正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵柏樹子

正法眼蔵第四十 柏樹子

    前半

趙州眞際大師は、釋迦如來より第三十七世なり。六十一歳にしてはじめて發心し、いへをいでて學道す。このときちかひていはく、たとひ百歳なりとも、われよりもおとれらんは、われかれををしふべし。たとひ七歳なりとも、われよりもすぐれば、われかれにとふべし。恁麼ちかひて、南方へ雲遊す。道をとぶらひゆくちなみに、南泉にいたりて、願和尚を禮拝す。ちなみに南泉もとより方丈内にありて臥せるついでに、師、來參するにすなはちとふ、近離什麼處。師いはく、瑞像院。南泉いはく、還見瑞像麼。師いはく、瑞像即不見、即見臥如來。ときに南泉いましに起してとふ、儞はこれ有主沙彌なりや、無主沙彌なりや。師、對していはく、有主沙彌。南泉いはく、那箇是儞主。師いはく、孟春猶寒、伏惟和尚尊體、起居萬福。南泉すなはち維那をよびていはく、此沙彌別處安排。かくのごとくして南泉に寓直し、さらに餘方にゆかず。辦道功夫すること三十年なり。寸陰をむなしくせず、雜用あることなし。つひに傳道受業よりのち、趙州の觀音院に住することも又三十年なり。その住持の事形、つねの諸方にひとしからず。

この「巻」は趙州のみの五則の話頭に対する拈提集であり、趙州の代表格とも云い得る庭前の柏樹子を略した「栢樹子」の標題としたものです。

「趙州真際大師は、釈迦如来より第三十七世なり。六十一歳にして始めて発心し、家を出でて学道す」

冒頭に趙州従諗(778―897)の正統性を「釈迦如来より第三十七世なり」と宣告されます。この表態は『神通』巻にても「大潙禅師は、釈迦如来より直下三十七世の祖なり」(「岩波文庫」㈡三一五)と同じく「三十七世」が重複されますが、趙州は南泉普願(748―834)を師匠に馬祖道一(709―786)を孫師匠に掲げ、一方大潙(潙山霊祐771―853)は百丈懐海(749―814)を師匠に同じく馬祖が孫師匠に為ります。同じ視眼で看るならば、黄檗希運(―856)・大慈寰中(780―862)・長慶大安(793―883)これらは百丈(生没不詳)の法嗣者。また南泉の法を嗣いだ長沙景岑(生没不詳)も釈迦より「三十七世」と位置づけられ、馬祖と双極に対した石頭希遷(700―790)を師とする天皇道悟(748―807)・丹霞天然(739―824)・薬山惟儼(745―828)なども第「三十七世」に当値する祖師方となります。

「釈迦如来より」と註釈される箇所は、先ほどの『神通』『柏樹子』両巻のみとなりますが、釈迦牟尼仏はカウントしません。その具体例を『嗣書』巻では「七仏より慧能にいたるに四十祖あり」(「岩波文庫」㈡三七二)と表記されます。つまり七仏は毘婆尸仏から釈迦牟尼仏で、摩訶迦葉より慧能までを三十三祖と規定し「四十祖」ですから、摩訶迦葉からカウントし三十七世は趙州大師と為るわけですが、殊更に釈迦如来と強調する主意は、後頁で語る「趙州古仏」の言とも聯関するものかも知れない。

「六十一歳にして始めて発心し、家を出でて学道す」この六十一歳発心説は、趙州に関連する「語録」等では確認できず、『趙州語録行状』(「続蔵」六八・七六上)に於いては「年八十に至りて、方に趙州城東観音院に住す」と記すのみですが、ある説では「南泉の道場には師が遷化するまで安在し、死後三年は喪に服し、行脚に出る」を基に年代推定すると、南泉逝去時には趙州は五十七歳で三年服喪し六十歳で再発心し、南泉山を出て学道す、と勘案すれば理に適うものです。

「この時誓いて云く、たとい百歳なりとも、我よりも劣れらんは、我他を教うべし。たとい七歳なりとも、我よりも勝れば、我伊に問うべし。恁麼誓いて、南方へ雲遊す。道を訪らい往く因みに、南泉に到りて、願和尚を礼拝す」

この処の出典籍は前出『趙州語録』(同所)では「常自謂曰。七歳童児勝我者。我即問伊。百歳老翁不及我者。我即教他」と、このように「趙州録」と「柏樹子」では、百歳と七歳が逆順になりますが、『行持上』巻に於いては「瓶錫をたづさへて行脚し、遍歴諸方するに、つねにみづからいはく、七歳童児、若勝我者、我即問伊。百歳老翁、不及我者、我即教他」(「岩波文庫」㈠三一三)と、原文そのままでの引用となります。

「因みに南泉もとより方丈内に在りて臥せる次いでに、師、来参するに便ち問う、近離什麼処。師云く、瑞像院。南泉云く、還見瑞像麼。師云く、瑞像即不見、即見臥如来。時に南泉いましに起して問う、你はこれ有主沙弥なりや、無主沙弥なりや。師、対して云く、有主沙弥。南泉云く、那箇是你主。師云く、孟春猶寒、伏惟和尚尊体、起居万福。南泉乃ち維那を喚びて云く、此沙弥別処安排」

「趙州録」に於いては、趙州が本師と共に行脚する時に南泉に到り、本師が先ず大事(あいさつ)が了り、次いで趙州が人事する。という設定で、このくだり(件)と為ります。

「南泉在方丈内臥次。見師来参。便問。近離什麼処。 師云。瑞像院。 南泉云。還見瑞像麼。師云。瑞像即不見。即見臥如来。 南泉乃起問。袮是有主沙弥。無主沙弥。 師対云有主沙弥。泉云。那箇是袮主。 師云。孟春猶寒。伏惟和尚尊体起居万福。泉乃喚維那云。此沙弥別処安排」

右の語録が「当巻」に対する底本である事は間違いないものですが、一部の注釈書では無批判に、ある著名な「正法眼蔵」注解部に記載される出典録そのままに『聯灯会要』巻六と、子引き孫引きする学者の姿勢は如何なもの歟。

「かくの如くして南泉に寓直し、さらに余方に往かず。辦道功夫すること三十年なり。寸陰を虚しくせず、雑用ある事なし。ついに伝道受業より後、趙州の観音院に住する事も又三十年なり。その住持の事形、常の諸方に等しからず」

この文章のままに理解するならば、南泉に師事すること三十年、また観音院での化導も三十年とするが、「趙州録」とも「行持上」とも異なる表記です。

「趙州録」では「年八十に至り、方に趙州の城東観音院に住すー略ー住持四十年来」となり、「行持上」では「南泉の道を学得する功夫、即ち二十年なり。年至八十の時、始めて趙州城東観音院に住して、人天を化導すること四十年来なり」(「岩波文庫」㈠三一三)と表記されます。

この三つの事例では、いづれも趙州和尚の齢は百二十歳で共通するのですが、行脚年数が「当巻」三十年、「趙州録」不明、「行持上」二十年で、観音院住持年数を「当巻」三十年、「趙州録」四十年、「行持上」四十年と算出されます。

表記としては『行持上』巻が『趙州語録行状』を底本として忠実に記載されるのですが、両巻の奥書を比較すると「行持」が仁治三年(1242)四月五日、「柏樹」が同五月二十一日の擱筆と示衆ですから、「当巻」執筆時には「行持」で扱った趙州の事項などには目通しせず、相当な勢いで以てした「眼蔵執筆作業」の様子が窺い知れるようである。

この最初の話頭は「趙州録」冒頭の紹介のみで、最後の「その住持の事形(事迹・形迹)、常の諸方に等しからず」からが拈提部と為ります。

或時いはく、烟火徒勞望四隣、饅頭□(食+追)子前年別。今日思量空嚥津、持念少、嗟歎頻。一百家中無善人、來者祗道覓茶喫、不得茶噇去又嗔。あはれむべし、烟火まれなり、一味すくなし。雜味は前年よりあはず、一百家人きたれば茶をもとむ。茶をもとめざるはきたらず。將來茶人は一百家人にあらざらん。これ見賢の雲水ありとも、思齊の龍象なからん。

この本則出典は先程同様『趙州語録之余』十二時歌の食時辰(「続蔵」六八・九〇中)からの引用です。因みに「辰」は午前八時を中心とする二時間を指し、その前後には「日出卯・清浄却翻為煩悩」「禺中巳・削髮誰知到如此」と記載あり。

  • 烟火徒労望四隣(鄰)、㈡饅頭□(食+追)子前年別。今日思量空嚥津、㈢持念少、嗟歎頻。㈣一百家中無善人、㈤来者祗道覓茶喫、㈥不得茶噇去又嗔」()内は原文

㈠炊事の煙(烟火)はいたずら(徒労)に四方(四隣)を望む。―かまどの火が望めない程に貧道の辦道を云う。

㈡饅頭(小麦粉製の蒸しパン)・□(食+追)子(米粉の蒸し物・ちまき)は前年(去年)より別す。―世間の一般食は昨年より食べていない。これも道場での質素さを強調するもの。

今日は思い出す(思量)と、空しく嚥津(唾をのむ)す。―これまでが、観音寺での食生活の様子です。

㈢「持念少」とは、念仏・看経する者は少ない。「嗟歎頻」の嗟も歎もなげくの意。―趙州の生きた九世紀ころの僧侶の無道心を揶揄するもの。

㈣「一百家中」の百家とは不特定多数の雲衲を示すもので、その内の一人として求道人(善人)はいない事を「無善人」と表現します。

㈤観音院に来る者の祗(ただ)道うことは、茶を喫するを覓むと。―これは趙州の「喫茶去」の評判を聞いて、安直な悟りを求める風潮を掛けたものです。

㈥「茶噇」は茶をがぶ飲みする様子で、―茶を覓めに来た(有所得人)学人は、自分の意に合わなかった事を「不得茶噇」と云い、そんな連中は立ち去り、趙州の接得態度に瞋るのである。

「憐れむべし、烟火まれなり、一味少なし。雑味は前年より逢わず、一百家人来たれば茶をもとむ。茶をもとめざるは来たらず。将来茶人は一百家人にあらざらん。これ見賢の雲水ありとも、思斉の龍象なからん」

これが本則に対する拈提になりますが、観音院では有名な趙州を見学に来る雲水は居ても、思い斉しく貧道を共にする龍象(学人)は居ないのである。との解説ですが、提唱当時(仁治三年1242五月)の宇治の観音導利院の聴聞衆に対する「学道は貧なるべし」の実例を示すものです。

最後の「見賢の雲水、思斉の龍象」の喩えは、『論語』里仁第四—十七からの「子日、見賢思斉焉、見不賢而内自省也」(子日く、賢(人)を見ては斉しからんを思い、不賢を見ては内に自ら省するなり)の四字熟語を分かち、自身の身語にしての解説ですが、知識人の間では、これらの論語等の教養は必須の要件であったようです。

あるときまたいはく、思量天下出家人、似我住持能有幾。土榻床、破蘆廃、老楡木枕全無被。

尊像不燒安息香、灰裏唯聞牛糞気。これらの道得をもて、院門の潔白しりぬべし。いまこの蹤跡を學習すべし。僧衆おほからず、不滿二十衆といふは、よくすることのかたきによりてなり。僧堂おほきならず、前架後架なし。夜間は燈光あらず、冬天は炭火なし。あはれむべき老後の生涯といひぬべし。古佛の操行、それかくのごとし。あるとき、連牀のあしのをれたりけるに、燼木をなはにてゆひつけて年月をふるに、知事、つくりかへんと報ずるに、師、ゆるさざりけり。希代の勝躅なり。この本則も前掲同様「十二時歌」に於ける「半夜子」と題する七言詩ですが、ここでは初句の「心境何曾得暫止」を省略する形で取り挙げられます。

  • 思量天下出家人、似我住持能有幾。土榻床、破蘆廃、㈡老楡木枕全無被。㈢尊像不焼安息香、灰裏唯聞牛糞気」

㈠天下の出家人を思い量ってみるに、我(趙州)に似たる住持は一体(能)いくばく(幾)か有ろう。土榻床(土で固めた寝台)、破蘆廃(破れた蘆で編んだ敷物・薄縁うすべり)、

㈡老楡木枕(古い楡(にれ)の木の枕)には全く被が無い(カバーが掛けてない)。

㈢尊像(本尊仏)には安息香(ツツジエゴノキ科の樹脂。シャム安息香を指す歟)での焼香は出来ず、灰の裏(なか)には唯もが牛糞(燃料用)の気を聞香するだけである。

「これらの道得を以て、院門の潔白知りぬべし。今この蹤跡を学習すべし。僧衆多からず、不満二十衆と云うは、善くする事の難きに依りてなり。僧堂大きならず、前架後架なし。夜間は燈光有らず、冬天は炭火無し。憐れむべき老後の生涯と云いぬべし。古仏の操行、それかくの如し。ある時、連牀の脚の折れたりけるに、燼木を縄にて結いつけて年月を経るに、知事、作り換えんと報ずるに、師、許さざりけり。希代の勝躅なり」

「これらの道得」つまり、本尊仏には香食もままならず、炉灰の中には種炭はなく乾燥牛糞にて暖をとる、観音院での修行生活が「潔白」であり、そのあとかた(蹤跡)を学び習いなさい、との拈提になります。

「不満二十衆」とは観音院での安居僧が二十人にも満たない。とのことですが、この二十の典拠が何処で在るかは不明ですが、『三十七品菩提分法』巻に於いても「老趙州の不満二十衆」(「岩波文庫」㈢三〇六)の生活が、正命の現成であるとの見方は、この処と通底するものです。

その二十人にも満たない大衆の数というのは、極貧の辦道には耐え難い為であり、また僧堂は大きくなく、前架(外単に備える備品棚・転じて露地)後架(後部で洗面器を置く棚・転じて東司)は無いというのであるから、屋舎だけの坐禅堂であろうか。

夜間の燈光はなく、冬の天空でも炭火もないと。世間では八十の老後の憐れむべき生涯と云うべきものではあるが、土榻の床や破れた蘆廃での貧道が、古仏の操行である。との拈提部です。

また他の例示として、ある時には長連牀の脚が折れ応急処置として、燃え残りの木(燼木)を結び付けていた処、寺院修繕を行う僧(知事)が、堪り兼ねて造作しようと願い出るが、趙州は許可しなかった事を希代の勝躅の証しと称賛される拈語です。因みに「僧堂大きならず」云々での原文表記は「僧堂無前後架、旋營齋食。縄床一脚折、以焼断薪、用縄繋之。毎有別制新者、師不許也」(「続蔵」六八・七六)とこのように、多少の出入りが認められます。

よのつねには、解齋粥米全無粒、空對閑窓與隙塵なり。あるいはこのみをひろひて、僧衆もわが身も、茶飯の日用に活計す。いまの晩進、この操行を讚頌する、師の操行におよばざれども、慕古を心術とするなり。あるとき、衆にしめしていはく、われ南方にありしこと三十年、ひとすぢに坐禪す。なんだち人、この一段大事をえんとおもはば、究理坐禪してみるべし。三年五年、二十年三十年せんに、道をえずといはば、老僧が頭をとりて、杓につくりて小便をくむべし。かくのごとくちかひける。まことに坐禪辦道は、佛道の直路なり、究理坐看すべし。のちに人いはく、趙州古佛なり。

「よの常には、解斎粥米全無粒、空対閑窓与隙塵なり。或いは木の実を拾いて、僧衆もわが身も、茶飯の日用に活計す。今の晩進、この操行を讚頌する、師の操行に及ばざれども、慕古を心術とするなり」

「解斎粥米全無粒、空対閑窓与隙塵」の出典も同じく「十二時歌」の「平旦寅」からで、「朝の粥・斎(昼)の飯では共に米粒は無く、その時には空しく無機質な閑窓と、隙間の塵と対座するのみである」との述懐ですが、これに続いては「唯雀噪、勿人親。独坐時聞落葉頻」と、ひたすら坐に打ち込む観音道場での様子も窺われます。

ほかでは、木の実を拾って斎粥時に供したとし、これらの作業は後輩(晩進)である道元も讃嘆するもので、趙州には及ばずとも慕古(いにしえを慕う)を心構え(心術)と、するなりとの拈語です。

これらのトピック(話題)は九世紀中頃の話で、現代は二十一世紀初頭で千二百年以上の隔たりを有するが、小拙の三十年以上前に仄聞した話では、福井県西部のある寺では、主に外国人が参禅するのですが、寺院経営は厳しく粥飯のみの食事もままならず、栄養失調で寝込む人も在り、寺の住職が自国に帰れと諭しても、頑として叢林での生活に務める。という話を聞き及びますが、千年以上の時間空間の隔差が有っても、これらの道場(アシュラム)には、共有共通する香風が漂っているようです。

「ある時、衆に示して云く、われ南方に在りし事三十年、一筋に坐禅す。なんだち諸人、この一段大事を得んと思わば、究理坐禅して看るべし。三年五年、二十年三十年せんに、道を得ずと云わば、老僧が頭を取りて、杓に作りて小便を汲むべし。かくの如く誓いける。まことに坐禅辦道は、仏道の直路なり、究理坐看すべし。後に人云く、趙州古仏なり」

ここでの本則による内容の語録は見当たらず、「師上堂云、老僧在此間三十余年」(「続蔵」六八・七八)+「但究理而坐二三十年。若不会、截取老僧頭去」(「続蔵」六八・八三)+「髑髏被人借作屎杓了也」(「仏向上事」「岩波文庫」㈡一三五)による合楺と考察されます。「当巻」(仁治三年1242・五月二十一日)と「仏向上事」(仁治三年1242・三月二十三日)の提唱する時期を勘案すれば、「杓に作りて小便を汲むべし」と趙州の語言に思わせての、実は道元自身による造語であることが証明されます。

これに対する拈提部が、「坐禅辦道は、仏道の直路であり、究理坐看すべし」の文言で以て、趙州と道元の打坐に対する姿勢の一致を説かんとするものです。

後に雪峰義存(822―908)が、「古澗寒泉時如何」に対する趙州の答話の「苦」また「死」に対する称賛として、「趙州古仏」と発した語を此処で拈挙されるものです。因みに「眼蔵」に於いては『古仏心』『葛藤』『王索仙陀婆』各巻にて、この「趙州古仏」を取り挙げられ、『真字正法眼蔵』下八三則にも録されます。

 

    後半

大師因有僧問、如何是祖師西來意。師云、庭前柏樹子。僧曰、和尚莫以境示人。師云、吾不以境示人。僧云、如何是祖師西來意。師云、庭前柏樹子。この一則公案は、趙州より起首せりといへども、必竟じて諸佛の渾身に作家しきたれるところなり。たれかこれ主人公なり。いましるべき道理は、庭前柏樹子、これ境にあらざる宗旨なり。祖師西來意、これ境にあらざる宗旨なり。柏樹子、これ自己にあらざる宗旨なり。和尚莫以境示人なるがゆゑに。吾不以境示人なるがゆゑに。いづれの和尚か和尚にさへられん。さへられずは、吾なるべし。いづれの吾か吾にさへられん。たとひさへらるとも、人なるべし。いづれの境か西來意に罣礙せられざらん。境はかならず西來意なるべきがゆゑに。しかあれども、西來意の境をもちて相待せるにあらず。祖師西來意かならずしも正法眼藏涅槃妙心にあらざるなり。不是心なり、不是佛なり、不是物なり。

後半部にて標題で提示される「柏樹子」に対する提唱及び拈提作業の開始です。

「柏樹」は松に似た常緑針葉樹の高木で、無数に分化した小枝の周囲に糸杉状の葉が派生し、柏槇(びゃくしん)と呼ばれるものです。柏は時々と表記される事もありますが、栢は柏の俗字体で、「子」は接尾辞で意味はない。

「大師因有僧問、如何是祖師西来意。師云、庭前柏樹子。僧曰、和尚莫以境示人。師云、吾不以境示人。僧云、如何是祖師西来意。師云、庭前柏樹子」

本則出典籍は『趙州語録并行状巻』上(「続蔵」六八・七七)です。

大師(趙州真際)に因みに有る僧が問う、如何なるか是れ祖師西来の意。師云、庭前の柏樹子。僧曰、和尚は外在する(環)境で以て、人(僧)に示すこと莫れ。師云、吾は(外)境で人に示すものではない。僧云、如何なるか是れ祖師西来の意。師云、庭前(先)の柏樹子。

このような話頭を世間では禅問答と呼び慣らします。つまり問いと答えが一致しない、不合理・非論理的述法を指すものですが、互いの基本姿勢の齟齬が原因のようです。

「この一則公案は、趙州より起首せりと云えども、必竟じて諸仏の渾身に作家し来たれる処なり。誰かこれ主人公なり」

これより「庭前柏樹」の本則に対する拈提ですが、先ず「一則公案」と提言される公案の解釈は、問題ではなく現成公案する真実態を示すものです。

この「庭前柏樹」の本則は趙州は最初に提示したものですが、とどのつまり(必(畢)竟)は、諸仏の全身(渾身)が修行者(作家)として表現されたものであり、「誰かこれ主人公なり」と問い掛けの形態にされますが、この誰は「如何・恁麽・什麽」とも通底し、「つまり誰も皆、主人公の道理なるべし」(「註解全書」五・二五五)と詮慧の云う次第です。

「いま知るべき道理は、庭前柏樹子、これ境にあらざる宗旨なり。祖師西来意、これ境にあらざる宗旨なり。柏樹子、これ自己にあらざる宗旨なり。和尚莫以境示人なるが故に。吾不以境示人なるが故に。いづれの和尚か和尚に障えられん。障えられずは、吾なるべし。いづれの吾か吾に障えられん。たとい礙えらるとも、人なるべし」

ここで知るべき道理として、「祖師西来意」も「庭前柏樹子」も共に外境に対する位置づけではなく、同じく「柏樹」も自己他己的二元論ではないことを、経豪は『御抄』で「西来意も庭前柏樹子も僧も和尚も境も吾も人も、只各々の法の独立也」(「註解全書」五・二二六)と、心得るべき事と説き明かしています。

経豪が西来意も庭前柏樹子は独立の姿と指摘するは、「和尚莫以境示人」と云おうが「吾不以境示人」と云おうが、そこでは主客(境と人との関係)の構造はないのである。つづめて云えば、「和尚・吾」「莫・不」は境という現成公案に於いては、同事態として扱うものだからである。

この「和尚」は趙州だけを和尚と呼称するものではなく、いづれの和尚であっても差し障りはないのである。つまりは、趙州和尚という固有名詞から誰でもが、和尚たりうる普通名詞に一般化でき得るとの拈提です。さらに言うなら「吾」にも代替でき、そこにも収容できなければ「人」に収斂されるのである。ここでの言い分は、尽界での呼び名を和尚→吾→人へと普遍化することで、意味分節語言から無文節構造体に導く意味合いも含意されるようです。

いづれの境か西来意に罣礙せられざらん。境は必ず西来意なるべきが故に。しかあれども、西来意の境を持ちて相待せるにあらず。祖師西来意必ずしも正法眼蔵涅槃妙心にあらざるなり。不是心なり、不是仏なり、不是物なり」

どんな(環)境でも「西来意」の真実態に邪魔(罣礙)されるものではなく、眼前現成する真実態の「境」は必然的に真実態の西来意である。

そうではあるが、「西来意」を金科玉条の如くに用いて相い待たせるのではなく、その時々の眼前現成が「境」の真実態であることを説き、「祖師西来意」=「正法眼蔵涅槃妙心」にはあらざるなりとは、固定概念化を避ける為に敢えて、同じく「不是心・不是仏・不是物」なりと提言されます。謂う所は、一つの物事を以て真実態は説明できない譬えを、趙州の師である南泉の例言を使い説明するものです。

この「不是心・不是仏・不是物」の語法は、第三十六『阿羅漢』巻(仁治三年1242五がつ十五日)に使用され、その六日後での「当巻」示衆となります。

 

いま、如何是祖師西來意と道取せるは、問取のみにあらず、兩人同得見のみにあらざるなり。正當恁麼問時は、一人也未可相見なり、自己也能得幾なり。さらに道取するに、渠無不是なり。このゆゑに錯々なり、錯々なるがゆゑに將錯就錯なり。承虚接響にあらざらんや。豁達靈根無向背なるがゆゑに、庭前柏樹子なり。境にあらざれば柏樹子にあるべからず。たとひ境なりとも、吾不以境示人なり、和尚莫以境示人なり。古祠にあらず。すでに古祠にあらざれば埋没しもてゆくなり。すでに埋没しもてゆくことあるは、還吾功夫來なり。還吾功夫來なるがゆゑに吾不以境示人なり。さらになにをもてか示人する、吾亦如是なるべし。

本則に対する拈提後半です。

「いま、如何是祖師西来意と道取せるは、問取のみにあらず、両人同得見のみにあらざるなり。正当恁麼問時は、一人也未可相見なり、自己也能得幾なり。さらに道取するに、渠無不是なり」

いま僧が趙州に発した如何と道った事実は単なる問いだけではなく、また両人(僧と趙州)が同じ見解を得ていると云うのではない。とは、この二人のみの問題意識ではなく、一般論に展開できるぞ。と言う意味合いに受け取られます。

「正当恁麼問時」とは、西来意の質問そのものは。と解し、「一人也未可相見」(一人として相見することが出来ない)つまり西来意の真実相は、一人として見ることは出来なく、「自己也能得幾」(自己もまた能く幾(いくばく・無辺際)を得たる)謂う所は、自分もまた真実相は、どれほど得られようか。との意ですが言わんとする処は、真実態を把捉できるものではない事実を、このように表現されます。

さらに道うならば、「渠無不是」(かれ(全て)に不是は無い)云うならば、渠は尽十方界の眼前現成する事物・事象の真実態ばかりであり、不是なる実相態は無いことを説くのである。

「この故に錯々なり、錯々なるが故に将錯就錯なり。承虚接響にあらざらんや。豁達霊根無向背なるが故に、庭前柏樹子なり」

このように渠も吾も真実態の拈挙には及び得ませんから、そこには「錯々」と謙虚にならざる得ません。錯々と重複する語呂を借用するなら「将錯就錯」(錯(あやまり)を将って錯りに就く)と言われるように、世の中には握り拳を挙げて絶対真理を掲げる自信過剰な族の横行が眼に著きますが、『即心是仏』巻でも「学者多くあやまるによりて、将錯就錯せず。将錯就錯せざる故に、多く外道に零落す」(「岩波文庫」㈠一四〇)と説かれるように、黒山の鬼窟裏に入り込む危険性を教示する著語のようです。

この将錯就錯を別の詞で置換すると「承虚接響」(虚空を承けて響きを接ぐ)つまり、虚空には手応えが無いが、そこに響き(真実態)を接する事。さらに言うなら真実相とは、手中に収める事の出来ないものの喩えです。この四字熟語は『圜悟語録』二に於ける上堂「棒頭取証。撤土撒沙。喝下承当。承虚接響。向上向下。転更顢頂。説妙談玄。和泥合水。這一片田地―以下略」(「大正蔵」四七・七二〇上)に於いても確認される。

同じく「豁達霊根無向背」(広々とした大空には表裏がない)には、手応えの無さが祖師西来の実体であり、当時趙州の眼前に現成した柏樹の実相態が「庭前の柏樹子」であるとの拈提の肝要部です。

「境にあらざれば柏樹子にあるべからず。たとい境なりとも、吾不以境示人なり、和尚莫以境示人なり。古祠にあらず。すでに古祠にあらざれば埋没しもてゆくなり。すでに埋没しもてゆく事あるは、還吾功夫来なり。還吾功夫来なるが故に吾不以境示人なり。さらに何をもてか示人する、吾亦如是なるべし」

いま一度境と柏樹子との関係を拈じられますが、柏樹は外境として設定するものではない。と念押しし、よしんば外境であったとしても、趙州は「吾不以境示人」と言い、僧は「和尚莫以境示人」と云うから、柏樹は境ではないのである。

「古祠にあらず」の古祠とは孔子廟を指し、孔林の周囲には柏樹が植えてあり、その古祠の柏樹を伐った者は斬罪に処せられ、古祠には元来常住不変の意味が含意される。つまり、趙州の庭前の柏樹は古祠の如くに管理された樹木ではない為に、埋没してゆくと云い、絶対的真理ではないことを喩えるものです。

「還吾功夫来」の用法は『仏性』巻で説く「還我仏性来(我に仏性を還し来たれ)」(岩波文庫)㈠七九)と同じで、「すでに埋没しもてゆく事あるは、還吾功夫来」とは打坐時を言わんとするもので、自我を抑制することで本来面目に還るを、このように言明されるわけです。

還吾功夫来の本来自己に帰する事が、趙州の発する「吾不以境示人」なりとは、眼前に成ずる柏樹そのままが真実であり、本来面目を表徴するからである。これ以上の示しようがないわけであり、その状況を高みから俯瞰すると、六祖が南嶽に語りかけた「吾亦如是」と結語されます。

「庭前柏樹子」に対する拈提で説かんとする主旨は、問う僧と答うる趙州との同態性を「和尚」→「吾」→「人」にと収斂させ、趙州の最後に説く「柏樹子」なる真実態には擬議を呈し、常住不変なる事物はなく、万物流転する実相態を把捉するには、如何是祖師西来意に対しては、「吾亦如是」を僧に示すべきとの言明です。

私(筆者)にも登壇の機会を許されるならば、この合点しない僧に対しては「還見庭前柏樹子麽」(還たと庭前の柏樹が見えますか)と、本来自己身の無辺際を説かんとするものです。

 

大師有僧問、柏樹還有仏性也無。大師云、有。僧曰、柏樹幾時成仏。大師云、待虚空落地。僧曰、虚空幾時落地。大師云、待柏樹子成仏。いま大師の道取を聴取し、這僧問取をすてざるべし。大師道の虚空落地時、および柏樹成仏時は、互相の相待なる道得にあらざるなり。柏樹を問取し、仏性を問取す。成仏を問取し、時節を問取す。虚空を問取し、落地を問取するなり。いま大師の向僧道するに、有と道取するは、柏樹仏性有なり。この道を通達して、仏祖の命脈を通暢すべきなり。いはゆる柏樹に仏性ありといふこと、尋常に道不得なり、未曾道なり。すでに有仏性なり、その為体あきらむべし。有仏性なり、柏樹いまその次位の高低いかん。寿命身量の長短たづぬべし、種姓類族きくべし。さらに百千の柏樹、みな同種姓なるか、別種胤なるか。成仏する柏樹あり、修行する柏樹あり、発心する柏樹あるべきか。柏樹は成仏あれども、修行発心等を具足せざるか。柏樹と虚空と、有甚麼因縁なるぞ。柏樹の成仏、さだめて待你落地時なるは、柏樹の樹功、かならず虚空なるか。柏樹の地位は、虚空それ初地か、果位か、審細に功夫参究すべし。我還問汝趙州老、你亦一根枯柏樹なれば、恁麼の活計を消息せるか。おほよそ柏樹有仏性は、外道二乘等の境界にあらず、経師論師等の見聞にあらざるなり。いはんや枯木死灰の言華に開演せられんや。たゞ趙州の種類のみ参学参究するなり。

前回の「庭前柏樹子」の話頭の解釈を、大慧宗杲(1089―1163)は「趙州の関を打破せよ」(「大正蔵」四七・八四四上)と喝破し、宏智正覚(1091―1157)は頌古に於いて「老趙州は叢林を卒せず未体」(「大正蔵」四七・二二下)と古仏趙州を讃え、さらに長翁如浄(1162―1227)は六十歳での瑞岩寺晋山での話頭に「庭前柏樹子」を取り挙げ、「西来祖意庭前柏は鼻孔・眼睛に対し、柏樹の枯枝は地に落ちて、纔かに跳す」(「大正蔵」四八・一二五下)と、このように各自が拈提に供しますが、本巻最後の提唱話頭である「柏樹仏性」話は誰も拈提に供されず、恐らくは道元禅師以外には居ない者であろうか。

出典籍は『趙州語録之余』(「続蔵」六八・八四下)と思われますが、『祖堂集』十八では「柏樹仏性」は採録されますが、「庭前柏樹」ならびに「狗子仏性」話は不録の状況を考えると、この「柏樹仏性」話から前話頭等が派生したとも考えられます。

「大師有僧問、柏樹還有仏性也無。大師云、有。僧曰、柏樹幾時成仏。大師云、待虚空落地。僧曰、虚空幾時落地。大師云、待柏樹子成仏」

大師(趙州)に有る僧が問う、柏樹に還た仏性有りやまた無しや。大師云く、有り。僧曰く、柏樹は、いつ、成仏するか。大師云く、虚空が地に落ちる時を待て。僧曰く、虚空は、いつ、地に落ちるか。大師云く、柏樹の成仏するを待て。

「いま大師の道取を聴取し、這僧問取を捨てざるべし。大師道の虚空落地時、および柏樹成仏時は、互相の相待なる道得にあらざるなり。柏樹を問取し、仏性を問取す。成仏を問取し、時節を問取す。虚空を問取し、落地を問取するなり」

先ずは柏樹に仏性が有るか、と問う僧の質問を蔑ろにせず、趙州の説明(道取)を聴聞し、「虚空落地時」と「柏樹成仏時」は相対的・能所的観点から見るのではなく、「柏樹」「仏性」「成仏」「時節」「虚空」「落地」は一法究尽の法で以て、それぞれ独立した仏法で読み解きなさい。と提示されるものです。

「いま大師の向僧道するに、有と道取するは、柏樹仏性有なり。この道を通達して、仏祖の命脈を通暢すべきなり。いわゆる柏樹に仏性ありと云う事、尋常に道不得なり、未曾道なり」

趙州と僧との間には言語(ことば)に対する認識の違いを指摘する拈提です。僧の「柏樹有仏性」に対し「柏樹仏法有」でなければならないとの著語ですが、これは『仏性』巻での「趙州有僧問、狗子有仏性也無。趙州いはく、」に対する著語では「趙州有は狗子有なり、狗子有は仏性有なり」(「岩波文庫」㈠一二〇)であり、「狗子有仏性」→「狗子仏性有」一方『柏樹子』巻は「柏樹有仏性」→「柏樹仏性有」であり対比すれば、おのづと類同性が読み解かれます。

「柏樹有仏性」と「柏樹仏性有」の違いは、有仏性ならば柏樹が仏性という事物を有するですが、仏性有では柏樹は仏性として有る。と観察するものです。

この「柏樹仏性有」の言い分を「通達して、仏祖の命脈を通暢すべきなり」と、視野の角度を変えて仏祖との通路を歩みなさい。との言ですが、通達も通暢も同義語として使用されます。

僧が取り挙げた「柏樹に仏性あり」は、普通(尋常)では云い得ない(道不得)ことであり、これまでも未だ曾て問題とはしなかったのである。

「すでに有仏性なり、その為体明らむべし。有仏性なり、柏樹いまその次位の高低いかん。寿命身量の長短たづぬべし、種姓類族聞くべし。さらに百千の柏樹、みな同種姓なるか、別種胤なるか。成仏する柏樹あり、修行する柏樹あり、発心する柏樹あるべきか」

「有仏性」としての柏樹の様子(為体・ていたらく)を、擬人化的技法を以て説かれます。「有仏性」の柏樹としての位階の高低はどうか。種姓・類族は柏樹では〇目△科の何処に分類されるか。さらに他の百千の柏樹は同じ品種(種姓)か別の種類(種胤)であるのか。このように一本として同じ柏樹はないのであるから、そこには「成仏する柏樹」「修行する柏樹」「発心する柏樹」が有っても何ら差し支えはないのである。

「柏樹は成仏あれども、修行発心等を具足せざるか。柏樹と虚空と、有甚麼因縁なるぞ。柏樹の成仏、定めて待你落地時なるは、柏樹の樹功、必ず虚空なるか。柏樹の地位は、虚空それ初地か、果位か、審細に功夫参究すべし。我還問汝趙州老、你亦一根枯柏樹なれば、恁麼の活計を消息せるか」

先ほどは柏樹を擬人化しての技法と説明したように、「柏樹は成仏あれども、修行発心等を具足せざるか」とは、看話禅者に対するメタファー(暗喩)と受け取られます。つまり、印証の授受(成仏)は有っても、日常底に発心・修行は具足すべきである。との意味合いの拈提に為ります。

僧が問う「柏樹」と趙州が説く「虚空」とは、どんな因縁が有る(有甚麼因縁)のかと提示されます。

「柏樹の成仏」の条件としては「虚空落地時」ですから、擬人法での「待你落地時」と虚空を你と呼ぶわけで、その柏樹の本来面目(樹功)は、「必ず虚空なるか」と呈しますが、断定句として判断すべきは道元語法での特徴です。これは「柏樹と虚空」の一味態を、仏性の視点から拈ずるものです。

そこで、柏樹と虚空の一物なるを説きますから、「柏樹の地位は、虚空に於ける菩薩五十二位の初地か果位か」と問われる我々に対する拈提でもあるわけです。謂う所は、「発心・修行・菩提・成仏」や「皮・肉・骨・髄」の例言同様、「初地か果位か」と云った能所観法を改める事を「審細に功夫参究すべし」と忠言される拈提です。

このように、「柏樹有仏性」に対する趙州の言わずもがな処を述べられ、趙州に対する親しみを込めて「我は還たと汝趙州老人に問うが、你(趙州老)は一株(根)の枯れた柏樹とするならば、これまでの生き様(活計)を消息するか」と、趙州との対話を設定し、趙州うぃ讃嘆する条(くだり)とするものです。

「おおよそ柏樹有仏性は、外道二乗等の境界にあらず、経師論師等の見聞にあらざるなり。いわんや枯木死灰の言華に開演せられんや。ただ趙州の種類のみ参学参究するなり」

「柏樹有仏性」の本来面目は、無限定な「虚空」そのものですから、「外道」(概念の枠内に滞る者)や「二乗」(仏道修行で、理想。目的を有する者)さらには「経師論師」(経典や論部の字義探究者)などの境界見聞とは次元が異なると。

「枯木死灰の言華」とは、ここでは看話禅者が主張する枯木死灰(黙照禅)と称したりする連中の言華(言い草)では開演できるはずもなく、彼らの言句を外道二乗に組み込みます。ただ古仏と称される趙州の類いのみが参学し参究するなり。と、趙州の突出する禅風を讃えるものです。

 

いま趙州道の柏樹有佛性は、柏樹被柏樹礙也無なり、佛性被佛性礙也無なり。この道取、いまだ一佛二佛の究盡するところにあらず。佛面あるもの、かならずしもこの道得を究盡することうべからず。たとひ諸佛のなかにも、道得する諸佛あるべし、道不得なる諸佛あるべし

いはゆる待虚空落地は、あるべからざることをいふにあらず。柏樹子の成佛する毎度に、虚空落地するなり。その落地響かくれざること、百千の雷よりもすぎたり。柏樹成佛の時は、しばらく十二時中なれども、さらに十三時中なり。その落地の虚空は、凡聖所見の虚空のみにはあらず。このほかに一片の虚空あり、餘人所不見なり、趙州一箇見なり。虚空のおつるところの地、また凡聖所領の地にあらず。さらに一片地あり、陰陽所不到なり、趙州一箇到なり。虚空落地の時節、たとひ日月山河なりとも、待なるべし。たれか道取する、佛性かならず成佛すべしと。佛性は成佛以後の莊嚴なり。さらに成佛と同生同參する佛性もあるべし。

しかあればすなはち、柏樹と佛性と、異音同調にあらず。爲道すらくは何必なり、作麼生と參究すべし。

「いま趙州道の柏樹有仏性は、柏樹被柏樹礙也無なり、仏性被仏性礙也無なり。この道取、未だ一仏二仏の究尽する所にあらず。仏面ある者、必ずしもこの道得を究尽すること得べからず。たとい諸仏の中にも、道得する諸仏あるべし、道不得なる諸仏あるべし」

いま話題にしている「柏樹有仏性」の姿は、柏樹は柏樹に礙えられるも也(また)無しや(柏樹被柏樹礙也無)、仏性は仏性に礙えられるも也(また)無しや(仏性被仏性礙也無)と言い替えも可能である。意味する処は、柏樹と仏性とは相性が良く、それぞれがそれぞれを、邪魔するものでは無いと云う事です。

この「柏樹有仏性」の道取は、一仏二仏(一人二人)の究尽ではなく、仏の面を有する者が必ずしも、この言い分(道得)を究尽するとは限らず、諸仏であっても言い得る(道得)諸仏もあれば、言い得ない(道不得)諸仏も在るはずである。

ここでの説く主旨も、前々と同じく固定観念的見方ではなく、眼前現成する真実相は無常(アニッチャ)を主とするを言うものです。

「いわゆる待虚空落地は、有るべからざる事を云うにあらず。柏樹子の成仏する毎度に、虚空落地するなり。その落地響隠れざる事、百千の雷よりも過ぎたり。柏樹成仏の時は、しばらく十二時中なれども、さらに十三時中なり」

「虚空が地に落ちる」などとは常識では考えられない現象ですが、先述するように仏法的視点からは眼前現成する事物・事象は真実相である為、「虚空・大地」という分別智を除けば、柏樹の成仏(真実相)が「虚空落地」と等価を示しても何ら差し障りはないのです。

その地に落ちる響きは百千の雷電の音量以上ではあるが、分別智で以て聞量しても柏樹に成りきらなければ、聴き取る事は出来ないものです。

「その落地の虚空は、凡聖所見の虚空のみにはあらず。このほかに一片の虚空あり、余人所不見なり、趙州一箇見なり。虚空の落つる処の地、また凡聖所領の地にあらず。さらに一片地あり、陰陽所不到なり、趙州一箇到なり。虚空落地の時節、たとい日月山河なりとも、待なるべし。誰か道取する、仏性必ず成仏すべしと」

「落地の虚空」(虚空落地)と云っても「凡聖所見の虚空のみにはあらず」とは、一人一人各人の眼に映る「虚空」は千差万別を称えるもので、「「虚空」は単なる空虚な空間ではなく、眼・耳・鼻等には感覚されなくとも、様々な微細な粒子や宇宙線に満ち溢れ、真空であっても場のエネルギーが充満している現実からも、「このほかに一片の虚空あり」や「余人の見ざる所」と記述する所以が納得できるものです。

そこには、趙州の見る虚空落地があり、ほかの凡人聖人が領ずる所の土地ではなく、「さらに一片地あり」と七賢女が指示する「陰陽所不到(地)」を挙げ、同列に「趙州一箇到(地)」と記述し、「落地」の多種多様な真実相を示し、一面的理会を払拭させるが為の拈提です。

「虚空落地」を待つべし。との趙州の言句をも概念化させずの用語として「日月山河」をも待つべし。と付言し、趙州の後押しをする次第です。

「仏性」と「成仏」との同等性を誰が道取したであろうかと、趙州会下での丁々発止の問話・答話の精妙さを称賛する形です。

仏性は成仏以後の荘厳なり。さらに成仏と同生同参する仏性もあるべし。しかあれば則ち、柏樹と仏性と、異音同調にあらず。為道すらくは何必なり、作麼生と参究すべし」

「仏性」と「成仏」は異句同義語ですが、便宜的に「仏性は成仏以後」とするが、この手法は『仏性』巻にて「仏性の道理は、仏性は成仏より先に具足せるにあらず、成仏より後に具足するなり。仏性かならず成仏と同参するなり」(「岩波文庫」㈠八七)と詳述されます。

「仏性―成仏」と「同生―同参」との関係を先に異句同義語と述べましたが、改めて「柏樹」と「仏性」との関係を「異音同調にあらず」と釘を刺し、龍と蛇の似て非なる論調と同じように「柏樹」は何処までも柏樹であり、「仏性」は何時でも仏性で有る事への確認事項であり、仏法を説明(為道)するには、何ぞ必ず(何必)しもと云う全体を包接・包含し得る「作麼生」を参究しなければならない。との言句で、この「柏樹子」を終らせますが、柏樹一本に対する拈提に於いてなら、我々ならば問処は答処の如しのフレーズで以て、僧の「柏樹有仏性」を柏樹は仏性として有る。と捉えるから趙州は「有」と答え、次の「柏樹幾時成仏」の幾時は無限定な時節である為に、「虚空落地」との答話を以てし、「虚空幾時落地」に於いても同様なフレーズであるから、趙州は僧の前句「柏樹成仏」を以てする答話は、決して無理会な問答体ではなく、理路然とした日常語話である。と説くものですが、本文拈提では一語一句に対し多方面な観点からの論述を以てし、最後の「仏性は成仏以後の荘厳なり。さらに成仏と同生同参する仏性もあるべし。―中略―為道すらくは何必なり、作麼生と参究すべし」は、『現成公案』巻での「仏法の究尽と同生し同参する故にしかあるなり。―中略―証究すみやかに現成すと云へども、密有必ずしも見成にあらず、見成これ何必なり」(「岩波文庫」㈠五九)と異音同調する文体で以て擱筆するは、「眼蔵」に通底する一貫した説法術と考察可能です。