正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵礼拝得髄

正法眼蔵第二十八 礼拝得髄

    一

修行阿耨多羅三藐三菩提の時節には、導師をうることもともかたし。その導師は、男女等の相にあらず、大丈夫なるべし、恁麼人なるべし。古今人にあらず、野狐精にして善知識ならん。これ得髓の面目なり、導利なるべし。不昧因果なり、儞我渠なるべし。すでに導師を相逢せんよりこのかたは、萬縁をなげすてて、寸陰をすごさず精進辦道すべし。有心にても修行し、無心にても修行し、半心にても修行すべし。しかあるを、頭燃をはらひ、翹足を學すべし。かくのごとくすれば、訕謗の魔儻にをかされず、斷臂得髓の祖、さらに佗にあらず、脱落身心の師、すでに自なりき。

この巻は七十五巻本では第二十八に配列され六十巻本には含まれないが、そこには当巻の男女平等論は中世に於ける日本社会では受け入れ難い面を考慮したのかもしれない。

さらに此の巻で云える事実は、男女平等論もさることながら、在家居士に対する評価である。他方『三十七品菩提分法』巻に於ける徹底した「在家の学道と出家の学道」との峻別であるが、『礼拝得髄』巻は延応二年(1240)三月七日と『現成公案』巻等の第一群類を初期とすれば中期に提示されたものであり、『三十七品菩提分法』巻の寛元二年(1244)二月の示衆は大仏寺移転に伴う為の集中講義であるかのような謂わば後期と仮定するならば、その間には明らかな考え方の相違が無きにしも有らずの感がするものと問題提起するものである。

「修行阿耨多羅三藐三菩提の時節には、導師を得る事最も難し。その導師は、男女等の相にあらず、大丈夫なるべし、恁麼人なるべし。古今人にあらず、野狐精にして善知識ならん。これ得髄の面目なり、導利なるべし。不昧因果なり、你我渠なるべし」

冒頭の「修行阿耨多羅三藐三菩提」としますが、修行する阿耨菩提とする方が言葉のリズムとしては調子が良く聞こえます。阿耨多羅三藐三菩提はサンスクリット語anuttara-samyak-sambodhiの音写で、意訳としては無上正等正覚などと訳されますが普通は阿耨菩提と称し、真理や悟りの象徴語として使われます。ともかくも修行する真理の時節には導いてくれる師に出会う事の重要性を説くものです。

その導師(指導者)は男女等の外面ではなく大丈夫なるべしと続く訳ですが、「大丈夫」を「男子の美称。大乗の根器を備える士」(『禅学大辞典』八〇一)とされますが、ここは仏十号にも有るように調御丈夫なる仏と解する方が理に適うと思われる。もちろん、ここでの仏は釈尊の固有名詞ではなく、真実態を具現する立派な人の意ですから男女は問えないわけで、それを恁麽人つまり限定されない真実人ですから、大丈夫人の異称になるわけです。

「古今人」は尋常の人・今の世人と解して、大丈夫人は尋常の人ではなく、「夜狐精にして善知識ならん」とは意味が通じないように思われるが、夜狐精つまり畜生でも善知識であれば、導師に適合するとの言辞で、畜生が師匠であっても可也とは固定概念の払拭と共に、目指すは善知識であり外観には捉われない道元禅師の仏法観が窺えます。

このような善知識に出会い、阿耨菩提をを修行する事が「得髄の面目」であり、導利(ご利益)があり、「不昧因果」というのは導師(大丈夫)の条件であります。と云いますのは因果に昧(くら)からずとは、因果の歴然性に従うわけですから宇宙一杯に生きる徳人となります。その徳人は你であれ我であれ渠(かれ)であろうと構わない。との意ですが、「你我渠」は洞山「過水の偈」では「切忌従他覓、迢迢与我疎。我今独自往、処処得逢渠。渠今正是我、我今不是渠。応須恁麽会、方得契如如」(点筆者)(切に忌む他に従いて覓むるを、迢迢として我れと疎なり。我れ今独り往く、処処に渠に逢うを得たり。渠は今正に是れ我れ、我れは今是れ渠れにあらず。応に須く恁麽に会して、方(はじ)めて如如に契うを得ん)を参照したもので、我(現実態の自己)と渠(本来身)の関係性を不一不離と説くもので、現実態の自己は本来身を離れて存在しないが、しかしながら本来身が現実態に同化する事はない。

この趣意を当巻では礼拝得髄の対象を、「我・渠・你なるべし」との同化・不同化を以て導師の適合性を計られます。

「すでに導師を相逢せんよりこのかたは、万縁を投げ捨てて、寸陰を過さず精進辦道すべし。有心にても修行し、無心にても修行し、半心にても修行すべし。しか有るを、頭燃を払い、翹足を学すべし。かくの如くすれば、訕謗の魔儻に侵されず、断臂得髄の祖、さらに他にあらず、脱落身心の師、すでに自なりき」

文章のままに解すると、自身が真の師匠と仰げる人との相い逢するの喩えは、自身の如浄和尚との邂逅する状況を想い出しながらのもので、心が有であろうが無であろうが、はたまた半であろうが二もなく三もなく修行すべし。と面前する雲衲に語りかけの様子が窺われます。

その修行の具体事例では頭燃を払う如く、間髪入れず身体を動かし、また前生譚の如くに聞法の際には、翹足(つま先立ち)を七日七夜に渉り行う修行法をも学びなさい。

このように寸暇を惜しみ、精進辦道するならば、仏道を謗る魔儻も近寄らず、「断臂得髄の祖」の慧可も他人ではなく、「脱落身心の師」つまり如浄和尚も「すでに自なりき」と、如浄との関係をも「你・我・渠なるべし」の範疇に入らしむものです。

髓をうること、法をつたふること、必定して至誠により、信心によるなり。誠信ほかよりきたるあとなし、内よりいづる方なし。たゞまさに法をおもくし、身をかろくするなり。世をのがれ、道をすみかとするなり。いさゝかも身をかへりみること法よりもおもきには、法つたはれず、道うることなし。その法をおもくする志気、ひとつにあらず。佗の教訓をまたずといへども、しばらく一二を擧拈すべし。いはく、法をおもくするは、たとひ露柱なりとも、たとひ燈籠なりとも、たとひ諸佛なりとも、たとひ野干なりとも、鬼神なりとも、男女なりとも、大法を保任し、吾髓を汝得せるあらば、身心を床座にして無量劫にも奉事するなり。身心はうることやすし、世界に稻麻竹葦のごとし、法はあふことまれなり。

「髄を得る事、法を伝うる事、必定して至誠により、信心によるなり。誠信ほかより来たるあとなし、内より出づる方なし。只まさに法を重くし、身を軽くするなり」

「法を重くする」とは戒法を保持する事であるが、ここでの戒は大乗戒つまり尽界に遍満する現成の真実態を、保任するを法を重くすると言い、「身を軽くする」とは愛執を伴う者との決別を意味するものですが、これら二項が出来ない学人には髄を得ることも法を伝える事も、誠信が有っても覚束ないと逆説的に云えるもので、謂う所は誠信―法重―得髄は三位一体・你我渠の間柄に為るわけです。

「世を遁れ、道を棲み家とするなり。些かも身を省みること法よりも重きには、法伝われず、道うる事なし。その法を重くする志気、ひとつにあらず。他の教訓を待たずと云えども、しばらく一二を挙拈すべし」

「世を遁れ」と口上で言うのは易きですが、実際には王法仏法相依論という語があるように、社会から離脱し洞窟にて野生の如く生きたのでは、自未得度先度他は契いませんから世俗との距離を如何に保持し迎合しないかが問題です。「道を棲み家」とは仏道を依り処にすることです。

少しでも(仏)法よりも自身の功名心などの比重が上回るならば、伝法されず(仏)道の成果はないのであるが、その仏法に比重を傾ける心持ち(志気)は一つではなく、具体例一つ二つを提示(挙拈)する。

「云く、法を重くするは、たとい露柱なりとも、たとい灯籠なりとも、たとい諸仏なりも、たとい野干なりとも、鬼神なりとも、男女なりとも、大法を保任し、吾髄を汝得せる有らば、身心を床座にして無量劫にも奉事するなり。身心は得ること易し、世界に稲麻竹葦の如し、法は逢うこと稀なり」

法を重くする為の実践的心構えを、「露柱・灯籠・諸仏・野干・鬼神・男女」えお例示し、このいづれであっても仏法を保持(任)し汝得吾髄する漢で有るならば、自身の身心(全体)を床や座に投げ出しても、無量劫(永遠)までも奉事(覲)しなければならず、この身心(体)は世界に稲麻竹葦の如く(寧波の国際貿易都市を聞見しての実感であったろう)多いが、真の仏法に巡り逢う事は盲亀浮木の譬えからも希少な出来事である。

このように、此の段にて『礼拝得髄』巻に於ける論点要旨を、阿耨菩提を得るには大丈夫・善知識なる導師に出会い、寸暇を惜しみ精進辦道し、その必須条件として誠信を維持し努力せよ。と興聖の学人に策励を求める内容です。

 

    二

釋迦牟尼佛のいはく、無上菩提を演説する師にあはんには、種姓を觀ずることなかれ、容顔をみることなかれ、非をきらふことなかれ、行をかんがふることなかれ。たゞ般若を尊重するがゆゑに、日々に百千兩の金を食せしむべし。天食をおくりて供養すべし、天花を散じて供養すべし。日々三時、禮拝し恭敬して、さらに患惱の心を生ぜしむることなかれ。かくのごとくすれば、菩提の道、かならずところあり。われ發心よりこのかた、かくのごとく修行して、今日は阿耨多羅三藐三菩提をえたるなり。しかあれば、若樹若石もとかましとねがひ、若田若里もとかましともとむべし。露柱に問取し、牆壁をしても參究すべし。むかし、野干を師として禮拝問法する天帝釋あり、大菩薩の稱つたはれり、依業の尊卑によらず。しかあるに、不聞佛法の愚痴のたぐひおもはくは、われは大比丘なり、年少の得法を拝すべからず、われは久修練行なり、得法の晩學を拝すべからず、われは師号に署せり、師号なきを拝すべからず、われは法務司なり、得法の餘僧を拝すべからず、われは僧正司なり、得法の俗男俗女を拝すべからず、われは三賢十聖なり、得法せりとも、比丘尼等を禮拝すべからず、われは帝胤なり、得法なりとも、臣家相門を拝すべからずといふ。かくのごとくの癡人、いたづらに父國をはなれて佗國の道路に跰するによりて、佛道を見聞せざるなり

これより五則の話頭を提示し、それに対する拈提の形で論じられます。

釈迦牟尼仏の云く、無上菩提を演説する師に逢わんには、種姓を観ずる事なかれ、容顔を見る事なかれ、非を嫌う事なかれ、行を考うる事なかれ。ただ般若を尊重するが故に、日々に百千両の金を食せしむべし。天食を送りて供養すべし、天花を散じて供養すべし。日々三時、礼拝し恭敬して、さらに患悩の心を生ぜしむる事なかれ。かくの如くすれば、菩提の道、必ず処あり。われ発心よりこのかた、かくの如く修行して、今日は阿耨多羅三藐三菩提を得たるなり」

この文言の出典は不明ですが、木村清孝著『正法眼蔵・全巻解説』一七四頁で指摘される『梵網経』を手掛かりに考察することにする。

「見大乗法師大乗同学同見同行、来入僧坊舍宅城邑、若百里千里来者、即起迎来送去礼拝供養。日日三時供養、日食三両金百味飲食床座医薬供事法師、一切所須尽給与之。常請法師三時説法、日日三時礼拝、不生瞋心患悩之心、為法滅身請法不懈。」(「大正蔵」二四・一〇〇五・中)

「大乗の法師・大乗の同学・同見・同行が、僧坊(房)舍宅城邑(まち)に来たり入り、若しくは百里千里を来たる者を見たら、即ち起って迎え来たり、去る時は礼拝供養し送り出す。日日三時(朝・昼・晩)に供養し、日に食三両の金(こがね)で百味の飲食を与え、床・座・医薬品を法師に提供し、あらゆる必需品を与え給せよ。常に法師に三時の説法を請し、日日三時礼拝し、瞋り心患悩(げんのう)の心を生ぜしめず、法の為に身を滅すとも法を請うを懈(おこた)らず。」

このように『梵網経』の条目に違すれば軽垢罪に当たる文言を、道元禅師独自な鳥俯瞰視で以て礼拝恭敬の重要性を説くものに改められます。

釈迦牟尼仏が言うには、無上菩提を演説(説法)する(導)師に相見したなら、種姓(氏素性)を観ず、容顔(容貌)を見ることなく、非(道)を嫌わず、行(動)を考えてはならない。ただ般若(智慧)を尊重し、日々に百千両の金(こがね)の食供養し、天食・天花を供養する如くすべし。日々朝昼晩三度の礼拝恭敬し、患悩(患い悩む)の心を生じさせない。これらの心がけをすれば、必ず菩提道は所在する。発心より後このように修行すれば、現今に阿耨菩提を得るなり」

「しか有れば、若樹若石も説かましと願い、若田若里も説かましと求むべし。露柱に問取し、牆壁をしても参究すべし。昔、野干を師として礼拝問法する天帝釈あり、大菩薩の称伝われり、依業の尊卑によらず」

さらに釈迦仏に関連させて『涅槃経』「若樹若石」(「大正蔵」十二・六九三・上)、『法華経』随喜功徳品「若田若里」(「大正蔵」九・四六・下)の例言を引用し諸仏の供養の実態を言われるものですが、「説かましと願い、説かましと求むべし」のましの語法であるが、これは希望を表す古語となります。

さらに露柱(塗り込められていない、むき出しの柱)・牆壁にも仏法を問い参究すべきであると。つまり「樹・石・田・里」などの無機質な事物に至るまで、般若・菩提・発心を認じるは大乗仏法の恁麽・甚麽性を説くキーワード象徴するものです。

「昔、野干を師として礼拝問法する天帝釈あり、大菩薩の称伝われり」は、『未曾有因縁経』巻上(「大正蔵」十七・五七七・上)を底本に改変した文章を為すものですが、此の処で云う野干は野生動物の狐又はジャッカルを指すものではなく、外道・凡愚等の人間を云うのである。『御抄』では出典を「未曾有経・小乗経也」と記すが『聞書』にては言及せず。「依業の尊卑によらず」と、生まれの高下によらない。と説くは、先の「種姓(カースト)を観ずることなかれ」を再説するものです。

「しか有るに、不聞仏法の愚痴の類い思わくは、我は大比丘なり、年少の得法を拝すべからず、我は久修練行なり、得法の晩学を拝すべからず、我は師号に署せり、師号なきを拝すべからず、我は法務司なり、得法の余僧を拝すべからず、我は僧正司なり、得法の俗男俗女を拝すべからず、我は三賢十聖なり、得法せりとも、比丘尼等を礼拝すべからず、我は帝胤なり、得法なりとも、臣家相門を拝すべからずと云う。かくの如くの癡人、いたづらに父国を離れて他国の道路に跰するによりて、仏道を見聞せざるなり」

これまでは導師の種姓は問題視せず、たとい野干(凡愚人)で有っても礼拝問法すべき理念を説いて来ましたが、ここでは実際の娑婆世界に於ける礼拝問法の実体を、「不聞仏法の愚痴の類い」として説き明かされます。

自分は大比丘と称し年少得法を拝せず、自分は久修練行と称し得法の晩学(後輩)を拝せず、自分は師号(国師号・禅師号)を署せり師号無き者は拝せず、自分は法務司(寺務の役人)なり得法の余(ほかの)僧を拝せず、自分は僧正司(僧の不正を正す役人)なり得法の俗男俗女を拝せず、自分は三賢十聖(高位の菩薩)なり比丘尼等を礼拝せず、自分は帝胤(皇帝の血縁者)なり得法なりとも臣家相門(従僕宰相出身者)を拝せず。これらの愚人の譬えを「信解品」を参照した「いたづらに父国を離れ(逃逝)て他国の道路に跉跰(周流)するによりて、仏道を見聞せざるなり」。と不聞仏法の愚癡の漢に対する批評ですが、これらの増上慢の輩は、在宋時代を振り返ってか、それとも示衆当時(1240年)の自身での周辺事情か、はたまた道元禅師の心象描写とも解せなくもない書きぶりとも考えられます。「浙翁如琰・盤山思卓・惟一・宗月等七人の長老達の眼晴、吾よりも劣れりと思い、われに勝れる大善知識は無けりと、大驕慢を起こす。(諸本対校建撕記・河村本・十九頁)参照」

むかし、唐朝趙州眞際大師、こゝろをおこして發足行脚せしちなみにいふ、たとひ先のなりとも、われよりも勝ならば、われ、かれにとふべし。たとひ百歳なりとも、われよりも劣ならば、われ、かれををしふべし。七歳に問法せんとき、老漢禮拝すべきなり。奇夷の志気なり、古佛の心術なり。得道得法の比丘尼出世せるとき、求法參學の比丘僧、その會に投じて禮拝問法するは、參學の勝躅なり。たとへば、渇に飲にあふがごとくなるべし。

「昔、唐朝趙州真際大師、心を起して発足行脚せし因みに云う、たとい七歳なりとも、我よりも勝ならば、我、彼に問うべし。たとい百歳なりとも、我よりも劣ならば、我、彼を教うべし」

この話則は『行持』上巻では「趙州観音院真際大師従諗和尚、とし六十一歳なりしに、はじめて発心求道をこころざす。瓶錫を携えて行脚し、遍歴諸方するに、常にみづからいわく、七歳童児、若勝我者、我即問伊。百歳老翁、不及我者、我即教他。」(「正法眼蔵」一・三一二・水野・岩波文庫)と記されますが、この「行持」の奥書は仁治四年(1243)に懐奘書写了と有り、当巻は延応二年(1240)に記されますから、『趙州真際禅師語録』(「続蔵」六八・七六・上)からの「常自謂曰、七歳童児勝我者、我即問伊。百歳老翁不及我者、我即教他」を典拠としたものと考えられます。

「七歳に問法せん時、老漢礼拝すべきなり。奇夷の志気なり、古仏の心術なり。得道得法の比丘尼出世せる時、求法参学の比丘僧、その会に投じて礼拝問法するは、参学の勝躅なり。たとえば、渇に飲に会うが如くなるべし」

これが先の本則に対する拈提に当たります。

七歳の童児に得法があるなら趙州老漢は彼に礼拝するであろう。この志気は奇夷(たぐいまれ)であり、古仏の心術(心構え)である。趙州を古仏と認ずるは『行持』上巻では「古仏の家風」・『葛藤』巻では「趙州古仏」と各所で讃ずるものです。

次に比丘尼が出世しても、その尼僧の得道得法を自身の渇望の飲水に志向する学人を「参学の勝躅」とすべきであるが、現実ではままならない状況の希望的観測とも言える、道元禅師の嘆息とも聞こえる拈提文です。

震旦國の志閑禪師は臨濟下の尊宿なり。臨濟ちなみに師のきたるをみて、とりとゞむるに、師いはく、領也。臨濟はなちていはく、且放儞一頓。これより臨濟の子となれり。臨濟をはなれて末山にいたるに、末山とふ、近離甚處。師いはく、路口。末山いはく、なんぢなんぞ蓋卻しきたらざる。師、無語。すなはち禮拝して師資の禮をまうく。師、かへりて末山にとふ、いかならんかこれ末山。末山いはく、不露頂。師云、いかならんかこれ山中人。末山いはく、非男女等相。師いはく、なんぢなんぞ變ぜざる。末山いはく、これ野狐精にあらず、なにをか變ぜん。師、禮拝す。つひに發心して園頭をつとむること始終三年なり。のちに出世せりし時、衆にしめしていはく、われ、臨濟爺々のところにして半杓を得しき、末山嬢々のところにして半杓を得しき。ともに一杓につくりて喫しをはりて、直至如今飽餉々なり。

いまこの道をきゝて、昔日のあとを慕古するに、末山は高安大愚の神足なり、命脈ちからありて志閑の嬢となる。臨濟は黄檗運師の嫡嗣なり、功夫ちからありて志閑の爺となる。爺とはちゝといふなり、嬢とは母といふなり。志閑禪師の末山尼了然を禮拝求法する、志気の勝躅なり、晩學の慣節なり。撃關破節といふべし。

これよりしばらくは、比丘尼を主眼とする話則が説かれます。

「震旦国の志閑禅師は臨済下の尊宿なり。臨済ちなみに師の来たるを見て、とりとどむるに、師云く、領也。臨済離ちて云く、且放你一頓。これより臨済の子と為れり。臨済を離れて末山に到るに、末山問う、近離甚処。師云く、路口。末山云く、汝なんぞ蓋却し来たらざる。師、無語。即ち礼拝して師資の礼を設く。師、かへりて末山に問う、いかならんかこれ末山。末山云く、不露頂。師云、いかならんかこれ山中人。末山云く、非男女等相。師云く、汝なんぞ変ぜざる。末山云く、これ野狐精にあらず、なにをか変ぜん。師、礼拝す」

この話則の出典は『天聖広灯録』(「続蔵」一三五・七一二・上)からと思われます。

「一日臨済見来、遂掫(搊)住師云、領也。済便拓開云、且放汝一頓。師離臨済至末山、末山見来便問、近離什麼処。師云、近離路口。山云、何不蓋却了来。師無語。師却問云、如何是末山。山云、不露頂。師云、如何是山中人。山云、非男女等相。師云、何不変去。山云、不是野狐精、変箇什麼。師礼拝」

志閑と末山の関係を見るに、(灌渓)志閑(―895)は若くして臨済(―868)により出家とする(『天聖広灯録』)が、『景徳伝灯録』では幼年に柏巌禅師に得度し、二十歳以後臨済に接見。とするが、臨済の法を嗣いだのは事実であり、臨済の師は黄檗(―856)であるが、その黄檗の会から従兄弟筋に当たる高安大愚(生没不詳)の元で臨済は覚醒するのであるが、その大愚の弟子が尼僧である末山了然(生没不詳)であることから、末山は親戚筋のおばさんと云った間柄になるのである。

「とりとどむる」は搊住の意で、把住・擒住と同義語になり、「胸ぐらをぐっとつかむこと」を云う。「領也」は領解する・真意を会得する。「且放你一頓」は臨済が志閑に許可を与えた語で、放が許すに当たる。ですから「これより臨済の子と為れり」続くわけです。「路口」は江西省萍郷市蓮花県路口鎮と志閑が略して答えた処を、末山は志閑の力量を見る為に、「辻の入口」と捩った為に、次句では「なんで路(みち)に蓋をして来なかったのか」と末山にやり込められる羽目になり、志閑には答話の力量が粥飯不足の為に礼拝して師資の礼を為したといった趣旨です。

後半でも志閑は末山にやり込められる場面として、末山の「不露頂」の意は、山頂は常に雲に隠れて見えず、巍々堂々たる状態を指す。これに対し、志閑は「山中人とは何だ」との問いに末山は「非男女等相」との答話でわかるように、末山は志閑がまだ男か女かの比較の論議を求めるを制止させるべく「男女等の相に非ず」と釘を刺すが、志閑は勘所が悪く「末山尼はどうして(龍女や維摩の夫人の如く)男に変化しないのか」との問いには、「私は野狐ではないので、なぜ男に変化しなければならない道理があろうか」との末山の応答で、志閑はグーの音も出ず「礼拝」した、との筋になります。

「遂に発心して園頭を務むること始終三年なり。後に出世せりし時、衆に示して云く、われ、臨済爺々の処にして半杓を得しき、末山嬢々の処にして半杓を得しき。ともに一杓に成(つく)りて喫し了(おわ)りて、直至如今飽餉々なり」

この話則も先ほど同様『天聖広灯録』に依るものですが、「遂に発心して園頭を務むること始終三年なり」は先の「広灯録」にはなく、『景徳伝灯録』十一・筠州末山尼了然章(「大正蔵」五一・二八二・上)での「閑於是伏膺、作園頭三載」(是に於いて伏膺(きもにめい)じ、園頭と作ること三載たり)を、自身のことばで書き直されたものです。なお「園頭」とは茶や野菜を栽培する役目の雲衲ですが、筆者、四国の山寺に居る時期には園頭職があり、彼らの日課は常に外回りで、彼らの日焼けした顔容が今も眼前に浮かぶものである。なお『禅苑清規』(続蔵)六三・五三三・中)には園頭は道心者が務めるとある。

「後に出世せりし時」からの原文は「師住後、上堂示衆云、我在臨済爺爺処得半杓、末山孃孃処得半杓。共成一杓喫了、直至如今飽餉餉」(「続蔵」一三五・七一二・中)と為り、謂う所は臨済の親父の処で半杓、末山のお袋の処で半杓をそれぞれ得て、合計一杓の仏法を喫し終わり、直至如今に飽くこと餉餉と、十分に仏法の法味を満喫している、と云った具合です。

「今この道を聞きて、昔日の跡を慕古するに、末山は高安大愚の神足なり、命脈ちから有りて志閑の嬢となる。臨済黄檗運師の嫡嗣なり、功夫ちから有りて志閑の爺となる。爺とは父と云うなり、嬢とは母と云うなり。志閑禅師の末山尼了然を礼拝求法する、志気の勝躅なり、晩学の慣節なり。撃関破節と云うべし」

此の処が本則に対する拈提になります。

改めて末山・志閑の法脈を示すと、末山了然―高安大愚―帰宗智常―馬祖道一―南嶽懐譲―六祖慧能。灌渓志閑―臨済義玄黄檗希運―百丈懐海―馬祖道一―南嶽懐譲―六祖慧能と、このように概観するに、志閑と末山とは一世代はなれ、志閑から見れば臨済は実質的父親(爺)となり、末山尼は母親(嬢)とは云いながら義母に当たるようですから、同年輩の尼僧に対する心情よりも末山了然に対する礼拝求法も先の問答力量からして些程抵抗なく行われたからこそ、三年も園頭として務められた事と推察しますが、ここでの道元禅師の評は「志気の勝躅・晩学の慣節・撃関破節」という志閑の志気を認めるものです。

妙信尼は仰山の弟子なり。仰山ときに廨院主を選するに、仰山、あまねく勤舊前資等にとふ、たれ人かその仁なる。問答往來するに、仰山つひにいはく、信淮子これ女流なりといへども大丈夫の志気あり。まさに廨院主とするにたへたり。衆みな應諾す。妙信つひに廨院主に充す。ときに仰山の會下にある龍象うらみず。まことに非細の職にあらざれども、選にあたらん自己としては自愛しつべし。充職して廨院にあるとき、蜀僧十七人ありて、儻をむすびて尋師訪道するに、仰山にのぼらんとして薄暮に廨院に宿す。歇息する夜話に、曹谿高祖の風幡話を擧す。十七人おのおのいふこと、みな道不是なり。ときに廨院主、かべのほかにありてきゝていはく、十七頭瞎驢、をしむべし、いくばくの草鞋をかつひやす。佛法也未夢見在。ときに行者ありて、廨院主の僧を不肯するをきゝて十七僧にかたるに、十七僧ともに廨院主の不肯するをうらみず。おのれが道不得をはぢて、すなはち威儀を具し、燒香禮拝して請問す。廨院主いはく、近前來。十七僧、近前するあゆみいまだやまざるに、廨院主いはく、不是風動、不是幡動、不是心動。かくのごとく爲道するに、十七僧ともに有省なり。禮謝して師資の儀をなす。すみやかに西蜀にかへる。つひに仰山にのぼらず。

話題が妙信尼に変わり、比丘尼についての参究になります。

「妙信尼は仰山の弟子なり。仰山ときに廨院主を選するに、仰山、普く勤旧前資等に問う、たれ人かその仁なる。問答往来するに、仰山ついに云く、信淮子これ女流なりといえども大丈夫の志気あり。まさに廨院主とするに耐えたり。衆みな応諾す。妙信ついに廨院主に充す。時に仰山の会下にある龍象恨みず。誠に非細の職にあらざれども、選に当たらん自己としては自愛しつべし」

この話則の妙信尼は仰山の弟子とされますが、『祖堂集』『嘉泰普灯録』『景徳伝灯録』『続灯録』『天聖広灯録』『聯灯会要』などの「灯録」を検索しても「妙信尼」ではヒットしません。これだけ詳細な内容が記されることから、底本を並置した文章は間違いない所ですが出典不明です。因みに仰山慧寂の法嗣は十一人。その中で『景徳伝灯録』に記載あるは「光穆・景通・文喜・順支・光涌・東塔」各禅師で、もちろん妙信尼の名はありません。

文体は難解ではない為、語句の注解に当たります。

「廨院主」とは院内の収糴買売(年貢の取立て・処分)僧行の宿食(僧侶の食料や宿泊者の世話)、院内の供施・財利の収簇(供物の管理)、遠方施主の迎待(施主との応対)など寺の雑務を司る処である(『禅苑清規』「続蔵」六三・五三三・中)。「勤旧前資」勤旧は古参の僧侶・前資は前職に六知事などを歴任した僧侶を云う。「信淮子」信は妙信の略語で淮河(江南・安徽・江蘇省)の辺際の生まれである為の愛称。「非細」とは六知事(都寺

・監寺・副寺・維那・典座・直歳の東序)や六頭主(首座・書記・蔵主・知客・浴主・庫頭の西序)を云う。

「充職して廨院にある時、蜀僧十七人ありて、儻を結びて尋師訪道するに、仰山に登らんとして薄暮に廨院に宿す。歇息する夜話に、曹谿高祖の風幡話を挙す。十七人おのおの云う事、みな道不是なり。時に廨院主、壁の外(ほか)に在りて聞きて云く、十七頭瞎驢、惜しむべし、いくばくの草鞋をか費やす。仏法也未夢見在」

「蜀僧」は四川省出身僧を云うが、古くは蜀は現在の成都一帯を云う。「儻を結びて」の儻は党の間違いと思われ、「儻」の意味は「もし・あるいは・もしも・すぐれる」(インターネット・漢字辞典)・「党」の意味は「なかま・ともがら・むら」(インターネット・漢字ペディア)。「歇息」は「住宿(泊まる)・休息(休む)」(インターネット・白水社中国語辞典)。「曹谿高祖」は六祖大鑑慧能(638―713)。「風幡話」は「唐の儀鳳元年(676)正月八日広州の法性寺での、インド僧二人が寺の軒先の幡が鳴る原因を、一人は風が吹くから。一人は幡自体が動く。と論争で、曹谿高祖の云った(不是風動・亦非幡動・仁者心動)の話」。「瞎驢」は盲目な驢馬の意で、役に立たない愚鈍の譬え。

「時に行者ありて、廨院主の僧を不肯するを聞きて十七僧に語るに、十七僧ともに廨院主の不肯するを恨みず。おのれが道不得を恥じて、則ち威儀を具し、焼香礼拝して請問す。廨院主云く、近前来。十七僧、近前する歩み未だ止まざるに、廨院主云く、不是風動、不是幡動、不是心動。かくの如く為道するに、十七僧ともに有省なり。礼謝して師資の儀を為す。速やかに西蜀に帰る。遂に仰山に登らず」

「行者(あんじゃ)」とは、「寺内で諸種の用務をし、未得度のまま老尊宿等の給仕する者」。「請問」は「拝請して質問すること」。「不是風動、不是幡動、不是心動」は慧能の説く仁者心動をも排斥する妙信尼の得法であるが、経豪和尚の云い分「風動・幡動・心動と云う道理もあるべき也。無尽の理あるべし」(「註解全書」一・四四〇)と説く。

これまでが本則話頭であり、これに対する拈提が次に説かれます。

まことにこれ、三賢十聖のおよぶところにあらず、佛祖嫡々の道業なり。しかあれば、いまも住持および半座の職むなしからんときは、比丘尼の得法せらんを請ずべし。比丘の高年宿老なりとも、得法せざらん、なんの要かあらん。爲衆の主人、かならず明眼によるべし。しかあるに、村人の身心に沈溺せらんは、かたくなにして、世俗にもわらひぬべきことおほし。いはんや佛法には、いふにたらず。又女人および師姑等の、傳法の師僧を拝不肯ならんと擬するもありぬべし。これはしることなく、學せざるゆゑに、畜生にはちかく、佛祖にはとほきなり。一向に佛法に身心を投ぜんことを、ふかくたくはふるこゝろとせるは、佛法かならず人をあはれむことあるなり。おろかなる人天、なほまことを感ずるおもひあり。諸佛の正法、いかでかまことに感應するあはれみなからん。土石沙礫にも誠感の至神はあるなり。

「まことにこれ、三賢十聖の及ぶ所にあらず、仏祖嫡々の道業なり」

これより道元禅師の解説になるもので、十七人の蜀僧を讃辞する文言ですが、当初は十七頭の瞎驢と云われた僧が、妙信尼の「不是風動、不是幡動、不是心動」の本意を啐啄同時に会得し、仰山に対する未練を残すことなく西蜀に帰る志気を、三賢十聖と称する論理的解会ではなく頓悟する身心態を、「仏祖嫡々の道業」と誉め讃えられるわけです。

「しか有れば、今も住持及び半座の職虚しからん時は、比丘尼の得法せらんを請ずべし。比丘の高年宿老なりとも、得法せざらん、なんの要か有らん。為衆の主人、必ず明眼に依るべし」

妙信尼の例でもわかるように、住持(職)や住職補佐(副住職)に適任者が居ない状況では、比丘尼の得法者を任ずべきである。男僧で法臘が長いだけの得法せずの比丘になんの必要があろうか。雲衲の堂主たるの条件は、明眼ある学人によらなければならない。

この状況を現今に見るならば、一般寺院はさて置くとし、修行道場と称される処でも、得法とは無縁と思われる住持職の応対、直綴等衣服の豊富さ(春・夏・冬用×3・4種=十種類以上蓄衣)・住持好物の薬石強要等々、明眼ある人物とは思えぬ。

「しかあるに、村人の身心に沈溺せらんは、頑(かたく)なにして、世俗にも笑いぬべき事多し。云わんや仏法には、云うに足らず。又女人及び師姑等の、伝法の師僧を拝不肯ならんと擬するも有りぬべし。これは知る事なく、学せざる故に、畜生には近く、仏祖には遠きなり」

仏法の世界では男・女の区別は論ぜず、学人の得法・明眼を問うものですが、世俗人(村人)の男女の相に固執(沈溺)する様子(跡継ぎなどの男尊女卑)は、世俗でも笑うべき事が多いが、仏法の世界に於いても、いかに云わんやである。

また増上慢な女人(貴胤)や師姑(年輩の尼僧)などが、伝(得)法の師僧(男僧)を礼拝しない事情もあるが、これは驕慢な心を生じた為、仏法を認知できず参学しない為に生じた業相とも呼ぶべきもので、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の中でも修羅を飛び越えた畜生に近く、仏祖には程遠き存在である。

「一向に仏法に身心を投ぜん事を、深く蓄うる心とせるは、仏法必ず人を憐れむ事あるなり。愚かなる人天、なお誠を感ずる思いあり。諸仏の正法、如何でか誠に感応する哀れみ無からん。土石沙礫にも誠感の至神は有るなり」

驕(本能的驕り)慢(意識下での驕り)の徒輩は、畜生に入り易く仏祖に縁遠くの言でしたが、誠心・浄信で仏法を勤修する学人には、必ず仏法側から近接するものである。

諸仏の仏法では、どうして(いかでか)一向に仏法に身心を投じても、真実に感応(道交)する憐れみが無いであろうか。たとい土石沙礫に於いてさえ、誠の感応の至神は有るものである。

見在大宋國の寺院に、比丘尼の掛搭せるが、もし得法の聲あれば、官家より尼寺の住持に補すべき詔をたまふには、即寺にて上堂す。住持以下衆僧、みな上參して立地聽法するに、問話も比丘僧なり。これ古來の規矩なり。得法せらんはすなはち一箇の眞箇なる古佛にてあれば、むかしのたれにて相見すべからず。かれわれをみるに、新條の特地に相接す。われかれをみるに、今日須入今日の相待なるべし。たとへば、正法眼藏を傳持せらん比丘尼は、四果支佛および三賢十聖もきたりて禮拝問法せんに、比丘尼この禮拝をうくべし。男兒なにをもてか貴ならん。虚空は虚空なり、四大は四大なり、五蘊五蘊なり。女流も又かくのごとし、得道はいづれも得道す。たゞし、いづれも得法を敬重すべし、男女を論ずることなかれ。これ佛道極妙の法則なり。

「見在大宋国の寺院に、比丘尼の掛搭せるが、もし得法の声あれば、官家より尼寺の住持に補すべき詔を賜うには、即寺にて上堂す。住持以下衆僧、みな上参して立地聴法するに、問話も比丘僧なり。これ古来の規矩なり」

比丘尼の即寺(掛搭した寺)に於いての上堂説法する場面を、実際にご覧になったような書きぶりですが、『永平広録』には二か所一六一則・寛元四年(1246)に大仏寺に於いて恵信比丘尼が亡父の為、三九一則・建長二年(1250)に永平寺に於いて比丘尼懐義が亡母の為に上堂を請するものですが、説法当時(1240年50年代)の日本では記すような尼僧に対する社会的セイフティーネット的制度が存在したのでしょうか。

因みに『行持』上巻には宏智和尚在住の時には「覚和尚の住裡に、道士観・尼寺・教院等を掃除」の文言が記される。

「得法せらんは即ち一箇の真箇なる古仏にて有れば、昔の誰にて相見すべからず。彼われを見るに、新条の特地に相接す。我かれを見るに、今日須入今日の相待なるべし。たとえば、正法眼蔵を伝持せらん比丘尼は、四果支仏及び三賢十聖も来たりて礼拝問法せんに、比丘尼この礼拝を受くべし。男児何を以てか貴ならん。虚空は虚空なり、四大は四大なり、五蘊五蘊なり。女流も又かくの如し、得道はいづれも得道す。但し、いづれも得法を敬重すべし、男女を論ずる事なかれ。これ仏道極妙の法則なり」

この文章から思い浮かぶ事例は、南嶽が馬祖に与えた偈「勧君莫揮帰郷、帰郷道不行。並舎老婆子、説汝旧時名。」でありますが、ここでは比丘同士・比丘比丘尼の間柄、又は比丘尼同士の場合が考えられますが、いづれに於いても昔からの知り合い・旧友同士的関係では、得法(伝法)したからと云っても、日常茶飯の日常底にての礼拝問法は互いにエン慮しがちに為りますが、娑婆(世俗)世界を脱した仏法世界での行持である自覚が双方ともに必要である。

文意は難なく解せられ、これまでの主意は「得法を敬重し、男女を論じない事が、仏道極妙の法則」である。との一語に尽きるもので、次には居士(優婆塞・梵語ウパシカ)についての考察です。

 

    三

又、宋朝に居士といふは、未出家の士夫なり。庵居して夫婦そなはれるもあり、又孤獨潔白なるもあり。なほ塵勞稠林といひぬべし。しかあれども、あきらむるところあるは、雲衲霞袂あつまりて禮拝請益すること、出家の宗匠におなじ。たとひ女人なりとも、畜生なりとも、又しかあるべし。佛法の道理いまだゆめにもみざらんは、たとひ百歳なる老比丘なりとも、得法の男女におよぶべきにあらず。うやまふべからず。たゞ賓主の禮のみなり。佛法を修行し、佛法を道取せんは、たとひ七歳の女流なりとも、すなはち四衆の導師なり、衆生の慈父なり。たとへば龍女成佛のごとし。供養恭敬せんこと、諸佛如來にひとしかるべし。これすなはち佛道の古儀なり。しらず、單傳せざらんは、あはれむべし。

「又、宋朝に居士と云うは、未出家の士夫なり。庵居して夫婦備われるも有り、又孤独潔白なるも有り。なお塵勞稠林と云いぬべし。しか有れども、明らむる処あるは、雲衲霞袂集まりて礼拝請益する事、出家の宗匠に同じ。たとい女人なりとも、畜生なりとも、又しか有るべし」

敢えて注解・解説の必要はありません。冒頭でも言及しましたが、改めて「居士」に対する捉え方を考察します。

第十五『光明』巻(仁治三年1242)「ときに一臣あり、韓愈文公なり。字は退之と云う。かつて仏祖の席末に参学しきたれりー中略―これ在家の士俗なりと云えども、丈夫の志気あり」(「正法眼蔵」一・二八八・水野・岩波文庫)。第二十一『授記』巻(仁治三年1242)「維摩道の於正位中、亦無受記は、正位即受記を知らざるが如し、正位即菩提と云わざるが如し」(「同」二・八〇)。第二十五『渓声山色』巻(延応二年1240)「東坡居士蘇軾とて有りしは、字は子瞻と云う。筆海の真龍なりぬべし、仏海の龍象を学す」(「同」二・一〇七)。第三十五『神通』巻(仁治二年1241)「龐居士蘊公は、祖席の偉人なり。江西石頭の両席に参学せるのみにあらず、有道の宗師多く相見し、相逢し来たる」(「同」二・三二〇)

第六十『三十七品』巻(寛元二年1244)「維摩居士の仏出世時に逢うし、道未尽の法多し。学未到少なからず。龐薀居士が祖席に参歴せし、薬山の堂奥を許されず、江西に及ばず。只わづかに参学の名を盗めりと云えども、参学の実あらざるなり」(「同」三・二九六)。『出家功徳』巻「盧居士はすでに親を辞して祖となる、出家の功徳なり。龐居士は宝を捨てて塵を捨てず、至愚なりと云うべし」。

これらの事例を概観すると、「居士」に対する評価では京都・興聖寺時代に於いては包容的ですが、吉峰・大仏・永平寺に於ける越前時代では一転して、龐居士の例では評価の逆転現象が起きますが、一方維摩居士の場合には京都時代から一貫した厳しい言明が見られます。

当巻の提示では誰それと実名は記されませんが、「庵居して夫婦備われる、孤独潔白」の語言からも、龐居士(娘の霊照あり)・維摩詰居士であることは明白で、この巻の主旨である導師の条件である「得法」であるか否かの観点からも、居士(優婆塞)であるか大姉(優婆夷)であるか、比丘か比丘尼かの外面的択一法は有るはずもない事である。

「仏法の道理未だ夢にも見ざらんは、たとい百歳なる老比丘なりとも、得法の男女に及ぶべきにあらず。敬うべからず。ただ賓主の礼のみなり。仏法を修行し、仏法を道取せんは、たとい七歳の女流なりとも、則ち四衆の導師なり、衆生の慈父なり。例えば龍女成仏の如し。供養恭敬せん事、諸仏如来に等しかるべし。これ即ち仏道の古儀なり。知らず、単伝せざらんは、憐れむべし」

「仏法の道理」とは「得道・得法を得て、正嫡伝法すること」。「賓主の礼」は客人と主人との節操であるが、東アジアの人々には長幼の序の礼節を云うのである。「七歳の女流」の喩えは先の趙州の「たとい七歳なりともー百歳なりとも」を参照したもの歟。また2014年に十七歳でノーベル平和賞受賞のパキスタン出身「マララ・ユスフザイ」氏などが、この言動に符合されよう。「四衆」は比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷。「龍女成仏」は『法華経』提婆品で説かれる「娑竭羅龍女。年八歳にて龍女の忽然の間に変じて男子成仏の説話」。「古儀」とは古くからの方法。

「単伝」某眼蔵家は常口に単伝の語は道元禅師の独自な語法と云われるが、『碧巌録』では主に圜悟克勤が十か所以上に使われ、さらにSAT大蔵経テキストデータベースで検索すれば膨大な資料を見る事が出来る。「単伝は人から人へ純粋に伝えること」(『現代語訳』碧巌録・上・二八頁参照)。酒井得元老師の言では「単伝とは自分自身が仏法に深まること」と説明されます。

以上で『礼拝得髄』巻は読了としますが、「秘密正法眼蔵」と称される巻には同名が記録されますが、内容は此の処より辛辣で語調が激烈であり、殊に「結界」に対する箇所では、中世社会に見られる「アジール論」や栂尾明恵上人が結界処に遁れた武者に対する態度などが考察できますが、次回に譲り擱筆とします。