正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

『碧巌録』を読むヒント  末木文美士

『碧巌録』を読むヒント 

末木文美士

一 禅籍を訳すということ

 

「禅問答」といえば、わけのわからないものの代名詞のように使われる。確かに禅は言語分別を超えることを目標とするから、わざわざ通常の論理では通用しないようなことを言うので、常識では理解し難いところがある。しかし、それだけではない。当時の俗語をふんだんに使った禅文献は、内容以前に言葉が分らない。それ故、内容に立ち入る前のところで、言葉に拒絶されて、それ以上進むことができない。坐禅は坐らなければ分らない、とはしばしば言われることであり、もちろんそれはその通りであるが、しかし、禅の文献は必ずしも禅の実践と関係なく読むことができるはずである。それにはまず、内容はともかくとして、言葉が分らなければならない。翻訳が重要な意味をもつ所以である。

禅文献が日本に齎されたのは、古いところでは平安初期かそれ以前に遡ると考えられる。しかし、多数の文献が本格的に齎されたのは、鎌倉時代になって、宋との交流が盛んになり、日本僧が留学したり、中国僧が渡来するようになってからである。その後、五山版と呼ばれるように、京の五山を中心として、日本の各地の禅寺で、宋版や元版を模刻出版し、禅籍が普及するようになる。それに早い時期から訓点を施して読むことが行われ、また、抄物(しょうもの)といわれる注釈書が数多く著されて、禅籍の読解や研究が盛んになる。それがもとになって、江戸時代にさらに研究が深められる。江戸時代を代表する禅の学僧無著道忠の数多くの著作は、俗語の解説にもすぐれ、今日でも研究者にとってなくてはならない基礎文献となっている。

このように、禅籍の読解が決して疎かにされていたわけではない。ただ、例えば道忠のすぐれた成果がただちに当時の読み方に反映されたかというと、残念ながらそうとは言えず、次第に読み方が固定化して、いわゆる伝統的な禅籍の読み方が定着したのである。『碧巌録』の岩波文庫旧版(一九三七)は、円覚寺の老師として、禅者としても学者としても高名な朝比奈宗源老師の訓読により、こうした伝統的な読み方を生かした決定版とも言うべきものである。戦前においても知識人の間で禅はかなりのブームとなり、旧制高校生などにも岩波文庫旧版の『碧巌録』を胸に、朝比奈老師の門を叩いたものが少なくなかった。

しかし、岩波文庫旧版でどれだけ理解できたであろうか。試みに、第八則の本則と著語を引いてみよう。( 仮名遣いはそのまま。漢字は現代の通用漢字に改める)

挙す、翠巌夏末衆に示して云く。一夏以来、兄弟の為に説話す。〔口を開かば焉ぞ恁麼なることを知らん。〕看よ翠巌が眉毛在りや。〔只眼睛も也(また)地に落つることを贏(か)ち得たり。鼻孔に和して也失し了れり。地獄に入ること箭の射るが如し。〕保福云く、賊と作る人心虚なり。〔灼然。是れ賊賊を識る。〕長慶云く、生也(しょうぜり)。〔舌頭地に落つ。錯を将て錯に就く。果然。〕雲門云く、関。〔什麼の処にか走在し去る。天下の衲僧跳不出。敗也(はいや)。〕

注としては、「翠巌」に人名としての説明がある他、「眉毛」に「不浄説法をすると眉毛が落ちると云はる」、「心虚」に「虚怯。びくびくする」とついている。著語はともかく、本則はこれだけで大体のところは分らないではない。しかし、禅のことを少し知らないと、「夏末」と言っても、夏の終りだろうか、と思ってしまうだろう。また、「兄弟」を「ひんでい」と読むのも、曰くありげで、気になる。

ちなみに、禅籍では特殊な読み方をする言葉が多い。「経行」を「きんひん」、「下語」を「あぎょ」、「師兄」を「すひん」と読むような類である。これらは、通常の漢字の読み方である漢音・呉音のいずれとも相違し、唐音と呼ばれる。宋代以後の新しい時代の発音に基づくもので、古代音に較べると、現代中国語の発音に近くなっている。

ところで、著語のほうになると、非常に分りにくくなる。「恁麼」というのは、分らない禅語の代表のひとつと言ってもよい。「このように、そのように」の意であるが、日本では誤解されて疑問の意にも用いられているくらいであるから、早くから分りにくくなっていたと思われる。同様に、分りにくい禅語の代表として、「作麼生」があるが、こちらは「どのように」の疑問である。「什麼」も俗語の疑問詞であるが、これは「なに」とか「いずれ」とか、疑問詞らしく読む習慣である。

「只眼睛も也地に落つることを贏ち得たり」のところ、「也」を「また」と読むのも、古典にはない新しい語法である。それにしても、目の玉が落ちるのが、どうして「かちえた」ことになるのか、奇妙である。次の「鼻孔に和して」というのもよく分らない。

最後のほうで、「走在し去る」とか、「跳不出」とか、「敗也」を、なぜわざわざ音読のままにしておくのか、これも気になるところである。実は、「敗也」は別として、「走在」は一語ととるべきものであり、「跳不出」も、不可能表現として纏まっているから、このような読み方は語学的には適切ともいえるが、それにしても、これでは分りにくい。

それでは、岩波文庫新版では、この第八則をどのように読んでいるであろうか。岩波文庫新版はもともとはこの現代語訳と別にスタートした企画であったが、途中から現代語訳と協力しながら、現代語訳よりも先に完結したものである。そこでは、従来の訓読のスタイルを踏襲しながら、その範囲で可能な限り分りやすく、工夫を凝らした。第八則本則・著語は以下の通り。

挙(こ)す。翠巌(すいがん)、夏末(げまつ)に衆に示して云く、「一夏(いちげ)以来、兄弟(ひんでい)の為に説話す。〔口を開くも焉(いずくん)ぞ恁麼(いんも)なることを知らん。〕看よ、翠巌が眉毛在りや」。〔只だ贏(か)ち得たり、眼睛も也(ま)た地に落ち、鼻孔和(すら)も也た失い了れるを。地獄に入ること箭を射るが如し。〕保福(ほふく)云く、「賊を作す人は心虚なり」。〔灼然(あきらか)に是れ賊、賊を識る。〕長慶云く、「生ぜり」。〔舌頭(した)地に落つ。錯を将(もっ)て錯を就(な)す。果然(はた)して。〕雲門云く、「関」。〔什麼処(いずこ)にか走在(た)ち去る。天下の衲僧(のうそう)跳(ぬ)け出せず。敗れたり。〕

旧版と似ているが、微妙に異なっている。それに、ここだけで訳注が十一個も付されていて、それを手がかりにすると、かなり分ってくる。二、三、旧版の誤りを正しているところを指摘しておくならば、例えば、「贏ち得たり」を「眼睛」云々と「鼻孔」云々の両方にかけており、その「贏ち得たり」について、「結局のところ〜だけが収穫として残った。空しく〜という結末が得られただけだ」と注がついているから、これで文脈を取ることが可能であろう。また、「鼻孔に和して」では分らなかったが、「鼻孔和(すら)も」と読めば、理解できよう。次の著語の「灼然」を、旧版ではそこで切っているが、新版では「あきらかに」と読んで、次にかかる副詞と見ており、語法的にこの方が適当である。最後のところの著語でも、「走在し去る」よりも「走在(た)ち去る」のほうが、当然分りやすいであろう。

それにしても、訓読の形で、注を見ながら意味を取っていくのは、やはり読者にとって手のかかる作業である。いま煩を恐れて引用しないが、これを『現代語訳碧巌録』上巻一五五―一五六頁の現代語訳と較べていただければ、どれだけ現代語訳が分かりやすいか明白であろう。解釈の微妙な点はさておき、少なくとも翠巌と、彼の同門三人との丁々発止のやり取りが、何か面白そうだという気配は、誰が読んでも伝わってくるのではないだろうか。

今回、従来なかった『碧巌録』の現代語訳を提供する作業をあえて進めたのは、「恁麼」とか「作麼生」とかいう言葉だけで、何だか深遠そうでわからなく、敬遠されてしまう禅籍について、せめて言葉の面だけでも可能な限り分りやすく提供し、本書を限られた一部の参禅者だけの特権的所有物から解放し、言語・文学・宗教・思想等、さまざまな面から禅の再発見の糸口とできたら、という願いからである。あくまで試行錯誤の最初の試みであるから、誤りの多いことは十分に承知している。

上巻の序に記したように、文庫新版の段階で、芳澤勝弘氏が詳細に検討し、問題のある訳語について指摘してくださったが、今回の現代語訳についても、小川隆氏が「禅の語録を訳すということ」という上巻の書評でいくつか指摘してくださっている(『東方』二五八、二六〇。二〇〇二年)。小川氏の書評に対しては、いささかの反論を試みたところもあるが(『東方』二五九、二六一。二〇〇二年)、指摘の適切なところについては、今後機を見て修正していきたいと考えている。決してこれが決定版ではなく、むしろ最初の試みであり、今後よりよく工夫されたいろいろな訳が出版されることを願っている。

ところで、ここで付言しておきたいのは、岩波文庫新版や現代語訳の刊行は、必ずしもそれ以前の古い訓読を不要にするわけではないということである。芳澤氏は前述の論文で、ある僧堂で、岩波文庫新版を使うことを禁じたというエピソードを引いているが、それは十分にありうることであり、それで岩波文庫新版や現代語訳の価値が損なわれることは決してない。そもそも僧堂では、言語分別を嫌い、老師が提唱に用いる講本以外の書物を見ることを禁じるのが通例である。『碧巌録』はしばしば提唱に用いられるが、それはあくまで坐禅を助けるためであり、細かい箇所の意味を正確に理解することが求められているのではない。意味の穿鑿などにこだわっていては、それこそ坐禅にならなくなってしまう。通常、提唱の講本は江戸時代に開版された返点送り仮名つきの和刻本を用いており、その伝統は岩波文庫新版や現代語訳が出版されたからといって、変わるものではないであろう。伝統は伝統として重んじられ、その中で鍛えられてこそ、「単伝の仏法」は受け継がれてゆくのである。

だが、そのことは逆に、岩波文庫新版や現代語訳の試み自体を否定することではない。禅籍は僧堂だけの秘密の書物ではなく、公開され刊行されているものであるから、その限りでは研究対象とされることはまったく差し支えないはずである。従来、本書の研究が遅れていたひとつの理由は、僧堂の修行書という性格が強いために、研究者が手を着けることをためらっていたということがあるのではないかと思われる。しかし、実践と研究、伝統と新しい試みは必ずしも合致しなければならないものではないし、また二者択一というわけでもない。むしろ矛盾する両者があい俟ち、その緊張関係の中に置かれることによって、本書の価値はより高められ、新たな視点が開かれてくるのではないかと考えられる。その点の誤解はぜひ解いてもらいたいと思う。

 

二 頌古と拈古

 

『碧巌録』を読むための最低限の知識については、上巻の序や、もう少し詳しくは岩波文庫新版下巻に収録した「『碧巌録』を読むために」に記した。それ故、それを参照していただくことを前提に、ここではそれを補足しながら、『碧巌録』を読むヒントをいささか提示しておきたい。

まず、本書が雪盲重顕による頌古百則、いわゆる『雪盲頌古』に対する圜悟の注釈であるという性格を確認しておきたい。古則に対して、その境地を頌(詩)によって表わす頌古という形式は、宋代に汾陽善昭〈ふんようぜんしょう〉(九四七―一〇二四)によって発展させられたが、それを大成したのは雪竇であるといってよい。頌古以外に、古則に対して自らの境地を披露する方法に拈古がある。頌古と拈古について、『碧巌録』第一則頌評唱で、圜悟は「一般に頌古は回り道をして褝を説くもの、拈古はおおむね自白にもとづいて判決を下すもの」上巻、四三頁)と言っているが、具体的にどのように違うのであろうか。

実は雪竇には頌古百則以外に百則の古則に拈古を付したものがある。これは『雪竇重顕和尚語録』の中にも含まれているが、独立でも行われ、興味深いことに、これに対しても圜悟が著語・評唱を付している。『仏果撃節録』二巻である。ところで、頌古百則と拈古百則を較べてみると、本則が重なるものはほとんどない。ざっとみて両者で重複するのは第二八則「三聖金麟」(『碧巌録』第四九則)、第六九則「雲門三病」(同第八八則後半)、第七三則「智門般若」(同第九〇則)くらいではないかと思われる。あるいは雪竇は意図的に両者の重複を避けたのかもしれない。頌古と拈古を比較するために、本則が合致する『撃節録』第二八則=『碧巌録』第四九則の場合を見てみよう。まず、『撃節録』第二八則の原文を掲げると以下の通り。

挙、三聖問雪峰、透網金鱗以何為食。〔担枷過状。自己也不知〕峰云、待汝出網来、即向汝道。〔鈍滞殺人〕聖云、一千五百人善知識、話頭也不識。〔一任ボツ跳〕峰云、老僧住持事繁。〔時人尽道、雪峰有陥虎之機。要且不然〕

雪竇云、可惜放過。好与三十棒。這棒一棒也饒不得。〔為什麼如此〕直是罕遇作家。〔便打。祢也末是作家〕師云、問透網金鱗以何為食。若是担板漢、決定向食処活計。作家宗師、不妨奇特、待汝出網来、即向汝道。且道、是曾出網末、不曾出網来。聖云、一千五百人善知識云云。此語也毒。雪竇猶自道未在、好与三十棒。其意要顕本分草料、向雪峰頭上行。諸人若要転変自在麼。不然辜負雪峰。雪竇便打。是有過是無過。你若弁得出、拄杖子属你。

ここで、「挙」以下が本則、「雪竇云」以下が雪竇の拈古、「師云」以下が圜悟の評唱で、〔 〕内は圜悟の著語である。『碧巌録』と形式が似ていることが分ろう。ただし、『碧巌録』では、本則の評唱と頌の評唱が分かれていたのに対して、ここでは雪竇の拈古まで続けて、その後一纏めにして評唱が付されている(ただし、『碧巌録』でも本則と頌を纏めてその後に両者の評唱を入れるテキストもある)。もう少し検討するために、訳を付しておく。

三聖(さんしょう)が雪峰(せっぽう)に問うた、「網をくぐり抜ける金鱗の魚は、何を食べるのだろうか」。〔首かせをはめて、自白書を差し出している。自分でもわからない〕

雪峰「お前が網から抜け出したら、言ってやろう」。〔人をすっかりコケにした〕

三聖「一千五百人もの修行僧を指導する師匠が、問答のしかたすらご存じない」。〔勝手に飛び跳ねておれ〕

雪峰「わしは寺の仕事が忙しいでな(これで失礼)」。〔世人は皆、「雪峰には虎を陥れるはたらきがある」と言うが、要するにそうではない〕

雪竇「残念ながら、手を緩めた。三十棒食らわせてやれ。この棒一打ちでも許せない。〔どうしてこうなのか〕実にやり手のものには逢いがたい」。〔そこで打つ。お前もまだやり手ではない〕

(圜悟)師の言葉。「網をくぐり抜ける金鱗の魚は、何を食べるのだろうか」と問う。融通のつかない奴ならば、必ずや「食べる」ということでとぐろを巻くことになる。やり手の師匠はなかなかに素晴らしく、「お前が網から抜け出したら、言ってやろう」(と言った)。さて、網から出たことがあるのだろうか、出たことがないのだろうか。三聖「一千五百人もの修行僧を指導する師匠」云云。この言葉も辛辣だ。雪竇はやはり、「まだだめだ。三十棒を食らわせてやれ」と言った。その意は、本物のエサを顕わして、雪峰の頭上を行こうというのだ。皆のもの、自由自在に変化したいか。さもなければ、雪峰を裏切ることになる。雪盲はそこで打ったが、過ちがあったのか、なかったのか。お前がもしきちんと見分けられたら、挂杖はお前のものだ。

この本則は、三聖が「網をくぐり抜ける金鱗の魚」、即ち悟りを得た大力量の者のあり方を問うだのに対して、老獪な雪峰が、「お前がその境地に至ったら教えてやろう」とはぐらかす。三聖が、「弟子が一千五百人もいる大師匠だから、もう少しましな答をするかと思ったら、なんとつまらない」と謗ったところ、雪峰は「わしは寺の仕事が忙しいでな」と逃げてしまった、というものである。鋭く迫る三聖ととぼけてそれを外す雪峰のやり取りの妙味である。

雪竇の拈古は、主として雪峰の最後の言葉に向けられている。いかにも老獪な雪峰らしく、一直線に突き進む三聖に肩透かしを食らわせたところだが、かえって勢い込んだ三聖に自分勝手を許すことになってしまった。そんな緩い手でなく、厳しく棒打ちを食らわせてやるべきだった、というものである。三聖も雪峰もまだまだと、もうひとつ上に立って批評している。

このように見るならば、「拈古はおおむね自白にもとづいて判決を下すもの」という圜悟の定義がよく当てはまっていることが分ろう。三聖・雪峰のやり取りに基づいて、それに対して自分の境地からストレートに評価を下しているのである。雪竇自身が自らの境地に自信を持っていなければなし難いことである。

それに対して、『碧巌録』第四九則の雪竇の頌を見てみるならば、頌古のほうが「回り道をして禅を説くもの」と言われていることにも納得がいくてあろう。そこでは頌という文学的な表現を借りながら、「金鱗の魚」の境地の素晴らしさを歌い出している。

圜悟の著語と評唱を見てみよう。本則に対する著語を『碧巌録』第四九則と較べてみると、三聖に対する「勝手に飛び跳ねておれ」など、同じ著語もあり、方向は近いが、ただ、最後の雪峰に対しては、『碧巌録』では「この語は最も毒がある」と、雪峰を認めるが、『撃節録』では雪峰に対して批判的である。これは、次の雪竇の批判を引き出すためと思われる。雪竇の語に対する著語では、最後に、「やり手のものには逢いがたい」と歎く雪竇に、「お前もま

だやり手ではない」と厳しく断定する。

本則に対する評唱は、『碧巌録』のほうと較べると、非常に簡略である。概して、『撃節録』の評唱は簡略であり、『碧巌録』の評唱がなかなか工夫を凝らして長く、時に本則から離れて、登場人物の逸話にまで及ぶのとは対照的である。本則について簡単に注解し、続いて雪竇の意図を説いた上で、聴衆である修行者たちに呼びかけて終る。

このように、頌古に較べて、拈古のほうがストレートであり、本則からそのままつながる性質のものである。坐禅修行というところから考えれば、文学的な屈折をもっ頌古よりも、拈古のほうが適切なはずである。にもかかわらず、なぜ『撃節録』が普及せず、『碧巌録』が「宗門第一書」としての名声をほしいままにして、今日に至るまで広く読まれているのであろうか。

両者を較べてみれば分るが、『碧巌録』のほうがはるかにおもしろいのである。拈古は確かに雪竇の境地をストレートに述べてはいるか、それだけに本則からまっすぐにつながり、変化に乏しい。頌古のほうが、異なった形式で、本則と即かず離れず、あるいは時には一見すると本則からすっかり離れてしまうように見えながら、まさに「回り道をして」本則に戻っていく妙味がある。圜悟の評唱も『碧巌録』のほうがはるかに生き生きして、饒舌である。

このように『撃節録』と較べてみると、『碧巌録』の性格が非常によく分ってくる。圜悟の弟子大慧宗杲が、修行の害になると言って『碧巌録』を焼いたという伝説も、本書の文学として、思想書としての魅力があればこそである。

そう考えるならば、『碧巌録』は単純に坐禅の指南書というだけでなく、それだけに納まらない禅の文化の豊かな広がりを如実に表わすもっとも高度の達成ということができる。今日、『碧巌録』の多面的な性格が改めて問い直されなければならないのは、このような本書の性格によるものである。この現代語訳がそのために多少の役に立つならばはなはだ嬉しいことである。

 

三 『碧巌録』と圜悟の立場

 

圜悟克勤(一〇六三―一一三五)はもともと四川省の人で、成都で出家した。その後、江西省の五祖法演の下で修行を積み、その法を嗣いだ。崇寧年中(一一○二―一一〇六)に四川に戻り昭覚寺などに住したが、政和年中(一一一一―一一一七)には再び四川を出て、湖南省の夾山霊泉院や潭州道林寺などに住した。ちなみに、圜悟の墓は成都の昭覚寺に現存する。

『碧巌録』成立に関してもっとも詳しいのは、無党(むとう)の後序であるが、それによると、圜悟が成都にいたとき、その説を説き、後に夾山や道林に住したときに改めて講じ、前後三回の講義を行なったという。「碧巌」というのは夾山のことである。このように、三回講義が行なわれており、果たして『碧巌録』がそのうちどの講義の記録であるか、あるいは三回の講義の記録を取り合わせたものであるのか、その成立の事情は必ずしも明らかでない。普照の序によると、碧巌にいたときの講義であると言うが、そのようにも断定できない。このことは、『碧巌録』のテキストの問題と関わる。現行の『碧巌録』は、元代に成都で開版された張本と呼ばれるものの系統で、日本の五山版がもっともその古形を保っていると言われる。その五山版にも少なくとも二つの系統があるが、さらに興味深いのは、古い注釈である『不二鈔(ふにしょう)』『種電鈔(しゅでんしょう)』などに、福本・蜀本など、張本に先立つ異本との校合が記されており、それらを検討してみると、それらの諸本のほうが張本よりも古い形態を伝えていることが分る。

さらに、もうひとつ注目される異本として、『仏果碧巌破関撃節』、通称「一夜碧巌」「一夜本」と呼ばれる写本がある。これは道元が入宋したとき、帰国直前に見つけ、白山明神の加護のもとに一夜で写して将来したという伝承をもつものである。その伝承はともかく、張本に先立つもので現存する唯一の写本という点て重要であるが、照合すると、張本とはきわめて相違が大きい。一夜本のほうが古い形を残していると思われるところが多いが、あまりに相違が大きく、同一のテキストの異本とは言えず、別のテキストとして扱うほうがよいほどのものである。それ故、今回の現代語訳でも参照はしたが、基本的には現行の張本系に従って理解しようと努めた。

このように相違が大きいと、それが何に由来するかが問題になる。大慧が焼却したといわれ、その後、長い間それほど広まらず、張本によって普及することを考えると、伝承の過程で混乱が起ったことも考えられるが、到底それだけでこれはどの相違が生れるとは考えにくい。そもそも最初から三回の講義の記録があったわけであり、また、その講義録も必ずしも圜悟自身の公認のものではなく、いわば非公式のルートで広まったものであるから、そこにテキストの混乱のおおもとがあったということもありうる。特に現行の張本系は読みにくく、『種電鈔』などではしばしば他本によって修正を試みている。今回の現代語訳においても、それに従ったところが多い。

ともあれ、『碧巌録』は古則である本則に雪竇が頌を付したものに、さらに圜悟が垂示・著語・評唱を加えたものであるから、本則→ 雪盲の頌→圜悟の垂示・著語・評唱という三重の構造をなしているということができる。その場合、二つの方向から見ることができる。即ち、最終的には圜悟の著作という点からすれば、本則や頌をもとに、圜悟がどのようにそれを理解しているかというところが問題になる。しかし逆にみれば、圜悟の書いた部分は本則や頌を読むための注釈であり、そこから本則や頌、なかんずく本則へと戻っていかなければならない。圜悟の垂示・著語・評唱→雪竇の頌→ 本則という方向の読み方が必要になってくる。圜悟の理解にしたがって、どのように本則や頌を読み取るかということである。

ところで、ここでひとつ問題にしておきたいのは、本書で圜悟が示す教えと、このようなテキストに縛られずに圜悟が褝を説くときとで、いささか説き方が相違するように思われるという問題である。

いま、『碧巌録』第六二則を見てみよう。その本則は、「天地の内、宇宙の間、その中にひとつの宝が有り、肉体に隠れている。灯籠を掲げて仏殿の中へ行き、三門をとって灯籠の上に乗せる」という雲門の語である(中巻三五四頁)。「天地の内」から「肉体に隠れている」までは、評唱にいうように、僧肇作と伝えられる『宝蔵論』の言葉であり、「ひとつの宝」とは、仏教の用語でいえば「仏性」ということである。しかし、肉体の中に仏性がある、というのでは、あまりに単純すぎるし、「仏性」というものを何か実体視するようにも取られる。それに対する雲門のコメントは、あえて説明すれば、灯籠や三門という外のものを仏殿の中に収め込むということで、外なるものを内なる仏性に集約することを喩えたと解されるが、それではあまりに理屈に過ぎることになろう。むしろ凡情で理解できない仏性の自在なはたらきと見るほうがよいであろう。

圜悟の評唱には、仏性に関する古人の言葉がいろいろと引用されている。それらは必ずしも体系的ではないが、基本的には、仏性を固定化することを誡め、自由なはたらきを体得するところにポイントが置かれている。とりわけ雲門が加えた句については、「雲門はお前たちの為に一気に凡情からする考えや得失是非を打ち砕いたのだ」(中巻三五九頁)と、凡情による分別理解を誡めている。このように、第六二則の評唱でみる限り、仏性は前提としながらも、その力点はそれを実体化せずに、自由にはたらかせることを主眼としていると取ることができる。

ところが、『圜悟語録』巻一三に収められた「普説」(学人を指導するための説法)では、「天地の内、宇宙の間、その中にひとつの宝が有り、肉体に隠れている」という言葉を取り上げ、「諸仏が世に出、達磨が西から中国にきたのも、このことを教えるためであった」と、仏性の内在自体に重点を置いた説き方になっている。しかも、圜悟自身の修行もそれを明らかにすることによって完成されたと言われている。

この「普説」ではさらに、この宝= 仏性に当るものが、「一霊妙性」とか、「霊明妙性」とか呼ばれ、それを悟ることこそ根本であると説いている。このような語は何か霊的な存在が我々の中にあるのを認めているかのようで、誤解を招きやすく、『碧巌録』には出てこない言葉である。それが「普説」の説法では非常に重視されているのである。

もう少し『碧巌録』と「普説」を較べてみよう。『碧巌録』第九六則には、三つの頌が挙げられているが、その第三の頌に破竈堕(はそうだ)和尚の故事が取り上げられ、評唱でそれを詳しく説明している。それは「破竈堕」という名前の由来となった話で、彼が竈(かまど)の神を救った因縁と、それに関する弟子たちとの問答である。その眼目は、破竈堕が竈神に言った言葉、「お前は元々煉瓦や粘土が合わさってできたものなのに、霊妙なはたらきがどこから生じ、聖なるはたらきがどこから出てきたとて、かように生き物を煮殺すのだ」(下巻二七九上一八〇頁)というところにある。霊とか聖とか言っても、何かそれに当るようなものがあるわけでもない。どこか外からくるわけでもないし、はじめから内在しているわけでもない。しかし、その霊とか聖とかに捉われることから迷いが生ずるというのである。

ところで、圜悟は「普説」で、やはり破竈堕の故事を引くが、「霊妙なはたらきがどこから生じ、聖なるはたらきがどこから出てきた」というところを、外から来るのではなく、内在しているという意味にとっている。それが「霊明妙性」(霊妙な本性)と呼ばれるものである。このような言い方は、『碧巌録』の該当箇所には出てこない。『碧巌録』で見る限り、霊とか聖とかいう言語による固定化を嫌っており、これはこの箇所だけでなく、『碧巌録』全体を通じて言えることである。というか、そのような固定化を徹底的に排しようとする。それに対して、「普説」では明らかに自己の根本に「霊明妙性」なるものがあり、それを正しく知ることこそ、坐禅修行の目的とされるのである。

このように見るならば、「普説」と『碧巌録』は矛盾するかのようにさえ見える。どちらに圜悟の本音があるのであろうか。「普説」だけでなく、圜悟の説法を集めた『圜悟心要』にも悟られるべき自己の根本を肯定的に言葉で言いとめようとするところが認められ、必ずしもこのような傾向は「普説」に限られない。このように見れば、こうした捉え方は圜悟の思想のかなり根本的なところに位置していると言ってよい。禅でしばしばいう「見性」というのは、自己の本性を明らかにすることであり、その本性を言語によって規定しようとすれば、「仏性」といってもよいが、その表現の陳腐さを嫌うならば、「霊明妙性」などの表現によって常識を超えたところを示さなければならなかったものと考えられる。

ところが、『碧巌録』の位相は異なっている。『碧巌録』では、このような何か霊妙そうな言葉で言いとめられる危険のほうが繰返し、繰返し強調される。それはひとつには、本則を解釈し、雪竇の頌を解釈するという『碧巌録』の基本的な性格に関わる。第六二則では、「肉体の中にある宝」が決して否定されているわけではない。しかし、そこでの眼目は、それを「灯籠を掲げて仏殿の中へ行き、三門をとって灯籠の上に載せる」という常識を超えたはたらきによって示そうとする雲門の語をいかに理解するかというほうに力点が置かれることになる。それ故、『碧巌録』も「普説」も矛盾はしない。ただ、力点の置き方が異なるというだけのことである。

しかし、この相違は『碧巌録』を読むときにかなり重要である。即ち、そこで求められているのは、「肉体の中にある宝」に向って修行せよ、ということではなく、むしろ「肉体の中にある宝」という言葉で言いとめてしまうことから飛躍しなければならないということである。あえて言えば、両者の方向は、神を肯定的な言葉で論ずることを認める通常の神学と、それを否定的な言葉でしか表現できないとする否定神学の違いに似ているとも言えるかもしれない。

しかし、『碧巌録』の立場は、否定神学とも異なる。肯定とか否定とかいう二項対立を破棄するのである。「三門をとって灯籠の上に乗せる」ということは、考えてみれば分るように、およそナンセンスなことである。圜悟はそのナンセンスであることこそ重要であるというのである。「雲門はお前たちの為に一気に凡情からする考えや得失是非を打ち砕いたのだ」と言われる通りである。「凡情からする考え」というのは、具体的に言えば、言語的な概念で理解しようとする立場である。それ故、「三門をとって灯籠の上に乗せる」という言葉は、言葉でありながら、通常の言葉による規定を否定するための特殊な言葉なのである。言語による言語の世界の解体- 『碧巌録』における古則の解釈は、基本的にこのような方針で一貫している。『碧巌録』の魅力は、圜悟の著作でありながら、圜悟が他で言っていることをも超えて、この言葉の自己解体が貫徹してゆくところにある。

もちろん、これはひとつの『碧巌録』の読み方であり、必ずしもそう読まなければならないわけではない。ただ言えるのは、世間でいわれる禅の常識を前提として読むのではなく、むしろその常識を覆していくところにこそ眼目があるのであり、かなり神経を細かくして読み取っていかなければならないということである。本則に取り上げられた祖師たち、雪竇、そして圜悟が丁々発止と打ち合う真剣勝負の場に我々は立ち会うのである。いな、我々自身がその勝負に加わっていかなければならない。もっともらしい常識が打ち破られたとき、常識に捉われていたときにはまったく見えなかった新しい世界が突如として立ち現われてくる。それこそ圜悟の求める自由な世界である。

 

 

この論文はpdf形式からワード化し一部改変したものである。

麻三斤 入矢義高

麻三斤

入矢義高

僧、洞山に問う、「如何なるか是れ仏」。

洞山云く、「麻三斤」。

周知のように禅門では古来はなはだ有名な公案となって、『雪贅頒古』『碧巌録』『無門関』『空谷集』などで取り上げられ、また多くの禅僧による拈頌が伝えられている。この「麻三斤」が従来どのように理解されてきたかは、ここでは問わない。ただ、なぜ「麻三斤」または「三斤の麻」という具体的なモノが答えとして呈示されたのか、という基本的な点については、不思議なことに、従来だれ一人として問題とした者はない。日本の禅僧はなおさらそうで、なかには麻を胡麻(ごま)だと言い張ったり、「三斤とは仮の数で、十斤でも百斤でも同じことだ」などといった強弁で押し通す人もあったし、現在もそういった紋切り型で片付けてしまう師家が多い。しかし洞山の言う「麻」は、実はゴマではなくて麻糸なのであり、しかも「三斤」という枠付きのそれである。私が先に「基本的な点」といったのは、まさにこのことなのである。

私は以前かち、「麻三斤」は麻糸か麻布の量のユニット(単位数量)ではないかと疑っていた。それは「三寸舌」とか「三尺水」とかいった類似表現からの類推であった。ところが昨年五月、禅文化研究所での真字『正法眼蔵三百則』の定例研究会で、京都大学の吉川忠夫氏から、私のこの類推をヒントにして見付け出された基本資料を提示せられた。それは、唐の玄宗勅撰の法典集『大唐六典』巻三の戸部尚書の条に見える左の文で、租庸調の徴収法の原則を説いた一条である。いま近衛家本に拠って掲げる。

課戸は丁毎に粟二石を租す(上納する)。其の調は、郷土の産する所に随って、綾・絹・絁各おの二丈、布(あさぬの)は五分の一を加う。綾・絹・絁を輸(おさ)むる者は、綿三両〔を兼ね調す〕。布を輸むる者は、麻三斤〔を兼ね調す1〕。

「兼ね調す」とは、正規の徴収額に更に上乗せして取り立てることで、例えば綾・絹・絁などの絹地を納入する場合は、その各二丈のほかに綿(まわた)三両を付加的に追加納入することである。同様に布(あさぬの)で納入する場合は、正規の二丈プラス五分の一のほかに麻(あさいと)三斤を追加納入する、という規定である。

ここからして、「麻三斤」とは製品化された麻糸の分量(ここでは重さ)のユニットであることが確認できる(綿三両も同様である)。そしてこれは恐らく税法上だけでの基準規定量なのではなく、麻糸が一般に商品として取引きされる場合の単位量でもあったらしいことは、後文で示す『大唐六典』巻三の金部郎中の条と『通典』巻六(賦税下)の文から推定できる。   次に掲げる『唐会要』八十三(租税上)の文は、上述の『大唐六典』の規定を踏まえたものではあるが、この税法が均田制の施行の上に立って制定されたものだったことを明示している。

武徳七年三月二十九日、始めて均田の賦税を定む。凡そ天下の丁男には田一頃(けい)を給し……、丁毎に歳に粟二石を入る。調は則ち郷土の産する所に随って、綾・絹・絁各おの二丈、布は五分の一を加う。綾・絹・絁を輸むる者は、綿三両を兼ね調す。布を輸むる者は、麻三觔(=斤)〔を兼ね調す2〕。

そしてこの「三斤」や「三両」が麻糸や真綿(まわた)の単位数量であったらしいことは、次に掲げる『大唐六典』巻三の金部郎中の条に、絹地・布・綿・糸・麻のおのおのについて単位名が与えられていることで、一層はっきり確認できる。

凡そ縑帛の類は、必ず其の長短広狭の制(きまり)と端匹屯綟(れつ)の差を定む。〔原注〕羅錦綾段、紗穀絁紬の属(たぐい)は、四丈を以て匹と為し、布は則ち五丈を以て端と為し、綿は則ち六両を屯と為し、糸(きぬいと)は則ち五両を絢と為し、麻(あさいと)は乃ち三斤を綟となす。

『通典』巻六(賦税下)にも、調の制を述べた文に疋・端・屯・絢・綟の各単位名は襲用されており、そこでも「麻三斤を綟と為す」と注記している。

「綟」とは、糸状のものを捩(ねじ)ること、またその製品をいう。和語では「縒」または「撚」の字を用い、絹糸や麻糸の縒(よ)って仕上げた製品の一単位を一巻きという。「麻三斤」とは、つまり一巻きに仕上げた麻糸であり、三斤とはその基準の目方に他ならない。従ってこれを「麻一綟(ひとより)」または「一綟麻」と称することも可能であろう。

以上の考証によって、「麻三斤」が仕上がった麻糸の目方を計量する基準単位であることは明らかとなった。では、「仏とは何か」という問いへの答えとして「麻三斤」というモノが呈示されたのは、一体どういうわけであろうか。この点について手掛かりを与えてくれるのは、次に示す雲門文優(八六四-九四九)の言葉である。いま宋版『雲門広録3』巻下の「遊方遺録」に見える原文を掲げる。

師在雪峯時、有僧問雪峯、「如何是〈触目不会道、運足焉知路〉」。峯云、「蒼天、蒼天」。

僧不明、遂問師(雲門)、「蒼天意旨如何」。師云、「三斤麻、一疋布」。僧云、「不会」。師云、「更奉三尺竹」。後雪峯聞、喜云、「我常疑箇布袖」。

雲門がまだ若いころ、雪峯和尚の門下で修行していた時の逸話である。或る僧が雪峯に訊ねた二句「目に触るるも道を会せず、足を運ぶも焉(いずく)んぞ路を知らん」(何を見ても道は分らず、歩いてはいても路は知らぬ)は、石頭和尚の「参同契」の句。道と一つに契合した者は、もはや修すべき道は持たず、道の何たるかも知らぬ。そのような道人の〈沙門行〉は、ただ日常底そのままであって、路(行ずべき在りよう)などは我れ関せず焉である、というのがその趣旨であろう。上の句についていえば、これは『荘子』の「目撃道存」や、洞山の「見色見心」を破砕ないしは透出した消息を語っており、下の句についていえば、これは黄檗の「終日飯を喫するも未だ曽て一粒の米をも咬著(かま)ず、終日行くも未だ曽て一片の地をも踏著(ふま)ず」や、洞山の「鳥道を行くべし」をも超脱した消息の開示である。「修行の痕跡を留めるな」といった次元以前の在りようである。雪峯がそれに対して「やれ悲しや、悲しや」と応じたのは、右の消息は百も心得た上で、敢えてそれを抑下して、地上に引きずり落としたのである。文字通りには「道も分らず、路も知らぬとは、やれ悲しや情けなや」と言ったわけである。このころ雪峯門下では、一種の超越志向(trancendentalism)的な風潮がはやって、何かというと「透法身の句」や、「法身向上の事」を持ち出すものが多かった。それへの端的な抑下だったのである。例の「参同契」の二句に対するこの僧のアプローチのしかたも、実はそのような紋切り型の〈超仏越祖〉的な志向癖から出たものであった。

雪峯の「やれ悲しや」の意味を問われて、雲門が「三斤の麻、一疋の布」と答えたのも、やはりその僧の在り方に対する真っ向からの、しかも具体的な痛撃であった。「三斤の麻糸で織り上がる麻布一疋」とは、まさに僧侶の衣一着分ができる材料である。ちょうど一人分の和服が作れる布地の長さの単位を一反(たん)というように。だから、この雲門の答えは、「それ、衣一着分の材料はちやんと揃えてあるぞ」という示唆に他ならない。この示唆は、さらに次のような含みを谺(こだま)として響かせる。

―なのに、それを衣に作って着る人問は不在なのか!

それでも、その僧には通じない。遂に雲門はピシャリと決めつけた、「では、三尺の竹箆(しっぺい)をおまけに進ぜよう!」

―誰かにそれでピシリと打ちすえてもらうんだな。

という含みである。

なお、『景徳伝燈録』巻十九、竜興宗靖の章に、「如何なるか是れ六通4の家風」と問われて、「一条の布衲、一斤余り有り」と答えている。彼も雲門と同じく雪峯の法嗣の一人であるが、この答えは「私の着ているこの衣は、麻三斤どころか、一斤で作っても余分が出たほどだ」という、おそろしく誇り高い独尊の気慨を語ったものである。

以上で、「麻三斤」が麻の僧衣一着分を作ることのできる材料の単位であることが確かめられた。そこで冒頭の問答は次のように翻訳できる。

問、仏とは何か。

答、衣一着分。

一着分の衣のできる材料はちゃんと揃っている。それは仏さんのために用意してあるのだ。さあ、それを衣に仕立てて仏さんに着せてやれるのは誰か。もしそれができたら、その人は「仏と同参5」なのだ。

〔注〕1「兼調」二字は原文にはないが、文意を明確にするために、『唐会要」八十三(租税上)の文を参照して補う。2『旧唐書』食貨志もほぼ同文。なお『資治通鑑』唐紀六(武徳七年)に租庸調の法を定めたことを述べた一条があり、そこの胡三省の注に引く『新唐書』食貨志の文は、ほぼ上掲の『大唐六典』戸部尚書の条と同文である。3台湾国立中央図書館に蔵する宋版『古尊宿語録』所収のテキスト。4宗靖はかって台州の六通院に住したことがある。5雲門の語「釈迦は我れと同参なり」を応用した。

 

この論文はpdf形式からワード化し一部改変したものである。

語録の言葉と文体 入矢義高

語録の言葉と文体

入矢義高

私はこれから禅の語録について、もっぱらその言葉と文体について述べようと思う。しかも、もっぱら唐代の語録を中心資料として述べることにしたい。というのは、唐代の禅には、宋以後の禅に見られるような宗派の別によるセクショナリズムがほとんどない上に、国家権力による統制とか、またはなんらかの政治体制への附和といった事態はほとんどなかったから、禅家は文字通り自由に、おのれの信ずるがままに語り、かつ行動することができた。従ってそれらの記録は、宋代以後のものに比べて、遙かに個性色が豊かであり、溌刺としている。それぞれの禅師の一言一句も、その人ならではの言葉として提出されたものであり、その人の全人格によって裏打ちされている。紋切り型の、ありふれた常套句を使うことは全くないと言ってよい。

しかし、説法にせよ、問答にせよ、それを記録にとどめるのは、当の禅師ではなくて、その弟子たちであった。彼らは師の説法や答話を聴いたあとで、忘れぬうちにそれを書き留あたものと思われるが、その記録がたとい師の語った言葉通りの再現ではなかったにしても、果して師の法の真実を誤りなく、かつ過不足なく伝えたものになり得ていたかどうか。それを疑い始めたら、収拾がつかなくなる。

一つは、記録者その人の、求道者としての力量の問題があり、第二には、その人の表現力の問題がある。さらに第三には、師の説きかたそのものが、いわゆる「対機説法」的に、相手の機根に応じての親切な解説であったか、或はそうでなしに、一切の方便を介在させぬ真っ向からの第一義の開示であったかという問題がある。特にこの後者の場合―例えば趙州禅師に最も特徴的に見られるようにーそれの受け手・聞き手の力量の如何によって、それの記録のしかたは大きく左右される。しかも、その第一義の開示にしても、常に真っ向からの言い方によって提示されるとは限らないのであるから、問題は更に複雑である。

更にもっと複雑なケースがある。それは、平たく言えば、師に対する弟子の思い入れが余りにも深すぎるため、師が実はそこまでは言っていないと思われるのに、彼の聞き取りかたの方が、内的な増幅によって、師も驚くであろうような言葉に飛躍して記録されるという場合がある。それに似た例を私は三十数年前に経験したことがある。それは西洋哲学を学んでいた熱心な友人であったが、彼は当時スピノザに深く打ちこんでいた。あるとき、彼は私の部屋にはいって来るなり、目を輝かせながら言った。「スピノザは、人間が死ぬことができるのも神の恩寵だ、と言っていますよ」と。これには私は仰天してしまった。私の知る限りでは、スピノザにそういう表白があろうとは、およそ考えられないことだった。私は彼にその原典の提示を求めた。しかし結局、彼はその原據を探し当てることはできなかった。その言葉は、実は彼のスピノザへの思い入れが肥大しすぎたところから生まれた、つまりは彼自身の言葉だったのである。その時、もちろん彼はそのことに気付いてはいなかった。

求道の心が深まれば深まるほど、おそらく人はだれでもこうなるものであろう。そしてそれは、その人の成長にとって貴重な経験として生きつづけることであろう。しかし、それが或る古人の一時期の体験として進行形でなしに記録され、その後の歩みと切り離された形で定着してしまうと、後世の読者は真実を見失うことになりかねない。

もう一つ厄介な問題がある。それは、同じ一人の禅師の語録で、前と後とで矛盾する言葉が出てくる場合である。具体的に一例を挙げるならば、『臨済録』に三回出てくる「円頓」の教えについての評価である。そのうちの二例は、伝統的な教学の立場に立つオーソドックな位置づけであって、これを大乗最高の境地として定位する。しかし他の一例では、これを「禅宗」の立場の対極に据え、根本にあぐらをかいた低次元のものでしかないとして斬って捨てる。しかも、その「円頓」捨遣の言葉は、『臨済録』の始めの部分に最初に現れる。となると、この『臨済録』の編集は臨済自身の円頓観の進展の過程に応じた編集にはなっていない、ということになる。となれば、この不統一の責任は、もっぱら編集者に帰せらるべきことになろう。しかし果してそうなのか。或るいは臨済自身の説法そのものが、その場の状況と対応した論旨の運びのなかで、把住(ひきしめ)と放縦(ゆるめ)、捨遣と表顕の両様のスタイルを使い分けたのであったのかも知れない。そのどちらとも決め難いのである。

さらに注意すべきこととして、『臨済録』に収められた多くの説法は、それらが行われた年代の違いは捨象されているものの、その文体は大別して二種類に分けられるという点である。一つは、もとの語りくちを出来るだけ忠実に再現しようとして口語を豊富に交え用いた文体。もう一つは、文語体を基調にして修辞に意を用いた簡潔な文体である。編集者はおそらく一人ではあるまい。ここで大事なことは、或る同じ趣旨が語られている右のような二種の記録がある場合、趣旨は両者同じであっても、その文体が異なるからには、述べかたの違いは内容の理解のしかたに大なり小なり影響するはずだという点である。論旨の流れの中でのアクセントの強弱や、主要な各術語が提示される時の語気の緩急や、屈折した言い廻しの際の陰翳の移ろいかたなどが、実は論旨そのものの把えかたを大きく左右することは、決して珍しいことではない。そして、こうした事例は別に『臨済録』に限ったことではなくて、ほとんどすべての語録に一般的に見られる通例である。

それの唯一の例外は、黄檗禅師の『伝心法要・宛陵録』である。これは、その篤実な弟子であり居士であった裴休(はいきゅう)が、親しく聴聞した師の説法を、あとで「家へ引きとってから書き留めた」ものであった。さすがに教養の豊かなこの人の手に成るものだけに、黄檗のこの語録は、精審な論旨の運びが注意深く再現されており、また修辞を整えることに過度に傾かないよう、抑制を効かせた叙述になっていて、それでいながら語り手その人の語りくちの特徴を可能な限り再現しようと努めている。全く申し分のない記録である。こういう見事なものが出来たわけは、逆説ではなしに、彼がプロの禅者ではなくて文学者だったからである。

唐の李商隠の作と伝えられる『義山雑纂』を宋代の王君玉が続作した『続雑纂』のなかに、「少道理」(筋の通らぬもの)という項目があって、それの五つの例が挙げてある。その一つに「和尚が撰した碑記」(僧侶が作った碑文)というのがある。それは通例、或る高僧の一代記と、その徳を頌(たた)え言葉から成るが、それが一般の人から見ると、「筋の通らぬもの」の一典型とされているのである。僧侶の世界では通じても、一般の世間では理解されにくい内容と言い廻しに終始していては、これは広く人に読み伝えられるものとはならない。中国古来の通念では、広く万人に読まれ永く後世に伝わる作品というものは、その内容が立派であるとともに文章も立派でなくてはならない。どちらか一方が不十分であっては、それは名作としての値打はない。従って、いま「道理少(な)し」とされた僧侶の碑文も、甘く採点すれば「その内容はともかく、まず文章が悪い」という批判か、厳しく採点すれば「中味も文章もどちらも頂けない」という批判かのどちらかになる。おそらく後者であろう。ちゃんとした道理は、ちゃんとした文章で表明されねばならぬからである。斐休はその両方で見事だった。

唐代の末期、九世紀後半に、福建を基盤として大教団を作り上げた雪峰禅師にも、『雪峰語録』が残っている。現存のテクストは明代の改編本であるが、その巻下の冒頭に、「大王が師と玄沙を請(しょう)じて、内(宮中)に入りて仏心印を論ぜしめし録」という二千字余りの記録が載っている。大王とは、このとき独立政権を建てて閩王を称していた王審知である。彼は雪峰の熱心な帰依者であったが、光化元年(八九八)に禅師とその高弟の玄沙とを宮中に招請して、禅の根本義についての法話を聴いた。そのとき、王の命によって三人の内尚書(王の秘書官)が帳(とばり)のうしろに控え、禅師と玄沙の説法を「言に随って之を録した」という。つまりこの三人が速記したのである。同じ記録は『玄沙広録』巻下にも載っているが、『雪峰語録』には、上記の標題のあとに「妙徳編」という付記がある。つまり、上述の三人による速記録を雪峰の弟子(おそらく記室という役の文書係)妙徳が整理しリライトして文章化したのであろう。そのため、この法話はほとんど完全に文語体に仕立て直されており、その当然の結果として、もとの語りくちの肉声は削ぎ落とされ、全体として〈禅学概説〉的な講義調になってしまっている。たとい王を前にしての進講という状況を考慮しても、あの裴休の筆録のしかたと比べて、なんと味気ない文章であろう。もしわれわれが雪峰や玄沙の禅を語ろうとする時、右の進講の記録を、それが本人自身によって要約された綱要としての形を具えているという理由だけで、これを第一資料として用いたならば、この両禅師の禅をそのあるがままに語り明かしたことにはなりにくいであろう。

 すでに述べたように、禅の語録に限らず、およそ古人の語を読むときは、そこに何が語られているかを読み取るだけでなく、それがどう語られているかを併せて読み取らねばならない。同じ一つの理念でも、取り上げる人ひとによって、その表明の仕方に微妙な、時には格段の違いがあることが多いからである。一例を唐の薬山禅師(七五一-八三四)のエピソードに取ろう。まず最も古い『祖堂集』巻四の記録によると、薬山が或るとき経を読んでいたところ、僧が問いかけた、

「和尚は日ごろから、経を読むことを禁じておられるのに、なぜご自分が経をお読みになるのです」。薬山、「わしは目の相手をさせておるのだよ」。

「私も和尚に倣って経を読んでよいでしょうか」。

薬山、「君がもしわしに倣って経を読んだら、きっと牛の革さえ穴があくだろう」。この問答のなかで、注意せねばならぬ言葉の第一は、薬山の最初の答え「目の相手をさせておる」である。その原文は「遮眼」であるが、これは「目を遮(さえぎ)る」「目をふさぐ」という意ではない。薬山に代わってパラフレーズすれば、「せっかく目があるのだから、経巻にそのお相手をさせておるのだ」ということである。

注意すべき第二の言葉は、薬山の最後の答え「きっと牛の革さえ穴があくだろう」である。その原文は「牛皮也須穿過」。しかし『景徳伝灯録』巻十四では「牛皮也須看透」となっていて、「経を読む」の原文「看経」と照応させた表現に変えている。そのため、この言葉は従来、「経を読むなら、牛の革をも貫くほどの眼光で読まねばならぬ」と誤解されてきた。

この問答は、右の『伝灯録』よりも古い『宗録鏡』巻一にも記録されていて、その書き出しは、「薬山和尚は一生『大涅槃経』を看(よ)みて、手より巻を釈(はな)さざりき」とあり、その僧に対する答えは、「汝もし看(よ)まば、牛皮をも須らく穿つべし」となっている(『五灯会元』巻五も同じ)。ここで、もう一つ注意すべきことは、上記の『祖堂集』『宗鏡録』と『五灯会元』に見られる「須」は、当為・命令を表す「すべからく……べし」ではなくて、「きっと・まちがいなく」の意の副詞だということである。「須」にはこの両様の用法がある。ところが『伝灯録』の文では、指摘したように、最後の薬山の決めつけの一句を「牛皮也須看透」としているため、その文脈では、「須」は当為を表わすことになり、「牛の革をも貫くほどに眼光紙背に徹して読め」と命じたことになる。そもそも薬山その人の禅の体質からしても、こういう指示が出されるはずはないのであるが、ここではその点には深入りしない。要するに、『伝灯録』の改悪が後世の人を誤らせる因を作ったのであって、例えば『従容録』第三則の天童の頒に、「経を看むに那(いかん)ぞ牛皮を透(うが)つに到らん」というのは、明らかに右のような誤解を前提したコメントである。

さすがに明代の代表的な書家董其昌は、その『画禅室随筆』にこの薬山の語を引いて、『伝灯録』の文を採らずに、古いテクストによって『牛皮也須穿」とし、そしてこう続ける、「今人の古帖を看るは、みな牛皮をも穿つの喩えなり」と。当世の人たちに見られる古い法帖の鑑賞態度は、全くこの喩えどおりの愚かなやり方であって、「古人の神気」が現前している「妙処」を見て取ろうとしない、というのである。

董其昌という人は、その生きた万暦時代の文人の例に漏れず、禅の熱心なディレッタントであった。まさにそのことのために、後世の書論や画論の専門家や、プロの禅家から、その禅の誇示癖の浅薄さが指弾されることも多い。しかし、右に挙げた例に関する限り、その見識は正鵠を得ており、かえって一般の禅家の方に趣旨を取りちがえた者が多いのである。

それともう一つ、右の誤解例から教えられることがある。右の例に則していえば、「眼光紙背に徹すべし」という命題が初めから至上のものとして立てられたことが、あのような誤解を生んだ原因だったのである。その結果、「須」の意味をあのように取りちがえ、さらには薬山の禅そのものからも乖離することになった。そもそも禅は、いかに至高の理念であれ、それを振りかざし、それを金科玉条とすることを嫌うはずである。薬山和尚の教えは「眼光紙背に徹して経を読め」ということでは全然なかったのである。

 

ここで話題を転じて、宋代の禅問答の実態を示すエピソードニつを、南宋の曽敏行(?―一一七五)の随筆『独醒雑志』巻十から引いて紹介しよう。その第一は次のような話である。

禅僧の問答の言葉は俳(だじゃれ)に近い。こういう話がある。或る禅寺で、新任の住職が就任式で説法を行うたびに、いつも一人の役者に〔問答を仕掛けられて〕困らされるのが常だった。それからは住職が替わるたびに、前もって彼に賄賂(まいない)を送っておくと、おとなしく言うままになっていた。というのは、就任式に参列した人たちは、この人物の問答のやりとりで新住職の力量を判定したからである。のちにまた住職の交替があった。そこで周りの者が、例の手を打っておいてはと進言した。しかしその僧は言った、「それが何の役に立とう。彼がやってきたら、知らせてくれ」。果して翌日(就任式の当

彼がやってきた。僧はその姿を見るや否や、「衣冠済々(さいさい)、儀貌𨪙々(そうそう)タリ、彼ハ何人ゾ斯(や)」と言った。その男は、この一言で自分の素性をばらされてしまったのが恥ずかしく、そこで袖から白い石を一つ取り出して、「薬石(お茶うけ)を進ぜましょう」と問いかけた。すると僧は答えた、「わしは年を取ってな。歯がぐらついて、そんなのは食べられぬ。どうかそなた、そいつを粉にして下され」。見物人はみんな大笑い。その男は恥じ入って降参した。

ここで「役者」と訳した原文は「伶官」。当時の「雑劇」という芝居の俳優のことである。このころの雑劇は、簡単な所作を交えた、わが国の狂言に似た演出であったが、しかしその俳優たちは、身分は賎民ではあるものの、なかなかの博識で機智に富み、しばしば時世を鋭く諷刺したり、権力者を揶揄したりした。宋代の記録には、そうした彼らの警抜な弁舌と頓智を痛快がっているものが多い。なまやさしい禅僧では太刀打ちできない相手だったのである。しかし、ここで最後に登場した新任の住職は、相手の身分を逆手に取って利用した。「衣冠済々」云々は、すべて『詩経』の句を交え用いた古典的言い廻しで、実は雑劇役者が好んでやらかす、ふざけた衒学ぶりの口真似にほかならない。この男が「この一言でおれの素性をばらされてしまった」と思ったのは、つまり見事にその僧にお株を奪われてしまったからである。

つぎに、かねて用意の白い石を薬石にと差し出したというのは、おそらく古詩の「白石爛兮(らんたり)」のイメージを裏打ちした所作だったのであろうが、この奥の手も、この僧に軽くいなされてしまった。この巧妙な「下げ」も、実は当時の役者の得意としたお家芸だったのであり、つまりはこの僧の方が役者が一枚上だったわけである。「わしは年を取っ

てな」とは言っているものの、それも一つの演出なのであって、この僧なかなかの強(したた)かもの、芝居にもけっこう通じていたと見受ける。

「その石を粉にしてくれ、そしたらお茶うけに頂こう」という切り返しは、実はこれも一つの型である。胡釘鋏(こていこう)という鋳掛師(いかけし)の名人が、宝寿和尚(唐末の禅僧)に参見した時、「お前さんは〔世間で評判の〕胡釘鋏だな」と言われて「どう致しまして」と答えると、和尚が訊ねた、「さて虚空を鋳掛けられるかな」。彼は答えた、「ひとつ虚空を打ち割って下さい。そしたら鋳掛けて見せますよ」(『伝灯録』巻十二・『趙州録』)。

第二の挿話は次のようなお笑いである。

或る僧は、もとは屠家(肉屋)の生まれだったが、僧になってからは、禅学(原文のまま)を鼻に掛けていた。或る人がその鼻を折ってやろうと考え、その説法の時をねらって、仲間の一人を出向かせて、こう質問させた、「肉屋の板台(ばんだい)にも禅あり」。即座にその僧は答えた、「精肉を二斤切ってくれ」。その人は、次の句を教えてもらっていなかったので、とっさに二の句が出なかった。そこで笑いながら僧に言った、「あんた食いたいのかね」。それを聞いた人たちは笑いころげた。

この質問「肉屋の板台にも禅あり」(売肉牀頭也有禅)も、やはりモデルがあって、雲門禅師(八六四ー九四九)の『雲門広録』巻上に、「羊肉を売買する案頭(ばんだい)に、還(は)た超仏越祖の道理ありや」という問いかけがあり、巻下にも「猪肉(ぶたにく)の案頭に還た超仏越祖の談ありや」と問いかけている。唐末の禅界にはやった、仏祖をも乗り超えようとする禅、いわゆる「仏向上」・「法身向上」の霞導。transcedentalism一辺倒に対する、これは雲門の痛烈な反問なのであった。しかしここでは、あの男の問いは定型のクリシェに過ぎなかったにしても、相手の僧が屠殺をも兼ねる肉屋の出であることへ引っかけた意地わるい問いであった。この「禅学」自慢の僧の内実がどうであったかはさて置き、出身が肉屋とか猟師とか漁師とかだった禅僧には、なみの禅僧とは違った、一筋縄ではゆかぬくせ者が多かった。この僧の答え「精肉を二斤切ってくれ」(精底斫二斤来)も、いきなり主客を転換した形で、まさに彼の〈本色(きじ)〉まる出しのまま、ごく自然にすっと出てきた答えだったのであり、これを前にしては、あの紋切り型の常套句は、とたんに色褪せるほかはなかったのである。

この肉屋の喩えで思い出したので、もう一つ、実際の肉屋についての話を紹介しよう。それは、馬祖の法を嗣いだ盤山宝積にまつわる逸話で、『聯灯会要』巻四と『宗門統要集』巻三などに載っている。この禅師が或るとき町なかを歩いていると、肉屋で一人の客が豚肉を買おうとして、「精肉を一斤切ってくれ」(精底割一斤来)と注文した。すると、肉屋のおやじは包丁を下に置き、会釈して言った、「旦那、どれが精(せい)でないものでしょうか」。この一言を耳にして、禅師はハッと気づいたという。

どう気づいたのか、注釈する必要はないであろうが、つまりは聖なるもの・清浄なるもののみへの一辺倒が、凡なるもの・汚濁したものを対置してそれを拒否するという形で、実はみずからを硬直させ枯槁させていたことーいわば求道者が"聖職者"に堕ちこんでいたことの無自覚さに気づいたのである。この禅師は初心を喚び醒まされて慄然としたに相違ない。

それにしても、この『独醒雑志』の著者が始めに言うように、「禅僧の問答の言葉は俳(だじゃれ)に近い」と一見思われるものが多い。一義的に型にはまることを嫌う禅は、とかく型破りな発言をしたがる。そして、その型破り方式がまた新たな型となって、一種特有の禅臭を発散することになる。しかもそうした禅臭をまず固着させるのが、ほかならぬ言葉であった。世にいうところの「禅語」なるものには、一読してその臭みの匂ってくるものが少なくない。俳に似て実は然らざるものを読み分けるためには、まずこうした匂いを消し去ることが必要である。はなはだ品(ひん)のない禅語ではあるが、「自屎は臭きを覚えず」というのがある。自分の垂れた糞の臭みを最も敏感に嗅ぎとらねばならぬのは、まさに禅僧その人でなくてはならぬはずなのだが……。

 禅臭というものは、なんらかの型(シェーマ)・図式にはまり切って、しかもそのことの自覚なしに、その枠のなかで自己完結したところから匂い出る。よく知られている「雲門花薬欄」を例に取ろう。僧が「清浄法身とはどういうものですか」と問うたところ、雲門は「花薬欄だ」と答えた。柵で囲われて燦爛と咲きほこっている庭前の芍薬を指ざして、「あれだ」と答えたのである。清浄法身といえば、あまねく世界を照らして燦然と輝く毘盧舎那仏のイメージであるが、ここでは同時に雲門その人の法身が問われてもいる。それを彼は即座に眼前の芍薬と等置した。正面切った堂々たる自己顕示である。これはその『雲門広録』巻上に出ているから、その編集の体例から見て、雲門の初期に属する風格である。

ところが、雲門の先輩に当たる玄沙の語録に、やはり同じ問いを受けた玄沙は、「膿滴々地」と答えている。その法身からは膿(うみ)がタラタラ垂れているというのである。考えてみれば、そもそも法身に〈清浄〉という修飾を施すこと自体が余計なことなのであるが、一旦そういう修飾語が固着してしまうと、言葉というものの宿命として、不清浄なものとの相対関係に引きこまれることになって、〈清浄〉そのものさえ色褪せてくる。そこを玄沙は衝(つ)いて、敢えて法身を腐爛させたのであり、同時にまた、ひたすら〈清浄法身〉をのみ希求して流しつづける相手の涎(よだれ)をウミに転化してやったのでもある。

ところが、大慧の編んだ『正法眼蔵』巻上に、同じ玄沙に関する次のような逸話を載せている。

玄沙が誤って薬を服(の)んだため、全身が赤く爛(ただ)れてしまったことがある。そのとき僧が皮肉な質問を発した、「堅固法身とはどういうものでしょうか」。

答え、「膿滴々地」。

 「金剛にも喩えられる堅固法身とやらも、それ、見ての通りウミがたらたらだ。『証道歌』に〈幻化の空身は即法身〉とあるが、実はこの不浄とも見える我が肉身こそは法身を離れてあるのではないのだ」という示唆であろう。

さきの雲門における花薬欄は、日本での従来の解釈では、便所のまわりに臭気を消すために植えこまれたモクセイなどの生け垣だとされ、つまり「清浄」なものについての問いに「不浄」なもので答えたところが見事なのだと説かれてきた。そしてこれが逆措定という型の愛用癖を生むに至っている。しかし、さきに紹介した玄沙の例でも、いかにも「不浄」でもって答えてはいるが、しかしそれは決して正に対する反といった紋切り型の反措定ではないこと、すでに見た通りである。

しかし次の例ではどうであろう。それは、雲門の法を嗣いだ洞山守初(九一〇―九九〇)の場合であるが、やはり同じ清浄法身についての問いに対して、「醤甕(みそがめ)の裡(なか)の蛆児(うじむし)」と答えている(『古尊宿語要』巻四)。どう見ても、これは雲門の「茆坑(べんつぼ)の裏(なか)の虫子(うじ)」のパロディに過ぎず、上に述べた型の踏襲をすでに示している。「情(こころ)に聖量を存するなかれ」とは禅の基本的な教えである。いかにも、聖なるもの・有りがたいもの・絶対なるものといった至高価値意識を先立ててしまっては、求道は成就しないであろう。だからといって、そういうものの対極をすぐさま推し立てることで事を処理するのも、これまた実は裏返された至高への価値意識の定立にほかならない。このことを己に課せられた痛切なジレンマとして先ず自らに背負いこむことから禅の修行は始まるはずなのであるが、その苦渋の軌跡を語り明かしている禅僧は案外に多くはないのである。

 

右に挙げた例では、聖量を反価値に転ずることによって、それからの束縛(理障)を断ち切ろうとする行き方に見られる一つの「型」を指摘した。

次に挙げる例は、まだその理障(または法執)に縛られたままでいる人の、心の貧しさを物語る。しかも、間接的ながら言葉に関わる問題を含む。原文は『碧嚴録』第四十則に見える次のような問答である。

陸亘大夫が南泉禅師(七四八―八三四)と語りあっていた時、彼は言った、「肇法師は『天地は我れと同根、万物は我れと一体』と言いましたが、なんと奇怪(きっかい)なことを言ったものですね」。すると南泉は庭前の花を指ざして言った、「大夫よ、今の世の人は、あの〔見事な〕一株の花を見ても、夢の中のようなものとしか見ていない」。

「今の世の人」とは遠廻しな言いかたで、「あなたもそうだろう」という語気である。あなたはその肇法師のテーゼに違和を覚えながらも実は目をくらまされていて、せっかくのあの美しい花を見て取れないでいるのだ、というのである。僧肇は四-五世紀ころの代表的な仏教学者。この言葉は、その『涅槃無名論』に見える。その意味するところを現代風に言い直せば、かつて安藤孝行氏(故人)が「自我と超越存在」について述べた次の一句に要約されるであろう。

超越論的還元によって、世界を自己の中に内在化した超越論的意識が世界を再構成する。(『存在の忘却』二一四ページ。白雲山房、一九八六年)

王維の「青竜寺を過(よぎ)りて操禅師に謁す」と題する詩に、「山河は天眼の裏(うち)、世界は法身の中」というのは、この操禅師が「三千世界はすべて我が自己」(いま黄檗の語を借りる)という達観を得ていることを讃えたのであるが、まさに「世界を自己の中に内在化した」天地万物との一体化の消息である。しかし陸亘はこれに違和感を示した。そこに見られる超越志向が鼻についたからに違いない。陸亘というインテリの居士は、こういう乾いた潔癖感の持主であった。それに対して南泉が指し示した「庭前の花」は、『伝灯録』では牡丹の花となっており、おそらく満開の燦爛たる一株であった。それはまさに〈万物〉を一つに収斂して、完壁な実在のめでたさを開示している。そこが見て取れずに、あれを夢まぼろしの空華(くうげ)とのみ見流してしまうとは、なんと情けない君か。「我れの天地万物との同根一体」に違和を覚えるより前に、君自身のその「我れ」を豊かならしめよ。でなければ、君は何を見ても、「なべては空なり幻なり」というお定まりの理念の中で酔生夢死するだけだ。杜甫の晩年の詩に「老年 花は霧中に看るのみ」とある。それは老年の霞み目のせいなのだが、君の心眼は、そんなことでは、いつまでたっても霞んだままで終わってしまうだろう。これが、陸亘に向けられた南泉の痛烈な批判であった。

 ところで、『伝灯録』巻八では、右の肇法師の二句を「万物は同根、是非は一体」と変えてしまい、「我れと」(与我)という大事な言葉を取り払っている。これではもとの問答の趣旨から全くかけ離れた言葉になってしまう。鎌田茂雄氏の『中国の禅』(講談社学術文庫・一九八〇年)には、「夢幻の如し」という標題を立ててこの問答を取り上げているが、肝心の右の二句を『伝灯録』の悪しき本文に據ったため、南泉の趣旨とは乖離した解説になっているのは残念なことである。

悪いテキストに従って安易に読み流すと、たった一字の誤りに禍(わざわ)いされて、とんでもない誤解に陥ることが決して少なくはない。これは仏典や禅録に限ったことではないが、特に禅の問答では、問う者と答える者との終始緊迫した応酬にあっては、一字一句が抜き差しならぬ言葉として火花を散らせる。それを取りちがえると、火花は散ることはない。その一例を、やはり馬祖の法嗣である百丈と、その同門の南泉に参じていた趙州との問答に見よう。

百丈が趙州に問うた、「どこから来たか」。

「南泉からです」。

「南泉にはどういう言句(ごんく)があるか」。

「まだ、それをつかんでおらぬ者は、悄然(ひっそり)としておらねばならぬ(未得之人、直須悄然)〔と申されました〕」。

すると、百丈は大喝した。趙州はギョッとした。

百丈、「うむ、見事な悄然ぶりだな」。

趙州は舞を舞いながら出ていった。

右の本文は、大慧の『正法眼蔵』巻上に載せるものに従う。これは『趙州録』にも載っているが、しかし重要な語句の違いがあって、この問答全体の趣旨に関わってくる。その違いは、南泉の〈言句〉として呈示された「まだそれをつかんでおらぬ者は…」の下の句が、『趙州録』では「亦須峭然去」となっている点にある。そのため、「まだ道を得ていない者も、厳然としていなければならない」という誤訳が生まれることになった(秋月竜珉氏『趙州録』四〇〇ページ。筑摩書房、一九七二年)。

まず「亦」(…でも)では駄目で、「直」という強辞でなくてはならない。「直須」は強い当為または命令を表わす。「峭然」は実は「悄然」と同じで、峭と悄の通用は珍しいことではない。そして、ここの「悄」は文語ではなくて口語であり、物音ひとつなく静まりかえっているさまをいう。「悄々」ともいい、白居易の詩などに例は多い。ここにいう「悄然」とは、道を得ようとしてアタフタ・アクセクするのではなく、ひっそりと心を静めて、ひそとも動かぬことをいう。そして、ここでの百丈の大喝は実は南泉に向けられたものではなくて、南泉のその言葉を肯(うべな)った上で趙州がそれをどう解っているかを検証しようとしたのであった。その「悄然」を一気に打ち砕いた百丈の大音声に趙州はギョッとなったことでハッと南泉の意旨を悟った。それを見て取った百丈は、「見事な悄然ぶりだ。それでこそ南泉の子だ」と嘉賞したのである。彼が舞いながら引き上げたのは、そのうれしさの端的な表現なのであった。

「情然」の逆が「茫然(あたふた)」である。石臼和尚が初めて馬祖に参見したとき、馬祖は問うた、

「どから来た」。

「烏臼(うきゅう)から来ました」。

「烏臼には近ごろどういう言句があるか」。

「幾人(いくにん)か此(これ)に於て茫然たる在らん〔と申されました〕」。

「茫然はさて置き、悄然の一句はどうなのだ」。(『馬祖語録』・『伝灯録』巻八、石臼章)

ここにいう「茫然」は実は「忙然」と同じで、茫と忙の通用は、『臨済録』にも数例見られるように普通の用法であったー浄・静や亡・忘などの通用と同じように。ここで馬祖は明らかに烏臼の「忙然」に「悄然」を対置させており、烏臼が「此これ(一大事因縁)の究明について忙然(いたたまれぬ思い)をしている者が果して世に何人いようか)と嘆じた(そこでは「忙然」は勝義)のに対して、いささか意地わるな反措定をやったのである。

放り捨てた瓦礫が竹に当たって立てた音を耳にして悟りを開いたという香厳智閑(?ー八九八)は、そのとき、その開悟を偈に詠んだ。その初めの四句は

一撃所知を忘(ぼう)(亡)じ、

更に修治を仮(か)らず。

動容は古路に揚がり、

悄然の機に堕ちず。

というのであるが、この第四句が、いわば馬祖の「悄然」への反措定であることは、そこに「動」「揚」というヴァイタリティが強く打ち出されていることからも明白である。その「悄然の機」とは、寂然(じゃくねん)とした安禅静慮の境涯のこと。徳山の言葉を借りれば、「少しきを得て足れりとなして、静処に向(おい)て立ち、肯(あ)えて進前せざる」(大慧『正法眼蔵』巻上)、一種の寂静主義(キエテイスム)である。それに堕ちこむことをこの一撃によって脱し得たと香厳は宣言したわけであった。

以上を要するに、あの『趙州録』の改変された本文は、全く救いようはない。後人による本文改変も、またそれなりの意味をもつことも少なくはないが、しかし右の例はどうにもならない。そもそも「峭然」という術語は存在しないのだから、それに「厳然」という意味を当てること自体、憚られねばならぬことであろう。しかも、「まだ道を得ていない者も厳然としていなければならぬ」とは、南泉の禅のどこを突っついても出てくるはずもない言葉である。

一般的にいって、禅の言葉と文体といっても、もともと中国語(漢語)なのであるから、造語法や修辞法の基本は、一般の中国語のそれと違った何か特別なものがあるわけではない。ただ、特に問答の言葉に用いられた当時通用の口語、例えば作歴生(そもさん)とか恁麽(いんも)などという語彙が、本来は普通の話し言葉だったのに、後世それが禅の世界で愛用されるしきたりになると、あたかも禅専用のタームであるかのように世間では受け取られ、禅僧の方もその錯覚に乗っかって、あるいは自らそう錯覚して、安易にこれを濫用するという風習が生まれた。こういう悪しき風習は、言葉そのものの誤用や、意味の取り違えをさえもたらした。その一例を、上述の「恁麽」という言葉について見てみよう。

北宋の睦庵善卿が『祖庭事苑』八巻を著わしたのは、当時の参禅者に禅の基本的な術語に習熟しない者が多いことを嘆いてのことだったが、その言葉についての詳細な解説には、実は誤りが相当に多い。右の「恁麽」についての解説を見ると、二様の解を与えている。第一は「指辞」(指示詞)とする。あのように・このようにの意で、これは正しい。第二は「審辞」とする。つまり疑問詞だというのである、これは誤りである。ところが、清代初期に翟灝が著わした俗語辞典『通俗編』巻三十三では、「今言う恁麽の恁は『之を疑うの義』(何かに疑いをさしはさむ言い方)なり」と述べていて、同じ誤りを襲っている。しかもこの誤りは我が国の辞書にも踏襲され、諸橋『大漢和辞典』を始めとして、広く最近の漢和辞典のすべてに及んでいる。『仏教語大辞典』や『広辞苑』も例外ではない。ところが『祖庭事苑』ではまた、「恁麽」と同義の「与麽」の説明で、ご丁寧にも「什麽(なに)とも書く。正しくは甚麽と書くべきで、疑問詞である。また摺(氵)麽とも書く」と述べている。「与麽」は古くは「与摩」または「与没」「異没」と表記し、「恁麽」よりも古く文献に現れるが、いずれも指示詞であって、疑問詞ではない。「摺(氵)歴」はまた「熠麽」とも書き、唐末から文献に現れ始めるが、これもやはり指示詞であり、「什麽」(甚麽)とは全く別である。どうしてこういう混乱した誤解が生じたのか、その事情を今のところ適確に説き明かすことはできないが、ひとつ考えられることは、禅問答じたいの定型化・図式化に伴って、言葉の使いかたに対する厳密な心配りが弛(たる)んできた、という事情が伏在しているのではなかろうか。

「作麽生」や「恁麽」などはもともと禅語ではない。だから、われわれはまずそれの本来の意味どおりに解すればよい。「本来の」とは、日常の普通の使われかたのことである。「作麽生」は「どのように」の意、「恁麽」は「このように」または「そのように」の意である。ところが、馬祖が「平常心が道である」と言ったように、日常性がそのまま本来性との相即において提示された場合、日常語はそのままで禅語に昇華する。大陽和尚(馬祖の弟子)の言葉に、

近ごろ一般の禅師は、目前のことを目前で指し示して解らせるという教えかたをする(『伝灯録』巻八)

とあって、これが禅の教化の一般的スタイルとなっていたこと証している。先に紹介した雲門の「花薬欄」や「庭前一株の花」も、まさに目前の事物に即して理法を明かそうとしたものであった。

南嶽懐譲が初めて六祖慧能に参見したとき、六祖はこう問いかけた(『伝灯録』巻五)、

什麽物恁麽来(なにものが、そのように来たのか)

「恁麽」は、『祖堂集』では古い表記の「与摩」となっている。「什麽物」は「什麽人(なにびと)」ではない。ここへお前を来させたものをどう主体的に把えているか、目前のその在りようをそのように在らしめているものが何であるかを言い留めてみよ、という問いかけであった。その「恁麽」は「そのもの」の顕現にほかならぬ以上、そう在るべくしておのずからにそう在る当体を自ら言い留めてみよ、という難問であった。ここに至って、「恁麽」という日常語は、言語や論理を超えた深奥の消息を語る高次の言葉に昇華して、いわゆる〈禅語〉として定着する。

もっとも、上文で紹介した大陽和尚は、先に引いた指摘「目前で指し示して解らせるという教えかた」を批判して、こう続ける「そういう一般の禅師は、果して〈文彩(もんさい)の未だ兆(きざ)さざる時〉を会得しているだろうか」と。文彩(紋彩)とは、そとに現れ出て、それと見て取られる徴標のこと。つまり、「恁麽」にそこに現前したそれのサインであ

る。そういうしるしがまだ形を取って兆さない、原初の玄奥の消息を会得することが先決の問題だ、と大陽和尚は抉(えぐ)るのである。

ここで新たに「文彩」という言葉が禅語として定着することになる。例えば「猶お這箇の文彩の在(のこ)れるあり」とか、平たく言えば、「まだシミがのこっている」「まだシッポがふっ切れていない」ということで、後には「なお蹤跡を存す」とも言い換えられる。幸田露伴の句に

猶ほ這箇の在るあり残る暑さかな

というのは、天道がまだ夏の暑さをふっ切れずに残暑という文彩を引きずっているという、揶揄の気分をこめた句である。「這箇」がふっ切れずにいるために「恁麽」(これ、このとおり)が露呈して、完全な「没蹤跡」になりきれない。それは求道者としての至高のありかたではない、というのが洞山禅師の教えであった。

牛頭法融(五九四-六五七)は初め南京の南の牛頭山に隠れ住み、巌窟のなかで修行に打ちこんだ。すると、たくさんの鳥が花をくわえてその座前に献げた。その修行のめでたさが野鳥にも感応して、花を供えて荘厳させるに至ったのである。しかし、のちに彼が四祖道信に師事することで、その修行を更に深あるようになると、鳥は一羽も飛んで来なくなった。修行の痕跡さえも留めぬに至ったからである。「百鳥花を啣(くわ)う」という霊験は、まだ彼が百鳥にさえ見て取られるような〈文彩〉を残存していたからであった。それが完全にふっ切れた段階で、その奇蹟は消滅した。そのことが彼の修行の成就を証明するものであったのである。百丈や黄檗に、「神通なき菩薩こそ、至高の菩薩である」という発言があるのも同じ趣旨であって、至高の理を体得しようとする求道者も、爪足(つまあし)立つのでなく、「脚は実地を踏む」のでなくてはならぬ、という示唆もここから導き出される。

宋代以後、儒家の間にも禅ディレッタントは増えつづけたが、また一方、禅の超世間志向を強く批判する人たちも少なくはなかった。それらの人々が共通して用いた批判用語は、禅はもっぱら「空霊」を貴ぶという指摘であった。異次元への超越志向を空疎なものとする見方である。しかし、一義的な〈向上〉志向は、例えば玄沙や雲門によってすでに乗り超えられていた。とはいっても、禅の心酔者だけでなく、プロの禅家のなかにさえ、禅を何かfantasticな教えとして把える向きがあって、それが語録の読みかたに露呈している例が少なくはない。

私のこの一文が、いささかポレミックな調子を帯びてしまったのは、右に述べたことへの私なりの提言を、この機会に申し述べたかったからである。          一九八七年八月稿

 

 

この論文はpdf形式からワード化し一部改変したものである。

因縁の考察  酒井得元

因縁の考察  酒井得元

因縁ということは、「阿頼耶識與雑染法互爲因縁、如炷與焔展轉生焼、又如束蘆互相依住唯依此二建立因縁、所余因縁不可得故」(成唯識論第二春)(「大正蔵」三一・八下)にもある如く、我々の生命現象の基本的購造を説明する概念として、自明の事の如く取扱われている。また因と果もこの公式の要素であるということを、余り疑うものもあるまい。然しこの日常性に慊(あきたら)ず、ここに疑問をもち、この論理構造を徹底的に追求して、その不成立を論証する中論者の努力は、仏者としては、余りにも當然なものと言わなければならない。

嘉群大師吉藏の「以観此正因縁不生不滅、乃至不來不去一故。此因縁即中道。因於中道発生正観」(中論疏一本一八)(「大正蔵」四二・五下)という言葉は、よく因縁という概念の性格を指摘している。因縁の根本的な性格の把握が正観の発生であり、その正観の発生が眞實生活の創造であつたのである。そしてかの八不中道という特殊な概念が我々にもたらされたのである。一應、因と果を根本的要素として因縁を現實に掘下るには、先ずこの概念を超えなければならない。その越えられた非概念的な概念が、八不中道という表現を齎らしたものである。

先ずその因縁を考えて見よう。それは何の因縁であるか、申すまでもなく自己の因縁であらねばならない。因縁が観ぜられるものとするならば、その観ずるものは自己でなければならない。この場合、観ずるものと観ぜられるものの対立が考えられなければならない。観ずるということは結局、対立することである。単なる観などという客観的なものはあり得ない。更に一歩退いて考えて見ると、観ずること、これは自己の生態であり、因縁である。因縁を観じようとするならば因縁が因縁を観ずることになる。こんなことは、論理の上ではあり得ても、事實の上にはあり得ることではない。古人はこれを無窮の過として示した。故に因縁は観ずることは出來ないことになる。即ち推論することはあり得ても、経験することはあり得ない。嚴密に言えば、更にかく推論するそのことも因縁であつたのである。故に斯く我々が生活現象を日々現ずるそのことが、因縁の自己表現であつたというより外には言いようはない。故に如何に推論して見ても因縁の事實は把握されるものではあり得ない。

八不中道は因縁が本來、我々の概念以前の事實であることを、概念の過程を通すことによつて、我々に自覚させんとする、不断の努力であつたと言いたい。なぜならばこれを概念というのには妥當ではない。即ち「以大乗法説因縁相、所謂一切法不生不滅、不一不異等、畢寛空無所有。」(中論青自繹大正三〇-一)(「大正蔵」六五・一〇四中)にもある如く畢寛空、無所有などは、概念とはなり得ない概念である。因縁は我々の概念成立以前の、然も、概念を成立させるものである以上、我々の直接経験し得ないのは當然である。かくて現實の我,々の経験は、因縁によつて縁起したものだつた。然も、その我々自身が因縁したものであるから、無媒介では八不中道といつたものは全く自覚される筈はない。

我々の生活要求は外界を限定することによつて発展する。限定には、先ず対立ということがなければならない。つまり限定は必ず対立の上に咲く生活現象の花であつたのである。故に因縁の問題はそれ以前にあらねばならない。対立には必ず實體的なものの要求がある。そこに、中論で示されるごとき、自性他性の概念の確立に始まつて、我々の生活々動の構成が概念化される。「善悪由身身田於貧貧由分別虚妄、虚妄分別由於顛倒、是以顛倒所見爲在家出家愛見本也」(中論疏一維摩経疏取意) (「大正蔵」四二・二下)の顛倒所見は限定活動の性格を働に即して明確にしたものと思われる。かくて自己自身が因縁であることを自覚出來ないものにして始めて、自己の生活の絶対性が確信され、その生活の中には、實體的なものが導入され、確立されるのである。神の支配を受けたり、絶対的権威の下に服從したりするなどは、この限界内にのみ生活を自覚するものの當然の宿命である。かかる實態を、即ち限定以前の自己自身の縁起の立場よりする時、これを顛倒と言うのである。從つて「神とは人間の愛そうとする欲求の象徴である」(フロム)(『精神分析と宗教』)など、此場合、愛見本として我々も受入れてよい。

因縁は我々の生存の限定生活以前の實態であるとするならば、因縁という語がどうして生じたのであろうか。僧肇に「覺觀麁心言語之本」(註維摩経三)(「大正蔵」三八・三四六中)と明示されたように、限定のないところに、この因縁の語さえ生ずる余地はない筈である。然もこの因縁の語を通じなければ因縁という實態を我々は考えることは出來ない。かくてこのアポリヤが今私達の前に立塞つて來るのである。このアポリヤが我々自身に処理出來るものであるならばアポリヤでも何でもない。我々にはどうにも出來ないこのアポリヤこそ、生活以前の直接的自己表現でなくてなんであろうか。このアポリヤこそ眞實の因縁の自己表現である。アポリヤというのは、通常、認識の枠では受附けないなまの事實である。なまでは、限定の世界に生きる我々は不安に堪えられないであろう。然し、アポリヤの因縁を通じなければ、眞實への道は開かれないのである。

我々は此処で一休することは許されない。何故ならば佛法は生のものとして、滞留は許さないからである。もしここで我々が結論に到着したならばそれは滞留である。結論は認識の成立を意味するが、成立した認識は滞留であるから眞實の表現ではない。故に眞實を表現するものとして洞山大師「徒敲布鼓誰是知音」(玄中銘)(「大正蔵」四七・五一五下)の語のある所以である。

中論観因縁品では、はつきりと、因縁そのものを破し「若果非有生、亦復非無生、亦非有無生、何得言有縁」(九偈)(「大正蔵」三〇・三上)とあるは、却つて道に親しきものと言わなければならない。然るにもし安易にこれを否定と解するならば、理解は速いかも知れぬ。然し、それは徒に虚無圭義とはなつても中論者の意途を理解するものとは言えない。何故ならば認識以前の生きた實相を見つめんとする佛法は元來、體系の確立であつてはならない。ヤスパースも「體系は眞理から道をそらす邪道である」(『理性と實存』)と言つているが、體系は佛教の術語では「見」であつた筈である。フロイトの夢の解明にもあるように、人聞は、生理的に體系を作るように宿命づけられている。即ち無意識的に思想するものである。唯識家が遍行の中に思を入れているのは意昧深いことである。現實の自覚的生活というものは、この思想形成の上に作られるのである。

「妄息無他伎、断々了妄本、妄本實無」(指月用心記不能語)、「如實諦観、起即無義」(般若灯縮暑一-六〇)(「大正蔵」三〇・五二中)は、佛教の行の定石である。この無義はその生成の基盤、即ち我々の思業以前の立場に立つた無意識のことでなければならない。思業以前のなまの立場に體系のあろう筈.はない。然るに、更にここで、かかる立場に自己の立場

を決めるならば、體系が成立してヤスパースの一笑を招くことになる。この循環を超えることは、思業の領域にあつては全く不可能である。ここに路を開くために無分別智というものが要請された。無分別智といえば概念である。これを追求するところに、眞實の顯現はあり得ない。何故ならば生は無限定であるからである。印ち實相は何物をも媒介とするものであつてはならない。また特殊な知識、體験であつてもならない。先哲の破邪顯正の努力は體系を脱することでもあつたが、嚴密にはなまの無分別智の活動だつたと言わなければならぬ。然しこれをも體系と言つてしまえばそれまでである。

嘉鮮大師吉藏が戯論を繹して「一者愛論、於一切法有取著心、二者見論、於一切法作決定解」(中論疏幽本四十四)(「大正蔵」四二・一二中)と註しているのを此処で改めて取上げて見なければなるまい。日常、我々が問題にする因縁の實態は、認識されることではなくしたぐ推論上に現實構成原理として體系的に形成されたものだつた。然るに、從來の我々は、この因縁の概念の生成に關して、何の疑問を持つたことはなかつた。然し佛者は、この因縁の概念の成立に關心事があつたのである。即ちその求めるところは體系の確立ではなく、體系以前にあつた。故に多年辛苦の結晶であつた體系をも一挙に捨去つた先哲の遣芳は、今日の我々の、なお生かさなければならないことで、これこそは大乗論部に精實に取組むものの心構えである。

中論では、因縁品で因縁を総破している、その総破のところに眞實の因縁が顯現されるのである。構成されたところのものは有爲法であつても無爲法ではない。また認識されるものは有爲法であつても無爲法ではない。眞實の因縁は無爲法でなければならない。無爲法が我々の自覚出來るものではない、故に無爲の自覚は絶対に不可能であろうか。斯く考えることこそ、凡そ無爲と違つた方向への努力である。何故ならば考えるということは何かを考え、何かを想念する。つまりそれは能取所取の対立である。その目指すところは自己了解である。了解が生むものは體系である。然し、高い立場、印ち思業以前の立場よりする時は、この體系が生れ、活動するのは本來、無意識的活動であり、自己本來の律動だつたの'である。斯くて現實に、無爲の活動が自覚されるのである。この現實を離れては、無爲法はあり得ない。この現實を如實に受入る正受の三昧印ち無所得無所悟の行、これこそ生の無爲法の現成である。かくして現實に流されることなく現實を受入れ「よき人の教え」に服した親鷲上人、深信因果の只管打生の佛行に生きた道元禅師に、眞實の因縁の具體的なものを學ぶことが出來るのである。そして「因果是衆議之大宗、立信之根本」(中論疏第十七)(「大正蔵」四二・一三二上)に因縁の眞意義を見出すものである。

 

「印度學佛教學研究 3(2), 670-672, 1955」より抜書(一部改変)

 

これは二谷がpdfからワード化したものであり、出典などはsat(「大正蔵テキストデータベース」)を援用したものであり、旧漢字と新漢字の混用など雑な作業になってしまい謝する次第である。 猶これは小拙の酒井先生に対する報(法)恩の一環である事を記す。

存在と佛性   酒井得元

存在と佛性   酒井得元

    一

大乗論部の破執分の論理的根幹をなすものは、一般的な性の概念を破して、無性を明かすことであつた。かくて、古來の佛者の努力の方向が、結局、この一點に終始していたとい

うことは、周知のところであろう。何故にこの一般的な性の概念を破しなければならなかつたか。即ち、これを明かすことが、佛道の根本的性格を明すことであつたからである。そ

こで先ず、この佛道への向上契機として、常に問題とされて來た性について、我々は根源的にその性格を追求して見なければならない。佛者は如何なる態度で性の概念を考えていた

か、先ず龍樹の『中論』を見ることにする。「若汝見諸法、決定有性者、即爲見諸法、無因亦無縁(四諦品十六偈)(「大正蔵」三〇・三三中) とあつて、性そのものに對する態度をはつきりさせている。然し何故にこんなことが言われなければならなかつたかを考察しなければならない。

性とは元來、『大智度論』第三十一の「性名自有、不待因縁、若待因縁則是作法、不名爲性」(「大正蔵」二五・二九二中)にもあるように、自有、即ち自己の存在性を自己自身で決定するものでなければならない。故に、他によつて縁起されたもの、即ち作られたもの-作法-であつてはならない。かくしては、これが不變不改の原則として考えられるのは當然である。然るに、自有であつて、作法にあらざる性そのものというのは、主語とも述語ともなし得ないものでなければならない。故に、我々が日常とやかく考えたり論議するところのものは、眞實の意味に於ける性ではない。

概念に絶對になり得ないもの、これが性そのものの性格でなければならない。この意味に於て性は絶對である。故に性は思惟されるものではない。また、自覺され、経験されるも

のであつてはならない。これを支那佛教者は、不可得という語で表現したが、これによつて大乗佛教教理が、より深められたと言つてよいと思う。我々が日常、無造作に考えている-

性は、性ではなかつた。ここに、眞實の意味に於ける性は、我々に意識されるものではあり得ない。然し思惟や経験によらない存在はない。故に思惟や経験を因縁和合とする佛者の

立揚からは、「若不從因縁和会則無法、如是一切諸法性不可得故名性空」 (『大智度論』三一)(「大正蔵」二五・二九二中) と言われている。そして、この因縁和合が存在の原則であつたのである。そこで、この因縁和合を超越したものに就いて、その存在性が論ぜられることのあろう筈はない。この存在性が論ぜられ得ないということ、これが無法であつて、かかる性格を不可得といい、また性空といつたのである。

斯様に、絶對に経験も知覺も不可能であり、決して概念とはなり得ないにも拘らず、この性を経験し知覺し得られるものとして、また、それを概念として平氣で取扱つて、然もそ

こに何の矛盾も感じないでいるというのが、我々の日常である。この日常の現實に、鋭い批判が加えられるのは、當然と言わなければならない。これが、古來、佛法者の中に貫いて

いる「破執」の精神に外ならないのである。

我々の日常というものは、元來、思惟が中枢をなしている。この思惟するということは、必ず事物を思惟するということでなければならない。即ち存在に絡らませなければ、思惟は

出來なかつたのである。先ず、物として、または概念として固定することが、思惟・観察の基本的契機であつた。そこで、その固定の原理として性が要請されたのである。これが日常

考えられている性の概念の性格である。またここに、我々の思惟の限界があるというものである。故に日常考えられている性は、嚴密に言うならば、思惟活動の構成要素であり、思

惟の限界内の事項であつた。ところが、眞實の意味に於ける性の性格は、不可得でなければならなかつた。即ち、それは、絶對に認識對象となることはあり得ない、また、存在の概念

を超えた、それ以前のものでなければならなかつた。ここに我々は、日常の性と、眞實の意味に於ける性とは、根本的相違というよりも、比較にならない、全く異つた次元であるこ

とに撞着するのである。

我々の日常の存在概念は有と無で始まる。佛教者は、これに對して如何なる態度を取つたか。「有無是諸見根、障中道本」(『中論疏』)(「大正蔵」四二・一一一中) にも見らるる通り、有無に基いて、諸見、即ち思想體系や生活體系といつたものが、創られてゆくというのである。然しながら、我々は何故に斯様な有無を持たなければならないのか。「問、衆生何因縁故起有無見。答、智度論云。愛多者著有、見多者著無。一切衆生唯有愛見」 (『中

論疏』「同上」一一二上)) に示される通り、愛見、即人間の生活意欲にそれが起源することを、いみじくも指摘していると言わなければならない。意欲するところに有無の問題が起

る。即ち有無は意欲の行動面に外ならない。そして在・不在は生活現象に於ける必須の條件であつたのである。

眞實の意味に於ける性は、かかる在・不在の問題を超えていなければならなかつた。故に、この性は生活をも當然超えていなければならないし、また、絶對に意欲の對象とはなり得るものではなかつた。斯様な性格を考察し來る時に、この人聞性を全く超えた性を不可得・寂滅という語を以て、この性格の消息を傳えんとしたニュアンスが、理解出來るというものではなかろうか。

斯様な性格を考察し來る時に、物の存在の確認の上に成り立つている日常に對して、「執法有性不見寂滅故。不能遠離虚妄分別」 (『大乗入楞伽經』五) (「大正蔵」一六・六一六下)と、存在・不存在に明け暮れする生活體系の不甲斐なさを極め付けるのも、佛者として當然であることが理解出來るであろう。

日常に於て我々は、性を存在の根據と考えている。然し、かく考えることを上述の『中論』偈は、「爲見諸法無因亦無縁」という素朴な型で誡めた。然し、存在の根族であると考えら

れるとき、性は、不攣不改でなければならなかつた。そして、そこでは因縁和合の生成存在を根擦づけ得ないという論理的矛盾を指摘した。凡そ、根據となるものは、その不改不變の

原理、即ちそれ自らは、無因亦無縁でなければならない。然しこの無因亦無縁ということは、因縁和合を可能にするものではない。故に、かかる日常に於ける性は、却つて日常とい

うものを否定し、存在も否定することになる。然し、この性を考える日常は、かくて論理的には矛盾はあつても、然もこの矛盾が、全く感ぜられることなく、存在は存在として認め

られているところに、日常の不思議がある。

日常、この存在が確認出來ない時には、その爲に必死の努力が繰り返される。然も、そのままにすますことには、非常な重圧感を堪えなければならないのも日常である。斯様な矛盾

に成り立つている日常とはいえ、これは重圧感に堪えられぬまでも、如何にしても避け得られない、論理を超えた絶對的な事實であつたのである。

故に、この日常を否定しては、我々の生活も、我々自身も存在し得ない。ここで我々に残された道は、日常に随順することである。その随順は、何處までも、無因無縁の原理を排

することであり、日常に性を考えることを排撃することである。何故ならば性を思惟の對象としてはならなかつた。そしてここに我々は、無性の眞實に當面し、不可得という語に無

限の意味を感ずる。

   二

さて然らば、佛者は、経験の生活をどう見たかを考察しなければならない。経験の現實の構造を因縁和合とし、これを更に、より具體的に、分析解明して、有爲法となして、無爲

法と区別を設けて説明していることは、既に、周知の通りである。有爲法は申すまでもなく、生活経験、即ち、生活の意欲活動である。生活それ自體は「生」のものである以上、「有爲諸法皆念滅、無停住義」(『佛性論』縁起分)(「大正蔵」三一・七八七上)「有爲法因縁力故本無今有、暫有還無」(『成唯識論巻』) (「大正蔵」三一・六上)にもあるように刹那生滅で一時の停止もあり得ない、これが我々の生活の實態である。しかも、斯く生きていかなければならないということは、生活の意識・無意識を超えた、嚴粛な事實であつて、誰人も廻避することが出來ない。この廻避することが出來ず、この意識的生活に明け暮れしなければならない自己の生活事實こそ、凡ゆるものを超えたものであることに當面する。即ち、必然的に、ここで我々の意識ではどうすることも出來ない、有爲法にして有爲に非ざる無爲法という事實に到達するのである。故に、無爲は意識生活を超えたもので、決して有爲の終着駅ではあり得ない。有爲は経験の世界にはあつても、無爲は、それを超えている以上、経験するということはあり得ない。故に「諸無爲法、離色心等一決定實有、理不可得」(『成唯識論論』二) には不可得の無爲の消息が述べられている。有爲そのものは、有爲であること、それ自體が、有爲ではなかつたのである。即ち、意識することそれ自體は意識的ではあり得ない、故に『大乗起信論』では「心性常無念」(「大正蔵」三二・五七七下)といつている。我々は意識するために意識することはあり得ない。故に『起信論』は「心起者、無有初相可知」(「同上」五七六中)といつて、更に、これを忽然念起(「同上」五七七下)といい、古人はこれに「無何所因起義」(山本儼識『冠導傍註大乗起信論義記』巻下)と註している。故に、これを無意識に意識すると言うことが出來る。有爲であることが、それ自體、無爲であつたのである。然し、有爲がそれ自體、無爲であつたということは、意識し、経験に上

ることではあり得ない。即ちこれは単なる自覺反省であつてはならない。即ち意識を意識することが、自覺であり、反省であつた。これは、意識が意識を追うことで、意識されたもの

も意識である、これでは超えるどころか、全く循環を脱することはあり得ない。故に、常識的人格的反省には限界があると言わなければならない。何故ならば、この有爲はどこまで

延長しても循環でこそあれ超えるということはあり得ないからである。たとえ超えたという自覺はあつても、それは意識されたもので、忽然念起の意識であつて、有爲法でこそあれ、

無爲ではない。まして、この自覺を體験として持ち続けるに於ては、それは回想に生きているに過ぎない。

無爲は単に常識的自覺と反省の對照であつてはならない。却つて、そこには絶對に超えることのない有爲が、その有爲であることそれ自體、無爲の活動に外ならなかつた。故に、

超えるということは、外に超えることではなく、内に超えることでなければならないのである。これを「心外無法」と我々は言い慣わしている。有爲を有爲と自覺すると否とに拘ら

ず有爲であること、それが無爲である。有爲が有爲であること、それが無爲である。有爲が有爲であること自體、それ自體を超えているということは、意識的自覺にはあり得ないか

ら、意識的生活の人間には縁のあることではない。何故ならば、彼等は意識的生活にのみ明け暮れしているからである。

かかる性格である有爲の根本構造を考えて見る。この意識生活々動の構造は、古い表現によるならば、能取、所取の對立であつた。現實に生きて、意識生活を続けるに於ては、こ

の對立を脱することは出來ない。然し、「能所似分非隔別法こ」(『信心銘夜塘水』巻上) という古語にもあるように、能取、所取は単なる論理的對立ではない。對立それが意識活動である。自覺もこの對立するところに起る。覺するもののないところに自覺はない。その對立は念滅であり、無所有であり、「起而即謝」(「大正蔵」三一・七八七中)するものであるとは、世親菩薩の『佛性論』縁起分の指摘するところであつた。

日常、自覺、即ち、自己というものへの意識を、更に一歩堀り下げて見る時、その意識的なものは、本來、無意識的活動に外ならなかつたことになる。自覺は我々の行爲の意志的活動が始まつてより以後の問題であつた。然し、意志するそのこと自體は、何物かによりて意志されて意志したものではなかつた。即ちそれは無意志的であり、無意識的な活動であつ

たのである。故に我々は、日常、自己の意志することを疑うということはなかつた。即ち、これを疑わないでいられるというのが常識の生活であつた。疑うということは、對立があ

つてこそ疑うのである。即ち、疑うことがないということは、對立がないということである。

對立がないということは、無意識であるということである。即ち、そこには、意識しようとしても、意識すべき契機が存在しないからである。意識しようとしても、意識することの

出來ない無意識は、意識を超えたものであるが故に、我々の経験以前の事實である。無意識には生活現象はない、勿論それには意志的行爲のあらう筈はないから無因縁である。從つ

て、そこには、凡そ人間的な努力が存しないから不生不滅である。即ち、これが無爲法でなければならない。「無爲法、名無因縁、常不生不滅、如虚室」(『大智大論』三一「大正蔵」二五・二八八下)) とは、よくこれを言い表わしている。

無意識は、我々が努力して到着し得るものではない。また経験し得られるものでないことは言うまでもないことである。佛者は、それ故に意識的生活を堀り下げて、内へ超える方

向に努力しなければならなかつた。その努力が、幾く變遷かを経て到着したのが、唯識家になる阿頼耶識論理の創始であつた。故に阿頼耶識は論理的必然のもたらした、意識體であ

るから、最後的には止揚されて、無爲法に超えられるべき契機になつている。また、これが必しも阿頼耶識の型をとらない他の論理であつても差し障りはない。然るに、中世以降かかる性格が忘却され、兎角、絶對視され、論理的にも、心理的にも細分析され、抽象となり、更にその異議論事は論事を喚んで、煩瑣を増し、膨大なる末繹は末繹を重ねて、ますますその帰趨を晦澁に導いたことは、遺憾なことである。さりとは言え、佛者は、この論理を馳つて有爲法の精細な分析的理解に達し、無爲法へ超える契機を明確にしたことは確かである。故に、抽象に堕し、細密分析に進んだとは言え、本來的な意味に於いては、唯識創始者以上の論理的進展は得られなかつたと言えると思う。

有爲法を分析解明することによつて、無爲への超越契機を明確にした阿頼耶識論理は、因縁性の徹底的解明分析を本務とした。ために、その解明分析の終始は、却つて、因縁性の

本來無意識的なものへの超越契機を明確にするどころか、その努力を削ぐ危瞼のあつたのも當然である。故に、必ず、三性三無性論理は阿頼耶識論に続き、それに基礎づけられるこ

とによつて成立するのであつた。

   三

我々の意識的世界は、一分二分三分四分、種々に論ぜられるとしても、「是諸識轉變、分別所分別」(『唯識三十頒』)(「大正蔵」三一・六一上) にもあるように、原本的な分別・所分別、即ち能取・所取の對立を、本來的構造としている。この對立そのものが、諸識の轉變即ちその時の生活活動であつて、発生的に見るならば因縁和合である。この因縁和合は、現實的には作爲であり、行爲である。この因縁和合そのものは本來「無何所因起」であり、「忽然念起」で、意志的ではなかつた。それが作爲的意志的であるというのは、その因縁和合の活動様相がそれだというのであつて、そのものは無意識的であつたのである。即ち、その因縁和合は、『大智度論』「有爲法名因縁和合生。所謂、五衆十二入・十八界等」(三十一巻)((「大正蔵」二五・二八八下) にもある如く、現實的には對立關係、意志的活動として現成し、具體的な有爲法の諸問題を展開させるのである。

かくて本來、對立を構造とする因縁和合は、有爲法として色々の事象を展開し、その中で我々は自己の生活活動を営むのである。然し、この生活活動は我々にとつては、嚴然たる

事實である。この嚴然たる事實に直面した我々は、存在という問題に撞着しなければならなかつた。即ち、有無は、對立の必然が生んだものだつた。然しながら、有無は単なる概念

ではなく、我々には生活の事實として、常にこれによつて、我々の生活は限定されていなければならない。故に、生活者には、有無は単なる對立的な問題ではなく、生活を成立させ

る契機であつた。

如何にしてこれらが生活の契機となるのであろうか。有・無は必ず、「何物」かの存在に連らなければならない。然も、その存在するものは、生活者には對象事實であるから、必ず

決定性が要求されなければならない。そして、ここにこの存在するものに自性という概念の問題が起つて來る。『中論』第十五品の「Svabhava-pariksa」(自性の考察) が漢訳 (羅什) で

は有無品となつているのは、非常に意味深いことと言わなければならない。

斯くて誕生した自性の問題が、やがて、形而上學的な問題へ発達する契機をなすものである。有爲の終着駅は形而上學的問題である。佛教以外の一般宗教は、ここに開花する。然

し有爲を超えて無爲へ努力する佛者には、これに安住することは許さないのである。

自性は、存在關係に於いて、基本的概念となり、存在を決定づけることによつて、生活を成立させるのである。生活活動を営むものには、この自性は、必然的な要請でなければなら

なかつた。然し、自性はただ因縁和合の有無が生んだ事項では濟まされず、生れたものは、對立者として、生んだものに對する道理によつて、生活者は却つて、自性から限定された。

自性は生活者を限定することによつて自性性とでも言うべきものを確實にした。そして生活者はこれに奉仕し、趙州和伺の語によれば、これは「被十二時使」(『趙州録』「続蔵」六八・七八上)と言わなければならない。然し、これを超えて「使得十二時」の立揚へ轉換しなければならないというのが佛者趙州であつたことは申すまでもないことである。

自性は、所詮、因縁和合に於ける必然的一事象以上ではなかつた。因縁そのものは、本より我々の経験以前、意識以前の無爲の原理であつた。この本源的な無爲の立場に立つのでな

ければ、佛者は、自性の限定を脱することは出來ない。

然し自性は生活への契機として、どこまでも我々はこれに限定されなければならない。何故に限定されなければならないか。またここで、前記した『中論疏』の一文に答を仰がなければならない。「問、衆生何因縁故起有無見。答、 (中略) 一切衆生唯有愛見」とある、一「切衆生唯有愛見」に我々はこの解答が頂けると思う。即ち「愛見」は生活意欲であり、意欲的生活者が一切衆生であつた。これが因縁和合の現實的姿であり、生活するものの實相である。その愛見の根本契機をなすものが「自性」である。「愛見」は、現實的には個性的である。これは、「自性」を形成し、そしてそれから限定されるのである。即ち、自己を自性の活動としたのである。『無量義経』、『法華経』方便品等に、ごれを「性欲」といつたのは、適切な表現である。「愛見」は、途に自性を活動させてしまつた。活動を開始した自性は、「若人見有無見自性他性、如是則不見佛法眞實義」 (『中論』三)(「大正蔵」三〇・二〇上)に指摘されるまでもなく、我法二執の問題を発展させていつた。

前に嚴密なる意味に於ける「性」という概念について既に論じて來たので、今更、繰り返すまでもないが、要するに我々の人間生活よりは不可得であり、對立を超えて無性でなければならなかつた。然し、これに對して日常の生活々動にあつては、對象の存在物が不可欠であり、存在性はどこまでも確保されていなければならなかつた。そこで、當然、要請されるものが、その物の本質、即ち自性であつたことは既に考察し來つたところである。この要請は一般的にではなくて、個別的・個性的なものであつた。然もこの要請に何の疑いも持たれないところに、日常生活があり、そこに、我々は個性的な生活を営むのである。この生活が個性的であるのは、それが「性欲」に契機しているからである。性欲の個性活動は、意志的であるから、有目的的自己形成であつた。この有目的的であるということが、有爲法の核心であつたのである。

救濟・解脱等々を目指す一般宗教も、人闇の本來からなる性欲による必然の人聞の要求であつた。然しこれらが如何に目的が達せられたとしても、本來有目的的であるという意

味で有爲を超えたものではない。最後的なものに達し得られると言うには、宗教独特の奇特玄妙の無理が行われていなければならない。何故ならば、目的の彼方に絶對が存在するの

ではないからである。また、それが達せられるものであるならば、それは絶對ではあり得ないのである。性欲活動のある限り、有目的的であり、その停止は死である。常に有目的的

であるところに終着駅はない。然し我々の感情は、この限りなき流轉に堪えられない故に、絶對的なものへの要求は、却つて情的方向に偏執をもたらすのが一般である。宗教が兎

角、超現實的魔術的であるのも、有爲の限界を情的偏執に逃避させた無理のしからしむるところと言わなければなちないであらう。そこには、絶對へ、即ち、無爲への超越の道が全

く存しないからである。

   四

ここに我々は、『中論』の次の偈の「世間性」の語に注目ぜざるを得ない。「如來所有性、即是世間性、如來無有性、世間亦無性」(「大正蔵」三〇・三一上))。我々が有目的的な性欲の性格に從つて、その求める方向に、ただ進むのであるならば、情的偏執によつて、超越の感覺に憩うことはあり得る。然しそれは流轉輪廻の一駒ではあつても、永遠に有目的的であることを超えることは出來ない。即ち生活の方向を押し進めるに於いては超越はない。所有の性、即ち、存在するところの性は、それは自性であり、自性のあるところ個性的であつて、それは性欲であつた。性欲のあるところ、流轉輪廻の循環であつて、超越はない。これが世間性というのであつた。

大乗論部の破執分の論理の中心が、かかる自性を否定することを努力して來たことは、周知のところである。元來、存在は因縁和合の意志活動に契機したものであつた。日常は、この有無に限定されて生活し、然も、この限定されているそのことに一片の疑念をも懐くことのない。「十二時」に使われている世間性を指摘して、古人は斯病既深 (『中論疏』十四)(「大正蔵」四二・一一一中) と言つてその深さを慨いている。然しこの存在を超えることによ

る外には斯病から逃るる道は存しない。その存在を超えるということは、如何なることであるか。存在は意欲的なものをその根本契機としていることは、又繰り返すまでもないことで

あろう。この意欲的なものは、元來、無意志的、無意識的であつたのである。無意識的ということは、経験や自覺にはあり得ないことではなかつた。経験され自覚されるものである

ならそれは無意識ではない。この無意識的ということは、意識を否定して得られるものではないことは、言うまでもないとで、故に、これを古人は「不可得」といつた。

この存在そのものた超える不可得は、存在を存在せしめるというような、「を」の助詞が用いられるようなものであつてはならない。故に「心不可得のことばをききて、心あるべき

にあらずとばかりおもひて、かくのごとくとふにてあるらんとおぼゆ」(「心不可得」)にもあるように「あるべきにあらずと」と解してはならないという『正法眼藏』「心不可得」の巻の不可得の解釋は、此處において頂いておかねばならない。「不可得」は、意識や経験

を超え、生活活動を止揚して、ただあるがままにあることでなければならない。これは、生活に努力することではなく、また斯くならんと努めるということでもない。ここにあらゆ

る生活的なもの、あらゆる有目的的なものを止揚することが現成する。即ち、或る事を斯くすることによつてというような、方法によつた現成ではなく、斯くあることが、現成であ

るのでなければならない。

これが、存在以前、存在を超えているという意味で、「無性」と言われている。故に『中論』で「如來無性」と言つていることが理解されると思う。斯く考察し來るとき、佛道の無所得無所悟の性格の眞實が理解されるのではなかろうか。

故に、この無性は、観念でも、概念でも、思想でもないし、また、その體験を他に物語れるものでもあつてはならない。凡そ、それが我々の自覺の上に現成し、そのものに就い

て語られるようなものであるならば、これは逆戻りして、生活に堕し、全く超越ではあり得ない。ここに、古來の多くの佛學者の常に、不知不識の間に犯している誤謬の陥穽があつ

た。即ち無性は、ただ生活を止揚して、あるがままの行に現成するのであつた。斯くて、自性を止揚することによらなければ、無爲法はあり得ない。

一般的に、有無に絡始する生活を、『中論疏』では、「戯論」といい、「中道を障ふ」(「大正蔵」四二・一三中)といつた。これは、餘りにも現實を罵倒し、侮蔑するように感ぜしめることであろう。然し、好むと好まざるとに拘らず性欲の限りなき流轉輪廻の執拗な循環に

明け暮れし、古人をして、「斯病既深」と慨せずにはおかなかつた、この現實を、超越せんとする揚聲止響であり、その激しさは人間性の深重を物語るものである。

「顛倒見者、執法有性、不見寂滅。不見寂滅故、不能遠離虚妄分別」(『大乗入楞伽経』五) (「大正蔵」一六・六一六下)は、以上、葛藤に葛藤を加え來つた論旨を結ぶによい語であると思う。不寂滅の契機である性を止揚し、知覺や経験を超え、我々と縁のない不可

得・寂滅の佛者自身の立揚を我々に明確ならしめ、更に我々をそれに導入するものがなければならない。その要請に應えたものが、佛性であつたのである。勿論、これは佛の本質で

あるのではなく、無性が佛性でなければならないのは當然である。この佛性によりて、上來の佛者の立場がより具體的に、より明確にされたのである。故に、この語が後期大乗経

典になつて明確になつたのも、史的発展もさることながら、蹄結すべき理の當然であつたと言うべきである。

故に、佛性は有無を超え、存在を止揚し、自性を否定し、「非因非果、名爲佛性」(『大般涅槃経』二七)(「大正蔵」一二・五二四上) と言われなければならなかつた。一般的な生活を超えて、経験も、智覺もなし得ないものなるが故に、古來、その性格論争が賑つたのも、その性格のしからしむるところである。「佛性者名爲第一義」(「大正蔵」一二・五二三中)

は餘りにも有名な定義になつている。第一義空は智慧であると続けて註することを忘れられてはいない。それに對して、「二室所顯眞如」と註する『佛性論』(「大正蔵」三一・七八七中)も、何れも概念を超えて、行に現成しなければならない契機を、示唆していることを見失つてはならない。不可得なる性空が、佛性という表現を持つたとき、大乗の行がより具體的となつた。それが「一切衆生悉有佛性」であつたのである。

生活を超えなければならない佛性は、「如是佛性、唯佛能知。非諸聲聞縁覺所及」(『大般涅槃経』八「大正蔵」一二・四一二中) といわれ、これが大乗佛者の常套語として膾炙されて、とかく、善善の臭の機縁とはなつた。然し「若得成就阿耨多羅三貌三菩提爾乃証知」

(『同巻』七「大正蔵」一二・四〇八下) の片言は光を放つて、道元禅師をして、「佛性の道理は、佛性は成佛よりさきに具足せるにあらず、成佛よりのちに具足するなり、佛性かならず成佛と同参する」(『正法眼蔵』「仏性」)にまで到達せしめた。天桂和尚は「是故、成正覺後是謂佛性」と極言した。然し、斯くなつた時、大乗佛教は、具體的な行に発展し、浄土門の念佛行・禅門の只管打坐に具現していつたのである。

以上、存在から出発して、佛性を要請するまで論理を辿つみたのである。更に佛性の行への具現が、次に残された問題である。

 

「印度学仏教学研究 4(2), 351-360, 1956-03」より抜書(一部改変)

 

これは二谷がpdfからワード化したものであり、出典などはsat(「大正蔵テキストデータベース」)を援用したものであり、旧漢字と新漢字の混用など雑な作業になってしまい謝する次第である。 猶これは小拙の酒井先生に対する報(法)恩の一環である事を記す。

佛性と時節  酒井得元

佛性と時節  酒井得元

佛性は、佛教を學ぶものの、先ず第一に問題としなければならぬことで、この性格を明確にすることが、その人の佛道の方向を明確にする。故に、古來、立教開宗の祖と言われる人達には、それぞれの佛性論がものされて來た。そもそも佛性というものは、『涅槃經』の中において我々は至れり盡せりの提唱を聞かされている。結局、それは「佛性者不可思議、乃是諸佛如來境界、非諸聲聞縁覺所知、善男子佛性者非陰界入、非本無今有非己有還無、從善因,縁、衆生得見」(「大正藏」十二・五二六) と云われているように、即ち、本無今有、己有還無に非ざる佛境界が佛性であつた。それが佛境界である以上、凡夫・二乗の全く知るところでないが、善因縁による時、衆生の上にもこれは現成するのであつた。善因縁とは如

何なるものであるか。「首楞厳三昧力故能得二明了一」(「大正蔵」十二・五二五中)によつて善因縁が首樗嚴三昧であることがわかつた。

然らば、その首楞厳三昧とは如何なるものであるのか、「首楞者名一切畢竟、嚴者名堅、一切畢竟、而得堅固名首楞嚴、以是故言首楞嚴、定名爲佛性」(大正十二、五二五)といつている。結局一切畢寛である首楞嚴定はあらゆる事實の根柢である。その根柢であるという意味において永遠に不變でなければならない。即ち、あらゆるものの根柢は、観測を超越し、獨立を絶した他物のない、一として、絶對でなければならない。故に、この絶對を「一切諸法性本自空、、何以故、一切法不可得故」(「大正蔵」十二・五一五)といつて不可得で表現した。またこれを空といつたのである。故に、「汝言見空空是無爲中何所見、善男子、如是如是、菩薩摩詞薩實無所説、無所見者即無所有、無所有即一切法。」(「大正蔵」十二・五二一中)といつているのは當然である。即ち、空が無所見無所有であるのは當然である。然も

それは、観念としてではなく、一切法として現實の事實であつたのである。この一切法は他に観測者を持ないものなるが故に、「菩薩摩詞薩修大涅槃、於一切法悉無所見」(「大正蔵」十二・五二一中)と言われなければならなかつたのである。もし、所見所有が存するならば「若有見者、不見佛性」(「大正蔵」十二・五二一中) であつたのである。然らば、ここで言うところの無所見ということは、一體、如何なることであるか。そんなことが實際にあり得ることであろうかと疑を持ないではおられないことであろう。「慧眼見故不得明了。佛眼見故得明了」(「大正蔵」十二・五二七下)とあれば、この無所見のところが佛眼見であり、これが「於一切法悉無所見」であつた。

斯樣な無所見であつても、畢竟、これは經験上の事實ではない。故に、斯樣な表現の仕方が用いられて來た。無所見、無所有、一切法が同義語にとかれて來ているのは注目しなければならない。即ち、一切法の根本的性格が斯樣なものであつたのである。観測者を他に持ないのが一切法であつて見れば、その性格は經験の上には全く無縁であるのは當然である。人は經験を越えたものと言えばすぐ神秘的なものを豫想する。然し神秘はどこまでも經験内のことである。勿論、これが観念的に考えられたり、憧れの對象となるものであつてはならないことは論を俟ない。かくて私達は、無所有無所見に思惟的なもの一切を止揚して、自己を處せざるを得ない。無所有無所見ということは結局観測的な自己を止めて、一切法の中に沈潜することである。これを『佛性論』は「堪然常任、無生故説寂、無滅故説静」(「大正蔵」三一・八〇二下)と表現した。凡そ何かを求めて止まない人間が一切の人間的営みを止揚するとあつては、この現實をどうしようというのかという問題にぶつかるが、どうなるということもない、かくあることがまた現實である。如何なる生活型態にあるとしても、現實に

は變りはない。

かくて大乗佛者の立場が自ら判りとして來なければならない。十二因縁に對しても、即ち彼等には、これは輩なる現實の分析に止まるものではない。現實はそのままにして、有爲法であつた縁起は無爲法にまで高められ、観測者の立場から、その中に沈潜する、かくしてこの因縁は絶對となる。かくて『涅槃經』は「十二因縁其義甚深、無知無見不可思惟、乃是諸佛菩薩」(「大正蔵」十二・五二四上)といつているのである。頑強なる佛性未具足の衆生が如何にしたらば、佛性具足たり得るであろうか。ここで「欲見佛性、應當観察、時節形色」(「大正蔵」十二・五三二上) にこの解答を得ることが出來る。即ち具體的に首楞厳三昧を學ぶことが出來るのである。「時節形色」は、現實の一切法の姿である。此を観察せよとあつても、これは一切法なるが故に観測の場はなかつた。欲見佛性の我々は、ここで、如何にしても解決出來ない、所謂、難解難入に當面するのである。元來、無所見、無所有であつた佛性にあつて、人間の解決のあり得る筈はない。却つて難解難入こそ眞實であり、佛性の現成に外ならなかつたのである。然らば、凡夫人は如何がしたらよいのか。「夫出家人但随時

及笛使得、寒即寒熱即熱、欲知佛性義、當観時節因縁。但守分随時過好」(五灯會元十巻)の法眼文益の言葉によつて蘇生の思いをさせられるのである。守分随時の生活の営みが「色上に非色の解を作すことなかれ、また色の解をなすことなかれ」によつてより佛性ははつきりするのである。

 

「印度學佛教學研究 6(2), 441-442, 1958」より抜書(一部改変)

 

これは二谷がpdfからワード化したものであり、出典などはsat(「大正蔵テキストデータベース」)を援用したものであり、旧漢字と新漢字の混用など雑な作業になってしまい謝する次第である。 猶これは小拙の酒井先生に対する報(法)恩の一環である事を記す。

法界の論理的考察 酒井得元

法界の論理的考察 酒井得元

論理は思索の軌道である。論理に導かれて思索進むのか、それとも思索が論理を生むのか、その邊のことを考えるのは徒勢である。何故ならば、思索は論理を媒介としなければあり得ないが同時に、その思索が論理を生む。故に思索と論理とは別物でないが、同一ではない。結局、これは生活形成途上の必然的生活現象である。故にその形成は獨特の論理を生み各人各様のものがあるのも不思議はない。即ち論理はこの意味において形成的である以前に個性的である。思索が生きものであると同様に論理も生きものでなければならない。故に形式化され固定化されたものは、論理式ではあつても、嚴密な意味においては論理ではない。

然らばここで佛教者にも、それ自身の論理が個性的に存在していなければならない。これが個性的であるが故に、種々雑多のものがあるのも當然である。これを一々取り上げて考察することは非常に意味あることではあるにしても、余りにも困難なことである。然し、大乗佛教者のそれらの中には一貫したあるものがあることは、誰しも認めるに吝(やぶさ)かではないであろう。ここで私が採り上げようとする法界もそれで、これも斯様な意味に於いて重要な論理である。

つまりここで法界の意味性格を判明させることが大乗佛教の大乗たる所以の一端を明かにすることになる。『大乗起信論』の「心眞如者、即是一法界大総相法門體」(「大正蔵」三二・五七六上)とある言葉を手掛りに考察を進めることにする。ここでは「心眞如」の實態が法界の全體そのものである。そこで先ず「心眞如」という概念にぶつかる。一體、私達はこれを如何に理解したらよいのか。また「心」とは何かということに當面する。とにかく同じ『起信論』にその答えを求めることにする。「所言法者、謂衆生心。是心則攝、一切世間出世間法。依於此心顕示不摩詞衍義」(「同上」五七五下)にある「心」がこの解答になつている。即 ちここでは法は衆生心とある。この法の概念を考察して見なければならない。

古來、法は色々に解されてはいるが、結局、周知の通り軌持(『成唯識論』「大正蔵」三一・一上)ということになつている。今日の我々の常識は、これを「存在」といつた意味に解している。それならば、「存在が衆生心」といつた意味に無媒介になり得るものだろうか。一體、存在という揚合は、何がそれを存在と認めるのか、あるいは、それが別に認められなくても、存在は何處までも存在であり得るのか。存在ということは、単に「そこにおいてあるもの」といつたものではない、それは考えられたことで我々の現實を限定しているものとしての存在ではない。存在は我々の生活における必然的な條件でなければならない。即ちそれは「何々がそこにある」ということでなければならない。そしてその條件によつて生活は形成されるのである。その生活形成の必然的條件としての存在の役割は常に所縁の立揚にあるということである。即ちそれは意識關係にあるということである。故に意識關係にない存在などあり得ない。

存在は常に我々とは能所の關係にあり、如何なる揚合であつても所縁である以外にはあり得ない。また我々とても、能縁である以外はあり得ない。故にこの能所關係は絶對的で、

如何ともなし得ないし、何物からも絶對に超越されることはない。ところが能所の關係にあつては主動的位置は常に能縁であると考えられている。そして所縁はいつでも能縁を中心

としてあり得ていると考えられるのであり、この揚合には所縁は能縁に常に従属關係にあるということになる。こんな關係を「法は衆生心」といつたのであろうか。従属關係にある

ならばその對立は絶對ではない。この對立は何處までも對立であり、一方は他を限定するものでなければならない。

然らば「心外無有物、物無心亦無、以解二無故、善住眞法界」(『大乗荘嚴経論』第二眞實品) (「大正蔵」三一・五九九上)と言われているのは一膿どうしたというのであろうか。こごで能縁、所縁の關係を追求し、私達は何故にこの關係をもたなければならないかを考えて見なければならない。

「不覚而起、能見能現、能取境界、起念相続」(「大正蔵」三二・五七七中)と『起信論』は言つているが、この「不覚而起」ということに問題の鍵がある。そこで不覚ということを當面の私達の問題としよう。この不覚は意識活動の発生の様相をいつている即ち、これが心生滅の様相であつた。これは我々が生命活動の可能性に催されてなし得ている生活々動である。即ちこの邊のニュアンスを不覚といつたのである。そしてこれを「依如來藏故有生滅心」(「同上」五七六中)といつている。つまり、これはこの心生滅は我々の本質的な問題であつた。言い換えればこれは我々の生命活動の様相であつたのである。即ちそれが「能見能現、能取境界」といつた活動であつたのである。かくて我々の能縁所縁の關係は生活々動の軌道であつた。生活を営む限りは、この将外であるというわけにはいかない。即ちそれが

「依如來藏」であつたというのである。

ここで法藏が『大乗起信論義記』で「挙體動」(「大正蔵」四四・二五四下)と説明したとに注目したい。これによりて「依如來藏」の具體的な姿を知ることが出來ると同時に、如來藏そのものの相を現實に把握することが出來る。即ちこの「挙體動」は生命活動の實態であるからである。この挙體動はある意志的主體的なものがあつて、その意志するところに從つて動くというものであるならば、「挙體動」ではない。意志するものなくして、無始無終に動ずるのでなければならない、故に挙體動は生活活動ではない。故に生滅心ではない挙體動によつて生活々動が催されるところに生滅心が活動して能縁し所縁する。故に我々はこの「挙體動」を所縁とすることは出來ない。我々の意識生活は、かくて「不覚而起」つた能縁所縁關係の限界内の出來事に過ぎない。そしてこの能所の對立が生活するものには必然的なことではあつても、挙體動中の一駒であつたのである。能所の對立が必然的である限り、我々はこの對立を超えることは全く不可能事である。この絶對に超えることが出來ないところを「不如實知眞如法一故」(「大正蔵」三二・五七七上)と言い、そして生活々動の活動を「不覚心起(「同上」)と読明したのである。

斯様にして不覚而起り、「能見能現、能境界、起念相続」する我々の生命活動が、現實的には能縁所縁の生活關係を現出した。我々の自我の自覚もこの生活關係によつて生れたも

のであつた。その自我の自覚は主動的な能縁の側に立つてこそ、起り得たものである、斯様な自我を中心にしたものの考え方をするときに、依報正報といつた考え方も自然に起つて

來たのである。然し、挙體動の本來の立揚にあつては、正依の差別もその一動に過ぎず、能所對立に於ての主動的なものはあり得ない。不覚にして起つて「不如實知眞如一」であるが故に對立し、自我の自覚によつて主動的立場に立つところに却つて能縁所縁の對立も到りする。もしここに主動的なものがないならば、この對立の自覚が起る余地はない。對立の自覚があるときは必然的に活動は目的的であり、意志的であつても、しからざる揚合はその對立は對立の自覚を伴わないばかりでなく無目的的である。一方、挙體動は何かを目的に持つものではないので、意欲的ではない。故にこれを無所得といい、無念無相といつた。かくては我々はこの挙體動への道を現實的に開くことが出來るのである。

我々の生活には行相のない動はない、そしてその行相は必ず形成的であり有目的的である。然もその行相は必ず所縁能縁の關係の上に形成されている。即ち對立の場に於て形成さ

れている、その對立はそれ自體、有目的でも意志的でもなかつた、即ち對立そのものが挙體動につらなり、挙體動の場においてあつたのである。故にどんな形態も、どんな一動も、挙體のそれでなければならなかつた。能縁所縁はその場に於いてあるものであり、その對立關係は根源的な立揚にあつては絶對の顯現であつたのである。

此處に於いて、いつも所縁の立場にある存在というものを考えて見たい。この存在することは行相としてあるということである。即ちそれは所縁されているということである。この行相として、所縁されているということを「軌範、可生物解こ(『成唯識論述記』「大正蔵」四三・二三九下)といつている。更にそれが所縁されているということは、能縁と對立して、却つて能縁を限定する、これが「任持、不捨自性」(「同上」)であつたのである。また「法者是持自性義」(『佛地経論』「大正蔵」二六・三〇一中) ともいつているのもそれである。

かくて存在性ということが確立して、我々は物というものを把握するのである。古來の法の定義「軌持」に佛教者の透徹せる存在論を見ることも出來る。かく考えられる軌持としての法は能縁所縁の關係に於いての存在であり、これ以外には存在はあり得なかつた。即ち生活々動するところに存在はあり得たのである。存在によつて却つて我々の生活そのものが形成されるのである。即ち、それが行相であつたのである。

我々は法は「衆生心」と教えられているが、この衆生心を如何に考えたものか。「心性常無念、故名爲不變」(「大正蔵」三二・五七七下)と『起信論』で言うこの心は、衆生心の心と一體どうつなぐべきか。この心性の不變は『義記』によればこれを「雖挙體動、而本來静故云常無念」(「大正蔵」四四・二六七上)といつている。一方衆生心の概念を考察して見るに、『大乗起信論筆削記』(「大正蔵」四四・三二六上)に「衆生即能依、心即所依、所依體從能依、以彰名」とある。即ち衆生は心に依存するのであり、心は挙體動において不變であつた。ここでは能依所依の對立は對立ではない。衆生は挙體動の中に於いて生きている衆

生であつたのである。これを『筆削記』が能依所依で説明したのである。かかる意味における衆生の所依の心こそ無念の心性であつたのである。能縁所縁の對立に生活する衆生にとつては彼等の所依である無念の心性は決して所縁となるものではない、また衆生を能縁することはない。この挙體動の無念の心性には能縁所縁の對立は存在しない。かくて「三界唯一心」の意味も理解されなければならない。

衆生心とは言つて見るならば、挙體動の實態であり、またこの挙體動が「無念の心性」の實態であつた。この無念の心性は決して能縁所縁となるものではないし、また存在以前の事實である。即ち、存在を存在せしめるものである。かくて衆生心法の因であり、界は因の意で此れを法界といつた。この法界が挙體動の心性であつた。然しかような心がただ存在以

前であうて我々の観念上の結論であるならばそれを、本來寂静、無念無相というても観念の所造で あつて有念有相に堕在する。ただ事もなく現在ありえている事實こそ、却つて衆生

心の實態にふれる。かく考察する時、「心外無有物、物無心亦無、以解二無故、善住眞法界」がものされ、法界の論理的究明は大乗佛教の論理核心にふれるものと言わなければならな

い。

 

「印度学仏教学研究 7(1), 123-126, 1958-12」より抜書(一部改変)

 

これは二谷がpdfからワード化したものであり、出典などはsat(「大正蔵テキストデータベース」)を援用したものであり、旧漢字と新漢字の混用など雑な作業になってしまい謝する次第である。 猶これは小拙の酒井先生に対する報(法)恩の一環である事を記す。