正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵仏向上事

正法眼蔵第二十六 仏向上事

    一

高祖筠州洞山悟本大師は、潭州雲巖山無住大師の親嫡嗣なり。如來より三十八位の祖向上なり、自己より向上三十八位の祖なり。大師、有時示衆云、體得佛向上事、方有些子語話分。僧便問、如何是語話。大師云、語話時闍梨不聞。僧曰、和尚還聞否。大師云、待我不語話時即聞。いまいふところの佛向上事の道、大師その本祖なり。自餘の佛祖は、大師の道を參學しきたり、佛向上事を體得するなり。まさにしるべし、佛向上事は、在因にあらず、果滿にあらず。しかあれども、語話時の不聞を體得し參徹することあるなり。佛向上にいたらざれば佛向上を體得することなし、語話にあらざれば佛向上事を體得せず。相顯にあらず、相隱にあらず。相與にあらず、相奪にあらず。このゆゑに、語話現成のとき、これ佛向上事なり。佛向上事現成のとき、闍梨不聞なり。闍梨不聞といふは、佛向上事自不聞なり。すでに語話時闍梨不聞なり。しるべし、語話それ聞に染汚せず、不聞に染汚せず。このゆゑに聞不聞に不相干なり。不聞裏藏闍梨なり、語話裡藏闍梨なりとも、逢人不逢人、恁麼不恁麼なり。闍梨語話時、すなはち闍梨不聞なり。その不聞たらくの宗旨は、舌骨に罣礙せられて不聞なり、耳裡に罣礙せられて不聞なり。眼睛に照穿せられて不聞なり、身心に塞卻せられて不聞なり。しかあるゆゑに不聞なり。これらを拈じてさらに語話とすべからず。不聞すなはち語話なるにあらず、語話時不聞なるのみなり。高祖道の語話時闍梨不聞は、語話の道頭道尾は、如藤倚藤なりとも、語話纏語話なるべし、語話に罣礙せらる。僧いはく、和尚還聞否。いはゆるは、和尚を擧して聞語話と擬するにあらず、擧聞さらに和尚にあらず、語話にあらざるがゆゑに。しかあれども、いま僧の擬議するところは、語話時に即聞を參學すべしやいなやと咨參するなり。たとへば、語話すなはち語話なりやと聞取せんと擬し、還聞これ還聞なりやと聞取せんと擬するなり。しかもかくのごとくいふとも、なんぢが舌頭にあらず。洞山高祖道の待我不語話時即聞、あきらかに參究すべし。いはゆる正當語話のとき、さらに即聞あらず。即聞の現成は不語話のときなるべし。いたづらに不語話のときをさしおきて、不語話をまつにはあらざるなり。即聞のとき、語話を傍觀とするにあらず、眞箇に傍觀なるがゆゑに。即聞のとき、語話さりて一邊の那裡に存取せるにあらず、語話のとき、即聞したしく語話の眼睛裏に藏身して霹靂するにあらず。しかあればすなはち、たとひ闍梨にても、語話時は不聞なり。たとひ我にても、不語話時即聞なる、これ方有些子語話分なり、これ體得佛向上事なり。たとへば、語話時即聞を體得するなり。このゆゑに、待我不語話時即聞なり。しかありといへども、佛向上事は、七佛已前事にあらず、七佛向上事なり。

渓声山色を引き継いでの巻ですが聯関連続性から考察するに、「渓声山色の功徳によりて、大地有情同時成道し、見明星悟道する諸仏あるなり」(渓声山色)「いわゆる仏向上事というは仏に至りて、進みて更に仏を見るなり」(仏向上事)との文言を看読するに、尽十方世界を背景にした無限絶対を生きる姿態が、両巻に連脈する成仏として垣間見る事が出来るものである。

この巻の構成は、冒頭に洞山話頭二則、浄因枯木・雲居洞断・曹山洞山・盤山宝積・智門光祚・石頭天皇・黄蘗希運と、各話則に対する綿密なる拈提が為されるものです。

入矢義高氏は仏向上(事)を「仏向上とは、仏または道を目指して向上する事ではなくて、仏の向上へ超え出る事であり、仏のさらに向こうへ踏み出す事である。仏を超出するとは、超出し得た自己をも更に(または同時に)超出する事でなくてはならない。従って仏向上の行は永遠に完結する事はない。」(「禅と文学」参照)と説明されます。

高祖筠州洞山悟本大師は、潭州雲巌山無住大師の親嫡嗣なり。如来より三十八位の祖向上なり、自己より向上三十八位の祖なり。大師、有時示衆云、体得仏向上事、方有些子語話分。僧便問、如何是語話。大師云、語話時闍梨不聞。僧曰、和尚還聞否。大師云、待我不語話時即聞」

冒頭の則は『景徳伝灯録』(「大正蔵」五一・三二二・下)からの引用ですが、これは北宋の一〇〇四年に編纂されたもので、現在地は江西省宜豊県東北五十里同安郷の西南と特定されますが、「伝灯録」成立時の地名が筠州であり、洞山和尚がいきた唐末時代は洪州と呼ばれていた。

「高祖」の呼び名は特定の祖師である六祖つまり大鑑高祖などを呼称する時に高祖と冠するもので、洞山和尚も特に敬愛する事から「高祖筠州洞山悟本大師」(807―869)と称されます。悟本大師は諡号で、諱は良价とします。

「潭州」は湖南省長沙市の雲巌山(曇晟)無住大師(782―841)からの親嫡嗣なり。としますが、『景徳伝灯録』では他に杏山鑒洪禅師・神山僧密禅師・幽谷禅師を嫡嗣とされます。

如来より三十八位」とは釈尊を始祖とし、摩訶迦葉ー六祖大鑑慧能ー青原行思ー石頭希遷ー薬山惟儼―雲巌曇晟ー洞山良价で三十八位に列しますから、三十八位の祖師向上で、また自己(釈尊と同格の自己)より向上三十八位の祖なり。と言い替えるもので、仏の向上事とは無限定に生き続ける事実を、かくの如く言わしめるものです。

「大師、有時示衆云、体得仏向上事、方有些子語話分」(悟本大師が、有る時衆に示して云く、仏向上事を体得して、方(まさ)に些子(いささか)の語話の分有り)

「僧便問、如何是語話」(僧は便ち問う、如何が是れ語話)

「大師云、語話時闍梨不聞」(大師云く、語話の時には闍梨は聞かず)

「僧曰、和尚還聞否」(僧の曰く、和尚は還(はた)として聞くや否や)

「大師云、待我不語話時即聞」(大師云く、我が不語話の時を待てば即ち聞く)

「今云う処の仏向上事の道、大師その本祖なり。自余の仏祖は、大師の道を参学し来たり、仏向上事を体得するなり。方に知るべし、仏向上事は、在因に有らず、果満に有らず。しか有れども、語話時の不聞を体得し参徹する事有るなり。仏向上に到らざれば仏向上を体得する事なし、語話にあらざれば仏向上事を体得せず。相顕にあらず、相隠にあらず。相与にあらず、相奪にあらず。この故に、語話現成の時、これ仏向上事なり」

これから拈提の始まりです。先ずは「体得仏向上事、方有些子語話分」に対するものです。

「仏向上事」という云い方は、洞山が始めて云う禅語である。洞山以後に生まれた仏祖方が、「仏向上事」の道を参究学道し、仏向上事を体得つまり実践修証して来たのである。

「仏向上」の禅語は洞山和尚自身の創出されたものですが、その源流は石頭希遷が南嶽懐譲に問うた「不慕諸聖、不重己霊」とは、法身向上・自己向上を示唆するもので、その萌芽はすでに青原行思から洞山良价へと流れる青原系の禅の特色となるのである。(石井修道著『石頭ー自己完結を拒否しつづけた禅者』七五頁・参照)また洞山の生きた中唐の頃から、「超仏越祖・仏向上事・法身向上事」等の禅語が修行道場・参禅学人の間で盛んに語られる情景は、この時代を象徴するものです。(入矢義高著『師心ということ』参照)

「仏向上事は在因に有らず」つまり原因が在っての事ではなく、「果満に有らず」。結果によって仏向上事と為るものでもない。つまり因果とは無関係との事です。

「語話時」とは表現する時に、「不聞」という絶対真実を実際(体得)に参究徹底することも有るのであり、逆に仏向上に到らなければ体得できず、語話(仏向上事の表情)でないならば仏向上事は体得できない。

仏向上と語話との関係は、共に顕われるのではなく、また共に隠れるでもなく、互いに与えるでなく互いに奪うのでもないのである。

こういう語話現成の時が仏向上事なり。との結論ですが、抽象的説明でわかりづらく、「語話」を坐禅つまり只管打坐と置き換えると、仏向上事も目標のない無限絶対の修証と比定できるものです。

「仏向上事現成の時、闍梨不聞なり。闍梨不聞と云うは、仏向上事自不聞なり。すでに語話時闍梨不聞なり。知るべし、語話それ聞に染汚せず、不聞に染汚せず。この故に聞不聞に不相干なり。不聞裏蔵闍梨なり、語話裡蔵闍梨なりとも、逢人不逢人、恁麼不恁麼なり」

これは洞山の云う「語話時闍梨不聞」に対する拈提になります。

「仏向上事現成」を、例えば坐禅と同定すれば、この「闍梨不聞」の不聞は聞くともなく聞こえる事実を、盤珪和尚(1622―1693)流に云うならば「不生の禅」とも解せられます。

改めて闍梨不聞は「仏向上事自不聞」と説かれますが、先の仏向上事現成を言い替えてのもので、坐禅(仏向上事)そのものが「不聞」という絶対真実を説かれます。さらに仏向上事の具体的例喩を、語話時に言い換え無限絶対に生きる様を提示されます。

語話は独立した一表態ですから聞・不聞の現成を染汚(ぜんな)しないのである。つまり関係性は生じない為、「聞不聞に不相干」と言えるわけです。この言い様を無所得・無所悟の行法を思い遣れば、語話を坐禅に聞不聞を念想観に見立てれば、見性禅の如くに取り扱わないわけですから、不染汚と為り・不相干と言わざる得ない事です。

不聞・語話は坐禅を表徴した言句と仮定すると、只管状態を「逢人不逢人」(三聖慧然)ならびに「恁麼不恁麼」(南嶽懐譲)と述べられるのですが、この喩えは表裏一体つまり坐禅と闍梨との関係を能所合一と見る例喩とするのです。

「闍梨語話時、即ち闍梨不聞なり。その不聞たらくの宗旨は、舌骨に罣礙せられて不聞なり、耳裡に罣礙せられて不聞なり。眼睛に照穿せられて不聞なり、身心に塞却せられて不聞なり。しか有る故に不聞なり。これらを拈じてさらに語話とすべからず。不聞則ち語話なるにあらず、語話時不聞なるのみなり」

これは本則である「語話時闍梨不聞」を分節解体し、闍梨を媒介に語話と不聞を説き明かします。

不聞のありさま(たらく)の宗旨とは、不聞となりきる事を舌骨に罣礙せられ、また耳裡と一体と罣礙せられて不聞なり。と説き、さらに眼睛・身心を挙げて不聞なりと説くを、『御抄』では「六根皆不聞の道理なるべし」(「註解全書」四・二二五)と解説されます。つまり不聞は感覚で把握される問題ではなく、全体を包容した現成を不聞と説くわけです。これを補強するように、経豪和尚は「是れ則ち即不中の道理なるべし」(前掲頁)との、適格な見方と思われます。

不聞に対する要略としては、不聞は語るべき又は語られる筋合いでは無く、不聞は何処までも何時でも不聞で有ると同時に、語話も同様ですから語話時不聞なるのみとしますが、これを語話の時と語話を限定的に見るのでは無く、語話も不聞も共に逢人不逢人であり、恁麼不恁麼なのである。

「高祖道の語話時闍梨不聞は、語話の道頭道尾は、如藤倚藤なりとも、語話纏語話なるべし、語話に罣礙せらる」

洞山の提唱した「語話時闍梨不聞」に対する拈提の結語として、語話つまり洞山のお示しの表現のすべて・全体(道頭道尾・頭正尾正も同義語)には、藤は藤として始終ともに語話の一片であるから、語話が語話に罣礙されている。と結ばれます。

「僧云く、和尚還聞否。いわゆるは、和尚を挙して聞語話と擬するにあらず、挙聞さらに和尚にあらず、語話にあらざるが故に。しか有れども、いま僧の擬議する処は、語話時に即聞を参学すべしや否やと咨参するなり。喩えば、語話即ち語話なりやと聞取せんと擬し、還聞これ還聞なりやと聞取せんと擬するなり。しかもかくの如く云うとも、なんぢが舌頭にあらず」

これは尋常に解釈するなら僧が洞山に対し、「和尚ならば還(は)たと聞くや否や」と問い質す文体ですが、和尚(洞山)さんは仏向上事を体得する時の語話は、聞いているのですね。との文意です。

これに対し、僧は語話を聞いているのでもなく、問い質すこと自体が洞山和尚に対するものではないと。それは語話を問い質しているのではないからである。との道元禅師の見方です。

この僧のたずねる(咨参)所は聞語話時ではなく、語話時(只管打坐)に即聞を参学するかどうかなのである。謂う所は、問処は答処の道理からすれば、「和尚還聞否」と「語話時闍梨不聞」は同等を意味しますから、「語話時に即聞を参学すべしや否や」と転語出来るとの見方に為るものです。なお即聞は不聞と言い換えた方が適切かも知れません。

「語話即ち語話」とは仏向上事の実態を云い、「還聞これ還聞」とは語話時の状態を示唆し、対語に対応する事からの文体構成になります。最後に今一度確認の為の文言として「なんぢが舌頭にあらず」と、仏向上事である語話(時)は単なる感覚器官である舌の動きを云うのでは無い旨を説く処です。

「洞山高祖道の待我不語話時即聞、明らかに参究すべし。いはゆる正当語話の時、さらに即聞あらず。即聞の現成は不語話の時なるべし。いたづらに不語話の時をさし置きて、不語話を待つにはあらざるなり。即聞の時、語話を傍観とするにあらず、真箇に傍観なるが故に。即聞の時、語話去りて一辺の那裡に存取せるにあらず、語話の時、即聞親しく語話の眼睛裏に蔵身して霹靂するにあらず。しか有れば即ち、たとい闍梨にても、語話時は不聞なり。たとい我にても、不語話時即聞なる、これ方有些子語話分なり、これ体得仏向上事なり。たとえば、語話時即聞を体得するなり。この故に、待我不語話時即聞なり。しか有りと云えども、仏向上事は、七仏已前事にあらず、七仏向上事なり」

洞山本則最後の「我が不語話の時を待って即ち聞くべし」を明らかに参究しなさい。と奮起を促し、拈提に入られます。

「正当語話の時」打坐する時には、「即聞あらず」即ち聞という感覚では捉えられない。即聞が成り立つ時は、「不語話」つまり六根・六識で生きる日常生活の時である。無駄(いたづら)に日常生活に振り回される不語話の時を期待するのではない。

「即聞」である日常態の時には、語話と云う真実態を対象(傍観)としているのではなく、傍観の時には真箇に傍観の事実が有るからである。

即聞(日常態)と語話(仏向上事)との関係を、即聞の時には語話は何処かへ行ってむこう(那裡)に存在して居るのではなく、また語話の時には即聞は身近に語話のハタラキ(眼睛)の中に身を蔵して霹靂(いなびかり)するのでもない。謂う所は全機現一方通利を説くもので、語話は語話、即聞は即聞の道理を言わしめるものです。

結語としての「たとい闍梨にても、語話時は不聞なり」とは、洞山が云う処の「語話時闍梨不聞」を言い替えただけです。「たとい我にても、不語話時即聞なる」は「待我不語話時即聞」に当たり、このことを高祖洞山が大衆に向かって云った「方有些子語話分」(方に些かの語話の分有り)に該当し、これが「体得仏向上事」(仏向上事を体得すること)の実態であり、それが「語話時即聞」と「(待我)不語話時即聞」とが同態と還元されるとの拈提内容になり、それは七仏已前の過去の問題ではなく、現在進行形であり七仏の当体に成りきるを「七仏向上事」と言われるのである。

この古則に対する拈提は実に難解極まるものであるが、西有氏は『啓迪』(六一六頁)にて「聞中に不聞がある、語話と不語話と、聞と不聞と罣礙なき境界、これが肝要である。仏向上といい、些子といい、体得といい、語話というのも、少しも罣礙のない境界を、洞山が不語話と答えられたのである」との注解文を紹介するに留める。

 

    二

高祖悟本大師、示衆云、須知有佛向上人。時有僧問、如何是佛向上人。大師云、非佛。雲門云、名不得、状不得、所以言非。保福云、佛非。法眼云、方便呼爲佛。

おほよそ佛祖の向上に佛祖なるは、高祖洞山なり。そのゆゑは、餘外の佛面祖面おほしといへども、いまだ佛向上の道は夢也未見なり。徳山臨濟等には爲説すとも承當すべからず。巖頭雪峰等は粉碎其身すとも喫拳すべからず。高祖道の體得佛向上事、方有些子語話分、および須知有佛向上人等は、たゞ一二三四五の三阿僧祇、百大劫の修證のみにては證究すべからず。まさに玄路の參學あるもの、その分あるべし。すべからく佛向上人ありとしるべし。いはゆるは、弄精魂の活計なり。しかありといへども、古佛を擧してしり、拳頭を擧起してしる。すでに恁麼見得するがごときは、有佛向上人をしり、無佛向上人をしる。而今の示衆は佛向上人となるべしとにあらず、佛向上人と相見すべしとにあらず。たゞしばらく佛向上人ありとしるべしとなり。この關棙子を使得するがごときは、まさに有佛向上人を不知するなり、無佛向上人を不知するなり。その佛向上人、これ非佛なり。いかならんか非佛と疑著せられんとき、思量すべし、ほとけより以前なるゆゑに非佛といはず、佛よりのちなるゆゑに非佛といはず、佛をこゆるゆゑに非佛なるにあらず。たゞひとへに佛向上なるゆゑに非佛なり。その非佛といふは、脱落佛面目なるゆゑにいふ、脱落佛身心なるゆゑにいふ。

「高祖悟本大師、示衆云、須知有仏向上人(高祖悟本大師、示衆に云く、須く仏向上人有るを知るべし)。時有僧問、如何是仏向上人(時に僧りて問う、如何が是れ仏向上人)。大師云、非仏(大師云く、非仏)。雲門云、名不得、状不得、所以言非(雲門云く、名づけ得ず、状(かたど)り得ず、所以に非と言う)。法眼云、方便呼為仏(法眼云く、方便で呼んで仏と為す)」

この本則は先の本則と同じ頁からのものと言及したが、相当に入れ替えが見受けられます。

『景徳伝灯録』本文は「師謂衆曰。知有仏向上人方有語話分。時有僧問。如何是仏向上人。師曰。非常。保福別云。仏非。法眼別云。方便呼為仏」であるが、本則では「雲門云」との雲門の著語も紹介されるが、これは『雲門広録』中(「大正蔵」四七・五五八・上)「洞山云、須知有仏向上事。僧問、如何是仏向上事。山云非仏。師云、名不得、状不得、所以言非」(点筆者)からの引用です。

また『真字正法眼蔵』上・十二則は一則目をそのまま採録しますが、同じく上七十二則では先の『雲門広録』からのもので、「仏向上人」ではなく「仏向上事」そのままの採録となります。

入り混んだ説明となりましたが、高祖と仰ぐ洞山和尚に対する讃仰究める本則拈提とする為の、充足に練り挙げられた示衆であることが窺われます。

「おおよそ仏祖の向上に仏祖なるは、高祖洞山なり。その故は、余外の仏面祖面多しと云えども、未だ仏向上の道は夢也未見なり。徳山臨済等には為説すとも承当すべからず。巌頭雪峰等は粉碎其身すとも喫拳すべからず」

この文言は拈提に入る前の起文みたいなもので、まず最初に第一則目同様、洞山に対する敬意を込めた紹介文で、洞山以外の仏祖と呼ばれる学人も、未だ仏向上という道(ことば)は夢にも見た事がないだろう。との序言になります。

続いて徳山(宣鑑)および臨済(義玄)を引き合いに出し、到底この二人には仏向上を説いた(為説)としても的(承当)はずれだろうとの厳しい言です。さらに徳山の弟子である巌頭(全豁)・雪峰(義存)までにも、粉骨砕身したとしても洞山の許しは得られない(喫拳)だろう。との言圧を加えますが、特に「徳山・臨済」に対する言及は『即心是仏』『葛藤』『密語』『無情説法』『大修行』各巻に於いても、徹底した論難を為すものです。

「高祖道の体得仏向上事、方有些子語話分、および須知有仏向上人等は、ただ一二三四五の三阿僧祇、百大劫の修証のみにては証究すべからず。まさに玄路の参学あるもの、その分あるべし。須らく仏向上人有りと知るべし」

これから拈提の開始です。第一則目で扱った「体得仏向上事、方有些子語話分」及び二則目の眼目である「須知有仏向上人」などは、無限の三阿僧祇・百大劫に亘る修行証道(無所得・無所悟)を以てしても実証究明できるものではないのであるが、洞山が説く「我有三路接人、鳥道、玄路、展手」(「大正蔵」四七・五一一・上)のなかの「玄路(有無迷悟を超克した空寂の路)」の参学ある学人には、その分際があるので有るが、ともかくも仏向上人が居るとの事実を知りなさい。との拈提で、洞山和尚の「仏向上」を解会する難解さを吐露するものです。

「いわゆるは、弄精魂の活計なり。しか有りと云えども、古仏を挙して知り、拳頭を挙起して知る。すでに恁麼見得するが如きは、有仏向上人を知り、無仏向上人を知る。而今の示衆は仏向上人となるべしとに非ず、仏向上人と相見すべしとに非ず。ただしばらく仏向上人ありと知るべしとなり」

仏向上人の真実態とは、精魂を弄して精進する生活(活計)であるが、弄精魂の親参実究として、古仏の古則を考究し又は説法での拳頭を挙起して知るとは、日常底の行持を日々精進するを、仏向上人と云うのである。これらのように(恁麼)見得する学人は、仏向上人と同時に無仏向上人を知る。このように補足的説明により「無仏向上人を知る」ことも、表裏一体・真俗不二の道理で以ての説明になります。

今の洞山の示衆は、「仏向上になれ」とか「相見しなさい」と云っているのではない。第二人を外部に据えたのでは見る見られるの間柄になるので、ただ「仏向上ありと知るべし」と提言されているのである。

「この関棙子を使得するが如きは、まさに有仏向上人を不知するなり、無仏向上人を不知するなり。その仏向上人、これ非仏なり。いかならんか非仏と疑著せられん時、思量すべし、ほとけより以前なる故に非仏と云わず、仏より後なる故に非仏と云わず、仏を超ゆる故に非仏なるに非ず。ただひとえに仏向上なる故に非仏なり。その非仏と云うは、脱落仏面目なる故に云う、脱落仏身心なる故に云う」

「関棙子」とはカンヌキを意味し、勘所または要点とも解されますが、「仏向上人有りと知るべし」という関棙子を使用するなら、有仏向上人ならびに無仏向上人を不知する事が出来る。との認識ですが、洞山の云い分では「有仏向上人を知るべし」から不知と、さらに「無仏向上人をも不知するなり」と、道元論法に導かれます。この「不知」は一則目での「語話時闍梨不聞」の不聞と同義語で、知の絶対境致としての「不知」となります。

その「不知仏向上人」を洞山和尚は「非仏」と称ずるわけです。この非は不知の不・不聞の不と同格の接頭辞で、「非」という絶対無限態は「仏」であるとの意味合いで、「仏に非ざるものは無し」と読み替えも可能です。

僧は仏向上人は問うているが、「非仏」については問いを発していない為、敢えて僧の立場から「いかならんか非仏」の項を設けて、非仏とは七仏の以前以後さらには超越するから非仏と云うのではない。とは、非仏の読みを「仏に非ず」と解会した場合の解説拈提です。道元禅師の「非仏」解釈は「ただ一途に仏向上に弄精魂するを非仏と断言されます。

結語として非仏を今一度言い直すと「脱落仏」とも言い替えられます。その脱落仏の様態は「面目」の時や「身心」の状態と変化するも、脱落常態が非仏であり仏向上で有るを須らく知りなさい。との提言拈語で締め括られます。

 

    三

東京淨因枯木禪師〈嗣芙蓉、諱法成〉、示衆云、知有佛祖向上事、方有説話分。諸禪徳、且道、那箇是佛祖向上事。有箇人家兒子、六根不具、七識不全、是大闡提、無佛種性。逢佛殺佛、逢祖殺祖。天堂収不得、地獄攝無門。大衆還識此人麼。良久曰、對面不仙陀、睡多饒寐語。いはゆる六根不具といふは、眼睛被人換卻木槵子了也、鼻孔被人換卻竹筒了也、髑髏被人借作屎杓子了也。作麼生是換卻底道理。このゆゑに六根不具なり。不具六根なるがゆゑに鑪鞴裏を透過して金佛となれり、大海裏を透過して泥佛となれり、火焔裡を透過して木佛となれり。七識不全といふは、破木杓なり。殺佛すといへども逢佛す。逢佛せるゆゑに殺佛す。天堂にいらんと擬すれば天堂すなはち崩壞す、地獄にむかへば地獄たちまちに破裂す。このゆゑに、對面すれば破顔す、さらに仙陀なし。睡多なるにもなほ寐語おほし。しるべし、この道理は、擧山匝地兩地己、玉石全身百雜碎なり。枯木禪師の示衆、しづかに參究功夫すべし、卒爾にすることなかれ。

第三に扱う古則の出典は『嘉泰普灯録』五(「続蔵」七九・三二一・下)からの引用です。

「東京浄因枯木禅師〈嗣芙蓉、諱法成〉、示衆云、知有仏祖向上事、方有説話分(示衆して云く、仏祖向上事有るを知るは、方に説話の分有り)。諸禅徳、且道、那箇是仏祖向上事(諸の禅徳は、且く道え、那箇か是れ仏祖向上事か)。有箇人家児子、六根不具、七識不全、是大(原文は不)闡提、仏種性(箇の人家に童児有り、六根は不具、七識は不全、是れ大闡提で、無仏の種性は無い子供である)。逢仏殺仏、逢祖殺祖(仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺す)。天堂収不得、地獄摂無門(天のお堂にも収め得ず、地獄に摂するも門が無い)。大衆還識此人麼(大衆は還たと此の人を識る麼)。良久曰、対面不仙陀、睡多饒寐語(良久して曰く、対面すれど仙陀にあらず、睡り多く寐語(みご)饒(ゆたか)なり)。

「東京(とうけい)」は河南省開封が現在の名称で、北宋(960―1127)時代に東京開封府と呼ばれ、古くは卞京(べんけい)とも呼称された。また『嘉泰普灯録』の成立は南宋での嘉泰元号最後の嘉泰四年(1204)になる。

「浄因枯木禅師」(1071―1128)の枯木は愛称で浄因法成が正式名です。同宿弟子には丹霞子淳(1064―1117)や洞山道微(生没不詳)が居て、芙蓉道楷(1043―1118)からの法脈を嗣ぎ、洞山良价悟本大師からは八代目の玄路を嗣いだわけです。

「いわゆる六根不具と云うは、眼睛被人換却木槵子了也、鼻孔被人換却竹筒了也、髑髏被人借作屎杓子了也。作麼生是換却底道理。この故に六根不具なり。不具六根なるが故に鑪鞴裏を透過して金仏となれり、大海裏を透過して泥仏となれり、火焔裡を透過して木仏となれり」

此の処で説かれる「六根不具」とは、眼耳鼻舌身意の感覚器官を恣意的に拭い除く事を六根不具と云うものですが、これは仏向上事を暗喩し、さらには只管打坐を表徴する拈提です。

「眼睛被人換却木槵子了也」(眼睛(ひとみ)は人に木槵子(ムクロジの実)に換えられ)、鼻孔被人換却竹筒了也(鼻孔は人に竹筒に換えられ)、髑髏被人借作屎杓子了也(髑髏(しゃれこうべ)は人に借りて屎杓(こえしゃく)と作し了(おわ)れり)。作麼生是換却底道理(どんな(作麼生)のが是れ換却底の道理であるか)。

喩えとする所は先にも云うように、世間で価値あるものとされる物事を放下し、無価である木槵子・竹筒さらには屎杓と世間では嫌悪されるものに、絶対無限価を眼睛・鼻孔と同様に認得する「諸法実相」の哲理を見い出すものです。

つまり枯木法成が唱える「六根不具」は世間が云う不具ではなく、全機現成する事理が六根不具との拈提の要旨です。ですから六根不具とは、仏祖向上事に於ける只管打坐する現成態を「不具六根なるが故に」と、拈語されるわけです。

「鑪鞴裏を透過して金仏となれり、大海裏を透過して泥仏となれり、火焔裡を透過して木仏となれり」は『古尊宿語録』十四・趙州(「続蔵」一一八・三一九・上)からの「金仏不度爐、木仏不度火、泥仏不度水、真仏内裡坐」を改変した拈提となります。つまり「不具六根」の不具は不聞・不知と同様に絶対真実なる「具」であります。仏祖向上事を体得するとは、鑪鞴裏や大海裏・火焔裡を弄精魂して活計する事実を「透過」することで、仏祖向上の「金仏・泥仏・木仏」と為るのである。と六根不具と不具六根との聯関を説く拈提方式です。

「七識不全と云うは、破木杓なり。殺仏すと云えども逢仏す。逢仏せる故に殺仏す。天堂に入らんと擬すれば天堂即ち崩壞す、地獄に向かえば地獄忽ちに破裂す。この故に、対面すれば破顔す、さらに仙陀なし。睡多なるにも猶寐語多し。知るべし、この道理は、挙山匝地両地己、玉石全身百雑碎なり。枯木禅師の示衆、静かに参究功夫すべし、卒爾にする事なかれ」

「七識」とは先の六根に未那識を加えたものが七識と云われ、さらに最下部には阿頼耶識が在ると云うのが唯識学で説く処です。

そこで「七識不全」の実態を説くわけですが、六根不具同様に仏向上の例言を示すものです。

「破木杓」とは壊れた木の杓で、世間では役に立たない物を此の処では七識不全の一例に挙げ、脇目も振らず仏祖向上事するに喩うるものです。

「殺仏すと云えども逢仏す」の殺については詮慧和尚『聞書』(「註解全書」四・二六六)では「殺と云うは親切の義」と示され、仏に親しみ一体を云わんとするものですが、『坐禅箴』巻では殺の言を「坐佛を参究するに、殺仏の功徳あり。坐仏の正当恁麼時は殺仏なり。殺の言、たとい凡夫のことばに等しくとも、ひとえに凡夫と同ずべからず」(「正法眼蔵」一・二三七頁・水野・岩波文庫)と、このように説かれる事からも仏と一枚岩に為ること。つまり「仏祖向上事」の実態を「逢仏せる故に殺仏す」と説かれるもので、枯木和尚に同調する拈提となります。

「天堂に入らん、地獄忽ちに破裂す」は枯木禅師の示衆文を言い改めたもので、天の堂閣に入ろうとすれば崩壊し地獄に向かえば破裂する。という事は、仏祖向上事に於いては天上も地獄も存在しないわけです。

右説するように、仏祖向上事に於いては能所による対象物が無くなる為、対面しても問いと答えが無いわけですから、摩訶迦葉の如く破顔し笑うしか方途は無い訳です。その時には仙陀(婆)なる学人は居ず、睡多饒寐語を捩り「睡多なるにも猶寐語多し」と拈語されるものですが、この場合の「睡多」は仏祖向上事に適し「寐語」は説話分と比定されます。

「挙山匝地両地己、玉石全身百雑碎」は仏祖向上事の本質を述べたもので、全山全地(大自然)共に知己であり、(宝)玉も(瓦)石も全身すべてが真実であり、その価値は百雑碎しても真実は真実で、解脱の意も含まれるものです。

謂う所は仏祖向上事という鳥瞰・俯瞰から世界を見渡せば、玉も石も山も大地も天界・地獄も共々、諸法実相・全機現成・未分節なる事象に収斂されるを説くものと思われます。

これらの枯木禅師の示衆ならびに拈提を静かに参学究明功夫し、卒爾(軽卒)にすることなかれ。と六根不具・七識不全を単なる不具・不全者と見得するのではなく、仏法の観点から見分する事の重要性を唱えるものです。

 

    四

雲居山弘覺大師、參高祖洞山。山問、闍梨、名什麼。雲居曰、道膺。高祖又問、向上更道。雲居曰、向上道即不名道膺。洞山道、吾在雲巖時祗對無異也。

いま師資の道、かならず審細にすべし。いはゆる向上不名道膺は、道膺の向上なり。適來の道膺に向上の不名道膺あることを參學すべし。向上不名道膺の道理現成するよりこのかた、眞箇道膺なり。しかあれども、向上にも道膺なるべしといふことなかれ。たとひ高祖道の向上更道をきかんとき、領話を呈するに、向上更名道膺と道著すとも、すなはち向上道なるべし。なにとしてかしかいふ。いはく、道膺たちまちに頂に跳入して藏身するなり。藏身すといへども、露影なり。

本則は『景徳伝灯録』十七・雲居(「大正蔵」五一・三三四・下)からの引用です。「灯録」では「洪州雲居道膺禅師幽州玉田人也」と紹介されますが、「洪州」は江西省南昌市一帯を指しますが、現在は使われません。「幽州」は現在の河北省・遼寧省北京市天津市を中心とする地域に設置されたが、938年には消滅する。雲居道膺(―902)は洞山良价(807―869)から正嫡伝法され、洞山法嗣二十六人の筆頭に列位し、その法脈が同安道丕・芙蓉道楷・天童如浄から永平道元と伝授受された正伝の流れであります。

「雲居山弘覚大師、参高祖洞山。山問、闍梨、名什麼」(雲居山の弘覚大師、高祖洞山に参ず。(洞)山問う、闍梨、名前は什麼というか)。雲居曰、道膺(雲居曰く、道膺)。高祖又問、向上更道(高祖が又問う、向上を更に道え)。雲居曰、向上道即不名道膺(雲居曰く、向上に道えば即ち道膺と名づけず)。洞山道、吾在雲巌時祗対無異也(洞山道く、吾れ雲巌に在する時祗対するに異なること無し)。

「いま師資の道、必ず審細にすべし。いわゆる向上不名道膺は、道膺の向上なり。適来の道膺に向上の不名道膺ある事を参学すべし」

この師(洞山)と資(雲居)のことば(道)を参学しなさいとの意ですが、「向上不名道膺」は問答にはなく「向上道即不名道膺」を略したものですが、この場合の拈提の主眼は向上時に於ける道膺の名の捉え方ですから、「名道膺」か「不名道膺」かに付加する「不」の問題に有るわけです。すなわち雲居が云う「不名道膺」の不名は前来の「不具・不全」同様に、絶対境致を示すもので「向上不名道膺は、道膺の向上なり」とは、道膺のその先(向上)は、あくまでも道膺である。とは、次項で説かれる「向上更名道膺」からも首肯されるものです。

「適来の道膺」とは最初に洞山から問われ、道膺と自身の名を告げたことです。その道膺は向上である動的平衡の状態では、「不名道膺」との先程同様絶対境涯を不名道膺である事を改めて参学すべし。と、この拈提に於いての基本的見方を披瀝されるものです。

「向上不名道膺の道理現成するよりこのかた、真箇道膺なり。しか有れども、向上にも道膺なるべしと云う事なかれ。たとい高祖道の向上更道を聞かん時、領話を呈するに、向上更名道膺と道著すとも、即ち向上道なるべし。何としてかしか云う。云く、道膺忽ちに頂に跳入して藏身するなり。藏身すと云えども、露影なり」

真の道膺を表現するには、「向上不名道膺の道理現成」より他には言い表せない。と言明され、さらに念押しで「向上では道膺と云うことなかれ」と確認の言です。

「たとい高祖道の向上更道を聞かん時、向上更名道膺、向上道なるべし」とは、これまでの説明と矛盾しますが、この言い替えを西有氏は『啓迪』に於いて「これは名不名を超越した自己の転処を答えるのだから、たとい向上更名道膺と云っても、我が転処さえ確乎としていれば、何の妨げもない」(「仏向上事」六四一頁)と、解説されますが、これは言語による観念の固定化を避けるもので、「不名」の尽中には什麼物が含有されますから、このような矛盾する言語分節も成り立つわけです。

結論部として「道膺忽ちに頂に跳入して藏身する」の頂とは頭頂部でこれ以上は進一歩できず、動的平衡を維持し続ける事が向上の面目ですから、身に蔵する事で向上を持続し続けるものですが、蔵身したと云っても表裏共出の道理によって、道膺の姿(影)は現出されるのである。と、やや理屈っぽい説明になりましたが、これまでの本則でも取り扱われた「不聞・非仏・不具・不全」同様「不名」という能所観を超脱した禅語を駆使する雲居道膺を讃辞する拈提です。

 

    五

曹山本寂禪師、參高祖洞山。山問、闍梨、名什麼。曹山云、本寂。高祖云、向上更道。曹山云、不道。高祖云、爲甚麼不道。師云、不名本寂。高祖然之。

いはく、向上に道なきにあらず、これ不道なり。爲甚麼不道、いはゆる不名本寂なり。しかあれば、向上の道は不道なり、向上の不道は不名なり。不名の本寂は向上の道なり。このゆゑに、本寂不名なり。しかあれば、非本寂あり、脱落の不名あり、脱落の本寂あり。

この本則も前段同様『景徳伝灯録』十七・曹山(「大正蔵」五一・三三六・上)と思われます。

「曹山本寂禅師、参高祖洞山」(曹山本寂禅師、高祖洞山に参ず)。「山問、闍梨、名什麼」(洞山問う、闍梨、名は什麼(何)だ)。「曹山云、本寂」(曹山云く、本寂)。「高祖云、向上更道」(高祖云く、向上更に道え)。「曹山云、不道」(曹山云く、不道)。「高祖云、為甚(灯録は什)麼不道」(高祖云く、何(甚麼)としてか不道)。「師云、不名本寂」(師云く、不名本寂)。「高祖然之」(高祖は之を然とす)。

この一則は雲居道膺話則とほとんど同趣意で、曹山本寂(840―901)も洞山良价の高弟に位置づけられ、五位の手法は曹山から始められたと云う。

「云く、向上に道なきにあらず、これ不道なり。為甚麼不道、いわゆる不名本寂なり。しか有れば、向上の道は不道なり、向上の不道は不名なり。不名の本寂は向上の道なり。この故に、本寂不名なり。しか有れば、非本寂あり、脱落の不名あり、脱落の本寂あり」

向上に道(ことば・表現)が無い訳ではなく、「不道」という表現形態がある。との註解ですから、改めて不道と云う「不」を独立せしめた独特な禅的解釈法である。

「為甚麼不道」これはなんとしてかと読み親しまれた熟語で、疑問形と認識すると辻褄が合わなくなる場合が生じます。甚麼には真理を包摂する無限定値が含まれる禅語として取り扱う必要があります。又この「不道」と「不名」は同義語ですから、「為甚麼不道」に対しては「不名本寂」としか答えようがありません。

ですから、向上―不道ー不名ー本寂ー向上道と云うように、向上の中に包摂される状況が窺え、この包含される事実を甚麼と呼ばしめるのです。

ですから、「不名本寂」を「本寂不名」と語句を入れ替えても不都合は無く、さらには不と同様に二則目で扱った「仏非」の非も同格(「註解全書」四・二四七)でありますから、「不名本寂」とも「本寂不名」とも還た「非本寂」と表現するも、仏向上事の真実態であります。

論語として「脱落の不名あり、脱落の本寂あり」とされますが、仏向上事の本体を「脱落」に置換したのであり、別に云うなら没蹤跡の中に「不名」の時節もあり「本寂」の時節もあり。と解読するも可能でしょうか。

 

    六

盤山寶積禪師云、向上一路、千聖不傳。

いはくの向上一路は、ひとり盤山の道なり。向上事といはず、向上人といはず、向上一路といふなり。その宗旨は、千聖競頭して出來すといへども、向上一路は不傳なり。不傳といふは、千聖は不傳の分を保護するなり。かくのごとくも學すべし。さらに又いふべきところあり、いはゆる千聖千賢はなきにあらず、たとひ賢聖なりとも、向上一路は賢聖の境界にあらずと。

六則目に取り挙げるは馬祖道一(709―788)四十五人の直弟子のなか、第九位に列する(「大正蔵」五一・二五一・中)幽州(北京を中心とする地域)盤山宝積禅師(生没不詳)による示衆であるが、前後の文言を書き記すと「若言非心非仏、猶是指蹤之極則。向上一路、千聖不伝、学者労形如猿捉影」(若し非心非仏と言えば、猶是れ指蹤(方向の指針)の極則なり。向上の一路は、千聖も伝えず。学者は形を労すること、猿の影を捉えんとするが如し)となる。

「云くの向上一路は、ひとり盤山の道なり。向上事と云わず、向上人と云わず、向上一路と云うなり。その宗旨は、千聖競頭して出来すと云えども、向上一路は不伝なり。不伝と云うは、千聖は不伝の分を保護するなり。かくの如くも学すべし。さらに又云うべき処あり、いわゆる千聖千賢は無きにあらず、たとい賢聖なりとも、向上一路は賢聖の境界にあらずと」

向上事も向上人も共に洞山良价の言であるが、盤山の生没年は未詳ではあるが、馬祖の兄弟弟子である百丈・大梅・南泉等の生年を勘案すると750年頃の人で、洞山は807年の生まれですから五十年の歳月の隔たり二世代違うわけです。

その盤山の云わんとする宗旨は、千人の聖人が競走(頭)して出て来ると云う、その事実が「向上一路」であり「不伝」と云うわけです。その不伝というのは、千人の聖徳は不伝と云う真実の分量を保護つまり守って来たんだと。このようにも学すべし。

さらに又云うべき処は、千聖千賢と云われる菩薩は居ないわけではないが、「向上一路」は、そのような賢人聖人だけの境涯ではなく、すべての学人に備わる不伝の分が向上一路の意味である。とのお示しです。

 

    七

智門山光祚禪師、因僧問、如何是佛向上事。師云、拄杖頭上挑日月。

いはく、柱杖の日月に罣礙せらるゝ、これ佛向上事なり。日月の拄杖を參學するとき、盡乾坤くらし。これ佛向上事なり。日月是拄杖とにはあらず、拄杖頭上とは、全拄杖上なり。

この話則の出典は『天聖広灯録』二二(「続蔵」一三五・八一八・中)からのものです。

智門光祚(生没不詳)は雲門文偃を孫師匠とし香林澄遠に嗣続し、智門からは雪竇重顕を輩出します。

「同録」には他に「如何是仏向上事。師云、金烏昼夜催」(広悟禅師)、「如何是仏向上事。師云、楚山頭指天」(院順禅師)と云った問答が採録されます。

又、この智門には「如何是仏」と問われて「破草鞋赤脚走」の答話が見られ、大上段に掲げる仏法ではなく、日常に根付いた仏法観を見ることが出来る。

「智門山光祚禅師、因僧問、如何是仏向上事」(智門山の光祚禅師に、因みに僧が問う、如何是れ仏向上事)。「師云、柱杖頭上挑日月」(師云く、柱杖の頭上に日月を挑(かか)げる)。

「云く、拄杖の日月に罣礙せらるる、これ仏向上事なり。日月の拄杖を参学する時、尽乾坤暗し。これ仏向上事なり。日月是拄杖とにはあらず、拄杖頭上とは、全拄杖上なり」

これは拄杖(日常底)と日月(尽界)との同期・同時性に於けるを仏向上事と云うもので、拄杖が日月に罣礙(じゃま)される。つまり尽十方界が全天になるを仏向上事とし、逆の云い方では尽界(日月)が拄杖に参学する時は、天上を覆い尽すから尽乾坤(尽界)は暗しとの解説で、この大自然と渾然一体が仏向上事との事です。同期・同時・渾然一体と云っても拄杖は拄杖のありようで、日月は日月の全機現ですから、「日月是拄杖とにはあらず、拄杖頭上とは、全拄杖上なり」と言い含めるもので、光祚の仏法の観点を説き明かすものです。

 

    八

石頭無際大師の會に、天皇寺の道悟禪師とふ、如何是佛法大意。師云、不得不知。道悟云、向上更有轉處也無。師云、長空不礙白雲飛。

いはく、石頭は曹谿の二世なり。天皇寺の道悟和尚は藥山の師弟なり。あるときとふ、いかならんか佛法大意。この問は、初心晩學の所堪にあらざるなり。大意をきかば、大意を會取しつべき時節にいふなり。石頭いはく、不得不知。しるべし、佛法は、初一念にも大意あり、究竟位にも大意あり。その大意は不得なり。發心修行取證はなきにあらず、不得なり。その大意は不知なり。修證は無にあらず、修證は有にあらず、不知なり、不得なり。またその大意は、不得不知なり。聖諦修證なきにあらず、不得不知なり。聖諦修證あるにあらず、不得不知なり。道悟いはく、向上更有轉處也無。いはゆるは、轉處もし現成することあらば、向上現成す。轉處といふは方便なり、方便といふは諸佛なり、諸祖なり。これを道取するに、更有なるべし。たとひ更有なりとも、更無をもらすべきにあらず、道取あるべし。長空不礙白雲飛は、石頭の道なり。長空さらに長空を不礙なり。長空これ長空飛を不礙なりといへども、さらに白雲みづから白雲を不礙なり。白雲飛不礙なり、白雲飛さらに長空飛を礙せず。佗に不礙なるは自にも不礙なり、面々の不礙を要するにはあらず、各々の不礙を存ずるにあらず。このゆゑに不礙なり。長空不礙白雲飛の性相を擧拈するなり。正當恁麼時、この參學眼を揚眉して、佛來をも覰見し、祖來をも相見す。自來をも相見し、佗來をも相見す。これを問一答十の道理とせり。いまいふ問一答十は、問一もその人なるべし、答十もその人なるべし。

出典は同じく『景徳伝灯録』十四・石頭(「大正蔵」五一・三〇九・下)からです。

天皇道悟(748―807)は石頭希遷(700―790)無際大師法嗣二十一人見録の中、第一座に列し正嫡を嗣ぐ者同士の問答です。

「石頭無際大師の会に、天皇寺の道悟禅師問う、如何是仏法大意。師云、不得不知。道悟云く、向上の更に転処有りや也(また)無しや。師云く、長空は白雲の飛ぶを礙げず」

この古則も前の拄杖と日月の関係の如く、拄杖を白雲に日月を長空に対比するも可能です。又、この則は『永平広録』二十二則(仁治元年(1240)十月頃歟・当巻示衆は仁治三年(1242)三月)にも上堂され、その著語(コメント)では「不得不知は仏の大意、風流の深き処却って風流、長空は白雲を礙げず、此の度何ぞ労して石頭に問う(不得不知仏大意゚風流深処却風流゚長空不礙白雲飛゚此度何労問石頭)と、石頭の答話を風流の極みと称賛されます。

「云く、石頭は曹渓の二世なり。天皇寺の道悟和尚は薬山の師弟なり。ある時問う、いかならんか仏法大意。この問は、初心晩学の所堪にあらざるなり。大意を聞かば、大意を会取しつべき時節に云うなり」

石頭希遷(700―790)は曹渓慧能(638―713)に参じ、その後青原行思(―740)から法を嗣いだ事情がある。曹渓の流派は大別して青原行思と南嶽懐譲(677―744)に分かれ、青原派は石頭ー天皇ー龍潭ー徳山ー雪峰と続き、そこから雲門や玄沙が輩出された流れと、別に石頭ー薬山ー雲巌ー洞山ー雲居と連なる法脈が生じたわけです。一方南嶽派は馬祖ー百丈ー黄檗臨済と嗣続されます。

この事情を「石頭は曹渓の二世、天皇寺の道悟和尚は薬山の師弟なり」と説かれます。石頭和尚には二十一人の法嗣が有るなかでも薬山(751―834)は石頭76歳頃に、道悟(748―807)は石頭80歳頃に入門した為に、このように道悟は薬山の弟弟子で有ると書き添えられます。この背景には薬山の法系が自身に直結する事から、このように対比されたものでしょうか。

これからが拈提の始まりです。「いかならんか仏法大意」のいかならんに包蓄される諸法が仏法そのものですから、「初心晩学」といわれる堪え得る所ではなく、このような「仏法の大意」が解会でき得る時節に向かうべきとの事で、むやみやたらに師に対し仏法の大意などと大上段に構えるのでは無く、じっくり功夫辦道の必要性を強調しますが、この提唱時期に於いての興聖寺内での一部の雲衲衆に対する忠言とも聞きとれる文意です。

「石頭云く、不得不知。知るべし、仏法は、初一念にも大意あり、究竟位にも大意あり。その大意は不得なり。発心修行取証は無きにあらず、不得なり。その大意は不知なり。修証は無にあらず、修証は有にあらず、不知なり、不得なり。またその大意は、不得不知なり。聖諦修証なきにあらず、不得不知なり。聖諦修証あるにあらず、不得不知なり」

石頭が説く「不得不知」の不は、「不伝」の不「不道」の不と同格で、ともに絶対境致を表意するものですから、仏法の大意は始覚門的な発展段階的なものでは無い為、初一念にも究竟位にも、其の時その時の大意が在るわけです。その大意は「不得」という絶対的な不得であって得ずではないものです。

「発心・修行・取証は無きにあらず不得なり」の不得を不可得と云い換えて考察するも一途であり、作仏の為の修行ではないのであるが、眼前に発心や修行さらには証が無いとは云えないが、不の絶対的(可)得である。とは表裏の実態を言うものである。その大意とは絶対的真実の「不知」という事である。

この不知は「千聖不伝ほどに心得るべし」(「註解全書」四・二七一)とは詮慧和尚の言で、同様に「不得不知と云う詞は喩えば色即心と云わんが如し」(同書同頁)と註釈が附され、一方経豪和尚は此の処を「只仏法の道理は不得不知也」(「註解全書」四・二五二)との意見が見受けられます。

次には同じ趣旨を字句を入れ替えて説明されます。発心・修行・取証をまとめて「修証は無にあらず、修証は有にあらず」と、有無を用い表裏の聯関性を表す手法で、その修証の実態を不知・不得と最大真実体に表現し、その大意は同様に字句を入れ替え不得不知と石頭の言を導かれます。

さらに言句を選び「聖諦修証なきにあらず、あるにあらず不得不知なり」と、先の『永平広録』上堂でも「不得不知は仏法の大意」と言われるように、この不得不知は不伝・不聞に通底する仏法の大意で有るとの拈提と為ります。

「道悟云く、向上更有転処也無。いわゆるは、転処もし現成する事あらば、向上現成す。転処と云うは方便なり、方便と云うは諸仏なり、諸祖なり。これを道取するに、更有なるべし。たとい更有なりとも、更無を漏らすべきにあらず、道取あるべし」

道悟の云う「向上更有転処也無」に対する拈提の主眼は「転処」であるが、「向上」がつまり「転処」であり、常に生死流転する様態を「現成」と捉えるものですが、例えば細胞がオートファジー(自食作用)を行いつつ、新たな細胞を作り上げる(血液の中の赤血球は300万個、ヘモグロビンは1000兆個いづれも1秒間で作られる。すなわち、その同数が自発的に壊されるわけである)生命現象である動的平衡(dynamic equilibrium)状態と似通った相貌がある。

その「転処と云うは方便なり」の方便を詮慧和尚は「方便が即仏と云わるる也」(「註解全書」四・二七一)と云われ、西有氏の解説では「方便とは十方に便りをすること」(「啓迪」六五〇)とありますが、原義のupayaに相当する方便は「悟りへの導き」と意訳します。その方便の真実義は諸仏であり諸祖であるとは、二則目に於ける法眼文益の「方便呼為仏」を承けての事と推察されます。

これらの道理を「更有なるべし」と規定されますが、この展開が独特の眼蔵解釈法とされる処ですが、普通は「更に有るや」云々と云う処を、敢えて更有を以て文体構成する意味は、古則話頭の原義を大切にする心遣いの表れと感じられます。

経豪和尚の解釈では「この更有の詞は、問いの詞とこそ聞こえたるを、此の更有をやがて向上の転処とすべし」(「註解全書」四・二五四)とし、さらに拈提では「更無も忘れてはならず道取あるべし」と言われますが、勿論これは向上の更有であり向上の更無であるが、これは先程も転処は生命現象であると述べましたが、更有・更無は実に生命活動の姿を象徴的に説かれたものです。

「長空不礙白雲飛は、石頭の道なり。長空さらに長空を不礙なり。長空これ長空飛を不礙なりと云えども、さらに白雲みづから白雲を不礙なり。白雲飛不礙なり、白雲飛さらに長空飛を礙せず。他に不礙なるは自にも不礙なり、面々の不礙を要するにはあらず、各々の不礙を存ずるにあらず。この故に不礙なり。長空不礙白雲飛の性相を挙拈するなり。正当恁麼時、この参学眼を揚眉して、仏来をも覰見し、祖来をも相見す。自来をも相見し、他来をも相見す。これを問一答十の道理とせり。いま云う問一答十は、問一もその人なるべし、答十もその人なるべし」

石頭・天皇古則話頭による最後の拈提で「空」と「雲」との関係を説かれます。

「長空不礙白雲飛」は石頭のことば(道)である。長空も白雲もそれぞれが不礙(さまたげない)である為、どこまでも限りなく続く様態を「長空不礙白雲飛」と説き、空と雲との渾然一体とした現実界を表すものです。

長空と白雲との一体である事実を述べられましたが、長空は何時でも長空であり、白雲自体も何処までも白雲ですから、それを自と他に置き換え「他に不礙なるは自にも不礙なり」と言い改めます。この「不礙」は先の不得不知と通脈するもので、面々(長空・白雲)の不礙(真実現成態)を(必)要とするのではなく、各々(長空・白雲)の不礙(現成真実底)を存(在)するのでもない。ですから自他(長空・白雲)共々邪魔し合う事なく存するのである。

「長空」や「不礙」「白雲飛」は真実相(性相)として我々に提示(挙拈)するのであり、その正当恁麼時(まさにその時)に、この「不礙」の参学の眼力を揚眉すれば、自然に仏の来たるを見る事が出来、祖師の来たるも相見し、他己が真実体として来たるも相見するのである。

この則に対する結語として「問一答十の道理」とされますが、「如何是仏法大意」の問一に対する答えは、「不得・不知」であり「向上・更有・転処・也・無」でありさらには「長空・不礙・白雲飛」と、これらを称して「これを問一答十の道理とせり」とし、今云う処の問一答十は、十を問うも真実底の学人であり、十を答えるも真実態の学人であるはずである。と解釈すれば、問うも答うも向上現成態の取証と謂う事が出来るのである。

いま一つ付言するに『行持』下巻に於いて仰山慧寂を称して「問十答百の鶖子なり」(「正法眼蔵」一・三七九・水野・岩波文庫)との文言を採用されたのかも知れません。

 

    九

黄檗云、夫出家人、須知有從上來事分。且如四祖下牛頭法融大師、横説竪説、猶未知向上關棙子。有此眼腦、方辨得邪正宗黨。

黄檗恁麼道の從上來事は、從上佛々祖々、正傳しきたる事なり。これを正法眼藏涅槃妙心といふ。自己にありといふとも須知なるべし、自己にありといへども猶未知なり。佛佛正傳せざるは夢也未見なり黄檗は百丈の法子として百丈よりもすぐれ、馬祖の法孫として馬祖よりもすぐれたり。おほよそ祖宗三四世のあひだ、黄檗に齊肩なるなし。ひとり黄檗のみありて牛頭の兩角なきことをあきらめたり。自餘の佛祖、いまだしらざるなり。牛頭山の法融禪師は、四祖下の尊宿なり。横説豎説、まことに經師論師に比するには、西天東地のあひだ、不爲不足なりといへども、うらむらくはいまだ向上の關棙子をしらざることを、向上の關棙子を道取せざることを。もし從上來の關棙子をしらざらんは、いかでか佛法の邪正を辨會することあらん。たゞこれ學言語の漢なるのみなり。しかあれば、向上の關棙子をしること、向上の關棙子を修行すること、向上の關棙子を證すること、庸流のおよぶところにあらざるなり。眞箇の功夫あるところには、かならず現成するなり。いはゆる佛向上事といふは、佛にいたりて、すゝみてさらに佛をみるなり。衆生の佛をみるにおなじきなり。しかあればすなはち、見佛もし衆生の見佛とひとしきは、見佛にあらず。見佛もし衆生の見佛のごとくなるは、見佛錯なり。いはんや佛向上事ならんや。しるべし、黄檗道の向上事は、いまの杜撰のともがら、領覧におよばざらん。たゞまさに法道もし法融におよばざるあり、法道おのづから法融にひとしきありとも、法融に法兄弟なるべし。いかでか向上の關棙子をしらん。自餘の十聖三賢等、いかにも向上の關棙子をしらざるなり。いはんや向上の關棙子を開閉せんや。この宗旨は、參學の眼目なり。もし向上の關棙子をしるを、佛向上人とするなり、佛向上事を體得せるなり。

本則話頭の出典は『景徳伝灯録』九・黄檗(「大正蔵」五一・二六六・下)になります。黄檗希運(―856)は百丈懐海(749―814)法嗣三十人中第二頭に住し、法嗣の弟子には臨済義玄(―866)また孫師匠には馬祖道一(709―788)があります。

黄檗云、夫出家人、須知有従上来事分」(黄檗云く、夫れ出家人は、須く従上来事の分有るを知っるべし)。「且如四祖下牛頭法融大師、横説豎説、猶未知向上関棙子」(且く四祖下の牛頭法融大師の如きは、横説竪説すれども、猶お未だ向上の関棙子を知らず)。「有此眼脳、方辨得邪正宗党」(此の眼脳有って、方に邪正の宗党を辨得すべし)」

「従上来」とは古来の禅が根本に据えた問題で、「事分」とは事柄を意味し体統・礼儀・規矩の類を指す。「横説竪説」とは縦横に理法を説明するを云い、横論顕発(真と俗との横の相依関係)・竪論表理(真と不真との竪の相依関係)で、経論の釈義を行う場合の方法を云う。(『景徳伝灯録』五・二八一参照)

黄檗恁麼道の従上来事は、従上仏々祖々、正伝し来たる事なり。これを正法眼蔵涅槃妙心と云う。自己にありと云うとも須知なるべし、自己にありと云えども猶未知なり。仏々正伝せざるは夢也未見なり」

黄檗がこのようにいう(恁麼道)従上来事(これまで生きて来た事)というのは、従上仏々祖々であり、正伝し来たる事であり、その全体像を正法眼蔵涅槃妙心と言うのであるとの拈語になります。

「自己にありと云うとも須知・猶未知」では矛盾するような表現ですが、従上来事つまり仏向上事では常に動的状態ですから、「須知と猶未知」が共に自己の状態にあるわけです。このように従上来事でない者では仏々正伝は有り得ず、夢にも未だ見た事がない(夢也未見)のである。従上来事は仏向上事の同義語との説明に為ります。

黄檗は百丈の法子として百丈よりも勝れ、馬祖の法孫として馬祖よりも勝れたり。おおよそ祖宗三四世の間、黄檗に斎肩なる無し。一人黄檗のみ有りて牛頭の両角無き事を明らめたり。自余の仏祖、未だ知らざるなり」

最初の黄檗紹介文でも言及しましたが、黄檗の師は百丈ですが、その『百丈語録』(「続蔵」一一八・一六二・中)には「見与師斉減師半徳」なる語が見られ、百丈の言上の如く黄檗は師の力量をも凌駕するものと評され、さらに三十七人もの弟子を擁した孫師匠に当たる馬祖よりも勝れたり。とは、これ以上ない讃辞であります。

また「祖宗三四世の間、黄檗に斎肩なる無し」とは述べられますが、その間には潙山霊祐(771―853)・南泉普願(748―834)・趙州従諗(778―897)、一方石頭系では薬山惟儼(745―828)や天皇道悟(748―807)なども及ばなかったと。その具体的例証として牛頭法融(594―657)の力量(両角)無き事を、明言した仏祖は他には未だ知らざるなり。と牛頭には仏向上事は解会しないとして『真字正法眼蔵』上・五一則「牛頭未見四祖時゚為甚麼百鳥銜花献ー後略」では、神懸かり的人物であった旨を紹介されるものです。

「牛頭山の法融禅師は、四祖下の尊宿なり。横説竪説、まことに経師論師に比するには、西天東地の間、不為不足なりと云えども、憾むらくは未だ向上の関棙子を知らざる事を、向上の関棙子を道取せざる事を。もし従上来の関棙子を知らざらんは、いかでか仏法の邪正を辨会すること有らん。只これ学言語の漢なるのみなり。しか有れば、向上の関棙子を知る事、向上の関棙子を修行する事、向上の関棙子を証する事、庸流の及ぶ処にあらざるなり。真箇の功夫ある処には、必ず現成するなり」

文意のままに読み解かれます。

牛頭山(江蘇省南京市)の法融禅師は、四祖(大医道信(580―651))下の尊宿である。横説竪説に「大般若経を建初寺に於いて講ずると聴者雲集した」(「大正蔵」五一・二二七・中)とあり、同頁上段には、四祖道信が牛頭を評した横説竪説を「汝但任心自在、莫作観行、亦莫澄心、莫起貪瞋、莫懐愁慮。蕩蕩無礙任意縱横、不作諸善不作諸悪、行住坐臥触目遇縁、総是仏之妙用快楽無憂。故名為仏」と、牛頭の横説竪説ぶりが見て取れるものです。

「経師論師に比するに」とは、先の『大品般若経』や『法華経』『大集経』等を講じた事情を云うものです。

「西天東地の間、不為不足」の故に『景徳伝灯録』四に於いても金陵牛頭山六世祖宗と立項されるもので、いわゆる牛頭禅と称されるものです。その法脈は智巌ー慧方ー法持ー智威ー鶴林ー径山ー鳥窠道林(741―824)と伝法されますが、鳥窠道林は『諸悪莫作』巻にて「居易愚かにして三歳の孩児の道得を曾て聞かざれば、道林の道声の雷よりもー後略」(、筆者「正法眼蔵」二・二四五・水野・岩波文庫)と馴染みある鳥窠和尚であります。(原文は「大正蔵」五一・二三〇・中)

「憾むらくは未だ向上の関棙子(勘所)を知らない」から道うことも出来ぬ。それは経師論師の域を出られず、ただ黒豆法師の取証だけを「学言語の漢なるのみなり」と評します。

仏道を修する漢は、「向上の関棙子を知る事・修行する事・証する事」を参学すべきで、これらの向上は「庸流(凡俗)の及ぶ処」ではないのである。「真箇の功夫(仏向上事)ある処には、必ず事象・事物が眼前現成する」ものである。

「いわゆる仏向上事と云うは、仏に到りて、進みてさらに仏を見るなり。衆生の仏を見るに同じきなり。しかあれば即ち、見仏もし衆生の見仏と等しきは、見仏にあらず。見仏もし衆生の見仏の如くなるは、見仏錯なり。いわんや仏向上事ならんや。知るべし、黄檗道の向上事は、今の杜撰の輩、領覧に及ばざらん。只まさに法道もし法融に及ばざる有り、法道おのづから法融に等しき有りとも、法融に法兄弟なるべし。いかでか向上の関棙子を知らん。自余の十聖三賢等、いかにも向上の関棙子を知らざるなり。いわんや向上の関棙子を開閉せんや。この宗旨は、参学の眼目なり。もし向上の関棙子を知るを、仏向上人とするなり、仏向上事を体得せるなり」

これにて当巻の総まとめとして述べられます。改めて仏向上事の定義として「仏に到りて進みて更に仏を見るなり」とは無期限の行法で、身近な喩えとしては生命を維持し続ける為には、常に内部環境を一定に保ち続ける為の、食事行法は仏向上事の一形態となります。科学のことばを用いれば恒常性と云ったり動的平衡と云ったり、ホメオスタシスと云い古来インドではアニッチャ(無常)と呼んでいるものです。

衆生の仏を見るに同じ」と言いながら、「見仏もし衆生の見仏と等しきは、見仏にあらず」とは矛盾するように思われるが、仏向上事の状態下では衆生と仏を区別する事は出来ませんから「同じきなり」としますが、衆生と仏の相対視観にて、衆生の見仏・仏の見仏と見るのでは仏向上事に於ける見仏でない為、「見仏錯なり、いわんや仏向上事ならんや」と釘を刺されるものです。

黄檗が道う(仏)向上事」は、今(提唱時の仁治三年(1242)を指す)の杜撰(庸流)のともがら(輩)が覧る(領覧)には及ばず、さらにその杜撰の学人は牛頭法融がが解会する仏法にも及ばず、よしんば法融に及んだとしても観行や澄心を求める有所得による悟道を唱うる法兄弟となるだけである。いかでか(どうして)そういう連中には向上の勘所(関棙子)を知り得ようか。

ほかに「十聖三賢」(十地・十住・十行・十回向)と云われる階梯を設ける高位の菩薩に於いても、向上の関棙子を知らず、ましてや向上のカンヌキ(関棙子)を開閉できようか。

これら指摘した向上の関棙子を知得するを高祖洞山が云う仏向上人であり、仏向上事を体得する真箇の参学人に於ける宗旨眼目である。

高祖洞山による「体得仏向上事」から始まり、同じく「仏向上人」・枯木禅師による「仏祖向上事」・雲居と洞山での「向上更道」・曹山と洞山との「向上更道」・光祚禅師による「仏向上事」・石頭と天皇での「向上更有」・最後に黄檗による「向上関棙子」を難解ではありますが、微細にわたり説き明かされる拈提の締め括りでは「仏向上事を体得せるなり」と最初の論題に言及し、明快な論述性を有する問一答十的文章と記し、擱筆とする。