正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵第九 古仏心 註解(聞書・抄)

詮慧・経豪 正法眼蔵第九 古仏心 註解(聞書・抄)

祖宗の嗣法するところ、七仏より曹谿にいたるまで四十祖なり。曹谿より七仏にいたるまで四十仏なり。七仏ともに向上向下の功徳あるがゆゑに、曹谿にいたり七仏にいたる。曹谿に向上向下の功徳あるがゆゑに、七仏より正伝し、曹谿より正伝し、後仏に正伝す。ただ前後のみにあらず。

釈迦牟尼仏のとき十方諸仏あり。青原のとき南嶽あり、南嶽のとき青原あり。乃至石頭のとき江西あり。あひ罣礙せざるは不礙にあらざるべし。かくのごとくの功徳あること参究すべきなり。

詮慧

〇一句を聞き万句を悟ると云う、是頓機也、浅きより深きに至る、是漸機なり。今の嗣法の様にて七十五帖の正法眼蔵を明らむべし、何れの句も当たらずと云う事なし。

〇「罣礙せざるは不礙にあらざるべし」と云うは、せざると云うも不礙にあらざるべしと云うも、只同じ詞の理と聞こゆれども、さにはあらず。礙と云う詞を世間の如くには不心得して云う時、如此いわるべし。非順逆・非縦横(の)謂われを説くが、不礙にあらざるべしと心得らるる也。その本意は又古仏心の道理也。「七仏より曹谿にいたるまで四十祖なり、曹谿より七仏にいたるまで四十仏也」と云う心地は、縦に仰せて説く詞と聞こゆ。「釈迦牟尼仏の時十方諸仏あり。青原の時南嶽あり」などと説くは、横を表すとぞ教家には云うべき。必ずしも然にはあらざるべし、向上向下の功徳は、順逆にも拘わらず、前後にも滞らざるべし。たとえば心より身に至り、光明より国土に到るなどと云わんが如し、これ縦横に関わるべし。

経豪

  • 「七仏を祖と云い、曹谿より祖師を四十仏と云う」事(は)頗る逆に聞こゆ。但仏祖の皮肉の所通、汝得吾皮肉骨髄の上は、旧見を破せんが為にも、此の詞(は)大切也とも云いつべし。又「向上向下」の詞(は)、向上は上を指し、向下は下を指すと聞こえたり。しかにはあらず、以仏祖向上向下と仕う也、更(に)上下に対したる詞にあらず。この四十仏・四十祖の落居する処、只一仏一祖なり。此の時は向上向下の詞、夢々上下に対したりと不可心得。以一仏一祖向上向下と心得べき道理顕然なり。
  • 又「釈迦牟尼仏のとき十方諸仏あり―」。是は釈迦の時も十方諸仏あれども、あい罣礙せず。「青原のと時南嶽・乃至石頭の時江西あれども」、共にあい罣礙せざる証拠に被引也。是は釈迦牟尼仏与十方諸仏一体なる故、青原・南嶽・石頭・江西等皮肉通ずる所を、顕わさん料也と可心得、又罣礙すと云う道理も有るべき歟。青原の時、南嶽あい習わざる道理を以て、罣礙すとも可云歟。

 

向来の四十位の仏祖、ともにこれ古仏なりといへども、心あり身あり、光明あり国土あり、過去久矣あり、未曾過去あり。たとひ過去なりとも、たとひ過去久矣なりとも、おなじくこれ古仏の功徳なるべし。

古仏の道参学するは、古仏の道を証するなり。代々の古仏なり。いはゆる古仏は、新古の古に一斉なりといへども、さらに古今を超出せり、古今に正直なり。

詮慧

〇「過去久矣」と云うは、今日より先を指すまでは久矣にあらず。いま「未曾過去」と説くこそ、如終久近に脱落なれ。

経豪

  • 此の詞、打ち任せたる吾我に仰せて「古仏なれども、心もあり身もあり、光明も具し国土もあり」と云う様に聞こゆ、非爾。以古仏心とも身とも光明とも国土とも過去久矣とも、未曾過去とも談ずるなり。凡見に不可類なり。
  • 古仏の道を参学する時分は学の位なり、更(に)証と難云。但「古仏の道を参学するが、やがて証にてあるなり」。証を外に待たざる故に、然者参学則証也。此の道理なる故に、「代々の古仏也」と被示也。此の古仏の古(は)、実に新古の古に不可一斉道、尤も其の謂いあり。新古の古は際(きわ)あるに似たり。まことに正直なる古今とは云うべけれ、其理尤顕然也。

 

先師いはく、与宏智古仏相見。はかりしりぬ、天童の屋裏に古仏あり、古仏の屋裏に天童あることを。

詮慧

〇これは新古の見を改たむる証據なるべし。今の釈迦をば新成妙覚遍照尊(『大方広仏華厳経』六「化度一切衆生海、今成妙覚遍照尊、毛孔之中出化雲」(「大正蔵」十・二六下)・『大日経疏鈔』「化度一切衆生海、今成妙覚遍照尊」(「大正蔵」六十・七七上)と云いて、新しき仏と云い、五百塵点劫のそのかみよりの仏を古仏と云う。これ顕本の本には近本遠本あり。五百塵点劫を遠本・無始無終と云い、如来久成の薩埵也。内秘菩薩行・外現是声聞(『法華経五百弟子品』「漸当令作仏、内秘菩薩行外現是声聞」(「大正蔵」九・二八上)と云えり。又今の大通智勝仏(「化城喩品」)を中間のとたてなんと詮ずる事には、すでに違(たが)いて今天童に坐する宏智を古仏と云いつる時は、日来心得たる新古の義には、超越する新古なるべし。新成の仏は方便、久遠実成の仏は実と談ず教の談也。又実者得道なし、皆是権化也。

経豪

  • 是は「宏智と相見す」とは、古仏与古仏、相見の道理を被述也。

 

圜悟禅師いはく、稽首曹谿真古仏。しるべし、釈迦牟尼仏より第三十三世はこれ古仏なりと稽首すべきなり。圜悟禅師に古仏の荘厳光明あるゆゑに、古仏と相見しきたるに、恁麼の礼拝あり。しかあればすなはち、曹谿の頭正尾正を草料して、古仏はかくのごとくの巴鼻あることをしるべきなり。この巴鼻あるは、これ古仏なり。

経豪

  • 圜悟(の)六祖を稽首の詞を被云。又釈尊より三十三世は古仏也と知るべし、不可有差別勝劣。圜悟を被讃なり。古仏なる故に、「恁麼の礼拝ある也」と被讃嘆なり。「曹谿の頭正尾正」とは、只六祖の有り様と云う心也。「巴鼻」も此の心地也。

 

疎山いはく、大庾嶺頭有古仏、放光射到此間。

しるべし、疎山すでに古仏と相見すといふことを。ほかに参尋すべからず。古仏の有処は大庾嶺頭なり。古仏にあらざる自己は古仏の出処をしるべからず。古仏の在処をしるは古仏なるべし。

詮慧

〇「古仏の在処を知るは、古仏なるべし」と云う。桃華のさとりの時、霊雲もさとり、竹響のさとる時、香厳もさとる。大地有情同時成道の時、仏もじょうすべし。

経豪

  • 「疎山」は洞山の悟本大師良价の弟子也。「大庾嶺」とは羅山法宝(全豁)大師事也、徳山孫弟子。是は因縁ある故に、此の詞を被書出也、其因縁在別。
  • 是も古仏与古仏相見の道理を被述也。実非古仏者古仏の在処を不可知なり。

 

雪峰いはく、趙州古仏。しるべし、趙州たとひ古仏なりとも、雪峰もし古仏の力量を分奉せられざらんは、古仏に奉覲する骨法を了達しがたからん。いまの行履は、古仏の加被によりて、古仏に参学するには、不答話の功夫あり。いはゆる雪峰老漢、大丈夫なり。古仏の家風および古仏の威儀は、古仏にあらざるには相似ならず、一等ならざるなり。

しかあれば、趙州の初中後善を参学して、古仏の寿量を参学すべし。

詮慧

〇所被の機縁とも云わず、今は衆生を不各別。皆令入仏道と体脱すれば、これが「仏の加被」にてある也。「仏の参学」にてもある也。

〇「不答」と云うも、如何是古仏心と云うに、牆壁瓦礫と云うは、答にてはなし。やがて古仏心を古仏心と云うにてある。時に不答なる也、是等の道を「不答話」とは云う也。

経豪

  • 是は雪峰もし古仏の力量なくば、趙州古仏と難云。「分奉」とは曹谿古仏の力を雪峰に及ぼす心地なり。又「古仏の加被」とは、雍護などと云う心也。「不答話の功夫」とは、是又雪峰の詞に不答話と云う事在之。其の因縁の詞を被引出也、其因縁別註也。
  • 是は前に曹谿の頭正尾正を草料して、古仏は如此の巴鼻なる事を可知也と、ありつる同心なるべし。「趙州の初中後善を参学して、古仏の寿量を参学すべし」とある也。前には頭正尾正・巴鼻などとあり、ここには寿量とあれども、只同じ心なるべし。

 

西京光宅寺大証国師は、曹谿の法嗣なり。人帝天帝おなじく恭敬尊重するところなり。まことに神丹国に見聞まれなるところなり。四代の帝師なるのみにあらず、皇帝てづからみづから車をひきて参内せしむ。いはんやまた帝釈宮の請をえて、はるかに上天す。諸天衆のなかにして、帝釈のために説法す。

国師因僧問、如何是古仏心。師云、牆壁瓦礫。いはゆる問処は、這頭得恁麼といひ、那頭得恁麼といふなり。この道得を挙して問処とせるなり。この問処、ひろく古今の道得となれり。

詮慧

〇また「問処に這頭那頭ありて、得恁麼と云われん」上は、問処這頭は古仏心なるべし、問処の那頭は牆壁瓦礫なるべし。如何又是也。得恁麼万般にわたるべし、是什物恁麽来と云うべきにあらず。何ぞ説似一物即不中ならん。

経豪

  • 是は無別子細、如文。国師を讃嘆(の)詞也。
  • 此の「如何」の詞、物をいかなるか是と云うは、数多(あまた)の物のある中に、いずれぞと云う詞にあたる。是は無其義、いかなるも古仏心と云う心也、古仏心ならぬ一法なき故に。仍ってこの「如何」の詞は、至極古仏心を説く詞なり。更非不審義故に、此の「如何」の詞はこれも如此、かれも此如と云う道理也。この道理を問処と云う也。仍って此の問処の道理が広く古今の道得となれるなり。凡そ此の「如何」の詞、祖師多被仕、此の詞(は)皆此心地なるべし。

 

このゆゑに、花開の万木百草、これ古仏の道得なり、古仏の問処なり。世界起の九山八海、これ古仏の日面月面なり、古仏の皮肉骨髄なり。

経豪

  • 是は「花開の百草乃至世界起」等、皆古仏也と云うなり。

 

さらに又古心の行仏なるあるべし、古心の証仏なるあるべし、古心の作仏なるあるべし。仏古の為心なるあるべし。古心といふは、心古なるがゆゑなり。心仏はかならず古なるべきがゆゑに。

詮慧

〇「古心の行仏なる有るべし、古心の証仏なる有るべし、古心の作仏なる有るべし」と云うは、古仏心と云う面々也、心仏及び衆生の心地なり。

経豪

  • 是は即心是仏を、心即是仏と互(いに)入れ違えて、いくらも被釈し同(じ)心地也。古仏心と云う詞共を一々被釈なり。所詮「古」も「仏」も「心」も無差別の故に、ともかくも此如云わるるに、無相違なり能々可了見也。

 

古心は椅子竹木なり。尽大地覓一箇会仏法人不可得なり。和尚喚這箇作甚麼なり。いまの時節因縁および塵刹虚空、ともに古心にあらずといふことなし。古心を保任する、古仏を保任する、一面目にして両頭保任なり、両頭画図なり。

詮慧

〇「尽大地覓一箇会仏法人不可得」と云うは、たとえば尽大地覓古心不可得、覓古仏不可得と云わんが如し。

〇「両頭画図」と云うは、古心古仏の図を云う也。

経豪 是は古き禅師の詞を被引出、此因縁別註之。

  • 「時節因縁・塵刹虚空」とは、尽十方界と云う心地なり、尽地尽界等と云うに同じ。「古心を保任する、古仏を保任する一面目」とは、心与仏総非別物所を一面目とは云う也。然而、又古心を保任し、古仏を保任すると云う詞の出でくる所が、「両頭保任」とも「両頭画図」とも、しばらく云わるるなり。

 

師いはく、牆壁瓦礫。いはゆる宗旨は、牆壁瓦礫にむかひて道取する一進あり、牆壁瓦礫なり。道出する一途あり、牆壁瓦礫の牆壁瓦礫の許裏に道著する一退あり。

詮慧

〇「作麽生是牆壁瓦礫」と云うは、仏に種々の仏あり。心に種々の心あり、牆壁瓦礫に種々の姿あるべしとなり。或一進・或一退、或一片・或半片とも云うべし。古仏心・牆壁瓦礫一なるべき故に。

経豪

  • 前には如何古仏心の詞を被釈、今は国師答の「牆壁瓦礫」の詞を被釈なり。僧の問の詞、師の答の詞、彼此あるように聞こゆ。所詮、今の御釈は此の道理は、牆壁瓦礫が牆壁瓦礫に問答したるにてある也。所問の僧も、答話の師も、全非牆壁瓦礫外者故なり。「進」も「退」も「出」も「入」も皆、牆壁瓦礫の上の進退出入なるべし。

 

これらの道取の現成するところの円成十成に、千仭万仭の壁立せり、迊地迊天の牆立あり、一片半片の瓦蓋あり、乃大乃小の礫尖あり。

かくのごとくあるは、ただ心のみにあらず、すなはちこれ身なり、乃至依正なるべし。

経豪

  • 「円成十成」とは、缺けたる所なきの詞也、充足したるなり。「是等の道取」とは、古の師云牆壁瓦礫已下の詞を指す歟。牆壁瓦礫の四字を一字づつ被釈なり、「壁も千仭万仭・牆も迊地迊天・瓦も一片半片・礫も乃大乃小」となり。各々の字、皆物に関わらず、一一に独立したる道理なり。本の詞には牆壁瓦礫とあれば、先牆の詞ぞ出くべけれども、此の道理の上は前後差別の義あるべからず。錯まりて壁の字を先被釈は、子細ありとも心を付けて可思惟也。能所彼此前後際断する故に、是等の道理を円成十成とも云うべし。迊地迊天は広く、一片半片は狭しと思うべからず、円成十成の理なる故に。
  • 是は古仏心と云う。心の詞のみなるべからず、此の心と云う詞に取り替えて、「身」とも「依正」とも云うべしとなり。所謂、古仏身・古仏眼・古仏依正・古仏鼻孔とも、千万に云わるべき道理を如此被釈なり。

 

しかあれば、作麼生是牆壁瓦礫と問取すべし、道取すべし。答話せんには、古仏心と答取すべし。

詮慧

〇今「古仏心」とあり。我等が思うが如くなる、新古の義には更に不可心得。仏成道の時(は)必ず顕本し御す、此の御詞に動執すべし。新成の仏、今五百塵点劫のそのかみ、成仏しきと被仰故に。さとりに無差別は、仏も国も不可有其隔。事理二門を立つる事に、古今と定む。これは迷妄の方也。但事理共(に)仏法と云わば、事理不可有其隔、理の方に無古今。

経豪

  • 本語には如何是古仏心と問うに、牆壁瓦礫と被答。其れを此の道理の上は「作麼生是牆壁瓦礫と問取すべし」と也。是を又「答話せんには、古仏心と答取すべし」となり。本の詞を打ち替えて可問答、則ち此の道理に不可違也。

 

かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。

造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。造作か、造作にあらざるか。有情なりとやせん、無情なりや。現前すや、不現前なりや。

かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、此土佗界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、さらに一塵の出頭して染汚する、いまだあらざるなり。

詮慧

〇古心は又古仏なり。非別這頭那頭古仏なり、今の古心は古仏なるべし。我身古仏也と可心得。又無尽我身也。

経豪

  • 日来は牆壁瓦礫と云えば、垣壁乃至泥藁水などを以て造作したる物とこそ思いつるに、「牆壁瓦礫はいかなるべきぞ」と、事新しく「審細に参究すべし」と云う。先日来の旧見の

牆壁等にあらざる道理顕然也。所詮今は、三世諸仏・西天東地の祖師を以て牆壁瓦礫と談ずるなり。

  • 「造作より牆壁を出現せしむる」は常事也。「牆壁より造作を出現せしむるか」とあり。不普通、但今の牆壁瓦礫の道理、尤も如此云わるべきなり。「あらざるか、あらざるか」とあり、例の皆、此の道理あるべき故に「か・か」と受けらるるなり。是即不中義也。
  • 是は「天上人間にもあれ、此土他界の出現なりとも」、皆是「古仏心・牆壁瓦礫也」と云うなり。「古仏心・牆壁瓦礫にあらざる、天上人間も、此土他界も不可有」。此の道理の上には又「一塵也とも出頭して、古仏心・牆壁瓦礫を染汚する物もあるべからざる也」。

 

漸源仲興大師、因僧問、如何是古仏心。師云、世界崩壊。僧云、為甚麼世界崩壊。師云、寧無我身。いはゆる世界は、十方みな仏世界なり。非仏世界いまだあらざるなり。崩壊の形段は、この尽十方界に参学すべし、自己に学する事なかれ。自己に参学せざるゆゑに。

崩壊の当恁麼時は、一条両条、三四五条なるがゆゑに無尽条なり。かの条々、それ寧無我身なり。

我身は寧無なり。而今を自惜して、我身を古仏心ならしめざることなかれ。

詮慧 仲興大師段

〇「いかなるも古仏心と説かんには、世界崩壊」と云うべし。又無尽に崩れ壊(やぶ)るべし、いわゆる三界唯一心とも壊るべし、心仏及び衆生とも壊るべし。尽十方世界真実の人体とも、沙門一隻眼とも、一顆明珠とも壊るべし。又心の法の外に法なしと云わん、これ又世界の成立するとも云うべし。

〇「崩壊の正当恁麼時は、一条両条、三四五条なるが故に無尽条也」と云うは、世間崩壊して沙門一隻眼なり、世界崩壊して心あり、世界崩壊して身あり、世界崩壊して古仏心ありとも云うべし。

〇「崩壊」と云う事、たとえば諸法仏法なる時節迷あり悟ありと云う、これ崩壊なり。万法吾にあらざるとき迷なく悟なくと説く、これ崩壊也。抑もこの草子に「崩壊の形段は、此の尽十方界に参学すべし、自己に学する事なかれ。自己に参学せざる故に、崩壊の正当恁麼時は、一条両条、三四五条なるが故に無尽際(条)也」とあり。沙門一隻眼と云う時世界崩壊し、心と説く時も身と説く時も、皆崩壊なるべしと云うべき歟。是は尽十方界一隻眼とも、三界唯心とも、尽十方界真実人体とも説けば、世界は崩壊すべしと覚ゆ。一方を談ずれば一方は隠ると云う故に。但是は猶一重なるべし、無尽世間と云わんように崩壊とは仕う也。仏法に仕う崩壊が、いたづらに崩れ壊るとは習わぬ也。迷悟を並べて有りとも無しとも説く程なり。一方を証すれば一方は暗しと説くよりは猶すぐれたる崩壊なるべし。一方をば証せさせ一方をば暗しと説く崩壊の心地は、なお崩れうする心地残るなり、ただ無尽と説くべし。

〇「寧無我身」と云うは、此の我身は尽十方界真実人体の身なるべし。以世間以我身と聞こゆ、かからんには無我身は崩壊なり。「無我身」の無は、例の有無の無にあらず。寧無我身と崩壊なると可心得。悉有をも欲知をも莫妄想をも先須除我慢をも、仏性と体説するが如きの寧無我身は崩壊と可心得。「古仏心は世界崩壊、世界崩壊は寧無我身也」

経豪

  • 「世界」と云うについては、仏土穢土しなじな多かるべし、今は此義あるべからず。只世界と云う時は、尽界皆仏世界なるべし、非仏世界あるべからず。「崩壊の形段は、この尽十方界に参学すべし、自己に学すべからず」とあり、破鏡不重照の崩壊なるべし。
  • 「一条両条」等の詞は、只次第に無尽条と云う事を云い表わさん詞なり。所詮、崩壊の姿(は)無尽際なるべし。又一条両条三四五条を以ても崩壊と取るべし。必ず無尽際を極員数と一条乃至三四五条等を以て、少と取るべからず。一条乃至三四五条も無尽際も、只同心なるべし、いづれも崩壊の道理なるべし。彼(の)条々の姿を「寧無我身」とは可云なり。
  • 今「而今」と云う詞は、寧無を指す歟。所詮、我身寧無・古仏心、只同物なるを、「寧無我身を自惜して古仏心ならしめざる事なかれ」とは云うなり。

 

まことに七仏以前に古仏心壁竪す、七仏以後に古仏心才生す、諸仏以前に古仏心花開す、諸仏以後に古仏心結果す、古仏心以前に古仏心脱落なり。

詮慧

「壁竪・才生・花開・結果」とは、是等を「古仏心以前に古仏心脱落也」とあり。「古仏と心と脱落」は古仏心以前と可心得歟。

経豪

  • 此の「古仏心の道理、前後を超越せり」。此の前後(は)又、古仏心の上の前後也。故に旧見の前後を解脱せり。「才生す」とは少なき心歟、然而此の才生は更に不可拘多少道理也。此の故に「古仏心以前に古仏心脱落する」道理なるべし。華開も結果も古仏心を以て如此云也。

                                  古仏心(終)

 

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。