正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵大悟

正法眼蔵第十 大悟

    はじめに

『大悟』巻には二種の異本が在り、「当巻」は再治本と称され、寛元二年(1244)正月二十七日に人天大衆に書き示された巻が「七十五巻本」として伝来されてきたものである。詳細は『中世禅籍叢刊』第2巻道元集に「大悟・解題」として伊藤秀憲氏が報じられる記事を参照されたい。

 

    一 序文

佛々の大道、つたはれて綿密なり。祖々の功業、あらはれて平展なり。このゆゑに大悟現成し、不悟至道し、省悟弄悟し、失悟放行す。これ佛祖家常なり。擧拈する使得十二時あり、抛卻する被使十二時あり。さらにこの關棙子を跳出する弄泥團もあり、弄精魂もあり。大悟より佛祖かならず恁麼現成する參學を究竟すといへども、大悟の渾悟を佛祖とせるにはあらず、佛祖の渾佛祖を渾大悟なりとにはあらざるなり。佛祖は大悟の邊際を跳出し、大悟は佛祖より向上に跳出する面目なり。

「草案本」と再治本である「当巻」の構成は、総字数7193字に対し「当巻」字数は3680字と半分に減らし、内容に於いては「草案本」では十七則の話頭を用いるに対し再治本では四則の話頭拈提と、大幅に削除・加筆が加えられ全面改修されるものですが、前文に当たる当該箇所では、「草案本」よりも濃密に仕立てられます。

「仏々の大道、伝われて綿密なり。祖々の功業、現われて平展なり。この故に大悟現成し、不悟至道し、省悟弄悟し、失悟放行す。これ仏祖家常なり」

正法眼蔵」各巻に共通する文章の構成は、冒頭部に提唱する要諦・要旨を表記することで仏法の言語化を図るわけですが、「仏々の大道・祖々の功業」を対句に据え、それぞれに「綿密・平展」を附随することで、「大悟」は特殊性を唱えるのではなく日常・平常態の具現を、「仏々の大道、伝われて綿密なり。祖々の功業、現われて平展なり」の語言を冒頭部に配置したものと推察されるものである。

そこで、ここでは「大悟」を標題とするわけですから、大悟の語を筆頭に「大悟・不悟・省悟・弄悟・失悟放行」なりと説く処を、「仏祖家常なり」と改めて日常底を家常と表明されます。もちろん此の所に於ける「大悟・不悟」は比較の論上ではなく、会・不会の如くに喩えられるものです。

「挙拈する使得十二時あり、抛却する被使十二時あり。さらにこの関棙子を跳出する弄泥団もあり、弄精魂もあり」

大悟を「挙拈・抛却」する時には、「大悟を使い・大悟に使われる」十二時あり。と示されるが、「使得・被使」は能所の関係ではなく、「ただ同事也」とは『御抄』(「註解全書」四・四)に於ける経豪の言です。また「十二時」に対する著語を『聞書』(「同所」四四)の詮慧は、「今の十二時は諸法が実相を使得し、実相が諸法に被使得程也」と、単なる時間の範疇ではない事としての取り扱いである。

さらに挙拈や抛却と云う「関棙子」(関所のカンヌキ)を跳び出す時には、大悟は「弄泥団・弄精魂」つまり、泥の固まりや魂の精髄を弄ぶ事もあり。と説かれる要諦は、「大悟」と云う固定概念に縛られない為に、泥という俗悪な時も、又魂のような崇高な状態も「大悟」の平展を述べるものです。

「大悟より仏祖必ず恁麼現成する参学を究竟すと云えども、大悟の渾悟を仏祖とせるにはあらず、仏祖の渾仏祖を渾大悟なりとにはあらざるなり。仏祖は大悟の辺際を跳出し、大悟は仏祖より向上に跳出する面目なり」

ここで唱える「大悟」は先に説くように、諸法実相であり実相諸法に比定されますから、これまで述べるように、参学究竟すると云っても、大悟は只大悟であり仏祖は仏祖の領域を出跳するものではない事を説かんとするものです。

その表裏の関連性を「仏祖の渾仏祖は大悟には為り得ず」と説き、さらには仏祖と大悟の聯関性を「仏祖は大悟の辺際を跳出」し「大悟は仏祖より向上に跳出」する面目なり。とは、大悟と仏祖は相互に辺際・向上を跳出する。と云うわけですから、常に作用しながら平衡状態を保持し続ける尽十方界の様態を「大悟」と呼ばしめるものです。

 

しかあるに、人根に多般あり。いはく、生知。これは生じて生を透脱するなり。いはゆるは、生の初中後際に體究なり。いはく、學而知。これは學して自己を究竟す。いはゆるは、學の皮肉骨髓を體究するなり。いはく、佛知者あり。これは生知にあらず、學知にあらず。自佗の際を超越して、遮裏に無端なり、自佗知に無拘なり。いはく、無師知者あり。善知識によらず、經巻によらず、性によらず、相によらず、自を撥轉せず、佗を回互せざれども露堂々なり。これらの數般、ひとつを利と認じ、ふたつを鈍と認ぜざるなり。多般ともに多般の功業を現成するなり。しかあれば、いづれの情無情か生知にあらざらんと參學すべし。生知あれば生悟あり、生證明あり、生修行あり。しかあれば、佛祖すでに調御丈夫なる、これを生悟と稱じきたれり。悟を拈來せる生なるがゆゑにかくのごとし。參飽大悟する生悟なるべし。拈悟の學なるがゆゑにかくのごとし。しかあればすなはち、三界を拈じて大悟す、百草を拈じて大悟す、四大を拈じて大悟す、佛祖を拈じて大悟す、公案を拈じて大悟す。みなともに大悟を拈來して、さらに大悟するなり。その正當恁麼時は而今なり。

「しかあるに人根に多般あり。云く、生知。これは生じて生を透脱するなり。いわゆるは、生の初中後際に体究なり」

ここからは「大悟」に対する一般的認識としての四種の人間の器根を取り扱う。「生知」とは「生まれながらにして知る」の意であるが、『論語』李氏第十六―九「孔子日、之者上也。学而知之者次也。困而不学、民斯為不矣」(孔子いわく、生まれながらにして之を知る者は上なり。学にて之を知る者は次なり。困(くるし)みて之を学ぶは又其の次なり。困みて学ばざるは、民にして斯を下と為す)からの詞を抜き出したものですが、孔子が説く「上・次・下」のランクづけではなく「生の絶対性」を、「生を透脱し、生の全て(初中後際)に真実人体なるを以て究めることである」との認識です。

「云く、学而知。これは学して自己を究竟す。いわゆるは、学の皮肉骨髄を体究するなり」

ここも前出の孔子の言に基づき学んで自己を究竟するものですが、人間をカテゴライズする次と解釈するものではなく、学を尽十方界と位置づけることで「皮肉骨髄は浅深にあらざるなり」(「岩波文庫」㈡三六一)の言句の如くに、先と同様に孔子の学究とは別に「体究するなり」と、人体を駆使しての究竟を言究するは、道元道元由縁である。

「云く、仏知者あり。これは生知にあらず、学知にあらず。自他の際を超越して、遮裏に無端なり、自他知に無拘なり」

「仏知者」とは仏の知が実現され、仏の領域に住する者を指すが、この仏知者は前述の生知や学知は及びもつかず、自己他己をも超克し、仏知者の奥底は際限がなく(無端)、自他の知では捉えられない(無拘)とは、仏向上を旨とする全機現的発動を思わせる文章である。

「云く、無師知者あり。善知識によらず、経巻によらず、性によらず、相によらず、自を撥転せず、他を回互せざれども露堂々なり」

「無師知者」の類義語としては『法性』巻では「あるいは経巻にしたがひ、あるいは知識にしたがうて参学するに、無師独悟するなり」(「岩波文庫」㈢九四)と、無師知者と無師独悟は、別語に類せらるように思われがちですが同義語に定置させ、この「無師知者」は前三句と同様に「尽十方界真実人体なるべし」(「前掲同所」と前述の詮慧も語るものです。

ここで取り挙げられる「生知・学而知・仏知者・無師知者」は皮・肉・骨・髄を体究するものですから、「性・相によらず」「自他を撥転・回互せず」と、一つの事物に固執しない状況を説かんとするもので、その無師知者の在処では「露堂々」と真実が露われた事実を言うもので、これを巍々堂々とも尽界堂々とも表現し得るものです。

「これらの数般、ひとつを利と認じ、ふたつを鈍と認ぜざるなり。多般ともに多般の功業を現成するなり」

これまで述べてきた生知・学而知・仏知者・無師知者のいづれかを利、片方を鈍などとの比較の世界は認めず、みな(多般)それぞれが、それぞれの役割(功業)を現成しているのである。と言うことで、改めて俗論で云う処の「大悟」の言説を打破するのである。

「しかあれば、いづれの情無情か生知にあらざらんと参学すべし。生知あれば生悟あり、生証明あり、生修行あり」

すべての功業が現成しているわけであるから、どんな有情や無情も「生知」という生の絶対性からから逃れられるものではないと、参究学道しなさい。と提示し、「生知」という言句があるなら「生悟・生証明・生修行」との言態もあり得る。と、生知に代替するものは無尽の言辞があるとの示唆です。つまりは真実実相態は無限の事物・事象を指示するわけですから。

「しかあれば、仏祖すでに調御丈夫なる、これを生悟と称じきたれり。悟を拈来せる生なるが故にかくの如し。参飽大悟する生悟なるべし。拈悟の学なるが故にかくの如し」

そうなると、仏祖は仏の十の名号の一つである調御丈夫(purisa damma sarathi)と言われる時を、生を透脱する「生悟」と称ずるのである。次いで「悟を拈来せる生なるが故に」調御丈夫の名を冠しますが、調御丈夫以外の如来でも応供(阿羅漢)であっても何ら障りはありません。「参飽大悟」とは全機の生を言うものであり、「拈悟の学」とは「悟を拈来せる生」の繰り返しで、「生知」=「生悟」を導き出す為の言い回しのようです。

「しかあれば即ち、三界を拈じて大悟す、百草を拈じて大悟す、四大を拈じて大悟す、仏祖を拈じて大悟す、公案を拈じて大悟す。皆ともに大悟を拈来して、さらに大悟するなり。その正当恁麼時は而今なり」

「大悟」序文に於ける結語として、生悟(生きて悟りを透脱する)を実修実証するには、「三界(欲・色・無色)・百草(尽地)・四大(地・水・火・風)・仏祖(実相態の総称)・公案(眼前現成)」などを拈じて大悟する。とは、尽十方界に於ける事物・事象、そのままが「大悟」である。との意であり、三界や百草などが大悟が大悟し、まさに其の時(正当恁麼時」とは現実の而今に於いて大悟が大悟し続ける事実を言わんとするものですが、別の表現法では向上態の実修実証とも、又は常に生滅を繰り返し、生命の恒常性を維持し続ける動的平衡態を「大悟」と称し得るものです。

 

    一

臨濟院慧照大師云、大唐國裏、覓一人不悟者難得。いま慧照大師の道取するところ、正脈しきたれる皮肉骨髓なり、不是あるべからず。大唐國裏といふは自己眼睛裏なり。盡界にかゝはれず、塵刹にとゞまらず。遮裏に不悟者の一人をもとむるに難得なり。自己の昨自己も不悟者にあらず、佗己の今自己も不悟者にあらず。山人水人の古今、もとめて不悟を要するにいまだえざるべし。學人かくのごとく臨濟の道を參學せん、虚度光陰なるべからず。しかもかくのごとくなりといへども、さらに祖宗の懷業を參學すべし。いはく、しばらく臨濟に問すべし、不悟者難得のみをしりて、悟者難得をしらずは、未足爲足なり。不悟者難得をも參究せるといひがたし。たとひ一人の不悟者をもとむるには難得なりとも、半人の不悟者ありて面目雍容、魏々堂々なる、相見しきたるやいまだしや。たとひ大唐國裏に一人の不悟者をもとむるに難得なるを究竟とすることなかれ。一人半人のなかに兩三箇の大唐國をもとめこゝろみるべし。難得なりや、難得にあらずや。この眼目をそなへんとき、參飽の佛祖なりとゆるすべし。

臨済義玄(―866)に対する拈提・評著ですが、酷評とまでは言わなくとも手厳しい評価を下されます。

臨済院慧照大師云、大唐国裏、覓一人不悟者難得。いま慧照大師の道取する処、正脈し来たれる皮肉骨髄なり、不是あるべからず。大唐国裏と云うは自己眼睛裏なり。尽界に関われず、塵刹に留まらず」

本則に掲げる話頭の出典籍をSAT(「大正新脩大蔵経」テキストデータベース)やCBETA(「卍続蔵経」テキストデータベース)などを駆使しても「大唐国裏、覓一人不悟者難得」には該当する文体は見当たらず、類似するものとして「済云、打破大唐国覓箇不会人難得」(「続蔵」七九・九四下)が挙げられますが、これは臨済の法脈を嗣ぐ興化存奨(830―888)が臨済との初相見での臨済の「有事相借問、得麽」に対する存奨の「新戒不会」に対する「不会人」となるものを、道元流に「不悟者」に改変し「」は「一人」に改めての本則採用に供したものです。

ここで義玄和尚の云う「大唐国の中では、一人の不悟者を覓めようにも得難い」との意味する処は、達磨大師からの仏法が正しく脈動する生身の皮肉骨髄であり、正しくない(不是)はずはないのである。

「大唐国裏」と云うと、如何にも広大な敷地面積を想い浮かべるが、仏法の勘所は、遠大な理法を唱えるものではなく、「自己眼睛裏」つまり己自身が大唐国と地続きである。と提示されるもので、最大限の尽十方界とは関係なく、また最小限の塵刹に限定されるものでもない。との事ですが、詮慧和尚が提示するは「大唐国」=「眼睛・尽界・塵刹」(「註解全書」四・四五)と説いて居られます。

「遮裏に不悟者の一人を求むるに難得なり。自己の昨自己も不悟者にあらず、他己の今自己も不悟者にあらず。山人水人の古今、求めて不悟を要するに未だ得ざるべし。学人かくの如く臨済の道を参学せん、虚度光陰なるべからず」

遮裏(眼睛裏)には不悟者は一人もなし。とは、尽界に於ける諸法は真実相である為、不悟者なるは実在せず。との意に解釈するものである。

「自己」↔「他己」・「昨」↔「今」と対比的に示されますが、謂わんとする主意は「不悟者でない者はない」。つまりは「公案を額に懸げて疑いを持てば悟りが来る」(「註解全書」四・一一)などと囃し立てる族とは違い、「生知に学人」ならば自他を超越し不悟者にあらざる由縁である。

その自己・他己を具体的に示すならば、「山人」(山辺の樵夫)や「水人」(水辺の漁夫)たちの昔(古)から現在(今)に至るまで、不悟者を探し求めても得られないのである。と「山人・水人」に限定するのは、「不悟者の一人を求むるに難得なり」を承けてのものですから、山人水人を「山水の古今」云々と提示するも可能と考えられる。

学人(修行者)は、自他を超克し自他知に無拘とする臨済の語言(道)を参随学道するならば、「虚しく光陰を度る」ことにはならないはずである。と臨済を一旦は讃ずる著語としますが、次には一転して臨済の仏法に対する舌足らずを晒す格好です。

「しかもかくの如くなりと云えども、さらに祖宗の懷業を参学すべし。云く、しばらく臨済に問すべし、不悟者難得のみを知りて、悟者難得を知らずは、未足為足なり。不悟者難得をも参究せると云い難し。たとい一人の不悟者を求むるには難得なりとも、半人の不悟者ありて面目雍容、魏々堂々なる、相見し来たるや未だしや」

臨済の言は立派ではあるが、さらに先輩方(祖宗)の懷業(意業・祖宗深密の意旨を云うもの)を参学究明すべきである。と臨済に提言されます。

さて、これから臨済に対する苦言に入りますが、「しばらく臨済に問すべし」と、聴聞する人天大衆に仮託させる弁法にて語られる述法は、興聖寺に於ける「草案本」では設定されない説き方で、吉峰における学道人と面前する様子が窺われる筆法です。

臨済に問い質すべき事項は、「不悟者難得」を説くは善しとするが、これでは紙の表面だけを述べたと同じで、同時に「悟者難得」をも説いてやらなければ、新到の興化存奨には老婆心切はなく、自身の「未足為足」に停留する臨済の不徹底さを「不悟者難得をも参究せると言い難し」と論述するものです。

「不悟者・悟者難得」に続けて「一人・半人の不悟者」の考察ですが、たとえ成人に満たない「半人の不悟者」であっても其の面目は雍容と和らぎ、魏々堂々たる荘厳なる「半人の不悟者」に「相見したるや未だないか」と臨済和尚に詰問してみなさい。と観音導利雲衲に問い掛けるものですが、筆者もここで道元和尚に問い掛けをしてみよう。

本則で取り扱われた詳細は、『聯灯会要』十に於ける「鎮州臨済義玄禅師法嗣」者の保寿(6)三聖(11)大覚(2)に続けて興化存奨(11)に於ける11則の問答集の内の則であるが、一方『景徳伝灯録』に収録される「鎮州臨済慧照禅師語録」に於ける上堂では「僧問、祗如石室行者、踏碓忘却移脚―略―一切時中、莫乱斟酌。会与不会都来是錯。分明与麼道。一任天下人貶剥。久立珍重」(僧問う、祗だ石室行者(善道)の碓を踏んで脚を移すを忘却せるが如きは―略―一切の時の中、乱りに斟酌する莫れ。会と不会と、都来(すべ)て是れ錯。分明に与麼に道う。天下の人のするに一任す。久立珍重す)(「大正蔵」四七・四九七上)と、このように「会・不会」ともに取り挙げられる事例は眼中に無かったの歟。更に問うなら、「臨済・徳山」などによる棒喝接化法を嫌い、また「眼蔵」著述に於いても『仏経』巻では臨済の言動を、黄檗の仏法は臨済ひとり相伝せりと思い、黄檗にも勝れたりと思う」ような驕慢さを嫌い、続けて「臨済には勝師の志気なく、過師の言句聞こえず、上々の機にあらず」(「岩波文庫」㈢八四)と評されるを勘案するに、臨済の評著は結論ありきの感を懐くものです。

「たとい大唐国裏に一人の不悟者を覓むるに難得なるを究竟とする事なかれ。一人半人の中に両三箇の大唐国を試みるべし。難得なりや、難得にあらずや。この眼目を備えん時、参飽の仏祖なりと許すべし」

先述は「しばらく臨済に問すべし」と立地聴する山内衆に問い掛ける形を見せ、筆者も其の場に参随する様態を試みましたが、ここでは道元直言による臨済の不徹底ぶりを、「大唐国裏に一人の不悟者を覓むるに難得」する態度で満足して参堂去などとなどと云うこと勿れ。と不徹底を説き、次いで「一箇の大唐国=一人」を倒置法的に「半人一人=二・三箇の大唐国」をも参究すべし。との不徹底ぶりを説き、このように極大極小に及んで仏法の眼目を備える時、参飽する仏祖の列席に臨済和尚も参随するをゆるしてやろう。との徹底した仏法観を示される拈提となりました。

 

    二

京兆華嚴寺寶智大師(嗣洞山、諱休靜)、因僧問、大悟底人却迷時如何。師云、破鏡不重照、落花難上樹。いまの問處は、問處なりといへども示衆のごとし。華嚴の會にあらざれば開演せず、洞山の嫡子にあらざれば加被すべからず。まことにこれ參飽佛祖の方席なるべし。いはゆる大悟底人は、もとより大悟なりとにはあらず、餘外に大悟してたくはふるにあらず。大悟は公界におけるを、末上の老年に相見するにあらず。自己より強爲して牽挽出來するにあらざれども、かならず大悟するなり。不迷なるを大悟とするにあらず、大悟の種草のためにはじめて迷者とならんと擬すべきにもあらず。大悟人さらに大悟す、大迷人さらに大悟す。大悟人あるがごとく、大悟佛あり、大悟地水火風空あり、大悟露柱燈籠あり。いまは大悟底人と問取するなり。大悟底人卻迷時如何の問取、まことに問取すべきを問取するなり。華嚴きらはず、叢席に慕古す、佛祖の勲業なるべきなり。しばらく功夫すべし、大悟底人の卻迷は、不悟底人と一等なるべしや。大悟底人卻迷の時節は、大悟を拈來して迷を造作するか。佗那裏より迷を拈來して、大悟を蓋覆して卻迷するか。また大悟底人は一人にして大悟をやぶらずといへども、さらに卻迷を參ずるか。また大悟底人の卻迷といふは、さらに一枚の大悟を拈來するを卻迷とするかと、かたがた參究すべきなり。また大悟也一隻手なり、卻迷也一隻手なるか。いかやうにても、大悟底人の卻迷ありと聽取するを、參來の究徹なりとしるべし。卻迷を親曾ならしむる大悟ありとしるべきなり。しかあれば、認賊爲子を卻迷とするにあらず、認子爲賊を卻迷とするにあらず。大悟は認賊爲賊なるべし、卻迷は認子爲子なり。多處添些子を大悟とす。少處減些子、これ卻迷なり。しかあれば、卻迷者を摸著して把定了に大悟底人に相逢すべし。而今の自己、これ卻迷なるか、不迷なるか、撿點將來すべし。これを參見佛祖とす。

章が変わり二番手に取り挙げられるは、五代後唐の初代皇帝荘宗・李存勗(923―926在位)からの信任を得た華厳休静(生没不詳)であるが、『景徳伝灯録』によると洞山良价法嗣者二十六人の中、五番目に立位される人物です。

「京兆華厳寺宝智大師(嗣洞山、諱休静)、因僧問、大悟底人却迷時如何。師云、破鏡不重照、落花難上樹。いまの問処は、問処なりと云えども示衆の如し。華厳の会にあらざれば開演せず、洞山の嫡子にあらざれば加被すべからず。誠にこれ参飽仏祖の方席なるべし」

本則出典は『景徳伝灯録』十七「問大悟底人為什麼却迷。師曰、破鏡不重照、落華難上」(「大正蔵」五一・三三八上)で少々の異同はありますが、『永平広録』では最晩年(五一三則)の上堂にて当則が提示されます。なお「京兆」は唐代に存在した郡名で、内陸の陝西省西安市一帯を指す。

僧が問う質問は示衆説法のようだ。とは、問処は答処の如しを云うものです。謂う所は「如何」の取り扱い方を尽十方界にまで拡大解釈することで、大悟底に人は如何なる状況・状態でも有り得るを「問処は示衆の如し」の語法に繋がるものです。

以下は華厳休静の道場であればこそ開演され、それは洞山の法を嗣いだ嫡子であったからで、このような僧伽の様態を「参飽仏祖の方席」と評されるわけですが、これは前述臨済章での「参飽の仏祖」を承けるもので、臨済には許さず宝智には方席を与える。と両人を評するものです。

『草案本』に於ける当該部は、「この道理しづかに悟取すべし、百億身を究尽しても悟取し、換面回しても悟取し、十千界を経歴しても悟取すべし。直取万年にも悟取すべし、一念にも悟取し、毫忽地にも悟取すべし。しばらく師の宗旨の・・・と摸索せんとするに、先より摸索すべき僧問あり。そのこころは、問話僧は、飽参叢林の雲衲なるべし」と、この問話僧には「飽参叢林の雲衲」との言い分は、臨済との比分を与えるもののようです。

「いわゆる大悟底人は、もとより大悟なりとにはあらず、余外に大悟して蓄えうるにあらず。大悟は公界に於けるを、末上の老年に相見するにあらず。自己より強為して牽挽出来するにあらざれども、必ず大悟するなり。不迷なるを大悟とするにあらず、大悟の種草の為に始めて迷者とならんと擬すべきにもあらず」

この文章は迷悟を概念化せず、大悟と迷者の無差別を言わんとするもので、比較的平易に示されるものです。

大悟に徹した人(大悟底人)は、生まれつき大悟ではなく、別世界(余外)にて大悟を蓄悟したのでもない。また大悟は法堂や僧堂などの公の場(公界)に在るのに、後(末上)の年老いた老年に、大悟と相見するようなものでもない。

自己の中から無理(強為)に引っ張り出す(牽挽出来)ようなものではなく、必然的に大悟するのである(自然無為)。迷わない(不迷)と言うのを大悟とするのではなく、「大悟」という収穫(種草)の為に、改めて迷者になろうとするようなものでもないのである。と説き示されますが、看話禅主流の考えに親しんできた参集する学人には、悟る悟らぬの関係性からのパラダイム転換する論述と思われます。

「大悟人さらに大悟す、大迷人さらに大悟す。大悟人あるが如く、大悟仏あり、大悟地水火風空あり、大悟露柱燈籠あり。今は大悟底人と問取するなり。大悟底人却迷時如何の問取、まことに問取すべきを問取するなり。華厳嫌わず、叢席に慕古す、仏祖の勲業なるべきなり」

このあたりから大悟(人)についての具象例を挙げ、「大悟」の抽象概念から「大悟」=「尽界」を解き明かされます。

「大悟人・大迷人さらに大悟す」は、仏向上事の如く、常に真実尽界を維持し続けるような状況です。大悟人が在るわけですから、「大悟仏・大悟地水火風空・大悟露柱燈籠」が在っても、何ら支障はありません。「大悟」は「真実尽界」と先ほど注解するように、仏は尽界であり地水火風空も世界を構成する尽界であり、露柱燈籠は日常の尽界ですから整合性は適います。

この華厳会では、「真実尽界」を「大悟底人」とするのである。僧が宝智に問うた「大悟底人却迷時如何」を讃じ、同時に華厳は嫌わず。とは師資相承の啐啄同期を表体するもので、「叢席に慕古し、仏祖の勲業」は拈提当初の「参飽仏祖の方席」の対語としての文体構造です。

「しばらく功夫すべし、大悟底人の却迷は、不悟底人と一等なるべしや。大悟底人却迷の時節は、大悟を拈来して迷を造作するか。佗那裏より迷を拈来して、大悟を蓋覆して却迷するか。また大悟底人は一人にして大悟を破らずと云えども、さらに却迷を参ずるか。また大悟底人の却迷と云うは、さらに一枚の大悟を拈来するを却迷とするかと、かたがた参究すべきなり。また大悟也一隻手なり、却迷也一隻手なるか。如何ようにても、大悟底人の却迷ありと聴取するを、参来の究徹なりと知るべし。却迷を親曾ならしむる大悟ありと知るべきなり」

「しばらく功夫すべし」とは、これより更なる拈提を提示してみよう。との意気込みのある語調のようで、五問の問処を示されます。

先ずは「大悟底人と不悟底人の却迷は一等(同等)なるべし」。に対しては、「一等なるべし」と心得るべきを此のような問いの形式で表現します。二問目は「大悟をもって来て迷を造作する」については、迷と悟の同体・同等性を述べているわけですから、「迷を造作するも含意」されるものです。三問目に「佗那裏より迷を拈来して、大悟を蓋覆して却迷する」の場合では、悟と迷は無差別物の同等性を具有するものですが、迷が大悟を覆う時は迷のみで「大悟は迷に蓋覆される」義を謂うものです。次に四問目の「大悟底人は却迷を参ずる」では、大悟人も却迷の時節に到れば「却迷に参ずる」との意である。最後に五問目「大悟底人の却迷は、大悟の拈来を却迷とする」とは、単に「迷・悟・却」の同等・同期・同体の道理を説かんとするもので、つまりは「大悟底人」=「却迷」を無尽の言語の一端で以て説き明かさんとするものです。「○○か・△△か」の用例は疑問詞ではなく、参隋の学人への問い掛けで「多方面(かたがた)から参究すべき」なり。との老婆親切と受け取るべき提示です。

さらなる「大悟」と「却迷」の勝劣ない同時同等性を、「大悟也一隻手、却迷也一隻手なる」と、かを以ての先ほど同様問い掛けの形式ですが、大悟・迷悟の差異は右手と左手の違いの如くか。と考えれば「か」は単なる助字と考えても良さそうです。

これまで聴聞するように、大悟底人の却迷は実際に参じ来たることで究明徹底と認識すべきで、そこでは却迷を大悟と対比させるものではなく、却迷を大悟同様に親しいものとする「大悟ありと知るべきなり」と、丁寧に大悟と却迷の関係性を説き明かされます。

「しかあれば、認賊為子を却迷とするにあらず、認子為賊を却迷とするにあらず。大悟は認賊為賊なるべし、却迷は認子為子なり。多処添些子を大悟とす。少処減些子、これ却迷なり。しかあれば、却迷者を摸著して把定了に大悟底人に相逢すべし。而今の自己、これ却迷なるか、不迷なるか、撿点将来すべし。これを参見仏祖とす」

続いて「賊」を迷い、「子は自己の真実。に喩えての「大悟・却迷」の聯関を再度拈じられます。

「認賊為子」とは賊(六塵)を認め子(真実人)とするのであるが、これは却迷ではなく、逆に「認子為賊」(真実人(子)を認め迷い(賊)とする。これも却迷と云うのではない。つまりは、賊と子の能作所作の関係では、仏道の説き方とは認められないと。

「大悟」の説き方としては「認賊為賊」、「却迷」は「認子為子」と言うことは、賊は賊のまま子は子に為りきる事が、「大悟」=「却迷」であると提示するものです。

別な表現で大悟とは「多処添些子」(多い処には物を添え)、却迷は「少処減些子」(少なき処には物を減ず)と示されますが、謂うなれば多処添些子は『現成公案』巻(「岩波文庫」㈠五四)にて示される「悟上得悟」、少処減些子は「迷中又迷」と云い替え可能ですが、経豪和尚の言説では「多は多にて通り、少は少にて斫(はつ)る也、是を大悟却迷に当てたる也。これ則ち大悟は大悟にて尽法なり、却迷は却迷にて尽法界義也。只一筋にて混じる物なき道理を明かさるる也(「註解全書」四・二六)と、大悟却迷の尽法界に於ける同体・等時性を示唆されます。

そこで今一度「却迷」と「大悟底人」との関わり具合を撿点してみるに、却迷者を模索して捉えてみると、そこには却迷人ではなく大悟底人に相逢する。とは、まるで電磁場に於ける素粒子の振る舞いにも似た様態ですが、却迷者であろうが大悟底人と謂うも、はたまたの電子であってもの電子であろうが尽法界(電磁場)では真実の顕出を云うものです。

仏祖に参見する学道人ならば、今の真実人ならば、今の真実人である自己は、「却迷か不迷」かを点検し将来しなさい。と、本則である「大悟底人却迷時如何」に対する拈提を終らせます。

師云、破鏡不重照、落花難上樹。この示衆は、破鏡の正當恁麼時を道取するなり。しかあるを、未破鏡の時節にこゝろをつかはして、しかも破鏡のことばを參學するは不是なり。いま華嚴道の破鏡不重照、落花難上樹の宗旨は、大悟底人不重照といひ、大悟底人難上樹といひて、大悟底人さらに卻迷せずと道取すると會取しつべし。しかあれども、恁麼の參學にあらず。人のおもふがごとくならば、大悟底人家常如何とら問取すべし。これを答話せんに、有卻迷時とらいはん。而今の因縁、しかにはあらず。大悟底人、卻迷時、如何と問取するがゆゑに、正當卻迷時を未審するなり。恁麼時節の道取現成は、破鏡不重照なり、落花難上樹なり。落花のまさしく落花なるときは、百尺の竿頭に昇晋するとも、なほこれ落花なり。破鏡の正當破鏡なるゆゑに、そこばくの活計見成すれども、おなじくこれ不重照の照なるべし。破鏡と道取し落花と道取する宗旨を拈來して、大悟底人卻迷時の時節を參取すべきなり。これは、大悟は作佛のごとし、卻迷は衆生のごとし。還作衆生といひ、從本垂迹とらいふがごとく學すべきにはあらざるなり。かれは大覺をやぶりて衆生となるがごとくいふ。これは大悟やぶるゝといはず、大悟うせぬるといはず、迷きたるといはざるなり。かれらにひとしむべからず。まことに大悟無端なり、卻迷無端なり。大悟を罣礙する迷あらず。大悟三枚を拈來して、少迷半枚をつくるなり。こゝをもて、雪山の雪山のために大悟するあり、木石は木石をかりて大悟す。諸佛の大悟は衆生のために大悟す、衆生の大悟は諸佛の大悟を大悟す、前後にかゝはれざるべし。而今の大悟は、自己にあらず佗己にあらず、きたるにあらざれども填溝塞壑なり。さるにあらざれども切忌隨佗覓なり。なにとしてか恁麼なる。いはゆる隨佗去なり。

次いで華厳休静宝智大師による本則拈提に入ります。

「師云、破鏡不重照、落花難上樹。この示衆は、破鏡の正当恁麼時を道取するなり。しかあるを、未破鏡の時節に心を遣わして、しかも破鏡のことばを参学するは不是なり」

本則答話。初めの拈提として、休静は「破鏡」つまり壊れた鏡の、まさにそのとき(正当恁麼時)を問うに、我々の心底には破鏡は差て置き、「未破鏡」つまりは、世間の常識に比重を置いて物事を考える常態を、「未破鏡に心を遣わし、破鏡を参学するは」不是なり。と、相対的・主客的見方を誡めるもので、詮慧和尚の言い分では「不対縁而照と云うが如し」(「註解全書」四・四六)と註解し、破鏡・未破鏡ではなく、「ただ不重照なるべし」に気を巡らせと説かれる次第です。

「いま華厳道の破鏡不重照、落花難上樹の宗旨は、大悟底人不重照と云い、大悟底人難上樹と云いて、大悟底人さらに却迷せずと道取すると会取しつべし。しかあれども、恁麼の参学にあらず。人の思うが如くならば、大悟底人家常如何とら問取すべし。これを答話せんに、有却迷時とらいはん。而今の因縁、しかにはあらず。大悟底人、却迷時、如何と問取するが故に、正当却迷時を未審するなり」

あらためて華厳休静の答話である「破鏡不重照、落花難上樹」を普段に考える(宗旨)と、大悟底人は不重照であり、大悟底人は難上樹と思い、大悟底の人は決して却迷などしない。と理解しがちであるが、このように参随学道するものではない。

常識的な問話ならば「大悟底人家常如何」とら(「とら」の用例は当巻のほかに「古鏡」「授記」「春秋」「眼睛」の各提唱に於いての用例がある)と問うはずである。これに対する答話として「有却迷時」とら云わん(は添え辞で、とでもの意)。とでも謂う所ですが、いま問題とする「大悟底人・却迷時・如何」の因縁(話則)は前述のような一般解釈を問うものではなく、単に「却って迷う時」(却迷時)を問題(未審)としているのである。

「恁麼時節の道取現成は、破鏡不重照なり、落花難上樹なり。落花のまさしく落花なる時は、百尺の竿頭に昇晋するとも、猶これ落花なり。破鏡の正当破鏡なる故に、そこばくの活計見成すれども、同じくこれ不重照の照なるべし。破鏡と道取し落花と道取する宗旨を拈来して、大悟底人却迷時の時節を参取すべきなり」

「大悟底人却迷時如何」に対し道取する現実成果は「破鏡不重照・落花難上樹」と答えようしか云い様がない事実を「恁麼時節の道取現成」と言明するものです。落花の時節には尽界皆落花であり、百尺(30m)の竿の先まで昇ってみても、猶これ落花なり。との意を「落花と談ずる時は落花ならぬ所なく、破鏡と談ずる時は破鏡の外なる物なき所」(「註解全書」四・三二)と経豪和尚は示されるが、「大悟」とは枝から落ちた花を樹上に昇らせる芸当ではなく、自然現象を受け入れる常態を「大悟」と位置づけるものです。

割れた鏡はいつまで経っても割れたままで、いくら多くのハタラキが見(現)成したとしても、「不重照の照」には何ら変わらないのである。とは再度謂うなら、壊れた鏡では期待する影像は映じられないが、「二度と照らさない」という「照」の見成は在る事実を謂わんとするものです。

あらためて「破鏡・落花」と「大悟底人却迷時」との聯関の「時節を参取せよ」とする時節の意は事実と読み替えることで、破鏡・落花の事実と大悟底人却迷時の事実の現成道取を参じてみるべきである。と同態・同時を言わんとする拈提のようです。

「これは、大悟は作仏の如し、却迷は衆生の如し。還作衆生と云い、従本垂迹とら云うが如く学すべきにはあらざるなり。かれは大覚を破りて衆生となるが如く云う。これは大悟破るると云わず、大悟うせぬると云わず、迷きたると云わざるなり。かれらに等しむべからず」

いま一度「大悟」に対する看話禅的見方を挙げれば、「大悟」ー「作仏」・「却迷」―「衆生」の図式の如くに、又は「還作衆生」(還(は)たと衆生と作す)と云ったり、「従本垂迹」(本来の(仏)より迹を垂れる)などと(とら)学すべきではない。と額に公案問答を掲げて、仏から衆生に変身したり衆生より仏に化身するような、主客分立的見方は「学すべきにはあらざるなり」との忠言とも見立てられます。

凡俗な彼らの考える「大悟底の人が却迷する時」は、大いなる覚りを破棄して衆生と成るようなものだと云い、「大覚(大悟)」→「衆生」に降下するを却迷と合点するだけで、「大悟が破れた・失くなった・迷いが来た」とは云わない彼らとは、同等であってはならないのである。と繰り返しの忠言となります。

「まことに大悟無端なり、却迷無端なり。大悟を罣礙する迷あらず。大悟三枚を拈来して、少迷半枚を作るなり。ここをもて、雪山の雪山の為に大悟するあり、木石は木石を借りて大悟す。諸仏の大悟は衆生の為に大悟す、衆生の大悟は諸仏の大悟を大悟す、前後に拘われざるべし。而今の大悟は、自己にあらず佗己にあらず、来たるにあらざれども填溝塞壑なり。去るにあらざれども切忌随佗覓なり。何としてか恁麼なる。いわゆる随佗去なり」

「大悟・却迷」の無辺際の道理を、「大悟を邪魔(罣礙)する迷いはなく、大悟を以て少迷を作る」とは、大悟と却迷の等価を説くわけで、大悟・却迷の具体事例は尽界なる事物・事象を指すから「大悟・却迷端なり」と辺際なきを言うものです。

その大悟の一事例として、「雪山・木石はそれぞれに雪山の為に、木石の姿を借りて大悟する」とは、謂うなれば自然事物であるヒマラヤ(雪山)や木片・石ころなどの無情が「大悟」を現成していると。次に有情である「諸仏と衆生」との聯関は「諸仏の大悟は衆生の為、衆生の大悟は大悟の為」と。所謂は「諸仏と衆生」の等時・等同を説かんとするもので、尽十方界在中では衆生→諸仏・諸仏→衆生の前後関係は解消し、時間のベクトルは衆生↔諸仏・諸仏=衆生とするを諸法実相の表徴態と捉えられます。

これまでは「大悟・却迷」の等時・等価を力説してきましたが、休静話則に於ける結句の拈提では、標題に於ける「大悟」を語られます。

今ここで説いている「大悟」とは自己・他己に対する「大悟」ではなく、元来「大悟」は尽界に充足したる姿態を「填溝塞壑」(溝(みぞ)も壑(たに)も大悟で填塞)と表現し、または「切忌随佗覓」(切に随佗で覓むを忌む)を、それぞれ「去来」にあらざれどもと註釈を加えられる拈提です。どうして恁麽(このよう)に言うかは、「随他去」つまり他は「大悟」を指し、大悟と共に去(ゆ)きなさい。との意味合いです。大悟は覓める対象ではなく、尽界に表出する現成の真実と歩むもの。との釈義と受けとれます。

当巻提唱の要処は此の華厳休静話則に在り、「大悟・却迷」重ねての著語を以て示される対象は、興聖寺後年より参随する達磨宗徒らの言動をも加味したものとも推察されるものである。

 

    三

京兆米胡和尚、令僧問仰山、今時人、還假悟否。仰山云、悟即不無、爭奈落第二頭何。僧廻擧似米胡。胡深肯之。いはくの今時は、人人の而今なり。令我念過去未來現在いく千萬なりとも、今時なり、而今なり。人人の分上は、かならず今時なり。あるいは眼睛を今時とせるあり、あるいは鼻孔を今時とせるあり。還假悟否。この道をしづかに參究して、胸襟にも換卻すべし、頂□(寧+頁)にも換卻すべし。近日大宋國禿子等いはく、悟道是本期。かくのごとくいひていたづらに待悟す。しかあれども、佛祖の光明にてらされざるがごとし。たゞ眞善知識に參取すべきを、懶惰にして蹉過するなり。古佛の出世にも度脱せざりぬべし。

「本巻」三則目本則話頭出典録は『宏智広録』二(「大正蔵」四八・二四上)となります。「京兆米胡和尚」(生没不詳)は潙山霊祐(771―853)法嗣者四十三人の内八位に列位(「大正蔵」五一・二八一中)し、筆頭は仰山慧寂(807―883)、ほかには香厳(―898)や霊雲(生没不詳)など錚々たる中での、米胡が僧を介しての兄弟子の仰山に問わしめた話則の形です。

「京兆米胡和尚、令僧問仰山、今時人、還仮悟否。仰山云、悟即不無、争奈落第二頭何。僧廻挙似米胡。胡深肯之」

「京兆」は前段での取り挙げた郡名で、内陸部の陝西省西安市一帯を指す。「米胡」は髯(ひげ)の米さん、とも呼ばれ『従容録』六二則には「京兆米禅師。一曰米七師。一曰米胡。俗

舍第七美髯。因有二名」(「大正蔵」四八・二六五下)と宏智の評唱が記される次第です。

僧をして仰山に問わしむ、今時の人は、還たとして悟りを仮るや否や。仰山が云うには、悟りは即ち無くはないが、第二頭に落つるを争奈何(いかん)とす。僧は(仰山より)廻(かえ)りて米胡に挙似す。胡は深く之を肯う。とするものですが、仰山が云う「第二頭に落つ」とは「悟」という対象を想定する事で、分別・能所と云った四句百非の論理の次元に落ち込む危惧を呈するものです。

「いわくの今時は、人々の而今なり。令我念過去未来現在いく千万なりとも、今時なり、而今なり。人々の分上は、必ず今時なり。或いは眼睛を今時とせるあり、或いは鼻孔を今時とせるあり」

僧が云う処の今時人の「今時」とは、各人の現成ならしめる今その時を「而今」と表明し、経文等では「令我念過去(『法華経』「五百弟子品」)未来現在」と三世に於いて無量の諸仏法を念(おも)うとするが、喩え宇宙創成のビッグバンから膨張する宇宙までを観測できたとしても(いく千万)、「今時・而今」の現在が令我念せしむるのである。詮慧による註釈書である『聞書』には「今時の人、又誰と指すべきにあらず、尽十方界真実人体の人なるべし」(「註解全書」四・四八)と、談義座に於いての指摘とも思われる考察が見受けられる(談義座については伊藤秀憲著「正法眼蔵研究ノート二」参照)。

人々(各人)の分上(面目)は必然的に「今の時」であり、人々を「眼睛・鼻孔」とも置換可能であり、同時に「而今時」とも換却し得るは尋常の手法となります。

「還仮悟否。この道を静かに参究して、胸襟にも換却すべし、頂□(寧+頁)にも換却すべし。近日大宋国禿子等いわく、悟道是本期。かくの如く云いていたづらに待悟す。しかあれども、仏祖の光明に照らされざるが如し。ただ真善知識に参取すべきを、懶惰にして蹉過するなり。古仏の出世にも度脱せざりぬべし」

米胡が僧に伝持した「還た悟を借るやいなや」という、この話をじっくりと参学究明することで、先に説いた眼睛・鼻孔を「胸襟・頂□(寧+頁)」とも換却して、人々の分上に備わる悟を自覚しなさい。との意味合いが含まれる言い用です。

論点が変わり遊学当時(1223―1227)の様子が語られます。「禿子」が云う処は「悟道是本期」と、悟りを待つ修行形態を述懐するものです。この謂い用は『永平広録』法語十一にも「諸宗坐禪゚待悟爲則―略―吾佛祖坐禪不然゚是乃佛行也」と示されます。また『草案本』では「天童如浄身心脱落話」の段を設け、「参禅者身心脱落也、不是待悟爲則」と提示されるを勘案すれば、在宋当時の看話禅者達による悟りだけを貪求する態度を𠮟するものです。

そうではあるが(しかあれども)、彼ら(禿子)には仏祖の恩情(光明)に照らされず、指導者(真善知識)に参学すべき処を、なまけ怠り(懶惰)すれちがう(蹉過)のであるから、古仏(真善知識)の出世時に於いても、悟道是本期と叫ぶ彼らには得度解脱できないのである。との辛辣な言句は、看話禅を母体とし義价を筆頭とする、波著の達磨宗徒に向けられた老婆心語と見るには穿ち過ぎた見方でしょうか。

本来ここに示された拈提部は、目的としての悟道を諫めるものであり、「草案本」にて提示された天童如浄言としての文意で以て、巻末に附すべき主旨とした方が、文の構成としてはメリハリが望めると思われる。

 

いまの還假悟否の道取は、さとりなしといはず、ありといはず、きたるといはず、かるやいなやといふ。今時人のさとりはいかにしてさとれるぞと道取せんがごとし。たとへば、さとりをうといはば、ひごろはなかりつるかとおぼゆ。さとりきたれりといはば、ひごろはそのさとり、いづれのところにありけるぞとおぼゆ。さとりになれりといはば、さとり、はじめありとおぼゆ。かくのごとくいはず、かくのごとくならずといへども、さとりのありやうをいふときに、さとりをかるやとはいふなり。しかあるを、さとりといふは、第二頭へおつるをいかんがすべきといひつれば、第二頭もさとりなりといふなり。第二頭といふは、さとりになりぬるといひや、さとりをうといひや、さとりきたれりといはんがごとし。なりぬといふも、きたれりといふも、さとりなりといふなり。しかあれば、第二頭におつることをいたみながら、第二頭をなからしむるがごとし。さとりのなれらん第二頭は、またまことの第二頭なりともおぼゆ。しかあれば、たとひ第二頭なりとも、たとひ百千頭なりとも、さとりなるべし。第二頭あれば、これよりかみに第一頭のあるをのこせるにはあらぬなり。たとへば、昨日のわれをわれとすれども、昨日はけふを第二人といはんがごとし。而今のさとり、昨日にあらずといはず、いまはじめたるにあらず、かくのごとく參取するなり。しかあれば、大悟頭黒なり、大悟頭白なり。

「今の仮悟否の道取は、悟り無しと云わず、有りと云わず、来たると云わず、かるやいなやと云う。今時人の悟りは如何にして覚れるぞと道取せんが如し」

これからが「還假悟否」「争奈落第二頭何」に対する拈提を語られますが、概して解し易く経豪などは「子細は別に無し」(「註解全書」四・二三)と『御抄』に示すほどです。

今問われる「還假悟否」で言わんとする処は、「悟りの有り無し」を言うのではなく、単に「悟りをかるやいなや」の語意を「今時人の悟りは如何にして了れるぞ」と言うようなものである。

「例えば、悟りを得と云わば、日頃は無かりつるかと覚ゆ。悟り来たれりと云わば、日頃はその悟り、何れの処に有りけるぞと覚ゆ。悟りになれりと云わば、さとり、始めありと覚ゆ。かくの如く云わず、かくの如くならずと云えども、悟りの有り様を云う時に、さとりをかるやとは云うなり」

具体的には、「悟りを得た」と言うと日頃は無かったのかと思われ、「悟りが来た」と言えば普段の悟りは何処に在ったかと云う事になる。「悟りに成れり」と言うならば悟りに初めが存在する事になる。しかしながら米胡の問いでは右のようには問わずに、「悟りのありようを問う時には、「さとりをかるや」としか言いようがないのである。と説明するように、ある物事を説明する時には「あり・なし」と規格化する事で、言語の限定化が作動し「する・される」といった能所的見方を生ずる為に、「さとりをかるや」と云った非限定化した言辞を用いる事で以てしか説明できない様態を説かんとするもので、如何恁麽などと通底する言語表体であります。

「しかあるを悟りと云うは、第二頭へ落つるを如何がすべきと云いつれば、第二頭も悟りなりと云うなり。第二頭と云うは、悟りに成りぬると云いや、悟りを得と云いや、悟り来たれりと云わんが如し。成りぬと云うも、来たれりと云うも、悟りなりと云うなり」

仰山が云う「一旦さとりを口にする事で、相対的な第二頭に落在する」に対する道元の著語は、対比せられた「第二頭」も尽界に包含する「悟」の実相態であるとの拈語です。仰山のいう「第二頭」とは、云ってみれば「悟りに成る・悟りを得る・悟りが来る」といった第二義的なものと策定されるものの、「成る・得る・来る」といった結果が「悟り」そのものである。といった思考です。喩えて云えば、人は幸せの祈願を求めて神社や寺院に参詣するが、境内・神域に入り得ること自体が健康である証しであり、幸せなのである。

「しかあれば、第二頭に落つる事を悼みながら、第二頭を成からしむるが如し。悟りの成れらん第二頭は、また真の第二頭なりとも覚ゆ。しかあれば、たとい第二頭なりとも、たとい百千頭なりとも、悟りなるべし。第二頭あれば、これより上に第一頭の有るを残せるにはあらぬなり。たとえば、昨日の我を吾とすれども、昨日は今日を第二人と云わんが如し。而今の悟り、昨日にあらずと云わず、今始めたるにあらず、かくの如く参取するなり。しかあれば、大悟頭黒なり、大悟頭白なり」

ひき続いて仰山による「悟即不無、争奈落第二頭何」の云い用では、「第二頭に落在するを嫌いながらも、第二頭を大悟に取り入れ第二頭は無い」と、言っているようなものである。と意訳するものですが、悟(第一月)と第二頭との関係性は分離するものではなく「ただ第一月のみあるべし」と詮慧が解する如くに会得すべきものです。

また第二頭が大悟に包接されるものならば、真(まこと)の第二頭とすれば、たとえ百千頭であっても「悟り」そのものである。第二頭と列位しても、前方に第一頭を列するものではなく、再三云うように「第一」は「第二」に相対視されるものではなく、あくまで方便宜的に第一・第二と呼称するものです。

次いで身近な喩えで以て昨日の私は今日のと同人とするが、昨日の私を第二人と策定するようなものである。さらには今日の悟りと昨日の悟りとは別物ではなく、今に始まった「悟り」(真実底)ではないのである。と大悟の実態を解き明かされますが所謂は、尽十方界の実相は大悟のみで、諸法を第二頭と云ったり昨日と定めたりと言語表詮し、このように(諸法は各別あるが、実相は大悟である)参学道取すべきであると。

結語として「大悟頭黒なり、大悟頭白なり」としますが、これは「蔵頭白・海頭黒」を捩ったものですが、この出典では馬祖→僧(祖師西来意)→智(頭痛)→懐(不会)馬祖(蔵頭白・海頭黒)とするものです。つまり大悟(実相)は黒(諸法)とも白(諸法)とも謂い含められ、諸法が真実の証しである。との提示と思われます。