正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵葛藤

正法眼蔵第三十八 葛藤

釋迦牟尼佛の正法眼藏無上菩提を證傳せること、靈山會には迦葉大士のみなり。嫡々正證二十八世、菩提達磨尊者にいたる。尊者みづから震旦國に祖儀して、正法眼藏無上菩提を太祖正宗普覺大師に附囑し、二祖とせり。第二十八祖、はじめて震旦國に祖儀あるを初祖と稱ず、第二十九祖を二祖と稱ずるなり。すなはちこれ東土の俗なり。初祖かつて般若多羅尊者のみもとにして、佛訓道骨、まのあたり證傳しきたれり、根源をもて根源を證取しきたれり、枝葉の本とせるところなり。おほよそ諸聖ともに葛藤の根源を截斷する參學に趣向すといへども、葛藤をもて葛藤をきるを截斷といふと參學せず、葛藤をもて葛藤をまつふとしらず。いかにいはんや葛藤をもて葛藤に嗣續することをしらんや。嗣法これ葛藤としれるまれなり、きけるものなし。道著せる、いまだあらず。證著せる、おほからんや。先師古佛云、葫蘆藤種纏葫蘆。この示衆、かつて古今の諸方に見聞せざるところなり。はじめて先師ひとり道示せり。葫蘆藤の葫蘆藤をまつふは、佛祖の佛祖を參究し、佛祖の佛祖を證契するなり。たとへばこれ以心傳心なり。

この巻は「七十五巻」配列では第三十八に位置するわけですが、「正法眼蔵」全体を時系列で見た場合には、宇治興聖寺に於ける最後の提唱(寛元元年七月七日示衆)であり、この年の提唱は一月(六日・十八日)に二巻、三月(十日)に一巻、そして四月二十九日には六波羅蜜寺提唱を行い、その二か月後に今回の「葛藤」であり、わづか十日後には越前へと移錫するわけですから、この葛藤の標題をも含めて混沌とした世情を思い遣る示衆説法であったようです。

釈迦牟尼仏正法眼蔵無上菩提を証伝せること、霊山会には迦葉大士のみなり。嫡々正証二十八世、菩提達磨尊者に至る。尊者みづから震旦国に祖儀して、正法眼蔵無上菩提を太祖正宗普覚大師に附嘱し、二祖とせり」

冒頭にて「本巻」の主旨が語られるを常とするが、釈迦仏→迦葉大士→菩提達磨→太祖正宗普覚大師(慧可)に嫡々(ちゃくちゃく呉音・てきてき漢音)と「証伝(実証単伝)・正証(正伝実証)する実態を一見平穏そのものであるが、内実は葛藤の種子が枝葉花果と入り乱れ、回互不回互するを真実相と捉える「巻」であります。

「大士」とはmahasattvaの訳で、菩薩の意と同義である。「祖儀」とは儀式の儀でありますから、修行態度と云う意。「太祖正宗普覚大師」そのままは確認できず、『続灯録』(「続蔵」七八・六四四下)には「二祖恵可正宗普覚禅師」と記録されますが、ほかの灯史には散見されず。

毎度述べる処ではありますが、仏祖のカウントは魔訶迦葉を第一祖とし、二十八人目に震旦初祖として菩提達磨を配し二祖慧可と挙名するものです。

「第二十八祖、始めて震旦国に祖儀あるを初祖と称ず、第二十九祖を二祖と称ずるなり。即ちこれ東土の俗なり。初祖かつて般若多羅尊者の身元にして、仏訓道骨、まの当たり証伝し来たれり、根源をもて根源を証取し来たれり、枝葉の本とせる処なり」

ここは前言を再度繰り返すもので、達磨以前は訳経僧や学問仏教が主だった活動であったが、達磨を以て修行の実態(祖儀)が行持された事から「初祖と称ず」と言われたわけです(実際にはダルマと称した僧は中央アジアペルシャ)出身の避難民であり、三論(中論・十二門論・百論)を講ずる学者であった)。続けて慧可を二十九祖に定め「東土の俗なり」と言われますが、この俗は僧俗の俗ではなく土俗の意であります。

初祖達磨の法はインド人の般若多羅からの伝法で、般若多羅からは「仏訓道骨」(仏の訓戒と仏の真骨頂)を授受し「証伝」(実証単伝)したと説かれます。

「根源をもて根源を証取」とは、達磨が伝持した「正法眼蔵無上菩提」つまり真実態は真実相のみに実証(証取)される事を言うもので、云うなれば唯仏与仏乃能究尽とも置換でき、「枝葉の本とせる」とは、その真実義を享受する人々を枝葉と説明されるわけです。

「おおよそ諸聖ともに葛藤の根源を截断する参学に趣向すと云えども、葛藤をもて葛藤をきるを截断と云うと参学せず、葛藤をもて葛藤を纏うと知らず。如何にいわんや葛藤をもて葛藤に嗣続する事を知らんや。嗣法これ葛藤と知れる稀なり、聞ける者なし。道著せる、未だあらず。証著せる、多からんや」

世間の常識では葛や藤(煩悩)の絡み合う根源を截断し、後に光明(さとり)に出逢うを修行と心得るが、唯仏与仏の世界では全てが仏一色ですから、截る截られるの関係性は成り立ちません。

「葛藤をもて葛藤をきる」とのみ学するは教学の云う処で、「葛藤をもて葛藤をまつう」は葛藤による解脱の意と解するのであり、此の処で言う「截断」とは全機現を意味し、仏法を相続するを截断と習い、仏法と葛藤(煩悩)を二者択一と見得するのではないものです。これらの言説は詮慧和尚註解によるものです(「註解全書」六・一七六)。

また「嗣法と葛藤」の聯関を知る者、聞ける者、道う者は、未だ曾て有らず。と、一見特異な論説は次の「汝得吾皮肉骨髄」に於ける設定の前倒しです。この嗣法の言辞からも次巻「嗣書」へと導かれる連続態を窺わせる筆運びのようです。

「先師古仏云、葫蘆藤種纏葫蘆。この示衆、かつて古今の諸方に見聞せざる処なり。始めて先師ひとり道示せり。葫蘆藤の葫蘆藤を纏うは、仏祖の仏祖を参究し、仏祖の仏祖を証契するなり。喩えばこれ以心伝心なり」

「先師古仏」とは長翁如浄(1162―1227)による天童景徳寺に於ける退院前の最後の宝慶二年(1226)十二月八日「仏成道上堂」(「大正蔵」四八・一二八中)からの『如浄語録』下巻からの引用ですが、この「葫蘆」云々は『無情説法』巻(寛元元年(1243)十月二日吉峰示衆)最後部にも援用されます。また『永平広録』に於いては宝治二年(1248)二九二則ならびに建長三年(1251)四三六則の晩年期の上堂示衆にて、この「浄録」を援用されます。因みに「浄録」に於ける「葛藤」の使用は五か所で確認され、人間如浄の思いが見える感がしてきます。

この如浄和尚に対する著語では、このような説き方で仏法を説く人は、先師のみであろうと讃え、「葫蘆藤の葫蘆藤を纏う」とは「仏祖の仏祖を参究・証契」する事であり、仏祖の心を以て仏祖の心を伝える「以心伝心」であるとの説明ですが、言わんとする主旨は、唯仏与仏を説き三界唯一心を談ずるものと察せられます。

 

    一

第二十八祖、謂門人曰、時將至矣、汝等盍言所得乎。時門人道副曰、如我今所見、不執文字、不離文字、而爲道用。祖曰、汝得吾皮。尼總持曰、如我今所解、如慶喜見阿閦佛國、一見更不再見。祖曰、汝得吾肉。道育曰、四大本空、五陰非有、而我見處、無一法可得。祖曰、汝得吾骨。最後慧可、禮三拝後、依位而立。祖曰、汝得吾髓。果爲二祖、傳法傳衣。

いま參學すべし、初祖道の汝得吾皮肉骨髓は、祖道なり。門人四員、ともに得處あり、聞著あり。その聞著ならびに得處、ともに跳出身心の皮肉骨髓なり、脱落身心の皮肉骨髓なり。知見解會の一著子をもて、祖師を見聞すべきにあらざるなり。能所彼此の十現成にあらず。しかあるを、正傳なきともがらおもはく、四子各所解に親疎あるによりて、祖道また皮肉骨髓の淺深不同なり。皮肉は骨髓よりも疎なりとおもひ、二祖の見解すぐれたるによりて、得髓の印をえたりといふ。かくのごとくいふいひは、いまだかつて佛祖の參學なく、祖道の正傳あらざるなり。

これより本題である「葛藤」と嗣法との聯関の詳細を「汝得吾皮肉骨髄」にて説かれます。

「第二十八祖、謂(命)門人曰、時将至矣、汝等盍(各)言所得乎。時門人道副(対)曰、如我今(なし)所見、不執文字、不離文字、而為道用。祖曰、汝得吾皮。尼総持曰、如(なし)我今所解、如慶喜見阿閦仏国、一見更不再見。祖曰、汝得吾肉。道育曰、四大本空、五陰非有、而我見処、無一法可得。祖曰、汝得吾骨。最後慧可、礼三(なし)拝後、依位而立。祖曰、汝得吾髄。「果為二祖、伝法伝衣(なし)」(原文)

この本則出典は『景徳伝灯録』三・達磨章(「大正蔵」五一・二一九中)と考えられます。

少々の字句の相異はあり、内容に関わるものではありませんが、最後の二句(果為二祖、伝法伝衣)は独自に付加したものです。なお此の「伝灯録」ページからは、『行持』『仏道』『空華』『説心説性』『四禅比丘』等々の巻にも引用された足跡がある達磨章である。

第二十八祖(達磨)門人に謂って日く、時は将に至る、汝等盍(なん)ぞ所得を言わず乎。時に門人道副日く、我が今の所見の如きは、文字を執せず、文字を離れず、而も道用(修行)を為す(行学一如を云う)。祖日く、汝は吾が皮を得たり。尼総持(梁武帝女)日く、我が今の所解の如きは、慶喜(阿難)が阿閦仏国を見るに、一見して更に再見せざるが如し(『大智度論』四十「大正蔵」二五・三五三中)(無所得・無所悟を云う)。祖日く、汝は吾が肉を得たり。道育曰く、四大(地水火風)は本(もと)空なり、五陰(蘊)(色受想行識)は有に非ず、而かも我が見処は、一法で得べき無し(無所得を云う)。祖日く、汝は吾が骨を得たり。最後に慧可は、三拝し礼した後に、自位に依りて立つ。祖日く、汝は吾が随を得たり。果たして二祖と為り伝法伝衣す。

「いま参学すべし、初祖道の汝得吾皮肉骨髄は、祖道なり。門人四員、ともに得処あり、聞著あり。その聞著ならびに得処、ともに跳出身心の皮肉骨髄なり、脱落身心の皮肉骨髄なり。知見解会の一著子をもて、祖師を見聞すべきにあらざるなり。能所彼此の十現成にあらず」

達磨が各人に道い放った、「汝得吾皮肉骨髄」に対する「門人四人が共に得処・聞著あり」の真意を参究学道しなさい。と言われるわけです。

その四人の「聞著・得処」が即ち「跳出身心・脱落身心」の皮肉骨髄であると。一見この説明を聞くと、自身の全身(身心)を跳え出でたり脱け落ちて、更なる「皮肉骨髄」が生ずるような見方は「能所彼此」に導かれますから、唯仏与仏乃能究尽的観点からは、跳出↔身心↔皮肉骨髄と、このように一味同態であり相互互換をも可能な論述が仏法の説く処であり、これを「知見解会」の能所(する・されるの関係)彼此(あれ・これの問題)を以て「祖師を見聞すべきにあらず」と説かれるもので、云い添えるならば、釈迦牟尼↔祖師↔達磨↔門人四員の関係性も輪廻回向の如くに、門人が釈迦と同等とも、達磨は門人と等価と為すと云うも置換可能です。

「しかあるを、正伝なき輩思わく、四子各所解に親疎あるによりて、祖道また皮肉骨髄の浅深不同なり。皮肉は骨髄よりも疎なりと思い、二祖の見解勝れたるによりて、得髄の印を得たりと云う。かくの如く云う言いは、未だ曾て仏祖の参学なく、祖道の正伝あらざるなり」

前述するように「門人四員には共に得処聞処ある」にも関わらず、「正伝なき輩」つまり嗣法なき杜撰漢の考えは「四人の各見解に優劣あって、皮肉骨髄には浅深あり、皮肉は骨髄よりも劣(疎)る」と思い、「二祖(慧可)の見解が勝れ、汝得吾髄の印可を得たり」との云い様は、仏祖道に対する参学・正伝がない証しである。と、このように世間で云う皮肉骨髄の喩えと仏道での捉え方の違いを述べられる拈提です。

しるべし、祖道の皮肉骨髓は、淺深にあらざるなり。たとひ見解に殊劣ありとも、祖道は得吾なるのみなり。その宗旨は、得吾髓の爲示、ならびに得吾骨の爲示、ともに爲人接人、拈草落草に足不足あらず。たとへば拈花のごとし、たとへば傳衣のごとし。四員のために道著するところ、はじめより一等なり。祖道は一等なりといへども、四解かならずしも一等なるべきにあらず。四解たとひ片々なりとも、祖道はたゞ祖道なり。おほよそ道著と見解と、かならずしも相委なるべからず。たとへば、祖師の四員の門人にしめすには、なんぢわが皮吾をえたりと道取するなり。もし二祖よりのち、百千人の門人あらんにも、百千道の説著あるべきなり。窮盡あるべからず。門人たゞ四員あるがゆゑに、しばらく皮肉骨髓の四道取ありとも、のこりていまだ道取せず、道取すべき道取おほし。しるべし、たとひ二祖に爲道せんにも、汝得吾皮と道取すべきなり。たとひ汝得吾皮なりとも、二祖として正法眼藏を傳附すべきなり。得皮得髓の殊劣によれるにあらず。また、道副道育總持等に爲道せんにも、汝得吾髓と道取すべきなり。吾皮なりとも、傳法すべきなり。祖師の身心は、皮肉骨髓ともに祖師なり。髓はしたしく、皮はうときにあらず。

「知るべし、祖道の皮肉骨髄は、浅深にあらざるなり。たとい見解に殊劣ありとも、祖道は得吾なるのみなり。その宗旨は、得吾髄の為示、ならびに得吾骨の為示、ともに為人接人、拈草落草に足不足あらず。たとえば拈花の如し、たとえば伝衣の如し。四員のために道著する処、始めより一等なり。祖道は一等なりと云えども、四解必ずしも一等なるべきにあらず。四解たとい片々なりとも、祖道はただ祖道なり」

先程は「皮肉骨髄の浅深不同なり」の言で以て平等義を説かれましたが、ここに来て「皮肉骨髄は、浅深にあらざるなり」と直接的表現で以て優劣なきを説かれます。ただ見解(ことばづかい)に優劣があっても、祖道(達磨のことば)は平等に「得吾」とするのである。

そこで大切なこと(宗旨)は、「得吾髄」や「得吾骨」での提示は、どちらも説法(為人接人・拈草落草)に於ける方便であり、そこには「足不足」といった浅深はないのである。

この為人接人を具体的に言うなら、霊鷲山会上での拈花微笑の伝法であり伝衣の如しで、そ

れは特定の個人に与えた法ではなく、門人四員の平等性を、このように説くのです。云うな

れば達磨の為人接人は同じであるが、受け手の四人の答えは同じであるはずはなく、四人の

解答の片々に附随するものが、皮肉骨髄と言う方途である事実を懇切に説くものです。

いま一度読み解くに、達磨の一法は変わりないが、四人の顔が異なるように、解答も各様で

正誤はなく、達磨の与えた皮肉骨髄の語にも浅深の奥義はないとの見解です。

「おおよそ道著と見解と、必ずしも相委なるべからず。たとえば、祖師の四員の門人に示す

には、なんぢわが皮吾を得たりと道取するなり。もし二祖より後、百千人の門人あらんにも、

百千の説著あるべきなり。窮尽あるべからず。門人ただ四員あるが故に、しばらく皮肉骨髄の四道取ありとも、残りて未だ道取せず、道取すべき道取多し」

「道著」は達磨の言と「見解」は門人四人の言とは、必ずしも一致(相委)するものではない。例えば汝得吾皮と例示すべきを「なんぢわが皮吾を得たり」と提示するように、二祖慧可より後に百千(十万)人の門人があったら、百千通りの言い方があるはずであり、尽十方界のあらゆる事象が題材可能ですから、「窮尽あるべからず」と窮め尽くせない仏法世界と説くものです。

この本則話頭に於いては四人との「皮肉骨髄」の四通りの内容ですが、先述するように仏道の観点からは無限(百千道)の即答可能(百千無量の門人には、汝得身心とも汝得色受想行識とも汝得地水火風空識)を「道取すべき道取多し」と、道元禅師の思考法からは言えるものです。

「知るべし、たとい二祖に為道せんにも、汝得吾皮と道取すべきなり。たとい汝得吾皮なりとも、二祖として正法眼蔵を伝附すべきなり。得皮得髄の殊劣によれるにあらず。また、道副道育総持等に為道せんにも、汝得吾髄と道取すべきなり。吾皮なりとも、伝法すべきなり。祖師の身心は、皮肉骨髄ともに祖師なり。髄は親しく、皮は疎きにあらず」

ここでは達磨に対する著語で、二祖慧可のみに対する「汝得吾髄」では一方的である為、「二祖に対し改めて「汝得吾皮」と道取し、そこで伝法伝衣すべきであると達磨に再考を求める拈提です。

さらに他の三人(道副・尼総持・道育)にも、各人に「汝得吾髄」を提示し伝法しなさいと説得し、再度「髄は親しく、皮は疎きにあらず」と差別ある意ではない旨を説く論述となります。

この場に筆者も参随が許されるなら達磨尊者に対し、「世人の誤解を正し、舌足らずを改め、門人すべてに汝得吾尽十方界真実人体を示し、肉身を分かち伝法すべし」と、喝一声を伝えたいものである。

いま參學の眼目をそなへたらんに、汝得吾皮の印をうるは、祖師をうる參究なり。通身皮の祖師あり、通身肉の祖師あり、通身骨の祖師あり、通身髓の祖師あり。通身心の祖師あり、通身身の祖師あり、通心心の祖師あり。通祖師の祖師あり、通身得吾汝等の祖師あり。これらの祖師、ならびに現成して、百千の門人に爲道せんとき、いまのごとく汝得吾皮と説著するなり。百千の説著、たとひ皮肉骨髓なりとも、傍觀いたづらに皮肉骨髓の説著と活計すべきなり。もし祖師の會下に六七の門人あらば、汝得吾心の道著すべし、汝得吾身の道著すべし。汝得吾佛の道著すべし、汝得吾眼睛の道著すべし、汝得吾證の道著すべし。いはゆる汝は、祖なる時節あり、慧可なる時節あり。得の道理を審細に參究すべきなり。

「いま参学の眼目を具え足らんに、汝得吾皮の印を得るは、祖師を得る参究なり。通身皮の祖師あり、通身肉の祖師あり、通身骨の祖師あり、通身髄の祖師あり。通身心の祖師あり、通身身の祖師あり、通心心の祖師あり。通祖師の祖師あり、通身得吾汝等の祖師あり」

ここでは汝得吾皮に対する道取多きを通身皮・肉・骨・随・心・身を各々独立の通身祖師と位置づけ、さらには「通心心・通祖師・通身得吾汝等」の祖師ありとは、それぞれ各部位を唯仏与仏の仏体と見る独特の論述法に見えますが、これらの手法は『法句経』等の原始仏典に見られる述法を採用したもので、繰り返しの言による記憶増強に連絡するものです。

「これらの祖師、ならびに現成して、百千の門人に為道せん時、今の如く汝得吾皮と説著するなり。百千の説著、たとい皮肉骨髄なりとも、傍観いたづらに皮肉骨随の説著と活計すべきなり。もし祖師の会下に六七の門人あらば、汝得吾心の道著すべし、汝得吾身の道著すべし。汝得吾仏の道著すべし、汝得吾眼睛の道著すべし、汝得吾証の道著すべし。いわゆる汝は、祖なる時節あり、慧可なる時節あり。得の道理を審細に参究すべきなり」

通身皮祖師・通身肉これらの祖師が同時に眼前現成し、百千の門人に語る(為道)時は、全人に対し汝得吾皮と説くも可なりで、また皮肉骨髄と説著するも可であるが、第三者(傍観)から見れば空虚に皮肉骨髄と説くと思う(活計)に違いない。

もしも達磨会下に四人以上(六・七人)の門人が居たならば、その時には「汝得吾心」とも「汝得吾身」とも「汝得吾仏」とも或いは「汝得吾眼睛」とも又は「汝得吾証」とも言う(道著)はずである。ここにいう「汝」とは祖(達磨)であり慧可(二祖)の時節であり、「得」の道理を事細かに(審細)参学究明すべきなり。と説かれるわけですが、汝とは達磨に対面する私であると同時に、私自身が達磨もしくは慧可に成りきる事であり、得とは唯仏与仏を包含する尽十方界の真実態を得るものである。

しるべし、汝得吾あるべし、吾得汝あるべし、得吾汝あるべし、得汝吾あるべし。祖師の身心を參見するに、内外一如なるべからず、渾身は通身なるべからずといはば、佛祖現成の國土にあらず。皮をえたらんは、骨肉髓をえたるなり。骨肉髓をえたるは、皮肉面目をえたり。たゞこれを盡十方界の眞實體と曉了するのみならんや、さらに皮肉骨髓なり。このゆゑに得吾衣なり、汝得法なり。これによりて、道著も跳出の條々なり、師資同參す。聞著も跳出の條々なり、師資同參す。師資の同參究は佛祖の葛藤なり、佛祖の葛藤は皮肉骨髓の命脈なり。拈花瞬目、すなはち葛藤なり。破顔微笑、すなはち皮肉骨髓なり。さらに參究すべし、葛藤種子すなはち脱體の力量あるによりて、葛藤を纏遶する枝葉花果ありて、回互不回互なるがゆゑに、佛祖現成し、公案現成するなり。

「知るべし、汝得吾あるべし、吾得汝あるべし、得吾汝あるべし、得汝吾あるべし。祖師の身心を参見するに、内外一如なるべからず、渾身は通身なるべからずと云わば、仏祖現成の国土にあらず。皮を得たらんは、骨肉髄を得たるなり。骨肉髄を得たるは、皮肉面目を得たり。只これを尽十方界の真実体と曉了するのみならんや、さらに皮肉骨髄なり」

さらにつづめて「汝得吾・吾得汝・得吾汝・得汝吾」と言い替えも可能との提言ですが、この手法は汝と吾の能所を逆転させ、「汝得吾」に対する意味構成を一旦分解し、既成概念の払拭を図る論述法であり、禅録に於いては常套手法であります。

『御抄』では此の場面を「汝得の道理を吾得汝・得吾汝・得汝吾と、即心是仏を打ち変えて、あまたに釈するように上下して談ずとも、只同じ道理なるべきなり」(「註解全書」六・一六二)とは経豪和尚のお考えです。

「身心」=「渾身」=「通身」の異句同義を言い、「内外一如なるべからず」とは、「汝得吾」と「吾得汝」はA×B=B×Aとの等価を示すものではなく、能所を払拭しても各々の独立した様子をこのように捉え、「渾身」「通身」と語句は違っても共に尽十方界の真実体を表徴するわけですから、別物と言ったら「仏祖現成の国土」とは言えないとの解説ですが、非常に入り込んだ分かりづらい箇所です。

いま一度「汝得吾皮」に対する註釈で、皮を得ると同時に骨肉髄をも同時に得るとは、分節的に考えるのではなく一味態に把捉するを、「尽十方界の真実体」とばかり曉了するのではなく、「さらに皮肉骨髄なり」とは、汝得吾→吾得汝と意味解体し、「渾通身皮」に「骨肉髄」をも包含させ、「只尽十方界真実体」―「尽十方界皮」―「尽十方界肉」―「尽十方界骨」―「尽十方界髄」と提示するものと心得べしとの拈提です。論述手法としては、常態語→解体→カテゴリー化除去→能所(主客)の逆転→再構築再示の弁法になります。

「この故に得吾衣なり、汝得法なり。これによりて、道著も跳出の条々なり、師資同参す。聞著も跳出の条々なり、師資同参す。師資の同参究は仏祖の葛藤なり、仏祖の葛藤は皮肉骨髄の命脈なり。拈花瞬目、即ち葛藤なり。破顔微笑、則ち皮肉骨髄なり。さらに参究すべし、葛藤種子すなわち脱体の力量あるによりて、葛藤を纏遶する枝葉花果ありて、回互不回互なるが故に、仏祖現成し、公案現成するなり」

さらなる問い掛けで以て、「得吾衣」「汝得法」を提示されますが、是は五祖弘忍から六祖慧能に於ける伝衣・伝法を述べるもので、この時の弘忍と慧能による道著も聞著も相対世界を跳び出た真実を「跳出の条々」と言わしめ、その跳出した時点(活鱍々)では能所の区分は有り得ませんから「師資同参」つまり師匠と弟子との相対する関係性も尽十方界真実体の実相態と為るものです。

この本則拈提に於いて始めて「師資の同参究は仏祖の葛藤なり、仏祖の葛藤は皮肉骨髄の命脈なり」と、葛藤が表出します。この「仏祖の葛藤」を分子生物学のゲノム(遺伝子)の相補性で説明すると、師資の二人は単純に同時参究するのではなく、同じ人間であっても全ゲノム三十億塩基が同参ではなく、0・1%つまり三百万塩基の違いがあり、その途方もない数値が値遇するを皮肉骨髄の命脈と位置づけるも可能と思われます。義雲和尚は『頌著』に於いて「命脈は糸の如し」と、葛藤を命の連なりを糸玉の如く絡まり合いながら生きる姿を「正法眼蔵涅槃妙心」に譬えられます。

次に冒頭での「霊山会には迦葉大士」云々を承けての「拈花瞬目、即ち葛藤なり。破顔微笑、則ち皮肉骨髄なり」と、これらの事象は取りも直さず尽十方界真実体であり、「拈花瞬目」―「破顔微笑」―「皮肉骨髄」等は「葛藤」の表徴態であるとの言説です。猶この「拈花瞬目」話の出典籍は『大梵天王問仏決疑経』(「続蔵」八七)とされる(「駒沢大学仏教学部論集」三一・石井修道)参照。

この「拈花・破顔・皮肉は葛藤なり」との結論でも充分ではあるが、綿密細緻なる道元和尚ならではの参究法であります。

「葛藤種子」の解釈を普通は、葛や藤の中に潜む種子の生命力が「脱体の力量」であり、葛藤に纏遶(からまりつく)する枝葉や花果を「仏祖公案として現成する」と、読み解くならば仏法的知見ではなく、この場合の葛藤は尽十方界の真実体を「葛藤」と称するわけで、植物の構成要素を問うている訳では有りません。

『御抄』による解説では「葛藤は只葛藤を種子とし、此の葛藤の功徳荘厳にて、枝葉花果と成る」(「註解全書」六・一六五)と示し、続けて「葛藤の道理の外には、交わるべき物なき処を、葛藤を纏遶す」と読み解かれ、回互不回互(葛藤に枝葉ありとも、花果なきとも)と縦横する現象(現実)を「仏祖(真実相)が現成し、公案(真実態)が現成するなり」との拈提を以て、この「汝得吾皮肉骨髄」に於ける葛藤の究明とします。

 

    二

趙州眞際大師示衆云、迦葉傳與阿難、且道、達磨傳與什麼人。因僧問、且如二祖得髓、又作麼生。師云、莫謗二祖。師又云、達磨也有語、在外者得皮、在裡者得骨。且道、更在裏者得什麼。僧問、如何是得髓底道理。師云、但識取皮、老僧者裡、髓也不立。僧問、如何是髓。師云、與麼即皮也模未著。

しかあればしるべし、皮也模未著のときは、髓也模未著なり。皮を模得するは、髓もうるなり。與麼即皮也模未著の道理を功夫すべし。如何是得髓底道理と問取するに、但識取皮。老僧遮裏、髓也不立と道取現成せり。識取皮のところ、髓也不立なるを、眞箇の得髓底の道理とせり。かるがゆゑに、二祖得髓、又作麼生の問取現成せり。迦葉傳與阿難の時節を當觀するに、阿難藏身於迦葉なり、迦葉藏身於阿難なり。しかあれども、傳與裡の相見時節には、換面目皮肉骨髓の行李をまぬかれざるなり。これによりて、且道、達磨傳與什麼人としめすなり。達磨すでに傳與するときは達磨なり、二祖すでに得髓するには達磨なり。この道理の參究によりて、佛法なほ今日にいたるまで佛法なり。もしかくのごとくならざらんは、佛法の今日にいたるにあらず。この道理、しづかに功夫參究して、自道取すべし、教佗道取すべし。在外者得皮、在裏者得骨、且道、更在裏者得什麼。いまいふ外、いまいふ裏、その宗趣もとも端的なるべし。外を論ずるとき、皮肉骨髓ともに外あり。裏を論ずるとき、皮肉骨髓ともに裏あり。しかあればすなはち、いま四員の達磨、ともに百千萬の皮肉骨髓の向上を條々に參究せり。髓よりも向上あるべからずとおもふことなかれ。さらに三五枚の向上あるなり。

趙州古佛のいまの示衆、これ佛道なり。自餘の臨濟徳山大潙雲門等のおよぶべからざるところ、いまだ夢見せざるところなり。いはんや道取あらんや。近來の杜撰の長老等、ありとだにもしらざるところなり。かれらに爲説せば、驚怖すべし。

二則目の本則は趙州真際大師従諗(778―897)ですが、口唇皮禅を以て接化し、棒喝禅と対比されるものである。また法脈は南泉普願(748―834)法嗣者十七人中の五位に列し、自身の法嗣は十三人を数えるが法脈は途絶え、同時代に生きた臨済義玄(―866)のみの宗風が栄える事となる。

「趙州真際大師示衆云、迦葉伝与阿難、且道、達磨伝与什麼人。因僧問、且如二祖得髄、又作麼生。師云、莫謗二祖。師又云、達磨也有語、在外者得皮、在裡者得骨。且道、更在裏者得什麼。僧問、如何是得髄底道理。師云、但識取皮、老僧者裡、髄也不立。僧問、如何是髄。師云、与麼即皮也模未著」

趙州真際大師示衆に云く、迦葉が阿難(陀)に(法を)伝え与う、且(しばら)く道え、達磨は什麼(何)人にか伝え与う。因みに僧問う、且く二祖の得髄の如きは、又作麼生。師(趙州)云く、二祖(慧可)を謗ずる莫れ。師は又云く、達磨も也(ま)た語(ことば)有り、外(そと)に在る者は皮を得、裡(うち)に在る者は骨を得る。且く道え、更に裏(うち)に在る者は什麼をか得る。僧問う、如何か是れ得髄底の道理。師云く、但だ皮を識取せば、老僧が者裡、髄も也た不立なり。僧問う、如何か是れ髄。師云く、与麼(そのよう)ならば即ち皮も也た模未著(手さぐれない)。

この出典は『趙州語録』(「続蔵」六八・七九中)からと為り、これから「趙州話」に対する拈提ですが、話の流れを述べる事にする。

趙州が大衆に、「迦葉は阿難に法を伝与したが、それなら達磨はだれ(什麼人)に伝与したのか」との問いに対し、一人の雲水が問うに、「とにかく(且に意味なし)二祖が得髄した事実は、どういう事でしょうか」との僧の問いに対し趙州は、「二祖をそしってはいけないぞ」と答えますが、これは僧が云う二祖得髄は特別視するランク付けが含意するを見込まれる事から、「二祖を誹謗(そしる)するな」と趙州は僧に釘を刺した形です。

これまでは序の口で、これからが趙州の唇皮話頭禅である。

趙州が又云う「達磨も也た語(ことば)有り、外に在る者は皮を得、裡(うち)在る者は骨を得る。とにかく道ってみなさい、更に裏に在る者は什麽を得るか」。ここでの趙州の云わんとする要旨は、「外に在る皮は、その時点で完全態を呈し、皮肉骨髄を勘定に入れてなく、裡に在る時は骨だけの世界で以て完全態とするものですから、さらに裏に在るは什麽を得るかと発する問いには、什麽という真実底が包接されます」から、いかなる物も限定されないのであります。

そこで、僧には二祖慧可は達磨から得髄し法を伝持した、という固定観念で以てカテゴリー化した仏法が有る為に、「如何是得髄底の道理」と、形骸化した問いに為るものです。

この僧の常識的問いに対しては、「ただ皮を識取すれば、老僧(趙州)の処(者裡)では、髄も也た不立」との答話ですが、この主旨は趙州会下では皮の真実で充分で、髄には用はないと、僧の出鼻を挫く設定です。

そこで僧の「如何是髄」の問いには、趙州に対する訝し気な念いを有する云い用と為ります。

あくまで髄に固執する僧に対する趙州は、「そのように(与麽)、髄を手探り(模著)たいのでは、皮すら手探れない(模未著)ぞ」との、叱声とも受け取られる僧と趙州との丁丁発止な応答ですが、どうも雲水僧には趙州の真意が伝与されないようです。

「しかあれば知るべし、皮也模未著の時は、髄也模未著なり。皮を模得するは、髄も得るなり。与麼即皮也模未著の道理を功夫すべし」

これまで述べてきたように、「皮也模未著」(皮も探れない)の時には、「髄也模未著」(髄も探れない)です。同じように「皮模得」(皮を探れる)ならば「髄也模得」(髄も手探れる)であるわけです。ですから今一度、「与麽ならば即ち皮もまた模索できない」ことの道理(物事のすじみち)を実修で以て功夫(努力)しなさい、との問題提示です。

「如何是得髄底道理と問取するに、但識取皮。老僧遮裏、髄也不立と道取現成せり。識取皮の処、髄也不立なるを、真箇の得髄底の道理とせり。かるが故に、二祖得髄、又作麼生の問取現成せり」

次いで本則話を逆に辿り「如何是得髄底道理」に対する「識取皮」=「髄也不立」→真箇の「得髄底」の流れ(道理)であると解説されます。こういう訳で、僧が問うた「作麼生」という事物・事象の問い自体が、即ち現成する真実であるとの言です。

「迦葉伝与阿難の時節を当観するに、阿難蔵身於迦葉なり、迦葉蔵身於阿難なり。しかあれども、伝与裡の相見時節には、換面目皮肉骨髄の行李を免れざるなり。これによりて、且道、達磨伝与什麼人と示すなり」

「迦葉伝与阿難」の読みを迦葉の伝与は阿難なりと観察(当観)すれば、おのづと阿難が迦葉に身を蔵し(阿難蔵身於迦葉)、さらには迦葉蔵身於阿難(迦葉が阿難に身を蔵した)と、迦葉と阿難との関係性には能行所行(する・されるの関係)が現出せず、時節を共用する実相態である。

しかあれども(迦葉・阿難の等価態)、各々の仏与時の相見では、皮と談ずる時や肉と称する時も有るように、各々の面目に換えて行李(日常)を送らなければならず、その事情を趙州は「且道、達磨伝与什麼人」と僧に対する問い掛けの形態で云うが、什麽人という真実人は尽十方界真実人であるから、達磨の伝与は什麽人(尽十方界人)と「示すなり」と、道元禅師は読み解かれるわけです。

「達磨すでに伝与する時は達磨なり、二祖すでに得髄するには達磨なり。この道理の参究によりて、仏法なお今日に至るまで仏法なり。もしかくの如くならざらんは、仏法の今日に至るにあらず。この道理、しづかに功夫参究して、自道取すべし、教他道取すべし」

前述を繰り返すもので「達磨すでに伝与する時は達磨なり」とは、達磨蔵身於達磨とも置換でき、又は「二祖(慧可)が達磨なり」とは、二祖と初祖との牆壁が除かれ、意味分節態から意味無分節態に同化された事を云うものですが、先ほど同様に二祖藏身於達磨とも云い替え可能です。これらの蔵身する道理を参学究明に依って、仏法の現在に至るまでを自覚し、これらの道理を静かに努力(功夫)し究めて、自身に云い聴かせ(自道取)他にも云い聞かせ(教他道取)なさい、と学道の歩むべき方向性を示されます。

「在外者得皮、在裏者得骨、且道、更在裏者得什麼。いま云う外、いま云う裏、その宗趣もとも端的なるべし。外を論ずる時、皮肉骨髄ともに外あり。裏を論ずる時、皮肉骨髄ともに裏あり。しかあれば即ち、いま四員の達磨、ともに百千万の皮肉骨髄の向上を条々に参究せり。髄よりも向上あるべからずと思う事なかれ。さらに三五枚の向上あるなり」

最後の拈提箇所であり、外を皮と見、裏を骨と説く時の「外裏」の認識論は、皮だけが外ではなく皮肉骨髄の全体を以て外と識得するのであり、同様に裏を論ずる場合には、全体の皮肉骨髄を以て裏とするとは、換面目皮肉骨髄の行李である。

「いま四員の達磨」とは、道副・尼総持・道育・慧可の四人の門人と達磨との同等態を指すものですが、そこでは百千万回の皮肉骨髄の向上を条々(ひとつひとつ)参究すべきであり、髄が終局ではなく、その三枚五枚先の向上あるなり。と、自身にも聴聞衆にも言い含めての言説に為ります。これで拈提自体は終わるわけですが、短文ながら趙州和尚に対し尊厳なる言句を添え、最後の本則拈提は趙州に対する敬意を表すものです。

「趙州古佛の今の示衆、これ仏道なり。自余の臨済徳山大潙雲門等の及ぶべからざる処、未だ夢見せざる所なり。いわんや道取あらんや。近来の杜撰の長老等、ありとだにも知らざる処なり。彼らに為説せば、驚怖すべし」

これまで述べてきた趙州(778―897)古仏の示衆は、これは仏の道(ことば)とも違わず、ほかの臨済義玄(―866)や徳山宣鑑(780―865)や潙山霊祐(771―853)さらに雲門文偃(864―949)らの及ぶべくもなく、趙州の言などは夢にも見る者ではないと、徹底した嫌悪ぶりは「正法眼蔵」に通巻したもので、そこには概念化・固定した仏道観を徹頭徹尾排せられ、これら四員の先輩僧には、言い訳出来ないだろうとの、やや高慢ぶりが垣間見られる文体のようです。

かの四人は400年~300年前の人物ですが、近来(道元在宋時代もしくは1240年代)と一気に現在に論調を移し、杜撰の長老(天台僧兵などを指すか)等には、趙州の説法など有るとも知らない(参学しない為)処であろうが、その長老等に説いたならば、自身の仏道観との違いに驚き怖れる事であろう。と、この話頭を終わらせます。

雪竇明覺禪師云、趙睦二州、是古佛なり。しかあれば、古佛の道は佛法の證験なり。自己の曾道取なり。雪峰眞覺大師云、趙州古佛。さきの佛祖も古佛の贊歎をもて贊歎す、のちの佛祖も古佛の贊歎をもて贊歎す。しりぬ、古今の向上に超越の古佛なりといふことを。しかあれば、皮肉骨髓の葛藤する道理は、古佛の示衆する汝得吾の標準なり。この標格を功夫參究すべきなり。また初祖は西歸するといふ、これ非なりと參學するなり。宋雲が所見かならずしも實なるべからず、宋雲いかでか祖師の去就をみん。たゞ祖師歸寂ののち、熊耳山にをさめたてまつりぬるとならひしるを、正學とするなり。

この古則二話は、先の段の趙州従諗に対する補足的説明である。

「雪竇明覚禅師云、趙睦二州、是古仏なり。しかあれば、古仏の道は仏法の証験なり。自己の曾道取なり」

この出典録は『明覚禅師』一・室中挙古「者僧克由叵耐、将一杓屎、溌他二員、古仏諸上座。若能辯得、非唯趙睦二州雪屈、亦乃翠峰与天下老宿無過」(「大正蔵」四七・六七二上)からで、これに対する著語としては、趙州は古仏としての言葉(道)は仏法の証験(あかし)であり、他人からの借り物ではなく、自身の口唇皮道取であると、賛嘆するものです。

「雪峰真覚大師云、趙州古仏。先の仏祖も古仏の賛歎をもて賛歎す、後の仏祖も古仏の賛歎をもて賛歎す。知りぬ、古今の向上に超越の古仏なりと云うことを」

古則出典籍は『圜悟語録』十八・頌古上「僧問雪峰、古澗寒泉時如何。峰云、瞪目不見底。僧云、飮者如何。峰云、不從口入。後有僧挙似趙州、州云、不可從鼻孔裏入去也。僧却問、古澗寒泉時如何、州云苦。僧云、飮者如何。州云死。雪峰聞之云、趙州古仏」(「大正蔵」四七・七九九上)からで、『真字正法眼蔵』下二八三則にも取り挙げられる。なお『古仏心』巻にても「雪峰いはく、趙州古仏」(「岩波文庫」㈠・二〇二)として本則に挙げられる。

「先の仏祖」(雪峰)も古仏の形容詞で以て誉め(賛嘆)て、「後の仏祖」(雪竇)も同様に趙州を賛嘆する事は、古今に停滞せずその向上を超越する古仏を、「趙州」と言うのである、との言です。

「しかあれば、皮肉骨髄の葛藤する道理は、古仏の示衆する汝得吾の標準なり。この標格を功夫参究すべきなり」

ですから皮肉骨髄の纏(まと)い葛藤する道理は、趙州古仏の示衆で知れる処であり、その古仏の示衆する汝得吾が達磨の全体を得たという事を標準とすると言われるのであり、そこで、この標準格式を(打坐の観点から)努力し参学究明(功夫参究)しなさいと、ここで達磨と趙州の連続態・聯関性と纏わせる手法です。

「また初祖は西帰すると云う、これ非なりと参学するなり。宋雲が所見必ずしも実なるべからず、宋雲いかでか祖師の去就を見ん。ただ祖師帰寂の後、熊耳山に収め奉りぬると習い知るを、正学とするなり」

この説話の出典は『景徳伝灯録』三・達磨章であり、「太和十九年(495)其年十二月二十八日葬熊耳山、起塔於定林寺。後三歳、魏宋雲奉使西域迴ー略ー雲問、師(達磨)何往。師曰、西天去」(「大正蔵」五一・二二〇中)の部分を見て記述されたと思われますが、「当巻」の結語に於いて、古則話頭とは直接関係ない達磨死後に関するエピソードを付加する意旨は、「神通」に関する論考でも見てきたように、㈠神秘的伝承・行法を嫌うこと ㈡西天二十八祖・震旦初祖としての法の堅持 ㈢菩提達磨への絶対的な信認などを挙げる事ができます。

現在(2019年)の我々ならば、歴史上の達摩と伝承上の達磨を使い分けて考察できますが、道元さんが生きた社会風潮としては、ダルマ(達磨)や慧能が政争の具にされた事情など知る由もない事から、宋雲の非を説き熊耳山(河南省三門峡市・ゆうじさん・定林寺→空相寺に改名)に埋葬されたとする慣習を正学とするなり。と改めて強調する必然性を有していたものと思われます。