正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵仏道

正法眼蔵第四十四 仏道

    一

曹谿古佛、あるとき衆にしめしていはく、慧能より七佛にいたるまで四十祖あり。この道を參究するに、七佛より慧能にいたるまで四十佛なり。佛々祖々を算數するには、かくのごとく算數するなり。かくのごとく算數すれば、七佛は七祖なり、三十三祖は三十三佛なり。曹谿の宗旨かくのごとし、これ正嫡の佛訓なり。正傳の嫡嗣のみ、その算數の法を正傳す。釋迦牟尼佛より曹谿にいたるまで三十四祖あり。この佛祖相承、ともに迦葉の如來にあひたてまつれりしがごとく、如來の迦葉をえましますがごとし。釋迦牟尼佛の迦葉佛に參學しましますがごとく、師資ともに于今有在なり。このゆゑに、正法眼藏まのあたり嫡々相承しきたれり。佛法の正命、たゞこの正傳のみなり。佛法はかくのごとく正傳するがゆゑに、附囑の嫡々なり。

この巻は入越初期に示されたものですが、巻頭冒頭で説かれる「仏道」についての宗旨を二項(嫡々相承単伝法・禅宗妄称)に分けて説かれますが、底本となった文献は『宝慶記』と思われ、恐らくは興聖寺時代に於いて書き上げられたものか、多少手直しされた文章と思われます。

「曹谿古仏、ある時衆に示して云わく、慧能より七仏に至るまで四十祖あり」

これが最初に説き明かす当巻の宗旨になりますが、曹谿古仏つまり六祖大鑑慧能(638―713)から過去七仏に至るまでに、四十人の仏祖が列挙される厳粛性を言うものですが、同様な提唱が『古仏心』『嗣書』両巻に記述されますが共に京都時代でのことです。

「この道を参究するに、七仏より慧能に至るまで四十仏なり。仏々祖々を算数するには、かくの如く算数するなり。かくの如く算数すれば、七仏は七祖なり、三十三祖は三十三仏なり。曹谿の宗旨かくの如し、これ正嫡の仏訓なり。正伝の嫡嗣のみ、その算数の法を正伝す」

この文章は、先の総論を再度確認する為のようで、慧能より七仏に至るを「七仏より慧能に至るまで四十仏」と逆バージョンで以て再確認し、同じ論法で「七仏は七祖」「三十三祖は三十三仏」と仏と祖の同等性を示すものである。曹谿慧能による示衆が即ち「正嫡の仏訓」であり「正伝の嫡嗣」と言い、その仏祖のカウントの法を正伝とするのである。

釈迦牟尼仏より曹谿に至るまで三十四祖あり。この仏祖相承、共に迦葉の如来に逢い奉りりしが如く、如来の迦葉を得ましますが如し」

ここでの具体例として釈尊から曹谿六祖までは三十四祖。つまり第一祖摩訶迦葉からインド在住第二十七祖般若多羅の二十七人+震旦初祖菩提達磨より曹谿までの六人をプラスし三十三人に、そして釈尊で三十四人つまり三十四祖になる算術です。

このような連綿と続く仏祖の相承は、迦葉と釈尊との出逢い、釈尊と迦葉との結縁が有っての事になります。

釈迦牟尼仏迦葉仏に参学しましますが如く、師資ともに于今有在なり。この故に、正法眼藏まのあたり嫡々相承し来たれり。仏法の正命、たゞこの正伝のみなり。仏法はかくの如く正伝するが故に、附囑の嫡々なり」

ここでの「迦葉仏」は過去七仏に相当する第六祖の迦葉であり、歴史的事実を云うのではなく、連続的に伝附する状況を先程の「正嫡の仏訓・正伝の嫡嗣」を「仏法の正命」と言い換えての重言を以て、第一の宗旨を終えます。

しかあれば、佛道の功徳要機、もらさずそなはれり。西天より東地につたはれて十萬八千里なり。在世より今日につたはれて二千餘載、この道理を參學せざるともがら、みだりにあやまりていはく、佛祖正傳の正法眼藏涅槃妙心、みだりにこれを禪宗と稱ず。祖師を禪祖と稱ず、學者を禪師と号す。あるいは禪和子と稱じ、或禪家流の自稱あり。これみな僻見を根本とせる枝葉なり。西天東地、從古至今、いまだ禪宗の稱あらざるを、みだりに自稱するは、佛道をやぶる魔なり、佛祖のまねかざる怨家なり。

これが冒頭文に説く宗旨の二つ目に当たるものですが、この巻での拈提では殆どが、ここで説かれる細密な註解になります。

「然あれば、仏道の功徳要機、洩らさず備われり。西天より東地に伝われて十万八千里なり。在世より今日に伝われて二千餘載、この道理を参学せざる輩、妄りに誤りて云わく、仏祖正伝の正法眼藏涅槃妙心、妄りにこれを禅宗と称ず」

インド(西天)より中国もしくは日本(東地)の距離を概説的に十万八千里とするが、仮に一里四百メートルにて計算すると四万三千二百キロメートルになりますが、実際の距離はニューデリー・北京間は三千八百キロメートル弱ですから、「十万八千」とは八万四千の法門の如くの無限定値と想定されます。「二千餘載」とは釈迦入滅より道元禅師提唱示衆年に当たりますから、正確には二千一百九十二年と記すべきを概略で以て示されたものです。因みに『仏性』『安居』各巻には示衆年に依る正確な表記が有ります。

このように長らく相承される仏道ではあるが、在宋当時もしくは道元禅師周辺には「仏祖正伝の正法眼藏涅槃妙心、妄りにこれを禅宗」と云う連中が居たとの事です。

「祖師を禅祖と称ず、学者を禅師と号す。あるいは禅和子と称じ、或禅家流の自称あり。これ皆僻見を根本とせる枝葉なり。西天東地、従古至今、未だ禅宗の称あらざるを、妄りに自称するは、仏道を破る魔なり、仏祖の招かざる怨家なり」

参学せざる輩の称える名号を具体的に「禅祖・禅師・禅和子・禅家流」と示され、これらの称を唱える者は「仏道を破る魔」と言われますが、魔はサンスクリット語マーラを訳経僧たちが、それまで中国には無かった漢字を「魔」という麻の下に鬼が居るオドロオドロしい語を創作したもので、こういう連中を「仏祖の招かざる怨家」と断言されます。

 

    二

石門林間録云、菩提達磨、初自梁之魏。經行於嵩山之下、倚杖於少林。面壁燕坐而已、非習禪也。久之人莫測其故。因以達磨爲習禪。夫禪那諸行之一耳。何足以盡聖人。而當時之人、以之、爲史者、又從而傳於習禪之列、使與枯木死灰之徒爲伍。雖然聖人非止於禪那、而亦不違禪那。如易出于陰陽、而亦不違乎陰陽。

第二十八祖と稱ずるは、迦葉大士を初祖として稱ずるなり。毘婆尸佛よりは第三十五祖なり。七佛および二十八代、かならずしも禪那をもて證道をつくすべからず。このゆゑに古先いはく、禪那は諸行のひとつならくのみ。なんぞもて聖人をつくすにたらん。この古先、いさゝか人をみきたれり、祖宗の堂奥にいれり、このゆゑにこの道あり。近日は大宋國の天下に難得なるべし、ありがたかるべし。たとひ禪那なりとも、禪宗と稱ずべからず、いはんや禪那いまだ佛法の摠要にあらず。しかあるを、佛々正傳の大道を、ことさら禪宗と稱ずるともがら、佛道は未夢見在なり、未夢聞在なり、未夢傳在なり。禪宗を自号するともがらにも佛法あるらんと聽許することなかれ。禪宗の稱、たれか稱じきたる。諸佛祖師の禪宗と稱ずる、いまだあらず。しるべし、禪宗の稱は、魔波旬の稱ずるなり。魔波旬の稱を稱じきたらんは魔儻なるべし、佛祖の兒孫にあらず。

本則である『林間録』による引用は、他にも『行持』巻にも同文が記載拈提されますが、この『仏道』巻にて採録された因縁は『宝慶記』第十一問答による「仏々祖々の大道は、一隅に拘わるべからず、何ぞ強いて禅宗と称する耶」に対する如浄による「仏祖大道を猥りに禅宗と称すべからず。石門林間録には嫡々相承、二十八世、東土五伝、曹谿に至るまで如浄に至り、則ち仏法の総府也」との問答が素地となり、仏道の正嫡を説くものとしての本則引用と考えられます。

石門の林間録に云く、菩提達磨、初め梁より魏に之く。於嵩山の下で経行し、、少林に倚杖す。面壁燕坐已なり、習禅には非ず也。久しく之人の其の故を測る莫し。因って達磨を以て習禅と為す。夫れ禅那は諸行の一つのみ。何を以て聖人を尽すに足らん。当時の人、之を以て、爲史の者、又従えて習禅の列に伝え、使與枯木死灰の徒と伍ならしむ。然りと雖も聖人は禅那のみに非ず、而も亦禅那に違せず。易の陰陽より出でて、而も亦陰陽に違せざるが如し。

「第二十八祖と称ずるは、迦葉大士を初祖として称ずるなり。毘婆尸仏よりは第三十五祖なり。七仏および二十八代、必ずしも禅那をもて証道を尽くすべからず。この故に古先云わく、禅那は諸行の一つならくのみ。なんぞもて聖人を尽くすに足らん」

「第二十八祖」とは震旦初祖の菩提達磨ですから迦葉大士つまり摩訶迦葉から算数して二十八代であり、過去七仏と合算すると三十五祖との言句は冒頭言に適うものです。この三十五人の祖師たちは禅定を機縁として証道されたのではない。ですから『林間録』撰者の覚範慧洪(1071―1128)が云うには、夫禅那諸行之一耳。何足以尽聖人の訓読みを「禅那は諸行のひとつならくのみ。なんぞもて聖人をつくすにたらん」と発話された当時の解読法です。

「この古先、些か人を見きたれり、祖宗の堂奥に入れり、この故にこの道あり。近日は大宋国の天下に難得なるべし、ありがたかるべし。たとい禅那なりとも、禅宗と称ずべからず、云わんや禅那未だ仏法の摠要にあらず」

「古先」とは先の覚範慧洪を指しますが、この人物を「祖宗の堂奥にいれり」と絶賛する理由は、梁の慧皎(497―554)が撰集した『高僧伝』にて十科分類「習禅(瞑想)」の枠から開放し、「面壁燕(安)坐するのみ、習禅には非ず」と菩提達磨を正当に評価した為に、「近日は大宋国の天下に得難し、有り難い事だ」と『林間録』撰者を讃える文言です。「禅那を禅宗と称ずべからず」と念入りに説明されるのは、在宋当時に如浄和尚から直言された「仏祖の大道を猥りに禅宗と称ずべからず。禿髪の小畜生の称じ来たる所なり」(『宝慶記』)を承けての拈提です。また禅だけを特別視するのを嫌う為に、「未だ仏法の摠要にあらず」と複眼視的仏法観を提示されます。

「然あるを、仏々正伝の大道を、ことさら禅宗と称ずる輩、仏道は未夢見在なり、未夢聞在なり、未夢伝在なり。禅宗を自号する輩にも仏法有るらんと聴許する事なかれ。禅宗の称、誰か称じ来たる。諸仏祖師の禅宗と称ずる、未だ有らず。知るべし、禅宗の称は、魔波旬の称ずるなり。魔波旬の称を称じ来たらんは魔党なるべし、仏祖の児孫にあらず」

先に述べたように「仏々正伝」と云う旗頭を立て禅宗と称える連中には、仏法と云われるものは未だ曾て見たり、聞いたり伝来する事は夢にも見た事がないだろうと。更には、そんな輩には仏法が有るなどと許してはならないとの、痛烈なる批評です。

続けて誰が禅宗などと云ったか、魔波旬の言句であり徒党を組むような者は「仏祖の児孫にあらず」如浄以上の舌鋒鋭い拈提です。

 

    三

世尊靈山百萬衆前、拈優曇花瞬目、衆皆黙然。唯迦葉尊者、破顔微笑。世尊云、吾有正法眼藏涅槃妙心、幷以僧伽梨衣、附囑摩訶迦葉

世尊の迦葉大士に附囑しまします、吾有正法眼藏涅槃妙心なり。このほかさらに吾有禪宗附囑摩訶迦葉にあらず。幷附僧伽梨衣といひて、幷附禪宗といはず。しかあればすなはち、世尊在世に禪宗の稱またくきこえず。初祖その時二祖にしめしていはく、諸佛無上妙道、曠劫精勤、難行苦行、難忍能忍。豈以小徳小智、輕心慢心、欲冀眞乘。またいはく、諸佛法印、匪從人得。またいはく、如來以正法眼藏、附囑迦葉大士。

いましめすところ、諸佛無上妙道および正法眼藏、ならびに諸佛法印なり。當時すべて禪宗と稱ずることなし、禪宗と稱ずべき因縁きこえず。いまこの正法眼藏は、揚眉瞬目して面授しきたる、身心骨髓をもてさづけきたる、身心骨髓に稟授しきたるなり。身先身後に傳授し稟受しきたり、心上心外に傳授し稟受するなり。

世尊迦葉の會に禪宗の稱きこえず、初祖二祖の會に禪宗の稱きこえず。五祖六祖の會に禪宗の稱きこえず、青原南嶽の會に禪宗の稱きこえず。いづれのときより、たれ人の稱じきたるとなし。學者のなかに、學者のかずにあらずして、ひそかに壞法盗法のともがら、稱じきたるならん。佛祖いまだ聽許せざるを、晩學みだりに稱ずるは、佛祖の家門を損ずるならん。又佛々祖々の法のほかに、さらに禪宗と稱ずる法のあるににたり。もし佛祖の道のほかにあらんは、外道の法なるべし。すでに佛祖の兒孫としては、佛祖の骨髓面目を參學すべし。佛祖の道に投ぜるなり。這裏を逃逝して、外道を參學すべからず。まれに人間の身心を保任せり、古來の辦道力なり。この恩力をうけて、あやまりて外道を資せん、佛祖を報恩するにあらず。大宋の近代、天下の庸流、この妄稱禪宗の名をきゝて、俗徒おほく禪宗と稱じ、達磨宗と稱じ、佛心宗と稱ずる、妄稱きほひ風聞して、佛道をみだらんとす。これは佛祖の大道かつていまだしらず、正法眼藏ありとだにも見聞せず、信受せざるともがらの亂道なり。正法眼藏をしらんたれか、佛道をあやまり稱ずることあらん。

二則の話頭を掲げての禅宗呼称に対する提唱です。

本則である「拈華瞬目、附嘱摩訶迦葉」は断片的に各処で取り扱われますが(『授記』『密語』『優曇華』巻等)、ここでの引用出典は『聯灯会要』一「世尊在霊山会上、拈花示衆、衆皆黙然。唯迦葉破顔微笑破顔微笑。世尊云、吾有正法眼蔵涅槃妙心、(実相無相、微妙法門、不立文字、教外別伝)附嘱摩訶迦葉―中略―世尊昔至多子塔前、命摩訶迦葉分座、以僧伽梨囲之。乃告云、吾有正法眼蔵、密付於汝、汝当護持、伝付将来、無令断絶」からの引用と考えられますが、、( )内を僧伽梨衣に入れ換えた道元禅師独自な文章です。

「世尊の迦葉大士に附嘱しまします、吾有正法眼蔵涅槃妙心なり。この他さらに吾有禅宗附嘱摩訶迦葉にあらず。幷附僧伽梨衣と云いて、幷附禅宗と云わず。しかあれば即ち、世尊在世に禅宗の称全く聞こえず」

このように、確証たる例示禅宗呼称を提示されます。

二つめの話則は『景徳伝灯録』三・達磨章(「大正蔵」五十一・二百十九・中下)からの引用でほとんど同文ですが、「難行苦行、難忍能忍」の原文は「難行能行、非忍而忍」からの改変ですが大意は変わりません。

「今示す処、諸仏無上妙道および正法眼蔵、ならびに諸仏法印なり。当時すべて禅宗と称ずることなし、禅宗と称ずべき因縁聞こえず。今この正法眼蔵は、揚眉瞬目して面授し来たる、身心骨髄をもて授け来たる、身心骨髄に稟授し来たるなり。身先身後に伝授し稟受し来たり、心上心外に伝授し稟受するなり」

三則の達磨の話則の冒頭語である「諸仏無上妙道・諸仏法印・正法眼蔵」を取り出し、禅宗と呼称すべきものは達磨在世当時(6世紀前半)には聞かれないとの、世尊在世から年代を逐うての説明になります。特に「正法眼蔵」についての拈提としては「揚眉瞬目・身心骨髄・身先身後・心上心外」の語で全体性を表徴し、伝授稟受するなりと説かれます。

「世尊迦葉の会に禅宗の称聞こえず、初祖二祖の会に禅宗の称聞こえず。五祖六祖の会に禅宗の称聞こえず、青原南嶽の会に禅宗の称聞こえず。いづれの時より、たれ人の称じ来たるとなし。学者の中に、学者の数にあらずして、密かに壊法盗法の輩、称じ来たるならん。仏祖いまだ聴許せざるを、晩学妄りに称ずるは、仏祖の家門を損ずるならん」

先に説いた世尊・迦葉ならびに初祖・二祖以外にも、五祖大満弘忍と六祖大鑑慧能・青原行思と南嶽懐譲等の道場でも禅宗の呼称は皆無であったと。具体事例は引用しませんが純一辦道が行持されていた昔日には壊法盗法の輩は存在しなかったと断言され、いづれの時より禅宗を称じ来たるかと問われる形式ですが、背景には大慧宋杲周辺の人物を想定しての拈提の可能性もあります。(『大慧語録』には3箇所ほど禅宗の語句が散見される)

「又仏々祖々の法の他に、さらに禅宗と称ずる法の有るに似たり。もし仏祖の道の他にあらんは、外道の法なるべし。すでに仏祖の児孫としては、仏祖の骨髄面目を参学すべし。仏祖の道に投ぜるなり。這裏を逃逝して、外道を参学すべからず。稀に人間の身心を保任せり、古来の辦道力なり。この恩力をうけて、誤りて外道を資せん、仏祖を報恩するにあらず」

次に言われるように、世間では禅宗・達磨宗・仏心宗だと妄称するが、仏々祖々を範とする仏祖の児孫と称ずるからには、仏祖といわれる青原・南嶽等の骨髄面目を参学し、外道が呼称する俗語は参学すべからずと度重なる言辞になります。

「大宋の近代、天下の庸流、この妄称禅宗の名を聞きて、俗徒多く禅宗と称じ、達磨宗と称じ、仏心宗と称ずる、妄称競い風聞して、仏道を妄らんとす。これは仏祖の大道曾て未だ知らず、正法眼蔵有りとだにも見聞せず、信受せざる輩の乱道なり。正法眼蔵を知らん誰か、仏道を誤り称ずる事有らん」

「大宋の近代」は宏智(1091―1157)・真歇清了(1088―1151)・圜悟克勤(1063―1135)・大慧宋杲(1089―1163)などが仏風を競った時期を指し、その頃の龍蛇混濁の様子が見てとれます。賊徒はニックネーム的感覚で禅宗・達磨宗・仏心宗と呼び慣わしていたのでしょうが、その妄称を仏祖の大道等を参学究明しない、天下の庸流が横行した状況を言及するものです。

猶ここでは中国での例証としての話ですが、栄西撰『興禅護国論』巻中(「大正蔵」八十巻・七・下)に於いても「或人妄称禅宗名日達磨宗」との言が有る事から、師翁(『永平広録』四四一・五一二)と仰ぐ千光栄西和尚からの引用とも考えられなくもない。

南嶽山石頭庵無際大師、上堂示大衆言、吾之法門、先佛傳受、不論禪定精進、唯達佛之知見。

しるべし、七佛諸佛より正傳ある佛祖、かくのごとく道取するなり。たゞ吾之法門、先佛傳受と道現成す。吾之禪宗、先佛傳受と道現成なし。禪定精進の條々をわかず、佛之知見を唯達せしむ。精進禪定をきらはず、唯達せる佛之知見なり。これを吾有正法眼藏附囑とせり。吾之は吾有なり、法門は正法なり。吾之吾有吾體は、汝得の附囑なり。無際大師は青原高祖の一子なり、ひとり堂奥にいれり。曹谿古佛の剃髪の法子なり。しかあれば、曹谿古佛は祖なり、父なり。青原高祖は兄なり、師なり。佛道祖席の英雄は、ひとり石頭庵無際大師のみなり。佛道の正傳、たゞ無際のみ唯達なり。道現成の果々條々、みな古佛の不古なり、古佛の長今なり。これを正法眼藏の眼睛とすべし、自餘に比准すべからず。しらざるもの、江西大寂に比するは非なり。しかあればしるべし、先佛傳受の佛道は、なほ禪定といはず、いはんや禪宗の稱論ならんや。あきらかにしるべし、禪宗と稱ずるは、あやまりのはなはだしきなり。つたなきともがら、有宗空宗のごとくならんと思量して、宗の稱なからんは、所學なきがごとくなげくなり。佛道かくのごとくなるべからず、かつて禪宗と稱ぜずと一定すべきなり。しかあるに、近代の庸流、おろかにして古風をしらず、先佛の傳受なきやから、あやまりていはく、佛法のなかに五宗の門風ありといふ。これ自然の衰微なり。これを拯濟する一箇半箇、いまだあらず。先師天童古佛、はじめてこれをあはれまんとす。人の運なり、法の達なり。

この本則は石頭希遷(700―790)による法語で、典拠としては『景徳伝灯録』十四・『聯灯会要』十九などが挙げられますが、上堂語としてはこの一句のみが記されます。

「知るべし、七仏諸仏より正伝ある仏祖、かくの如く道取するなり。たゞ吾之法門、先仏伝受と道現成す。吾之禅宗、先仏伝受と道現成なし。禅定精進の条々をわかず、仏之知見を唯達せしむ。精進禅定を嫌わず、唯達せる仏之知見なり。これを吾有正法眼蔵附嘱とせり。吾之は吾有なり、法門は正法なり。吾之吾有吾体は、汝得の附嘱なり」

禅宗呼称は邪称との論拠を世尊・迦葉・初祖二祖・五祖六祖、青原・南嶽と説き続け、今回は青原行思を嗣ぐ石頭和尚の出番となります。「法門」を禅宗とは云わず、「禅定や精進」の波羅蜜行は一つ一つは問わず、「仏之知見」として唯だ達するだけだと読み込まれるものです。この仏の知見を道元流では「吾有正法眼蔵附嘱」と規定し、「吾之」を吾有・「法門」は正法と置換する事で、達磨大師が云う汝得皮肉骨髄を捩り、「吾之・吾有・吾体」の一然態としての汝得の附嘱なりとの拈提です。

「無際大師は青原高祖の一子なり、ひとり堂奥に入れり。曹谿古仏の剃髪の法子なり。しかあれば、曹谿古仏は祖なり、父なり。青原高祖は兄なり、師なり。仏道祖席の英雄は、ひとり石頭庵無際大師のみなり。仏道の正伝、たゞ無際のみ唯達なり。道現成の果々条々、みな古仏の不古なり、古仏の長今なり。これを正法眼蔵の眼睛とすべし、自餘に比准すべからず。知らざる者、江西大寂に比するは非なり」

この文言は本則と同じく『景徳伝灯録』十四・石頭章(三〇九・中)「後直造曹谿、六祖大師度為弟子。未具戒、属祖師円寂、稟遺命謁于廬陵清原山思禅師、乃摂衣従之。」(後ち直に曹谿に造るに、六祖大師は度して弟子と為す。未だ具戒せざるに、祖師の円寂に属い、遺命を稟いて廬陵(江西省吉安県)清原山の思禅師に謁し、乃ち衣を摂えて之に従う。)さらに同じく『景徳伝灯録』五・青原章(二四〇・上)「六祖将示滅有沙弥希遷。問曰和尚百年後希遷未審当依附何人。祖曰尋思去。及祖順世遷毎於静処端坐寂若忘生。第一坐問曰汝師已逝空坐奚為。遷曰我稟遺誡故尋思爾。第一坐曰汝有師兄行思和尚今住吉州。汝因縁在彼。師言甚直汝自迷耳。遷聞語便礼辞祖龕直詣静居。(六祖将に滅を示さんとするや、沙弥希遷なる者有りて、問うて曰く和尚百年後に希遷、未審し、当に何人に依附すべきと。祖曰く、尋思し去れと。祖の順世するに及び、遷、毎に静処に於いて端坐し、寂として生けるを忘ぜるが若し。第一坐、問うて曰く、汝が師は已に逝けり、空しく坐して奚為せんと。遷曰く、我れ遺誡を稟くるが故に尋思するのみ。第一坐曰く、汝に師兄行思和尚有り、今吉州に住す、汝が因縁は彼れに在り、師の言は甚だ直し、汝自から迷えるのみ。遷語を聞き便ち祖龕を礼辞して直に静居に詣る。)と両話頭を合成したもので、石頭のみが仏道の正伝を唯達と賛じ、この石頭の行状は他の江西の馬祖や南嶽の懐譲と比較する非が説かれます。

「然あれば知るべし、先仏伝受の仏道は、なお禅定と云わず、いはんや禅宗の称論ならんや。明らかに知るべし、禅宗と称ずるは、誤りの甚だしき也。拙き輩、有宗空宗の如くならんと思量して、宗の称なからんは、所学なきが如く嘆くなり。仏道かくの如くなるべからず、曾て禅宗と称ぜずと一定すべきなり」

「先仏より伝受された」仏道には、禅定・精進を論ぜずと云うように、ましてや禅宗と云うような禅を冠する宗徒は将錯そのものである。拙輩は「有宗空宗」の如くに、自身が所属する集団に俱舎・法相・成実・三論などと称ずる事で、世俗に対する優越性(高慢)が生じる為に「仏道かくの如くなるべからず」と警鐘の意味もあって、「禅宗と称ぜずと一定すべき」と永平門下に対する忠言と受け止められる拈提です。

「しかあるに、近代の庸流、愚かにして古風を知らず、先仏の伝受なき族、誤りて云わく、仏法の中に五宗の門風ありと云う。これ自然の衰微なり。これを拯濟する一箇半箇、未だあらず。先師天童古仏、始めてこれを憐れまんとす。人の運なり、法の達なり」

この処は石頭希遷本則に対する最後の拈提部になりますが、同時に次に繋げる伏線の意味を持たせた箇所になります。

「庸流」とは平凡な普通の人・凡庸浅学の者を指しますが、この巻では5か所に渉り説示される程に、僧形を保ちながらも先学の言辞を参学せずの徒輩の云い分は、『辦道話』巻にても説かれる如くに五宗(法眼・潙仰・曹洞・雲門・臨済)の存在を挙げるが、このように主張する庸流では仏法の門風は自然衰微危惧運筆となり、「先師天童古仏、この状況を憐れんで」と次頁にて如浄の法語を本則とし拈提に入ります。

 

    四

先師古佛、上堂示衆云、如今箇々祗管道、雲門法眼潙仰臨濟曹洞等、家風有別者、不是佛法也、不是祖師道也。

この道現成は、千載にあひがたし、先師ひとり道取す。十方にきゝがたし、圓席ひとり聞取す。しかあれば、一千の雲水のなかに、聞著する耳垜なし、見取する眼睛なし。いはんや心を擧してきくあらんや、いはんや身處に聞著するあらんや。たとひ自己の渾身心に聞著する、億萬劫にありとも、先師の通身心を擧拈して聞著し、證著し、信著し、脱落著するなかりき。あはれむべし、大宋一國の十方、ともに先師をもて諸方の長老等に齊肩なりとおもへり。かくのごとくおもふともがらを、具眼なりとやせん、未具眼なりとやせん。またあるいは、先師をもて臨濟徳山に齊肩なりとおもへり。このともがらも、いまだ先師をみず、いまだ臨濟にあはずといふべし。先師古佛を禮拝せざりしさきは、五宗の玄旨を參究せんと擬す。先師古佛を禮拝せしよりのちは、あきらかに五宗の亂稱なるむねをしりぬ。しかあればすなはち、大宋國の佛法さかりなりしときは、五宗の稱なし。また五宗の稱を擧揚して、家風をきこゆる古人いまだあらず。佛法の澆薄よりこのかた、みだりに五宗の稱あるなり。これ人の參學おろかにして、辦道を親切にせざるによりてかくのごとし。雲箇水箇、眞箇の參究を求覓せんは、切忌すらくは五家の亂稱を記持することなかれ、五家の門風を記号することなかれ。いはんや三玄三要四料簡四照用九帶等あらんや。いはんや三句五位、十同眞智あらんや。釋迦老子の道、しかのごとくの小量ならず、しかのごとくを大量とせず、道現成せず、少林曹谿にきこえず。あはれむべし、いま末代の不聞法の禿子等、その身心眼睛くらくしていふところなり。佛祖の兒孫種子、かくのごとくの言語なかれ。佛祖の住持に、この狂言かつてきこゆることなし。後來の阿師等、かつて佛法の全道をきかず、祖道の全靠なく、本分にくらきともがら、わづかに一兩の少分に矜高して、かくのごとく宗稱を立するなり。立宗稱よりこのかたの小兒子等は、本をたづぬべき道を學せざるによりて、いたづらに末にしたがふなり。慕古の志気なく、混俗の操行あり。俗なほ世俗にしたがふことをいやしとして、いましむるなり。

ここに挙げる如浄の本則は『如浄語録』『宝慶記』等には確認できないが、在宋中に於いての説法には間違いはないと思われますが、当『仏道』巻に説示する「石門録云々」の文言が『宝慶記』からのもので有る事を考えると、如浄との独参的問法中の一話頭である可能性が考えられる本則です。

「この道現成は、千載に遭い難し、先師ひとり道取す。十方に聞き難し、円席ひとり聞取す」

ここに云う五つの宗門を道取することは「不是佛法・不是祖師道」と説くのは千年(載)つまり明帝永平十年(紀元六十七年)に仏法が東伝してより、如浄が最初である事を強調する文言ですが、『宏智録』(「大正蔵」四十八・二・上下)では安居僧が五宗の宗風を宏智に問う話則が見られ、それに対しては何らの批判めいた事項は述べられません。もちろん道元禅師は、この宏智の上堂語にも眼を通されていると思われますから、如浄の言辞のみを一方的に是認されたか疑問が残ります。

「しかあれば、一千の雲水の中に、聞著する耳垜なし、見取する眼睛なし。云わんや心を挙して聞くあらんや、云わんや身処に聞著するあらんや。たとい自己の渾身心に聞著する、億万劫にありとも、先師の通身心を挙拈して聞著し、証著し、信著し、脱落著するなかりき。憐れむべし、大宋一国の十方、ともに先師をもて諸方の長老等に斉肩なりと思えり。かくの如く思う輩を、具眼なりとやせん、未具眼なりとやせん」

「一千の雲水」とは如浄在世当時の天童寺修行僧を指すと誇張過ぎる為、この数はこれまでに如浄が歴住した清凉寺・浄慈寺等の合算した雲水の数と受け止め、それらの雲水には聞く耳・見る眼がなく、全心・全身・渾身心を以て聞著する者もおらず、例えば自己の渾身心を挙して「億万劫」に渉り如浄の通身心(全体)を聞き証り信じ脱落(さとり)する者はいなかった。と推敲されますが、先の一千の雲水の数量は億万劫との対句と考える数字自体にはそれ程意味はないとも考えられる。亦その千人の雲水が云うには、如浄とほかの長老(無際了派・惟一西堂など)は同等の知見と思い込んでいるが、本当に仏法を通徹する眼の玉が有るのか無いのかとの叱声の言辞に聞こえます。

「又或いは、先師をもて臨済徳山に斉肩なりと思えり。この輩も、未だ先師を見ず、未だ臨済に会わずと云うべし。先師古仏を礼拝せざりしさきは、五宗の玄旨を參究せんと擬す。先師古佛を禮拝せしより後は、明らかに五宗の乱称なる旨を知りぬ」

臨済・徳山と具体的な人名を挙げ、如浄との比較に興じる者が内外に居たのでしょう。天童寺山内に於いても一部の者は、如浄と臨済・徳山との同格を云う者に対しての、道元禅師の警策とも云える言が、「このともがら未だ先師を見ず」に表徴され、更に真に如浄の玄奥を明らめ礼拝の後は、雲門・法眼・偽仰・臨済・曹洞などとの呼称の錯が知り得るはずとの、在宋当時を回想しての文体になっていますが、興聖寺時代からの僧伽の中にもこれに類する一類に対する提唱である可能性も考えられます。

「しかあれば即ち、大宋国の仏法盛りなりし時は、五宗の称なし。また五宗の称を挙揚して、家風を聞こゆる古人未だあらず。仏法の澆薄よりこのかた、妄りに五宗の称あるなり。これ人の参学愚かにして、辦道を親切にせざるによりてかくの如し。雲箇水箇、真箇の参究を求覓せんは、切忌すらくは五家の乱称を記持することなかれ、五家の門風を記号することなかれ。云わんや三玄三要四料簡四照用九帯等あらんや。云わんや三句五位、十同真智あらんや」

ここで説かれる「大宋国の仏法盛りなりし時」とは趙州従諗(778―897)・洞山良价(807―869)・雪峰義存(822―908)等々が活動した五代十国時代を指し、「仏法澆薄」の時期は大慧宋杲(1089―1163)・宏智正覚(1091―1157)の南宋時代を分水界にして「参学愚かにして辦道を親切にせざる」の具体事例として、『宝慶記』二十一話に説く処の「阿育王寺の大光和尚が云う、仏祖道と教家談は水と火の如く天地懸隔す。若し教家の所談と同じは永く祖師の家風に非ず」との長老大光の言に対する如浄の答話「唯だ大光一人の妄談有るに非ず。諸方の長老、皆亦是如。諸方長老、どうして教家の是非を明らかに出来ようか。なんぞ祖師の堂奥を知り得ようか。」の文言が挙げられ、阿育王寺住持職による妄談を「参学愚かにして辦道を親切にせざる」に置き換えてのものとも考えられます。

また修行僧である雲水に対し「雲箇水箇」と人称し、更に「真箇」と真実人体にも通底する語法で以て、五家の乱称を覚えるも記憶(記持)するも忌避(切忌)しなさいとの意味です。

さらに学人接化法である臨済義玄(―866)の三玄三要・四料簡・四照用と仏眼清遠(1067―1120)が説く仏禅宗教義集九帯集、それに雲門文偃(864―949)が示した三句で禅の要を説く雲門三句や洞山良价(807―869)の正偏五位、汾陽善昭(947―1024)が示した得入の為の十同真智の指導法など有ろう歟と。これらの概念化カテゴライズ化された仏法を嫌うものですが、当巻と同時期に示された『仏経』巻にも「為人の手を授けんとするには、臨済の四料簡四照用、雲門の三句、洞山の三路五位等を挙して学道の標準とせり」と同様句を使用され、人を指導する為の手段としての応病与薬的接化を嫌うものです。

「釈迦老子の道、しかの如くの小量ならず、しかの如くを大量とせず、道現成せず、少林曹谿に聞こえず。憐れむべし、今末代の不聞法の禿子等、その身心眼睛暗くして云う処なり。仏祖の児孫種子、かくの如くの言語なかれ。仏祖の住持に、この狂言曾て聞こゆることなし。後来の阿師等、曾て仏法の全道を聞かず、祖道の全靠なく、本分に暗き輩、わづかに一両の少分に矜高して、かくの如く宗称を立するなり。立宗称よりこのかたの小児子等は、本をたづぬべき道を学せざるによりて、いたづらに末に従うなり。慕古の志気なく、混俗の操行あり。俗なほ世俗に従う事を卑しとして、戒むるなり」

禿頭漢と云われる者が云うには、釈尊の説法は宗派の呼称や接化法云々と云うような小量・大量は問題にせず、少林寺の達磨や曹谿山の慧能も、このような些細な事柄は語ってはいまい。と仏祖の児孫と称する者は禿子の狂言を今までに聞いた事がない。「阿師」はおもねり坊主と揶揄し、こういう輩は仏法の全体を承知せず、自分の解会する一つ二つ(一両)のみを全てと思い込み驕り高ぶって、雲門・法眼等の宗派名を称する小児性を伴う禿頭漢は、本源を尋ねる気概もなく慕古する志気もない、俗人と何ら変わらない行いである。俗徒に於いても維摩の如く世俗に交わるを戒しむるのにとの、五宗を称ずる者への手加減しない拈提です。

文王問太公曰、君務擧賢。而不獲其功、世亂愈甚。以致危亡者何也。太公曰、擧賢而不用、是以有擧賢之名也、無得賢之實也。文王曰、其失安在。太公曰、其失在好用世俗之所譽、不得其眞實。文王曰、好用世俗之所譽者何也。太公曰、好聽世俗之所譽者、或以非賢爲賢、或以非智爲智、或以非忠爲忠、或以非信爲信。君以世俗所譽者爲賢智、以世俗之所毀者爲不肖。則多黨者進、少儻者退。是以群邪比周而蔽賢、忠臣死於無罪、邪臣虚譽以求爵位。是以世亂愈甚、故其國不免於危亡。

俗なほその國その道の危亡することをなげく。佛法佛道の危亡せん、佛子かならずなげくべし。危亡のもとゐは、みだりに世俗にしたがふなり。世俗にほむるところをきく時は、眞賢をうることなし。眞賢をえんとおもはば、照後觀前の智略あるべし。世俗のほむるところ、いまだかならずしも賢にあらず、聖にあらず。世俗のそしるところ、いまだかならずしも賢にあらず、聖にあらず。しかありといへども、賢にしてそしりをまねくと、僞にしてほまれあると、參察するところ、混ずべからず。賢をもちゐざらんは國の損なり、不肖をもちゐんは國のうらみなり。いま五宗の稱を立するは、世俗の混亂なり。この世俗にしたがふものはおほしといへども、俗を俗としれる人すくなし。俗を化するを聖人とすべし、俗にしたがふは至愚なるべし。この俗にしたがはんともがら、いかでか佛正法をしらん、いかにしてか佛となり祖とならん。七佛嫡々相承しきたれり。いかでか西天にある依文解義のともがら五部を立するがごとくならん。しかあればしるべし、佛法の正命を正命とせる祖師は、五宗の家門あるとかつていはざるなり。佛道に五宗ありと學するは、七佛の正嗣にあらず。

これまで仏教典籍による禅宗と呼称することの邪宗解を説いてきましたが、ここではっ中国兵法書である『六韜』六巻の中からの「文韜」を引用しての拈提となりますが、このような仏法以外の世法を以てする文体構成は随所に見られる手法です。

原文を訓読にすると

(周の)文王が太公(望)に問うて日く、君務めて賢人を取り挙げるが、其の功は獲られず、世の乱れは愈(いよいよ)甚しい。国が危亡するのは何故か。

太公が曰く、賢人を取り挙げるも登用せず、賢を挙げる名(目)は有るが、賢人を得た実(績)がない。

文王日く、その欠点(失)は安(いづく)に在るか。

太公が曰う、その欠点は好みて世俗の誉める所を用いるに在り、其の真実を得ず。

文王日く、好みて世俗の誉める所を用いるとは何ですか。

太公が曰う、好みて世俗が誉める所を聴くとは、或いは賢に非ざるを以て賢と為し、或いは智に非ざるを以て智と為し、或いは忠に非ざるを以て忠と為し、或いは信に非ざるを以て信と為す。君子は世俗の誉める所の者を以て賢者智者とし、世俗の毀(そし)る所の者を以て不肖とすれば、則ち党(なかま)の多い者は進み、儻の少ない者は退く。是を以て群邪比周して賢者を蔽(おお)い、忠臣は罪無くして死に、邪臣は虚誉を以て爵位を求める。是を以て世の乱れは愈甚し、故に其の国は危亡を免れず。

「俗猶その国その道の危亡する事を嘆く。仏法仏道の危亡せん、仏子必ず嘆くべし。危亡の基は、妄りに世俗に従うなり。世俗に誉むる所を聞く時は、真賢を得る事なし。真賢を得んと思わば、照後観前の智略あるべし。世俗の誉むる所、未だ必ずしも賢にあらず、聖にあらず。世俗の謗る所、未だ必ずしも賢にあらず、聖にあらず。しか有りと云えども、賢にして謗りを招くと、偽にして誉れ有ると、参察する所、混ずべからず。賢を用いざらんは国の損なり、不肖を用いんは国の恨みなり」

中国典籍を例言にした世俗の賢と仏法での聖を説くもので文意は通常に解しますが、照後観前は後を照らし前を観る事で、「前代の事例を照らし合わせ、将来の見通しを立てる」の意さらに参察は「何回もよく観察すること」として解します。

普段は世俗よりも仏法の優位性を説く論法ですが、世俗法を援用しての拈提に於いては、仏法王法相依論的論述法のように感じられます。

「いま五宗の称を立するは、世俗の混乱なり。この世俗に従う者は多しと云えども、俗を俗と知れる人少なし。俗を化するを聖人とすべし、俗に従うは至愚なるべし。この俗に従わん輩、いかでか仏正法を知らん、如何にしてか仏となり祖とならん。七仏嫡々相承し来たれり。如何でか西天にある依文解義の輩五部を立するが如くならん。しかあれば知るべし、仏法の正命を正命とせる祖師は、五宗の家門あると曾て云わざるなり。仏道に五宗ありと学するは、七仏の正嗣にあらず」

先の仏法王法相依論から仏法優位論にと展開されます。

臨済・曹洞などと五宗派立てする事は世俗にとっても好ましくなく、宗派による呼称を妄称であるとの認識もないと嘆かれます。これに対し俗人を化導する宗教家を聖人として位置づけますが、「正法眼蔵」全体を俯瞰して見ると数か所以上に「聖人」と記されますが、賢人を意識した聖人の語法のようです。仏正法を認得するには「七仏嫡々相承」による得法が有用で、優婆毱多より始まる四分律説一切有部・五分律・解脱戒経・僧祇律と云った依文解義による五部の学問仏教が仏正法であろうかとの疑問符です。このように七仏嫡々相承の仏法では五つに分類された概念的仏教観は伝承せず、七仏祖師による嫡々単伝の正嗣以外には仏正法は有り得ずとの力説になります。

先師示衆云、近年祖師道癈、魔黨畜生多。頻々擧五家門風、苦哉苦哉。

しかあれば、はかりしりぬ、西天二十八代、東地二十二祖、いまだ五宗の家門を開演せざるなり。祖師とある祖師は、みなかくのごとし。五宗を立して各々の宗旨ありと稱ずるは、誑惑世間人のともがら、少聞薄解のたぐひなり。佛道におきて、各々の道を自立せば、佛道いかでか今日にいたらん。迦葉も自立すべし、阿難も自立すべし。もし自立する道理を正道とせば、佛法はやく西天に滅しなまし。各々自立せん宗旨、たれかこれ慕古せん。各々に自立せん宗旨、たれか正邪を決擇せん。正邪いまだ決擇せずは、たれかこれを佛法なりとし、佛法にあらずとせん。この道理あきらめずは、佛道と稱じがたし。五宗の稱は、各々祖師の現在に立せるにあらず。五宗の祖師と稱ずる祖師、すでに圓寂ののち、あるいは門下の庸流、まなこいまだあきらかならず、あしいまだあゆまざるもの、父にとはず、祖に違して、立稱しきたるなり。そのむねあきらかなり、たれ人もしりぬべし。

ここでの示衆語は第四での示衆に続く語と思われます。二か所に分けて説くことで、示衆内容が強調される効果が出るものと考えられます。

「しかあれば、計り知りぬ、西天二十八代、東地二十二祖、いまだ五宗の家門を開演せざるなり。祖師とある祖師は、皆かくの如し。五宗を立して各々の宗旨ありと称ずるは、誑惑世間人の輩、少聞薄解の類いなり」

西天二十八代と東地二十二祖と代と祖を区別して記述されますが、西天二十八代とはインドに於いての祖師方を第一祖の摩訶迦葉から菩提達磨までを二十八代とし、東地二十二祖とは震旦二祖慧可から如浄までを二十二祖とされますが、『仏祖』巻に於いては如浄を東地二十三代と記され、震旦初祖達磨をも勘定に入れた算数を「代」と位置づけるものらしく、『永平寺三祖行業記』に於いても道元禅師の出自を「村上天皇九代之苗裔。後中書(具平親王)八世之遺胤。」と記載されることからも、用法の違いが窺われます。

仏道におきて、各々の道を自立せば、仏道いかでか今日に到らん。迦葉も自立すべし、阿難も自立すべし。もし自立する道理を正道とせば、仏法はやく西天に滅しなまし。各々自立せん宗旨、誰かこれ慕古せん。各々に自立せん宗旨、誰か正邪を決択せん。正邪未だ決択せずは、誰かこれを仏法なりとし、仏法に非ずとせん」

仏道に於いては嫡々相承と云う単伝法に依り仏法が伝播されて来たのであり、各自が独立独歩の精神で以て法を説いても、一時的な利益安堵は得られても相承という永続性が伴わないものは仏法に非ずとの説明になります。猶「仏法はやく西天に滅しなまし」はな+ましの連語体で「上に仮定条件を伴って、事実と反する事を仮想する」古語で、迦葉も阿難も仮に自立していたら、仏法は早々に滅していただろうにとの意です。

「この道理明らめずは、仏道と称じ難し。五宗の称は、各々祖師の現在に立せるに非ず。五宗の祖師と称ずる祖師、すでに円寂の後、或いは門下の庸流、眼未だ明らかならず、足未だ歩まざる者、父に問わず、祖に違して、立称し来たるなり。その旨明らかなり、誰人も知りぬべし」

この如浄の話則でのまとめとしては、五宗それぞれの潙山霊祐・臨済義玄・雲門文偃・法眼文益・洞山良价の各師の現存中には五宗は称ぜられるはずもなく、亡くなって後に門下の凡庸僧が名聞利養の為の世法として立称した事実は誰一人として知らない者はない、との仏正法と世法との違いを説くものです。

 

    五

大潙山大圓禪師は、百丈大智子なり。百丈と同時に潙山に住す。いまだ佛法を潙仰宗と稱ずべしといはず。百丈も、なんぢがときより潙山に住して潙仰宗と稱ずべしといはず。師と祖と稱ぜず、しるべし、妄稱といふことを。たとひ宗号をほしきまゝにすといふとも、あながちに仰山をもとむべからず。自稱すべくは自稱すべし。自稱すべからざるによりて、前來も自稱せず、いまも自稱なし。曹谿宗といはず、南嶽宗といはず、江西宗といはず、百丈宗といはず。潙山にいたりて曹谿にことなるべからず。曹谿よりもすぐるべからず、曹谿におよぶべからず。大潙の道取する一言半句、かならずしも仰山と一條柱杖兩人舁せず。宗の稱を立せんとき、潙山宗といふべし、大潙宗といふべし、潙仰宗と稱ずべき道理いまだあらず。潙仰宗と稱ずべくは、兩位の尊宿の在世に稱ずべし。在世に稱ずべからんを稱ぜざらんは、なにのさはりによりてか稱ぜざらん。すでに兩位の在世に稱ぜざるを、父祖の道を違して潙仰宗と稱ずるは、不孝の兒孫なり。これ大潙禪師の本懷にあらず、仰山老人の素意にあらず。正師の正傳なし、邪黨の邪稱なることあきらけし。これを盡十方界に風聞することなかれ。

これより五宗門と呼ばれた堂頭和尚に関する提唱になります。

先ずは潙仰宗に対する百丈懐海(749―814)―潙山霊祐(771―853)―仰山慧寂(807―883)と聯関相承する関係性を説かれます。

「大潙山大円禅師は、百丈大智子なり。百丈と同時に潙山に住す。未だ仏法を潙仰宗と称ずべしと云わず。百丈も、汝が時より潙山に住して潙仰宗と称ずべしと云わず。師と祖と称ぜず、知るべし、妄称と云うことを」

大潙山の霊祐大円禅師は百丈懐海大智(後)禅師の法子で、百丈の同時代に湖南省の潙山に住す。二人とも在世中には潙仰宗とは称じない事から妄称である。

「たとい宗号を欲しきままにすと云うとも、強ちに仰山を求むべからず。自称すべくは自称すべし。自称すべからざるによりて、前来も自称せず、今も自称なし。曹谿宗と云わず、南嶽宗と云わず、江西宗と云わず、百丈宗と云わず。潙山に到りて曹谿に異なるべからず。曹谿よりも勝るべからず、曹谿に及ぶべからず」

潙山が宗号を勝手に唱えるとしても、強いて弟子の仰山の名号を求めるはずはない。潙仰宗を唱える事は勝手だが、前来にも今もその痕跡はなく、六祖に因んで曹谿宗・南嶽懐譲に因んで南嶽宗・馬祖道一に因んで江西宗・百丈懐海に因んで百丈宗とは言わない。六祖曹谿とは比較の仕様もない。

「大潙の道取する一言半句、必ずしも仰山と一条柱杖両人舁せず。宗の称を立せん時、潙山宗と云うべし、大潙宗と云うべし、潙仰宗と称ずべき道理未だあらず。潙仰宗と称ずべくは、両位の尊宿の在世に称ずべし。在世に称ずべからんを称ぜざらんは、何の障りによりてか称ぜざらん。すでに両位の在世に称ぜざるを、父祖の道を違して潙仰宗と称ずるは、不孝の児孫なり。これ大潙禅師の本懷にあらず、仰山老人の素意にあらず。正師の正伝なし、邪党の邪称なること明らけし。これを尽十方界に風聞することなかれ」

「一条柱杖両人舁」の舁はかつぐの意で「駕籠を舁く」と云うように、背中全体で担ぐ時に使う語であり、同様の語が『仏性』巻大潙章に「塩官有仏性の道、たとい古仏と共に一隻の手を出だすに似たりとも、なおこれ一条柱杖両人舁なるべし」と、前章の塩官斉安が説く有仏性と潙山の説く無仏性の異語同類を「一条柱杖両人舁なるべし」との拈提に使用される語法です。ここでは大潙と仰山とは、それぞれ違うことを一条柱杖両人舁せずと潙仰宗の妄称を説く為に援用されます。大潙自身が潙山宗・大潙宗と唱えるのはまだしも、潙仰宗の宗名を称ずる道理はどこにもない。潙仰宗と云うならば、潙山と仰山が生きて居る時に唱えるべきで、二人の在世中に称じなかった事は不肖の証しである。後世潙仰宗と称された事は潙山の本懐・仰山の素意ではなく、このような悪弊は尽十方界に風聞させてはならない。

慧照大師は、講經の家門をなげすてて、黄蘗の門人となれり。黄蘗の棒を喫すること三番、あはせて六十柱杖なり。大愚のところに參じて省悟せり。ちなみに鎭州臨濟院に住せり。黄蘗のこゝろを究盡せずといへども、相承の佛法を臨濟宗となづくべしといふ一句の道取なし、半句の道取なし。豎拳せず、拈拂せず。しかあるを、門人のなかの庸流、たちまちに父業をまぼらず、佛法をまぼらず、あやまりて臨濟宗の稱を立す。慧照大師の平生に結搆せん、なほ曩祖の道に違せば、その稱を立せんこと、予議あるべし。いはんや、

臨濟將示滅、囑三聖慧然禪師云、吾遷化後、不得滅卻吾正法眼藏。慧然云、爭敢滅卻和尚正法眼藏。臨濟云、忽有人問汝、作麼生對。慧然便喝。臨濟云、誰知吾正法眼藏、向遮瞎驢邊滅卻。

かくのごとく師資道取するところなり。臨濟いまだ吾禪宗を滅卻することえざれといはず、吾臨濟宗を滅卻することえざれといはず、吾宗を滅卻することえざれといはず、たゞ吾正法眼藏を滅卻することえざれといふ。あきらかにしるべし、佛祖正傳の大道を禪宗と稱ずべからずといふこと、臨濟宗と稱ずべからずといふことを。さらに禪宗と稱ずること、ゆめゆめあるべからず。たとひ滅卻は正法眼藏の理象なりとも、かくのごとく附囑するなり。向遮瞎驢邊の滅卻、まことに附囑の誰知なり。臨濟門下には、たゞ三聖のみなり。法兄法弟におよぼし、一列せしむべからず。まさに明窓下安排なり。臨濟三聖の因縁は佛祖なり。今日臨濟の附囑は、昔日靈山の附囑なり。しかあれば、臨濟宗と稱ずべからざる道理あきらけし。

臨済義玄(―866)と宗名についての考究になります。

「慧照大師は、講経の家門を投げ棄てて、黄蘗の門人となれり。黄蘗の棒を喫すること三番、合わせて六十柱杖なり。大愚の処に参じて省悟せり。ちなみに鎭州臨済院に住せり」

先ず臨済の紹介で、当初の経典講釈を棄て黄蘗の門人となるが、そこで黄蘗の六十柱杖を授与されるが意味合いがわからず、黄檗は法系上の従兄弟に当たる高安大愚の会下に参じさせ、そこで臨済は悟った。因みに河北省の鎮州正定府臨済院に住し、同時期に趙州の観音院に趙州従諗が住した。

「黄蘗のこころを究尽せずと云えども、相承の仏法を臨済宗と名づくべしと云う一句の道取なし、半句の道取なし。豎拳せず、拈払せず。しかあるを、門人の中の庸流、忽ちに父業を守らず、仏法を守らず、誤りて臨済宗の称を立す。慧照大師の平生に結搆せん、なお曩祖の道に違せば、その称を立せんこと、予議あるべし」

臨済録』を見る限りに於いては一句半句も臨済宗の名称は確認出来ませんが、「如禅宗見解」なる言句が二か所に散見されます。臨済宗を唱えた者は門人の中の凡庸なる学徒で、臨済の道業を守らず間違った理解で臨済の宗号を立てたのである。臨済が平生に云ってきている事ではあるが、曩祖(臨済以前の祖師)の意に相違するなら、議論(予議)しなければならない。

臨済将示滅、嘱三聖慧然禅師云、吾遷化後、不得滅却吾正法眼蔵。慧然云、争敢滅却和尚正法眼蔵臨済云、忽有人問汝、作麼生対。慧然便喝。臨済云、誰知吾正法眼蔵、向遮瞎驢辺滅却。かくの如く師資道取する処なり。臨済いまだ吾禅宗を滅却すること得ざれと云わず、吾臨済宗を滅却すること得ざれと云わず、吾宗を滅却すること得ざれと云わず、ただ吾正法眼蔵を滅却すること得ざれと云う」

この話頭は『真字正法眼蔵』中・六十七則からの引用で、その底本となったのは『宏智広録』二・頌古十三則からの孫引きと考えられますが、「吾遷化後」と臨済が云ったとなっていますが、遷化とは他人が云う語言であり、自身を「吾滅後」と記す『臨済録』(「大正蔵」四十七・五百六頁・下)による言句が原文に近いと思われます。また臨済示寂の年月日を『景徳伝灯録』十二では咸通七年(866)丙戌四月十日としますが、『臨済録』では咸通八年(867)丁亥孟陬月(正月)十日との差異が有ります。ここだけを見ては吾禅宗・吾臨済宗・吾宗も記載されませんが、先程も述べるように『臨済録』の他の示衆では禅宗を二回また黄檗は「吾宗到汝大興於世」と載録の事実があります。

「明らかに知るべし、仏祖正伝の大道を禅宗と称ずべからずと云う事、臨済宗と称ずべからずと云う事を。さらに禅宗と称ずる事、ゆめゆめ有るべからず。たとい滅却は正法眼蔵の理象なりとも、かくの如く附嘱するなり。向遮瞎驢辺の滅却、まことに附嘱の誰知なり。臨済門下には、ただ三聖のみなり。法兄法弟に及ぼし、一列せしむべからず。まさに明窓下安排なり。臨済三聖の因縁は仏祖なり。今日臨済の附嘱は、昔日霊山の附嘱なり。しかあれば、臨済宗と称ずべからざる道理明らけし」

前半は先に云う禅宗臨済宗を口称する事を忌む重言ですが、「滅却は正法眼蔵の理象」とは臨済正法眼蔵・慧然の正法眼蔵と受け嗣がれる常態を理象と言い表し、具体的状況を

三聖による「向遮瞎驢辺の滅却」(臨済による三聖への讃辞)が、「まことに附嘱の誰知なり」と三聖だけが臨済を附嘱すると、誰でもが知っているとのオープンマインド的考察が、「臨済門下には、ただ三聖のみなり―中略―昔日霊山の附嘱なり」と三聖を讃嘆する語を連呼する拈提になります。

雲門山匡眞大師、そのかみは陳尊宿に學す、黄蘗の兒孫なりぬべし、のちに雪峰に嗣す。この師、また正法眼藏を雲門宗と稱ずべしといはず。門人また潙仰臨濟の妄稱を妄稱としらず、雲門宗の稱を新立せり。匡眞大師の宗旨、もし立宗の稱をこゝろざさば、佛法の身心なりとゆるしがたからん。いま宗の稱を稱ずるときは、たとへば、帝者を匹夫と稱ぜんがごとし。

雲門文偃(864―949)についての拈提になりなす。

「雲門山匡真大師、そのかみは陳尊宿に学す、黄蘗の児孫なりぬべし、のちに雪峰に嗣す」

『景徳伝灯録』十九雲門章には「初参睦州陳尊宿発明大旨。後造雪峯而益資玄要。」と記述されます。つまりは臨済黄檗の法脈に連なるわけです。

「この師、また正法眼蔵雲門宗と称ずべしと云わず。門人また潙仰臨済の妄称を妄称としらず、雲門宗の称を新立せり」

ここでの論述法はこれまで同様で、後世の不肖の弟子たちによるものだとの言です。

「匡真大師の宗旨、もし立宗の称をこころざさば、仏法の身心なりと許しがたからん。今宗の称を称ずる時は、喩えば、帝者を匹夫と称ぜんが如し」

雲門の考えとしては、もし立宗を志すなどとは、有り得ないことである。仏法の身心(全体)を会得しているのだから。今の人が雲門宗と称ずる事は、皇帝と匹夫(身分の卑しい男・道理をわきまえない男)の分別が分からない者のようである。

清涼院大法眼禪師は、地藏院の嫡嗣なり。玄沙院の法孫なり。宗旨あり、あやまりなし。大法眼は署する師号なり。これを正法眼藏の号として法眼宗の稱を立すべしといへることを、千言のなかに一言なし、萬句のうちに一句なし。しかあるを、門人また法眼宗の稱を立す。法眼もしいまを化せば、いまの妄稱、法眼宗の道をけづるべし。法眼禪師すでにゆきて、この患をすくふ人なし。たとひ千萬年ののちなりとも、法眼禪師に孝せん人は、この法眼宗の稱を稱とすることなかれ。これ本孝大法眼禪師なり。おほよそ雲門法眼等は、青原高祖の遠孫なり、道骨つたはれ、法髓つたはれり。

法眼文益(885―958)についての考察です。

「清涼院大法眼禅師は、地蔵院の嫡嗣なり。玄沙院の法孫なり。宗旨あり、誤りなし。大法眼は署する師号なり。これを正法眼蔵の号として法眼宗の称を立すべしと云える事を、千言の中に一言なし、万句のうちに一句なし。しかあるを、門人また法眼宗の称を立す」

清涼院に住し諡名を大法眼禅師と称すことから清涼院大法眼禅師と云いますが、法眼はニックネーム的名称で諱を文益とします。法脈は玄沙師備(835―908)を祖父とし地蔵桂琛(867―928)を父業に持ちます。法眼の門下には天台徳韶(891―972)―永明延寿(904―975)嗣続されますが、これらの門人が法眼宗と称すとされるものと考えられます。

「法眼もし今を化せば、いまの妄称、法眼宗の道を削るべし。法眼禅師すでに去きて、この患を救う人なし。たとい千万年の後なりとも、法眼禅師に孝せん人は、この法眼宗の称を称とする事なかれ。これ本孝大法眼禅師なり。おおよそ雲門法眼等は、青原高祖の遠孫なり、道骨伝われ、法髄伝われり」

法眼がもし生きていたならと仮定の話ですが、『宗門十規論』を著している事から宗派のカテゴライズ化の目論見も有ったかも知れません。また雲門文偃・法眼文益も青原行思(―740)からは六代・八代と連絡しますが、その間二百年の隔たりが有り道骨・法髄が如何に連脈通底されるかが問題です。

高祖悟本大師は雲巖に嗣法す、雲巖は藥山大師の正嫡なり、藥山は石頭大師の正嫡なり、石頭大師は青原高祖の一子なり。齊肩の二三あらず、道業ひとり正傳せり。佛道の正命なほ東地にのこれるは、石頭大師もらさず正傳せしちからなり。青原高祖は、曹谿古佛の同時に、曹谿の化儀を青原に化儀せり。在世に出世せしめて、出世を一世に見聞するは、正嫡のうへの正嫡なるべし、高祖のなかの高祖なるべし。雄參學、雌出世にあらず。そのときの齊肩、いま抜群なり。學者ことにしるべきところなり。曹谿古佛、ちなみに現般涅槃をもて人天を化せし席末に、石頭すゝみて所依の師を請ず。古佛ちなみに尋思去としめして、尋譲去といはず。しかあればすなはち、古佛の正法眼藏、ひとり青原高祖の正傳なり。たとひ同得道の神足をゆるすとも、高祖はなほ正神足の獨歩なり。曹谿古佛、すでに青原を、わが子を子ならしむ。子の父の、父の父とある、得髓あきらかなり。祖宗の正嗣なることあきらかなり。洞山大師、まさに青原四世の嫡嗣として、正法眼藏を正傳し、涅槃妙心開眼す。このほかさらに別傳なし、別宗なし。大師かつて曹洞宗と稱ずべしと示衆する拳頭なし、瞬目なし。また門人のなかに庸流まじはらざれば、洞山宗と稱ずる門人なし、いはんや曹洞宗といはんや。曹洞宗の稱は、曹山を稱じくはふるならん。もししかあらば、雲居同安をもくはへのすべきなり。雲居は人中天上の導師なり、曹山よりも尊崇なり。はかりしりぬ、この曹洞の稱は、傍輩の臭皮袋、おのれに齊肩ならんとて、曹洞宗の稱を稱ずるなり。まことに、白日あきらかなれども、浮雲しもをおほふがごとし。

五家門の最後に洞山良价(807―869)を取り挙げ一応の括りとなります。

「高祖悟本大師は雲巌に嗣法す、雲巌は薬山大師の正嫡なり、薬山は石頭大師の正嫡なり、石頭大師は青原高祖の一子なり。斉肩の二三あらず、道業ひとり正伝せり。仏道の正命なお東地に残れるは、石頭大師洩らさず正伝せし力なり」

洞山自身の由緒正しき法脈を示す如くに、雲巌曇晟(782―841)・薬山惟儼(745―828)・石頭希遷(700―790)・青原行思(―740)へと聯関させる事で、道元禅師自身にも連脈させる我田引水的論法にも受け止められ得るものです。

青原の法嗣は『景徳伝灯録』十四にても石頭一人のみですが、南嶽の法嗣は『同録』六にて九人の法嗣名がありますが、馬祖一人の語録のみが収録される事から、実質青原の石頭と同様、馬祖一人の法嗣となり、少なからず青原法系に肩を寄せた文体です。

「青原高祖は、曹谿古仏の同時に、曹谿の化儀を青原に化儀せり。在世に出世せしめて、出世を一世に見聞するは、正嫡の上の正嫡なるべし、高祖の中の高祖なるべし。雄参学、雌出世にあらず。その時の斉肩、いま抜群なり。学者ことに知るべき処なり」

ここでは青原と曹谿古仏つまり第三十三祖慧能大師との優劣及び難い同質同等性を述べるものですが、『景徳伝灯録』五によると慧能には四十三人もの嗣法者が居り、その内十八学人の語録が採録されます。

「曹谿古仏、因みに現般涅槃をもて人天を化せし席末に、石頭進みて所依の師を請ず。古仏因みに尋思去と示して、尋譲去と云わず。しかあれば即ち、古仏の正法眼蔵、ひとり青原高祖の正伝なり。たとい同得道の神足を許すとも、高祖はなお正神足の独歩なり。曹谿古仏、すでに青原を、わが子を子ならしむ。子の父の、父の父とある、得髄明らかなり。祖宗の正嗣なる事明らかなり」

『景徳伝灯録』五・青原章によると、石頭は六祖から遺言で尋思去と聞きながら尋思爾と勘違いし坐寂忘生として居たが、第一坐に指示を受け吉州青原山静居寺に向かったと云われる説話を考慮し、又「尋思去」と「尋譲去」を「雄参学」「雌出世」ならびに達磨の「皮肉骨髄」考をも頭中に熟考する必要がありそうです。

「洞山大師、当に青原四世の嫡嗣として、正法眼蔵を正伝し、涅槃妙心開眼す。この他さらに別伝なし、別宗なし。大師かつて曹洞宗と称ずべしと示衆する拳頭なし、瞬目なし。また門人の中に庸流交わらざれば、洞山宗と称ずる門人なし、云わんや曹洞宗と云わんや」

『瑞州洞山良价禅師語録』(「大正蔵」四十七・五百二十頁・中)には洞曹宗と称されていた事が記載されます。

曹洞宗の称は、曹山を称じ加えるならん。もししか有らば、雲居同安をも加え載すべき也。雲居は人中天上の導師なり、曹山よりも尊崇なり。計り知りぬ、この曹洞の称は、傍輩の臭皮袋、己れに斉肩ならんとて、曹洞宗の称を称ずるなり。誠に、白日明らかなれども、浮雲下を蓋うが如し」

曹洞宗と云われた因縁を曹山本寂(840―901)に求めるならば、雲居道膺(―902)やその弟子の同安道丕(生没不詳)にも求めるべきとの拈提ですが、曹山に宗名を冠する理由は「五位君臣旨訣」を唱えるからで、第一坐第二坐は関係ない。また「曹洞の称は傍輩の臭皮袋」と蔑称されますが、『撫州曹山元証禅師語録』(「大正蔵」四十七・五百二十六頁・下)では「密授洞山宗旨」なる語で洞山良价を評する箇所も見受けられます。

 

    六

先師いはく、いま諸方獅子の座にのぼるものおほし、人天の師とあるものおほしといへども、知得佛法道理箇渾無。このゆゑに、きほうて五宗の宗を立し、あやまりて言句の句にとゞこほれるは、眞箇に佛祖の怨家なり。あるいは黄龍の南禪師の一派を稱じて黄龍宗と稱じきたれりといへども、その派とほからずあやまりをしるべし。およそ世尊現在、かつて佛宗と稱じましまさず、靈山宗と稱ぜず、祇薗宗といはず、我心宗といはず、佛心宗といはず。いづれの佛語にか佛心宗と稱ずる。いまの人、なにをもてか佛心宗と稱ずる。世尊なにのゆゑにか、あながちに心を宗と稱ぜん。宗なにによりてかかならずしも心ならん。もし佛心宗あらば佛身宗あるべし。佛眼宗あるべし。佛耳宗あるべし、佛鼻舌等宗あるべし。佛髓宗佛骨宗佛脚宗佛國宗等あるべし。いまこれなし、しるべし、佛心宗の稱は僞稱なりといふこと。釋迦牟尼佛ひろく十方佛土中の諸法實相を擧拈し、十方佛土中をとくとき、十方佛土のなかに、いづれの宗を建立せりととかず。宗の稱もし佛祖の法ならば、佛國にあるべし、佛國にあらば佛説すべし。佛不説なり、しりぬ、佛國の調度にあらず。祖道せず、しりぬ、祖域の家具にあらずといふことを。たゞ人にわらはるゝのみにあらざらん、諸佛のために制禁せられん、また自己のためにわらはれん。つゝしんで宗稱することなかれ、佛法に五家ありといふことなかれ。

これまでの五宗に対する妄称の具体例を終了し、最終段にては如浄の説法語を元に、釈尊の説法に於ける宗名についての考察です。

「先師云わく、いま諸方獅子の座に上る者多し、人天の師とある者多しと云えども、知得仏法道理箇渾無」

この如浄による語も文献には見当たりませんが、恐らくは先来からの如浄上堂語によるものと思われます。

これまでの上堂をまとめると、「先師(如浄)古仏、上堂示衆に云く、如今箇々祗管に道う、雲門・法眼・潙仰・臨済・曹洞等、家風は別に有りとは、仏法に不是也、是れ祖師道にあらざる也。近年の祖師道廃る、魔党畜生多し。頻々に五家の聞風を挙げるは苦哉苦哉。いま諸方に獅子の座に登る者多し、人天の師と有る者多しと云えども、仏法の道理を知り得てる箇(人)渾(すべ)て無し。」

「この故に、競うて五宗の宗を立し、誤りて言句の句に滞れるは、真箇に仏祖の怨家なり。或いは黄龍の南禅師の一派を称じて黄龍宗と称じ来たれりと云えども、その派遠からず誤りを知るべし」

「言句の句に滞れる」とは概念化・カテゴライズ化された言論を云い、閉鎖的思考は真に仏家(法)の忌む処である。また臨済の流れで黄龍慧南(1002―1069)を黄龍派・楊岐方会(992―1049)を楊岐派と称ずることを取り挙げるものです。

「およそ世尊現在、かつて仏宗と称じましまさず、霊山宗と称ぜず、祇薗宗と云わず、我心宗と云わず、仏心宗と云わず。いづれの仏語にか仏心宗と称ずる。今の人、何をもてか仏心宗と称ずる。世尊何の故にか、強ちに心を宗と称ぜん。宗何によりてか必ずしも心ならん。もし仏心宗あらば仏身宗あるべし。仏眼宗あるべし。仏耳宗あるべし、仏鼻舌等宗あるべし。仏髄宗仏骨宗仏脚宗仏國宗等あるべし。今これなし、知るべし、仏心宗の称は偽称なりと云うこと」

仏心宗なる語は在宋当時は頻繁に耳目したらしく連続して言句し、さらに世尊に関する形容詞を以ての宗名といい、苛立ちすら感じる文言です。

釈迦牟尼仏広く十方仏土中の諸法実相を挙拈し、十方仏土中を説く時、十方仏土の中に、いづれの宗を建立せりと説かず。宗の称もし仏祖の法ならば、仏国に有るべし、仏国にあらば仏説すべし。仏不説なり、知りぬ、仏国の調度にあらず。祖道せず、知りぬ、祖域の家具に非ずと云う事を。ただ人に笑わるるのみに非ざらん、諸仏の為に制禁せられん、また自己の為に笑われん。謹んで宗称する事なかれ、仏法に五家ありと云う事なかれ」

妙法蓮華経』方便品に於ける「十方仏土中諸法実相」を喩えに出しての、「いづれの宗をも建立せりと説かず」と諸経の王たる『法華経』での確認事項です。

後來智聰といふ小兒子ありて、祖師の一道兩道をひろひあつめて、五家の宗派といひ、人天眼目となづく。人これをわきまへず、初心晩學のやから、まこととおもひて、衣領にかくしもてるもあり。人天眼目にあらず、人天の眼目をくらますなり。いかでか瞎卻正法眼藏の功徳あらん。かの人天眼目は、智聰上座、淳煕戊申十二月のころ、天台山萬年寺にして編集せり。後來の所作なりとも、道是あらば聽許すべし。これは狂亂なり、愚暗なり。參學眼なし、行脚眼なし、いはんや見佛祖眼あらんや。もちゐるべからず。智聰といふべからず、愚蒙といふべし。その人をしらず、人にあはざるが言句をあつめて、その人とある人の言句をひろはず。しりぬ、人をしらずといふことを。震旦國の教學のともがら宗稱するは、齊肩の彼々あるによりてなり。いま佛祖正法眼藏の附囑嫡々せり、齊肩あるべからず、混ずべき彼々なし。かくのごとくなるに、いまの杜撰長老等、みだりに宗稱をもはらする自專のくはだて、佛道をおそれず。佛道はなんぢが佛道にあらず、諸佛祖の佛道なり、佛道の佛道なり。

『人天眼目』ならびに著者に対する手厳しい評価ですが、最終項に於いて突如提唱するかのように見せながら、第四に於いて「五家の門風を記号することなかれ。いはんや三玄三要四料簡四照用九帶等あらんや。いはんや三句五位、十同真智あらんや」と伏線が敷かれ、文章構成に機微聯関が読み取れるものです。

「後来智聡と云う小児子ありて、祖師の一道両道を拾い集めて、五家の宗派と云い、人天眼目と名づく。人これを弁えず、初心晩学の族、誠と思いて、衣領に隠し持てるも有り。人天眼目にあらず、人天の眼目を晦ますなり。如何でか瞎却正法眼蔵の功徳あらん」

我々の目から見ると、六巻から成る大書を編集した人物を「小児子」(こわっぱ・こせがれ)と評される眼目は、相当に先師如浄の訓戒が大きな比重を占めるものと思われる。著者は大慧下四世に当たる晦巌智昭が本来の名号で聡は誤りであり、「人天の眼目を晦ます」とあるのは、晦巌の文字を捩った表現です。「瞎却正法眼蔵の功徳あらん」とは五家門臨済の処で説いた「遮瞎驢辺滅却」のことばを瞎却と造り替えたもので、晦巌智昭は三聖慧然のようには正法眼蔵を瞎却させる程の力量は持ち合わせないとの、先来からの聯関を持ち込ませての提唱です。

「かの人天眼目は、智聡上座、淳煕戊申十二月の頃、天台山万年寺にして編集せり。後来の所作なりとも、道是あらば聴許すべし。これは狂乱なり、愚暗なり。参学眼なし、行脚眼なし、云わんや見仏祖眼あらんや。用いるべからず。智聡と云うべからず、愚蒙と云うべし。その人を知らず、人に会わざるが言句を集めて、その人とある人の言句を拾わず。知りぬ、人を知らずと云う事を」

この文は恐らく『人天眼目』序を見て書かれたものですが、偏頗な編集方法を「人に会わずに言句を収録し、ある人の言句を録せず」との見解です。

「震旦国の教学の輩宗称するは、斉肩の彼々あるに依りてなり。いま仏祖正法眼藏の附嘱嫡々せり、斉肩あるべからず、混ずべき彼々なし。かくの如くなるに、今の杜撰長老等、妄りに宗称を専らする自專のくはだて、仏道を恐れず。仏道は汝が仏道にあらず、諸仏祖の仏道なり、仏道仏道なり」

震旦(宋)の教学僧には名聞利養が存する為に、斉肩の彼々に励むのであろう。真実の仏祖正法眼蔵が嫡々附嘱する処では、肩を競り合う必要がないが、庸流の徒は「諸仏祖の仏道」「仏道仏道」を知らないのである。

太公謂文王云、天下者、非一人之天下、天下之天下也。

しかあれば、俗士なほこれ智あり、この道あり。佛祖屋裏兒、みだりに佛祖の大道を、ほしきまゝに愚蒙にしたがへて、立宗の自稱することなかれ。おほきなるをかしなり、佛道人にあらず。宗稱すべくは、世尊みづから稱じましますべし。世尊すでに自稱しましまさず、兒孫として、なにゆゑにか滅後に稱ずることあらん。たれ人か世尊よりも善巧ならん。善巧あらずは、その益なからん。もしまた佛祖古來の道に違背して、自宗を自立せば、たれかなんぢが宗を宗とする佛兒孫あらん。照古觀今の參學すべし、みだりなることなかれ。世尊在世に一毫もたがはざらんとする、なほ百千萬分の一分におよばざることをうれへ、およべるをよろこび、違せざらんとねがふを、遺弟の畜念とせるのみなり。これをもて、多生の値遇奉覲をちぎるべし、これをもて多生の見佛聞法をねがふべし。ことさら世尊在世の化儀にそむきて宗の稱を立せん、如來の弟子にあらず、祖師の兒孫にあらず。重逆よりもおもし。たちまちに如來の無上菩提をおもくせず、自宗を自專する、前來を輕忽し、前來をそむくなり。前來もしらずといふべし。世尊在日の功徳を信ぜざるなり。かれらが屋裏に佛法あるべからず。しかあればすなはち、學佛の道業を正傳せんには、宗の稱を見聞すべからず。佛々祖々、附囑し正傳するは、正法眼藏無上菩提なり。佛祖所有の法は、みな佛附囑しきたれり、さらに剩法のあらたなるあらず。この道理、すなはち法骨道髓なり。

最終項になります。第四で取り扱った『六韜』の中「発啓十三」の中間処に記載されるもので、「天下者、非一人之天下、乃天下之天下也。取天下者、若逐野獣―以下略」と続く一文を取り挙げるものです。

「しか有れば、俗士なおこれ智あり、この道あり。仏祖屋裏児、妄りに仏祖の大道を、欲しきままに愚蒙に従えて、立宗の自称する事なかれ。大きなる犯しなり、仏道人にあらず。宗称すべくは、世尊みづから称じましますべし。世尊すでに自称しましまさず、児孫として、なに故にか滅後に称ずる事あらん。誰人か世尊よりも善巧ならん。善巧あらずは、その益なからん」

仏道とは程遠い俗人に於いても全体的考察で以て物事を見る訳ですから、仏祖の屋敷内に住む者は、自分の欲するままに立宗をする事は犯罪であるとの言明で、世尊の善巧方便を手本にすべしとの拈提です。

「もし又仏祖古来の道に違背して、自宗を自立せば、誰か汝が宗を宗とする仏児孫あらん。照古観今の参学すべし、妄りなる事なかれ。世尊在世に一毫も違わざらんとする、なお百千万分の一分に及ばざる事を憂え、及べるを喜こび、違せざらんと願うを、遺弟の畜念とせるのみなり。これをもて、多生の値遇奉覲を契るべし、これをもて多生の見仏聞法を願うべし」

一時的にも仏祖道に違背する事があっても、照古観今(古に照らし現今を観法)と謙虚であるべきとの事です。世尊在世を基準に多生の値遇奉覲・見仏聞法を願う心構えが大切との言辞になります。

「ことさら世尊在世の化儀に背きて宗の称を立せん、如来の弟子にあらず、祖師の児孫にあらず。重逆よりも重し。忽ちに如来の無上菩提を重くせず、自宗を自専する、前来を軽忽し、前来を背くなり。前来も知らずと云うべし。世尊在日の功徳を信ぜざるなり。彼らが屋裏に仏法あるべからず」

これまでの繰り返しの重言ですが、宗の称を立てる事が「重逆」つまり十重五逆を云うもので、五逆(殺母父・破和合僧伽など)の内一つでも適せば僧団追放ですから、やや舌鋒鋭きの感は有りますが、ここに道元禅師の此の巻での決意・意気込み・人間性までもが露呈された感のある文言です。

「しかあれば即ち、学仏の道業を正伝せんには、宗の称を見聞すべからず。仏々祖々、附嘱し正伝するは、正法眼蔵無上菩提なり。仏祖所有の法は、みな仏附嘱し来たれり、さらに剩法の新たなる非ず。この道理、すなはち法骨道髄なり」

この言句が『仏道』巻の結語になりますが、「正伝」のことばを数多く使われて来ましたが、最終頁に於いても「学仏道業」「正法眼蔵無上菩提」の正伝とこれ以上以下もなく剩法はなく、この全体性を法骨道髄と定義されますが、この語は第四清涼院大法眼禅師項に於ける道骨法髄伝われりを、変転したもので、ここにも道元禅師の提示する文章の連続・聯関性が読み取れる事を示して擱筆とします。

 

爾時寛元元年(1243)九月十六日在越州吉田県吉峰寺示衆