正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵大修行

正法眼蔵 第六十八 大修行

一  

洪州百丈山大智禪師〈嗣馬祖、諱懷海〉、凡三次、有一老人、常隨衆聽法。大衆若退、老人亦退。忽一日不退。師遂問、面前立者、復是何人。老人對云、某甲是非人也、於過去迦葉佛時、曾住此山。因學人問、大修行底人、還落因果也無。某甲答佗云、不落因果。後五百生、墮野狐身。今請和尚代一轉語、貴脱野狐身。遂問云、大修行底人、還落因果也無 師云、不昧因果。老人於言下大悟。作禮云、某甲已脱野狐身、住在山後。敢告和尚、乞依亡僧事例。師令維那白槌告衆云、食後送亡僧。大衆言議、一衆皆安、涅槃堂又無病人、何故如是。食後只見、師領衆至山後岩下、以杖指出一死野狐。乃依法火葬。師至晩上堂、擧前因縁。黄蘗便問、古人錯對一轉語、墮五百生野狐身。轉々不錯、合作箇什麼。師云、近前來、與儞道。蘗遂近前、與師一掌。師拍手笑云、將爲胡鬚赤、更有赤鬚胡。

而今現成の公案、これ大修行なり。老人道のごときは、過去迦葉佛のとき、洪州百丈山あり。現在釋迦牟尼佛のとき、洪州百丈山あり。これ現成の一轉語なり。かくのごとくなりといへども、過去迦葉佛時の百丈山と、現在釋迦牟尼佛時の百丈山と、一にあらず異にあらず、前三々にあらず後三々にあらず。過去の百丈山きたりて而今の百丈山となれるにあらず、いまの百丈山さきだちて迦葉佛時の百丈山にあらざれども、曾住此山の公案あり。

この巻は因果論を説く為に「百丈野狐身」話頭を公案に据えての提唱ですが、この本則は十二巻本『深信因果』巻にも取り挙げられ、昔日来に渉り道元禅師因果変貌論とされた巻です。また『永平広録』にも四回(六十二則・仁治二年、九十四則・仁治三年、二百五則・寛元四年、五百十則・建長四年)と興聖寺時代から最晩年に渉り提示し続けた古則です。

而今現成の公案、これ大修行なり。老人道の如きは、過去迦葉仏の時、洪州百丈山あり。現在釈迦牟尼仏の時、洪州百丈山あり」

この巻の要旨は「而今現成の公案、これ大修行なり」の一語で言い尽くされる巻頭言です。

「現成の公案」とは現実の有り様を公案の名で言うもので、「公」には平等の意・「案」には守分の意が有りますから、現前の事象・事物が「大修行」なりと提言されます。

普段の我々の認識では迦葉仏時の過去と二千五百年前の釈尊の時代、現代の平成の時と区分して物事を思考しがちですが、道元禅師が説く「過去迦葉仏洪州百丈山、現在釈迦牟尼仏洪州百丈山」は現在から過去を見るのではなく、通時的視野からの洞察を言われるものです。

「これ現成の一転語なり。かくの如くなりと云えども、過去迦葉仏時の百丈山と、現在釈迦牟尼仏時の百丈山と、一にあらず異にあらず、前三々にあらず後三々にあらず」

「一転語」とは一語で以て翻身させる語義の事ですが、先に云う「過去迦葉仏洪州百丈山、現在釈迦牟尼仏百丈山」を同義語と見るか異義語と見るかの違いです。

また同じ百丈山でも全く同じとは云えず、また違うとも云えない喩えを、「前三々後三々にあらず」と決まり切ったものは無いとの拈語です。(前三々後三々については『真字正法眼蔵』中・二十七則参照)

「過去の百丈山来たりて而今の百丈山となれるにあらず、いまの百丈山さきだちて迦葉仏時の百丈山にあらざれども、曾住此山の公案あり」

文意は「因円果満」の理(因は果に、果は因に対立しない)を時間軸を例にして言うもので、「曾住此山」と言う絶対現成を「公案」に仕立てるものです。

爲學人道、それ今百丈の爲老人道のごとし。因學人問、それ今老人問のごとし。擧一不得擧二、放過一著、落在第二なり

「為学人道」・「因学人問」の設定は先程から云う、過去現在の洪州百丈山、一に非ず異に非ずを再三に渉り過去と現在の通底を言うものです。

「挙一不得挙二」は一ツを挙して二を挙するを得ず。「放過一著、落在第二なり」は一著を放過して第二に落在す。と読み、要は過去の話頭として見るのではなく、現今の事象として取り扱えば一なる同次元になり二はない事を、このような拈提になります。

 

過去學人問、過去百丈山の大修行底人、還落因果也無。

この問、まことに卒爾に容易會すべからず。そのゆゑは、後漢永平のなかに佛法東漸よりのち、梁代普通のなか、祖師西來ののち、はじめて老野狐の道より過去の學人問をきく。これよりさきはいまだあらざるところなり。しかあれば、まれにきくといふべし。

ここは文意に解し、「後漢永平」は明帝五十八年から七十五年のなかの永平十年(67)に摩騰伽、竺法蘭により仏法伝来を云い、「梁代普通」は梁(502―557)の普通(520―527)元年(520)に菩提達磨が渡海した事を指し、それ以前にはこのような「還落因果也無」の問いは無く、軽々に理解しては行けないとの拈提の緒言です。

大修行を摸得するに、これ大因果なり。この因果かならず圓因滿果なるがゆゑに、いまだかつて落不落の論あらず、昧不昧の道あらず。不落因果もしあやまりならば、不昧因果もあやまりなるべし。將錯就錯すといへども、墮野狐身あり、脱野狐身あり。不落因果たとひ迦葉佛時にはあやまりなりとも、釋迦佛時はあやまりにあらざる道理もあり。不昧因果たとひ現在釋迦佛のときは脱野狐身すとも、迦葉佛時しかあらざる道理も現成すべきなり。

これからが拈提の始まりで、「大修行を摸得」大修行を模索するに「これ大因果なり」とは因果の歴然性を云い、因果律は「円因満果」なる完全態である為、落不落・昧不昧の論述には及ばない。

「不落因果もし錯まりならば、不昧因果も錯まりなるべし。将錯就錯すと云えども、墮野狐身あり、脱野狐身あり」

これらは大因果の中での醪(もろみ)の泡状を云うもので、宇宙的真実底の渦中では、野狐に落ちる事も野狐から逃れる時も時事あるとの言底です。

「将錯就錯」は錯まりを以て錯まりに就くの意で、意訳すれば「すでに間違った事項を、状況に応じ上手に処理すること」と解し、物事は常に動的平衡性を維持し続けている為、完璧には云い尽くせませんから、常に威儀を行持し続ける状態を、道元禅師は「将錯就錯」の語で以て説明されるものです。

「不落因果たとい迦葉仏時には錯まりなりとも、釈迦仏時は錯まりにあらざる道理もあり。不昧因果たとい現在釈迦仏の時は脱野狐身すとも、迦葉仏時しかあらざる道理も現成すべきなり。」

先述からの繰り返しの言辞で、過去迦葉→不昧因果→錯≒現在釈迦→不昧因果→不錯の等式が成り立つわけです。『諸悪莫作』巻(延応二(1240)年八月十五日興聖寺示衆)にて説く「諸悪は此界の悪と他界の悪と同不同あり、天上の悪と人間の悪と同不同あり。善悪は時なり、時は善悪にあらず(「正法眼蔵」二・二三一・水野・岩波文庫)と通底される語義のようです。

 

    三

老人道の後五百生墮野狐身は、作麼生是墮野狐身。さきより野狐ありて先百丈をまねきおとさしむるにあらず。先百丈もとより野狐なるべからず。先百丈の精魂いでて野狐皮袋に撞入すといふは外道なり。野狐きたりて先百丈を呑卻すべからず。もし先百丈さらに野狐となるといはば、まづ脱先百丈身あるべし、のちに墮野狐身すべきなり。以百丈山換野狐身なるべからず。因果のいかでかしかあらん。

此の処では本則の「後五百生堕野狐身」と言う道元禅師の問いの設定に見えますが、先段からの拈語で察せられるように「堕」に限定された野狐身とも「換」と極言される野狐身とも、いづれもが「作麼生」であると認得する必要がありますが、その前提を踏まえての「先百丈」と「野狐」との関係性を外道観的考察から説かれ、因果の歴然性が説かれます。

因果の本有にあらず、始起にあらず、因果のいたづらなるありて人をまつことなし。たとひ不落因果の祗對たとひあやまれりとも、かならず野狐身に墮すべからず。學人の問著を錯對する業因によりて野狐身に墮すること必然ならば、近來ある臨濟徳山、およびかの門人等、いく千萬枚の野狐にか墮在せん。そのほか二三百年來の杜撰長老等、そこばくの野狐ならん。しかあれども、墮野狐せりときこえず。おほからば見聞にもあまるべきなり。あやまらずもあるらんといふつべしといへども、不落因果よりもはなはだしき胡亂答話のみおほし。佛法の邊におくべからざるもおほきなり。參學眼ありてしるべきなり、未具眼はわきまふべからず。

「因果」についての説明では、「本有」は本来有の略語で棒の如くに存するもの。「始起」は今から因果が始まると云った概念ではなく、また「因果」が人格性を備えて人間の面前に立ち、これより「因」の開始です。と云ったものが因果ではないと説かれます。

「たとい不落因果の祗対たとい錯まれりとも、必ず野狐身に墮すべからず」

人は「不落」の錯言で以て野狐身(悪)にと結びつける習癖を持ちますが、道元禅師が説く「不落因果」は「不落という状態での因果律」を説かんとするもので、悪言→野狐→堕落と云った理屈ではない事に留意する必要があります。

「学人の問著を錯対する業因によりて野狐身に墮すること必然ならば、近来ある臨済徳山、及びかの門人等、いく千万枚の野狐にか墮在せん。そのほか二三百年来の杜撰長老等、そこばくの野狐ならん」

ここは文言に適う文句ですが、臨済・徳山に対する不及の言は『即身是仏』巻(延応元(1239)年)・『葛藤』巻(寛元元(1243)年)・『仏道』巻(寛元元(1243)年九月十六日)・『密語』巻(寛元元(1243)九月二十日)・『無情説法』巻(寛元元(1243)年十月二日)と随処で酷評されますが、仏道・密語・無情説法の七十五巻配列は四十四・四十五・四十六と連関し、二週間の短期間での拈提と共通項の文体です。

因みに「学人問著錯対」の例としては『大悟』巻にて臨済義玄が説く「一人不悟者難得」に対し、「不悟者難得のみを知りて悟者難得を知らずは未足為足なり、参究せると云い難し」(「正法眼蔵」一・二一一・水野・岩波文庫)の拈提が念頭にあるものと思われます。

「しか有れども、墮野狐せりと聞こえず。多からば見聞にも余るべきなり。錯らずもあるらんと云うつべしと云えども、不落因果よりも甚だしき胡乱答話のみ多し。仏法の辺に置くべからざるも多きなり。参学眼ありて知るべきなり、未具眼はわきまうべからず」

此の処も前と同様文体で「胡乱」(うろん)とは「かりそめ・でたらめ・いい加減の意で、中国唐代の俗語」(『禅学大辞典』大修館書店)

 

しかあればしりぬ、あしく祗對するによりて野狐身となり、よく祗對するによりて野狐身とならずといふべからず。この因縁のなかに、脱野狐身ののち、いかなりといはず。さだめて破袋につゝめる眞珠あるべきなり。

これまでの繰言ですが、悪=畜生・善=人間とする視点では主客の分別が存するもので、仏法分別論では一つの固定した概念は設定しない為、野狐と真珠が同等視されるわけです。

 

    四

しかあるに、すべていまだ佛法を見聞せざるともがらいはく、野狐を脱しをはりぬれば、本覺の性海に歸するなり。迷妄によりてしばらく野狐に墮生すといへども、大悟すれば、野狐身はすでに本性に歸するなり。これは外道の本我にかへるといふ義なり、さらに佛法にあらず。もし野狐は本性にあらず、野狐に本覺なしといふは佛法にあらず。大悟すれば野狐身ははなれぬ、すてつるといはば、野狐の大悟にあらず、閑野狐あるべし。しかいふべからざるなり。

難解な文体ではないが、同様な文言が『辨道話』第十問答に於いても「生死を嘆く事なかれ、心性の常住なる理を知る也。この心性は滅する事なし、この身終わる時性海に入る。いたづらに閑坐して一生を過ごさん」(「正法眼蔵」一・三二・水野・岩波文庫)との見解を「全く仏法にあらず、先尼外道が見なり」と寛喜三(1231)年時点に於いても同様な提唱です。

今百丈の一轉語によりて、先百丈五百生の野狐たちまちに脱野狐すといふ、この道理あきらむべし。もし傍觀の一轉語すれば傍觀脱野狐身すといはば、從來のあひだ、山河大地いく一轉語となく、おほくの一轉語しきりなるべし。しかあれども、從來いまだ脱野狐身せず。いまの百丈の一轉語に脱野狐身す。これ疑殺古先なり。山河大地いまだ一轉語せずといはば、今百丈つひに開口のところなからん。

ここでは「傍観の一転語」がキーワードで、傍観は第三者つまり先百丈でも今百丈でもない第三者を「山河大地」に置き換えての拈提で、新しい拈提の展開です。『御抄』(「註解全書」八・四七五)では「山河大地の姿、是則一転語也」と読み込まれています。

「疑殺古先」の殺は、疑を強調する語で殺仏等と同義で、古先(先輩)たちも疑う事はなはだしと脱落―善悪と云うシェーマ(図式)を打論の拈語です。

 

    五

また往々の古徳、おほく不落不昧の道おなじく道是なるといふを競頭道とせり。しかあれども、いまだ不落不昧の語脈に體達せず。かるがゆゑに、墮野狐身の皮肉骨髓を參ぜず、脱野狐身の皮肉骨髓を參ぜず。頭正あらざれば尾正いまだし。

この処も今まで同様当時(宋留学時代)の世相を語るもので、「不落」が悪で「不昧」が善だとの各人が競って論じていたが、言葉尻だけの議論で、「大修行」に於いての不落不昧の語髄意を解していないから、「頭正尾正」の決めようがないとの意です。

老人道の後五百生墮野狐身、なにかこれ能墮、なにかこれ所墮なる。正當墮野狐身のとき、從來の盡界、いまいかなる形段かある。不落因果の語脈、なにとしてか五百枚なる。いま山後岩下の一條皮、那裏得來なりとかせん。不落因果の道は墮野狐身なり、不昧因果の聞は脱野狐身なり。墮脱ありといへども、なほこれ野狐の因果なり。

再び「後五百生野狐身」についての拈提で、「堕」についての考察で、「能堕」は主観的堕ですから、自から堕ちるの意で、「所堕」は客観的堕、他から堕とされると解され、「堕野狐身」の本体・本性は何かを参究してみよとの拈語です。

「正当堕野狐身の時、従来の尽界、今いかなる形段かある」

堕野狐身そのものが尽十方界と云う形である。との意ですが、正当脱野狐身の時、従来の尽界と置き換えても構わなく、堕野狐は全野狐・脱野狐も全野狐と云い換えらます。さらに「

後五百生堕野狐身」の原因を成した「不落因果」という因果律を無視したはずなのに、何故「五百枚(生)」の生まれ変わりが有ったのかとの提言です。

また「山の後方の岩の下の野狐の死骸は、那裏得末どこから来たか」との本則に対する拈語ですが、強豪和尚の解釈は「什麼物恁麼来と同程の言句で死野狐精が全皮なる道理」(「註解全書」八・四七八)との註解です。つまりは限定的な思惟を嫌う見方です。

「不落因果の道は堕野狐身なり、不昧因果の聞は脱野狐身なり。堕脱ありと云えども、なおこれ野狐の因果なり」

ここは第三段で説く「大修行を摸得するに、これ大因果なり。この因果必ず円因満果なるがゆえに、未だ曾て落不落の論あらず、昧不昧の道あらず」に通ずるものです。

 

    六

しかあるに、古來いはく、不落因果は撥無因果に相似の道なるがゆゑに墜墮すといふ。この道、その宗旨なし、くらき人のいふところなり。たとひ先百丈ちなみありて不落因果と道取すとも、大修行の瞞佗不得なるあり、撥無因果なるべからず。またいはく、不昧因果は、因果にくらからずといふは、大修行は超脱の因果なるがゆゑに脱野狐身すといふ。まことにこれ八九成の參學眼なり。しかありといへども、迦葉佛時、曾住此山。釋迦佛時、今住此山。曾身今身、日面月面。遮野狐精、現野狐精するなり。

「不落」と「撥無」は同じような語である為に両方とも錯の刻印で以て処理されるが、不落の現成・撥無の見成の宗旨が無理解の禅僧等を「暗き人」と拈語されます。

「たとい先百丈ちなみ(因)有りて不落因果と道取すとも、大修行の瞞佗不得なる有り、撥無因果なるべからず」

たとえば迦葉仏時の百丈がついでに不落因果と云ったとしても、大修行(大因果)の立場に於いては他(不落の因果)をだます事はなく、撥無因果と云う因果はないとする事とは違うとの意です。

「不昧因果は、因果にくらからずと云うは、大修行は超脱の因果なるが故に脱野狐身すと云う。まことにこれ八九成の参学眼なり」

次に不落因果に続いて「不昧因果」の説明で、前項と同様大修行(大因果)の超脱ですから「脱野狐」と云う論述は、ともに「大修行」という宇宙から地球を俯瞰した状況では、「不落」・「撥無」・「不昧」・「堕脱」と云った事柄は「大因果」に収斂されるとの意で、このことが「八九成の参学眼」と言う真実に近い表現をされたものです。真実は「什麼」という現成語でしか表明できない為に。

「しか有りと云えども、迦葉仏時、曾住此山。釈迦仏時、今住此山。曾身今身、日面月面。遮野狐精、現野狐精するなり」

一応の結論は過去と現在の各々の対比項目を述べて「遮野狐精、現野狐精するなり」と時処を超脱した、大修行・大因果の在り方を説く拈提です。

 

    七

野狐いかにしてか五百生の生をしらん。もし野狐の知をもちゐて五百生をしるといはば、野狐の知、いまだ一生の事を盡知せず、一生いまだ野狐皮に撞入するにあらず。野狐はかならず五百生の墮を知取する公案現成するなり。一生の生を盡知せず、しることあり、しらざることあり。もし身知ともに生滅せずは、五百生を算數すべからず。算數することあたはずは、五百生の言、それ虚説なるべし。もし野狐の知にあらざる知をもちゐてしるといはば、野狐のしるにあらず。たれ人か野狐のためにこれを代知せん。知不知の通路すべてなくは、

墮野狐身といふべからず。墮野狐身せずは脱野狐身あるべからず、墮脱ともになくは先百丈あるべからず、先百丈なくは今百丈あるべからず。みだりにゆるすべからず。大 修 行

かくのごとく參詳すべきなり。この宗旨を擧拈して、梁陳隋唐宋のあひだに、まゝにきこゆる謬説、ともに勘破すべきなり。

この段、難解な語はなく通常の読みで問題はないが、普段の我々の考えでは「百丈野狐身」の話は物語として捉え、野狐に算術の知識があるかなどとは思考の片隅にも有りませんが、道元禅師のような徹頭徹尾の参詳には落頭する思いで更に「謬説勘破すべし」と、眼前にある課題を蔑(ないがし)ろにするなとの重言です。

 

    八

老非人また今百丈に告していはく、乞依亡僧事例。

この道しかあるべからず。百丈よりこのかた、そこばくの善知識、この道を疑著せず、おどろかず。その宗趣は、死野狐いかにしてか亡僧ならん。得戒なし、夏臘なし、威儀なし、僧宗なし。かくのごとくなる物類、みだりに亡僧の事例に依行せば、未出家の何人死、ともに亡僧の例に準ずべきならん。死優婆塞、死優婆夷、もし請ずることあらば、死野狐のごとく亡僧の事例に依準すべし。依例をもとむるに、あらず、きかず。佛道にその事例を正傳せず、おこなはんとおもふとも、かなふべからず。いま百丈の依法火葬すといふ、これあきらかならず。おそらくはあやまりなり。しるべし、亡僧の事例は、入涅槃堂の功夫より、到菩提園の辦道におよぶまで、みな事例ありてみだりならず。岩下の死野狐、大 修 行

たとひ先百丈の自稱すとも、いかでか大僧の行李あらん、佛祖の骨髓あらん。たれか先百丈なることを證據する。いたづらに野狐精の變怪をまことなりとして、佛祖の法儀を輕慢すべからず。

佛祖の兒孫としては、佛祖の法儀をおもくすべきなり。百丈のごとく、請ずるにまかすることなかれ。一事一法もあひがたきなり。世俗にひかれ、人情にひかれざるべし。この日本國のごとくは、佛儀祖儀あひがたく、きゝがたかりしなり。而今まれにもきくことあり、みることあらば、ふかく髻珠よりもおもく崇重すべきなり。無福のともがら、尊崇の信心あつからず、あはれむべし。それ事の輕重を、かつていまだしらざるによりてなり。五百歳の智なし、一千年の智なきによりてなり。

しかありといふとも、自己をはげますべし、佗己をすゝむべし。一禮拝なりとも、一端坐なりとも、佛祖より正傳することあらば、ふかくあひがたきにあふ大慶快をなすべし、大福徳を懽喜すべし。このこゝろなからんともがら、千佛の出世にあふとも、一功徳あるべからず、一得益あるべからず。いたづらに附佛法の外道なるべし。くちに佛法をまなぶに相似なりとも、くちに佛法をとくに證實あるべからず。

しかあればすなはち、たとひ國王大臣なりとも、たとひ梵天釋天なりとも、未作僧のともがら、きたりて亡僧の事例を請ぜんに、さらに聽許することなかれ。出家受戒し、大僧となりてきたるべしと答すべし。三界の業報を愛惜して、三寶の尊位を願求せざらんともがら、たとひ千枚の死皮袋を拈來して亡僧の事例をけがしやぶるとも、さらにこれ、をかしのはなはだしきなり、功徳となるべからず。もし佛法の功徳を結良縁せんとおもはば、すみやかに佛法によりて出家受戒し、大僧となるべし。

「亡僧事例」に対する一千余文字による拈語ですが、繰り返し死骸野狐と先百丈との因果律を認めずの言辞で、なぜ百丈懐海の時代から四百年もの間、野狐を依法火葬とした百丈の「錯」を説く箇所です。我々の常考では迦葉仏時代の百丈㈠→不落因果の錯言㈡→五百生野狐㈢→﹋現在の百丈㈣→不昧因果の一転語㈤→脱野狐㈥→乞依亡僧事例㈦→依法火葬㈧との論述に物語としての矛盾は無いように見るが、道元禅師の視覚は現(見)成としての公案である為に、矢印の如くの連続性は認められず、各事象に於いて「大修行なる大因果」を前提にした拈提語です。

 

    九

今百丈、至晩上堂、擧前因縁。

この擧底の道理、もとも未審なり。作麼生擧ならん。老人すでに五百生來のをはり、脱從來身といふがごとし。いまいふ五百生、そのかず人間のごとく算取すべきか、野狐道のごと

く算取すべきか。佛道のごとく算數するか。いはんや老野狐の眼睛、いかでか百丈を覰見することあらん。野狐に覰見せらるゝは野狐精なるべし。百丈に覰見せらるゝは佛祖なり。このゆゑに、

枯木禪師法成和尚、頌曰、

百丈親曾見野狐  爲渠參請太心麁

而今敢問諸參學  吐得狐涎盡也無

しかあれば、野狐は百丈親曾眼睛なり。吐得狐涎たとひ半分なりとも、出廣長舌、代一轉語なり。正當恁麼時、脱野狐身、脱百丈身、脱老非人身、脱盡界身なり。

「前の因縁」とは依法火葬に到った出来事ですが、この至晩上堂自体の意味が「未審」はっきりせず、五百の算術そのものが人間界、畜生界、仏道界では立場が異質な為に整合性が無いとの拈語です。

「いわんや老野狐の眼睛、いかでか百丈を覰見する事あらん。野狐に覰見せらるるは野狐精なるべし。百丈に覰見せらるるは仏祖なり」

ここでも前項同様に野狐の眼玉では百丈を見ることは出来ず、野狐に対しては野狐精のみ、百丈の同等同時は仏祖であると、それぞれの世界の超出は不可との見です。

次に枯木禅師法成和尚(1071―1128)による頌を紹介されますが、出典は『禅宗頌古聯珠通集』巻一〇(「続蔵」六五・五三一・中)ですが、五十九人もの善知識からの選択頌です。他には圜悟克勤・大慧宗杲・宏智正覚等も列記されます。

「しか有れば、野狐は百丈親曾眼睛なり。吐得狐涎たとい半分なりとも、出広長舌、代一転語なり。正当恁麼時、脱野狐身、脱百丈身、脱老非人身、脱尽界身なり」

枯木和尚の「百丈親曾見野狐 為渠参請太心麁 而今敢問諸参学(原文は禅客) 吐得狐涎尽也無」に対する道元禅師の拈語は、「野狐は百丈親曾眼睛」と野狐は百丈の曾ての親しい眼睛であると、野狐と百丈との同体同性が説かれます。

「吐得狐涎たとい半分なりとも、出広長舌、代一転語なり」

「狐涎」とは狐のよだれですから、自然の生理現象として吐くものですから、「吐得狐涎」は尽十方界の真実態を意味し、半分の涎量であっても、「出広長舌」お釈迦さまの説法を超えるものであり、「代一転語」一転語に代わるものである。

この段の拈提の結論「正当恁麼」の時は「脱の野狐身」・「脱の百丈身」・「脱の老非人身」・「脱の尽界身」と、大修行・大因果に於いては各々の現成としての公案が解脱の状態であるとの見解です。

 

    十

黄蘗便問、古人錯對一轉語、墮五百生野狐身。轉々不錯、合作箇什麼。

いまこの問、これ佛祖道現成なり。南嶽下の尊宿のなかに黄蘗のごとくなるは、さきにもいまだあらず、のちにもなし。しかあれども老人もいまだいはず、錯對學人と。百丈もいまだいはず、錯對せりけると。なにとしてかいま黄蘗みだりにいふ、古人錯對一轉語と。もし錯によれりといふならんといはば、黄蘗いまだ百丈の大意をえたるにあらず。佛祖道の錯對不錯對は黄蘗いまだ參究せざるがごとし。この一段の因縁に、先百丈も錯對といはず、今百丈も錯對といはずと參學すべきなり。

本則の話題が変わり百丈懐海(749―814)の弟子だる黄檗希運(―856)の登場です。百丈の弟子には他に潙山霊祐(771―853)・大慈寰中(780―862)・「長慶大安(793―883)等々の名が見られます。

この黄檗が今百丈に問うた「古人の錯った一転語で五百生野狐身に堕した。もし錯まらなかったら、どうなっていたか」の問いを、「これ仏道現成なり」さらに「南嶽下の尊宿の中に黄檗の如くなるは、先にも後にもなし」と賛辞を送られますが、「しかあれども」と間髪置かず「黄檗みだりに云う」「黄檗未だ百丈の大意を得たるにあらず」と手の平を返すの言句で、「この一段の因縁に先百丈も錯対と言わずと参学すべきなり」と黄檗に注意を与える言句の真意は如何なるものでしょうか。(『仏性』・『行持上』・『面授』各巻黄檗章参照)

 

    十一

しかありといへども、野狐皮五百枚、あつさ三寸なるをもて、曾住此山し、爲學人道するなり。野狐皮に脱落の尖毛あるによりて、今百丈一枚の臭皮袋あり。度量するに、半野狐皮の脱來なり。轉々不錯の墮脱あり、轉々代語の因果あり、歴然の大修行なり。

いま黄蘗きたりて、轉々不錯、合作箇什麼と問著せんに、いふべし、也墮作野狐身と。黄蘗もしなにとしてか恁麼なるといはば、さらにいふべし、這野狐精。かくのごとくなりとも、錯不錯にあらず。黄蘗の問を、問得是なりとゆるすことなかれ。

前には黄檗による「古人錯対」の当否を問われましたが、この段に至り「錯」はなく「野狐皮一枚の臭皮袋」が因果歴然とした大修行であると。その途路には堕の状態も脱の時節もあると。

さらに「転々不錯、合作箇什麼」の問いには、「也堕作野狐身」また(也)堕して野狐身とな(作)ると。その時黄檗が何故と聞いたら、「この野狐精」と答話するよう百丈に入れ智慧し、結局黄檗が云う「錯不錯」の問い自体が適合しないとの拈語です。

 

また黄蘗、合作箇什麼と問著せんとき、摸索得面皮也未といふべし。また儞脱野狐身也未といふべし。また儞答佗學人、不落因果也未といふべし。

しかあれども、百丈道の近前來、與儞道、すでに合作箇這箇の道處あり。

黄蘗近前す、亡前失後なり。

與百丈一掌する、そこばくの野狐變なり。

百丈、拍手笑云、將爲胡鬚赤、更有赤鬚胡。

道取、いまだ十成の志気にあらず、わづかに八九成なり。たとひ八九成をゆるすとも、いまだ八九成あらず。十成をゆるすとも、八九成なきものなり。しかあれどもいふべし、

百丈道處通方、雖然未出野狐窟。黄蘗脚跟點地、雖然猶滯螗螂徑。與掌拍手、一有二無。赤鬚胡、胡鬚赤。

ここで言う「摸索得面皮也未」・「你脱野狐身也未」・「你答他学人、不落因果也未」の喩えは、前段最後部で説く「黄檗の問を、問得是なりと許すことなかれ」つまり黄檗が問うた「転々不錯、合作箇什麼」に対する答話を一つに限定させない為に、「箇の什麼をか作す」に対し「面の皮をさぐってみたか」「你自身は野狐を脱したか」「你(黄檗)は老非人に不落因果と答えるか」等々と「合作箇什麼」の什麼に対し列挙するものです。

「しか有れども、百丈道の近前来、与你道、すでに合作箇這箇の道処あり。黄蘗近前す、亡前失後なり。与百丈一掌する、そこばくの野狐変なり」

百丈(師)が黄檗に云った「近前来、与你道」を褒めるもので「道処」と言い、黄檗の「近前」を「亡前失後」と前後の取り違えた行為とし、逆に「与百丈一掌」した行為は「野狐変」つまり野狐を直接表現させたものとして評価する拈提です。

最後に百丈が笑って云った「将為胡鬚赤、更有赤鬚胡」の意は、「胡人(北方民族)の鬚は赤いと思ったら、更に赤い鬚の胡人が有る」上には上があるとの喩えで、百丈が黄檗印可した語です。

この百丈の語に対し「十成の志気にあらず、わづかに八九成なり」と、「わづかに」の語を使用されますが、十成と言う完全無欠に喩えると限定的になる為に、「たとえ八九成を許すとも未だ八九成あらず」「十成を許すとも八九成なきものなり」と融通無碍的な言い方になります。

そこで結論として参語とも言うべき拈語です。

㊀百丈道処通方・百丈の道う処は通じ、

②雖然未出野狐窟・然りと云えども未だ野狐窟を出でず。

黄檗脚跟点地・黄檗の脚は地に点じ、

④雖然猶滞螗螂径・然りと云えども猶螗螂(かまきり)の径に滞る。

⑤与掌拍手、一有二無・掌(黄檗)と拍手(百丈)、一は有二は無。

⑥赤鬚胡、胡鬚赤・赤鬚胡(百丈)、胡鬚赤(黄檗)。

説く要旨は百丈・黄檗をそれぞれを道元禅師独自な表現で賛辞した句で、「不落因果・不昧因果」を「赤鬚胡・胡鬚赤」に言い換えての提唱で、両方ともども「大修行のなかの大因果」で現成行持されているとの言説です。