無心は至理にかなふべし、有言有念は非理なり。このゆえに、掩室坐夏九旬のあひだ、人跡を断絶せるなりとのみいひいふなり。これらのともがらの云うところ、おほきに世尊の仏意に孤負せり」

ここに云う文意は維摩の一黙雷又は禅宗門徒による不立文字に対する道元禅師の「摩竭掩室」に対する見解で、難解な文体ではありません。

二千百九十四年は釈迦入滅より寛元三年までの年数を述べたものですが、『景徳伝灯録』一・釈迦牟尼章では穆王の五十二年壬申の歳の二月十五日、つまり紀元前九五〇年入滅説を採用し寛元三年は一二四五ですからピタリと年代が符合します。因みに2016年現在の仏歴は西暦年+543を加えた算数で二五五九年を採用するのが南方仏教(ミャンマー・タイ等)。日本では紀元前483年とする二四九九、もしくは紀元前383年とする二三九九年とする諸説があります。

最後に無言説法等は「仏意に孤負せり」と仏の意志にそむくものだと断言されます。

「いはゆる、もし言語道断、心行処滅を論ぜば、一切の治生産業みな言語道断し、心行処滅なり。言語道断とは、一切の言語をいふ。心行処滅とは、一切の心行を云う。いはんやこの因縁、もとより無言をたうとびんためにはあらず。通身ひとへに泥水し入草して、説法度人いまだのがれず、転法拯物いまだのがれざるのみなり。もし児孫と称ずるともがら、坐夏九旬を無言説なりといはば、還吾九旬坐夏来と云うべし。」

この段にて「究竟指帰何処、言語道断、心行処滅、永寂如空」(『宗鏡録』九二「大正蔵」四八・九一九・下)の如くとする参学人に対し「治生産業」という現実の生活は表裏の関係にあって、無言説ばかりを玉石に比する身心一如の仏法世界では成り立たず、「通身に泥水入草」してして始めて「説法度人」の表裏一体となるのであり、無言説ばかりを云う学人には第一段で示した還吾九十日飯銭来を捩った「還吾九旬坐夏来」と無駄な日時を浪費するなとの道元禅流の拈提です。

「阿難に勅令して曰く、汝代為我説、一切法不生、一切法不滅と代説せしむ。この仏儀、いたづらに過ごすべからず。おほよそ、掩室坐夏、いかでか無言無説なりとせん。しばらく、もし阿難として当時すなはち世尊に白すべし、一切法不生、一切法不滅。作麼生説。縱説恁麼、要作什麼。かくのごとく白して、世尊の道を聽取すべし」

いよいよ拈提が佳境に入ります。世尊が阿難に代弁せよとの「一切法不生、一切法不滅」に対し、具体的に「作麼生」「恁麼」「什麼」と仏法の勘所を世尊に聴きなさいと、阿難に対する道元禅師の著語です。

「おほよそ而今の一段の仏儀、これ説法転法の第一義諦、第一無諦なり。さらに無言説の証拠とすべからず。もしこれを無言説とせば、可憐三尺龍泉剣、徒掛陶家壁上梭ならん。

しかあればすなはち、九旬坐夏は古転法輪なり、古仏祖なり。而今の因縁のなかに、時将欲白夏とあり。しるべし、逃れずおこなはるゝ九旬坐夏安居なり、これを逃るるは外道なり」

先の道元禅師の著語以前に戻り、世尊が説いた一切法不生・一切法不滅の義は「第一義諦・第一無諦」と最高の褒め言葉で以て礼賛しますが、この一切法不生・一切法不滅の義を掩室坐夏の無言説とする輩にとっては、三尺の名宝と云われる宝剣と晋(シン)の将軍の陶侃(259―334)が拾った織梭(しょくひ・はた織りの横糸を通す道具)を同列に並べるようなものだとの喩えですが(三尺龍泉剣は『嘉泰普灯録』二十八・仏性泰禅師章(「続蔵」七九・四六七・上・有句無句の段参照)、言わんとする要旨は世尊が言う一切法不生・一切法不滅は九旬の安居と同等体を言うにも関わらず、掩室坐夏を無言無心と心得る輩との差異を説くものです。

「しかあればすなはち、九旬坐夏は古転法輪なり、古仏祖なり。而今の因縁のなかに、時将欲白夏とあり。知るべし、逃れずおこなはるゝ九旬坐夏安居なり、これを逃るゝは外道なり」

ここで説く「古転法輪」「古仏祖」の意は古くからの・昔からのと云う時間軸を説くものではなく、自身の最も尊敬する形容語としての古であり、「九旬坐夏」つまり安居そのものが仏の教え・坐禅そのものが三世に通底する仏祖との解釈です。ですから世尊は「時まさに安居に入る」と言われ、この「九旬坐夏の安居」に同参同宿できない輩は外道との言明です。

「おほよそ世尊在世には、あるいは忉利天にして九旬安居し、あるいは耆闍崛山浄室中にして五百比丘ともに安居す。五天竺国のあひだ、ところを論ぜず、ときいたれば白夏安居し、九夏安居おこなはれき。いま現在せる仏祖、もとも一大事としておこなはるゝところなり。これ修証の無上道なり。梵網経中に冬安居あれども、その法伝はれず、九夏安居の法のみ

伝はれり。正伝まのあたり五十一世なり」

「忉利天九旬安居」の典拠を水野弥穂子氏は『仏昇忉利天為母説法経』上(「大正蔵」一七・七八七・中)とされます。「耆闍崛山」は霊鷲山のことで、「五天竺国」とは東印度六国・西印度十一国・南印度十六国・北印度二十一国・中印度三十国の合計八十四国を云う。(『大唐西域記』「大正蔵」五一・八六八・下)「梵網経中冬安居」の事例は『洗面』巻(寛元元(1243)年十月二十日吉峰寺重示衆)に「梵網菩薩戒経に云う、常に二時の頭陀、冬夏坐禅、結夏安居に応ずー中略―頭陀は正月十五日より三月十五日まで、八月十五日より十月十五日まで云々」と記される正月十五日からの冬安居の慣習は伝来せず、九夏安居つまり八月十五日よりの伝法伝来し、その正伝が釈迦牟尼仏大和尚から四十七世清了大和尚・四十八世宗珏大和尚・四十九世智鑑大和尚・五十世如浄大和尚、そして五十一世の自身にと印度より大宋国そして日本国に「安居」の真実態が伝来する自負心をも込めた文言での摩竭掩室の話頭拈提です。

 

    四

清規云、行脚人欲就處所結夏、須於半月前掛搭。所貴茶湯人事、不倉卒。

いはゆる半月前とは、三月下旬をいふ。しかあれば、三月内にきたり掛搭すべきなり。すでに四月一日よりは、比丘僧ありきせず。諸方の接待および諸寺の旦過、みな門を鎖せり。しかあれば、四月一日よりは、雲衲みな寺院に安居せり、庵裡に掛搭せり。あるいは白衣舎に安居せる、先例なり。これ佛祖の儀なり、慕古し修行すべし。拳頭鼻孔、みな面々に寺院をしめて、安居のところに掛搭せり。

しかあるを、魔儻いはく、大乘の見解、それ要樞なるべし。夏安居は聲聞の行儀なり、あながちに修習すべからず。かくのごとくいふともがらは、かつて佛法を見聞せざるなり。阿耨多羅三藐三菩提、これ九旬安居坐夏なり。たとひ大乘小乘の至極ありとも、九旬安居の枝葉花菓なり。

四月三日の粥罷より、はじめてことをおこなふといへども、堂司あらかじめ四月一日より戒臘の榜を理會す。すでに四月三日の粥罷に、戒臘牌を衆寮前にかく。いはゆる前門の下間の窓外にかく。寮窓みな櫺子なり。粥罷にこれをかけ、放參鐘ののち、これををさむ。三日より五日にいたるまでこれをかく。をさむる時節、かくる時節、おなじ。

かの榜、かく式あり。知事頭首によらず、戒臘のまゝにかくなり。諸方にして頭首知事をへたらんは、おのおの首座監寺とかくなり。數職をつとめたらんなかには、そのうちにつとめておほきならん職をかくべし。かつて住持をへたらんは、某甲西堂とかく。小院の住持をつとめたりといへども、雲水にしられざるは、しばしばこれをかくして稱ぜず。もし師の會裏にしては、西堂なるもの、西堂の儀なし。某甲上座とかく例もあり。おほくは衣鉢侍者寮に歇息する、勝躅なり。さらに衣鉢侍者に充し、あるいは燒香侍者に充する、舊例なり。いはんやその餘の職、いづれも師命にしたがふなり。佗人の弟子のきたれるが、小院の住持をつとめたりといへども、おほきなる寺院にては、なほ首座書記、都寺監寺等に請ずるは、依例なり、芳躅なり。小院の小職をつとめたるを稱ずるをば、叢林わらふなり。よき人は、住持をへたる、なほ小院をばかくして稱ぜざるなり。榜式かくのごとし。

 某國某州某山某寺、今夏結夏海衆、戒臘如後。

  陳如尊者

  堂頭和尚

   建保元戒

    某甲上座    某甲藏主

    某甲上座    某甲上座

   建保二戒

    某甲西堂    某甲維那

    某甲首座    某甲知客

    某甲上座    某甲浴主

   建暦元戒

    某甲直歳  某甲侍者

    某甲首座    某甲首座

    某甲化主    某甲上座

    某甲典座  某甲堂主

   建暦三戒

    某甲書記  某甲上座

    某甲西堂    某甲首座

    某甲上座    某甲上座

 右、謹具呈、若有誤錯、各請指揮。謹状。

  某年四月三日、堂司比丘某甲謹状

かくのごとくかく。しろきかみにかく。眞書にかく、草書隷書等をもちゐず。かくるには、布線のふとさ兩米粒許なるを、その紙榜頭につけてかくるなり。たとへば、簾額のすぐならんがごとし。四月五日の放參罷にをさめをはりぬ。

四月八日は佛生會なり。

四月十三日の齋罷に、衆寮の僧衆、すなはち本寮につきて煎點諷經す。寮主ことをおこなふ。點湯燒香、みな寮主これをつとむ。寮主は衆寮の堂奥に、その位を安排せり。寮首座は、寮の聖僧の左邊に安排せり。しかあれども、寮主いでて燒香行事するなり。首座知事等、この諷經におもむかず。たゞ本寮の僧衆のみおこなふなり。

維那、あらかじめ一枚の戒臘牌を修理して、十五日の粥罷に、僧堂前の東壁にかく、前架のうへにあたりてかく。正面のつぎのみなみの間なり。

これから『禅苑清規』結夏章(「続蔵」六三・五二八・中)に依用し安居に於ける具体事例の説明ですが、道元禅師は底本とする経典類を恣意的に改変する箇所が見当たりますが(『自照三昧』巻・「大慧録」等)本則に当る『禅苑清規』に於いても「半日」を「半月」と改訂し、「不倉卒」は原文「不至倉卒」からの改訂提唱ですが、後者の至は有っても無くても支障はないが、前者の半月には当時の僧堂生活での具体的行持の流れを垣間見る思いです。

「いはゆる半月前とは、三月下旬を云う。しかあれば、三月内にきたり掛搭すべきなり。すでに四月一日よりは、比丘僧ありきせず。諸方の接待および諸寺の旦過、みな門を鎖せり。しかあれば、四月一日よりは、雲衲みな寺院に安居せり、庵裡に掛搭せり。あるいは白衣舎に安居せる、先例なり。これ仏祖の儀なり、慕古し修行すべし。拳頭鼻孔、みな面々に寺院をしめて、安居のところに掛搭せり」

原文では四月十四日の昼食の後に掛搭(四月十四日斎後、掛念誦牌)と記されるが、実際には四月一五日の半月以上前から安居が始まるわけです。四月に入ると安居が行われる寺院では受処(接待)と旅僧の宿泊施設である旦過寮は閉鎖されるので、四月一日時点では安居に臨む雲衲は当該寺院又は寺院内の庵、さらには域内にある在俗舎(白衣舎)にそれぞれの事情で安居するという事が道元禅師在宋中での習慣であったのだろうと思われます。

「しかあるを、魔党いはく、大乗の見解、それ要枢なるべし。夏安居は声聞の行儀なり、あながちに修習すべからず。かくの如く云うともがらは、かつて仏法を見聞せざるなり。阿耨多羅三藐三菩提、これ九旬安居坐夏なり。たとひ大乘小乘の至極ありとも、九旬安居の枝葉花菓なり」

ここに云う「魔党」は旧仏教徒の南都系を指すのか、それとも新興の浄土系が云う処の言説が世間に流布しての事だと察せられます。

「阿耨多羅三藐三菩提」は無上正等正覚の境涯ですから、その正覚の現実態が「九旬の安居での坐」であり、大乗小乗と区分をするが安居中の枝葉花菓の表情は大乗の菩薩行・小乗の伝統という形態で維持され、基本が安居との見解です。

「四月三日の粥罷より、始めて事を行うと云えども、堂司あらかじめ四月一日より戒臘の榜を理会す。すでに四月三日の粥罷に、戒臘牌を衆寮前に掛く。いはゆる前門の下間の窓外に掛く。寮窓みな櫺子なり。粥罷にこれを掛け、放参鐘の後、これを収む。三日より五日にいたるまでこれを掛く。収むる時節、かくる時節、同じ」

四月三日の粥罷が終わってから安居に対する準備段階に入るが、堂司(維那)は雲衲に対する指導責任があるので、四月一日には参集した雲水の戒臘の牌に履歴を書いておく。いよいよ四月三日粥罷に衆寮の前に履歴を書いた戒臘牌を、衆寮の向かって左側(下間)の縦格子の窓の外に掛けるのである。朝貼り出し夜坐の終了を告げる放参鐘が鳴ったら収め、これを三日の朝から五日の晩まで同じくするのである。

「かの榜、書く式あり。知事頭首によらず、戒臘のまゝに書くなり。諸方にして頭首知事を経たらんは、おのおの首座監寺と書くなり。数職を務めたらんなかには、そのうちに務めて大きならん職を書くべし。かつて住持を経たらんは、某甲西堂と書く。小院の住持を務めたりと云えども、雲水に知られざるは、しばしばこれを隠して称ぜず。もし師の会裏にしては、西堂なるもの、西堂の儀なし。某甲上座と書く例もあり。多くは衣鉢侍者寮に歇息する、勝躅なり。さらに衣鉢侍者に充し、あるいは燒香侍者に充する、旧例なり。いはんやその餘の職、いづれも師命に従うなり。他人の弟子の来たれるが、小院の住持を務めたりと云えども、大きなる寺院にては、なほ首座書記、都寺監寺等に請ずるは、依例なり、芳躅なり。小院の小職を務めたるを称ずるをば、叢林笑うなり。よき人は、住持を経たる、なほ小院をば隠して称ぜざるなり」

戒臘牌には書く書式があり、僧侶としての法齢が重要視され、知事は都寺(つうす)・監寺(かんす)・副寺(ふうす)・維那(いの)・典座(てんぞ)・直歳(しっすい)の六知事、頭首は首座(しゅそ)・書記(しょき)・蔵主(ぞうす)・庫頭(くじゅう)・知客(しか)・浴主(よくす)の六頭首で各寮舎の責任者です。

「かつて住持を経たらんは、某甲西堂と書く」とありますが、東堂に対し西堂を云うもので、

東堂は前住持を西堂は他寺院の前住持を指し、長老僧の形容である。その西堂が他門の安居に参随する時には、某甲西堂・某甲上座と紹介され、衣鉢侍者寮に入り住持の侍者位に就くと。

他の安居従事者は主催寺院の長老に従い円滑に行持する事が肝心で、履歴を口宣する学人は笑いの対象であり、叢林とは人体の如くに五臓六腑は重要であるが、全体が連関する事で法身としての具現が出来るわけですから、自己(我)主張は勝躅にあらず。との説明です。

榜式かくのごとし。

 某國某州某山某寺、今夏結夏海衆、戒臘如後。

  陳如尊者

  堂頭和尚

   建保元戒

    某甲上座    某甲藏主

    某甲上座    某甲上座

   建保二戒

    某甲西堂    某甲維那

    某甲首座    某甲知客

    某甲上座    某甲浴主

   建暦元戒

    某甲直歳  某甲侍者

    某甲首座    某甲首座

    某甲化主    某甲上座

    某甲典座  某甲堂主

   建暦三戒

    某甲書記  某甲上座

    某甲西堂    某甲首座

    某甲上座    某甲上座

右、謹具呈、若有誤錯、各請指揮。謹状。

某年四月三日、堂司比丘某甲謹状

かくのごとくかく。しろきかみにかく。眞書にかく、草書隷書等をもちゐず。かくるには、布線のふとさ兩米粒許なるを、その紙榜頭につけてかくるなり。たとへば、簾額のすぐならんがごとし。四月五日の放參罷にをさめをはりぬ。

四月八日は佛生會なり。

 四月十三日の齋罷に、衆寮の僧衆、すなはち本寮につきて煎點諷經す。寮主ことをおこなふ。點湯燒香、みな寮主これをつとむ。寮主は衆寮の堂奥に、その位を安排せり。寮首座は、寮の聖僧の左邊に安排せり。しかあれども、寮主いでて燒香行事するなり。首座知事等、この諷經におもむかず。たゞ本寮の僧衆のみおこなふなり。

 維那、あらかじめ一枚の戒臘牌を修理して、十五日の粥罷に、僧堂前の東壁にかく、前架のうへにあたりてかく。正面のつぎのみなみの間なり。

戒臘牌の具体的な例示で説明されたもので、「陳如尊者」とは五比丘(阿若憍陳如・阿説示・摩訶摩男・婆提梨迦・婆敷)の筆頭悟道梵行第一を指し、「堂頭和尚」は安居寺院の住持者を筆頭第二とします。

「建保元戒」は諸本対校『建撕記』(六頁)には「建保元年(1213)癸酉四月九日、十四歳にして座主公円僧正に剃髪を任す。同十日延暦寺戒壇にて菩薩戒を受け比丘と作る」と記されますから、この時の状況を回顧しての事だと考えられます。

「建暦元戒」の建暦は建保の前の元号で、同じく諸本対校『建撕記』(六頁)では「建暦二年(1212)十三歳の春に横川千光房に登る」の記載がある事から、建暦二年の前後の「建暦元戒」」建暦三戒」の項を例示したのでしょうが、出来る事なら当時の実名が記されたものならと惜しまれる気がする。

「かくの如く書く。白き紙に書く。真書に書く、草書隷書等を用いず。掛くるには、布線の太さ両米粒許なるを、その紙榜頭につけて掛くるなり。たとへば、簾額のすぐならんが如し。四月五日の放参罷に収め終わりぬ」

白紙に楷書(真書)で書きなさいとの事で、くずし字(草書)や隷書(篆書を簡略にした字体)は使用せず、真っすぐに掛けて四月五日の坐禅終了の鐘で収めなさいとは先に説かれたものです。

「四月八日は仏生会なり。四月十三日の齋罷に、衆寮の僧衆、すなわち本寮につきて煎点諷経す。寮主ことを行なう。点湯焼香、みな寮主これをつとむ。寮主は衆寮の堂奥に、その位を安排せり。寮首座は、寮の聖僧の左辺に安排せり。しかあれども、寮主いでて焼香行事するなり。首座知事等、この諷経に赴かず。たゞ本寮の僧衆のみ行なうなり。

維那、あらかじめ一枚の戒臘牌を修理して、十五日の粥罷に、僧堂前の東壁に掛く、前架

の上にあたりて掛く。正面の次の南の間なり」

四月八日は仏生会とあるが、簡略にその様子がわかればと残念である。

四月十三日の中食の後に安居の前段階的行持である煎点諷経である。煎点を供し読経する茶礼儀式である。

「寮主」は各寮舎の責任者で一ヶ月又は半月あるいは十日で主は交替するらしく、別に寮首座という位もあり、この煎点諷経には安居での首座・知事は参加しないとあり、寺院内では相当に階層的ヒエラルキーが存在したらしい。

「維那」(堂司)は三日粥罷から五日放参鐘まで衆寮前に掛けた戒臘牌を、十五日の粥罷には僧堂前の東壁の僧堂外単の南側の柱と柱の前架に掛けるとの事情です。

四月十四日の齋後に、念誦牌を僧堂前にかく。諸堂おなじく念誦牌をかく。至晩に、知事あらかじめ土地堂に香華をまうく、額のまへにまうくるなり。集衆念誦す。

念誦の法は、大衆集定ののち、住持人まづ燒香す。つぎに知事頭首、燒香す。浴佛のときの燒香の法のごとし。つぎに維那、くらゐより正面にいでて、まづ住持人を問訊して、つぎに土地堂にむかうて問訊して、おもてをきたにして、土地堂にむかうて念誦す。詞云、

竊以薫風扇野、炎帝司方。當法王禁足之辰、是釋子護生之日。躬裒大衆、肅詣靈祠、誦持萬徳洪名、回向合堂眞宰。所祈加護得遂安居。仰憑尊衆念。

 清淨法身毘盧遮那佛  金打

 圓滿報身盧遮那佛   同

 千百億化身釋迦牟尼佛 同

 當來下生彌勒尊佛   同

 十方三世一切諸佛   同

 大聖文殊師利菩薩   同

 大聖普賢菩薩     同

 大悲觀世音菩薩    同

 諸尊菩薩摩訶薩    同

 摩訶般若波羅蜜    同

上來念誦功徳、竝用回向、護持正法、土地龍神。伏願、神光協贊、發揮有利之勲。梵樂興隆、亦錫無私之慶。再憑尊衆念。

十方三世一切諸佛 諸尊菩薩摩訶薩 摩訶般若波羅蜜

ときに鼓響すれば、大衆すなはち雲堂の點湯の座に赴す。點湯は庫司の所辨なり。大衆赴堂し、次第巡堂し、被位につきて正面而坐す。知事一人行法事す。いはゆる燒香等をつとむるなり。

ここでの提唱も『禅苑清規』二・結夏章に説く漢文体を訓読調に書き改めたもので、途中「十仏名」は記載なく自身が添語したもので、文面の如くです。

清規云、本合監院行事。有改維那代之。

すべからく念誦已前に冩牓して首座に呈す。知事、搭袈裟帶坐具して首座に相見するとき、あるいは兩展三拝しをはりて、牓を首座に呈す。首座、答拝す。知事の拝とおなじかるべし。牓は箱に複秋子をしきて、行者にもたせてゆく。首座、知事をおくりむかふ。

 牓式

   庫司今晩就

   雲堂煎點、特爲

   首座

   大衆、聊表結制之儀。伏冀

   衆慈同垂

   光降。

  寛元三年四月十四日  庫司比丘某甲等謹白

知事の第一の名字をかくなり。牓を首座に呈してのち、行者をして雲堂前に貼せしむ。堂前の下間に貼するなり。前門の南頬の外面に、牓を貼する板あり。このいた、ぬれり。

殻漏子あり。殻漏子は、牓の初にならべて、竹釘にてうちつけたり。しかあれば、殻漏子もかたはらに押貼せり。この牓は如法につくれり。五分許の字にかく、おほきにかゝず。殻漏子の表書は、かくのごとくかく。

   状請 首座 大衆    庫司比丘某甲等謹封

煎點をはりぬれば、牓ををさむ。

「清規に云う」の原文は前段の「知事一人行事す」に対する割注で、原文では「本合監院行事。有故即維那代之」と「故即」を「改」に変えるなど微妙な改変をされていて、如何に説かんとするかが窺えます。

「すべからく念誦已前に写牓して首座に呈す」は「念誦已前、先写牓呈首座請之」からのもので、「知事、搭袈裟帯坐具して首座に相見するとき、あるいは両展三拝し終わりて、牓を首座に呈す。首座、答拝す。知事の拝と同じかるべし。牓は箱に複秋子を敷きて、行者に持たせて行く。首座、知事を送り迎う」は道元禅師の補講文です。

「搭袈裟帯坐具」は正式な威儀法服で、「両展三拝」は初めに大展三拝、次に展坐具三拝、最後に触礼三拝を云い、人事(あいさつ)・陳賀等の場合に用いる。

「複秋子」は袱紗の事で、「行者(あんじゃ)」とは寺内に住する得度前の人で、六祖慧能の盧行者が最初と云う。

牓は「たて札」の意で、ここでの牓式も割注部位で「庫司(監院)は今晩、雲堂(僧堂)に就いて茶を煎点し、特(ことさら)に首座・大衆の為に、聊(いささ)か結制の儀を表す。伏して冀(ねがわ)くは衆慈同じく光降を垂れんことを」と『禅苑清規』からの直文で、実際に寛元三年の四月十四日に行持された事を同年六月十三日に提唱されているのでしょうか。

「知事の第一の名字を書くなり。牓を首座に呈してのち、行者をして雲堂前に貼せしむ。堂前の下間に貼するなり。前門の南頬の外面に、牓を貼する板あり。この板、塗れり。

殻漏子あり。殻漏子は、牓の初にならべて、竹釘にてうちつけたり。しかあれば、殻漏子もかたはらに押貼せり。この牓は如法につくれり。五分許の字にかく、おほきにかゝず。殻漏子の表書は、かくのごとくかく。状請 首座 大衆 庫司比丘某甲等謹封煎點終わりぬれば、牓を収む」

『禅苑清規』には不載で、自身による補講文です。「知事の第一の名字を書く」とは庫司比丘某甲の某甲に対し具体的に庫司の都寺・監寺・副寺に当たる三知事の筆頭名を書くようにとの事です。

「牓を首座に呈してのち、行者をして雲堂前に貼せしむ。堂前の下間に貼するなり。前門の南頬の外面に、牓を貼する板あり」

この儀は十五日の粥罷に戒臘牓を僧堂前に掛ける儀と同じ手順で行うもので、たて札(牓)を貼る板は漆塗りの板を使うとの規定です。

「殻漏子」は可漏(かろ)と同義語で封筒・書簡袋を指す。「五分許の字」は現在のメートル法では0・3センチ×5=1・5センチばかりの字幅になります。

十五日の粥前に、知事頭首、小師法眷、まづ方丈内にまうでて人事す。住持人もし隔宿より免人事せば、さらに方丈にまうづべからず。免人事といふは、十四日より、住持人、あるいは頌子あるいは法語をかける牓を、方丈門の東頬に貼せり。あるいは雲堂前にも貼す。

十五日の陞座罷、住持人、法座よりおりて堦のまへにたつ。拝席の北頭をふみて、面南してたつ。知事、近前して兩展三拝す。

一展云、此際安居禁足、獲奉巾瓶。唯仗和尚法力資持、願無難事。

一展、叙寒暄、觸禮三拝。

叙寒暄云者、展坐具三拝了、収坐具、進云、即辰孟夏漸熱。法王結制之辰、伏惟、堂頭和尚、法候動止萬福、下情不勝感激之至。

かくのごとくして、その次、觸禮三拝。ことばなし、住持人みな答拝す。

住持人念、此者多幸得同安居、亦冀某〈首座監寺〉人等、法力相資、無諸難事。首座大衆、同此式也。

このとき、首座大衆、知事等、みな面北して禮拝するなり。住持人ひとり面南にして、法座の堦前に立せり。住持人の坐具は、拝席のうへに展ずるなり。

つぎに首座大衆、於住持人前、兩展三拝。このとき、小師侍者、法眷沙彌、在一邊立。未得與大衆雷同人事。

いはゆる一邊にありてたつとは、法堂の東壁のかたはらにありてたつなり。もし東壁邊に施主の垂箔のことあらば、法鼓のほとりにたつべし、また西壁邊にも立すべきなり。

大衆禮拝をはりて、知事まづ庫堂にかへりて主位に立す。つぎに首座すなはち大衆を領して庫司にいたりて人事す。いはゆる知事と觸禮三拝するなり。

このとき小師侍者法眷等は、法堂上にて住持人を禮拝す。法眷は兩展三拝すべし、住持人の答拝あり。小師侍者、おのおの九拝す。答拝なし。沙彌九拝、あるいは十二拝なり。住持人合掌してうくるのみなり。

つぎに首座、僧堂前にいたりて、上間の知事床のみなみのはしにあたりて、雲堂の正面にあたりて、面南にて大衆にむかうてたつ。大衆面北して、首座にむかうて觸禮三拝す。首座、大衆をひきて入堂し、戒臘によりて巡堂立定す。知事入堂し、聖僧前にて大展禮三拝しておく。つぎに首座前にて觸禮三拝す。大衆答拝す。知事、巡堂一迊して、いでてくらゐによりて叉手してたつ。

住持人入堂、聖僧前にして燒香、大展三拝起。このとき、小師於聖僧後避立。法眷隨大衆。

つぎに住持人、於首座觸禮三拝。

いはく、住持人、たゞくらゐによりてたち、面西にて觸禮す。首座大衆答拝、さきのごとし。

住持人、巡堂していづ。首座、前門の南頬よりいでて住持人をおくる。

住持人出堂ののち、首座已下、對禮三拝していはく、此際幸同安居、恐三業不善、且望慈悲。

この拝は、展坐具拝三拝なり。かくのごとくして首座書記藏主等、おのおのその寮にかへる。もしそれ衆寮僧は、寮主寮首座已下、おのおの觸禮三拝す。致語は堂中の法におなじ。

住持人こののち、庫堂よりはじめて巡堂す。次第に大衆相隨、送至方丈。大衆乃退。

いはゆる住持人まづ庫堂にいたる、知事と人事しをはりて、住持人いでて巡堂すれば、知事しりへにあゆめり。知事のつぎに、東廊のほとりにあるひとあゆめり。住持人このとき延壽院にいらず。東廊より西におりて、山門をとほりて巡寮すれば、山門の邊の寮にある人、あゆみつらなる。みなみより西の廊下および諸寮にめぐる。このとき、西をゆくときは北にむかふ。このときより、安老勤舊前資頤堂單寮のともがら、淨頭等、あゆみつらなれり。維那首座等あゆみつらなるつぎに、衆寮の僧衆あゆみつらなる。巡寮は、寮の便宜によりてあゆみくはゝる。これを大衆相送とはいふ。

かくのごとくして、方丈の西階よりのぼりて、住持人は方丈の正面のもやの住持人のくらゐによりて、面南にて叉手してたつ。大衆は知事已下みな面北にて住持人を問訊す。この問訊、ことにふかくするなり。住持人、答問訊あり。大衆退す。

先師は方丈に大衆をひかず、法堂にいたりて、法座の堦前にして面南叉手してたつ、大衆問訊して退す、これ古往の儀なり。

しかうしてのち、衆僧おのおのこゝろにしたがひて人事す。

人事とは、あひ禮拝するなり。たとへば、おなじ郷間のともがら、あるいは照堂、あるいは廊下の便宜のところにして、幾十人もあひ拝して、同安居の理致を賀す。しかあれども、致語は堂中の法になずらふ。人にしたがひて今案のことばも存ず。あるいは小師をひきゐたる本師あり、これ小師かならず本師を拝すべし、九拝をもちゐる。法眷の住持人を拝する、兩展三拝なり。あるいはたゞ大展三拝す。法眷のともに衆にあるは、拝おなじかるべし。師叔師伯、またかならず拝あり。隣單隣肩みな拝す、相識道舊ともに拝あり。單寮にあるともがらと、首座書記藏主知客浴司等と、到寮拝賀すべし。單寮にあるともがらと、都寺監寺維那典座直歳西堂尼師道士等とも、到寮到位して拝賀すべし。到寮せんとするに、人しげくして入寮門にひまをえざれば、牓をかきてその寮門におす。その牓は、ひろさ一寸餘、ながさ二寸ばかりなる白紙にかくなり。かく式は、

  某寮   某甲

   拝 賀

 又の式

  巣雲   懷昭等

   拝 賀

 又の式

  某甲

   禮 賀

 又の式

  某甲

   拝 賀

 又の式

  某甲

   禮 拝

かくしき、おほけれど、大旨かくのごとし。しかあれば、門側にはこの牓あまたみゆるなり。門側には左邊におさず、門の右におすなり。この牓は、齋罷に、本寮主をさめとる。今日は、大小諸堂諸寮、みな門簾をあげたり。

堂頭庫司首座、次第に煎點といふことあり。しかあれども、遠島深山のあひだには省略すべし。たゞこれ禮數なり。退院の長老、および立僧の首座、おのおの本寮につきて、知事頭首のために特爲煎點するなり。

かくのごとく結夏してより、功夫辦道するなり。衆行を辦肯せりといへども、いまだ夏安居せざるは佛祖の兒孫にあらず、また佛祖にあらず。孤獨園靈鷲山、みな安居によりて現成せり。安居の道場、これ佛祖の心印なり、諸佛の住世なり。

「十五日の粥前に、知事頭首、小師法眷、まづ方丈内にまうでて人事す。住持人もし隔宿より免人事せば、さらに方丈にまうづべからず」は原文からの訳文で、「免人事」以下が粘提部になり、免人事とは挨拶の省略の意で、人事を省くには住持の偈頌等を方丈門又は僧堂の前に貼り出す必要があると事です。

「十五日の陞座罷、住持人、法座より降りて堦の前に立つ。拝席の北頭を踏みて、面南して立つ。知事、近前して両展三拝す」

原文は「陞座罷。知事近前両展三拝」から具体的に説明するものです。

「一展云、此際安居禁足、獲奉巾瓶。唯仗和尚法力資持、願無難事。一展、叙寒暄、觸禮三拝」は本文割注に見られ、「叙寒暄云者、展坐具三拝了、収坐具、進云、即辰孟夏漸熱。法王結制之辰、伏惟、堂頭和尚、法候動止万福、下情不勝感激之至。かくのごとくして、その次、触礼三拝。ことばなし、住持人みな答拝す」までが道元禅師の註解で、「叙寒暄と云うのは、

展坐具三拝のち坐具を収め、即辰孟夏漸く熱く、法王結制の辰、伏して惟れば堂頭和尚、法候動止万福、下情感激の至りに勝えず」と云い、次に触礼三拝の略式拝を成し、住持である堂頭は答拝で応じ、その時には言葉はないとの道元禅師の解説です。

「住持人念、此者多幸得同安居、亦冀某〈首座監寺〉人等、法力相資、無諸難事。首座大衆、同此式也」原文割注そのままで、「このとき、首座大衆、知事等、みな面北して礼拝するなり。住持人ひとり面南にして、法座の堦前に立せり。住持人の坐具は、拝席のうへに展ずるなり」は註解文です。

「つぎに首座大衆、於住持人前、両展三拝。このとき、小師侍者、法眷沙弥、在一辺立。未得与大衆雷同人事」は原文引用ですが、原文では「小師・侍者・卑(童)行・法眷・沙弥」とあるが提唱文では卑(童)行が削られる。「いはゆる一辺にありて立つとは、法堂の東壁のかたはらにありて立つなり。もし東壁辺に施主の垂箔のことあらば、法鼓のほとりに立つべし、また西壁辺にも立すべきなり」は註解文です。

「大衆礼拝終わりて、知事まづ庫堂に変えりて主位に立す。つぎに首座すなはち大衆を領して庫司に至りて人事す。いはゆる知事と触礼三拝するなり」は原文引用。「このとき小師侍者法眷等は、法堂上にて住持人を礼拝す。法眷は両展三拝すべし、住持人の答拝あり。小師侍者、おのおの九拝す。答拝なし。沙弥九拝、あるいは十二拝なり。住持人合掌して受くるのみなり」は註解文です。

つぎに首座、僧堂前に至りて、上間の知事床の南の端にあたりて、雲堂の正面にあたりて、面南にて大衆に向かうて立つ。大衆面北して、首座に向かうて触礼三拝す。首座、大衆を引きて入堂し、戒臘によりて巡堂立定す。知事入堂し、聖僧前にて大展礼三拝しておく。つぎに首座前にて触礼三拝す。大衆答拝す。知事、巡堂一迊して、出でて位によりて叉手して立つ。

住持人入堂、聖僧前にして焼香、大展三拝起。このとき、小師於聖僧後避立。法眷随大衆。

つぎに住持人、於首座触礼三拝。

いはく、住持人、たゞ位によりて立ち、面西にて触礼す。首座大衆答拝、先のごとし。

住持人、巡堂して出づ。首座、前門の南頬より出でて住持人を送る。

住持人出堂ののち、首座已下、対礼三拝していはく、此際幸同安居、恐三業不善、且望慈悲」は原文引用ですが、随所に補講された語句が見られる。「かくのごとくして首座書記藏主等、おのおのその寮にかへる。もしそれ衆寮僧は、寮主寮首座已下、おのおの觸禮三拝す。致語は堂中の法におなじ」は註解文です。

「住持人こののち、庫堂よりはじめて巡堂す。次第に大衆相随、送至方丈。大衆乃退」は原文引用で、「いはゆる住持人まづ庫堂に至る、知事と人事し終わりて」以下は道元禅師による老婆親語な説明になります。

住持人は庫院に至り、典座は住持の後方に随う。巡堂の時は延寿院には入らず安老(隠居僧)・勤旧(知事等の退役僧)・前資(副寺職を三回以上退休老宿)・頤堂(老宿僧)・単寮(独住する西堂・首座等退任僧)等を巡寮するを大衆相送と云うのである。

このように巡堂して最後は方丈の居室での人事作礼するが、「先師は方丈に大衆を引かず、法堂に至りて、法座の堦前にして面南叉手して立つ、大衆問訊して退す、これ古往の儀なり」

と如浄和尚の儀を懐古してのものです。

「しかうして後、衆僧おのおの心に随いて人事す」は原文引用です。

これからの「人事」の様子は正式な儀礼ではなく、法友・師資が互いに行うものです。

人事と云うのは互いに礼拝し合う事で、同郷人同志が照堂(僧堂裏のうす暗い通路)又は廊下等場所を選ばずに賀表し、致語は礼儀に則って行うが時宜に応じた祝語もありである。海衆のなかに師弟が同参の場合は、弟子が本師を九拝する。上下関係に依り両展大展三拝する。また僧堂内での隣席人には礼を尽し、知事・頭首等には各寮舎に出向き拝賀するが、多くの安居者が居る時には「某寮・某甲・拝賀」の牓を寮内に貼り付けるとの説明です。道元禅師在宋時の天童寺ではこのような光景だったのでしょうか。

「堂頭庫司首座、次第に煎点といふことあり。しかあれども、遠島深山のあひだには省略すべし。たゞこれ礼数なり。退院の長老、および立僧の首座、おのおの本寮につきて、知事頭首のために特為煎点するなり」は原文引用で、「かくの如く結夏」以下は道元禅師による結語で、仏祖の児孫・仏祖であるためには、安居の道場、これ仏祖の心印なり、諸仏の住世なり。との提言です。

 

    五

解夏七月十三日、衆寮煎點諷經。またその月の寮主これをつとむ。

十四日、晩念誦來日陞堂。人事巡寮煎點、竝同結夏。唯牓状詞語、不同而已。

庫司湯牓云、庫司今晩、就雲堂煎點、特爲首座大衆、聊表解制之儀。状冀衆慈同垂光降。

                 庫司比丘某甲  白

土地堂念誦詞云、切以金風扇野、白帝司方。當覺皇解制之時、是法歳周圓之日。九旬無難、一衆咸安。誦持諸佛洪名、仰報合堂眞宰。仰憑大衆念。

これよりのちは結夏の念誦におなじ。陞堂罷、知事等、謝詞にいはく、伏喜法歳周圓、無諸難事。此蓋和尚道力廕林、下情無任感激之至。

住持人謝詞いはく、此者法歳周圓、皆謝某首座監寺人等法力相資、不任感激之至。

堂中首座已下、寮中寮主已下、謝詞いはく、九夏相依、三業不善、惱亂大衆、伏望慈悲。知事頭首告云、衆中兄弟行脚、須候茶湯罷、方可隨意如有緊急縁事、不在此限。

この儀は、これ威音空王の前際後際よりも頂量なり。佛祖のおもくすること、たゞこれのみなり。外道天魔のいまだ惑亂せざるは、たゞこれのみなり。三國のあひだ、佛祖の兒孫たるもの、いまだひとりもこれをおこなはざるなし。外道はいまだまなびず、佛祖一大事の本懷なるがゆゑに、得道のあしたより涅槃のゆふべにいたるまで、開演するところ、たゞ安居の宗旨のみなり。西天の五部の僧衆ことなれども、おなじく九夏安居を護持してかならず修證す。震旦の九宗の僧衆、ひとりも破夏せず。生前にすべて九夏安居せざらんをば、佛弟子比丘僧と稱ずべからず。たゞ因地に修習するのみにあらず、果位の修證なり。大覺世尊すでに一代のあひだ、一夏も闕如なく修證しましませり。しるべし、果上の佛證なりといふこと。

しかあるを、九夏安居は修證せざれども、われは佛祖の兒孫なるべしといふは、わらふべし。わらふにたへざるおろかなるものなり。かくのごとくいはんともがらのこと葉をばきくべからず。共語すべからず、同坐すべからず、ひとつみちをあゆむべからず。佛法には、梵壇の法をもて惡人を治するがゆゑに。

たゞまさに九夏安居これ佛祖と會取すべし、保任すべし。その正傳しきたれること、七佛より摩訶迦葉におよぶ。西天二十八祖、嫡々正傳せり。第二十八祖みづから震旦にいでて、二祖大祖正宗普覺大師をして正傳せしむ。二祖よりこのかた、嫡々正傳して而今に正傳せり。震旦にいりてまのあたり佛祖の會下にして正傳し、日本國に正傳す。すでに正傳せる會にして九旬坐夏しつれば、すでに夏法を正傳するなり。この人と共住して安居せんは、まことの安居なるべし。まさしく佛在世の安居より嫡々面授しきたれるがゆゑに、佛面祖面まのあたり正傳しきたれり。佛祖身心したしく證契しきたれり。かるがゆゑにいふ、安居をみるは佛をみるなり、安居を證するは佛を證するなり。安居を行ずるは佛を行ずるなり、安居をきくは佛をきくなり、安居をならふは佛を學するなり。

おほよそ九旬安居を、諸佛諸祖いまだ違越しましまさざる法なり。しかあればすなはち、人王釋王梵王等、比丘僧となりて、たとひ一夏なりといふとも安居すべし。それ見佛ならん。人衆天衆龍衆、たとひ一九旬なりとも、比丘比丘尼となりて安居すべし。すなはち見佛ならん。佛祖の會にまじはりて九旬安居しきたれるは見佛來なり。われらさいはひにいま露命のおちざるさきに、あるいは天上にもあれ、あるいは人間にもあれ、すでに一夏安居するは、佛祖の皮肉骨髓をもて、みづからが皮肉骨髓に換卻せられぬるものなり。佛祖きたりてわれらを安居するがゆゑに、面々人人の安居を行ずるは、安居の人人を行ずるなり。恁麼なるがゆゑに、安居あるを千佛萬祖といふのみなり。ゆゑいかんとなれば、安居これ佛祖の皮肉骨髓、心識身體なり。頂眼睛なり、拳頭子柱杖なり、竹篦蒲團なり。安居はあたらしきをつくりいだすにあらざれども、ふるきをさらにもちゐるにはあらざるなり。

これから解夏(制)の儀についての説明と註解で、原文は『禅苑清規』です。

原文では「七月十四日晩念誦煎湯」とありますが、道元禅師は解夏の儀は七月十三日からの衆寮煎点諷経から始まり、その責任者は衆寮の月極め当番が行うとの事です。

「十四日、晩念誦来日陞堂。人事巡寮煎点、竝同結夏。唯牓状詞語、不同而已。

庫司湯牓云、庫司今晩、就雲堂煎点、特為首座大衆、聊表解制之儀。状冀衆慈同垂光降。

                 庫司比丘某甲  白

土地堂念誦詞云、切以金風扇野、白帝司方。当覚皇解制之時、是法歳周円之日。九旬無難、一衆咸安。誦持諸仏洪名、仰報合堂真宰。仰憑大衆念。

これよりのちは結夏の念誦におなじ。陞堂罷、知事等、謝詞にいはく、伏喜法歳周円、無諸難事。此蓋和尚道力廕林、下情無任感激之至。

住持人謝詞いはく、此者法歳周円、皆謝某首座監寺人等法力相資、不任感激之至。

堂中首座已下、寮中寮主已下、謝詞いはく、九夏相依、三業不善、悩乱大衆、伏望慈悲。知事頭首告云、衆中兄弟行脚、須候茶湯罷、方可随意」

ほとんどそのまま原文引用です。

「この儀は、これ威音空王の前際後際よりも頂量なり。仏祖の重くすること、たゞこれのみなり。外道天魔のいまだ惑乱せざるは、たゞこれのみなり。三国のあひだ、仏祖の児孫たるもの、未だ一人もこれを行なわざるなし。外道は未だ学びず、仏祖一大事の本懷なるが故に、得道のあしたより涅槃の夕べにいたるまで、開演するところ、たゞ安居の宗旨のみなり。西天の五部の僧衆異なれども、同じく九夏安居を護持して必ず修証す。震旦の九宗の僧衆、ひとりも破夏せず。生前にすべて九夏安居せざらんをば、仏弟子比丘僧と称ずべからず。たゞ因地に修習するのみにあらず、果位の修証なり。大覚世尊すでに一代のあひだ、一夏も闕如なく修証しましませり。知るべし、果上の仏証なりと云うこと」

これからが拈提・註解で、

「この儀(安居)は、これ威音空王の前際後際よりも頂量なり」

過去荘厳劫最初の仏を超脱した比喩を頂量と云う全体量で表現する事で、安居の連続性と無限体を説くものです。この連続性を印度・震旦・日本の「三国」の語で示唆し、仏祖の児孫と云われる者は釈尊の得道より涅槃に至るを安居と心得よとの註解です。

「西天の五部の僧衆異なれども、同じく九夏安居を護持して必ず修証す」

西天の五部とは釈迦入滅後百年の時、第四祖優婆毱多尊者の五弟子が法蔵部・説一切有部化地部飲光部・大衆部と五派に分かれ、それぞれが四分律十誦律・五分律・解脱戒経

摩訶僧祇律を典拠とする事を言われたもので、三年前提唱の『仏道』巻(寛元元(1243)年九月十六日吉峰寺示衆)に於いても「いま五宗の称を立するは世俗の混乱なり―中略―いかでか西天にある依文解義のともがら五部を立するが如くならん」と宋国では雲門・法眼・潙山・臨済・曹洞と五宗に分裂された事を嘆かれ、さらに寛元四(1246)年十一月初旬頃の上堂説法に於いても「参学の人、須らく邪正を知るべし。所謂、優婆毱多より已後、五部の仏法と称する、乃ち西天の凌替なり」(『永平広録』三・二〇七)と付法蔵第四祖以後インドに於ける仏法の衰退を悔やまれるものですが、これまでの説法のソース(起源)は宝慶(南宋代)元(1225)年に書き留めたとされる『宝慶記』(「曹洞宗全書」下・八)二十八問に堂頭(如浄)和尚が慈誨して道元禅師に伝言した「西天に五部有ると雖も一仏法也。東地の五僧(家)一つの仏法にしかざる也」(西天雖有五部、一仏法也。東地五僧、如不一仏法也)の言説を基に提唱・拈提されるものだと思われます。

「震旦の九宗の僧衆、ひとりも破夏せず」

ここでの「九宗」は華厳・律・法相・真言・禅・浄土(唐代)、天台・三論・倶舎(隋代)を云い、先の西天五部との引き合いにしたもので、分裂はしたものの安居という仏制を破った者はいないと。

「たゞ因地に修習するのみにあらず、果位の修証なり」

「因地」とは悟り(仏果)を求める上求菩提を云い、「果位」は仏(悟り)の境涯と云い得るが、安居の三か月間に於いても階梯の如くに三か月後の満願日を設定しての習練ではなく、修証一等なる態度で臨みなさいとの言辞で、その証在を始めも終わりもない打坐に比定し、その様子を「大覚世尊すでに一代の間、一夏も闕如なく修証した結果が、果上の仏証なり」と論証されます。

 

    六

しかあるを、九夏安居は修證せざれども、われは佛祖の兒孫なるべしといふは、わらふべし。わらふにたへざるおろかなるものなり。かくのごとくいはんともがらのこと葉をばきくべからず。共語すべからず、同坐すべからず、ひとつみちをあゆむべからず。佛法には、梵壇の法をもて惡人を治するがゆゑに。

「梵壇の法」とは黙擯とも梵天法冶とも云われ戒律違反冶罰で言葉を交わさない事ですが、安居最終日の自恣式にて懺悔滅罪が行われるが、ここでの言及は安居に同宿しない輩を指摘しての言句ですから多少「梵壇」の意とは差異しますが、仏制に則った叢林生活を第一義とする道元禅師の態度が窺われる文言です。

たゞまさに九夏安居これ佛祖と會取すべし、保任すべし。その正傳しきたれること、七佛より摩訶迦葉におよぶ。西天二十八祖、嫡々正傳せり。第二十八祖みづから震旦にいでて、二祖大祖正宗普覺大師をして正傳せしむ。二祖よりこのかた、嫡々正傳して而今に正傳せり。震旦にいりてまのあたり佛祖の會下にして正傳し、日本國に正傳す。すでに正傳せる會にして九旬坐夏しつれば、すでに夏法を正傳するなり。この人と共住して安居せんは、まことの安居なるべし。まさしく佛在世の安居より嫡々面授しきたれるがゆゑに、佛面祖面まのあたり正傳しきたれり。佛祖身心したしく證契しきたれり。かるがゆゑにいふ、安居をみるは佛をみるなり、安居を證するは佛を證するなり。安居を行ずるは佛を行ずるなり、安居をきくは佛をきくなり、安居をならふは佛を學するなり。

これまでは安居と仏祖の関係を「夏安居せざるは仏祖の児孫にあらず、また仏祖にあらず」から、この段では「九夏安居これ仏祖と会取すべし、保任すべし」と安居と仏祖の関係が確定的な表現に変わります。

その系譜を「正伝」というキーワードで以て西天→震旦→日本国また七仏→摩訶迦葉→西天二十八祖(震旦初祖)→二祖大祖正宗普覚大師→而今に正伝せり。と連続する仏法を証会させ、安居=仏を「見る・証する・行ずる・聞く・学す」と包括するものです。

おほよそ九旬安居を、諸佛諸祖いまだ違越しましまさざる法なり。しかあればすなはち、人王釋王梵王等、比丘僧となりて、たとひ一夏なりといふとも安居すべし。それ見佛ならん。人衆天衆龍衆、たとひ一九旬なりとも、比丘比丘尼となりて安居すべし。すなはち見佛ならん。佛祖の會にまじはりて九旬安居しきたれるは見佛來なり。われらさいはひにいま露命のおちざるさきに、あるいは天上にもあれ、あるいは人間にもあれ、すでに一夏安居するは、佛祖の皮肉骨髓をもて、みづからが皮肉骨髓に換卻せられぬるものなり。佛祖きたりてわれらを安居するがゆゑに、面々人人の安居を行ずるは、安居の人人を行ずるなり。恁麼なるがゆゑに、安居あるを千佛萬祖といふのみなり。ゆゑいかんとなれば、安居これ佛祖の皮肉骨髓、心識身體なり。頂眼睛なり、拳頭鼻孔なり。圓相佛性なり、拂子拄杖なり、竹篦蒲團なり。安居はあたらしきをつくりいだすにあらざれども、ふるきをさらにもちゐるにはあらざるなり。

この段での要点は「安居」と「見仏」の聯関を説くものですが、言わんとする点は安居と連関付属する法語の真意は、安居という真実体は諸仏諸祖の真実態と同体同時を「いまだかつて違反越度したことはない」と説き、その「見仏」の時々の表体を「人王・釈王・梵王・比丘僧」であったり、「人衆・天衆・龍衆」と言われるのです。

「一夏安居するは、仏祖の皮肉骨髄をもて、みづからが皮肉骨髄に換却せられぬるものなり。仏祖きたりてわれらを安居するが故に、面々人々の安居を行ずるは、安居の人々を行ずるなり」

これは能所・主客を脱居する文法で、安居と仏祖の関係をそれぞれの立場を換却・とりちがえて説く主客同一語法です。

「安居これ仏祖の皮肉骨髄、心識身体なり。頂眼睛なり、拳頭鼻孔なり。円相仏性なり、払子拄杖なり、竹篦蒲団なり」

通常の説き様で、安居=仏祖の皮肉骨髄だけに留め置く事で、カテゴライズされ概念化する危惧の為、「心識身体・頂眼睛・拳頭鼻孔」等とあらゆる身体部位、更には「払子拄杖・竹篦蒲団」等を動員させ、固着化を防ぎ不立文字化するものです。

「安居は新しきをつくりいだすにあらざれども、古きを更に用いるにはあらざるなり」

これは活粧々なる状態を喩えんが為のもので、安居の動中では新陳代謝の連続性を述べるものです。

 

    六

世尊告圓覺菩薩、及諸大衆、一切衆生言、若經夏首三月安居、當爲清淨菩薩止住。心離聲聞、不假徒衆。至安居日、即於佛前作如是言。我比丘比丘尼、優婆塞優婆夷某甲、踞菩薩乘修寂滅行、同入清淨實相住持。以大圓覺爲我伽藍、心身安居。平等性智、涅槃自性、無繋屬故。今我敬請、不依聲聞、當與十方如來及大菩薩、三月安居。爲修菩薩無上妙覺大因縁故、不繋徒衆。善男子、此名菩薩示現安居。

しかあればすなはち、比丘比丘尼、優婆塞優婆夷等、かならず安居三月にいたるごとには、十方如來および大菩薩とともに、無上妙覺大因縁を修するなり。しるべし、優婆塞優婆夷も安居すべきなり。この安居のところは大圓覺なり。しかあればすなはち、鷲峰山孤獨園、おなじく如來の大圓覺伽藍なり。十方如來及大菩薩、ともに安居三月の修行あること、世尊のをしへを聽受すべし。

これまでは『禅苑清規』の解説とも言うべき安居での結夏・解夏に於ける行儀の説明でした。

この段の本則話頭は『大方広円覚修多羅了義経』(「大正蔵」一七・九二一・上)からの引用経典で、

「若し夏首より三ヶ月の安居を経過すれば、当に清浄の菩薩に止住す。心は声聞を離れ、徒衆を仮らず。安居日に至り、即ち仏前に於いて是の如く言を作す。我れ比丘比丘尼、優婆塞優婆夷某甲、菩薩乗に踞して寂滅行を修し、同じく清浄の実相に入り住持す。大円覚を以て我が伽藍と為し、心身安居す。平等性智、涅槃自性は繋属無き故に。今我敬請す、声聞に依らず、当に十方如来及び大菩薩お三ヶ月の安居すべし。菩薩の無上妙覚大因縁を修せんが為の故に、徒衆を繋せず。善男子、此れを菩薩の示現安居と名づく。」

「しかあればすなはち、比丘比丘尼、優婆塞優婆夷等、必ず安居三月に到る毎には、十方如来および大菩薩と共に、無上妙覚大因縁を修するなり。知るべし、優婆塞優婆夷も安居すべきなり」

大乗経典では比丘比丘尼優婆塞優婆夷は仏弟子の基準値で、特に在家者と云われる居士・大姉に対する呼び掛けが人間道元を表徴する言葉です。

 

    七

世尊於一處、九旬安居、至自恣日、文殊倐來在會。迦葉問文殊、今夏何處安居。文殊云、今夏在三處安居。迦葉於是集衆白槌欲擯文殊。纔擧犍槌、即見無量佛刹顯現、一々佛所有一々文殊、有一々迦葉、擧槌欲擯文殊。世尊於是告迦葉云、汝今欲擯阿那箇文殊。于時迦葉茫然。

圜悟禪師拈古云、

 鐘不撃不響 鼓不打不鳴 迦葉既把定要津 文殊乃十方坐斷

 當時好一場佛事 可惜放過一著

 待釋迦老子道欲擯阿那箇文殊、便與撃一槌看、佗作什麼合殺。

 圜悟禪師頌古云、

 大象不遊兎徑 燕雀安知鴻鵠 據令宛若成風 破的渾如囓鏃

 徧界是文殊 徧界是迦葉 相對各儼然 擧椎何處罰 好一箚

 金色頭陀曾落卻

しかあればすなはち、世尊一處安居、文殊三處安居なりといへども、いまだ不安居あらず。もし不安居は、佛及菩薩にあらず。佛祖の兒孫なるもの安居せざるはなし、安居せんは佛祖の兒孫としるべし。安居するは佛祖の身心なり、佛祖の眼睛なり、佛祖の命根なり。安居せざらんは佛祖の兒孫にあらず、佛祖にあらざるなり。いま泥木素金七寶の佛菩薩、みなともに安居三月の夏坐おこなはるべし。これすなはち住持佛法僧寶の故實なり、佛訓なり。

おほよそ佛祖の屋裏人、さだめて坐夏安居三月、つとむべし。

古則話頭の出典は『圜悟録』十七(「大正蔵」四七・七九二・上)・『圜悟録』十九(「同経」・八〇五・上)です。

世尊於一処、九旬安居、至自恣日、文殊倐来在会。

世尊が一ツ処で安居されるに、自恣の日に至り、文殊がにわかに来て安居処に在。

迦葉問文殊、今夏何処安居。

迦葉が文殊に問う、今夏はどこで安居したか。

文殊云、今夏在三処安居。

文殊が云う、今夏は三ヶ処で安居する。

迦葉於是集衆白槌欲擯文殊。纔挙犍槌、即見無量仏刹顕現、一々仏所有一々文殊、有一々迦葉、挙槌欲擯文殊

迦葉はそこで大衆を集め白槌して文殊を追い出そうとし、わづかに犍槌を挙げると、すぐに無量の寺院が顕現し、一寺ごとに文殊・迦葉が居て、槌を挙げ文殊を追い出そうとするのを見た。

世尊於是告迦葉云、汝今欲擯阿那箇文殊

世尊はそこで迦葉に告げて云う、汝は今どの文殊を追い出そうとするか。

于時迦葉茫然。

時に迦葉は茫然とす。

先に出典は『圜悟録』十七・拈古からのものとしましたが、正確には『圜悟録』十九・頌古との合揉語で、迦葉が文殊を問い詰めた「三処」とは「魚行・淫坊・酒肆」と『御抄』(「註解全書」八・六三一)では註解しますが、「入店垂手、酒肆魚行、化令成仏」と世人を成仏させる意で、大乗の慈悲行・利他行を「三処」に喩えてのものです。言わんとする旨は安居処の遍在性を説くものです。

圜悟禅師拈古云、

圜悟禅師拈古に云う、

鐘不撃不響、

鐘は撃たなければ響かず、

鼓不打不鳴。

鼓は打たなければ鳴らず。

迦葉既把定要津、

迦葉既に要津を把定すれば、

文殊乃十方坐断。

文殊乃ち十方坐断す。

当時好一場仏事。

その時好一場の仏事なり。

可惜放過一著。

惜しむべし、一著を放過すること。

待釈迦老子道欲擯阿那箇文殊、便与撃一槌看、他作什麼合殺。

釈迦老子は阿那箇の文殊を擯せんと欲するを道うを待って、便ち

撃一槌を与え看るべし、他(迦葉)は什麼の合殺(とどめ)をか作す。

この処は先の「文殊の三処安居」に対する圜悟克勤の論評で、迦葉・文殊ともに「把定」「十方坐断」の語で認じ、さらに「什麼」の語法を用いての遍在・遍満性を云うものです。

圜悟禅師頌古云、

圜悟禅師頌古に云う、

大象不遊兎径、

大象は兎径に遊ばず、

燕雀安知鴻鵠。

燕や雀がどうして大鳥(鴻鵠)を知ろうか。

拠令宛若成風、

規則(仏制)に拠り宛(あた)かも風を成すが若し、

破的渾如囓鏃。

的をいるは渾て鏃をかむ如し。

徧界是文殊

徧界は是れ文殊

徧界是迦葉、

徧界は是れ迦葉、

相対各厳然。

相い対してそれぞれは厳然たり。

挙椎何処罰好一箚、

椎を挙げて何処にか罰すか好一箚、

金色頭陀曾落却。

金色の頭陀(迦葉)はとっくに椎を落とす。

「しかあればすなはち、世尊一処安居、文殊三処安居なりといへども、いまだ不安居あらず。もし不安居は、仏及菩薩にあらず」

これからが道元禅師による圜悟に対する著語です。

「一処」も「三処」も数量に喩えるものではなく、尽界を対象にした遍在・遍満を説くものですから、「いまだ不安居あらず」と著語し、安居実践により世尊・文殊・迦葉と敬称されるわけですから「不安居は仏菩薩にあらず」と表すわけです。

「仏祖の児孫なるもの安居せざるはなし、安居せんは仏祖の児孫と知るべし。安居するは仏祖の身心なり、仏祖の眼睛なり、仏祖の命根なり。安居せざらんは仏祖の児孫にあらず、仏祖にあらざるなり」

ここでの安居=仏祖児孫は結夏章最後部でのいまだ夏安居せざるは仏祖の児孫にあらずの繰り返しで、また「安居するは仏祖の身心・眼睛・命根」も同じく解夏章最後部での安居これ仏祖の皮肉骨髄・心識身体・頂眼睛を再度確認するものです。

「いま泥木素金七宝の仏菩薩、みな共に安居三月の夏坐おこなはるべし。これすなはち住持仏法僧宝の故実なり、仏訓なり。おほよそ仏祖の屋裏人、さだめて坐夏安居三月、努むべし」

ここでの安居三月の夏坐は前段「比丘比丘尼、優婆塞優婆夷等、必ず安居三月に到る毎には、十方如来および大菩薩と共に、無上妙覚大因縁を修するなり」を形容を変えての再言で、最後の「仏祖の屋裏人」とは先の比丘優婆塞泥木等の仏菩薩を示唆し、尽界の皆人を屋裏人と見なし日々常々つとめ励むを安居であるとの提唱です。