正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵 第二十四 画餅 註解(聞書・抄)

 正法眼蔵 第二十四 画餅 註解(聞書・抄)

 

 諸佛これ證なるゆゑに、諸物これ證なり。しかあれども、一性にあらず、一心にあらず。一性にあらず一心にあらざれども、證のとき、證々さまたげず現成するなり。現成のとき、現々あひ接することなく現成すべし。これ祖宗の端的なり。一異の測度を擧して參學の力量とすることなかれ。

 このゆゑにいはく、一法纔通萬法通。いふところの一法通は、一法の從來せる面目を奪卻するにあらず、一法を相對せしむるにあらず、一法を無對ならしむるにあらず。無對ならしむるはこれ相礙なり。通をして通の礙なからしむるに、一通これ、萬通これ、なり。一通は一法なり、一法通、これ萬法通なり。

詮慧

〇近代禅僧聞、此の「画餅」之二字は、人界の画と餅と心得。「飢」と云えば無食、事と心得、仍て仏法には都て不可当。誦文法師、暗証(唱?)の禅師と云う誦文の法師

「諸仏これ証なるゆえに、諸物これ証也」と云うは、諸物を即ならしめ、聞ならしむるは諸教の所談也。いま「証」と云う事如何、「諸物」とは依正の依也と心得、しかるを「諸物証」と云う。「証」と云わるる諸物、何物をこれ「証なり」。この「証」は又諸物を一性と証し、一心と証する「証にはあらざるべし」。「一性一心」は、諸物の中の一物なるべし。諸法を実相と取る、諸には猶異也。実相と云わんも此の諸物の内の一物と現るる也。「諸」はただ仏也。斉肩なるゆえに、一性一心と談ずるまでは、三界唯心の心とは心得まじ。「諸物証(は)一性一心にあらず」。

〇万行万善の修因に答えて、一法を成すとは云うべからず。行は様々なれども、証は一因とし、行は多けれども、果は一也と云う事は、猶相違す。さればこそ、一因一果とは説け、仏道には如此云うなり。

〇「一異の測度を挙す」と云うは、性相一と説き、又あらずと説く事あり。いま「一異の測度を挙して、参学すべからず」と云うは、一性一心と云う一具なるゆえに、これを「測度」と云う。又諸法与一心、別に置きて一なる時を辦じ、二なる時を辦ずるにこそ「測度」とはあれ。宗門に談ずる時は、一と談ずるも異と談ずるも、測度とは云うまじ。一に対する二にあらず、二に対する一にあらざるゆえに、一と万を通ぜざするにあらず。通の上の一と万と也。

達磨宗には、破相論(日本書歟)、悟性論(唐書)、血脈論(同上)と立てて、まず世間の法を破して、正を悟ると云わば、すでに「測度」なるべし。教には分別は迷の前の事也。悟と談ずる時は、仏ならぬ物なし。一仏成道観見法界(『釈摩訶衍論勘注』九「大正蔵」六九・八四二b一五・注)と云うゆえに、「諸物これ証なり。しかあれども、一性にあらず、一心にあらず。証のとき、証々さまたげず」などと云う、たとえば三界を一心と証し、諸法を実相と体脱すと云えども、凡夫の心得たる丈は、なを強為にも似たり。また一心も実相も、これを本として三界をも諸法をも、一心に為し、実相に為すようなれば、いかにも自調の証となる也。ここを離れん為に、「證々さまたげず、現々あい接することなし」とも云う也。「一法纔通万法通」を、能々心得ん時、実相唯心等の道理も、体脱すべし。又この一法わづかに通ずと云えばとて、一より万に亘るとは不心得。ただ一に通ずるも、万に通ずるも同じとなり。「一異の測度にあらず」と云うゆえに、諸物とは六道の諸物也。今は仏法の証也。「通」と云うは、三界の外に無一心、諸法の外に無実相とも談ずる、これ「通」なるべし。如此談ずる時は、又疏学の時は悪無礙の見になる、能々可慎事也。

〇三界は事、一心は理、諸法を置かねば、実相許り也。「通をして通の礙なからしむるに、一通これ万通これ也」と云う、「一」と「万」と二つの心を挙げらるるゆえに、「これこれ也」と二詞になる。「一通は一法なり、一法通はこれ万法通也」と云う、聊かこれ異なりとあるには、替わるべき歟。

経豪

  • 先ず「画餅」とは、絵に画ける餅也。いたづらなる物に仕付けたる詞也。実にも画に書ける餅、更に飢えを支うべからず。されば古き祖師の中にも、日来学しつる教えを捨つる詞にも、絵に画ける餅(は)飢えを支うるに不及と下りて、書籍を焼きし先蹤ありき。詮は法の理に落ち着かぬ徒らなる事に仕い習わしたり。祖門には不可然、空華同之。妄法の至極に空華と思い習わしたるを、今の仏祖所談の法文には、此の空華を三世諸仏数代の祖師に等しめて談之。然者今の「画餅」に限りて、いたづらなる物とて、非可失。今(の)画餅(は)空華と等しかるべし。「諸仏与諸物」、当時の姿(は)大いに違いたれども、内に具足する所の「一性一心」等が一なるゆえに、「諸仏これ証なるゆえに、諸物これ証也」とは、云わるると打ち任せて、人の思わぬべき所を、「一性にあらず一心にあらず」とは、先(の)被嫌也。「一性にあらず、一心にあらざれども、証の時、証々さまたげず現成するなり。現成の時、現々あい接する事なく現成すべし」とは、一性一心ならば証も替わるまじきを、「一性にあらず一心にあらず」と、被嫌上は、さては証も各々証あるべきかと覚ゆる不審ありぬべき所を、其の義はあるまじ。「証の時、証々さまたげず現成し、現成の時、現々あい接する事なく現成すべし」とは云う也。此の理を「祖宗の端的也」とは云うなり。「端的」とは当たりたる心地也。
  • 右の所挙の道理が、只「一」ぞ「異」ぞなどと可云理にてもなき所を如此云う也。
  • 「一法纔通万法通」の詞を心得には、一法をだに、能々明らめ心得ぬれば、此理諸法に亘りて、相通ずる也。ゆえに爾云也と思えり。実に一往去る理もありぬべけれども、是は未を近づかざる理也。そのゆえは、明らむる時の一法、未明時の一法ありて聞こゆ(は)、背仏法理。是は一法が万法にてあり、万法が一法なる道理を、「一法纔通万法通」とは云わるる也。努々多少に拘わらず、一法に通じて、此力にて余法をも通ずべしと云うにはあらぬ也。ゆえに「一法の従来せる面目を奪劫するに非ず」とは云う也。争か「一法の相対せる事あらん、一法を無対ならしむるに非ず」とは、一法は無対ならしむべき道理にてこそあれども、此の心地は只一法と云えば、只一物のあるべきを如此云うと心得ぬべし。是は猶数量に止まらぬべき心地失せぬ也。仍被嫌之。『仏性』の草子に、「仏性の理究尽の時、狗子もあり蚯蚓もありき、有もあり、無もありき」。是は一一拘わらぬ道理なるべし。前に云いつるように、一法の様を心得か、「無対ならしむるは、これ相礙也」とは被嫌也。「相礙」と云う詞(は)、又嫌うにあらず。全体なる理を「相礙」と云う義もあるべし。
  • 是は如前云、一法を一なる外、又物のあるまじきように心得る所をば嫌いて、如今云う。「一通これ万通、これ一通は一法、一法通これ万法通也」と可心得と被落居なり。所詮此の「一法纔通万法通」は、一法纔通一法通、万法纔通万法通の道理に落ち着くべき也。

 

 古佛言、畫餠不充飢。

 この道を參學する雲衲霞袂、この十方よりきたれる菩薩聲聞の名位をひとつにせず、かの十方よりきたれる神頭鬼面の皮肉、あつくうすし。これ古佛今佛の學道なりといへども、樹下草庵の活計なり。このゆゑに家業を正傳するに、あるいはいはく、經論の學業は眞智を熏修せしめざるゆゑにしかのごとくいふといひ、あるいは三乘一乘の教學さらに三菩提のみちにあらずといはんとして恁麼いふなりと見解せり。おほよそ假立なる法は眞に用不著なるをいはんとして、恁麼の道取ありと見解する、おほきにあやまるなり。祖宗の功業を正傳せず、佛祖の道取にくらし。この一言をあきらめざらん、たれか餘佛の道取を參究せりと聽許せん。

 畫餠不能充飢と道取するは、たとへば、諸惡莫作、衆善奉行と道取するがごとし、是什麼物恁麼來と道取するがごとし、吾常於是切といふがごとし。しばらくかくのごとく參學すべし。

 畫餠といふ道取、かつて見來せるともがらすくなし、知及せるものまたくあらず。なにとしてか恁麼しる。從來の一枚二枚の臭皮袋を勘過するに、疑著におよばず、親覲におよばず。たゞ隣談に側耳せずして不管なるがごとし。

 畫餠といふは、しるべし、父母所生の面目あり、父母未生の面目あり。米麺をもちゐて作法せしむる正當恁麼、かならずしも生不生にあらざれども、現成道成の時節なり。去來の見聞に拘牽せらるゝと參學すべからず。餠を畫する丹雘は、山水を畫する丹雘とひとしかるべし。いはゆる山水を畫するには青丹をもちゐる。畫餠を畫するには米麺をもちゐる。恁麼なるゆゑに、その所用おなじ、功夫ひとしきなり。

 しかあればすなはち、いま道著する畫餠といふは、一切の糊餠菜餠乳餠燒餠糍餠等、みなこれ畫圖より現成するなり。しるべし、畫等餠等法等なり。このゆゑに、いま現成するところの諸餠、ともに畫餠なり。このほかに畫餠をもとむるには、つひにいまだ相逢せず、未拈出なり。一時現なりといへども一時不現なり。しかあれども、老少の相にあらず、去來の跡にあらざるなり。しかある這頭に、畫餠國土あらはれ、成立するなり。

 不充飢といふは、飢は十二時使にあらざれども、畫餠に相見する便宜あらず。畫餠を喫著するに、つひに飢をやむる功なし。飢に相待せらるゝ餠なし。餠に相待せらるゝ餠あらざるがゆゑに、活計つたはれず、家風つたはれず。飢も一條柱杖なり、横擔豎擔、千變萬化なり。餠も一身心現なり、青黄赤白、長短方圓なり。いま山水を畫するには、青緑丹雘をもちゐ、奇岩怪石をもちゐ、七寶四寶をもちゐる。餠を畫する經営もまたかくのごとし。人を畫するには四大五蘊をもちゐる、佛を畫するには泥龕土塊をもちゐるのみにあらず、三十二相をもちゐる、一莖草をもちゐる、三祇百劫の熏修をももちゐる。かくのごとくして、壱軸の畫佛を圖しきたれるがゆゑに、一切諸佛はみな畫佛なり。一切畫佛はみな諸佛なり。畫佛と畫餠と撿點すべし。いづれか石烏龜、いづれか鐵柱杖なる。いづれか色法、いづれか心法なると、審細に功夫參究すべきなり。恁麼功夫するとき、生死去來はことごとく畫圖なり。無上菩提すなはち畫圖なり。おほよそ法界虚空、いづれも畫圖にあらざるなし。

 古佛言、道成白雪千扁去、畫得青山數軸來。

 これ大悟話なり。辦道功夫の現成せし道底なり。しかあれば、得道の正當恁麼時は、青山白雪を數軸となづく、畫圖しきたれるなり。一動一靜しかしながら畫圖にあらざるなし。われらがいまの功夫、たゞ畫よりえたるなり。十号三明、これ一軸の畫なり。根力覺道、これ一軸の畫なり。もし畫は實にあらずといはば、萬法みな實にあらず。萬法みな實にあらずは、佛法も實にあらず。佛法もし實なるには、畫餠すなはち實なるべし。

詮慧

〇古仏言、画餅不充飢段

「名位一つにせず」と云うは、「雲衲霞袂・菩薩声聞・神頭鬼面・古仏今仏」等の、各々なるを、「名位一つにせず」と云うなり。

〇「神頭鬼面」とは、同じと云う事にも仕う。ただし「古仏今仏」等となるべし。神頭鬼面を皮肉と云う、ゆえに「あつくうすし」と説く(は)、非差別。

〇「樹下草庵の活計」と云うは。しばらくの方便を指す也。

〇「経論の学業」を下して、「真智を熏修せしめざるゆえに、不充飢と画餅を云う也と心得るは非なり。「不能充飢」の詞をいたづらなるぞと解するこれ非也。やがて「諸悪莫作、衆善奉行」と説くも実なり。「是什麽物恁麽来と道取する」も真也。「吾常於是切(諸法実相と云う程の事也)と云う」も、誠也。あやまりにあるべからず。都て画餅は不充飢と云わるるなり。画すれば不充飢と云うにはあらず。「糊餅・菜餅・乳餅・焼餅・糍餅」皆「画餅」と云う。又「画等・餅等・法等」と云う。しかれば不充飢と心得也。必ず(しも)充不充の用にはあらず。

〇抑も画すると云うも、青丹等に画するとは心得まじ。米麺にも画する也。此の「不充飢」の詞は、三世不可得の義を以て心得べし。過去心已に過ぎぬ、未来心未至、現在心不住。このゆえに心不可得とは心得まじ。心の在り様を尋ぬれば、心こそ不可得とは云わるれ。心を置きて得ぞ不得ぞと云うにはあらざるべし。心を置きて云えば、不可得と云う一法あるように聞こゆ。不可然、此の「不充飢」を不可得程に心得べし。

〇今の画餅不充飢とて、餅は画に書く時に非実。飢は実にあることなれば、「不充」と云う。尤も云われたり。「経論の学業は真智を熏修せしめざる」時に、真実の仏には当らずとて、「三乗・一乗の教学も、さらに三菩提にはあたらず」と云うと心得る、これ仏道の道に暗し。

〇「諸悪莫作、衆善奉行」をも、誡め勧むる詞と心得。「是什麽物恁麽来」をも、いかなるものの、いづくよりきたれるぞと問うと心得て、なにともあつべき所なければ、八箇年辦道して後は、説似一物即不中と云うならんとに心得る時に、かくの如く参学すべしと云う詞にも合わざるなり。即不中の詞が中(あた)り、中らずと云うにてなき也。徳山の婆子(に)勘破せられて、「画餅不充飢」とて経書を捨てしも、画餅を不可得。ゆえに如此云うなり。三世不可得に惑いて、吾我の心を離れざるゆえに、不可得をも心得損ず。心の上に置くべき三世と知らざるゆえなり。

いまは餅を仏法の諸物の証に取り、伏せぬる上は、又画の様をも仏法に心得合すべし。仏法には飢なければ、充つと云う詞も不用。画と云うもやがて、糊餅・菜餅を指せば、上に充つともなどか云わざらん。飢を世間の如くに心得るが迷いなるなり。たとえば諸法不充実相、一心不充三界などと云う詞の出で来らんを心得べし。中(あた)るぞ中らぬぞと云わん、いづれも違(たが)うべからず。実相と談ずる時、諸法残らねば、不充の道理もあり。又実相の前に、飢と云う事なければ、何れにか充つべき。ゆえに「不充」と云いつべし。又飢なければ、やがて充つとも云うべし。画餅・糊餅・菜餅なれば、充つるに気もありぬべし。心と三界とのあわいも如此。

〇「従来の一枚二枚の臭皮袋を勘過するに、疑著に不及、親覲に及ばず。ただ隣談に側耳せずして、不管なるが如し」と云う、如文。所詮画餅の道理を見来せば知及せずとなり。

〇「画餅に父母所生の面目あり、父母未生の面目あり」と云うは、真言に「父母所生身、速(即)証大覚位」(『大日経疏妙印鈔』三「大正蔵」五八・四一b一五・注)と云う。此の密教の心地は、一向自胎内所生する我等を指して云う歟。然者速証すらん大覚位も戒程にやあらん。然者強ちに願うべき法にあらず、悟りとも難云。迷の我等に対して云う、ゆえに草木所生身、速証大覚位とも云わず。一向「父母所生」と云う也。いま云う所の「父母所生の面目、父母未生の面目」と(は)、画餅と説く。又画を米麺と説く、「この作法の時必ずしも生不生にあらず」と云うは、今の餅の事也。大覚と云わん時は、父母所生は仮りにあるべからず。無下に少覚と聞こゆれば、草木山川も父母所生なるべし。密教の大覚位(は)、相応の詞と思うて説かば、父母所生と云うも、未生と云うも、我等が父母所生と心得る程也。これに相対していわば、なを少分也。

〇いま以画餅、父母所生未生と仕うは、日来の父母の義に図るべし。日来の父母の上に置きて、所生未生を云うにはあらず。画餅を指して「父母所生の面目」と云い、画餅を指して「父母未生」と云う也。ゆえに「必ずしも生不生にあらざれども、現成す」と説く也。

〇「米麺を用いて作法せしむる正当恁麼、必ずしも生不生にあらざれども」と云う、是は父母所生とも云い、未生とも云う生也。

〇「餅を画する丹雘は、山水を画する丹雘と等しかるべし」と説き、「山水を画するには青丹を用い、画餅を画するには米麺を用いる」と云う、これ同じと聞こえず、尤相違なり。但これを心得には、仏性を説くに、海にて説く時は、波浪清濁の詞を仮り、衆生に仰ぎて説く時は、切りて両段となるとも説けども、仏性のよう始終変わらざる程に、これも餅を画すと云うは、米麵を絵の具と取る也、道理を明かす故なり。

〇「老少の相にあらず、去来の跡にあらず」と云うは、「老少の相」とは世間の相也。餅には「老少去来と談ずべからざれ」ども、いまの画餅は無上菩提を説くゆえに、「国土も現れ成立する也」。

〇「飢は十二時使にあらざれども」と云うは、この「ども」の詞は不用。ただ「飢十二時にあらず」と心得べし。惣て餅と云い出しつる時は、飢と云う事を置かず、仍て「相見する便宜あらず」と云う。飢を実に置きて画餅は姿ばかりを画したるにてこそあれ、不実の物と云う。不充飢と云うにてはなし。画を世間の画と心得る時こそあれ。すでに画仏と談ずる上は、飢あるべきものにてなし。仏道に(は)飢を置かず。この時は参学なきをや、飢と云うべからず。然者画餅を画仏と体脱の時は、不充飢の道理が現前する也。飢なき上は不充の条勿論。大海と談ずる時は不宿死屍の道理、心不可得とある程の事也。画餅するも世間の餅は米穀にて画す。仏法には「泥龕土塊、三十二相、一茎草、三祇百劫の熏修これらを用い」、「人を画するには、四大五蘊を用い」、「山水を画するには、青緑丹雘をを用う」也。此等の画は又皆不充飢なり。されば「不充飢」とも云いつべし、「充飢」とも使うべし。

〇「画餅を喫著するに」と云う、相見せざる上は、「喫」と云う義も不相応(に)聞こゆ。しかれば「飢を止むる物なし」と云うこと(は)、「喫」の詞に聞こゆれども、まさしく喰らうとは云うまじき也。

〇「飢に相対せらるる餅なし」と云う、是は聞くたり、「餅に相対せらるる飢あらず」と云う。すべて「相対」と云う詞を、置かじとなり、物によりて、相待せずとは不云也。

〇「活計伝われず、家風伝われず」と云うは、飢と云う事をすべて置かじと也。たとい飢はありとも、餅に相対せず。ゆえに「一条拄杖也」と云う。

〇「いづれか石烏亀、いづれか鉄拄杖なる」と云うは、此の画餅なると云う。日来は餅と仏と論に不及。今の画餅はこれ程の事也。ゆえに「石烏亀、鉄拄杖」とも云い、「色法・心法とも、功夫参究すべし」となり。石烏亀・鉄拄杖と云い並べて、これを相対し、等しめん、などとする義にてはなし。其字其心其体すべて不可似。ただ其の物を一つづつ挙げて云う心也。「画仏と画餅と」程の事也。更無勝劣。

〇「古仏言」、この段は道成の証拠也。いたづらなる絵の事を云うにあらず。

〇「道成白雪千扁去、画得青山数軸来」、諸仏の道成と白雲青山等の数軸に画すると無差別と也。

経豪

  • 文に分明也。十方より集まれる学者の事也。「神頭鬼面の皮肉、厚く薄し」とは、面々其の面は替わりたり。此の中に有若亡なる者もあるべし。又力量ある者もあるべし、其の心歟。「古仏今仏の学道也と云えども、樹下草庵の活計」とは、此の「画餅不充飢」の詞を、「古仏今仏の学道」とは云うなり。いたづらなる詞とのみ人の思う所を、「古仏今仏の学道」と云う也。打ち任せて此の「画餅不充飢」の詞を、心得たる所を嫌いて、「樹下草庵の活計也」とは下す也。
  • 文に聞こえたり。所詮画餅不充飢の詞を嫌いて人の思うは、「経論の学業は、真智を熏修せしめざるゆえに」、今の画餅に経論をば喩え、「三乗一乗の教学、又三菩提の道(みち)にあらず」と、同じく嫌いて如此云う也と見解するなり。是は嫌う義也。「おおよそ仮立なる法は、真に用不著なるを云わんとして、恁麼の道取ありと見解する所を、大きなるあやまり也」とは被嫌也。さて所落居は、此の「画餅不充飢」の詞(は)、専ら参学の道なるを、如此いたづらなる詞と、見解する所が、あやまりなるなり。
  • 如文。画餅不充飢の詞を明らめざらんは、「余仏の道取をも」許し難しと也。
  • 是は「画餅則不充飢」なる道理を、「諸悪莫作の如しとも、是什麽物恁麽来」とも云う也。「吾常於是切」とは、一法一法の徹したる心歟。
  • 是は開山御在宋の時は、此の道理を人々に被尋けるに、「疑著に不及ける事」を被書載歟。「不管」はつかさ(官・司・長・首)とらざる也。
  • 画餅」と云えば一向いたづらなる物、飢えを支えずとのみ心得、米麵・焼餅等の餅こそ、実なれと思い習わしたり。是は凡見の上は非可信。空華も只同事也。目の病いに依りて、なき華を有ると見る。病止みぬれば、此の空華不可有と思えり。其れを今は一道の法文現成となれり。今の「画餅」(は)嫌わるべき物にあらず。祖師法に用いらるべきゆえに、今(は)其の理を被述也。何事ぞと覚えたれども、かくてこそ又動執の分も出でくれ。所詮は尽界皆画餅なる道理也。其の上には以尽界、父とも、母とも可談、此理不始于今。「所生・未生」(は)、又画餅の上の「生」也。死此生彼の生にあらず。全機の生なるべし。父母所生の面目ありとも、なしとも云わるべき道理也。「米麵を用いて作法せしむる」とは、餅米麺等を以て世間に作る、其れをたよりにして彼呼出歟。此の「正当恁麽時に、必ずしも生不生と云う事あるべからざれども、現成道成と云う事もあり」と云う也。「去来の見聞に拘牽せらるると参学すべからず」とは、生不生あらずと、云いつるように、「去来の見聞に拘牽せらるると参学すべからず」と也。
  • 文に聞こえたり。「山水を画する」には、青丹を用いる定めに、餅を画する丹雘(絵具事歟)は、米麵を用う也と云う也。但し此の米麵等(は)、又凡夫所用の具に非ず。如此ゆえに、「山水を画する丹雘も、画餅を画する米麵も、その所用同じく、功夫等しき也」とは云うなり。
  • 右に所挙の色々各々餅等皆、「画図より現成す」とあれば、画餅の上の調度荘厳なるべし。ゆえに凡見を離れたる也。画餅より現成する理なるゆえに、糊餅より画図を現成し、菜餅・焼餅等より画餅を現成する理あるべき也。
  • 「画等・餅等・法等也」とは、今此の理が画も等しく、餅も法も等しき也。一法一法究尽の道理が如此云わるる也。画餅究尽の道理が「相逢せず、未拈出」おは云わるる也。
  • 「一時現、一時不現」と云えば、或る時は現じ、或る時は隠るるかと覚えたれども、非爾。画餅の上の現不現なり。「老少の相にあらず」とは、人の年の老少にはあらず。此の「老少」の詞は多少にも仕う、善悪勝劣の詞にも仕い付けたり。ここには年に付けて老少と云うとは、不可心得。此の「一時現、一時不現」を指して、「去来の跡にあらざる也」とは云う也。是等の理を以て、「画餅国土あらわれ成立する也」とは云う也。
  • 画餅不充飢と云えば、いかにも只画餅は空しき物故に、飢えに充つるに足らぬとのみ思い付きたり。此の条(は)先(と)不可然、如前云、『空華』の時、能々沙汰ありき、又『都機』の草子にも、第一月第二月皆月也とあり。乃至生死去来、狗子も蚯蚓も、迷悟も山河大地も、皆日来の旧見にあらざる上は、此の画餅不充飢の詞に至りて、旧見に落つべきにあらず。其上如今(の)尋常(の)詞に心得は、餅も普通の餅なるべし。飢も凡夫の上の調度なるべし。食したる時は飽満し、不食時は飢なるべし。糊餅・菜餅・乳餅・焼餅等こそ実の餅なれ。画餅は空しくいたづらなる物などと心得には、只凡夫妄情の見なるべし。更(なる)仏道修行にあらず、談じても甚無其詮、能々可思惟事也。餅の詞にて法界を尽し、「不充飢」の詞がいたづらならぬして、法を示す詞なればこそ、祖師の仏法の異也、直指の詞の超過したる分もあらわるる前には画餅の詞を被釈。今は「不充飢」の詞を被釈也。「飢は十二時使にあらざれども、画餅に相見する便宜あらず」とは、実に此の「飢十二時」にあらず、只画餅なるべし。画餅の法界を尽す時、又「画餅を喫著するに、ついに飢をやむる功なし。飢に相待せらるる餅あらざるがゆえに」とは、又此の画餅の理の上に「喫著」と云う事もあるべきか。此の「喫著」の姿は、「飢をも止めず、飢に待たるる餅にてもなき」なり。其の故は、此の画餅の姿(は)尽十方界画餅なるあいだ、能所自他なきゆえに、何か食べて飢えをも休め休めずもあるべきぞ。ゆえに飢をも休めず、飢に待たるる餅にてもなき也。此の道理の落ち立つ所が、「餅に相待せらるる餅に非ざる也」と云わるる也。「活計つたわれず、宗風つたわれず」とは、右に所挙(の)道理あるべからずと云う心也。
  • 今の餅の姿(の)、「一条拄杖・横擔豎擔・千変万化」(は)、皆「飢」の一法の外に交わる物あるべからず。餅又「一身心現也」とあり、「飢」の尽界を尽す道理なるべし。
  • 是は「山水を画する」たよりなる、調度などを被引載。此の定めは、画餅を画するにも、如前云、色々(な)餅等を被挙、其の便りある詞共を被引出也。七宝四宝の詞ぞ(とは)不被心得ようなれども、須弥山は四宝所成の山なれば、是又便りなきにあらず。身の四大五蘊も、仏の三十二相等の詞も、皆此の心地なり。さればとて日来所見の調度にはあらざるなり。各荘厳功徳(の)、皆法界を尽したる調度なるべし。飢の法界を尽したる道理の上に、色々の餅等が各々の姿にて、人に被食すると思う事なかれ。「山水を画する青緑丹雘」等も、只尋常の絵具如きにて、山水等を色取らんずるように不可心得。是もただ山水の上の荘厳功徳なるべし。各皆尽法界也。又「一軸の画仏」と云えばとて、我等が所懸の本尊一幅などと不可心得。此の「一軸」は以尽界、一軸と談ずべし。以仏祖、一軸と習うべし。此理なるゆえに、「一切諸仏は皆画仏也、一切画仏は仁万諸仏也」とは云う也。
  • 「画仏与画餅と撿点すべし」とは、先日来の餅なるべからざる条、此の詞に聞こえたり。「石烏亀」とは石歟、所名なり。所詮「か・か」と詞ごとに被書之。「石烏亀にても、鉄拄杖にても、色法にても、心法にても」、あるべき道理なるべし。
  • 御釈に分明也。此の上は「生死去来も、無上菩提も、法界虚空、惣て画図の一法」として、現成せざる所なしと云う也。
  • 是は古き祖師の悟道の詞(「出典籍不明」・注)也。「道」と者、成道事歟。詮は成道の姿が、「白雪千扁去、青山数軸来」の道理なるべし。「数軸来」と云えばとて、数多あるにあらず。一軸と云わんと数軸と云うも只同事也。仏体更多少の数に不可被局量なり。今は以此詞、辦道功夫の現成と可取也。
  • 「得道」の時節には、「青山白雲」を以て、仏面とも祖面とも可談也。所詮今は「画図」ねらぬ一法あるべからず。「青山白雲、或いは十号三明、根力覚道」などとあれば、しばらく是等を「数軸を画図し来たれる也」と、可心得歟。如此云えばとて、各々に其の姿も、其の所談もあるべしと思うべからず。只「画図」の上に如此云わる一物なるべし。「我等が今の功画図より得たる」とは、我等が画図なる所が、画より得たるとは云わるる也。一物なる道理なり。
  • 如文。此の画図のよう、すでに如此心得ぬる上は、画にて非可嫌。是を「実に非ず」と云わば、「万法も実に非ず」と被嫌、尤其謂あり。

 

雲門匡眞大師、ちなみに僧とふ、いかにあらんかこれ超佛越祖之談。師いはく、糊餠。

 この道取、しづかに功夫すべし。糊餠すでに現成するには、超佛越祖の談を説著する祖師あり、聞著せざる鐵漢あり、聽得する學人あるべし、現成する道著あり。いま糊餠の展事投機、かならずこれ畫餠の二枚三枚なり。超佛越祖の談あり、入佛入魔の分あり。

詮慧

〇雲門匡真大師段

先の段に画得たりと云う上は、「超仏越祖」は、不可疑事也。

「超仏越祖又糊餅」と云う時に、都て此の画餅の義、今は我等が日来拈来しつる餅の分にはあらざる事也。画仏画祖と心得るなり。

経豪

  • 「超仏越祖」の詞いかにと可心得事ぞ、此の詞は頗難信。又「超仏越祖」と云えば、いかなる奇特なる事のあらんずるやらんと覚ゆ。只仏祖の上に、「超仏越祖」と云う道理ある也。仏は仏を超え、祖は祖を超ゆる也。全非勝劣義、ここに「師、糊餅」と被答。今の答の様、又不被心得。何とあるべしとも不覚。但是又「超仏越祖」の道理に、今の答えの「糊餅」の詞(は)不可違。「仏祖与糊餅」、全く差異あらず。いかなるか仏と問するに、いかなるか仏と答えたる程の問答なり。
  • 超仏越祖の談と問われて、師糊餅とこそ被答えたるを、今は又「糊餅すでに現成するには、超仏越祖の談を説著する祖師あり」と云う、知りぬ糊餅と超仏越祖との一なる事を、「説著する祖師」とは、今の雲門を指す歟。「聞著せざる鉄漢あり、聴得する学人あるべし、現成する道著あり」とは、聞かざる物もあり聴き得たる学人もあり、現成する道著もありなどと、様々の姿を置いて云う様なれども、詮は糊餅の理の上、「超仏越祖の所談」に付けて、「説著・聞著・聴得・乃至鉄漢・学人」是等の道理あるべしと云う心也。「道著」と云えば、詞と許りは心得まじ。「聞著せざる鉄漢、聴得する学人」などとの姿、やがて「道著」なるべし。
  • 「糊餅の展事投機」とは、「展事」とは、其の事などと云う心也。「投機」とは、其の機と云う心地也。所詮糊餅の事(は)、糊餅の機と云う心なり。是を「二枚三枚」と云う也。非数。
  • 「入仏」は善し、「入魔」は悪ししと覚ゆ。但此の「入魔」は只「入仏」と同じ詞也。不可勝劣。今の「魔」(は)「仏」と云う詞(と)同じき也。「超仏越祖」と云う詞と、「入仏入魔」と云う詞(は)、等しき詞也と可心得。

 

先師道、修竹芭蕉入畫圖。

 この道取は、長短を超越せるものの、ともに畫圖の參學ある道取なり。修竹は長竹なり。陰陽の運なりといへども、陰陽をして運ならしむるに、修竹の年月あり。その年月陰陽、はかることうべからざるなり。大聖は陰陽を覰見すといへども、大聖、陰陽を測度する事あたはず。陰陽ともに法等なり、測度等なり、道等なるがゆゑに。いま外道二乘等の心目にかゝはる陰陽にはあらず。これは修竹の陰陽なり、修竹の歩暦なり、修竹の世界なり。修竹の眷屬として十方諸佛あり。しるべし、天地乾坤は修竹の根莖枝葉なり。このゆゑに天地乾坤をして長久ならしむ。大海須彌、盡十方界をして堅牢ならしむ。拄杖竹箆をして一老一不老ならしむ。芭蕉は、地水火風空、心意識智慧を根莖枝葉、花果光色とせるゆゑに、秋風を帶して秋風にやぶる。のこる一塵なし、淨潔といひぬべし。眼裏に筋骨なし、色裡に膠□(月+離)あらず。當處の解脱あり。なほ速疾に拘牽せられざれば、須臾刹那等の論におよばず。この力量を擧して、地水火風を活計ならしめ、心意識智を大死ならしむ。かるがゆゑに、この家業に春秋冬夏を調度として受業しきたる。

 いま修竹芭蕉の全消息、これ畫圖なり。これによりて、竹聲を聞著して大悟せんものは、龍蛇ともに畫圖なるべし。凡聖の情量と疑著すべからず。那竿得恁麼長なり、這竿得恁麼短なり。遮竿得恁麼長なり、那竿得恁麼短なり。これみな畫圖なるがゆゑに、長短の圖、かならず相符するなり。長畫あれば、短畫なきにあらず。この道理、あきらかに參究すべし。たゞまさに盡界盡法は畫圖なるがゆゑに、人法は畫より現じ、佛祖は畫より成ずるなり。

 しかあればすなはち、畫餠にあらざれば充飢の藥なし、畫飢にあらざれば人に相逢せず。畫充にあらざれば力量あらざるなり。おほよそ、飢に充し、不飢に充し、飢を充せず、不飢を充せざること、畫飢にあらざれば不得なり、不道なるなり。しばらく這箇は畫餠なることを參學すべし。この宗旨を參學するとき、いさゝか轉物物轉の功徳を身心に究盡するなり。この功徳いまだ現前せざるがごときは、學道の力量いまだ現成せざるなり。この功徳を現成せしむる、證畫現成なり。

詮慧

〇先師段

「修竹芭蕉入画図」、聞声悟道とは心得まじ。悟道聞声也、見色明心也。四海無復本名、四性出家同称釈子と云う程の事也。此の「入画図」の時、「修竹芭蕉」の長短ある也。法華已前に二乗(の)成仏を説くやと云う論義あるか。法華の心地にこそ、二乗成仏の義はなけれども、云いつべし諸法実相と談じ、無二亦無三なれば、二乗もなし三乗もなきゆえなり。

〇「陰陽の運也と云えども」と云うは、この「陰陽の運」は、世間の陰陽に似たれども、陰陽をして運ならしむる。「修竹の年月あり」と云えば、いま画図の上の談也。この「年月」世間には異なるべし。

〇「大聖の陰陽を測度する事あたわず」と云いぬれば、能所を置きて見る、覰見にてはなき也。「測度」は、世間の詞に似たれども、この測度は已に「法等・道等」と云われぬれば、又「測度」も「道と法」とに同じき也。

〇「天地乾坤をして長久ならしむる」修竹也とは、上に長竹也と云いつる是なり。

〇「一老一不老」と云う事は、古云、「道無心合人、人無心合道、欲識箇中意、一老一不老」(『洞山語録』「大正蔵」四七・五一〇a一九・注)と云う、依此詞、如此云也。この「一老一不老」は、老の時あり、不老の時ありと不可心得也。「拄杖竹箆」の上に「一老一不老」をも仕う也。道無心合人をも、「一老一不老」と仕い、人無心合道をも、「一老一不老」と仕い、人無心合道をも、「一老一不老」と仕う。ゆえに但「老」の字の大切にはあらず、たとえば会不会と云わんが如し。

〇「芭蕉」の事(は)「修竹の長竹」なるが如く心得べし。「地水火風空、心意識智慧を根茎枝葉、花果光色とせるゆえに」と云う、ゆえに「秋風を帯して秋風にやぶる」と云うは、修竹の上の年暦をも、置きつれば、是も秋風を置く(は)、「芭蕉」の上の風なり。「秋風を帯し、秋の風にやぶるる」は、尽界を取り尽界を放つ程の事也。たとえば春風に花開、春風に花落。この道理いたづらに開落と心得まじ。開くるは成等正覚、落つるは解脱の法と知るべき也。

芭蕉破れぬれば、いたづらに破れ、得するにてなし。一塵一法も残す事なきゆえに、「浄潔」と説く。このゆえに「眼裏には筋骨なく、色裏には色取るべき膠もなし」となり。

〇「地水火風を活計ならしめ、心意識智を大死ならしむ」と云うは、この死を「大死」と仕う。「心」は必ず死のみを云うにあらず、大生もあるべし。又此の「大」の字(は)全なるべし、生也全機現、死也全機現なり。「死」と説けども、生滅の死にあらず。ゆえに「大死」と説く。これはただ成熟とも、解脱とも云わんが如し。

〇「竹声を聞著して、大悟せん者は」と云うは、すでに入画図の竹也。聞きて悟と各別に思うべからざる所を、蛇の龍と成るにはあらぬなりと説く也。「龍蛇ともに画図と云うべき」がゆえに。

〇「凡聖の情量と疑著すべからず。那竿得恁麼長、這竿得恁麼短。遮竿得恁麼長、那竿得恁麼短。皆是画図なるがゆえに、長短の図、必ず相符するなり。長画あれば、短画なきにあらず」と云う時に、所詮ただ長者長法身、短者短法身と心得べきなり。

〇すべて「不能充飢」の詞、或不充飢と云われ、充飢と云わるるなり。餅も餅と共に画図なり。画図なるゆえに、ともに親切なるなり。すでに「飢に充し、不飢に充し、飢を充せず、不飢を充せざること、画図にあらざれば不得也」と云う上は勿論也。

経豪

  • 今の「修竹芭蕉」の詞を褒むる也。「長短と超越せるものの、共に画図の参学」とは、仏道の参学などと云う程の詞也。
  • 打ち任すは万物共に、陰陽を離れて生長する事なし。今の「修竹芭蕉」はしかあらず。修竹芭蕉が、「陰陽を運ならしむる」也。「修竹の年月」とは、修竹の年月にてこそあれども、その「年月は陰陽の図る所の年月にあらざる」なり。
  • 如文。「大聖の陰陽を覰見す」とは、大聖与陰陽、不可各別。此の「大聖」の姿を以て、「陰陽」とすべし。ゆえに「覰見すと云えども、大聖、陰陽を測度する事あたわず」と云う也。ゆえに此の「陰陽法等也、道等なるがゆえに」如此云わるる也。
  • 如文。
  • 所詮今「修竹」の究尽する道理、諸法「十方諸仏」より始めて、「天地乾坤」等(は)皆「修竹の眷属也」と云う也。此の「天地乾坤」無際限(の)道理を、「長久ならしむ」とは云うなり。
  • 「一老一不老」は古き詞也。「拄杖竹箆」のあわいを、「一老一不老」と云う也。又仏与祖(の)あわいを、「一老一不老」と云うべきか。「老」の上の「不老」なるべし。修竹与芭蕉のあわいをも「一老一不老」と云うべし。(老の上の不老とあり。この外、老と不老との義もあり。是は永興寺第五世の御詞也)
  • 已前には修竹の様を被明。今は「芭蕉」の道理を被述なり。前に修竹の眷属として、十方諸仏あり、知るべし天地乾坤は、修竹の根茎枝葉也と云いつるように、今は又「地水火風空、心意識智慧」を、芭蕉の「根茎枝葉とする」也。「秋風を帯して秋風にやぶる」とは、今の芭蕉の姿をしばらく取り寄せて被書きたるか。此の姿「残る一塵なし、浄潔と云いぬべし」とは、秋風を帯して秋風にやぶるる姿(は)、解脱の姿也。仍て「残る一塵なし、浄潔と云わるる也」
  • 「眼裏に筋骨なし、色裡に膠□(月+離)あらず」とは、「解脱したる」詞也。今「残る一塵なく、浄潔と云いぬべし」と云いつる姿也。「当処解脱のよう速疾に拘牽せらるるに非ず。須臾刹那等の論に不及事」也。是が彼になるなどと云うに付けてこそ、「速疾にも刹那」とも云え。是は当処解脱の理、無始本有の道理なる上は、「速疾にあらず、須臾刹那等の論に不及事」なり。強為の法に非ざるゆえに、此の道理を挙して、「地水火風の活計ならしめ、心意識を大死ならしむ」とは、今(の)当処解脱の道理、「速疾に拘牽せられず、須臾刹那等の論に不及」理を挙して、「地水火風をも心意識をも」可心得と云う也。「大死」の詞不審なれども、無殊子細。「活計」の「活」の詞に対して「大死」と云う歟。此の「大死」は全死なるべし。「此の家業に春秋冬夏を調度として受業し来たる」とは、此の修竹、此の芭蕉等の上に、「春秋冬夏を調度として」談ず也と云うなり。
  • 修竹の様、芭蕉の次第などと、前段に委被釈之了。今は「修竹芭蕉」を押し房ねて、「是画図也」と被釈なり。「竹声を聞著する」とは、香厳事歟。竹声を香厳の聞著とは不可心得。能聞所聞あるべし。不可然、香厳は竹声に聞著せらるる道理なるべし。竹声与香厳、全非各別物。是皆「画図」の道理なるべし。

「龍蛇共に画図」とは、龍蛇は只同物なり。龍頭蛇尾などと云う。竹声も香厳も皆画図の道理なるゆえに、只一物也。ゆえに「龍蛇共に画図也」とは云う也。実に此理「凡聖の情量と不可疑著」事也。

龍蛇同じき条は勿論なれども、仏性与狗子程のあわいなるべし。只一物なれども、聊か今の詞に付けては、ちとけじめあるように、聞き得る分もあるべき也。

  • 是は古き祖師の詞也。「竹」の詞に付けて被引出歟。「是等皆画図なるべし」、「長短」共にたの上に談ずる也。短者短法身、長者長法身などと云いし程の心也。会不会の理なるべし。
  • 画の上に長短の所談争かなかるべき。
  • 如文。只所詮「尽界、尽法、画図ならぬ一法あるべからず」。「仏祖も画より現成する」程の丈なれば勿論事也。此の仏祖を画図と談ずるゆえに、「仏祖も画図より現成する」とは云う也。
  • 前には画餅不充飢とて、飢を支うべからずと被談。ここには「画餅に非ざれば充飢の薬なし」と被釈之。頗る参差したるように聞こゆ。但し此の「画餅不充飢」の詞を、凡夫の心得るは、絵に画ける餅(は)徒ら物なるゆえに、飢えをば支えず。糊餅・菜餅・乳餅・焼餅などとの麗しき餅こそ、飢えをば支うれ。故に「画餅不充飢」と云うと心得たり。而今は仏法の上にて此の詞を談じようは、此の画餅(は)更(に)非徒ら物、仏祖すでに画より成る也とある上は勿論也。画餅の法界を尽すとき飢あるべからず。画餅究尽の理の外に、余物不可交、ゆえに「画餅不充飢」と云う也。此の道理の響く所が又「画餅に非ざれば、充飢の薬なし」と云わるる心地は、この「画餅」をやがて「充飢」と心得るゆえに、如此「充飢の薬なし」とは云う也。然者、凡見の充飢には異なるべし。又「画餅」と云う事あらん上は、「画飢」と云う事なかるべきにあらず。此の「飢」(は)、又只「画餅」(と)同じ丈なるべし。此の「飢」(は)又法界を尽すべし。「画飢」の道理、「人人相逢すべからざる」理(は)必然なるべし。
  • 画餅充飢、画飢の道理は先に明かされぬ。今は「画充」と云う理を表さるる也。実に「画充」と云う詞(は)、世間には難云歟。如此談ずる時、弥(いよいよ)仏法の親切なる道理明らかなる也。ゆえに「画充にあらざれば、力量あらざる也」と被決也。所詮今の画図の道理が「餅」とも「充」とも「飢」とも無尽に談ずるに、互いに障碍なきなり。
  • 「飢、不飢、充し、充せず」と云う事、例(の)道理なるべし。会不会見・見仏不見仏程の事也。此理「画餅の上にあらざれば、不得不道也」と云う也。
  • 無殊子細。只此の「画餅の道理を参学すべし」と云うなり。
  • 所詮今の画餅等の道理を「参学するを、転物物転」とは云うべし。解脱の理を談ぜん「転物物転」にあたるべし。生は愛する所、死は厭い、仏はいみじく(立派・注)、衆生は劣也。乃至迷は悪しく、悟は善しなどと取捨分別せんは、「転物物転の功徳」なるべからず。「この功徳を現成せしむる証画現成なり」。
  • 所詮画図の法界を尽す姿を以て、今は「証画」とは云わるべき也。右に所談の一一(の)詞(は)、皆「証画」なるべし。

画餅(終)

 

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。

 

タイ仏歴25657月11日 バンコック近郊にて