正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵看経

正法眼蔵第三十 看経

    序

阿耨多羅三藐三菩提の修證、あるいは知識をもちゐ、あるいは經巻をもちゐる。知識といふは、全自己の佛祖なり。經巻といふは、全自己の經巻なり。全佛祖の自己、全經巻の自己なるがゆゑにかくのごとくなり。

前巻「山水経」に続いての「看経」の配列となり、前巻の示衆年月日仁治元年(1240)十月十八日よりは一年後の仁治二年(1241)九月十五日に開示されます。第十九に配列される「古鏡」の示衆は仁治二年九月九日の重陽日とされますが、その一週間後に、この『看経』巻の開示となった事情を考慮すれば、明らかに「経」のキーワードに範を設けた思想哲学書に列位するものです。

「阿耨多羅三藐三菩提の修証、或いは知識を用い、或いは経巻を用いる。知識と云うは、全自己の仏祖なり。経巻と云うは、全自己の経巻なり」

この冒頭文にて仏法に於ける「看経」の主旨が述べられます。「阿耨多羅三藐三菩提」は的確な和訳がない為に梵語を漢字に写した言葉で、ここでは「生命活動」を称してこの語の解意とします。

その生命の本質の修行と実証(修証)には、知識(指導者)或いは経巻(真実通底眼)を用いるのである。そこで知識の具体的解説にて、「全自己の仏祖」とされますが、全自己とは主客を透徹した立場ですから、法界が全自己の場合は全自己ばかりで、法界が全他己であるなら全他己のみで、その全自己・全他己を異句同義で以て仏祖と呼ぶものです。つまり知識は法界=尽十方界その事実を「知識」と規定し、同様に経巻の位置付けも「全自己の経巻」とし、全自己は尽十方界と同義語ですから尽界の現成認得が「経巻」と為ります。さらに考究するなら阿耨菩提の云い替えを「全自己」であるとも云い得ます。

一方、詮慧和尚は『聞書』に於いて「知識を云えば、汝得吾皮肉骨髄也、これ全自己なり。経巻を云えば諸法実相也、これ全自己なり。是等を知らずして、只知識経巻と云う事詮無き事也」(「註解全書」三・四一)と、より具体的に知識・経巻を指摘されます。

「全仏祖の自己、全経巻の自己なるが故にかくの如くなり」

「全仏祖の自己」とは「全自己の仏祖」を言い改めた形で常の論法ですが、「全自己の仏祖・経巻」の表現形態では、自己に対する仏祖や経巻との能化所化にも論及されがちと為りますから、「仏祖」と「自己」を入れ替える事で、能所泯亡を計るものと思われます。

    一

自己と稱ずといへども我儞の拘牽にあらず。これ活眼睛なり、活拳頭なり。しかあれども、念經看經誦經書經受經持經あり。ともに佛祖の修證なり。しかあるに、佛經にあふことたやすきにあらず。於無量國中、乃至名字不可得聞なり、於佛祖中、乃至名字不可得聞なり、於命脈中、乃至名字不可得聞なり。佛祖にあらざれば、經巻を見聞讀誦解義せず。佛祖參學より、かつかつ經巻を參學するなり。このとき、耳處眼處舌處鼻處身心塵處、到處、聞處、話處の聞持受説經等の現成あり。爲求名聞故、説外道論議のともがら、佛經を修行すべからず。そのゆゑは、經巻は若樹若石の傳持あり、若田若里の流布あり。塵刹の演出あり、虚空の開講あり。

「自己と称ずと云えども我你の拘牽にあらず。これ活眼睛なり、活拳頭なり」

ここでは前述の「全自己」を承けての確認事項で、眼蔵で扱う「自己」は俺・お前に拘わる(拘牽)ものではなく、この「自己」とは、活鱍々とした生命そのものを「活眼睛・活拳頭」と表徴した語となります。

「しか有れども、念経看経誦経書経受経持経あり。ともに仏祖の修証なり」

全自己の経巻・全経巻の自己と大きく括って見ても、経と云っても念経(経の意味を考える)・看経(黙読)・誦経(声に出して読む)・書経(書写)・受経(経を受ける)・持経(経を持続)と多種多様に有るのであり、それら一つ一つが「仏祖の修証なり」とは、生命を保持する為の手段(修証)とでも云えるでしょうか。

「しか有るに、仏経に逢う事たやすきにあらず。於無量国中、乃至名字不可得聞なり、於仏祖中、乃至名字不可得聞なり、於命脈中、乃至名字不可得聞なり。仏祖にあらざれば、経巻を見聞読誦解義せず。仏祖参学より、かつかつ経巻を参学するなり」

そうではあるが、仏経に出逢うは容易ではない。とし「於無量国中、乃至名字不可得聞」の『法華経』安楽行品(「大正蔵」九・三八・下)を引かれるものですが、この前後文を抄出すると「文殊師利、是法華経、於無量国中、乃至名字不可得聞、何況得見受持読誦」(・点筆者)とあることから、此の経文を配置されたものと思われ、さらに御自身の創語を以て「於仏祖中・於命脈中」に置き換えられますが、この譬えは冒頭の「阿耨多羅三藐三菩提の修証」を行持する限りに於いてのみ「仏の経」に出逢える事の逆説的説明のようです。

ですから「仏祖でなければ、仏の経巻を見聞・読誦・解義は不可得」であるが、一旦仏祖に参学してからは、かつかつ(さかんに)経巻を参学しなさい。と説かれるのですが、この「かつかつ」の語義は、太陽等の光り輝く様態を云う古語で、さかんにと注を付ける(酒井得元老師註解テープ参照)。

「この時、耳処・眼処・舌処・鼻処・身心塵処・到処・聞処・話処の聞・持・受・説経等の現成あり」

前述のように盛んに、全自己の経巻・全経巻の自己を参学する時には、六識の「眼・耳・鼻・舌・身・心(意)」による到・聞・話処による聞経・持経・受経・説経等による「経巻」(全自己)の現成が有るのである。

「為求名聞故、説外道論議の輩、仏経を修行すべからず。その故は、経巻は若樹若石の伝持あり、若田若里の流布あり。塵刹の演出あり、虚空の開講あり」

「為求名聞故、説外道論議」は『法華経』勧持品(「大正蔵」九・三六・下)に於ける「此諸比丘等、為貪利養故、説外道論議、自作此経典、誑惑世間人、為求名聞故、分別於是経―中略―謂是邪見人、説外道論議、我等敬仏故」(此の諸の比丘等は、利養を貪る為の故に、外道の論議を説き、自ら此の経典を作り、世間の人を誑惑す、名聞を求める為の故に、是の経を分別すー中略―是の邪見の人、外道の論議を説くと謂うも、我等は仏を敬う故に)からのもので、そのような名聞利養を求輩する漢には、(全自己の)仏経を修行できないだろう。との言ですが、ここでは「為求名聞故、為貪利養故、説外道論議」と記述すべきである気がします。

その理由は、(全自己の)経巻というものは、「若樹若石の伝持・若田若里の流布あり」とは、涅槃経や法華随喜功徳品での例示の如くで、また(全自己の)経巻は「一切処に現前する常住無間断の経巻なり」とは『聞解』著者の解説です。

「塵刹」は微塵刹土の意で、「虚空」は絶大の総称ですから、この経巻である阿耨菩提の修証の実体は、細には無間に入り大には方所を絶し、一切時一切処が皆、経巻の真実態であるとの提唱で総論的概説を置かれ、事項から本則に対する個別拈提作業に為ります。

 

    二

藥山曩祖弘道大師、久不陞堂。院主白云、大衆久思和尚慈誨。山云、打鐘著。院主打鐘、大衆才集。山陞堂、良久便下座、歸方丈。院主隨後白云、和尚適來聽許爲衆説法、如何不垂一言。山云、經有經師、論有論師、爭怪得老僧。曩祖の慈誨するところは、拳頭有拳頭師、眼睛有眼睛師なり。しかあれども、しばらく曩祖に拝問すべし、爭怪得和尚はなきにあらず、いぶかし、和尚是什麼師。

最初に薬山惟儼(745―828)を本則に経師論師を例示に対する拈提です。

「薬山曩祖弘道大師、久不陞堂。院主白云、大衆久思和尚慈誨。山云、打鐘著。院主打鐘、大衆才集。山陞堂、良久便下座、帰方丈。院主随後白云、和尚適来聴許為衆説法、如何不垂一言。山云、経有経師、論有論師、争怪得老僧」

薬山の弘道大師は久しく陞堂(上堂)せず。院主白して云う、大衆は久しく和尚の慈誨を思(ねが)う。薬山云く、鐘を打て。院主は鐘を打つ、大衆才(わづか)に集う。山陞堂す、良久(しばらく)して便ち下座し、方丈に帰る。院主は後に随い白して云く、和尚は適来(さきほど)は衆の為の説法を聴許されましたが、如何が一言も垂れず。山が云くには、経には経師が有り、論には論師が有る、争(いかで)か老僧を怪得(とが)めるか。

この本則の出典は『聯灯会要』十九・本文省略(「続蔵」七九・一六四・上)とされ、『真字正法眼蔵』上・七九則、また『永平広録』四九二則(建長四年(1252)三月頃)上堂での内容は、先ず「学仏法人を白業人・世路官途による名聞利養を黒業人と説き、それ出家人は詩書和歌等を学ばずに、頭燃を救うように学道云々」と説かれた後に、此の「薬山不陞堂を挙し、その著語では院主の「如何不垂一言」に対しては「雷声遠震゚所以道不垂一言也」と薬山の獅子吼を聴聞しなさい、との上堂説法ですが、「名聞利養」に続いての「薬山久不陞堂」の構成文は、当巻を意識したものと見て採れます。

因みに本則出典の『聯灯会要』(1183年編)では石頭希遷から「子因縁不在此」と云われ、馬祖道一の処で「皮膚脱落尽、唯有真実在」で馬祖から所得し、再び石頭に戻った因縁話が記されますが、『景徳伝灯録』(1004年編)や『祖堂集』(801年編)では馬祖との往来は記されず、直接石頭から「密領玄旨」とされます。よって薬山が石頭を評した有名な「如蚊子上鉄牛相似」の語も後による語飾と考えられます。

「曩祖の慈誨する処は、拳頭有拳頭師、眼睛有眼睛師なり。しか有れども、しばらく曩祖に拝問すべし、争怪得和尚は無きにあらず、いぶかし、和尚是什麼師」

薬山曩祖の教え(慈誨)とする処は、経師や論師が存在するように、「拳頭師や眼睛師」という風に、それぞれの事物・事象には皆それぞれに師が附随するのであるが、これを別の表現態では「全自己の経巻」とも言えるわけです。さらには「念経師・看経師・誦経師・書経師・受経師・持経師」ありとも表態可能です。

次に一歩踏み込んで、少々曩祖(薬山)に拝問すべしと、立地聴法する山内衆に対し、薬山に問い質せとの意味合いの「和尚是什麼師」(和尚(薬山)は是れ(経師や論師でないなら)どのような(什麽)師か)との問いを投げ出すような形式ですが、問処答処同等同理の原則からすると「什麽師」は、すでに述べられる「耳・眼・舌・鼻・身心塵・到・聞・話」の「師」に当たり、「全自己の仏祖」とも置き換えられます。

韶州曹谿山、大鑑高祖會下、誦法花經僧法達來參。高祖爲法達説偈云、心迷法華轉、心悟轉法華。誦久不明己、與義作讎家。無念念即正、有念念成邪。有無倶不計、長御白牛車。

しかあれば、心迷は法花に轉ぜられ、心悟は法花を轉ず。さらに迷悟を跳出するときは、法花の法花を轉ずるなり。法達、まさに偈をきゝて踊躍歡喜、以偈贊曰、經誦三千部、曹谿一句亡。未明出世旨、寧歇累生狂。羊鹿牛權設、初中後善揚、誰知火宅内、元是法中王。

そのとき高祖曰、汝今後方可名爲念經僧也。しるべし、佛道に念經僧あることを。曹谿古佛の直指なり。この念經僧の念は、有念無念等にあらず、有無倶不計なり。たゞそれ從劫至劫手不釋巻、從昼至夜無不念時なるのみなり。

この本則出典は『景徳伝灯録』五・法達章(「大正蔵」五一・二三八・上)からと為りますが、大鑑高祖(六祖慧能)法嗣者四十三人の中、十八人の見録が確認される第七位に洪州法達禅師と記されます。また『法華転法華』巻にも同様の偈を挙しての提唱ですが、そこでは「法華経と転被転」が説かれますが、当巻では「全自己の経巻」としての法華に対する解釈の差異が見られます。

「韶州曹渓山、大鑑高祖会下、誦法花経僧法達来参」

「韶州」は広東省に曾て設置された州で現在の韶関市一帯に当たりますが、韶州の地名に変遷はありますが、大鑑高祖慧能(638―713)が生きた唐朝武徳四年(621)から天宝元年(742)までは韶州が設置されたようである。

「高祖為法達説偈云」(高祖は法達の為に偈を説いて云う)

六祖慧能が法達に偈を説くまでの経緯は、『法華転法華』巻にて『景徳伝灯録』を底本に「大唐国広南東路韶州曹渓山宝林寺大鑑禅師の会に、法達と云う僧参れりきー中略―唯一大事は、即仏知見なり、開示悟入なり。おのづからこれ仏之知見なり、已具知見、彼既是佛なり。なんぢ今まさに信ずべし、仏知見者、只汝自心なり。重ねて示す偈に云く」と和文にて示されます。

「心迷法華転、心悟転法華」(心迷は法華に転ぜられ、心悟は法華を転ず)

ここで大切な教示は、提唱では法華転を「法花に転ぜられ」また転法華は「法花を転ず」と、助詞(てにをは)を付加されますが、「心迷」「心悟」には「心に迷う」・「心を悟る」とは表現せず「心迷・心悟」とする処の表現を勘案すると、心と悟は同態であり紙の裏表の関係もしくはメビウスの輪の関係と推察されます。

「誦久不明己、与義作讎家」(誦す久しくも己を明らめずは、義の与(ため)に讎家と作る)

法華経を長年誦経しても己を明らめなければ、法華の真実義にはかたき(讎家)と作る。と読み解かれる処ですが、この場合の「己」は明白にする対象ではなく、明らかな己はなく、「全自己の経巻・全経巻の自己」を説くものです。

「無念念即正、有念念成邪」(無念の念は即ち正なり、有念の念は邪成り)

「無念」も「有念」も先の心迷・心悟と同様、同態であり尽十方界にては「有無」には正邪は成り立ちませんが、ただ法華の上の正邪である。

「有無倶不計、長御白牛車」(有無倶に計せざれば、長(とこしな)へに白牛車に御(の)る)

「有無」に関わらないから、三車である処の菩薩の白牛車に御する事が出来るのであり、無や悟に執すれば万劫の繋驢橛・有と迷を著しても永劫に繋馬杭から跳出は出来ないのである。

「しか有れば、心迷は法花に転ぜられ、心悟は法花を転ず。さらに迷悟を跳出する時は、法花の法花を転ずるなり」

偈文に対する拈提で短い文章ではありますが、「心迷・心悟」を真実の表現例とし、「迷悟を跳出する」とは迷悟に為り切り、「法花の法花を転ずる」とは法花そのもので不染汚に生きる事を謂う喩えです。

「法達、まさに偈を聞きて踊躍歓喜、以偈賛曰」

先の「心迷法華転」の後には、法達は「法華経では大声聞や菩薩は皆、思いを尽くして度量するが、尚仏智を測ること能わず、また経(譬喩品)の三車の大牛車・白牛車との違い等を慧能に問い、それを承けて「無二亦無三の教えや、三車は仮りの方便で、一乗である菩薩乗こそが実なりー中略―応に知るべし、有らゆる所の珍財、尽く汝に属す。汝の受用するに由る。さらに父の想いを作さず、亦子の想いをも作さず、亦用の想いも無き、是れを法華経を持すと名づく。劫より劫に至るまで手に巻を釈かず、昼より夜に至るまで念ぜざる時無し」を承けて、踊躍歓喜、以偈賛曰するわけである。

「経誦三千部、曹渓一句亡」(経を誦すること三千部、曹渓の一句に亡ず)

これまでの法華の読み方を曹渓との相見により、三世隠顕に関わらず、法華ならぬ時節の有るべからずの、法華の道理を会得したものである。

「未明出世旨、寧歇累生狂」(未だ出世の旨を明めずは、寧んぞ累生の狂を歇めん)

「出世」とは解脱を示唆するものですが、この場合は「迷悟の跳出」を指示しこれを透脱しなければ、寧(いづく)んぞ・どうして度重なる代々(累生)の狂いを止められようか。

「羊鹿牛権設、初中後善揚」(羊(車)・鹿(車)・牛(車)権りに設くるも、初中後善く揚ぐ)

「羊鹿牛」は声聞・縁覚・菩薩の三乗に喩える仮の方便法であるが、諸法実相の教えは一貫して取り揚げられる様を云う。

「誰知火宅内、元是法中王」(誰か知らん火宅の内、元是れ法中の王)

「火宅」は我々の尽十方界真実を表徴する人体と見ることも出来、自我意識が右往左往と認識する本来面目の自己を「法中の王」とも云う処である。

「その時高祖曰、汝今後方可名為念経僧也」(その時高祖曰く、汝は今より後、方(まさ)に名づけて念経僧と為す也)

慧能が法達に対し、これからは「念経僧」と自称しなさい。との許可した讃辞となります。

「知るべし、仏道に念経僧ある事を。曹渓古仏の直指なり。この念経僧の念は、有念無念等にあらず、有無倶不計なり。只それ従劫至劫手不釈巻、従昼至夜無不念時なるのみなり」

この処が拈提ですが、先の灯録を承けて「念経僧」を扱うものですが、冒頭に於いて仏祖の修証の如実具象な「念経・看経・誦経・書経・受経・持経」を説き明かしたわけですから、勢い「念経僧あるも、看経僧もあり、誦経僧在し、書経僧出でし、受経僧も来参し、さらに持経も輩出せり」ほどの文言を附しても良さそうです。

勿論この場合に於ける「念経僧」は、「全自己の仏僧」であると同時に「念経巻の自己」とも云い得るもので、有無を度外視(有無倶不計)した状態は、所詮は無所得・無所悟の行法に連絡するものです。

因みに「念」は原語でサティと呼ばれますが、上座仏教(テラワーダ)での実践行法では常時念に対する気づきの体得を図るわけですが、一句の合頭語からの跳出・透脱という観念は彼らには無いようです。

右の観点からすると、「従劫至劫手不釈巻、従昼至夜無不念時」(劫より劫に至るも手に(経)巻を釈(お)かず、昼より夜に至るも念ぜざる時無し)と「灯録」の語をそのまま書き添えられますが、些か書き改めを許されるならば「不釈の釈をも不念の念をも跳脱すべし」と添語できます。

 

    三

二十七祖東印度般若多羅尊者、因東印度國王、請尊者齋次、國王乃問、諸人盡轉經、唯尊者爲甚不轉。祖曰、貧道出息不隨衆縁、入息不居蘊界、常轉如是經、百千萬億巻、非但一巻兩巻。

般若多羅尊者は、天竺國東印度の種草なり。迦葉尊者より第二十七世の正嫡なり。佛家の調度ことごとく正傳せり。頂□(寧+頁)眼睛、拳頭鼻孔、拄杖鉢盂、衣法骨髓等を住持せり。われらが曩祖なり、われらは雲孫なり。いま尊者の渾力道は、出息の衆縁に不隨なるのみにあらず、衆縁も出息に不隨なり。衆縁たとひ頂□(寧+頁)眼睛にてもあれ、衆縁たとひ渾身にてもあれ、衆縁たとひ渾心にてもあれ、擔來擔去又擔來、たゞ不隨衆縁なるのみなり。不隨は渾隨なり。このゆゑに築著磕著なり。出息これ衆縁なりといへども、不隨衆縁なり。無量劫來、いまだ入息出息の消息をしらざれども、而今まさにはじめてしるべき時節到來なるがゆゑに不居蘊界をきく、不隨衆縁をきく。衆縁はじめて入息等を參究する時節なり。この時節、かつてさきにあらず、さらにのちにあるべからず。たゞ而今のみにあるなり。蘊界といふは、五蘊なり。いはゆる色受想行識をいふ。この五蘊に不居なるは、五蘊いまだ到來せざる世界なるがゆゑなり。この關棙子を拈ぜるゆゑに、所轉の經たゞ一巻兩巻にあらず、常轉百千萬億巻なり。百千萬億巻はしばらく多の一端をあぐといへども、多の量のみにあらざるなり。一息出の不居蘊界を百千萬億巻の量とせり。しかあれども、有漏無漏智の所測にあらず、有漏無漏法の界にあらず。このゆゑに、有智の知の測量にあらず、有知の智の卜度にあらず。無智の知の商量にあらず、無知の智の所到にあらず。佛々祖々の修證、皮肉骨髓、眼睛拳頭、頂□(寧+頁)鼻孔、拄杖拂子、□(足+孛)跳造次なり。

「第二十七祖東印度般若多羅尊者」(この本則出典は『祖堂集』(「基本典籍叢刊」六〇頁)になります。また『永平広録』二〇(仁治元年(1240)頃の上堂)にも採録

「因東印度国王、請尊者斎次」(因みに東印度国王は、尊者を請して斎の次いでに)

これは恐らくは「南印度国」の誤りと思われ、その王の名は香至で、第一子目浄多羅・第二子功徳多羅・第三子菩提多羅が後の「菩提達磨」です。般若多羅を招じて昼食(斎)供養する次いでに。

「国王乃問、諸人尽転経、唯尊者為甚不転」(国王乃ち問うに、諸人は尽く経を転ずるが、唯尊者はどうして(為甚)転ぜず)

此の処は薬山の陞堂不説と相似する。

「祖曰、貧道出息不随衆縁、入息不居蘊界、常転如是経、百千万億巻、非但一巻両巻」(祖曰く、貧道(私・謙遜)は出息は衆縁に随わず、入息は蘊界に居せず、常に如是経(真実)を転ずは、百千万億巻と、但だ一巻両巻に非ず)

ここでの出息入息の譬喩は重要とみて、義雲和尚頌著に於いては「出息不曾随外境」「却知入息不居蘊」(「註解全書」三・一)と、看経に対する著語を述する事からも、この出息入息の実態は尽十方界の表情を云い表す表徴としては、最適な表現態との認識での著語と思われます。

「般若多羅尊者は、天竺国東印度の種草なり。迦葉尊者より第二十七世の正嫡なり。仏家の調度尽く正伝せり。頂□(寧+頁)眼睛、拳頭鼻孔、拄杖鉢盂、衣法骨髄等を住持せり。我らが曩祖なり、我らは雲孫なり。いま尊者の渾力道は、出息の衆縁に不随なるのみにあらず、衆縁も出息に不随なり。衆縁たとい頂□(寧+頁)眼睛にてもあれ、衆縁たとい渾身にてもあれ、衆縁たとい渾心にてもあれ、擔来擔去又擔来、ただ不随衆縁なるのみなり。不随は渾随なり。この故に築著磕著なり」

「天竺国東印度の種草なり」とは天竺と印度とは同義語であり、どの「灯録」に於いても「天竺」とは記されず「東印度人」等と記載されますから、この天竺国の記述は恐らく香至国の南天竺を混淆した結果と思われます。

「迦葉尊者より第二十七世の正嫡なり」と、すべて世代の数え方は迦葉よりカウントするもので、例えば「洞山悟本大師は、如来より三十八位の祖向上なり」(『仏向上事』巻)とする処も、如来は迦葉を指すものです。

「仏家の調度」の内容を「頂□(寧+頁)眼睛、拳頭鼻孔」で以て真実人体を表し、「拄杖鉢盂、衣法骨髄」を指して日常底を表現するものですが、謂う所は仏家の調度と大仰に云っても、何ら特別なものではなく、平常底を住持する事実の重要性を言うものです。

般若多羅尊者は我々の祖師(曩祖)であり、我らは曩祖の子孫(雲孫)であり、

「いま尊者の渾力道」とは般若多羅の渾身で以て道う「出息衆縁不随」と説く事実ですから、「尊者の道う仏道は」とも云えるわけです。そこで出息―衆縁―不随の論理を一旦解体し、衆縁―出息―不随とも為る道理を示し同時現成・つまり「出息」「衆縁」「不随」との同事を説くものです。

「衆縁」は環境・境遇とも云えますから、その条件が「頂□(寧+頁)眼睛」や「渾身心」と入れ代わっても擔ぎ来て擔ぎ去り又擔ぎ来る(擔来擔去又擔来)との表現は「驢事未去馬事到来」とも通じ合うもので、その無常なる状態を「不随衆縁」と般若多羅は云うのです。不随とは「随わず」ではなく、不という絶対的真実の状態が「「不随」で、全体把捉すると「渾随」と言えるものです。

このような混沌とした眼前現成する様子を「築著磕著」と言い表します。築著は打ち当たり・つき固める事を云い、著は接尾辞で意味は有りませんが、語意を強める助詞となります。磕著は石などが打ち合う音で、あちらこちらと打ち当たるを自由自在な境涯に譬えるものです。

「出息これ衆縁なりと云えども、不随衆縁なり。無量劫来、未だ入息出息の消息を知らざれども、而今まさに始めて知るべき時節到来なるが故に不居蘊界を聞く、不随衆縁を聞く。衆縁始めて入息等を参究する時節なり。この時節、曾て先にあらず、さらに後にあるべからず。ただ而今のみに有るなり」

あらたに出息と衆縁との関係は「不随衆縁」つまり縁に従って生き続ける生態を出息のことばに依るわけです。

無量劫の長時間、人間は未だに入息出息という命の根源を知らずにいたが、而今(般若多羅在世時)に時節到来し、入息に対し「不居蘊界」・出息に対し「不随衆縁」を聞くのであり、このような時節は後にも先にも無く、ただ而今(現在)に生ずる事実である。総じて「出息」に対する著語でした。

「蘊界と云うは、五蘊なり。いわゆる色受想行識を云う。この五蘊に不居なるは、五蘊未だ到来せざる世界なるが故なり。この関棙子を拈ぜる故に、所転の経ただ一巻両巻にあらず、常転百千万億巻なり。百千万億巻はしばらく多の一端を挙ぐと云えども、多の量のみにあらざるなり。一息出の不居蘊界を百千万億巻の量とせり。しか有れども、有漏無漏智の所測にあらず、有漏無漏法の界にあらず。この故に、有智の知の測量にあらず、有知の智の卜度にあらず。無智の知の商量にあらず、無知の智の所到にあらず。仏々祖々の修証、皮肉骨髄、眼睛拳頭、頂□(寧+頁)鼻孔、拄杖払子、□(足+孛)跳造次なり」

ここは「入息」に付随する説明に入ります。

「蘊界」についての説明では「色受想行識」を挙げられますから、「般若心経」で説く「照見五蘊皆空」であり、また『摩訶般若波羅蜜』巻冒頭での「五蘊は色受想行識なり」と述べられる処です。つまり五蘊は生命活動に於ける表体に現出された事象のことです。

そこで、表体に現れる以前の根源的生命現象を「不居蘊界」と呼び「五蘊未だ到来せざる世界」と表明されます。

分子生物学で云う処の「オートファジー」現象や、さらなる深底部ではタンパク質以前の遺伝子レベルでの生体現象も考えられます。

この要点(関棙子)を拈じ挙げる事実を「所転の経」と名づけるものですが、次から次へと生滅を繰り返す細胞を例にする事も出来ます。その細胞分裂の回数は一回二回(一巻両巻)ではなく、常に百千万億回(巻)と無限に展開される事実を述べられるものです。

「百千万億巻」は数値を述べられるのではなく、無常なる変転する眼前現成(入息出息)の一例を挙げるものであり、多少の問題ではない事に対する言及です。

「一息出の不居蘊界」は「一息入の不居蘊界を百千万億巻の量とせり」との誤字歟。

これまで説く処の「所転の経」や「常転百千万億巻」は観念論ではなく、事実の現成態を云うものですから、教学で説くような「有漏無漏智」や「有漏無漏法」で説明するような理論ではないのである。また「有智の知」「有知の智」さらに「無智の知」「無知の智」各々の「測量・卜度・商量・所到」には関わらないのである。と説かれる箇所は『摩訶止観』を念頭に置いた論法であるとの向きも有るが、詳細を論じる時間がなく今後の課題とする。

般若多羅「出息入息」に対する拈提の結語としては、「仏々祖々の修証」つまり仏祖が伝持してきた修行と実証の内容は、「皮肉骨髄・眼睛拳頭・頂□(寧+頁)鼻孔」との身心を示し、それに「拄杖払子」は日常の調度品でありますから、「仏祖の修証」とは余所行きの一丁羅ではなく、日常茶飯の真実現成態である事実を提示するもので、これらの調度品(衆縁との云える)が跳びはねる状態を「□(足+孛)跳造次」と文字化されたもので、「常に如是経を転ずること、百千万億巻」を具体的に言い表されたものです。因みに、この皮肉骨髄は拈提冒頭部での「頂□(寧+頁)眼睛・拳頭鼻孔・拄杖鉢盂・衣法骨髄」の別バージョンとも云えます。

 

    四

趙州觀音院眞際大師、因有婆子、施淨財、請大師轉大藏經。師下禪床、遶一匝、向使者云、轉藏已畢。使者廻擧似婆子。婆子曰、比來請轉一藏、如何和尚只轉半藏。

あきらかにしりぬ。轉一藏半藏は婆子經三巻なり。轉藏已畢は趙州經一藏なり。おほよそ轉大藏經のていたらくは、禪床をめぐる趙州あり、禪床ありて趙州をめぐる。趙州をめぐる趙州あり、禪床をめぐる禪床あり。しかあれども、一切の轉藏は遶禪床のみにあらず、禪床遶のみにあらず。

趙州と婆子との本則の出典は『大慧語録』九(「大正蔵」四七・八四九・中)と思われますが、『自証三昧』巻等では徹底した大慧批判を繰り返すほどですが、「大慧録」出典とされます。

「昔有一婆子、施財請趙州和尚転大蔵経。趙州下禅床遶一匝云、転蔵已畢。人回挙似婆子。婆云、比来請転一蔵、如何和尚只転半蔵」と本則を挙げ「師云。衆中商

量道。如何是那半藏。或云。再遶一匝」と大慧の拈提となります。また『真字正法眼蔵』上・七四則にも同則が確認されます。因みに、「婆子」を取り扱う話頭は「続蔵」の『趙州録』では五回、『景徳伝灯録』十・趙州章では二回採録されます。

「趙州観音院真際大師、因有婆子、施浄財、請大師転大蔵経(趙州観音院真際大師、因みに婆子有り、浄財を施して、大師に大蔵経を転ずるを請ず)

「師下禅床、遶一匝、向使者云、転蔵已畢」(師(趙州)は禅床を下り、(僧堂を)遶ること一匝し、使者に向って云く、転蔵已(すで)に畢(おわ)れり)

「使者廻挙似婆子」(使者廻りて婆子に挙似す)

「婆子曰、比来請転一蔵、如何和尚只転半蔵」(婆子曰く、さきほど(比来)は一蔵(経)を転ずるを請ずるに、どうして(如何)和尚は只半蔵(経)を転ずや)

「明らかに知りぬ。転一蔵半蔵は婆子経三巻なり。転蔵已畢は趙州経一蔵なり」

「婆子経三巻」とは、「一蔵(経)」も「半蔵(経)」も経自体としての真実現成に於いては、「大般若経」の六百巻であろうが、二百六十余文字の「般若心経」であろうが共に一巻と見なす訳ですから、この場合の婆子経三巻とは、「一蔵」+「半蔵」+「婆子本人」=三巻と計算し、「転蔵已畢」と云った趙州自身が真実態現成ですから、「趙州経一蔵」と拈提されます。

「おおよそ転大蔵経のていたらくは、禅床をめぐる趙州あり、禅床ありて趙州をめぐる。趙州をめぐる趙州あり、禅床をめぐる禅床あり。しか有れども、一切の転蔵は遶禅床のみにあらず、禅床遶のみにあらず」

「ていたらく」は姿・様子の意ですから、「転大蔵経」は大蔵経の転読から変じて、真実態現成に喩うるものですから、真実態の状況というものは禅床を遶る趙州・禅床ありて趙州を遶る・趙州を遶る趙州・禅床を遶る禅床ありと、常識的には論理破綻する言句を列挙するを、禅の頓珍漢な言動と思われる節もありますが、このような「禅床をめぐる趙州」「禅床ありて趙州をめぐる」と云った表現は、主客同一・能所泯汒に導く手法と為ります。

このように「禅床」と「趙州」との一体化を図り、「転大蔵経」である真実態を説いたのではあるが、「一切の転蔵」つまり真実の表現態は「遶禅床」や「禅床遶」と云ったものだけに限定されるのではない事は承知置くべきである。

益州大隋山神照大師、法諱法眞、嗣長慶寺大安禪師。因有婆子、施淨財、請師轉大藏經。師下禪床一匝、向使者曰、轉大藏經已畢。使者歸擧似婆子。婆子云、比來請轉一藏、如何和尚只轉半藏。

いま大隋の禪床をめぐると學することなかれ、禪床の大隋をめぐると學することなかれ。拳頭眼睛の團圝のみにあらず、作一圓相せる打一圓相なり。しかあれども、婆子それ有眼なりや、未具眼なりや。只轉半藏たとひ道取を拳頭より正傳すとも、婆子さらにいふべし、比來請轉大藏經、如何和尚只管弄精魂。あやまりてもかくのごとく道取せましかば、具眼睛の婆子なるべし。

この則の出典は『聯灯会要』十・大随章(「続蔵」七九・九〇・下)とされ、本文は「有婆、令人送銭、請師転蔵経。師下縄床、転一匝云、伝語婆婆、転蔵已竟。其人帰挙似婆。婆云、比来請転全蔵、如何只転半蔵」で、先の趙州本則と同じ内容に対する拈提の違いを披瀝されます。

益州大隋山神照大師、法諱法真、嗣長慶寺大安禅師」益州四川盆地一帯)大隋山の神照大師、法諱は法真(834―919)、長慶寺の大安(793―883)禅師に嗣ぐ」

「因有婆子、施浄財、請師転大蔵経(因みに婆子有り、浄財を施して、師(大隋法真)に大蔵経を転ずるを請ず)

「師下禅床一匝、向使者曰、転大蔵経已畢」(師は禅床を下りて一匝し、使者に向って曰く、大蔵経を転ずるを已に畢りぬ)

「使者帰挙似婆子」(使者帰りて婆子に挙似す)

「婆子云、比来請転一蔵、如何和尚只転半蔵」(婆子云く、比来(さきほど)転一蔵を請するに、如何(どうして)和尚は只半蔵のみ転ずや)

「いま大隋の禅床をめぐると学する事なかれ、禅床の大隋をめぐると学する事なかれ。拳頭眼睛の團圝のみにあらず、作一円相せる打一円相なり」

趙州の処での拈提にても「遶禅床・禅床遶のみにあらず」と転大蔵経である真実態の姿を示されるように、この大随の場合にても「大隋の禅床・禅床の大隋をめぐる」とは学せずと、念押しの意もあり重言し、大随の「一匝」は「一円相」という真実具体例である事実を「打一円相」と言うのである、との意見だと考えられます。

「しか有れども、婆子それ有眼なりや、未具眼なりや。只転半蔵たとい道取を拳頭より正伝すとも、婆子さらに云うべし、比来請転大蔵経、如何和尚只管弄精魂。誤りても斯くの如く道取せましかば、具眼睛の婆子なるべし」

趙州処での婆子に対しては、直接に婆子に対する著語(コメント)は有りませんでしたが、「婆子それ有眼なりや、未具眼なりや」と婆子本人に対して、また聴聞する学人つまり現在の我々に問い掛けるものです。

婆子の云った「只転半蔵」は例え拳頭(真実人体)より正伝する事実であっても、さらに言うべしと、仏法の説き方に於ける固定化を嫌う為に、「比来請転大蔵経、如何和尚只管弄精魂」(先程は転大蔵経を請ずるに、どうして和尚は只管(ひたすら)に、遶一匝などと弄精魂されるのですか)。と誤りで有ったとしても、このように「如何和尚只管弄精魂」と道取するならば、仏法を解会し得る眼睛を具えた婆子であるのに。との婆子に対する注問の形式ですが、明らかに聴聞雲衲に対し、強いては現今の我々に「一答出だせ」と閑静なる音声が聞こえるようです。

 

    五

高祖洞山悟本大師、因有官人、設齋施淨財、請師看轉大藏經。大師下禪床向官人揖。官人揖大師。引官人倶遶禪床一匝、向官人揖。良久向官人云、會麼。官人云、不會。大師云、我與汝看轉大藏經、如何不會。

それ我與汝看轉大藏經、あきらかなり。遶禪床を看轉大藏經と學するにあらず、看轉大藏經を遶禪床と會せざるなり。しかありといへども、高祖の慈誨を聽取すべし。この因縁、先師古佛、天童山に住せしとき、高麗國の施主、入山施財、大衆看經、請先師陞座のとき擧するところなり。擧しをはりて、先師すなはち拂子をもておほきに圓相をつくること一匝していはく、天童今日、與汝看轉大藏經。便擲下拂子下座。いま先師の道處を看轉すべし、餘者に比準すべからず。しかありといふとも、看轉大藏經には、壱隻眼をもちゐるとやせん、半隻眼をもちゐるとやせん。高祖の道處と先師の道處と、用眼睛、用舌頭、いくばくをかもちゐきたれる。究辨看。

趙州・大随の「婆子と転大蔵経」の本則に続き、洞山と官人による「看転大蔵経」と同じような本則を取り挙げられます。この出典は『洞山語録』(「大正蔵」四七・五〇九・下)で、一字一句そのままの引用です。

「高祖洞山悟本大師、因有官人、設斎施浄財、請師看転大蔵経(高祖洞山悟本大師、因みに官人有り、斎(昼食)を設けて浄財を施し、師に大蔵経を看転するを請ず)

「大師下禅床向官人揖」(大師は禅床を下りて官人に向って揖す(合掌して会釈))

「官人揖大師」(官人も大師に揖す(拱手して会釈))

「引官人倶遶禅床一匝、向官人揖」(官人を引きて倶に禅床を遶ること一匝し、官人に向って揖す)

「良久向官人云、会麼」(良久(しばらく)して官人に向って云く、会すや・わかるか)

「官人云、不会」(官人云く、会せず)

「大師云、我与汝看転大蔵経、如何不会」(大師云く、我は汝に大蔵経を看転す、如何(どうして)会せず)

「それ我与汝看転大蔵経、明らかなり。遶禅床を看転大蔵経と学するにあらず、看転大蔵経を遶禅床と会せざるなり。しか有りと云えども、高祖の慈誨を聴取すべし」

「我与汝」に「明らかなり」とは、「遶禅床」の事実を言うもので、「遶禅床を看転大蔵経と学するにあらず」「看転大蔵経を遶禅床と会せざるなり」との「不会」を扱う洞山の問答の「慈誨」を聴き取りなさい、との拈語です。

「この因縁、先師古仏、天童山に住せし時、高麗国の施主、入山施財、大衆看経、請先師陞座の時挙する処なり。挙し終わりて、先師則ち払子をもて大きに円相を作る事一匝して云く、天童今日、与汝看転大蔵経。便擲下払子下座。いま先師の道処を看転すべし、余者に比準すべからず。しか有りと云うとも、看転大蔵経には、壱隻眼を用いるとやせん、半隻眼を用いるとやせん。高祖の道処と先師の道処と、用眼睛、用舌頭、幾許をか用い来たれる。究辨看」

この本則は『如浄語録』や『宝慶記』等には記録はなく想像を逞しくすれば、この高麗国の施主は『袈裟功徳』巻に引かれる「大宋嘉定十七年癸未十月中に、高麗僧二人ありて、慶元府にきたれり。一人は智玄と名づけ、一人は景雲と云う」(「正法眼蔵」四・一七四・水野・岩波文庫)と記される、二人の留学僧を比定できないでしょうか(但し、大宋嘉定十七年とすると如浄もすでに天童寺に入寺されますから問題ないが、嘉定十七年は甲申でなければならず、癸未であるならば嘉定十六年十月の時点では如浄は浄慈寺在住となりますから、「先師古仏、天童山に住せし時」と符合しません)。

この特為上堂は、在宋当時の手控え書か備忘録などに書き留めた書面を参考に、「洞山」に通脈する修行の実証として書き添えたものと思われます。

ここでの要所を『御抄』では「擲下払子も下座の姿も先師の姿も皆、看転大蔵経の理なるべし」(「註解全書」三・二四)と説かれるように、現身説法する所作そのものが「看転大蔵経」の真実底と一味態であるとの言です。

道元禅師による著語では、「天童今日、与汝看転大蔵経」の道う処が看転そのものであり、洞山などの余者と比較の対象にしてはいけない、と釘を刺されます。

そうではあるが(しかありというとも)、「看転大蔵経」を見聞するには「壱隻か半隻」どんな看経眼を用意するのか。と問い掛けられ、洞山の道う処の「我与汝看転大蔵経、如何不会」と、如浄の道う処の「天童今日、与汝看転大蔵経」を、どれ程(いくばく)の眼睛や舌頭を用いて来たことか。と代々の先人たちの功夫を思い遣りなさい、との意味合いを込めて、立地聴法するする学人に対し究め辦じ看よ。と洞山・如浄の会に参随せよとの意と推察されます。

筆者が洞山に向かうなら「官人が不会、為什麽か会に向上せんや」と把住し、如浄に対するは「払子は殺生禁断が為也、擲下不可也」と出班する所存です。

 

    六

曩祖藥山弘道大師、尋常不許人看經。一日、將經自看、因僧問、和尚尋常不許人看經、爲甚麼卻自看。師云、我只要遮眼。僧云、某甲學和尚得麼。師云、儞若看、牛皮也須穿。

いま我要遮眼の道は、遮眼の自道處なり。遮眼は打失眼睛なり、打失經なり、渾眼遮なり、渾遮眼なり。遮眼は遮中開眼なり、遮裡活眼なり、眼裡活遮なり、眼皮上更添一枚皮なり。遮裡拈眼なり、眼自拈遮なり。しかあれば、眼睛經にあらざれば遮眼の功徳いまだあらざるなり。牛皮也須穿は、全牛皮なり、全皮牛なり、拈牛作皮なり。このゆゑに、皮肉骨髓、頭角鼻孔を牛□(牜+孚)の活計とせり。學和尚のとき、牛爲眼睛なるを遮眼とす、眼睛爲牛なり。

冒頭本則に続き薬山二則目の話頭の出典は、同じく『聯灯会要』十九(「続蔵」七九・一六四・上・本文省略)となります。

「曩祖薬山弘道大師、尋常不許人看経」(曩祖の薬山弘道大師は、尋常(日頃)から人が経を看むを許さず)

「一日、将経自看、因僧問、和尚尋常不許人看経、為甚麼却自看」(一日(ある日)、自づから経を将って看るに、因みに僧が問う、和尚は尋常(日頃)から人が経を看るを許さず、為甚麼(なんとしてか)却って自ら看ん)

「師云、我只要遮眼」(師云く、我は只眼を遮ぎるを要す・眼のハタラキを止めるのみ)

「僧云、某甲学和尚(看)得麼」(僧云く、某甲(それがし)も和尚を学(まね)んと得す麼(「会要」には看を付す)

「師云、你若看、牛皮也須穿」(師云く、你が若し(経を)看ば、牛皮も也(また)須(かなら)ず穿(うが)つだろう)

※「須」は「すべからず、、、すべし」と当為・命令を指す助動詞+ク語法である(「牛皮也須看透」(牛の皮を貫くほどに眼光紙背に徹して読め)(「大正蔵」五一・三一二・中)が、「須穿」の場合では「きっと・まちがいなく」との副詞として読むべきである。(『空華集』「語録の言葉と文体」入矢義高著)参照

「いま我要遮眼の道は、遮眼の自道処なり。遮眼は打失眼睛なり、打失経なり、渾眼遮なり、渾遮眼なり。遮眼は遮中開眼なり、遮裡活眼なり、眼裡活遮なり、眼皮上更添一枚皮なり。遮裡拈眼なり、眼自拈遮なり。しかあれば、眼睛経にあらざれば遮眼の功徳未だあらざるなり」

「我要遮眼」は薬山が僧に対して云ったことばではあるが、実は薬山自身が遮眼である。「遮眼」そのものが「自づから道う処なり」とは、遮眼という動詞に人格を与え、遮眼自身による無所見の道処を云うもので、仏見・法見等に固執せず全体遮眼の道取を云うものです。

ですから「遮眼」を説明する事項として「打失眼睛」つまり全眼睛の姿を云い、「打失経」全経を言い、「渾眼遮であり渾遮眼」つまり全眼が「遮眼」であると。

さらに「遮中開眼・遮裡活眼・眼裡活遮・眼皮上更添一枚皮・遮裡拈眼・眼自拈遮」を遮眼(眼のハタラキを止める)と捉えるとの事ですが、これを「坐禅」に等値して考えてみると、理解が進展するかも知れません。「遮中開眼」は遮眼の自由自在なる境致、「遮裡活眼」は無執着が活発なる眼識、「眼裡活遮」は諸有に堕せず諸縁に応ずる、「眼皮上更添一枚皮」は眼の皮(まぶた)の上に更にもう一枚のまぶたを添える、とは「遮眼」という眼そのものと為るを徹底したことばです。

ですから「遮裡拈眼」「眼自拈遮」と説かれるように、「遮眼」という眼のハタラキを止めた時点に於いて、「拈眼」眼が開かれた状態と為るのであり、又「眼自拈遮」と語句を入れ替え同様に説かれます。

そういうわけですから、眼睛と看経と遮眼がフェノロジー的同態の如くに為る時、功徳現成するわけです。つまりは、前に「遮眼」を坐禅に置換して考察するように述べたように、「出息不随衆縁・入息不居蘊界」と常に尽十方界の真実現成を認得するものですから、これまで説いてきたように様態が縦横に交叉するものです。

特に注目すべきは、義雲(1253―1333)和尚『正法眼蔵品目頌』に於ける「看経」頌著では「出息不曾随外境、却知入息不居蘊」と記す処を参究すべき課題である。

「牛皮也須穿は、全牛皮なり、全皮牛なり、拈牛作皮なり。この故に、皮肉骨髄、頭角鼻孔を牛□(牜+孚)の活計とせり。学和尚の時、牛為眼睛なるを遮眼とす、眼睛為牛なり」

薬山が云った「牛皮さえもきっと穿つだろう」とは、僧の看経には経文に対する執著が在る為、無所得を促す為に「牛皮也須穿」と答えたのである。

そこでの拈提が「全牛皮なり」とは、皮は牛の一部と捉えるのではなく、「全牛皮・全皮牛・拈牛作皮」と言われるように尽十方界が牛皮であるとも云い得るもので、全機現的現成が「牛皮」とも言い替えられます。

牛皮を尽界とする。と説かれましたから、そういうわけで「皮肉骨髄」で以て全体を表し、また「頭角鼻孔」と牛を話題とするから頭角と記し、皮肉骨髄同様、頭角鼻孔で以て尽十方界を表現するものです。これら「皮肉骨髄・頭角鼻孔」を牛□(牜+孚)(めうし)の活計(活動)とせり。とは尽十方界の活動であり、看経の様態であり、全自己の経巻の具象例を「牛□(牜+孚)」に譬えられたものです。

次には「学和尚」に対する拈提ですが、本則では「某甲も薬山和尚のように、遮眼による学(まね)をしていいですか」に対して「你が若し看めば、牛の皮も必ず穿つぞ」と、薬山は僧の有所得の念に対する指摘でしたが、道元禅師による薬山に代わっての著語では、「牛為眼睛」(牛を眼睛と為す)なるを遮眼とし、それは眼睛為牛(眼睛を牛と為す)なり」との提示ですが、謂う所は「牛を眼睛とし眼睛を牛とする」とは、牛と眼睛とを別物に仕立てるのではなく、能見所見つまり見る見られるの関係を解消するを説かんとするものです。今一度の所謂は、看経する時は眼睛経を以てすれば、遮眼の功徳つまり無所得・無所悟の功徳が自然現成することに為ります。

冶父道川禪師云、億千供佛福無邊、爭似常將古教看。白紙上邊書墨字、請君開眼目前觀。

しるべし、古佛を供ずると古教をみると、福徳齊肩なるべし、福徳超過なるべし。古教といふは、白紙のうへに墨字を書せる、たれかこれを古教としらん。當恁麼の道理を參究すべし。

本則の冶父道川(やぶどうせん・生没不詳)禅師(安徽省冶父山実際禅院に住す)は石霜(慈明)楚円(986―1039)下六世に位置し、本則頌は道川が羅什訳『金剛般若経』の各段に著語と頌を付した『川老(せんろう)金剛経』からの引用である。

「冶父道川禅師云」(冶父道川禅師云く)

「億千供仏福無辺」(億千の供仏は福無辺なり)

「争似常将古教看」(争か常に古教を将って看ぜんには似(し)かん)

「白紙上辺書墨字」(白紙上辺に墨字を書す)

「請君開眼目前観」(請すらくは君、眼を開いて目前に観よ)

これは『金剛般若経』「八百四千万億那由他諸仏、悉皆供養承事無空過者、若復有人於後世、能受持読誦此 経所得功徳、於我所供養諸仏功徳、百分不及一、千万億分乃至算數譬喩所不能及」(「大正蔵」八・七五一・上)の経文註偈となります。

「知るべし、古仏を供ずると古教を見ると、福徳斉肩なるべし、福徳超過なるべし。古教と云うは、白紙の上に墨字を書せる、誰かこれを古教と知らん。当恁麼の道理を参究すべし」

古仏の供養と古教(看経)には優劣はないのであるが、古教が超過すると説かれます。古教(経文)と云うのは白紙の上に墨書した文字であり、これが古教と知られる処ではあるが、「当恁麼」とは古仏供養と古教との差違・聯関性の道理(ことわり・すじみち)を参究すべし。との拈提で、自身で考えなさいとの言です。

小拙しばらく参学究明するに、当巻冒頭で「阿耨菩提の修証には知識(供仏)・経巻(古教)を用い、知識は全自己の仏祖・経巻は全自己の経巻であり、我你の拘牽にあらず」と確言されますから、鶏と卵の関係性は同時同体と考える事から、「福徳」には斉も超もなく、福は一方全機・徳は全機一方と名付くも可也歟。

雲居山弘覺大師、因有一僧、在房内念經。大師隔窓問云、闍梨念底、是什麼經。僧對曰、維摩經。師曰、不問儞維摩經、念底是什麼經。此僧從此得入。

大師道の念底是什麼經は、一條の念底、年代深遠なり、不欲擧似於念なり。路にしては死蛇にあふ、このゆゑに什麼經の問著現成せり。人にあうては錯擧せず、このゆゑに維摩經なり。

本則出典は『景徳伝灯録』十七・雲居章(「大正蔵」五一・三三五・中)となります。洪州(江西省南昌市一帯)雲居山道膺(837―902)は洞山良价(807―869)の法嗣二十六人中の首位に列し、如浄・道元と続く曩祖であります。

「雲居山弘覚大師、因有一僧、在房内念経」(雲居山弘覚大師に、因みに一僧有りて、房内に在りて念経す)

「大師隔窓問云、闍梨念底、是什麼経」(大師が窓を隔てて問うて云く、闍梨の念底は、是れ什麼の経)

「僧対曰、維摩経(僧対えて曰く、維摩経

「師曰、不問你維摩経、念底(原文は者)是什麼経」(師曰く、你に維摩経は不問、念底は是れ什麼経)

「此僧従此得入」(此の僧此れ従り得入す)

「大師道の念底是什麼経は、一条の念底、年代深遠なり、不欲挙似於念なり。路にしては死蛇に逢う、この故に什麼経の問著現成せり。人に逢うては錯挙せず、この故に維摩経なり」

大師(雲居道膺)が二度までも道う「念底是什麼経」の念は慮知念覚であるが、出息入息は些事ではあるが、この一念は生命活動の根源となりますから、「一条の念底」つまり過現未と三際に連続する真実底を「一条の念底」と表します。それは本来面目以前から続く尽法界であり無際限の状態を指して、「年代深遠なり不欲挙似於念なり」(年代深遠であり念を挙似するには欲ばず)と、これは『臨済録』(「大正蔵」四七・五〇五・上)行録の「仰山云有、秖是年代深遠、不欲挙似和尚」を捩った引用と為ります。

「路にしては死蛇に逢う」とは『真字正法眼蔵』下・二〇四則「死蛇当大路、亦無迴避」を援用と思われます。「死蛇」とは毒蛇を指し、咬まれたら進退窮まる事を、雲居による「念底是什麼経」に喩える言い様です。

ですから(この故に)、「什麼経」という毒蛇にも似た緊張感漂う問いが現成するのである。ですから僧は雲居に逢うては錯りなどは挙似(錯挙)するわけはない為、眼前に看経する「維摩経」の名で以て答えたのである、という細密なる拈提であります。

つまりは「念底是什麼経」は「什麼物恁麽来」とも通底し、維摩経だけではなく法華経とも涅槃経とも云い得、「念底」と「維摩経」との間には能所の関係はない事を説くものである。

おほよそ看經は、盡佛祖を把拈しあつめて、眼睛として看經するなり。正當恁麼時、たちまちに佛祖作佛し、説法し、説佛し、佛作するなり。この看經の時節にあらざれば、佛祖の頂□(寧+頁)面目いまだあらざるなり。

「当巻」に於ける古則話頭に対する拈提は実質これで終了し、後半は実際の道場内に於ける看経の儀則を具体的に述べるものになります。

「おおよそ看経は、尽仏祖を把拈し集めて、眼睛として看経するなり。正当恁麼時、忽ちに仏祖作仏し、説法し、説仏し、仏作するなり。この看経の時節にあらざれば、仏祖の頂□(寧+頁)面目未だあらざるなり」

「看経」とは「眼睛として看経するなり」の一語に尽きるわけですが、この結語は先の薬山「遮眼」の話頭に依るもので、相当に薬山による語言が気に入られたようです。

まさにその時(正当恁麼時)学人が「眼睛」に為り切った時には仏祖(真実)が即座に「仏仏・説法・説仏・仏作」するのであり、全ての仏祖が集結するのであり、この看経の時節到来時には仏祖の全体(頂□(寧+頁)面目)が現出するのである。

このように「看経」の真実態が現成する時には、看る看られる能所態は未分節状態と為り、看る時は「眼睛」のみ、看られる時は「看経」のみの一元世界を仏法の現成と云い、「仏祖の頂□(寧+頁)面目」と言うのである。

 

    七

現在佛祖の會に、看經の儀則それ多般あり。いはゆる施主入山、請大衆看經、あるいは僧衆自發心看經等なり。このほか、大衆爲亡僧看經あり。施主入山、請僧看經は、當日の粥時より、堂司あらかじめ看經牌を僧堂前および諸寮にかく。粥罷に拝席を聖僧前にしく。ときいたりて僧堂前鐘を三會うつ、あるいは一會うつ。住持人の指揮にしたがふなり。鐘聲罷に、首座大衆、搭袈裟、入雲堂、就被位、正面而坐。つぎに住持人入堂、向聖僧問訊燒香罷、依位而坐。つぎに童行をして經を行ぜしむ。この經、さきより庫院にとゝのへ、安排しまうけて、ときいたりて供達するなり。經は、あるいは經函ながら行じ、あるいは盤子に安じて行ず。大衆すでに經を請じて、すなはちひらきよむ。このとき、知客いまし施主をひきて雲堂にいる。施主まさに雲堂前にて手爐をとりて、さゝげて入堂す。手爐は院門の公界にあり。あらかじめ裝香して、行者をして雲堂前にまうけて、施主まさに入堂せんとするとき、めしによりて施主にわたす。手爐をめすことは、知客これをめすなり。入堂するときは、知客さき、施主のち、雲堂の前門の南頬よりいる。施主、聖僧前にいたりて、燒一片香、拝三拝あり。拝のあひだ、手爐をもちながら拝するなり。拝のあひだ、知客は拝席の北に、おもてをみなみにして、すこしき施主にむかひて、叉手してたつ。施主の拝をはりて、施主みぎに轉身して、住持人にむかひて、手爐をさゝげて曲躬し揖す。住持人は椅子にゐながら、經をさゝげて合掌して揖をうく。施主つぎにきたにむかひて揖す。揖をはりて、首座のまへより巡堂す。巡堂のあひだ、知客さきにひけり。巡堂一匝して、聖僧前にいたりて、なほ聖僧にむかひて、手爐をさゝげて揖す。このとき、知客は雲堂の門限のうちに、拝席のみなみに、おもてをきたにして叉手してたてり。施主、揖聖僧をはりて、知客にしたがひて雲堂前にいでて、巡堂前一匝して、なほ雲堂内にいりて、聖僧にむかひて拝三拝す。拝をはりて、交椅につきて看經を證明す。交椅は、聖僧のひだりの柱のほとりに、みなみにむかへてこれをたつ。あるいは南柱のほとりに、きたにむかへてもたつ。施主すでに座につきぬれば、知客すべからく施主にむかひて揖してのち、くらゐにつく。あるいは施主巡堂のあひだ、梵音あり。梵音の座、あるいは聖僧のみぎ、あるいは聖僧のひだり、便宜にしたがふ。手爐には、沈香箋香等の名香をさしはさみ、たくなり。この香は、施主みづから辨備するなり。施主巡堂のときは、衆僧合掌す。つぎに看經錢を俵す。錢の多少は、施主のこゝろにしたがふ。あるいは綿、あるいは扇等の物子、これを俵す。施主みづから俵す、あるいは知事これを俵す、あるいは行者これを俵す。俵する法は、僧のまへにこれをおくなり、僧の手にいれず。衆僧は、俵錢をまへに俵するとき、おのおの合掌してうくるなり。俵錢、あるいは當日の齋時にこれを俵す。もし齋時に俵するがごときは、首座施食ののち、さらに打槌一下して、首座施財す。施主回向の旨趣を紙片にかきて、聖僧の左の柱に貼せり。雲堂裡看經のとき、揚聲してよまず、低聲によむ。あるいは經巻をひらきて文字をみるのみなり。句讀におよばず、看經するのみなり。かくのごとくの看經、おほくは金剛般若經、法華經普門品安樂行品、金光明經等を、いく百千巻となく、常住にまうけおけり。毎僧一巻を行ずるなり。看經をはりぬれば、もとの盤、もしは函をもちて、座のまへをすぐれば、大衆おのおの經を安ず。とるとき、おくとき、ともに合掌するなり。とるときは、まづ合掌してのちにとる。おくときは、まづ經を安じてのちに合掌す。そののち、おのおの合掌して、低聲に回向するなり。もし常住公界の看經には、都監寺僧、燒香禮拝巡堂俵錢、みな施主のごとし。手爐をさゝぐることも、施主のごとし。もし衆僧のなかに、施主となりて大衆の看經を請ずるも、俗施主のごとし。燒香禮拝巡堂俵錢等あり。知客これをひくこと、俗施主のごとくなるべし。聖節の看經といふことあり。かれは、今上の聖誕の、假令もし正月十五日なれば、先十二月十五日より、聖節の看經はじまる。今日上堂なし。佛殿の釋迦佛のまへに、連床を二行にしく。いはゆる東西にあひむかへて、おのおの南北行にしく。東西床のまへに檯盤をたつ。そのうへに經を安ず。金剛般若經仁王經法華經最勝王經金光明經等なり。堂裡僧を一日に幾僧と請じて、齋前に點心をおこなふ。あるいは麺一椀、羹一杯を毎僧に行ず。あるいは饅頭六七箇、羹一分、毎僧に行ずるなり。饅頭これも椀にもれり。はしをそへたり、かひをそへず。おこなふときは、看經の座につきながら、座をうごかさずしておこなふ。點心は、經を安ぜる檯盤に安排せり。さらに棹子をきたせることなし。行點心のあひだ、經は檯盤に安ぜり。點心おこなひをはりぬれば、僧おのおの座をたちて、嗽口して、かへりて座につく。すなはち看經す。粥罷より齋時にいたるまで看經す。齋時、三下鼓響に座をたつ。今日の看經は齋時をかぎりとせり。はじむる日より、建祝聖道場の牌を、佛殿の正面の東の簷頭にかく、黄牌なり。また佛殿のうちの正面の東の柱に、祝聖の旨趣を、障子牌にかきてかく、これ黄牌なり。住持人の名字は、紅紙あるいは白紙にかく。その二字を小片紙にかきて、牌面の年月日の下頭の貼せり。かくのごとく看經して、その御降誕の日にいたるに、住持人上堂し、祝聖するなり。これ古來の例なり。いまにふりざるところなり。また僧のみづから發心して看經するあり。寺院もとより公界の看經堂あり。かの堂につきて看經するなり。その儀、いま清規のごとし。

「現在仏祖の会に、看経の儀則それ多般あり。いわゆる施主入山、請大衆看経、あるいは僧衆自発心看経等なり。このほか、大衆為亡僧看経あり。施主入山、請僧看経は、当日の粥時より、堂司あらかじめ看経牌を僧堂前および諸寮に掛く。粥罷に拝席を聖僧前に敷く。時到りて僧堂前鐘を三会打つ、或いは一会打つ。住持人の指揮に従うなり」

これからは叢林での実際の儀則の説明になり文意のままに解されますが、通読し要所解説します。

看経の儀式の規則には様々(多般)あり、「施主入山、請大衆看経」(施主が入山し、大衆に看経を請ずる)。或いは「常転請僧看経」(常に僧を請じて転ずる看経の意であるが、「常住請僧看経」で寺自体が行う看経であるとの意見もある)。或いは「僧衆自発心看経」(僧衆が自ら発心して看経・自発的なもの)などがあり、ほかには「大衆為亡僧看経」(大衆が亡僧の為に行う看経)がある。

「施主入山、請僧看経」は当日の朝粥の時から、堂司(どうす・僧堂の責任者)は予め僧堂前と諸寮に看経牌を掛け告知し、粥後に拝席を聖僧前に敷き準備する。時節到来したならば、

僧堂前の鐘を三会乃し一会打ち、住持人の指揮に従うのである。

「鐘声罷に、首座大衆、搭袈裟、入雲堂、就被位、正面而坐。次に住持人入堂、向聖僧問訊焼香罷、依位而坐。次に童行をして経を行ぜしむ。この経、先より庫院に整え、安排し設けて、時到りて供達するなり。経は、或いは経函ながら行じ、或いは盤子に安じて行ず。大衆すでに経を請じて、則ち開き読む。この時、知客いまし施主を引きて雲堂に入る。施主まさに雲堂前にて手爐を取りて、奉げて入堂す。手爐は院門の公界にあり。予め装香して、行者をして雲堂前に設けて、施主まさに入堂せんとする時、召しによりて施主に渡す。手爐を召す事は、知客これを召すなり。入堂する時は、知客さき、施主のち、雲堂の前門の南頬より入る」

三会の終わった後に、首座(しゅそ)と大衆(だいしゅ)は搭袈裟(たっけさ)し、雲堂(坐禅堂)に入り、各自の位に就き対坐する形で坐す。次には住持人(堂頭)が入堂し、聖僧に向かって問訊焼香終わって自位に就く。次に童行(ずんあん・叢院の未得度人)が経本を配布する役目である。その経本は前以て庫院に整え並べて(安排)時間になったら供達(配布)する。経本は経函(経箱)もしくは盤子(平たい入れ物)に乗せて配布するのである。大衆が経を持って披いて読誦する。この時に、知客(しか・接待係)和尚は施主を先導し雲堂に入る。施主は雲堂前で手香炉を取って目上に捧げて入堂する。手香炉は什物である。事前に手炉には香炭を入れるが、行者(あんじゃ・在俗信者)が雲堂前に設置し、施主が入堂する直前に、請求により施主に手渡すが、これは知客が指示し、入堂の時には知客が先導施主が続き、雲堂の前門の南頬(側)より入る作法である。

「施主、聖僧前に到りて、焼一片香、拝三拝あり。拝の間、手爐を持ながら拝するなり。拝の間、知客は拝席の北に、面を南にして、少しき施主に向かいて、叉手して立つ。施主の拝終わりて、施主右に転身して、住持人に向かいて、手爐を捧げて曲躬し揖す。住持人は椅子に居ながら、経を捧げて合掌して揖を受く。施主次に北に向かいて揖す。揖終わりて、首座の前より巡堂す。巡堂の間、知客先に引けり。巡堂一匝して、聖僧前に到りて、なお聖僧に向かいて、手爐を捧げて揖す。この時、知客は雲堂の門限の内に、拝席の南に、面を北にして叉手して立てり」

施主は中央の聖僧前に来たなら、一片の香を焚き三拝する。拝の間は手炉を持ちながらお拝をする(手炉が傾いて粗相がないように知客は注視)。お拝の間は、知客は拝席の北側に立ち、顔を南にして、少しばかり施主に向かい、叉手して立つ。施主の拝が終わり、施主は右に転じ、住持人に向かって、手炉を目上に捧げ体を曲げて揖す。住持人は椅子に座しながら、経本を捧げ合掌して施主の揖を受ける。施主は次には北に向かって揖して、後に首座の前から巡堂する。巡堂の間は、先程同様に知客が先に先導する。巡堂一周(匝)して、聖僧前に到ったら、手炉を捧げ軽く会釈(揖)する。この時、知客は雲堂の敷居(門限)の内側、拝席の南側で、顔を北に向けて叉手して立つ(巡堂前とは逆の立ち位置)。

「施主、揖聖僧終わりて、知客に従いて雲堂前に出でて、巡堂前一匝して、なお雲堂内に入りて、聖僧に向かいて拝三拝す。拝終わりて、交椅に著きて看経を証明す。交椅は、聖僧の左の柱のほとりに、南に迎えてこれを立つ。或いは南柱のほとりに、北に迎えても立つ。施主すでに座に就きぬれば、知客すべからく施主に向かいて揖して後、位に就く。或いは施主巡堂の間、梵音あり。梵音の座、或いは聖僧の右、或いは聖僧の左、便宜に従う。手爐には、沈香箋香等の名香を差し挟み、焚くなり。この香は、施主みづから辨備するなり。施主巡堂の時は、衆僧合掌す」

施主が聖僧に対する揖(会釈)を終えて、知客と共に雲堂前(外単)に出て、先と同様に一匝して、再び雲堂内に入りて、聖僧に向かい三拝をする。そのあと交椅(簡便な折り畳み椅子)に著いて看経の様子を見る(証明)。交椅は、聖僧の左側の柱の辺の南側か、南柱の辺の北側か適宜に置く。施主が交椅に坐ったならば、知客は施主を揖して、自身の位(外単)に就く。施主巡堂の間には、梵音(唄)があり、梵唄をする人の座は聖僧の右、又は左で便宜に任す。手炉には沈香(水に沈む香木)や箋香(沈まない香木)などの名香を焚く。その香木は施主が自分で用意(辨備)するものである。施主が巡堂の時には大衆は合掌(低頭)する。

「次に看経銭を俵す。銭の多少は、施主の心に従う。或いは綿、或いは扇等の物子、これを俵す。施主みづから俵す、或いは知事これを俵す、或いは行者これを俵す。俵する法は、僧の前にこれを置くなり、僧の手に入れず。衆僧は、俵銭を前に俵する時、おのおの合掌して受くるなり。俵銭、或いは当日の斎時にこれを俵す。もし斎時に俵するが如きは、首座施食の後、さらに打槌一下して、首座施財す。施主回向の旨趣を紙片に書きて、聖僧の左の柱に貼せり。雲堂裡看経の時、揚聲して読まず、低声に読む。或いは経巻を披きて文字を見るのみなり。句読に及ばず、看経するのみなり」

次に看経銭(布施)を俵(分配)する。銭の多寡は施主に任す。銭ではなく錦や扇といった物子(物品)を俵しても良い。施主みづから手渡す事もあり、知事(役僧)が分配する事も或いは行者が俵する事もある。その時の事情により変更される。分配の方法は、僧の前(床縁)に置くのであり、手渡しはしない(この作法は上座仏教の流儀)。衆僧は俵銭が自分の前に置かれた時には、合掌して受ける。俵銭は粥罷ではなく、斎時(昼食)に分配される事もあり、その時には首座の三徳六味、施仏及僧、法界有情、普同供養の施食偈の後、さらに打槌一下して、首座が施財する。施主は回向の趣旨を紙片に書いて聖僧の左の柱に貼りつける。雲堂の中での看経の時には、声を揚げては読まず、低い声で読むか、経巻を披いて文字を黙読するか、返り点などをつけて読むこと(句読)はせず、看経するのみである。

「かくの如くの看経、多くは金剛般若経法華経普門品安楽行品、金光明経等を、いく百千巻となく、常住に設け置けり。毎僧一巻を行ずるなり。看経終わりぬれば、もとの盤、もしは函を持ちて、座の前を過ぐれば、大衆おのおの経を安ず。取る時、置く時、ともに合掌するなり。取る時は、まづ合掌して後に取る。置く時は、まづ経を安じて後に合掌す。その後、おのおの合掌して、低声に回向するなり。もし常住公界の看経には、都監寺僧、焼香礼拝巡堂俵銭、みな施主の如し。手爐を捧ぐる事も、施主の如し。もし衆僧の中に、施主となりて大衆の看経を請ずるも、俗施主の如し。焼香礼拝巡堂俵銭等あり。知客これを引く事、俗施主の如くなるべし」

看経での多くは金剛般若経(「大正蔵」七・九八〇・上・大般若波羅蜜多経巻五七七・第九能断金剛分)法華経普門品安楽行品(「大正蔵」九・五六、三七)金光明経(「大正蔵」十六・三三五・中)等を何百何千巻と什物として用意してあり、一人の僧に一巻を割り当てるのである。看経が終われば行者が盤子や函を持って、座の前を通り過ぎる時に経を置く(安ず)。取る時置く時の前後には合掌する。経を安じた後、各自が低声にて普回向(願以此功徳、普及於一切、我等与衆生、皆共成仏道)するなり。もし寺自体の看経には、都寺・監寺(つうす・かんす・寺務の責任役僧)が代行して先の施主入山と同じように、施主が大衆から出る場合でも同様である。

「聖節の看経と云う事あり。かれは、今上の聖誕の、仮令もし正月十五日なれば、先十二月十五日より、聖節の看経始まる。今日上堂なし。仏殿の釈迦仏の前に、連床を二行に敷く。いわゆる東西に相い向かえて、おのおの南北行に敷く。東西床の前に檯盤を立つ。その上に経を安ず。金剛般若経仁王経法華経最勝王経金光明経等なり。堂裡僧を一日に幾僧と請じて、斎前に點心を行う。或いは麺一椀、羹一杯を毎僧に行ず。或いは饅頭六七箇、羹一分、毎僧に行ずるなり。饅頭これも椀に盛れり。箸を添えたり、匙を添えず。行う時は、看経の座に就きながら、座を運かさずして行う。点心は、経を安ぜる檯盤に安排せり。さらに棹子をきたせることなし。行点心の間、経は檯盤に安ぜり。点心行い終わりぬれば、僧おのおの座を立ちて、嗽口して、帰りて座に就く。便ち看経す。粥罷より斎時に至るまで看経す。斎時、三下鼓響に座を立つ。今日の看経は斎時を限りとせり」

聖節(天子の誕生節会・『永平広録』では宝治元年(1247)六月・二四七則に「聖節上堂」あり)の看経という習慣が宋朝禅林では有る。それは今上(皇帝)の聖誕がもし(仮令)正月十五日であれば、一か月前の十二月十五日より、聖節の看経を始める。その日の上堂は行わない。仏殿の釈迦仏の前に連床(長いす)を正面に二列敷き、東西連床の前に(本尊寄り)檯盤(足つきの入れ物)を立て、その上に経を置く。経の種類は金剛経・仁王経(「大正蔵」八・八三四・上)法華経・金光明最勝王経(「大正蔵」十六・四〇三・上)などである。掛搭する僧を一日に幾人(僧)と決めて請(召)じて、斎(昼食)の前に点心(軽食)を行う。又は麺一椀・羹(あつもの・汁のある煮物)一杯を各僧に点ずる。又は饅頭(マントウ・蒸しパン)六七箇、羹一人分を各僧に提供する。饅頭も一人分ごとに椀に盛り、箸を添えるが、匙(かい・平安時代に使用)は添えず。これら一連の行持は看経の座に居ながら、移動せず行う。点心は経巻を置いてある檯盤に配列してあり、別途卓子(テーブル)は持ち込まない。点心の間は経巻は檯盤に置き、点心が終わったら、各僧は座を立ち、嗽口(うがい)して、帰って座に就き、看経する。粥罷(朝粥後)から斎(昼食)が始まる時まで看経する。斎時の太鼓三下鳴り終わったら座を立ち、その日の看経は斎時までとするのである。

「始むる日より、建祝聖道場の牌を、仏殿の正面の東の簷頭に掛く、黄牌なり。また仏殿の内の正面の東の柱に、祝聖の旨趣を、障子牌に書きて掛く、これ黄牌なり。住持人の名字は、紅紙あるいは白紙に書く。その二字を小片紙に書きて、牌面の年月日の下頭の貼せり。かくの如く看経して、その御降誕の日に至るに、住持人上堂し、祝聖するなり。これ古来の例なり。今にふりざる所なり。また僧のみづから発心して看経するあり。寺院もとより公界の看経堂あり。かの堂につきて看経するなり。その儀、いま清規の如し」

聖節の一か月前の始める日から、建祝聖道場の牌を、仏殿の正面の東(上手)の簷頭(ひさし庇の間)に黄牌を掛ける。また仏殿の内部の正面の東の柱には、祝聖の趣旨を障子牌(木枠の牌)に書いて黄牌を掛ける。住持人の名字は、紅紙あるいは白紙に書き、その二字の名を小片紙に書き、牌面の年月日の下に貼る。このように看経し、その当日になったら、住持人は上堂し、祝聖する。これは古来からの例で、現在も古い習慣ではない(『永平広録』には鎌倉行化の前年六月に聖節上堂の記録があるが、一か月前から右に記した行持は見当たらず)。

最後は僧衆自発心看経で、寺院では当初から公界(共用)の看経堂があり、そのお堂にて看経する、その仕方(儀則)は『禅苑清規』(「曹洞宗全書」第四巻清規・蔵主二〇頁)の如し。

このように古則話頭を援用し、形而上的看経の意味を究尽し、後半では実生活上に於ける修行と云う形に於いての具体例を述べ、看経は単なる挙声ではなく生命そのものである事を、連動させて見るねらいが有るようです。

高祖藥山弘道大師、問高沙彌云、汝從看經得、從請益得。高沙彌云、不從看經得、亦不從請益得。師云、大有人、不看經、不請益、爲什麼不得。高沙彌云、不道佗無、只是也不肯承當。

佛祖の屋裡に承當あり、不承當ありといへども、看經請益は家常の調度なり。

最後の結びとして、薬山三則目話頭を挙げられます。出典は『景徳伝灯録』十四・高沙弥章(「大正蔵」五一・三一五・下)です。

「高祖薬山弘道大師、問高沙弥云、汝従看経得、従請益得」(高祖薬山弘道大師(惟儼)が、高沙弥に問うて云く、汝は看経従り得るや、請益従り得るや)

「高沙弥云、不従看経得、亦不従請益得(高沙弥云く、看経従り得ず、亦請益従り得ず)

「師云、大有人、不看経、不請益、為什麼不得」(師(薬山)云く、大いに人有って、看経せず、請益せず、為什麼に不得)

「高沙弥云、不道他無、只是也不肯承当」(高沙弥云く、他(かれ)に無しとは道わず、只是れ承当(一致する)すると肯わざる也)

この話頭での主旨は高沙弥が云う「不従看経請益得」は無所得を云わんとするもので、無所得は日常茶飯である「看経・請益」とは不可分の聯関を、「家常の調度」と拈提されます。

「仏祖の屋裡に承当あり、不承当ありと云えども、看経請益は家常の調度なり」

この語で以て看経に対する結語とします。「仏祖」(真実)の「屋裡」(阿耨多羅三藐三菩提)に「承当」(納得)あり、「不承当」(納得しない)ありと云えども、「看経請益」は指月の指のようなもので、「仏祖の屋裡」に導入する為の「家常の調度」であるが、「仏祖」と

看経」との上下・主客を問うのではなく、「家常の調度」の円環上に仏祖・屋裡・承当・不承当として随縁として表徴すると説かれるものです。