正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵密語

正法眼蔵第四十五 密語

諸佛之所護念の大道を見成公案するに、汝亦如是、吾亦如是、善自護持、いまに證契せり。

雲居山弘覺大師、因官人送供問曰、世尊有密語、迦葉不覆藏。如何是世尊密語。大師召曰、尚書。其人應諾。大師云、會麼。尚書曰、不會。大師云、汝若不會世尊密語、汝若會迦葉不覆藏。

大師者、青原五世の嫡孫と現成して、天人師なり、盡十方界の大善知識なり。有情を化し、無情を化す。四十六佛の佛嫡として、佛祖のために説法す。三峰庵主の住裏には、天厨送供す。傳法得道のときより、送供の境界を超越せり。

「諸仏之所護念の大道を見成公案するに、汝亦如是、吾亦如是、善自護持、今に証契せり」

冒頭に引用する語話は六祖慧能と南嶽との問答であり、『真字正法眼蔵』中・一則を底本とするものであるが、この話頭は道元禅師相当に気に入られた因縁譚のようで、他にも『遍参』・『恁麼』・『行持』・『行仏威儀』・『身心学道』・『自証三昧』・『洗浄』各巻にも引用され拈提されます。

言わんとする処は「諸仏」―「大道」―「見(現)成」は不染汚を汝・吾ともに護持することで、諸仏・大道・見成が一如(証契)になる。との言明がこの『密語』巻の主旨になります。

「雲居山弘覚大師、因官人送供問曰、世尊有密語、迦葉不覆蔵。如何是世尊密語。大師召曰、尚書。其人応諾。大師云、会麼。尚書曰、不会。大師云、汝若不会世尊密語、汝若会迦葉不覆蔵」

これより個別具体の公案話頭を拈じて「密語」についての考察に入ります。

最初の本則話頭は『景徳伝灯録』十七・雲居道膺章(『大正蔵』五十一・三三五・下)からのもので訓読みにすると、

「雲居山(江西省南康府建昌県西南三十里)の弘覚(道膺)大師(835―902)、因みに官人(役人)が供物を送り問いて日く、世尊に密語あり、迦葉は覆蔵せずと。如何なるか是れ世尊の密語。弘覚大師召して曰く、尚書(皇帝の補佐役)。其人はい(諾)と応(こた)う。大師云く、会麼(わかったか)。尚書曰く、不会(わかりません)。大師云く、汝(尚書)が若し不会(わからない)ならば世尊の密語であり、汝が若し会(わかる)ならば迦葉の不覆蔵である。」

と読むことが出来ます。

「大師者、青原五世の嫡孫と現成して、天人師なり、尽十方界の大善知識なり。有情を化し、無情を化す。四十六仏の仏嫡として、仏祖のために説法す。三峰庵主の住裏には、天厨送供す。伝法得道の時より、送供の境界を超越せり」

「青原五世の嫡孫」とは、青原―石頭―薬山―雲巌―洞山―雲居と嗣続されますから、五世の場合には青原は含まれません。

「四十六仏の仏嫡」とは、過去七仏+第一祖摩訶迦葉―第二十七祖般若多羅+震旦初祖菩提達磨―六祖慧能+青原―雲居=7+27+6+6=四十六仏となります。『三祖行業記』に於いても道元禅師の出自の説明文として「村上天皇九代之苗裔、後中書八世之遺胤」と代と世との使い分けに注意する必要があります。

「三峰庵主の住裏には、天厨送供す。伝法得道の時より、送供の境界を超越せり」とは、すでに『行持』巻にて「雲居山弘覚大師、そのかみ三峰庵に住せし時、天厨送供す。大師ある時洞山に参じて、大道を決択して、さらに帰る。天使また食を再送して師を尋見するに、三日を経て師を見ること得ず。天厨を待つことなし、大道を所宗とす」を基底に言い換えたものですが、牛頭法融が百鳥銜花献(『真字正法眼蔵』上・五十二則参照)の則にも通ずるものです。

いまの道取する世尊有密語、迦葉不覆藏は、四十六佛の相承といへども、四十六代の本來面目として、匪從人得なり、不從外來なり。不是本得なり、未嘗新條なり。この一段事の密語の現成なる、たゞ釋迦牟尼世尊のみ密語あるにあらず、諸佛祖みな密語あり。すでに世尊なるは、かならず密語あり。密語あれば、さだめて迦葉不覆藏あり。百千の世尊あれば百千の迦葉ある道理を、わすれず參學すべきなり。參學すといふは、一時に會取せんとおもはず、百廻千廻も審細功夫して、かたきものをきらんと經営するがごとくすべし。かたる人あらば、たちどころに會取すべしとおもふべからず。いま雲居山すでに世尊ならんに密語そなはり、不覆藏の迦葉あり。喚尚書書應諾は、すなはち密語なりと參學することなかれ。

これより拈提作業に入ります。

「今の道取する世尊有密語、迦葉不覆蔵は、四十六仏の相承と云えども、四十六代の本来面目として、匪從人得なり、不従外来なり。不是本得なり、未嘗新条なり」

本則標題である「世尊有密語、迦葉不覆蔵」の道理は、過去七仏より雲居道膺に至る四十六人が、仏として相い継承して来た本来の面目であり、人から得たものではなく(匪從人得)、外から来たものではなく(不従外来)、本来得ているものではなく(不是本得)、新しいものでもない(未嘗新条)。最後に説く「匪從人得・不従外来・不是本得・未嘗新条」なる言葉は、七十五巻眼蔵中に於いても此の箇所のみで、ただし「匪從人得」のみ『仏道』巻にて二か所使用される特殊な語句であり、道元禅師による造語かも知れません。

「この一段事の密語の現成なる、たゞ釈迦牟尼世尊のみ密語あるにあらず、諸仏祖みな密語あり。すでに世尊なるは、かならず密語あり。密語あれば、定めて迦葉不覆蔵あり」

字義の如くに解せられるが、「密語」はただ単に親密語には留まらず、眼蔵標題全てに通底する真理・真実をも包含する語として取り扱う必要がある。ですから「密語」を真実語と置き換え通読すると、釈尊から迦葉に真理が伝播したのではなく、「密語」も「不覆蔵」も共々脱落の法と理解せよとは『聞書』に指摘されるものです。

「百千の世尊あれば百千の迦葉ある道理を、忘れず参学すべきなり。参学すと云うは、一時に会取せんと思わず、百廻千廻も審細功夫して、堅き物を切らんと経営するが如くすべし。かたる人あらば、たちどころに会取すべしと思うべからず」

十把一絡げに「世尊」とか「迦葉」と限定することなく、尽界あらゆる事物を世尊・迦葉と見立て参学すべしと言われます。「参学する」とは業報が尽きるまで行うことを、「百回千回」と金剛石を裁断するように精進(経営)すべしと。

「いま雲居山すでに世尊ならんに密語備わり、不覆蔵の迦葉あり。喚尚書書応諾は、即ち密語なりと参学することなかれ」

『御抄』にては「いかなるものも世尊密語なるべし。故に大師も尚書も応諾も会も不会も世尊も迦葉も皆密語の道理なるべき也」と註解されますから、「喚尚書・書応諾」は密語の一形態と考えられ、『聞書』にても「密語と参学する事なかれと云えば、密語の心も有るべき歟」と記し、「密語」の規定概念化を避ける為の方便としての、「参学することなかれ」の語であり、戒めの言辞だと考えられます。

大師ちなみに尚書にしめすにいはく、汝若不會、世尊密語。汝若會、迦葉不覆藏。いまの道取、かならず多劫の辦道功夫を立志すべし。なんぢもし不會なるは世尊の密語なりといふ、いまの茫然とあるを不會といふにあらず、不知を不會といふにあらず。なんぢもし不會といふ道理、しづかに參學すべき處分を聽許するなり。功夫辦道すべし。さらにまた、なんぢもし會ならんはと道取する、いますでに會なるとにはあらず。

いよいよ「汝若不会世尊密語、汝若会迦葉不覆蔵」に対する拈提が始まりますが、この雲居の云い用には多くの手間暇かけて勉強すべきとの言で、説かんとする旨は「不会」・「会」ともに大局(仏法上)に立っての言辞であり同義語とのことです。

「なんぢもし不会なるは世尊の密語なり」の不会は仏法の立場からの不会であり、「不知」とも「茫然」とする状態でもなく、この「汝若不会」の道理を静かに参学功夫辦道と、不会の本来義の参究を説き、同様に「会」なる状態も仏法上の立場からで、人界にてのわかったとの概念的会ではない。

佛法を參學するに多途あり。そのなかに、佛法を會し、佛法を不會する關棙子あり。正師をみざれば、ありとだにもしらず、いたづらに絶見聞の眼處耳處におほせて、密語ありと亂會せり。なんぢもし會なるゆゑに迦葉不覆藏なるといふにあらず、不會の不覆藏もあるなり。不覆藏はたれ人も見聞すべしと學すべからず。すでにこれ不覆藏なり、無處不覆藏ならん正恁麼時、こゝろみに參究すべし。

「仏法を参学するに多途あり。その中に、仏法を会し、仏法を不会する関棙子あり」

仏法を学習するには複眼視的に参究する必要があり、その中の解釈法には仏法を会する使途、仏法を不会する方向とねじを回す(関棙子)必要がある。転じて「関棙子」は仏法の肝要の処・急所と解せられる。(『禅学大辞典』大修館)

「正師を見ざれば、ありとだにもしらず、いたづらに絶見聞の眼処耳処におほせて、密語ありと乱会せり」

「会の仏法」・「不会の仏法」という考え方は、正しい先生(正師)に遇わなければ知る由もなく、不見不聞する所を密語と思い込む節がある。

「汝もし会なる故に迦葉不覆蔵なると云うにあらず、不会の不覆蔵もあるなり。不覆蔵はたれ人も見聞すべしと学すべからず。すでにこれ不覆蔵なり、無処不覆蔵ならん正恁麼時、こゝろみに参究すべし」

この文言は雲居大師が尚書に説いた「汝若会迦葉不覆蔵」に対する拈提で、会と不会は同時共鳴的に考えなければならず、誰も彼もが見聞しているとは考えて居らず、不覆蔵つまり覆い蔵すものがない事実そのものである。何処も彼処も(無処)不覆蔵である正にその時(正恁麼時)を参究すべしとの、提言になります。

しかあれば、みづからしらざらん境界を密語と參學しきたるにはあらず、佛法を不會する正當恁麼時、これ一分の密語なり。これかならず世尊有なり、有世尊なり。

しかあるを、正師の訓教をきかざるともがら、たとひ獅子座上にあれども、夢也未見這箇道理なり。かれらみだりにいはく、世尊有密語とは、靈山百萬衆前に拈花瞬目せしなり。そのゆゑに、有言の佛説は淺薄なり、名相にわたれるがごとし。無言説にして拈花瞬目する、これ密語施設の時節なり。百萬衆は不得領覧なり。このゆゑは、百萬衆のために密語なり。迦葉不覆藏といふは、世尊の拈花瞬目を、迦葉さきよりしれるがごとく破顔微笑するゆゑに、迦葉におほせて不覆藏といふなり。これ眞訣なり。箇々相傳しきたれるなり。これをきゝてまことにおもふともがら、稻麻竹葦のごとく、九州に叢林をなせり。あはれむべし、佛祖の道の破癈せること、もととしてこれよりおこる。明眼漢、まさに一々に勘破すべし。

そういう事(会・不会の世界)であるから、自分が知らない世界(境界)を密語と参学してはいけない。

「仏法を不会する正当恁麼時、これ一分の密語なり。これ必ず世尊有なり、有世尊なり」

不会の仏法その時が、一分の密語なりと表現されますが、一分は全分と解します。これが即ち世尊有とは世尊有密語を略したもので、さらに有世尊と全方位語釈法から、このような倒置法的な表現態となります。

「しかあるを、正師の訓教を聞かざる輩、たとい獅子座上にあれども、夢也未見這箇道理なり」

先程にも「正師を見ざれば」云々とありましたが、再び正師による会・不会の仏法の教えを聞かず説法の壇上に上っても、これらの「仏法を不会する正当恁麼時、これ一分の密語」の句は夢にも見ざる道理。との正師に遇う大切さを説く拈提になります。

「彼ら妄りに云わく、世尊有密語とは、霊山百万衆前に拈花瞬目せしなり。その故に、有言の仏説は浅薄なり、名相にわたれるが如し。無言説にして拈花瞬目する、これ密語施設の時節なり」

正師の訓教を聞かない輩の云うには、世尊に密語ありとは、霊鷲山上での拈花瞬目破顔微笑だけを指すから、言語で説く仏説は浅薄で、単にことば(名)や、すがた(相)だけで説くようなものだと。無言説の拈花瞬目のみが密語が行われる時節である。と云うのが彼らのいい分である。

「百万衆は不得領覧なり。この故は、百万衆の為に密語なり。迦葉不覆蔵と云うは、世尊の拈花瞬目を、迦葉さきより知れるが如く破顔微笑する故に、迦葉に負おせて不覆蔵と云うなり。これ真訣なり。箇々相伝し来たれるなり」

拈花瞬目破顔微笑の時の百万衆の人々には理解(領覧)できなかった(不得)。それで百万衆には(秘)密語であった。また迦葉不覆蔵と云うのは、迦葉が前もって認知し破顔微笑したので、迦葉に背負わせて不覆蔵であると。正師の訓教を聞かない連中には、これらの事が真訣(修行の要心)であり、個別に相伝し来れると、密語に対する一般的理解が説かれます。

「これを聞きて誠に思う輩、稲麻竹葦の如く、九州に叢林をなせり。哀れむべし、仏祖の道の破癈せること、元としてこれより起こる。明眼漢、まさに一々に勘破すべし」

この文言を聞いて合点する連中は、稲麻竹葦のように多く存在し、九州(中国全土)にわたり寺院経営している現況は、これら正師に聞法しないから生ずるのである。明眼を持った者(漢)は、これら邪宗一々を勘破しなさいとの、現代の我々にも呼び掛け得る言説になります。

もし世尊の有言淺薄なりとせば、拈花瞬目も淺薄なるべし。世尊の有言もし名相なりとせば、學佛法の漢にあらず。有言は名相なることをしれりといへども、世尊に名相なきことをいまだしらず。凡情の未脱なるなり。佛祖は身心の所通みな脱落なり。説法なり、有言説なり、轉法輪す。これを見聞して得益するものおほし。信行法行のともがら、有佛祖處に化をかうぶり、無佛祖處に化にあづかるなり。百萬衆かならずしも拈花瞬目を拈花瞬目と見聞せざらんや。迦葉と齊肩なるべし、世尊と同生なるべし。百萬衆と百萬衆と同參なるべし、同時發心なるべし。同道なり、同國土なり。有知の智をもて見佛聞法し、無知の智をもて見佛聞法す。はじめて一佛をみるより、すゝみて恒沙佛をみる。一々の佛會上、ともに百萬億衆なるべし。各々の諸佛、ともに拈花瞬目の開演おなじときなるを見聞すべし。眼處くらからず、耳處聰利なり。心眼あり、身眼あり。心耳あり、身耳あり。

引き続き先程の邪宗に対する解説です。

「もし世尊の有言浅薄なりとせば、拈花瞬目も浅薄なるべし。世尊の有言もし名相なりとせば、学仏法の漢にあらず。有言は名相なる事を知れりと云えども、世尊に名相なきことを未だ知らず。凡情の未脱なるなり。仏祖は身心の所通みな脱落なり。説法なり、有言説なり、転法輪す」

先に云う「有言の仏説は浅薄なり」に対する対句を「拈花瞬目も浅薄なるべし」とし、仮に世尊の有言がもし名相(教学的概念規定)であるならば、仏法を学する者ではない。有言は名相(名目と事相)が無い事を頓と知らないとは、凡夫の未脱なる証しである。仏道祖師方は身心(全体)の通ずる所を皆脱落・説法・有言説・転法輪と云う言句を使用して密語に置き換えて表現されるものです。

「これを見聞して得益する者多し。信行法行の輩、有仏祖処に化を被り、無仏祖処に化に預かるなり」

これ(脱落・説法・有言説・転法輪)を見聞して益する者は多く、信行(鈍根者)法行(利根者)の輩は、有仏無仏処々に於いて教化に預かっているのである。

「百万衆と百万衆と同参なるべし、同時発心なるべし。同道なり、同国土なり」

ここでの要旨は、世尊と迦葉と百万衆は別々の立場ではなく、百万衆も世尊の拈花瞬目に同時発心したのであり、迦葉とも同等であり世尊とも同生であり三者一箇の鏡面に影ずるようなものである。

「有知の智をもて見仏聞法し、無知の智をもて見仏聞法す。始めて一仏を見るより、進みて恒沙仏を見る。一々の仏会上、ともに百万億衆なるべし。各々の諸仏、ともに拈花瞬目の開演同じ時なるを見聞すべし。眼処暗からず、耳処聡利なり。心眼あり、身眼あり。心耳あり、身耳あり」

有知・無知の智は全体を表現し、一仏は世尊を云い、恒沙仏とは百万億衆を指し、それぞれが皆真実の実態ですから拈花瞬目の開演同じ時なるを見聞すべしと説くわけです。その仏会上では眼耳は聡明であり、さらに身眼・心眼・身耳・心耳ある事実を認識せよとの提言です。

 

   第二段

迦葉の破顔微笑、儞作麼生會、試道看。

なんだちがいふがごとくならば、これも密語といひぬべし。しかあれども、これを不覆藏といふ、至愚のかさなれるなり。のちに世尊いはく、吾有正法眼藏涅槃妙心、附囑摩訶迦葉

かくのごとくの道取、これ有言なりや、無言なりや。世尊もし有言をきらひ、拈花を愛せば、のちにも拈花すべし。迦葉なんぞ會取せざらん、衆會なんぞ聽取せざらん。かくのごとくのともがらの説話、もちゐるべからず。

これは先に云われた「無言説にして拈花瞬目する、これ密語施設の時節なり」との言明に対する答話に当たり、迦葉の破顔微笑も無言説ならば密語と云うべきを、これは不覆蔵に処理する、実に愚の二重構造である。

「後に世尊云わく、吾有正法眼蔵涅槃妙心、附嘱摩訶迦葉。かくの如くの道取、これ有言なりや、無言なりや。世尊もし有言を嫌い、拈花を愛せば、後にも拈花すべし。迦葉なんぞ会取せざらん、衆会なんぞ聴取せざらん。かくの如くの輩の説話、用いるべからず」

世尊の迦葉への嗣法宣言とも云うべき此の句は、有言か無言かと問われ、無言の拈花が密語の本位とするなら、このように「吾れに正法眼蔵涅槃妙心有り、摩訶迦葉に附嘱す」と言わず、拈花をし続けるはずだと。迦葉も百万の大衆もそれぞれ理解し、聴いているんだとの道元禅師の解説ですが、述べんとする主旨は「有言なりや」は問い掛けのようですが、有言の密語、「無言なりや」には無言の密語を包蓄した語義がある事を承知する必要がある。

おほよそ世尊に密語あり、密行あり、密證あり。しかあるを、愚人おもはく、密は佗人のしらず、みづからはしり、しれる人あり、しらざる人ありと、西天東地、古往今來、おもひいふは、いまだ佛道の參學あらざるなり。もしかくのごとくいはば、世間出世間の學業なきもののうへには密はおほく、遍學のものは密はすくなかりぬべし。廣聞のともがらは密あるべからざるか。いはんや天眼天耳、法眼法耳、佛眼佛耳等を具せんときは、すべて密語密意あるべからずといふべし。佛法の密語密意密行等は、この道理にあらず。人にあふ時節、まさに密語をきゝ、密語をとく。おのれをしるとき、密行をしるなり。いはんや佛祖よく上來の密意密語を究辦す。しるべし、佛祖なる時節、まさに密語密行きほひ現成するなり。

いはゆる密は、親密の道理なり。無間斷なり。蓋佛祖なり。蓋汝なり、蓋自なり。蓋行なり、蓋代なり。蓋功なり、蓋密なり。密語の密人に相逢する、佛眼也覰不見なり。密行は自佗の所知にあらず。密我ひとり能知す。密佗おのおの不會す。密卻在汝邊のゆゑに、全靠密なり、一半靠密なり。

これまで同様な語釈ですが、密語の扱い方の更なる考究になります。

「おほよそ世尊に密語あり、密行あり、密証あり。しかあるを、愚人思わく、密は佗人の知らず、自らは知り、知れる人あり、知らざる人ありと、西天東地、古往今来、思い云うは、いまだ仏道の参学あらざるなり」

必ず世尊には(親)密語・(親)密行・(親)密証ありと記されますが、密行・密証ともに密語(真実語)に包含される語です。そこで愚人とは先程からの「正師の教訓を聞かざるともがら」を指しますが、一般人と言い換えても構いません。その彼らが思う密は、他人は知らず、自分だけが知り、自分と相い通ずる者だけが知ると云う考えは、西天東地(全世界)昔から今に至るまで(古往今来)、仏道を参随学道する人ではない。

「もしかくの如く云わば、世間出世間の学業なきものの上には密は多く、遍学の者は密は少なかりぬべし。広聞の輩は密あるべからざるか」

さらに愚人の考えは、学業がない人には無言の為密語が多く、遍学・広聞の人々は有言の為に密語が少ない歟との問い掛けです。

「云わんや天眼天耳、法眼法耳、仏眼仏耳等を具せん時は、すべて密語密意あるべからずと云うべし。仏法の密語密意密行等は、この道理にあらず」

さらに加えて天眼天耳等神通具現者(有言)には、密語密意は無いと云うのであろうか。問い掛けて、結論部は「仏法の密語密意密行等は、この道理にあらず」と、これまで述べてきた愚人の考察は仏法の会・不会の領域ではないとするものです。

「人に遇う時節、まさに密語を聞き、密語を説く。己を知る時、密行を知るなり。云わんや仏祖よく上来の密意密語を究辦す。知るべし、仏祖なる時節、まさに密語密行競い現成するなり」

真実人と密語・密意は同体と見据えることで、「人に遇う時節」云々の文体は理解可能で、「己れを知る時」の己れを経豪和尚は『御抄』に於いて「尽十方界の自己を指す也」と註釈されますが、先の「人」も「己れ」も同次元に位置する事象と考えられます。ですから真実語・真実態を伝附する仏祖(人)は密意・密行の実践(究辦)者である。つまり「仏祖なる時節」とは、真実の時と云っても良く、密語・密行が驢事馬事の如くに現成するなりと説かれます。

「云わゆる密は、親密の道理なり。無間断なり。蓋仏祖なり。蓋汝なり、蓋自なり。蓋行なり、蓋代なり。蓋功なり、蓋密なり。密語の密人に相逢する、仏眼也覰不見なり。密行は自佗の所知にあらず。密我ひとり能知す。密佗おのおの不会す。密却在汝辺の故に、全靠密なり、一半靠密なり」

あらためて密(語)に対する総合概説的説明になります。

「云わゆる密は、親密の道理なり。無間断なり」

秘密の密ではなく、親密である道理をあらためて提示し、その状況は虚空全体に把住する態を「無間断」と表現されます。

「蓋仏祖なり。蓋汝なり、蓋自なり。蓋行なり、蓋代なり。蓋功なり、蓋密なり」

蓋は「全なる心地」(『御抄』)とするなら、全事象を代弁する形で「仏祖」・「汝」・「代」・「功」・「密」を挙げて、密語・密行・密意を表態する文言になります。謂う所は尽十方界に於ける事象・事物が密そのものだとの意です。

「密語の密人に相逢する、仏眼也覰不見なり。密行は自佗の所知にあらず。密我ひとり能知す。密佗おのおの不会す。密却在汝辺の故に、全靠密なり、一半靠密なり」

密語も密人も共に尽界に在する真実現成態が相逢するわけですから、何ら変位は介しないわけですから、仏眼でも覰ることは出来ないと。

「密行は自佗の所知にあらず」とは密語の密人に相逢する同様、密つまり真実態が真実態を行ずる・密が密自身又は全自己が全自己するとも表明でき、その時点では自や他の関与されるべき問題ではない事になります。

「密我ひとり能知す」も言用を変えただけで、密行の行を我に置き換えたにすぎず、密佗の佗も同様に解し「おのおの不会す」の不会は勿論「仏法上の不会なるべし」(『御抄』)と経豪和尚もあらためて念押しの確認事項です。

「密却在汝辺」の読みは、「密は却って汝の辺に在る」と自分自身が密との意で、密の真実態は日常底そのものを「全靠密」・「一半靠密」と記されますが、全密・半密とも言い替えられ、「靠」は依りかかるの意になりますが、この場合の「全」も「半」も同義語として扱います。「会」「不会」の関係と同様です。

かくのごとくの道理、あきらかに功夫參學すべし。おほよそ爲人の處所、辦肯の時節、かならず擧似密なる、それ佛々祖々の正嫡なり。而今是甚麼時節のゆゑに、自己にも密なり、佗己にも密なり。佛祖にも密なり、異類にも密なり。このゆゑに、密頭上あらたに密なり。かくのごとくの教行證、すなはち佛祖なるがゆゑに、透過佛祖密なり。しかあれば透過密なり。

「かくのごとくの道理」とは全靠密を指し、自己が密そのものを説くわけですから、坐禅の用語は何も語ってはいませんが、只管打坐の行法を示唆したものとも言えるものです。

「おおよそ為人の処所、辦肯の時節、必ず挙似密なる、それ仏々祖々の正嫡なり」

為人とは、人に教えて説く事・説法する事を云い、辦肯は辦道に通じ、挙似密とは密(真実・真理)と自己とが一体である事を云うもので、その状態を「仏々祖々の正嫡」と結論づけます。

而今是甚麼時節の故に、自己にも密なり、佗己にも密なり。仏祖にも密なり、異類にも密なり。この故に、密頭上新たに密なり」

而今是甚麼時節とは、今この時が全てを包含・包蓄する状況ですから、「自己」「佗己」「仏祖」「異類」とあらゆる現成が「甚麼」に含意されますから、密に密を重ねた言句として「密頭上」と表現されます。

「かくの如くの教行証、即ち仏祖なるが故に、透過仏祖密なり。しかあれば透過密なり」

教え・修行・さとりの三昧一体現成が「仏祖」ですから、仏祖密とすべきを「透過仏祖密」と仏祖を超えたる喩えを以て示されますが、向上仏祖密とも云い得る言辞でありますが、更なる文字解体により「透過密」なる語言で以て『密語』巻の主体文は終わり、最終段落に入ります。

 

    第三段

雪竇師翁示衆曰、世尊有密語 迦葉不覆藏 一夜落花雨 滿城流水香

而今雪竇道の一夜落花雨、滿城流水香、それ親密なり。これを擧似して、佛祖の眼睛鼻孔を撿點すべし。臨濟徳山のおよぶべきところにあらず。眼睛裏の鼻孔を參開すべし、耳處の鼻頭を尖聰ならしむるなり。いはんや耳鼻眼睛裏ふるきにあらず、あらたなるにあらざる渾身心ならしむ。これを花雨世界起の道理とす。師翁道の滿城流水香、それ藏身影彌露なり。かくのごとくあるがゆゑに、佛祖家裏の家常には、世尊有密語、迦葉不覆藏を參究透過するなり。七佛世尊、ほとけごとに、而今のごとく參學す。迦葉釋迦、おなじく而今のごとく究辦しきたれり。

ここで提示する話則は『嘉泰普灯録』十七に記載される「慶元府雪竇足庵智鑒禅師」(1105―1192)による上堂語ですが、雪竇の弟子は天童如浄(1162―1227)、次に道元禅師(1200―1253)と嗣続されますから、雪竇師翁と敬称で以て書き記すわけです。

而今雪竇道の一夜落花雨、満城流水香、それ親密なり。これを挙似して、佛祖の眼睛鼻孔を撿點すべし。臨濟徳山のおよぶべきところにあらず」

雪竇が説く「一夜」「落花」「雨」「満城」「流水」「香」は自然界に於ける真実態を表徴することから親密なりと規定されます。『聞書』では「この世尊有密語と、迦葉不覆蔵との間の相い通ずる事、一夜の雨によりて満城流水なる程の道理也。―中略―密語不覆蔵は落花流水香也。世尊迦葉は一夜雨満城也」また『御抄』にては「世尊有密語と一夜落花雨のことばと、迦葉不覆蔵と満城流水香のことば、かくの如く談ずるを仏法と云う也」と云うように註解されます。

雪竇の説く偈は仏祖全体(眼睛鼻孔)を表徴したものであるから点検しなさいと、雪竇の優位性を強調する為、臨濟・徳山を引き合いに出したものです。

この臨濟・徳山の用例は『即心是仏』『仏向上事』『葛藤』『仏道』『無情説法』『大修行』等各巻にても援用されます。

「眼睛裏の鼻孔を参開すべし、耳処鼻頭を尖聡ならしむるなり。云わんや耳鼻眼睛裏古きにあらず、新たなるにあらざる渾身心ならしむ。これを花雨世界起の道理とす。師翁道の満城流水香、それ蔵身影弥露なり」

先に眼睛鼻孔は全体を云うものとしましたが、ここでの「眼睛裏の鼻孔」とは、生命活動の実態、つまり尽十方界真実人体である自己を参学開発し、さらに「耳処の鼻頭尖聡」と語彙を変え、自然のリズムに同調せよとの論述です。

この自然の活動(耳鼻眼睛裏)は常に動的平衡状態で以て全体を維持している為、「古きにあらず、新たにあらず、渾身心」と説かれ、この日常底を雪竇の法語で以て「花雨世界起」と花開世界起に掛けてのものです。さらに「満城流水香」を先の動的平衡的な日常と見立て、不覆蔵を捩って「蔵身」つまり密は「影弥露」と真実が常にむき出しとの拈提になりますが、孫師匠に当たる雪竇の偈頌を巧みに駆使した文章です。

「かくの如くあるが故に、仏祖家裏の家常には、世尊有密語、迦葉不覆蔵を参究透過するなり。七仏世尊、ほとけごとに、而今の如く参学す。迦葉釈迦、同じく而今の如く究辦しきたれり」

この巻の最終結論になります。

これまで説いているように、仏祖(真実態)の家常(日常)は「世尊有密語、迦葉不覆蔵」を「参究透過」と、前段では透過密と前句に附言しますから、この段では参究透過と後句に附しての言辞で、自在闊達な言語構築になります。

七仏世尊はそれぞれに参究透過・透過参究し、同じく釈迦牟尼仏を「密語」と摩訶迦葉を「不覆蔵」と参究辦道して来たように、日常底の真実態である「密語」に努めよとの拈提になります。

爾時寛元元年癸卯九月二十日在越州吉田県吉峰古精舎示衆