正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵第七一 鉢盂 註解(聞書・抄)

詮慧・経豪 正法眼蔵第七一 鉢盂 註解(聞書・抄)

七仏向上より七仏に正伝し、七仏裏より七仏に正伝し、渾七仏より渾七仏に正伝し、七仏より二十八代正伝しきたり、

第二十八代の祖師、菩提達磨高祖、みづから神丹国にいりて、二祖大祖正宗普覚大師に正伝し、六代つたはれて曹谿にいたる。東西都盧五十一代、すなはち正法眼蔵涅槃妙心なり、袈裟鉢盂なり。ともに先仏は先仏の正伝を保任せり。かくのごとくして仏々祖々正伝せり。

詮慧

○仏法を習うには、都て旧見を残さぬ也。小乗の法に付いて有為の法をば厭うべし。捨つべしと云うを、大乗に房ねて仏法とは談ずれども、解脱の義にはあらず。今「七仏向上より七仏に正伝し、七仏裏より七仏に正伝し、渾七仏より渾七仏に正伝し、七仏より二十八代正伝す」と云うこそ、始終にも拘わらず前後をも脱落すれ。「先仏の法」とは、いま衆生の為りたる新仏ありて、受け継ぐと習うは解脱なるべからず。取捨の躰は変われども、大小乗ともに不離取捨不棄旧見なり。今の「相伝」は先後の仏を不立、たとい、又立つとも日面月面なり、前後の詞に不可堕也。仏の名を聞くは解脱に似たれども未だし、両仏相逢するを相伝と思うべからず、一仏の上(に)相伝するなり。昨日は迷妄の衆生なれども、聞法の時は汝得吾皮肉骨髄。都盧五十一代なれども只正法眼蔵也。仏法は依法正法と習いて国土を立つれども、更(に)方域際限なし、身に障りなし。若障あれば身も小分に国土も狭少なり、所具の法(は)又如此。

○凡そ仏祖の相伝を未心得人は、法をのみ就くと心得て皮肉骨髄(は)一なることを知らず。この故を「七仏向上より七仏正伝し、七仏裏より七仏に正伝し、渾七仏に正伝し、七仏より二十八代正伝しきたる」とも云う。始終に関わらず染汚なき詞なり、教に若過若滅皆存大数(『法華文句記』「大正蔵」三四・一六七下)などと談ずる事あり。若過とは例えば人の年を云うに、四十に二三も過ぎぬれば五十とも云い、五十一二歳にも成りぬれば六十の齢(よわい)などと云う此の義也。若滅と云うは又四十二三の時も四十と云い、五十二をも五十と云い、皆存大数と云うは、只多きに就きて余るぞ足らぬぞをば云わず、ただ四十とも五十とも云う、これを皆存大数と云う歟。今の七仏を五十一代ぞ二十八代ぞなどと数えんこと必ずしも数に関わるべからずと思うべき也。正伝と云うも是程なるべし。

経豪

  • 仏祖正伝の次第、先々事旧了。所詮一仏より他仏に正伝する道理、両仏相対したるに面は似たれども、仏法正伝の理の方よりは百千の面々ありとも、只「七仏向上より七仏に正伝し、渾七仏より渾七仏に正伝する」道理なるべし。経巻知識に随う時、無師独悟の理顕わるる程の事也。
  • 具見于文、無殊子細。但「五十一代、正法眼蔵涅槃妙心なり、袈裟鉢盂なり」と云う詞ぞ。大いに迷わしく覚ゆる、其の故(に)正法眼蔵は、仏法乃至袈裟鉢盂等は別の物にて、此の法を人有って学し、人有って鉢盂袈裟等を伝持するとこそ、思い習わしたるに。「正法眼蔵涅槃妙心なり、袈裟鉢盂なり」とある詞、被驚くようなれども祖門の所談(は)、以鉢盂則正法眼蔵涅槃妙心と談ずる時、不始于今事也。如此談ずる時こそ能所彼此は離るれ。

 

しかあるに仏祖を参学する皮肉骨随、拳頭眼睛、おのおの道取あり。

いはゆる、あるいは鉢盂はこれ仏祖の身心なりと参学するあり、あるいは鉢盂はこれ仏祖の飯埦なりと参学するあり、あるいは鉢盂はこれ仏祖の眼睛なりと参学するあり、あるいは鉢盂はこれ仏祖の光明なりと参学するあり、あるいは鉢盂はこれ仏祖の真実体なりと参学するあり、あるいは鉢盂はこれ仏祖の正法眼蔵涅槃妙心なりと参学するあり、あるいは鉢盂はこれ仏祖の転身処なりと参学するあり、あるいは仏祖は鉢盂の縁底なりと参学するあり。かくのごとくのともがらの参学の宗旨、おのおの道得の処分ありといへども、さらに向上の参学あり。

詮慧

〇仏の六根六境はなきにあらず。その数は六と云わるれども別也。眼も尽十方界と説く、鼻孔をも虚空と説く、鉢盂(も)又かくの如し。鉢盂は仏祖・身心・飯埦・眼睛・光明・真実体・正法眼藏涅槃妙心・転身処・仏祖鉢盂の縁底と云う也。

仏弟子の所持は衣鉢より外の物なし、衣は袈裟也、鉢は今の鉢なり。宝と云うは、ただ衣鉢許(ばかり)也。仮令(たとい)衣鉢ならぬ物ありとも僧の物と為りぬれば、総(ての)名に被引いて衣鉢と云う也。凡夫の見解に替わること遥か也。

〇「鉢盂はこれ仏祖の身心なり、仏祖の飯埦なり、仏祖の光明なり、仏祖の真実体なり、仏祖の正法眼蔵涅槃妙心なり、仏祖の転身処なり」挙げらるれども、仏祖の身心は鉢盂也。仏祖の眼睛は鉢盂也とは、何ぞ挙げられざる不審なり。但「仏祖は鉢盂の縁底なりと参学するあり」とあれば、不審を残すべからざる物也。―「転身処」とは仏の転身するなり、鉢是也。「縁底」とは仏祖を縁底と差(指)すなり。鉢を仏の物の具の様に思うは僻事也。やがて鉢を仏と指すなり、仏を鉢と指すあり。―

〇「おのおの道得の処分ありと云えども、さらに向上の参学あり」と云う。「鉢盂はこれ仏祖の身心なりと参ずるあり」と云うより、皆云い連ねて「おのおの道得の処分ありと云えども、さらに向上の参学あり」と云う。右に連ぬる条々皆向上の参学ありとはささるる(不明)なり。

経豪

  • 是又如文。実(に)「仏祖を参学する時、皮肉骨髓・眼睛・拳頭を談ずる道取あり」と云う、尤(も)謂(り)。是則所談の様、不混凡見教家等の所談に可違故に。
  • 御釈に委(しく)見えたり。今の鉢盂の道理の千変万化すべき条、勿論非可疑。是は千万が一を挙ぐる也。此の外、百千無量の詞あるべき也。但此の御釈(の)内、「鉢盂はこれ仏祖の飯埦なりと参学す」と云う御釈ぞ不被驚。さぞかしと普通の詞に聞こゆる。但是も如今云心得は、自余の御釈には可向背也。能々可了見事也。又「仏祖は鉢盂の縁底なり」とあり、縁ははた(端・傍・側)、底はそこなるべし。是も鉢盂に付けて縁ある詞に聞こゆれども、是も普通の縁底とは不可思。全縁全底の道理なるべし。

 

先師天童古仏、大宋宝慶元年、住天童日、上堂云、記得、僧問百丈、如何是奇特事。百丈云、独坐大雄峰。大衆不得動著、且教坐殺者漢。今日忽有人問浄上座、如何是奇特事。只向佗道、有甚奇特。畢竟如何、浄慈鉢盂、移過天童喫飯。

しるべし、奇特事はまさに奇特人のためにすべし。奇特事には奇特の調度をもちゐるべきなり。これすなはち奇特の時節なり。しかあればすなはち、奇特事の現成せるところ、奇特鉢盂なり。

詮慧 天童段

〇「浄慈鉢盂、移過天童喫飯、奇特事」。問答に「百丈独坐大雄峰」と云う。此の詞、如何(が)大雄峰に其の徒衆多し、何(ぞ)独坐と云いしや。これを思うに世尊は、天井天下唯我独尊と被仰る、この「独」なるべき歟。所に就いては大雄峰と云わる。但仏の御詞よりも猶委細と云うべし。その故は「大衆不得動著」と云う。仏の「独」の御詞(は)、対人数(の)「独」と被仰るには非ず。所証の法(は)諸法実相と体脱し、三界唯一心と究尽す、尤も符号する所也。或(いは)仏身をば周遍法界とも云う、三界を滅とも云うべし、又三界の法を一身とも仏身とも脱体するなり。これ「殺仏」と聞こゆ。今の不動(不得動著)の故に。

〇「なにの奇特かあらん」(有甚奇特)と云う、これ独坐大雄峰已下の詞、これ程を挙げらる。世間に奇特と云うは、日来なかりつる事の初めて出現するを云うと心得(こころう)。今の奇特は初めて不出現・不穏没造作にあらず。誠に何の奇特か有らんと云いつべし。「如何ならんか奇特の事」と云うは不普通事を云うか、又何の奇特か有らんと問うか、喫飯するこれ奇特なり。両寺(浄慈・天童)堂頭も非奇特哉。初段にある先仏後仏の相伝の程ならば、此の「鉢盂移過」の事も両寺の間の心得合わすべきなり。

経豪

  • 是は天童上堂に百丈の詞を被上歟、天童の御詞をも又被上なり。「今日忽有人問浄上座」と云うより天童の御詞なるべし。所詮此の上堂、御詞の詮と云うは、浄慈鉢盂を天童に移して喫飯するを、今の「奇特事」と被談(が)所詮なるべし。元は浄慈寺の長老にて、令坐給いけるが、後に天童に移し給いけり。浄慈寺にて被用いけるを「奇特事」と被談歟。是れ打ち任せては、何事か奇特なるべきぞと覚えたれども、又奇特事ならず思う事を仏法の方よりは、奇特と断ぜんこそ、実の奇特事にては有るべけれ。
  • 是は「百丈は独坐大雄峰を奇特事」とせらる、「天童は浄慈鉢盂を移過天童するを奇特事」と云う。此の祖師与独坐(する)姿(の)鉢盂と天童とが「奇特事」とは奇特人の為にすべしとは云わるる也。総て仏祖の行住坐臥、進止動容、皆奇特事ならずと云う事あるべからず。

 

これをもて四天王をして護持せしめ、諸龍王をして擁護せしむる、仏道の玄軌なり。このゆゑに仏祖に奉献し、仏祖より附嘱せらる。仏祖の堂奥に参学せざるともがらいはく、仏袈裟は、絹なり、布なり、化絲のをりなせるところなりといふ。仏鉢盂は、石なり、瓦なり、鉄なりといふ。かくのごとくいふは、未具参学眼のゆゑなり。

詮慧

〇「四天王奉献」と云うは、「仏成道時四天王進之先仏鉢」云々(『大般若波羅蜜多経』四「大正蔵」五・一七上)

経豪

  • 最初には四天王仏に、御鉢を被奉りたりけり、其の事を被載歟。鉢盂をば諸龍王(をして)擁護せしむ。如文。

 

仏袈裟は仏袈裟なり、さらに絹布の見あるべからず。絹布等の見は旧見なり。仏鉢盂は仏鉢盂なり、さらに石瓦といふべからず、鉄木といふべからず。おほよそ仏鉢盂は、これ造作にあらず、生滅にあらず。去来せず、得失なし。新旧にわたらず、古今にかゝはれず。

仏祖の衣盂は、たとひ雲水を採集して現成せしむとも、雲水の籮籠にあらず。たとひ草木を採集して現成せしむとも、草木の籮籠にあらず。

その宗旨は、水は衆法を合成して水なり、雲は衆法を合成して雲なり。雲を合成して雲なり、水を合成して水なり。鉢盂は但以衆法、合成鉢盂なり。但以鉢盂、合成衆法なり。但以渾心、合成鉢盂なり。但以虚空、合成鉢盂なり。但以鉢盂、合成鉢盂なり。

詮慧 仏袈裟は絹也布也。

〇「絹布等見は旧見なり」。此の事、「鉢」も「袈裟」も仏と談じぬる上は其の見一なり。而祖師多或用紙、或蓮葉(の)如き用之。或いは斑(まだら)なる袈裟を憎み、或いは絹を不用、頗る今(の)義には相違して聞こゆ。但仏法(の)大意は、尤も「袈裟絹布の論」不可有。相伝とは法をのみ伝うと心得(は)僻事なり、衣鉢相伝の法なり。絹布は欲法なる故に、解脱の道に非ずっと云々、祖師達は争か此の義に述べき。然而絹を好斑なる袈裟を用いるは、定んで此の欲に可堕在故に、絹をば用いるべからず。斑なる袈裟をば不可用などと未愚の人心を計りて諫められ、紙衣・蓮葉などを用いるも、一向古き跡を学ぶ人や在ると也。物の了見云わんは様々有るべし。今疑尤非無謂、然而可心得方如此。

〇天童浄和尚、一生まだらなる袈裟を掛けられず。絹を不用、布を用いられ、しかば今の門下(の)守後(は)或有得無失者なり。

経豪

  • 如御釈。袈裟は只袈裟也、鉢盂は只鉢盂なるべし。絹布化絲等の旧見、残るべきにあらずと云う心地なり。化絲とは五百の中国の中に、桑木の下に童女化現する事あり。彼の童女の口より、絲を引き出す事あり。以彼絲織り出せるを如此云う也。絲を取りはてぬれば、彼童女隠形云々。(『法苑珠林』三五(「大正蔵」五三・五六一下)
  • 御釈に聞こえたり。今の雲水を集め草木を集めて現成せしむとも、此の雲水のよう草木のよう籮籠にあるべからずと也。
  • 此の御釈の心は所詮、全水全雲の理を合成と取るべきなり。故に「雲を合成して雲なり」と談ずる也、「水を合成して水なり」とは談ずる也。今の道理、所落居は「但以鉢盂、合成鉢盂」の理なるべし。水と談ずる時は全水、雲と談ずる時は全雲の道理を「水は衆法を合成して水なり、雲は衆法を合成して雲なり」とは云う也。

 

鉢盂は鉢盂に罣礙せられ、鉢盂に染汚せらる。いま雲水の伝持せる鉢盂、すなはち四天王奉献の鉢盂なり。鉢盂もし四天王奉献せざれば現前せず。

いま諸方に伝仏正法眼蔵の仏祖の正伝せる鉢盂、これ透脱古今底の鉢盂なり。

しかあれば、いまこの鉢盂は、鉄漢の舊見を覰破せり、木橛の商量に拘牽せられず、瓦礫の声色を超越せり。石玉の活計を罣礙せざるなり。碌塼といふことなかれ、木橛といふことなかれ。かくのごとく承当しきたれり。

詮慧

〇「鉢盂は但以衆法、合成鉢盂なり」とある、心得難けれども仏鉢と習う上は、何を合成して何れを始め終りと云い難し。鉢に始終あるべからざる故に、「鉢盂は鉢盂に罣礙せられ、鉢盂に染汚せらる」と云う。仏法の二法合成する、これを僧宝と云う故に雲水と習うなり。

〇今の人も「鉢を持するは、四天王の奉献」と知るべし。いづくの山水石もしくは、いかなる轆轤(ろくろ)師か、挽きたると云わば仏鉢なるべからずと也。これらを旧見とは云うなり、嫌う処なり。

経豪

  • 如文。実(際)にも「鉢盂は鉢盂に罣礙せられ、鉢盂に染汚せらるべき」也。
  • 今の道理(は)共(に)仏祖正伝の義也。是を「透脱古今底の鉢盂」とは可云也。
  • 如御釈。無殊子細。此の道理被載、右の如し。

鉢盂(終)

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。