正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵第六十三 発無上心 (聞書・抄)

詮慧・経豪 正法眼蔵第六十三 発無上心 (聞書・抄)

西国高祖曰、雪山喩大涅槃。しるべし、たとふべきをたとふ。たとふべきといふは、親曾なるなり、端的なるなり。いはゆる雪山を拈来するは喩雪山なり。大涅槃を拈来する、大涅槃にたとふるなり。

詮慧

〇「喩」と云う事、仏法には法譬因縁とて三のその一也。上中下の三の機根に当てて、上根にはやがて其法を説き、中根には譬を説き、下根には因縁を以て説く。今の義には上中下の機根と分かたず、超越大小権実ゆえに、喩と云うも白き事を云わんとて、雪と云うにはあらず。雪をば雪に喩ふるなり。是を「親曾なる也」と云う、「端的なる也」と云う。法譬因縁を云うに法華経を蓮華に喩うる、譬喩当体とて、二にとる当体は法に同じ、詞の変わる計也。雪山は当体の義也、又無明即法性、法性即無明などと云う。一茎草を拈じて造仏し、無根樹を拈じて造経するなどと云う拈の義也。又大乗因者諸法実相也、大乗果者亦諸法実相也と云う程のことなり。この喩の字の丈にて、一切の字をも可心得。即と云うも、発と云うも、如と云うも、有無は善悪も是程なるべし。大涅槃に拈来して、大涅槃に喩うと云う心地、(祖師)『西来意』の巻には、枝々を攀・足々を踏むなどと云いし同じかるべし。「雪山喩大涅槃」などと云う時は法譬と覚ゆ。実相・真如・法性・涅槃などと云う時は、仏法也と思う、不可然。山河大地・拄杖払子と説くも、やがて仏法也。喩えには分喩あり、全喩あり、雪山を大涅槃に喩うこれなり。

〇教外と云うにも二の心あるべし。八宗九宗と云うにも、一宗の内なお四教を立つ是等に同じからざれば、教外の別伝と云うと心得方あり。一向教を嫌う事あり、此義無謂所談こそ変われ、経説にこなたの義なきにあらず。仏以一音の説を、機々が各得解するにてこそあれ、されば三十七品は小乗なれども、こなたに取る時、一字も不棄べし。やがて直指単伝大乗至極の法と云う。大段を如此取りふせぬる上は、いづれの詞も不可有障礙なり。

〇生死を云うにも世間に思うが如く、生より死に移るとは云わず、こなたには生也全機現・死也全機現と談ず。如此生死を超越しぬる上は、法譬因縁をも、嫌わず不可住、日来(の)見ゆえに。

〇無障礙の法を虚空とも談ずれども、世間の法を以て喩えには隔つる方あり。故に大涅槃を拈じて大涅槃と喩うと云う。棄三界で始めて成等正覚するにあらず、詞に厭三界とは云えども、まさしき正覚の時は、大地有情同時成道と仏は悟らせ御座します。仏を以て大地に喩え、大地を以て仏に喩うべきか。

〇直指単伝と云わん時、譬を可用ならねども、詞を取る時捨つべからず。雪山の喩えも、喩うべきを喩うる也。ただ色に付けて、白ければとて、華与雪を云うには不可似也。

〇迷と悟と殊に差別あり、仏と衆生と専ら懸隔也。然而又悟りの時、迷を捨つとも云わず、諸法仏法なる時節には迷あり悟ありと云う。迷を大悟するを諸法と云い、さとりに大迷なるを衆生と云う事あり。これは世間に誰も心得る時は、悟上得悟漢、迷中又迷の漢と云う。直指法は如此なるなり。

経豪

  • 「高祖」と者仏也、「雪山」者所名也。雪山に大涅槃を喩えと云えば、喩えば雪の清浄にして汚されず、清浄離塵の体に喩えたるように聞こえたり。但御釈に分明也、非今義べし。所詮「雪山を拈来するは、喩雪山也。大涅槃を拈来する、大涅槃に喩うるなり」とは云う也。やがて此の雪山の姿を、大涅槃と談ずる也、大涅槃を雪山とするなり。祖門所談の譬喩の姿如此なるべし。白物を雪に喩え、黒き物を漆に喩うなどとするは、いかにも能所二なくては不被談也、是れ旧見なるべし。(西国高祖とは指仏歟。既に仏を拈来すとあり、仏歟。廿八祖問歟、追可勘決)

 

震旦初祖曰、心々如木石。いはゆる心は心如なり。尽大地の心なり。このゆゑに自佗の心なり。尽大地人および尽十方界の仏祖および天・龍等の心々は、これ木石なり。このほかさらに心あらざるなり。

この木石、おのれづから有、無、空、色等の境界に籠籮せられず。この木石心をもて発心修証するなり、心木心石なるがゆゑなり。

この心木心石のちからをもて、而今の思量箇不思量底は現成せり。心木心石の風声を見聞するより、はじめて外道の流類を超越するなり。それよりさきは仏道にあらざるなり。

詮慧

〇「震旦初祖曰、心々如木石」(祖は達磨なり)、先ず「心々」と云うは、重点不審也。只「心如木石」と云いて足りぬべしと云いし難も、来ぬべし是程の難には、又「木石」と二を出だせば、木心石心と云わん為に、二ありとも云いつべし。但是等は法の詮にては努々(ゆめゆめ)なし。西国高祖の段に喩と云う詞を嫌いて大涅槃を、大涅槃に喩うと云いつるだけを、ここには「心々」と重ねて云うと心得るべし。

〇「如」の字を仕うに、譬如として喩えと取る方あり、又同じなる方にも仕う。経に如是我聞と云う、一には仏説の如く変わる事なしとも心得、一には似たる事を「如」と云うとも心得る。いまは超越是等義(を)、「心々如木石」とはある也。「如木石」と云うは、心々は心如心也と可心得。 天台義に如是相と云う、十如是のはじめの如是相を空仮中の三諦に釈し合わするに、文字を令上下して読歟、如是相(仮諦の心也)相是如(空の心なり)相如是(中通義)如此三の義也。「如」は似に通う、一心法界なりとも、一心如法界とも、法界即一心とも心得也。 天台に鏡像の喩えと云う事あれども、鏡を像に鋳ると云うには劣りて聞こゆべし。

〇「尽十方界の仏祖及び天・龍等の心々は、木石なり」と云う、是は尽十方界は、尽十方界の心々、仏祖は仏祖の心々、天・龍等は天・龍等の心々と心得也。心を別に置いて尽界にも、仏祖にも天・龍にも作るにてなし。天・龍等の心は我等が吾我の心に勝るべからざる心と覚するを仏祖と並べて説く。不審なれども、心々と談ずる時は、天・龍心も木石なり、思量箇不思量底も、木石の力を仮らずと云う事なきなり。「如木石」と云う事を悪しく心得て、有念を嫌う事あり、如世間(の)木石心を作さんとする故なり、甚不可然也。

〇又「思量」と云う事を悪しく心得る方には、都て「思」と云う事は、対白すれば白く、対黒すれば黒し。思は定まれる事なし、故に不対境して、寂々となる時を、「不思量」と云う也と解する事あり、如此の見捨てて不可用。吾我に具足したる心を、仏法には心と取らぬ上は、何と談じても不可有益也。

経豪

  • 此の初祖の御詞、又悪しく心得ぬべし。其故は「心」と云えば、慮知の心と思いて、此の心より諸の妄念等も生超す、故に只、如木石なるべしと云うと思えり、然者非仏祖法。又「如木石」と云えば、「如」の詞は喩えの詞と聞こゆ。「心」は心如也と云えば、此の「如」は心の上の如なるべし。所詮今は、尽大地心ならぬ一法あるべからず。「自他」と談ずるも、今の心が上の自他なるべし、如此云えば、心は心に喩うべき也。心の外に物なき故に、雪山は雪山に喩え、大涅槃は大涅槃に喩うる道理に同じなるべし。又「尽大地人及び尽十方界の仏祖、及び天・龍等の心々は、これ木石也」とは、今の尽大地人及び尽十方界の仏・祖・天・龍等を皆「心」と談ずる也。尽大地人、已下彼等は皆面々各々にて、彼等各々心を具足するを呼び出して、心々はこれ木石也と云うにはあらず、彼等を悉心と談ずる所を如此云也。心与木石、全非別体なり。故に「此の外さらに心あらざる也」とは云う也、心外無別法なる故に。
  • 此の心「有・無・空・色等の境界に籠籮せられざる」条勿論也。「発心修証」と云えば、人が在りて縁に被引かれて、発心すると不可心得。「この木石心を発心修証」と云う也。然者発心修証せざる時刻、暫時もあるべかからざるなり。日来の存知は、発心修証は硬く邂逅(思いがけず出会うの意)の事也とこそ思いつれ。是は今の仏法の道理を不見(の)咎によりて、此理を知らざりつ、今はあくまで仏祖正伝の発心修証の理を参学す、可随喜可歓喜也。全発心修証別に不可置也。
  • 御釈に分明に聞こえたり、不可有不審。「思量箇不思量底」の詞、『坐禅箴』のとき事旧了、坐禅の上に今の思量箇不思量を談ぜしように、今は心の上にて思量箇不思量底を可談所を如此云也。今の心木心石の理を見聞する時、始めて外道の見解をば離るるなり。此の道理を参学せざらんは、不可離外道(の)流類、此理を不見聞さきは非仏道也と云う。是則被指凡見歟、口惜事也。

 

大証国師曰、牆壁瓦礫、是古仏心。いまの牆壁瓦礫、いづれのところにかあると参詳看あるべし。是什麼物恁麼現成と問取すべし。

古仏心といふは、空王那畔にあらず。粥足飯足なり、草足水足なり。かくのごとくなるを拈来して、坐仏し作仏するを、発心と称ず。

詮慧 

〇「大証国師曰、牆壁瓦礫、是古仏心」、三界唯一心、心外無別法と云えば、先(の)一法をあげて、「牆」とも「壁」とも、「瓦」とも「礫」とも云うと心得るは、当たらざるべし。「古仏心」に於いて一法なし、只牆壁瓦礫これなり。「是什麼物恁麼」を古仏心と云う也。たとえば「牆壁瓦礫」は口二なるべし。

〇口二と云う事、談義座にて聞かざらん人、一定僻見ありぬべし。人面に口二あらん事甚不可然。古仏心を牆壁瓦礫と云い、牆壁瓦礫を古仏の心也と思わん事を深く誡むる故に、口二と云う詞は出で来る也。牆壁瓦礫と云いては古仏心は隠れ、古仏心と云うならば牆壁瓦礫は隠るべきなり。古仏心ならぬ、大地虚空草木あるまじければ、中々牆ぞ壁ぞなどと、一づつを古仏心とあらん事は、あしかりぬべし牆壁瓦礫と四文字づつ来たらん、少しも可違にあらず。口二とあればとて、一に対したる二にあらず。仏法(は)員(かず)に拘わらざる故に。

〇「古仏」と云う事、いかなるべきぞ。すでに「古仏心と云うは、空王那畔にあらず。粥足飯足なり、草足水足也」と云う、新古を超越すべし。「足」の字は古今を尽くす詞也。

経豪

  • 今「大証国師古仏心」と被仰。「牆壁瓦礫」は只徒らなる、我等が所思の牆ぞ壁ぞ、瓦礫にてあるべからず。古仏心と云わるる牆壁瓦礫、定有子細歟。「いづれの所にあると、参詳看あるべし」と云うは、何れの所も皆、牆壁瓦礫にあらざる所なき道理を例えば如此云わるるなり。以此理「是什麼物恁麼現成と問取すべし」とは云うなり。この「是什麼物恁麼来」の詞も、不審したる非問只法の理が、是什麼物恁麼来の道理なるなり。今の「何れの所にかある」と云う詞、只同じき故に、如此問取すべしとは云う也。
  • 如御釈。「古仏心」と云えば、過去空王仏などと云いて、久しき事を云うと思えり、非爾。今の「粥足飯足・草足水足」等を云うなり。

 

おほよそ発菩提心の因縁、ほかより拈来せず、菩提心を拈来して発心するなり。菩提心を拈来するといふは、一茎草を拈じて造仏し、無根樹を拈じて造経するなり。いさごをもて供仏し、漿をもて供仏するなり。一摶の食を衆生にほどこし、五茎の花を如来にたてまつるなり。

佗のすゝめによりて片善を修し、魔に嬈せられて礼仏する、また発菩提心なり。

しかのみにあらず、知家非家、捨家出家、入山修道、信行法行するなり。造仏造塔するなり。読経念仏するなり。為衆説法するなり、尋師訪道するなり。跏趺坐するなり、一礼三宝するなり、一称南無仏するなり。かくのごとく、八万法蘊の因縁、かならず発心なり。

あるいは夢中に発心するもの、得道せるあり、あるいは醉中に発心するもの、得道せるあり。あるいは飛花落葉のなかより発心得道するあり、あるいは桃花翠竹のなかより発心得道するあり。あるいは天上にして発心得道するあり、あるいは海中にして発心得道するあり。これみな発菩提心中にしてさらに発菩提心するなり。身心のなかにして発菩提心するなり。諸仏の身心中にして発菩提心するなり、

仏祖の皮肉骨髄のなかにして発菩提心するなり。しかあれば、而今の造塔造仏等は、まさしくこれ発菩提心なり。直至成仏の発心なり、さらに中間に破癈すべからず。これを無為の功徳とす、これを無作の功徳とす。これ真如観なり、これ法性観なり。これ諸仏集三昧なり、これ得諸仏陀羅尼なり。これ阿耨多羅三藐三菩提心なり、これ阿羅漢果なり、これ仏現成なり。このほかさらに無為無作等の法なきなり。

詮慧

〇「発菩提心」を初めて発(す)と心得べからず、牆壁瓦礫仏心と云う。発菩提心は一茎草を拈ずる也、隠没に拘わらず、もとよりの菩提心なり。只今の因縁によるに似たれども、全心菩提心なればこそ、今は発れとなり。

〇「魔に嬈せられて」と云うは、魔に嬈せられん上は、仏法なるまじき様に聞こえども、在世に其の例ありき。変化の仏を見て、信を起こして礼する事あり、是も信仏方(法)には菩提心なるべしと也。

経豪

  • 「発菩提心」と云う事、如前云。縁に依りて発心すとのみ心得、此の縁によると云わるる縁も、是菩提心也。ゆえに「外より拈来せず、菩提心を拈来して発心す」と云う道理なるべき也。又「一茎草を拈じて造仏し、無根樹を拈じて造経し、乃至いさごを以て供仏し、漿を以て供仏するなり。一摶の食を衆生に施し、五茎の花を如来に奉る也」とあり。此の各々の所挙が、皆発心菩提心なる故に、菩提心を拈来して発心する也とは被釈也。
  • 祖門には「魔」と云う事を嫌わず。此の魔(は)則ち発菩提心なるべし。「他のすすめ」と云うも、発菩提心の外の他にあらず、彼是共に発菩提心なるべし。
  • 所右挙の一一(の)詞、みな発菩提心なるべし。
  • 如前云、一一(の)詞、悉く発菩提心なる故に、「発菩提心中にして更に発菩提心するなり」とは云うなり。 夢中ならでは不成仏国もあり、則経説也。其国の衆生は皆夢中に生仏するなり。仏も臥せ給う、衆生も寝ぶる其の内にて成仏すと云々。但今所談の夢中は、不可為今義、夢中説夢の夢なるべし。此の夢の姿を、成仏とも一心とも可談なり。
  • 是等の姿、皆発菩提心の故に如此、一一彼挙也。

 

しかあるに、小乗愚人いはく、造像起塔は有為の功業なり。さしおきていとなむべからず。息慮凝心これ無為なり、無生無作これ真実なり、法性実相の観行これ無為なり。かくのごとくいふを、西天東地の古今の習俗とせり。これによりて、重罪逆罪をつくるといへども造像起塔せず、塵勞稠林に染汚すといへども念仏読経せず。これたゞ人天の種子を損壊するのみにあらず、如来の仏性を撥無するともがらなり。まことにかなしむべし、仏法僧の時節にあひながら、仏法僧の怨敵となりぬ。三宝の山にのぼりながら空手にしてかへり、三宝の海に入りながら空手にしてかへらんことは、たとひ千仏万祖の出世にあふとも、得度の期なく、発心の方を失するなり。これ経巻にしたがはず、知識にしたがはざるによりてかくのごとし。おほく外道邪師にしたがふによりてかくのごとし。造塔等は発菩提心にあらずといふ見解、はやくなげすつべし。こゝろをあらひ、身をあらひ、みゝをあらひ、めをあらうて見聞すべからざるなり。まさに仏経にしたがひ、知識にしたがひて、正法に帰し、仏法を修学すべし。

仏法の大道は、一塵のなかに大千の経巻あり、一塵のなかに無量の諸仏まします。一草一木ともに身心なり。万法不生なれば一心も不生なり、諸法実相なれば一塵実相なり。

しかあれば、一心は諸法なり、諸法は一心なり、全身なり。造塔等もし有為ならんときは、仏果菩提、真如仏性もまた有為なるべし。真如仏性これ有為にあらざるゆゑに、造像起塔すなはち有為にあらず、無為の発菩提心なり、無為無漏の功徳なり。

たゞまさに、造像起塔等は発菩提心なりと決定信解すべきなり。

億劫の行願、これより生長すべし、億々万劫くつべからざる発心なり。これを見仏聞法といふなり。しるべし、木石をあつめ泥土をかさね、金銀七宝をあつめて造仏起塔する、すなはち一心をあつめて造塔造像するなり。

空々をあつめて作仏するなり、心々を拈じて造仏するなり。塔々をかさねて造塔するなり、仏々を現成せしめて造仏するなり

かるがゆゑに、経にいはく、作是思惟時、十方仏皆現。しるべし、一思惟の作仏なるときは、十方思惟仏皆現なり。一法の作仏なるときは、諸法作仏なり。

詮慧

〇「造像起塔は有為の功業なり。さしおきていとなむべからず。息慮凝心これ無為なり、無生無作これ真実なり」と云う、造像起塔をこそ無為の善とは習え。此の有為の身にて行ぜんこと有為とて皆捨つべきか、有為の身にて無為と学すること本意なれ。尽十方界真実人体と体脱する故に、造像起塔の詞を一向造作と心得る事あるべからず。作仏作祖これ作像起塔也。「造塔等は発菩提心にあらずといふ見解、早く投げ捨つべし。こころを洗い、身を洗い、耳を洗い、目を洗うて見聞すべからず」と云う、是は洗うようも能々可心得。世間の穎水(えいすい)などにて、耳を洗いし(「穎水洗耳の故事」)様に洗うとは心得まじ。「洗」と云うは、心をば三界唯心と洗うべし、身をば尽十方界真実人体と洗うべし。耳目等をば尽十方界沙門一隻眼の心地にて洗うべき也。

〇「木石を集め泥土を重ね、金銀七宝を集めて造仏起塔する、則ち一心を集めて作仏する也、心々を拈じて造仏するなり。塔々を重ねて造塔する也、仏々を現成せしめて造仏する也」と云う、一心を集むるを空々を集むるとも、塔々を重ぬとも云わるる也。此の集め重ね、現成せしめてと云う詞は、心々如の心地也、大涅槃を大涅槃に喩うる程の事也。西来意に枝が枝を攀じ、足が足を踏む程の丈なり。

〇「経云、作是思惟時、十方仏皆現」と云う、是は塔々を重ねて造塔するなり、仏々を現成せしめて造仏する也と云う所に引かる。これ非能観所観思惟也、思量箇不思量底を思惟皆現なるべき。

経豪

  • 如御釈分明也。尋常所思の邪見等を被出也、能々閑可了見事也。
  • 是は「一塵」は小さく、「無量」は多しとのみ心得る所の、旧見を不失と説き、如此の見はあるなり。此の「一塵則経巻也」、此の「無量則諸仏也」と談ずれば、聊かも今の詞と理と無相違也。一多の理を説く時、仏祖には如此云也。又「一草一木」は別の物、其の外に身心と云う事を談之也、故に仏法の理が親切ならざる也。「一草一木をやがて身心」とだに談ずれば少しも無煩、無不審也。「一心」は身に具足する物、「万法」は其の外に在りなんと心得る時こそ各別なれ。万法の体全く不各別、万法を一心と談ずれば「万法不生なる時、一心も不生」と云わるるなり。「諸法実相なれば、一塵実相也」と云う儀も同前儀也、更被是不可違。
  • 御釈に委しく聞こえたり。「一心を諸法と談ずる上は諸法一心なるべき条」勿論(の)事也。此の理が「全身也」とも云わるる也。「造塔等もし有為ならん時は、仏果菩提も、真如仏性も、又有為なるべし」と談ずる時に、発菩提心なる(は)、造像起塔を有為なるべしと、彼(の)詞に仰せて云う也。故に「造像起塔則ち有為にあらず、無為の発菩提心也、無為無漏の功徳也」とは云う也、実(に)甚深の義なるべし。
  • 「億劫の行願」とは、只発菩提心ならぬ道理なき心地を云うべきか、此理ならぬ一法もなき所が、「是より生長すべし」とは云わるる也。此の発心の姿まことに「世々生々億々万劫破廃すべからざる発心なるべし」。此理を以て「見仏聞法とも云うべき也」と云う也。 打ち任せたる発心は、中間にさめぬれば、やぶるる時もあるべし。今祖門所談の発菩提心、更(に)中間に破廃すと云う義あるべからざる也。
  • 右に所出の木・石・金・銀、七宝等の姿(は)皆是一心なり、発菩提心也非別体。故に此理が「一心を集めて造塔造像するなるべし。空々を集めて作仏す」と云うも、此の空(は)又一心なる故に空々を集めて作仏すとは云う也。乃至「心々を拈じて造仏し、塔々を重ねて造塔し、仏々を現成せしめて造仏する」道理なるべし。
  • 此の経文、大乗の機根にあらざらん輩は、聾盲の如くなり。仍って小乗を拵えんが為に、仏(は)鹿野園に赴きて法を説かんと思惟し給いしを、十方仏皆現して入り入り(?)とある仏達の釈尊を讃嘆申して、現じ給うかと経文にては見たり、今は此の「思惟の当体を、十方仏皆現」とは談ずる也。仏に思惟を持たせ奉れば、思惟与仏(は)各別に聞こゆるなり。其れを思惟をやがて仏と談ずれば、「一思惟の作仏なる時」と被談也。又「一思惟十方思惟」と云えば、一思惟わづかに十方思惟と云えば、広き様に聞こゆ非爾。広狭に拘わるべきに非思惟、一思惟も十方思惟も只同事也。十方仏皆現と云わるる十方の詞に付けて、思惟を仏と談ずれば、十方思惟仏皆現という理(が)出で来たるなり。「一法諸法」(も)又如前云、非浅深多少義。「一法作仏の時は、諸法も作仏なるべき道理」必然なるべき也。

 

釈迦牟尼仏言、明星出現時、我与大地有情、同時成道。しかあれば、発心修行、菩提涅槃は、同時の発心修行菩提涅槃なるべし。仏道の身心は草木瓦礫なり、風雨水火なり。これをめぐらして仏道ならしむる、すなはち発心なり。

虚空を撮得して造塔造仏すべし。谿水を掬啗して造仏造塔すべし。これ発阿耨多羅三藐三菩提なり。

一発菩提心を百千万発するなり。修証もまたかくのごとし。 しかあるに、発心は一発にしてさらに発心せず、修行は無量なり、証果は一証なりとのみきくは、仏法をきくにあらず、仏法をしれるにあらず、仏法にあふにあらず。千億発の発心は、さだめて一発心の発なり。千億人の発心は、一発心の発なり。一発心は千億の発心なり、修証転法もまたかくのごとし。草木等にあらずはいかでか身心あらん、

身心にあらずはいかでか草木あらん、草木にあらずは草木あらざるがゆゑにかくのごとし。坐禅辦道これ発菩提心なり。発心は一異にあらず、坐禅は一異にあらず、再三にあらず、処分にあらず。頭々みなかくのごとく参究すべし。

詮慧

〇「釈迦牟尼仏言、明星出現時、我与大地有情、同時成道」是は已前種々の善を挙げて、発菩提心の義を述べられつる証據に引かる。ゆえに「しかあれば、発心修行菩提涅槃は、同時の発心・修行・菩提・涅槃なるべし」と云えり。吾我に仰せて云う時こそ、発心して修行し、菩提に到りて後、涅槃に入るとは習え。「大地有情、同時成道」の時は、発心を先に置くこと不可叶。発心も涅槃も同時と可心得。

〇「谿水を掬啗して造仏造塔」と云う、水にて世間に作る仏の如く、仏を作り塔を組むべきにはあらず、これは志に谿の水を汲み、仏に施すを造仏造塔と云うなり。

〇「一発菩提心を百千万発する也、修証も如此」と云う、菩提心をば一度起こし、修善は百千万すると、各別して云うにはあらず。修善の員(かず)、発菩提心なるべしとなり。

〇「発心は一発にしてさらに発心せず、修行は無量也、証果は一証也とのみ聞くは、仏法を聞くにあらず」と云うは是如文。所詮、発心も修行も証果も同じければ、員も同じかるべし。かたち変えなるべからず。

〇「坐禅辦道これ発菩提心也。発心は一異にあらず、坐禅は一異にあらず、再三にあらず」と云う、是は坐禅と発菩提心と各別ならぬ所をいう。すべて菩提心坐禅等、かたちにも拘わるまじ、員にも拘わらぬ所を、非ず非ずと挙ぐる也。

経豪

  • 是は発心修行、菩提涅槃を各々に心得て、発心は始めにて、其の後修行し、修行已後、菩提涅槃は顕わるべし、とのみ心得たり。其れを今は発心修行菩提涅槃を各々に不立。発心の所に菩提涅槃も満足し、修行の所に菩提涅槃も円満する也。かるが故に「発心修行菩提涅槃は、同時の発心修行菩提涅槃なるべし」と云う也。又「仏道の身心は草木瓦礫也、風雨水火なり。是れをめぐらして仏道ならしむる、則ち発心なり」とは、此の草木瓦礫・風雨水火等を身心と談之ゆえに、仏道ならしむる則ち発心也とは云うなり。是が是なる所の理が、今は菩提心とは云うべきなり。
  • 今「虚空を撮得し、谿水を掬啗して、造仏造塔す」と云えば、いかなるべきぞと覚えたり。只所詮、虚空の姿則造塔造仏也。谿水の姿則造塔造仏也と云う也。此の道理を以て、「発阿耨多羅三藐三菩提」とは云うべき也。是は「一発」と云えば、狭少に覚ゆる所を、百千万発も一発も多少に拘わるべからざる義なり。一発の所がやがて、百千万発なるべき也と云う也。修証の道理も又如此と云う。又「発心は一発にして発心せず」とは、発心は一にて発心する物もあり、不発心の物もあり。発心の姿一にて、「修行の姿こそ無量なれ、証果又一証也とのみ」、打ち任すは、人の思い見解を如此被出也、是を被嫌也。発心の所に修行証果欠けたる所あるべからず。一発が修行とも証果とも云わるべき也。又「千億発の発心は、定めて一発心の発なり。「千億人の発心は、一発心の発なり。一発心は千億の発心なり、修証転法も又如此」と云うは、如前云。此の発の道理が千億発と云えば多く、一発と云えば狭少に聞こゆる所を、発の理の方より談ずれば、万億の発も一発の発も、千億人の発も一発心の発も、聊か差別なき道理を被釈顕なり。「修証転法」の理も如此なるべきなり。
  • 草木が身心なる道理なる故に、「草木等あらず争か身心あらん」とは云う也。此の道理が又打ち返して「身心にあらずは、争か草木あらん」と云わるる也。又「草木にあらずは、草木あらざるが故に、又如此」とは、草木と心とが、至りて一なる時、又「草木にあらずは、草木あらざるが故に」とは云うなり。迷を大悟すれば諸仏也、さとりに大迷なるは衆生也。さらに悟上得悟の漢、迷中又迷の漢と、結せし程の同じ詞也。
  • 坐禅辦道これ発菩提心也」と云う、尤其謂あり。実(に)争か発菩提心ならざるべき。「一異にあらず」とは、今の発心与坐禅一物也。発心と坐禅との姿、一異にあらずと云う道理もあるべし。又「発心は発心と一異に非ず、坐禅坐禅と一異に非ず」と云う道理に可落居也。

 

草木七宝をあつめて造塔造仏する始終、それ有為にして成道すべからずは、三十七品菩提分法も有為なるべし。三界人天の身心を拈じて修行せん、ともに有為なるべし、究竟地あるべからず。

草木瓦礫と四大五蘊と、おなじくこれ唯心なり、おなじくこれ実相なり。尽十方界、真如仏性、おなじく法住法位なり。

真如仏性のなかに、いかでか草木等あらん。草木等、いかでか真如仏性ならざらん。

諸法は有為にあらず、無為にあらず、実相なり。実相は如是実相なり、如是は而今の身心なり。

この身心をもて発心すべし。水をふみ石をふむをきらふことなかれ。ただ一茎草を拈じて丈六金身を造作し、一微塵を拈じて古仏塔廟を建立する、これ発菩提心なるべし。

見仏なり、聞仏なり。見法なり、聞法なり。作仏なり、行仏なり。

詮慧

〇仏法了見万差事、仏法無多途と説く(是一)・仏法万差也と説く(是二)、相違如何。『宝積経』云、「一念発起菩提心菩提心種得成就」(宝積経不出・『心要鈔』にて「経云、一念発起菩提心(略)、菩提心種成仏道」(「大正蔵」七一・六〇中)。是の経文たしかなれども、三十七品菩提分法をやがて、大乗至極の法ぞと云う時同じき詞なれども、天地懸隔也。破壊と云う詞を微塵になるとは不可心得、仏法の上にて云うべし。

〇初祖菩提達磨大師入梁之始与帝問答事、正法眼蔵六十三、発菩提心云、造仏造塔・読経念仏・尋師訪道・跏趺坐・一体三宝・一称南無仏・八万法蘊・因縁発心也。

「草木七宝をあつめて造塔造仏する始終、それ有為にして成道すべからずは、三十七品菩提分法も有為なるべし」とあり、誠(に)今の談には異なるべし。抑も仏言の一念発起菩提心、勝於造立有千塔の御詞、祖師造寺・写経・度僧は無功徳、人天小果有漏之因と被仰と祖の心同じに似たり。今正法眼蔵御詞甚以相違と聞こゆ。如何不心得所ありや、答、仏祖の語、機に随いて不定なり。造像起塔を有漏の因として有漏の果を期する人の為には、有漏の因果は、影の形に随うが如しと嫌う故、仏は宝塔破壊成微塵と説き、初祖は無功徳誡め給えり。若し菩提の正路に赴く時は、塵々刹々、しかしながら無為真実と覚悟す。故(に)一塵の中大千の経巻有りと云い、一塵の中に無量の諸仏ましますと述べたり。まことにそれ有為無漏を離れて、無為無漏の法なき故なり。この心を以て、仏祖の語を心得るに相違なきなり。

〇「三界人天の身心を拈じて修行せん、ともに有為なるべし」と云う、実(に)三界人天は有為の法也。しかあれども、今同時成道の発心修行と云う上は、三界唯心の道理なるべし。

〇「真如仏性のなかに、いかでか草木等あらん。草木等いかでか真如仏性ならざらん」と云う、此の心地は、清浄本然云何忽生山河大地の問答程の詞也、有無の沙汰に不可及者也。「一茎草を丈六金身の体」と云う事、すでに事旧ぬ。「水をふみ石をふむを嫌う事なかれ」と云う、此の「ふむ」と云うは、ただ水を汲み石を取ると云う程の詞なり、別子細あるべからず。

経豪

  • 実(に)一心なる「草木七宝をあつめて、造塔造仏するを有為」と云うべくば、三十七品菩提分法は、一向小乗なるべし、是又尤も有為なるべし。「三界人天の身心を拈じて修行せん、是又有為也」、如此云わば、「究竟地はあるべからず」と云う也。
  • 草木瓦礫は非情の物、四大五蘊衆生の所具と心得たる見解を嫌いて、「草木瓦礫も四大五蘊も皆唯心なり、実相也、真如仏性同じく法住法位也」と有る也。
  • 真如仏性と談ぜん時は、実(に)皆真如仏性なるべし、草木と云わるべからず、又此の草木真如仏性なり。然者又「争か真如仏性ならざらん」とは云わるる也。
  • 「諸法の上には、有為とも無為とも談ぜん」、更(に)不可違義理なり。然而蹔く、ここには「実相也」と云うなり。法華に十如是を立つるに、如是相とて、其の外に性体力等を立つ。是も皆此の十如是実相なれども、「如是実相」と云いて、又他の詞なし。只同理なれども、今一重実相の外に、余の物もなき道理、猶たくみに解脱に姿さわさわと聞こゆ。但始終勝劣も軽重もありとは不可云也。「如是は而今の身心也」とあり、以今如是、可談身心謂顕然なり。
  • 「以此身心可発心」と云えば、日来の旧見に迷いつべし、今は此身心を指す、身心をやがて発心と談ずる也。全心の上、道心を発などと不可心得。「水をふみ石をふむ」とあれば、何事ぞと、ふと指し出でたるように聞こゆれども、古き詞歟。只所詮「石をふみ、水をふむ」姿、皆発心也と云う心地也。「一茎草を拈じて、丈六の金身を表す」と云う事、古き祖師の詞なり。此の一茎草がやがて、丈六の金身なるべき也、故に発心也。「一微塵の当体則ち古仏の塔廟也」、是を発菩提心と云うべし、一微塵則発心なる故に。
  • 此の一一所挙の道理の行所を、或いは「見仏」とも「聞仏」とも、「見法・聞法・作仏・行仏」とも云わるる也。聞仏と云う詞ぞ、珍しきようなれども、今の理の上には、聞仏と云う詞なかるべきにあらず。詞に拘わらずとは、是等を云うべきを、捨言語と云う事、甚不被心得也。

 

釈迦牟尼仏言、優婆塞優婆夷、善男子善女人、以妻子肉供養三宝、以自身肉供養三宝。諸比丘既受信施、云何不修。しかあればしりぬ、飲食衣服、臥具医薬、僧房田林等を三宝に供養するは、自身および妻子等の身肉皮骨髄を供養したてまつるなり。

すでに三宝の功徳海にいりぬ、すなはち一味なり。すでに一味なるがゆゑに三宝なり。三宝の功徳すでに自身および妻子の皮肉骨髄に現成する、精勤の辦道功夫なり。

いま世尊の性相を挙して、仏道の皮肉骨髄を参取すべきなり。いまこの信施は発心なり。受者比丘、いかでか不修ならん。頭正尾正なるべきなり。

これによりて、一塵たちまちに発すれば一心したがひて発するなり、一心はじめて発すれば一空わづかに発するなり。おほよそ有覚無覚の発心するとき、はじめて一仏性を種得するなり。

四大五蘊をめぐらして誠心に修行すれば得道す、草木牆壁をめぐらして誠心に修行せん、得道すべし。四大五蘊と草木牆壁と同参なるがゆゑなり、同性なるがゆゑなり。同心同命なるがゆゑなり、同身同機なるがゆゑなり。

これによりて、仏祖の会下、おほく拈草木心の辦道あり。これ発菩提心の様子なり。五祖は一時の栽松道者なり、臨済は黄蘗山の栽杉松の功夫あり。洞山には劉氏翁あり、栽松す。かれこれ松栢の操節を拈じて、仏祖の眼睛を抉出するなり。これ弄活眼睛のちから、開明眼睛なることを見成するなり。

造塔造仏等は弄眼睛なり、喫発心なり、使発心なり。造塔等の眼睛をえざるがごときは、仏祖の成道あらざるなり。造仏の眼睛をえてのちに、作仏作祖するなり。

造塔等はつひに塵土に化す、真実の功徳にあらず、無生の修練は堅牢なり、塵埃に染汚せられずといふは仏語にあらず。塔婆もし塵土に化すといはば、無生もまた塵土に化するなり。無生もし塵土に化せずは、塔婆また塵土に化すべからず。遮裡是甚麼処在、説有為説無為なり。

詮慧

〇「釈迦牟尼仏言、云何不修、以妻子肉供養三宝す」と云うに、絹布等の供養是を肉とする也。三宝に供養しぬれば、妻子の肉とも難云。同時成道なるべし、大地有情の外に争か妻子の肉もあるべき、袈裟を云うにも、絹布等の論にあらず。一向称仏衣鉢また木石等の論にあらず、仏鉢也。四姓出家同称釈子と如云。

〇「信施は発心也、受者比丘いかでか不修ならん、頭正尾正なるべき也」と云う、すでに妻子自身皮肉骨髄を、三宝に供養す、是程大きならん。施を受けて、比丘争か不修ならんと云うと心得られぬべし。但今の心地は不可然、発菩提心の不修なる義あるべからず。すでに「受者」というは、菩提心を受くるにてある時に、施する物受くる物、何の有差別乎。この「不」の字は、ただ不会の不なるべきか。「頭正尾正」という故に、劣々不修の事なきを、「云何不修」とはある也。

〇五祖・臨済黄檗・劉氏翁等・松杉柏等の事、如世間思わんには、五祖已下松を栽え、かえ(?)を栽ゆる許りを行道としけるが、坐禅辦道功夫ある人々にてこそ、あるらめと覚えたれども、いま祖師となる上は、栽松等を発心と取るなり。払子拄杖を使うも同じ事なり。我等草木を栽えて、花若しくは草を愛するにてはなし。蹴毱のにかかり(?)を栽えなんどするに、ひとしめて不可心得。

経豪

  • 「以妻子肉供養三宝、以自身肉供養三宝」などと云えば、衆生所具の肉等を以て、供養三宝すべしと、文の面は見えたり。但尽十方界の人の上の自身、並肉等なるべし。乃至優婆塞優婆夷、善男子善女人等も、以尽十方界、善男子とも善女人とも云うべきなり。然者又以此姿、可名三宝也。衆生を別に置きて、供養三宝とは不可心得也。是則甚深微妙の三宝供養の姿なるべし。
  • 分に分明也。此の「飲食衣服、臥具医薬、僧房田林等を三宝に供養す」と云うは如前云。今の自身妻子肉皮骨髄を供養すと云う程の詞なるべし。是も尽十方界真実人体の人の上の、衣服・臥具・医薬・僧房・田林等、妻子肉自身肉を談ずるに、聊かも不可違。今御釈にもすでに、自身及び妻子等の身肉皮骨髄を供養し奉る也とあり分明也。
  • 三宝の功徳海に入りぬ」と云えば、悪しく背きたりつる物を、今は強為して、三宝の功徳に入りたるように聞こゆ、非爾。今は自身並妻子肉・飲食衣服・臥具医薬・僧房田林、乃至身肉皮骨髄等が、やがて三宝なる道理を一味と云うべき也、是こそ真実の一味なるべけれ。無尽の姿を取り集めて、是より彼に入りぬと云わん。更非仏法一味べし、以此理「精勤、辦道功夫」とは云うべき也。
  • 前に云う道理を以て世尊の性相とは可談也。此の「世尊の性相を談じる」理を以て、「仏道の皮肉骨髄をも参取すべし」と云う也。能施の優婆塞・優婆夷、善男子・善女子等と、今の受者・比丘と全非各別体、謂わば能施所施共に発心なるべし。然者不修の時分、聊かも不可有不修、何所に可被置乎。此の道理を「受者・比丘争か不修ならん」とは云う也。すべて不修の理あるべからざる故に、此理を「頭正尾正」とは云う也。
  • 一塵を心と談ずれば、「一塵発すれば一心発する」とは云う也。「一空発す」と云うも、此の空(は)発心なり。此の有覚無覚全非得失、発心の上の有覚、発心の上の無覚也。「一仏性」と云えば、又あまたの中に一を取り出でたりと聞こゆ、只所詮、以今理仏性とも談也と云う心なるべし。
  • 是は四大五蘊は、衆生の所具の調度、草木牆壁等は非情の物とのみ心得、其れを今は四大五蘊も発心也、草木牆壁も発心也。故にいづれも「誠心に修行すれば得道なる」なり。故に「四大五蘊と草木牆壁と同参なるが故なり、同性なるが故に、乃至同身同機なるが故」にと被決なり。
  • 祖師の会下に多く松を栽え、柏を栽えたりし事ありき。詮は此の姿を皆発心と可談なり。凡そ仏祖の威儀、動揺進止、仏法に非ずと云う事なき道理の上は、実(に)今の栽松松柏の節操等、只いたづらなる物と云うべきに、あらざる道理顕然也。今の栽松杉等の姿、是れ仏祖の眼睛なるべき也。
  • 今の「造塔造仏等の姿を以て、弄眼睛」と可取なり。「喫発心、使発心」何事ぞと聞こゆれども、詮は今の発心の無量無辺なる功徳は喫とも、云わるるが都て無相違也。解脱の理なるが故に、滞り礙わる事なき也。実(に)此の「道理を得ざらんときは、仏祖の成道と云う事は不可有」。今の造仏の眼睛くらからん時、作仏作祖とは云わるべき也、尤有謂有謂。
  • 是は先に云いつる心也。如先度「遮裡是甚麼処在、説有為説無為」とは、例常詞也。前に云う道理が如此、遮裡是甚麼処在説有為説無為と云わるる也。有為無為、又不可取捨詞也。

 

経云、菩薩於生死、最初発心時、一向求菩提、堅固不可動。彼一念功徳、深広無涯際、如来分別説、窮劫不能尽。あきらかにしるべし、生死を拈来して発心する、これ一向求菩提なり。

彼一念は一草一木とおなじかるべし、一生一死なるがゆゑに。しかあれども、その功徳の深も無涯際なり、広も無涯際なり。窮劫を言語として如来これを分別すとも、尽期あるべからず。海かれてなほ底のこり、人は死すとも心のこるべきがゆゑに不能尽なり。

彼一念の深広無涯際なるがごとく、一草一木、一石一瓦の深広も無涯際なり。

一草一石もし七尺八尺なれば、彼一念も七尺八尺なり、発心もまた七尺八尺なり。

しかあればすなはち、入於深山、思惟仏道は容易なるべし、造塔造仏は甚難なり。ともに精進無怠より成熟すといへども、心を拈来すると、心に拈来せらるゝと、はるかにことなるべし。   かくのごとくの発菩提心、つもりて仏祖現成するなり。

詮慧

〇「経云、菩薩於生死―窮劫不能尽」、菩薩は生死を一向求菩提と取るなり。これ人は死すとも、心残るべきが故に不能尽也と云う。この死と心と能々可心得也。世間に云う凡夫の死と、心とを云うべきにあらず。死の一時を説き、心の一時を説く時、身心一如なれば、心と説く時は、身と死と云う程の義を取りてかく云う也。更(に)慮知念覚の心、四苦の終わりの死を談ずるにあらざる也。

〇「入於深山、思惟仏道は容易なるべし、造塔造仏は甚難也。ともに精進無怠より成熟すと云えども、心を拈来すると、心に拈来せらるるとは、はるかにことなるべし」

此の容易と甚難とは、世間に如思の易く難きにてなし、善悪勝劣にてなし。樹上道は易し、樹下道は難しと云わん程の難易なるべし。拈来すると、拈来せらるると云えば、はるかに異也とこそ聞こゆれども、如此の菩提心とあけられぬれば、無殊異、只菩提心なるべし、仏祖現成なるべし。

〇「人は死すとも心のこるべきが故に、不能尽也」とある、この生死は経文に菩薩なれば、一念の功徳深広にて不能尽也なる也。如先尼外道見の身は無常也、心は常住也と云うには異なるべし。全生全死と談ずる前に人は死すとも、心はのこるべしと云う不被心得。然而是は三界唯心の心なれば、生死に依るまじき所を云う也。三界唯心は不能尽也、一草一木、一石一瓦も各心也、心なれば深広也。一石も一念も、同じければ、一石もし七尺八尺なれば、彼の一念も七尺八尺なりとある也。

〇「彼一念功徳、深広無涯際、如来分別説、窮劫不能尽」と云う、この一草一木の丈、深広無涯際と聞こゆ。但彼の一念を一草一木に親しく思い合わせば、一草は彼一念、これ深広無涯際、一木又彼一念なり。これ又深広無涯際と云うべし。窮劫を言語として、如来これを分別すと云う尽期あるべからず。仍って不能尽なり、所詮一念一世界同じ。

経豪

  • 是は華厳経(『華厳経』六(「大正蔵」九・四三二下)但原文「深広無辺際、窮劫猶不尽」)の文を被引載歟。今の面の如きは「菩薩於生死、最初発心時、一向求菩提、堅固不可動。彼一念功徳、深広無涯際、如来分別説、窮劫不能尽」と、美しくさわさわと無不審、文の面には見えたり。但如此任文心得るは仏法と難云。旁有其難非仏祖法その故は先(の)能在の菩薩、所在の死生にあるべし(是一)。次「最初発心時」と云えば、始中終に拘わる詞と聞こゆ(是二)。「一向求菩提」と云えば、発心与求人各別に聞こゆ(是三)。「彼一念の功徳」と云えば、最初発心の所を彼一念と指すに似たり(是四)。此の「一念の功徳の深広無涯際なる事を如来説、窮劫不能尽」と云えば、能説所説二ありと聞こゆ(是五)。又此の功徳多くして説とも不尽と云えば、凡見の多少にも類せられぬべし(是六)旁以其難多来也。それを仏祖の方よりは如今御釈、「生死を拈来して、発心するこれ一向求菩提也」と云えば、今の生死を則発心也。是を一向求菩提と談ずれば、重々の難も不来。能在所在もなく、始中終にも拘わらず、発心与人との二もなく初後の詞も解脱せらるる也。委如御釈。
  • 是は経文の「彼一念功徳」の詞の被釈に、「彼一念は一草一木と同じかるべし。一生一死なるが故に」とあり。一草一木すでに発心なり、故に彼一念は一草一木と同じかるべしとは云う也。生死の詞を一生一死と談之、一草一木と、一生と一死と、只同詞同心なるべし。「深」も実に無涯際なるべし。「広」も無涯際なるべし。又「窮劫を言語として如来これを分別すとも尽期あるべからず」と云うは、窮劫則如来の言語なる故に、尽期あるべからず歟。彼一念已に一草一木ならば、分別説又一劫多劫ならざらんや、故に無涯際なり不能尽なるべき歟。
  • 此の詞不得其意。「海かれてなほ底はのこり、人は死して心のこる」などと云えば、凡見にも、まがいぬべき詞かと聞こゆ。是は只不能尽の方の詞に、しばらく合わせんとて、海と底と各別の法と談ぜず。海かれたれども底のこれば、海の不能尽なる理も聞こゆ。人は死すとも心のこれば、人の上の不能尽なる理の方を取らん料りの詞なり。身は死すれども、心は常住にしてのこるなどと云う、見には更に不可心得也。一方の理を合わせん料りに如此詞いでける事常義也。
  • 今の「一草一木、一石一瓦」、実に争か数量多少に拘わるべき無涯際なるべき条勿論の事也。
  • 是は先々の沙汰の如し。此の「七尺八尺」の詞、無縫塔の七尺八尺程の尺なるべし。
  • 此の「容易甚難」の詞、得失にあらず、樹上道は易し、樹下道は難しと云いし程の詞也。「入於深山・思惟仏道・造塔造仏」との姿、差別得失に拘わるべからず、共に懶墮(らんだ)にて成就すべきにあらず。又心を置きて此の「心にて拈来すると、心に拈来せらるると、実(際)はるかに異なるべし」但是も如此云えば、得失の二を立てるように聞こゆ。只此の道理の落居する本意は、心を拈来するも、心に拈来せらるるも、会不会、悟不悟、見不見程の理也。
  • 「つもりて」の詞、少分なる時は、不現成して劫かさなりて後、現成すべきかと被心得ぬべし。今の「つもりて」は、只此の発心のいろいろさまざまなる道理を述ぶる時、「仏祖」とは云わるる也と云う心地を如此被釈也。

発無上心(終)

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。