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現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵 第五十八眼睛  註解(聞書・抄)

詮慧・経豪 正法眼蔵 第五十八眼睛  註解(聞書・抄)

億千万劫の参学を拈来して団圝せしむるは、八万四千の眼睛なり。

詮慧

○「団圝」とは、まろなるこころなり。

○「八万四千の眼睛也」という、八万四千の塵労ぞ、毛穴ぞなどと云うを、打ち返して八万四千陀羅尼ぞ、三時ぞ、などと云う教えの心なり。今は八万四千の眼睛と云う。世間所有の法、或いは木、或いは草、或いは大地、或いは虚空、是を眼睛と仕う時、八万四千を一眼睛の心地歟。又一一の眼睛歟とも尋ぬべし、一隻眼とも仕う。八万四千眼睛同じ事なるべし。

○「眼」と云う事、色に付く明らかなるに付く、又心眼と取る事もあり、千手千眼とて菩薩の大悲に云い習いたり。これは衆生の願い千に不可過。ゆえに千の眼、千の手とはあれども、用許多千眼と云う時は無員数。菩薩は願いを見、転ずる事と計り思うは僻事也。所詮は皆令入仏道と心得べし。所詮、今の眼睛は、八万四千とも云わず、又一とも云わぬが本意にてあるなり。八万四千の一心実相なりとは云わず。

経豪

  • 「億千万劫の参学を拈来して団圝せしむ」とは、此の億千万参学の力によりて、此の「八万四千の眼睛」の理を得るように心得ぬべし。然者因果にも関わり、眼睛外に億千万劫の時節あるに似たり、不可然。只今の「億千万劫」を則ち「眼睛」と談ず也。数量に付けて非可心得、億千万劫の参学を眼睛と談ずるべし。眼睛を億千万劫と談ずるなり。八万四千と眼睛とのあわいも、又如此なるべし。

 

先師天童古仏、住瑞巌時、上堂示衆云、秋風清、秋月明。大地山河露眼睛。瑞巌点瞎重相見。棒喝交馳験衲僧。いま衲僧を験すといふは、古仏なりやと験するなり。その要機は、棒喝の交馳せしむるなり、これを点瞎とす。恁麼の見成活計は眼睛なり。

山河大地、これ眼睛露の朕兆不打なり。秋風清なり、一老なり。秋月明なり、一不老なり。秋風清なる、四大海も比すべきにあらず。秋月明なる、千日月よりもあきらかなり。清明は眼睛なる山河大地なり。

衲僧は仏祖なり。大悟をえらばず、不悟をえらばず、朕兆前悟をえらばず、眼睛なるは仏祖なり。

験は眼睛露なり。瞎現成なり、活眼睛なり。相見は相逢なり。相逢相見は眼頭尖なり、眼睛霹靂なり。

おほよそ渾身はおほきに、渾眼はちひさかるべしとおもふことなかれ。

往々に老々大々なりとおもふも、渾身大なり、渾眼少なりと解会せり。これ未具眼睛のゆゑなり。

詮慧

○先師天童古仏、住瑞巌時上堂段。「秋風清秋月明。大地山河露眼睛」という、眼睛くもりあるべからざれば、清(す)めりとも明らか也と云いぬべし。大地山河の露(あら)わなる所を、眼睛に取り寄せて云わんとにはあらず。ただ眼睛をやがて秋風清秋月明。大地山河と云う也。

○「点瞎」とも云う、点瞎は暗き事を、点して明らかなる由を示すにてはなし。眼の上には閉じる時あり、開く時あり。いづれを必ず善と取り、悪と取ることなし。皆眼の能なり、今の「点瞎」も是程に可心得、重(ねて)相見すると云う也。

○「棒喝交馳」と云う、棒も喝も是は問答の義に通ずるなり、賞罰の棒喝にあらず。「朕兆不打也」と云う、後(あと)ぞ印ぞなどと云う心地也。不打もあとなき心也。

○「一老・一不老」という、古詞也。道無心合人、人無心合道、欲識箇中意、一老一不老(『洞山語録』「大正蔵」四七・五一〇上・注)(これは一会一不会と云わんがごとし、長老ぞなどとは云うべからず)と云う詞なるべし。「秋風清、秋月明」を一老一不老と云う(老と不老とは只一の字の上にあり、非二)、八万四千の内の其の一を挙げて、秋風清秋月明と云うにてはなし、秋風清眼睛也。其の「明」、又世間に習いて云うべき法なし。尽十方界なる眼睛明珠・光明・自己等なる也。されば「一老」と云い、「一不老」と云えばとて、勝劣善悪に仕うにてはなし、会不会と云わんが如し。又一心を以て三界と仕い、三界を以て一心と仕うが如し。

経豪

  • 「秋風清秋月明、大地山河」を以て、眼睛と談ず也。「瑞巌」とは天童の住処也(山寺名也)。「点瞎」とは眼一也、片目を押さえたる眼也。只眼一なるべし。凡夫の物をすぐによく見んとては、片目を塞ぎて見え、点瞎の詞、眼睛の脱落なる姿も、弥々現れぬべし。「棒喝交馳験衲僧」とは、法を示すに棒を与え、喝して法器の有無を知らんとて如此すると思えたり。是は非爾此棒喝衲僧等、皆只同じ丈なるべし。是れ則ち眼睛の道理なり。「いま衲僧を験すと云うは、古仏也やと験するなり」とあり、非可不審。古仏也やと云える(は)、猶不審したる詞かと聞こゆ、只「古仏也」と云う也。「棒喝の交馳せしむ」とは、おは云う也。此の棒喝の眼睛なる道理が、如此云わるる也。
  • 「朕兆不打也」とは、久しき詞と聞こゆ。今の眼睛の姿、昔今の蹤跡を談ずべきにあらず。無始無終なり、是れ則ち眼睛なるべし。久近始終を非可談なり。「秋風清一老、秋月明一不老」とあり、「一老一不老」と云えば老の詞に付けて、子細ありやと覚ゆ。無殊子細、老の上に不老の義如例。又以秋風老とし、秋月を以て不老と談ず也。「秋風清」なる姿、実に「四大海も比すべきにあらず」、「秋月明」なる姿、「千の日月よりも明らかなるなり」。「清明は眼睛也」とは、秋風清の「清」、秋月明の「明」を呼び合わせて、如此「清明」とは云う也。所詮「秋風清、秋月明」共(に)眼睛也と云うなり、山河大地同じかるべし。
  • 「衲僧」と云えば、只尋常の雲水などを不可云、仏祖也と云わるる程の衲僧なるべし。此の仏祖の上には「大悟不悟を朕兆前悟をえらばず、眼睛なるを仏祖」とすべしと云う心なり。●「験」と云う詞は「眼睛露也」とあり。「瞎現成也」とあるは、只いづくまでも、眼睛ならぬ所なき也。「験」と云う詞をば、其のしるしを見する方便序分などと心得を、此の「験」が「眼睛露」にてあり、「瞎現成・活眼睛なる也」と云う也。又「相見」と云う事は、二人逢して云う詞なり。是は相見せば眼与眼、相見なるべき所を「相逢相見は眼頭尖なり」とは云う也。眼睛の道理の隠れず、法界を尽くす理を又「眼睛霹靂」とは云う也。
  • いかにも身は大に、眼は小さしと思う(は)、是旧見なり、凡見なり。尽十方界沙門全身、尽十方界沙門一隻眼にて、可心得事也。
  • 如文。往々老々の由々しき長老等も、「渾身大・渾眼少お解会せり」。是は此の眼睛の道理を知らざる也と被嫌也。

 

洞山悟本大師、在雲巌会時、遇雲巌作鞋次、師白雲巌曰、就和尚乞眼睛。雲巌曰、汝底与阿誰去也。師曰、某甲無。雲巌曰、有汝向什麼処著。師無語。雲巌曰、乞眼睛底、是眼睛否。師曰、非眼睛。雲巌咄之。しかあればすなはち、全彰の参学は乞眼睛なり。雲堂に辦道し、法堂に上参し、寝堂に入室する、乞眼睛なり。おほよそ随衆参去、随衆参来、おのれづからの乞眼睛なり。

眼睛は自己にあらず、佗己にあらざる道理あきらかなり。

いはく、洞山すでに就師乞眼睛の請益あり。はかりしりぬ、自己ならんは、人に乞請せらるべからず。佗己ならんは、人に乞請すべからず。

詮慧

○洞山悟本大師段。「雲巌咄之乞眼睛」という、尋師訪道是乞眼睛也。身子が乞眼の婆羅門に逢う、しかの如きには不可似。師に仕うる法、これ乞眼睛也。師与眼(の)外には、無他乞と云うも、与に対したるにてはなし。「汝底与阿誰去也」という、仏祖身心は誰を主として、誰と定むるにもあらず。初祖の所には汝よく、吾皮肉骨髄を得たりと云う、非汝非誰と云う程の事也。

○「某甲無」という、この「無」は一切衆生無仏性程の無なり。

○「有」というこの有は、何れの所にか、なからんと云う義也。有無が世間の如にて、ある所なき所のあらんには、著所などか無からん。

○「乞眼睛底、是眼睛否」という、たとえば仏性を見るや、などと云わん程の事也、更非能見所見なり。「乞」と云うも「否」と云うも、一眼睛の道理也。

○「非眼睛」という、即心是仏を非心非仏と云わんが如し。此の「非」も、さなき事をあらずと云うにてはなし、眼睛の上に置きて非と説く也。

○「雲巌咄之」という、是は拙なしと探るにてはなし、証明する心地也、ものを許す心地也。又舌を下す心也、聊か驚く気色にも仕う也。

経豪

  • 洞山は雲巌の弟子也。無何雲水の問答に不可准。今の洞山の詞に「就和尚乞眼睛」の詞、いかなるべきぞ。乞眼婆羅門などとの様にあるべからず、所詮今の詞は就和尚、乞正法眼蔵とも云う程の詞なり。其等雲巌の詞に、「汝底与阿誰也」とあり、是も汝と指すは洞山事歟。雲巌と洞山との汝吾是、又自他に拘わるにあらず、今更事あたらしく云うべきにあらず。「阿誰」の詞も又非不審。誰にも与うる理あるべし、誰にも与えざる理あるべし。「師曰某甲無、雲巌曰、有汝向什麼処著」とあり、此の師資の無有(の)詞は世間の有無にあらず、仏性の上の有無程に可心得。「師無語」、此の無語(は)又非惘然、眼睛独立の無語なるべし。「雲巌曰、乞眼睛底是眼睛否」云々、実にも眼睛の外に物なし、乞眼睛底是眼睛なるべし。非可不審。「師曰、非眼睛」、是又是非の非にあらず、非定相仏程の非なるべし。眼睛の上の非なり。「雲巌咄之」云々、許したる心地なり。所詮「全彰の参学を乞眼」とは談ず也。「全彰」とは、隠れず露われたる理を名づく也。今の「眼睛」(は)此の道理なるべし。「雲堂に辦道、法堂に上参し入室し、乃至随衆参来」の姿を、今は皆「乞眼睛」と談ずなり。
  • 如文。眼睛の理、自他に不可拘之条勿論也。
  • 如文。「自他ならん」時は、自己の外に又人あるべからねば、「人に乞請せらるまじき」道理顕然也。「他己ならん」時は、又他己の外に交わる物なければ、又「人に乞請せらるまじき」理必然也。是れ則ち自他に拘わらぬ道理なるべし。

 

汝底与誰去也と指示す。汝底の時節あり、与誰の処分あり。

経豪

  • 如前云、この「汝底与誰去也」の詞、人を置いて誰にかと、非不審。「汝底」の法界を尽くす時節あるべし。「与誰」の法界を尽くす理ある所を「処分」とは云うなり。誰にも「与」と云う理あるべし、与えずと云う理あるべし。即不中の理是也。誰にもと云えばとて、人を置いて彼を指して云うにはあらず。「汝底与誰」と云わるるは、眼睛なるべし。

 

某甲無。これ眼睛の自道取なり。かくのごとくの道現成、しづかに究理参学すべし。

経豪

  • 又某甲無の無にあらず、眼睛無なる故に。「眼睛の自道取也」とは云うなり。

 

雲巌いはく、有向什麼処著。この道眼睛は、某甲無の無は有向什麼処著なり。向什麼処著は有なり。その恁麼道なりと参究すべし。

経豪

  • 雲巌道の「有」の詞如前云、眼睛有也。「向什麼処著」の詞、是眼睛なり。いづくを指して、向什麼処と云うにあらず、眼睛の道理が、什麼処とは云わるるなり。眼睛を道眼睛とあり、道がやがて眼睛なるなり。又「某甲無の無は有向什麼処著也」とは、某甲無のの詞は有向什麼処程の詞也。此の「有無」聊かも不可有差別となり、仏性の上の有無程あるべし。雲巌の有に被仰に、「向什麼処著は有也」とあれば、いづくまでも有の道理也と可心得。

 

洞山無語。これ茫然にあらず。業識独豎の標的なり。

詮慧

○「業識独豎の標的」という、是は仏法にいう業識なり。嫌うべきにあらず、今の眼睛程の事也。眼睛も凡夫の上にある時は、悪見の眼なれども、乞眼睛になれば、脱落の眼なり。

経豪

  • 如文。「標的」とは現わるる心地なり。

 

雲巌爲示するにいはく、乞眼睛底、是眼睛否。これ点瞎眼睛の節目なり、活碎眼睛なり。

詮慧

○「点瞎眼睛」という、この時いかさまにも境を置いて、眼にて見ると云う程の義を、すべて点瞎する時に、その時の眼は「点瞎眼睛」と云わる。点眼の上にも、たとい境と云う事ありとも、識と云う事ありとも、点瞎なるべし。仏向上義也。

経豪

  • 如文。此の「雲巌爲示」の詞、まことに「点瞎眼睛也、活碎眼睛也」。

 

いはゆる雲巌道の宗旨は、眼睛乞眼睛なり。水引水なり、山連山なり。異類中行なり、同類中生なり。

詮慧

○「異類中行」という、天上天下唯我独尊と云いしが如し。ただしこの独尊も、天上人間などを類いに置きて、其の中に尊なる所を、異なりと仕う様に心得ば世間を離れず。たとえば一長の中に、すぐれたる人ありとも、藤氏は藤氏、源氏は源氏と云わるべし。非本意。天上をも人間をも皆とりて、三界唯一心と仕うこそ、「異類中行」にてあるべけれ。この時こそ「同類中生」と云う詞も仕わるれ。一切皆とる故に同類なるなり。

経豪

  • 「眼睛乞眼睛」の詞は、眼睛の外に交物ない道理也。「水引水、山連山、異類中行、同類中生」の詞は、又余物交わらぬ証據に被引出也。

 

洞山いはく、非眼睛。これ眼睛の自挙唱なり。非眼睛の身心慮知、形段あらんところをば、自挙の活眼睛なりと相見すべきなり。

詮慧

○「非眼睛の身心慮知形段」という、非眼睛と云わば、「活眼睛」と思うべし。

経豪

  • この「非眼睛」の非の詞、又是非の非にあらず、眼睛の上の非也。ゆえに「眼睛の自挙唱也」と云わるる也。「非眼睛の身心」とは、眼睛の上の身心、慮知形段なるべし。この道理のあらん処は、まことに「自挙の活眼睛なりと相見すべき」理必然なるべし。

 

三世諸仏は、眼睛の転大法輪、説大法輪を立地聴しきたれり。

経豪

  • 火焔の説法を三世諸仏、立地聴法せしが如く、今は「眼睛の転大法輪を、三世諸仏は立地聴」するなり、是只同心なるべし。

 

畢竟じて参究する堂奥には、眼睛裏に跳入して、発心修行、証大菩提するなり。

この眼睛、もとよりこのかた、自己にあらず、佗己にあらず。もろもろの罣礙なきがゆゑに、かくのごとくの大事も罣礙あらざるなり。

経豪

  • 此の道理の内には、「眼睛裏に跳入して、発心修行、証大菩提」すとは、此の眼睛の道理を以て、発心とも、修行とも、証大菩提とも云う也となり。此の発心修行・証大菩提と眼睛とが、非別体一物なる姿を以て、「眼睛裏に跳入す」とは云うなり。
  • 如文。自他に拘わらぬ上は、実(に)罣礙あるべからず。罣礙なき故に如此。「大事」もとかく談ずれども、総て無障礙違事なき也と云う也。

 

このゆゑに、古先いはく、奇哉十方仏、元是眼中花。いはゆる十方仏は眼睛なり。眼中花は十方仏なり。

いまの進歩退歩する、打坐打睡する、しかしながら眼睛づからの力を承嗣して恁麼なり。眼睛裡の把定放行なり。

詮慧

○古先段。「元是眼中花」という、是を心得るには、多くは色相の仏をば、非実仏権化なりなどと云う。今は三世の諸仏は、眼睛の転大法輪・諸大法輪という上は、眼中と云うこそ、実(に)仏なれと心得也。

経豪

  • 「眼中花」は、打ち任すは妄法の至極なる喩えに引くを、仏祖の法には以此眼中花、三世十方諸仏数代の祖師と談ずる上は、眼中花十方仏なる道理勿論也。今は眼睛の見成公案なる上は、十方眼睛也と云うなり。
  • 此の眼睛の道理の上に進歩とも退歩とも、乃至打睡するも併此眼睛力を、承け嗣ぎて、如此の道理ある也とは云う也。把定も放行も只眼睛の上の所談なるべし。

 

先師古仏いはく、抉出達磨眼睛、作泥彈子打人。高声云、著。海枯徹底過、波浪拍天高。

これは清涼寺の方丈にして、海衆に為示するなり。しかあれば、打人といふは、作人といはんがごとし。打のゆゑに、人人は箇々の面目あり。たとへば、達磨の眼睛にて人人をつくれりといふなり。つくれるなり。その打人の道理かくのごとし。

詮慧

○先師古仏―波浪拍天高段。「達磨眼睛、作泥彈子にて人を打つ」と云うは、『法華経』若有聞法者無一不成仏(「方便品」「大正蔵」九・九中・注)と説かれたる、ただ同心なるべし。聞法の法は今の「泥彈子」也。「聞」と云うと「打」と云うと、此の二つだけ同じかるべし。無一不成仏と、大地有情同時成道と、又同じかるべし。達磨四人の門人に、得吾皮肉骨髄と被仰しは、以皮肉骨髄、四人の門人をつくりたる也。たとえば以髄作慧可と云わんが如し。「高声に云く」とは、先師古仏の御事也。

○「海枯徹底」とあるは、一の義には海枯れぬれば、まことに底も見ゆれば、徹すとも云われぬべけれども、又海枯れれば底と云う事なし。いたづらなる平沙のみなるべし、若しはくぼき所とこそ云わるべけけれ。又の義には「海枯」とは、全海の義也、すべて辺際なき心也。故に「波浪拍天高し」とも云う也。打人の道理如此なる、眼睛にて打坐せる雲堂人の拳頭、拄杖、竹箆、払子、達磨の眼睛なるべし。

経豪

  • 「抉出達磨眼睛」する姿と云うは、尽十方界、三世九世総て達磨の眼睛ならぬ所不可有。一物と云いても、達磨の眼睛ならぬ法なきなり。「高声」と云えば、人の声ありて高く云うべきかと覚ゆ。只今の「高声」と云うも、「著」の詞も、此の「打人」の道理の一切に著く道理を「高声」とも「著」とも云う也。「海枯徹底過、波浪拍天高」と云う詞も、只全海の道理なるべし。
  • 「打人と云うは作人と云わんがごとし」と云うは、打人と云えば猶能所ありと聞こゆ。只達磨の眼睛にて、作人する道理也。「打のゆゑに、人々は箇々の面目あり」とは、此の打の道理が一切の詞に云わるる所を、「面目あり」とは云わるる人々也。

 

眼睛にて打生せる人人なるがゆゑに、いま雲堂打人の拳頭、法堂打人の拄杖、方丈打人の竹篦払子、すなはち達磨眼睛なり。

達磨眼睛を抉出しきたりて、泥彈子につくりて打人するは、いまの人、これを参請請益・朝上朝参・打坐功夫とらいふなり。

打著什麼人。いはく、海枯徹底、浪高拍天なり。

先師古仏上堂、讃歎如来成道云、六年落草野狐精、跳出渾身是葛藤。打失眼睛無処覓、誑人剛道悟明星。その明星にさとるといふは、打失眼睛の正当恁麼時の旁観人話なり。これ渾身の葛藤なり、ゆゑに容易跳出なり。

覓処覓は、現成をも無処覓す、未現成にも無処覓なり。

詮慧

○先師古仏上堂段。「道悟明星、未現成無処覓」などと云う、これ不会程の詞なり。無仏性程なり。

○「六年落草野狐精」という、此の「六年」はさとり已前の法かと聞こゆれども不然。但「落草」と云いぬれば、すでに脱落の義也。しかれば「野狐精」とは云えども、やがて仏心と取るべし。教にも応仏の威儀には、八相をふさねて取る。今も六年苦行(は)、皆野狐精仏心と云うべきなり。「誑人剛道悟明星」という、このとき明星出現の悟も、いま始めたる義なるべからず。「誑人」と云えばとて、悪しき物の一人交わりて、明星悟道と云うにてはなし。ただ「悟明星」と云う詞に付きて誑人というばかりなり、ただ悟明星を誑人と云いしが如し。「打失眼睛無処覓」などという、前には「悟明星」とも道うべき道理なく、聞こゆる所を「誑人剛」とある也。「跳出渾身是葛藤」と云うは、葛藤はいづくまでも無際限(に)続きたる詞に仕う。ゆえに渾身是葛藤とはあるなり。

○「悟明星」の詞をば、「打失眼睛の正当恁麼時の旁観人話也」とある、此の「旁観人」さらに別人あるにはあらず、さきに誑人と云いつる人也。明星出現の時、悟道するは仏也、「誑人」も「旁観人話」も皆仏なり。

経豪

  • 「雲堂打人は拳頭、法堂打人は拄杖、方丈打人は竹篦払子」などと如此。面々打人の姿を分けて被談ようなれども、是等皆達磨眼睛にて打坐せる故に、皆「達磨眼睛也」。不可各別也。
  • 是は右に所挙の「参請」已下、打坐功夫等の姿を、皆「達磨眼睛」と可云也、人の上の所作と不可思なり。
  • 是は「打著什麼人」と云うは、海枯徹底過・波浪拍天高、道理なるべしと云う也、是れ則ち全なる姿、又物の交わらぬ道理を云う也。
  • 仏は苦行六年と、楽行六年都合十二年也。苦行と云うは身を苦しめ、とかく難行苦行し給うを云う。楽行とは、痛く身を苦しめず、只乞食して修行し給うを云うなり。「六年落草」の因によりて、「跳出渾身」の果を得るとは不可心得、然者因果の法なるべし。只「六年落草・跳出渾身」の道理は、葛藤葛藤をまつ(纏)う理なるべし。「野狐精」とは仏を云う也、悪しき物にあらず。又「打失眼睛なる時に無処覓」なると云うように見えたり、是は凡見也。今の「無処覓」の道理は、眼睛ならぬ処なき理が、無処覓とは云わるる也。然者前に云う無処覓にはあらざるなり。又「悟明星」と云うは、仏成道の時は、明星を見てさとりを得、給いきと云う也、明星を縁としてさとりを得給うと云う。能見所見をも離れぬ旁背、今理不可然ゆえに、「打失眼睛の正当恁麼時の旁観人話なり、これ渾身の葛藤也」と云う。この「旁観人話」と云わるる人は眼睛なるべし、全く余人の人にあらず。さればこそ、「打失眼睛の正当恁麼時の旁観人話」とは云わるれ、ゆえに「渾身の葛藤也」と云う也。「容易跳出なり」とは、易く成仏する心地なり、難き事をとかくして、成仏するにあらず、ゆえに容易跳出する道理なり。
  • 前には無処覓とあり、是は「覓処覓」とあり。現成の時は、無処覓の詞(は)、其謂あり。未現成の時は、無処覓の詞は、打ち任すはあたらず聞こゆれども、所詮ここの道理は、「現成の時も無処覓なるべし、未現成時も無処覓」の道理なるべし、現成未現成隠顕にあらざるゆえに。

 

先師古仏上堂云、瞿曇打失眼睛時、雪裡梅花只一枝。而今到処成荊棘、却笑春風繚乱吹。且道すらくは、瞿曇眼睛はたゞ一二三のみにあらず。いま打失するはいづれの眼睛なりとかせん。打失眼睛と称ずる眼睛のあるならん。

さらにかくのごとくなるなかに、雪裡梅花只一枝なる眼睛あり。はるにさきだちて、はるのこころを漏泄するなり。

詮慧

○先師古仏上堂段。「春風繚乱吹、雪裡梅花只一枝」と云うは、打失眼睛の姿、如此也。

○「成荊棘」という、或いは達磨眼睛を泥彈子につくり、竹篦拄杖につくる、これを「荊棘」と云うなり。ゆえに「春風繚乱に吹く」と云う也。

○諸仏の実相とも、真如とも説くが如く、「雪裡梅花只一枝」と説く。同じ諸仏道の無尽なるを「繚乱」とつかう。

○「はるにさきだちて春の心を漏泄す」とは、これ梅の春の実咲かば、春華なるべけれども、冬も咲く。ゆえに春にも拘われず、冬にも拘われぬなり。

経豪

  • 「瞿曇打失眼睛」の時節には、「雪裡梅花只一枝」の道理あるなり。此の眼睛の法界を尽くす時、千変万化眼睛ならぬ物なき道理が、「而今到処成荊棘」とは云うなり。所詮雪裡梅花只一枝も、而今到処も、荊棘も春風繚乱吹、姿も皆「眼睛也」と可談也。此の眼睛の千変万化の姿は、「只一二三のみにあらず」と云わるる也。「打失」と云う詞に付きては、悪しき物を打ち失わんずるように聞こゆ、不可然。非定相仏と云う仏を、仏性のとき談ぜしように、打失眼睛と云い、眼睛とも云う。一筋あるべき処を如此、「打失眼睛と称する、眼睛のあるらん」とは云うなり。
  • 如文。無尽の眼睛の中に、雪裡の梅花只一枝なる眼睛、一時あるべき也。「はるにさきだちて春の心を漏泄す」とは被云也。

 

先師古仏上堂云、霖霪大雨、豁達大晴。蝦蟇啼、蚯蚓鳴。古仏不曾過去、発揮金剛眼睛。咄。葛藤葛藤。

いはくの金剛眼睛は、霖霪大雨なり、豁達大晴なり。蝦蟇啼なり、蚯蚓鳴なり。不曾過去なるゆゑに古仏なり。古仏たとひ過去すとも、不古仏の過去に一斉なるべからず。

詮慧

○先師古仏上堂云、霖霪大雨段。「咄、葛藤葛藤、霖霪大雨、豁達大晴」という、是尽十方界一顆明珠などと云う程の語なり。

○「がまてい・きゅういんみん」という、是を古仏と取るなり。「古仏の不曾過去」の故に、尽界無客塵と云えども、茫々業識幾時休と云う様に、霖霪大雨、豁達大晴の上に、「がまてい(蝦蟇啼)もきゅういんみん(蚯蚓鳴)も置く、又同じ心也。

経豪

  • 「霖霪大雨」とは、仮令五月雨此事歟。「豁達大晴」とは、天晴れたる姿也。「がまてい」とは、かえる。「蚯蚓鳴」とは、みみず也。「古仏不曾過去、発揮金剛眼睛」云々、是は所詮、大雨も大晴も、がまていも、蚯蚓鳴も、皆古仏と可談也。古仏と云えば過去仏かと聞こゆ。是等を今は古仏と談ずる上は、「不曾過去」と云わるる尤其謂あり。是等皆眼睛の道理也、眼睛の現るる也。葛藤葛藤をまつ(纏)うなり。
  • 「古仏たとい過去すとも、不古仏の過去に一斉なるべからず」とは、古仏の上には、たとい過去すと云う事を談ずとも古仏ならん。尋常に思い付きたる過去には、等しかるべからずと云う也。

 

先師古仏上堂云、日南長至、眼睛裡放光、鼻孔裏出気。而今綿々なる一陽三陽、日月長至、連底脱落なり。これ眼睛裏放光なり、日裏看山なり。このうちの消息威儀、かくのごとし。

詮慧

○日南長至段。「鼻孔裏出気、日南長至」という、日の光至事也。これを眼睛裏仕也。

○「一陽三陽、日月長至」という、この日にて照らさぬ所なきを、「脱落」と仕う也。

○「眼睛裡の放光」という、眼睛ならぬ所なき道理を、「放光」と仕うなり。眼睛が放光せんずるにはあらず、放光が眼睛なる也。

○「日裏看山」という、無能所、日の徳にて「看山」と也。

経豪

  • 是は冬至上堂歟。「一陽三陽、日月長至、連底脱落」の一一(の)姿を皆談眼睛。此の一一(の)詞の眼睛なる所を「眼睛裏放光」とは仕う也。「日裏看山」とは、古き仏性(観音歟)の時沙汰ありき。「この内の消息威儀」とは、右に一陽已下の詞を指して、此の内の消息如此とは云う也。

 

先師古仏ちなみに臨安府浄慈寺にして上堂するにいはく、今朝二月初一、払子眼睛凸出。明似鏡、黒如漆。驀然勃跳、呑却乾坤。一色衲僧門下、猶是撞墻撞壁。畢竟如何。尽情拈却笑呵々、一任春風没奈何。

いまいふ撞墻撞壁は、渾墻撞なり、渾壁撞なり。

詮慧

○臨安府上堂段。「春風没奈何、眼睛を似鏡と云い、払子を如漆」と云う、但所詮、皆至極する詞に仕うなり。眼が清く明らかなるに付けて、鏡と仕い払子は塗りたるに付けて、漆の如しと仕う。

○「勃跳・呑却乾坤・一色」なりという、払子ごときが眼睛なるを、今「勃跳」と仕う。これが「呑乾坤」なるなり、其の故を「一色」と仕也。

○「衲僧門下、猶是撞墻壁」という、是は「門下」の門の字に付けて云い出すなり。この「門」出入の門にあらず、ゆえに「撞」の字出で来たるなり。

○「笑呵々」は得道明心なり。「一任す春風没奈何」と云うは、無対という程の詞なり。

経豪

  • 「二月一日上堂なり、払子眼睛凸出」とは、払子を則ち眼睛と云う也。「明似鏡、黒如漆」とは、明らかなる事も、黒き事も一通り、又余物不交事に被引出也。「驀然勃跳、呑却乾坤」の、「勃跳」とはおどり出たる姿、解脱の心也。呑却乾坤すの「乾坤」とは天地を指すなり。天地を「呑却す」とは、たとえば眼睛が乾坤を呑却すべきか、呑却の姿、如此なるべし。又「一色衲僧門下、猶是撞墻撞壁」とは、衲僧撞墻撞壁の姿も眼睛なるべし。「撞」をば突くと読む也。撞壁をつくと云えば、人ありて突くべきように聞こゆ、不爾。墻をば墻がつき、壁をば壁がつくべき也。「尽情拈却笑呵々」の姿、「一任春風没奈何」の道理、悉く是眼睛なるべし。「笑呵々」とは、笑いたる姿を云う也。払子・眼睛・驀然勃跳・乾坤・撞墻撞壁の姿を「笑呵々」とは可云也。
  • 「渾墻撞、渾壁撞」と云わるるにて知りぬ。撞墻撞壁ともに尽界を尽くし、法界を尽くすと云う事を尽くすと云う事を。

 

この眼睛あり。今朝および二月ならびに初一、ともに条々の眼睛なり、

いはゆる払子眼睛なり。驀然として勃跳するゆゑに今朝なり。呑却乾坤いく千万箇するゆゑに二月なり。尽情拈却のとき、初一なり。眼睛の見成活計かくのごとし。

経豪

  • 又「今朝二月初一」、是は時節(を)指すに似たり、「ともに条々の眼睛也」とあり。「今朝」も「二月」も「初一」も皆、是眼睛なるべし。ゆえに条々の眼睛とは云わるる也。
  • 「驀然勃跳する今朝なり、呑却乾坤いく千万箇する二月なるべし、尽情拈却の初一也」、只今朝二月初一などと云えば、普通の今朝二月初一などと不心得也。所詮払子も、今朝も、二月も初一も、各究尽の姿なるべし。

                                    眼睛(終)

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。