正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵他心通

正法眼蔵 第七十三 他心通 

    一 

西京光宅寺慧忠國師者、越州諸曁人也。姓冉氏。自受心印、居南陽白崖山黨子谷、四十餘祀。不下山門、道行聞于帝里。唐肅宗上元二年、勅中使孫朝進賚詔徴赴京。待以師禮。勅居千福寺西禪院。及代宗臨御、復迎止光宅精藍、十有六載、隨機説法。時有西天大耳三藏、到京。云得佗心慧眼。帝勅令與國師試験。三藏才見師便禮拝、立于右邊。師問曰、汝得佗心通耶。對曰、不敢。師曰、汝道、老僧即今在什麼處。三藏曰、和尚是一國之師、何得卻去西川看競渡。師再問、汝道、老僧即今在什麼處。三藏曰、和尚是一國之師、何得卻在天津橋上、看弄猢猻。師第三問、汝道、老僧即今在什麼處。三藏良久、罔知去處。師曰、遮野狐精、佗心通在什麼處。三藏無對。

僧問趙州曰、大耳三藏、第三度、不見國師在處、未審、國師在什麼處。趙州云、在三藏鼻孔上。

僧問玄沙、既在鼻孔上、爲什麼不見。玄沙云、只爲太近。

僧問仰山曰、大耳三藏、第三度、爲什麼、不見國師。仰山曰、前兩度是渉境心、後入自受用三昧、所以不見。

海會端曰、國師若在三藏鼻孔上、有什麼難見。殊不知、國師在三藏眼睛裏。

玄沙徴三藏曰、汝道、前兩度還見麼。

雪竇明覺重顯禪師曰、敗也、敗也。

大證國師の大耳三藏を試験せし因縁、ふるくより下語し道著する臭拳頭おほしといへども、ことに五位の老拳頭あり。しかあれども、この五位の尊宿、おのおの諦當甚諦當はなきにあらず、國師の行履を覰見せざるところおほし。ゆゑいかんとなれば、古今の諸員みなおもはく、前兩度は三藏あやまらず國師の在處をしれりとおもへり。これすなはち古先のおほきなる不是なり、晩進しらずはあるべからず。

古則の出典は『景徳伝灯録』五・慧忠章(「大正蔵」五十一・二四四・上)と思われますが、趙州・玄沙・仰山・海会・雪竇の五人による拈語の出典は『宗門統要集』二・慧忠章と思われ両本の合揉と推測されます。(『景徳伝灯録』には仰山・玄沙・趙州のみ(割注)・『宗門統要集』には前記+海会・雪竇が収録される)

まづは読み下し文にすると

西京光宅寺の慧忠国師は、越州諸曁(き)の人。姓は冉(さん)氏。心印を受けてより南陽河南省)の白崖山党子谷に居ること四十余年。山門を下らず、道行が帝里(長安)に聞えた。唐の肅宗(第七代天子)上元二年(761)に勅使の孫朝進に長安に赴んことを徴(召し出)された。肅宗は慧忠を師として待遇した。千福寺内の西禅院(陝西省西安市)に居するを命ず。代宗(第八代天子)の臨御(即位)に及び、復た光宅寺(陝西省西安市)精藍に十六年、随機説法す。その時西天(インド)の大耳三蔵が京(長安)に来て、他心通の慧眼を得たと云う。帝(代宗)は慧忠国師に試験するよう命じた。

三蔵は師〈慧忠国師〉を見るや礼拝し、師の右辺に立った。

師が問うて言う、汝は他心通を得ているか。(三蔵)対して云う、不敢(恐れ入ります)。

師が言う、汝道(い)え、老僧〈慧忠〉は今何処にいるか。

三蔵は云う、和尚〈慧忠〉は是れ一国の師、どうして西川(陝西省)に行って競渡(ペーロン)を見ましょうか。

師は再び問う、汝道え、老僧は今何処にいるか。

三蔵は云う、和尚は是れ一国の師、どうして天津橋上で、猢猻(猿)の曲芸を見ましょうか。

師は三度問う、汝道え、老僧は今何処にいるか。

三蔵良久(しばらく)しても、行った処を知らず。

師が言った、この野狐精、他心通は何処に在るか。

三蔵対する無し。

右の因縁話について五僧の拈語

僧が趙州に問うて云う、大耳三蔵は三度目には国師の在所を見ず、未審(はっきりしない)、国師は何処に在す。

趙州は言う、三蔵の鼻孔上に在す。

僧が玄沙に問う、既に鼻孔上に在るなら、どうして見えないのか。

玄沙は言う、ただ近すぎた為。

僧が仰山に問うて云う、大耳三蔵は三度目には、どうして国師が見えなかったか。

仰山は言う、前の二度は〈国師に〉渉境心(分別心)で、三度目は自受用三昧に入り、見えず。

海会端は言う、国師もし三蔵の鼻孔上に在るなら、どうして難見か。殊に〈趙州は〉知らず、国師が三蔵の眼睛裏に在るを。

玄沙は三蔵を徴(め)して言った、汝道え、前の二度も本当に見たか。

雪竇明覚重顕禅師が言った、敗也、敗也。

これから此の話頭に対する拈提の開始です。

大証国師の大耳三蔵を試験せし因縁、古くより下語し道著する臭拳頭多しと云えども、ことに五位の老拳頭あり。しかあれども、この五位の尊宿、おのおの諦当甚諦当はなきにあらず、国師の行履を覰見せざる処多し」

「下語」(あぎょ)は著語と同じく批評・感想の意で、「臭拳頭」は臭皮袋と同じく俗人と解し、「五位の老拳頭」の五位とは趙州従諗(788―897)・玄沙師備(835―908)・仰山慧寂(807―883)・海会端〈白雲守端〉(1025―1072)・雪竇重顕(980―1052)を指すが、先には「大耳三蔵の因縁、古くより下語する臭拳頭」に対し、五人に対しては「老拳頭」と置き換えての言葉使いです。因みに慧忠国師の没年は大暦十(775)年で、代宗の治世最後の元号で、趙州・仰山・玄沙は唐代、雪竇・海会は宋代の人です。

「諦当甚諦当はなきにあらず、国師の行履を覰見せざるところ多し」

五人の老宿それぞれの拈語は正解と言えなくもないが、慧忠国師の修行底力を見ない処が多い、と言ったものです。

「故いかんとなれば、古今の諸員みな思わく、前両度は三蔵あやまらず国師の在処を知れりと思えり。これすなはち古先の多きなる不是なり、晩進知らずはあるべからず」

「古今の諸員」とは五人の拈語者も含めた先輩達の解釈は、大耳三蔵の西川競渡と天津橋

猢猻という三蔵の答話を他心通と誤認する不是を説くもので、これから道元禅師特有な拈提です。この処の『御抄』(「註解全書」九・四)の註解は「正法眼蔵の内、大修行と他心通は心得にくく」と云われます。

 

いま五位の尊宿を疑著すること兩般あり。一者いはく、國師の三藏を試験する本意をしらず。二者いはく、國師の身心をしらず。しばらく國師の三藏を試験する本意をしらずといふは、第一番に、國師いはく、汝道、老僧即今在什麼處といふ本意は、三藏もし佛法を見聞する眼睛なりやと試問するなり。三藏おのづから佛法の佗心通ありやと試問するなり。當時もし三藏に佛法あらば、老僧即今在什麼處としめされんとき、出身のみちあるべし、親曾の便宜あらしめん。いはゆる國師道の老僧即今在什麼處は、作麼生是老僧と問著せんがごとし。老僧即今在什麼處は、即今是什麼時節と問著するなり。在什麼處は、這裏是什麼處在と道著するなり。喚什麼作老僧の道理あり。國師かならずしも老僧にあらず、老僧かならず拳頭なり。大耳三藏、はるかに西天よりきたれりといへども、このこゝろをしらざることは、佛道を學せざるによりてなり、いたづらに外道二乘のみちをのみまなべるによりてなり。

國師かさねてとふ、汝道、老僧即今在什麼處。こゝに三藏さらにいたづらのことばをたてまつる。國師かさねてとふ、汝道、老僧即今在什麼處。ときに三藏やゝひさしくあれども、茫然として祗對なし。國師ときに三藏を叱していはく、這野狐精、佗心通在什麼處。かくのごとく叱せらるといへども、三藏なほいふことなし、祗對せず、通路なし。

これから具体的な指摘が始まります。ここで言う「身心」は慧忠の人柄であり、修行の仕方等を指します。

「しばらく国師の三蔵を試験する本意を知らずと云うは、第一番に、国師いはく、汝道、老僧即今在什麼処といふ本意は、三蔵もし仏法を見聞する眼睛なりやと試問するなり。三蔵おのづから仏法の他心通ありやと試問するなり」

趙州等五人の老拳頭の不備を説く拈提で、道元禅師が主張する処は慧忠国師が云う老僧即今在什麽の基本的即答語法を試問し、さらに三蔵学者の他心通と仏法による他心通の差違の試問が本意との拈語です。

「当時もし三蔵に仏法あらば、老僧即今在什麼処としめされん時、出身の路あるべし、親曾の便宜あらしめん」

大耳三蔵に仏法が具備されていたなら、老僧即今在什麼処と慧忠国師から問われた時、西川競渡とか天津猢孫などとは答えるはずはない、と言う事を「出身の路あるべし、親曾の便宜あらしめん」と逆説的に言うものです。

「いはゆる国師道の老僧即今在什麼処は、作麼生是老僧と問著せんがごとし。老僧即今在什麼処は、即今是什麼時節と問著するなり。在什麼処は、這裏是什麼処在と道著するなり。喚什麼作老僧の道理あり。国師かならずしも老僧にあらず、老僧かならず拳頭なり」

ここでの「問著」は問いを指すのではなく『大悟』巻で説く問処は答処の如しの論理からすると、「老僧即今什麽処」=「作麽生是老僧」=「即今是什麽時節」は同義体語に解し、在什麽処は正法眼蔵に通底する語脈を理解するには重要な言句で、経豪和尚はこれを「仏法の大姿」と比せられ、また「這裏是什麽処在」は南嶽が云った説似一物即不中を借用し「即不中の理」と究理の仏法に喩え、さらに道元禅師は老僧をも什麽に置換する道理を提言されるが、この老僧の正体を『御抄』(「註解全書」九・六)では「辺際なき所」とイヅレも什麽・作麽の無限定を説くものです。ですから「国師必ずしも老僧にあらず」と禅問答のような語法ですが、国師=老僧という執着を払拭する為の言い様で、この処が『他心通』巻のクライマックスな箇所となります。

「大耳三蔵、はるかに西天より来たれりと云えども、この心を知らざる事は、仏道を学せざるによりてなり、いたづらに外道二乘のみちをのみ学べるによりてなり。

国師かさねて問う、汝道、老僧即今在什麼処。こゝに三藏さらにいたづらの言葉をたてまつる。國師かさねてとふ、汝道、老僧即今在什麼処。ときに三藏やゝひさしくあれども、茫然として祗対なし。国師ときに三藏を叱して云わく、這野狐精、他心通在什麼処。かくのごとく叱せらると云えども、三藏なほ云う事なし、祗対せず、通路なし」

大耳三蔵は遥か遠くのインドから来たが、老僧即今在什麼処の什麽の心意を答話出来なかった事は、仏道(法)学んでいない証拠であり外道的論法を学すると糾弾されますが、大耳三蔵が来唐した当時のインド仏教は密教化に変容されつつある時期であり、インド僧に対し「什麽・甚麽・恁麽」等の中国的語法で以ての詰問は些か噛み合わない気もするが、道元禅師の評は仏道を勉強していないからとの酷評です。

さらに慧忠国師の即今在什麽処に対しての西川看競渡や天津橋上看猢孫と云った答話は「

いたづらの言葉」と断じ、這野狐精・他心通在什麼処に対する三蔵の「祗対せず、通路なし」は、三蔵が他心通=在什麽処と云う仏法に通底する語義が理解されずとの解説です。

ここまでが慧忠国師と大耳三蔵との問答に対する道元禅師の基本的態度で、さらに考究されます。

 

    三

しかあるを、古先みなおもはくは、國師の三藏を叱すること、前兩度は國師の所在をしれり、第三度のみしらず、みざるがゆゑに、國師に叱せらるとおもふ。これおほきなるあやまりなり。國師の三藏を叱することは、おほよそ三藏はじめより佛法也未夢見在なるを叱するなり。前兩度はしれりといへども、第三度をしらざると叱するにあらざるなり。おほよそ佗心通をえたりと自稱しながら、佗心通をしらざることを叱するなり。國師まづ佛法に佗心通ありやと問著し試験するなり。すでに不敢といひて、ありときこゆ。そののち、國師おもはく、たとひ佛法に佗心通ありといひて、佗心通を佛法にあらしめば恁麼なるべし。道處もし擧處なくは、佛法なるべからずとおもへり。三藏たとひ第三度わづかにいふところありとも、前兩度のごとくあらば道處あるにあらず、摠じて叱すべきなり。いま國師三度こゝろみに問著することは、三藏もし國師の問著をきくことをうるやと、たびたびかさねて三番の問著あるなり。

「古先」とは趙州・仰山・海会・玄沙・雪竇を云うわけですが、「国師の三蔵を叱することー中略―国師に叱せらると思う。これ大きなるあやまりなり」と五老拳の不徹底を説くものですが、そもそも経録の話答設定に問題がありそうですが今は黙認します。

「おほよそ他心通を得たりと自称しながら、他心通を知らざる事を叱するなり」

大耳三蔵の他心通と道元禅師の他心通の解釈の思考法が相違する為、このような食い違いが生じます。

国師まづ仏法に他心通ありやと問著し試験するなり。すでに不敢と云いて、有りと聞こゆ。その後、国師思わく、たとひ仏法に他心通有りと云いて、他心通を仏法にあらしめば恁麼なるべし。道処もし挙処なくは、仏法なるべからずと思えり。三蔵たとひ第三度わづかに云う処有りとも、前両度の如く有らば道処有るにあらず、摠じて叱すべきなり」

此の処で、道元禅師の他心通に対する考え方が「道処もし挙処なくは、仏法なるべからず」と説かれますが、「三蔵たとひ第三度わづかに云う処有りとも摠じて叱すべきなり」との態度ならば在什麽処は際限なき言語ゲームに陥り兼ねません。この場合の他心通は「黙語」と著語すべきではないでしょうか。

「いま国師三度試みに問著することは、三蔵もし国師の問著を聞くことを得るやと、度々重ねて三番の問著あるなり」

これは先般に説く「いま五位の尊宿を疑著すること両般あり。一者いはく、国師の三蔵を試験する本意を知らず。二者いはく、国師の身心を知らず」の慧忠国師の大耳三蔵に対する三番問著に対する国師の本意を五老拳に対して説くものです。

二者いはく、國師の身心をしれる古先なし。いはゆる國師の身心は、三藏法師のたやすく見及すべきにあらず、知及すべきにあらず。十聖三賢およばず、補處等覺のあきらむるところにあらず。三藏學者の凡夫なる、いかでか國師の渾身をしらん。

この道理、かならず一定すべし。國師の身心は三藏の學者しるべし、みるべしといふは謗佛法なり。經論師と齊肩なるべしと認ずるは狂顛のはなはだしきなり。佗心通をえたらんともがら、國師の在處しるべしと學することなかれ。

前段に言う処の「五位の尊宿を疑著すること両般あり」の二つ目の慧忠国師の身心に関する道元禅師の拈提部です。

ここで説く「身心」は体と心を云うのではなく「いかでか国師の渾身を知らん」とあるように、概念化されたトピックを云うのではなく全体(什麽)を称して身心と呼ばしむるものです。

この全体を云う事を三蔵の学者には知見できない事は、仏法は無常(アニッチャ)を常としますから定型言句で以ての説法は「諦仏法」とされ、「経論師」の文字学者を慧忠国師と同列にしてはいけないと言われ、「他心通を得たらん輩、国師の在処知るべしと学することなかれ」と言う事は、大耳三蔵の答話自体が諦仏法であるとの拈提です。

 

    四

佗心通は、西天竺國の土俗として、これを修得するともがら、まゝにあり。發菩提心によらず、大乘の正見によらず。佗心通をえたるともがら、佗心通のちからにて佛法を證究せる勝躅、いまだかつてきかざるところなり。佗心通を修得してのちにも、さらに凡夫のごとく發心し修行せば、おのづから佛道に證入すべし。たゞ佗心通のちからをもて佛道を知見することをえば、先聖みなまづ佗心通を修得して、そのちからをもて佛果をしるべきなり。しかあること、千佛萬祖の出世にもいまだあらざるなり。すでに佛祖の道をしることあたはざらんは、なににかはせん。佛道に不中用なりといふべし。佗心通をえたるも、佗心通をえざる凡夫も、たゞひとしかるべし。佛性を保任せんことは、佗心通も凡夫もおなじかるべきなり。學佛のともがら、外道二乘の五通六通を、凡夫よりもすぐれたりとおもふことなかれ。たゞ道心あり、佛法を學せんものは、五通六通よりもすぐれたるべし。頻伽の卵にある聲、まさに衆鳥にすぐれたるがごとし。いはんやいま西天に佗心通といふは、佗念通といひぬべし。念起はいさゝか縁ずといへども、未念は茫然なり、わらふべし。いかにいはんや心かならずしも念にあらず、念かならずしも心にあらず。心の念ならんとき、佗心通しるべからず。念の心ならんとき、佗心通しるべからず。

しかあればすなはち、西天の五通六通、このくにの薙草修田にもおよぶべからず、都無所用なり。かるがゆゑに、震旦國より東には、先徳みな五通六通をこのみ修せず、その要なきによりてなり。尺璧はなほ要なるべし、五六通は要にあらず。尺璧なほ寶にあらず、寸陰これ要樞なり。五六通、たれの寸陰をおもくせん人かこれを修習せん。おほよそ佗心通のちから、佛智の邊際におよぶべからざる道理、よくよく決定すべし。しかあるを、五位の尊宿、ともに三藏さきの兩度は國師の所在をしれりとおもへる、もともあやまれるなり。國師は佛祖なり、三藏は凡夫なり。いかでか相見の論にもおよばん。

この段の前半は外道二乗の他心通ならびに五通六通と仏道との違いを述べるものですが、四年前に興聖宝林寺での『神通』巻では六神通を「いたづらに向外の馳走を帰家の行履とあやまれるのみなり」また「四果は仏道の調度なりと云えども正伝せる三蔵なし、算沙のやから、跉跰のたぐい、いかでかこの果実を得ることあらん」と説き、「六通四果を仏道に正伝するは平常心なり」と断言され、大耳三蔵の云う他心通は「毛呑巨海、芥納須弥・身上出水、身下出火等の五通六通であり小神通なり」の文言を底本にした文章だと思われます。

「頻伽の卵にある声、まさに衆鳥にすぐれたるが如し。いはんや今西天に他心通と云うは、他念通と云いぬべし。念起は些か縁ずと云えども、未念は茫然なり、笑うべし。如何に云わんや心必ずしも念にあらず、念必ずしも心にあらず。心の念ならん時、他心通知るべからず。念の心ならんとき、他心通知るべからず」

「頻伽」は梵語のカラヴィンカの音訳語迦陵頻伽の略語で、殻の中に居る時から鳴き出すと云われ、仏の声を形容する喩えですが、この場合は慧忠国師が問う在什麽処が頻伽の卵にある声で、大耳三蔵の云う西川・天津の答話を衆鳥に比喩せられたるものと思われます。

次に「心」と「念」の違いを心は全体的把捉態、念をその一形態部位に解釈されます。さらに云うならば心は三界唯心の心に該当され、念は慮知念覚の念に相当するものですから未念の語があるわけです。

「しかあればすなはち、西天の五通六通、この国の薙草修田にも及ぶべからず、都無所用なり」

西天(インド)の五通六通と云われる小神通は草を薙り田を修する百姓にも及ばず、都て所用すること無し(都無所用)である。

「かるが故に、震旦国より東には、先徳みな五通六通を好み修せず、その要なきに依りてなり」

ですから支那・日本の仏教界では、小乗的五通六通を理解していた為、修行する行者は存在しなかったと。

「尺璧はなほ要なるべし、五六通は要にあらず。尺璧なほ宝にあらず、寸陰これ要枢なり。五六通、たれの寸陰を重くせん人かこれを修習せん」

一尺の平らな玉(ぎょく)には使い道が有るが五通六通は役に立たず、わづかな時間(寸陰)の方が貴重で誰がこれ(五六通)を修行するのか

「おほよそ他心通のちから、仏智の辺際に及ぶべからざる道理、よくよく決定すべし。しかあるを、五位の尊宿、ともに三蔵先の両度は国師の所在を知れりと思える、最も錯まれるなり。国師は仏祖なり、三蔵は凡夫なり。いかでか相見の論にも及ばん」

外道二乗の他心通は仏道の足元に及ばない道理を心に定むべし。そうであるにも関わらず、趙州・玄沙・仰山・海会・雪竇の五人の尊宿と云われる人々は、三蔵が慧忠国師に答えた西川・天津の話頭を解会したとするのが「最も錯まれるなり」と。慧忠国師は仏祖、大耳三蔵は凡夫と二元項に入り、相見(面会)した意義に及ばなかったと能所・主客的論法での解釈法です。

 

    五

國師まづいはく、汝道、老僧即今在什麼處。

この問、かくれたるところなし、あらはれたる道處あり。三藏のしらざらんはとがにあらず、五位の尊宿のきかずみざるはあやまりなり。すでに國師いはく、老僧即今在什麼處とあり。さらに汝道、老僧心即今在什麼處といはず。老僧念即今在什麼處といはず。もともきゝしり、みとがむべき道處なり。しかあるを、しらずみず、國師の道處をきかずみず。かるがゆゑに、國師の身心をしらざるなり。道處あるを國師とせるがゆゑに、もし道處なきは國師なるべからざるがゆゑに。いはんや國師の身心は、大小にあらず、自佗にあらざること、しるべからず。頂あること、鼻孔あること、わすれたるがごとし。國師たとひ行李ひまなくとも、いかでか作佛を圖せん。かるがゆゑに、佛を拈じて相待すべからず。

國師すでに佛法の身心あり、神通修證をもて測度すべからず。絶慮忘縁を擧して擬議すべからず。商量不商量のあたれるところにあらざるべし。國師は有佛性にあらず、無佛性にあらず、虚空身にあらず。かくのごとくの國師の身心、すべてしらざるところなり。いま曹谿の會下には、青原南嶽のほかは、わづかに大證國師、その佛祖なり。いま五位の尊宿、おなじく勘破すべし。

さらに続けて在什麽処の考究ですが、「隠れたる処なし顕われたる道処」と答えを提示されます。在什麽処をなんの処にか在ると解読すると隠顕の義になるが、いづれの処にも在ると解会するなら道処は限定されませんから顕われたる道処と道得されるわけです。

「三藏の知らざらんは科にあらず、五位の尊宿の聞かず見ざるは錯まりなり。すでに国師云わく、老僧即今在什麼処とあり。さらに汝道、老僧心即今在什麼処と云わず。老僧念即今在什麼処と云わず。最も聞き知り、見咎むべき道処なり」

ここで焦点を三蔵から五位の尊宿に変え、大耳三蔵が在什麽処の意を知らなかったのは凡夫であるから科(とが)ではなく仕方なく、問題は後世の五人の尊宿の聞かず見ざるが錯まりと論究されます。その錯まりは心在什麽とか念在什麽とかを問い質しているのではなく、仏法の関棙子(急所)である在什麽と云う最も聞き知り親しんだ語を見咎むべきであるとの事です。

「しかあるを、知らず見ず、国師の道処を聞かず見ず。かるが故に、国師の身心を知らざるなり。道処あるを国師とせるが故に、もし道処なきは国師なるべからざるが故に。いはんや国師の身心は、大小にあらず、自他にあらざること、知るべからず。頂あること、鼻孔あること、忘れたるが如し。国師たとひ行李ひまなくとも、いかでか作仏を図せん。かるが故に、仏を拈じて相待すべからず」

このように親切に老僧即今在什麽処とだけ云っているのにも関わらず、五人の尊宿たちは慧忠国師を知らず聞かず見ずと断言され、さらには身心を知らざるなりと最初の設問の疑著する両般が繰り返されます。重説になりますが身心は渾身と同義語ですから、全一身・身一全・全一心・心一全と表現し得るものです。ですから身心には大中小の区分けは出来ず、さらに自他の二分立に分別する事など不可能です。この趙州等の五老人は慧忠国師に頭頂や鼻の穴がある真実人体と云う実体も見失ったようだと、痛烈なる批評です。

そして慧忠国師については、行李(生活)が間断なくても作仏という偶像は図らず、また仏という概念を持ち出して対比するような人物ではないとの拈提です。

国師すでに仏法の身心あり、神通修証をもて測度すべからず。絶慮忘縁を挙して擬議すべからず。商量不商量のあたれる処にあらざるべし。国師は有仏性にあらず、無仏性にあらず、虚空身にあらず。かくの如くの国師の身心、すべて知らざる処なり。いま曹谿の会下には、青原南嶽のほかは、わづかに大証国師、その仏祖なり。いま五位の尊宿、同じく勘破すべし」

国師=仏法=身心と三者を同義体語と解し、要は共々尽界を具現化する語句としての理解である。「仏法の身心」と云うより仏法は身心と云い換えた方が適語かも知れない。「神通修証」とは五通六通の染汚せられた小神通を指し、「絶慮忘縁」は無念無想的はからいで、「商量不商量」は問答審議の有り無し等で仏法は推し量る事は出来ないとの事です。

次に言う「国師は有仏性・無仏性・虚空身にあらず」とは一ツの状態状況に固定化を避ける為に、このような言い方をされます。

「曹谿」の六祖慧能の門下には四十三人の名が列挙されますが、その両頭には曹洞系に連なる青原行思(―740)・臨済系に列する南嶽懐譲(677―744)のほかに大証国師つまり南陽慧忠(―775)三人を特に仏祖なりと位置付けての論証で、これから五位の尊宿に対する批評(勘破)が始まります。

 

    六

趙州いはく、國師は三藏の鼻孔上にあるがゆゑにみずといふ。この道處、そのいひなし。國師なにとしてか三藏の鼻孔上にあらん。三藏いまだ鼻孔あらず、もし三藏に鼻孔ありとゆるさば、國師かへりて三藏をみるべし。國師の三藏をみること、たとひゆるすとも、たゞこれ鼻孔對鼻孔なるべし。三藏さらに國師と相見すべからず。

これから五老拳に対する拈語で趙州従諗和尚を取り挙げます。

まづ最初に僧問趙州日、大耳三蔵、第三度、不見国師在所、未審、国師在什麽処。の問いに対する趙州和尚が云った在三蔵鼻孔上を「国師は三蔵の鼻孔上に在るが故に見ず」と云い改め、この言い方では意味なしと断言されます。その理由を「三蔵にはまだ鼻孔が無いのに、どうして慧忠国師が三蔵の鼻孔の上に在れようか」とのコメントが此の段での要略となりますが、前々段で説くように「国師は仏祖なり、三蔵は凡夫なり」を承けての言辞で、三蔵には仏祖としての鼻孔はない事を「三蔵いまだ鼻孔あらず」と表現されるものです。

「もし三藏に鼻孔ありと許さば」とは三蔵が仏祖と成ったら、国師と三蔵は相見が適うを「国師かへりて三蔵を見るべし」と言われます。仮にも国師が三蔵を認めたとしても、身体の一部である鼻孔と鼻孔が向き合うに過ぎず、凡夫である三蔵には仏祖としての国師と相互に見参する事はないとのコメントです。

玄沙いはく、只爲太近。

まことに太近はさもあらばあれ、あたりにはいまだあたらず。いかならんかこれ太近。おもひやる、玄沙いまだ太近をしらず、太近をを參ぜず。ゆゑいかんとなれば、太近に相見なしとのみしりて、相見の太近なることしらず。いふべし、佛法におきて遠之遠なりと。もし第三度のみを太近といはば、前兩度は太遠在なるべし。しばらく玄沙にとふ、なんぢなにをよんでか太近とする。拳頭をいふか、眼睛をいふか。いまよりのち、太近にみるところなしといふことなかれ。

次に玄沙師備(835―908)和尚が云う「ただはなはだ近すぎた為」は「既在鼻孔上、為什麽不見」と先の趙州の言を承けての答話設定に注視を要す。

この「太近」に対する拈提では「さもあらばあれ、あたりにはいまだあたらず」と有りますが、さもあらばあれはそれはともかくも又はなにはともあれと解し、玄沙の太近の答話は云い得ていない的はずれである事を「あたりにはいまだあたらず」と言われます。

玄沙の太近の理解に至っては思いやられ、太近自体を知らず参究参学もいまだと『十方』巻『遍参』巻等で取り扱われた玄沙とは思われぬ酷評です。

太近を知らない理由は、近すぎると相見は出来ないと思い込み、相見そのものを解会していないからだと。玄沙の仏法理解は「遠之遠」方角違いであると。

「もし第三度のみを太近と云わば、前両度は太遠在なるべし」は、僧が趙州に問うた「大耳三蔵、第三度、不見国師在処、未審、国師在什麽処」を承けての第一第二答話を是とした趙州話を踏襲しての「前両度は太遠在なるべし」と玄沙に対し二極分限思考法と思われる拈提です。

最後に玄沙を問い質します。「はなはだ近い」ならば鼻孔のほかに拳や眼睛も同じように云うのかと。これより以後、太近であるが為に「慧忠国師は大耳三蔵が見えなかった」などと云うなとの叱声で終わらせます。

仰山いはく、前兩度是渉境心、後入自受用三昧、所以不見。

仰山なんぢ東土にありながら小釋迦のほまれを西天にほどこすといへども、いまの道取、おほきなる不是あり。渉境心と自受用三昧と、ことなるにあらず。かるがゆゑに、渉境心と自受用とのことなるゆゑにみず、といふべからず。しかあれば、自受用と渉境心とのゆゑを立すとも、その道取いまだ道取にあらず。自受用三昧にいれば、佗人われをみるべからずといはば、自受用さらに自受用を證すべからず、修證あるべからず。仰山なんぢ前兩度は實に國師の所在を三藏みるとおもひ、しれりと學せば、いまだ學佛の漢にあらず。

おほよそ大耳三藏は、第三度のみにあらず、前兩度も國師の所在はしらず、みざるなり。この道取のごとくならば、三藏の國師の所在をしらざるのみにあらず、仰山もいまだ國師の所在をしらずといふべし。しばらく仰山にとふ、國師即今在什麼處。このとき、仰山もし開口を擬せば、まさに一喝をあたふべし。

三人目に仰山慧寂(807―883)和尚に対する拈提ですが、一般的には「渉境心」とは分別心を「自受用三昧」とは自分自身に成りきる境涯を云うものですが、後に同等語の由を説かれます。

「仰山なんぢ東土に在りながら小釈迦の誉れを西天に施すと云えども、いまの道取、多きなる不是あり」

『御抄』(「註解全書」九・二一)では仰山のことばを「梵僧が梵語に飜して西天にて披露し、釈尊の再出世し給うかと云う。故に小釈迦の誉れ西天に施すと云う」と註解されますが、道元禅師は渉境心・自受用三昧の解釈は大きな誤釈と言われます。

「渉境心と自受用三昧と、異なるにあらず。かるが故に、渉境心と自受用との異なる故に見ず、と云うべからず。しかあれば、自受用と渉境心との故を立すとも、その道取いまだ道取にあらず。自受用三昧に入れば、他人われを見るべからずと云うわば、自受用さらに自受用を証すべからず、修証あるべからず」

道元禅師の見方は「渉境心」も「自受用三昧」も同義語として扱われますが、三昧に心を付けて渉境心・自受用三昧心とと並語することで「心」に内包されますから同義語とし、故に第三度目に三蔵が国師を見ずとは言えないとの論理法です。

自受用も渉境心も概念上での学問用語ですから、証明しようとしても言及できるものではありません。

自受用三昧だけを独立させてみても心の一部位で、連続態ですから「自受用さらに自受用を証すべからず」と言われ、さらに修と証を別々に取り出すことは出来ませんから「修証あるべからず」と著語されます。

「仰山なんぢ前両度は実に国師の所在を三蔵見ると思い、知れりと学せば、いまだ学仏の漢にあらず。凡そ大耳三蔵は、第三度のみにあらず、前了度も国師の所在は知らず、見ざるなり。この道取の如くならば、三蔵の国師の所在を知らざるのみにあらず、仰山もいまだ国師の所在を知らずと云うべし」

前二者同様に叱せられますが、問十答百の鷲子(『行持』巻)と称せられた仰山慧寂を「学仏の漢にあらず」さらに西天の三蔵と同位に比定する「仰山も未だ国師の所在を知らず」との評価です。

「しばらく仰山に問う、国師即今在什麼処。この時、仰山もし開口を擬せば、まさに一喝を与うべし」

あらためて仰山の語誤を糾すために在什麼処に対し答一でも云うものなら、「一喝を与うべし」との一喝を『御抄』(「註解全書」九・二二)では「云わずに在るようと云う心地」と解され、『聞書』(「同書」九・三三)では「国師の所在什麼処ならんには開口の義あるべからず」との見解です。

玄沙の徴にいはく、前兩度還見麼。

いまこの前兩度還見麼の一言、いふべきをいふときこゆ。玄沙みづから自己の言句を學すべし。この一句、よきことはすなはちよし。しかあれども、たゞこれ見如不見といはんがごとし。ゆゑに是にあらず。

玄沙が三蔵を呼び寄せて、前の二度は本当に見たのか。と三蔵を問い詰める設定で、この問い自体は的を得たものだが只これだけでは、見る見ないの能所見である為に是にあらずとの評著です。

これをきゝて、雪竇山明覺禪師重顯いはく、敗也、敗也。

これ玄沙のいふところを道とせるとき、しかいふとも、玄沙の道は道にあらずとせんとき、しかいふべからず。

四人目に雪竇重顕(980―1052)和尚の云う敗也敗也に対するものですが、これは雪竇が玄沙の前両度還見麼を是とし三蔵に対しやられたと云うもので、玄沙の言明を是としない時には敗也敗也などとは云うべからず、と平面的に捉えた著語です。

海會端いはく、國師若在三藏鼻孔上、有什麼難見。殊不知、國師在三藏眼睛裏。

これまた第三度を論ずるのみなり。前兩度もかつていまだみざることを、呵すべきを呵せず。いかでか國師を三藏の鼻孔上にあり、眼睛裏にあるともしらん。もし恁麼いはば、國師の言句いまだきかずといふべし。三藏いまだ鼻孔なし、眼睛なし。たとひ三藏おのれが眼睛鼻孔を保任せんとすとも、もし國師きたりて鼻孔眼睛裏にいらば、三藏の鼻孔眼睛、ともに當時裂破すべし。すでに裂破せば、國師の窟籠にあらず。五位の尊宿、ともに國師をしらざるなり。

最後に五人目の海会端つまり白雲守端(1025―1072)和尚に対する評価です。

趙州・仰山と同様に三度の国師の問いに対し第一第二は論ぜずに、第三度を論ずるのみなりと落胆されます。

「いかでか国師を三蔵の鼻孔上にあり、眼睛裏に有るとも知らん。もし恁麼云わば、国師の言句いまだ聞かずと云うべし」

慧忠国師の云う在什麼処の意も理解していないのに、どうして鼻孔上とか眼睛裏を知り得るかと。

「三蔵いまだ鼻孔なし、眼睛なし。たとひ三蔵おのれが眼睛鼻孔を保任せんとすとも、もし国師来たりて鼻孔眼睛裏に入らば、三蔵の鼻孔眼睛、ともに当時裂破すべし。すでに裂破せば、国師の窟籠にあらず。五位の尊宿、ともに国師を知らざるなり」

三蔵いまだ鼻孔なしは先に趙州いはくの段にて三蔵いまだ鼻孔あらずからの転成語ですが、三蔵は仏法を知らない凡夫の意と解し、三蔵おのれが眼睛鼻孔を保任せんとは菩提心を発して国師同様に仏祖となる事を指しますから、主客同一的状態となり国師と三蔵の見分けがつかない状況を「国師来たりて鼻孔眼睛裏に入らば、三蔵の鼻孔眼睛、ともに当時裂破すべし。すでに裂破せば、国師の窟籠にあらず」と能観所観一体を言うものです。

 

    六

國師はこれ一代の古佛なり、一世界の如來なり。佛正法眼藏あきらめ正傳せり。木槵子眼たしかに保任せり。自佛に正傳し、佗佛に正傳す。釋迦牟尼佛と同參しきたれりといへども、七佛と同時參究す。かたはらに三世諸佛と同參しきたれり。空王のさきの成道せり、空王ののちに成道せり。正當空王佛に同參成道せり。國師もとより娑婆世界を國土とせりといへども、娑婆かならずしも法界のうちにあらず、盡十方界のうちにあらず。釋迦牟尼佛の娑婆國の主なる、國師の國土をうばはず、罣礙せず。たとへば、前後の佛祖おのおのそこばくの成道あれど、あひうばはず、罣礙せざるがごとし。前後の佛祖の成道、ともに成道に罣礙せらるゝがゆゑにかくのごとし。

この段の前半部は慧忠国師を讃嘆する一代の古仏・一世界の如来釈迦牟尼仏と同参・空王仏に同参成道等の法語で満たされ、同様に慧忠を扱かった『即心是仏』巻(延応元年(1239))には「大証国師は曹谿古仏の上足なり、天上人間の大善知識なり」と有るを見ても、この巻に於ける大証慧忠国師の位置づけが窺われます。

なお古仏の尊称は「先師古仏」「曹谿古仏」「宏智古仏」「高祖古仏」「圜悟古仏」「黄檗古仏」「趙州古仏」等」を道元禅師は挙称されます。

「木槵子眼たしかに保任せり」の木槵子は羽子板の羽の核に当たるムクロジを云い、転じて眼睛(ひとみ)に喩えて坐禅を比喩する言い方です。

「自仏に正伝し、他仏に正伝す」云々は自他の分別を超越した事を云い、その自他なきを釈迦―七仏―三世諸仏を同参させ、自他という能観所観的見方を嫌う文言です。

「空王の先の成道せり、空王の後に成道せり。正当空王仏に同参成道せり」

空王はビッグバン以前の状態を指しますが、ビッグバンを境面として量子的世界から相対的次元に変成しても連続体は一次元ですから、ともに成道と言うキーワードでの包括的説明です。

後半部では慧忠国師釈迦牟尼仏との関係を「前後の仏祖の成道、ともに成道に罣礙せず」と前句同様成道で以て連関を表し、娑婆世界―法界―尽十方界の透脱化を説くものです。

大耳三藏の國師をしらざるを證據として、聲聞縁覺人、小乘のともがら、佛祖の邊際をしらざる道理、あきらかに決定すべし。國師の三藏を叱する宗旨、あきらめ學すべし。

いはゆるたとひ國師なりとも、前兩度は所在をしられ、第三度はわづかにしられざらんを叱せんはそのいひなし、三分に兩分しられんは全分をしれるなり。かくのごとくならん、叱すべきにあらず。たとひ叱すとも、全分の不知にあらず。三藏のおもはんところ、國師の懡羅なり。わづかに第三度しられずとて叱せんには、たれか國師を信ぜん。三藏の前兩度をしりぬるちからをもて、國師をも叱しつべし。

これから提唱の締め括りになり、大耳三蔵が慧忠国師を理解できなかった証拠として声聞縁覚人としますが、あらためて声聞縁覚人とは、大乗人に対する小乗人を指し、大乗が利他を修するに対し小乗の自利のみを修するを大耳三蔵と位置づけ、さらに慧忠国師が執拗なまでに三蔵を叱する宗旨が説かれます。

「たとひ国師なりとも、前両度は所在を知られ、第三度はわづかに知られざらんを叱せんはその云いなし、三分に両分知られんは全分を知れるなり」

仮に三蔵の二回の答えは正解で、三回目の質問が不答話であった為に、国師が叱ったと云うのは間違いであり、三回の内二回を他心通で見破ったと云うなら、全て見破れたと仮定する。

「かくの如くならん、叱すべきにあらず。たとい叱すとも、全分の不知にあらず。三蔵の思わん処、国師の懡羅なり」

そのように三蔵の三回の答話が正しかったら、叱する必要は有りませんが、例えば叱するにしても全分(三回)知らないのではないので、恥ずべき(懡羅)は国史の方ではないか、と云うのが三蔵のいい分であるとの拈提です。

「わづかに第三度知られずとて叱せんには、たれか国師を信ぜん。三蔵の前両度を知りぬる力を以て、国師をも叱しつべし」

たった一回(第三度)だけ知らないのを叱するようでは、世間の人は国師を信用しないだろう。今度は逆に三蔵が国師を叱ってやろうと、三蔵からのいい分を臭拳頭の解会として説かれるものです。

國師の三藏を叱せし宗旨は、三度ながら、はじめよりすべて國師の所在所念、身心をしらざるゆゑに叱するなり。かつて佛法を見聞習學せざりけることを叱するなり。この宗旨あるゆゑに、第一度より第三度にいたるまで、おなじことばにて問著するなり。

第一番に三藏まうす、和尚是一國之師、何卻去西川看競渡。しかいふに、國師いまだいはず、なんぢ三藏、まことに老僧所在をしれりとゆるさず。たゞかさねざまに三度しきりに問するのみなり。この道理をしらずあきらめずして、國師よりのち數百歳のあひだ、諸方の長老、みだりに下語、説道理するなり。

前來の箇々、いふことすべて國師の本意にあらず、佛法の宗旨にかなはず。あはれむべし、前後の老古錐、おのおの蹉過せること。いま佛法のなかに、もし佗心通ありといはば、まさに佗身通あるべし、佗拳頭通あるべし、佗眼睛通あるべし。すでに恁麼ならば、まさに自心通あるべし、自身通あるべし。すでにかくのごとくならんには、自心の自拈、いまし自心通なるべし。かくのごとく道取現成せん、おのれづから心づからの佗心通ならん。しばらく問著すべし、拈佗心通也是、拈自心通也是。速道々々。是則且置、汝得吾髓、是佗心通也。

前段は大耳三蔵の視点からの国師像でしたが、最終段では今一度国師についての考察です。

国師の三蔵を叱せし宗旨は、三度ながら、始めよりすべて国師の所在所念、身心を知らざる故に叱するなり」

慧忠国師が三度目の問いの後に遮野狐精と叱った理由は、最初から三問共々国師が云う老僧即今在什麼処の真意を解せず、不敢などと云うから叱するわけです。

「かつて仏法を見聞習学せざりける事を叱するなり。この宗旨ある故に、第一度より第三度に至るまで、同じ言葉にて問著するなり」

釈尊を本師とする仏法に於いても、時代状況や宗学宗旨等の違いで天地懸隔ほどの差が出る事があるから、国師は三度とも老僧即今在什麼処の語で以て問うてみたと。

「第一番に三蔵申す、和尚是一国之師、何却去西川看競渡。しか云うに、国師いまだ云わず、なんぢ三蔵、まことに老僧所在を知れりと許さず。たゞ重ねざまに三度頻りに問するのみなり」

国師と三蔵それぞれの認識の差異で、三蔵の認識する他心通は去西川であるので、国師いまだ云わずを黙認と可した三蔵とのすれ違い問答のような気がします。

「この道理を知らず明らめずして、国師よりのち数百歳の間、諸方の長老、妄りに下語、説道理するなり」

国師が三蔵の答話に対し無応答ならびに三度の同じ質問の老僧即今在什麼処を趙州以下の五人の長老たちは、什麼の真意を解さず只批評や道理を説くばかりだと。

「前来の箇々、云うこと全て国師の本意にあらず、仏法の宗旨に適わず。哀れむべし、前後の老古錐、おのおの蹉過せること」

前言の繰り返しで老古錐は大先輩の意で、蹉過はつまづく・すれちがうの意です。

「いま仏法の中に、もし他心通ありと云わば、まさに他身通あるべし、他拳頭通あるべし、他眼睛通あるべし。すでに恁麼ならば、まさに自心通あるべし、自身通あるべし。すでにかくの如くならんには、自心の自拈、いまし自心通なるべし。かくの如く道取現成せん、おのれづから心づからの他心通ならん」

これから数行が道元禅独自の論述法で、ここで言う他心通は五通六通の小神通ではなく、仏法のなかの他心通であることを認得しなければなりません。この場合は釈迦→摩訶迦葉に六祖慧能→青原・南嶽に単伝された仏法を「他心通」と言われ、その時には身心不二の論法に徹するならば「他身通」も有りなんで、「他拳頭通」も他身通を言い換えたもので「他眼睛通」も同様で、眼睛を生命そのものとする視点からすると他心通に包含されるものです。これらのように他が有るなら自心通さらには自身通も具備しなければなりません。

「すでにかくの如くならんには、自心の自拈、いまし自心通なるべし。かくの如く道取現成せん、おのれづから心づからの他心通ならん」

自心通・自身通があるならば「自心の自拈」つまり自分を自覚する事を言い、それが自心通であり、おのづから先程から説くように他心通に帰着するものであると。

「しばらく問著すべし、拈他心通也是、拈自心通也是。速道々々。是則且置、汝得吾随、是他心通也」

最後に我々に他心通を拈ずるを是とするか、自心通を拈ずるを是とするかを速道速道すみやかに言えと詰問されますが、これまで見て来たように、自他の区分けをする事は尽十方界を俯瞰する仏法とは呼べなくなり、どちらも是とすべきをこのように設問形式に置き換えられます。

結論は「汝得吾随、是他心通也」とのことですが、これは『葛藤』巻で説かれるように「祖道の皮肉骨髄は浅深にあらざるなり。見解に殊劣ありとも、祖道は得吾なるのみなり」と拈提され、また「正伝なき輩思わく、四子各所解に親疎あるによりて、祖道また皮肉骨髄の浅深不同なりー中略―かくの如く云うは未だ曾て仏祖の参学なく祖道の正伝あらざるなり」の文言からも推察されるように、他心通は人々の心根を探る事ではなく、得吾という自己の真実を得たことが他心通であり、また仏祖に参学したる正伝が他心通であり、決して人を驚嘆させたり大悟然たる態度を諌めるもので、日々底の真実体が「他心通」であるとの提唱です。