正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

一処不住の禅僧 村上  光照

     一処不住

                                  村 上  光照

昭和十二年高松生まれ。京都大学大学院で湯川秀樹博士の指導を受け原子物理学を研究。沢木興道老師により得度を受ける。寺を持たず、托鉢と日本各地とヨーロッパでの坐禅指導により日々を過ごしている。

                             ききて 金 光  寿 郎

 

村上:  私たちの心は人の心ですけれど、人相応に、低い、卑しい心に共鳴する心も、高い、尊い、気高い、本当に清らかなものに感動する共鳴箱も持っているんです、心の中に。そして、普通は自分のしたいこと、「あれしたい、あれ辛い、あれ楽しい」。自分、自分、自分が決め込んで、その「自分て何だろう」と聞くことないんですね。しかし、よくよく気が付いてみると、自分なんて、仮に何かのご縁でいろんな癖が付いているんです。本当はその自分じゃなくて。「あれしたい、これしたい」なんてということ、してしまった後、虚(むな)しくなるでしょう。そうでなくて、本当は、「何をやらなければいけないだろう」「人と動物はどこが違うんだろう」「この命よりもっと大切なものがあって、命なんか捨てても、もっと命より大切なものを、実現するために生きているんじゃないだろうか」。そういう心が起こるように出来ているんです。だから、いのちを賭けても惜しくない。孔子さまが、「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」と言って、ほんとうにいのちより尊い、感動に満たされたら、本当にそれでその道に出会ったということで、そのためにいのちを幾らでも捨てれるんだ、と。人の力というものは、なんと儚い儚い。やってみれば分かります。疲れるだけで、自分でやるのに。みんな精神的に立派でなんて。磨いても磨いても。自分の周りは多少照らすでしょう。ホタルの光とお月さんの光に喩えるんです。〈自力というのは自分の尻尾の周りだけしか照らせない〉んです。それが自力です。〈お他力というのは天上界を照らすと一緒に地上のあらゆるものに平等に照らす〉。それを頂いていく作法を「大乗」とか、「お他力」とか言います。現にその通りになっていくんです。宗教的事実というのは、一回我を離れる、というか、自分の先入観にとらわれないでいると、もう既に煌々と照っている世界なんです。はっきりとそういうしるしが人々に顕れます。

 

ナレーター: 静岡県榛原(はいばら)郡川根(かわね)町。幾重にも重なった山襞(やまひだ)の奧に、村上光照さんの禅道場があります。お茶畑の中の離農した農家を借りて、束の間の道場にして、数人のお弟子さんと一緒に、村上さんは暮らしていました。一処不住。得度して三十年の歳月、寺を持たず、托鉢生活と日本国内各地とヨーロッパでの坐禅指導により、日々を過ごしている村上光照さんです。

 

金光:  この前、お目にかかったのは確か伊豆の松崎だったと思うんですが、今度は静岡県川根町の山の中ということなんですが、その間、時々、お電話しましてもお留守のことが多いようでございますが、こちらとか、伊豆ににいらっしゃらない間は、どういう処へお出掛けなんでございましょうか。

 

村上:  「縁に従って去る」という言葉がございますけど、その〈縁を拒まない〉。私たちは〈みんな沢山のご縁に生かされております〉。そういう処、まあ特別求めるということはないんですけど、求めに応じて出来るだけのことをさして頂くという、これは本筋でございます。出家というのは、原則的には社会の組織を離れておるんですけど、その離れたまんま、そのまんまの姿勢で俗世間の中を、これ「遊戯(ゆげ)」と言うんですけど、全然そういうことが邪魔にならない世界を歩かせて頂いているわけです。幸いいろんな方が呼んで下さるものですから、

 

金光:  なんか日本だけじゃなくて、外国までお出掛けだとか。

 

村上:  そうです。どういうわけか地球上、いろいろな要請が起こっているように思います。

 

金光:  今年は、例えばどういう処へお出掛けでございますか。

 

村上:  今年はヨーロッパへ参らせて頂きまして、そしてあちらの、やはり宗教的伝統の中で培われたものと、こちらの日本に伝わっているものとの出会いの中で、改めてあちらの素晴らしさと、やはりこちらのものはこちらとして、ちゃんとしたものがあるんだなあ、ということを思いました。また、かえって、日本人が忘れかけているんじゃないか、ということを、ハッと思い出させて頂きました。

 

金光:  それと日本でも伝統の中には坐禅を非常に大事になさるご宗旨と、或いは、お念仏だとか、法華経だとか、なんかそれぞれご宗旨の立て方が違って、現在まできているようでございますが、村上さんの場合はそういう宗派的な区別なしにそれぞれのご縁のところにお出掛けのように伺いますが、その辺はあまり気になさっていらっしゃらないでしょか。

 

村上:  仏さまのお悟りの中には宗派というものは全くございません。

 

金光:  そうですね。ありませんですね。

 

村上:  そうして、お釈迦様を源として、ずうっと流れ下るうちに、それぞれの立場、それぞれいろいろな彩りがあるように、その人たちが消化しやすいように、それを言ったわけです。ちっとも元は違いはないわけなんです。坐禅というものはいつも真っ新(さら)に、お釈迦様のお悟りにピタッと一致するわけなんです。例えば、キリスト教とか、他にはたくさん宗教があるでしょけど、みんな真理という点ではちっとも違和感はないわけなんですね。

 

金光:  宿だとか、食事のご心配なんか、あまりなさっていらっしゃらないようにお見受けしますが、その辺はどういうふうに考えていらっしゃるでしょうか。

 

村上:  私たちは一応「戒律」という世界を生活させて頂くわけなんです。「戒」というものと、「律」というものと、本当は二つに分けるんです。それは端(はた)から見ていると、なにか規則か、ルールのように思われるかも知りませんけど、「筋道」ということです。私たちが、人間が考えて、都合で決める筋道ではなくて、元の〈天地の筋道〉、それに従っていく一番楽な流れがあるんです。

 

金光:  楽?

 

村上:  「楽」というのは〈縁に逆らわない〉。それに従っていくところ、これ「自在(じざい)」という世界です。坐禅功夫がそのままポッと迸り出て、そこに応じてパッパ、パッパと適応出来る、さして頂くわけなんです。「出家」という言葉がございますけど、そういう「世界でない世界」からもう一度照らしかえすわけですね。そういう生き方が実際にあるわけなんです。「安楽の法門」と言いまして、例えば、地獄の苦痛、そういうものも安楽なんです。〈堪え忍ぶんじゃなくて、堪え忍ばして頂く〉。私は、この間、『夜と霧』というのを改めて見て、

 

金光:  フランクル(Frankl, Viktor Emil, 1905-)という人の本ですね。

 

村上:  ナチスですか、「悪魔的意図に打ち勝つものは、ただ内面的な力だけである」という。心の奥底から。そして、一見逞しそうな人が罵(ののし)ったり、不平言ったり、怒りの心に満たされた人が、どんどんどんどん先に滅んでいくのに、「かえって一見ひ弱そうな人でも堪え抜き残っていく」。そんな人は美しい心で、決してナチスを恨んだり、怒りの心を持たない。〈人に堪えられない苦痛まで、決して神さまは与えられない〉。一つ一つ何か意義があるんだ。そういう世界は堪え忍ぶということはないんです。ほんとに〈自分を神さまに委ねきっている世界〉。懐にね。そこにあんなアウシュヴィツのようなところでもね。それと少し似ているかも知りません。そこまではもうとてもとても、

 

金光:  それにしても、世間では介護の問題だとか、老後の問題、老齢の人が増えた日本はいろいろとその辺の問題が騒がれておりますが、村上さんも還暦をお過ぎになったということですが、老後の生活の心配とか、そんな俗なことはあまりお考えになりませんですか。

 

村上:  世の中に老後悩んでいる人、もしいるのだったら、それと同じように私も悩みます。食えなくて、悩んでいる人が地球の上にどっかにあったら、私はその人と同じになって悩みます。それはもう当然なんです。出家というのは世界中全部道場ですから。それで、私と別のものは一つも存在していないわけなんです。お釈迦様が涅槃(ねはん)を示される時に、『遺教経(ゆいきょうぎょう)』という教えを下さいました。その中に「遠離(おんり)」遠く離れると書きまして、地理的に山奥に住んで涼しい顔して無責任な生活をすることかと思うと、そうじゃないんです。ほんとに〈静かな心で俗世間の波立ちを鏡に映すように〉。鏡はちょっとも波立たないでしょう。そういうことを「遠離」というんです。どんな波立ちの中にいても、決してそれに揉(も)まれないでいるわけです。

 

金光:  「遠離」というのは離れて知らん顔をすることじゃなくて、むしろそういうのを〈全部平らな心で見える世界〉のことを遠離というわけですか。

 

村上:  そうなんです。ここで山奥で坐禅していても、それは、「あの人は山奥にいて、何も関係ないわ」と言うかも知れません。それは人間の目で物理的に離れているだけでして、魂の世界は、一人一人の魂の中心に直結していくわけです。人間ばっかりじゃないですよ。植物だって、動物だって、いのちあるものはすべて抱き留めて、「法界定印(ほっかいじょういん)」というんですが、活き活きと。これは「不思議」と言うんです。「仏法不思議」と。人の考えと違う世界があるんです。我々宇宙を含めて人間、と言って、「人間(じんかん)」とも言います。人の世界だけしか分からないでしょう。道元禅師さまはしょっちゅうそのことを言われるんです。「人の世界の中に仏法があると思うなよ」と。坐禅もそうなんです。凡夫の身体でしょう。ただの人間の格好でしょう。ところが、〈坐禅している時間は、人生がそこで無くなって、仏さまの時間に変わる〉。「この人間の世界の中に仏法があると思うなよ。また、仏法の中に人間の世界があると思うなよ」と。「前後裁断(ぜんごさいだん)」と言うんですけどね。こういう「不識」と言うんです。誰が坐禅しても、ポッと仏の世界が展開して仏界にのぼる。

 

金光:  どこへお出掛けになっても、それは通用する社会でございますか。

 

村上:  そうですね。沢木興道老師(一八八0ー一九六五)は私の師匠ですけど、「どこへ行っても、行き詰まらん。どっちへどう転んでも大丈夫」と。

 

金光:  「行き詰まりなし」ですか。

 

村上:  〈仏さんの手の平の上〉ですからね。〈安心している〉わけなんです。〈与えられたものは絶対ご縁〉ですからね。これは大切に大切に。「俺に都合が悪いから要らん」とか、「これは良いから貰う」とか、そういう世界とは違う。

 

金光:  そういう選り好みしない世界ですか。

 

村上:  「選り好み」というのは、それは「我が儘」と言うんです。なんだって、そんなもの必要ない。僕は、最近の文化で気掛かりなのは、「三悪道」というでしょう。

 

金光:  「地獄」「餓鬼」「畜生」と言いますね。

 

村上:  大抵、「畜生」というのは色情と関係していて、そういう波動が来ますと、人間十界の中の、そういう「畜生道」ということが目覚めて、そういうのを刺激して、お金儲けしている。本当に人間、そんなことをしていたら、本当に三悪道に落ちちゃう。だから、残酷なことばっかり見せて、地獄の波動に感応したら、そういう世界が起こったら。そういうことはやはり人間不思議に刺激的というか。最近の音楽なんか見ても、これは人の世界以外の響きしか出ていない。そういうのが若者の心を。誰でももっているんですよ、「地獄・餓鬼・畜生」を。三つの悪道を、そういう響きによって目覚めさせて、寝ているものを。そうして惨(むご)たらしいものを見せたり、或いは、グルメと言うんですか、食欲を、餓鬼道ですけど、そういうものを刺激してね。それで産業か、事業か知らんけど、そういうことによってね。僕は『横川法語(よかわほうご)』という源信僧都(げんしんそうず)さまの、あれ毎朝お唱えするんですがね。

 

     まず、三悪道をはなれて、人間に生まるること、大きなるよろこびなり。

 

ほんとに人に生まれて、ほんとに有り難い、喜びをね。折角、人の世界に生まれながら、また三悪道のことをしている。気の毒でしょう。見ちゃおれんでしょう。その時、自分だけ涼しく山奥で坐禅して、「俺は俺は」と言っておれない。飛び込んで行って、一緒に肩くんで、何とかしてやりたいなあという気持がないとね。その中でまた山奥で坐禅して。この表面的になぜてあげたり、救ってあげるのはこれダメなんです。その人の奥底の魂の原因に直射するのは、私たちの力では無理ないんです。人の力では。〈私に頂いた如来力が、もう魂の奥底へ〉、これは「人界」人の世界ではありませんから、道元禅師は「冥界(めいかい)」という言葉を使われておりますね。「冥界の護助」と。人の世界では、「原理的に」という言葉があります、数学では。証明不可能な真理。〈そこからの世界の力で我々が行わせて頂く〉。それしか通じないんですね。これを「大乗」というんです。或いは、「不識」とか、我々の世界では、「非思量(ひしりょう)」という言葉を使いますけどね。

 

金光:  「非思量」というのは、考えない、ということですよね。

 

村上:  「思」思う「量」です。それに非ず。「非思量」というのは、要するに、〈こういう人の世界で起こる、「考えられる」とか、「考えられん」とか、「ある」とか、「無い」とかじゃない。もう一つ、別世界の仏界から人の世界に届く。人でありながら、仏界のことがこの世に起こる〉。これを「非思量」という。「大矛盾」といいますか、〈あり得ないことが起こる〉。禅というのは面白い。みんなに分かり易く公案というのがありまして、非思量の世界を、「全てが燃える。真っ赤な炎の中で、真っ白な清らかな蓮の花が咲くんだ」という。これ「非思量」を譬えていうんです。我々の坐禅も煩悩だらけの、己自身なんて、思えば思う程、愚かというか、バカまたやった。また恥ずかしいことした。それの連続が、なんとこんな仏さまの行いでしょう。やれるんだなあというのが。

 

金光:  真っ赤な紅蓮(ぐれん)の炎というのは、怒りであり、それから、餓鬼という、欲しい欲しいでしょう。それから愚痴でしょう。

 

村上:  それから、修羅(しゅら)。もう負けるもんかで。今の経済界も倒産が恐いから。ほんとは自分が社会のためになんか役にたって、報酬やお礼が貰えたら、また、そのお礼で、また新しい事業して、喜びに満ちて働けばいいのに、金貸したら、もう会社がなりたたん。それからもう手段を選ばず。金儲けでね。あれは苦しみだけで一生終わっちゃうなあ。そう、競争社会と言いますか、修羅道ですね。

 

金光:  でも、「現実は生やさしくないから」という言葉がよく出ますね。

 

村上:  そういう具合に錯覚しているわけですね。

 

金光:  でも、そういう世界でも、「行き詰まりはない」という。その世界が開けることを、当然、仏さまの世界に近付けば近付くほど見えてくる、ということですか。

 

村上:  それはつくづく思うけど、僕は今の二十世紀の文化の一番の欠点だと思うんです。〈縦の筋が欠けている〉ということ。ほんとに〈尊ぶべきもの、仰ぎ見るべきもの、これを一本抜いて、横の線だけでいったから、いわゆる混乱が起こっている〉。この〈見える世界だけで、何とか解決しようとしても、絶対ダメ〉。元の親様というか、もう遙かに。勿論、人間界ではないですよ。しかし、人の心の中には共鳴箱だと思うんです。十の共鳴箱がありまして、十個。その尊いものにも感動し、そこに魂が応じる能力をもっているんです。それに対して、その時、自分が恥ずかしくなり、人というものの愚かさ。そして、これ「虚仮不実(こけふじつ)」というんです。実際は息詰まったり、現実は厳しいかも分かりません。ほんとは何ともない、と。「何事もなきぞ」と慈雲(じうん)尊者はおっしゃる。

 

沢木老師は面白いんですよ。俗語使って、子どもが愚図って涙を出ておると、「だんない、だんない」と言って、仏さんがあやして下さる。「だんない、だんない」と言うて、グシュンなんて泣きやむ。それと一緒で、泣いたり騒いだり、どうしようか、と。何ともない。何事もなき、そこに安住して、仏さまがいらっしゃる。神さまが見守って下さる。そういう世界を忘れきっているんです。

 

金光:  「神も仏もあるものか」という、

 

村上:  人間さまだって、「人間に俺の目で見れんことは信じられん」。「俺の眼」って、ただの「凡眼(ぼんげん)」でしょう。そういうのをちょっと反省するとね。私は、この間、函館に参りました。友人がカトリックの信者さんで。日曜日だから、朝の「おミサ」と言うんですか、

 

金光:  カトリックは「おミサ」ですね。

 

村上:  日曜日にそこへ行った時に、これを頂いて、この内容にビックリしたんですよ。〈やはり縦の線だなあ〉と思って。この中にペトロとイエスの対話があるんです。これに僕は物凄くビックリした。ちょっと赤い線引いておきましたけどね。

 

金光:  ちょっと読まして頂きます。

 

その時、イエスはご自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、立法学者たちから、「多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」と弟子達に打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスを脇へお連れして、諫(いさ)め始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」。イエスは振り向いて、ペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をするもの、神のことを思わず、人間のことを思っている」。それから弟子達に言われた。「私に付いてきたいものは、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」。

 

ここに赤線引いていらっしゃいますね。

 

自分の命を救いたいと思うものは、それを失うが、私のために命を失うものは、それを得る。人はたとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払いようか。人の子は父の栄光に輝いて、天使達と共に来るが、その時、それぞれの行いに応じて報いるのである

 

その最後の「それぞれの行いに応じて、報いるのである」というところにも赤線を引いていらっしゃいますね。この言葉ですね。「自分の十字架を背負って来い」と、「自分の行いに応じて、その報いが来る」。これは仏教の教えと同じようなことですね。十字架というのはありませんけれども、仏教の場合は。

 

村上:  私は、〈十字架は縦の線と横の線〉でしょう。〈縦の線は何か尊きものを仰ぐ〉。この筋だと思うんです。下々のことは地獄までね。人には見えませんけど。〈横の線というのは一切兄弟、同胞として、森も川も一緒に響き合って、調和して仲良く、そこに愛を施していく〉。手を広げてね。このように感じられますね。これ仏教では、「仏法僧」という、〈「僧」という世界を尊ぶ〉ことなんです。あらゆるものが調和して、「戒を保つ」というのは、〈大自然が戒を保っている〉と思うんですね。「戒を保つ」のを「僧伽(サンガ)」というんです。「叢林(そうりん)」とね。それに対して、〈仏を仰ぎ、如来を仰ぎ、そのお力をこの世に頂く、という作法が、仏さま〉ですね。帰依三宝(きえさんぽう)の、「帰依仏(きえぶつ)」という。〈これは縦の線〉ですね。中心のところに自分というものが授かって、「さあ、私が今、この能力とこの身体で何をすべきか」「どうあるべきか」というのが「法」ですね。「ダルマ」。〈「仏法僧」が十字架に要約されているんじゃないか〉と思って、自分勝手ですけどね。この尊きものを仰ぐ。「お前は神のことを思わず、人間のことを思う。サタン、引き下がれ」という。厳しい。あちらの修道院や教会というのは生々しいんですよ。絵も壁画で、原色画で、こんな太い釘をここに打ち込まれているキリスト。一番苦しい、また曝(さら)されて一番見苦しい。そういう釘に架かることを知っていて、〈私が全人類の罪を引き受けよう。私が罰せられるから〉と。〈こんな勇気はとても人間の世界の魂じゃない〉。それを授かった方ですね。ほんとに何気なく行ったんですよ。一見して、ゾッ!とした。こんな凄いものが、〈ああ、キリスト教というのは流石だなあ〉と思ってね。勿論、仏法の教えともはずれていませんよ。私の自己流だったらごめんなさい。それでこれだけの方が、私に従う。だから、〈肉体のいのちのことを言っていない〉ですよ、全然。〈永遠に生きる〉〈生まれ変わり、死に変わり、生まれ変わり死に変わり〉ね。御大師さまが、

 

     「生まれ、生まれ、生まれ、生まれて、その初めに昧(くら)く、死に、死に、死に、死んで、その終わりに冥(く)らし。」

 

これは〈人間界の肉体のことを言っているんじゃない〉んですよ。その道元禅師さまの、

 

     生をあきらめ死をあきらむるは仏家一大事の因縁なり

 

ピシャッとね。生まれても死んでも、生まれても死んでも如来の光明に。「あきらめ」って、何だか今の人はこう頭のあきらめる、と。そうじゃない。〈仏さまの光明に明るく照らして頂きなさい〉ということですよ。「生死の中に仏あれば生死なし」でしょう。〈仏の光明を頂いて行ったら、生死そのものが、立派な菩薩の行願になるんだ〉と。そこがハッキリしていないと。ところが、そういうことを否定して、物質エネルギーの物理空間だけが存在して、人間さまにわからんことは承知せん。それがあらゆる混乱の元になっている。だから、別に人間というのはそういうものなんですよ。欲・得の塊ですからね。だけど、指導する人がそんな状況であったらいけませんけど。だけど、昔から苦を脱したい。助かりたい。バアさまなんか、孫のいのちは自分が代わってでも助けたい。これは人間である限り人情の世界に溺れているわけなんです。その身そのまんまでいいんですよ。「ただ、南無阿弥陀仏申せよ」と。必ず、〈悟りを開いた人というのは、憐れみの心、慈悲の心を頂く〉んです。自分が起こすというより、自分のこの十の共鳴箱の中の、菩薩の共鳴箱がありまして、到来するんです。それに従って、自分は入れないで、それの慈悲というのを心に従って、自分の身体を任せていく。みんな蠢(うごめ)いていますよ、盲動的に。まず、「菩薩は初めに涙をこぼされる」と『無量義経』にありますけどね。「先ず微滞下り」。そして、どうしてやろうかなあ。とても衆生の愛執の念は強いし、そういう時に、〈自ずからそのままでいいよ。ただ、お称えしなさい。ただ、坐禅しなさい。そこにパッと時間の切断が起こる〉。電気でもスイッチというのは小さいものでしょう。パッといれるとモータがガアッと動き出すでしょう。そのスイッチをみんなに配ったんです。

 

ナレーター: 朝、三時の起床から、夜九時の就寝。作務(さむ)という労働以外の殆どが、一日七回、五、六時間の坐禅に充てられます。一日にどの食事も、修行の大切な一環です。大豆を入れた玄米の主食と、水洗いした自家栽培の大根の葉に、ゴマを振りかけた副食が、毎日の主な食事です。食事の後で、それぞれ茶碗から取り分けたご飯粒を、鳥や虫を初め、一切の衆生に施して供養します。この「施餓鬼(せがき)」という作法を、村上さんは道場前の木の下で行います。

 

村上:  じてんきじんしゅう、ごきんすじきゅう、すじへんじほう、いしきじんきゅう、

 

じてんきじんしゅう、ごきんすじきゅう、すじへんじほう、いしきじんきゅう、じてんき

じんしゅう、ごきんすじきゅう、すじへんじほう、いしきじんきゅう、

 

村上:  本物のお袈裟はちょっと、

 

金光:  見ませんね。

 

村上:  これ「カーシャ」というものなんです。お釈迦様はこの色のお袈裟を付けられてね。頻婆娑羅(ビンバシャラ)王という方が、「仏弟子が遠くからでも分かるようにして下さい」と。お釈迦さま自らが制定なさって、その通り二千五百年伝わっている。

 

金光:  そうですか。

 

村上:  ただ、この色はカーシャ色というのは分からなくなって、「赤黒色(あかぐろいろ)」とだけ伝わっています。それでよく調べたらこの色でした。チベットの坊さん、これに近い色使っていますね。これ「鉄の錆の色」と言うんです。「カーシャ」と言って、それが「袈裟」と訛ったんですね。そういう具合に袈裟を付ける、ということそのものが、「大乗(だいじょう)の極致(ごくち)」だ、と。「これ以上いらん」と、道元禅師さんはそこまで言っていられますよ。だから、信受しかない。人間で分かりっこない。ただ、袈裟を付けたら、袈裟が働いて下さる。それだから、どんな凡夫でも、ほんと思い返せば思い返す程、しょうがないものですよ、我々自身、尊きものを仰いだら、ほんとに自分はペシャンとなって平伏すんです。そうしたら、我が儘が出ないでしょう。そこから本当のスタートが始まる。

 

金光:  先程、聖書の言葉の最後に、「その行いに応じてその報いが来る」という言葉がありますけれども、「何の役にもたたんぞ」というのが、これが一番大きな報い、ということになるわけでしょうか。

 

村上:  「無」というんです。何にもならん。「無所得」の「無」。「本来無一物」の「無」。人の世界が全くない。

 

金光:  成る程。

 

村上:  仏さまの世界ばっかり。これが「大利益(りやく)」という。「無功徳(むくどく)」というんです。この無の功徳。無の功徳を頂戴する。これ位、或いは、「大」という字を付ける。「無」と「大」と。反対のように思いますけどね。「大宇宙一杯」と言うか、「無限」という。それは数え切れない、量られない。無量のものが来る。確実に来る。

 

金光:  「何にもならん」というのは、人間の思う、何にも無いぞ、と。そういうこと、

 

村上:  人間の世界では、欲望の、ほんとは「業(ごう)」というもので、突き動かされて、それは「無明(むみょう)」と言うんです。それを「捨てて見ろ」と言うんです。「放てば手に入れる」という。後生大事に、これ放(はな)したら、これやって、これ貰うて、狭い世界でボンボン言っているの。サアッとやって見たら、アラッと思うような自分の本性の世界ですね。それに何とか目覚めさせたいんですがね。しかし、まあいいんですよ。目覚めようが、目覚めまいがね。兎に角、〈仏縁というのは、何にもならん世界〉ですね。仏さまだけ。我々、坐禅するでしょう。〈人間がしている〉と思うでしょう。〈人が行って、凡夫の身体で行った仏さまの行い〉。人の世界でありながら仏界。これぜんぜん別の世界ですよ。パッと、非思量。そうすると、人間の時間はストンと切断して、「前後裁断」と言うんですがね、〈仏さまの時間〉なんです。そうすると、坐禅しているくせに、「無為(むい)」というんです。何にもしていない。「無為」というのは、〈人間の行いがぜんぜん無くなった〉という。「業」というのは〈行いに応じて結果が出る。報いが出る〉。ところが、仏さまの行いをすると、これカルマにならないで、(「輪廻」と言うんですけど)それが全然ないので、「解脱(げだつ)」と言うんです。

 

金光:  「解脱」とはそういうことなんですか。

 

村上:  〈仏さまの行いだけ〉〈何にもしていない〉ということ。人の行いがね。そういう世界を「涅槃(ねはん)」と言うんです。それは誰がやっても。自分では何にも。頭では何にも、「良いかしら」「これで良いかしら」とね。その人の感覚に入ってくるような、ボツボツいい境涯に入ったな。そういう悟りは、「好ましからざる悟りなり」と。道元禅師はハッキリ言わっしゃる。あの頃、またそういう堕落した、と言うか、落ちた禅が蔓延り始めていた頃でしてね。そういうのじゃなくて、真証明の、仏さまの光明に照らされ、その中に浸っている状態に。混じり気入れない。「不染汚(ふぜんな)」と言う。専門語ですけど、そういう人間的な価値観を入れなくて宜しい。それに徹底したらね。勿論、信行は、行いに応じて生じますからね。それは自分にあるまじき尊いものがドンドンドンドン起こって来て、考えでも変わって、自分の中で説法が回転し出すのかなあ。スウッと素晴らしい考えが展開して、なんか、どこから到来するかなあ、と思うような真理の、スウッとそれに導かれるようにはなりますけどね。それを求めてやるんじゃなくして、思わざるに来る、と。

 

金光:  それはそうしますと、言葉を換えると、「坐禅は自力だ」とか言いますけれども、自分の力なんか全く無くなって、他力そのもの、全部が他力と、

 

村上:  「無為」です。自分のこと一切していないから。「自力」だ「他力」だと言っても、〈宗教というのはみな他力〉なんです。それでなきゃね。「御利益だ」「駆け引きだ」そういう自力だったら、これは人間世界に留まってしまうでしょう。人の努力ですから。その行いに応じて、また結果を生むでしょう。何の救いもないんです。それがハッキリ照らされて、そこのところで決定(てつじょう)していくのが「大悟徹底(だいごてってい)」と言うんですけどね。

 

金光:  その世界はカトリックとか、ヨーロッパのキリスト教世界の修道士さんだとか、或いは信者方にもそのまま通じるんでしょうか。

 

村上:  あまりそこまで私ら言う資格ないんですけどね。ただ、イエスさまのことをちょっと聞くと、こういう方はやはり「神の子」と言うんでしょうか、「菩薩」と言うんでしょうか、我々から見たら、とても畏敬の念が生じますね。バッハの音楽とか、ベートベンの弦楽四重奏とか、あれに響く荘厳な敬虔な響き。あれはベートベンとか、バッハの心の中へ共鳴箱がどっからかもたらされて響いてきたのを音符にしたんだろうと思います。私ら、ドイツで、朝、こっちが三時ですが、向こうはサマータイムで、大体夜がなかなか暗くならないんです。十時に寝て、四時に起きる。そして、朝、坐禅をして。日本語が好きなんですね。『般若心経』『大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)』と普通にある。御袈裟をこうさして頂いて、

 

金光:  それを日本語でやっていらっしゃる。

 

村上:  「それやってくれ」というの。「ドイツ語に訳したら、あんまり有り難くない」と。

 

金光:  それはどうでしょうね。

 

村上:  そう言います。ただ、朝、御袈裟を頂くでしょう。私も一緒に、頭に袈裟をこうやって、「だいさいげだつ法・・・」ちょっといかしてね。ホッとした。私らなんかの声は雑音。三十人の人がウワーンと、一つのパイプオルガンのように。お婆ちゃんもいますよ。腰の痛いお婆ちゃんでも一生懸命頑張ってね。若い女子大生もいますよ。男の人でねほんと美しい青年もいます。お爺ちゃんも。それが上中下に分かれて、和音をなして、ほんとに敬虔な雰囲気でね。あんなお経、日本のお寺では聞けませんよ。

 

金光:  自然にそういう、

 

村上:  自然になっちゃう。私らが坐禅する時に、何気なくしていますけど、あの人たちは基本に敬虔な宗教と言うか、〈神さまの元に平伏す〉という心は、自ずから、子どもの時からそういう響きに浸っているんでしょうか。坐禅をしても非常に敬虔なお気持ちで、初めから慎んでね。もうあれにはビックリした。伝統と言うか、なんと言うか。ああ、こんな素晴らしい精神文明が伝わっている。それだから、〈人間が平伏して、謙虚になりきって、尊いもの、この坐禅という尊い行いを行わして頂くんだ〉という基本姿勢がもう出来ちゃっている。我々、どっちかと言うと、ちょっと油断すると直ぐ傲慢になっちゃう。「教えてやるぞ」「恵んでやる」とか。ピシャンとやられて。しかし、ああいう人たちと一緒に坐らせて頂ける、というね。日本も素晴らしいものを伝えているんです。お互いに分けっこして、それぞれの国の精神文明の真理を分かち合いっこしたら、地球上の本当の意味の平和が来ると思う。私、ここいらも人に接して、驚くような感激味わうんです。それから伊豆半島でもそうでしたが。私は大体京都とか、都会しか知らなかったんです。昔からの日本は日本の伝統の中で何気なくなさっている。兎に角、その町全体がとっても居心地よくて、町に入るとほんのりしている。そこでは「騙す、駆け引き」ってないんですね。この間もちょっとお世話になった人がガンで入院なさって、手術すると、そうしたら、その知り合っている人がみんなでお宮でお百度踏み始めるの。そこの村中のお地蔵さんや観音さんにみんな廻っている。宮前に集まって、豆粒持って、お百度踏む。いや、それが、誰が病気になって入院してもやるんです。町中が一つの輪というものが。入ると安心、安らぐ。僕ら直撃されますね、あのお心には。別に坐禅しているわけでもないでしょう。大自然の感化力か、日本の持っている精神文明を、ただ型通り慣習的に守っているせいか分かりませんけどね。しかし、あのドイツも自然を大切にしていますけど、日本のこの森と、田圃と、美しい水、これは確かに世界的に見ても、非常に高い価値のあるものじゃないかと思いますね。それを守ってきて下さったご先祖さま方、先輩、やはり素晴らしい魂を持っていたと思うんです。これにアインシュタイン博士なんかも直ぐ気付いたみたいですね。日本へ一度来ておられますけど。あの方は、石原博士がご案内したら、ポッと行方不明になった。田舎の縁側に腰掛けてお爺ちゃんと話しているんですよ。

 

金光:  そうですか。

 

村上:  日本の田舎の、自然とこう溶け合っているでしょう。日本の、肩肘張って、家建てていない。あれにアインシュタイン博士は物凄く気にいったんですね。僕は、お庭と公園と違う、と思うんです。ヨーロッパへ行くとよく公園ありますけどね。自然を人間の都合のいいように配置している。花壇とか。お庭というのはさり気なく。やはりそれ自然がまた完ぺきな形で、雑な自然が美しい自然に高まっているでしょう。それで、日本国土全体を見ても、ほんとはこのお庭になったらいい、と思うんです。近代化が遅れているとか、前近代化とか、そうじゃなくて、いのちの息づかいが、人間や昆虫やバクテリアも含めて、みんなが共感し合うようなね。これ私、確かに大きな僧伽(サンガ)だと思うんです。

 

金光:  いま村上さんが道場をここのようなところに構えられるのは、大体どっちかというと、割に山の中や里でも山に近いところですね。やっぱりそういう周囲の自然をまずご覧になって、ということでございますか。

 

村上:  自然にね。お釈迦様ご自身そうなんです。森、「叢林(そうりん)」と言いましてね、あれ林のことなんですね。林の木や草が調和しあっている。昔、ドイツで木が枯れてしまった。

 

金光:  そうらしいですね。

 

村上:  森というのは木だけではないんです。草も一緒で森なんです。放牧すると、草を食べるでしょう。森が全滅する。

 

金光:  そうらしいですね。

 

村上:  一体なんです。あらゆる木と草とがね。これを「僧伽」と言いましてね。ボルト、ナットで組み立った機械じゃないんです。部分品じゃないんです。身体だってそうですよ。一つの生命体だけどね。左手と右手が協力する。心臓や肝臓やみなが一つの僧伽持っている。そこには戒律というのが保たれている。生命体の秩序と言った方がいいと思うんです。小さく見ると、戒律というのは道徳的、人間次元で見ますけど、本当の戒の精神というのは、「殺生戒」殺すなかれ、というより、〈不殺生の真理〉殺していない。大自然は一切殺すというのが存在しない、という大事実。これを「戒」。シーラと言うんです。「不偸盗(ふちゅうとう)」。一切のものが奪うということがない。与えるだけ与えて、奪うことがない。この事実、この大真理を「不偸盗戒(ふちゅうとうかい)」という。この「天然自然が戒を保っている」というのは、「梵天(ぼんてん)」と言うんですが、我々生きとし生きるものの親神さま。一番尊い気高い清らかな、それが、仏さまに平伏して、「この生きとし生きるものに救ってくれ」と言われる。その〈梵天さまの清らかなお心が、形をなして具体的に顕れたのが、大自然だ〉と思うんです。その梵天さまご自身が戒を保たれる。だから、この大自然も戒を保って、殺すことはない。奪うことはない。あらゆる戒が保たれているから、これ僧伽だと思うんです。人の作った文化だけが戒保たん。「戒を破る」ことは、「破戒」と言うんですけどね。まあ丹念に、「これでもか、これでもか」と、毒素垂らして。そうでしょう。資源、贅沢、ゴミ、公害。こんな人間って、バカの骨頂。酷いことしていますでしょう。いのちの流れ、いのちの秩序、生命の秩序。これを「戒」と解してよろしいですから、〈その生命の秩序に外れた時、苦しみが起こります〉。それで知らされます。気持のいい方へ行けばいいわけなんです。そして、人も苦しくないんです。一番。

 

金光:  「気持のいい方」でいうと、それが直ぐおかしくなっちゃって、楽な方に、

 

村上:  それが〈五欲の方へいく〉と、それは「快楽」と言いまして、本当の魂が気持がいいんじゃなくて、そこに錯覚のずれが起こってね。ある時、玄米ご飯食べたの。そうしたら、そこにお乞食さんがおって、「欲しい」と言うから分けてあげたんです。少し腹減った、と思った。丁度、駅でパン屋さんがあって、クリームパンというのを友達を食べてみた。ほっぺたが落ちる。待てよ、この美味しさは本当の心ゆく美味しさじゃない。そおっと表面的でね。感覚を刺激しているのね。それは見事に調和しているけど、これは直ぐ飽きる味。そっちの方へ人間は行きやすいし、そちらの方へ人気があるでしょう。下手したら餓鬼道へ落ちる。「食べちゃいけない」と言うんじゃないですよ、たまにはね。玄米と菜っぱのこう噛み締める美味しさ。本当にお母さんのおっぱい飲む赤ちゃんは、いつもこういう味わいじゃないかと思う。玄米と大根葉を口の中で混ぜ合わせて。大豆と。百回位噛みますよ、自然に。ホオッとため息出る位満足しますわな。これ生命の喜びなんです。それ直接生理的にも感じます、時々。自然の中で自分をたたきだし、止めるんですね。自分をストップしてね。己というものをね。己ってつまらん。つまらんものだから、当然恥ずかしいって、止めて、〈親さまに任せて見る時間を持ちなさい〉ということですね。観じて見なさい。止観の観ですね。ほんとに虚しい。我々が追っかけていた世界というのは、本当に結果が虚しすぎる。哀れ過ぎる。「大事(おおごと)だ」と思うと仰ぎますね。それから謙虚になる。いわゆる「懺悔(さんげ)」と言いますがね。そこから始まって、自分の傲慢が消えた時に、初めて縦に仰いで、高い世界、気高い世界。なんか分からんけど、人間世界じゃありません。「不可得」とか、或いは、「不識」とか、「無」とかという。それに任せられる。そして、慎ましくならざるを得んのですわ。痛くね。だらんと言うか、罪が深いで。そうすると、不思議ですよ、自分で起こすんじゃない。どこから来るかしらん、菩薩の心。誰でもね。自然(じねん)というか。自分はお金もない。実力もないから坐禅するんです。坐禅の波動というのは、物理的空間を離れていても、ほんとにあらゆるものに、その魂を直撃する、地球の裏側まで。これは、私はそうかしらと思うくらいだけど、頭で。キチッと、どの大乗経典を見ても、それを保証して下さって、保証が素直に信じることが出来るようになるんですね。だから、私はもう安心して、来たものは与えられたんですから、必ず大切に頂く。一見粗末に見えるものでも、自分に不都合なものでも頂く、と。これは出家として、考えてみれば当たり前ですけどね。そういう生き方になっていくんです。

 

金光:  そうしますと、頭で損得計算で考える世界ではなくて、兎に角、身体である程度実行して見て、少しずつ気付かして頂ける世界ということでございましょうか。どうもいろいろ有り難うございました。

 

村上:  いや、至らぬ話で、 

 

金光:  有り難うございました。

 

村上:  どうも、どうも。

 

     これは、平成十一年十二月五日に、NHK教育テレビの

「こころの時代」で放映されたものである。

 

http-kishi.sakura.ne.jp ライブラリーよりコピーしワード化したものである。