正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵道得

正法眼蔵第三十三 道得

    序

諸佛諸祖は道得なり。このゆゑに、佛祖の佛祖を選するには、かならず道得也未と問取するなり。この問取、こころにても問取す、身にても問取す。柱杖拂子にても問取す、露柱燈籠にても問取するなり。佛祖にあらざれば問取なし、道得なし、そのところなきがゆゑに。

その道得は、佗人にしたがひてうるにあらず、わがちからの能にあらず、たゞまさに佛祖の究辦あれば、佛祖の道得あるなり。かの道得のなかに、むかしも修行し證究す、いまも功夫し辦道す。佛祖の佛祖を功夫して、佛祖の道得を辦肯するとき、この道得、おのづから三年、八年、三十年、四十年の功夫となりて、盡力道得するなり。裡書云、三十年、二十年は、みな道得のなれる年月なり。この年月、ちからをあはせて道得せしむるなり。

標題の「道得」の道は表現する全ての真実態を示し、得は助辞であり意味は伴わないとされ、この巻では特に、言・不言に関わらぬ仏祖の全身心を挙げたハタラキに意に解し、仏祖そのものであると提示した巻である。

「諸仏諸祖は道得なり。この故に、仏祖の仏祖を選するには、必ず道得也未と問取するなり」

正法眼蔵」に共通する説き方は、冒頭部に於いて各巻の要旨を述べられるものであるが、当巻にても「諸仏諸祖は道得なり」と文字化されますが、これは諸仏祖とも要略しても、さらには仏祖とも最略しても意味に変わり有りませんから、「仏祖は道得なり」とも云い替え可能です。ですから「仏祖の仏祖を選するには」と言い表し、その仏祖を選ぶに当たっては、「道得也未」(道えているか未だしや)と「問取」問い質す事が肝腎だとの、冒頭での提示となります。

「この問取、こころにても問取す、身にても問取す。拄杖払子にても問取す、露柱灯籠にても問取するなり。仏祖にあらざれば問取なし、道得なし、その処なきが故に」

これより具体的拈提に入ります。

「この問取」は道得也未(道い得ているかどうか)を云うものですが、求道とも云い替えられます。この求め方には「こころ・身・拄杖払子・露柱灯籠」にても問取するなり。と、口ばかりで問う事ではないと説かれますが、こころとはマインドではなく、「一心一切法」の心であり、「身」は「身心一如」の身であります。「拄杖払子」は寺院に於いては日常の調度品であり、「露柱灯籠」も生活場面では必需品と位置づけられますから、これらのように尽界に包有される事物で以て「道得」を問い質すことは、仏祖でなければ出来ない事である。要略すると、道得と問取は同体的関係性を有するものです。

「その道得は、他人に随いて得るにあらず、我が力の能にあらず、ただまさに仏祖の究辦あれば、仏祖の道得あるなり。かの道得の中に、昔も修行し証究す、今も功夫し辦道す。仏祖の仏祖を功夫して、仏祖の道得を辦肯する時、この道得、おのづから三年、八年、三十年、四十年の功夫となりて、尽力道得するなり。裡書云、三十年、二十年は、みな道得の為れる年月なり。この年月、力を合わせて道得せしむるなり」

「仏祖の道得」は他己・自己に関わるものではないのである。謂う所は、自我意識下に於ける表現ではなく、未那識・阿頼耶識下での「問取・道得」は、「仏祖の究辦」(努力)がおのづと随伴され「仏祖の道得」がある。

その道得は朕兆已然の「昔から修行(実践)し証究する」が、それは現在も実修され、それを「辦道」(精進)と言うのであるが、その辦道そのものが仏祖と認得され、「道得を辦肯(合点)する時」には、その辦道は「三年、八年、三十年、四十年の功夫」となってとは、単に

年月を経るのではなく、三年から四十年の間隔がなく、すべてが「道得」の現成を「尽力道得するなり」と述べられます。

「裡書」(うらがき)とは紙背文字ですが、「おのづから三年、八年、三十年、四十年の功夫となりて、尽力道得するなり」を「三十年、二十年は、みな道得の為れる年月なり。この年月、力を合わせて道得せしむるなり」と、簡略にした年数を採用するようにとの、紙背文書のようです。

    一

このときは、その何十年の間も、道得の間隙なかりけるなり。しかあればすなはち、證究のときの見得、それまことなるべし。かのときの見得をまこととするがゆゑに、いまの道得なることは不疑なり。ゆゑに、いまの道得、かのときの見得をそなへたるなり。かのときの見得、いまの道得をそなへたり。このゆゑにいま道得あり、いま見得あり。いまの道得とかのときの見得と、一條なり、萬里なり。いまの功夫すなはち道得と見得とに功夫せられゆくなり。この功夫の把定の、月ふかく年おほくかさなりて、さらに從來の年月の功夫を脱落するなり。脱落せんとするとき、皮肉骨髓おなじく脱落を辦肯す、國土山河ともに脱落を辦肯するなり。このとき、脱落を究竟の寶所として、いたらんと擬しゆくところに、この擬到はすなはち現出にてあるゆゑに、正當脱落のとき、またざるに現成する道得あり。心のちからにあらず、身のちからにあらずといへども、おのづから道得あり。すでに道得せらるるに、めづらしくあやしくおぼえざるなり。しかあれども、この道得を道得するとき、不道得を不道するなり。道得に道得すると認得せるも、いまだ不道得底を不道得底と證究せざるは、なほ佛祖の面目にあらず、佛祖の骨髓にあらず。しかあれば、三拝依位而立の道得底、いかにしてか皮肉骨髓のやからの道得底とひとしからん。皮肉骨髓のやからの道得底、さらに三拝依位而立の道得に接するにあらず、そなはれるにあらず。いまわれと佗と、異類中行と相見するは、いまかれと佗と、異類中行と相見するなり。われに道得底あり、不道得底あり。かれに道得底あり、不道得底あり。道底に自佗あり、不道底に自佗あり。

「この時は、その何十年の間も、道得の間隙なかりけるなり。しかあれば即ち、証究の時の見得、それまことなるべし。かの時の見得をまこととするが故に、今の道得なる事は不疑なり」

この二十年・三十年の間は「道得の間隙なかりける」とは、途絶える事なく証究辦道されている証明です。

「証究の時」を経豪和尚による『御抄』では「仏祖の当体を指すべき歟」(「註解全書」五・四六六)と、実証究明そのものが仏祖の表出とされます。この時は道得ではなく「見得」と言い換えますが、前述「註解全書」の同箇所では「道得と見得と各々別ならざる道理」と解釈される処で、さらに「見得と道得との親切なる道得を云い表さんが為なり」との註解になります。

「故に、今の道得、かの時の見得を具えたるなり。かの時の見得、今の道得を具えたり。この故にいま道得あり、いま見得あり。今の道得とかの時の見得と、一条なり、万里なり。今の功夫即ち道得と見得とに功夫せられゆくなり」

先程も説明するように、「道得」と「見得」との異句同義的なる道理を、「一条」「万里」に置き換え説明されるわけですが、「道得」を「見得」に差し替える表現を『聞書』での詮慧和尚も「見得・道得一なる道理分明也」(「註解全書」五・四八六)と断言されます。

「この功夫の把定の、月深く年多く重なりて、さらに従来の年月の功夫を脱落するなり。脱落せんとする時、皮肉骨髄同じく脱落を辦肯す、国土山河ともに脱落を辦肯するなり。この時、脱落を究竟の宝所として、到らんと擬しゆく処に、この擬到は便ち現出にてある故に、正当脱落の時、待たざるに現成する道得あり」

ここで始めて「脱落」が取り挙げられ、暗喩(メタファー)的手法で以て脱落を只管打坐に収斂させる論法と仮定すると、この「功夫」(打坐)を把捉するとは、従来の年月の功夫を脱落する事であり、その時には「皮肉骨髄」の全体が同時成道する如くに「脱落を辦肯」するのである。その脱落時に「国土山河ともに脱落を辦肯するなり」とは、現象界の意識世界から無意識の阿頼耶識世界に潜在し、又は日常の語義分節状態から無分節なる本覚状態に移行する状況を、さらに考究すると、メビウスの輪の如くポイントの発想の逆転・或いはパラダイムシフトの転換を図ることで、「皮肉骨髄」「国土山河」の分別態を解消することを、脱落もしくは解脱と呼ぶものです。

この脱落の状態を「究竟の宝所として、正当脱落の時、待たざるに現成する」と規定すると、「能所あるように聞こえ、彼此の差別に似たり」(「註解全書」五・四八六)と詮慧和尚は疑義を呈するようですが、「脱落」の状態では宝所への到・不到は同義語扱いされますから、「待たざるに現成する道得あり」との言明となります。

「心の力にあらず、身の力にあらずと云えども、おのづから道得あり。すでに道得せらるるに、珍しく怪しく覚えざるなり」

これまで説いてきた現成道得の真実態は、身心が持ち出だす力量ではなく、尽界つまり大自然からの道得(真実体)による力量で、珍奇なものでも怪しむものでも無い日常底が、「正当脱落」であり「現成する道得」である為に、皮肉骨髄も国土山河も自覚されずに日々好日が過ごせるのである。

「しかあれども、この道得を道得する時、不道得を不道するなり。道得に道得すると認得せるも、未だ不道得底を不道得底と証究せざるは、なお仏祖の面目にあらず、仏祖の骨髄にあらず」

ここで問う「道得・不道得」の関係は、紙の裏面の喩えとする言い分を『御抄』では「道得の上には、必ず不道得の理あるなりと云う也。道得に道得すると心得たりとも、未だ不道得底を不道得底と心得ざるは、仏祖の面目・仏祖の骨髄にあらずと被嫌也」(「註解全書」五・四七〇)と道元禅師の心情を察し、不離不即の間柄と説明し、『聞書』に於いても「道得不道得を仏の面目とすべし、仏の一面出両面出なるべし」(「同書」四八六)と、師資ともども仏(真実体)の本来底は両極具わる事で面目が保たれる、との理解のようです。『大悟』巻にても臨済の境涯を評して「不悟者難得のみを知りて、悟者難得を知らずは未足為足」(「岩波文庫」㈠二一一)と、「不」の必然性を説くものです。

「しかあれば、三拝依位而立の道得底、いかにしてか皮肉骨髄のやからの道得底と等しからん。皮肉骨髄のやからの道得底、さらに三拝依位而立の道得に接するにあらず、そなわれるにあらず。いまわれと他と、異類中行と相見するは、いまかれと他と、異類中行と相見するなり。我に道得底あり、不道得底あり。彼に道得底あり、不道得底あり。道底に自他あり、不道底に自他あり」

先程から皮肉骨髄・仏祖の骨髄と言及しますから、ここでは具体的に、達磨と慧可との啐啄事例を「三拝依位而立の道得底」と表示されます。「皮肉骨髄と三拝依位而立」とは、道副は皮・尼総持は肉・道育は骨を文言にて答え、最後に慧可は何も語らずに三拝して自位に立する事で得髄する故事を云うが、普段の学人の理解は「皮肉骨髄」を階級・段階と捉え、慧可は達磨の中心の髄を得たから伝衣伝鉢したと思う連中(やから)の道得底とは等価ではないことを、「皮肉骨髄のやからの道得底」と「三拝依位而立の道得」の学人とは、相容れない事情を「そなわれるにあらず」と説くものですが、この処は『葛藤』巻でも詳しく説くものです。

ここで「異類中行」の語で以て、「われ(三拝依位而立の道得底)と他(皮肉骨髄の道得底)と区分けをするような言い回しですが、異類中行とは「菩薩身が六道の異類世界に身を投じ衆生済度すること」を云いますから、「われ(自己)と他(他己)」は同類としての「相見するなり」との意味合いです。因みに異類中行は『景徳伝灯録』南泉普願(748―834)章に「今時師僧須向異類中行。帰宗云。雖行畜生行。不得畜生報。師云。孟八郎又恁麼去也」(「大正蔵」五一・二五七下)と記載される。

しかしながら、異類中行は同類とは云いながらも、「彼には道得底あり、不道得底があり」「我にも同じように道得底、不道得底がある」ことは、先の紙面の表裏の関係であるからです。さらに「道底・不道底に自他あり」と、徹頭徹尾一方通行を嫌い多方円行する論述となります。

 

    一

趙州眞際大師示衆云、儞若一生不離叢林、兀坐不道十年五載、無人喚作儞唖漢、已後諸佛也不及儞哉。しかあれば、十年五載の在叢林、しばしば霜華を經歴するに、一生不離叢林の功夫辦道をおもふに、坐斷せし兀坐は、いくばくの道得なり。不離叢林の經行坐臥、そこばくの無人喚作儞唖漢なるべし。一生は所從來をしらずといへども、不離叢林ならしむれば不離叢林なり。一生と叢林の、いかなる通霄路かある。たゞ兀坐を辦肯すべし。不道をいとふことなかれ。不道は道得の頭正尾正なり。兀坐は一生、二生なり。一時、二時にあらず。兀坐して不道なる十年五載あれば、諸佛もなんぢをないがしろにせんことあるべからず。まことにこの兀坐不道は、佛眼也覰不見なり、佛力也牽不及なり。諸佛也不奈儞何なるがゆゑに。趙州のいふところは、兀坐不道の道取は、諸佛もこれを唖漢といふにおよばず、不唖漢といふにおよばず。しかあれば、一生不離叢林は、一生不離道得なり。兀坐不道十年五載は、道得十年五載なり。一生不離不道得なり、道不得十年五載なり。坐斷百千諸佛なり、百千諸佛坐斷儞なり。しかあればすなはち、佛祖の道得底は、一生不離叢林なり。たとひ唖漢なりとも、道得底あるべし、唖漢は道得なかるべしと學することなかれ。道得あるもの、かならずしも唖漢にあらざるにあらず。唖漢また道得あるなり。唖聲きこゆべし、唖語きくべし。唖にあらずは、いかでか唖と相見せん、いかでか唖と相談せん。すでにこれ唖漢なり、作麼生相見、作麼生相談。かくのごとく參學して、唖漢を辦究すべし。

先ず本則は『聯灯会要』六「示衆云。汝若一生。不離叢林。不語十年五載。無人喚汝。作唖漢。已仏也不奈汝何」(「続蔵」七九・五八上)が出典とされると考えられます。

「趙州真際大師示衆云、你若一生不離叢林、兀坐不道十年五載、無人喚作你唖漢、已後諸仏也不及你哉」

趙州真際大師示衆して云く、你が若し一生不離叢林にて、兀坐不道し十年五載するは、人が你を唖漢と喚作する無し、已後は諸仏も也(ま)た你に不及哉。

同様の本則を『行持』上巻にても採録されます。

「あるとき衆に示して云く、你若一生不離叢林不語十年五載、無人喚你作唖漢、已後諸仏也不奈你何」

あるとき衆に示して云く、你若し一生叢林を離れず不語十年五載、人の你を喚んで唖漢と作す無し、已後は諸仏も也た不奈你何(いかんともせじ)。

さらには、『永平広録』頌古九(興聖寺・詮慧編)に於いては、

「趙州示衆云、汝若一生不離叢林。十年五載兀坐不道、無人喚你作唖漢」等々を勘案すると、当巻に於ける「作你」は草書体では近似するものであり、書写時に於ける単純ミスと考えられ、「你作」とすべきであろうと思われる。

また「不語十年五載」(聯灯)を「兀坐不道十年五載」(道得)に改変した事実からも、道得と打坐との暗喩的(メタファー)効果が指摘できます。

「しかあれば、十年五載の在叢林、しばしば霜華を経歴するに、一生不離叢林の功夫辦道を思うに、坐断せし兀坐は、いくばくの道得なり。不離叢林の経行坐臥、そこばくの無人喚作你唖漢なるべし」

「不離叢林」に対する拈語は「功夫辦道」であり「坐断せし兀坐は」無量(いくばく)の道得であると。換言すれば僧伽(サンガ)に於ける「経行坐臥」も無限(そこばく)の「無人喚作你唖漢(尊敬に値する)」である、との見方です。

「一生は所従来を知らずと云えども、不離叢林ならしむれば不離叢林なり。一生と叢林の、いかなる通霄路かある。ただ兀坐を辦肯すべし。不道を厭う事なかれ。不道は道得の頭正尾正なり」

ここでの「一生」は人生の一生ではなく、不離叢林での姿・兀坐を一生と捉える、とは詮慧・経豪両和尚とも称えるものです。その坐禅の出所は無所去無所従来とは『金剛般若経』(「大正蔵」二二・九八五中)の示す処ですが、不離叢林の状態(無人喚你作唖漢)であれば、取捨選択のない平等理の不離叢林である。

その兀坐(一生)と叢林とは独立独歩ではなく、「いかなる(天界とも通ずる)通霄路かある」との言ですが、この「いかなる」も全てを包接するいかなるもと把握できますから、打坐の姿の如何なる姿も尽界との通路と為るとの註解です。

そこでは「兀坐を辦肯すべし」とは修行を続けなさい。との意で、その段階では「不道」を厭う・気に懸けてはいけない。不動とは道得と同義語であるから、道得と同じく「頭正尾正」と言うものである。

謂う所は「不道・道得」の一味態、一体性を説かんとするものです。

「兀坐は一生、二生なり。一時、二時にあらず。兀坐して不道なる十年五載あれば、諸仏も你を蔑ろにせん事あるべからず。真にこの兀坐不道は、仏眼也覰不見なり、仏力也牽不及なり。諸仏也不奈你何なるが故に」

ここでの「一生・二生」は永遠を意味し、世間で云う「一時・二時」と限定された坐禅ではなく、その「兀坐」を十有五年と継続すれば、諸仏(真実相)も你を軽んずるはずもない。

実にこの「兀坐」「不道」の絶対性を、「仏眼也覰不見」(仏眼にても覰(うかが)い見れない)・「仏力也牽不及」(仏力にて牽いても及ばず)・「諸仏也不奈你何」(諸仏も你をどうする事も出来ない)と規定し、これらの仏の神通を以てしても適わないほど、兀坐・不道さらには「道得」の真実態を説く綴りです。なお「諸仏也不奈你(汝)何」は本則出典籍とされる箇所からの援用のようです。

「趙州の云う処は、兀坐不道の道取は、諸仏もこれを唖漢と云うに及ばず、不唖漢と云うに及ばず。しかあれば、一生不離叢林は、一生不離道得なり。兀坐不道十年五載は、道得十年五載なり。一生不離不道得なり、道不得十年五載なり。坐断百千諸仏なり、百千諸仏坐断你なり」

ここでの拈提では、漢文で説かれる趙州に対する代弁として、「兀坐不道」の言い分は諸仏も你を唖漢とは云わず「不唖漢と云うに及ばず」と、この唖漢と不唖漢の対語を趙州和尚は言いたかったんだ、との道元禅師の拈語で、同じく「一生不離叢林」との趙州言に対しては、「一生不離道得」との言辞も包含される、との拈提です。

さらに「兀坐不道十年五載」の趙州言は、「道得十年五載」とも言い替え可能で、不道と道得の異句同義性をも趙州の口唇皮は包有するから、「一生不離不道得とも道不得十年五載」とも置換の可能性を説かれます。

そこでは、百千諸仏が坐禅する様子を「兀坐不道」から「坐断百千諸仏」と言い換え、さらに主客を変転させ「百千諸仏坐断你」と、趙州和尚の示衆には言い分が有るとの道元和尚による評唱となります。

「しかあれば即ち、仏祖の道得底は、一生不離叢林なり。たとい唖漢なりとも、道得底あるべし、唖漢は道得なかるべしと学する事なかれ。道得ある者、必ずしも唖漢にあらざるにあらず。唖漢また道得あるなり。唖声聞こゆべし、唖語聞くべし。唖にあらずは、いかでか唖と相見せん、いかでか唖と相談せん。すでにこれ唖漢なり、作麼生相見、作麼生相談。かくの如く参学して、唖漢を辦究すべし」

拈提のまとめとして、「仏祖の道得底」つまり真実の表現態として「一生不離叢林」を讃えるものです。

「唖漢」つまり聴覚能力が不充分な為に、健常人の如くに発話が不得意であるだけで、「道得なかるべしと学する」者こそが盲漢である。さらに「唖漢なりとも道得底あるべし」に続き、「唖漢また道得あるなり」と再度強調する論調は、趙州の言には多少なりとも「唖」に対する偏見を是正させる意図が込められているようである。

ですから「唖漢」の唖声や唖語を聴くべし、また耳を向けろ、との言にも聞こえます。

また、この「唖漢」自身が真実底の仏であるからこそ、「作麼生相見・作麼生相談」と、諸法実相義を表徴できるわけです。

このように参学して、「唖漢」の実態を辦道究明すべし。と、趙州が見る唖漢を仏行の真実底の仏にまで昇華させ、その「兀坐不道」こそが「道得」であるとの結語となります。

 

    三

雪峰の眞覺大師の會に一僧ありて、やまのほとりにゆきて、草をむすびて庵を卓す。としつもりぬれど、かみをそらざりけり。庵裡の活計たれかしらん、山中の消息悄然なり。みづから一柄の木杓をつくりて、谿のほとりにゆきて水をくみてのむ。まことにこれ飲谿のたぐひなるべし。かくて日往月來するほどに、家風ひそかに漏泄せりけるによりて、あるとき僧きたりて庵主にとふ、いかにあらんかこれ祖師西來意。庵主云、谿深杓柄長。とふ僧おくことあらず、禮拝せず、請益せず。やまにのぼりて雪峰に擧似す。雪峰ちなみに擧をきゝていはく、也甚奇怪、雖然如是、老僧自去勘過始得。雪峰のいふこころは、よさはすなはちあやしきまでによし、しかあれども、老僧みづからゆきてかんがへみるべしとなり。かくてあるに、ある日、雪峰たちまちに侍者に剃刀をもたせて卒しゆく。直に庵にいたりぬ。わづかに庵主をみるに、すなはちとふ、道得ならばなんぢが頭をそらじ。この問、こゝろうべし。道得不剃汝頭とは、不剃頭は道得なりときこゆ。いかん。この道得もし道得ならんには、畢竟じて不剃ならん。この道得、きくちからありてきくべし。きくべきちからあるもののために開演すべし。ときに庵主、かしらをあらひて雪峰のまへにきたれり。これも道得にてきたれるか、不道得にてきたれるか。雪峰すなはち庵主のかみをそる。

この話則は『真字正法眼蔵』中・八三則を底本とされるもので、その出典籍は『圜悟語録』十七・拈古中(「大正蔵」四七・七九四下)と思われ、石井修道氏は『宗門統要集』八とされますが、それぞれの主要部を記すと、

「雪峰山畔有一僧卓庵゚多年不剃頭゚自作一柄木杓゚去谿辺舀水喫。時有僧問゚如何是祖師西来意゚庵主云゚谿深杓柄長゚僧帰挙似雪峰゚峰曰゚也甚奇怪゚雖然如是゚須是老僧勘過始得゚峰一日同侍者將剃刀去訪佗゚纔相見便問゚道得即不剃汝頭゚庵主便將水洗頭゚師便与佗剃却゚」(真字)

「雪峯会下有一僧。辞去在山中卓庵。多時不剃頭。自作一柄木杓。溪辺舀水喫。時有僧見問。如何是祖師西来意。主竪起杓子云。溪深杓柄長。僧帰挙似雪峯。峯云。也甚奇怪。峯一日与侍者将剃刀去。纔相見便問。道得即不剃汝頭。主便取水洗頭。峯便与伊剃却。」(圜悟)

「師因一僧在山下卓庵。多年不剃頭。有僧曾問西来意。主云水深杓柄長。師聞乃云。甚奇怪。一日将剃刀。同侍者去訪。纔相見。便挙前話問。是庵主語不。主云是。師云若道得即不剃你頭。主便将水洗頭胡跪師前。師便与剃却。」(統要)

このように各話頭には出入りが有りますが、「須是老僧勘過始得」は真字のみで他の典籍にも確認されず、これは道元自身が付加されたものと考えられます。

「雪峰の真覚大師の会に一僧ありて、山のほとりに往きて、草を結びて庵を卓す」

これは「真字」本(以後略)「雪峰山畔有一僧卓庵」を訓読したもので、「卓」は立てるの意。

「としつもりぬれど、髪を剃らざりけり」

「多年不剃頭」の訓読みです。

「庵裡の活計たれかしらん、山中の消息悄然なり」

この箇所に該当する文言は確認できません。

「みづから一柄の木杓をつくりて、谿のほとりにゆきて水をくみてのむ」

「自作一柄木杓゚去谿辺舀水喫」からの訓読です。

「まことにこれ飲谿のたぐいなるべし」

この部分は引き合いがありません。

「かくて日往月来するほどに、家風ひそかに漏泄せりけるによりて」

この部分も該当箇所なし。

「あるとき僧きたりて庵主に問う、いかにあらんかこれ祖師西来意。庵主云、谿深杓柄長」

この部分は「時有僧問゚如何是祖師西来意゚庵主云゚谿深杓柄長」に相当します。「如何」をいかにあらんかと表明するに注目です。『御抄』では「この西来意の姿、一法に定まりて云わるべき道理にあらず、いかなるも西来意なるべし。西来意の姿、尽期あるべからざるなり。ここでの答えは庵主谿深杓柄長と云う。法体の方より談ぜん時は、いづれとも云わるべし、強ち詞に煩うべからず」(「註解全書」五・四八一)と説かれます。

「問う僧おくことあらず、礼拝せず、請益せず。山にのぼりて雪峰に挙似す」

ここは前半部は見当たらず「僧帰挙似雪峰」に収斂されます。

「雪峰ちなみに挙を聞きて云く、也甚奇怪、雖然如是、老僧自去勘過始得」

ここは「峰曰゚也甚奇怪゚雖然如是゚須是老僧勘過始得」に相当する文言です。

「雪峰の云うこころは、よさは即ちあやしきまでによし、しかあれども、老僧みづからゆきてかんがえみるべしとなり」

この読みは「也甚奇怪゚雖然如是゚須是老僧勘過始得」を訓じた貴重な提示文となります。「よさ」とはいいことで「善さ・良さ」歟。「こころ」は意味の意です。

「かくてあるに、ある日、雪峰たちまちに侍者に剃刀をもたせて卒しゆく」

この部分は「峰一日同侍者將剃刀去訪佗」の訳文となります。

「直に庵にいたりぬ。わづかに庵主を見るに、すなわち問う、道得ならばなんぢが頭をそらじ」

「纔相見便問゚道得即不剃汝頭」に相当します。

「この問、心得べし。道得不剃汝頭とは、不剃頭は道得なりと聞こゆ。いかん。この道得もし道得ならんには、畢竟じて不剃ならん。この道得、聞く力ありて聴くべし。聞くべき力ある者の為に開演すべし」

この文言は道元禅師自身の著語であり、この道得不剃汝頭が本則の肝要であるとの言で、この道得(真実底の表現)を具現するは、聞く力量があってこそ聴き得、またその道得を聞くべき力量のある学人の為に開演(説法)してやろうとの宣言で、次項に説く拈提の先言と為ります。

「ときに庵主、かしらをあらいて雪峰のまへにきたれり」

ここは「庵主便将水洗頭」に当たります。

「これも道得にて来たれるか、不道得にて来たれるか」

この言はコメント(著語)になります。

「雪峰すなわち庵主のかみをそる」

これは本則話頭最後部の「師便与佗剃却」と比定されます。

この一段の因縁、まことに優曇の一現のごとし。あひがたきのみにあらず、きゝがたかるべし。七聖十聖の境界にあらず、三賢七賢の覰見にあらず。經師論師のやから、神通變化のやから、いかにもはかるべからざるなり。佛出世にあふといふは、かくのごとくの因縁をきくをいふなり。しばらく雪峰のいふ道得不剃汝頭、いかにあるべきぞ。未道得の人これをきゝて、ちからあらんは驚疑すべし、ちからあらざらんは茫然ならん。佛と問著せず、道といはず、三昧と問著せず、陀羅尼といはず、かくのごとく問著する、問に相似なりといへども、道に相似なり。審細に參學すべきなり。しかあるに、庵主まことあるによりて、道得に助發せらるゝに茫然ならざるなり。家風かくれず、洗頭してきたる。これ佛自智恵、不得其邊の法度なり。現身なるべし、説法なるべし、度生なるべし、洗頭來なるべし。ときに雪峰もしその人にあらずは、剃刀を放下して呵々大咲せん。しかあれども、雪峰そのちからあり、その人なるによりて、すなはち庵主のかみをそる。まことにこれ雪峰と庵主と、唯佛與佛にあらずよりは、かくのごとくならじ。一佛二佛にあらずよりは、かくのごとくならじ。龍と龍とにあらずよりは、かくのごとくならじ。驪珠は驪龍のをしむこゝろ懈倦なしといへども、おのづから解収の人の手にいるなり。しるべし、雪峰は庵主を勘過す、庵主は雪峰をみる。道得不道得、かみをそられ、かみをそる。しかあればすなはち、道得の良友は、期せざるにとぶらふみちあり。道不得のとも、またざれども知己のところありき。知己の參學あれば、道得の現成あるなり。

これから本格的拈提作業に入られます。

「この一段の因縁、まことに優曇の一現の如し。逢い難きのみにあらず、聞き難かるべし。七聖十聖の境界にあらず、三賢七賢の覰見にあらず。経師論師のやから、神通変化のやから、如何にも測るべからざるなり。仏出世に逢うと云うは、かくの如くの因縁を聞くを云うなり」

雪峰と庵主との因縁譚を、三千年に一度開花する優曇華に譬えての絶賛です。

「七聖十聖」「三賢七賢」を普通は「三賢十聖」と称し、修行の階梯・段階を示唆する概念として主に学問仏教に於いて説く処ですが、禅に於いては実学の打坐に連結する行実を範とすることから、「正法眼蔵」の提唱では夙に嫌われるもので、そのような概念仏教者を「経師論師のやから」「神通変化のやから」と称し、そのような連中には雪峰と庵主のような啐啄同時的仏法には出会えないだろう、との提示です。

「しばらく雪峰の云う道得不剃汝頭、いかにあるべきぞ。未道得の人これを聞きて、力あらんは驚疑すべし、力あらざらんは茫然ならん。仏と問著せず、道といわず、三昧と問著せず、陀羅尼といわず、かくの如く問著する、問に相似なりと云えども、道に相似なり。審細に参学すべきなり」

「雪峰の云う道い得ば汝の頭を不剃」の問著自体、「仏や道・三昧や陀羅尼」と云った定型の問著とは合致しない為に、「未道得」の力量ある人が聞けば「驚疑」し、力量ない人が「茫然」とする雪峰の「道得不剃汝頭」は問いに似ているが、「道(答)に相似なり」。この雪峰による云い得て妙なる道得不剃汝頭を「審細に参学すべき」である、との提言です。

「しかあるに、庵主まこと有るによりて、道得に助発せらるるに茫然ならざるなり。家風隠れず、洗頭して来たる。これ仏自智恵、不得其辺の法度なり。現身なるべし、説法なるべし、度生なるべし、洗頭来なるべし」

未道得の人では、雪峰の語話を理解できずに佇立する処を、庵主には「まこと」(真実)があった為、啐啄が現成し「茫然」と為ることなく、庵主の家風のままに、頭を洗い雪峰の前に来る、と。

この「洗頭して来たる」姿を「仏自智恵、不得其辺」(仏の自らの智恵は、其の辺を得ず)とは、仏知恵の無辺際なるを讃嘆するものです。また庵主の洗頭の姿を「法度・現身・説法・度生」なるべしと規定し、これらが「洗頭来」の現身説法であり「道得」そのものとの提言と成ります。

「時に雪峰もしその人にあらずは、剃刀を放下して呵々大笑せん。しかあれども、雪峰その力あり、その人なるによりて、則ち庵主の髪を剃る。まことにこれ雪峰と庵主と、唯仏与仏にあらずよりは、かくの如くならじ。一仏二仏にあらずよりは、かくの如くならじ。龍と龍とにあらずよりは、かくの如くならじ。驪珠は驪龍の惜しむ心、懈倦なしと云えども、おのづから解収の人の手に入るなり」

庵主との問答のその時に、もし雪峰に道得の力量が無かったならば、カミソリを放り投げてカラカラと大笑いしただろう。しかしながら雪峰には力量が有ったからこそ、庵主の髪を剃るという道得ができたのである。

この雪峰・庵主の関係性を「唯仏与仏・一仏二仏」と捉えます。つまりは両頭ともに自智恵・不得其辺を体現するとの事です。

また同様な間柄を双方を龍に譬えて、「驪珠と驪龍」との関係と比定されます。つまり驪珠は驪龍の頷下にある珠を指すものですが、この宝玉は驪龍(黒龍)が頷下に包み隠して惜しんで已まないものだが、おのづから解収する人の手に入るものだとの、譬え話を付け加えるものです。

驪珠の説話は『一顆明珠』巻(「岩波文庫」㈠一八七)にも在り、その前節には「現身説法の古仏新仏あり」と、当巻の語法に共通する部位があるを記す。

「知るべし、雪峰は庵主を勘過す、庵主は雪峰を見る。道得不道得、髪を剃られ、髪を剃る。しかあれば便ち、道得の良友は、期せざるに訪う道あり。道不得の友、待たざれども知己の処ありき。知己の参学あれば、道得の現成あるなり」

いま一度、雪峰・庵主両雄のメビウス的聯関を見渡すと、雪峰は庵主を勘過(許す)し、庵主は雪峰を見る。雪峰は道得で庵主は不道得。庵主は髪を剃られ雪峰は髪を剃る。一見すると雪峰・庵主を主従関係のようにも見られがちですが、表裏一体の状況をメビウス的と読み解いたわけです。つまり帯状のものを半回転ひねって輪にする事で、表面が直に裏面になり、さらに進むと表面と変移する様態を、「道得の良友は、期せざるに訪う道あり」とも「道不得の友、待たざれども知己の処ありき」とも表記され、能所泯汒つまり仏法に於ける主客合一を雪峰と庵主に見い出すものです。

最後に「知己の参学」つまり自己の正体を見究める修行があれば、「道得の現成」真実底を道い得る現成あるなり。との部位を詮慧和尚は「ただ一仏の面目なるべし」(「註解全書」五・四八九)を紹介し、この巻の注解作業を擱筆とする。