正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵洗浄

正法眼蔵第五十四 洗浄

    一

佛祖の護持しきたれる修證あり、いはゆる不染汚なり。

南嶽山觀音院大慧禪師、因六祖問、還假修證不。大慧云、修證不無、染汚即不得。六祖云、只是不染汚、諸佛之所護念。汝亦如是、吾亦如是、乃至西天祖師亦如是云々。

大比丘三千威儀經云、淨身者、洗大小便、剪十指爪。

しかあれば、身心これ不染汚なれども、淨身の法あり、心あり。たゞ身心をきよむるのみにあらず、國土樹下をもきよむるなり。國土いまだかつて塵穢あらざれども、きよむるは諸佛之所護念なり。佛果にいたりてなほ退せず、廢せざるなり。その宗旨、はかりつくすべきことかたし。作法これ宗旨なり、得道これ作法なり。

華嚴經淨行品云、

左右便利 當願衆生 蠲除穢汚 無婬怒癡

已而就水 當願衆生 向無上道 得出世法

以水滌穢 當願衆生 具足淨忍 畢竟無垢

水かならずしも本淨にあらず、本不淨にあらず。身かならずしも本淨にあらず、本不淨にあらず。諸法またかくのごとし。水いまだ情非情にあらず、身いまだ情非情にあらず、諸法またかくのごとし。佛世尊の説、それかくのごとし。しかあれども、水をもて身をきよむるにあらず。佛法によりて佛法を保任するにこの儀あり。これを洗淨と稱ず。佛祖の一身心をしたしくして正傳するなり。佛祖の一句子をちかく見聞するなり。佛祖の一光明をあきらかに住持するなり。おほよそ無量無邊の功徳を現成せしむるなり。身心に修行を威儀せしむる正當恁麼時、すなはち久遠の本行を具足圓成せり。このゆゑに、修行の身心本現するなり。

十指の爪をきるべし。十指といふは、左右の兩手の指のつめなり。足指の爪、おなじくきるべし。經にいはく、つめのながさもし一麦ばかりになれば罪をうるなり。しかあれば、爪をながくすべからず。爪のながきは、おのづから外道の先蹤なり。ことさらつめをきるべし。

提唱での冒頭部にて、その巻の主旨を述べるを、道元禅師の文章構造態としますと、この『洗浄』巻でのキーワードは「仏祖・護持・修証・不染汚」となります。

そこで「不染汚」について問われる巻は、『即心是仏』『行仏威儀』『坐禅儀』『海印三昧』『授記』『神通』『自証三昧』各巻にて取り扱われますが、『神通』巻では「不染汚といふは平常心なり」と記され、仏祖の護持する修証とは特別なことではなく、日常底を行持するとの事です。

この主旨に則した話頭の出典は『景徳伝灯録』五(「大正蔵」五一・二四〇・下)南嶽章ですが、『真字正法眼蔵』中・一則にも同話が引用されます。この話頭は『自証三昧』『遍参』『恁麼』『行持』『行仏威儀』『身心学道』それぞれの巻にも引用され、「正法眼蔵」を通脈する課題であったようです。また『永平広録』三七四則(建長二年・1250・春頃)・同四九〇則(建長四年・1252・三月)にも上堂され、晩年に至るまで自他共々に問い続けたわけです。

「南嶽山観音院大慧禅師、因六祖問、還仮修証不」(南嶽山観音院大慧(懐讓)禅師に、因みに六祖(慧能)問う、はた(還)として修証を仮るや不(いな)や)

「大慧云、修証不無、染汚即不得」(大慧云く、修証は無きにあらず、染汚(ぜんな)することは即ち得ず)

「六祖云、只是不染汚、諸仏之所護念。汝亦如是、吾亦如是、乃至西天祖師亦如是云々」(六祖云く、只だ是の不染汚は、諸仏の護念する所。汝も亦是の如し、吾も亦是の如し、乃至西天の祖師も亦如是なり云々)

なお「観音院」の語は先の『景徳伝灯録』には無く、『天聖広灯録』(1036年編)目録部第八(「続蔵」一三五・五九六・上)で示されるものである。

「大比丘三千威儀経云、浄身者、洗大小便、剪十指爪」(浄身とは、大小便を洗い、十指の爪を剪ることなり)

出典は記述の如く『大比丘三千威儀経』(「大正蔵」二四・九一四・上)からのものですが、聯関する『洗面』巻同様の経典です。

「しか有れば、身心これ不染汚なれども、浄身の法あり、心あり。ただ身心を浄むるのみにあらず、国土樹下をも浄むるなり。国土未だ曾て塵穢あらざれども、浄むるは諸仏之所護念なり。仏果に至りてなお退せず、廃せざるなり。その宗旨、測り尽すべき事難し。作法これ宗旨なり、得道これ作法なり」

「身心」を普通は身体と表意しますが、ここでのボディーで、心は一切の事物・事象をっ表しますから、身心が「国土」とも「樹下」とも言い換え可能なわけです。

ですから、現前する存在世界は「不染汚」という本来面目ですが、形而下に於いては「浄身」・「浄心」の法(行為)が付きものであり、さらに国土樹下をも浄心しなければならない。国土には塵穢がなくとも、浄むる行為が「諸仏之所護念」である。

この経で云う宗旨は、作法(生活態度)が有る処、得道が併存するとの拈提です。

次に示す『華厳経』浄行品(「大正蔵」九・四三一・上)は『洗面』巻でも引用した箇所です。

「左右便利 当願衆生 蠲除穢汚 無婬怒癡」(便利(大小便)を左右するに、 当に衆生と願うべし、 穢汚を蠲除して、 婬怒癡が無からんを)

「已而就水 当願衆生 向無上道 得出世法」(已に水に就いては、 当に衆生と願うべし、 無上道に向い、 出世の法を得んを)

「以水滌穢 当願衆生 具足浄忍 畢竟無垢」(水を以穢を滌(すす)ぐに、 当に衆生と願うべし、 浄忍を具足して、 畢竟無垢ならん)

「水必ずしも本浄にあらず、本不浄にあらず。身必ずしも本浄にあらず、本不浄にあらず。諸法又かくの如し。水いまだ情非情にあらず、身いまだ情非情にあらず、諸法又かくの如し。仏世尊の説、それかくの如し」

「浄行品」では「水」を媒介に汚れを除くとしますが、水自体には浄・不浄はなく無生であると言い、「身」も同じであり、あらゆる事象(諸法)も本来無生と説く言いようです。同様に「情・非情」も無生であり、善性・悪性・無記性には判別し難い事であり、これが世尊の説く仏法である。

「しか有れども、水をもて身を浄むるにあらず。仏法によりて仏法を保任するにこの儀あり。これを洗浄と称ず。仏祖の一身心を親しくして正伝するなり。仏祖の一句子を近く見聞するなり。仏祖の一光明を明らかに住持するなり。おほよそ無量無邊の功徳を現成せしむるなり。身心に修行を威儀せしむる正當恁麼時、すなはち久遠の本行を具足圓成せり。このゆゑに、修行の身心本現するなり」

「洗浄」の定義として水で浄むるのではなく、「仏法」という真実の儀(方法)で以て浄むるとの言になります。水も真実の表徴ではありますが、ここでの仏法の真実とは全体を言い、一事物に限定する事なしを称して、「仏法によりて洗浄」と言うものです。

仏祖の「一身心・一句子・一光明」と表記されますが、仏祖と仏法とは同格ですから、一身心を以て全一、一字句で全一、一光明は全一と意訳できますから、仏祖が「正伝・見聞・住持」を行ずるとの関連語として見られます。

身心・句子・光明を仏祖と認得したように、仏法の功徳は無量無辺を現成せしむるのであるが、それは身心(全体)に修行の形態を威儀させる。その時には、永遠(久遠)の真実(本行)を具足円成するので有りますから、修行の身心(全体)が本来現成するのである。

「十指の爪を剪るべし。十指というは、左右の両手の指の爪なり。足指の爪、同じく剪るべし。経に云く、爪の長さもし一麦ばかりになれば罪を得るなり。しか有れば、爪を長くすべからず。爪の長きは、おのづから外道の先蹤なり。ことさら爪を剪るべし」

文意のままに解されるが、「爪の長さ一麦」云々の経文は、『三千威儀経』にも見られませんが、「外道の先蹤」とは『長爪梵志請問経』(「大正蔵」一四・九六六・上)のバラモン僧である「長爪梵志」と考えられます。

しかあるに、いま大宋國の僧家のなかに、參學眼そなはらざるともがら、おほく爪をながからしむ。あるいは一寸兩寸、および三四寸にながきもあり。これ非法なり。佛法の身心にあらず。佛家の稽古あらざるによりてかくのごとし。有道の尊宿はしかあらざるなり。あるいは長髪ならしむるともがらあり、これも非法なり。大國の僧家の所作なりとして、正法ならんとあやまることなかれ。

先師古佛、ふかくいましめのことばを、天下の僧家の長髪長爪のともがらにたまふにいはく、不會淨髪、不是俗人、不是僧家、便是畜生。古來佛祖、誰是不淨髪者。如今不會淨髪箇、眞箇是畜生。

かくのごとく示衆するに、年來不剃頭のともがら、剃頭せるおほし。あるいは上堂、あるいは普説のとき、彈指かまびすしくして責呵す。いかなる道理としらず。胡亂に長髪長爪なる、あはれむべし、南浮の身心をして非道におけること。近來二三百年、祖師道癈せるゆゑにしかのごとくのともがらおほし。かくのごとくのやから、寺院の主人となり、師号に署して爲衆の相をなす、人天の無福なり。いま天下の諸山に、道心箇渾無なり、得道箇久絶なり、祗管破落儻のみなり。かくのごとく普説するに、諸方に長老の名をみだりにせるともがら、うらみず、陳説なし。しるべし、長髪は佛祖のいましむるところ、長爪は外道の所行なり。佛祖の兒孫、これらの非法をこのむべからず。身心をきよからしむべし、剪爪剃髪すべきなり。

ここは在宋当時の僧院での風習や、天童寺での如浄入寺当時の風俗を語るものです。

「しか有るに、いま大宋国の僧家の中に、参学眼備わらざる輩、多く爪を長からしむ。或いは一寸両寸、および三四寸に長きも有り。これ非法なり。仏法の身心にあらず。仏家の稽古あらざるによりてかくの如し。有道の尊宿はしかあらざるなり。或いは長髪ならしむる輩あり、これも非法なり。大国の僧家の所作なりとして、正法ならんと誤まる事なかれ」

文意のままに解されますが、爪の長さが「三四寸」とは十センチ前後となりますから、俄かには信じ難い風景ですが、そんな状況では、台所や流し場での典座職はと、他人事ながら考えさせられます。このような事が僧侶の所作と自覚していたとするなら、道元禅師の「杜撰のやから」の語調も頷けます。

「先師古仏、深く戒めの言葉を、天下の僧家の長髪長爪の輩に賜うに云く、不会浄髪、不是俗人、不是僧家、便是畜生。古来仏祖、誰是不浄髪者。如今不会浄髪箇、真箇是畜生。かくの如く示衆するに、年来不剃頭の輩、剃頭せる多し」

この如浄の深く戒めのことばは、『宝慶記』第九問「今日天下長老、長髪長爪者、有何所據。将称比丘、頗似俗人、将名俗人ー以下略」と道元禅師が質問すると、如浄和尚は「真箇是畜生也。仏法清浄海中死屍也」と同類に推定出来得るものです。

『宝慶記』の記録期間は宝慶元年(1225)七月二日から一年乃至一年半と考えられ、さらには第十段は宝慶元年の夏安居中と推察(『道元禅研究』四〇六頁・伊藤秀憲著)されることから、この如浄が示した「真箇是畜生也」も同時期と思われます。

それでは本文に於ける「長髪長爪の徒」に諭すような示衆文は、どの時期を云うのであろうか、少し考えてみたい。

如浄が天童寺に入寺したと思われる日月は、嘉定十七年(1224)七月後半から八月(前掲書一〇三頁)と見られますが、前住持である無際了派が示寂した時期は同年四月頃(『如浄語録』再住浄慈禅寺語録に、「仏生日」上堂の次に「派和尚遺書」上堂が記載される。(「大正蔵」四八・一二六・下)と、見られることから、天童山景徳寺では嘉定十七年(1224)四月から同年八月頃までの五か月前後の期間、住職不在の状態が生じた為に、天童山内に住する杜撰のともがらが、「長髪長爪」の非法に及んだと推察されます。

これらの事情を勘案すると、「浄髪を会せざらんは、是れ俗にあらず、是れ僧家にあらず、便ち是れ畜生なり。古来の仏祖、誰か是れ浄髪せざる者は、如今浄髪を会せざらん箇(者)は、真箇是畜生なり」の示衆は、入寺から間もなくの頃と考察されます。しかるに、この如浄の語言を以てしても、「剃頭せる多し」の逆説として剃頭しないやからが存在したようです。

そうなると『宝慶記』に記された「拝問、今日天下長老、長髪長爪」云々は、同じ文言が一年後に丈室にて行われた事になり、些か釈然としない結果になりましたが、後日機会が有れば再考したく思います。

「或いは上堂、あるいは普説の時、弾指かまびすしくして責呵す。如何なる道理と知らず。胡乱に長髪長爪なる、憐れむべし、南浮の身心をして非道に於ける事。近来二三百年、祖師道廃せる故にしかの如くの輩多し。かくの如くの族、寺院の主人となり、師号に署して為衆の相をなす、人天の無福なり。いま天下の諸山に、道心箇渾無なり、得道箇久絶なり、祗管破落儻のみなり」

先程の不剃頭のやからには、再三にわたって上堂という正式な場、普説での略式な場に於いて弾指し糾弾する語言に対する著語を、「近来二三百年、祖師道廃せる故にしかの如くの輩多し。かくの如くの族、寺院の主人となり」と評されますが、この言い様は『諸法実相』巻(寛元元年(1243)九月吉峰寺示衆)に於ける「懐仏法のともがら、実相の有るべしとだにも知らずして、すでに二三百年を経たり。仏祖の正法を参学するは、如何なるべし、とも知らざる多し。ただ住院の稽古と思えり。憐れむべし、祖師道廃せる事を」(『正法眼蔵』二・四四四頁・「岩波文庫」・水野)と、連脈することからも、当巻と正法眼蔵大系との聯関が明白な箇所です。

これらの長髪長爪なるやからが、禅師号や国師号などを手に入れ、衆生済度(為衆)と称して体裁を繕うは、人間界・天上界にとっては無福である。今(嘉定十七年(1224)前後)の諸山に住する状態は、道心箇渾無(道心ある者(箇)は渾(まった)く無し)、得道箇久絶(得道の箇(者)は久しく絶え)、祗管破落儻(ただ(祗管)ヤクザ坊主・ならず者(破落)の仲間(儻)であるとの評価ですが、相当な破れ大乗の僧伽だったようです。

「かくの如く普説するに、諸方に長老の名を妄りにせる輩、恨みず、陳説なし。知るべし、長髪は仏祖の戒しむる処、長爪は外道の所行なり。仏祖の児孫、これらの非法を好むべからず。身心を浄からしむべし、剪爪剃髪すべきなり」

如浄の説教には説得力があったと見え、反論する事なく、皆素直に従ったようです。

改めて僧伽に於いては、長髪は仏祖の禁制で長爪は仏道外の道人の所行であり、これらを非法と自覚し、剪爪剃髪すべき。と結ばれます。

これまでが、本巻での概説的趣意を述べたもので、これから具体的に説明に入ります。

洗大小便おこたらしむることなかれ。舎利弗この法をもて外道を降伏せしむることありき。外道の本期にあらず、身子が素懷にあらざれども、佛祖の威儀現成するところに、邪法おのづから伏するなり。樹下露地に修習するときは起屋なし、便宜の谿谷河水等によりて、分土洗淨するなり。これは灰なし、たゞ二七丸の土をもちゐる。二七丸をもちゐる法は、まづ法衣をぬぎてたゝみおきてのち、くろからず、黄色なる土をとりて、一丸のおほきさ、大なる大豆許に分して、いしのうへ、あるいは便宜のところに、七丸をひとならべにおきて、二七丸をふたへにならべおく。そののち、磨石にもちゐるべき石をまうく。そののち屙す。屙後使籌、あるいは使紙。そののち水邊にいたりて洗淨する、まづ三丸の土をたづさへて洗淨す。一丸土を掌にとりて、水すこしばかりをいれて、水に合してときて、泥よりもうすく、漿ばかりになして、まづ小便を洗淨す。つぎに一丸の土をもてさきのごとくして大便處を洗淨す。つぎに一丸の土をさきのごとくして略して觸手をあらふ。寺舎に居してよりこのかたは、その屋を起立せり。これを東司と稱ず。ふるきには圊といひ、厠といふときもありき。僧家の所住にかならずあるべき屋舎なり。東司にいたる法は、かならず手巾をもつ。その法は、手巾をふたへにをりて、ひだりのひぢのうへにあたりて、衫袖のうへにかくるなり。すでに東司にいたりては、淨竿に手巾をかくべし。かくる法は、臂にかけたりつるがごとし。もし九條七條等の袈裟を著してきたれらば、手巾にならべてかくべし。おちざらんやうに打併すべし。倉卒になげかくることなかれ。よくよく記号すべし。記号といふは、淨竿に字をかけり。白紙にかきて月輪のごとく圓にして、淨竿につけ列せり。しかあるを、いづれの字にわが直裰はおけりとわすれず、みだらざるを記号といふなり。衆家おほくきたらんに、自佗の竿位を亂すべからず。このあひだ、衆家きたりてたちつらなれば、叉手して揖すべし。揖するに、かならずしもあひむかひ曲躬せず。たゞ叉手をむねのまへにあてて気色ある揖なり。東司にては、直裰を著せざるにも、衆家と揖し気色するなり。もし兩手ともにいまだ觸せず、兩手ともにものをひさげざるには、兩手を叉して揖すべし。もしすでに一手を觸せしめ、一手にものを提せらんときは、一手にて揖すべし。一手にて揖するには、手をあふげて、指頭すこしきかゞめて、水を掬せんとするがごとくしてもちて、頭をいさゝか低頭せんとするがごとく揖するなり。佗、かくのごとくせば、おのれかくのごとくすべし。おのれかくのごとくせば、佗またしかあるべし。褊衫および直裰を脱して、手巾のかたはらにかくる法は、直裰をぬぎとりて、ふたつのそでをうしろへあはせて、ふたつのわきのしたをとりあはせてひきあぐれば、ふたつのそでかさなれる。このときは、左手にては直裰のうなじのうらのもとをとり、右手にてはわきをひきあぐれば、ふたつのたもとと左右の兩襟と、かさなるなり。兩袖と兩襟とをかさねて、又たゝざまになかよりをりて、直裰のうなじを淨竿の那邊へなげこす。直裰の裙ならびに袖口等は、竿の遮邊にかゝれり。たとへば、直裰の合腰、淨竿にかくるなり。つぎに竿にかけたりつる手巾の遮那兩端をひきちがへて、直裰よりひきこして、手巾のかゝらざりつるかたにて又ちがへてむすびとゞむ。兩三匝もちがへもちがへしてむすびて、直裰を淨竿より落地せしめざらんとなり。あるいは直裰にむかひて合掌す。つぎに絆子をとりて兩臂にかく。つぎに淨架にいたりて、淨桶に水を盛て、右手に提して淨厠にのぼる。淨桶に水をいるゝ法は、十分にみつることなかれ、九分を度とす。厠門のまへにして換鞋すべし。蒲鞋をはきて、自鞋を厠門の前に脱するなり。これを換鞋といふ。

これから東司(トイレ)に於ける威儀を「作法これ宗旨、得道これ作法」に基づき詳細に説いていかれます。

「洗大小便怠らしむる事なかれ。舎利弗この法をもて外道を降伏せしむる事有りき。外道の本期にあらず、身子が素懐にあらざれども、仏祖の威儀現成する処に、邪法おのづから伏するなり。樹下露地に修習する時は起屋なし、便宜の渓谷河水等によりて、分土洗浄するなり。これは灰なし、ただ二七丸の土を用いる」

ここでの説明は『根本説一切有部毘奈耶雑事』十六(「大正蔵」二四・二七七・上)に基づく舎利弗と外道(婆羅門)との説話を土台にしたものですが、ある時婆羅門がジェータ林に詣でた折に、舎利弗の大小便処に於いての威儀作法に感服し、舎利弗の双足を頂礼し、梵行勤修不放逸を誓ったとされる話頭を、「邪法おのづから伏するなり」と拈語されたものです。

次には野外に於ける時の作成を、「外道は百土を用い洗浄するが、釈子は須く二七」と経文に示す処を、「ただ二七丸の土を用いる」と述べられます。

「二七丸を用いる法は、まづ法衣を脱ぎて畳み置きて後、黒からず、黄色なる土を取りて、一丸の大きさ、大なる大豆許に分して、石の上、或いは便宜の処に、七丸をひと並べに置きて、二七丸を二重に並べ置く。その後、磨石に用いるべき石を設く。その後屙す。屙後使籌、或いは使紙。その後水辺に到りて洗浄する」

さて、これより具体的に威儀作法の説明に入ります。

「二七丸」とは十四個の丸い土で、最初に法衣を脱ぎとしますが、前述律文では「法服は風上に置く」とします。黒色でなく黄色土としますが、これは袈裟色と同色を選ぶのか、一丸の大きさを大豆程の大きさと云うと、ビー玉を想像すればと思われますが、これらの詳細は律文には記載ありません。

七丸を二重に並べ置き、磨石(触手の清め石)を置き、用を足した後は籌(竹・木のへら)又は紙を使用し、水辺に行き洗浄する。と述べられますが、先の律文では、舎利弗は始めに三升の瓶水を持参するのに、何故水辺が有ることを条件を述べるのなら、最初に水を用意すべき気もするのですが。

「まづ三丸の土を携えて洗浄す。一丸土を掌に取りて、水少しばかりを入れて、水に合して溶きて、泥よりも薄く、漿ばかりに成して、まづ小便を洗浄す。次に一丸の土をもて先の如くして大便処を洗浄す。次に一丸の土を先の如くして略して触手を洗う」

文意のままに解し得るが、黄色の土を溶解する意味は、殺菌・消毒の作用が有っての事でしょうか。筆者がタイ国サイヨークの寺に在した折にも「水」のみで排便処を洗浄し、他の上座僧も同様で有ったと思われます。なお「漿」はおもゆと解されます。

因みに筆者、ネパールの首都に居住の頃(1984年)でも年配の人達の談話では、赤土の泥をシャンプーの代用として、洗髪していたとの話を想い出す。

「寺舎に居してよりこのかたは、その屋を起立せり。これを東司と称ず。古きには圊と云い、厠と云う時も有りき。僧家の所住に必ず有るべき屋舎なり」

これよりは屋内での洗浄に関する作法になるわけですが、禅院では特に東司を七堂伽藍(山門・仏殿・法堂・僧堂・庫院・浴室・東司)の一つに充当し、威儀寂静の場となり、昔は圊(せい)とも呼び、厠(かわや)とも呼ばれ、この東司は寺舎での欠くべからざる舎屋になります。

「東司に到る法は、必ず手巾を持つ。その法は、手巾を二重に折りて、左の臂の上に当たりて、衫袖の上に掛くるなり。すでに東司に到りては、浄竿に手巾を掛くべし。掛くる法は、臂に掛けたりつるが如し。もし九条七条等の袈裟を著して来たれらば、手巾に並べて掛くべし。落ちざらんように打併すべし。倉卒に投げ掛くる事なかれ。よくよく記号すべし。記号と云うは、浄竿に字を書けり。白紙に書きて月輪の如く円にして、浄竿につけ列せり。しか有るを、いづれの字にわが直裰は置けりと忘れず、妄らざるを記号と云うなり。衆家多く来たらんに、自佗の竿位を乱すべからず」

この説明文からは、恐らく在宋当時の天童山での行法を、想い出しながらの筆起こし作業と思われます。

東司に行くには手巾を持参との事ですが、現今は直綴の腰ひもが手巾の代用になっていますが、浄竿に二重に折った手巾を掛け、袈裟を並べて掛けるのであるが、人数が多いと皆同じような袈裟や直綴である為、白紙に円を書いた目印を浄竿に著けて、他人の衣服と間違える事のないよう倉卒にしてはいけない。と述べられます。

「この間、衆家来たりて立ち連なれば、叉手して揖すべし。揖するに、必ずしも合い向かい曲躬せず。たゞ叉手を胸の前に当てて気色ある揖なり。東司にては、直裰を著せざるにも、衆家と揖し気色するなり。もし両手共に未だ触せず、両手共に物をひさげざるには、両手を叉して揖すべし。もしすでに一手を触せしめ、一手にものを提せらん時は、一手にて揖すべし。一手にて揖するには、手を仰げて、指頭少しき屈めて、水を掬せんとするが如くして持ちて、頭を些か低頭せんとするが如く揖するなり。佗、かくの如くせば、おのれかくの如くすべし。おのれかくの如くせば、佗またしか有るべし」

一つ一つの単純な動作でも文章にすると複雑になりますが、実際に眼にする時には、ほんの数秒の出来事です。

如常では、向かい合う時には曲躬低頭合掌等の作法が有りますが、東司処にて、大勢の雲衲が用便をする時には、臨機応変に作法も略して行ずる事も許されます。

相互にすれ違う場合などでは、「叉手」して「揖す」とあります。寺舎内では放逸する事を嫌う為、叉手が常態化するわけですが、叉手は『禅苑清規』小参章(「続蔵」六三・五二八・上)では「叉手は右手を握り胸に当て」とあるように、右手の上に握りこぶしを上にし、親指は互いに交叉する事から叉の字「さしはさむ」を用いるのです。また揖すとは軽く低頭する事で、「会釈」と解します。

「気色ある揖なり」とは、正式な場面ではないので曲躬せず、気持ちで意思表示する事です。また両手が空いている時は叉して揖するが、片手しか使えない状況下では、手を平を上にし、指を少し曲げて揖する事になりますが、如常の道場なら、これらの行為が互いに為される。と説明されます。

「褊衫および直裰を脱して、手巾の傍らに掛くる法は、直裰を脱ぎ取りて、二つの袖を後ろへ合わせて、二つの脇の下を取り合せて引上ぐれば、二つの袖重なれる。この時は、左手にては直裰のうなじの裏の元を取り、右手にては脇を引き上ぐれば、二つの袂と左右の両襟と、重なるなり。両袖と両襟とを重ねて、又たゝざまに中より折りて、直裰のうなじを浄竿の那辺へ投げ越す。直裰の裙ならびに袖口等は、竿の遮辺に掛かれり。喩えば、直裰の合腰、浄竿に掛くるなり。次に竿に掛けたりつる手巾の遮那両端を引きちがへて、直裰より引き越して、手巾の掛からざりつる方にて又ちがへて結びとどむ。両三匝もちがへもちがへして結びて、直裰を浄竿より落地せしめざらんとなり。或いは直裰に向かいて合掌す」

恐らく天童山での雲衲は、褊衫を愛用する者もしくは直裰を著用する者と混在していたようで、ここでは直裰を例に説明されます。

褊衫は「上に着る袖の広く長い衣」で、同時に裙も著用するが「腰ごろも」を云い、上座部南方僧が著する衣で「裙褊衫」と云い、直裰は裙褊衫を上下一枚に縫い合わせた衣である。『洗面』巻にも同句が記される。

「次に絆子を取りて兩臂に掛く。次に浄架に到りて、浄桶に水を盛て、右手に提して浄厠に上る。浄桶に水を入るる法は、十分に満つる事なかれ、九分を度とす。厠門の前にして換鞋すべし。蒲鞋を履きて、自鞋を厠門の前に脱するなり。これを換鞋と云う」

「絆子」とは、たすきで、(着物の)両臂をたすき掛けにし、厠に臨むわけです。

 

    二

禪苑清規云、欲上東司、應須預往。勿致臨時内逼倉卒。乃疊袈裟、安寮中案上或淨竿上。

厠内にいたりて、左手にて門扇を掩す。つぎに淨桶の水をすこしばかり槽裏に瀉す。つぎに淨桶を當面の淨桶位に安ず。つぎにたちながら槽にむかひて彈指三下すべし。彈指のとき、左手は拳にして、左腰につけてもつなり。〈禪苑清規三千威儀經文事、入べし〉

つぎに袴口衣角ををさめて、門にむかひて兩足に槽唇の兩邊をふみて蹲居し、屙す。兩邊をけがすことなかれ、前後にそましむることなかれ。このあひだ黙然なるべし。隔壁と語笑し、聲をあげて吟詠することなかれ。涕唾狼藉なることなかれ、怒気卒暴なることなかれ。壁面に字をかくべからず、厠籌をもて地面を劃ことなかれ。屙屎退後、すべからく使籌すべし。又かみをもちゐる法あり。故紙をもちゐるべからず。字をかきたらん紙、もちゐるべからず。淨籌觸籌わきまふべし。籌はながさ八寸につくりて三角なり。ふとさは手母指大なり。漆にてぬれるもあり、未漆なるもあり。觸は籌斗になげおき、淨はもとより籌架にあり。籌架は槽のまへの板頭のほとりにおけり。使籌、使紙ののち、洗淨する法は、右手に淨桶をもちて、左手をよくよくぬらしてのち、左手を掬につくりて水をうけて、まづ小便を洗淨す、三度。つぎに大便をあらふ。洗淨如法にして淨潔ならしむべし。このあひだ、あらく淨桶をかたぶけて、水をして手のほかにあましおとし、あましちらして、水をはやくうしなふことなかれ。洗淨しをはりて、淨桶を安桶のところにおきて、つぎに籌をとりてのごひかはかす。あるいは紙をもちゐるべし。大小兩處、よくよくのごひかはかすべし。つぎに右手にて袴口衣角をひきつくろひて、右手に淨桶を提して厠門をいづるちなみに、蒲鞋をぬぎて自鞋をはく。つぎに淨架にかへりて、淨桶を本所に安ず。つぎに洗手すべし。右手に灰匙をとりて、まづすくひて、瓦石のおもてにおきて、右手をもて滴水を點じて觸手をあらふ。瓦石にあててとぎあらふなり。たとへば、さびあるかたなをとにあててとぐがごとし。かくのごとく、灰にて三度あらふべし。つぎに土をおきて、水を點じてあらふこと三度すべし。つぎに右手に皂莢をとりて、小桶の水にさしひたして、兩手あはせてもみあらふ。腕にいたらんとするまでも、よくよくあらふなり。誠心に住して慇懃にあらふべし。灰三、土三、皂莢一なり。あはせて一七度を度とせり。つぎに大桶にてあらふ。このときは、面藥土灰等をもちゐず、たゞ水にてもゆにてもあらふなり。一番あらひて、その水を小桶にうつして、さらにあたらしき水をいれて兩手をあらふ。

本則話頭は『禅苑清規』七・大小便利章(「続蔵」六三・五四〇・下)からの引用になるわけですが、「東司に上らんと欲すれば、須く預め応に往くべし。臨時に内に逼(せ)めて倉卒に致す勿れ。乃ち袈裟を疊み、寮中の案(机)上、或いは浄竿の上に安(置)ずべし」

「厠内に到りて、左手にて門扇を掩す。次に浄桶の水を少しばかり槽裏に瀉す。つぎに浄桶を当面の浄桶位に安ず。次に立ちながら槽に向かいて弾指三下すべし。弾指の時、左手は拳にして、左腰に付けて持つなり。〈禅苑清規三千威儀経文事、入べし〉」

この文は、本則に対する拈提文ではなく、『禅苑清規』文を和訳したものですが、多少の出入りが有ります。文意のままですが、「弾指の時、左手は拳にして、左腰に付ける」は原文にはなく、当時を回想しての事と思われます。

「次に袴口衣角を収めて、門に向かいて両足に槽唇の両辺を踏みて蹲居し、屙す。両辺を汚す事なかれ、前後にそましむる事なかれ。この間黙然なるべし。隔壁と語笑し、声をあ

挙げて吟詠する事なかれ。涕唾狼藉なる事なかれ、怒気卒暴なる事なかれ。壁面に字を書くべからず、厠籌をもて地面を劃ことなかれ」

極めて常識的な行法で、一読すれば明解ですが、『禅苑清規』文では「不得涕唾・狼籍・努(怒)気・作声廁籌劃地、隔門壁、共人語笑」(「続蔵」六三・五四一・上)とそのまま引用され、前半文「袴口衣角を収めて」云々は、当時の状況次第を記されたものと思われます。

「屙屎退後、須く使籌すべし。又紙を用いる法あり。故紙をも用いるべからず。字を書きたらん紙、用いるべからず。浄籌触籌わきまふべし。籌は長さ八寸に作りて三角なり。太さは手母指大なり。漆にて塗れるも有り、未漆なるも有り。触は籌斗に投げ置き、浄はもとより籌架に有り。籌架は槽の前の板頭の辺に置けり」

用便の後には、竹べら(籌)もしくは紙を用いるとの事ですが、故紙つまり使い古した紙、字を書いた紙は使用不可との事ですが、言霊(ことだま)的呪意が有るとの影響からでしょうか。籌は八寸ですから、二十センチ程の三角棒で、親指大の太さの箆(へら)に漆を塗布した物・未塗布の物だそうです。用便に使用した箆(籌)は、専用のますに籌斗と云った器物に入れ、再使用したのでしょうか。

この文言は『禅苑清規』文には記載なく、他の文献の引き写しか、自身による見聞談かは判断つきません。

「使籌、使紙の後、洗浄する法は、右手に浄桶を持ちて、左手をよくよく濡らして後、左手を掬に作りて水を受けて、まづ小便を洗浄す、三度。次に大便を洗う。洗浄如法にして浄潔ならしむべし。この間、荒く浄桶を傾ぶけて、水をして手の外に余し落とし、余し散して、水を早く失う事なかれ」

寺舎での正式な洗浄法を説かれるものですが、現在のアジア各国のトイレ事情も、近代的首都を除けば、ほぼこの洗浄法と変わらない日常底が繰り返される事を思えば、仏法と世法との近似性が見てとれます。

「洗浄し終わりて、浄桶を安桶の処に置きて、次に籌を取りて拭い乾かす。或いは紙を用いるべし。大小両処、よくよく拭い乾かすべし。次に右手にて袴口衣角を引き繕いて、右手に浄桶を提して厠門を出づる因みに、蒲鞋を脱ぎて自鞋を履く。次に浄架に帰りて、浄桶を本所に安ず」

文に示す通りですが、使用した籌を拭い乾かすと有りますが、屋内である為どの程度まで乾くのか、或いは略作法であるのか、それとも浄頭(東司での掃除係)が後程に始末するのか。

「次に洗手すべし。右手に灰匙を取りて、まづ掬いて、瓦石の表に置きて、右手をもて滴水を点じて触手を洗う。瓦石に当てて砥ぎ洗うなり。例えば、錆ある刀を砥に当てて砥ぐが如し。かくの如く、灰にて三度洗うべし。次に土を置きて、水を点じて洗うこと三度すべし。次に右手に皂莢を取りて、小桶の水に差し浸して、両手合わせて揉み洗う。腕に到らんとするまでも、よくよく洗うなり」

次は手洗いについてですが、『禅苑清規』「洗手先灰次土至後架用皀莢澡豆」(「続蔵」六三・五四一・上)の部分を書き記しますが、「皀莢」は『洗面』巻では「油あるもの食せらんことちかからんには、皂莢を用いるべし」(「正法眼蔵」三・一三七頁・水野・岩波文庫)と、歯磨き粉として紹介されますが、皀莢(そうきゅう)の和名は「さいかち」といい、マメ科植物で、この豆の実はサポニン含有の為に揉むことで、ぬめりと泡が出るので、昔は石鹸の代用として使われたようです。

「誠心に住して慇懃に洗うべし。灰三、土三、皂莢一なり。合わせて一七度を度とせり。次に大桶にて洗う。この時は、面薬土灰等を用いず、ただ水にても湯にても洗うなり。一番洗いて、その水を小桶に寫して、さらに新らしき水を入れて両手を洗う」

手洗いの限度が決められていたようで、灰で三回、土で三回、皀莢で一回と、全てが揃っている場合は、これらで以て原則「洗手」が出来たでしょうが、普段は時間的・物理的制約も加味すると、それほど悠長な事も出来なかったと思われますが、この文面も「清規」文以外からのものです。

これで「洗浄」に関する主要部は終了し、引き続き附随的形而上的な文面になります。

 

    二

華嚴經云、以水盥掌、當願衆生、得上妙手、受持佛法。

水杓をとらんことは、かならず右手にてすべし。このあひだ、桶杓おとをなし、かまびすしくすることなかれ。水をちらし、皂莢をちらし、水架の邊をぬらし、おほよそ倉卒なることなかれ、狼藉なることなかれ。つぎに公界の手巾に手をのごふ。あるいはみづからが手巾にのごふ。手をのごひをはりて、淨竿のした、直裰のまへにいたりて、絆子を脱して竿にかく。つぎに合掌してのち、手巾をとき、直裰をとりて著す。つぎに手巾を左臂にかけて塗香す。公界に塗香あり、香木を寶瓶形につくれり。その大は拇指大なり。ながさ四指量につくれり。繊索の尺餘なるをもちて、香の兩端に穿貫せり。これを淨竿にかけおけり。これを兩掌をあはせてもみあはすれば、その香気おのづから兩手に薫ず。絆子を竿にかくるとき、おなじうへにかけかさねて、絆と絆とみだらしめ、亂縷せしむることなかれ。かくのごとくする、みなこれ淨佛國土なり、莊嚴佛國なり。審細にすべし、倉卒にすべからず。いそぎをはりてかへりなばやと、おもひいとなむことなかれ。ひそかに東司上不説佛法の道理を思量すべし。

この冒頭文は、先に説いた『華厳経』浄行品(「大正蔵」九・四三一・中)に続くものです。

「以水盥掌」(水を以て掌を盥(あら)うは)「当願衆生」(当に衆生と願くは)「得上妙手」(上妙の手を得て)「受持仏法」(仏法を受持せん)

「水杓を取らん事は、必ず右手にてすべし。この間、桶杓音を為し、喧しくする事なかれ。水を散らし、皂莢を散らし、水架の辺を濡らし、おおよそ倉卒なる事なかれ、狼藉なる事なかれ」

途中で「経文」を引用されますが、本文自体は連続した「洗浄」に対する心得になります。

『禅苑清規』文では「右手提瓶、左手用水、不得撒水汚地」(「続蔵」六三・五四〇・下)とする処が該当箇所になります。

「次に公界の手巾に手を拭う。或いはみづからが手巾に拭う。手を拭い終わりて、浄竿の下、直裰の前に到りて、絆子を脱して竿に掛く。次に合掌して後、手巾を解き、直裰を取りて著す」

「公界」は公共の場ですが、『洗面』巻にても「公界の拭面あり」(「正法眼蔵」三・一三八頁・水野・岩波文庫)との文言が記述されます。手を拭きましたから先程とは逆に、脱した直裰の前に行って、絆子(たすき)を外し、合掌して手巾を解き、直裰を著す。

「次に手巾を左臂に掛けて塗香す。公界に塗香あり、香木を宝瓶形に作れり。その大は拇指大なり。長さ四指量に作れり。繊索の尺余なるを持ちて、香の両端に穿貫せり。これを浄竿に掛け置けり。これを両掌を合せて揉み合わすれば、その香気おのづから両手に薫ず」

この塗香の作法は、現在も保持されています。今の塗香はパウダー状で、小さな丸型の香筒に入れ、東司では手に薫じ、法衣に薫じ、文意のままです。

「絆子を竿に掛くる時、同じ上に掛け重ねて、絆と絆と乱らしめ、乱縷せしむる事なかれ。かくの如くする、皆これ浄仏国土なり、莊厳仏国なり。審細にすべし、倉卒にすべからず。急ぎ終りて帰りなばやと、想い営む事なかれ。ひそかに東司上不説仏法の道理を思量すべし」

絆子(たすき)などを竿に掛ける時には、順序よく掛ける事が肝要で、絆と絆が絡み合うような倉卒・粗雑なる行為は厳に慎む事は、これまで説いてきた行法が皆浄仏国土であり、莊厳仏国と呼ばしむるものであると。再度倉卒にすべからずと説き、『趙州語録』下(「続蔵」一一八・三三〇・中)からの「因上東司、召文遠。文遠応諾。師(趙州)云、東司上不可与説仏法也」。つまり東司は三黙道場(僧堂・浴室・東司)の一処ですから、「東司では仏法は説かず」と云う行実が、「仏が浄ずる国土」であり、「仏国を荘厳ならしむ」の道理を思量すべきである。との形而上的仏法観の披瀝であります。

衆家のきたりいる面をしきりにまぼることなかれ。厠中の洗淨には冷水をよろしとす、熱湯は腸風をひきおこすといふ。洗手には温湯をもちゐる、さまたげなし。釜一隻をおくことは、燒湯洗手のためなり。

清規云、晩後燒湯上油、常令湯水相續、無使大衆動念。

しかあればしりぬ、湯水ともにもちゐるなり。もし厠中の觸せることあらば、門扇を掩して觸牌をかくべし。もしあやまりて落桶あらば、門扇を掩して落桶牌をかくべし。これらの牌かゝれらん局には、のぼることなかれ。もしさきより厠上にのぼれらんに、ほかに人ありて彈指せば、しばらくいづべし。

清規云、若不洗淨、不得坐僧床及禮三寶。亦不得受人禮拝。

三千威儀經云、若不洗大小便、得突吉羅罪。亦不得僧淨坐具上坐、及禮三寶。設禮無福徳。

しかあればすなはち、辦道功夫の道場、この儀をさきにすべし。あに三寶を禮せざらんや、あに人の禮拝をうけざらんや、あに人を禮せざらんや。佛祖の道場かならずこの威儀あり。佛祖道場中人、かならずこの威儀具足あり。これ自己の強爲にあらず、威儀の云爲なり。諸佛の常儀なり、諸祖の家常なり。たゞ此界の諸佛のみにあらず、十方の佛儀なり、淨土穢土の佛儀なり。小聞のともがらおもはくは、諸佛には厠屋の威儀あらず、娑婆世界の諸佛の威儀は淨土の諸佛のごとくにあらずとおもふ。これは學佛道にあらず。しるべし、淨穢は離人の滴血なり。あるときはあたゝかなり、あるときはすさまじ。諸佛に厠屋ありとしるべし。

「衆家の来たり入る面を頻りにまぼる事なかれ。厠中の洗浄には冷水をよろしとす、熱湯は腸風を引き起こすと云う。洗手には温湯を用いる、妨げなし。釜一隻を置く事は、焼湯洗手の為なり」

「まぼる」は見つめるの古語(「源氏物語」月の顔のみ、まぼられ給う・月の面ばかり見つめていらっしゃる)に当たり、大衆(衆家)の出入りする顔を、まじまじと見つめては失礼との事です。

「腸風」は血の下がる病を指し、下痢や内痔などが想定されますが、『禅苑清規』「洗浄之法、冷水為上、如用熱湯、引生腸風」(「続蔵」六三・五四〇・下)からの引用になります。

「清規云、晩後焼湯上油、常令湯水相続、無使大衆動念」

「晩後焼湯上油」(日没以後には、湯を沸かし、灯燭の油をつぎ足し)

「常令湯水相続」(常に湯水を切らさないように相続し)

「無使大衆動念」(大衆が困るようなこと無かれ)

これは『禅苑清規』四・延寿堂主浄頭章(「続蔵」六三・五三三・下)からの引用です。

「浄頭」とは、東司の掃除をする僧を指しますが、病僧を世話する延寿堂主が兼ねていた

ようで、彼らが籌や皂や灰などの補充や後始末をしていたようです。

「しか有れば知りぬ、湯水ともに用いるなり。もし厠中の觸せること有らば、門扇を掩し

て触牌を掛くべし。もし誤まりて落桶あらば、門扇を掩して落桶牌を掛くべし。これらの

牌掛かれらん局には、上る事なかれ。もし先より厠上に上れらんに、他に人有りて弾指せば、

しばらく出づべし」

これは「清規文」に対する解説になります。もし便所内を汚したならば、門扇を閉じ(掩)

て、触牌の木札を掛け、もし粗相して水桶を便槽の中に落としたならば、先程同様に門扇を

閉じ、落桶牌を掛ける。これらの触牌や落桶牌のある局(部屋)には入ってはならない。

もし先に厠内に居る時に、他の人が弾指したなら、早めに出るようにすべし。

「清規云、若不洗浄、不得坐僧床及礼三宝。亦不得受人礼拝」

「清規云、若不洗浄」(清規に云く、若し洗浄せずは)

「不得坐僧床及礼三宝」(僧床に坐し、及び三宝を礼するを得ざれ)

「亦不得人礼拝」(亦た受人の礼拝を受くを得ざれ)

これは先の『禅苑清規』大小便利章(「続蔵」六三・五四一・上)からのものです。

「三千威儀経云、若不洗大小便、得突吉羅罪。亦不得僧浄坐具上坐、及礼三宝。設礼無福徳」

「三千威儀経云、若不洗大小便、得突吉羅罪」(三千威儀経に云く、若し大小便を洗わず

は、突吉羅罪を得る)

「亦不得僧浄坐具上坐、及礼三宝」(亦た僧の浄坐具上に坐し、及び三宝を礼するを得ざれ)

「設礼無福徳」(設い礼するも福徳は無し)

これは『大比丘三千威儀経』(「大正蔵」二四・九一四・上)からの引用になりますが、「突

吉羅(ときら)」は、比丘二百五十戒に含まれる軽戒で、特に身による罪を云うものです。

「しか有れば即ち、辦道功夫の道場、この儀を先にすべし。豈三宝を礼せざらんや、豈人の

礼拝を受けざらんや、豈人を礼せざらんや。仏祖の道場必ずこの威儀あり。仏祖道場中人、

必ずこの威儀具足あり」

このように「洗浄」の作法を説いてきた事で有るから、辦道功夫(修行)の道場では、この

洗浄を第一の儀(作法)を第一にすべし。

「豈(あに)」とは、「下に反語表現を伴って、どうして又はなんで」と訳される。(「学研全

訳古語辞典」インターネットより)ですから(洗浄しなかったら)どうして(豈)三宝を礼

することが出来ようか、(洗浄しなかったら)どうして(豈)人の礼拝を受けられようか。

仏祖の道場ならびに道場にて辦道功夫する人には、必ずこの洗浄の威儀が具足するもので

ある。

「これ自己の強為にあらず、威儀の云為なり。諸仏の常儀なり、諸祖の家常なり。ただ此界

の諸仏のみにあらず、十方の仏儀なり、浄土穢土の仏儀なり。小聞の輩思わくは、諸仏には

厠屋の威儀あらず、娑婆世界の諸仏の威儀は浄土の諸仏の如くにあらずと思う。これは学仏

道にあらず。知るべし、浄穢は離人の滴血なり。ある時は暖かなり、ある時はすさまじ。諸

仏に厠屋有りと知るべし」

この洗浄の儀は、個人が意識下での行為でなく、威儀のやり方(云為)であり、諸祖の家常

(日常)である。これは娑婆世界(此界)の諸仏のみの洗浄の儀でなく、十方(尽界)の仏

儀であり、浄土や穢土での仏儀である。

小(少)聞の輩の考えは、諸仏と娑婆世界との洗浄に対する威儀には違いがある。との主客・

能所の見方を立てるようですが、このような相対的考えは、仏道を学ぶ者の考えではない。

そこで結語として、「浄穢は離人の滴血」と説かれます。浄や穢は離人(修行者もしくは解

脱人)の滴る血液なり。との事ですが、先にも説かれたように、洗浄は「浄土穢土の仏儀」

であり、「諸仏の常儀・諸祖の家常」つまりは、日常底を唱えるものですから、体内を巡る

血液を日常態と捉え、体内では暖かで、体外ではすさまじ(寒い・冷たいの古語)と、浄穢

の換喩表現で以て、浄も穢も共に諸仏であると説くものです。続けて、その無分別の諸仏に

洗浄の修行が行われる厠屋が有ると知りなさいとの提唱で、単なる行法ではなく、厠屋での

大小便処の洗浄を形而上的に説くものです。

十誦律第十四云、羅睺羅沙彌、宿佛厠。佛覺了、佛以右手摩羅睺羅頂、説是偈言、汝不爲貧

 亦不失富貴 但爲求道故 出家應忍苦

しかあればすなはち、佛道場に厠屋あり、佛厠屋裏の威儀は洗淨なり。祖々相傳しきたれ佛

儀のなほのこれる、慕古の慶快なり、あひがたきにあへるなり。いはんや如來かたじけなく

厠屋裏にして羅睺羅のために説法しまします。厠屋は佛轉法輪の一會なり。この道場の進止、

これ佛祖正傳せり。

摩訶僧祇律第三十四云、厠屋不得在東在北。應在南在西。小行亦如是。

この方宜によるべし。これ西天竺國の諸精舎の圖なり。如來現在の建立なり。しるべし、一

佛の佛儀のみにあらず、七佛の道場なり、精舎なり。諸佛の道場なり、精舎なり。はじめた

るにあらず、諸佛の威儀なり。これらをあきらめざらんよりさきは、寺院を草創し、佛法を

修行せん、あやまりはおほく、佛威儀そなはらず、佛菩提いまだ現前せざらん。もし道場を

建立し、寺院を草創せんには、佛祖正傳の法儀によるべし。これ正嫡正傳なるがゆゑに、そ

の功徳あつめかさなれり。佛祖正傳の嫡嗣にあらざれば佛法の身心いまだしらず、佛法の身

心しらざれば佛家の佛業あきらめざるなり。いま大師釋迦牟尼佛の佛法あまねく十方につ

たはれるといふは、佛身心の現成なり。佛身心現成の正當恁麼時、かくのごとし。

十誦律第十四云、羅睺羅沙弥、宿仏厠」(十誦律第十四に云く、羅睺羅沙弥が、仏の厠

に宿す)

「仏覚了、仏以右手摩羅睺羅頂(原文は頭)、説是偈言」(仏は覚了して、仏の右手で以て

羅睺羅の頂を摩(な)で、是の偈を説いて言く)

「汝不為貧窮」(汝は貧窮の為にあらず)

「亦不失富貴」(また富貴を失せるにあらず)

「但為求道故」(但だ求道の為の故に)

「出家応忍苦」(出家は応に苦を忍ぶべし)

この話頭の出典は『十誦律』巻第十五(「大正蔵」二三・一〇五・下)ですから、十四です

から勘違いになります。

この話頭は、律文をそのまま転用したのではなく、読み込んだ末に「羅睺羅沙弥、宿仏厠、

仏覚了」の語句に創語したものです。簡単に「律文」を略述すると、沙弥羅睺羅が小部屋で

居ると、比丘が来て出て行けと云われ、それが三回続いたことから、仏の厠の中で厠板を枕

にした事情に、仏が気付き「汝不為貧窮」以下の偈を以ての厠屋にての説法という因縁譚

であります。

「しか有れば即ち、仏道場に厠屋あり、仏厠屋裏の威儀は洗浄なり。祖々相伝し来たれ仏儀

のなお残れる、慕古の慶快なり、値い難きに遇えるなり。いわんや如来かたじけなく厠屋裏

にして羅睺羅の為に説法しまします。厠屋は仏転法輪の一会なり。この道場の進止、これ仏

祖正伝せり」

この『十誦律』でも説くように、仏の修行道場には厠屋が必要であり、その威儀とは洗浄そ

のものが、修行である。これは代々行持されるもので、今日、なお仏の作法が残るとは、古

を慕う者の慶快事であり、難値難遇の事である。

如来(タターガタ)は仏の呼び名の一つですが、威風堂々とした姿を表した如去如来(かく

の如く去り、かくの如く来たりし者)を略した語ですが、その仏・如来が、自身の子供では

あるが、僧伽の一員である羅睺羅に、滋味溢れる「汝不為貧窮、亦不失富貴、但為求道故、

出家応忍苦」との言句は、眼前に現成する一場面の如くの感が湧出します。

この厠屋は単なる大小便の処理所ではなく、仏が法輪を転ずる一道場(会)であり、この道

場(会下)での進退は仏祖の正伝された現成であるとの提唱になります。

摩訶僧祇律第三十四云、厠屋不得在東在北。応在南在西。小行亦如是」(摩訶僧祇律第三

十四に云く、厠屋は東に在り北に在ること得ざれ。応に南に在り西に在るべし。小行も亦た

是の如し)

これは『摩訶僧祇律』第三十四(「大正蔵」二二・五〇四・上)からの引用律文ですが、こ

れも先程同様、本文では当時のトイレ事情を、舎衛城にて、比丘が処々で大便し世人に嫌わ

れ、それで今より已後、便所(厠屋)を南又は西向きで作りなさい。と仏が言われたとする

文面を「厠屋応在南在西」の文言にし、次の「小行」とは小便のことで、これも先程同様な

事情によるものですが、この南向き・西向きの根拠を律文では「開風道」と示され、通気性

を勘案したものです。

「この方宜によるべし。これ西天竺国の諸精舎の図なり。如来現在の建立なり。知るべし一

仏の仏儀のみにあらず、七仏の道場なり、精舎なり。諸仏の道場なり、精舎なり。始めたる

にあらず、諸仏の威儀なり。これらを明らめざらんよりさきは、寺院を草創し、仏法を修行

せん、錯まりは多く、仏威儀備わらず、仏菩提いまだ現前せざらん。もし道場を建立し、寺

院を草創せんには、仏祖正伝の法儀によるべし」

この「方宜」とは、律文で説く「在南在西」の方向性が宜(よろ)しいとの事で、これがイ

ンド(西天竺国)の諸々の精舎(道場)の図式であり、如来釈尊)在世時の建立になりま

す。

これは一人の仏のみの物ではなく、七仏の道場・精舎であり、諸仏の道場・精舎となります。

これは釈尊の時からの事ではなく、七仏の道場からの如く、有史以前からの諸仏の威儀であ

ります。

これらの厠屋の儀を明解にしない前に、寺院を立てたり仏法を修行するにも、錯まりが多く

生じ、仏道の威儀が不備であり、仏道の菩提も現前しないものである。

もし道場を建立し、さらに寺院を草創するには、仏祖正伝の法儀(やり方)によるべきであ

る。

これまでが『摩訶僧祇律』文に対する拈提となります。

「これ正嫡正伝なるが故に、その功徳集め重なれり。仏祖正伝の嫡嗣に有らざれば仏法の身

心いまだ知らず、仏法の身心知らざれば仏家の仏業明らめざるなり。いま大師釈迦牟尼仏の仏法あまねく十方に伝われると云うは、仏身心の現成なり。仏身心現成の正当恁麼時、かくの如し」

この数行を以て当巻の結語になりますが、「洗浄」の儀に対するのみならず、仏法に対する

心構えを述べられるものです。

道場建立に対する心要としては、「仏祖正伝」の法儀に依らなければと説きましたから、次には「正嫡正伝」による功徳、再度「仏祖正伝」の冠詞に付すことばを、正嫡と同義語類である「嫡嗣」でなければ仏法の身心、つまり全体は把握されず(知らず)、その仏法の全体を知らなければ、仏家の仏業、つまりは仏法は明らかには出来ないのである。

最後に、いま釈迦牟尼仏という具体的な仏法が、(尽)十方(世界)に正伝するという事情を、仏の身心の現成であり、その仏身心現成の正当恁麼時はかくの如しとは、これまで述べてきたように、「正嫡正伝」を行う為には「仏身心」を通して行うのであり、仏身心には「洗浄」が不可分であるという事実を称するわけです。つまり謂う所は、「身心」とは刹那生滅の繰り返しで、一瞬たりとも休まず働き続ける真実現成を云うわけですから、仏家の仏業たる「洗浄」も、浄や穢の感覚的なるものではなく、「仏身心現成」たらしめる威儀を説かんとしたものである。