正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵山水経

正法眼蔵第二十九 山水経

而今の山水は、古佛の道現成なり。ともに法位に住して、究盡の功徳を成ぜり。空劫已前の消息なるがゆゑに、而今の活計なり。朕兆未萌の自己なるがゆゑに、現成の透脱なり。山の諸功徳高廣なるをもて、乘雲の道徳かならず山より通達す、順風の妙功さだめて山より透脱するなり。

先ずは、此の巻ぶの位置付け・前巻との聯関性を考察すると、第二十五の渓声山色から二十八礼拝得髄を配列し、改めての渓声山色に関連させての『山水経』巻とし、次巻に列する「看経」も標題の上からも連脈するものです。また示衆年月日から考察すると「渓声山色」「礼拝得髄」はともに延応二年(1240)四月と三月と同時期のもので、「山水経」も同年(元号は七月十六日改元で仁治となる)十月執筆提示と半年の時間差でありますから、「渓声」から「礼拝」「山水」の各巻は同じ環境下での論考と見なすことが可能と成ります。

而今の山水は、古仏の道現成なり。ともに法位に住して、究尽の功徳を成ぜり」

ここは逆説的に古仏が道う処の現成(現実)が、仏法上に於ける「山水」であり、その山と水は共に住し限りない(究尽)仏法の功徳を保ち続けるのである。

「空劫已前の消息なるが故に、而今の活計なり。朕兆未萌の自己なるが故に、現成の透脱なり」

「空劫已前」は成・住・壊・空の四劫已前で、「朕兆未萌」と同義語とするが、物事の始まる以前・人間生活(活計)以前の状況ですから解脱の姿と解せられますから、「現成の透脱」と言われるわけです。

「山の諸功徳高広なるをもて、乘雲の道徳必ず山より通達す、順風の妙功定めて山より透脱するなり」

山の諸々の功徳を「高」と「広」に分類し、高では山に付随して立ち昇る「乘雲」を、広に於ける功徳を十方に通ずる「順風」と位置づけます。この乘雲・順風は山に対するかかり字ですが、さらに乘雲―道徳―通達と、順風―妙功―透脱なるなる形容を附する文言は、筆海の龍吟にも匹敵するものです。

この冒頭部に於いて当『山水経』巻に対する要旨を述べられ、次の本則からは仏法眼から観察した「山」と「水」を考究し、パラダイムの転換を図る提唱・拈提と為ります。

 

    二

大陽山楷和尚示衆云、青山常運歩、石女夜生兒。

山はそなはるべき功徳の虧闕することなし。このゆゑに常安住なり、常運歩なり。その運歩の功徳、まさに審細に參學すべし。山の運歩は人の運歩のごとくなるべきがゆゑに、人間の行歩におなじくみえざればとて、山の運歩をうたがふことなかれ。いま佛祖の説道、すでに運歩を指示す、これその得本なり。常運歩の示衆を究辦すべし。運歩のゆゑに常なり。青山の運歩は其疾如風よりもすみやかなれども、山中人は不覺不知なり、山中とは世界裏の花開なり。山外人は不覺不知なり、山をみる眼目あらざる人は、不覺不知、不見不聞、這箇道理なり。

「大陽山楷和尚示衆云、青山常運歩、石女夜生児。山は具わるべき功徳の虧闕する事なし。この故に常安住なり、常運歩なり。その運歩の功徳、まさに審細に参学すべし。山の運歩は人の運歩の如くなるべきがゆ故に、人間の行歩に同じく見えざればとて、山の運歩を疑う事なかれ」

これから「山」「水」についての詳細な考究に入られます。最初の本則話頭の出典は『嘉泰普灯録』東京天寧芙蓉道楷「上堂良久曰、青山常運歩、石女夜生児便下座。(「続蔵」七九・三〇九・下)になります。

「青い山が常に運歩し、石の女が夜に児を生む」とは、一見非常識な言葉と認識されがちですが、視角度・見る見られる(能所)関係の立ち位置などによっても、見かけの状態より変動の振幅に気付かされる事もあるわけです。

拈提では「山に現ずる功徳が欠ける事がないから、常安住・常運歩なり」と真逆の状態を説かれますが、一日二日の単位で山を見れば常安住であり、五十年百年の単位で見れば地球はプレートテクトニクス作用で変動し、造山運動している状態が日常ですから常運歩なり。ということです。

人間の行歩は百年、山の運歩は千年の年月を以て測れば、人間の眼識では山の運歩は認得できませんが、三十三世代続く眼識を以てすれば、おのづと地球自身のダイナモ活動がある限り山の運歩もあるわけです。

「いま仏祖の説道、すでに運歩を指示す、これその得本なり。常運歩の示衆を究辦すべし」

「仏祖の説道」とは青山常運歩であり、「指示」とは指摘。「得本」とは本分・根本を云うもので、つまりは仏祖の説く根本語である「青山常運歩」の示衆を究尽辦明しなさい。と文字面だけではなく、常運歩の真実態を究明せよ。との言です。

運歩の故に常なり。青山の運歩は其疾如風よりも速やかなれども、山中人は不覚不知なり、山中とは世界裏の花開なり。山外人は不覚不知なり、山を見る眼目あらざる人は、不覚不知、不見不聞、這箇道理なり」

運歩の故に常なり」とは生体の基本活動である動的平衡常態を云い、其の疾(はや)さは風の如くではあるが、「その山の中に居る人は不覚不知」とは、我々が住む地球は太陽を周回し、その速度は日本では時速約1400㎞・秒速では約400mと疾風の如くですが、その地球人(山中人)が「不覚不知」とは地球と共に運動しているからであり、つまりは地球と一体の化した証明です。ここでの「山中人」も山と共に生きてますから、その山の諸功徳が不覚不知と為るわけです。

「山中とは世界裏の花開」とは、この地球の例でもわかるように、人間も他の生き者すべてが真実現成の花開である。

「山外人」とは山を離れる事ではなく、地球の外には生存条件はないのと同様に、山の上での中・外であり、そこでも勿論、一体であるから不覚不知である。

「山を見る眼目あらざる人」とは、仏法と山との関係が理解できない人・つまり普通の人と解し、それらの人々も同じ山中人・山外人ですから、山そのものの存在は自覚できず、知らず、見ず、聞かずの這箇(このような)の道理で有るに変わりはない。

もし山の運歩を疑著するは、自己の運歩をもいまだしらざるなり、自己の運歩なきにはあらず、自己の運歩いまだしられざるなり、あきらめざるなり。自己の運歩をしらんがごとき、まさに青山の運歩をもしるべきなり。青山すでに有情にあらず、非情にあらず。自己すでに有情にあらず、非情にあらず。いま青山の運歩を疑著せんことうべからず。いく法界を量局として青山を照鑑すべしとしらず。青山の運歩および自己の運歩、あきらかに撿點すべきなり。退歩歩退、ともに撿點あるべし。未朕兆の正當時、および空王那畔より、進歩退歩に運歩しばらくもやまざること、撿點すべし。運歩もし休することあらば、佛祖不出現なり。運歩もし窮極あらば、佛法不到今日ならん。進歩いまだやまず、退歩いまだやまず。進歩のとき退歩に乖向せず、退歩のとき進歩を乖向せず。この功徳を山流とし、流山とす。

「もし山の運歩を疑著するは、自己の運歩をも未だ知らざるなり、自己の運歩なきにはあらず、自己の運歩未だ知られざるなり、明らめざるなり。自己の運歩を知らんが如き、まさに青山の運歩をも知るべきなり」

山と自己・自己と山との一体性・同質性を説ける事が仏法を会する。と、参学しようともしない為に、我執から離れられず山の運歩も自己の運歩も知ろうとしないのである。

「青山すでに有情にあらず、非情にあらず。自己すでに有情にあらず、非情にあらず」

普通は青山は非情・自己は有情と峻別するものですが、青山の中に自己(我)も包含するものと一体性を説いたわけですから、有情・非情の区別の意味もないわけです。

「いま青山の運歩を疑著せん事うべからず。幾法界を量局として青山を照鑑すべしと知らず。青山の運歩および自己の運歩、明らかに検点すべきなり。退歩歩退、ともに検点あるべし」

青山の運歩は疑いようもない。「幾法界」とは尽法界と解し、その尽法界を基準に青山を見る(照鑑)のではなく、一塵を知っても法界であり、改めて青山の運歩や自己の運歩、さらには退歩歩退も点検すべきである。

「未朕兆の正当時、及び空王那畔より、進歩退歩に運歩しばらくも止まざる事、検点すべし。運歩もし休する事あらば、仏祖不出現なり。運歩もし窮極あらば、仏法不到今日ならん」

先ほどの「山中人・山外人」の処で地球に住する人間。という云い方で説明を試みましたが、「未朕兆」(父母未生以前と同様)も「空王那畔」(過去空劫に出現した空王仏時代)も宇宙創成時と云い換えて見ますと、宇宙創成初期からのエネルギーが充満し膨張し続けているからこそ、地球が存在し我々も生きられるわけですが、もしこの(ダーク)エネルギーが休するならば人類(仏祖)も不出現であり、仏法も今日に到らず。である。

「進歩未だ止まず、退歩未だ止まず。進歩のとき退歩に乖向せず、退歩のとき進歩を乖向せず。この功徳を山流とし、流山とす」

「進歩・退歩」ともに青山の功徳であり、「進歩の時は退歩に乖向せず」とは一法究尽する姿(「註解全書」二・二二六)であり、この理屈で「山流・流山」と言われるのですが、これは前述の「退歩歩退」とも通ずる語法であるが、この「山流」の流は次に説く「東山水上行」に絡ませてのものと考えられます。

青山も運歩を參究し、東山も水上行を參學するがゆゑに、この參學は山の參學なり。山の身心をあらためず、やまの面目ながら迴途參學しきたれり。青山は運歩不得なり、東山水上行不得なると、山を誹謗することなかれ。低下の見處のいやしきゆゑに、青山運歩の句をあやしむなり。少聞のつたなきによりて、流山の語をおどろくなり。いま流水の言も七通八達せずといへども、小見小聞に沈溺せるのみなり。

「青山も運歩を参究し、東山も水上行を参学するが故に、この参学は山の参学なり。山の身心を改めず、山の面目ながら迴途参学し来たれり。青山は運歩不得なり」

ここで次段の本則話頭である「東山水上行」を提示し、青山常運歩も東山水上行も共に我々の参学ではなく「山の参学」とは、山が我々であり山を対象物とし、見るのではないのである。謂う所は青山が自己(我々)・我々(自己)が青山とするのを「山の参学」と定言します。「山の身心を改めず」とは山(自己)は山(やま)の面目を保ちながら、我々に方途を向け参学しているのである。

「青山は運歩不得なり、東山水上行不得なると、山を誹謗する事なかれ。低下の見処のいやしき故に、青山運歩の句を怪しむなり」

「山を誹謗する事なかれ」と山に人格性を与える事実は、一世代前の栂尾明恵上人(1173―1232)による「島殿へ」と云う、苅磨(かるも『紀伊風土記』では苅藻と記す)の離島に差し出した行為とも通脈するものと思われる。

「低下の見処」とは固定観念にて見動きが効かない浅見を云い、当然ながら、そんな連中には青山運歩など考える余地もない事である。

「少聞の拙なきによりて、流山の語を驚くなり。いま流水の言も七通八達せずと云えども、小見小聞に沈溺せるのみなり」

先の低下の見処を「少聞の拙なき」と言い替え、そのような徒輩は「流山」と、自身のカテゴリーにない言句にはびっくりするのが常であるが、今「流水」という常識語でも七通八達(全体)しないにも関わらず、自身の小見小聞の殻に収まり自己満足(沈溺)しているようなものである。

しかあれば、所積の功徳を擧せるを形名とし、命脈とせり。運歩あり、流行あり。山の山兒を生ずる時節あり、山の佛祖となる道理によりて、佛祖かくのごとく出現せるなり。たとひ草木土石牆壁の見成する眼睛あらんときも、疑著にあらず、動著にあらず、全現成にあらず。たとひ七寶莊嚴なりと見取せらるゝ時節現成すとも、實歸にあらず。たとひ諸佛行道の境界と見現成あるも、あながちの愛處にあらず。たとひ諸佛不思議の功徳と見現成の頂□(寧+頁)をうとも、如實これのみにあらず。各々の見成は各々の依正なり、これらを佛祖の道業とするにあらず、一偶の管見なり。轉境轉心は大聖の所呵なり、説心説性は佛祖の所不肯なり。見心見性は外道の活計なり、滯言滯句は解脱の道著にあらず。かくのごとくの境界を透脱せるあり、いはゆる青山常運歩なり、東山水上行なり。審細に參究すべし。

「しか有れば、所積の功徳を挙せるを形名とし、命脈とせり。運歩あり、流行あり。山の山児を生ずる時節あり、山の仏祖となる道理によりて、仏祖かくの如く出現せるなり」

「所積の功徳」とは、これまで参学してきた処の山流であり水上行の功徳を名詞化すると「形名」(それぞれの形や名前)であったり「命脈」と言い得るのであり、他にも「運歩」と表現したり「流行」とも言うのである。

「山の山児を生ずる時節」とは四季折々の風景を擬人化した表現で、春には一斉に芽吹く景色を、山の山児を生ずると言っても理に適います。つまりは「山」本来の姿をこのように表現し、また山の姿・山自体を仏祖とする。とは、山は尽十方界に於ける真実態の表れであり、仏祖それぞれも紛れもない真実相の象徴ですから、山も仏祖も真実相という無文節域に於いては同等ですから、「仏祖かくの如く出現せるなり」と表明できるわけです。

「たとい草木土石牆壁の見成する眼睛あらん時も、疑著にあらず、動著にあらず、全現成にあらず。たとい七宝荘厳なりと見取せらるる時節現成すとも、実帰にあらず」

前述に所積の功徳と述べましたから、草・木・土・石・牆・壁の現成が見える時でも、疑うことではなく、動揺することではなく、全体の現成でもない。

また、例えば七宝(金銀・瑠璃・硨磲・瑪瑙・珊瑚・琥珀・真珠)が荘厳するような時節が眼前に現成しようとも、実際の帰着ではない。

「たとい諸仏行道の境界と見現成あるも、あながちの愛処にあらず。たとい諸仏不思議の功徳と見現成の頂□(寧+頁)を得とも、如実これのみにあらず」

また、喩えば諸仏が行道するような場面(境界)と見る眼前現成が有っても、強いて愛著する処ではない。

さらに、諸仏不思議の功徳と見られる現成の頂□(寧+頁)(真骨頂)を会得したと云っても如実(真実そのまま)は不可思議だけではない。

「各々の見成は各々の依正なり、これらを仏祖の道業とするにあらず、一偶の管見なり」

それぞれ(各々)の見方は、各人の依報・正法(主体・環境)つまり業観に依るので有るから、これら(草木土石牆壁の現成眼睛・七宝荘厳の時節現成・諸仏行道の境界現成・諸仏不思議の功徳現成)を、仏祖の道業(生き方)と定義化は出来ず、一偶(すみ)の管見(狭い見識)である。

言わんとする旨は、仏法の把捉には「少聞・少見・小聞」と云った管見による一つの事象(事実・現成)のみを仏祖の道業とするのではなく、「什麽・恁麽」に含有される所積の功徳が仏祖であり仏法である為に、「如実これのみ」と握りしめた途端に真実底からすり抜ける事から、放下著なる無所悟の道業を求められる拈提内容です。

「転境転心は大聖の所呵なり、説心説性は仏祖の所不肯なり。見心見性は外道の活計なり、滞言滞句は解脱の道著にあらず。かくの如くの境界を透脱せるあり、いわゆる青山常運歩なり、東山水上行なり。審細に参究すべし」

「転境転心」とは環境を転じ心を転じて、仏界仏心に近づこうとする心意気で、具体例では前述の「諸仏行道の境界」や「諸仏不思議の功徳」の体験を意味するもので、そのような有所得は「大聖の呵(しか)る所」である。

「説心説性」は、心とか性を分析学的に拈出するような方法は、仏祖の肯(うけが)わない所である。(『説心説性』巻では「おおよそ仏々祖々のあらゆる功徳は、尽くこれ説心説性なり」(「正法眼蔵」二・四一八・水野・岩波文庫)と、この箇所とは真逆の説明である。

「見心見性」はこの場合、人間の原理などを追求する連中(外道)の活計(しごと)である。

「滞言滞句」は言句(ことば)から離れられない・言句で全てを解き明かす事は、解脱に導く(道著)ものではない。

かくのごとく(転境転心・説心説性・見心見性・滞言滞句)の境界を透脱(乗り越える)する言句がある。それは芙蓉の「青山常運歩」であり、雲門の「東山水上行」である。審細に参究すべし。と仏祖の境涯を表象する手段は、言句ではなく大自然との連動そのものである。との結語となります。青山常運歩に対する拈提を擱筆とし、次に附随する「石女夜生児」の拈提に入ります。

石女夜生兒は、石女の生兒するときを夜といふ。おほよそ男石女石あり、非男女石あり。これよく天を補し、地を補す。天石あり、地石あり。俗のいふところなりといへども、人のしるところまれなるなり。生兒の道理しるべし。生兒のときは親子竝化するか。兒の親となるを生兒現成と參學するのみならんや、親の兒となるときを生兒現成の修證なりと參學すべし、究徹すべし。

ここでの拈提の括りとしては「石女夜生児」に対する著語となりますが、これは「青山常運歩」の対句ですから、世間の常識としては「石女」の永久不変なものが夜に児を生む。という無理会話を、独自な視座から分節―解体―再生との構築作業になります。

「石女夜生児は、石女の生児する時を夜と云う。おおよそ男石女石あり、非男女石あり。これよく天を補し、地を補す。天石あり、地石あり」

「石女夜生児」の読み方は普通、石女は夜に児を生む。とする処を、「石女の生児するを夜」と置き換えます。

石女とあるから「男石女石」と表現し、さらに「非男女石」と絶対真実である非の男女石と「石」の意味解体を行います。これは、石という概念・カテゴリーを取り払い、岩石にも多様な種類が有るように、「男石女石・非男女石」と例言するものです。

次に石は単なる石ではなく、尽十方界の真実態としての石として「天を補修し地を補修(中国古代神話で、皇帝伏羲(ふつぎ)の妹の女媧が五色の石を練り天を補った故事)し、「天石・地石」と真実相としての無限定石として把握するものです。

「俗の云う処なりと云えども、人の知る処稀なるなり。生児の道理知るべし。生児の時は親子並化するか。児の親となるを生児現成と参学するのみならんや、親の児となる時を生児現成の修証なりと参学すべし、究徹すべし」

この「天石」の話は在宋時代の五年の間に仄聞した中国古代神話で、ある程度の教養人には知る処で有ろうが、人智の知る処は稀なり。との言上ですが、この知り測れない所処を「夜」とするのである。

「生児の道理」とは運歩の道理とも云い替えられ、よく知る(理解する)ことが肝要となります。

「生児の時は親子並化するか(歟)」と疑問形式に設定されますが、次句には「児の親となる」「親の児となる」時を生児現成と「参学すべし、究徹すべし」と断定句と為りますから、この歟は断定の語と判読できます。

「児の親となる、親の児となる」の註解を経豪和尚撰述『御抄』では「文字の上下したるばかり也、只同事歟。子が親と為り、親が子と為る道理、只同じかるべき也。石女を親と為し、児と為す、不可有差別歟」(「註解全書」二・二三六)と解説されます。つまりは「石女」と「生児」との同事・同質・同時性を言わんとし、また「石女の生児するを夜」とする事から、「石女」の状態を昼とするなら、昼夜ともども究徹参学すべし。と言われるならば、石男・昼生親をも参究したい処です。

 

    三

雲門匡眞大師いはく、東山水上行。

この道現成の宗旨は、諸山は東山なり、一切の東山は水上行なり。このゆゑに、九山迷廬等現成せり、修證せり。これを東山といふ。しかあれども、雲門いかでか東山の皮肉骨髓、修證活計に透脱ならん。

「雲門匡真大師云く、東山水上行」

この話頭の出典は『雲門匡真禅師広録』巻上・対機説法三百二十則の中の「如何是諸仏出身処。師云、東山水上行」(「大正蔵」四七・五四五・下)という簡潔なものです。因みに雲門文偃(864―949)の師は雪峰義存(822―908)であり、その法嗣者四十二人の列位十五位に雲門の名が見られます。(『景徳伝灯録』十九「大正蔵」五一・三五三・上)

また雲門の法嗣者数は六十一名に及び、その五十一名もの語録が「伝灯録」二十二と二十三に分けて記載されるものであり、当時いかに雲門の法座に雲が湧き立ち、水が流れ込む如くに衲僧の参来が想像される。

いま一つ、雲門の特異な接化法としては「雲門の三句」が挙げられます。「函蓋乾坤」(箱と蓋の喩えの如くの、天地合一為る接化)、「截断衆流」(煩悩截断)、「隋波遂浪」(個性重視)を云う。

「この道現成の宗旨は、諸山は東山なり、一切の東山は水上行なり」

この東山水上行の意味する処は、すべての山(諸山)は「東山」と言い表すのであり、前段では青山常運歩についての考察でしたが、「青山」も「東山」も同義語でありますから青山水上行とも置換可能です。「水上行」と「常運歩」も同義とは、水は常に流れ続けるを水行と呼ぶわけですから、「常水行」とも云い得ますから、常運歩と同義句と為るものです。

「この故に、九山迷廬等現成せり、修証せり。これを東山と云う。しか有れども、雲門いかでか東山の皮肉骨髄、修証活計に透脱ならん」

「九山迷廬」とは須弥山世界を云うもので、九山八海の周辺世界の中心にシュメールsumeru須弥山(ヒマラヤ山脈)が現成しているのは、修行実証しているのである。この須弥山世界を称して「東山」とするとの拈提です。

しかあれども(そうではあるが)、雲門はどうして(いかでか)東山(尽界)の皮肉骨髄(全体)の、実修実証する活計(生き方)に透脱(解脱)ならん。つまり、雲門は「東山水上行」と云うが、その東山自体を把握できず、そこでの修行と実修の生活(活計)には、身に付いていないぞ。と言う雲門文偃(匡真)に対する評価です。

いま現在大宋國に、杜撰のやから一類あり、いまは群をなせり。小實の撃不能なるところなり。かれらいはく、いまの東山水上行話、および南泉の鎌子話ごときは、無理會話なり。その意旨は、もろもろの念慮にかゝはれる語話は佛祖の禪話にあらず。無理會話、これ佛祖の語話なり。かるがゆゑに、黄檗の行棒および臨濟の擧喝、これら理會およびがたく、念慮にかゝはれず、これを朕兆未萌以前の大悟とするなり。先徳の方便、おほく葛藤斷句をもちゐるといふは無理會なり。かくのごとくいふやから、かつていまだ正師をみず、參學眼なし。いふにたらざる小獃子なり。宋土ちかく二三百年よりこのかた、かくのごとくの魔子六群禿子おほし。あはれむべし、佛祖の大道の癈するなり。これらが所解、なほ小乘聲聞におよばず、外道よりもおろかなり。俗にあらず僧にあらず、人にあらず天にあらず、學佛道の畜生よりもおろかなり。禿子がいふ無理會話、なんぢのみ無理會なり、佛祖はしかあらず。なんぢに理會せられざればとて、佛祖の理會路を參學せざるべからず。たとひ畢竟じて無理會なるべくは、なんぢがいまいふ理會もあたるべからず。しかのごときのたぐひ、宋朝の諸方におほし。まのあたり見聞せしところなり。あはれむべし、かれら念慮の語句なることをしらず、語句の念慮を透脱することをしらず。在宋のとき、かれらをわらふに、かれら所陳なし、無語なりしのみなり。かれらがいまの無理會の邪計なるのみなり。たれかなんぢにをしふる、天眞の師範なしといへども、自然の外道兒なり。

「いま現在大宋国に、杜撰のやから一類あり、今は群を成せり。小実の撃不能なる処なり」

ここに云う「いま」とは、在宋時代を懐古してのもので十年以上前を云うものです。その当時は特に「臨済宗のみ天下にあまねし」(「辦道話」)と言うように多勢に無勢の勢いだったようで、日本でいえば京都周辺での天台僧兵(徒)の如き勢力だったのでしょうか。

「彼ら云く、今の東山水上行話、および南泉の鎌子話ごときは、無理会話なり。その意旨は、諸々の念慮に関われる語話は仏祖の禅話にあらず。無理会話、これ仏祖の語話なり。かるが故に、黄檗の行棒および臨済の挙喝、これら理會及び難く、念慮に関われず、これを朕兆未萌以前の大悟とするなり。先徳の方便、おおく葛藤断句を用いると云うは無理会なり」

「南泉鎌子話」は『真字正法眼蔵』中・五四則「池州南泉山願禅師、一日在山作務゚有僧過問師、南泉路向什麼処去゚師拈起鎌子云、我這茅鎌子、三十文銭買得゚僧曰、不問茅鎌子三十文銭買、南泉路向什麼処去゚師云、我如今使得正快」に取り挙げられます。『宏智広録』四・一三八則「送監収上堂」(「大正蔵」四八・四五・中)にても宏智和尚の著語が見られます。出典としては『古尊宿語録』十二・池州南泉普願禅師語要(「続蔵」六八・六九・中)「有僧問、南泉路向甚麼処去。師豎起鎌云、我這鎌子是三十文買。僧云、我不問這箇、南泉路向甚麼処去。師云、我用得最快」と考えられます。

この「東山水上行・南泉鎌子」話則は中唐以降に行われた為人接化ですが、当時の学人には雲門・南泉の語話は「言わずもがな」の感が有ったものでしょうが、二三百年を経た今(在宋の1220年代)には、最早これらの話則は臨済宗徒を中心とする杜撰の族(やから)には無理会話であった。との当時の状況を語られるものですが、南泉鎌子話をかいつまんで説いてみます。

「ある僧(雲水)が南泉自身に南泉の処にはどう行けばいいか。と問うに、当の南泉は鎌を立てて云うには、この鎌は三十文で買ったんだと。僧が云うには、私はこの鎌の事を問うているのではなく、南泉山に行くにはどっちを向いて行けばいいのか。と云うに、南泉の云うには、私は最高の使いがっての良い(鎌を)のを得て使用している最中だ」とでも意訳すると、明らかに此の処には南泉と僧との認識の違い(齟齬)が表出されます。雲水は南泉の道場に行く道を訊ねるが、この雲水の目的は修行(安居)ではなく、道場の知事職への伝言または他の用事も有り得るわけだが、道場主の南泉にしてみれば、この雲水は南泉に行く路程を聞くわけだから道場での修行が目的である。との思い込みでの問答自体に、杜撰の漢の躊躇があると思われます。

そもそも南泉が鎌子を立て、我用得最快(私は切れ味鋭く(草刈り鎌を)用い得る)との答話自体は、南泉自身が家風を僧に云い含めてのもので、その前提としては雲水僧の身なりを見れば一目瞭然に安居僧であることは暗黙の了解である事情を「群をなせる杜撰のやから」は承知していないのである。

そこで「杜撰のやから」の考える法話というのは、理に適う法語は仏祖の説く禅語ではなく、奇妙奇天烈な無理会話こそが仏祖の語話であると彼らは主張するのである。ですから語言によらない黄檗の行棒や臨済の挙喝といったものを、仏道の究極と勘違いし大悟であると思い込むのである。唐時代からの連綿と続く古則公案の葛藤断句的な為人接化は理解不能な無理会と決め込んでいるのである。

「かくの如く云うやから、曾て未だ正師を見ず、参学眼なし。云うに足らざる小獃子なり。宋土近く二三百年よりこのかた、かくの如くの魔子六群禿子多し。憐れむべし、仏祖の大道の廃するなり。これらが所解、なお小乗声聞に及ばず、外道よりも愚かなり。俗にあらず僧にあらず、人にあらず天にあらず、学仏道の畜生よりも愚かなり。禿子が云う無理会話、汝のみ無理会なり、仏祖はしかあらず。汝に理会せられざればとて、仏祖の理会路を参学せざるべからず」

文意は難なく解されますが、古則話頭を無理会話と解する族(やから)の原因を「正師を見ず、参学眼なし」としますが、これには当時の日本仏教界の状況が関与したかも知れません。当時は戒律復興運動が唐招提寺を中心として社会運動化し、そのなかで嘉禎二年(1236)には覚盛(1193―1249)や叡尊(1201―1290)が戒師を随伴しない自誓受戒を行った事は、恐らく宇治の興聖寺にも風伝されての「正師を見ず」と筆致し、それらの人々を「小獃子」と断言されます。『御抄』では「小獃子とはえのこを云う歟」(「註解全書」二・二四一)と記述されますが、「えのこ」とは子犬のことである。

これらの凡庸なる魔子や六群禿子(闡那チャンナ・迦留陀夷ラルダイ・難陀ナンダ・跋難陀ウパナンダ・阿説迦アッサジ・弗那跋プナッバス)と同様な破戒僧が、この二三百年来横行するは「仏祖の大道を廃する」ものである。

これら小獃子の解する所は、小乗(物事に固執する)声聞(自己の解脱のみを願う)や外道(論理学者)よりも愚劣で有り、非俗非僧・非人非天であり、仏道を学する畜生(魔子・六群禿子)よりも愚かなりと断罪されます。ここでいう「俗にあらず僧にあらず」で思い浮かぶは、親鸞が『教行信証』後序にて記された「已非僧非俗、是故以禿字為姓」(すでに僧にあらず俗にあらず、是の故に禿字を以て姓と為す)であり、みづから愚禿と自称した事実と何ら関連があるので有ろうか。

正師に参学しない禿子(比丘の蔑称)が云う無理会話とする古則話頭は、ただ単に禿子の勉強不足の為の無理会であり仏祖とは関係なく、自分が理解しないからと云って、仏祖の理解路を参学しないで良いと云うのではない。

「たとい畢竟じて無理会なるべくは、汝が今云う理会も当たるべからず。しかの如きの類い、宋朝の諸方に多し。まのあたり見聞せし処なり。憐れむべし、彼ら念慮の語句なる事を知らず、語句の念慮を透脱する事を知らず。在宋の時、彼らを笑うに、彼ら所陳なし、無語なりしのみなり。彼らが今の無理会の邪計なるのみなり。誰か汝に教うる、天真の師範なしといえども、自然の外道児なり」

道元禅師の実体験として語られる処では、東山水上行や南泉鎌子の話頭に対する参学の念慮の無さを笑ってみても、彼らからの反駁はなく無理会と云う邪計しかなく念慮する事が出来ないとは、誰がこのような禿子を教育したのか。天然真性の師範(正師)が居らず、自然外道児(小獃子)といった具合である。

しるべし、この東山水上行は佛祖の骨髓なり。諸水は東山の脚下に現成せり。このゆゑに、諸山くもにのり、天をあゆむ。諸水の頂□(寧+頁)は諸山なり。向上直下の行歩、ともに水上なり。諸山の脚尖よく諸水を行歩し、諸水を趯出せしむるゆゑに、運歩七縱八横なり、修證即不無なり。

これより本格的拈提に入られます。

「知るべし、この東山水上行は仏祖の骨髄なり。諸水は東山の脚下に現成せり」

東山水上行を一言で置換するなら「仏祖の骨髄」と言われます。この場合の仏祖も骨髄も一切(全体)と解します。全体とは尽十方界で、それは真実そのままですから、「東山水上行」は真実態の具現した事物・事象を受け入れるものです。

「山」と「水」とは一体であり、山は水を抱え込んでいるから河の源流は山に辿り着くわけです。ですから「諸水は東山の脚下に現成」と表現されるもので、極めて現実的論理的な見方です。が、ここで冒頭に於ける「東山水上行」の宗旨を再確認するに、「渚山は東山なり、一切の東山は水上行なり」と定言されますから、「仏祖の骨髄」は一切つまり全体を称して東山水上行と言断されます。

「この故に、諸山雲に乗り、天を歩む。諸水の頂□(寧+頁)は諸山なり。向上直下の行歩、ともに水上なり」

「山が雲に乗り天を歩む」などとは、童話の世界の絵空事か、それとも無理会話と解釈されがちですが、参学眼を以ての念慮があれば、山の多面度を観察できるものです。簡略に云うと、山から流出した水が水蒸気となり、上空で冷やされ雲に為る。との事実を念慮すれば、雲も山も一味態と為りますから、突飛な思考でもなく提唱当時に於いても考えられたはずです。

「諸水の頂□(寧+頁)は諸山」も「向上直下の行歩」ともに「水上なり」とは、「山を以て水と為し、水を以て山と為す道理」(「註解全書」二・二四五)と、山と水との尽十方世界に於いての真実世界を表徴する経豪和尚の説明を引用します。

「諸山の脚尖よく諸水を行歩し、諸水を趯出せしむる故に、運歩七縱八横なり、修証即不無なり」

「諸山は脚の尖(さき)で諸水を行歩し、諸水を踊り出させる(趯出てきしゅつ)」は先程からの例言のバリエーションを加えたもので、諸水を例にして見るなら「諸水は東山の脚下に現成」・「諸水の頂□(寧+頁)は諸山」・「諸山の脚尖は諸水を行歩趯出」と云うように、あらゆる状況を「運歩七縱八横」つまり縦横自在なる運歩の真実態を説く言い方です。

次に結びの句として「修証即不無」と結論づける言葉になりますが、これは南嶽懐譲(677―744)が師匠の大鑑慧能(638―713)の「還かえって修証を仮るや否や」の問いに対し「修証は即ち無きに不あらず、染汚(ぜんな)することは得じ」と云うように、「修行と修証(さとり)は無いのか。に対し修と証は無いのではなき、執着=染汚しない事が肝要である」。要するに南嶽の云わんとする主旨は不染汚を説くものと思われますが、『啓迪』にても「修証即不無」の扱いを難解としながらも「不染汚の事と見ればよい」(「啓迪」五一四)とするが、拈提では修証即不無に続く「染汚即不得」を付け加えない事情を読み解くに、修証一等・修証不二の理屈からして「山」と「水」との同等・同義・同体・同性を言わんが為の「修証即不無」なり。と結論づけたと考えられる。

因みにこの「修証即不無」の使用例は四十三万余字ある「正法眼蔵」でも此の一か所のみで、和文にて記されるものでは『辦道話』第七問答にて結語として「聞かずや祖師の云く、修証は即ちなきにあらず、染汚することはえじ」(「正法眼蔵」一・三〇・水野・岩波文庫)の問いは「坐禅辦道」に関するものでありますから、この東山水上行に対する拈提のもう一方の主眼は「坐禅における要諦」を示すものとも推察される。

水は強弱にあらず、濕乾にあらず、動靜にあらず、冷煖にあらず、有無にあらず、迷悟にあらざるなり。こりては金剛よりもかたし、たれかこれをやぶらん。融じては乳水よりもやはらかなり、たれかこれをやぶらん。しかあればすなはち、現成所有の功徳をあやしむことあたはず。しばらく十方の水を十方にして著眼看すべき時節を參學すべし。人天の水をみるときのみの參學にあらず、水の水をみる參學あり、水の水を修證するゆゑに。水の水を道著する參究あり、自己の自己に相逢する通路を現成せしむべし。佗己の佗己を參徹する活路を進退すべし、跳出すべし。

ここでは「水」に対する概念化を解体し、さらに水と自己との関係性を言及されます。

「水は強弱にあらず、湿乾にあらず、動静にあらず、冷煖にあらず、有無にあらず、迷悟にあらざるなり。こりては金剛よりも固し、誰かこれを破らん。融じては乳水よりも柔らかなり、誰かこれを破らん」

ここで扱う「水」はウォータ・化学式がH₂Oなる水ではなく、仏法に於ける水を云うものです。つまりは水に対する一側面を参究するのではなく、尽界に於いての真実性水の「水」であり、その水には「強弱・湿乾・動静・冷煖・有無・迷悟」といった比較対象の水ではなく、真実性の「水」であり一つの状態に限定できない為に「あらず」と断言されます。

次に普段使う形状・形態を論じ、水が凝固すればダイヤモンド(金剛)よりも固くなり誰も破砕できず、逆に融解すれば乳水よりも柔らかで先と同様砕くことは出来ない。と水の変幻万化を説かれます。今のことばを使えば液体→固体・固体→液体にと相転移する様態を云うものです。他の箇所では水→気体となる状態でも示されます。さらに付け加えるなら、固体→気体にと変化する昇華現象、気体→プラズマ(雷)に変わるイオン化現象があります。

「しか有れば即ち、現成所有の功徳を怪しむこと能わず。しばらく十方の水を十方にして著眼看すべき時節を参学すべし」

このような千変万化する水に対する現実のハタラキ(功徳)を怪疑してはならない。しばし尽十方に遍満する真実底の「水」が十方界を著眼看(よく看る)すべき状況(時節)を参学しなさい。

「人天の水を見る時のみの参学にあらず、水の水を見る参学あり、水の水を修証する故に。水の水を道著する参究あり、自己の自己に相逢する通路を現成せしむべし。佗己の佗己を参徹する活路を進退すべし、跳出すべし」

「人天」とは人間と天上つまり神の両域を同じ次元と捉えるもので、その人天が水を見る(観察)時の参学ばかりが、水を把捉するのではない。勿論いま言う水は生活水ではなく、仏法水でありますから「水の水を見る参学」「水の水を修証」「水の水を道著」と譬えるように人格性を与えた表現法と為ります。

「自己の自己・佗己の佗己」とは全一なる自己、つまり『現成公案』巻で説く「自己を運びて万法」「仏道を習うと云うは自己をならう也」(「正法眼蔵」一・五四・水野・岩波文庫)の自己でありますが、先の「水の水を見る」「水の水を修証する」に対応する語句であり、「自己の自己に相逢」するも「佗己の佗己を参徹」するも、前に云う「山」と「水」との一体性・同期性を説かんとするものです。

おほよそ山水をみること、種類にしたがひて不同あり。いはゆる水をみるに瓔珞とみるものあり。しかあれども瓔珞を水とみるにはあらず。われらがなにとみるかたちを、かれが水とすらん。かれが瓔珞はわれ水とみる。水を妙華とみるあり。しかあれど、花を水ともちゐるにあらず。鬼は水をもて猛火とみる、膿血とみる。龍魚は宮殿とみる、樓臺とみる。あるいは七寶摩尼珠とみる、あるいは樹林牆壁とみる、あるいは清淨解脱の法性とみる、あるいは眞實人體とみる。あるいは身相心性とみる。人間これを水とみる、殺活の因縁なり。すでに隨類の所見不同なり、しばらくこれを疑著すべし。一境をみるに諸見しなじななりとやせん、諸象を一境なりと誤錯せりとやせん、功夫の頂□(寧+頁)にさらに功夫すべし。しかあればすなはち、修證辦道も一般兩般なるべからず、究竟の境界も千種萬般なるべきなり。さらにこの宗旨を憶想するに、諸類の水たとひおほしといへども、本水なきがごとし、諸類の水なきがごとし。しかあれども、隨類の諸水、それ心によらず身によらず、業より生ぜず、依自にあらず依佗にあらず、依水の透脱あり。しかあれば、水は地水火風空識等にあらず、水は青黄赤白黒等にあらず、色聲香味觸法等にあらざれども、地水火風空等の水、おのづから現成せり。かくのごとくなれば、而今の國土宮殿、なにものの能成所成とあきらめいはんことかたかるべし。空輪風輪にかゝれると道著する、わがまことにあらず、佗のまことにあらず。小見の測度を擬議するなり。かゝれるところなくは住すべからずとおもふによりて、この道著するなり。

「おおよそ山水を見る事、種類に従いて不同あり。いわゆる水を見るに瓔珞と見る者あり。しか有れども瓔珞を水と見るにはあらず」

この話は『摂大乗論』釈巻第四(「大正蔵」三一・四〇二・下)では水を「餓鬼は膿血・龍魚は舎宅遊従・天人は宝荘厳・人は清冷水」と説く「一水四見」を参考に、天人は水を瓔珞と見る者も居るけれども、決して瓔珞を水と見るのではないのである。と説かれるのですが、経文には「一物には実際には相互に違いが有るのである」と付加されます。

「我らが何と見る象を、彼が水とすらん。彼が瓔珞はわれ水と見る。水を妙華と見るあり。しか有れど、花を水と用いるにあらず。鬼は水をもて猛火と見る、膿血と見る。龍魚は宮殿と見る、樓台と見る。或いは七宝摩尼珠と見る、或いは樹林牆壁と見る、或いは清浄解脱の法性と見る、或いは真実人体と見る。或いは身相心性と見る」

天人―「瓔珞・妙華」、(餓)鬼―「猛火・膿血」―龍魚―「宮殿・樓台・七宝摩尼珠・樹林牆壁・真実人体・身相心性」とそれぞれの事象を「何(什麽)」の具象例を挙げたわけです。

「人間これを水と見る、殺活の因縁なり。すでに随類の所見不同なり、しばらくこれを疑著すべし。一境を見るに諸見品々なりとやせん、諸象を一境なりと誤錯せりとやせん、功夫の頂□(寧+頁)にさらに功夫すべし」

天人・餓鬼・龍魚とは異なり人間は妙華・宮殿等を水と見るが、それぞれの業観による「殺活の因縁」があるものであり、環境(随類)により所見は同じではない。

「しばらくこれを疑著」とある疑著は疑うの意ではなく、着目すべしの意味合いで、同じ環境でも諸見は様々(品々)であり、形象は一つだけの環境と誤錯してはいけないと。これは一境多見・多境一見で、所見は不同との見方で以てするを「功夫の頂□(寧+頁)にさらに功夫すべし」と修行(功夫)の上にはさらに修行すべし。とは、自我の固着観念で以て一境を定置するのではなく、なに(什麽・何)という無限定なる「水」という真実態を把捉して、一つの事物・事象に拘泥せずに仏向上なる態度を「功夫の頂□(寧+頁)にさらに功夫」と言われるのです。

「しか有れば即ち、修証辦道も一般両般なるべからず、究竟の境界も千種万般なるべきなり。さらにこの宗旨を憶想するに、諸類の水たとい多しと云えども、本水なきが如し、諸類の水なきが如し。しか有れども、随類の諸水、それ心によらず身によらず、業より生ぜず、依自にあらず依佗にあらず、依水の透脱あり」

その功夫(修行)の実状は即ち、「一般両般」一つ二つと限定された修証辦道ではなく、究竟境界は什麽の例言のように「千種万般」と無尽蔵に真実態なる修行辦道が有るのである。

この修証の根本(宗旨)を考え(憶想)るに、「諸類の水」つまり尽界に表体する真実相は多く存在するが、根源の真実態(本水)は無く、結局は手中にする水(真実相)は無きが如し。と推量の文意ですが、そんな尽十方界の中核に位置する「水」などは無いのである。

「諸類の水なきが如し」と云うのであるが、その真実相なる水は真実性水と云われる体感なきもので有る為、「心によらず身によらず」と説き、また「業より生ぜず」と行為から水(真実)が生ずる事もなく、さらに「依自依佗にあらず」と自己とか他己より真相が生ずるものでもない。ただ「依水の透脱」と言われるように、水は水に依り生ずるのであるから、当然の帰結と言うものであろう。所謂は水で(生命活動)のおかげである事実が透脱なのである。

「しか有れば、水は地水火風空識等にあらず、水は青黄赤白黒等にあらず、色声香味触法等にあらざれども、地水火風空等の水、おのづから現成せり。かくの如くなれば、而今の国土宮殿、何者の能成所成と明らめ云わん事難かるべし。空輪風輪に関れると道著する、わがまことにあらず、佗のまことにあらず。小見の測度を擬議するなり。かかれる処なくは住すべからずと思うによりて、この道著するなり」

ですから水で表現する生命活動を「地水火風空識」などと云う元素還元方式、または「青黄赤白黒」などと云う表情、さらに「色声香味触法」などという感覚だけで以て、生命の本質を語ることは出来ないけれども、全体の地・全体の水・火・風・空などとしての水(生命そのもの)は、自然(じねん)に現成しているのである。謂うなれば、分子生物で云う処の動的平衡状態(生命の連続態)で以ての観察眼であります。

以上のように水(真相)は現成するけれども、今に現前する国土や宮殿は何者だれが成し成されて(能成所成)いるのかを明確に語る事は困難である。

また此の国土は『倶舎論』で説く「空輪・風輪」から成るとする小乗・声聞の連中は道著するが、それは自己の真(まこと)でもなく他己の真でもなく、ただ小児見の測りごとである。

「かかれる処」自身(自我)に安住を与えんが為に、この世界(国土)は空輪・風輪から成ると云った、他人任せの道著(論議)をするのである。

このように「東山水上行」から進めてきた評著が、須弥山構造にも及ぶ論考に為り、これよりは新たな経本話頭を以ての更なる山水考です。

 

    四

佛言、一切諸法畢竟解脱、無有所住。

しるべし、解脱にして繋縛なしといへども諸法住位せり。しかあるに、人間の水をみるに、流注してとゞまらざるとみる一途あり。その流に多般あり、これ人見の一端なり。いはゆる地を流通し、空を流通し、上方に流通し、下方に流通す。一曲にもながれ、九淵にもながる。のぼりて雲をなし、くだりてふちをなす。

「仏言、一切諸法畢竟解脱、無有所住」

この経本の出典は『大宝積経』八七にて涅槃について「聖解脱中無有文字、是故毀於言説得

至涅槃。以是義故一切諸法、本来解脱不復解脱」(「大正蔵」十一・四九九・上)からとされますが、『御抄』では「御釈には解脱して繋縛なしと云えども諸法住位とあり、相違して聞こゆ、但だ無有所住の理は諸法住位なるべし」(「註解全書」二・二五九)とやや本則と拈提との相違について疑問視されます。

「知るべし、解脱にして繋縛なしと云えども諸法住位せり。しか有るに、人間の水を見るに、流注して留まらざると見る一途あり。その流に多般あり、これ人見の一端なり」

解脱に対する補注と言ったもので、一切諸法は尽十方界実相ですから、人間に手が加えられていなければ、尽十方界に於ける真実義を意味し、束縛されない事情を解脱と解釈されがちですが、繋縛されないと云っても必定的にどこかしこに在するを「諸法住位せり」と言うもので、経豪和尚も云われたように「無有所住」を言い換えたものです。

このように諸法は位に住(とど)まる。と聞いても人間の日常感覚を以てするに、鴨長明(1155―1216)の唱える如く「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」と、「流注して住(とど)まらざると見る見方も有り、その流れには幾種類(多般)も有り、これが人の見方の一端である。と解脱は一義的事実ではなく多義性を説かんとするものです。

「いわゆる地を流通し、空を流通し、上方に流通し、下方に流通す。一曲にも流れ、九淵にも流る。上りて雲を為し、下りて淵を為す」

水の流れには地上を流れる水、空を漂う水(水蒸気)、上方・下方と自在に流通する。一曲にも九つの淵にも流れ、昇りては水蒸気から雲を為し、降りては淵を為す。とは河水となるとの意になり、謂う所は解脱の自由無碍なる状態と云いながらも、一法究尽の理に従い各々の位住が在るもので、その具体的事象を「水」に還元し品々(しなじな)の全ての事柄を解脱であると説かんとする言い様です。

文子曰、水之道、上天爲雨露、下地爲江河。

いま俗のいふところ、なほかくのごとし。佛祖の兒孫と稱ぜんともがら、俗よりもくらからんは、もともはづべし。いはく、水の道は水の所知覺にあらざれども、水よく現行す。水の不知覺にあらざれども、水よく現行するなり。上天爲雨露といふ、しるべし、水はいくそばくの上天上方へものぼりて雨露をなすなり。雨露は世界にしたがうてしなじななり。水のいたらざるところあるといふは小乘聲聞教なり、あるいは外道の邪教なり。水は火焔裏にもいたるなり、心念思量分別裏にもいたるなり、覺智佛性裏にもいたるなり。下地爲江河。しるべし、水の下地するとき、江河をなすなり。江河の精よく賢人となる。いま凡愚庸流のおもはくは、水はかならず江河海川にあるとおもへり。しかにはあらず、水のなかに江海をなせり。しかあれば、江海ならぬところにも水はあり、水の下地するとき、江海の功をなすのみなり。また、水の江海をなしつるところなれば世界あるべからず、佛土あるべからずと學すべからず。一滴のなかにも無量の佛國土現成なり。しかあれば、佛土のなかに水あるにあらず、水裏に佛土あるにあらず。水の所在、すでに三際にかゝはれず、法界にかゝはれず。しかも、かくのごとくなりといへども、水現成の公案なり。佛祖のいたるところには水かならずいたる。水のいたるところ、佛祖かならず現成するなり。これによりて、佛祖かならず水を拈じて身心とし、思量とせり。しかあればすなはち、水はかみにのぼらずといふは、内外の典籍にあらず。水之道は上下縱横に通達するなり。しかあるに、佛經のなかに、火風は上にのぼり、地水は下にくだる。この上下は、參學するところあり。いはゆる佛道の上下を參學するなり。いはゆる地水のゆくところを下とするなり。下を地水のゆくところとするにあらず。火風のゆくところは上なり。法界かならずしも上下四維の量にかゝはるべからざれども、四大五大六大等の行處によりて、しばらく方隅法界を建立するのみなり。無想天はかみ、阿鼻獄はしもとせるにあらず。阿鼻も盡法界なり、無想も盡法界なり。

「文子曰、水之道、上天為雨露、下地為江河。いま俗の云う処、なおかくの如し。仏祖の児孫と称ぜん輩、俗よりも暗からんは、もとも恥づべし。云く、水の道は水の所知覚にあらざれども、水よく現行す。水の不知覚にあらざれども、水よく現行するなり」

本則は中国古代のもので『文子(もんす)』は書名で『通玄真経(つうげんしんけい)』とも云う。作者は孔子(BC5世紀)と同時代に生きた人物とするが不詳(一説には周(BC10世紀)の辛釿とする説もある)。唐の玄宗(685―762)の頃に『文子』を重視した模様(インターネット・ウイキペディア・文子による)。

「水の道、天に上りては雨露を為し、地に下りては江河を為す」

「俗の云う」とは仏道以外の人間も、水の千変万化なるを説くに、釈子と称ずる児孫が辛釿などよりも暗愚とは、最も恥じ入ることである。

云う処は水の通ずる道は、水の知覚・不知覚に関わりなく、自然の状態に即応する事を「現行するなり」と言うのである。

「上天為雨露と云う、知るべし、水は幾そばくの上天上方へも昇りて雨露を為すなり。雨露は世界に随うて品々なり。水の到らざる処あると云うは小乗声聞教なり、或いは外道の邪教なり。水は火焔裏にも至るなり、心念思量分別裏にも至るなり、覚智仏性裏にも至るなり」

水の自由闊達なる状態を「上天為雨露」であると称賛され、小乗声聞や外道と称される教えには、俱舎等の「水の不致処・風の不致所」を立言する偏頗な考えを「水の至らない処が有る」とするような主張である。

仏道者の立場に於いては、「水」に代表される生命活動ないし真実相の様態は、「火焔裏・心念思量分別裏・覚智仏性裏」と、全身に隈なく巡る血液の如くのようです。生命現象は一つの臓器のみのハタラキではなく、すべての器官の聯関連動による生命機構が最新の医学研究で解明されつつあります。

「下地為江河。知るべし、水の下地する時、江河を為すなり。江河の精よく賢人となる。いま凡愚庸流の思わくは、水は必ず江河海川に有ると思えり。しかにはあらず、水の中に江海を為せり。しか有れば、江海ならぬ処にも水は有り、水の下地する時、江海の功を為すのみなり」

「水の下地する時、江河を為すなり」はそのままの意ですが、「江河の精よく賢人となる」とは『御抄』の解説では「賢人は只水辺を所住の所とするかと思い習わしたり」(「註解全書」二・二六〇)と、水(尽界の真実義)と賢人(本来面目人)の一味性を説かれます。

「凡愚庸流」と云われる普通の人の思考経路は、水は必ず江河や海・川に有ると思うを常とするが、「水の中に江海を為せり」とは多少ことばのトリッキーが有り、この場合の水は何回も説明するように、宇宙の根元要素との云うべき尽十方界真実態が在する御蔭で江や海も有る、事実を言うものです。

ですから、江海でない処にも尽十方界真実態(水)は有るのであり、「水の下地する時」とは、水(真実相)の活動と見、その姿が「江海の功」つまり江や海のハタラキと見るのである。

「また、水の江海を為しつる処なれば世界あるべからず、仏土あるべからずと学すべからず。一滴の中にも無量の仏国土現成なり。しかあれば、仏土の中に水あるに有らず、水裏に仏土あるに有らず。水の所在、すでに三際に関われず、法界に関われず。しかも、かくの如くなりと云えども、水現成の公案なり。仏祖の到る処には水必ず到る。水の到る処、仏祖必ず現成するなり。これによりて、仏祖必ず水を拈じて身心とし、思量とせり」

また、「水」が江海を為すならば、この世界や仏土は無い、などと学んではならない。「一滴の中にも無量の仏国土現成」とは、江海を為す水も共に実相水である事実では、大小・多少は無い(未分節水)わけですから、江海中でも一滴中にても什麽(仏国土)物も現成するわけです。

次に「しかあれば」と前句を否定する接続詞に続き、「仏土の中に水あるに有らず、水裏に仏土あるに有らず」と前言と矛盾する言い回しに戸惑うものですが、このような表現方法は一方究尽的見方により「仏土」の時は仏土ばかり、「水裏」の時には水裏のみで仏土の入り込む隙間が無い状態を、いわば仏土と水との不即不離な関係をこのように示すものですが、この手法・論法は到る所で確認でき、「眼蔵」を参究する場合の指標となります。

これらのように、「水の所在」つまり真実態の在る所は、過去・現在・未来と云われる「三際」や「法界」には無関係に存在するのである。

ただし実際には諸法実相(水)として眼前現成する真の事情を「公案」と道著し、無常の仏向上を続けるのである。

仏祖と水の共に真実態を為す状態を「仏祖の到る処水必ず到り、水の到る処仏祖必ず現成するなり」の言に結び付かせるもので、経豪和尚は此の処を「仏祖与水、親切なる道理」(「註解全書」二・二六〇)と、道元禅師の説法を説き示されます。

結語文として「仏祖必ず水を拈じて身心とし思量とせり」は、仏祖―水―身心―思量の聯関・同等観を示される論法とします。

「しかあれば即ち、水は上に昇らずと云うは、内外の典籍にあらず。水之道は上下縦横に通達するなり。しかあるに、仏経の中に、火風は上に昇り、地水は下に降る。この上下は、参学する処あり。いわゆる仏道の上下を参学するなり。いわゆる地水の往く処を下とするなり。下を地水の往く処とするにあらず。火風の往く処は上なり。法界必ずしも上下四維の量に関わるべからざれども、四大五大六大等の行処によりて、しばらく方隅法界を建立するのみなり。無想天は上、阿鼻獄は下とせるにあらず。阿鼻も尽法界なり、無想も尽法界なり」

水の縦横無尽と上下に通達する事実は、内外(仏典と外典)の典籍ともに記すものであるが、倶舎論等では「火風は上に昇り、地水は下に降る」とするが、道元禅師は特に「上下」を参学すべきと説かれます。

「上下」は予め決め得る概念ではなく、眼前に展開する事物・事象は現成する公案で有りますから、「火風の往く処が上・地水の往く処を下」とする事実に基ずく処が仏道に於ける「上下」になるわけです。

先程は上下の決め方を述べましたが、「法界」つまり尽十方界に於ける「上下四維」は有り得ず、便宜的に地水火風等の「四大・五大・六大」の便法を以て、仮りに「方隅法界」と云った方角性を方便的に定め(建立)るのである。ですから前にも云うように「無想天は上・阿鼻獄は下」といった固定観念を払拭する事が仏道での辦法である。

「阿鼻」獄は上方にも下方にも無く、自身が阿鼻と認得する時には「尽法界」一面が阿鼻だけであり、同様に「無想」天の時には「尽法界」一法通である。

無想天と阿鼻獄との同時現出する時には、中間に第三者もしくは観察者を配置する時に、上下の関わりが問題になるので、そこには能観所観・主観客観にての思考になるので、おのづと仏法の説く処ではないのである。

しかあるに、龍魚の水を宮殿とみるとき、人の宮殿をみるがごとくなるべし、さらにながれゆくと知見すべからず。もし傍觀ありて、なんぢが宮殿は流水なりと爲説せんときは、われらがいま山流の道著を聞著するがごとく、龍魚たちまちに驚疑すべきなり。さらに宮殿樓閣の欄堦露柱は、かくのごとくの説著あると保任することもあらん。この料理、しづかにおもひきたり、おもひもてゆくべし。この邊表に透脱を學せざれば、凡夫の身心を解脱せるにあらず、佛祖の國土を究盡せるにあらず。凡夫の國土を究盡せるにあらず、凡夫の宮殿を究盡せるにあらず。いま人間には、海のこゝろ、江のこゝろを、ふかく水と知見せりといへども、龍魚等、いかなるものをもて水と知見し、水と使用すといまだしらず。おろかにわが水と知見するを、いづれのたぐひも水にもちゐるらんと認ずることなかれ。いま學佛のともがら、水をならはんとき、ひとすぢに人間のみにはとゞこほるべからず。すゝみて佛道のみづを參學すべし。佛祖のもちゐるところの水は、われらこれをなにとか所見すると參學すべきなり、佛祖の屋裏また水ありや水なしやと參學すべきなり。

「しか有るに、龍魚の水を宮殿と見る時、人の宮殿を見るが如くなるべし、さらに流れゆくと知見すべからず。もし傍観ありて、汝が宮殿は流水なりと為説せん時は、我らがいま山流の道著を聞著するが如く、龍魚忽ちに驚疑すべきなり」

これは「龍魚」と「人間」との視点の相違を説くものですが、わかり易い解説であり「ここらは開山の御法楽じゃ」(「啓迪」五三〇)と、安堵の表情で西有氏も提唱される処です。

「龍魚→宮殿→流水」↔「人間→青山→山流」と、このように図式化可能で、龍魚も人間も同時代に生きる真実相の立場では、同等である事実を言わんとする教えとなります。

「さらに宮殿樓閣の欄堦露柱は、かくの如くの説著あると保任する事も有らん。この料理、静かに思い来たり、思い持て往くべし」

さらに我々の見る宮殿や樓閣の欄(てすり)堦(はしご)露柱(むき出しの柱)も、このように(流水と為説)説著すると保任する事も有ろう。この料理(取り計らって処理する)を静かに思うべきである。

「この辺表に透脱を学せざれば、凡夫の身心を解脱せるにあらず、仏祖の国土を究尽せるにあらず。凡夫の国土を究尽せるにあらず、凡夫の宮殿を究尽せるにあらず」

「この辺表」とは水の流不流の二辺を透脱(見究める)しなければ、「凡夫の身心の解脱・仏祖の国土・凡夫の国土・凡夫の宮殿」などは、究尽する事叶わず。との言い様は、「辺表」という二項分立的考えを以てしては、凡夫の価値観に明け暮れる為、全体視野による仏法視観に努めよ、との事です。

「いま人間には、海の心、江の心を、深く水と知見せりと云えども、龍魚等、如何なる物をもて水と知見し、水と使用すと未だ知らず。愚かに吾が水と知見するを、いづれの類いも水に用いるらんと認ずる事なかれ」

さらなる「水」に対する「人間」と「龍魚」との取り扱いの違いを、人間は海や江の所在は水と密接に関わると知見するが、龍魚の立場に立つなら、彼らには水中との自覚は無く水を使用しているとは知見しないが、凡愚庸流的な愚考で以て、わが知見が絶対との思いや、すべての生き物は皆が水を認識するとは思ってはいけない、との提言です。

いま一つ付言を許されるならば、龍魚の擬人化をより鮮明化する事で一段と明文に為り得るものです。例えば、我ら龍魚は水中にても苦しからず、しかるに人間の忽ちに死す。我ら人間は地上にては安寧なり、しかるに龍魚の即刻に死す。との言を以てすれば両者の違いは明確なり。

「いま学仏の輩、水を習わん時、一筋に人間のみには滞るべからず。進みて仏道のみづを参学すべし。仏祖の用いる処の水は、我等これを何とか所見すると参学すべきなり、仏祖の屋裏また水ありや水なしやと参学すべきなり」

「水」に対する拈提の結文となります。

仏道を学する者の水を学習する時には、一途に人間のみの観点からではなく、「仏道のみづ」を参学すべし。この仏道のみづが、これまでの提言の要略とも云うべきものです。

その「仏祖の用いる水」とは、尽十方界に遍在する真実相と上下縦横に通達する水を聯関させて参学すべきであり、さらに「仏祖の屋裏また水ありや水なしやと参学すべきなり」とは、仏祖とは全体真実態で尽十方界に置き換えられますから、換言して「尽十方界には真実相が有りや無しかと参学すべきなり」と選択を迫られますが、筆者もこの論議に参加を許されるなら、「仏祖の屋裏、仏祖の屋外ともに水にあらざる処無く、謂うは仏祖は水なり。水は仏祖なり」と進言するものです。

 

    五

山は超古超今より大聖の所居なり。賢人聖人、ともに山を堂奥とせり、山を身心とせり。賢人聖人によりて山は現成せるなり。おほよそ山は、いくそばくの大聖大賢いりあつまれるらんとおぼゆれども、山はいりぬるよりこのかたは、一人にあふ一人もなきなり。たゞ山の活計の現成するのみなり、さらにいりきたりつる蹤跡なほのこらず。世間にて山をのぞむ時節と、山中にて山にあふ時節と、頂□(寧+頁)眼睛はるかにことなり。不流の憶想および不流の知見も、龍魚の知見と一齊なるべからず。人天の自界にところをうる、佗類これを疑著し、あるいは疑著におよばず。しかあれば、山流の句を佛祖に學すべし、驚疑にまかすべからず。拈一はこれ流なり、拈一これ不流なり。一回は流なり、一回は不流なり。この參究なきがごときは、如來正法輪にあらず。古佛いはく、欲得不招無間業、莫謗如來正法輪。この道を、皮肉骨髓に銘ずべし、身心依正に銘ずべし。空に銘ずべし、色に銘ずべし。若樹若石に銘ぜり、若田若里に銘ぜり。

これより「山」に対する拈語と為ります。

「山は超古超今より大聖の所居なり。賢人聖人、ともに山を堂奥とせり、山を身心とせり。賢人聖人によりて山は現成せるなり」

山は古今より大聖(釈尊など)の居る所であり、インドでは霊鷲山・中国では観音の所居する補陀落山・日本では最澄の所居する比叡山などと、あらゆる寺院には山号が伴うものである。賢人聖人と称される人々の住まう山はアジール(聖域)とも見なされ堂奥であり、「山を身心とせり」とは山と自己との一体無二を言うものです。ですから「賢人聖人によりて山は現成せる」とは、賢人聖人が行き交う場所は「山」が現成するとも言い得る事に為ります。

「おおよそ山は、幾そばくの大聖大賢入り集まれるらんと覚ゆれども、山は入りぬるよりこのかたは、一人に逢う一人も無きなり。ただ山の活計の現成するのみなり、さらに入り来たりつる蹤跡なお残らず。世間にて山を望む時節と、山中にて山に逢う時節と、頂□(寧+頁)眼睛はるかに異なり」

先に山と人との一体無二を説きますから、山にどれだけ多くの人(大聖大賢)が這入っても、「山」の法体は山そのものですから、「一人に逢う一人も無きなり」とするもので、眼前には山の活計(ハタラキ)つまり山自体が有る(現成する)のみで、人間の出入りする蹤跡(あとかた)の残影さえ残らないのである。

「世間にて山を望む時節」とは能所対侍(見る見られる観点)を以て見る事で、「山中にて山に逢う時節」は能所泯汒(主客なし)で以て見る事を言い、その時の状態は頂□(寧+頁)眼睛の位置が、譬えば頂□(寧+頁)が脚の側面に、また眼睛は臀部にと云うふうに、見る視点により山自体の捉え方も大きく異なるものである。

「不流の憶想および不流の知見も、龍魚の知見と一斉なるべからず。人天の自界に処を得る、他類これを疑著し、或いは疑著に及ばず。しか有れば、山流の句を仏祖に学すべし、驚疑に任すべからず」

この(山)不流の喩えは前項でも説かれたものですが、人間の山は不流との想い(憶想)や見方(知見)も、龍魚の(水)不流の見方と一斉(同等)ではない。

人天界の常識は他類(龍魚等)には及ばない事情を、「人天の自界に処を得る、他類これを疑著し、或いは疑著に及ばず」と表言するのです。

そういう事ですから、「山流の句を仏祖に学すべし」とは、山が流れるとの言句を全体的視野(仏祖)から考察しなさい、との意と思われます。

「拈一はこれ流なり、拈一これ不流なり。一回は流なり、一回は不流なり。この参究なきが如きは、如来正法輪にあらず」

「拈一はこれ流なり」の拈一は一つ取り挙げてみるの意で、これとは山を指し、「山流」を一つ考えてみるに、との意です。さらに流の上には不流も不離不即の間柄ですから、拈一の定型と為ります。「一回は流・不流なり」も同型で、仏法を説く上での常套法は「流には不流・会には不会・即心是仏には非心非仏」(「註解全書」二・二六六)と説くものだとは経豪和尚の見解です。

これらの表裏一体的説明でないものは、「如来正法輪にあらず」との断言で、釈尊からの論法・手法であるとの強調です。

「古仏云く、欲得不招無間業、莫謗如来正法輪。この道を、皮肉骨髄に銘ずべし、身心依正に銘ずべし。空に銘ずべし、色に銘ずべし。若樹若石に銘ぜり、若田若里に銘ぜり」

「古仏云く」の文句は永嘉玄覚(675―713)による『証道歌』の一節に為ります。「不須怨訴更尤人、欲得不招無間業、莫謗如来正法輪、旃檀林無雑樹」(「大正蔵」五一・四六一・上)怨訴して更に人を尤(とが)むる事を須ざれ、無間の業を招かざるを得んと欲せば、如来の正法輪を謗ずる莫れ、旃檀の林には雑樹無し。

「この道」つまり莫謗如来正法輪の言辞を「皮肉骨髄・身心依正・空・色・若樹若石・若田若里」に刻み(銘)つけるとは、身体各位さらには眼前現成する事物に言い聞かせなさい、との意味合いです。

おほよそ山は國界に屬せりといへども、山を愛する人に屬するなり。山かならず主を愛するとき、聖賢高徳やまにいるなり。聖賢やまにすむとき、やまこれに屬するがゆゑに、樹石鬱茂なり、禽獣靈秀なり。これ聖賢の徳をかうぶらしむるゆゑなり。しるべし、山は賢をこのむ實あり、聖をこのむ實あり。帝者おほく山に幸して賢人を拝し、大聖を拝問するは、古今の勝躅なり。このとき、師禮をもてうやまふ、民間の法に準ずることなし。聖化のおよぶところ、またく山賢を強爲することなし。山の人間をはなれたること、しりぬべし。崆峒華封のそのかみ、黄帝これを拝請するに、膝行して叩頭して廣成にとふしなり。釋迦牟尼佛かつて父王の宮をいでて山へいれり。しかあれども、父王やまをうらみず、父王やまにありて太子ををしふるともがらをあやしまず。十二年の修道、おほく山にあり。法王の運啓も在山なり。まことに輪王なほ山を強爲せず。しるべし、山は人間のさかひにあらず、上天のさかひにあらず、人慮の測度をもて山を知見すべからず。もし人間の流に比準せずは、たれか山流山不流等を疑著せん。

これより論調が変わり結語に導かれます。

「おおよそ山は国界に属せりと云えども、山を愛する人に属するなり。山必ず主を愛する時、聖賢高徳やまに入るなり。聖賢やまに住む時、やまこれに属するが故に、樹石鬱茂なり、禽獣霊秀なり。これ聖賢の徳をかうぶらしむる故なり。知るべし、山は賢を好む実あり、聖を好む実あり」

一般に大きな山脈等は、国との境界(ヒマラヤ山脈を背にしてチベット自治区、対してはネパール連邦共和制国家)にされますが、これは物理的な障壁なようなもので、本来的なる「山」は愛でる人に対し、山は必然的に主を受け入れると云った相即の関係が成り立つ事から人境一如が主眼と為ります。

「帝者多く山に幸して賢人を拝し、大聖を拝問するは、古今の勝躅なり。この時、師礼をもて敬う、民間の法に準ずる事なし。聖化の及ぶ処、またく山賢を強為する事なし。山の人間を離れたる事、知りぬべし。崆峒華封のそのかみ、黄帝これを拝請するに、膝行して叩頭して広成に問うしなり」

帝者がみづからが聖賢を拝請する者として、ここでは黄帝が崆峒(広成子)や華封(共に「荘子」からの引用)に対する礼節を、民間の法によらず「膝行・叩頭」するを説くものですが、『古鏡』巻(「正法眼蔵」二・二三・水野・岩波文庫))に於いても、同様の文句にて黄帝の高徳を説く処です。

釈迦牟尼仏かつて父王の宮を出でて山へ入れり。しか有れども、父王やまを恨みず、父王やまに在りて太子を教うる輩を怪しまず。十二年の修道、多く山にあり。法王の運啓も在山なり。まことに輪王なお山を強為せず。知るべし、山は人間の境にあらず、上天の境にあらず、人慮の測度をもて山を知見すべからず。もし人間の流に比準せずは、誰か山流山不流等を疑著せん」

これはシッタ太子時代に於いて「山へ入れり」とし、「父王(浄飯王)やまを恨みず」とヤマを漢字と平仮名での使い分けの真意を強いて挙げるなら、「山」と取道する場合は自然界に於ける見る山を指示し、「やま」と取意する時は普通名詞でいう山も含意するが、根源的真実義を云う場合をやまと呼ぶように使い分けをし、それは文末で道取する処の「山これやまと云うなり」に表明されている事情があるようである。

ですから浄飯王(父王)は真実相(やま)を恨むことなく、やまに在りて教える五比丘をも怪しまず、と文絡するものです。

「十二年の修道」とは王宮を出奔して成道六年その後六年端坐の十二年となる(説話上)。その間は多く山に在し、「法王の運啓」とは釈尊を法王とし、その成道を運啓と呼ぶもので、これらの時も「在山なり」とするが、ここは山をやまに置換しても構わない処です。ですから天輪聖王であっても山を強制(強為)的に、どうとかする問題ではない。

この小論に於ける結語として、「山を人間の境界・天上との境涯・人の慮知を以て山を知見してはいけない」と、再三再四に渉るものですが、先述の悉多太子と浄飯王との関連では山を現象界の事物としましたが、この場合の「山」は本来面目的な真実態を具現した現成公案的山であります。もしも人間の固定概念である「流」という知見に比較準ずる事がなかったならば、誰が「山流山不流」などを疑うことが有ろうか。

謂わんとする処は、コペルニクス的転換とも云うべきもので、これまでの常態を仏法が説く論考を準拠に山流や山不流も世上には現出することを疑ってはならないと。

いま一度例言を出すならば、真夏の炎天下でも大粒の雹(ひょう)が降り積もる事もあり、また最近の集中豪雨とみられる降雨で一山の半面が崩落する事象は、まさに「山流」に相当するものである。

あるいはむかしよりの賢人聖人、まゝに水にすむもあり。水にすむとき、魚をつるあり、人をつるあり、道をつるあり。これともに古來水中の風流なり。さらにすゝみて自己をつるあるべし、釣をつるあるべし、釣につらるゝあるべし、道につらるゝあるべし。むかし徳誠和尚、たちまちに藥山をはなれて江心にすみしすなはち、華亭江の賢聖をえたるなり。魚をつらざらんや、人をつらざらんや、水をつらざらんや、みづからをつらざらんや。人の徳誠をみることをうるは、徳誠なり。徳誠の人を接するは、人にあふなり。世界に水ありといふのみにあらず、水界に世界あり。水中のかくのごとくあるのみにあらず、雲中にも有情世界あり、風中にも有情世界あり、火中にも有情世界あり、地中にも有情世界あり。法界中にも有情世界あり、一莖草中にも有情世界あり、一拄杖中にも有情世界あり。有情世界あるがごときは、そのところかならず佛祖世界あり。かくのごとくの道理、よくよく參學すべし。しかあれば、水はこれ眞龍の宮なり、流落にあらず。流のみなりと認ずるは、流のことば、水を謗ずるなり。たとへば非流と強爲するがゆゑに。水は水の如是實相のみなり、水是水功徳なり、流にあらず。一水の流を參究し、不流を參究するに、萬法の究盡たちまちに現成するなり。山も寶にかくるゝ山あり、沢にかくるゝ山あり、空にかくるゝ山あり、山にかくるゝ山あり。藏に藏山する參學あり。古佛云、山是山、水是水。この道取は、やまこれやまといふにあらず、山これやまといふなり。しかあれば、やまを參究すべし、山を參窮すれば山に功夫なり。かくのごとくの山水、おのづから賢をなし、聖をなすなり。

先ほどは山に対する総論的記述でしたが、次には水に対する総括的まとめに入り、結論部では「山水」に対する究意論と為ります。

「或いは昔よりの賢人聖人、ままに水に住むも有り。水に住む時、魚を釣る有り、人を釣る有り、道を釣る有り。これともに古来水中の風流なり。さらに進みて自己を釣る有るべし、釣を釣る有るべし、釣に釣らるる有るべし、道に釣らるる有るべし」

先程は聖賢高徳はやまに入るなり。との事でしたが、その賢人聖人は時々(まま)には「水に住むも有り」とは、山と同じく大自然と一体に溶け込み生活するとの意です。

水に住む時には、漁師であれば魚を釣る有り、船頭であれば人間との関係も生じ、出家人であれば仏道との縁も有り。との意味合いであり、これらは古来より水に聯関しての風流(ありよう)である。

さらに出家道人ならば、みづから自己を釣り、釣自体を釣り、逆に釣っているつもりが釣られている、仏道に釣られている。と云った喩えようは、釣る釣られるの能所・主客を一味態に水と自然と自己との一体を唱えるもので、云うなれば生物用語に云うフェノロジー(同期・同時性開花)の考え方にも通ずるようです。

「むかし徳誠和尚、忽ちに薬山を離れて江心に住みし即ち、華亭江の賢聖を得たるなり。魚を釣らざらんや、人を釣らざらんや、水を釣らざらんや、みづからを釣らざらんや。人の徳誠を見る事を得るは、徳誠なり。徳誠の人を接するは、人に逢うなり」

前句は徳誠和尚に連絡する為の序言でありまして、この文は船子徳誠(生没不詳)と夾山善会(805―881)との因縁話語を述べたものです。

「徳誠和尚」は普段は人々から華亭の船子和尚と親呼されたようで、船頭(渡し守)を行いながら「道を釣り、人を釣る」を家業としていたようですが、薬山惟儼十人の法嗣の中では第三位に列するもので、その兄弟子になる道吾円智(生没不詳)との機縁により、京口(江蘇州鎮江市)の住持であった夾山善会が浙中の華亭県(上海市松江県)の船子徳誠に出向き、一句合頭語は万劫繋驢橛との言を以て、船から突き落とされ大悟したとの話頭である。因みに『真字正法眼蔵』(上・九〇)にても長文が記録されます。

ここでは徳誠と善会とが啐啄同期的機随により一味態と成ったことを、「魚・人・水・みづからを釣る」と言った詞で表したものと見られます。

「世界に水ありと云うのみにあらず、水界に世界あり。水中のかくの如く有るのみにあらず、雲中にも有情世界あり、風中にも有情世界あり、火中にも有情世界あり、地中にも有情世界あり。法界中にも有情世界あり、一茎草中にも有情世界あり、一拄杖中にも有情世界あり。有情世界あるが如きは、その所必ず仏祖世界あり。かくのご如くの道理、よくよく参学すべし」

ここでの言い分も前言に説かれるように、パラダイム転換やコペルニクス的に物の見方と、廻頭転脳的発想を説くものと思われます。前頁にも「一滴の中にも無量の仏国土現成なり」との言詞は「水界に世界あり」と連脈するもので、「水界・水中」に限定せず「雲中・風中・火中・地中・法界中・一茎草中・一拄杖中」と尽十方世界のあらゆる事物・事象に言及することで、「仏祖世界」が現出する道理を努々(よくよく)参学すべし。と、尽界世界はは仏祖世界で有るとの言明と為ります。

「しか有れば、水はこれ真龍の宮なり、流落にあらず。流のみなりと認ずるは、流のことば、水を謗ずるなり。たとえば非流と強為するが故に。水は水の如是実相のみなり、水是水功徳なり、流にあらず。一水の流を参究し、不流を参究するに、万法の究尽忽ちに現成するなり」

「水はこれ真龍の宮なり」の水は根源的生命活動を云い、真龍とは其の生命活動を具体的事例で述べたものですが、云うなれば真実底の参学人とでも呼ぶべきものです。ですから、その水は単なる液体ではない事から、「流落にあらず」とし、単に水(この場合はH₂O水)の「流のみ」と認めるならば、「水」(真実態とH₂O両義)を冒瀆するも同義であり、云うなれば、始めから結論ありきの論調で「非流」と、ごり押し(強為)で通す凡愚な連中を指してのものです。

「水は水の如是実相のみなり」も「水是水功徳なり」は、水(真実相とH₂O両義)に対する根源的理解ないし附随する効用等を加味せず、水そのものを直視すべきである、との意に解せられます。

極意は、「一つの水(生命そのもの)」に於ける「流・不流」の動態を参学究明することで、「万(一の対語)の法が同時態に忽然現成する状況を、一法通ずれば万法通ず、と云うのである。

「山も宝に隠るる山あり、沢に隠るる山あり、空に隠るる山あり、山に隠るる山あり。蔵に蔵山する参学あり。古仏云、山是山、水是水。この道取は、やまこれやまと云うにあらず、山これやまと云うなり。しか有れば、やまを参究すべし、山を参窮すれば山に功夫なり。かくの如くの山水、おのづから賢を為し、聖を為すなり」

「山も宝に」云々のソース(出典)と思われる『宏智頌古』八一則(「大正蔵」四八・二五・下)に於ける「夜壑蔵舟、澄源著棹、龍魚未知水為命―後略」ならびに『従容録』(「大正蔵」四八・二七九・下)八一則評唱の「夫蔵舟於壑、蔵山於沢―後略」に於ける、「沢にかくるる山」(蔵山於沢)をモチーフにし山には「宝に隠るる山・沢に隠るる山・空に隠るる山・山に隠るる山」と山の多様性を掲げられ、畢竟つまる処は山が山と同態と為るわけですから、「蔵に蔵山する」成りきる事実を参学しなさい、とのことです。

「山是山、水是水」の出典拠は『宏智広録』五(「大正蔵」四八・五九・中及び「同」六八・上)からと考えられます。この「山是山、水是水」に到るには「古人道、一言尽十方、絲毫未挙揚、箇是恁麼言、便知道。山是山水是水、人是人法是法、世界爾塵塵爾、法法爾念念爾―後略」と、このように尽十方を説かんが為の「山是山、水是水」だったようです。

これにて当巻の結語に転じるわけですが、よくも此のような的確な文言を拈出しての、ロジカル(論理的)な文体に仕立て上げたものかと驚くばかりです。

「この道取」つまり宏智の云う山是山は、単純なやまを云うのではなく、山(自然の一部)これ(是)やま(尽十方真実相)としての生命体として理解しなさい。との言ですが、これは先に説かれた「聖賢やまに住むなり」のやまに連絡するものです。

ですから、「やま」の真実を参学究明し、「山」を参窮すれば「山に功夫なり」とは、『御抄』でも窮したようで「この詞少し何とやらん、違いたる様に聞こゆ」(註解全書)二・二七八)言葉を残していますが、これは単純に「山を参窮(究)すれば山そのものになる」と云ったもの言いと思われます。

ですから、このような「山水」という生命を宿す真実相態には、賢聖が出入りするのである。

最後に木村清孝氏『正法眼蔵全巻解説』による結論部の紹介をすると、「華厳教学が鮮や

かに理論化した一即一切の思想に近似する」さらに「道元の結論は、山水ともにおのずから聖をなし、賢をなし、自然はそのままで真実なるものの現成として、聖賢と同質の権威と尊厳性を有すると、道元は見るのである」と評されるを記して、擱筆とする。