正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵 第五 即心是仏

  正法眼蔵 第五 即心是仏

    前文

「七十五巻正法眼蔵」の執筆する時期を概観するに、興聖創成頃の㈠天福年間(1233―4)・㈡仁治の前(1238―39)・㈢越前移錫前の仁治年間(1240―43)それに㈣吉峰・大仏寺時代にと、四期に分けての考察が可能であるが、「当巻」の執筆期は第二期に属し、この期間に提示された『一顆明珠』嘉禎四(1238)年を例に見ても、提唱文に援用される人物は限定化され、「一顆」の場合では玄沙師備のみが取り挙げられ、「当巻」では慧忠国師を取り扱われる状況は、年代区分からも初期では単純に構文化されるが、時が経つほどに文体構成も複雑化するようである。

また標題である「即心是仏」の意は、「心は是れ仏」と解すべきであり、「即」は心を強調する助字となり「即ち」とは解せずに心そのものは是れ仏である(「酒井得元提唱録」)と解し、さらには即も心も是も仏も共々に仏法に包蓄される。と考えると理解し易いようである。

また「当巻」は『身心学道』(仁治三(1242)重陽日)を承けての巻ではあるが、その間の開きは三年もの隔歳があるのであるが、「身心」に於いては「山河大地日月星辰。これ心なり」とするように徹底する心に対する保任を説かれた訳であるが、「当巻」は相補的な立場にての「心」に対する補講の意味を持たせる巻である。

 

仏仏祖祖いまだまぬかれず保任しきたれるは即心是仏のみなり。しかあるを、西天には即心是仏なし、震旦にはじめてきけり。学者おほくあやまるによりて、将錯就錯せず。将錯就錯せざるゆゑに、おほく外道に零落す。いはゆる即心の話をききて、癡人おもはくは、衆生の慮知念覚の未発菩提心なるを、すなはち仏とすとおもへり。これはかつて正師にあはざるによりてなり。

「仏々祖々未だ免かれず保任し来たれるは即心是仏のみなり。しかあるを、西天には即心是仏なし、震旦に始めて聞けり。学者多くあやまるによりて、将錯就錯せず。将錯就錯せざる故に、多く外道に零落す」

仏々祖々が現今まで保任されて来たのは即心是仏のみであるが、西天(インド)には即心是仏の教えはなく、震旦(支那)にて始めて聞く。と意訳できるが、これに対しては聊か反論の試論あり。

「仏々祖々」とは釈尊をはじめインドを起点とする仏々、さらに北伝より支那に至る祖々を包含する事であるならば、「西天には即心是仏なし」とする言辞は妥当性を欠く。この表現は「当巻」に援用される南陽慧忠、即心是仏を発話した馬祖道一、馬祖の言行を厳守した大梅法常に通脈する仏法行持を強調する本意があるのか。

『馬祖語録』では「大梅山法常禅師、初参祖。問、如何是仏。祖云、即心是仏」(「続蔵」六九・四上)とするが、思想史の観点からすると、馬祖一(709―788)の生きた時代に編纂された『華厳経随疏演義鈔』(790年代成立)には「一言以、直説即心是仏、何由可伝」(「大正蔵」三六・六二中)や『止観輔行伝弘決』(765年成立)では「或謂即心是仏悟入之門」(「大正蔵」四六・一四一上)では「即心是仏」の語が表れるが、当時急速に教圏拡大をはかっていた馬祖道一の系統から発せられた語である事は間違いない(木村清孝『正法眼蔵全巻解説』五三頁参照)

教理学者や訳経僧などは、「即心是仏」の真義を見究めずに、「将錯就錯」せず。この将錯就錯の意は、「脇目もふらず、水も洩らさぬ」消息を云うのである。一途に参究しない学人の多くは、自分自身に対する呪縛から逃れられない「外道」に零落するのである。

「いわゆる即心の話を聞きて、癡人思わくは、衆生の慮知念覚の未発菩提心なるを、則ち仏とすと思えり。これは曾て正師に会わざるによりてなり」

外道(癡人)の定規として、心の働きである慮知念覚が未発菩提心の状態、つまりは耳目の学解のみで、菩提心も発せず信心もない漢人を云うものである。このような人は、これまでに正師と称すべき教導者に巡り逢わない事による結果である。

 

    一

外道のたぐひとなるといふは、西天竺国に外道あり、先尼となづく。かれが見処のいはく、大道はわれらがいまの身にあり、そのていたらくは、たやすくしりぬべし。いはゆる苦楽をわきまへ、冷煖を自知し、痛癢を了知す。万物にさえられず、諸境にかかはれず。物は去来し境は生滅すれども、霊知はつねにありて不変なり。此霊知ひろく周遍せり。凡聖含霊の隔異なし。そのなかに、しばらく妄法の空花ありといへども、一念相応の智慧あらはれぬれば、物も亡じ、境も滅しぬれば、霊知本性ひとり了了として鎮常なり。たとひ身相はやぶれぬれども、霊知はやぶれずしていづるなり。たとへば人舎の失火にやくるに、舎主いでてさるがごとし。昭昭霊霊としてある、これを覚者智者の性といふ。これをほとけともいひ、さとりとも称ず。自他おなじく具足し、迷悟ともに通達せり。万法諸境ともかくもあれ、霊知は境とともならず、物とおなじからず、歴劫に常住なり。いま現在せる諸境も、霊知の所在によらば、真実といひぬべし。本性より縁起せるゆゑには実法なり。たとひしかありとも、霊知のごとくに常住ならず、存没するがゆゑに。これを霊知といふ。また真我と称じ、覚元といひ、本性と称じ、本体と称ず。かくのごとくの本性をさとるを常住にかへりぬるといひ、帰真の大士といふ。これよりのちは、さらに生死に流転せず、不生不滅の性海に証入するなり。このほかは真実にあらず。この性あらはさざるほど、三界六道は競起するといふなり。これすなはち先尼外道が見なり。

ここで言わんとする処は、すでに『辦道話』(寛喜三(1231)年)にて説かれるものであり、比較的わかり易く平易な文体である。

「外道の類いと為ると云うは、西天竺国に外道あり、先尼と名づく。彼が見処の曰く、大道は我らが今の身にあり、そのていたらくは、たやすく知りぬべし。いわゆる苦楽をわきまへ、冷煖を自知し、痛癢を了知す」

謂う所の「外道」は、釈尊の中道に対し一方向に極論されるもので、有名なものでは㈠道徳否定論者㈡要素集合論者㈢唯物論者㈣宿命論者㈤不可知論者㈥苦行論者などに分類され得るものではありますが、ここで説く先尼外道は宿命論者的意味合いがありましょうか。「苦楽」の文言を「辦道」では「よく好悪をわきまへ、是非をわきまふ。痛癢をしり、苦楽をしる、みなかの霊知のちからなり」(「岩波文庫」㈠三三)と、「冷煖」は別項にて「用水の人の冷煖をみづからわきまふるがごとし」(「同」四〇)

「万物に礙えられず、諸境に拘われず。物は去来し境は生滅すれども、霊知は常に在りて不変なり。此霊知広く周遍せり。凡聖含霊の隔異なし。その中に、しばらく妄法の空花ありと云えども、一念相応の智慧あらはれぬれば、物も亡じ、境も滅しぬれば、霊知本性ひとり了了として鎮常なり」

先尼外道の見方では「霊知」のハタラキを重視するのであるが、「辦道」にては「かの外道の見は、わが身、うちにひとつの霊知あり(略)みなかの霊知のちからなり」(「同」三三)。「凡聖含霊」に関しては「辦道」では、「草木牆壁はよく凡聖含霊のために宣揚し、凡聖含霊はかえつて草木牆壁のために演暢す」(「同」一八)からの改変である。

「たとい身相は壊れぬれども、霊知は壊れずして出づるなり。喩えば人舎の失火に焼くるに、舎主出でて去るが如し。昭昭霊霊としてある、これを覚者智者の性と云う。これを仏とも云い、悟りとも称ず。自他同じく具足し、迷悟ともに通達せり。万法諸境ともかくもあれ、霊知は境と伴ならず、物と同じからず、歴劫に常住なり」

このように説く霊魂不滅の考えは、世界の到る所に語り伝えられるものであり、西天竺国に於いても例外ではなかった。しかるに釈尊は、このような理想(ユートピア)を説くものではなく、現実世界に眼を据えた身心一如なものである。

「いま現在せる諸境も、霊知の所在によらば、真実と云いぬべし。本性より縁起せる故には実法なり。たとい然ありとも、霊知の如くに常住ならず、存没するが故に。これを霊知と云う。また真我と称じ、覚元と云い、本性と称じ、本体と称ず。かくの如くの本性を悟るを常住に帰りぬると云い、帰真の大士と云う。これより後は、さらに生死に流転せず、不生不滅の性海に証入するなり。この外は真実にあらず。この性あらはさざるほど、三界六道は競起すると云うなり。これ即ち先尼外道が見なり」

この処は『辦道話』第十問答での文章を書き改めたものになります。これにて『辦道話』を底本にした前半部を終らせます。

 

    二 中文

大唐国大証国師慧忠和尚問僧、従何方来。僧日、南方来。師日、南方有何知識。僧日、知識頗多。師日、如何示人。

僧日、彼方知識、直下示学人即心是仏。仏是覚義、汝今悉具見聞覚知之性。此性善能揚眉瞬目、去来運用。徧於身中、挃頭頭知、挃脚脚知、故名正遍知。離此之外、更無別仏。此身即有生滅、心性無始以来、未曽生滅。身生滅者、如龍換骨、似蛇脱皮、人出故宅。即身是無常、其性常也。南方所説、大約如此。

師日、若然者、与彼先尼外道、無有差別。彼云、我此身中有一神性、此性能知痛癢。身壊之時、神則出去。如舎被焼舎主出去。舎即無常、舎主常矣。審如此者、邪正莫辨、孰為是乎。

吾比遊方、多見此色。近尤盛矣。聚却三五百衆、目視雲漢云、是南方宗旨。把他壇経改換、添糅鄙譚、削除聖意、或乱後徒、豈成言教。苦哉、吾宗喪矣。若以見聞覚知、是為仏性者、浄名不応云法離見聞覚知、若行見聞覚知、是則見聞覚知、非求法也。

大証国師は曹谿古仏の上足なり、天上人間の大善知識なり。国師のしめす宗旨をあきらめて、参学の亀鑑とすべし。先尼外道が見処としりてしたがふことなかれ。近代は大宋国に諸山の主人とあるやから、国師のごとくなるはあるべからず。むかしより国師にひとしかるべき知識いまだかつて出世せず。しかあるに、世人あやまりておもはく、臨済・徳山も国師にひとしかるべきと。かくのごとくのやからのみおほし。あはれむべし、明眼の師なきことを。

大証国師と僧との出典籍は『景徳伝灯録』二八(「大正蔵」五一・四三七下)に示された文言と同文である(但し冒頭は南陽慧忠国師禅客)。

「大唐国大証国師慧忠和尚問僧、従何方来」

大唐国の大証国師である慧忠和尚が僧に問う、何方(いづかた)より来たか。

「大唐国」の表記は『辦道話』からの援用か。「大証国師」は代宗よりの勅師号である。「慧忠」は法名。西京光宅寺慧忠国師(―775)。大鑑慧能(638―713)の弟子『景徳伝灯録』では四十三人法嗣者の内では第十八位に列位。

「僧日、南方来」

僧の日く、南方より来ました。この場合の南方とは慧能の教化圏である広東省辺りを指すもの歟。

「師日、南方有何知識」

師(慧忠)日く、南方には何の知識(指導者)が有るか。

「僧日、知識頗多」

僧の日く、知識は頗る多し。

「師日、如何示人」

師日く、如何に人に示すか。

「僧日、彼方知識、直下示学人即心是仏」

僧の日く、彼の方の知識は、直下で学人に即心是仏と示す。

『景徳伝灯録』五慧忠章では慧忠が僧に対し「即心是仏」(「大正蔵」五一・二四四中)と発し、また同じく慧能法嗣者である司空山本浄章では本浄禅師(667―761)が「即心是仏」(「同所」二四二中)と答話することから、馬祖道一(709―788)を始源とする「即心是仏」は司空・南陽あたりの一世代前からの伝語されていたようである。

「仏是覚義、汝今悉具見聞覚知之性」

仏とは是れ覚(さとり)の義(意味)で、汝は今、悉く見聞し覚知の性(本体)を具す。

「此性善能揚眉瞬目、去来運用」

此の性(本体)は善く眉を揚げ目を瞬かせ、自由(去来)に運用を能くす。

「徧於身中、挃頭頭知、挃脚脚知、故名正遍知」

身中に徧し、頭に挃(さす)れば頭を知り、脚に挃れば脚を知る、故に正遍知(仏十号)と名づく。

「離此之外、更無別仏」

此の性を離れて外には、更に別の仏は無い。

「此身即有生滅、心性無始以来、未曽生滅」

此の身は即ち生滅有りとも、心性は無始以来、未だ曽て生滅なし。

「身生滅者、如龍換骨、似蛇脱皮、人出故宅」

身の生滅は、龍が骨を換え、蛇の脱皮に似て、人の故(ふる)い宅を出でるが如し。

「即身是無常、其性常也、南方所説、大約如此」

即ち身は是れ無常で、其の性(本体)は常(住)也、南方の説く所は、大約して此(かく)の如くである。

「師日、若然者、与彼先尼外道、無有差別」

師(慧忠)の日く、若し然らずば、彼の先尼外道と、差別有るは無い。

「彼云、我此身中有一神性、此性能知痛癢、身壊之時、神則出去」

彼(先尼外道)が云うには、我が此の身中には一つの神性が有り、此の性は能く痛い癢いを知り、身が壊(やぶ)れる時には、神(性)は則ち出て去る。

「如舎被焼舎主出去。舎即無常、舎主常矣。審如此者、邪正莫辨、孰為是乎」

舎(いえ)が焼けると舎主(あるじ)が出で去る如くに、舎は即ち無常であり、舎主は常であり、審(あきら)かに此れは、邪と正の辨(別)は莫し、孰(いずれ)を是と為す乎(や)。

「吾比遊方、多見此色。近尤盛矣」

吾(慧忠)比(かつて)遊方したが、多く此の色(考え)を見、近(いま)は尤も盛ん矣(なり)。

「聚却三五百衆、目視雲漢云、是南方宗旨」

三百から五百の衆を聚め、目に雲漢を視て云く、是れが南方(慧能)の宗旨である。

「把他壇経改換、添糅鄙譚、削除聖意、或乱後徒、豈成言教。苦哉、吾宗喪矣」

他(か)の壇経を把りて改換し、鄙譚を添糅し、聖意を削除し、後徒(後輩)を或乱し、豈(どうして)言教と成らんや。苦しい哉(かな)、吾が宗も喪ず。

「若以見聞覚知、是為仏性者、浄名不応云法離見聞覚知、若行見聞覚知、是則見聞覚知、非求法也」

若し見聞覚知を以て、是れを仏性と為すとは、浄名(維摩)は応(まさ)に、法は見聞覚知を離れ、若し見聞覚知を行ぜば、是れ則ち見聞覚知であり、法を求むるに非ずとは云うべからず。

大証国師は曹谿古仏の上足なり、天上人間の大善知識なり。国師の示す宗旨を明らめて、参学の亀鑑とすべし。先尼外道が見処と知りて従う事なかれ」

「曹谿の上足」に関しては、後年に撰集されたとされる『深信因果』にて「永嘉真覚大師玄覚和尚(675―713)は、曹谿の上足なり」(「岩波文庫」㈣二九二)と。また同じく十二巻本『三時業』では「長沙景岑(―868)は南泉の願禅師(748―834)の上足なり」(「前同」三二五)、いま一例は『辦道話』にて明全(1184―1225)に対し「全公は祖師西和尚の上足」というように、提唱に於いては数多の和尚を取り扱われますが、「上足」なる語で以ての大証慧忠の存在は、道元禅師にとっても特別なものであったのでしょう。「亀鑑」とは手本・模範の意であり、興聖門下に集う参学衆に対し指標を与えられます。

「近代は大宋国に諸山の主人とある族、国師の如くなるは在るべからず。昔より国師に等しかるべき知識未だ曾て出世せず。しかあるに、世人誤りて思わく、臨済・徳山も国師に等しかるべきと。かくの如くの族のみ多し。哀れむべし、明眼の師なきことを」

「近代(ちかごろ)」とは提唱時(1239年)の12年前にあたる在宋時代を説明するもので、「諸山の主人」とは『嗣書』巻にて示される「阿育王山仏照禅師徳光(1121―1203)や無際了派(1149―1225)を指すのであろうが、穿って考えるならば仏照―無際に連なる大日房能忍をも含意するの歟。

臨済・徳山」云々に関しても、『嗣書』内に「臨済の遠孫と自称するやから、ままにくはだつる不是あり。いはく、善知識の会下に参じて、頂相壱副法語壱軸を懇請して、嗣法の標準にそなふ」(「岩波文庫」㈡三七八)の文章に示される如くである。

 

    三 後文

いはゆる仏祖の保任する即心是仏は、外道二乗ゆめにも見るところにあらず。唯仏祖与仏祖のみ即心是仏しきたり、究尽しきたる聞著あり、行取あり、証著あり。仏百草を拈却しきたり、打失しきたる。しかあれども丈六の金身に説似せず。即公案あり、見成を相待せず、敗壊を廻避せず。是三界あり、退出にあらず、唯心にあらず。心牆壁あり、いまだ泥水せず、いまだ造作せず。あるいは即心是仏を参究し、心即仏是を参究し、仏即是心を参究し、即心仏是を参究し是仏心即を参究す。かくのごとくの参究、まさしく即心是仏、これを挙して即心是仏に正伝するなり。かくのごとく正伝して今日にいたれり。いはゆる正伝しきたれる心といふは、一心一切法一切法一心なり。

このゆゑに古人いはく、若人識得心、大地無寸土。しるべし、心を識得するとき、蓋天撲落し、迊地裂破す。あるいは心を識得すれば、大地さらにあつさ三寸をます。

古徳云、作麽生是妙浄明心。山河大地、日月星辰。あきらかにしりぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり。しかあれども、この道取するところ、すすめば不足あり、しりぞくればあまれり。山河大地心は山河大地のみなり。さらに波浪なし、風煙なし。日月星辰心は日月星辰のみなり。さらにきりなし、かすみなし。生死去来心は生死去来のみなり。さらに迷なし、悟なし。牆壁瓦礫心は牆壁瓦礫のみなり。さらに泥なし、水なし。四大五蘊心は四大五蘊のみなり。さらに馬なし、猿なし。椅子払子心は椅子払子のみなり。さらに竹なし、木なし。かくのごとくなるがゆゑに、即心是仏、不染汚即心是仏なり。諸仏、不染汚諸仏なり。しかあればすなはち、即心是仏とは、発心・修行・菩提・涅槃の諸仏なり。いまだ発心・修行・菩提・涅槃せざるは即心是仏にあらず。たとひ一刹那に発心修証するも即心是仏なり、たとひ一極微中に発心修証するも即心是仏なり、たとひ無量劫に発心修証するも即心是仏なり、たとひ一念中に発心修証するも即心是仏なり、たとひ半拳裏に発心修証するも即心是仏なり。しかあるを、長劫に修行作仏するは即心是仏にあらずといふは、即心是仏をいまだ見ざるなり、いまだしらざるなり、いまだ学せざるなり。即心是仏を開演する正師を見ざるなり。いはゆる諸仏とは釈迦牟尼仏なり。釈迦牟尼仏これ即心是仏なり。過去・現在・未来の諸仏、ともにほとけとなるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり。これ即心是仏なり。

「いはゆる仏祖の保任する即心是仏は、外道二乗ゆめにも見るところにあらず。唯仏祖与仏祖のみ即心是仏しきたり、究尽しきたる聞著あり、行取あり、証著あり」

「仏祖の保任する即心是仏」とは、冒頭部で示された「仏々祖々、いまだまぬかれず保任しきたれるは即心是仏のみなり」に照応される。その保任する処は外道・二乗などの我執に著するものとは違い、唯仏与仏のみに伝持される全体把捉の即心是仏の処では、聞き行じ証する修行があるのである。

「仏百草を拈却し来たり、打失し来たる。しかあれども丈六の金身に説似せず。即公案あり、見成を相待せず、敗壊を廻避せず。是三界あり、退出にあらず、唯心にあらず。心牆壁あり、未だ泥水せず、未だ造作せず」

「仏百草」の「仏」は全ての事物・事象を百草になぞらえ、丈六の金身を拝む対象から外し、「説似せず」とは固定観念化を払拭する為である。

「即」とは眼前現成する真実態を指し、現成は自然に一任される事から、相待・敗壊は避けられないものである。

「是」とは三界(欲・色・無色)であるとするは法界を指す。この法界は宇宙一杯ですから外界との「出入」は出来ようもなく、三界を「唯心」とするなら、固定概念に把捉されるから、「唯心にあらず」と説く。

「心牆壁あり」とは『古仏心』巻での大証国師章での「如何是古仏牆壁瓦礫」を援用されるが、ほかに大証国師慧忠和尚を取り扱う巻は『身心学道』『無情説法』『発菩提心』『他神通』などが挙げられる。

「あるいは即心是仏を参究し、心即仏是を参究し、仏即是心を参究し、即心仏是を参究し是仏心即を参究す。かくの如くの参究、まさしく即心是仏、これを挙して即心是仏に正伝するなり。かくの如く正伝して今日に至れり。いわゆる正伝し来たれる心と云うは、一心一切法一切法一心なり」

「即心是仏」を「心即仏是」「仏即是心」「即心仏是」「是仏心即」と四種に分節を試みられますが、謂う所は「即心是仏→即心是仏」に正伝される「心」は「一心一切法一切法一心」であると「心」の全体性・包括性に収斂させますが、この言い用は『都機』巻にて「古仏いはく、一心一切法一切法一心。しかあれば、心は一切法なり、一切法は心なり」(「岩波文庫」㈡九〇)と説かれ、出典源を大蔵経テキストデータベース(sat)などで検索するが、この用例は「正法眼蔵」のみである。

「この故に古人云わく、若人識得心、大地無寸土。知るべし、心を識得する時、蓋天撲落し、迊地裂破す。或いは心を識得すれば、大地さらに厚さ三寸を増す。古徳云、作麽生是妙浄明心。山河大地、日月星辰。明らかに知りぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり。しかあれども、この道取する処、進めば不足あり、退くれば余れり」

「古人云、若人識得心、大地無寸土」(若し人が心を識得すれば、大地には寸土も無い)。この古則は『景徳伝灯録』三十では「古徳亦云若人識得心大地無寸土。此是甚道理、直下尽十方世界」(「大正蔵」五一・四六五上)とされるが、『長霊守卓語録』では守卓(1065―1123)の詞として「若人識得心、大地無寸土。修山主出頭不得、為什麽、不向七穿八穴処相見」(「続蔵」六九・二六三下)と確認できたが、出典は「伝灯録」と推察する。

「心を識得する」とは、地に対する天が無いわけであり、天地の区別がなくなるを「蓋天撲落」(天の蓋いが無くなる)し、「迊地裂破」(地面全体が裂け破れる)と表し、さらに「心を識得すれば、大地さらに厚さ三寸を増す」とは、「大地」=「心」であるから、心と意識した時点で心の分だけ三寸増す。との意であろうが、これは数量を喩えるのではなく、増滅なしの義を謂わんが為の手法であろうか。

「古徳云、作麽生是妙浄明心。山河大地、日月星辰」の出典であるが、『真字正法眼蔵』一六八則では大潙と仰山「大潙問仰山、妙浄明心汝作麼生会。仰日、山河大地日月星辰」の問答であり、その典籍は『宗門統要集』四・八六頁である。

この則に対する拈語としては、「心とは山河大地なり、日月星辰なり」とは変哲ないものではあるが、ここで道取する処の「進めば不足あり・退くは余る」に関しては、心は山河大地そのもの・心は日月星辰そのままであるから、ほかには代替できない事実を、「不足・余物」と言ったもので、謂わば明歴々を説くようです。

「山河大地心は山河大地のみなり。さらに波浪なし、風煙なし。日月星辰心は日月星辰のみなり。さらに霧なし、霞なし。生死去来心は生死去来のみなり。さらに迷なし、悟なし。牆壁瓦礫心は牆壁瓦礫のみなり。さらに泥なし、水なし。四大五蘊心は四大五蘊のみなり。さらに馬なし、猿なし。椅子払子心は椅子払子のみなり。さらに竹なし、木なし。かくの如くなるが故に、即心是仏、不染汚即心是仏なり。諸仏、不染汚諸仏なり」

ここでは一心一切法一切法一心に対する事例として「㈠山河大地心・㈡日月星辰心・㈢生死去来心・㈣牆壁瓦礫心・㈤四大五蘊心・㈥椅子払子心」の六例を提示し、それぞれに附属する事物・事象は「なし・なし」とするは、全機現なる道理が心であるとの証左であるが、「四大五蘊心―馬なし、猿なし」で説く「馬・猿」とは意馬心猿を捩った使い方で、走り回る馬や騒ぎ立てる猿を意味する。この用例は『圜悟語録』十二「歇却心猿意馬」(「大正蔵」四七・七六八中)に出る。

即心是仏とは「不染汚即心是仏」、諸仏は「不染汚諸仏」とも代替可能との言ではあるが、余りにも形容する語句が多くなると、言語による固定化を防ぐ為とは云え、却って文字による常習化に落在する習癖が生じそうである。

「しかあれば則ち、即心是仏とは、発心・修行・菩提・涅槃の諸仏なり。未だ発心・修行・菩提・涅槃せざるは即心是仏にあらず。たとい一刹那に発心修証するも即心是仏なり、たとい一極微中に発心修証するも即心是仏なり、たとい無量劫に発心修証するも即心是仏なり、たとい一念中に発心修証するも即心是仏なり、たとい半拳裏に発心修証するも即心是仏なり」

「即心是仏とは、発心修行菩提涅槃の諸仏なり」とは、世間で云われるヒエラルキー的解釈に対するアンチテーゼを含意した解き方である。所謂は、即心是仏とは一瞬の絶え間ない、真実態の実証を「発心修行菩提涅槃」に喩えるのである。

絶え間ない真実底を「一刹那・一極微中」や「無量劫・一念中」と云い換えて、そこでの発心修行そのままが、即心是仏の真実であると提示するものである。

「しかあるを、長劫に修行作仏するは即心是仏にあらずと云うは、即心是仏を未だ見ざるなり、未だ知らざるなり、未だ学せざるなり。即心是仏を開演する正師を見ざるなり」

謂わんとする処は、「即心是仏」には長短・広狭・多少と云った差別は無い。ことや、「即心是仏」を頓極頓証とばかり心得る学漢に対する非を説くものである。

「いわゆる諸仏とは釈迦牟尼仏なり。釈迦牟尼仏これ即心是仏なり。過去・現在・未来の諸仏、共にほとけとなる時は、必ず釈迦牟尼仏となるなり。これ即心是仏なり」

このフレーズは曹洞宗門では僧俗ともに読誦に親しむ『修証義』第五章最後部にて引用する所でもあるが、経豪和尚による註解では「ただ釈迦一仏を云えばとて、余仏此の外に余り残りて恨むべきにあらず。仏法の道理は一仏を説く時、諸仏ことごとく一仏になるなり。一がやがて一にて有る道理なるべし」(『曹洞宗全書』「注解」㈠一四八上)と添えるを以て終稿とする。