正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵光明

正法眼蔵第十五 光明

    序

大宋國湖南長沙招賢大師、上堂。示衆云、盡十方界是沙門眼。盡十方界是沙門家常語。盡十方界是沙門全身。盡十方界是自己光明。盡十方界在自己光明裏。盡十方界無一人不是自己。

佛道の參學、かならず勤學にすべし。轉疎轉遠なるべからず。これによりて光明を學得せる作家、まれなるものなり。

この「巻」は五つの段落に分類され、冒頭の長沙景岑(―868)による話頭は『景徳伝灯録』(「大正蔵」五一・二七四上)を底本にし、この本則を基に震旦の後漢(25―220年)から唐の憲宗(在位805―820年)の時代にかけての俗世間・長沙和尚との尽十方界の対比に主眼が置かれる提唱となります。

「大宋国湖南長沙招賢大師、上堂。示衆云、①尽十方界是沙門眼。②尽十方界是沙門家常語。③尽十方界是沙門全身。④尽十方界是自己光明。⑤尽十方界在自己光明裏。⑥尽十方界無一人不是自己」

底本では①尽十方(世)界、是沙門眼。③尽十方(世)界、是沙門全身。④尽十方(世)界、是自己光明。⑤尽十方(世)界、在自己光明裏。⑥尽十方(世)界、無一人不是自己。と記載されますが、「当巻」(仁治三年(1242)六月・興聖寺)②で記される「尽十方界、是沙門家常語」は採録されませんが、『十方』巻(寛元元年(1243)十一月。吉峰寺)では、㈠「尽十方界、是沙門壱隻眼」と壱隻が付加され、㈡「尽十方界、是沙門家常語」㈢「尽十方界、沙門全身」とが欠落し、㈣「尽十方界、是自己光明」㈤「尽十方界、在自己光明裏」㈥「尽十方界、無一人不自己」と、こちらも当『光明』巻同様に『景徳伝灯録』を引用する形としますが、古層に属する『祖堂集』(十七・六四〇頁・952年編)による同様の箇所では、「如何是学人心」という某僧の問いに対し「尽十方界、是汝心」のみと答える話が記されるだけで在る。

仏道の参学、必ず勤学にすべし。転疎転遠なるべからず。これによりて光明を学得せる作家、まれなる者なり」

この冒頭部の短文で以て、「当巻」ならびに元和尚が示す日頃の姿勢を語るものですが、ここで云う「作家」(さっけ)は、雪竇重顕のように詩文で以て学人を接得(指導)する老練な師家を指すもので、宏智正覚も上堂示衆にて「趙州一百二十歳老作家」(「大正蔵」四八・二九下)・「雲門・雪竇、二俱作家」(「同」三〇下)と示されるように、趙州や雲門・雪竇などを「作家」と位置づけるものです。

 

    一

震旦國、後漢の孝明皇帝、帝諱は莊なり、廟号は顯宗皇帝とまうす。光武皇帝の第四の御子なり。孝明皇帝の御宇、永平十年戊辰の年、摩騰迦竺法蘭、はじめて佛教を漢國に傳來す。焚經臺のまへに、道士の邪徒を降伏し、諸佛の神力をあらはす。それよりのち、梁武帝の御宇、普通年中にいたりて、初祖みづから西天より南海廣州に幸す。これ正法眼藏正傳の嫡嗣なり、釋迦牟尼佛より二十八世の法孫なり。ちなみに嵩山少室峰少林寺に掛錫しまします。法を二祖大祖禪師に正傳せりし、これ佛祖光明の親曾なり。それよりさきは佛祖光明を見聞せるなかりき。いはんや自己の光明をしれるあらんや。たとひその光明は頂□(寧+頁)より擔來して相逢すといへども、自己の眼睛に參學せず。このゆゑに、光明の長短方圓をあきらめず、光明の巻舒斂放をあきらめず。光明の相逢を猒卻するゆゑに、光明と光明と轉疎轉遠なり。この疎遠たとひ光明なりとも、疎遠に罣礙せらるゝなり。

これより志那に仏教が伝来した経緯と「光明」との聯関を読み解かれます。

「震旦国、後漢の孝明皇帝、帝諱は莊なり、廟号は顕宗皇帝と申す。光武皇帝の第四の御子なり。孝明皇帝の御宇、永平十年戊辰の年、摩騰迦竺法蘭、はじめて仏教を漢国に伝来す。焚経台の前に、道士の邪徒を降伏し、諸仏の神力を現わす」

先ずは仏教が志那(震旦)に伝来した経緯を、後漢(25―220年)の孝明皇帝(在位57―75年)の諱(本名)は莊(劉莊)であり、廟号(陵墓に刻む名前)は顕宗皇帝と謂う。父王である光武皇帝(在位25―57年)の第四(十一子の内の第四子)の御子なり。仏教が印度から遣わされたのは、孝明皇帝の御宇(時代)永平十年(67年)戊辰(戊辰は永平十一年に当る)の年に摩騰迦(迦葉摩騰)と竺法蘭が初めて仏教を(後)漢国に伝来す。永平十四年正月には焚経台の前で道教経書(けいしょ)は焼け、道士の邪徒を降伏し仏教の経書(きょうしょ)は焼けなかった(俗説では仏書は事前に水に浸してあった為、焼けなかったとの見方もある)事情から諸仏の神力を現わす。と記すが、これに類する引用典籍と思われるものは、『歴代三宝記』(「大正蔵」四九・四九中)『註四十二章経』(「大正蔵」五一・五二三上)『歴代法宝記』(「大正蔵」五一・一七九上)と考えられる。

また「永平十年戊辰」の記述は『景徳伝灯録』(「大正蔵」五一・二〇五下)に記す「自世尊

滅後一千一十七年教至中夏。即後漢永平十年戊辰歳也」を引用したもので、この表記は「当巻」のみのものです。

「それより後、梁武帝の御宇、普通年中に至りて、初祖みづから西天より南海広州に幸す。これ正法眼蔵正伝の嫡嗣なり、釈迦牟尼仏より二十八世の法孫なり。因みに嵩山少室峰少林寺に掛錫しまします」

永平十年より後代、梁武帝の御宇(502―549年)、普通年中(普通八年(527)丁未歳九月二十一日(『行持下』巻に基づく「岩波文庫」㈠三四五)に至りて、初祖(菩提達磨)みづからが西天(インド)から南海の広州(広東省)に幸す。と記されますが、『行持下』巻(前掲書)では「大舟をよそほうて、南海を経て広州にとづく(到着する)」との用語で説明されます。これが正法眼蔵を正伝する嫡嗣であり、それは釈尊より二十八世の法孫なり(摩訶迦葉―阿難陀―中略―般若多羅―菩提達磨と嫡嗣する)。嵩山少室峰少林寺河南省鄭州市登封)に掛錫しまします。とのことですが、嵩山は五嶽(東岳泰山・南岳衝山・中岳嵩山・西岳華山・北岳恒山)に配置され、元来は道教の聖地である。この少林寺に掛錫と記すが、先の『行持下』巻では寓止(共に仮住の意)の用語を使用し、ここでも語彙の多義化を計り、概念化を防ぐ思案が窺われる文章表現法である。

「法を二祖大祖禅師に正伝せりし、これ仏祖光明の親曾なり。それより先は仏祖光明を見聞せる無かりき。いわんや自己の光明を知れる有らんや。たといその光明は頂□(寧+頁)より擔来して相逢すと云えども、自己の眼睛に参学せず。この故に、光明の長短方円を明らめず、光明の巻舒斂放を明らめず。光明の相逢を猒却する故に、光明と光明と転疎転遠なり。この疎遠たとい光明なりとも、疎遠に罣礙せらるるなり」

これより震旦二祖慧可話則と共に「光明」との具体的例言を述べられます。

達磨から二祖大祖禅師つまり慧可に正伝された事実を「仏祖光明の親曾」と規定し、それ以前の仏教伝来(67年)から達磨来(527年)の約五百年の間は「仏祖光明の見聞」が、存在しなかった。との説明です。

「仏祖の光明」が即ち「自己の光明」であることを、「知れる有らんや」と疑問型にて表現されますが、仏祖光明と自己光明は等価としての語法で、「自己光明」の自己は尽十方界に在する自己光明裏の自己であり、尽界は光明であるとの言い分です。

「その光明は頂□(寧+頁)より擔来して相逢す」とは、光明が頭上から来て確認する。との意ですが、その光明を認識しても「自己の眼睛に参学せず」とは、一見すると意味不明な処ですが、ここでの解釈を詮慧和尚に助言を求めるならば、「光明を身より外に置いて、眼睛にて見るべきものと参学すべからず」(「註解全書」五・二九七)と読み解かれますが、つまりは光明は尽界であり、光明は真実相の異句同義語ですから、眼睛の認識作用だけで以てせず、全体的視野から「光明」を認得しなさい。との趣旨と解せられます。

ですから光明(真実相)の長短方円ばかりの参究ではなく、光明(尽界)を一枚の大きな布に譬え、巻いたり舒ばしたり、斂めたり放ったりと、あらゆる観点から明らかに参学究明しなさい。との言です。

「光明の相逢を猒却する」とは、諸法実相なる「光明」と世間で云われる光明とは、そりが合わない喩えを「相逢を猒却」と示し、その時の状態を「光明と光明とは疎遠である」と説くが、その疎遠である事実も「光明」の荘厳功徳であるから、「疎遠に罣礙せらるる」とは疎は疎の立場で遠は遠の立場を保存し続けるを罣礙(じゃま)されると説くわけです。

この処の主意は冒頭の長沙による「尽十方界、在自己光明裏」の本則拈提に為るもので、「自己光明」は「長短方円の光明・光明の巻舒斂放」を内包し、それぞれを「転疎転遠」と位置づけますが、光明能照所照の意味ではなく、「疎遠に罣礙される」光明を「仏祖光明」に含有するを「尽十方界、無一人不是自己」とも通底するを説くものです。

 

轉疎轉遠の臭皮袋おもはくは、佛光も自己光明も、赤白青黄にして火光水光のごとく、珠光玉光のごとく、龍天の光のごとく、日月の光のごとくなるべしと見解す。或從知識し、或從經巻すといへども、光明の言教をきくには、蛍光のごとくならんとおもふ、さらに眼睛頂□(寧+頁)の參學にあらず。漢より隋・唐・宋および而今にいたるまで、かくのごとくの流類おほきのみなり。文字の法師に習學することなかれ、禪師胡亂の説、きくべからず。

ここでは仏法に疎遠な例を挙げられ、文章そのままに読み解けば解せる処です。

「転疎転遠の臭皮袋思わくは、仏光も自己光明も、赤白青黄にして火光水光の如く、珠光玉光の如く、龍天の光の如く、日月の光の如くなるべしと見解す」

「臭皮袋」とは文字通り人間面の臭い皮袋との侮蔑語で、「仏光」や「自己光明」の本義を解せず単なる光体とのみ見解し、諸法実相に疎い学人を、仏法に疎遠な臭皮袋と、言い放つものです。

「或従知識し、或従経巻すと云えども、光明の言教を聞くには、蛍光の如くならんと思う、さらに眼睛頂□(寧+頁)の参学にあらず。漢より隋・唐・宋および而今に至るまで、かくの如くの流類多きのみなり。文字の法師に習学することなかれ、禅師胡乱の説、聞くべからず」

先のような仏道に凡庸なる学人(臭皮袋)は、よしんば或従知識(よき指導者から学ぶ)或従経巻(あるいは経巻より学ぶ)して、「光明」という言教を聴聞したとしても、蛍の光の如くに思案し、尽十方界からの「眼睛頂□(寧+頁)」としての全身からの参学には程遠いのである。

(後)漢(25―220年)より隋(58―618年)・唐(618―907年)・宋(960年~)および而今(宝慶年間1225―1227年)に至るまでの間、光明を蛍光の如くに解する凡愚な流類が多いのであるが、仏法を習学する者は、教学(経・律・論などの研究)の文字法師や、禅師(禅・真言・律などの実践家)のハッタリ(胡乱の説)は聞いてはいけない。との老婆心あふれる提唱内容ですが、令和の現在(而今)に於いても、本人の意識とは無関係に、俗に云うドヤ話を接化法と認得し「文字の法師に習学することなかれ」のワンフレーズだけを抽出し、不立文字を標榜し禅師と自称他称する学人には辟易する次第である。

 

いはゆる佛祖の光明は盡十方界なり、盡佛盡祖なり、唯佛與佛なり。佛光なり、光佛なり。佛祖は佛祖を光明とせり。この光明を修證して、作佛し、坐佛し、證佛す。このゆゑに、此光照東方萬八千佛土の道著あり。これ話頭光なり。此光は佛光なり、照東方は東方照なり。東方は彼此の俗論にあらず、法界の中心なり、拳頭の中央なり。東方を罣礙すといへども、光明の八兩なり。此土に東方あり、佗土に東方あり、東方に東方ある宗旨を參學すべし。萬八千といふは、萬は半拳頭なり、半即心なり。かならずしも十千にあらず、萬萬百萬等にあらず。佛土といふは眼睛裡なり。照東方のことばを見聞して、一條白練去を東方へひきわたせらんがごとくに憶想參學するは學道にあらず。盡十方界は東方のみなり、東方を盡十方界といふ。このゆゑに盡十方界あるなり。盡十方界と開演する話頭、すなはち萬八千佛土の聞聲するなり。

先には震旦に於ける仏教東漸から始まり、達磨・二祖との「光明」を真に解会する学人の難きを説かれましたが、この処では「法華言句」と「仏祖光明」との聯関と説き進め、「当巻」に於ける中心的論証部となります。

「いわゆる仏祖の光明は尽十方界なり、尽仏尽祖なり、唯仏与仏なり。仏光なり、光仏なり。仏祖は仏祖を光明とせり。この光明を修証して、作仏し、坐仏し、証仏す。この故に、此光照東方万八千仏土の道著あり。これ話頭光なり。此光は仏光なり、照東方は東方照なり。東方は彼此の俗論にあらず、法界の中心なり、拳頭の中央なり。東方を罣礙すと云えども、光明の八両なり。此土に東方あり、佗土に東方あり、東方に東方ある宗旨を参学すべし」

「仏祖の光明」―「尽十方界」―「尽仏祖」―「唯仏与仏」―「仏光」―「仏祖を光明」とせりと、連環する道理を解明し、この光明を「此の光は東方万八千の仏土を照らす」(此光照東方万八千仏土)と『法華経』序品(「大正蔵」九・四下)から援用し、その光明による修行と実証(修証)が「作仏・坐仏・証仏」として現成する坐禅の姿であるとの論考です。

「これ話頭光なり」とは耳慣れない語法ですが、今の法華経文自体も光明の真実態に内包された仏祖光明であり、尽十方界における一事象であるとの言い分です。これより「此光照東方万八千仏土」を解体し、「此光」とは仏光であると断言されます。ここで言う「仏」は釈尊の現身仏ではなく、法身仏としての「仏」を示唆するものです。「照東方」は東方照と日本よみに談じたのではなく、東方は光明と言わんが為で、例えば東方は西より見れば東であり、西方は東より見れば西と定めるように、これは境界を設定し論ずるわけですから「東方は彼此の俗論にあらず」と、能所を立てる世論には従うべからず、との指摘のようです。ですから東方は方角ではなく「法界の中心」であり、また同時に「にぎりこぶし(拳頭)の中央」に位置するとも置換可能です。この中心も中央も四方に対するcenterではなく、全中心・全中央と言わなければなりません。

「東方を罣礙すと云えども、光明の八両」とは、東方と光明との同等性を、中国度量制の一斤=十六両から光明に

八両を与え、東方が罣礙(じゃま)をしようと云えども東方にも八両与える、と謂う具合です。このような「八両半斤」の喩えは『仏性』『阿羅漢』『十方』各巻にも引き継がれます。

「東方」を字義通りに解釈するのではなく、概念化言語の分解し再構成するを不立文字と定立するに、「此土・佗土」つまり尽十方界が「東方」であり、さらには「東方に東方ある」事実(宗旨)を参随学道すべし。と、「此光照東方」なる一文にしても、単に「此の光が東方を照らす」と参学するな、との拳頭を挙す怒声が感じられます。

「万八千と云うは、万は半拳頭なり、半即心なり。必ずしも十千にあらず、万万百万等にあらず。仏土と云うは眼睛裡なり。照東方のことばを見聞して、一条白練去を東方へ引き渡せらんが如くに憶想参学するは学道にあらず。尽十方界は東方のみなり、東方を尽十方界と云う。この故に尽十方界あるなり。尽十方界と開演する話頭、すなわち万八千仏土の聞声するなり」

次に「万八千」の万に対する拈語ですが、単なる数字の十を千倍した「万」や万の万倍(一億)や百の万倍(百万)した数量として見るのではなく、万は「半拳頭」(にぎりこぶしの一部)や「半即心」(即心是仏の一部)という、現成する事物・事象を「万」と位置づけられます。

「仏土と云うは眼睛裡なり」の意味する処は、冒頭に提示した「尽十方界是沙門眼」に掛けたもので、仏土と云っても広大無辺な空間を指すのではなく、現前する実相を「仏土」と言わしめるのである。これにて法華文句の「此光」「照東方」「万八千」「仏土」に対する拈語は一応終わらせ、いま一度「照東方と尽十方界」との聯関を結語として語られます。

「照東方」のイメージを「一条白練去」と、憶想参学しては学道にあらず。と言われる由縁は、西方(彼岸)から東方(此岸)に一条の白絹(練)の光明が照らすイメージが浄土経文には有り、連想され易い仏光(光明)のイメージを払拭する為の言い回しと考えられます。

「尽十方界は東方のみなり」とは、ここでの「法華文話頭」に於いて「照東方」を著語するわけですから、この場合は東方が主役ですから、「尽十方界は東方のみなり」と、東方に主眼を位置づけベクトルを反転させ「東方を尽十方界」と定義づけるものですが、仮に「照西方」であれば尽十方界は西方のみとも言断し得るものです。この法華話頭則での結語としては、尽十方界の息づかい(開演)が即ち「万八千仏土」の聞声そのものが、東方(全体)を照らす「光明」であるとの提言となります。

 

    二

唐憲宗皇帝者、穆宗宣宗兩皇帝の帝父なり。敬宗文宗武宗三皇帝の祖父なり。佛舎利を拝請して、入内供養のちなみに、夜放光明あり。皇帝大悦し、早朝の群臣、みな賀表をたてまつるにいはく、陛下の聖徳聖感なり。ときに一臣あり、韓愈文公なり。字は退之といふ。かつて佛祖の席末に參學しきたれり。文公ひとり賀表せず。憲宗皇帝宣問す、群臣みな賀表をたてまつる、卿なんぞ賀表せざる。文公奏對す、微臣かつて佛書をみるにいはく、佛光は青黄赤白にあらず。いまのはこれ龍神衛護の光明なり。皇帝宣問す、いかにあらんかこれ佛光なる。文公無對なり。いまこの文公、これ在家の士俗なりといへども、丈夫の志気あり。回天轉地の材といひぬべし。かくのごとく參學せん、學道の初心なり。不如是學は非道なり。たとひ講經して天華をふらすとも、いまだこの道理にいたらずは、いたづらの功夫なり。たとひ十聖三賢なりとも、文公と同口の長舌を保任せんとき、發心なり、修證なり。しかありといへども、韓文公なほ佛書を見聞せざるところあり。いはゆる佛光非青黄赤白等の道、いかにあるべしとか學しきたれる。卿もし青黄赤白をみて佛光にあらずと參學するちからあらば、さらに佛光をみて青黄赤白とすることなかれ。憲宗皇帝もし佛祖ならんには、かくのごとくの宣問ありぬべし。

ここで扱う韓愈(韓退之768―824)と憲宗皇帝(805―820在位)との問答は、韓愈による「論仏骨表」を呈する事から始まります。

「唐憲宗皇帝者、穆宗宣宗両皇帝の帝父なり。敬宗・文宗・武宗三皇帝の祖父なり」

唐代の憲宗(けんそう)皇帝は唐朝第十四代皇帝に当り、穆宗(ぼくそう)は憲宗の三男で在位は820―824年で、第十五代皇帝宣宗(せんそう)は憲宗の十三男で在位は846―859年で第十九代皇帝、ともに憲宗を帝父とする。

敬宗(けいそう)は穆宗の長男で在位は824―826年で第十六代皇帝、文宗(ぶんそう)は穆宗の次男で在位は826―840年で第十七代皇帝、武宗(ぶそう)は穆宗の五男に当り在位は840―846年で第十八代皇帝で、三人は共々に憲宗を祖父とする。と書き記されるわけですが、この述義は「当巻」提唱の二か月前の仁治三年(1242)四月に書き上げられた『行持』巻に於いて、これらの父子の関係を詳細に記述された事情から、このような表記としたと思われますが、常日頃の言説では仏道を第一義的にし、在家の家系など重視すべきにあらず。との音声が聞こえそうな気がしなくもないですが、彼(道元)には憲宗と韓愈との因縁譚には崇仏派の憲宗皇帝の俗系も必須だったのでしょう歟。

仏舎利を拝請して、入内供養の因みに、夜放光明あり。皇帝大悦し、早朝の群臣、みな賀表を奉るに云く、陛下の聖徳聖感なり」

これから本則話になるわけですが、出典籍は『聯灯会要』二〇・侍郎文公韓愈章(「続蔵」七九・一七一下)と思われる。

公因唐憲宗、迎仏骨、入大内供養、夜放光明。次日早朝、群臣皆賀、陛下聖徳聖感。唯公不賀。上宣問、群臣皆賀、卿何独不賀。公奏云、臣曾看仏書、仏光非青黄赤白等相、此是神龍衛護之光。上問、如何是仏光。公無対、因以罪出。

右が原文だが要所を抜き書きした簡略文の本則とします。なお『真字正法眼蔵』中・七三則に於いても同文が採録されます。

「時に一臣あり、韓愈文公なり。字は退之と云う。曾て仏祖の席末に参学し来たれり。文公ひとり賀表せず。憲宗皇帝宣問す、群臣みな賀表を奉る、卿なんぞ賀表せざる。文公奏対す、微臣かつて仏書を見るに云く、仏光は青黄赤白にあらず。今のは此れ龍神衛護の光明なり。皇帝宣問す、如何にあらんかこれ仏光なる。文公無対なり」

原文を読み易く和文にしたもので如文ですが、「曾て仏祖の席末に参学」と記述されますが、韓愈章によると「暇日謁大顛」「三平遷化、衆請公作喪主」の言句から類推するに、石頭希遷法嗣者の大顛宝通(732―824)とその弟子の三平義忠(781―872)に参随したようである。因みに韓愈の高弟の李翺(りこう772―841)は薬山惟𠑊(745―828)の法席の弟子となる。

「今この文公、これ在家の士俗なりと云えども、丈夫の志気あり。回天転地の材と云いぬべし。かくの如く参学せん、学道の初心なり。不如是学は非道なり。たとい講経して天華を降らすとも、未だこの道理に到らずは、いたづらの功夫なり。たとい十聖三賢なりとも、文公と同口の長舌を保任せん時、発心なり、修証なり」

これより韓愈・に対する評著で、この韓愈文公は在家の一俗人ではあるが、修行者(大丈夫)の心構え(志気)があり、天地を回転させる程の人材と云うべきである。との評価を韓愈に与えますが、それは韓愈が云う「仏光は青黄赤白の事象ではなく、龍神衛護の光明」である。との参学を言うのであるが、しかしながら学仏道に於いては初心である。と在家の士族の力量を説かれます。「不如是学」(仏光は青黄赤白と学ばず)は仏道に非ず(非道)と、ひとまず誉めておきます。

たとえば(梁武帝の如く)経典を講義して、天人を感心させ天花を降らす程の力量があっても、まだこの道理(仏光非青黄赤白)がわからないのでは、「いたづらの功夫」とは無駄(益)な修行である、との言い用です。

よしんば(たとい)十聖三賢のような高位の菩薩であっても、韓愈の文公と同じ口調の説法(広長舌)を保任(保護任持の略・己のものとして大事にする事)する時が、菩薩(十聖三賢)の発心であり修証(実修実証)の時節である。と韓退之を讃嘆するものですが、同時代に生きた宮廷詩人の白居易(772―846)に対しては「憐れむべし居易、汝道甚麽なるぞ、仏風いまだ聞かざるが故に」(「岩波文庫」㈡二四三)と、天地懸隔ほどの差異ある評価となります。

「しかありと云えども、韓文公なお仏書を見聞せざる処あり。いわゆる仏光非青黄赤白等の道、如何に在るべしとか学し来たれる。卿もし青黄赤白を見て仏光にあらずと参学する力あらば、さらに仏光を見て青黄赤白とする事なかれ。憲宗皇帝もし仏祖ならんには、かくの如くの宣問ありぬべし」

これからは韓愈の仏道に対する不徹底さを指摘する段になります。

韓文公の長舌は発心・修証そのものではあるが、猶いまだ仏書に於ける真実底を見聞していない処がある。と指摘します。

仏書に於ける「仏光非青黄赤白等」の道取を、単純に「仏の光明は青や黄や赤・白等の色彩には非ず」とだけ学んで来たようで、そのような力量があるならば逆に仏の光明を仮に見たならば、青や黄や赤・白と決めつけて判断してはいけない。と説かれるものです。つまりは、仏光は青でもあり青でもない、同様に黄・赤・白も同義であり、意味する処は非(絶対的真実)の青・非の黄・非の赤・非の白を仏光と参学しなさい。と韓愈に対する道元和尚の注文です。ほかの言句で表明すれば「諸仏非相、則見如来」(『金剛般若経』「大正蔵」八・七五三上)とでも云い得るものです。

これは憲宗と韓愈との対論ですが、もし憲宗皇帝に仏祖の力量があったならば、韓文公に対して「仏光を見ても青黄赤白の光だけが仏の光明ではなく、尽十方界が発する色彩が仏光明である」との宣しく問うに違いないのであるが。と、両人の仏道の未参学を𠮟せられる箇所です。

 

しかあれば、明明の光明は百草なり。百草の光明、すでに根莖枝葉華菓光色、いまだ與奪あらず。五道の光明あり、六道の光明あり。這裡是什麼處在なればか、説光説明する。云何忽生山河大地なるべし。長沙道の盡十方界是自己光明の道取を審細に參學すべきなり。光明自己盡十方界を參學すべきなり。生死去來は光明の去來なり。超凡越聖は、光明の藍朱なり。作佛作祖は、光明の玄黄なり。修證はなきにあらず、光明の染汚なり。草木牆壁、皮肉骨髓、これ光明の赤白なり。烟霞水石、鳥道玄路、これ光明の廻環なり。自己の光明を見聞するは値佛の證験なり、見佛の證験なり。盡十方界は是自己なり。是自己は盡十方界なり。廻避の餘地あるべからず。たとひ廻避の地ありとも、これ出身の活路なり。而今の髑髏七尺、すなはち盡十方界の形なり、象なり。佛道に修證する盡十方界は、髑髏形骸皮肉骨髓なり。

これより「光明」の具体例を示されます。

「しかあれば、明明の光明は百草なり。百草の光明、すでに根茎枝葉華菓光色、いまだ与奪あらず。五道の光明あり、六道の光明あり。這裡是什麼処在なればか、説光説明する。云何忽生山河大地なるべし。長沙道の尽十方界是自己光明の道取を審細に参学すべきなり。光明自己尽十方界を参学すべきなり」

「尽十方界が発する色彩が仏光明」と前述しましたが、ここでは明々百草つまり、眼前に現成する事物・事象が「光明」の真実態であり、そこには根や茎や枝・葉、さらには花も果実の光色(ありかた)は歴然としての真実相は、現成に対し与えたり奪脱(与奪)する事のない現状肯定の理法を「明々の光明は百草で、百草の光明は与奪あらず」と説くものです。

さらには五道(地獄・餓鬼・畜生・人・天)や六道(五道+修羅)も尽界に包含する世界ですから、地獄であろうとも光明の一真実態と説き明かします。「這裡是什麼処在」とは、ここを(這裡)どういう(什麼)ところであるのか(処在)。と、未だp光明」の不得なる我々に対する叱声にも似た語響が感じられます。「説光説明」とは光明の言体を解体し、光を説き明を説くと云うように、這裡が光明そのものである、ことを強調する言語表現です。「云何忽生山河大地」は「這裡是什麼処在」と同義語として補強されたもので、「云何いかんが忽ちに山河大地を生ずる」と訓読できますが、謂う処は「云何なるものも山河大地(尽十方界)からは抜け出すわけにはいかない状況をを説明すつ為に「什麽」と「云何」の単語で以て、明々百草の光明に聯関させる手法と考えられ、此の段での結論部に導かれます。

これまで縷々説いてきた眼目は、冒頭にて提示した長沙の「尽十方界、是自己光明」の真意を審細に「参学」し、さらに光明と自己と尽十方界の聯関を「参学すべきなり」。と続けて参学の語を使用されますが、ここでは同句同音を用いる事で文体が平板に成りすぎる為、最後の結句は参究または辦学すべきなり、と書かれた方が文章としてのリズミカル化が促進されると感じられる。

「生死去来は光明の去来なり。超凡越聖は、光明の藍朱なり。作仏作祖は、光明の玄黄なり。修証はなきにあらず、光明の染汚なり。草木牆壁、皮肉骨髄、これ光明の赤白なり。烟霞水石、鳥道玄路、これ光明の廻環なり。自己の光明を見聞するは値仏の証験なり、見仏の証験なり。尽十方界は是自己なり。是自己は尽十方界なり。廻避の余地あるべからず。たとい廻避の地ありとも、これ出身の活路なり。而今の髑髏七尺、則ち尽十方界の形なり、象なり。仏道に修証する尽十方界は、髑髏形骸・皮肉骨髄なり」

さらなる「尽十方界是自己光明」の真髄を読み解かれます。

「生死去来」とは、生まれたり死んだり去ったり来たりとの日常底を表現する言句ですが、同じように「驢事未去、馬事到来」なる云い方も可能です。「生死去来」の出典は『圜悟録』六(「大正蔵」四七・740中)の「更に討(たづ)ぬ、甚麽の生死去来、地水火風、声香味触は、都盧(すべて)是れ箇の真実人体」であるが、これは『諸悪莫作』巻にも引用されます。その生死去来も光明の真実人体の一形象であり、「超凡越聖」という高邁な心情も光明の「藍朱(緑青色・黄赤色)」であり、「作仏作祖」の長大な修行も、光明の「玄黄(赤黒色・黄緑色)」の各々の色彩であると。謂う所は、現実の生死去来であろうが超凡越聖のサトリの世界も、作仏作祖の長劫なる時空世界も、真実態なる「光明」の調度に比定されるものである。

さらには南嶽が云う「修証は無いのではなく、染汚を得ない」修証でなければならないが、その染汚も光明の調度との指摘です。

また「草木牆壁」の日常茶飯や真実人体の「皮肉骨髄」これらは「光明の赤白」と位置づけ、また「烟霞水石」や「鳥道玄路」は「光明の廻環」つまり円環する様子を云う。ここでは光明の様態を「光明の去来・光明の藍朱・光明の玄黄・光明の染汚・光明の赤白・光明の廻環」と、光明の統合体を言わんが為の、老婆親切後と把捉します。実質これまでが当『光明』巻関する具体的拈提で、これよりは景沙説示の「尽十方界」と「光明」との結語文です。

「尽十方界、是自己光明」に於ける「自己の光明」というものを見聞する者を、「値仏・見仏の証験」つまりは、仏に値う・仏を見るの証験とは、打坐を意味するものである。

「尽十方界」→「是自己」とは宇宙一杯が真実相の自己であるから、この現実から回避する余地はないのである。もしも「回避の地があっても、それは出身の活路なり」とは、喩えば地球表面四万キロメートルを周回したとしても元の地点に辿り着くようなもので、スタートとフィニッシュの前後関係は大いに異なるものである。現在(而今)の真実人体(髑髏)の七尺の体量が即ち尽十方界の姿(形象)である。仏道行し実する処の尽十方界は、髑髏形骸・皮肉骨髄つまり生身の「七尺身体」=「尽十方界」=「自己」=「光明」を謂うものであり、これにて湖南長沙の「尽十方界、是自己光明」の言を補強する形で、主要な拈提作業を終らせます。

 

    二

雲門山大慈雲匡眞大師は、如來世尊より三十九世の兒孫なり。法を雪峰眞覺大師に嗣す。佛衆の晩進なりといへども、祖席の英雄なり。たれか雲門山に光明佛の未曾出世と道取せん。

あるとき、上堂示衆云、人人盡有光明在、看時不見暗昏昏、作麼生是諸人光明在。衆無對。自代云、僧堂佛殿厨庫山門。いま大師道の人人盡有光明在は、のちに出現すべしといはず、往世にありしといはず、傍觀の現成といはず。人人自有光明在と道取するを、あきらかに聞持すべきなり。百千の雲門をあつめて同參せしめ、一口同音に道取せしむるなり。人人盡有光明在は、雲門の自搆にあらず、人人の光明みづから拈光爲道なり。人人盡有光明とは、渾人自是光明在なり。光明といふは人人なり。光明を拈得して、依報正報とせり。光明盡有人人在なるべし、光光自是人人在なり、人人自有人人在なり、光光自有光光在なり、有有盡有有有在なり、盡盡有有盡盡在なり。しかあればしるべし、人人盡有の光明は、現成の人人なり。光光、盡有の人人なり。しばらく雲門にとふ、なんぢなにをよんでか人人とする、なにをよんでか光明とする。雲門みづからいはく、作麼生是光明在。この問著は、疑殺話頭の光明なり。しかあれども、恁麼道著すれば、人人光光なり。ときに衆無對。たとひ百千の道得ありとも、無對を拈じて道著するなり。これ佛祖正傳の正法眼藏涅槃妙心なり。雲門自代云、僧堂佛殿厨庫三門。いま道取する自代は、雲門に自代するなり、大衆に自代するなり、光明に自代するなり。僧堂佛殿厨庫三門に自代するなり。しかあれども、雲門なにをよんでか僧堂佛殿厨庫山門とする。大衆および人人をよんで僧堂佛殿厨庫三門とすべからず。いくばくの僧堂佛殿厨庫三門かある。雲門なりとやせん、七佛なりとやせん。四七なりとやせん、二三なりとやせん。拳頭なりとやせん、鼻孔なりとやせん。いはくの僧堂佛殿厨庫三門、たとひいづれの佛祖なりとも、人人をまぬかれざるものなり。このゆゑに人人にあらず。しかありしよりこのかた、有佛殿の無佛なるあり、無佛殿の無佛なるあり。有光佛あり、無光佛あり。無佛光あり、有佛光あり。

この話則は雲門に対する「光明」の捉え方を拈提するものですが、概して雲門は『山水経』巻などに於いても手厳しい著語を与えられますが、「当巻」に於いては雲門に好意的で、さらなる不足を評著するものです。

「雲門山大慈雲匡真大師は、如来世尊より三十九世の児孫なり。法を雪峰真覚大師に嗣す。仏衆の晩進なりと云えども、祖席の英雄なり。たれか雲門山に光明仏の未曾出世と道取せん。

ある時、上堂示衆云、人人尽有光明在、看時不見暗昏昏、作麼生是諸人光明在。衆無対。自代云、僧堂仏殿厨庫山門」

「雲門山」は広東省韶関市乳源県に在し、923年に開山し光泰院と号す。「大慈雲」は諡(おくりな)に当り、正式には大慈雲匡聖宏明大師と墓号されます。「匡真」は大師号に当り、普段は雲門文偃(864―949)が通名ですが、『景徳伝灯録』十九雲門章では「韶州雲門山文偃禅師、姑蘇嘉興人(浙江省蘇州嘉興県の人)也。姓張氏。初めて穆州陳尊宿に参じ大旨を発明す。後に雪峰に益し玄要を造す」(「大正蔵」五一・三五六中・原漢文)と冒頭に記されます。

如来世尊より三十九世の児孫なり」のカウントの仕方は毎回云う事だが、釈迦仏はカウントせず摩訶迦葉を第一祖とすると慧能は三十三世で、その後には青原(34)石頭(35)天皇(36)龍潭(37)徳山(38)雪峰(39)雲門と嗣続されるわけですから、ここでは「四十世」の児孫とならなければならない。同じように『恁麽』巻では「雲居山弘覚大師は、洞山の嫡嗣なり。釈迦牟尼仏より三十九世の法孫なり」(「岩波文庫」㈠四〇二)と記述されますが、此の処では雲居道膺は慧能(33)青原(34)石頭(35)薬山(36)雲巌(37)洞山(38)と法が伝持されますから、雲居は三十九世の法孫に該当します。

「法を雪峰真覚大師に嗣す」とあるが、『景徳伝灯録』では巻十八・十九の二巻に分けて雪峰真覚(義存822―908)の法嗣者五十六人を挙げるが、雲門はその中で二十九位に属し、第一位は玄沙師備(835―908)である。

「仏衆の晩進なりと云えども、祖席の英雄なり」は、雲門の出世は晩唐五代十国時代の戦乱の世であったが、達磨(―540?)や慧能(638―713)からすると後輩であるが、黄檗の流れを承く陳尊宿等に参学究道するを、祖席の英雄と位置づけるものです。

誰ともなしに、雲門山には匡真という光明の仏が未だ曾てしない事があろうか。と、雲門の接化の及ぶ範囲での言動を示されます。

「人人尽有光明在、云々」の出典は『圜悟録』十九頌古下「擧。雲門示衆云、人人尽有光明在、看時不見暗昏昏、作麼生是光明。衆無対。自代云、僧堂仏殿廚庫三門」(「大正蔵」四七・八〇三上)からの引用と考えられますが、『雲門録』中では「古人道、人人尽有光明在、看時不見暗昏昏、作麼生是光明。代云、厨庫三門」(「大正蔵」四七・五六三中)と簡略化された話頭に仕立てられます。

「いま大師道の人々尽有光明在は、後に出現すべしと云わず、往世に在りしと云わず、傍観の現成と云わず。人々自有光明在と道取するを、明らかに聞持すべきなり。百千の雲門を集めて同参せしめ、一口同音に道取せしむるなり。人々尽有光明在は、雲門の自搆にあらず、人々の光明みづから拈光為道なり」

これより道元流の唇皮著語に入られます。まずは「人々尽有光明在」を「人々に尽く光明在る有り」と読解するのではなく、人々が尽有そのもの光明そのもの。である事実を称して「後に出現するのでもなく、昔(往世)光明が在ったのでもなく、第三者(傍観)が光明を現成させるもの」ではなく、而今現成の動的平衡を保ち常なる生命の脈動を、「人々自有光明在」とも言い得る事実を明らかに見究め(聞持)なさいとの著語ですが、ここではの同期性を説くものですが、酒井得元老師による「眼蔵提唱テープ」では「自有」は「尽有」の誤写の可能性を指摘される。

「百千の雲門」とは無数の雲門の意ですから、みな(尽十方界)が人々尽有光明在を云わしめ(同参)、百千の雲門が勝手に云い出した(自搆・自ら構築する)ものではなく、人々の光明の自らが光明を拈じて道うと為し(拈光為道)たのである。と、こう遍満態を説くのです。

「人々尽有光明とは、渾人自是光明在なり。光明と云うは人々なり。光明を拈得して、依報正報とせり。光明尽有人々在なるべし、光々自是人々在なり、人々自有人々在なり、光々自有光々在なり、有々尽有有々在なり、尽々有々尽々在なり。しかあれば知るべし、人々盡有の光明は、現成の人々なり。光々、尽有の人々なり」

「人々尽有光明」を別語で言うと、「渾人自是光明在」とも言い含められ、「人々」→「渾人」は相互置換可能で、その「光明」↔「人々」と言い含められる。と説かれますが、この人々とは人間だけを指すのではなく、時空に遍在する事物・事象(法)を示唆するものである。いま一度「光明」を得て拈ってみると(拈得)、依報(環境)正報(環境を担う自己)を以て尽十方界を言明するも可で、それは「光明尽有人々在」とも言い得るとの、道元流手法による言句の差し替えによる本則拈提ですが、現今謂う所の自然との共生(symbiosis)にも連なる考え方です(元々自己(正報)・非自己(依報)なるカテゴリーの概念化が曖昧である。この数年来、腸内細菌が免疫系の正常な発達に不可欠である事実が解明されつつあるが、その数は100兆個以上もの自分ではない細胞が腸内フローラとして存在するわけです。また37兆個とも云われる各細胞内にはミトコンドリアが存在するが、これ自身に遺伝子があり独自な生命体が細胞内共生した事例である)。

「人々㈠尽有㈡光明㈢在㈣」↔「光明㈢尽有㈡人々㈠在㈣」と置換できたわけですから、「渾人㈠自是㈡光明㈢在㈣」↔「光々㈢自是㈡人々㈠在㈣」と相関でき、「光々自有光々在」↔「光々自是人々在」のバージョン替えであり、「有々尽有有々在」↔「人々自有人々在」の再構築となり、「尽々有々尽々在」は光明の方から解き明かすのではなく、尽十方界を主眼に説き明かす形態としますが、これらは「一口同音に道取せしむるなり」と比定する巧みなる方便法です。

右の如くに説いてきたように、「人々尽有の光明は眼前現成する事物・事象(現成)の人々」ですから、「光々(光明)は尽有(悉有と同格語)の人々」とも言い替えを説き明かす意味は、次に説かれる「作麼生」の具象例を表徴すると同時に、「什麽物恁麽来」「説似一物即不中」なるように、カテゴリー(概念)化しない方途で以ての「人々尽有光明在」の説明となります。

「しばらく雲門に問う、なんぢ何を喚んでか人々とする、何を喚んでか光明とする。雲門みづから云く、作麼生是光明在。この問著は、疑殺話頭の光明なり。しかあれども、恁麼道著すれば、人々光々なり。時に衆無対。たとい百千の道得ありとも、無対を拈じて道著するなり。これ仏祖正伝の正法眼蔵涅槃妙心なり」

ここで段が替わり、道元和尚が雲門に「汝(雲門)は何を喚んで人々・光明とするのか」と問題提示をしても、雲門は「作麼生是光明在」としか答えられないはずである。作麼生も什麽も同じく法爾であるから。

この「何が人々・光明」かの問い自体が「疑殺話頭」(殺は疑を強める副詞)という光明そのものであるけれども、「何を人々・光明か」の問いには「人々光々」(光明とすべきを人々に同期づけて光々とする)と恁麼道著(このように道う)するしか方途はない。であろうとの著語で以て雲門の道(ことば)を讃える恰好です。

その時に大衆(雲衲)は対する無し(衆無対)。とするが、通常の無対は否定的言辞ですが、この場の「無対」は正法眼蔵涅槃妙心を表徴する無対であり、「百千(無数)の道得」を云い得ても「無対」に勝るものはなく、これが「仏祖正伝」の答処である。と、すべて光明に包含された一事象として捉えます。

「雲門自代云、僧堂仏殿厨庫三門。いま道取する自代は、雲門に自代するなり、大衆に自代するなり、光明に自代するなり。僧堂仏殿厨庫三門に自代するなり」

雲門が云う処の「僧堂・仏殿・厨庫・三門」という答処は、実は「僧堂・仏殿」等が雲門に云い、また大衆に呼び掛け、更には光明に答話し、究極は「僧堂・仏殿・厨庫・三門」自身が同処に自代する。とは現実には到底理解し難い事象ですが、謂わんとする事は主客・能所の壁(概念)を解体する為の言語操作と云い得る方途と思われます。

「雲門何を喚んでか僧堂・仏殿・厨庫・山門とする。大衆および人々を喚んで僧堂・仏殿・厨庫・三門とすべからず。幾ばくの僧堂・仏殿・厨庫・三門かある。雲門なりとやせん、七仏なりとやせん。四七なりとやせん、二三なりとやせん。拳頭なりとやせん、鼻孔なりとやせん。云くの僧堂・仏殿・厨庫・三門、たとい何れの仏祖なりとも、人々を免かれざるものなり。この故に人々にあらず」

雲門に対し什麽を喚んでか。と疑問形に仕立てられますが、「什麽(何)」は「作麽生」と同属・同格語ですから、什麽と表現することで尽十方界を示唆し、その表徴は無限に在りますから、方便義的に「僧堂・仏殿・厨庫・山門」を、何と喚ぶわけですから、雲門和尚の仏法力に同意するものです。

この「なに」は大衆や人々に対する僧堂・仏殿ではなく、尽界の真実態である「光明」を指すわけですから、「大衆および人々を喚んで厨庫・三門とすべからず」と、問題の所在を明確にします。

いまは光明の具象例として仏殿・厨庫を列記していますが、ナニの内容として他には、雲門であろうが七仏(毘婆尸仏から釈迦仏)であろうが達磨であろうとも慧能であろうとも、さらには真実人体の一部の拳頭(にぎりこぶし)や鼻孔(出息入息の関所)は「尽有光明在」に含有される真実相態そのものであり、謂うなれば「拳頭尽有光明在」とも「鼻孔尽有光明在」とも、如何とも置換可能で、なんと喚んでも光明から跳出するものはないのです。

いま云う処の「僧堂・仏殿」は、それぞれが光明の仏祖を表象しているわけですから、そこでは「人々」の範疇をも超出するので「人々にあらず」と言われます。

この雲門話頭での「光明」についての結語は、僧堂・仏殿・厨庫・山門の中の仏殿をピックアップし、「有仏殿の無仏」(仏殿が有っても仏が無い)「無仏殿の無仏」(仏殿が無く仏も無し)と、仏殿の有る無しに拘わらず仏が在しないとは、光明を主題に考察するのに疑問符を打ちたくなるような問題提示で、次いで「有光仏」(有の光(明)仏)「無光仏」(無の光(明)仏)「無仏光」(無の仏光(明))「有仏光」(有の仏光(明))と、光明の無辺際を説かしめ、雲門上堂での「人々尽有光明在」を拈来し「有光仏尽有光明在」「無光仏仏尽有光明在」「無仏光尽有光明在」「有仏光尽有光明在」と、現成一面光明の提示が此の拈提部の要旨と思われます。

この処を詮慧和尚は「この有仏殿無仏無仏殿無仏などと云うは、光明尽有人々在の心に符合するなり」(「註解全書」五・三〇一)註解し、経豪和尚によると「仏光・光仏は仏と同体なる時、仏殿と談ぜば無仏なるべし、無仏殿無仏の道理あるべしと此の如く談ずる也」(「前掲同書」二九四)と示さるるを参考に記す。

 

雪峰山眞覺大師、示衆云、僧堂前、與諸人相見了也。これすなはち雪峰の通身是眼睛時なり、雪峰の雪峰を覰見する時節なり。僧堂の僧堂と相見するなり。保福、擧問鵝湖僧堂前且置、什麼處望州亭烏石嶺相見。鵝湖、驟歩歸方丈保福、便入僧堂。いま歸方丈入僧堂、これ話頭出身なり。相見底の道理なり、相見了也僧堂なり。地藏院眞應大師云、典座入庫堂この話頭は、七佛已前事なり。

ここで扱う三則は前段の僧堂・仏殿・厨庫・山門の中の僧堂と庫堂(厨庫)に関連した短い話頭を提供されます。

「雪峰山真覚大師、示衆云、僧堂前、与諸人相見了也。これ即ち雪峰の通身是眼睛時なり、雪峰の雪峰を覰見する時節なり。僧堂の僧堂と相見するなり」

この本則出典は『真字正法眼蔵』下二九〇則を参照してのものです。「雪峰示衆云゚望州亭与諸人相見了也゚烏石嶺与諸人相見了也゚僧堂前与諸人相見了也゚後、保福挙問鵝湖゚僧堂前且置゚什麼処是望州亭烏石嶺相見゚鵝湖驟歩帰方丈゚保福便入僧堂」これが直接の出典籍ですが、その底本は『聯灯会要』二十一「示衆云。望州亭。与汝相見了也。烏石嶺。与汝相見了也。僧堂前。与汝相見了也。後、保福問鵝湖。僧堂前即且致。望州亭烏石嶺。甚麼処相見来。鵝湖驟歩。帰方丈。保福便入僧堂」(「続蔵」七九・一八五上)のようです。

雪峰の本則に対する著語では、雪峰老僧の修行法は、身体そのものが眼睛と同化する時に諸人と相見し了れり。と解き明かすものですが、ここで雪峰の示す眼睛のひとみは光明そのもので光明の対峙を絶する事を「雪峰の雪峰を覰見(垣間見る)する時節」と云い、または「僧堂の僧堂と相見するなり」と解き明かすように、雪峰や僧堂自身も「光明」として扱う拈提です。

「保福、挙問鵝湖僧堂前且置、什麼処望州亭烏石嶺相見。鵝湖、驟歩帰方丈保福、便入僧堂。いま帰方丈入僧堂、これ話頭出身なり。相見底の道理なり、相見了也僧堂なり」

この話頭も右に挙げた出典に依拠します。ここに登場する保福(従展・―928も鵝湖(智孚・生没不詳)も共に雪峰義存(822―908)の直弟子に当り、先ほどの雲門文偃も含めて雪峰門下による話頭を挙した恰好です。『景灯伝灯録』十九の法嗣順位からすると、鵝湖が兄弟子で保福が弟弟子の位置関係のようです。因みに望州亭の用例は『三十七品菩提分法』巻に於いても「正精進道支とはー略―望州亭相見了なり、烏石嶺相見了なり。僧堂前相見了なり、仏殿裡相見了なり。両鏡相対して三枚影あるを云う」(「岩波文庫」㈢三〇八)と援用されます。

保福が雪峰による「僧堂前にて、諸人と相見し了る也」を取り挙げ、鵝湖に問う。僧堂前の事情は且く置き、什麽(いづれ)の処で望州亭(国名)・烏石嶺(所名)相見なるや。と問うと、鵝湖は、かけ足(驟歩)で方丈(部屋)に帰り、保福は、すぐさま僧堂に入堂する。」

この話則の謂う所は、保福が云う什麽所は望州亭も烏石嶺をも含む什麽処ですから、鵝湖は答えず、さっさと居室に戻り、保福も意を解した為、何もなかったかの如くに僧堂に入り打坐に向かうわけである。この足早に方丈に帰った事が、鵝湖の保福に対する認めた証しとなるものです。

これに対する拈提では、この「帰方丈」「入僧堂」の行為を「話頭出身(活路)」つまり此の話は、出身の活路(解脱)であり、相見底(真実態との出合)であり、その現成が相見了也僧堂または相見了也方丈をも言い含めた註釈ですが、これは鵝湖・保福ともども両員の啐啄同期な行動を讃ずるものです。

「地蔵院真応大師云、典座入庫堂この話頭は、七仏已前事なり」

この話則出典は『聯灯会要』二十六「蔵指庫下云。典座入庫頭去也。修乃有省」(「続蔵」七九・二三二下)を僧堂・東堂と同義的に庫堂と改変したものですが、その根拠には『真字正法眼蔵』中・二〇則では修山主と地蔵との問答話にて「地蔵云゚遮箇是監院房、那箇是典座房。修便礼拝」が収録されますが、この話頭前段の部分が典座入庫頭に当たるわけです。

なお、此処に登場する鵝湖・保福は雪峰の直弟子に当り、地蔵院真応大師とは羅漢桂琛(867―928)で玄沙の法を嗣いでおり、先段の雲門から勘定すると皆、雪峰一門衆の話則拈提である。

この話頭とは「雲門・雪峰・保福・地蔵」の各々の話則を指し、これらを拈得すれば「七仏已前事なり」とは、毘婆尸から釈迦仏已前のしんじつての事実。所謂は尽十方界真実態である「光明」そのものが、「帰方丈・入僧堂・入庫堂」である。との拈提でした。

最後に奥書にて提唱日時は、仁治三年(1242)六月二日「三更四点」(午前二時頃)と記され、その時の状況は「梅雨霖々、簷頭滴々」であったと記録されますが、『百錬抄』十五に於いても「仁治三年六月三日甲寅、終日雨降、入夜弥滂沱」と記録された事実からも、標題の光明にたいする思いが類察されるものである。なお三更四点については、大衆を招集し提唱したのか、自身の書き上げ時刻か、の考察する余地はあると思われる。