正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵面授

正法眼蔵第五十一 面授

    一

爾時釋迦牟尼佛、西天竺國靈山會上、百萬衆中、拈優曇花瞬目。於時摩訶迦葉尊者、破顔微笑。釋迦牟尼佛言、吾有正法眼藏涅槃妙心、附囑摩訶迦葉

これすなはち、佛々祖々、面授正法眼藏の道理なり。七佛の正傳して迦葉尊者にいたる、迦葉尊者より二十八授して菩提達磨尊者にいたる、菩提達磨尊者、みづから震旦國に降儀して、正宗太祖普覺大師慧可尊者に面授す。五傳して曹谿山大鑑慧能大師にいたる。一十七授して先師大宋國慶元府太白名山天童古佛にいたる。大宋寶慶元年乙酉五月一日、道元はじめて先師天童古佛を妙高臺に燒香禮拝す。先師古佛はじめて道元をみる。そのとき、道元に指授面授するにいはく、佛々祖々、面授の法門現成せり。これすなはち靈山の拈花なり、嵩山の得髓なり。黄梅の傳衣なり、洞山の面授なり。これは佛祖の眼藏面授なり。吾屋裡のみあり、餘人は夢也未見聞在なり。この面授の道理は、釋迦牟尼佛まのあたり迦葉佛の會下にして面授し護持しきたれるがゆゑに、佛祖面なり。佛面より面授せざれば諸佛にあらざるなり。釋迦牟尼佛まのあたり迦葉尊者をみること親附なり。阿難羅睺羅といへども迦葉の親附におよばず。諸大菩薩といへども迦葉の親附におよばず、迦葉尊者の座に坐することえず。世尊と迦葉と、同坐し同衣しきたるを、一代の佛儀とせり。迦葉尊者したしく世尊の面授を面授せり。心授せり、身授せり、眼授せり。釋迦牟尼佛を供養恭敬、禮拝奉覲したてまつれり。その粉骨碎身、いく千萬變といふことをしらず。自己の面目は面目にあらず、如來の面目を面授せり。釋迦牟尼佛まさしく迦葉尊者をみまします。迦葉尊者まのあたり阿難尊者をみる。阿難尊者まのあたり迦葉尊者の佛面を禮拝す。これ面授なり。阿難尊者この面授を住持して、商那和修を接して面授す。商那和修尊者まさしく阿難尊者を奉覲するに、唯面與面、面授し面受す。かくのごとく代々嫡々の祖師、ともに弟子は師にみえ、師は弟子をみるによりて面授しきたれり。一祖一師一弟としても、あひ面授せざるは佛々祖々にあらず。たとへば、水を朝宗せしめて宗派を長ぜしめ、燈を續して光明つねならしむるに、億千萬法するにも、本枝一如なるなり。また啐啄の迅機なるなり。

今回の『面授』巻提唱日は奥書によれば、寛元元年(1243)十月二十日で、前巻『洗面』巻に於いても吉峰寺にての提唱は同年同月日、つまり連続してか午前と午後に分けてかは不詳ながら、四十九『陀羅尼』から五十『洗面』五十一『面授』五十二『仏祖』と続く各巻に共通する事は、理法よりも事法を重んずる。つまりは、修証を喩えにすると「修」に力点が置かれた「眼蔵提唱」と言えるわけですが、今一つ考えなければならない事は、『洗面』巻と『面授』巻との関係は、同年同月日の説示と実修との聯関性から配したもので有るなら、『洗面』『洗浄』両巻も延応元年(1239)十月二十三日と同日同月と共に行を持する点に於いては聯関性が最たるもので、配列編集作業では両巻並列させるのが一般的では有りますが、敢えて『洗面』『洗浄』両巻を「七十五巻」配列に加えた事例は、「六十巻」配列に於いては『洗浄』巻を除外した事からも、一考すべき事案と思われます。

本則経典の出典は『大梵天王問仏決疑経』拈華部「爾時世尊著坐其座、廓然拈華。時衆会中百万人天、及諸比丘、悉皆黙然。時於会中、唯有尊者摩訶迦葉、即見其示、破顔微笑。従座而起、合掌正立、有気無言。爾時仏告摩訶迦葉言、吾有正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙法、不立文字、教外別伝、有智無智、得因縁証。今日付属摩訶迦葉摩訶迦葉、未来世中、奉事諸仏、当得成仏」(「続蔵」三二七)他にも類したものが『祖堂集』巻一・『景徳伝灯録』巻一・『天聖広灯録』第一などに窺い知られます。(『大梵天王問仏決疑経をめぐって』石井修道著・駒沢大学参照)

「これ即ち、仏々祖々、面授正法眼蔵の道理なり。七仏の正伝して迦葉尊者に至る、迦葉尊者より二十八授して菩提達磨尊者に至る、菩提達磨尊者、みづから震旦国に降儀して、正宗太祖普覚大師慧可尊者に面授す。五伝して曹谿山大鑑慧能大師に至る。一十七授して先師大宋国慶元府太白名山天童古仏に至る。大宋宝慶元年乙酉五月一日、道元はじめて先師天童古仏を妙高台に燒香礼拝す。先師古仏はじめて道元を見る。その時、道元に指授面授するに云く、仏々祖々、面授の法門現成せり。これ即ち霊山の拈花なり、嵩山の得髄なり。黄梅の伝衣なり、洞山の面授なり。これは仏祖の眼蔵面授なり。吾屋裡のみあり、餘人は夢也未見聞在なり」

「これ即ち」とは、釈迦牟尼仏摩訶迦葉との啐啄の同時態を指すもので、この邂逅を「面授の正法眼蔵」であるとの事が、この巻での凝縮された趣意となり、その具体事例を七仏→迦葉尊者→二十八(伝)授→菩提達磨→慧可大師→五伝(授)→慧能大師→十七(伝)授→先師如浄天童古仏。と面授正法眼蔵の道理が現前しているとの拈提です。なお各祖師には最上の形容詞を以て呼ばしめるものですが、殊に二祖慧可大師は「正宗太祖普覚大師慧可尊者」と記され、『行持』巻にては「真丹第二祖正宗普覚大師」・『葛藤』巻では「太祖正宗普覚大師」・『鉢盂』巻は「二祖太祖正宗普覚大師」・『安居』巻でも「二祖太祖正宗普覚大師」とそれぞれに最大限の尊称記名です。

さらに自身の師匠である如浄和尚を「先師天童古仏」と尊称し、大宋暦宝慶元年(1225)五月一日での面授の言を如浄和尚も、「霊山拈花、嵩山得髄、黄梅伝衣、洞山の面授」を例に挙げる事例から、先程の「面授正法眼蔵の道理」を説かれるものです。

「この面授の道理は、釈迦牟尼仏まのあたり迦葉仏の会下にして面授し護持し来たれるが故に、仏祖面なり。仏面より面授せざれば諸仏に非ざるなり。釈迦牟尼仏まのあたり迦葉尊者を見る事親附なり。阿難羅睺羅と云えども迦葉の親附に及ばず。諸大菩薩と云えども迦葉の親附におよばず、迦葉尊者の座に坐することえず。世尊と迦葉と、同坐し同衣し来たるを、一代の仏儀とせり。迦葉尊者親しく世尊の面授を面授せり。心授せり、身授せり、眼授せり。釈迦牟尼仏を供養恭敬、礼拝奉覲し奉れり。その粉骨碎身、いく千万変と云う事を知らず。自己の面目は面目に非ず、如来の面目を面授せり」

ここでは釈尊と迦葉との「面授の道理」を説くものですが、面授の道理に到るまでの両人の関係を明らかにする事で、釈迦と迦葉との半座の義も頷けます。

摩訶迦葉が遊行生活に入ったのは四十二歳の頃と云われ、同じ頃にゴータマも遊行者となり年齢は二十九歳と云われ、両人はその頃に最初の出会いが有り、肝胆相照らすの間柄であったようです。その時に摩訶迦葉は「もしどちらかが阿羅漢に成ったら、互いに師となり弟子となろう」と、約束し別れたそうです。摩訶迦葉は一人での遊行の隠遁生活ですから、その後の釈尊の成道も知らずにいたが、やがて釈尊の近況を知るに及び、釈尊摩訶迦葉の居場所を確認され、王舎城から多子塔に出向き再会を果たし、以前の約束で釈尊が師・摩訶迦葉が弟子と成った経緯があります。

その時の年齢は釈尊が五十歳前後で、摩訶迦葉は六十歳を越えていたと云われますが、古いタイプの求道者である摩訶迦葉にはサンガの生活は馴染めず、粗末な糞掃衣による林下での独住でしたから、教団の中には摩訶迦葉の存在を知らずに居る者が多数を占めて来たので、後継者の意味も込めて「半座」が行われ、本則経典にも有るように、旧知の友である釈尊の「花を拈り瞬目」された瞬間に啐啄同期的電光にて、「破顔微笑」されたわけです。

以上の簡略な釈尊摩訶迦葉との因縁道理を把握する事で、ここで言われる「阿難・羅睺羅と云えども迦葉の親附に及ばず」や「迦葉尊者親しく世尊の面授を面授せり」と説かれ、また師(釈尊)資(摩訶迦葉)の一連の道理を「粉骨碎身」の言句で喩え、この身心を砕く時節では自己は消失し、如来如来の面授現成とする拈提になります。

釈迦牟尼仏まさしく迦葉尊者を見まします。迦葉尊者まのあたり阿難尊者を見る。阿難尊者まのあたり迦葉尊者の仏面を礼拝す。これ面授なり。阿難尊者この面授を住持して、商那和修を接して面授す。商那和修尊者まさしく阿難尊者を奉覲するに、唯面与面、面授し面受す。かくの如く代々嫡々の祖師、ともに弟子は師に見え、師は弟子を見るによりて面授し来たれり。一祖一師一弟としても、あひ面授せざるは仏々祖々にあらず。喩えば、水を朝宗せしめて宗派を長ぜしめ、灯を続して光明常ならしむるに、億千万法するにも、本枝一如なるなり。また啐啄の迅機なるなり」   

先程は釈迦牟尼仏摩訶迦葉との親密面授を見ました。ここでは同様に摩訶迦葉と阿難との関係を「仏面礼拝これ面授」とし、阿難と迦葉との関係を説かれます。商那和修との関係は「唯面与面」と、このように師弟による直接の面授が「一祖一師一弟」嫡々と連続する事実が「仏々祖々」である。喩えとして源流から海に流れる(朝宗)水は枝分かれ(宗派)し、灯明が億千万本あっても、その光明の灯火は最初の灯明からに喩えるもので、本(もと)の水と枝(支流)の水も一如(同じ)である事実は、親鳥と雛との啐啄の如くに迅速であると言うのです。

 

    二

しかあればすなはち、まのあたり釋迦牟尼佛をまぼりたてまつりて一期の日夜をつめり。佛面に照臨せられたてまつりて一代の日夜をつめり。これいく無量を往來せりとしらず。しづかにおもひやりて隨喜すべきなり。釋迦牟尼佛の佛面を禮拝したてまつり、釋迦牟尼佛の佛眼をわがまなこにうつしたてまつり、わがまなこを佛眼にうつしたてまつりし佛眼睛なり、佛面目なり。これをあひつたへていまにいたるまで、一世も間斷せず面授しきたれるはこの面授なり。而今の數十代の嫡々は、面々なる佛面なり。本初の佛面に面受なり。この正傳面授を禮拝する、まさしく七佛釋迦牟尼佛を禮拝したてまつるなり。迦葉尊者等の二十八佛祖を禮拝供養したてまつるなり。佛祖の面目眼睛かくのごとし。この佛祖にまみゆるは、釋迦牟尼佛等の七佛にみえたてまつるなり。佛祖したしく自己を面授する正當恁麼時なり。面授佛の面授佛に面授するなり。葛藤をもて葛藤に面授してさらに斷絶せず。眼を開して眼に眼授し、眼受す。面をあらはして面に面授し、面受す。面授は面處の受授なり。心を拈じて心に心授し、心受す。身を現じて身を身授するなり。佗方佗國もこれを本祖とせり。震旦國以東、たゞこの佛正傳の屋裏のみ面授面受あり、あらたに如來をみたてまつる正眼をあひつたへきたれり。釋迦牟尼佛面を禮拝するとき、五十一世ならびに七佛祖宗、ならべるにあらず、つらなるにあらざれども、倶時の面授あり。一世も師をみざれば弟子にあらず、弟子をみざれば師にあらず。さだまりてあひみ、あひみえて、面授しきたれり。嗣法しきたれるは、祖宗の面授處道現成なり。このゆゑに、如來の面光を直拈しきたれるなり。

「しか有れば即ち、まのあたり釈迦牟尼仏を守り奉りて一期の日夜を積めり。仏面に照臨せられ奉りて一代の日夜を積めり。これ幾無量を往来せりと知らず。静かに思いやりて随喜すべきなり」

「面授」に対する基本的理念を、釈迦牟尼仏を例に説かれるものです。釈尊を眼前に見仏するように、一日一生の心持ちで接し、この思いを無限の時間と心得、静かに思って随喜する事を面授と言うのである。

釈迦牟尼仏の仏面を礼拝し奉り、釈迦牟尼仏の仏眼を吾が眼に写し奉り、吾が眼を仏眼に写し奉りし仏眼睛なり、仏面目なり。これを相い伝えて今に至るまで、一世も間断せず面授し来たれるはこの面授なり。而今の数十代の嫡々は、面々なる仏面なり。本初の仏面に面受なり。この正伝面授を礼拝する、まさしく七仏釈迦牟尼仏を礼拝し奉るなり。迦葉尊者等の二十八仏祖を礼拝供養し奉るなり」

ここで口称する「釈迦牟尼仏」は特定の人称を指すものではなく、尽界の真実相を称して釈迦牟尼仏と代替するものですから、尽界の現成する事物・事象と一つにある事を「仏眼睛・仏面目」と言われるのです。

この真実(釈迦牟尼仏)を相伝し、至今まで間断なく連続する状態を「面授」と捉え、天童如浄和尚までの五十代の各々は皆仏面であり、釈尊の仏面を受けての面受と成るものです。

「正伝面授」とは、「七仏釈迦牟尼仏礼拝」「二十八仏祖礼拝」と同義語と解釈し、共に互いの礼拝が供養の一形態なのであります。

「仏祖の面目眼睛かくの如し。この仏祖にま見ゆるは、釈迦牟尼仏等の七仏に見え奉るなり。仏祖親しく自己を面授する正当恁麼時なり。面授仏の面授仏に面授するなり。葛藤をもて葛藤に面授して更に断絶せず。眼を開して眼に眼授し、眼受す。面を現わして面に面授し、面受す。面授は面処の受授なり。心を拈じて心に心授し、心受す。身を現じて身を身授するなり。他方他国もこれを本祖とせり。震旦国以東、ただこの仏正伝の屋裏のみ面授面受あり、新たに如来を見奉る正眼を相い伝え来たれり」

「仏祖の面目眼睛」とは、自己と仏祖(釈迦牟尼仏等)が相互に面授の儀が行われる、その時(正当恁麼時)を仏祖の姿態(面目眼睛)と言うのです。

「面授仏の面授仏に面授する」とは、道元禅師自身による独自な語法と考えられるが、わづかに『拾遺義雲和尚語録』(「大正蔵」八二・四七〇・上)に「仏々祖々親所面授坐禅是正門」と、面授と坐禅の合成語は見られますが、『景徳伝灯録』等では確認できません。

『御抄』による解説では、「面授仏の面授仏に面授」ならびに「葛藤をもて葛藤に面授」を「面授の道理の落居する所」と説かれますが、云うなれば自己がそのまま全自己に成りきる。とも解釈出来ます。

さらに「面授」の具象例を「眼・面・心・身」を挙して、眼を眼に・面を面に・心を心に・身を身にと、それぞれに受授を与え、自己を自己に成らしむる道理を説く提唱です。

眼・面と身体に関する面授を説きましたから、国土に対しても同等に面授受を説くに「震旦国以東」と限定的ですが、仏法の無限定策定法からすると、「震旦国東西南北に関わらず」とし、また「仏正伝の屋裏のみ面授面受あり」と仏正伝限定とされますが、「仏国土に面授面受あり」と無限定の尽十方界を仏国土と、明記されるべきと拙考ながら書き添えます。

釈迦牟尼仏面を礼拝する時、五十一世ならびに七仏祖宗、並べるにあらず、連なるにあらざれども、「あり。一世も師を見ざれば弟子にあらず、弟子を見ざれば師にあらず。定まりて相い見、相い見えて、面授しきたれり。嗣法し来たれるは、祖宗の面授処道現成なり。この故に、如来の面光を直拈し来たれるなり」

「五十一世」は、道元禅師ご自身を言われますが、釈迦牟尼仏から御自身までの時を隔てた、2192年(釈尊滅後年数『仏性』巻参照)に七仏祖宗を縦横に配列するのではなく、時間空間を超越した(倶時)面授が有ると言うのである。

この「倶時の面授」の時には、具体的な師と弟子が相い間見える事が重要で、その面授し嗣法する時には、その場が「面授処道現成」であり、如来の面目光明が直接作用(直拈)した証(あかし)なのである。

しかあればすなはち、千年萬年、百劫億劫といへども、この面授これ釋迦牟尼佛の面現成授なり。この佛祖現成せるには、世尊迦葉、五十一世、七代祖宗の影現成なり、光現成なり。身現成なり、心現成なり。失脚來なり、尖鼻來なり。一言いまだ領覧せず、半句いまだ不會せずといふとも、師すでに裏頭より弟子をみ、弟子すでに頂寧(+頁)より師を拝しきたれるは、正傳の面授なり。かくのごとくの面授を尊重すべきなり。わづかに心跡を心田にあらはせるがごとくならん、かならずしも太尊貴生なるべからず。換面に面受し、廻頭に面授あらんは、面皮厚三寸なるべし、面皮薄一丈なるべし。すなはちの面皮、それ諸佛大圓鏡なるべし。大圓鑑を面皮とせるがゆゑに、内外無瑕翳なり。大圓鑑の大圓鑑を面授しきたれるなり。まのあたり釋迦牟尼佛をみたてまつる正眼を正傳しきたれるは、釋迦牟尼佛よりも親曾なり。眼尖より前後三々の釋迦牟尼佛を見出現せしむるなり。かるがゆゑに、釋迦牟尼佛をおもくしたてまつり、釋迦牟尼佛を戀慕したてまつらんは、この面授正傳をおもくし尊宗し、難値難遇の敬重禮拝すべし。すなはち如來を禮拝したてまつるなり。如來に面授せられたてまつるなり。あらたに面授如來の正傳參學の宛然なるを拝見するは、自己なりとおもひきたりつる自己なりとも、佗己なりとも、愛惜すべきなり、護持すべきなり。

「しか有れば即ち、千年万年、百劫億劫と云えども、この面授これ釈迦牟尼仏の面現成授なり。この仏祖現成せるには、世尊迦葉、五十一世、七代祖宗の影現成なり、光現成なり。身現成なり、心現成なり。失脚来なり、尖鼻来なり」

「千年万年・百億劫」は、無時間性を言うと同時に、先程述べました時空の超越した状態をも意味しますから、「この面授これ釈迦牟尼仏の面授現成」と実現される訳です。

お互い(話者と聞者)が釈尊という信仰形態を有しますから、このように説き得るわけです。

世尊・迦葉・五十一世(道元)・七代(仏)祖宗と仏祖の面授現成する時には、影(姿)現成・光(明)現成・(仏)身現成・(仏)心現成する状況を「失脚来・尖鼻来」と言われるのですが、失脚来とは脚を失くして来る。つまりは、世尊や七代祖宗と同格に成るわけですから、凡夫ではなくなる事。尖鼻来も同義語です。尖った鼻が来たるとは、人間を超越し迦葉や五十一代と同格に成ると言う、道元禅師による意味の有ることばになります。

「一言いまだ領覧せず、半句いまだ不会せずと云うとも、師すでに裏頭より弟子を見、弟子すでに頂寧(+頁)より師を拝し来たれるは、正伝の面授なり」

別の角度から師弟の関係を説明されます。弟子が一言半句もわからなくても(領覧せず・不会)、師は反対側(裏頭)から弟子を見、弟子は頭の先(頂寧+頁)から師を礼拝する、これが「正伝の面授」であると。ここで言う裏頭とは一方向からだけではなく、四方八方の尽界から弟子の特質を見極めるの意です。

「かくの如くの面授を尊重すべきなり。わづかに心跡を心田に表せるが如くならん、必ずしも太尊貴生なるべからず。換面に面受し、廻頭に面授あらんは、面皮厚三寸なるべし、面皮薄一丈なるべし。即ちの面皮、それ諸仏大円鏡なるべし。大円鑑を面皮とせるが故に、内外無瑕翳なり。大円鑑の大円鑑を面授し来たれるなり」

これまでのように面授は尊重すべきではあるが、僅かに心の跡方を心田(自己の面目処)に表植したようなもので有っても、必ずしも太尊貴生(至尊至貴・生は接続詞)である必要はない。

「換面に面受」は、弟子の面(顔)を師の面に換えるとは師資一体を。「廻頭に面授」とは、自分の頭を師に廻して、面授も同様に師資一体を表現するもので、換面時は「面皮厚三寸」・廻頭時は「面皮薄一丈」としますが、師と弟子の一体性を言うと同時に、それぞれの相違性を強調するのは、一定の概念化を嫌う為に依るものです。

その面皮の正体は「諸仏大円鑑」という一点の瑕翳も無い、相互に照鑑し合う自己光明の如くに喩え、師資同体の様子を「大円鑑の大円鑑を面授し来たる」と記されますが、これは『古鏡』巻での十七祖僧伽難提と十八祖伽耶舎多尊者との問答で、師(十七祖)が弟子(十八祖)に答えた「諸仏大円鑑、内外無瑕翳。両人同得見、心眼皆相似」を援用するものですが、「両人同得見」は二人の一体性を指しますが、決して同一人物には成り得ませんから、お互いの「心眼は皆相い似る」と語る訳ですが、実に適格な援用記載と思われます。

「まのあたり釈迦牟尼仏を見奉る正眼を正伝し来たれるは、釈迦牟尼仏よりも親曾り。眼尖より前後三々の釈迦牟尼仏を見出現せしむるなり。かるが故に、釈迦牟尼仏を重くし奉り、釈迦牟尼仏を恋慕し奉らんは、この面授正伝を重くし尊宗し、難値難遇の敬重礼拝すべし。即ち如来を礼拝し奉るなり。如来に面授せられ奉るなり。新たに面授如来の正伝参学の宛然なるを拝見するは、自己なりと思い来たりつる自己なりとも、他己なりとも、愛惜すべきなり、護持すべきなり」

直接(まのあたり)釈迦牟尼仏を見奉るとしますが、思い・希望をこのように言われ、ここで言う釈迦牟尼仏とは法身釈迦牟尼仏であると解釈する事で、現実と思いとの峻別をし、現実の面授正伝の人を敬重礼拝する事は、釈迦牟尼仏恋慕に聯関し、即ち、それは如来という真実態(現状の真実)を礼拝する事象と成るのである。

その「面授如来の正伝参学」を宛然(そのまま)拝見するのは、自己で有ろうが他己で有ろうが、現成する真実態を、愛惜・護持しなければならないのである。

 

    五

屋裏に正傳しいはく、八塔を禮拝するものは罪障解脱し、道果感得す。これ釋迦牟尼佛の道現成處を生處に建立し、轉法輪處に建立し、成道處に建立し、涅槃處に建立し、曲女城邊にのこり、菴羅衛林にのこれる、大地を成じ、大空を成ぜり。乃至聲香味觸法色處等に塔成せるを禮拝するによりて、道果現成す。この八塔を禮拝するを、西天竺國のあまねき勤修として、在家出家、天衆人衆、きほうて禮拝供養するなり。これすなはち一巻の經典なり。佛經はかくのごとし。いはんやまた、三十七品の法を修行して、道果を箇々生々に成就するは、釋迦牟尼佛の亙古亙今の修行修治の蹤跡を、處々の古路に流布せしめて、古今に歴然せるがゆゑに成道す。しるべし、かの八塔の層々なる、霜華いくばくかあらたまる。風雨しばしばをかさんとすれど、空にあとせり、色にあとせるその功徳を、いまの人にをしまざること減少せず。かの根力覺道、いま修行せんとするに、煩惱あり、惑障ありといへども、修證するに、そのちからなほいまあらたなり。釋迦牟尼佛の功徳、それかくのごとし。いはんやいまの面授は、かれらに比準すべからず。かの三十七品菩提分法は、かの佛面佛心、佛身佛道、佛尖佛舌等を根元とせり。かの八塔の功徳聚、また佛面等を本基とせり。いま學佛の漢として、透脱の活路に行履せんに、閑靜の昼夜、つらつら思量功夫すべし、懽喜隨喜すべきなり。いはゆるわがくには佗國よりもすぐれ、わが道はひとり無上なり。佗方にはわれらがごとくならざるともがらおほかり。わがくに、わが道の無上獨尊なるといふは、靈山の衆會、あまねく十方に化導すといへども、少林の正嫡まさしく震旦の教主なり。曹谿の兒孫、いまに面授せり。このとき、これ佛法あらたに入泥入水の好時節なり。このとき證果せずは、いづれのときか證果せん。このとき斷惑せずは、いづれのときか斷惑せん。このとき作佛ならざらんは、いづれのときか作佛ならん。このとき坐佛ならざらんは、いづれのときか行佛ならん。審細の功夫なるべし。釋迦牟尼佛かたじけなく迦葉尊者に附囑面授するにいはく、吾有正法眼藏、附囑摩訶迦葉とあり。嵩山會上には、菩提達磨尊者まさしく二祖にしめしていはく、汝得吾髓。はかりしりぬ、正法眼藏を面授し、汝得吾髓の面授なるは、たゞこの面授のみなり。この正當恁麼時、なんぢがひごろの骨髓を透脱するとき、佛祖面授あり。大悟を面授し、心印を面授するも、一隅の特地なり。傳盡にあらずといへども、いまだ欠悟の道理を參究せず。おほよそ佛祖大道は、唯面授面受、受面授面のみなり。さらに剩法あらず、虧闕あらず。この面授のあふにあへる自己の面目をも、隨喜懽喜、信受奉行すべきなり。

道元、大宋寶慶元年乙酉五月一日、はじめて先師天童古佛を禮拝面授す。やゝ堂奥を聽許せらる。わづかに身心を脱落するに、面授を保任することありて、日本國に本來せり

これまでの仏祖に対する面授から、仏塔に対する礼拝が面授である事理を説き、結語に導入する段になります。

「屋裏に正伝し云く、八塔を礼拝する者は罪障解脱し、道果感得す。これ釈迦牟尼仏の道現成処を生処に建立し、転法輪処に建立し、成道処に建立し、涅槃処に建立し、曲女城辺に残り、菴羅衛林に残れる、大地を成じ、大空を成ぜり。乃至声香味触法色処等に塔成せるを礼拝するによりて、道果現成す。この八塔を礼拝するを、西天竺国のあまねき勤修として、在家出家、天衆人衆、競うて礼拝供養するなり。これ即ち一巻の経典なり。仏経はかくの如し。云わんやまた、三十七品の法を修行して、道果を箇々生々に成就するは、釈迦牟尼仏の亙古亙今の修行修治の蹤跡を、処々の古路に流布せしめて、古今に歴然せるが故に成道す」

釈迦牟尼仏の道現成処を生処に建立ー中略ー菴羅衛林に残れる」の出典は、『仏説八大霊塔名号経』(「大正蔵」三二・七七三・上)と思われ、その序言として「(仏祖)屋裏に正伝して云うに、八塔(八大霊塔)を礼拝する者は、罪障解脱し、道果感得す」と、本則を提唱し拈提に入ります。

前述『仏説八大霊塔名号経』では「第一伽毘羅城仏生処・第二摩伽陀国証道果処・第三波羅奈城大法輪処・第四舎衛国祗陀園現大神通処・第五曲女城忉利天下降処・第六王舎城仏為化度処・第七広厳城(毘耶離城)思念寿量処・第八拘尸那城入涅槃処」とされますから、「生処に建立」は第一、「転法輪処に建立」は第三、「成道処に建立」は第二、「涅槃処に建立」は第八、「曲女城辺」は第五、「菴羅衛林」は第七に比定されますから、第四を「大地を成じ」に第六を「大空を成ぜり」に同定することも可能です。

この八処以外にも「声香味触法色処」、つまり全体を意味しますから、尽界にストゥーパ(仏塔)を建立し礼拝する事で、道果(さとり)が現前成ずと言うのであります。

この仏塔崇拝は、インドでは在家出家に関わりなく、勤修を日課とするものです。礼拝供養そのものが、「一巻の経典であり仏経である」と拈語されます。

筆者も短期間ながらネパールに在した経験から、老若男女勤修するする光影は、礼拝供養が一巻の経典と同態する姿であると実感されます。

「三十七品」とは、「四念処・四正断・四神足・五根・五力・七等覚支・八正道支」の法を修行し道果を成就し、釈迦牟尼仏からの永遠(亙古亙今)にわたる切れ目なく連続する修行の蹤跡が歴然とした成道になるのである。とのことですが、突如「三十七品の法を修行」と奇異に思われるかも知れませんが、「西天竺国のあまねき勤修として、在家出家が八塔礼拝供養するなり」を小乗仏教的と見る輩、「三十七品菩提分法」も一般的には小乗法と見なす輩に対し、小乗・大乗のカテゴライズする方法論は、釈迦牟尼仏の説く仏法ではない事を説く為に、恣意的にこのような提唱にしたものと推察されます。

「知るべし、かの八塔の層々なる、霜華幾ばくか改まる。風雨しばしば冒さんとすれど、空に跡せり、色に跡せるその功徳を、今の人に惜しまざる事減少せず。かの根力覚道、いま修行せんとするに、煩悩あり、惑障ありと云えども、修証するに、その力なお今新たなり」

「八塔の層々」なる表現は、恐らく江南地方の仏塔、もしくは日本の五重塔を想い浮かべてのものと考えられますが、インド北部地方に於けるストゥーパ(仏塔)は土饅頭型の円墳状である。

仏塔は物ですから、年月と共に老化しますが、空(非物質世界)や色(物質世界)にも功徳を残し、人界にもその功徳を惜しみなく、仏の功徳を示すのである。

「かの根力覚道」は、先の三十七品での五根(一者信根・二者精進根・三者念根・四者定根・五者慧根)五力(一者信力・二者精進力・三者念力・四者定力・五者慧力)七等覚支(一者択法覚支・二者精進覚支・三者喜覚支・四者除覚支・五者捨覚支・六者定覚支・七者念覚支)を指しますが、その三十七品の修行する時には、煩悩・惑障等の調度は附随するもので、修証する時点に於いては新たな力(量)が生まれるのである。

釈迦牟尼仏の功徳、それかくの如し。いわんや今の面授は、彼らに比準すべからず。かの三十七品菩提分法は、かの仏面仏心、仏身仏道、仏尖仏舌等を根元とせり。かの八塔の功徳聚、また仏面等を本基とせり。いま学仏の漢として、透脱の活路に行履せんに、閑静の昼夜、つらつら思量功夫すべし、懽喜随喜すべきなり」

釈迦仏の功徳は、古今に歴然する成道ではあるが、仏祖による面授に勝るものはない。

三十七品菩提分法の修行法は、仏面・仏心・仏身・仏道・仏尖・仏舌など、一つ一つの菩提(真実)を修証するのである。先の八塔礼拝供養の功徳も、三十七品同様に仏面等を本基としているのである。

仏法を参学究明する人(漢)は、透脱(真実)の活路(みち)に行履(生活)するには、閑静な昼夜にて思量功夫(無所悟禅)出来る事に懽喜し随喜すべきである。

「いわゆる吾が国は他国よりも勝れ、わが道は一人無上なり。他方には我等が如くならざる輩多かり。吾が国、わが道の無上独尊なると云うは、霊山の衆会、普く十方に化導すといえども、少林の正嫡まさしく震旦の教主なり。曹谿の児孫、今に面授せり」

ほかの提唱では吾が国(日本)を辺地・辺土と言われるのですが、この巻では「世尊・迦葉・七仏祖宗」と並び称し、「五十一世」と御自身も仏祖に於ける面授・面授・受面授面の自覚から、「他国よりも勝れ、一人無上なり」との言辞に繋がったのでしょうか。この五十一世の言明は他には『安居』巻しか有りません。猶この「無上なり」は相対的上下をを指すものでは有りません。

さらに具体的に霊鷲山から少林の達磨、さらには曹谿六祖の児孫として、五十一世の日本国吉峰精舎に面授せり。と仏法護持に於ける自信に溢れる提言です。

「この時、これ仏法新たに入泥入水の好時節なり。この時証果せずは、いづれの時か証果せん。この時断惑せずは、いづれの時か断惑せん。この時作仏ならざらんは、いづれの時か作仏ならん。この時坐仏ならざらんは、いづれの時か行仏ならん。審細の功夫なるべし」

「入泥入水」の意は、「慈悲の為に俗世に入り、衆生済度」と云われるが、ここでは六祖慧能の時から仏法の転換が起こり、仏法が普及した事実を「入泥入水の好時節」と言われますが、『御抄』では「此の面授の道理の普く及ぼす事を云う也」と註解されます。

この好時節を逃して証果(仏果を実証)しなかったら、いつ実行できるか。と「断惑・作仏・坐仏・行仏」を列挙し、日常底の逆バージョンで以て全体を表意しますが、証果の中に断惑・作仏・坐仏・行仏が包含され、断惑の中に証果・作仏・坐仏・行仏が包蓄する様態を説くものです。

いづれの時か」と審細功夫と促されますが、而今以外に好時節はありません。

釈迦牟尼仏かたじけなく迦葉尊者に附嘱面授するに云く、吾有正法眼蔵、附嘱摩訶迦葉とあり。嵩山会上には、菩提達磨尊者まさしく二祖に示して云く、汝得吾随。測り知りぬ、正法眼蔵を面授し、汝得吾随の面授なるは、ただこの面授のみなり。この正当恁麼時、汝が日頃の骨随を透脱する時、仏祖面授あり。大悟を面授し、心印を面授するも、一隅の特地なり。伝尽にあらずと云えども、未だ欠悟の道理を参究せず」

冒頭での本則を再び援用し、提唱経論部に入ります。

冒頭での拈提では、七仏→迦葉→達磨→慧可→慧能→如浄→道元と嗣続連面するを面授正法眼蔵の道理との言でしたが、此の処では嵩山会上での菩提達磨尊者が二祖慧可に提示した「汝得吾髄」の考究です。

「汝得吾随の面授」とは、達磨に対する四門人による答話の態度を云うのであるが、道副の「不執文字、不離文字、而為道用」に対しては「汝得吾皮」、尼総持に「如慶喜(阿難)見阿閦仏国、一見更不再見」に対しては「汝得吾肉」、道育の「無一法可得」に対しては「汝得吾骨」。とそれぞれ文字(ことば)を立てての答話に対し、最後の慧可の「礼三拝後、依位而立」に対する達磨の評価は「汝得吾髄」であり、そこで「果為二祖、伝法伝衣」とした故実を云うのである(『葛藤』巻参照)。つまりは、言語領域を透脱(脱落)した礼三拝(身体表現)であるからこそ、仏祖面としての授があるので有る。

「大悟」や「心印」と云った仰々しい極果も、一つの隅での部分(特地)であり、大悟・心印も面授の一形態で、何ら特別ではない事を説くものです。

「伝え尽していなくても、不完全な悟り(欠悟)の道理を参究せず」とは、逆説的に述べたもので、伝尽にあらずと云っても、一隅の面授を参究すれば、大悟の道理である。との言い様です。

「おおよそ仏祖大道は、唯面授面受、受面授面のみなり。さらに剩法あらず、虧闕あらず。この面授の逢うに会える自己の面目をも、隨喜懽喜、信受奉行すべきなり。道元、大宋宝慶元年乙酉五月一日、はじめて先師天童古仏を礼拝面授す。やや堂奥を聴許せらる。わづかに身心を脱落するに、面授を保任する事ありて、日本国に本来せり」

この数行で以て結論に導きます。

「仏祖の大道は、唯だ面授面受、受面授面のみなり」とは、師弟の関係が「師資両面相対せず、只一面なり」と、『御抄』では指摘されます。

ですから、さらなる余分な法(剩法)はなく、欠けたる処(虧闕)もないのである。

この面授という真実に出逢える事実を、「隨喜懽喜し信受奉行すべきである」。これが結語になります。

この巻の提唱に当たっての、如浄和尚との因縁譚を、冒頭に引き続き再度引用し、先師天童古仏との礼拝面授による、身心脱落・面授をそのまま(保任)日本国に本来(伝来)せり。と御自身の修証談を以て終わります。

 

佛道の面授かくのごとくなる道理をかつて見聞せず、參學なきともがらあるなかに、大宋國仁宗皇帝の御宇、景祐年中に薦福寺の承古禪師といふものあり。

上堂云、雲門匡眞大師、如今現在、諸人還見麼。若也見得、便是山僧同參。見麼々々。此事直須諦當始得、不可自謾。且如往古黄蘗、聞百丈和尚擧馬大師下喝因縁、佗因大省。百丈問、子向後莫嗣大師否。黄蘗云、某雖識大師、要且不見大師。若承嗣大師、恐喪我兒孫。大衆、當時馬大師遷化、未得五年。黄蘗自言不見、當知、黄蘗見處不圓。要且祇具一隻眼。山僧即不然、識得雲門大師、亦見得雲門大師。方可承嗣雲門大師。祇如雲門、入滅已得一百餘年。如今作麼生説箇親見底道理。會麼。通人達士、方可證明。眇劣之徒、心生疑謗、見得不在言之、未見者、如今看取不。請久立珍重。

いまなんぢ雲門大師をしり、雲門大師をみることをたとひゆるすとも、雲門大師まのあたりなんぢをみるやいまだしや。雲門大師なんぢをみずは、なんぢ承嗣雲門大師不得ならん。雲門大師いまだなんぢをゆるさざるがゆゑに、なんぢもまた雲門大師われをみるといはず。しりぬ、なんぢ雲門大師といまだ相見せざりといふことを。七佛諸佛の過去現在未來に、いづれの佛祖か師資相見せざるに嗣法せる。なんぢ黄蘗を見處不圓といふことなかれ。なんぢいかでか黄蘗の行履をはからん。黄蘗の言句をはからん。黄蘗は古佛なり、嗣法に究參なり。なんぢは嗣法の道理かつて夢也未見聞參學在なり。黄蘗は師に嗣法せり、祖を保任せり。黄蘗は師にまみえ、師をみる。なんぢはすべて師をみず、祖をしらず。自己をしらず、自己をみず。なんぢをみる師なし、なんぢ師眼いまだ參開せず。眞箇なんぢ見處不圓なり、嗣法未圓なり。なんぢしるやいなや。雲門大師はこれ黄蘗の法孫なること。なんぢいかでか百丈黄蘗の道處を測量せん。雲門大師の道處、なんぢなほ測量すべからず。百丈黄蘗の道處は、參學のちからあるもの、これを拈擧するなり。直指の落處あるもの、測量すべし。なんぢは參學なし、落處なし。しるべからず、はかるべからざるなり。

この付加文は寛元元年(1243)十月提唱後の翌年六月七日までに付加されたものである。(『秘密正法眼蔵』懐弉書写より推定)

本則話頭は『建中靖国続灯録』二・薦福承古禅師章(「続蔵」七八・五五六・中)からの引用になり、少々の出入りはありますが原意に変わり有りません。通俗的には『続灯録』と呼ばれますが、編者は仏国惟白(生没年不詳)で雲門ー香林澄遠ー智門光祚―雪竇重顕(980―1052)―天衣義懐(993―1064)―法雲法秀(1027―1090)と嗣続する法脈の禅僧です。

『景徳伝灯録』(1004年)『天聖広灯録』(1036年)の後を承けて1101年に徽󠄀宗から入蔵を許可された「五灯録」の一つで有るが、道元禅師の嗣法観は、直接的面授が伴わない仏道は、外道の流類に属するものとされるもので、雲門匡真(864―949)による直接的面授受を承けず、語録により大悟し、亡き雲門に嗣承香を焚く薦福承古(―1045)は勿論、承古を雲門の法嗣に編入した『続灯録』の編者惟白も批評されるものです。なお『景徳伝灯録』には二十五人の法嗣者を、『天聖広灯録』では二十三人の法嗣者を記載しますが、両巻ともに承古の名は見当たりません。

また奥書の後に付加された本文は、日本達磨宗祖である大日房能忍による面授嗣法儀の不当性(仏照徳光との書面嗣法)をも念頭に置いたものとも推察されます。

いま一つ。『禅苑清規』編者である長蘆宗賾と仏国惟白とは同参であり、『続灯録』一八には「真定府済禅院宗賾」条がある。(『禅苑清規』の研究・林徳立)

仏道の面授かくの如くなる道理を曾て見聞せず、参学なき輩ある中に、大宋国仁宗皇帝の御宇、景祐年中に薦福寺の承古禅師と云う者あり」

「仁宗皇帝」は北宋の太祖・太宗・真宗に続く第四代皇帝(1010―1063)で在位期間(1022―1063)の中に景祐(1034―1038)年号がある。

承古禅師の没年は「慶暦五年冬至四日」(1045)と確定されるが、『薦福承古考』(永井政之)によれば、開宝三年(970)生まれで、世寿七十六歳とされる。

「上堂に云く、雲門匡真大師、如今に現在せり、諸人還た見る麼。若し也た見得すれば、便ち是れ山僧(承古)と同参ならん。見る麼見る麼。此の事直に須らく諦当(原文は聴)にして始めて得てん、自ら謾ずべからず」

「且く往古の黄蘗の如き、百丈和尚の馬大師下喝の因縁を挙するを聞いて、他(黄蘗)因みに大省(悟)す」

「百丈問う、子(なんぢ)は向後に大師(馬祖)に(原文は承を付加)嗣する莫(や)否や」

「黄蘗云く、某(それがし)大師を識ると雖も、要且不見大師(とにかくも直接に馬大師にはま見えず)。若し大師に承嗣すれば、恐らくは我が児孫を喪せん」

右の百丈・黄蘗の話は『景徳伝灯録』六(「大正蔵」五一・二四九・下)に有り。

「大衆、当時馬大師は遷化して、未だ五年を得ず。黄蘗は自ら不見と言う、当に知るべし、黄蘗が見処不円なり。要且(ともかく)も祇(ただ)一隻眼を具せり。山僧は即ち然らず、雲門大師を識得し、亦雲門大師を見得す。方(まさ)に雲門大師を承嗣すべし。祇(ただ)雲門の如きは、入滅して已に一百餘年を得たり。如今に作麼生か箇の親しく見る底の道理を説かん。(理)会する麼。通人達士にして、方(まさ)に証明すべし。眇劣(原文は無し)の徒は、心に疑謗を生じ、見得は之を言うこと在らず、未だ見ざる者、如今に看るや不や。請すらくは久立珍重」

「いま汝雲門大師を知り、雲門大師を見る事を喩い許すとも、雲門大師まの当たり汝を見るや未だしや。雲門大師汝を見ずは、汝承嗣雲門大師不得ならん。雲門大師未だ汝を許さざるが故に、汝もまた雲門大師我れを見ると云わず。知りぬ、汝雲門大師と未だ相見せざりと云うことを」

これから「仏祖大道は唯面授面受・受面授面」である道理を、承古に適応できるかの拈提になります。

ここでの道元禅師による見方は、承嗣であるからには授受が必須条件で有るにも関わらず、承古自身の「受」のみを主張し、雲門からの「授」が述べられない事の不備を言うものです。

「七仏諸仏の過去現在未来に、いづれの仏祖か師資相見せざるに嗣法せる。汝黄蘗を見処不円と云う事なかれ。汝如何でか黄蘗の行履を測らん。黄蘗の言句を測らん。黄蘗は古仏なり、嗣法に究参なり。汝は嗣法の道理かつて夢也未見聞参学在なり。黄蘗は師に嗣法せり、祖を保任せり。黄蘗は師にま見え、師を見る。汝は全て師を見ず、祖を知らず。自己を知らず、自己を見ず。汝を見る師なし、汝師眼未だ参開せず。真箇汝見処不円なり、嗣法未円なり」

文意のままに解されますが、承古が黄蘗に云い放った「見処不円」の言句が、承古自身の頭上から飛礫(つぶて)の如くに、「真箇見処不円」と、説得される構図が眼前に浮かびます。

「汝知るや否や。雲門大師はこれ黄蘗の法孫なる事。汝如何でか百丈黄蘗の道処を測量せん。雲門大師の道処、汝なお測量すべからず。百丈黄蘗の道処は、参学の力ある者、これを拈挙するなり。直指の落処ある者、測量すべし。汝は参学なし、落処なし。知るべからず、測るべからざる也」

「雲門大師は黄蘗の法孫」とは、法脈を云うのではなく、当巻に言う「釈迦牟尼仏を見奉る正眼を正伝し来たれるは、釈迦牟尼仏なり親曾なり」との如くに、法系上に於いて雲門は青原・石頭に属し、黄蘗は南嶽・馬祖に列しますが、すべては釈迦仏と親曾との主旨から、「雲門大師は黄蘗の法孫」と言われるものです。

以下は文言の通りですが、百丈・黄蘗のように互いに参学の力量ある者同士、直指(直接)の落処ある者が、啐啄(測量)できる。との眼処になります。

 

馬大師遷化未得五年なるに、馬大師に嗣法せずといふ、まことにわらふにもたらず。たとひ嗣法すべくは、無量劫ののちなりとも嗣法すべし。嗣法すべからざらんは、半日なりとも須臾なりとも、嗣法すべからず。なんぢすべて佛道の日面月面をみざる暗者愚蒙なり。雲門大師入滅已得一百餘年なれども雲門に承嗣すといふ、なんぢにゆゝしきちからありて雲門に承嗣するか。三祖の孩兒よりはかなし。一千年ののち雲門に嗣法せんものは、なんぢに十倍せるちからあらん。われいまなんぢをすくふ、しばらく話頭を參學すべし。百丈の道取する子向後莫承嗣大師否の道取は、馬大師に嗣法せよといふにはあらぬなり。しばらくなんぢ獅子奮迅話を參學すべし、烏龜倒上樹話を參學して、進歩退歩の活路を參究すべし。嗣法に恁麼の參學力あるなり。黄蘗のいふ恐喪我兒孫のことば、すべてなんぢはかるべからず。我の道取および兒孫の人、これたれなりとかしれる。審細に參學すべし。かくれずあらはれて道現成せり。しかあるを、佛國禪師惟白といふ、佛祖の嗣法にくらきによりて、承古を雲門の嗣に排列せり、あやまりなるべし。晩進しらずして、承古も參學あらんとおもふことなかれ。なんぢがごとく文字によりて嗣法すべくは、經書をみて發明するものはみな釋迦牟尼佛に嗣法するか、さらにしかあらざるなり。經書によれる發明、かならず正師の印可をもとむるなり。なんぢ承古がいふごとくには、なんぢ雲門の語録なほいまだみざるなり。雲門の語をみしともがらのみ雲門には嗣法せり。なんぢ自己眼をもていまだ雲門をみず、自己眼をもて自己をみず、雲門眼をもて雲門をみず、雲門眼をもて自己をみず。かくのごとくの未參究おほし。さらに草鞋を買來買去して、正師をもとめて嗣法すべし。なんぢ雲門大師に嗣すといふことなかれ。もしかくのごとくいはば、すなはち外道の流類なるべし。たとひ百丈なりとも、なんぢがいふがごとくいはば、おほきなるあやまりなるべし。

「馬大師遷化未得五年なるに、馬大師に嗣法せずと云う、誠に笑うにも足らず。たとい嗣法すべくは、無量劫の後なりとも嗣法すべし。嗣法すべからざらんは、半日なりとも須臾なりとも、嗣法すべからず。汝すべて仏道の日面月面を見ざる暗者愚蒙なり」

承古の見得処は、自身の「一百餘年」と黄蘗の「未得五年」による相対比較に対するを、「笑うにも足らず」との評価です。その根拠は、承古の嗣法観では、五年・百年との年限を云われますが、嗣法に於いては時間の範疇は含みませんから、承古の嗣法に対する態度を「笑うにも足らず」と評されるものです。

そのことを無量劫と半日・須臾の喩えとし、承古には仏道での日常底(日面月面)つまり真実の現成態を見るべき眼処無きを称して、「暗者愚蒙」と断言されるわけです。

「雲門大師入滅已得一百餘年なれども雲門に承嗣すと云う、汝に由々しき力ありて雲門に承嗣するか。三祖の孩児よりはかなし。一千年の後雲門に嗣法せん者は、汝に十倍せる力あらん。我いま汝を救う、しばらく話頭を参学すべし」

道元禅師の思考法は明晰で、雲門入滅から百年後に承古が嗣法したと云うなら、百年の十倍に当たる千年後に雲門に嗣法するとしたなら、行履辦道力も十倍有るのかとの問い掛けですが、「笑うにも足らず」から「我(道元)いま汝(承古)を救う」と助け船を出しますが、その答えは話頭(語録等)を参究学道しなさいとの、当に三歳の孩児に対する受け答えの感があります。(『諸悪莫作』巻では「三歳の孩児はたとい道得なりとも、八十老翁は行不得ならんと。云うこころは、三歳の孩児に道得のことばあり、これをよくよく参究すべし。八十の老翁に行不得の道あり、よくよく功夫すべし」との提唱が思い起こされる)

「百丈の道取する子向後莫承嗣大師否の道取は、馬大師に嗣法せよと云うにはあらぬなり。しばらく汝獅子奮迅話を参学すべし、烏亀倒上樹話を参学して、進歩退歩の活路を参究すべし。嗣法に恁麼の参学力あるなり」

百丈の子(なんぢ)は向後(これから)大師(馬祖)に承嗣すること莫しや否や」を、百丈が黄蘗に対し「馬祖に嗣法せよ」とは受け取らず、承古に対し「獅子奮迅話」を参究すべし。とは、獅子(ライオン)の狩りは獲物の大小に関係なく、全力疾走との喩えで、承古のように「百年前の和尚」を相手とせず、現前の面授に精進せよ。との言になります。

さらに「烏亀倒上樹話」とは、「烏(くろ)い亀が逆さ(倒)で樹に上る」の意で、不可能を可能にする。との喩えを例にして「進歩退歩の活路を参究すべし」と、承古を救う話頭を提示するものです。ここでの進歩退歩とは、烏亀は倒立する状態ですから、前進すれば退歩となり、後進すれば進歩となり通常とは真逆の世界ですが、仏法に於いては進歩退歩も共に、活路にに喩えるものです。

これらの話頭の如くに嗣法面授に於いては、このような人智を越えた参学力があるのである。

「黄蘗の云う恐喪我児孫の言葉、全て汝測るべからず。我の道取および児孫の人、これ誰なりとか知れる。審細に参学すべし。隠れず現れて道現成せり」

黄蘗が百丈に云った「恐らくは(馬祖に嗣法したなら)我ならびに児孫を喪くします」の意は、我とは「無我法中に真我あり」(『大般涅槃経』「大正蔵」一二・八三八・上)を指し、児孫とは眼前に現成する「白雲青山児」(『瑞州洞山語録』(「大正蔵」四七・五二五・上)で有ることを、承古は審細に参究学道しなさいと。

黄蘗が云わんとする処は、眼前の百丈に承嗣せず、面授受のない馬祖に嗣法するなら、眼前に現成する山河大地を識得せず、脚天頭地にて行履辦道するようなものだとの事です。

「しか有るを、仏国禅師惟白と云う、仏祖の嗣法に暗きによりて、承古を雲門の法嗣に排列せり、錯りなるべし。晩進知らずして、承古も参学有らんと思う事なかれ」

「仏国惟白」については前に詳しく紹介したので再述はしませんが、『続灯録』編者である惟白の力量にも疑問を呈するものです。

「汝が如く文字によりて嗣法すべくは、経書を見て発明する者はみな釈迦牟尼仏に嗣法するか、更にしか有らざるなり。経書によれる発明、必ず正師の印可を求むるなり」

道元禅師は『続灯録』を直接ご覧の上での本則引用であり、恐らくは『続灯録』以前の『天聖広灯録』(1036年)・『景徳伝灯録』(1004年)・『祖堂集』(801年)なども確認した上での、「経書によれる発明」と言われ、後進に対する罪科を仏国惟白に求めるものです。

「汝承古が云う如くには、汝雲門の語録なお未だ見ざるなり。雲門の語を見し輩のみ雲門には嗣法せり。汝自己眼をもて未だ雲門を見ず、自己眼をもて自己を見ず、雲門眼をもて雲門を見ず、雲門眼をもて自己を見ず。かくの如くの未参究多し。さらに草鞋を買来買去して、正師を求めて嗣法すべし。汝雲門大師に嗣すと云う事なかれ。もしかくの如く云わば、即ち外道の流類なるべし。たとい百丈なりとも、汝が云うが如く云わば、大きなる錯りなるべし」

『続灯録』承古章(「続蔵」七八・六四八・下)に云う、「一日、覧雲門禅師対機、忽然発悟」の如くに、汝(惟白)も承古語言を肯うなら、雲門宗派に列する惟白自身も、未だ『雲門録』を見てはいないと。

「自己眼」とは、沙門一隻眼なる眼であり、真実底を具現した眼であるが、惟白には、広範囲に現成認識する自己眼が具足しない為、わらじ(草鞋)を買い替え(買来買去)、つまりは行脚に出かけて面授受し、正師眼と自己眼をも超越した嗣法をし、「雲門大師に嗣すと云う事なかれ」とは、承古と惟白二人に対する叱声に聞こえます。

こういう言動は、例えば古仏黄蘗の師匠である百丈が云ったとしても、大きな間違いである。

これを以て『面授』巻提唱は終わりますが、本来ならばこの本則提唱は、本文の中に入れ、体裁を整えるべき処でしょうが、仮住吉峰寺から禅師峰寺、さらには大仏寺への移動・移住と多忙・多難の渦中での執筆ですから、寸暇を惜しんでの後付け論文は、貴重な老婆親切心の表出したものです。