正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵如来全身

正法眼蔵第六十五 如来全身

爾時、釋迦牟尼佛、住王舎城耆闍崛山、告藥王菩薩摩訶薩言、藥王、在々處々、若説若讀、若誦若書、若經巻所住之處、皆應起七寶塔、極令高廣嚴飾。不須復安舎利、所以者何。此中已有如來全身、此塔應以一切華香瓔珞、蓋幢幡、妓樂歌頌、供養恭敬、尊重讚歎。若有人得見此塔、禮拝供養、當知、是等皆近阿耨多羅三藐三菩提。

いはゆる經巻は、若説これなり、若讀これなり、若誦これなり、若書これなり。經巻は實相これなり。應起七寶塔は、實相を塔といふ。極令の高廣、その量かならず實相量なり。此中已有如來全身は、經巻これ全身なり。

しかあれば、若説若讀、若誦若書等、これ如來全身なり。一切の華香瓔珞、繒蓋幢幡、妓樂歌頌をもて供養恭敬、尊重讚歎すべし。あるいは天華天香、天繒蓋等なり。みなこれ實相なり。あるいは人中上華上香、名衣名服なり。これらみな實相なり。供養恭敬、これ實相なり。起塔すべし。

不須復安舎利といふ、しりぬ、經巻はこれ如來舎利なり、如來全身なりといふことを。まさしく佛口の金言、これを見聞するよりもすぎたる大功徳あるべからず。いそぎて功をつみ、徳をかさぬべし。もし人ありて、この塔を禮拝供養するは、まさにしるべし、皆近阿耨多羅三藐三菩提なり。この塔をみんとき、この塔を誠心に禮拝供養すべし。すなはち阿耨多羅三藐三菩提に皆近ならん。近は、さりて近なるにあらず、きたりて近なるにあらず。阿耨多羅三藐三菩提を皆近といふなり。而今われら受持讀誦、解説書冩をみる、得見此塔なり。よろこぶべし、皆近阿耨多羅三藐三菩提なり。

本則は『法華経』十・法師品を典拠とし道元禅師独自な法華解釈が展開されます。

「いはゆる経巻は、若説これなり、若読これなり、若誦これなり、若書これなり。経巻は実相これなり。応起七宝塔は、実相を塔といふ。極令の高広、その量かならず実相量なり。此中已有如来全身は、経巻これ全身なり。」

「経巻」は五千四十八の数量を云うのではなく、眼前に現成するものを「経巻」と呼び別名「実相」であるとの言で、その五千四十八の無量数のなかに「若説」があり「若読」「若誦」「若書」という状態があるとの拈提で、さらに次句に云う「応起七宝塔」(まさに七宝塔を起つべし)とは解せず実相が「塔」であると。この場合の「実相」は真実相を云うものです。同じく「高広」塔の縦横の単位も「極量」無辺際を実相と名づけ、「此中已有如来全身」の拈語として塔―如来―経巻―全身の同等性を導く為の提唱です。

「しかあれば、若説若読、若誦若書等、これ如来全身なり。一切の華香瓔珞、繒蓋幢幡、妓楽歌頌をもて供養恭敬、尊重讚歎すべし。あるいは天華天香、天繒蓋等なり。みなこれ実相なり。あるいは人中上華上香、名衣名服なり。これらみな実相なり。供養恭敬、これ実相なり。起塔すべし。」

先に塔―如来―経巻―全身の一体性を説き、若説等は実相と説きますから、おのづと「如来全身」も真実相つまり実相を意味しますから、「若説若読、若誦若書これ如来全身なり」は必然の論法です。

続けて経文に従い、華香等をもて如来を供養恭敬尊重讃嘆すべしと説き、これら「華香瓔珞、繒蓋幢幡」といわれる荘厳物も「実相」であると、如来全身に加味します。

さらに人界の上等な華香や衣服も「実相」さらに「供養恭敬」という精神的要素までも「実相」に位置づけ、実際的には塔を起てなさいと、前日提唱の『発菩提心』巻に連関する内容となります。

「不須復安舎利といふ、しりぬ、経巻はこれ如来舎利なり、如来全身なりといふことを。まさしく仏口の金言、これを見聞するよりもすぎたる大功徳あるべからず。いそぎて功をつみ、徳をかさぬべし。もし人ありて、この塔を礼拝供養するは、まさにしるべし、皆近阿耨多羅三藐三菩提なり」

「不須復安舎利」(須らく復た舎利を安(お)くべからず)に対する拈提で、仏舎利は仏徒にとっては真実相そのものですから、「経巻」「如来舎利」「如来全身」との実相に配します。

「もし人ありて」以下は経文に則った訓読で、「皆近阿耨多羅三藐三菩提」をそのまま付言した意味は、「急ぎて功を積み徳を重ねた」結果が阿耨多羅三藐三菩提に近づくのではなく、すでに阿耨菩提との同期を説くものです。

「この塔をみんとき、この塔を誠心に礼拝供養すべし。すなはち阿耨多羅三藐三菩提に皆近ならん。近は、さりて近なるにあらず、きたりて近なるにあらず。阿耨多羅三藐三菩提を皆近といふなり。而今われら受持読誦、解説書写をみる、得見此塔なり。よろこぶべし、皆近阿耨多羅三藐三菩提なり」

先に云う同期性を「阿耨多羅三藐三菩提に皆近」と丁寧に説かれます。さらに同様に「近は去りて近なるにあらず、来りて近なるにあらず」と喩えを変え、「皆近」と「阿耨菩提」の同期を再三に説かれます。

続いての「受持読誦解説書写」「得見此塔」「阿耨菩提」は拈提をまとめ上げた結語で、拈提始めに経巻は若説若読若誦若書。経巻は実相。実相を塔から本則の「得見此塔」を導き、再度「皆近阿耨多羅三藐三菩提なり」との言説です。

 

しかあれば、經巻は如來全身なり、經巻を禮拝するは如來を禮拝したてまつるなり。經巻にあふたてまつるは如來にまみえたてまつるなり。經巻は如來舎利なり。かくのごとくなるゆゑに、舎利は此經なるべし。たとひ經巻はこれ舎利なりとしるといふとも、舎利はこれ經巻なりとしらずは、いまだ佛道にあらず。而今の諸法實相は經巻なり。人間天上、海中虚空、此土佗界、みなこれ實相なり。經巻なり、舎利なり。舎利を受持讀誦、解説書冩して開悟すべし、これ或從經巻なり。古佛舎利あり、今佛舎利あり。辟支佛舎利あり、轉輪王舎利あり、獅子舎利あり。あるいは木佛舎利あり、絵佛舎利あり、あるいは人舎利あり。現在大宋國諸代の佛祖、いきたるとき舎利を現出せしむるあり、闍維ののち舎利を生ぜる、おほくあり。これみな經巻なり。

この段はこれまで説いてきた事項を再確認するもので、「経巻」を主題に置いて「如来全身」・「礼拝」・「如来舎利」をそれぞれ放射状に設(しつら)い、一体性の再確認が「しかあれば経巻は如来全身なりー中略―舎利は此経なるべし」の拈提部です。

「経巻はこれ舎利なりとしるといふとも、舎利はこれ経巻なりとしらずは、いまだ仏道にあらず」

この論法は普段の会話では成り立たず、まさに仏法上での解会法で主客を同一視した視点です。

而今の諸法実相は経巻なり。人間天上、海中虚空、此土佗界、みなこれ実相なり。経巻なり、舎利なり」

これも前々句を別様に言い換えたもので、「諸法実相」に焦点を当てた拈語です。

「舎利を受持読誦、解説書写して開悟すべし、これ或從経巻なり」

前句の「実相は経巻・舎利なり」を承けてのもので、最初に「経巻は若説若読」云々としますから、経巻舎利を実相と説くわけですから、舎利を受持読誦の文体となり「開悟」と「或従経巻」の語を付加したものです。

「古仏舎利あり、今仏舎利あり。辟支仏舎利あり、転輪王舎利あり、獅子舎利あり。あるいは木仏舎利あり、絵仏舎利あり、あるいは人舎利あり」

ここでは真実の「舎利」の様相を包摂的に列挙されます。

「現在大宋国諸代の仏祖、いきたるとき舎利を現出せしむるあり、闍維ののち舎利を生ぜる、おほくあり。これみな経巻なり。」

強豪和尚は「生きたる時舎利を現出する」の註解として「現身には舎利はあるなり、則ち宏智古仏は髪を剃らず長髪なり、ある時大慧宋杲、宏智の剃髪するに、髪の根に舎利あり硬く剃れず」(『御抄』)とあるが、この話は詮慧和尚『聞書』には見えず、強豪はどのような経緯で宏智の話としたかは不明であるが、これまでの提唱の流れからすると「舎利」は実相・真実の事ですから、このような「生きたる時舎利出現」とは全機的生き方を示唆する言句だと思われます。

「闍維」とは荼毘・焚焼を云い、焼却のあとに舎利(骨)が生じるとは何ら異はなく、最後に「これ(舎利)みな経巻なり」と最初の拈提文「経巻は若説これなり」と「経巻」の語で締め括る文章です。

 

釋迦牟尼佛告大衆言、我本行菩薩道、所成壽命、今猶未盡、復倍上數。

いま八斛四斗の舎利は、なほこれ佛壽なり。本行菩薩道の壽命は、三千大千世界のみにあらず、そこばくなるべし。これ如來全身なり、これ經巻なり。

提唱本則は『法華経』十六・如来寿量品「諸善男子。我本行菩薩道。所成寿命。今猶未尽。復倍上数。然今非実滅度」からの引用で、拈提文は釈迦の骨量の「八斛四斗の舎利は猶これ仏寿なり」から始まりますが、この「八斛(こく)四斗(と)は『景徳伝灯録』一・釈迦牟尼仏章の最後部に「爾時金棺従坐而挙高七多羅樹。往反空中化火三昧須臾灰生。得舎利八斛四斗」と記されます。この量は無量数の喩えを云うものですが、因みに「斛」は「石」と同義語で合・升・斗・斛(石)と量が変わり、一升は一、五キロですから一〇倍の十五キロが一斗で、その一〇倍百五十キロが一斛ですから、その八倍の一万二千キロつまり十二トンとなります。

定量の仏寿を説いたわけですから本則に説く「本行菩薩道」の寿命も、当然「三千大千世界のみにあらず、そこばく(たくさん)なるべし」と同じく無定量を言い、これらの「仏寿」も「寿命」も共に「如来全身」または「経巻」という真実であると拈提されます。

 

智積菩薩いはく、我見釋迦如來、於無量劫、難行苦行、積功累徳、求菩薩道、未曾止息。觀三千大千世界、乃至無有如芥子許、非是菩薩捨身命處。然後乃得爲衆生故、成菩提道。

はかりしりぬ、この三千大千世界は、赤心一片なり、虚空一隻なり。如來全身なり。捨未捨にかゝはるべからず。舎利は佛前佛後にあらず、佛とならべるにあらず。無量劫の難行苦行は、佛胎佛腹の活計消息なり、佛皮肉骨髓なり。すでに未曾止息といふ、佛にいたりてもいよいよ精進なり。大千界に化してもなほすゝむるなり。全身の活計かくのごとし。

正法眼藏如來全身第六十五

爾時寛元二年甲辰二月十五日在越州吉田縣吉峰精舎示衆

提唱本則は同じく『法華経』十二・提婆達多品からの引用ですが、前頁経文は龍女成仏を疑っての本則文です。

「はかりしりぬ、この三千大千世界は、赤心一片なり、虚空一隻なり。如来全身なり。捨未捨にかゝはるべからず」

ここでの「三千大千世界」は前段の拈提部にある「本行菩薩道の寿命は三千大千世界のみにあらず」も連関させての本則拈提です。

三千大千世界は尽十方界で真実を表徴するものですから、おのづと「赤心一片」・「虚空一隻」・「如来全身」と真実ばかりで有り、本則で云う「菩薩捨身命処」に絡ませて「捨未捨」に関わるべからずと説かれます。

「舎利は仏前仏後にあらず、仏とならべるにあらず。無量劫の難行苦行は、仏胎仏腹の活計消息なり、仏皮肉骨髓なり」

ここに云う「舎利」は仏骨ではなく、真実態としての「如来」「経巻」等に列なる舎利ですから、「仏前」が真実であったり「仏後」が真実であったりはしません。尽界が舎利(真実)との事ですから。以下の「無量劫の難行苦行」云々は、同様の喩えを「仏胎仏腹」や「仏皮肉骨髄」と説くものです。

「すでに未曾止息といふ、仏にいたりてもいよいよ精進なり。大千界に化してもなほすゝむるなり。全身の活計かくのごとし」

先程から云うように真実義を名詞句語に置き換えての提唱ですから、真実態を「止息」できる・できないの問題ではありません。宇宙の鼓動は人間の力量以前の問題ですから。

「仏に至りてもいよいよ精進」は菩薩道を説き、「大千界に化しても勧める」も教化し続ける菩薩道を示し、最後にこの巻は如来全身の標題ですから、「全身の活計」という真実は三千大千世界に遍満しているとの提唱文です。