正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵梅花

正法眼蔵第五十三 梅花

    一

先師天童古佛者、大宋慶元府太白名山天童景徳寺第三十代堂上大和尚なり。

上堂示衆云、天童仲冬第一句、槎々牙々老梅樹。忽開花一花兩花、三四五花無數花。清不可誇、香不可誇。散作春容吹草木、衲僧箇々頂門禿。驀箚變怪狂風暴雨、乃至交袞大地雪漫々。老梅樹、太無端、寒凍摩挲鼻孔酸。

いま開演ある老梅樹、それ太無端なり、忽開花す、自結菓す。あるいは春をなし、あるいは冬をなす。あるいは狂風をなし、あるいは暴雨をなす。あるいは衲僧の頂門なり、あるいは古佛の眼睛なり。あるいは草木となれり、あるいは清香となれり。驀箚なる神變神怪きはむべからず。乃至大地高天、明日清月、これ老梅樹の樹功より樹功せり。葛藤の葛藤を結纏するなり。老梅樹の忽開花のとき、花開世界起なり。花開世界起の時節、すなはち春到なり。この時節に、開五葉の一花あり。この一花時、よく三花四花五花あり。百花千花萬花億花あり。乃至無數花あり。これらの花開、みな老梅樹の一枝兩枝無數枝の不可誇なり。優曇華優鉢羅花等、おなじく老梅樹花の一枝兩枝なり。おほよそ一切の花開は、老梅樹の恩給なり。人中天上の老梅樹あり、老梅樹中に人間天堂を樹功せり。百千花を人天花と稱ず。萬億花は佛祖花なり。恁麼の時節を、諸佛出現於世と喚作するなり。祖師本來茲土と喚作するなり。

前巻『佛祖』巻から『梅花』巻の必然性は、標題を眺めるだけでは不審に考えられますが、『面授』巻から続く天童古佛如浄和尚に対する締め括りの巻としての、編集意図が読み取れます。奥書き以後に提示された二則話頭を除き、本文での本則は全て『如浄語録』からの引用と考えられ、細密な拈提が附された構成となります。

「先師天童古佛者、大宋慶元府太白名山天童景徳寺第三十代堂上大和尚なり」

「先師天童古佛」の語句は「七十五巻本」だけに限ると十九回使用され、すべて越前移錫後の説示に於いてであります。

「慶元府」の名は、慶元元年(1195)から至元十三年(1276)にかけて呼ばれた呼称であり、今の浙江省寧波市を指す。

「第三十代堂上大和尚」と如浄の紹介をされるが、『天童寺世代考』一(吉田道興著)によれば、『扶桑五山記』には三十一代に浄禅師と記載され、『和漢禅刹次第』では三十代に長翁浄禅師とありますが、『天童寺志』では、本来は無際了派禅師の次に如浄禅師と記載される処を浙翁如琰と記され、如浄の住持名さえ無い状態です。

また『道元禅師在宋中の軌跡』(佐藤秀孝著)によれば、「曹洞宗真歇派の長翁如浄は天童山三十一世として入寺」とされます。

本則話頭の出典は『如浄語録』下(「大正蔵」四八・一二八・上)になり、宝慶元年(1225)十一月(仲冬)ですから、眼前に如浄の肉声を聞いてのものですから、思い入れの有する上堂示衆語と思われます。

本則を注釈すると、

「槎々牙々たり老梅樹」(槎牙(さが)は木の枝が絡み合う様を云ったもので、槎々牙々はそれを強調した形になり、老梅の樹枝が入り乱れる様を云うものです。

「忽ちに開花一花両花」(老梅の春に花を著ける情景です)

「三四五花無数花」(さらに三つ四つ五つと、時に合わせて満開に到る光景になります。

「清は誇るべからず、香も誇るべからず」(清も香も老梅自身は主張しないものです。強豪和尚は『御抄』にて「清も香も共に無辺際の心地歟」と註解されます。

「散じては春容と作(な)り草木を吹く」(梅の花が散った後には本格的春と作って、草木が吹くのである)

「衲僧の箇々は頂門禿なり」(禅坊主の箇々人の頭は禿(かぶろ)と、髪の毛の短さと、梅の枝との対比を云うもので、梅を衲僧の姿と説くものです。

「驀箚に変怪する狂風暴雨あり」(驀箚は、まっしぐらの意で、一気に自然の状況が、春の穏やかさから変貌する状態を指します。

「乃至大地に交袞し雪漫々たり」(乃至大地に交袞(こうこん・満ち満てる様子)する雪は漫々たり)

「老梅樹は太だ無端なり」(老梅の樹は、捉え所がない)

「寒凍摩挲として鼻孔酸し」(寒さが凍みて、鼻孔に(梅の実の)酸っぱさが漂う)

「いま開演ある老梅樹、それ太無端なり、忽開花す、自結菓す。或いは春を成し、或いは冬を成す。或いは狂風を成し、或いは暴雨を成す。或いは衲僧の頂門なり、或いは古佛の眼睛なり。或いは草木と成れり、或いは清香と成れり」

本則に対する拈提ですが、「老梅樹」を自己の正体として捉えますから、老梅樹は尽十方界の真実態となり、様々な状態が現出するを「忽開花」とし、坐禅の姿を「自結菓」と達磨の偈文「吾本来茲土、伝法救迷情、一華開五葉、結果自然成」(「大正蔵」五一・二一九・下)を捩ったものです。

この老梅樹による太無端の具象事例を、「春・冬・狂風・暴雨」と表し、それは衲僧つまり自己の全体(頂門)を表現し、又は「古佛の眼睛」とも称され、草木であったり清であったり香であったりと、尽十方界に遍在する事象は、老梅樹である自己と同化されるとの含意があります。

「驀箚なる神変神怪究むべからず。乃至大地高天、明日清月、これ老梅樹の樹功より樹功せり。葛藤の葛藤を結纏するなり。老梅樹の忽開花の時、花開世界起なり。花開世界起の時節、即ち春到なり。この時節に、開五葉の一花あり。この一花時、よく三花四花五花あり。百花千花万花億花あり。乃至無数花あり。これらの花開、みな老梅樹の一枝両枝無数枝の不可誇なり」

如浄話頭では「驀箚神変狂風暴雨」である処を、前述の如く「狂風・暴雨」と分節して説きましたので、「驀箚なる神変神怪でも究め尽せず、さらに天地を「大地高天」と形容し、太陽と月を「明日清月」との老梅樹(真実尽界の自己)の樹による功徳と説かれます。別の言い様で「葛藤の葛藤を結纏するなり」と表現されますが、纏(てん)は「まといつく」の意であり、葛藤の字義を反復して、先の老梅樹による神変神怪を、補う文言になります。

本則「忽開花一花両花」に対しては、「花開世界起」と達磨大師による「心地生諸種、因事復生理、果満菩提円、花開世界起」(「大正蔵」五一・二一六・中)と附し、花開と同時に「春到」なりと説き、さらに本則「三四五花無数花」に対しては、「百花千花万花億花」と数の単位を増加し、無限定値である「無数花あり」と如浄の言句と同等句に導きます。

これらの「花開」という自然の微妙なる働きは、花を「枝」に言い替え「一枝両枝無数枝」の「不可誇」という自然の主張で有ると、自己(老梅樹)を分析するのです。

優曇華優鉢羅花等、同じく老梅樹花の一枝両枝なり。おおよそ一切の花開は、老梅樹の恩給なり。人中天上の老梅樹あり、老梅樹中に人間天堂を樹功せり。百千花を人天花と称ず。万億花は佛祖花なり。恁麼の時節を、諸佛出現於世と喚作するなり。祖師本来茲土と喚作するなり」

三千年に一度開花すると云われる優曇華や、希少な青い蓮華である優鉢羅花なども、尽十方界真実を表徴する老梅樹花の属する事を「一枝両枝」と先程からの語調で説かれ、先程からの花開(世界起)の事実は、老梅樹つまり自然による真実の恩給(恩寵)と言うわけです。

「老梅樹」とは何度も言及するように、尽十方に於ける真実態を比喩しての言句で、「人中天上」は物理的な天地を意味しますから、両者(人天と老梅)は同等不可分に位置づけるもので、「老梅樹中に人間天堂を樹功せり」とは倒置法にて、老梅樹の功徳で人界と天界を成らしめると説きます。

次に先の三四五花の対語である「百花千花万花億花」を分節独立させて、「百千花を人天花」「万億花は佛祖花」と新たな領域に規定し、このような(恁麼)な時節(事実)を、『法華経』(「大正蔵」九・七・上)方便品「諸佛世尊、唯以一大事因縁故出現於世」からの諸佛出現於世と言い換えられ、又「祖師本来茲土」は拈提冒頭の引用事例「自結果」の出典「吾本来茲土、伝法救迷情、一華開五葉、結果自然成」の「吾本来茲土」を捩り祖師本来茲土と言い換え可能である事を確かめ、最初の本則拈提を終わらせます。

 

    二

先師古佛、上堂示衆云、瞿曇打失眼睛時、雪裏梅花只一枝。而今到處成荊棘、卻笑春風繚亂吹。

いまこの古佛の法輪を盡界の最極に轉ずる、一切人天の得道の時節なり。乃至雲雨風水および草木昆蟲にいたるまでも、法益をかうむらずといふことなし。天地國土もこの法輪に轉ぜられて活々地なり。未曾聞の道をきくといふは、いまの道を聞著するをいふ。未曾有をうるといふは、いまの法を得著するを稱ずるなり。おほよそおぼろけの福徳にあらずは、見聞すべからざる法輪なり。いま現在大宋國一百八十州の内外に、山寺あり、人里の寺あり、そのかず稱計すべからず。そのなかに雲水おほし。しかあれども、先師古佛をみざるはおほく、みたるはすくなからん。いはんやことばを見聞するは少分なるべし。いはんや相見問訊のともがらおほからんや。いはんや堂奥をゆるさるゝ、いくばくにあらず。いかにいはんや先師の皮肉骨髓、眼睛面目を禮拝することを聽許せられんや。先師古佛、たやすく僧家の討掛搭をゆるさず。よのつねにいはく、無道心慣頭、我箇裡不可也。すなはちおひいだす。出了いはく、不一本分人、要作甚麼。かくのごときの狗子は騒人なり、掛搭不得といふ。まさしくこれをみ、まのあたりこれをきく。ひそかにおもふらくは、かれらいかなる罪根ありてか、このくにの人なりといへども、共住をゆるされざる。われなにのさいはひありてか、遠方外國の種子なりといへども、掛搭をゆるさるゝのみにあらず、ほしきまゝに堂奥に出入して尊儀を禮拝し、法道をきく。愚暗なりといへども、むなしかるべからざる結良縁なり。先師の宋朝を化せしとき、なほ參得人あり、參不得人ありき。先師古佛すでに宋朝をさりぬ、暗夜よりもくらからん。ゆゑはいかん。先師古佛より前後に、先師古佛のごとくなる古佛なきがゆゑにしかいふなり。

本則出典は『如浄語録』(「大正蔵」四八・一二二・下)嘉定六年(1213)十二月八日臘八上堂に於けるもので、他に『眼睛』(寛元元年1243)『優曇華』(寛元二年1244)各巻に引用されます。

「瞿曇打失眼睛時」瞿曇はゴータマ(釈迦族の姓)の音写で、ゴータマが眼の玉(眼睛)を失う(打失)時は、

「雪裏梅花只一枝」雪の中に梅の花が、只一枝である。

而今到処成荊棘」今に到るまで荊(いばら)や棘(とげ)を成して、

「却笑春風繚乱吹」却って笑うは春風の繚乱に吹くを。

如浄和尚の説こうとする主意は、「この上堂は臘八上堂での事ですから、釈尊が成道・開悟されたのは、ゴータマ(俗人)の眼玉を投げ棄てたからで、その時の釈尊の眼前の情景は、雪の中に浮かぶ枝に咲く梅の花。つまり自然(尽界)と自己との、同態同時で有るとの意です。その自然の現成は、到る処に荊棘がありと、見た目以上にカオス(複雑・混沌)的様相を示し、穏やかな春の日は瞬時に過ぎ、春の嵐が繚乱として吹くも、笑いも一場である。」と解されますが、当巻に於いては、この本則に対する拈提に多大の時間が費やされます。

「今この古佛の法輪を尽界の最極に転ずる、一切人天の得道の時節なり。乃至雲雨風水および草木昆虫に至るまでも、法益を蒙らずと云う事なし。天地国土もこの法輪に転ぜられて活地なり」

本則に対する拈提の第一声では、自身の師匠である如浄に対する最大限の讃辞を、「古佛(如浄)の法輪(説法)は、尽十方界の究極まで行き渡り、人天界すべてを得道の時とする」と拈語され、更に一切人天の具象事例を「雲・雨・風・水・草木・昆虫」に至るまでもと、自然を表出され、これら有情・無情物すべてが法益を受用し、天地国土でさえもが、この如浄の語力に転ぜられ、活鱍々と勇躍する。と説かれます。

「未曾聞の道を聞くと云うは、今の道を聞著するを云う。未曾有を得ると云うは、今の法を得著するを称ずるなり。おおよそ朧気の福徳にあらずは、見聞すべからざる法輪なり」

如浄のこのような表現方法は、これまでは聞かれなかったが、如浄和尚のお蔭で聞く事が出来るのである。「未曾有を得る」と云うのは、今の現実の法(自然の動静)を得ると云えば良いのである。

自然の動静は一様ではなく、無情を常態としますから、このような福徳でなければ、如浄の説明は見聞できない法輪である。

「いま現在大宋国一百八十州の内外に、山寺あり、人里の寺あり、その数称計すべからず。その中に雲水多し。しか有れども、先師古佛を見ざるは多く、見たるは少なからん。いわんや言葉を見聞するは少分なるべし。いわんや相見問訊の輩多からんや。いわんや堂奥を許さるる、幾許にあらず。如何にいわんや先師の皮肉骨髄、眼睛面目を礼拝する事を聴許せられんや」

十三世紀初頭の南宋時代には百八十の州としますが、当時の日本では六十六国二島を領土としますから、おおよそ三倍の規模であった事が知られ、そこでは山寺や人里寺があり、数えきれぬ程の官寺や一般寺で、雲水も相当数であるとの認識です。各種の語録や伝灯録を一瞥して見ても、数百から数千と云う雲水が粥飯を共にして居たとの事ですが、みなが皆道心堅固な学人ではなく、兵役逃れや、口減らしと云った社会事情から、脱俗した半俗雲水も相当数で有ったと考えられる。

以下は文意のままに解され、これ程多くの雲水が居ても、如浄(先師古佛)を眼前にしても見聞せず、ましてや方丈の堂奥に入室を許され、先師如浄の暖皮肉を直接礼拝を許可される者はほとんど居ない。との嘆きにも似た拈語になります。

当時の南宋の佛教社会を鳥瞰しても、如浄のような昔気質な衲僧よりも、三教一致等を唱える禿僧が人気を得ていた事実も認識すべきである。

「先師古佛、たやすく僧家の討掛搭を許さず。世の常に云く、無道心慣頭、我箇裡不可也。即ち追い出だす。出了云く、不一本分人、要作甚麼。かくの如きの狗子は騒人なり、掛搭不得と云う」

「討掛搭」の討は斧山和尚『聞解』では求掛搭で有ろうとの見解です。「無道心慣頭」とは、無道心が習慣と化した者(頭)の意になり、「我が屋内(箇裡・此裏)には不可也」と云って如浄和尚は、その無道心者を追い出した。

追い出して(出了)云うには、「一人の本分人にあらず、甚麼(なに)をか作(な)さんと要す」と云い放ち、このような「無道心慣頭」人は犬(狗子)が騒ぐと同様な騒がしい人であり、安居(掛搭)は出来ない(不得)と、如浄和尚は日頃から説示していたと、思い出しながらの説明文になります。

「まさしくこれを見、まの当たりこれを聞く。密かに思うらくは、彼ら如何なる罪根有りてか、この国の人なりと云えども、共住を許されざる。我何の幸い有りてか、遠方外国の種子なりと云えども、掛搭を許さるるのみにあらず、欲しきままに堂奥に出入して尊儀を礼拝し、法道を聞く。愚暗なりと云えども、虚しかるべからざる結良縁なり。先師の宋朝を化せし時、なお参得人あり、参不得人有りき。先師古佛すでに宋朝を去りぬ、暗夜よりも暗からん。故は如何。先師古佛より前後に、先師古佛の如くなる古佛なきが故にしか云うなり」

文意に解せられますから、粗略にて記します。

前述の出来事を、眼前にて見聞したわけですから、さぞ印象深く又多少の恐怖心も生じたのではと推察します。そのあたりを、「彼ら如何なる罪根あるか」と云った文章になるわけですが、ここでは具体的にどういった状況下で、無道心慣頭と如浄和尚が云ったかはわかりませんが、恐らく第三者から眺めれば、そんな事でと思われる場面だったと思われますが、筆者も三十数年前の叢林生活にて、堂頭和尚が直弟子の侍者和尚に対し、理不尽な暴行を眼前にした時には、当事者間にはそれ相当の理由が有るのでしょうが、現今の社会情勢では、パワハラとも受け取られないものになります。

その雲水と較べると、外国人である自分(道元)には良い結縁を持つ事が出来たが、その先師古佛(如浄)も世を去り、今は如浄のような性向を具した和尚は、如浄より前後に出来していないので、後進の為にも真箇道心者である如浄(先師古佛)の言動を示すのである。

 

しかあれば、いまこれを見聞せんときの晩學おもふべし、自餘の諸方の人天も、いまのごとくの法輪を見聞すらん、參學すらんとおもふことなかれ。雪裏梅花は一現の曇花なり。ひごろはいくめぐりか我佛如來の正法眼睛を拝見しながら、いたづらに瞬目を蹉過して破顔せざる。而今すでに雪裏の梅花まさしく如來眼睛なりと正傳し、承當す。これを拈じて頂門眼とし、眼中睛とす。さらに梅花裏に參到して梅花を究盡するに、さらに疑著すべき因縁いまだきたらず。これすでに天上天下唯我獨尊の眼睛なり、法界中尊なり。しかあればすなはち、天上の天花、人間の天花、天雨曼陀羅華、摩訶曼陀羅花、曼殊沙花、摩訶曼殊沙花および十方無盡國土の諸花は、みな雪裏梅花の眷屬なり。梅花の恩徳分をうけて花開せるがゆゑに、百億花は梅花の眷屬なり、小梅花と稱ずべし。乃至空花地花三昧花等、ともに梅花の大少の眷屬群花なり。花裡に百億國をなす、國土に開花せる、みなこの梅花の恩分なり。梅花の恩分のほかは、さらに一恩の雨露あらざるなり。命脈みな梅花よりなれるなり。 ひとへに嵩山少林の雪漫々地と參學することなかれ。如來の眼睛なり。頭上をてらし、脚下をてらす。たゞ雪山雪宮のゆきと參學することなかれ、老瞿曇の正法眼睛なり。五眼の眼睛このところに究盡せり。千眼の眼睛この眼睛に圓成すべし。まことに老瞿曇の身心光明は、究盡せざる諸法實相の一微塵あるべからず。人天の見別ありとも、凡聖の情隔すとも、雪漫々は大地なり、大地は雪漫々なり。雪漫々にあらざれば盡界に大地あらざるなり。この雪漫々の表裏團圝、これ瞿曇老の眼睛なり。

「しか有れば、今これを見聞せん時の晩学思うべし、自余の諸方の人天も、今の如くの法輪を見聞すらん、参学すらんと思う事なかれ」

今の晩学(後輩)は、如浄のような言動は他処でも見聞き出来ると思ってはならない。

「雪裏梅花は一現の曇花なり。日頃は幾廻りか我佛如来の正法眼睛を拝見しながら、いたづらに瞬目を蹉過して破顔せざる。而今すでに雪裏の梅花まさしく如来眼睛なりと正伝し、承当す」

日頃の雪中の梅花と、三千年に一度開花する優曇華とは、別次元の事象ではないのにも関わらず、「優曇華・瞬目・破顔」を説話上での事象とする事から、蹉過すと言われる事になります。今は如浄による「雪裏の梅花」は「如来の眼睛」と同等であると正伝承当するのである。

「これを拈じて頂門眼とし、眼中睛とす。さらに梅花裏に参到して梅花を究尽するに、さらに疑著すべき因縁未だ来たらず。これすでに天上天下唯我独尊の眼睛なり、法界中尊なり」

「これを拈じて」とは、「雪裏梅花」と「曇華・瞬目・破顔」との同等性を考察(拈じて)すれば、眼前の現実を述べるものですから、頭上の眼(頂門眼)であり、眼中のひとみ(眼中睛)そのものが、雪裏の梅花と言うわけです。

さらに言うなら、梅花という現実を究め尽して見ると、疑うべき現実(因縁)は未だ来たらずで、現成する眼前真実(梅花)が有るばかりを、「天上天下唯我独尊」つまり法身佛としての中心(眼睛)であり、法界中の尊であるとの説明ですが、ここで生誕偈を例にするのは「曇華・瞬目・破顔」と釈尊・迦葉との正伝付嘱が前程にされるからですが、一つ一つの細微な分節言語に固執し過ぎると、全体の姿態が見失われる恐れがある為、この天上天下の言句も微に入り細に入り考究し過ぎると、大本を見失う危惧があります。

「しか有れば即ち、天上の天花、人間の天花、天雨曼陀羅華、摩訶曼陀羅花、曼殊沙花、摩訶曼殊沙花および十方無尽国土の諸花は、みな雪裏梅花の眷属なり」

「天上の天花」「人間の天花」とありますが、こののをがにに置き替える事で、能所合一の文体になり、「天上が天花」「人間が天花」と読み替え可能で、天雨曼陀羅華も「天雨が曼陀羅華」であり曼殊沙花・摩訶曼殊沙花であると。このほか無尽十方国土の諸花(事物・事象)は、雪裏梅花に内包(眷属)されるのであると。

なお『法華経』寿量品(「大正蔵」九・四三・下)では「天人常充満、宝樹屋多花菓、衆生所遊楽、雨曼陀羅華、散佛及大衆」の一文が思い浮かびます。

「梅花の恩徳分を受けて花開せるが故に、百億花は梅花の眷属なり、小梅花と称ずべし。乃至空花地花三昧花等、ともに梅花の大少の眷属群花なり。花裡に百億国を成す、国土に開花せる、皆この梅花の恩分なり。梅花の恩分の他は、さらに一恩の雨露あらざるなり。命脈みな梅花より成れるなり」

毎度説明するように、梅花は植物のプラム・ブロッサムではなく、尽界に遍在する真実底を意味しますから、その事物・事象を「百億花」と称し、その無数の事実を「梅花の眷属」つまり内包され、百億花の一つ一つを「小梅花」と名づけるものです。

ここで「空花地花三昧花等」と説かれますが、「命脈みな梅花より成れるなり」との聯関に注目すると、『空華』巻(寛元元年(1243)三月十日興聖寺)最後部に記される「地華の命脈は佛祖」や「地花の命脈を知及せる佛祖」に連脈する梅花の比喩例だと思われますが、ここでの拈提の義は「空が花であり、地が花であり三昧が花である」との意で、これらも尽界に遍満する真実態(梅花)の眷属群花と、先程からの論述法で、以下は梅花の恩(徳)分により、一滴の雨露までも命の連なる脈道は「梅花」の真実から成っている。との重言です。

「ひとえに嵩山少林の雪漫々地と参学する事なかれ。如来の眼睛なり。頭上を照らし、脚下を照らす。たゞ雪山雪宮の雪と参学する事なかれ、老瞿曇の正法眼睛なり。五眼の眼睛この処に究尽せり。千眼の眼睛この眼睛に円成すべし」

「嵩山少林」の一行は、達磨と慧可との深雪に於いての相見であるが、これは単なる「雪漫々地での断臂」と見るのではなく、「如来の眼睛」つまり如来の姿として頭上から脚下(全体)を照らす一如の真理の、遍満する様子を雪漫々と認識しなさいと。嵩山少林故事を説かれます。さらに雪山(童子)雪宮(「ジャータカ」(本生譚))の雪として参学するのではなく、老瞿曇(釈尊)による正法の眼睛(眼目)を表する雪である。

さらなる眼睛の例言として、五眼(肉・天・慧・法・佛眼)と千眼(観音の千手千眼)を取

り挙げ、「究尽・円成」すべしとは、老瞿曇の眼睛に内包される事を、このように表現されます。喩えが多様で機微に富んでいる為、注解に労を要します。

「まことに老瞿曇の身心光明は、究尽せざる諸法実相の一微塵有るべからず。人天の見別有りとも、凡聖の情隔すとも、雪漫々は大地なり、大地は雪漫々なり。雪漫々にあらざれば尽界に大地あらざるなり。この雪漫々の表裏団圝、これ瞿曇老の眼睛なり」

「老瞿曇」は諸法実相の一呼称である事を、「究尽せざる一微塵有るべからず」と、現成する真実態を老瞿曇と定置させます。云うなれば未分節の阿頼耶識状態を指し、「人天の見別・凡聖の情隔」とは、分節状態である五識下では「一水四見」の喩えの如く、それぞれ人と天・凡と聖では見方に差違が生じます。その時、大地が雪一色(雪漫々)になれば大地との差違化は生じない為に区別は無くなり、雪漫々が未分節に変質し、表裏の別なく明珠の如くに円満完全(団圝)と成り、これを言い換えて「瞿曇老の眼睛」とも文字化します。

 

しるべし、花地悉無生なり、花無生なり。花無生なるゆゑに地無生なり。花地悉無生のゆゑに、眼睛無生なり。無生といふは無上菩提をいふ。正當恁麼時の見取は、梅花只一枝なり。正當恁麼時の道取は、雪裏梅花只一枝なり。地花生々なり。これをさらに雪漫々といふは、全表裏雪漫々なり。盡界は心地なり、盡界花情なり。盡界花情なるゆゑに、盡界は梅花なり。盡界梅花なるがゆゑに、盡界は瞿曇の眼睛なり。而今の到處は、山河大地なり。到事到時、みな吾本來茲土、傳法救迷情、一花開五葉、結果自然成の到處現成なり。西來東漸ありといへども、梅花而今の到處なり。而今の現成かくのごとくなる、成荊棘といふ。大枝に舊枝新枝の而今あり、小條に舊條新條の到處あり。處は到に參學すべし、到は今に參學すべし。三四五六花裏は、無數花裏なり。花に裏功徳の深廣なる具足せり、表功徳の高大なるを開闡せり。この表裏は、一花の花發なり。只一枝なるがゆゑに、異枝あらず、異種あらず。一枝の到處を而今と稱ずる、瞿曇老漢なり。只一枝のゆゑに、附囑嫡々なり。このゆゑに、吾有の正法眼藏、附囑摩訶迦葉なり。汝得は吾髓なり。かくのごとく到處の現成、ところとしても太尊貴生にあらずといふことなきがゆゑに、開五葉なり、五葉は梅花なり。このゆゑに、七佛祖あり。西天二十八祖、東土六祖、および十九祖あり。みな只一枝の開五葉なり、五葉の只一枝なり。一枝を參究し、五葉を參究しきたれば、雪裏梅花の正傳附囑相見なり。只一枝の語脈裏に轉身轉心しきたるに、雲月是同なり、谿山各別なり。しかあるを、かつて參學眼なきともがらいはく、五葉といふは、東地五代と初祖とを一花として、五世をならべて、古今前後にあらざるがゆゑに五葉といふと。この言は、擧して勘破するにたらざるなり。これらは參佛參祖の皮袋にあらず、あはれむべきなり。五葉一花の道、いかでか五代のみならん。六祖よりのちは道取せざるか。小兒子の説話におよばざるなり。ゆめゆめ見聞すべからず。

「知るべし、花地悉無生なり、花無生なり。花無生なる故に地無生なり。花地悉無生の故に、眼睛無生なり。無生と云うは無上菩提を云う。正当恁麼時の見取は、梅花只一枝なり。正当恁麼時の道取は、雪裏梅花只一枝なり。地花生々なり」

ここでは「無生」がキーワードとして取り扱われますが、宗教(禅)的無の意味は、絶対的境致と理解することで、「花は花として地は地として悉く(絶対的)生」・「花は(絶対的)生」・「花が(絶対的)生なるが故に地も(絶対的)生なり」と云い換え可能で、「絶対的)生と云うは(絶対的)上位の菩提」つまり真実態を指す事になり、花(梅花)も知(一枝)も共々に、現成する諸法実相である。と言う解釈です。

その時の見る場面は「梅花只一枝」という、花と地が同時現成する状態であり、その時に言い得る情景は「雪裏梅花只一枝」と、見取の時より雪裏が付加されたのは、次句に「雪漫々」に対するがある為で、正当恁麼時の見取も道取も同趣旨と受け取られ、その時には地(一枝)も花(梅花)も活鱍々地の如く生々と真実の表情を具現しているとの拈提になります。

「これを更に雪漫々と云うは、全表裏雪漫々なり。尽界は心地なり、尽界花情なり。尽界花情なる故に、尽界は梅花なり。尽界梅花なるが故に、尽界は瞿曇の眼睛なり」

梅花只一枝の状態を、もう一度「雪漫々」と言い改め、先の表裏団圝を「全表裏雪漫々」と繰り返しますが、前後の文脈からは重言となり不要に思われます。

尽界ー心地ー花情ー梅花ー瞿曇の眼睛との連脈になるわけですが、雪漫々から尽界に導く文脈に欠けるように感じられます。

而今の到処は、山河大地なり。到事到時、みな吾本来茲土、伝法救迷情、一花開五葉、結果自然成の到処現成なり。西来東漸ありと云えども、梅花而今の到処なり。而今の現成かくの如くなる、成荊棘と云う」

ここから本則「而今到処成荊棘」に対する拈提です。

而今の到処」とは、真実態である梅花は到る処にある。と云う処を、「山河大地」なりと尽界を表意したものです。

「到事到時」とは、山河大地に到る事(象)・到る時(間)を云いますが、通事時的な比喩ではなく、全機現的事・全機現的時。つまり達磨が云う処の「吾れは茲土に本来し、法を伝えて迷情を救う、一花は五葉を開き、結果は自然に成ず」(「大正蔵」五一・二一九・下)と聯関づけての拈提とし、「到処現成」と眼前に具現する表情(真実)が、而今に連なる論法となるものです。

達磨が西より来たとか、仏法が印度から中国や日本に東漸したと云う、通時的事実は有るが、梅花(真実具現)は而今の現成(到処)の一点である事実を説かれ、この而今の現成(実)はと云うと、雪漫々たる表裏団圝ではなく、荊(いばら)や棘(とげ)を成す現実世界を言うのです。

大枝に旧枝新枝の而今あり、小条に旧条新条の到処あり。処は到に参学すべし、到は今に参学すべし。三四五六花裏は、無数花裏なり。花に裏功徳の深広なる具足せり、表功徳の高大なるを開闡せり。この表裏は、一花の花発なり」

大小の枝に、それぞれ新旧の枝が並ぶ姿を、而今と到処に分けて拈提されますが、『御抄』の解説では「皆これ梅花の功徳荘厳」と解釈されます。

「処は到に参学すべし」とは、真理到来の処であり、その到るとは、それまでの過程を指すのではなく、常に現時点である今、云うなれば今也全機現とでも表明できます。

「三四五六」は数の配列ではなく、三は三で代替不可能な絶対数三を意味しますから、同義語として「無数」を対置させ、全体を示唆するものです。

(梅)花の功徳を「裏」と「表」に分けて説かれますが、勿論この裏は表の無い裏であり、表は裏の無しい表である事実を確認し、(梅)花の功徳を「深広・高大」と形容されますが、この喩えは成荊棘を説明する為の比喩であることを、忘れてはいけません。そして、この表裏の具体事象は、花の開花(花発)であり、これが而今の現成と言い得るものです。

「只一枝なるが故に、異枝あらず、異種あらず。一枝の到処を而今と称ずる、瞿曇老漢なり。只一枝の故に、附嘱嫡々なり」

先程からの喩えの如く、「只一枝」の時節には只一枝しか存在しませんから、「異枝の入り込む余地は有り得ません。ですから「一枝」は全体ですから「瞿曇老漢」なりと、ともに未那識に位置するものですが、一枝ー到処ー而今ー瞿曇老漢の一味態とも設定されます。ですから只一枝の全体ですから「附嘱嫡々」と連綿するとの論法ですが、これは、次に説く文章の伏線になります。

「この故に、吾有の正法眼蔵、附嘱摩訶迦葉なり。汝得は吾髄なり。かくの如く到処の現成、処としても太尊貴生にあらずと云う事なきが故に、開五葉なり、五葉は梅花なり。この故に、七仏祖あり。西天二十八祖、東土六祖、および十九祖あり」

前述の附嘱嫡々から、「吾有正法眼蔵、附嘱摩訶迦葉」「汝得は吾髄」と続くわけですが、これは『面授』巻最後部にて説かれたものと同様で、一花開五葉に掛けて七仏祖・西天二十八祖・東土六祖。そして自身をも包接する六祖から十九祖である自覚を述べるものとなって居り、その間の五十八祖は全て太尊貴生であることを「到処の現成」と言うのである。

「みな只一枝の開五葉なり、五葉の只一枝なり。一枝を参究し、五葉を参究し来たれば、雪裏梅花の正伝附嘱相見なり。只一枝の語脈裏に転身転心し来たるに、雲月是同なり、谿山各別なり」

これら毘婆尸仏から道元和尚に到る五十八仏祖は「只一枝の開五葉」であり、「五葉の只一枝」と異句同義に列します。

「一枝を参究」「五葉を参究」とは、嗣続連面する正法眼蔵を参学究明しなさい。との意で、そこには「雪裏梅花の正伝附嘱する」姿が相い見えて来るとの確信です。

「只一枝」の言語(語脈)の奥底(裏)に修行(転身転心)する。つまり固着観念を払拭する事が転心で、生活の態度を変転する事を転身とするものです。

そう成った時には、雲と月は同じになり、谿と山はそれぞれ別との言ですが、このままでは、如何にも頓智的禅問答のように見られますが、雲と月との存在は、天空の一点に於いての同時性では是同と成り、谿は山の一部分で有るとする分別論を用いれば、各別と成ります。

今日の認識論で云う、パラダイム転換を認得し、分別・無分別の論法を使用すれば、何ら奇天烈な発想ではありません。

「しか有るを、曾て参学眼無き輩云く、五葉と云うは、東地五代と初祖とを一花として、五世を並べて、古今前後にあらざるが故に五葉と云うと。この言は、挙して勘破するに足らざるなり」

「参学眼無き輩」つまり凡庸僧が云う「一花開五葉」とは、初祖達磨から慧能まで六人を「一花」と見立て、慧可・僧璨・道信・弘忍・慧能の五人には差異が無いから「五葉」とする言は、言うに事足らないものであると一蹴されますが、当時このような比喩が有ったことを知る貴重な拈提文です。

「これらは参仏参祖の皮袋にあらず、憐れむべきなり。五葉一花の道、如何でか五代のみならん。六祖より後は道取せざるか。小児子の説話に及ばざるなり。夢々見聞すべからず」

これらの僧徒は、参学に値する人間(皮袋)ではなく、憐れむべき存在であるが、彼らが説く「五葉一花の道(説明)」は歴史詮索であり、而今の現成を道取しない事に問題が有るのである。

達磨から慧能を問題にするなら、六祖以後の青原・南嶽を道取しないのは、こども(小児子)の童話(説話)にも及ばずで、彼らの言説は夢でも見聞してはいけない。と拈提を終わらせます。

 

    三

先師古佛、歳旦上堂曰、元正啓祚、萬物咸新。伏惟大衆、梅開早春。

しづかにおもひみれば、過現當來の老古錐、たとひ盡十方に脱體なりとも、いまだ梅開早春の道あらずは、たれかなんぢを道盡箇といはん。ひとり先師古佛のみ古佛中の古佛なり。その宗旨は、梅開に帶せられて萬春はやし。萬春は梅裏一兩の功徳なり。一春なほよく萬物を咸新ならしむ、萬法を元正ならしむ。啓祚は眼睛正なり。萬物といふは、過現來のみにあらず、威音王以前乃至未來なり。無量無盡の過現來、ことごとく新なりといふがゆゑに、この新は新を脱落せり。このゆゑに伏惟大衆なり。伏惟大衆は恁麼なるがゆゑに。

「先師古仏、歳旦上堂曰、元正啓祚、万物咸新。伏惟大衆、梅開早春」

この則は嘉定九年(1216)一月一日に、台州浙江省瑞巌寺での上堂話頭で、『如浄語録』(「大正蔵」四八・一二三・下)からの引用になりますが、原文では瑞岩としますが巌が正しい寺号になります。この寺への入寺は嘉定八年(1215)七月か八月とされ、退院上堂では「半年喫飯」と述べられますから、元旦上堂から間もなくの退院と考えられ、年齢は五三歳でした。

言うなれば、これは新年の決まり文句で「新年明けましておめでとうございます。」に、「梅は早春に開くものです。雲水の皆さん、どうぞよろしゅう。」とでも云ったものでしょうが、常人は、この常語に対しては註解等を差し入れる余地は有りませんが、敢えて拈語を試みます。

「静かに思い見れば、過現当来の老古錐、たとひ尽十方に脱体なりとも、未だ梅開早春の道あらずは、誰か汝を道尽箇といわん。ひとり先師古仏のみ古仏中の古仏なり」

これは如浄を讃嘆するものとして、些か過大評価とも見受けられると思われるかも知れないが、手元に在る語録等を検索しても、「梅開早春」を講じたものは確認出来ませんから、この拈語は的を得たものです。

なお『続灯録』(「続蔵」七八・七八四・上)には、五峰浄覚院本禅師の語として、「雪裡梅花火裡開」の句が見られます。

「その宗旨は、梅開に帶せられて万春早し。万春は梅裏一両の功徳なり。一春なお善く万物を咸新ならしむ、万法を元正ならしむ」

言わんとする処は、一月の成ったから梅が開くのではなく、「梅開」の事象が早春であり、同時に「万春」到処である。

「万春」は春全体を表意するもので、「梅裏一両」も梅全体を言い、共に春も梅も尽界を言い表すもので、その尽界功徳を言語表現で以て「梅裏一両の功徳」と拈語されます。

この場合の「一春」は、「万春・早春」と同義語とし、全体と見、その功徳は「万物」を「咸新」つまりは悉く新しくし、「万法」を生まれ変わらせる(元正)との指摘ですが、今日云う処の言葉で説くと、宇宙システムは常に開放状態にあり、一瞬の中断もなく新陳代謝を以て咸新ならしめ、円環運動の如くに、一春→万物→咸新→万法→元正の無常の渦中に在るものである。

「啓祚は眼睛正なり。万物と云うは、過現来のみにあらず、威音王以前乃至未来なり。無量無尽の過現来、悉く新なりと云うが故に、この新は新を脱落せり。この故に伏惟大衆なり。伏惟大衆は恁麼なるが故に」

「歳(祚)を啓(ひら)く」とは、釈尊の開眼を意味しますから、「眼睛正」とし、万物の定義を過去・現在・未来を更に拡大し、過去以前・未来以後をも設定する言語として、「威音王以前乃至未来」を用い、これまでの時間の枠組みを解体し、新たな枠組みを構築する方法論は、雪竇重顕以来のやり方である。

このことを別の言い用で、「無量無尽の過現来」は常に動的平衡状態を維持しつつ新生する様子を、「悉く新なりと云うが故に、この新は新を脱落せり」と、ここでは無常状態を脱落と言い含んでいます。

そこで「伏して惟れば大衆」と呼び掛け、皆さんの日常底が新生脱落である事を自覚しなさいとの提言です。

 

    四

先師天童古佛、上堂示衆云、一言相契、萬古不移。柳眼發新條、梅花滿舊枝。

いはく、百大劫の辦道は、終始ともに一言相契なり。一念頃の功夫は、前後おなじく萬古不移なり。新條を繁茂ならしめて眼睛を發明する、新條なりといへども眼睛なり。眼睛の佗にあらざる道理なりといへども、これを新條と參究す。新は萬物咸新に參學すべし。梅花滿舊枝といふは、梅花全舊枝なり、通舊枝なり。舊枝是梅花なり。たとへば、花枝同條參、花枝同條生、花枝同條滿なり。花枝同條滿のゆゑに、吾有正法、附囑迦葉なり。面々滿拈花、花々滿破顔なり。

この本則話頭は『如浄語録』(「大正蔵」四八・一二三・下)からの引用になりますが、前回本則同様、嘉定九年(1216)一月下旬上堂と考えられます。

説法寺院は瑞巌寺から同じく浙江省臨安府にある「浄慈寺」であり、ここでの上堂説法は四十四話頭が記録されますが、本則話頭の標題は「謝新旧知事」であり月日は特定できませんが、次の話頭上堂では「今朝二月初一」と月日特定可能の為、一月下旬と推察したものです。

「一言相契し、万古移らず。柳眼新条を発すれば、梅花は旧枝に満つ」

何を云わんとするかは、この上堂は次期安居に先立ち、新旧の知事職に対する感謝の説法である事を念頭にすれば、柳の芽(眼)は新しい枝に、梅の花は旧い枝に新生を宿すが、ともに真実(一言)は相い契(ちぎ)り、永劫(万古)変わらぬものを不移と置き換えたのである。

「云く、百大劫の辦道は、終始ともに一言相契なり。一念頃の功夫は、前後同じく万古不移なり」

「百大劫の辦道」と言うのは、前述で「威音王以前乃至未来」や「無量無尽の過現来」を承けての言説であり、無所得無所悟を含意しますから、始終ともに一貫して変わらぬ事を「一言相契」と拈語し、先には長大の時間を扱いましたから、「一念頃」と言う極小の時間の功夫(無所得・無所悟禅)に於いても前後は変わらない(万古不移)との事です。

これら提唱・拈提を考える時、雲水は共同生活をし、年限を定めず寝食ともにする修行で有りますから、拈提で説くような百大劫や一念頃の語句を、「只管」に聯関させて考察する事で、解釈の糸口が見えて来る思いがする。

「新条を繁茂ならしめて眼睛を発明する、新条なりと云えども眼睛なり。眼睛の他にあらざる道理なりと云えども、これを新条と参究す。新は万物咸新に参学すべし」

「新条繁茂」とは、柳の枝を云うのではなく、この梅花の上に、柳眼・旧枝・一言相契・一念頃と称ずる処を、新条にして眼睛(事実)を発し。と言い、新しい事象であっても事実(眼睛)に変わりないとの拈提です。

眼睛(事実)ではないと云う道理であっても、この事実を新条(柳眼等)として参究し、柳眼に発する新条の新は、前述の「万物咸新」つまり新陳代謝の如くに参学しなさい。との言明です。少し混み入り、わかりづらい箇所になります。

梅花満旧枝と云うは、梅花全旧枝なり、通旧枝なり。旧枝是梅花なり。たとえば、花枝同条参、花枝同条生、花枝同条満なり。花枝同条満の故に、吾有正法、附嘱迦葉なり。面々満拈花、花々満破顔なり」

「梅花旧枝に満てり」は、「梅花は全て旧枝である」とも「(梅花は)旧枝と通じてり」とも言い換え可能で、旧枝と梅花は別物ではなく、同次元に在する存在だと言うものです。

さらに言うなら、「花と枝はともに参じ・生じ・満てり」と一身心同体の例言に、釈尊と迦葉との啐啄の機である「拈花破顔」を取り挙げての説明です。つまり、梅花満旧枝の時節では釈尊・迦葉ともに拈花され、また同時に破顔される。との拈提ですが、言わんとする趣旨は、花と枝を例に挙げ只管打坐に於いては、初心も晩学もなく同参・同生・同満である事を説く、本覚法門に通脈する拈提です。

 

    五

先師古佛、上堂示大衆云、楊柳粧腰帶、梅花絡臂韝。

かの臂韝は、蜀錦和璧にあらず、梅花開なり。梅華開は、髓吾得汝なり。

波斯匿王、請賓頭盧尊者齋次、王問、承聞、尊者親見佛來。是不。尊者以手策起眉毛示之。先師古佛頌云、策起眉毛答問端 親曾見佛不相瞞 至今應供四天下 春在梅梢帶雪寒

この因縁は、波斯匿王ちなみに尊者の見佛未見佛を問取するなり。見佛といふは作佛なり。作佛といふは策起眉毛なり。尊者もしたゞ阿羅漢果を證すとも、眞阿羅漢にあらずは見佛すべからず。見佛にあらずは作佛すべからず。作佛にあらずは策起眉毛佛不得ならん。しかあればしるべし、釋迦牟尼佛の面授の弟子として、すでに四果を證して後佛の出世をまつ、尊者いかでか釋迦牟尼佛をみざらん。この見釋迦牟尼佛は見佛にあらず。釋迦牟尼佛のごとく見釋迦牟尼佛なるを見佛と參學しきたれり。波斯匿王この參學眼を得開せるところに、策起眉毛の好手にあふなり。親曾見佛の道旨、しづかに參佛眼あるべし。この春は人間にあらず、佛國にかぎらず、梅梢にあり。なにとしてかしかるとしる、雪寒の眉毛策なり。

最初の本則話頭は『如浄語録』(「大正蔵」四八・一二六・下)再住浄慈寺録からの引用になります。

浄慈寺の初住は嘉定九年(1216)一・二月頃から、嘉定十三年(1220)春までの四年あまり住持の任に当たり、嘉定十六年(1223)十月に再住しての翌年嘉定十七年(1224)春頃、六十一歳頃の上堂説法によるものです。

「先師古仏、上堂示大衆云、楊柳粧腰帯、梅花絡臂韝」

「楊柳は腰帯を粧(かざ)り、梅花は臂韝(ひこう)を絡(か)ける」

ヤナギの春の芽吹きの状態を、「貴婦人が著ける腰垂れ(腰帯)のような艶(あで)やかさと、また梅の花が咲く状態を、臂韝(ゆごて・ひじあて)と、貴婦人の装飾品である腕飾り」に喩えての本則の拈提は、

「かの臂韝は、蜀錦和璧にあらず、梅花開なり。梅華開は、髄吾得汝なり」

如浄が臂韝に比したのは、梅の花の根元の鞘の部分を云うので有ろうが、拈提でも臂韝は、装飾品である蜀(四川省成都)で産出される絹織物や楚の国宝である和氏の璧(かしのたま)のような物ではなく、梅の花が開くさまを言うのであると、如浄の意を汲んでの内容です。

その「梅花開」とは「髓吾得汝」と導きますが、髄吾得汝は汝得吾髄の語句を入れ替えたに過ぎませんが、意図する所を詮慧は『聞書』では「汝(慧可)と吾(達磨)二有ること無し、唯一体なるのみ也」と解し、経豪の『御抄』でも師の説を承けて「汝得吾髄と云えば、猶汝と吾の差別有りとも聞こゆ。髄吾得汝と云えば、親切の理顕わるる也」と註解します。要するに梅花開の現成は新旧枝の同時聯関を指し、能所泯亡を説く本覚論に連なるものと考えられます。

「波斯匿王、請賓頭盧尊者斎次、王問、承聞、尊者親見仏来。是不。尊者以手策起眉毛示之。先師古仏頌云、策起眉毛答問端 親曾見仏不相瞞 至今応供四天下 春在梅梢帯雪寒」

波斯匿王の本則話頭は『如浄語録』(「大正蔵」四八・一三〇・下)頌古からの引用になりますが、原典では「波斯匿王、問賓頭盧尊者」と波斯匿王が賓頭盧尊者に問うに対し、道元禅師は「波斯匿王は賓頭盧尊者を請して斎(昼食供養)する次いで王問う」と改変されますが、二週間後に禅師峰にて示衆された『見仏』巻では、同則を提唱されますが、『如浄語録』そのままに記述されます。

また同則が『永平広録』五三〇則にも記載されますが、こちらも『見仏』巻同様、『如浄語録』が記され、上堂語五三一則記録されるなかで、最々晩年にあたる建長四年(1252)十月下旬、亡くなる一年前に提示されたものになります。

「波斯匿(はしのく)王は、賓頭盧(びんずる)尊者を請して斎する次でに、王が問う。承聞(しんもん)すれば、尊者は親しく仏を見来ると。是(これ)不 (いな)や、尊者は手で以て眉毛を策起して之を示す」

「先師(如浄)古仏頌に云く、眉毛を策起して問端に答う。曾て親しく見仏すること相い瞞ぜず、 今に至るまで四天下に応供し、春は梅梢に在り雪を帯びて寒し」

「この因縁は、波斯匿王因みに尊者の見仏未見仏を問取するなり。見仏と云うは作仏なり。作仏と云うは策起眉毛なり。尊者もしただ阿羅漢果を証すとも、真阿羅漢にあらずは見仏すべからず。見仏にあらずは作仏すべからず。作仏にあらずは策起眉毛仏不得ならん」

これは如浄頌古に対する包括的拈提になります。

波斯匿王が尊者に見仏未見仏を問うが、拈提では二者択一ではなく、「見仏」とは「作仏」に他ならず、その作仏は「策起眉毛」という実修であり、阿羅漢であるからこそ、修証が共存するとの拈提です。要旨は、行を修する(策起眉毛)ことが、果を証すとの事で、無所悟の打坐を暗喩するものです。

因みに『見仏』巻での拈提文は「いま波斯匿王の問取する宗旨は、尊者すでに見仏なりや、作仏なりやと問取するなり。尊者あきらかに眉毛を策起せり、見仏の証験なり」との文言で、趣旨は同義です。

「しか有れば知るべし、釈迦牟尼仏の面授の弟子として、すでに四果を証して後仏の出世を待つ、尊者如何でか釈迦牟尼仏を見ざらん。この見釈迦牟尼仏は見仏にあらず。釈迦牟尼仏の如く見釈迦牟尼仏なるを見仏と参学し来たれり」

これは「至今応供四天下」に対する拈提で、賓頭盧尊者は直接に釈尊との面授の弟子であり、四果(預流果・一来果・不還果・無学果)も証し後仏の出世を待つ尊者が、どうして釈尊を見ない事があろうか。この見釈迦牟尼仏とは単なる形式的見仏ではなく、釈尊の如く修証を具なった行為を、見仏と言われるのである。

「波斯匿王この参学眼を得開せる処に、策起眉毛の好手に会うなり。親曾見仏の道旨、静かに参仏眼あるべし」

これは「親曾見仏不相瞞」に対する拈提になり、波斯匿王の参学眼と賓頭盧尊者の策起眉毛の啐啄の妙に喩えるもので、「曾て親しく仏を見る」との言辞を、参学する仏眼が必要である。

「この春は人間にあらず、仏国に限らず、梅梢に有り。何としてか然ると知る、雪寒の眉毛策なり」

「春在梅梢帯雪寒」に対する拈提ですが、「この春」は、単なる季節を喩うるのではなく、ましてや人間とは関係なく、仏国土を指すのでもなく、この春とは梅梢そのもので有るのである。つまりは「雪寒の梅梢」は現成の真実であり、賓頭盧尊者の眉毛を策起する修も現成の真実である。と言う「策起眉毛」―「見仏」―「梅梢」との円環性を説く拈提になります。

 

    六

先師古佛云、本來面目無生死、春在梅花入畫圖。

春を畫圖するに、楊梅桃李を畫すべからず。まさに春を畫すべし。楊梅桃李を畫するは楊梅桃李を畫するなり、いまだ春を畫せるにあらず。春は畫せざるべきにあらず。しかあれども、先師古佛のほかは、西天東地のあひだ、春を畫せる人いまだあらず。ひとり先師古佛のみ春を畫する尖筆頭なり。いはゆるいまの春は畫圖の春なり、入畫圖のゆゑに。これ餘外の力量をとぶらはず、たゞ梅花をして春をつかはしむるゆゑに、畫にいれ、木にいるゝなり。善巧方便なり。先師古佛、正法眼藏あきらかなるによりて、この正法眼藏を過去現在未來の十方に聚會する佛祖に正傳す。このゆゑに眼睛を究徹し、梅花を開明せり。

奥書きより後に附された三則を除けば、如浄録による本則六話頭提唱・拈提は最後の則になります。

出典は『如浄語録』(「大正蔵」四八・一三一・下)ですが、「小仏事」とする九人の葬儀の引導法語を収録した「医者下火」と題する一部になります。

全文表記するに、

「人間死病君能活」(人間の死や病を君は能く活かす)

「君死憑誰救得甦」(君の死は誰に憑り救得し甦らん)

「我有単方一把火」(我れに単方の一把火有り)

「為君焼却薬葫蘆」(君が為に焼却す薬葫蘆(仙人の医者))

「某人諾活也甦也」(某人(医者)は、はい(諾)と活す也甦也)

「且道以何為験」(且らく道え何を以てか験と為ん)

「以火打圓相云」(火で以て円相を打して云く)咦

「本来面目無生死」(本来面目は生死無し)

「春在梅花入画図」(春は梅花に在って画図に入る)

と云うように、亡くなられたのは春だったと見え、春は梅花とともに在り、その画題である梅花は画図に入るを、亡者の棺に入棺するを掛けた如浄による一喝の引導語を拈提する形になります。

春画図をするに、楊梅桃李を画すべからず。まさに春を画すべし。楊梅桃李を画するは楊梅桃李を画するなり、いまだ春を画せるにあらず。春は画せざるべきにあらず」

本則は入涅槃を頌するものでしたが、その旨は解体され、春を画くには楊や梅や桃や李(すもも)などを画図するのではなく、春という概念化した事物ではなく、画図は諸仏・諸祖と置き換えてみれば、おのづと画題は現成する真実態と定置されるわけです。

「しか有れども、先師古仏の他は、西天東地の間、春を画せる人未だ有らず。ひとり先師古仏のみ春を画する尖筆頭なり」

先程云うように、「春を画す」とは真実底の現成、つまりは打坐に徹する事象の表徴ですから、先師古仏である如浄以外には、古今東西の間、真の仏法(春)を実修(画せる)できる人物は発現せず、如浄和尚のみ尖筆頭(打坐)で以て真理を追究してきた。との事です。

「いわゆる今の春は画図の春なり、入画図の故に。これ餘外の力量をとぶらわず、ただ梅花をして春を使わしむる故に、画に入れ、木に入るるなり。善巧方便なり」

ここで如浄の偈に戻り、如浄が云う春は入画図とあるので、画の中の春のことを云うのであり、そのほかの力量をたづねているのではないが、梅花で春を表現するわけで有るから、その梅花は画中にも入ること可能で、また梅の木そのものとも可能で、如何ようにも梅花を処置できる巧みな方途を備えるのである。

「先師古仏、正法眼蔵明らかなるによりて、この正法眼蔵を過去現在未来の十方に聚会する仏祖に正伝す。この故に眼睛を究徹し、梅花を開明せり」

最後は包括的まとめで、先師古仏は正法眼蔵(仏法)が明らかであるので、過去現在未来の三世から聚会(集会)する仏祖に正伝す。と説かれるを『御抄』では「逆なるように覚ゆ」と疑問視されますが、これは第四にて説かれる「花枝同条参、花枝同条生、花枝同条満」なる道理を以てすれば、三世諸仏と如浄は同肩と見なすも良しとすれば、何ら疑う余地はありません。こう言うわけですから、如浄和尚は仏法の眼睛を究明徹底し、梅花(真実)の理法を開眼発明されたのである。

以上が『如浄語録』から七則話頭を六段に分けて分析注解したものですが、恐らくは提唱後に、山内雲衲が直接に「梅花」に関する疑問を道元禅師に問い質した事情が、このような文言を書かしめたものと考えられます。

 

もしおのづから自魔きたりて、梅花は瞿曇の眼睛ならずとおぼえば、思量すべし、このほかに何法の梅花よりも眼睛なりぬべきを擧しきたらんにか、眼睛とみん。そのときもこれよりほかに眼睛をもとめば、いづれのときも對面不相識なるべし、相逢未拈出なるべきがゆゑに。今日はわたくしの今日にあらず、大家の今日なり。直に梅花眼睛を開明なるべし、さらにもとむることやみね。

先師古佛云、明明歴歴、梅花影裏休相覓。爲雨爲雲自古今、古今寥寥有何極。

しかあればすなはち、くもをなしあめをなすは、梅花の云爲なり。行雲行雨は梅花の千曲萬重色なり、千功徳なり。自古今は梅花なり、梅花を古今と稱ずるなり。

古來法演禪師いはく、朔風和雪振谿林、萬物潜藏恨不深。唯有嶺梅多意氣、臘前吐出歳寒心。 しかあれば、梅花の銷息を通ぜざるほかは、歳寒心をしりがたし。梅花小許の功徳を朔風に和合して雪となせり。はかりしりぬ、風をひき雪をなし、歳を序あらしめ、および谿林萬物をあらしむる、みな梅花力なり。

大原孚上座、頌悟道云、憶昔當初未悟時、一聲畫角一聲悲、如今枕上無閑夢、一任梅花大小吹。孚上座はもと講者なり。夾山の典座ニに開發せられて大悟せり。これ梅花の春風を大小吹せしむるなり。

「もし自づから自魔来たりて、梅花は瞿曇の眼睛ならずと覚えば、思量すべし、この他に何法の梅花よりも眼睛成りぬべきを挙し来たらんにか、眼睛と見ん。その時もこれより他に眼睛を求めば、いづれの時も対面不相識なるべし、相逢未拈出なるべきが故に。今日はわたくしの今日にあらず、大家の今日なり。直に梅花眼睛を開明なるべし、更に求むる事止みね」

「梅花」と「瞿曇眼睛」の同等性は、本巻二に於いても「雪裏の梅花まさしく如来眼睛」・「尽界は梅花なり、尽界梅花なるが故に、尽界は瞿曇の眼睛なり」等々と、詳細に説いていることですから、この事実を実感する以外には方途はないと思われますが、恐らくは吉嶺門下の雲衲に対し、言句を噛み砕くように懇々と説く姿が、眼前に浮かぶようです。

文の大意は、梅花は瞿曇の眼睛と思えない状況に接したら、いづれの法(何法)が梅花眼睛よりも優れると思うかを考える事自体も、梅花の眼睛である事がわからない状態を、「対面不相識・相逢未拈出」と言うのであり、今日という事象はすべての人の事象であり、一個人の事ではないということを、直に梅花眼睛が開明することになり、求めても限りがない。と本巻「眼睛を究徹し、梅花を開明せり」を承けての文言です。

「先師古仏云、明明歴歴、梅花影裏休相覓。為雨為雲自古今、古今寥寥有何極」

この本則は『如浄語録』(「大正蔵」四八・一三二・中)「拄杖頌寄松源和尚」と題する七言律詩の形態からの引用に当たります。

松源(崇岳)和尚なる人物は、如浄が師事した禅僧に当たり、『松源和尚語録』下(「続蔵」七〇・一〇七・下)に於いても「示如浄禅人」と題する頌が見在し、如浄の徹底した坐禅観は、松源から受け継いだとも云われる。

また建長寺開山となる渡来僧蘭渓道隆(1213―1278)会下では、午前二時(四更)頃から夜中十時(二更三点)頃まで坐禅が行持されたと云われ、これは蘭渓の師無明慧性(1162―1237)さらにその師松源崇岳からの宗風とされる。

先程は七言律詩と云ったが、原文では「去兮去兮明歴歴」とする処を、ここでの提唱文では「明明歴歴」(明々歴々たり)と巻頭句にし、「梅花影裏休相覓」(梅花の影裏に相い覓(もと)め休し)「為雨為雲自古今」((梅花影裏で)雨と為り雲と為るは古今に)「古今寥寥有何極」(古今は寥寥たり何の極まり有らん)

「しか有れば即ち、雲を為し雨を為すは、梅花の云為なり。行雲行雨は梅花の千曲万重色なり、千功徳なり。自古今は梅花なり、梅花を古今と称ずるなり」

「為雨為雲」とは自然現象であり、それは人間の及ぶ手もなく、梅花(現今の自然科学で云うサムシング・グレート)の仕業(云為)であり、行雲行雨も同じく梅花の様々な形態(千曲万重)の一つの色(かたち)であり、千の功徳の一つである。梅花を「古今」つまり永遠を意するは、梅花は宇宙に脈動する波のような重力波を想定すれば、「自古今は梅花なり」の規模も想像されよう。

「古来法演禅師云く」(法演禅師が云う)「朔風和雪振渓林」(朔風(北風)は和雪に和して渓林を振う)「万物潜蔵恨不深」(万物は潜蔵するに恨み深からず)「唯有嶺梅多意気」(唯嶺の梅のみ有りて意気多し)「臘前吐出歳寒心」(臘前に吐出するは歳寒の心)

この本則出典は『建中靖国続灯録』三十(「続蔵」七八・八二四・中)「四祖山演禅師・四時般若」の四則目に当たるものです。

法演禅師(―1104)は白雲守端(1025―1072)に法を嗣ぎ、圜悟克勤(1063―1135)と、その嗣続は懐弉・義介と続く日本達磨宗大日房能忍に連脈するものです。

「しか有れば、梅花の銷息を通ぜざるほかは、歳寒心を知り難し。梅花小許の功徳を朔風に和合して雪と為せり。測り知りぬ、風を引き雪を為し、歳を序有らしめ、及び渓林万物を有らしむる、みな梅花力なり」

この本則話頭も先の如浄句と同様に、「梅花」の本質を自然現象に喩え、朔風も和雪も梅花力による功徳荘厳の道理を説くものですから、梅花の消(銷)息を知らない通じない人は、歳の瀬は寒いという道理をも知り難し。

梅花による功徳現成の少しばかり(小許)の具体事象が、「朔風に和合する雪であったり」「風を吹かしめ雪を降らしむ」事象で有ったり、春夏秋冬を秩序ならしめ、さらに渓林万物を現成せしむる事象を、梅花の荘厳功徳力と拈語されるものです。

なお本則三句目に「嶺」の字であるが、「七十五巻正法眼蔵」では『梅花』巻のみに、吉嶺と記され、在世当初からの呼び名がよしみねでらと称された事がわかる貴重な史料であるが、本巻主文は、すべて『如浄語録』からの本則提唱と特異な巻でもあるが、奥書きの「吉嶺寺」の嶺はこの『法演語録』を承けてのものか、今後の課題としたい。

「大原孚上座、頌悟道云」(大原孚上座、悟道を頌して云く)「憶昔当初未悟時」(当初未悟の当初を憶昔する時は)「一声画角一声悲」(一声の画角は一声の悲なり)「如今枕上無閑夢」(如今は枕上に閑夢(無意味な夢)は無く)「一任梅花大小吹」(一任す梅花の大小に吹くを)

この本則話頭出典は不明です。

「孚上座はもと講者なり。夾山の典座に開発せられて大悟せり。これ梅花の春風を大小吹せしむるなり」

大原孚上座(生没年不詳)は、揚州(江蘇省)の光孝寺で『涅槃経』(「大正蔵」三八・五五・下。同六九・中)の「三因仏性・三徳法身」の箇所で、夾山善会(805―881)会下で典座に失笑され、後日初夜より五更に至るまで坐禅し、忽然と契悟したとする『碧巌録』九十九則(「大正蔵」四八・二二二・中)同じく四十七則(「大正蔵」四八・一八三・上)に話が触れられます。

この大原孚上座を大悟せしめた機縁が、「梅花の春風を大小吹せしめた」自然(じねん)の荘厳功徳と言った拈提で終筆されます。