正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵虚空

正法眼蔵 第七十 虚空

    一

這裏是什麼處在のゆゑに、道現成をして佛祖ならしむ。佛祖の道現成、おのれづから嫡々するゆゑに、皮肉骨髓の渾身せる、掛虚空なり。虚空は、二十空等の群にあらず。おほよそ、空たゞ二十空のみならんや、八萬四千空あり、およびそこばくあるべし。

この巻の示衆年月日は寛元三(1245)年三月六日と前巻『自証三昧』巻(寛元二(1244)年二月二十九日)『大修行』巻(寛元二年三月九日)と一年ぶりの説法であり、その間は『建撕記』によると寛元二年二月二十九日には大仏寺選定地に鍬入れし四月二十一日には法堂の棟上儀式、三か月後の七月十八日には大仏寺開堂説法さらに九月一日には在家信者に対しての法会、十一月には僧堂棟上式等有っての『虚空』巻提唱です。

「這裏是什麼処在」の出典は『行持上』巻で説く宣宗と黄蘗との「不著仏求、不著法求、不著僧求、長老用礼何為」の宣宗書記の質問に対し黄蘗がいきなり平手打ちし、質問に対しては「不著仏求、不著法求、不著僧求、常礼如是事」と答え再度書記を平手打ちし、書記が怒り黄檗に対し「太麁生」つまり「ひどくあらっぽいな」と云った時に答えた黄檗のことばが「這裏是什麼処在、更説什麼麁細」と答えた前半部に云う「ここをどこだとおもっている」からの出典だと考えられますが、他にも『臨済録』勘辨に普化の発語としても知られます。

この巻での言わんとする要旨は「這裏・ここ」と「虚空」の無差別を言わんが為の巻頭言で、「皮肉骨髄の渾身せる掛虚空」は『摩訶般若波羅蜜』巻からの借用語で、如浄の語としてふと思い憑いた如くに付言されます。また虚空は『大品般若経』で説明するような「内空、外空、有為空、無為空」等々に概念化された「空」ではなく、尽十方界が虚空の真実であるとのイントロダクション(序論)です。

 

    二

撫州石鞏慧藏禪師、問西堂智藏禪師、汝還解捉得虚空麼。西堂曰、解捉得。師曰、儞作麼生捉。西堂以手撮虚空 師曰、儞不解捉虚空。西堂曰、師兄作麼生捉。師把西堂鼻孔拽。西堂作忍痛聲曰、太殺人、拽人鼻孔、直得脱去。師曰、直得恁地捉始得。

この古則が最初に取り挙げる公案ですが、出典は『景徳伝灯録』六・石鞏章(「大正蔵」五一・二四八・中)とされますが『真字正法眼蔵』下・四十九則にも取り扱われます。

石鞏道の汝還解捉得虚空麼。なんぢまた通身是手眼なりやと問著するなり。西堂道の解捉得。虚空一塊觸而染汚なり。染汚よりこのかた、虚空落地しきたれり。石鞏道の儞作麼生捉。喚作如々、早是變了也なり。しかもかくのごとくなりといへども、隨變而如去也なり。西堂以手撮虚空。只會騎虎頭、未會把虎尾なり。石鞏道、儞不解捉虚空。たゞ不解捉のみにあらず、虚空也未夢見在なり。しかもかくのごとくなりといへども、年代深遠、不欲爲伊擧似なり。西堂道、師兄作麼生。和尚也道取一半、莫全靠某甲なり。石鞏把西堂鼻孔拽。

しばらく參學すべし、西堂の鼻孔に石鞏藏身せり。あるいは鼻孔拽石鞏の道現成あり。しかもかくのごとくなりといへども、虚空一團、磕著築著なり。

西堂作忍痛聲曰、太殺人、拽人鼻孔、直得脱去。

從來は人にあふとおもへども、たちまちに自己にあふことをえたり。しかあれども、染汚自己即不得なり、修己すべし。

石鞏道、直得恁地捉始得。

恁地捉始得はなきにあらず、たゞし石鞏と石鞏と、共出一隻手の捉得なし。虚空と虚空と、共出一隻手の捉得あらざるがゆゑに、いまだみづからの費力をからず。

これから道元禅師によるコメントですが、これまでの拈提とは違い著語と云った方がいいでしょう。

まづは撫州(江西省臨川)の石鞏(地名)慧蔵(生没年不詳)が馬祖道一(709―788)の兄弟弟子の西堂智蔵(735―814)に問うた、「汝(智蔵)は虚空というものを捉えられるか」に対しての道元禅師の著語は「汝また通身是手眼なりやと問著するなり」と通身と虚空を同性と把捉しての著語で、ともに尽十方界と置き換えれば何ら違和感はありません。(『観音』巻冒頭に説く雲厳と道吾の話・参照)

先の石鞏の問いに対し西堂は「虚空を捉えることはできる」に対しての著語は、「虚空の一塊は触れて、虚空と宣揚した途端に間違い(染汚)になるとの意で、「染汚よりこのかた虚空落地しきたれり」は染汚と云う固定観念でものごとを把捉すると同時に、虚空と云う真実態は見えなくなる事を落地と云い換えたものです。

そこで石鞏が「你(西堂)はどのように捉えるか」に対しては「喚作如々、早是変了也」との著語ですが、作麼生(どのように)を如々と云い換えての事ですが、両方とも一場の一瞬を捉えての現成で、全体を把捉することは不可能ですから、如と作した時にはその数秒後には変化しているとの言で、物理学で云う量子力学の定点観測また分子生物学で云う動的平衡論で説明する特定法と似ています。

さらに「随変而如去也」と語調を変え常時変化し如の状態で去るとの著語で、「作麼」と「如」との普遍性を説くものです。

次に西堂が実際に示した「手で虚空をつまむ」動作に対しては、「只会騎虎頭、未会把虎尾」と「西堂の行為は虎の頭に騎っているが虎の尻尾は捉えていない」との言で、西堂の不徹底を言う著語です。

そこで兄弟子の石鞏の云う「你不解捉虚空」に対しては、「ただ不解捉」とのみ西堂を批評する石鞏を諫め、石鞏自身も「未だ虚空を夢に見てないぞ」と言い、それは「年代深遠、不欲為伊挙似」という『臨済録』行録(「大正蔵」四七・五〇五・上)での仰山慧寂(807―883)が師匠の潙山霊祐(771―853)に云ったように、「虚空は捉えられない(年代深遠)から伊(かれ)の為に挙似することはできない」と石鞏が云う処の「不解促」と否定ばかりでは老婆親切はないとの著語です。

西堂は石鞏から「不解促」との言に対し、西堂は居直ったかの態度での「師兄作麼生」に対し道元禅師は「和尚也道取一半、莫全靠某甲」と『真字正法眼蔵』上・一則に挙げる石頭希遷が青原行思に云い寄った語を借用し、西堂の態度を相手に投げ売りするのではなく、自分の過不足の半分を云い相手に任せるなとの著語です。

ここでの「石鞏把西堂鼻孔拽」は馬祖道一門下での典型的接化法だと思われ、『真字正法眼蔵』中・八十二則でも馬祖(709―788)と百丈懐海(749―814)による「野鴨子の話」として取り扱われますが、「石鞏が西堂の鼻の孔に手を掛け拽く」と云う態度に対しての著語は、「西堂の鼻孔に石鞏蔵身せり」また「鼻孔拽石鞏」と虚空と石鞏と西堂の同時現成とでも云い得る状況との著語で、さらに「虚空一団、磕著築著」と虚空は梵語で云うシュンニャータとは違い、『転法輪』巻で五祖法演(―1104)が説くように法性が充ち満ちているとのコメントですが、現代宇宙論でも云うように、我々を取り囲む空間は素粒子ダークマターと呼ばれる暗黒物質に充ち満ちているとの見解に合致するものです。

次に西堂が云った「太殺人(人殺し)拽人鼻孔(そんなに人の鼻孔を拽くと)直得脱去(すぐに鼻がもげてしまう)」に対しての、「従来は人に逢うと思えども、忽ちに自己に逢うことを得たり」の「人に逢う」とは虚空という真実を他人事としての意、「自己に逢う」とは全自己の自己・本来面目の自己・自証三昧の自己を意味するもので、前に云う処の虚空という真実が痛を介して石鞏と自身の同時現成を「自己に逢うことを得たり」との著語で、次に言う「染汚の自己は即ち不得なり」の染汚自己は全自己とは対極的な自我意識下の自己を云うもので、全自己を修せよ(修己)との西堂に対する道元禅師の老婆心です。

最後に云う石鞏の「直得恁地捉始得」直に恁地捉するを得て始めて得てん。とは石鞏が西堂に無理やり虚空の実体を痛得せしめた事を云うものですが、この石鞏の自信に満ちた言動も虚空の側面から俯瞰すれば、「捉得あらざる」であり「貴力をからず」との著語ですが理解しづらい所です。

おほよそ盡界には、容虚空の間隙なしといへども、この一段の因縁、ひさしく虚空の霹靂をなせり。石鞏西堂よりのち、五家の宗匠と稱ずる參學おほしといへども、虚空を見聞測度せるまれなり。石鞏西堂より前後に、弄虚空を擬するともがら面々なれども、著手せるすくなし。石鞏は虚空をとれり、西堂は虚空を覰見せず。大佛まさに石鞏に爲道すべし、いはゆるそのかみ西堂の鼻孔をとる、捉虚空なるべくは、みづから石鞏の鼻孔をとるべし。指頭をもて指頭をとることを會取すべし。しかあれども、石鞏いさゝか捉虚空の威儀をしれり。たとひ捉虚空の好手なりとも、虚空の内外を參學すべし 。虚空の殺活を參學すべし。虚空の輕重をしるべし。佛々祖々の功夫辦道、發心修證、道取問取、すなはち捉虚空なると保任すべし。

この段は語句ごとの著語の形式は用いずに、拈提という方式で全体の評を与えるもので、先程までの混み入った難解さはありません。

「おほよそ尽界には、容虚空の間隙なしといへども、この一段の因縁、ひさしく虚空の霹靂をなせり」

尽界=虚空と異句同義語と規定し、石鞏と西堂の問答は稲光り(霹靂)のようであると。

「石鞏西堂よりのち、五家の宗匠と称ずる参学おほしといへども、虚空を見聞測度せるまれなり。石鞏西堂より前後に、弄虚空を擬するともがら面々なれども、著手せるすくなし。石鞏は虚空をとれり、西堂は虚空を覰見せず」

石鞏・西堂の時代は九世紀晩唐に差し掛かる時代状況で、その頃は五家と云われる法眼・潙仰・曹洞・雲門・臨済等はなく、五祖法演(―1104)以降の北宋晩期から南宋初期の状況を説明するものです。

「石鞏は虚空をとれり、西堂は虚空を覰見せず」と字義通り解釈すると、石鞏は虚空を理解し西堂は理解していないと読み取れますが、語句ごとの著語でも示されたように「西堂が手でつまむように虚空を覰見」した道元禅師の拈語は「只会騎虎頭、未会把虎尾」と全否定ではないので、この処の解釈は『御抄』(「註解全書」八・五四四)でも云うように「覰見の見は見不見の見なるべし、虚空の上の見」との註解に従えば両人共に五分五分の理解とした道元禅師特有な言い様です。

「大仏まさに石鞏に為道すべし、いはゆるそのかみ西堂の鼻孔をとる、捉虚空なるべくは、みづから石鞏の鼻孔をとるべし。指頭をもて指頭をとることを会取すべし」

吉嶺の仮り住まいから大仏寺での最初の説法の意気込みから「大仏まさに石鞏に申し伝える」との語感があります。ここに言う「みづから石鞏の鼻孔をとるべし」とは先に説く著語で、「西堂の鼻孔に石鞏蔵身せり。あるいは鼻孔拽石鞏」の立場を変えて主客同物・能所合一を更に説いたものです。

「しかあれども、石鞏いさゝか捉虚空の威儀を知れり。たとひ捉虚空の好手なりとも、虚空の内外を参学すべし 。虚空の殺活を参学すべし。虚空の輕重を知るべし。仏々祖々の功夫辦道、発心修証、道取問取、すなはち捉虚空なると保任すべし」

前には石鞏の不徹底を説くものでしたが、そうではあるがと石鞏には「捉虚空の好手」と一定の評価を与えながら、「虚空の内外」「虚空の殺活」「虚空の軽重」等を参学し、「仏々祖々の功夫辦道、発心修証」等の虚空と云う真実態を身につけろ(保任)と石鞏慧蔵に思いを成す提唱です。

 

先師天童古佛道、渾身似口掛虚空。

あきらかにしりぬ、虚空の渾身は虚空にかゝれり。

この偈は『摩訶般若波羅蜜』巻にて取り挙げられた「渾身似口掛虚空、不問東西南北風、一等為他談般若。滴丁東丁滴丁東。」からの借用句で、わづか一行のみの拈語ですが、冒頭部に説く「皮肉骨髄の渾身せる、掛虚空」と、全てが虚空に包摂包含される状態を、先程の「虚空の内外を参学すべし」と連関させた導入句です。

 

    四

洪州西山亮座主、因參馬祖。祖問、講什麼經。師曰、心經。祖曰、將什麼講。師曰、將心講。祖曰、心如工伎兒、意如和伎者。六識爲伴侶、爭解講得經。師曰、心既講不得、莫是虚空講得麼。祖曰、卻是虚空講得。師拂袖而退。祖召云、座主。師廻首。祖曰、從生至老、只是這箇。師因而有省。遂隱西山、更無消息。

しかあればすなはち、佛祖はともに講經者なり。講經はかならず虚空なり。虚空にあらざれば一經をも講ずることをえざるなり。心經を講ずるにも、身經を講ずるにも、ともに虚空をもて講ずるなり。虚空をもて思量を現成し、不思量を現成せり。有師智をなし、無師智をなす。生知をなし、學而知をなす、ともに虚空なり。作佛作祖、おなじく虚空なるべし。

次に「心」と「虚空」についての考察ですが、この話題は『真字正法眼蔵』上・四則にも取り挙げるものですが試訳しますと、

洪州西山亮座主、因参馬祖。祖問、講什麼経。

洪州(江西省・現在の南昌市一帯)の西山(南昌山)という処の亮(生没年不詳)と云う座主(経論師)、因みに馬祖道一(709―788)に参禅す。馬祖が問う、什麼(なに)のお経を講ずるか。

師日、心経。

亮が答える、般若心経。

祖日、将心講。

亮は答える、心をもって講義します。

祖日、心如工伎児、意如和伎者。六識為伴侶、争解講得経。

馬祖は云う、心は工伎児(くぎじ・主役の役者)の如く、意は和伎者(わぎしゃ・脇役)の如し。六識(眼耳鼻舌心意)は付随で、どうして経を講じられるか。

師日、心既講不得、莫是虚空講得麼。

亮が云う、心で講じ得ないなら、虚空が講じ得ることはないですか。

祖日、却是虚空講得。

馬祖が云う、かえって虚空が(心を)講じ得る。

師払袖而退。

亮座主は衣の袖を払い退出した。(『景徳伝灯録』八・亮座主章には払袖の前に(「亮不肯(うけがわず)」の語がある)

祖召従生至老、只是這箇。

馬祖が云う、生より老に至るまで、ただこれだけ。

―此処に云う這箇は冒頭に説く這裏是什麼在に通底するものです―

師因而有省。遂隠西山、更無消息。

亮座主は這箇の一語で悟り、遂に西山(厭原山)に隠棲し、更に消息を絶った。

―この這箇とは馬祖が亮座主に呼びかけた「座主」という全存在の一語を示唆するもので、所謂は経文に説く概念論ではなく現成の生きた這裏は虚空という全機現と連通するものを言わ示さんが為で、消息を絶ったという事は馬祖との問答前は一寺の住持職を成し雲水も教導していた世間体の利害得失・名門利養を断捨離したことを云うものです。

「しかあればすなはち、仏祖はともに講経者なり。講経は必ず虚空なり。虚空にあらざれば一経をも講ずることを得ざるなり」

本則に対する拈提です。仏祖=講経者=虚空のセオリーで、全体を真実底と置き替えれば理解し易く、真実(虚空)が伴わなければ、どんな経文(ことば)も講じられないとの拈語です。

「心經を講ずるにも、身經を講ずるにも、ともに虚空をもて講ずるなり。虚空をもて思量を現成し、不思量を現成せり」

言わんとする要旨は前文と同様「虚空」を媒介にし過不足なく説かんが為のものです。

「有師智をなし、無師智をなす。生知をなし、学而知をなす、ともに虚空なり。作仏作祖、同じく虚空なるべし」

同様に虚空の遍満性を説かんが為の語法ですが、有師智・無師智を付言することで一年前の『自証三昧』巻との連関・連続性の意図を想定したものでしょうか。

 

    五

第二十一祖婆修盤頭尊者道、

心同虚空界 示等虚空法 證得虚空時 無是無非法

いま壁面人と人面壁と、相逢相見する墻壁心枯木心、これはこれ虚空界なり。應以此身得度者、即現此身、而爲説法、これ示等虚空法なり。應以佗身得度者、即現佗身、而爲説法、これ示等虚空法なり。被十二時使、および使得十二時、これ證得虚空時なり。石頭大底大、石頭小底小、これ無是無非法なり。かくのごとくの虚空、しばらくこれを正法眼藏涅槃妙心と參究するのみなり。

本則に提示される偈は二十一祖婆修盤頭ではなく第七祖婆須蜜の誤用で、虚空の語に傾中するあまりこのような誤りをしたものでしょう。

読みは「心は虚空界に同じく、虚空の法を示等す。虚空を証得する時、是も無く非法もなし」と訓読します。

「いま壁面人と人面壁と、相逢相見する墻壁心枯木心、これはこれ虚空界なり」

初句の心と虚空界についての拈語で、壁面人とは壁に面している人、人面壁は人が面する壁と解しますが、人も壁も共々変化しない在り様を只管打坐の別称で表現し、「相逢相見」と一体を説き更に変わらないものの代表に墻壁・枯木とし、初句は心と虚空界を同等視するものですから、墻壁心・枯木心は虚空界との拈提です。

「示等虚空法」に対する拈語を『法華経』普門品で説く「応以此身得度者、即現此身、而為説法」又は「応以他身得度者、即現他身、而為説法」と云うように、この二句で以て全体を表徴し虚空の中に包有せしめた考察です。

「被十二時使、使得十二時」は趙州従諗が僧に対し「汝は十二時にこき使われ、老僧は十二時を使い得る」の語を「証得虚空時」と同定するものですが、日常生活を虚空の証得としたものです。

「石頭大底大、石頭小底小」は『遍参』巻にも援用されますが、大きい石小さな石はそのままで過不足なくを云い、「是もなく非法も無し」との拈提です。

これらの今まで述べた全ての虚空(真実)を正法眼蔵涅槃妙心と同性同等に参究せよとの結論です。

気になる点がこの巻の奥書によると書写は後代の義雲で、次巻の『鉢盂』巻は懐弉が書写している以外は『出家』巻まで懐弉の名が刻されていない事と。『虚空』巻と『自証三昧』巻との間に一年のブランクに関連があるのか考察する余地がありそうです。

 

正法眼蔵 第七十 虚空

爾時寛元三年乙巳三月六日在越宇大仏寺示衆