正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵渓声山色

正法眼蔵第二十五 渓声山色

    一

阿耨菩提に傳道授業の佛祖おほし、粉骨の先蹤即不無なり。斷臂の祖宗まなぶべし、掩泥の毫髪もたがふることなかれ。各々の脱殻うるに、從來の知見解會に拘牽せられず、曠劫未明の事、たちまちに現前す。恁麼時の而今は、吾も不知なり、誰も不識なり、汝も不期なり、佛眼も覰不見なり。人慮あに測度せんや。

前巻は「画餅」との標題から、俗解と仏法見との相違を徹底して説き進めましたが、この巻の標題は「渓声山色」と現前する大自然の様態を示唆しての提唱となります。『画餅』巻とは一年四か月程の時間的差異は有りますが、眼蔵編集時に於ける連脈・聯関の意図を明らかに見てとれます。

「阿耨菩提に伝道授業の仏祖多し、粉骨の先蹤即不無なり。断臂の祖宗学ぶべし、掩泥の毫髪もたがうる事なかれ」正法眼蔵渓声山色

「阿耨菩提」とは、阿耨多羅三藐三菩提の略語で阿耨菩提とも称じ、無上正等正覚とも訳され「さとり」の当体を云うものですが、このさとりは結果としての阿耨菩提ではなく、而今の現成を「阿耨菩提」と捉えその同位列に「伝道授業」「仏祖」を据え、その多くの先蹤(先輩)の中には、骨身を粉にし、慧可のように断臂の先例が即不無であるから、祖宗の行実を学ぶべきである。

「掩泥の毫髪」とは、前生譚話で「儒童菩薩(仏)が燃灯仏の為に、自身の髪を泥上に敷き、如来の車を通した」故事を云うもので、即ち法の為道の為に、心骨惜しまず努力せよ。との問い掛けであり、提言となります。

なお、この「粉骨・断臂・掩泥」は『景徳伝灯録』三・達磨章(「大正蔵」五一・二一九・中)に「昔人求道、敲骨、取髄、刺血、済饑。布髪掩ー略ー潜取利刀自断左臂」(・筆者)を、参照されたのかも知れません。

「各々の脱殻うるに、従来の知見解会に拘牽せられず、曠劫未明の事、忽ちに現前す。恁麼時の而今は、吾も不知なり、誰も不識なり、汝も不期なり、仏眼も覰不見なり。人慮あに測度せんや」

「脱殻」とは解脱・脱落と同意で、脱殻の時には今までの知識や見解に引きずら(拘牽)れてはならず、「曠劫未明の事」は、父母未生已前・本来面目と同義語と解し得ますから、脱殻とも言い替えられ、その時、忽ちに何が現前するかとは、修行する当体・つまり坐禅姿を言うものです。

「恁麼時の而今」は先の坐禅時の状態を指し、その時には「吾も不知・誰も不識・汝も不期・仏眼も覰不見」と、それぞれに「不」の字句を冠し説かれますが、この不は否定辞句ではなく、肯定辞とでも云うべきものですから、「吾・誰・汝・仏眼」を絶対現成態と認得します。

これらの「不」のハタラキは脱殻なる力量に依るもので、人間の思慮・配慮の及ぶものではない事実を「人慮あに測度せんや」と言われ、この測度ならぬ現成を「渓声山色」と標題されるものです。

 

    二

大宋國に、東坡居士蘇軾とてありしは、字は子瞻といふ。筆海の眞龍なりぬべし、佛海の龍象を學す。重淵にも游泳す。曾雲にも昇降す。あるとき、廬山にいたれりしちなみに、谿水の夜流する聲をきくに悟道す。偈をつくりて、常總禪師に呈するにいはく、谿聲便是廣長舌、  山色無非清淨身、夜來八萬四千偈、佗日如何擧似人。この偈を總禪師に呈するに、總禪師、然之す。總は照覺常總禪師なり、總は黄龍慧南禪師の法嗣なり、南は慈明楚圓禪師の法嗣なり。

これから本則を挙し拈提に入りますが、標題である「渓声山色」は、この蘇東坡(1036―1101)の悟道に至った偈文からである事は間違いはなく、この巻の提唱時の延応二年(1240)時点に於いて東坡居士を絶賛するもので、寛元二年(1244)提唱の『三十七品菩提分法』巻に於いては、維摩居士と龐温居士両頭を「維摩居士の仏出世時にあふし、道未尽の法おほし。学未到すくなからず。龐薀居士が祖席に参歴せし、薬山の堂奥をゆるされず、江西におよばず。ただわづかに參学の名をぬすめりといへども、参学の実あらざるなり」(「正法眼蔵」三・二九六頁・水野・岩波文庫)と、二人は未得の居士との評価ですが、東坡居士一人祖位に列するものです。

「大宋国に、東坡居士蘇軾とて有りしは、字は子瞻と云う。筆海の真龍なりぬべし、仏海の龍象を学す。重淵にも游泳す。曾雲にも昇降す」

蘇東坡の紹介文ですが、『嘉泰普灯録』二十三・賢臣篇(「続蔵」七九・四二八・中)には「内翰蘇軾居士。字子瞻号東坡宿東林日与照覚常」と表題されます。

「筆海の真龍」とは、文学方面での本物との意で、「仏海の龍象」とは仏教界に於いても本物との意で、龍も象も共に「仏」の代名詞にも使用されるものです。さらに「重淵にも游泳す」つまり深い海の底でも遊泳する事が出来、「曾雲にも昇降す」と、層を成した雲にも自由に昇り降り出来る。との、これ以上ない讃辞で語られます。この重淵・曾雲は筆海・仏海にも通じ、龍の縁語とも成ります。

「ある時、廬山に到れりし因みに、渓水の夜流する声を聴くに悟道す。偈を作りて、常総禅師に呈するに云く、渓声便是広長舌、山色無非清浄身、夜来八万四千偈、他日如何挙似人。この偈を総禅師に呈するに、総禅師、然之す。総は照覚常総禅師なり、総は黄龍慧南禅師の法嗣なり、南は慈明楚円禅師の法嗣なり」

「廬山」は江西省九江市に在する名山で海抜1474メートルに達し、古くは李白白居易も廬山を詩歌の対象にし、又信仰の山でもある。

その廬山に、蘇東坡が訪れた際に詠んだ偈が「渓声は便ち是れ広長舌(仏の説法)、山色は清浄身に非ざること無し(「普灯録」では無を豈とする)。夜来の八万四千偈(仏の説法)他日如何に人に挙似できようか」の偈頌を常総禅師(1025―1091)に差し出し、然りと印可された悟道の偈であります。

常総禅師とは照覚常総が正式僧名であり、普段は総禅師と呼び親しまれたようで、黄龍派祖に当たる黄龍慧南(1002―1069)の法嗣となりますが、その慧南は慈明楚円(986―1039)と連脈し、六代前は臨済義玄となります。

ほかに慧南の法を嗣いだ人には真浄克文(1025―1102)・黄龍祖心(1025―1100)が列し、祖心が黄龍派を嗣ぎ、その法脈は栄西・明全と連なります。奇しくも祖心・常総・克文の生まれた年は同年であったようです。

居士、あるとき佛印禪師了元和尚と相見するに、佛印、さづくるに法衣佛戒等をもてす。居士、つねに法衣を搭して修道しき。居士、佛印にたてまつるに無價の玉帶をもてす。ときの人いはく、凡俗所及の儀にあらずと。しかあれば、聞谿悟道の因縁、さらにこれ晩流の潤益なからんや。あはれむべし、いくめぐりか現身説法の化儀にもれたるがごとくなる。なにとしてかさらに山色をみ、谿聲をきく。一句なりとやせん、半句なりとやせん、八萬四千偈なりとやせん。うらむべし、山水にかくれたる聲色あること。又よろこぶべし、山水にあらはるゝ時節因縁あること。舌相も懈惓なし、身色あに存没あらんや。しかあれども、あらはるゝときをやちかしとならふ、かくれたるときをやちかしとならはん。一枚なりとやせん、半枚なりとやせん。從來の春秋は山水を見聞せざりけり、夜來の時節は山水を見聞することわづかなり。いま、學道の菩薩も、山流水不流より學入の門を開すべし。

「居士、ある時仏印禅師了元和尚と相見するに、仏印、授くるに法衣仏戒等をもてす。居士、常に法衣を搭して修道しき。居士、仏印に奉るに無価の玉帯をもてす。時の人云く、凡俗所及の儀にあらずと」

この説話は、『聯灯会要』二八・洪州雲居仏印元禅師章(「続蔵」七九・二四七・中)に記載される「衆日雲門説法、如雲如雨。―中略―師一日、為学徒入室、適東坡居士、忽到面前。―中略―若道不得、即輪腰下玉帯子、遂留下玉帯、師却贈以衲衣ー後略」(・点筆者)を参照し語られたものです。

「法衣を搭して」の法衣を今は直綴と云うが、蘇軾の生きた北宋時代の法衣は、袈裟を意味するものです。

仏印了元(1032―1098)は先の説法語(雲門の説法は雲の如く雨の如し)にも見られるように雲門文偃を祖とし、双泉仁郁ー徳山慧遠ー開先善暹ー仏印了元と嗣続するもので有るが、同時代人としては雲門宗の法雲法秀(1027―1090)曹洞宗の投子義青(1032―1083)黄龍派の黄龍祖心(1025―1100)照覚常総(1025―1091)真浄克文(1025―1102)さらには楊岐派の白雲守端(1025―1072)等と肩を斉しくしたのであるが、蘇東坡と常総とは十一歳、了元とは四歳ちがいの学仏道居士と為ります。

「しか有れば、聞渓悟道の因縁、さらにこれ晩流の潤益なからんや。憐れむべし、幾廻りか現身説法の化儀に漏れたるが如くなる。何としてかさらに山色を見、渓声を聴く。一句なりとやせん、半句なりとやせん、八万四千偈なりとやせん。恨むべし、山水に隠れたる声色あること。又喜ぶべし、山水に表れるる時節因縁あること」

東坡居士による聞渓悟道の因縁譚は、蘇軾一人の得益で有るはずはなく、後輩(晩流)である道元自身、さらには興聖会下に参随する学人にも潤益が有るはずである。との言提ですが、これは平成に生きる我々自身の裨益でも有るわけです。

山色や渓声の現身説法触を日常底に見聞して居ても、啐啄の縁に契合しない学徒を想い、憐れむべし。と言辞し、恨むべきは山水に常時声色有るを、聴こうとしない態度であり、喜ぶべきは渓声山色を見聞し啐啄する時節因縁あることである。

「舌相も懈惓なし、身色あに存没あらんや。しか有れども、現わるる時をや近しと習う、隠れたる時をや近しと習わん。一枚なりとやせん、半枚なりとやせん。従来の春秋は山水を見聞せざりけり、夜来の時節は山水を見聞する事僅かなり。今、学道の菩薩も、山流水不流より学入の門を開すべし」

「舌相」とは渓声「身色」は山色に言い替えてのものですが、先には啐啄の喩えで説明しましたが、同じ論調にて隠顕・存没・遠近と云った相対的見方ではなく、全機的見方で把定すれば隠も顕も同心、存も没も同心、遠も近も同心の道理に導き、更には山色と自己が一枚と為る時も真実態であり、又は山色だけが顕現する時、自己だけが存没する半枚と為る時も真実底の表現体である。

蘇東坡に於いても、江西省の廬山に到る前にも渓声の山色を見聞したはずで有るが、山水を仏身・仏舌として認得せず感覚世界の領域で捉えていたが、夜来八万四千偈を悟道したとしても、真実相の僅かな一部でしかないのである。現今興聖傘下の学道菩薩も、山流水不流(「空手把鋤頭、歩行騎水牛、人従橋上過、橋流水不流」善慧大士「大正蔵」五一・四三〇・上・参照)という一見すると矛盾めいた言辞の、固定概念を解語しパラダイムシフトからの学入の門を開すべし。と、日頃見慣れる「山水」の根本義を問わしめ、雲水を菩薩と見なしての懇切な拈提です。

この居士の悟道せし夜は、そのさきのひ、總禪師と無情説法話を參問せしなり。禪師の言下に飜身の儀いまだしといへども、谿聲のきこゆるところは、逆水の波浪たかく天をうつものなり。しかあれば、いま谿聲の居士をおどろかす、谿聲なりとやせん、照覺の流瀉なりとやせん。うたがふらくは照覺の無情説法話、ひびきいまだやまず、ひそかに谿流のよるの聲にみだれいる。たれかこれ一升なりと辦肯せん、一海なりと朝宗せん。畢竟じていはば、居士の悟道するか、山水の悟道するか。たれの明眼あらんか、長舌相、清淨身を急著眼せざらん。

「この居士の悟道せし夜は、その先の日、総禅師と無情説法話を参問せしなり」

この因縁譚は『嘉泰普灯録』二三・内翰蘇軾居士章(「続蔵」七九・四二八・下)にて「与

照覚常総禅師論無情話有省黎明献偈曰溪声便是広長舌山色豈非清浄身夜来八万四千偈他日

如何挙似人」(本文では豈を無とする)から引用したものですが、東坡居士が突然に夜流す

る声を聴いて悟道したのではなく、常総(師)との無情説法話(『無情説法』巻の慧忠(大

証)国師と僧との問答話)を介在とする処、師資相承による啐啄の同期を説かんとする趣旨

が垣間見られる内容と為ります。

「禅師の言下に飜身の儀未だしと云えども、渓声の聞こゆる処は、逆水の波浪たかく天を打

つものなり。しか有れば、いま渓声の居士を驚かす、渓声なりとやせん、照覚の流瀉なりとやせん。疑うらくは照覚の無情説法話、響き未だ止まず、密かに渓流の夜の声に乱れ入る」

ここは東坡居士の心境を道元禅師が代弁してのもので、常総からの無情説法話が機縁と為り、翻身(悟道)には至らなかったが、渓声の聴こえ方が、上から下に流れ落ちる渓水が逆流し、天を打ち破る程に聞こえたものとするに、東坡居士を驚かせたのは渓川の声か、それとも照覚禅師の感化(流瀉)かと。問わしめるものですが、東坡居士の悟道は照覚禅師による薫習的効力を「響き止まず」と言い、その常総禅師による無情説法が重力波が伝播されるが如くに「密かに渓流の夜の声に乱れ入る」。との、東坡居士蘇軾に同肩、それ以上の筆勢ある表現と為ります。

「誰かこれ一升なりと辦肯せん、一海なりと朝宗せん。畢竟じて云わば、居士の悟道するか、山水の悟道するか。誰の明眼あらんか、長舌相、清浄身を急著眼せざらん」

だれが渓川の水の量を「一升・一海」と規定できようかと、無定量に喩えるものです。「朝宗」とは、多くの河川の水が海に流れ入るを指し、多くの河川を諸法実相に喩えるとも云え、先の「夜来の時節は山水を見聞することわづかなり」と通脈するものです。

本則の結語として東坡居士と山水との関係性を「居士の悟道するか山水の悟道するか」と疑問態にしつらえますが、居士が先で山水が後、又は山水が先で居士が後では無い事実を説かんが為の疑問態です。つまり(畢竟)は、居士と山水とは同時同体同事の関係を言うものです。

「誰」とは明言しなくとも、明眼ある人ならば渓声による説法(長舌相)、山水の清浄身(現身説法)を、しっかり見る(急著眼)ことであろう。と柔軟に拈提されますが、道元禅師の思いは、この提唱を機縁とし、現身説法の如何を速道速道と迫るものと解されるものです。

 

    三

又香嚴智閑禪師、かつて大潙大圓禪師の會に學道せしとき、大潙いはく、なんぢ聰明博解なり。章疏のなかより記持せず、父母未生以前にあたりて、わがために一句を道取しきたるべし。香嚴、いはんことをもとむること數番すれども不得なり。ふかく身心をうらみ、年來たくはふるところの書籍を披尋するに、なほ茫然なり。つひに火をもちて、年來のあつむる書をやきていはく、畫にかけるもちひは、うゑをふさぐにたらず。われちかふ、此生に佛法を會せんことをのぞまじ、たゞ行粥飯僧とならんといひて、行粥飯して年月をふるなり。行粥飯僧といふは、衆僧に粥飯を行益するなり。このくにの陪饌役送のごときなり。かくのごとくして大潙にまうす、智閑は心神昏昧にして道不得なり、和尚わがためにいふべし。大潙のいはく、われ、なんぢがためにいはんことを辭せず。おそらくはのちになんぢわれをうらみん。かくて年月をふるに、大證國師の蹤跡をたづねて武當山にいりて、國師の庵のあとにくさをむすびて爲庵す。竹をうゑてともとしけり。あるとき、道路を併淨するちなみに、かはらほどばしりて竹にあたりて、ひゞきをなすをきくに、豁然として大悟す。沐浴し、潔齋して、大潙山にむかひて燒香禮拝して、大潙にむかひてまうす、大潙大和尚、むかしわがためにとくことあらば、いかでかいまこの事あらん。恩のふかきこと、父母よりもすぐれたり。つひに偈をつくりていはく、一撃亡所知、更不自修治。動容揚古路、不墮悄然機、處々無蹤跡、聲色外威儀。諸方達道者、咸言上々機。この偈を大潙に呈す。大潙いはく、此子徹也。

これより先の悟道話頭に類似した話則を四則列挙されます。

これは『聯灯会要』八(「続蔵」七九・七六・下)『景徳伝灯録』(「大正蔵」五一・二八四・上)等の灯録を見られ、『真字正法眼蔵』上・一七則また『永平広録』四五七則(建長三年(1251)九月頃)にも散見されます。

「又香厳智閑禅師、かつて大潙大円禅師の会に学道せし時、大潙云く、なんぢ聡明博解なり。章疏の中より記持せず、父母未生以前にあたりて、わが為に一句を道取し来たるべし」

文意はそのままで、大潙大円禅師とは潙山霊祐(771―853)の道場(会)に、当時は一雲衲であった香厳智閑(―898)との日常底の会話で有るが、潙山は学者肌の香厳を「聡明博解」と称するが、『聯灯会要』では「聡明霊利」とし、『景徳伝灯録』には「激発智光」と称し、『真字正法眼蔵』にては「多聞博記」また『永平広録』に於ける上堂説法時では、その形容は用いません。つまりこの日本語読みでは、道元禅師独自な表現形態にて書き留められる様子が窺われます。

潙山の要求は書(章疏)からの引用ではなく、思考以前の一句を道取せよ。との言下と為ります。

「香厳、云わん事を求むる事数番すれども不得なり。深く身心を恨み、年来蓄える処の書籍を披尋するに、なお茫然なり。遂に火を持ちて、年来の集むる書を焼きて云く、画に書ける餅いは、飢えを充ぐに足らず。我れ誓う、此生に仏法を会せん事を望まじ、ただ行粥飯僧とならんと云いて、行粥飯して年月を経るなり。行粥飯僧と云うは、衆僧に粥飯を行益するなり。この国の陪饌役送の如きなり」

香厳の答話では潙山は許さなかったようで、香厳は自分自身を制御出来ずに蒐集した書籍を焼き払ったとするが、書物と自身との不得答話とは無関係であるから、些か教条主義的傾向が無いとも云えなくもないようである。そこでの言辞が『画餅』巻での標題の如く「画餅不充飢」であった。そこでの自誓句が「此生不学仏法也。且作箇長行粥飯僧」のことばで有るが、この時点に於いての香厳の見方は、能観所観的視点からの行粥飯僧に対する階層的視点(ヒエラルキー)とも見受けられます。行粥飯僧とは、衆僧に対する給仕役のことである。との解説付きです。

「かくの如くして大潙に申す、智閑は心神昏昧にして道不得なり、和尚わが為に云うべし。大潙の云く、我、汝が為に云わん事を辞せず。恐らくは後に汝、我を恨みん」

普通の学者間の受け答えでは、精神的に疲労困憊した状況下では極位を授けるものですが、宗教的次元に於ける親切心は、本人の自発的悟道を導き出すことを、霊祐は「云えなくもないが、後日汝(智閑)は吾(潙山)を恨むだろう」と、云った事が答えなので有る。

「かくて年月を経るに、大証国師の蹤跡を尋ねて武当山に入りて、国師の庵の跡に草を結びて為庵す。竹を植えて友としけり。ある時、道路を併浄する因みに、瓦ほど走りて竹に当りて、響きをなすを聞くに、豁然として大悟す。沐浴し、潔斎して、大潙山に向かいて焼香礼拝して、大潙に向かいて申す、大潙大和尚、昔わが為に説くこと有らば、如何でか今この事あらん。恩の深き事、父母よりも勝れたり」

香厳の心情を想像するに、潙山の処ではニッチもサッチも行かず八方塞がりの状況で、慧忠国師武当山湖北省)に出向いたのも、脚が自ずと行かしめての事情と思われます。なお武当山は単主峰ではなく、周囲四百キロ・七十二峰から成る山脈で、武当山古建築は世界文化遺産にも指定される荘厳なものです。

ある時道路を清掃(併浄)し瓦が竹に当たりて竹声を聞いての大悟は、「香厳撃竹の話」として有名なものです。

その時の言辞が「大潙大和尚、昔我が為に説く事があったなら、今この大悟は無く、この霊祐和尚の無言答話の恩は、父母よりも勝れたものであった」との、感慨です。

「遂に偈を作りて云く、一撃亡所知、更不自修治。動容揚古路、不墮悄然機、処々無蹤跡、声色外威儀。諸方達道者、咸言上々機。この偈を大潙に呈す。大潙云く、此子徹也」

偈の意訳では、「竹に当たった瓦の一撃は、知る所も亡く、過ぎ去ってしまい、更に竹の響声を取り戻す事は出来ず。すべての現象(動容)は昔より変わらぬ路を揚げていて、寂然(悄然)の機(心境)には堕せず。すべての場所(処々)には蹤跡(あとかた)は無く、感覚以前(声色外)の威儀である。諸方の達道者は、咸(みな)上々の機(ハタラキ)と言うのである。」

この偈文を湖南省の同慶寺まで持って行った折の潙山霊祐のことばが「此子徹也」であった。

この香厳の章では灯録を元に和読にするのみで拈提の作業には立ち入りませんが、先程の『永平広録』での上堂説法に於いては、頌著とも言うべき「道著香厳和尚゚等閑掃古路沙礫゚何似初聞翠竹声゚正当恁麼時゚又作麼生道゚四海無涯添草露」(香厳和尚を道著す、等閑に古路の沙礫を掃う、何ぞ初めて翠竹の声を聞くに似たり、正当恁麼の時、又作麼生道う、四海は涯り無し草露を添う)の一言です。

さらに『御抄』では「竹声を聞いて香厳の悟道は有りき。そもそも香厳の悟道と云うべき歟、竹声の悟道と云うべき歟。竹の声を聞いて悟道すとも心得、香厳の香厳を聞いて悟道すとも云うべきか。これらの道理を能々閑かに功夫すべき也」(「註解全書」四九二頁)と、香厳の悟道を捉えられます。

又、靈雲志勤禪師は三十年の辦道なり。あるとき遊山するに、山脚に休息して、はるかに人里を望見す。ときに春なり。桃花のさかりなるをみて、忽然として悟道す。偈をつくりて大潙に呈するにいはく、三十年來尋剣客、幾回葉落又抽枝、自從一見桃花後、直至如今更不疑

大潙いはく、從縁入者、永不退失。すなはち許可するなり。いづれの入者か從縁せざらん、いづれの入者か退失あらん。ひとり勤をいふにあらず。つひに大潙に嗣法す。山色の清淨身にあらざらん、いかでか恁麼ならん。

次に提示するのは先ほど同様、潙山霊祐の弟子である霊雲志勤の悟道話である霊雲見桃花である。

「又、霊雲志勤禅師は三十年の辦道なり。ある時遊山するに、山脚に休息して、遙かに人里を望見す。時に春なり。桃花の盛りなるを見て、忽然として悟道す。偈を作りて大潙に呈するに云く」

これは霊雲の紹介と共に大悟に至る光景を述べるもので、前二話同様、霊雲に於いても大自然の風景の中での、ふとした一場面が従縁で悟道に至らしめた事実が有ります。因みに本文では「大潙に呈する」として潙山の弟子とするが、これは『景徳伝灯録』十一(「大正蔵」五一・二八五・上)に従ったものですが、『聯灯会要』十(「続蔵」七九・九一・上)では潙山の兄弟弟子の長慶大安(793―883)の弟子として紹介されます。

「三十年来尋剣客、幾回葉落又抽枝、自従一見桃花後、直至如今更不疑

大潙云く、従縁入者、永不退失

和読すると「三十年来、剣を尋ぬる客、幾回りか葉は落ち、又枝を抽きんず。一たび桃花を見て自従り後は、直に如今に至るまで、更に疑わず。大潙が云うには、縁より入る者は、永く退失せじ」と読まれる処ですが、初句「三十年来尋剣客」の読みに対しては、『永平広録』四五七則での拈偈文「求剣刻舟胡与越゚遅遅春日幾尋枝゚不期一見桃華処゚眼綻心穿不足疑」(剣を求め舟を刻む胡と越と、遅遅たる春の日幾くか枝を尋ぬる。期せず一見桃華の処、眼綻び心穿って疑うに足らず)を参照すれば、提唱当時は「剣を尋ぬる客」と和読したと見込まれるものの、一方経豪和尚解釈によると「剣客と云うはよき客なり、剣客は知識にあたる」(「註解全書」四九四)と注意書きされ、また詮慧和尚『聞書』では「尋剣客とは、乗船のとき落入剣於浪中、後に求むとて船のはたを刻みたる事ありき」と、永平寺での上堂説法に則った註解でありますから、経豪読みは間違いで有る事に気づかされます。

また霊雲を潙山の弟子とする『景徳伝灯録』では「従縁悟達、永無退失」と記され、長慶大安を師とする『聯灯会要』では「従縁入者、永無退失」である事から、提唱文では両灯を合糅した文章構成となります。

「即ち許可するなり。いづれの入者か従縁せざらん、いづれの入者か退失あらん。ひとり勤を云うにあらず。遂に大潙に嗣法す。山色の清浄身にあらざらん、いかでか恁麼ならん」

これが拈提となるものですが、三十年来の一偈で以て潙山は霊雲を印可したとの事です。その理由を従縁入者(縁より入る者)は、永不退失(永く退失せじ)と、一たび良縁に巡り逢えたなら永らく退失することは有らず。を一段門戸を広げ「いづれの入者」を先に言い、それは良縁であるからだと。同じく「いづれの入者」も退失有ろうはずは無い。と一人志勤だけを云うのではなく、すでに聞法聴法する山内学人もが、入者従縁であり入者不退失で有るを説くものです。これは東坡居士が気付いたように、「山色が清浄身」であるから見桃花後悟道し得るものである。

長沙景岑禪師に、ある僧とふ、いかにしてか山河大地を轉じて自己に歸せしめん。師いはく、いかにしてか自己を轉じて山河大地に歸せしめん。いまの道趣は、自己のおのづから自己にてある、自己たとひ山河大地といふとも、さらに所歸に罣礙すべきにあらず。

この話頭は『真字正法眼蔵』上・十六則に見られるもので、先の香厳の処では十七則でしたから隣接する話頭になるわけです。

南泉普願(748―834)の法を嗣ぎ、湖南省の長沙に居を定めずいた事から世間の人は景岑を長沙和尚と呼び慣らし、咸通九年(868)に示寂とされる人物であるが、長沙の理念は雪峰義存(822―908)や、その門下玄沙師備(835―908)で説かれた「尽十方界云々」の語法により受け継がれた。

「長沙景岑禅師に、ある僧問う、いかにしてか山河大地を転じて自己に帰せしめん。師云く、いかにしてか自己を転じて山河大地に帰せしめん」

『景徳伝灯録』十(「大正蔵」五一・二七五・下)では「僧問、如何転得山河国土帰自己去。師云、如何転得自己成山河国土去。僧云、不会。師云、湖南城下好養民、米賤柴多足四隣。其僧無語。師有偈曰、誰問山河転、山河転向誰、円通無両畔、法性本無帰」と示されます。

「今の道趣は、自己のおのづから自己にてある、自己たとい山河大地と云うとも、さらに所帰に罣礙すべきにあらず」

この言句は、自己と山河大地の親しき関係性を説くもので、山河大地是自己は自己是山河大地で有ることを、長沙は「尽十方世界無一人不是自己」とも説かれるものである。

瑯琊の廣照大師慧覺和尚は南嶽の遠孫なり。あるとき、教家の講師子璿とふ、清淨本然、云何忽生山河大地。かくのごとくとふに、和尚しめすにいはく、清淨本然、云何忽生山河大地。

こゝにしりぬ、清淨本然なる山河大地を山河大地とあやまるべきにあらず。しかあるを、經師かつてゆめにもきかざれば、山河大地を山河大地としらざるなり。

「瑯琊の広照大師慧覚和尚は南嶽の遠孫なり。ある時、教家の講師子璿問う、清浄本然、云何忽生山河大地。かくの如く問うに、和尚示すに云く、清浄本然、云何忽生山河大地」

この話頭の出典も『真字正法眼蔵』上・六則からと思われるが底本は『嘉泰普灯録』三長水子章(「続蔵」七九・三〇六・下)歟。そこにも記されるように汾陽善昭(947―1024)の法を嗣ぎ、問答に於ける長水子璿に嗣続されます。なお瑯琊は南嶽懐譲からは第十世の遠孫となります。

「ここに知りぬ、清浄本然なる山河大地を山河大地と誤まるべきにあらず。しかあるを、経師かつて夢にも聞かざれば、山河大地を山河大地と知らざるなり」

先の長沙の処では、問いに対する主客を入れ替えての答話でしたが、ここでは問いに対する主客を、そのまま答話に仕立てる形態ですが、主旨は同心で、山河大地は清浄本然と説く旨を「経師かつて夢にも聞かず」と、子璿に対する道元禅師の評著となります。「灯録」では「講師」と記されるものを、敢えて「経師」と強言され「山河大地を山河大地と知らざるなり」との手厳しい評価です。

 

    四

しるべし、山色谿聲にあらざれば拈花も開演せず、得髓も依位せざるべし。谿聲山色の功徳によりて、大地有情同時成道し、見明星悟道する諸佛あるなり。かくのごとくなる皮袋、これ求法の志気甚深なりし先哲なり。その先蹤、いまの人、かならず參取すべし。いまも名利にかゝはらざらん眞實の參學は、かくのごときの志気をたつべきなり。遠方の近來は、まことに佛法を求覓する人まれなり。なきにはあらず、難遇なるなり。たまたま出家兒となり、離俗せるににたるも、佛道をもて名利のかけはしとするのみおほし。あはれむべし、かなしむべし、この光陰ををしまず、むなしく黒暗業に賣買すること。いづれのときかこれ出離得道の期ならん。たとひ正師にあふとも、眞龍を愛せざらん。かくのごとくのたぐひ、先佛これを可憐憫者といふ。その先世に惡因あるによりてしかあるなり。生をうくるに爲法求法のこゝろざしなきによりて、眞法をみるとき眞龍をあやしみ、正法にあふとき正法にいとはるゝなり。この身心骨肉、かつて從法而生ならざるによりて、法と不相應なり、法と不受用なり。祖宗師資、かくのごとく相承してひさしくなりぬ。菩提心はむかしのゆめをとくがごとし。あはれむべし、寶山にむまれながら寶財をしらず、寶財をみず、いはんや法財をえんや。

これまで東坡・香厳・霊雲・長沙・瑯琊と五人による悟道話をそれぞれに提唱してきましたが、あらためて大自然(渓声山色)と仏法についての詳細な拈提と為ります。

「知るべし、山色渓声にあらざれば拈花も開演せず、得髄も依位せざるべし。渓声山色の功徳によりて、大地有情同時成道し、見明星悟道する諸仏あるなり。かくの如くなる皮袋、これ求法の志気甚深なりし先哲なり。その先蹤、今の人、必ず参取すべし。今も名利に関わらざらん真実の参学は、かくの如きの志気を立つべきなり」

渓声山色の無辺際の事例としての釈尊拈花・慧可得髄・菩提樹下での悟道は、みな渓声山色の功徳力に依るとの言いで有り、ともども身心を拈じての行持であり、教家による概念説明では無いことを強調するものです。「かくの如くなる皮袋」であるが、このように求法の志気甚深なる先哲を見習うべきとの言明であります。

これらの先哲同様に名聞利養に無執着する志気を立つべき。と問法参随の学人に呼びかける内容です。

「遠方の近来は、誠に仏法を求覓する人まれなり。無きにはあらず、難遇なるなり。たまたま出家児となり、離俗せるに似たるも、仏道をもて名利の架け橋とするのみ多し。憐れむべし、悲しむべし、この光陰を惜しまず、虚しく黒暗業に売買すること。いづれの時かこれ出離得道の期ならん」

道元禅師の周辺には、それ程までに名利の徒輩が居たものかと、天台系の階層性を成した当時の坊主社会をとことん嫌悪された文章であるが、当時の律宗には叡尊や華厳には明恵など仏法を求覓する人物名を具体的に列挙されればと思われるが、どうしても僧である前に人間の習癖として、黒暗面が気にかかるものである、と一言付しての小拙の注解とするものである。先蹤おも

「たとい正師に逢うとも、真龍を愛せざらん。かくの如くの類い、先仏これを可憐憫者と云う。その先世に悪因あるによりてしか有るなり。生を受くるに為法求法の志なきによりて、真法を見るとき真龍を怪しみ、正法に逢うとき正法に厭わるるなり」

この処は『坐禅箴』巻に於ける「彫龍を愛するより、すすみて真龍を愛すべし」(「正法眼蔵」一・二三〇頁・水野・岩波文庫)にも通ずる言い回しであるが、本物を見究める眼力が無いことを、先の先哲・先蹤たちは、さぞかし憐れむことで有ろうが、悪因悪果の道理は如何ともし難い事実である。これらのように、真法と真龍。正法の見究めを怠るな。との山内学人に念押しの教説です。

「この身心骨肉、かつて従法而生ならざるによりて、法と不相応なり、法と不受用なり。祖宗師資、かくの如く相承して久しくなりぬ。菩提心は昔の夢を説くが如し。憐れむべし、宝山に生まれながら宝財を知らず、宝財を見ず、云わんや法財を得んや」

先世に悪因ある者を称して、この者の体が法に依り生じなかった為に、仏法とは不相応なり。縁が無いと言われるようで、今の分子生物学で云う処の、遺伝子欠損病の如くで先天的病態を酷評するようで、先の「霊雲・潙山」で説かれた「いづれの入者か従縁せざらん」と、全面開放し仏法に導き入れた文言とは説き方が疎雑に思われるが、この場合の論調としては能観所観的見方で説明した方が、わかりやすく次節にて先世に悪因ある者にも、解決法が示されるものである。

もし菩提心をおこしてのち、六趣四生に輪轉すといへども、その輪轉の因縁、みな菩提の行願となるなり。しかあれば、從來の光陰はたとひむなしくすごすといふとも、今生のいまだすぎざるあひだに、いそぎて發願すべし。ねがはくはわれと一切衆生と、今生より乃至生々をつくして正法をきくことあらん。きくことあらんとき、正法を疑著せじ、不信なるべからず。まさに正法にあはんとき、世法をすてて佛法を受持せん、つひに大地有情ともに成道することをえん。かくのごとく發願せば、おのづから正發心の因縁ならん。この心術、懈惓することなかれ。

「もし菩提心を起こして後、六趣四生に輪転すと云えども、その輪転の因縁、みな菩提の行願となるなり。しか有れば、従来の光陰はたとい虚しく過ごすと云うとも、今生の未だ過ぎざる間に、急ぎて発願すべし」

「六趣」は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道を指し、「四生」とは胎・卵・湿・化生を云うものですが、これらの輪転する状況を我々自身と把捉するわけです。その変転する因縁それぞれが菩提(真実底)の行持願行と成るのである。

そうであるから、これまで(従来)の年月(光陰)は何もなくとも、生命ある限り一刻も早く発心願行しなさい。と真龍を愛せざらん者にも門開放するものです。

「願わくは我と一切衆生と、今生より乃至生々を尽して正法を聞く事あらん。聞く事あらん時、正法を疑著せじ、不信なるべからず。まさに正法に遭わん時、世法を捨てて仏法を受持せん、遂に大地有情ともに成道する事を得ん。かくの如く発願せば、おのづから正発心の因縁ならん。この心術、懈惓する事なかれ」

この文章の如くに、正法を聴聞し疑著せず仏法を受持すれば、自然に正発心の因縁の種子と為る。との開方便で有るを潙山は「従縁入者」と説き、それはいづれの入者にも連脈するもので有り、この心術(心がけ)を懈惓してはいけない。と言われます。

又この日本國は、海外の遠方なり、人のこゝろ至愚なり。むかしよりいまだ聖人むまれず、生知むまれず、いはんや學道の實士まれなり。道心をしらざるともがら、道心ををしふるときは、忠言の逆耳するによりて、自己をかへりみず、佗人をうらむ。おほよそ菩提心の行願には、菩提心の發未發、行道不行道を世人にしられんことをおもはざるべし、しられざらんといとなむべし。いはんやみづから口稱せんや。いまの人は、實をもとむることまれなるによりて、身に行なく、こゝろにさとりなくとも、佗人のほむることありて、行解相應せりといはん人をもとむるがごとし。迷中又迷、すなはちこれなり。この邪念、すみやかに抛捨すべし。學道のとき見聞することかたきは、正法の心術なり。その心術は、佛々相傳しきたれるものなり。これを佛光明とも、佛心とも相傳するなり。如來在世より今日にいたるまで、名利をもとむるを學道の用心とするににたるともがらおほかり。しかありしも、正師のをしへにあひて、ひるがへして正法をもとむれば、おのづから得道す。いま學道には、かくのごとくのやまふのあらんとしるべきなり。たとへば、初心始學にもあれ、久修練行にもあれ、傳道授業の機をうることもあり、機をえざることもあり。慕古してならふ機あるべし、訕謗してならはざる魔もあらん。兩頭ともに愛すべからず、うらむべからず。いかにしてかうれへなからん、うらみざらん。いはく、三毒三毒としれるともがらまれなるによりて、うらみざるなり。

「又この日本国は、海外の遠方なり、人の心至愚なり。昔より未だ聖人生まれず、生知生まれず、いわんや学道の実士まれなり。道心を知らざる輩、道心を教うる時は、忠言の逆耳するによりて、自己を省みず、他人を恨む」

文意の如くですが、先程も「遠方の近来」とありましたが、九州から寧波(ニンポー)までは船旅で一か月以上要したわけですから実感が伴ったものです。今では飛行機で2時間の距離で、離陸して機内食を食べ終えたら上海に到着。とは隔世の感があります。

「聖人生まれず、生知生まれず」と語られますが、何を基準としての聖人かが今一つ釈然としませんが、自身が学んだ延暦寺開創である最澄栄西、また横川戒壇での公円僧正・同伴僧明全などを、如何ように位置づけるのであろうか。

また道元禅師自身の体験談としての言が、道心を教示した為に、逆に恨みを買ったような実体験があり、このような「忠言の逆耳するによりて、自己を省みず、他人を恨む」との語り口となったと思われます。

「おほよそ菩提心の行願には、菩提心の発未発、行道不行道を世人に知られん事を思わざるべし、知られざらんと営むべし。云わんやみづから口称せんや」

『御抄』でも「今人の心操には相違すべし」(「註解全書」一・五〇五)と指摘するように、鎌倉前期時代に於いてさへ「世人に知られざらんと営む」行持は、古典的だったようです。

「今の人は、実を求むる事稀なるによりて、身に行なく、心に悟りなくとも、他人の誉むる事ありて、行解相応せりと云わん人を求むるが如し。迷中又迷、則ちこれなり。この邪念、速やかに抛捨すべし」

「今」とは示衆である1240年を指すのであるが、その頃の多くの学人の状況を、発心しない者も大悟したように振る舞うは迷中又迷の漢の最たるもので、このような邪念を投げ捨て自分に正直であれ。との言明に受け取れます。

「学道のとき見聞する事かたきは、正法の心術なり。その心術は、仏々相伝し来たれる者なり。これを仏光明とも、仏心とも相伝するなり」

学道途路での困難は、正法を理解する心掛け(心術)であるが、その心術は仏光明(真実態)仏心(真実底)ともども相伝するものである。と如何に仏法を見究めるかの重要性を強調します。

如来在世より今日に至るまで、名利を求むるを学道の用心とするに似たる輩多かり。しか有りしも、正師の教えに遭いて、翻して正法を求むれば、おのづから得道す。いま学道には、かくの如くの病の有らんと知るべきなり」

「学道の用心」を名利にあらずと理屈ではわかりつつも、一度たりとも先生と呼ばれたり報酬としての金銭の授受が伴うことで、遠い釈尊の時代から今日に至るまでと説かれますが、二十一世紀の現今に連脈するものです。

この一度足りともが慣習化した徒輩にも、正師による教法が薫習し正法を求法すれば得道(悟道)する。と解決法を提示されますが、学道の途上では禅病と称されるような、黒山鬼窟裏に入らざる得ない病魔が有る事も承知すべきである。とのこころ構えを説かれます。

「たとえば、初心始学にもあれ、久修練行にもあれ、伝道授業の機を得る事もあり、機を得ざる事もあり。慕古して習う機あるべし、訕謗して習わざる魔もあらん。両頭ともに愛すべからず、恨むべからず。如何にしてか愁えなからん、恨みざらん。云く、三毒三毒と知れる輩稀なるによりて、恨みざるなり」

人間集団(道場)では必ず新参者と古参の古株が存在し、初心者はノンキャリアで晩学者はキャリア組と称するわけだが、真実の探求者には「伝道授業の得不得・習う機習わざる魔」との二分立の観念を捨てるのではなく、愛すべからず恨むべからず。との中立的位相が重要です。ですから仏法を訕謗する魔の元凶である三毒(貪・瞋・癡)も、必要不可欠である事を知れば恨む道理はないのである。三毒をも諸法の真実体と考究尽する考えは、上座仏教には恐らく無く大乗の極みとも云えるものです。

いはんやはじめて佛道を欣求せしときのこゝろざしをわすれざるべし。いはく、はじめて發心するときは、佗人のために法をもとめず、名利をなげすてきたる。名利をもとむるにあらず、たゞひとすぢに得道をこゝろざす。かつて國王大臣の恭敬供養をまつこと、期せざるものなり。しかあるに、いまかくのごとくの因縁あり、本期にあらず、所求にあらず、人天の繋縛にかゝはらんことを期せざるところなり。しかあるを、おろかなる人は、たとひ道心ありといへども、はやく本志をわすれて、あやまりて人天の供養をまちて、佛法の功徳いたれりとよろこぶ。國王大臣の歸依しきりなれば、わがみちの見成とおもへり。これは學道の一魔なり、あはれむこゝろをわするべからずといふとも、よろこぶことなかるべし。みずや、ほとけのたまはく、如來現在、猶多怨嫉の金言あることを。愚の賢をしらず、小畜の大聖をあたむこと、理かくのごとし。

「云わんや始めて仏道を欣求せし時の志しを忘れざるべし。云く、始めて発心する時は、他人の為に法を求めず、名利を投げ捨て来たる。名利を求むるにあらず、ただ一筋に得道を志ざす」

人それぞれに仏道を求法する時の状況は異なるが、初心を忘れず名利の虜になるな。との言上です。

「かつて国王大臣の恭敬供養を待つこと、期せざるものなり。しか有るに、今かくの如くの因縁あり、本期にあらず、所求にあらず、人天の繋縛に関わらん事を期せざるところなり」

初心の段階では国王大臣の恭敬供養などは問題外であるが、何らかの機縁が元で相互間の授受の関係が成立すると、人情的にも金銭的にも普遍化するものである。

「しか有るを、愚かなる人は、たとい道心有りと云えども、早く本志を忘れて、錯まりて人天の供養を待ちて、仏法の功徳至れりと喜ぶ。国王大臣の帰依頻りなれば、吾が道の見成と思えり。これは学道の一魔なり、憐れむ心を忘るべからずと云うとも、喜ぶ事なかるべし」

「愚かなる人」とは厳しい言い様ですが、世法と仏法の使い分けで生きる学人を指すものですが、八百年前と現今と差ほど違わない状況です。

「見ずや、仏のたまわく、如来現在、猶多怨嫉の金言ある事を。愚の賢を知らず、小畜の大聖を寃むこと、理かくの如し」

法華経』法師品「如来現在猶多怨嫉、況滅度後」(「大正蔵」九・三一・中)からの語句ヲ引用しての説明で、釈尊在世時でも如来に対する怨みや嫉妬があったのだから、愚かな人は賢人の真実を知らず、愚人(小畜)が如来(大聖)をあたむ事の理屈は、このようである。

 

    五

又、西天の祖師、おほく外道二乘國王等のためにやぶられたるを。これ外道のすぐれたるにあらず、祖師に遠慮なきにあらず。初祖西來よりのち、嵩山に掛錫するに、梁武もしらず、魏主もしらず。ときに兩箇のいぬあり、いはゆる菩提流支三藏と光統律師となり。虚名邪利の、正人にふさがれんことをおそりて、あふぎて天日をくらまさんと擬するがごとくなりき。在世の達多よりもなほはなはだし。あはれむべし、なんぢが深愛する名利は、祖師これを糞穢よりもいとふなり。かくのごとくの道理、佛法の力量の究竟せざるにはあらず、良人をほゆるいぬありとしるべし。ほゆるいぬをわづらふことなかれ、うらむることなかれ。引道の發願すべし、汝是畜生、發菩提心と施設すべし。先哲いはく、これはこれ人面畜生なり。

「又、西天の祖師、多く外道二乗国王等の為に破られたるを。これ外道の勝れたるにあらず、祖師に遠慮なきにあらず」

「西天の祖師」とはインド在住であった釈尊から法を嗣いだ三十人程の祖師方の中での多くは、当時の新興勢力や在来の宗教教団、又は権力者の国王などから迫害を受けたことを、肉身を破られた事からこのように表現されます。これは祖師と外道との比較の論ではなく、祖師方の遠大な配慮が欠けていたのでは無いのである。

「初祖西来より後、嵩山に掛錫するに、梁武も知らず、魏主も知らず。時に両箇の犬あり、いわゆる菩提流支三蔵と光統律師となり。虚名邪利の、正人に塞がれん事を恐りて、仰ぎて天日を昧まさんと擬するが如くなりき。在世の達多よりもなお甚だし。憐れむべし、なんぢが深愛する名利は、祖師これを糞穢よりも厭うなり」

この話(達磨毒殺説)は『景徳伝灯録』三・達磨章(「大正蔵」五一・二二〇・上)ならびに暦代法宝記(「大正蔵」五一・一八〇・下)にも採録されます。

達磨がインドより後、嵩山(河南省)に掛錫した時には、梁の武帝(502―549在位)や(北)魏(386―534)主も知らずに居た、その時に両箇の犬あり。

菩提流支(―527)は訳経僧として活動し『金剛般若波羅蜜経』や『入楞伽経』等を漢訳し、光統律師は四分律宗の祖として有名で慧光の名で知られる二人を、『暦代法宝記』では「食中著毒餉大師(達磨)―前後六度毒」(「大正蔵」五一・一八〇・下)と達磨毒殺犯人と記する為、道元禅師はこの二人を「両箇の犬」と罵倒されるものです。

この物語自体の信憑性は一旦置き、当時の訳経は国家事業ですので、役人との癒着や功名心などを考慮すると虚名邪利の二人には、正人(達磨)の実力を恐れて嫉んだ末の行為に出た。その行為は釈尊在世の提婆達多(五逆罪)よりも甚だしく、祖師からすれば愛して止まない名利は糞穢よりも厭うのである。

「かくの如くの道理、仏法の力量の究竟せざるにはあらず、良人を吠ゆる犬ありと知るべし。吠ゆる犬を煩う事なかれ、怨むる事なかれ。引道の発願すべし、汝是畜生、発菩提心と施設すべし。先哲云く、これはこれ人面畜生なり」

達磨大師が流支と光統の両人に、正法流布を阻止された道理は、達磨に仏法の力量が不足しているからでは無い事を承知すべきである。犬には良人・悪人の区別は出来ないように、遠吠えする両人を煩い怨んではならず、仏道に引き入れる発願をしなければならない。この言詞は汝是畜生発菩提心と説きなさいと。先哲先蹤と言われる人は、これら二人のような人間を称して人面畜生なりと評しているとの拈提です。

 

    五

又、歸依供養する魔類もあるべきなり。前佛いはく、不親近國王王子大臣官長婆羅門居士。

まことに佛道を學習せん人、わすれざるべき行儀なり。菩薩初學の功徳、すゝむにしたがうてかさなるべし。 又むかしより、天帝きたりて行者の志気を試験し、あるいは魔波旬きたりて行者の修道をさまたぐることあり。これみな名利の志気はなれざるとき、この事ありき。大慈大悲のふかく、廣度衆生の願の老大なるには、これらの障礙あらざるなり。修行の力量おのづから國土をうることあり、世運の達せるに相似せることあり。かくのごとくの時節、さらにかれを辦肯すべきなり。かれに瞌睡することなかれ。愚人これをよろこぶ、たとへば癡犬の枯骨をねぶるがごとし。賢聖これをいとふ、たとへば世人の糞穢をおづるににたり。

おほよそ初心の情量は、佛道をはからふことあたはず、測量すといへどもあたらざるなり。初心に測量せずといへども、究竟に究盡なきにあらず。徹地の堂奥は初心の淺識にあらず。ただまさに先聖の道をふまんことを行履すべし。このとき、尋師訪道するに、梯山航海あるなり。導師をたづね、知識をねがふには、從天降下なり、從地涌出なり。その接渠のところに、有情に道取せしめ、無情に道取せしむるに、身處にきゝ、心處にきく。若將耳聽は家常の茶飯なりといへども、眼處聞聲これ何必不必なり。見佛にも、自佛佗佛をみ、大佛小佛をみる。大佛にもおどろきおそれざれ、小佛にもあやしみわづらはざれ。いはゆる大佛小佛を、しばらく山色谿聲と認ずるものなり。これに廣長舌あり、八萬偈あり。擧似逈脱なり、見徹獨抜なり。このゆゑに俗いはく、彌高彌堅なり、先佛いはく、彌天彌淪なり。春松の操あり、秋菊の秀ある、即是なるのみなり。善知識この田地にいたらんとき、人天の大師なるべし。いまだこの田地にいたらず、みだりに爲人の儀を存ぜん、人天の大賊なり。春松しらず、秋菊みざらん、なにの草料かあらん、いかゞ根源を截斷せん。

「又、帰依供養する魔類も有るべきなり。前仏云く、不親近国王王子大臣官長婆羅門居士。

まことに仏道を学習せん人、忘れざるべき行儀なり。菩薩初学の功徳、進むに従がうて重なるべし」

正人に対し帰依供養するは徳力者ばかりではなく、魔党の類いの供養も有るべき。と正邪同列に論じるものですが、今一つ供養の形態を『真字正法眼蔵』上・五一則の牛頭法融と百鳥との関係では、「牛頭未見四祖時゚為甚麼百鳥銜花献゚師曰゚歩歩踏仏階梯゚僧曰゚見後為甚麼不銜花献」の如くに、献じない帰依供養も有るのである。

「前仏云く、不親近」は『法華経』安楽行品からの引用ですが、原文では「不親近国王・王子・大臣・官長。不親近諸外道・梵志尼揵子等」(「大正蔵」九・三七・上)とあるように、諸外道を婆羅門に、又梵志尼揵子を居士に改変しての提示です。

実に仏道を学ぶ人には、国王・大臣等に親近する事で虚名邪利の因縁が生じる恐れが有る為、近づかないよう努力するを忘れてはならず、名利を求めなければ、初心参学の菩薩には功徳累積するものである。と、口を酸っぱくしての示衆ですが、特に不親近国王は如浄和尚が最初期に提示されたものであり(『宝慶記』第五問)、強調したい条目であったであろうと推察される。

「又昔より、天帝来たりて行者の志気を試験し、或いは魔波旬来たりて行者の修道を妨ぐる事あり。これ皆名利の志気離れざる時、この事ありき。大慈大悲の深く、広度衆生の願の老大なるには、これらの障礙あらざるなり」

天帝つまり帝釈天は善、魔波旬(天魔王波旬)は悪と位置付けられますが、これらは名利が変態したものと見なされます。つまり名利心が最小では天帝と成し、名利心が極大の時には魔波旬の形相として表出すると。観音菩薩の如く大慈大悲深く、、四句誓願ある者には魔波旬の障礙はないのである。

「修行の力量おのづから国土を得る事あり、世運の達せるに相似せる事あり。かくの如くの時節、更にかれを辦肯すべきなり。かれに瞌睡する事なかれ。愚人これを喜ぶ、たとえば癡犬の枯骨をねぶるが如し。賢聖これを厭う、たとえば世人の糞穢を怖づるに似たり」

修行の結果として国土を得る。との証例として『御抄』では「大証国師の乗車して入内、帝則ち自づから車を引いて入り給う」(「註解全書」一・五一二)と説明されます。普通はその時点で身を崩してしまいがちで、決してそこに溺れてはいけない(瞌睡)と、自分の立ち位置を常に倹点しなさいと。その状況に溺れるとは則ち喜ぶ事であり、あたかも癡犬が滋養がない枯骨を舐めるようだと痛烈なコメントで、さらには糞穢を大事に抱き擁するようで、賢人や聖人は、虚名邪利の実体を承知するから厭うのである。

「おほよそ初心の情量は、仏道を量らうこと能わず、測量すと云えども当たらざるなり。初心に測量せずと云えども、究竟に究尽無きにあらず。徹地の堂奥は初心の浅識にあらず。ただまさに先聖の道を踏まん事を行履すべし」

初心の情量だけでは限界があるもので、究尽無きにあらず。と云っても徹底した堂奥は初心の識量は及び難く、先輩(先聖・先哲)の行履の道を参考にしなければならないのである。

「この時、尋師訪道するに、梯山航海あるなり。導師をたづね、知識を願うには、従天降下なり、従地涌出なり」

従地の堂奥つまり仏法究尽するには、師を求めて道を訪ねるには、梯山航海の命を賭しての行動を伴わなければならない。そういう時には、縁が乗じて天より導師が降下する事も、或いは地より知識が湧き出る事もあるのである。

「その接渠の所に、有情に道取せしめ、無情に道取せしむるに、身処に聞き、心処に聞く。若将耳聴は家常の茶飯なりと云えども、眼処聞声これ何必不必なり」

「接渠」の渠は「かれ・おさ」の意で、知識(道師)に接するを云うもので、善知識者が法を示す事を云うものです。その処では、師は有情無情を媒介に説法し、資はその法を身心処つまり全態を通して聞かなければならないのである。

若し耳で将って聴くは家常(通常)の茶飯(事)ではあるが、眼で聞く処の声は何必不必とする何必不必は肯定と否定の同義体と為り、是什麼物恁麼来と同義語と見ることが可能となります。

謂う所は、師は有情で示す事もあり・無情で説かれる事情もあり、また若将耳聴の時もあり・眼処聞声の場合も在るようにと、渓声山色は全現成を包容するわけですから、何必不必との言明に為るものです。

「見仏にも、自仏他仏を見、大仏小仏を見る。大仏にも驚き恐れざれ、小仏にも怪しみ煩らわざれ。いわゆる大仏小仏を、しばらく山色渓声と認ずるものなり」

ここでの「見仏」は山色渓声の異句同義語として見仏と云うのであり、一箇一物を仏と義するもので、富士山は大仏であり・足羽山は小仏と見ても構わず、足羽山を大仏とし筆者を小仏と認じても何ら障りはないのである。

「これに広長舌あり、八万偈あり。挙似逈脱なり、見徹独抜なり。この故に俗云く、弥高弥堅なり、先仏云く、弥天弥淪なり。春松の操あり、秋菊の秀ある、即是なるのみなり」

大仏小仏の更なる形容を、東坡居士による広長舌と見なし、また八万偈と認め挙似する処は、

逈かに脱け出て見徹する処は独り抜きん出ているものである。

「弥高弥堅」は『論語』子罕第九「顔淵喟然歎日、仰之弥高、鑽之弥堅」(顔淵、喟然として歎じて日く、之を仰げば弥(いよい)よ高く、之を鑽(き)れば弥よ堅し)を引用するものですが、これは聖人の徳を仰ぎ慕い、精進する事の重要性を説くものです。

「弥天弥淪」の出典は不明ですが、「天に漲り淪(うみ)に漲る」で、渓声山色の如く真実で一杯との意に解せられます。

さらに別の角度から春の風景としての「春松の操」秋の景色としての「秋菊の秀」を掲げ、これらも渓声山色の調度と見なす事で即是真実なるのみ。との論述となるものです。

「善知識この田地に至らん時、人天の大師なるべし。未だこの田地に至らず、妄りに為人の儀を存ぜん、人天の大賊なり。春松知らず、秋菊見ざらん、何の草料か有らん、如何が根源を截断せん」

善知識の学人が山色渓声の理と大仏小仏・春松秋菊との同時同等性に至った時には、人天の大師と呼ぶに値するが、このような境地に至らず得意気に、人の為・法の為と唱和しながらの賽銭勘定するような徒類を、人天の大賊と名づくるものです。そのような虚名邪利には春松や秋菊の理はわかろうはずはなく、何の思いはかり(草(想)料)もなく、どうして我執の根源を截断できようか。と、名利との断絶が困難であるとの裏返しでも有るわけです。

又、心も肉も、懈怠にもあり、不信にもあらんには、誠心をもはらして、前佛に懺悔すべし。恁麼するとき、前佛懺悔の功徳力、われをすくひて清淨ならしむ。この功徳、よく無礙の淨信精進を生長せしむるなり。淨信一現するとき、自佗おなじく轉ぜらるゝなり。その利益、あまねく情非情にかうぶらしむ。その大旨は、願はわれたとひ過去の惡業おほくかさなりて、障道の因縁ありとも、佛道によりて得道せりし諸佛諸祖、われをあはれみて、業累を解脱せしめ、學道さはりなからしめ、その功徳法門、あまねく無盡法界に充滿彌淪せらんあはれみをわれに分布すべし。佛祖の往昔は吾等なり、吾等が當來は佛祖ならん。佛祖を仰觀すれば一佛祖なり、發心を觀想するにも一發心なるべし。あはれみを七通八達せんに、得便宜なり、落便宜なり

「又、心も肉も、懈怠にも有り、不信にも有らんには、誠心を専らして、前仏に懺悔すべし。恁麼する時、前仏懺悔の功徳力、我を救いて清浄ならしむ」

先の人天の大賊と称される人の身心は懈怠を伴い、また仏法に対する不信が有るならば、誠心つまり無我に徹し前仏に懺悔すべし。このように(恁麼)懺悔する時には前仏懺悔の功徳力が、我を救って清浄になる。と救済論を説かれます。

「この功徳、よく無礙の浄信精進を生長せしむるなり。浄信一現する時、自他同じく転ぜらるるなり。その利益、普く情非情にこうぶらしむ」

この前仏懺悔の功徳は、無礙(純粋)なる清浄信心・精進を生長させ、その清浄信心が現成する時には自他の区別が解消され、その法益が有情・非情にも伝播されるものである。

「その大旨は、願は我たとい過去の悪業多く重なりて、障道の因縁ありとも、仏道によりて得道せりし諸仏諸祖、我を憐れみて、業累を解脱せしめ、学道障りなからしめ、その功徳法門、普く無尽法界に充満弥淪せらん憐れみを我に分布すべし」

その云わんとする(大旨)は、純一なる誠心・浄信を以て、文意の如くに懺悔する事実が大切である。

「仏祖の往昔は吾等なり、吾等が当来は仏祖ならん。仏祖を仰観すれば一仏祖なり、発心を観想するにも一発心なるべし。憐みを七通八達せんに、得便宜なり、落便宜なり」

懺悔した段階では仏祖と我等の同等を提示し、仏祖を仰ぎ観た時には全てが仏祖と為し、発心を想い観れば全存在が発心と成すのです。

「七通八達」とは無辺際を云うもので、仏祖の憐みは限りなく広範で、得便宜・落便宜と全てが内包される。との意になります。

このゆゑに龍牙のいはく、昔生未了今須了、此生度取累生身、古佛未悟同今者、悟了今人即古人。しづかにこの因縁を參究すべし、これ證佛の承當なり。かくのごとく懺悔すれば、かならず佛祖の冥助あるなり。心念身儀發露白佛すべし、發露のちから罪根をして銷殞せしむるなり。これ一色の正修行なり、正信心なり、正信身なり。正修行のとき、谿聲谿色、山色山聲、ともに八萬四千偈ををしまざるなり。自己もし名利身心を不惜すれば、谿山また恁麼の不惜あり。たとひ谿聲山色八萬四千偈を現成せしめ、現成せしめざることは夜來なりとも、谿山の谿山を擧似する盡力未便ならんは、たれかなんぢを谿聲山色と見聞せん。

「この故に龍牙の云く、昔生未了今須了、此生度取累生身。古仏未悟同今者、悟了今人即古人」

この偈頌は『禅門諸祖師頌』上之上(「続蔵」六六・七二八・上)の龍牙和尚偈頌九十五首の一首であります。『景徳伝灯録』十七(「大正蔵」五一・三三七・中)には、洞山良价(807―869)の法を嗣ぎ、翠微無学(生没不詳)や徳山宣鑑(780―865)・臨済義玄(―866)に参じたと記され、龍牙居遁自身は唐の大和九年(835)―龍徳三年(923)までの人で、八十九歳の長寿を全うした。

「昔生に未だ了ぜずは今生に須く了ずべし、此生にて累生の身を度取せよ。古仏も未だ悟らば今の者と同じ、悟り了れば今人は即ち古人」

「静かにこの因縁を参究すべし、これ証仏の承当なり。かくの如く懺悔すれば、必ず仏祖の冥助あるなり。心念身儀発露白仏すべし、発露のちから罪根をして銷殞せしむるなり。これ一色の正修行なり、正信心なり、正信身なり」

このように龍牙の説く因縁を参学究明すること、これが仏を実証する承当である。

このように、誠心にて懺悔すれば、必然と真実としての仏祖の冥助が有るのである。身心ともども発露白仏するなら、その発露の功徳力が罪根を消去(銷殞)するものとなるが、これが一色(全体)の正修行であり、又は正信心とも正信身とも言い得るのである。付言するに、未悟ー懺悔ー発露白仏ー正修行ー悟了の功夫聯関を説くとも察せられます。

「正修行の時、渓声渓色、山色山声、ともに八万四千偈を惜しまざるなり。自己もし名利身心を不惜すれば、渓山また恁麼の不惜あり。たとい渓声山色八万四千偈を現成せしめ、現成せしめざる事は夜来なりとも、渓山の渓山を挙似する尽力未便ならんは、誰か汝を渓声山色と見聞せん」

これがこの巻での結語になり、冒頭にて示された「渓声便是広長舌、山色無非清浄身、夜来八万四千偈、他日如何挙似人。」を今一度吟味されます。渓声山色を渓声渓色と分節し、っさらに山色山声と言語解体することで、渓声山色なる固定化を破し、恁麼と云う什麼物とも通底する事情から、渓声渓色・山色山声との語句を採用されたものと考えられます。

学人の正修行の状態では、渓山の声色は八万四千偈を惜しまず。とは、全体をそのまま発露するからで、「自己・名利・身心・不惜」云々も、同様な意味内容です。

正修行の時には渓山と八万四千偈が一体現成したが、色覚以前の夜来の時、渓山の渓山を挙似する力量が未だしの時分では、誰が汝を渓声山色と一体である。と見聞する事があろうかと、昼夜の浄信・精進を不惜し、作輟なき正修行を説くものである。