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現代人による正法眼蔵解説

詮慧・経豪 正法眼蔵第四十二 説心説性 (聞書・抄)

詮慧・経豪 正法眼蔵第四十二 説心説性 (聞書・抄)

神山僧密禅師、与洞山悟本大師行次、悟本大師、指傍院曰、裏面有人説心説性。僧密師伯曰、是誰。悟本大師曰、被師伯一問、直得去死十分。僧密師伯曰、説心説性底誰。悟本大師曰、死中得活。説心説性は仏道の大本なり、これより仏々祖々を現成せしむるなり。説心説性にあらざれば、転妙法輪することなし、発心修行することなし。大地有情同時成道することなし、一切衆生無仏性することなし。拈花瞬目は説心説性なり、破顔微笑は説心説性なり、礼拝依位而立は説心説性なり、祖師入梁は説心説性なり、夜半伝衣は説心説性なり。拈拄杖これ説心説性なり、横払子これ説心説性なり。おほよそ仏々祖々のあらゆる功徳は、ことごとくこれ説心説性なり。

詮慧

〇「神山僧密禅師、与洞山悟本大師行次・・死中得活」、「指傍院」と云うは、行次所也。「裏面有人」は所詮、説心説性と云う詞に因みて云う。「是誰」の詞も、今の説心説性の仁を問うに似たれども、不可有其儀。別其人と云うべきにてはなし。「直に得去死十分」と云うは、説心説性の理の得十分也。先の「是誰」と云うと(は)、僧密又「説心説性底」ぞとは云う也。ゆえに大師又「死中得活」とあり。「去死十分」と云うに付けて、死中得活の詞は出でく。この「死」は生死の死にあらざるゆえに、「死中得活」とは云う也。皆これ「説心説性」の道理が如此云わるる也。すべて如此、師々の問答を世間の情に仰せて心得んには、すべて仏法を習う詮あるべからず。「裏」の詞も「面」の詞も、「有人」も「説心」も「説性」も仏向上の義と知るべし。

〇「心を通せず、性に達せざる庸流、説心説性をも不知、談玄談妙をもしらずして、仏祖の道にはあるまじき事」と云う、「心性二つながら抛て、玄妙共に忘じ来たりて、二相不生のとき証契す」と云う(は)、宗杲等が見也。「慮知念覚」の義も又如此。ただ「澄湛寂静なるのみと妄計して、仏性法性の有無をしらず」、ただ世間の談玄談妙をもしらず、心性をも不知、慮知念覚をも忘れたるが如く也とあり。右可心得分也。ただ澄湛寂静を無想無念とのみ思う(は)、尤も愚か也。ゆえに宗杲が見を被引也。ゆえに「得道の得道せず、不得道のとき、不得道ならざる也」とあるなり。性にあらざれば説なし、説にあらざれば心あらずと云う時に、ただ一つ也。心の説となる時、性の説となる時ばかりなり。

〇奥に「仏祖の挙拈する妙は、知見解会なり」とあり、知見解会は世間の詞なれども、これは仏法の上の「知見解会」なるべし。尤可心得分也。

〇「説心説性」、この心と云うは三界唯心の「心」なるべし。性は悉有仏性の「性」也。「これ仏々祖々を現成せしむるなり、説心説性にあらざれば、転妙法輪する事なし」と云う、已下略之。

〇「有人」と云うは、仏性の有なり。人の全面を有と仕い、無とも仕うべし。

〇「師伯」と云うは伯父と云うなり。洞山の師伯ならば、薬山弘道大師の弟子にてこそ、僧密はあるべきに、如注の宗派者、洞山も雲巌無住大師の弟子、僧密も無住大師の弟子と見えたり。然者兄弟とこそ云うべきに、師伯と云うは不審也。可勘決。若又俗姓の内外戚の伯父歟。然而仏性の上には世間の親類を云うべからず。或義には僧を敬う詞に、和尚などと云うが如くに、伯と云うと云々、或いは又伯は僧名也と云々。

私(寂光?)云、僧を禅伯と云う事あり、その義歟。

〇「是誰」と云う、かく云う時は人ありて法を説くぞとも、説かぬかとも云うべからず。心と云われ、性と云われ、説と云われども、一定何れと(も)定めざる詞也。心性を説くは、有人なり、有人の在所が裏面にあたる。如此心得ば、「是誰」の詞あるべからざるを、裏面有人が説心説性なる事を受けて謂うに、「是誰」と云わるる也。

〇「直得去死十分」と云う、是に邪正の二見あり。説心説性有人裏面と説くを、是誰と云いつれば、これは死なるべしと挙げて云う。生死の二法を云う心地なり、邪也。今の「死」は全機死の死なる時に、親切の詞となるなり。是正見也。

〇「説心説性底誰」と云う(前後の誰の詞同之、但違する事もあり)、先には裏面有人を加え、後には只説心説性ばかり也。然而非異非同(の)道理也。張三李四と云うも、姓(が)異なり、員も有増減。然而又張を正とし、李を邪と云うべからず、これ非一非二心也。

〇「死中得活」と云う、去死を十分と云うが如く心地なり。生死の死にてなし故に、やがて死中得活なり。

〇「説心説性は仏道の大本也」と云う、この初めの段には、先ず説心説性は仏道の大本なる事を明かさる。洞山与僧密との問答の詞を明けらると云えども、心性の外不委後の段にあるべし。身の外に心を説き、性の外に相を説かんは、すべて不可用事也。

〇「祖師入梁」と云うは、たとえば仏(が)人間界に出世し給いしが如し。仏(が)出世せば、依正二報相違して覆う。仏(が)出で給いしませば、国土も仏国土なるべけれども、この界の有り様、世間の眼には変る事なし。さればただ此の三界に出で給いしますと覚えたれども、やがて非寂光(の)外別(に)求娑婆と云う。仏見(は)如此、又仏(は)今此三界皆是我有と被仰(は)勿論也。是等の道理にて心得れば、誠に「入梁を説心説性」と云うべし。

経豪

  • 祖門に説心説性を談ずる事、委被載分、分明也。打ち任せて「説心説性」と云う事を談ずるには、心は矣栗駄(いりだ)・汗栗駄(うるだ?)等の種々の心を出だす、衆生の思慮念測の心を指す。性(は)又可見聞物にあらず、色相を離れたる物と心得たり。仏祖所談の説心説性(は)、大いに打ち任せたる所談に異なるべし。如文。

 

平常の説心説性あり、牆壁瓦礫の説心説性あり。いはゆる心生種々法生の道理現成し、心滅種々法滅の道理現成する、しかしながら心の説なる時節なり、性の説なる時節なり。

詮慧

〇「平常の説心説性也」と云う(は)、これ世間の平常にあらず。説心説性の上を「平常」と仕う也。説心説性これなりと也。又「牆壁瓦礫」と云う詞は、古き詞なるゆえに挙げらる。

〇「心生種々法生の道理現成し、心滅種々法滅の道理現成する」と云う、種々の法を以て心と仕う心なり、この時こそ説心説性の心にてはあれ。

経豪

  • 「平常の説心説性」とは、仏性の上の説心説性を指す也。「心生種々法生も、心滅種々法滅」の道理も、今の説心説性の上にて可談なり。今の生死(は)共に全機の生死なるべし。又「心の説なる時節、性の説なる時節也」と云うは、此の「心を説」と談じ、「性を説」と談ずるを如此云う也。此理の上には、「説が心、性が説」なる理あるべし。只同心なるべし。

 

しかあるに、心を通ぜず、性に達せざる庸流、くらくして説心説性をしらず、談玄談妙をしらず、仏祖の道にあるべからざるといふ、あるべからざるとをしふ。説心説性を説心説性としらざるによりて、説心説性を説心説性とおもふなり。これことに大道の通塞を批判せざるによりてなり。

詮慧

〇「説心説性を説心説性としらざるに依りて、説心説性を説心説性と思うなり」と云う、此の「不知」と云う句は、世間に付けたる説心説性と心得るゆえなり。又「思う也」と云うも、世間の如く也。ゆえに「大道の通塞を批判せざるによりて」と云う也。

経豪

  • 仏祖所談の説心説性の様を不知輩、説心説性と云う事、祖門に不可談と云う事を不可然也とあり。祖門に争か説心説性と云う詞を不談(ば)、所談のようこそ水火すれ。如御釈、説心説性を、仏祖所談の説心説性を不知して、日来思い付きたりつる説心説性の定めに心得たる所を被嫌也。仏祖(の)法(は)さらに詞に滞りて、説心説性の詞を云わざるべきにあらず。依文解義、三世仏怨の詞、可思合事也。

 

後来、径山大慧禅師宗杲といふありていはく、いまのともがら、説心説性をこのみ、談玄談妙をこのむによりて、得道おそし。但まさに心性ふたつながらなげすてきたり、玄妙ともに忘じきたりて、二相不生のとき、証契するなり。この道取、いまだ仏祖の縑緗をしらず、仏祖の列辟をきかざるなり。

詮慧

〇「二相不生」と云うは、是は心と性と玄と妙と也。「心性二つながら抛げすて来たり、玄妙ともに忘ず」という、「忘」は断ずと云う程の事也。あやまる詞、心を忘ずるゆえに。如

牆壁と云うと心得は、不可然事也。

〇「二相不生の時、証契する也」と云う、此の「証契」は捨つべき証也。不証契は更(なる)説心説性の科にあらず。いまだ説心説性の義を心得ぬにてこそあれ、説心説性にあらざれば、転法輪する事なしと云う上(は)勿論なり。

経豪

  • 宗杲が見のよう御釈に分明也。是はひとえに我等が心得たる心性の様に存して、「説心説性を好み、談玄談妙を好むによりて」、是に暇(いとま)を入るによりて、得道する事をぞ義なり。「心性二つながら抛げすて来たり、玄妙共に忘じ来たりて、二相不生の時、証契するなり」と云う也、実(に)此見(は)祖門の所談にあらず。先(の)「説心説性を好み、談玄談妙を好むゆえに、得道おそし」と云う詞、善悪取捨に関わりたる詞と聞こゆ。又「心性二つながら抛来、玄妙共に忘じ来たり」と(の)文、是又卑しきを捨て、勝れたるを取ると聞こゆ。又「二相不生の時、証契す」と云う、知りぬ証の位を極位にして心得たりと云う事を、一一(の)詞(と)共に用うべきにあらず、ゆえに宗杲を被嫌也。

 

これによりて、心はひとへに慮知念覚なりとしりて、慮知念覚も心なることを学せざるによりて、かくのごとくいふ。性は澄湛寂静なるとのみ妄計して、仏性法性の有無をしらず、如是性をゆめにもいまだみざるによりて、しかのごとく仏法を辟見せるなり。

詮慧

〇「仏性法性の有無を知らず、如是性を夢にも未だ見ざるによりて、しかの如く仏法を辟見せる也」と云う、この有無仏性の時の沙汰に習うべし。今の「辟見」は有仏性無仏性を不証契者也。

経豪

  • 「心」と云えば、只日来凡夫所具の慮知念覚とのみ心得て、此の「慮知念覚を心と談ずる事を不知」と避けらる、難治事也。又「性」と云えば、「澄湛寂静なるとのみ妄計して、仏性法性の有無を不知」とは、性と云えば如今云、澄湛寂静なる物とのみ妄計して、今仏祖所談の性を不学、仏性法性の有無を不知と被嫌。是は一向大慧を被下御詞也。

 

仏祖の道取する心は皮肉骨髄なり、仏祖の保任せる性は竹篦拄杖なり。仏祖の証契する玄は露柱燈籠なり、仏祖の挙拈する妙は知見解会なり。仏祖の真実に仏祖なるは、はじめよりこの心性を聴取し、説取し、行取し、証取するなり。この玄妙を保任取し、参学取するなり。かくのごとくなるを学仏祖の児孫といふ。

詮慧

〇「仏祖の挙拈する妙は、知見解会也」という、是は如文。この「知見解会」は、仏法の知見解会なり。

経豪

  • 仏祖所談の心性の様、右に被載、如文可心得也。是可用儀也。

 

しかのごとくにあらざれば学道にあらず。このゆゑに得道の得道せず、不得道のとき不得道ならざるなり。得不の時節、ともに蹉過するなり。

経豪

  • 是は仏祖の義に暗き間(は)、得道の道理も暗く、不道得の理にも暗き也。しかる間、「得不の時節、共に蹉過する也」とは云う也。又仏祖の上の得道は、得道の得道し、不得道の不得道なるなり。

 

たとひなんぢがいふがごとく、心性ふたつながら亡ずといふは、心の説あらしむる分なり、百千万億分の少分なり。玄妙ともになげすてきたるといふ、談玄の談ならしむる分なり。

経豪

  • 是は亡ずと云うも抛と云う詞ありとも、心の上の忘、心の上の抛げすつる分にてもなき也。この心上に百千万億云うべき詞ある中の、今の忘は「少分也」と云うなり。「談玄」の詞(は)、抛と云うも同是詞也。

 

この関棙子を学せず、おろかに亡ずといはば、手をはなれんずるとおもひ、身にのがれぬるとしれり。いまだ小乗の局量を解脱せざるなり、いかでか大乘の奥玄におよばん、いかにいはんや向上の閑棙子をしらんや。仏祖の茶飯を喫しきたれるといひがたし。

経豪

  • 如文。「亡ずと云えば、手を離れなんずると思い、身が逃れぬと知れり」、只凡見なるべし。唯心の上の逃る、唯心の上の亡、不可混凡見。故(に)「小乗の局量を解脱せず」と被嫌也。

 

参師勤恪するは、たゞ説心説性を身心の正当恁麼時に体究するなり、身先身後に参究するなり。さらに二三のことなることなし。

経豪

  • 是は「説心説性と身心」との不各別ようを「体究すべし」となり。「身先身後」にも、此の道理を「参学すべし」と云う也。此の外の道理「二三もある事なし」と云う也。

 

爾時初祖、謂二祖曰、汝但外息諸縁、内心無喘、心如牆壁、可以入道。二祖種々説心説性、倶不証契。一日忽然省得。果白初祖曰、弟子此回始息諸縁也。初祖知其已悟、更不窮詰、只曰、莫成断滅否。二祖曰、無。初祖曰、子作麼生。二祖曰、了々常知、故言之不可及。初祖曰、此乃従上諸仏諸祖、所伝心体、汝今既得、善自護持。

詮慧

〇「外息諸縁段・・汝今既得、善自護持」。此の文を得て心得に僻見あるべし。初祖に付きて二祖法を習い御いしし時に、「説心説性の時は不証契、ただ一日忽然としてこそ省悟しましましし」かなどと云う族ありぬべし、尤僻見なり。

〇「弟子此回始息諸縁也」と云う、「縁」は対六根たる境なり。これを息たらんを以て、「始息諸縁」と云うと心得んには、尤も息諸縁の様を可尋也。「息諸縁」とは仏言に我身自空、罪福無主、観心無心、法不住法(『法華経玄義』「大正蔵」三三・六九三上・注)、これぞ師に逢わずして心得て、我身の我の字をわれと説く。身をば我と心得て自空也と云う(は)、無下の見解也。観心無心と云うは、以眼見眼る時、眼すべて不見。必ず(しも)心を観して心なしと褒むべき様なし。六根皆如此、以耳聞耳時、耳なかるべし。是等は皆三界唯一心とこそ説け、三界の主は自空と説く。

〇性は都て悟られざる法也。説せば相にてこそあるべけれ。以世間心地、「息諸縁」と云わん(は)、外道の見なり、「断滅」なるべし。

〇「更不窮詰」と云う、窮めて不問答せざることなり。

〇「莫成断滅否。二祖曰、無」、外道見の断滅にあらずやとなり。二祖なしと答え御します也。

〇「了々常知、故言之不可及」と云う、内心無喘外息諸縁たる義なり。超越内外、不触事而知の「了々常知」也。非外道見。

経豪

  • 打ち任せて説心説性の様を心得には、心性共に亡し、玄妙共に抛来とのみ心得。心は如牆壁と談じて、此の時(に)道には入るぞと心得たり。是は凡見の牆壁をのみ心得て、如此の僻見を発す也。祖門には此の牆壁をやがて心と談ずる上は、努々今の喩いには不可似。此の祖門と二祖との問答も、二祖種々に説心説性せし時は証契せず、一日忽然として看得し、又このたび始めて息諸縁、後悟れりと心得られぬべきように、此文は見えたり、不可然也。又初祖「莫成断滅否」とて、如此云えばとて、説心説性の詞を断滅せんとにはあらず。ゆえに

否と受けて問わる。はたして「二祖無」と被答、説心説性の捨てらるまじき道理顕然に聞こえたり。又二祖いわくとて、「了々常知、故言之不可及」とあり。是は今の法の道理を述べらるるか。已下如御釈。

 

この因縁、疑著するものあり、挙拈するあり。二祖の初祖に参侍せし因縁のなかの一因縁、かくのごとし。二祖しきりに説心説性するに、はじめは相契せず。やうやく積功累徳して、つひに初祖の道を得道しき。庸愚おもふらくは、二祖はじめに説心説性せしときは証契せず、そのとが、説心説性するにあり。のちには説心説性をすてて証契せりとおもへり。心如牆壁、可以入道の道を参徹せざるによりて、かくのごとくいふなり。これことに学道の区別にくらし。

経豪

  • 文に分明也。教学などとこそあれ、今の祖門は頓法なり。一棒一喝を下す所に、やがて解脱の理を得るこそ祖門の風なれ。強ち積功累徳すべからずと、諸人思之談之歟。返々不可然、僻見也。三二十年の功夫辦道非先蹤、是什麽物恁麽来の詞を、南嶽八ヶ年まで功夫せりし。是は可嫌歟、甚不可用儀なり。云道理、云先蹤、及左右事也。

 

ゆゑいかんとなれば、菩提心をおこし、仏道修行におもむくのちよりは、難行をねんごろにおこなふとき、おこなふといへども、百行に一当なし。しかあれども、或従知識、或従経巻して、やうやくあたることをうるなり。いまの一当はむかしの百不当のちからなり、百不当の一老なり。聞教修道得証、みなかくのごとし。きのふの説心説性は百不当なりといへども、きのふの説心説性の百不当、たちまちに今日の一当なり。行仏道の初心のとき、未練にして通達せざればとて、仏道をすてて余道をへて仏道をうることなし。仏道修行の始終に達せざるともがら、この通塞の道理なることをあきらめがたし。

詮慧

〇説心説性せし初め、いまだ不証契にてこそあれ、説心説性する科にてなし。日頃の百不当は今日の一当なり。是も説心説性のちからにあらずや。「行仏道の初心の時、未練にして通達せざればとて、仏道をすてて余道を経て仏道を得る事なし」、仏道は初心の時も仏道也、成正覚の時も仏道なり、初中後共に仏道也。

経豪

  • 是又御釈に分明也。おこなうと云えども、無尽の難行苦行すればとて、必ず(しも)やがて悟りを知る事なし。ただ或従知識、或従経巻して、積功累徳する時、漸らく当たる事を得るなり。「今の一当とは、昔の百不当の力」によりて、今の一当を得る也。ゆえに「百不当の一老也」と云うなり。「昨日の説心説性は百不当也と云えども、昨日の説心説性の百不当、忽ちに今日の一当なり」とは、まことに昨日の説心説性は百不当也。しかれども今日の一当は昨日の百不当か。現成する所の一当也と云う也。誠(に)「初心の時、未練にして通達せざればとて、仏道をすてて余道を経て仏道を得る事あるべからず」。尤有謂事也。

 

仏道は、初発心のときも仏道なり、成正覚のときも仏道なり、初中後ともに仏道なり。たとへば、万里をゆくものの、一歩も千里のうちなり、千歩も千里のうちなり。初一歩と千歩とことなれども、千里のおなじきがごとし。しかあるを、至愚のともがらはおもふらく、学仏道の時は仏道にいたらず、果上のときのみ仏道なりと。挙道説道をしらず、挙道行道をしらず、挙道証道をしらざるによりてかくのごとし。

経豪

  • 御釈分明也。如文。

 

迷人のみ仏道修行して大悟すと学して、不迷の人も仏道修行して大悟すとしらずきかざるともがら、かくのごとくいふなり。

経豪

  • 打ち任せて「迷人こそ、仏道を修行して大悟す」とは思い習わしたり。「不迷人も仏道修行して、大悟す」と云う事は、聞き習わぬ詞と聞こゆ。但悟上得悟、迷中又迷と談ずる上は、今更迷不迷の詞に、得失を立て、非可迷なり。

 

証契よりさきの説心説性は、仏道なりといへども、説心説性して証契するなり。証契は迷者のはじめて大悟するをのみ証契といふと参学すべからず。迷者も大悟し、悟者も大悟し、不悟者も大悟し、不迷者も大悟し、証契者も証契するなり。

経豪

  • 是は「証契よりさきの説心説性」とは、未だ当たりざりつる、昨日の説心説性と云わるる説心説性の事也。「説心説性して証契する也」とは、今の一当の説心説性の事也。「迷者不迷者も大悟す」とは、此の説心説性の上の迷悟也。諸法仏法の上の迷悟なるべし。此の道理の落居する所は、「証契者も証契する」道理に落ち付くべきなり。

 

しかあれば、説心説性は仏道の正直なり。杲公この道理に達せず、説心説性すべからずといふ、仏法の道理にあらず。いまの大宋国には、杲公におよべるもなし。高祖悟本大師、ひとり諸祖のなかの尊として、説心説性の説心説性なる道理に通達せり。いまだ通達せざる諸方の祖師、いまの因縁のごとくなる道取なし。

経豪

  • 「説心説性は仏道の正直也」とは、説心説性は仏道の本也と云う心地なり。先段の宗杲の詞を引き出して、重ね被嫌なり。

 

いはゆる僧密師伯と大師と行次に、傍院をさしていはく、裏面有人、説心説性。この道取は、高祖出世よりこのかた、法孫かならず祖風を正伝せり、余門の夢にも見聞せるところにあらず。いはんや夢にも領覧の方をしらんや。たゞ嫡嗣たるもの正伝せり。この道理もし正伝せざらんは、いかでか仏道に達本ならん。いはゆるいまの道理は、或裏或面、有人人有、説心説性なり。面裏心説、面裏性説なり。これを参究功夫すべし。

詮慧

〇宗杲が見には違して、説心説性を正伝すべしと也。「傍院を指す」と云う事は、誠(に)行く次でに傍院を見てこそば、指傍院とは云えども、たとえば牆を指し、壁をも指す(と)同事也。「裏面」とは、必ず(しも)裏とにはあらず、只傍院を「裏」と云うべし。表裏の義なるべし。裏面は全面也。「有人」と云う、この「有」の字も、ただ人と云わんとて、有の字を加う也。仏性の有無の如し、世人の有無にあらず。

〇この三(此の三と云うは、裏面と有人と説心説性となり)とは、説心説性の方より見れば、裏面も有人も説心説性也。又「裏面有人」の方よりは、必ず説心を裏面の上に解脱し、有人の上に体脱すべし。有人の「有」は有仏性にに習うべし。有人の説心説性ありと、奥に説くが如し。「裏面、有人、説心説性」と、この三を挙げたる(は)各別に聞こゆれども、「或裏或面、有人人有、説心説性なり、面裏心説、面裏性説也」。性にあらざれば説なし、説に非れば心あらずと云う時に、只一なり、「説」となる許り也。「心説」と云えば、上聖の下位に蒙ぶらしむる事とのみ不可思。「心」をも「説」をも一と心得べき也。

〇「面裏心説、面裏性説」と云う、是は心性を二つに分くべからず、其の道理を如此云う。「有人」が説くと云わず、「心」がやがて「説」なる也、「性」がやがて「説」なる也。「裏」と云う字を心得るには、今此三界皆是我有、其中衆生悉是吾子(『法華経』「譬喩品」「大正蔵」九・一四下・注)と云う、此の中なるべし。三界をば大垣にして、其中の「中」の字は、ただ我有也、三界也。三界を「中」とも説く也。このゆえに打ち替えて、「面裏」と云う、「心説性説」と説くは、心を人に説かずるにてはなし。「心」の全面を「説」と説き、「性」の全体を「説」と云う也。「面裏心説、面裏性説」と打ち替えて云うは、親切に説く也。離表裏義也。

経豪

  • 是は「傍院を指す」とは、喩えば寺院などに傍らなる院の内に人ありて、説心説性するように聞こゆ。而今の道理はとて、「或裏或面、有人人有、説心説性也」と述べらる。此心は全裏全面全人、説心説性の理也。「裏」も外に対したる裏にあらず。「有」の詞も人に付けては不可心得也。又裏面説心説性とあるを、打ち返して「面裏心説、面裏性説」とあり。能所なき親切の理を表わさん為に、如此あるなり。祖門の仏法の所談(は)、只此の心地なるべし。

 

性にあらざる説いまになし、説にあらざる心いまだあらず。仏性といふは一切の説なり。無仏性といふは一切の説なり。仏性の性なることを参学すといふとも、有仏性を参学せざらんは学道にあらず、無仏性を参学せざらんは参学にあらず。説の性なることを参学する、これ仏祖の嫡孫なり。性は説なることを信受する、これ嫡孫の仏祖なり。

詮慧

〇「仏性」と云うは、一切の説也。説心説性と説く「説」は、有仏性無仏性の有無程の事を、「一切説」とは云うなり。

経豪

  • 性を説と談じ、説を心と談ずる(は)、祖門の所談なり。又「仏性は説なり」とは、仏性を人ありて説くべきにてはなし。此の仏性がやがて「説なる」道理を如此云う也。「仏性をば学す」と云えども、仏性の上に、「有仏性無仏性を参学せざらんは、参学にあらず」と非嫌也。「仏祖の嫡孫、嫡孫の仏祖」と打ち替えて、かかる「仏祖の嫡孫」と云えば、例の詞にて、「嫡孫の仏祖」と云えば、能所なき道理さわさわと聞こゆる也。

 

心は疎動し、性は恬静なりと道取するは外道の見なり。性は澄湛にして、相は遷移すると道取するは外道の見なり。仏道の学心学性しかあらず。仏道の行心行性は外道にひとしからず。

経豪

  • 心は境に対して移り易く、性は澄湛也。色形も不見物とのみ心性をば談之。今は「外道見也」と被嫌之。仏道の学心学性、まことに是には違すべき也。

 

仏道の明心明性は外道その分あるべからず。仏道には有人の説心説性あり、無人の説心説性あり。有人の不説心不説性あり、無人の不説心不説性あり。説心未説心、説性未説性あり。無人のときの説心を学せざれば、説心未到田地なり。有人のときの説心を学せざれば、説心未到田地なり。説心無人を学し、無人説心を学し、説心是人を学し、是人説心を学するなり。

詮慧

〇「有人の説心説性、無人の説心説性、有人不説心不説性、無人不説心不説性、説心未説心、説性未説性」、已上、有衆生、無衆生無仏性程の詞ともなるべし。

〇「是人を学し」と云う(は)、説心を「是人」とは指す也。

経豪

  • 如御釈。「仏道に明心明性」と云うは、此心をやがて「明」と談じ、此性をやがて「明」と談ず也。全く人を置きて、此の「心性」を明とは不可心得。如此所談、打ち任せては無き也。況や外道等の所談にあらず。此の道理の上には、又右に所挙の有人説心説性、無人の説心説性已下、さまざまの理あるべき也。如文、「無人の時の説心を学せざれば、説心未到田地なり」とは、此の理が未だ到らざる也と云う也。

 

臨済の道取する尽力はわづかに無位真人なりといへども、有位真人をいまだ道取せず。のこれる参学、のこれる道取、いまだ現成せず、未到参徹地といふべし。

説心説性は説仏説祖なるがゆゑに、耳処に相見し、眼処に相見すべし。

詮慧

〇「無位真人」と云う(は)、次位の階級を不立、坐禅作仏と云う心地なりと推するに似たり。有位真人と云うべしや。「有位真人」と云う事は、対無位真人して今(は)所談なり。古き詞には見えず。但有人と云うに付けて、如此云う也。

経豪

  • 是は臨済の詞に、「無位真人」と云う詞あり。其れを避けらる也。無位真人を由々しき極果と心得たり。此の心地未だ善悪の法を免れず、無位真人の上には、有位真人と云う道理もあるべし。此の道理を「未だ道取せず、残れる参学、残れる道取、未現成」と被嫌なり。
  • 「説心説性は説仏説祖也」とは、説心説性と説仏説祖との理、只同じき理を明かすなり。此の道理を「耳処に相見し、眼処に相見す」とは打ち任すは耳にて音を聞き、眼にて色法を得んず。是常儀也。「耳処の相見」と云うは、やがて此の耳処を「見」と仕う也。「眼を相見」と云えば、打ち任せたるように聞こゆれども、旧見に帰らば非仏法。此の眼を又「見」と仕う。さればこそ、能見所見をば離れば、耳処に眼処を取り替えたらん許りにては、甚不可有其詮。皆仏法理ゆえに。

 

ちなみに僧密師伯いはく、是誰。この道取を現成せしむるに、僧密師伯さきにもこの道取に乗ずべし、のちにもこの道取に乗ずべし。是誰は那裏の説心説性なり。しかあれば、是誰と道取せられんとき、是誰と思量取せられんときは、すなはち説心説性なり。この説心説性は、余方のともがら、かつてしらざるところなり。

子をわすれて賊とするゆゑに、賊を認じて子とするなり。

詮慧

〇「子を忘れて賊とする故に、賊を認じて子とする也」と云う、一向迷いの詞也。説心説性を悪しく心得る。如此(に)、認賊為子とて、僻見なる事に常(に)云う也。「為子」と心得るのみにあらず。為我とも可心得。又子まで除けて云うべきにあらず、我こそ我をば盗めとなり。

〇認賊為子に付きては古き言草(ことぐさ)あり。或者相人に遇う、相人是を見て何月何日盗人に遇うべし。所有賊物悉可被盗取、我身同出。而於車内一子を生ず、これをやがて車子と名づく。於車中生ずるゆえなり。此子を愛して所有の財物(を)譲与之。後日相人に遇て云う、件(の)月日更(に)賊に遇わず、剰え冀う所の、―以下原本欠くー

経豪

  • 「僧密師伯の是誰」の詞を云うに、「先にもこの道取に乗ずべし、後にもこの道取に乗ずべし」とは、「先」と指すは裏面に有心説心説性と大師被仰るとき、僧密の是誰と被仰りたる詞也。「後の」と云うは、僧密の説心説性底と云う詞を指す也。後には是の字なけれども、只同じ詞なるべし。「乗ず」と云うは、是誰の詞の出で来ぬる上は、僧密も是誰に蔵身すべし。是誰の外に交り物なき道理を「乗ずべし」とは云うなり。「那裏の説心説性也」とは、裏面有人とある「裏」を指して云う也。今「是誰と道取せられ、是誰と思量せらるる」は、皆「説心説性なるべし」と云う也。
  • 父子のあわい尤中あしかるまじき物也。しかるを「子を忘れて、賊と認ず」とは、善かるべき中の悪しくなる喩えに被引也。此の説心説性は仏法の大本なるを、説心説性は悪しき物、是を離れてこそ、証果すれなどと云う邪見の出でくる所の喩えに被引也。「認賊為子」(は)。認子為賊と云う古き詞あり。

 

大師いはく、被師伯一問、直得去死十分。この道をきく参学の庸流おほくおもふ、説心説性する有人の、是誰といはれて、直得去死十分なるべし。そのゆゑは、是誰のことば、対面不相識なり、全無所見なるがゆゑに死句なるべし。かならずしもしかにはあらず。

経豪

  • 今「大師の被師伯一問、直得去死十分」、この語を庸流(の)思わくとて被出之は、「説心説性する有人の是誰と云われて、これを直得去死十分」とは、「是誰の詞、対面不相識也、全無所見なる所を死句」と思う、所詮物もなく、不見所を指して、直得去死十分と被仰たると心得が、此見を被嫌也。大師道の「去死十分」は、前に如云う、此の「是誰」の外に、又交り物なき所を、「直得去死十分」とは被仰也。全て隠れて、不見所を「死句」と被仰たるとは不可心得也。

 

この説心説性は、徹者まれなりぬべし。十分の去死は一二分の去死にあらず、このゆゑに去死の十分なり。

詮慧

〇「十分の去死は、一二分の去死にあらず」と云う、「十分」とは全体也。「一二分」と云えば残るに似たり、ゆえに「あらず」と云う也。

経豪

  • 此の「去死十分」の「去死」は全体なるべし。「一二分の去死と云うべきにあらず」となり。

 

被問の正当恁麼時、たれかこれを遮天蓋地にあらずとせん。照古也際断なるべし、照今也際断なるべし。照来也際断なるべし、照正当恁麼時也際断なるべし。

経豪

  • 「被問の正当恁麼時」とは、前に大師の被師伯一問、直得去死十分とある詞を被引也。此の時、「遮天蓋地」の理なるべしとは、此の大師道が尽界に蓋うと云う程の詞也。此の理(は)又「古をも際断し、今をも際断し、乃至来も照も悉く際断すべき」也。

 

僧密師伯いはく、説心説性底誰。さきの是誰といまの是誰と、その名は張三なりとも、その人は李四なり。

経豪

  • 是は「説心説性底誰と是誰」とある詞と同じ也と云う義もあるべし、不同なりと云う義もあるべし。其の喩えに「張三李四」を被出也。 姓は替わりたりとも云いぬべし。人は同じとも云われぬべき方を取る許り也。

 

大師いはく、死中得活。この死中は、直得去死を直指すとおもひ、説心説性底を直指して是誰とは、みだりに道取するにあらず。是誰は説心説性の有人を差排す、かならず十分の去死を万期せずといふと参学することありぬべし。

経豪

  • 此の「大師の死中得活」の詞は、死して後又蘇る風情に聞こえたり、非爾。「此の死中は直得去死を直指すと思い」とは、先の大師道の被師伯一問直得去死十分とありつる死の詞を取りて、ここに「死中得活」と被仰たりと心得る事(は)、なくとも有りなん。只前の死(の)詞を奪わずとも、ここの死中得活の「死」はありなんと云う也。又「説心説性底を直指して、是誰とは妄りに道取するにあらず」とは、裏面有人説心説性と、大師被仰たるに、僧密是誰とあるを、説心説性する人は、誰ぞと不審して被仰たる詞と、道取する人はあらずとて、「是誰は説心説性の有人を差排す」とは、今の「是誰」の詞は、説心説性有人、乃至傍院裏面等の理を述ぶる時、「是誰」とは云わるる也。「必ず十分の去死を万期せず」とは、此の是誰は説心説性有人程の丈の是誰にてこそあれ、必ず十分の去死を指して、「是誰」と云うにはあらざるなり。

 

大師道の死中得活は、有人説心説性の声色現前なり。またさらに十分の去死のなかの一両分なるべし。

活はたとひ全活なりとも、死の変じて活と現ずるにあらず。得活の頭正尾正に脱落なるのみなり。おほよそ仏道祖道には、かくのごとくの説心説性ありて参究せらるゝなり。

又且のときは十分の死を死して、得活の活計を現成するなり。しるべし、唐代より今日にいたるまで、説心説性の仏道なることをあきらめず、教行証の説心説性にくらくして、胡説乱道する可憐憫者おほし。身先身後にすくふべし。為道すらくは、説心説性はこれ七仏祖師の要機なり。

経豪

  • 是は今の「死中得活の道は、有人説心説性の道理の現前する也と云う、十分の去死の中の一両分なるべし」の、「去死十分とある十分が一両分」とは、八九成と十成と程の一両分なるべし。更に数の多少に不可滞、以去死一両分と仕うなり。
  • 是は死中得活と云えば、いかにも死の詞に引きしろいて、「活」と云う詞をも被心得ぬべき所を、「死の変じて活と現ずるに非ず」とは被釈也。所詮「死」と云う詞を寄せ付けて、只全活と可心得也。「得活」の理が「頭正尾正」とは云わるるなり。説心説性底を直指して是誰
  • 前には死中は直得去死を直指すと思い、説心説性底を直指して、是誰とは妄りに道取するにあらずと嫌わる。今は「十分の死を死して、得活の活計を現成する也」とあり、参差(しんし・矛盾・注)したるように聞こゆ、但非相違義。そのゆえは「又且の時は、その十分の死」の所がやがて活計と談ずる一筋あるべし。参差したればとて、始終非可向背儀、始めは嫌に似たれども、又且之時、此の道理現成すべきなり。已下如文。

説心説性(終)

 

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。