正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵家常

正法眼蔵第五十九 家常

おほよそ佛祖の屋裡には、茶飯これ家常なり。この茶飯の義、ひさしくつたはれて而今の現成なり。このゆゑに、佛祖茶飯の活計きたれるなり。

今回は「家常」についての提唱ですが、これは「よのつね」と読みます。

「おほよそ仏祖の屋裡には、茶飯これ家常なり」

「茶飯」は喫茶喫飯の略語で、仏祖の家の中では茶飯がよのつねとの事ですが、一般には「日常茶飯事」の諺で馴れ使われます。

「この茶飯の義、ひさしくつたはれて而今の現成なり。このゆゑに、仏祖茶飯の活計きたれるなり」

喫茶喫飯の意味は伝来されて、今このように現成される。こういうことで仏祖の茶飯という生き方に至っている。

このように云う事ができますが、そもそも此巻にて、「茶飯」を取り扱う切っ掛けは、道元禅師が「祖師西和尚」と仰ぐ栄西(1141―1215)が建保二(1214)年に著した『喫茶養生記』が念頭にあった可能性が考えられますが、この「家常」巻は寛元元(1243)年の書でありますから『喫茶養生記』からは三十年の月日が経過していますが、強豪和尚によると、「この茶飯世間出世まことに世の常の儀、雲堂裏の茶飯世間にも打任たる儀」(『御抄』)と云う世情を窺うことができる。

 

大陽山楷和尚、問投子曰、佛祖意句、如家常茶飯。離此之餘、還有爲人言句也無。投子曰、汝道、寰中天子勅、還假禹湯堯舜也無。大陽擬開口。投子拈拂子掩師口曰、汝發意來時、早有三十棒分也。大陽於此開悟、禮拝便行。投子曰、且來闍梨。大陽竟不回頭。投子曰、子到不疑之地耶。大陽以手掩耳而去。

しかあれば、あきらかに保任すべし、佛祖意句は、佛祖家常の茶飯なり。家常の茶淡飯は、佛意祖句なり。佛祖は茶飯をつくる。茶飯、佛祖を保任せしむ。しかあれども、このほかの茶飯力をからず、このうちの佛祖力をつひやさざるのみなり。還假堯舜禹湯也無の見示を、功夫參學すべきなり。

離此之餘、還有爲人言句也無。この問頭の頂を參跳すべし。跳得也、跳不得也と試參看すべし。

本則は『聯灯会要』・二十八・東京浄因道楷禅師章を典拠とします。

曹洞宗門では第四十五世芙蓉道楷(1043―1118)大和尚として登場します。投子(1032―1083)は師匠に当たり投子義青のことです。

読みは、

大陽山楷和尚、投子に問うて日く、仏祖の意句は、家常の茶飯の如し。此れを離れて余(ほか)に、還(かえっ)で為人の言句有りや無しや。

投子日く、汝道うべし、寰中(天子の直轄領)の天子勅(命)するに、還って禹湯堯舜を仮るや無しや。

大陽、開口を擬す。

投子、払子を拈じて師の口を掩いて日く、汝発意より、早くに三十棒の分あり。(会要は二十棒)

大陽此に開悟し、礼拝して便ち行く。

投子日く、且来(ちょっと来なさい)闍梨。

大陽、意(つい)に回頭せず。

投子日く、子(なんじ)不疑の地に到れりや。

大陽、手を以て耳を掩いて去る。

「しかあれば、あきらかに保任すべし、仏祖意句は、仏祖家常の茶飯なり。家常の茶淡飯は、仏意祖句なり。仏祖は茶飯をつくる。茶飯、仏祖を保任せしむ。」

「保任」は保護任持の略語で、自分のものとして大事にすることを云い、「仏祖意句は仏祖家常の茶飯」は本則のままで、云い換えて家常の麁茶淡飯(そまつな茶・味がない飯)は仏意祖句と仏祖意句の語句を入れ換えます。この場合の「意句」は教えと訳します。

「仏祖は茶飯をつくる、茶飯仏祖を保任せしむ」

ここでの仏祖とは人物を指すのではなく、「真実・事実」を仏祖と呼ばしめるもので、仏祖―茶飯(日常底)共に同時事として保任(大事に)せよとの拈提です。

「しかあれども、このほかの茶飯力をからず、このうちの仏祖力をつひやさざるのみなり」

そうではあるけれども(しかあれども)先に云う日常底(茶飯)以外の事は借らず、先に云う仏祖と茶飯は同列に配せられますから、余分な日常底は浪費はしないと。

「還仮堯舜禹湯也無の見示を、功夫参学すべきなり」

投子義青が芙蓉道楷に云った「かえって(また・はた)堯舜禹湯という古代の天子力を借りるかどうか」の指示を、もう一度考えなさいとの提言です。

「離此之余、還有為人言句也無。この問頭の頂寧を参跳すべし。跳得也、跳不得也と、試参看すべし」

芙蓉道楷が師匠に云った、仏祖の教え(意句)は家常茶飯の如し。「この家常茶飯を離れて余(ほか)に、還って人に説くことは(言句)はありますか」という問頭(問い)の頂寧(真骨頂)を参跳(飛び越える)しなさい。そこで跳得できたか跳不得だったかを、よく(試)参看(観察)しなさいとの提唱ですが、「頂寧を参跳」とは百尺竿頭的意味合いが有り、とにかく理屈で考えるより実行しなさいと。つまりは坐の中から跳得・跳不得と云う「日常茶飯」・「平常底」を行持しなさいと、「禅師峰衆」に問いかける肉薄説法です。

 

南嶽山石頭庵無際大師いはく、吾結草庵無寶貝。飯了從容圖睡快。道來道去、道來去する飯了は、參飽佛祖意句なり。未飯なるは未飽參なり。しかあるに、この飯了從容の道理は、飯先にも現成す、飯中にも現成す、飯後にも現成す。飯了の屋裡に喫飯ありと錯認する、四五升の參學なり。

本則は『景徳伝灯録』・三十・石頭和尚草庵歌冒頭部の引用です。

石頭希遷(700―790)で代表されるものとしては、「竺土大仙の心、東西密に相い付す」で始まる『参同契』等がありますが、今回の本則の読みは、「われ草庵を結んで宝貝なく、飯了して従容として睡快を図る。」

「道来道去、道来去なる飯了は、参飽仏祖意句なり。未飯なるは未飽参なり」

「道来道去」は、来たと云い行ったと云う道で、このことが「飯了」に対する拈語ですが、ここでの「飯了」はごはんが終わったという意ではなく、「仏道修行と茶飯」に解し、この「飯了」が「参飽仏祖意句」なりとは、仏祖の意句(教え)を参飽(満足)させると。次に「飯了」の対峙語「未飯なるは未飽参」なりと導きますが、ここに云う「未飯」も「未飽参」も否定言辞ではありません。

「しかあるに、この飯了従容の道理は、飯先にも現成す、飯中にも現成す、飯後にも現成す」

そこで本則に云う「飯了従容」(ご飯を食べゆったり(従容))の拈提は、飯了(○)だけではなく飯先(○)にも飯後(○)にも、同じく「従容」が同体しても差し支えはないと。

「飯了の屋裡に喫飯ありと錯認する、四五升の参学なり」

飯了(修行)の中に喫飯ありと錯認(錯まりを認める)し続けること。つまり四五升の参学なり。「四五升」は此処では「飯」についての拈提ですから米の単位の「升」を使用し、又『観音』巻の於ける「道得は八九(○○)成(○)なりとも、道取すべきを八九(○○)成(○)に道取すると、十(○)成(○)に道取するとなるべし」の「八九成」と「四五升」は同義語です。また「錯認」は『即心是仏』巻「学者多くあやまるによりて、将錯就錯(○○○○)せず。将錯就錯せざるゆゑに、多く外道に零落す」に於ける「諸錯就錯」と「錯認」は同意語です。

 

先師古佛示衆曰、記得、僧問百丈、如何是奇特事。百丈曰、獨坐大雄峰。大衆不得動著、且教坐殺者漢。今日忽有人問淨上座、如何是奇特事。只向佗道、有甚奇特事。畢竟如何。淨慈鉢盂、移過天童喫飯。

佛祖の家裏にかならず奇特事あり。いはゆる獨坐大雄峰なり。いま坐殺者漢せしむるにあふとも、なほこれ奇特事なり。さらにかれよりも奇特なるあり、いはゆる淨慈鉢盂、移過天童喫飯なり。奇特事は條々面々みな喫飯なり。しかあれば、獨坐大雄峰すなはちこれ喫飯なり。鉢盂は喫飯用なり、喫飯用は鉢盂なり。このゆゑに淨慈鉢盂なり、天童喫飯なり。飽了知飯あり、喫飯了飽あり。知了飽飯あり、飽了更喫飯あり。しばらく作麼生ならんかこれ鉢盂。おもはくは、祗是木頭にあらず、黒如漆にあらず。頑石ならんや、鐵漢ならんや。無底なり、無鼻孔なり。一口呑虚空、虚空合掌受なり。

本則出典は『如浄語録』・下からのもので、同則は『永平広録』・二・147則(寛元四(1246)年二月頃)に「至晩上堂」として取り扱われます。読みは

先師古仏示衆に日く、

記得す、僧、百丈に問う、如何が是れ奇特の事。

百丈日く、独坐大雄峰。

大衆、動著すること得ざれ、且(しばら)く者漢を坐殺せしめん。

今日忽ちに人有って浄上座に問う、如何が是れ奇特の事。

ただ他に向かって道うべし。

甚(なに)の奇特の事有らん、畢竟如何。浄慈の鉢盂、天童に移過して喫飯す。

「記得」とは覚えている、記憶するの意で、得は助詞。「奇特」は奇妙特別又は奇特玄妙の略語。「坐殺」の意は坐禅そのものに成りきることを云い、殺は坐を強調する為の助詞。

「仏祖の家裏にかならず奇特事あり。いはゆる独坐大雄峰なり。いま坐殺者漢せしむるにあふとも、なほこれ奇特事なり。さらにかれよりも奇特なるあり、いはゆる浄慈鉢盂、移過天童喫飯なり。奇特事は条々面々みな喫飯なり。」

これから本則に対する拈提ですが、ここは本則のことばを列記しただけで何ら難解語は有りませんが祖意は、仏祖(真実)の家裏(内)には奇特事(平常底・日常底)があり、ただ一人しき坐るだけ。それより奇特(平生)は如浄が浄慈寺から天童寺に移動してご飯を食べることで、「条々面々喫飯」の語がここでの拈提の主旨です。

「しかあれば、独坐大雄峰すなはちこれ喫飯なり。鉢盂は喫飯用なり、喫飯用は鉢盂なり。このゆゑに浄慈鉢盂なり、天童喫飯なり。飽了知飯あり、喫飯了飽あり。知了飽飯あり、飽了更喫飯あり。」

「独坐大雄峰すなはちこれ喫飯なり」とは論理の飛躍に思われる云い様ですが、「独坐」も「喫飯」も日常底・平常底と云うキ―ワ―ドで結合しても何ら疑問は生じません。

「鉢盂」はサンスクリット語「パトラ」からの音訳語で日本語では「応量器」と呼ばれますが、上座仏教でも日本の禅宗でも共に「托鉢」という行持で以て「鉢」の形状・材質等は違っても「家常」を行っているわけです。「鉢盂は喫飯用」とは字義そのままで、「浄慈鉢盂」とは浄慈寺の鉢盂という事で、それが天童寺に移っての事ですから「天童喫飯」なりとは本則そのままです。

『御抄』では「鉢盂と喫飯とは不可各別、鉢盂も尽法界、喫飯も尽界」と註解されます。

「喫飯知飯」とは満腹に食べて飯を知る、「喫飯了飽」は食べ終わったら満腹する、「知了飽飯」はご飯を食べようと思ったら満腹する、「飽了更喫飯」は腹いっぱいになって更に飯を食う。と云いますのは日常生活を喫飯の立場から具体例を述べ、喫飯一ツ取り上げても一様ではない現成のあらわれを説明するものです。

「しばらく作麼生ならんかこれ鉢盂。おもはくは、祗是木頭にあらず、黒如漆にあらず。頑石ならんや、鉄漢ならんや。無底なり、無鼻孔なり。一口呑虚空、虚空合掌受なり。」

「鉢盂」について「木黒石鉄」という形状に留まらず、「鉢盂無底」は鉢盂の功徳底無し、つまり限りが無い状況を云い、「鉢盂無鼻孔」とは鉢盂の脱落・解脱した喩えでこう表現します。

「一口呑虚空、虚空合掌受」とは『遍参』巻で説いた「虚空絶路、清涼鼻孔裏入来」に通底するもので、応量器からの一口と虚空とが連関しする状況を「呑虚空・合掌受」との拈提でしょうか。

 

先師古佛、ちなみに台州瑞巖淨土禪院の方丈にして示衆するにいはく、飢來喫飯、困來打眠。爐亙天。

いはゆる飢來は、喫飯來人の活計なり。未曾喫飯人は、飢不得なり。

しかあればしるべし、飢一家常ならんわれは、飯了人なりと決定すべし。困來は困中又困なるべし。困の頂上より全跳しきたれり。このゆゑに、渾身の活計に、都撥轉渾身せらるゝ而今なり。打眠は佛眼法眼、慧眼祖眼、露柱燈籠眼を假借して打眠するなり。

本則は『如浄語録』・上・台州瑞巌寺からのものですが、寧波(ニンポ―)から南に行った同じ浙江省内の寺院ですが、瑞巌浄土禅院と云うのは当時の呼称でしょうか。

飢来喫飯・飢え来れば飯を喫し、困来打眠・つかれたら眠る。炉韛互天・

ふいごの火が天に届く。との意ですが、云わんとする処は、家常(日常)である当たり前の出来事(喫飯打眠)は、実はふいごの燃え盛る火の如くに偉大性を云うものです。

「いはゆる飢来は、喫飯来人の活計なり。未曾喫飯人は、飢不得なり」

飢え来ると云うのは、飯を食いに来る人の活計(いとなみ)であり、逆に未だ飯を食べたことのない人は飢不得・飢えることはない。とのことで、「飢」と「飯」との関係は不離不即の関係で、腹が減ったら飯を食い、時が経てばまた空腹になると云うことです。

「しかあればしるべし、飢一家常ならんわれは、飯了人なりと決定すべし。困来は困中又困なるべし。困の頂寧上より全跳しきたれり」

前の言句を承けて一ツの飢えを家常(日常)とする自分は飯了人(満腹)であると決定(自覚・認識)せよと、先ほど同様「飢」と「飯」との円環性を説きます。

「困来」についての拈提では、困・つまり疲れは疲れの中で更に疲れる(困来は困中又困)と説かれ、困という頭の頂上で全跳とびはねていると。所謂は「全困」の道理を云うわけです。

「このゆゑに、渾身の活計に、都撥転渾身せらるる而今なり。打眠は仏眼法眼、慧眼祖眼、露柱燈籠を仮借して打眠するなり」

渾身(ぜんしん)の活計(いとなみ)は、都撥転渾身(都(すべ)渾身を撥転(はねころばせる)する而今なり。とは先程からの喫飯にしろ困来にせよ、すべて渾身という事実を透過して、手を動かし口を動かしし動作する(できる)を都撥転渾身と云う漢語とも日本語とも云われぬ表現で現出させ、

「打眠」の拈提では、仏行としての「眠り」と捉えます。所謂仏の眼・法の眼・慧の眼・祖の眼・更に露柱燈籠(日常底)の眼を仮ての「行仏打眠」との認識で、この則に対する拈提の要旨は「飢来」・「喫飯」・「困来」・「打眠」と云われる「家常」なるも渾身と一体化した「行持仏行」との提言です。

 

先師古佛、ちなみに台州瑞巖淨土禪院の方丈にして示衆するにいはく、飢來喫飯、困來打眠。爐亙天。

いはゆる飢來は、喫飯來人の活計なり。未曾喫飯人は、飢不得なり。

しかあればしるべし、飢一家常ならんわれは、飯了人なりと決定すべし。困來は困中又困なるべし。困の頂上より全跳しきたれり。このゆゑに、渾身の活計に、都撥轉渾身せらるゝ而今なり。打眠は佛眼法眼、慧眼祖眼、露柱燈籠眼を假借して打眠するなり。

先師古佛、ちなみに台州瑞巖寺より臨安府淨慈寺の請におもむきて、上堂にいはく、

  半年喫飯坐峰  坐斷烟雲千萬重

  忽地一聲轟霹靂  帝郷春色杏花紅

佛代化儀の佛祖、その化みなこれ坐峰喫飯なり。續佛慧命の參究、これ喫飯の活見なり。坐峰の半年、これを喫飯といふ。坐斷する烟雲いくかさなりといふことをしらず。一聲の霹靂たとひ忽地なりとも、杏花の春色くれなゐなるのみなり。帝郷といふは、いまの赤々條々なり。これらの恁麼は喫飯なり。峰は瑞巖寺の峰の名なり。

本則は『如浄語録』・上・台州瑞巌録からの引用で、前段も同寺録からのものですが浄土禅院という呼称とし、此段では語録のままに台州瑞巌寺との使い分けは何がしかの含意が有るのでしょうか。

半年喫飯して鞔峰(ばんぽう)に坐す、

坐断の烟(煙)雲(えんうん)千万里。

忽地の一声轟霹靂、

帝郷の春色杏花紅なり。

「仏代化儀の仏祖、その化みなこれ坐峰喫飯なり。続仏慧命の参究、これ喫飯の活見なり」

「仏代化儀」は仏様に代わってする教化の儀と解し、その化(教化)みなこれ「坐鞔峰喫飯なり」とは、鞔峰つまり台州瑞巌寺にての坐喫飯(家常・日常)が仏の行持であると。この坐喫飯こそが「続仏慧命の参究」所謂仏の慧命を続(つ)ぐことであり、「活計見成」日常のいとなみが顕現していると。

「坐峰の半年、これを喫飯といふ、坐断する烟雲いくかさなりといふことをしらず」

此処は文章そのままの意ですが、坐断する烟雲とは瑞巌寺での日々の家常態を云うものです。

「一声の霹靂たとひ忽地なりとも、杏花の春色くれなゐなるのみなり」

此処も前処同様に漢文を訓読みにしたもので、霹靂を春色との対比を説きながら、ともども家常であると。

「帝郷といふは、いまの赤赤条条なり。これらの恁麼は喫飯なり、峰は瑞巌寺の峰の名なり」

「帝郷」と云うと普通は中心部的な都を連想しがちですが、限定された地域を云うものではなく尽法界を指すと理解します。「赤赤条条」とは、「物もなくさっぱりしたさま」(『新選漢和辞典』・小学館)を云うものですから、道元禅師の頭の中では「禅師峰寺」・もしくは「吉嶺寺」を想定された可能性もあります。

これら(修行道場)の恁麼(あるべき)はただ(○○)飯を喫すことが家常の行持であると。

最後に鞔(ひきづな・おおう)峰と云うのは瑞巌・お寺の峰の名であると付言しての拈提でした。

 

先師古佛、ちなみに明州慶元府の瑞巖寺の佛殿にして示衆するにいはく、黄金妙相、著衣喫飯、因我禮儞。早眠晏起。咦。談玄説妙太無端。切忌拈花自熱瞞。

たちまちに透擔來すべし、黄金妙相といふは著衣喫飯なり、著衣喫飯は黄金妙相なり。さらにたれ人の著衣喫飯すると摸索せざれ、たれ人の黄金妙相なるといふことなかれ。かくのごとくするはこれ道著なり。因我禮儞のしかあるなり。我既喫飯、儞揖喫飯なり。切忌拈花のゆゑにしかあるなり。

本則は『如浄語録』・上・明州瑞巌語録からのものですが、おそらくは晋山での法語だと思われます。明州(めいしゅう)とは「中国の宋代から栄えた浙江省商業都市。現在の寧波(ニンポー)のことで、唐代では明州として南海貿易の港市として発展。宋代では広州・杭州と共に市舶司が設置された。明・清では寧波と称された。(インターネット)

本則の読みは、

黄金の妙相著衣喫飯

因って我れ你を礼す

早眠晏起す

咦・談玄説妙 太(はなは)だ無端

切に忌む 拈花自から熱瞞することを。

「黄金の妙相」とは仏様で、「著衣喫飯」は袈裟を著けて行鉢することで、つまりは修行僧を云い、「因我礼你」は我れ(如浄)は你(仏)を礼す、「早眠晏起」は早く眠り晏(おそ)く起きる。咦(失笑するさま・呼ぶ声)、「談玄説妙太無端」は玄妙を説き談ずるは、はなはだしょうもなく、「切忌拈花自熱瞞」は拈花微笑で以て自身が熱くなって自己を瞞ずることを切に忌む、と訳す。

「たちまちに透担来すべし、黄金妙相といふは著衣喫飯なり、著衣喫飯は黄金妙相なり」

今すぐ(たちまち)に著衣喫飯・早眠晏起なる自己の真実を透過して担(かついで)来なさい、との言句が道元禅師の親切語です。黄金妙相云々は字義のままです。

「さらにたれ人の著衣喫飯すると摸索せざれ、たれ人の黄金妙相なるといふことなかれ」

だれかれが著衣喫飯なり黄金妙相をしているかを云わず索めず、ただ只管に自己の著衣喫飯・早眠晏起に努めよとの言です。

「かくのごとくするはこれ道著なり。因我礼你のしかあるなり。我既喫飯、你揖喫飯なり。切忌拈花のゆゑにしかあるなり」

かくのごとく(著衣喫飯・早眠晏飢等)するは道(ことば)著であると。この場合の「道」は言語分析ではなく、形態(フォルム)を示唆することだと思われます。ですから本則で云うように黄金の妙相である著衣喫飯人には自ずと礼拝せられること、しかあるなり。我れ既に喫飯す、你喫飯を揖す、の「揖」(いつ)は「両手を胸の前で組み合わせおじぎする」ことであり、先程は我れ你を礼したわけですから、逆に你が揖(礼)することは相互不可分の関係です。所謂(つまり)は拈花微笑と云う化儀で以て高飛車な接化を切に忌むことが此段の要点ですから、「因我礼你」・「我既喫飯」・「你揖喫飯」と云う連関性が拈提されるわけです。

 

福州長慶院圓智禪師大安和尚、上堂示衆云、大安在潙山三十來年、喫潙山飯、潙山屎、不學潙山禪。只看一頭水牯牛。若落路入草便牽出。若犯人苗稼即鞭撻。調伏既久、可憐生、受人言語。如今變作箇露地白牛。常在面前、終日露回々地。趁亦不去也。

あきらかにこの示衆を受持すべし。佛祖の會下に功夫なる三十來年は喫飯なり。さらに雜用心あらず。喫飯の活計見成するは、おのづから看一頭水牯牛の標格あり。

本則は『景徳伝灯録』・九・福州大安禅師章が典拠と思われます。

「大安、潙山に在ること三十年来なり。潙山の飯を喫し、潙山の屎(し)を屙(あ)して、潙山の禅を学せず。ただ一頭の水牯牛を看す。若し落路入草すれば便ち牽出(けんしゅつ)す。若し人の苗稼(びょうか)を犯さば即ち鞭達(べんたつ)す。調伏既に久しければ、可憐生(いとおし)、人の言語を受く。如今、変じて箇の路地の白牛と作り、常に面前に在って、終日露回回(ろけいけい)地なり。趁(お)えども亦た去らず。」

福州長慶院円智禅師大安和尚(793―883)は長慶大安と呼ばれ百丈懐海(749―814)の法嗣と云われるが、一説には潙山霊祐(七七一―八五三)の法を嗣いだとも云われ、本則に云うように潙山の山上にて三十年過ごし、霊祐寂後に潙山に住したことで、後大潙(ごだいゐ)和尚とも云われ、その消息は『行持上』巻(仁治三(1242)年四月五日書于観音導利興聖宝林寺)でも拈提されます。猶『行持上』巻では在山年数を「二十年」としますが、『景徳伝灯録』では「三十年」としますから、書写段階でのミスコピーの可能性も考えられます。

因みに『行持上』巻での拈提は次のようです。

「しるべし、一頭の水牯牛は二十年在潙山の行持より牧得せり。この師、かつて百丈の会下に参学しきたれり。しづかに二十年中の消息おもひやるべし、わするる時なかれ。たとひ参潙山道する人ありとも、不参潙山道の行持はまれなるべし」

「潙山の飯を喫し、潙山の屎を屙(大小便)して」とは潙山での生活を云い、「潙山の禅を学せず」とは前段で説いた「拈花」接得的ものは行じなかったと云う事で、「一頭の水牯牛」とは長慶大安自身を指すもので、「若し落路入草すれば便ち牽出す」とは牛(大安和尚)が道草したり、草むらに入り込めば引っ張り出しと。この場合の「牛」を心・「草」を無明に喩えることもでき、「若し人の苗稼を犯さば鞭撻」は他人のなえどこに侵入すれば鞭(むち)打つ。「調伏既に久しければ」以下のように飼い馴らすと、「可憐生」かわいく、いとおしくなり、人のことばも聞いてくれると。「如今変じて箇の露地の白牛と作る」は今は変わって野良牛から、『法華経』譬喩品で説く処の鹿車・羊車以外の白牛となったと。「終日露回回なり」の回は迥に置き換えることもでき、露回回とはありありと現在するさまを云い、「趁(お)えども亦去らず」追いかけても去らず、つまりは白牛の境地を云います」

これから拈提に入ります。

「あきらかにこの示衆を受持すべし。仏祖の会下に功夫なる三十年来は喫飯なり、さら

に雑用心あらず」

文章のままに解し、雑用な心地は喫飯という家常(日常)以外に仏祖の功夫はないとの言です。

「喫飯の活計見成するは、おのづから看一頭水牯牛の標格あり」

ここでは喫飯と水牯牛の同時同等性を説くのですが、二ツの事象は目立たぬシンボリックに喩えるもので、標格とは目印又は法則・きまりと云う意がある。

 

趙州眞際大師、問新到僧曰、曾到此間否。僧曰、曾到。師曰、喫茶去。又問一僧、曾到此間否。僧曰、不曾到。師曰、喫茶去。院主問師、爲甚曾到此間也喫茶去、不曾到此間也喫茶去。師召院主。主應諾。師曰、喫茶去。

いはゆる此間は、頂にあらず、鼻孔にあらず、趙州にあらず。此間を跳脱するゆゑに曾到此間なり、不曾到此間なり。遮裏是甚麼處在、祗官道曾到不曾到なり。このゆゑに、

先師いはく、誰在畫樓沽酒處、相邀來喫趙州茶。

しかあれば、佛祖の家常は喫茶喫飯のみなり。

 

 正法眼藏家常第五十九

爾時寛元元年癸卯十二月十七日在越宇禪師峰下示衆

同二年壬辰正月一日書冩之在峰下侍者寮 懷弉

本則は『聯灯会要』・六・趙州章に記載されます。読みは

「新到の僧に問うて日く、曾て此間(ここ)に到れりや否や。

僧日く、曾て到る。

師(趙州)日く、喫茶去。

又(別の)一僧に問う、曾て此間に到れりや否や。

僧日く、不曾到。

師日く、喫茶去。

院主が師に問う、甚(なに)としてか曾到此間も喫茶去、不曾到此間も喫茶去か。

師、院主を召す(呼ぶ)

(院)主応諾(答)す。

師日く、喫茶去。

この則は『真字正法眼蔵』・下・三十三則にも取り上げられます。小拙の「注記ノート」には「趙州が説く仏法は、だれに対しても分け隔てを設けず、すべての人が雲水である為、同一条件を与える。また此間は場所(方丈)ではなく、真実地(悟法等)を得たかと云う問いである」と記される。

また「喫茶去」の意であるが曹洞宗門では、「まあ、お茶でも召し上がれ、喫茶という日常生活のありようが、実は仏法そのものを表現する。(『禅学大辞典』・大修館書店)

また『禅語辞典』・入矢義高監修・思文閣出版では、「喫茶去」を「茶を飲んで来い。お茶を飲みに行け。茶堂(茶寮)へ行って茶を飲んでから出直して来いと云う意」とし、「まあ、お茶でも召し上がれ」ならば「且坐喫茶」でなければならぬと説く。

「いはゆる此間は、頂寧にあらず鼻孔にあらず、趙州にあらず。此間を跳脱するゆゑに曾到此間なり、不曾到此間なり。遮裏是甚麼処在、祇管道曾到不曾到なり」

「此間」とは「ここ」という意ですが、拈提では頭の上や鼻の穴ましてや趙州などと云う場所はなく、一ツの固定的「此間」を飛び越えさせ曾不曾という表裏の関係で説明され、「此間」を「家常」と設定します。

遮裏(しゃり)是(これ)甚麼(なに)の処在は黄檗希運(―856)の云う言句で「ここはいったいどこだ」といった意です。(『行持・上』巻参照)祇管に道う曾到不曾到なりと。

「このゆゑに、先師いはく、誰在画楼沽酒処、相邀来喫趙州茶。しかあれば、仏祖の家常は喫茶喫飯のみなり」

先師云くの古則は『如浄語録』・下・冬夜小参に於ける最後部の言句で、「誰か画楼沽酒の処に在って、相邀(むか)へ来て趙州の茶を喫せん」と読み、各識者の訳文では、「酒場にて相向かいて趙州産のお茶を飲することがあろうか。」と解され、拈提は「しかあれば、仏祖の家常は喫茶喫飯のみなり」と続くわけですから、この場合の如浄和尚の云わんとする処は『御抄』で云う「趙州の茶を喫する程の所はいかなる所にても喫すべし」との言に従うべきだと思います。

今回の提唱も『如浄語録』からの引用が五則と突出し、その前後に芙蓉道楷・石頭希遷・長慶大安・趙州従諗各和尚の話頭を配置しての提唱でしたが、七十五巻眼蔵配列では第六十が『三十七品菩提分法』巻を配し、第六十一に『龍吟』巻を置きますが、第五十六『見仏』巻・第五十七『遍参』巻・第五十八『眼晴』巻・第五十九『家常』と配置されますから「禅師峰」と云う他所(○○)での説法という事情から察すると第六十に『龍吟』巻を配置したくなりますが、次回の『三十七品菩提分法』巻・『龍吟』巻にて考究したく思います。