正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵春秋

正法眼蔵第三十七 春秋

    一

洞山悟本大師、因僧問、寒暑到來、如何廻避。師云、何不向無寒暑處去。僧云、如何是無寒暑處。師云、寒時寒殺闍梨、熱時熱殺闍梨。この因縁、かつておほく商量しきたれり、而今おほく功夫すべし。佛祖かならず參來せり、參來せるは佛祖なり。西天東地古今の佛祖、おほくこの因縁を現成の面目とせり。この因縁の面目現成は、佛祖公案なり。しかあるに、僧問の寒暑到來、如何廻避、くはしくすべし。いはく、正當寒到來時、正當熱到來時の參詳看なり。この寒暑、渾寒渾暑、ともに寒暑づからなり。寒暑づからなるゆゑに、到來時は寒暑づからの頂□(寧+頁)より到來するなり、寒暑づからの眼睛より現前するなり。この頂□(寧+頁)上、これ無寒暑のところなり。この眼睛裏、これ無寒暑のところなり。高祖道の寒時寒殺闍梨、熱時熱殺闍梨は、正當到時の消息なり。いはゆる寒時たとひ道寒殺なりとも、熱時かならずしも熱殺道なるべからず。寒也徹蔕寒なり、熱也徹蔕熱なり。たとひ萬億の廻避を參得すとも、なほこれ以頭換尾なり。寒はこれ祖宗の活眼睛なり、暑はこれ先師の煖皮肉なり。

「七十五巻正法眼蔵」の配置構成は第四十『柏樹子』巻までが興聖宝林寺を中心とする京都時代で、第四十一『三界唯心』巻以降は吉峰寺等を中心とする越前時代に区分けされますが、例外的にこの『春秋』巻は前半部に配置されます。なお奥書によれば寛元二年(1244)甲辰在越宇山奥再示衆と記されますが、示衆年時や文体などから類推すると第六十一『龍吟』巻(寛元元年(1243)十二月二十五日在越宇禅師峰下示衆)と第六十二『祖師西来意』巻(寛元二年(1244)甲辰二月四日在越宇深山裏示衆)の中間に当たる寛元二年一月の平泉寺四至内に在する禅師峰寺での再示衆と考えられます。

「洞山悟本大師、因僧問、寒暑到来、如何廻避。師云、何不向無寒暑処去。僧云、如何是無寒暑処。師云、寒時寒殺闍梨、熱時熱殺闍梨」

この出典籍は『洞山録』(「大正蔵」四七・五二三下)です。

洞山悟本(良价)大師に、因みに僧が問う、寒暑が到来の時には、如何(どのように)廻避しますか。師云く、何で寒暑に無い処に向かって往かないのか。僧云く、どのような処が寒暑の無い処ですか。師云く、寒い時は闍梨を寒殺し、熱い時には闍梨を熱殺す。

標題は「春秋」とするが、提唱文には春秋の語は使われず「寒暑」の道理にて、仏法の理を説き明かすものである。

「この因縁、かつて多く商量し来たれり、而今多く功夫すべし。仏祖必ず参来せり、参来せるは仏祖なり。西天東地古今の仏祖、多くこの因縁を現成の面目とせり。この因縁の面目現成は、仏祖公案なり」

この洞山話頭は、後に本則として扱う宏智や圜悟等の語録を「而今多く功夫すべし」と言われます。この話則の主旨は単に「寒暑」を問うものではなく、その本源なる生死をも問うものですから、「仏祖は必ずこの寒暑生死を参じ来たり、参じ来るは仏祖なり」と釈するものです。

ですから、西天東地の仏祖の多くは、この寒暑生死到来の一大事因縁を現成の面目とするのである。「この因縁」である洞山と僧との道理を仏祖の面目と言い、その現成を「仏祖公案なり」と述べるのであるが、ここで扱う公案は課題でもなく公府之案牘の意でもなく、仏祖の現実もしくは真実の絶対的境涯とも云い替えられます。

これまでが、洞山本則に対する総論的解説となります。

「しかあるに、僧問の寒暑到来、如何廻避、詳しくすべし。いわく、正当寒到来時、正当熱到来時の参詳看なり。この寒暑、渾寒渾暑、ともに寒暑づからなり。寒暑づからなる故に、到来時は寒暑づからの頂□(寧+頁)より到来するなり、寒暑づからの眼睛より現前するなり。この頂□(寧+頁)上、これ無寒暑の処なり。この眼睛裏、これ無寒暑の処なり」

この話頭は、これまで多くの問答審議されて来た処であるが、改めて僧が問う「寒暑到来、如何廻避」に於ける「正当寒到来時、正当熱到来時」を詳細に参じ看るものである。

「この寒暑、渾寒渾暑、ともに寒暑づからなり」の渾寒は寒也全機現とも渾暑は暑也全機現とも、または寒にも法界を尽くし、暑も尽十方界の道理が「寒暑づから」と言われるのですが、このづからは副詞で接尾語としての上代語で、づに意味はなく寒暑ばかりと同義化できます。

「到来時は寒暑づからの頂□(寧+頁)より到来、眼睛より現前」とは、「寒」が到来の時は寒ばかりの寒暑生死の「頂□(寧+頁)」より到来し、「暑」が到来の時は暑ばかりとの意で「眼睛」も同じに解されますが、所謂は寒暑の全体肝要より到来現前すると云う意味と為ります。

「この頂□(寧+頁)上、これ無寒暑の処」とは、全体が寒ばかり・全体が暑ばかりを言句を入れ替え一法究尽の理を説き明かすもので、頂□(寧+頁)・眼睛は象徴的に身体の一部を拈出し、先に「寒暑づから」と設定しますから、此処では「無寒暑の処」と拈提するは、常套の手法となります。

「高祖道の寒時寒殺闍梨、熱時熱殺闍梨は、正当到時の消息なり。いわゆる寒時たとい道寒殺なりとも、熱時必ずしも熱殺道なるべからず。寒也徹蔕寒なり、熱也徹蔕熱なり。たとい万億の廻避を参得すとも、猶これ以頭換尾なり。寒はこれ祖宗の活眼睛なり、暑はこれ先師の煖皮肉なり」

洞山の道う「寒時寒殺闍梨」の意は、寒い時には闍梨は寒そのもので、殺の意は一体と為るとし、熱い時には闍梨は熱そのものであるとの洞山の答話は、寒暑が正当に到った時の様子(消息)を言うのである。因みに闍梨はサンスクリット語acarya(アーチャーリヤ)からの音写語ですが、日本でよく耳にする阿闍梨の名は、千日回峰行などを行う僧侶を阿闍梨と称するが、本来の意は人の模範となる僧侶を指す。タイ上座部では住持職に対しアーチャンと呼び慣らすこともある。

洞山の「寒時寒殺闍梨、熱時熱殺闍梨」に対し、洞山はそうであるが「寒時は寒殺と道っても、熱時は必ずしも熱殺と道う道理はない」拈提文です。

続けて洞山のことばを「寒也徹蔕寒・熱也徹蔕熱」と言い替えますが、蔕とはへたの意で苦瓜も寒い時には全体が寒であり、熱の時には苦瓜のへたまでが熱いに徹するの意で、このあたりは道元禅師なりのユーモアに富んだ物言いに読み取れます。

最初の問話に戻り、僧(闍梨)がいくら無限(万億)にわたり寒暑の廻避を参学得道したとしても、「以頭換尾」つまり頭と尻尾を入れ換えたに過ぎず、大同小異を云うものです。謂わんとする趣意は、寒暑(生死)を逃れる手段はなく、その時々の状況が真実相であり、尽界の表態が寒であり熱であると含意する文体です。

「寒はこれ祖宗の活眼睛」の意は、これまでの述説のように、寒は気象用語ではなく尽十方界を表意するもので、それは真実(祖宗)の活きたひとみ(活眼睛)、つまり謂う所は、各人各様が真実態を表徴するものであると。「暑」も同じく尽界の一表態であり、謂うなれば先哲(先師)方の血の通った身心を「煖皮肉」と言うもので、ここでも各人各様の肉身が尽十方界の真実との拈提のようです。

 

    二

淨因枯木禪師、嗣芙蓉和尚、諱法成和尚、云、衆中商量道、這僧問既落偏、洞山答歸正位。其僧言中知音、卻入正來、洞山卻從偏去。如斯商量、不唯謗涜先聖、亦乃屈沈自己。不見道、聞衆生解、意下丹青、目前雖美、久蘊成病。大凡行脚高士、欲窮此事、先須識取上祖正法眼藏。其餘佛祖言教、是什麼熱椀鳴聲。雖然如是、敢問諸人、畢竟作麼生是無寒暑處。還會麼。玉樓巣翡翠、金殿鏁鴛鴦。

師はこれ洞山の遠孫なり、祖席の英豪なり。しかあるに、箇々おほくあやまりて、偏正の窟宅にして高祖洞山大師を禮拝せんとすることを炯誡するなり。佛法もし偏正の商量より相傳せば、いかでか今日にいたらん。あるいは野猫兒、あるいは田厙奴、いまだ洞山の堂奥を參究せず。かつて佛法の道閫を行李せざるともがら、あやまりて洞山に偏正等の五位ありて人を接すといふ。これは胡説亂説なり、見聞すべからず。たゞまさに上祖の正法眼藏あることを參究すべし。

これから「洞山寒暑」話頭に対する八人を取り挙げ各人の学究を見るものとなりますが、出典は『嘉泰普灯録』二六(「続蔵」七九・四五五下)「拈古」の内の一則です。「浄因」は寺の名で、「枯木」は山号です。

浄因枯木(法成)(1071―1128)は芙蓉道楷(1043―1118)の法を嗣ぎ、冶父道川(『看経』巻・川老金剛経)に法を授受しますが、洞山良价(807―869)からは八代目に当たり、およそ二百五十年の時の隔たりがあります。

「浄因枯木禅師、嗣芙蓉和尚、諱法成。和尚云、衆中商量道、這僧問既落偏、洞山答帰正位。其僧言中知音(旨)、却入正来、洞山却従偏去。如斯商量、不唯謗涜先聖、亦乃屈沈自己。不見道、聞衆生解、意下丹青、目前雖美、久蘊成病。大凡行脚高士、欲窮此事、先須識取上祖正法眼蔵。其余仏祖言教、是什(甚)麼熱椀(碗)鳴声。雖然如是、敢問諸人、畢竟作麼生是無寒暑処。還会麼。玉樓巣翡翠、金殿鏁(鎖)鴛鴦」()は原文

浄因枯木禅師は、芙蓉和尚に嗣す、諱は法成。和尚云く、衆の中には商量(問答)して道う、這の僧の問いは既に偏(五位・回互正偏)に落つ、洞山の答は正位に帰す。其の僧は言中に音(旨)を知り、却って正に入り来り、洞山は却って偏に従り去る。斯くの如く(偏正位)商量するは、唯だ先聖を謗涜するにあらず、亦た乃ち自己を屈沈(退屈沈淪)とする。(古来よりの)道うを見ずや、衆生の解(解釈)を聞くに、意下(意識)に丹青(絵を画すようにあれこれ分別)す、目の前は美なりと雖も、久しく蘊(たくわ)えると病と成す。

ここからが浄因による評唱です。

大凡(おおよそ)行脚の高士(学人)、此の事(無上菩提)を窮めんと欲せば、先ずは須く上祖(洞山を指す)の正法眼蔵を識取すべし。其の余(ほか)の仏祖の言や教は、是れ什(なに)の熱椀鳴声(無意味な音声)。然も是の如くと雖も、敢えて諸人に問う、畢竟(つまるところ)作麼生(いかなる処が)是れ無寒暑処。還たと会すや。玉樓に翡翠(かわせみ)が巣(すく)い、金殿に鴛鴦(おしどり)が鏁(やど)す。

この話則での浄因の要旨を、前半の世間での「洞山寒暑話」を、問僧の偏位に置き洞山を正位に据える能所法で理解するが、後半の浄因による評唱に於いては、上祖つまり洞山良价の獅子吼に比すれば、他の学人の法輪は熱椀鳴声(その場凌ぎ)であるが、洞山の云う「無寒暑処」とは「玉樓に巣くうカワセミ翡翠)、金殿に鏁るおしどり(鴛鴦)」との譬えで評するが、人間世界では偏(玉樓)や正(金殿)と区分けをし概念化に努めるが、仏法での真実相に於いては翡翠や鴛鴦の如くの金泥という差別相はなく同等価であり、洞山偏正五位の錯まりを教説するものです。

「師はこれ洞山の遠孫なり、祖席の英豪なり。しかあるに、箇々多く錯まりて、偏正の窟宅にして高祖洞山大師を礼拝せんとする事を炯誡するなり」

浄因―芙蓉―投子―大陽―梁山―同安(観志)―同安―雲居―洞山と系譜されるわけですから、洞山からは八代目の遠孫と為るものです。この浄因は仏祖の法席の俊英豪傑ではあるが、周囲の人々(箇々)の多くは錯誤して偏正(五位)の窟宅(ほらあな)の渦中で、高祖の洞山良价大師を礼拝する事に対し、法成和尚は炯誡(強くいましめる)するのである。

「仏法もし偏正の商量より相伝せば、いかでか今日にいたらん。或いは野猫児、或いは田厙奴、未だ洞山の堂奥を参究せず。かつて仏法の道閫を行李せざる輩、錯まりて洞山に偏正等の五位ありて人を接すと云う。これは胡説乱説なり、見聞すべからず。只まさに上祖の正法眼蔵ある事を参究すべし」

仏法が、もしも「偏正」の概念化(カテゴライズ)された問答(商量)より相い伝えられたならば、どうして洞山大師から四百年もの歳月を経た今日まで至るであろうか。

偏正の商量する人を称して「野猫児・田厙奴(でんしゃぬ)」つまり無智の代表としての蔑視語で以て、これらの者では洞山の堂奥(奥深い教義)は参学究明はして居ないだろうと、洞山大師に対する勉強不足を言われます。

さらには野猫児のような者共は、仏法の道閫(奥義)を行李(修行)しない者である為、洞山に偏正五位ありと間違って、人を接得すると云うのは、胡説乱説(いい加減・胡乱(うろん)を分節した語で唐代俗語)であり見聞すべきではなく、祖席の英豪たらんには上祖(洞山)の正法眼蔵(無寒暑処・寒時寒殺闍梨等)の真意を徹頭徹尾に参究しなさい。との拈提で、浄因法成和尚に対する評価は「善哉」(sadhu)でありましょう。

慶元府天童山、宏智禪師、嗣丹霞和尚、諱正覺和尚、云、若論此事、如兩家著碁相似。儞不應我著、我即瞞汝去也。若恁麼體得、始會洞山意。天童不免下箇注脚。裏頭看勿寒暑、直下滄溟瀝得乾。我道巨鼇能俯拾、笑君沙際弄釣竿。

しばらく、著碁はなきにあらず、作麼生是兩家。もし兩家著碁といはば、八目なるべし。もし八目ならん、著碁にあらず、いかん。いふべくはかくのごとくいふべし、著碁一家、敵手相逢なり。しかありといふとも、いま宏智道の儞不應我著、こゝろをおきて功夫すべし。身をめぐらして參究すべし。儞不應我著といふは、なんぢ、われなるべからずといふなり。我即瞞汝去也、すごすことなかれ。泥裏有泥なり。蹈者あしをあらひ、また纓をあらふ。珠裏有珠なり、光明するに、かれをてらし、自をてらすなり。

この本則は『宏智広録』四(「大正蔵」四八・四六下)からの引用です。

「慶元府天童山、宏智禅師、嗣丹霞和尚、諱正覚和尚、云、若論此事、如両家著碁相似。你不応我著、我即瞞汝去也。若恁麼体得、始会洞山意。天童不免下箇注脚。裏頭看勿寒暑(暑寒)、直下滄溟瀝得乾。我道巨鼇能俯拾、笑君沙際弄釣竿」()は原文

慶元府(寧波市)天童山(景徳禅寺)、宏智禅師(1091―1157)、嗣丹霞(子淳)和尚(1064―1117)、諱(本名)は正覚。和尚云、若し此の事(洞山無寒暑処話)を論ぜば、両家(二人)の著碁(碁を打つ)の如くに相い似たり。你は我が著(碁打ち)に応ぜずば、我れ即ち汝を瞞(だます)じ去らん。若し恁麼(このよう)に体得して、始めて洞山の意(旨)を会(解)す。天童は箇の注脚(釈)を下すを免れず(やむを得ず)。裏頭(全体)より看れば寒暑は勿く、直下(今)に滄溟(大海)も瀝(したた)り得て乾く。我が(仏)道は巨鼇を能く俯(うつむ)いて拾い、笑うべし君、沙際(波打ち際)に釣竿を弄するを。

宏智の「你不応我著」と「我即瞞汝去也」の関係は、二人で碁に興じ両人二対の目で碁盤を凝視しているが、二人の共同の場に於いては「我」と「你」が一等の状況を称して、洞山の云う「寒時寒殺闍梨」と同心・同意で有ることを宏智は説くのです。つまり「我即瞞汝去也」(我の外に汝は居なく)、「你不応我著」(你の外に汝は居ない)との一味態を譬えるもので、そこには正や偏といった能所の世界は介在しなく、洞山は偏正五位などは用いなかったとの含意が包接されます。

そこで、洞山道の「寒時寒殺闍梨、熱時熱殺闍梨」を宏智流に云い替えた偈を、先ずは起句の「裏頭看勿寒暑」(表裏の全体(尽十方界)から看れば寒暑は勿いのである)で能所なき世界を説き、承句は「直下滄溟瀝得乾」(今ここでは青海原の海水も瀝り得て乾いてしまう)と場面を蓬莱世界もしくは須弥世界に承け、転句を「我道巨鼇能俯拾」(我が仏道では巨大な海亀を能く俯した処を拾うような奥義がある)と転じ、結句は「笑君沙際弄釣竿」(笑うは君が波打ち際で釣竿を弄することだ)との結語で以て、正偏・能所的観点ではなく、一法究尽もしくは全機現的見方を示すものです。

「しばらく、著碁は無きにあらず、作麼生是両家。もし両家著碁と云わば、八目なるべし。もし八目ならん、著碁にあらず、いかん。云うべくはかくの如く云うべし、著碁一家、敵手相逢なり」

これから宏智本則話に対する拈提で、二人で碁を打っているのは現実であり、無いのではないが、先ずは「両家」とは何なのかが、問題設定である。

「両家著碁と云わば、(岡(傍)目)八目なるべし」の意味する処は、岡目八目の第三者の立場から見れば、当人よりも冷静に碁跡を判断し、八目先まで見通せる意ですが、両家つまり二人で碁に興じるわけだが、尽界から俯瞰すれば「你」も「我」も同人で、「作麼生是両家」の両家には第二人が居ない、対照する相手が居ない事を喩えるのです。

ですから、尽十方界の八目から眺めれば「著碁」(碁打ち)ではないのであるが、これはどういうことか(いかん)。そこで宏智の「両家著碁」は「著碁一家、敵手相逢」つまり碁打ちは仏法的視点から見れば二人で以て一人(一家)で、敵手(相手)に相逢(出会い)なり。との道元禅師の著語になるわけです。

「しかありと云うとも、いま宏智道の你不応我著、心を置きて功夫すべし。身を巡らして参究すべし。你不応我著と云うは、你、我なるべからずと云うなり」

宏智の「両家著碁」は「著碁一家、敵手相逢」とコメントしたが、そうではあるが、ここでは宏智の道う「你不応我著」について心置きなく功夫し、身を入れて参究すべし。と前置きし、「你不応我著」の読みは「你は我なるべからず」と云う事ですが、これは洞山本則に於ける「寒時寒殺闍梨」と対応する処を言うもので、先ほども説くように仏法に於ける尽界の場では、第二人は置かずの道理に聯絡するものです。

「我即瞞汝去也、過ごす事なかれ。泥裏有泥なり。蹈者足を濯い、また纓を濯う。珠裏有珠なり、光明するに、彼を照らし、自を照らすなり」

「我即瞞汝去也」に相応する洞山本則を「泥裏有泥」「珠裏有珠」と言い替えての説明です。つまりは尽十方界は全機現の一法究尽の道理を云い、この光明珠は自他の分別なく、かれ(你)を照らし、自(我)を照らすものです。さらに『楚辞』に於ける屈原と漁夫との対話「滄浪の水清まば、以て吾が纓(えい・冠の紐)を濯うべし。滄浪の水濁らば、以て吾が足を濯うべし」を援用した「蹈者足を濯い、また纓を濯う」の譬喩は何を意味するかと云うに、「滄浪の水」とは世間の事、その時の政治情勢を云うのであり、滄浪水が濁り世情が不穏な時には世の中に出ず足を濯い隠遁し、水が清めば纓を濯い世の中に出て政治に関与する。ということですから、洞山本則話での「如何廻避」に対する「無寒暑処」つまり何処にも廻避せず、その場その時に応じて最善を尽くすを「寒時寒殺闍梨」である事実を、「你不応我著」とも「我即瞞汝去也」ともと宏智が云う処を、道元禅師流物言いで「泥裏有泥」「珠裏有珠」と置換し、さらには「楚辞」の言を引いて、宏智に於いては洞山「正偏」説を否定するを証明されるもので、評価は「善哉」(sadhu)となりましょう。

夾山圜悟禪師、嗣五祖法演禪師、諱克勤。和尚云、盤走珠珠走盤、偏中正正中偏、羚羊掛角無蹤跡、獵狗遶林空踧蹈

いま盤走珠の道、これ光前絶後、古今罕聞なり。古來はたゞいはく、盤にはしる珠の住著なきがごとし。羚羊いまは空に掛角せり、林いま獵狗をめぐる。

本則出典籍は『禅宗頌古聯珠通集』二四(「続蔵」六五・六二二上)からの引用となります。

「夾山圜悟禅師、嗣五祖法演禅師、諱克勤」

圜悟(1063―1135)は北宋末に生きた臨済宗楊岐派に属し、白雲守端―五祖法演(―1104)の法を嗣ぐ。字(あざな)は無著で諱(いみな)は克勤。圜悟は四川省成都の昭覚寺、湖南省澧州の夾山霊泉院、同省潭州道林寺に住した時の講義録が『碧巌録』であるが、碧巌とは夾山の霊泉院を指し、その時の名札が夾山圜悟である。

「和尚云、盤走珠珠走盤。偏中正正中偏。羚羊掛角無蹤跡、獵狗(犬)遶林空踧蹈(踖)。」()は原典。

和尚云く、盤が珠を走らせ、珠が盤を走る。偏中正(千差万別の現象の中に普遍的本体が存在すること)正中偏(本体の中に様々な現象が含まれること)。羚羊(かもしか)は角を掛けて蹤跡無し、獵狗は林を遶り空(いたづ)らに踧蹈(さがし回る)す。

圜悟が謂わんとする処は、「盤と珠」との一体性を説くのであり、偏は劣り正は優ると云った能所主客を払拭する「無蹤跡」も「空踧蹈」も共に解脱の境地を述べるもので、洞山話則に対比するなら、無蹤跡は「無寒暑処」に、空踧蹈は「寒時寒殺闍梨」と比定され得るものです。

「いま盤走珠の道、これ光前絶後、古今罕聞なり。古来はただ云く、盤に走る珠の住著なきが如し。羚羊いまは空に掛角せり、林いま獵狗を遶る」

圜悟に対する評価では、「盤走珠・珠走盤」の説き方の素晴らしさを、「光前絶後」「古今罕聞」とこれまで聞いた事もない表現法で、往古より今日まで罕(まれ)に聞くものである。と圜悟を「善哉」と評し、この「盤走珠」を古来の漢は「盤に走る珠の住著なきが如し」と一処無所住を説かれるものである。元和尚も此処で「今羚羊空掛角、林今遶獵狗」と注脚を下し、林と獵狗の能所同等を明らかにする次第です。

 

    三

慶元府雪竇山資聖寺明覺禪師、嗣北塔祚和尚、諱重顯。和尚云、垂手還同萬仭崖、正偏何必在安排、琉璃古殿照明月、忍俊韓獹空上階。

雪竇は雲門三世の法孫なり。參飽の皮袋といひぬべし。いま垂手還同萬仭崖といひて、奇絶の標格をあらはすといへども、かならずしもしかあるべからず。いま僧問山示の因縁、あながちに垂手不垂手にあらず、出世不出世にあらず。いはんや偏正の道をもちゐんや。偏正の眼をもちゐざれば、此因縁に下手のところなきがごとし。參請の巴鼻なきがごとくなるは、高祖の邊域にいたらず、佛法の大家を覰見せざるによれり。さらに草鞋を拈來して參請すべし。みだりに高祖の佛法は正偏等の五位なるべしといふこと、やみね。

この本則話の出典は『禅宗頌古聯珠通集』二四(「続蔵」六五・六二一下)で、雪竇の頌を取り挙げるものです。

「慶元府雪竇山資聖寺明覚禅師、嗣北塔祚和尚、諱重顕」

雪竇重顕(980―1052)は四川省遂州の人で、浙江省明州の雪竇山資聖寺に住し、明覚(みんかく)は賜号された禅師号である。湖北省の随州で智門光祚(―1031北塔祚和尚)の法を嗣ぐ。先の圜悟とは一心同体的関係で、『雪竇頌古』百則に対し垂示・著語・評唱を附したものが『碧巌録』である。

「和尚云、垂手還同万仭崖、正偏何必在安排。琉璃古殿照明月、忍俊韓獹空上階」

垂手は還って万仭の崖に同じく、正偏は何ぞ必ずしも安排に在らん。琉璃の古殿は明月を照らす、忍俊の韓獹は空しく階に上る。

雪竇は此の頌で何を云わんとするか。

「垂手」とは叉手当胸の比丘の威儀を止め、手を垂れて教化に励む洞山を、万仭の崖に喩えるもので、雪竇の説く教化(垂示)とは断崖の絶壁と云う絶対性を示唆し、無辺際の道理を指す。

「正位」や「偏位」は、万仭崖を登るには必要不可欠に配列(安排)して置かねければとの、正偏を認得する頌と為ります。

「琉璃」も「明月」も共に「古殿」を照らすことで、無蹤跡を表わすと共に、無寒暑処の有り様に喩う。

「忍俊」は笑わずにおれない、の意。「韓獹」の説明は『碧巌録』評唱に於ける圜悟の説明では「韓獹は『戦国策』が出典籍で、韓氏の獹は、足の速い犬(狗)であり、中山の兎は狡猾な兎である、と云う。この獹でなければ、その兎を捉えられない事を、雪竇は『戦国策』から引用して、洞山と問答した僧に譬えたのである」と註釈されます。

「雪竇は雲門三世の法孫なり。参飽の皮袋と云いぬべし。いま垂手還同万仭崖と云いて、奇絶の標格を表わすとい云えども、必ずしもしかあるべからず」

先ずは雪竇の法脈を雲門―香林―智門―雪竇と雲門文偃(864―949)からは三世の法孫(一般的には雲門を勘定して四世とするのであるが、雲門はカウントせず三世とする。これは釈迦仏に於いても然りで、釈迦仏はカウントせず第一祖は魔訶迦葉である)であり、十分な参学人(参飽の皮袋)と言って宜しいと、一通りの紹介をされます。

続いて洞山無寒暑処話に対する雪竇の評価としては、「垂手還同万仭崖」に対する万仭崖の持ち込みに「しかあるべからず」と不是の烙印を刻されます。

「いま僧問山示の因縁、あながちに垂手不垂手にあらず、出世不出世にあらず。いわんや偏正の道を用いんや。偏正の眼を用いざれば、此因縁に下手の処なきが如し」

この部分は恐らくは『碧巌録』評唱(「大正蔵」四八・一八〇下)を底本とした模様です。

「垂手不垂手・出世不出世」の言は「曹洞下有出世不出世、有垂手不垂手。若不出世、目視雲霄。若出世、便灰頭土面―以下略」の圜悟の言辞を援用し、また「偏・正の道・眼を用いんや」は同所の「正偏何必在安排、若到用時、自然如此、不在安排也」からの「安排(正偏の配置)には及ばず(不在安排)」を参考に「偏正の道眼を用いるを、この洞山無寒暑処話を処理(下手)する段では無い」との、「碧巌」を参照しての道元流解釈とするものです。

「参請の巴鼻なきが如くなるは、高祖の辺域に至らず、仏法の大家を覰見せざるによれり。さらに草鞋を拈来して参請すべし。妄りに高祖の仏法は正偏等の五位なるべしと云う事、やみね」

参学請益する時に、巴鼻(つかみどころ・正偏の位)が無いようでは、高祖洞山には及ばず、仏法の大家(大意)を覰見(のぞき見る)できない、との雪竇の主張を註解するものです。

ですから正偏の概念に捉われないように、わらじ(草鞋)を履いて参学請益の聞法に勤しみなさい、との聴聞衆に対する希望を述べられ、妄念・妄想で以て洞山高祖の仏法の真髄を、正偏五位等と決め込むことは、止めなさいとの拈提です。

一般的漢詩文の理解では、『雪竇頌古百則』に於ける文体は東西両雄ともに称賛するものであるが、「正法眼蔵」的見方の雪竇不是の拈提自体稀少であるが、道元禅師の評価は概して雲門法脈には手厳しいようである。

 

    六

東京天寧長靈禪師守卓。和尚云、偏中有正正中偏、流落人間千百年。幾度欲歸歸未得、門前依舊草芊々。これもあながちに偏正と道取すといへども、しかも拈來せり。拈來はなきにあらず、いかならんかこれ偏中有。

ここで扱う本則話は『禅宗頌古聯珠通集』二四(「続蔵」六五・六二二上)からのものです。

「東京天寧長霊禅師守卓」

「東京」とは現在の河南省開封市に当たり、北宋では東京(とうけい)と呼ばれる。天寧寺の長霊守卓(1065―1123)は黄龍慧南(1002―1069)―黄龍祖心(1025―1100)―黄龍惟清(―1117)と続く黄龍派に列し、五代後には明庵栄西(1141―1215)へと連脈する法系です。

「偏中有正正中偏、流落人間千百年。幾度欲帰帰未得、門前依旧草芊々」

偏中に正が有り正中に偏あり、人間に流落し千百年。幾度か帰らんと欲すに帰すを未だ得ず、門前は依旧として草芊々。

長霊の云わんとする旨は、「寒時寒殺闍梨」に呼応するよう、やや悲観的物云いに聞こえる内容で、正偏を能所に見据えての、現実逃避した仕立てに見受けられます。

「これも強ちに偏正と道取すと云えども、しかも拈来せり。拈来はなきにあらず、いかならんかこれ偏中有」

偏中に正が有り、正中に偏あり。と説く意を「拈来せり、無きにあらず」と肯定されるものの、続く偈が余りにも粗雑であり、人界(偏)⇄天界(正)へと連絡する通霄路を模索する如くの偈に対し、いま一度長霊守卓に偏中有の本来底を問うもので、この和尚に対しても「不是」を刻印する拈提と為ります。

潭州大潙佛性和尚、嗣圜悟、諱法泰。云、無寒暑處爲君通、枯木生花又一重。堪笑刻舟求剣者、至今猶在冷灰中。この道取、いさゝか公案踏著戴著の力量あり。

本則話の出典は先ほど同様『禅宗頌古聯珠通集』二四(「続蔵」六五・六二二上)からと考えられます。

「潭州大潙仏性和尚、嗣圜悟、諱法泰」

「潭州」は湖南省長沙市一帯を指し、仏性法泰(生没不詳)は圜悟克勤の法を嗣ぎ、同門には大慧宗杲(1089―1163)・虎丘紹隆(1077―1136)が居り、楊岐派に列し北宋から南宋に至る時代には一大勢力を擁した禅門である。

「無寒暑処為君通、枯木生花又一重。堪笑刻舟求剣者、至今猶在冷灰中。この道取、いささか公案踏戴著の力量あり」

無寒暑の処、君が為に通ぜん、枯木花を生ずこと、又一重。笑うに堪えたり舟に刻して、剣を求むる者、今に至りて、猶冷灰の中に在り。

謂う旨は、法泰が云うには洞山無寒暑処話での僧に対して、無寒暑処とは如何なる所か教えてやろうとの起句を述べ、それは「枯木(尽界の真実底)に花を生じさせ又一重と云う事である。剣を求めるに船に刻すを求めるは笑うに堪えたり」とは、尽十方界の真実相は無常の連続態である事実を知らない無智に喩えるもので、船底にも冷灰の中にも洞山の般若の慧剣は得られない事を説く偈文です。これに対する評著では、「この法泰の云い様は少しばかり物言いが出来るが、公案(現成態)を下に置いたり上に持ち上げたり(踏著戴著)との弄語の力量あり。という「不是」の刻印を船底に付されるものです。具体的に何が不足かの指摘はありませんが、「枯木」「刻船」「冷炭」と話頭の流路がなく、語言の並進を嫌われたものかも知れません。

泐潭湛堂文準禪師云、熱時熱殺寒時寒、寒暑由來總不干。行盡天涯諳世事、老君頭戴猪皮冠。

しばらくとふべし、作麼生ならんかこれ不干底道理。速道々々。

この本則の出典も『禅宗頌古聯珠通集』二四(「続蔵」六五・六二二上)からの引用です。

「泐潭湛堂文準禅師云、熱時熱殺寒時寒、寒暑由来総不干。行尽天涯諳世事、老君頭戴猪皮冠」

「泐潭」は江西省高安県の地名であり、湛堂文準(1061―1115)は黄龍祖心(1025―1100)の孫弟子に当たり、長霊守卓と同世代となります。

「熱時熱殺寒時寒」は洞山話則の結論部を略したもので、寒暑の大元(由来)は総じて関係ない(不干)のである。天涯を行尽して世事を諳ずるは、老君の頭には猪(ぶた)の皮の冠(ぼうし)を戴く。

つまりは、湛堂が説く無寒暑処とは、天地一杯(行尽天涯)生きる事とは、仏智見を備えた老人が偉ぶらず、頭頂には猪皮冠(ぶたの皮の帽子)という普段な恰好をする、事と同等であること。謂う所は日常底の行為が無寒暑処であるとの意に汲み取れます。

「しばらく問うべし、作麼生ならんかこれ不干底道理。速道速道」

この湛堂の偈に対しては、寒暑由来総不干の「不干底の道理」を今一度説明すべし。に対する速道速道と共に道うこと能わずの意も包接される如くの、「如是」なる刻印が与えられる本則拈提であります。

湖州何山佛燈禪師、嗣太平佛鑑慧懃禪師、諱守珣和尚云、無寒暑處洞山道多少禪人迷處所寒時向火熱乘涼一生免得避寒暑

この珣師は、五祖法演禪師の法孫といへども、小兒子の言語のごとし。しかあれども、一生免得避寒暑、のちに老大の成風ありぬべし。いはく、一生とは盡生なり、避寒暑は脱落身心なり。おほよそ方の代、かくのごとく鼓兩片皮をこととして頌古を供達すといへども、いまだ高祖洞山の邊事を覰見せず。いかんとならば、佛祖の家常には、寒暑いかなるべしともしらざるによりて、いたづらに乘涼向火とらいふ。ことにあはれむべし、なんぢ老尊宿のほとりにして、なにを寒暑といふとか聞取せし。かなしむべし、祖師道癈せることを。この寒暑の形段をしり、寒暑の時節を經歴し、寒暑を使得しきたりて、さらに高祖爲示の道を頌古すべし、拈古すべし。いまだしかあらざらんは、知非にはしかじ。俗なほ日月をしり、萬物を保任するに、聖人賢者のしなじなあり。君子と愚夫のしなじなあり。佛道の寒暑、なほ愚夫の寒暑とひとしかるべしと錯會することなかれ。直須勤學すべし。

この本則も『禅宗頌古聯珠通集』二四(「続蔵」六五・六二二上)からと考えられますが、夾山からの六則は「禅宗頌古」にまとめられた話頭を選択し供したもののようです。

「湖州何山仏灯禅師、嗣太平仏鑑慧懃禅師、諱守珣」

「湖州(うしゅう)」は浙江省にかつて設置された州ですが、『続伝灯録』では「安吉州何山仏灯守珣禅師」(「大正蔵」五一・六六六下)とされますが、これは宝慶元年(1225)に湖州→安吉州に改名された為であり、道元禅師は参照された資料の湖州表記を筆録されたものです。

仏灯守珣(生没不詳)は仏鑑慧懃(1059―1117)を師とされますが、慧懃は五祖法演に嗣ぎますから、当時の一大勢力であった楊岐派に交わる和尚であったようです。

「無寒暑処洞山道、多少禅人迷処所。寒時向火熱乗涼、一生免得避寒暑」

無寒暑処は洞山が道う、多少の禅人は処所に迷う。寒時には火に向い熱い(時)は涼に乗ず、一生免がり得て寒暑を避き。

「この珣師は、五祖法演禅師の法孫と云えども、小児子の言語の如し。しかあれども、一生免得避寒暑、のちに老大の成風ありぬべし。云く、一生とは尽生なり、避寒暑は脱落身心なり」

先ずは仏灯守珣に対する評として、五祖法演に列する学人ではあるが、「寒時向火熱乗涼」などと云うは「小児子の言語の如し」と鉄槌を喰らわせ、そうではあるが「一生免得避寒暑」の言い分は見込みが有り、特に一生は「尽生」に避寒暑は「脱落身心」に聯関するとの言ですが、これまでの論評と比べると歯切れの悪い感がしないでもない。

「おおよそ諸方の諸代、かくの如く鼓両片皮を事として頌古を供達すと云えども、未だ高祖洞山の辺事を覰見せず。如何とならば、仏祖の家常には、寒暑いかなるべしとも知らざるによりて、いたづらに乗涼向火とら言う。殊に憐れむべし、なんぢ老尊宿のほとりにして、何を寒暑と云うとか聞取せし。悲しむべし、祖師道癈せることを」

「諸方の諸代、鼓両片皮」云々は、「当巻」総括として引用典籍に取り挙げられた他の和尚をも言い含めての、「頌古を供達すと云えども、未だ高祖洞山の辺事を覰見せず」と、洞山が説く「寒暑」の意を体現して居ないと言われるわけです。

特に守珣は熱い時には「乗涼」し、寒時には「向火」とら云う(らは接辞語で中世の貴種の語法とされる)を、殊に憐れむべしと指摘される処を「小児子の言語の如し」と言われるのです。仏縁にて法演門下の仏鑑和尚に参随しながら、「寒暑の何たるかを聞取」したのか、との疑義を呈し「祖師道が廃れる」との老婆心を示されるものです。

因みに「とら」の用法は『大悟』巻では三回、さらに『古鏡』『授記』『眼睛』各巻にて「とら」なる語法が確認されます。

「この寒暑の形段を知り、寒暑の時節を経歴し、寒暑を使得し来たりて、さらに高祖為示の道を頌古すべし、拈古すべし。未だしかあらざらんは、知非にはしかじ。俗なお日月を知り、万物を保任するに、聖人賢者の品々あり。君子と愚夫の品々あり。仏道の寒暑、なお愚夫の寒暑と等しかるべしと錯会する事なかれ。直須勤学すべし」

守珣に限らず文準・法泰・守卓各和尚にも云い得る事として、「寒暑の形段(ありよう)・時節・経歴・使得(使用)」の経験を重ね、その上で「高祖為示(おしえ)の道(ことば)を頌古・拈古」しなさいと言われます。つまり仏粥仏飯が喰い足らないぞとの意です。「知非」自身の非に気付きなさいとの示唆ですが、これは単に歴史上の故人を非難しているのではなく、現前聴聞する雲衲(この示衆は禅師峰と思われる為、白山天台徒も対象歟)に対する提唱ですから、「聖人賢者・君子・愚夫」それぞれが有ると、個々の聴衆に問い掛けるかの如くで、結語として「仏道と愚夫(世俗)の寒暑を同等視せず、直須勤学すべし」と、仏道参学究明を等閑にしてはいけない。との道元禅師による懇切な提言であった旨を記し、擱筆の段と致します。