正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

坐禅のすすめ―普勧坐禅儀―酒 井 得 元

     坐禅のすすめ―普勧坐禅儀―

                曹洞宗参禅道場師家会会長 酒 井 得 元

 

明治四五年 名古屋市に生まれる。昭和十年 駒沢大学仏教学科卒業。同一一年 京都紫竹林学堂に入り、京都大学文学部哲学科専科に三年間在学。同一四年春 大本山総持寺に安居、後堂であった沢木興道老師に会う。同年秋 大本山永平寺安居。同一六年 沢木老師の天暁禅苑に入り、以後沢木老師に師事。昭和二四年~六二年 駒沢大学に奉職。文学博士・名誉教授。同三二年 金沢市大乗寺に宗立僧堂が開かれ、沢木老師と共に雲水を指導。同五二年~六二年 大本山永平寺眼蔵会講師。平成八年遷化、八四歳。著書に「正法眼蔵「ありのままを生きる」」「正法眼蔵「すべては仏のいのち」」「仏法と科学」「酒井得元老師著作集一、二」「沢木興道聞き書き」ほか。

                き き て         松 村  賢 一     

 

松村:  鎌倉時代道元禅師が中国から禅を日本に伝えました。道元は、文字や知識に頼ることなく、只ひたすら坐禅をすることによって仏の境地に達することができると説いたわけですが、その教えを広く勧めるために『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』という書物を著しました。今日はこの『普勧坐禅儀』に則りまして、坐禅の仕方を勉強していきたいと思います。指導して頂きますのは、曹洞宗(そうとうしゅう)坐禅道場師家会会長の酒井得元さんです。先生どうぞよろしくお願い致します。何分坐禅はまったく素人ですのでよろしくどうぞご指導頂きたいと思いますが、この『普勧坐禅儀』というのは、言ってみれば坐禅の入門書のようなものでしょうか。

 

酒井:  要するに、坐禅を誰にでも勧められる坐禅ですね。だから『普勧坐禅儀』と言ったんですね。普く勧める坐禅

 

松村:  私はザッと読ませて頂いたんですが、一口に坐禅と言ってもいろいろな決まりがあるようですね。

 

酒井:  それで特に道元禅師がわざわざ『普勧坐禅儀』を創られたのは、昔日本にもちゃんときておったんです。『禅苑清規(ぜんねんしんぎ)』(雲門下七世、慈覚大師宗?の編。元符年間(1098-1100)に編集を始め、崇寧二年(1103)に成り、「崇寧清規」とも呼ばれる。禅宗の清規の書としては、現存最古であり、百丈の古清規に則りながら、時代の推移に随い、広く諸方の叢林の現状に則して、新しく禅院の行事、制度等について述べ、受戒、上堂、監院、知客、化主等七十七項に分って説く)がありますね、坐禅がありました。ところがそれは不満でありまして、それは完全じゃない、と。どうしてもあれではいけないからというので、わざわざこの『普勧坐禅儀』を創られたんですね。由来が残っているんです。『普勧坐禅儀由来』というものにちゃんと残っている。御真筆本の原本が残っています。

 

松村:  それで道元禅師が改めて、「坐禅とはこういうものだよ」とおっしゃったのは、一口に言うと、どういうことなんでしょうか。

 

酒井:  つまり言いますと、昔の坐禅と違いまして、「姿勢が一番大事だ」ということを強調されているわけだ。つまり「打坐は即ち正法眼蔵涅槃妙心」という信念がありますからね、これによって改めて創られたのが『普勧坐禅儀』ですね。とにかく正法ということ、正法を本当に修行するものは坐禅しかない、という信念の本(もと)に創られたものが、『普勧坐禅儀』ですね。正法ということは、思想じゃございませんから、私たちがこうして生かされて生きているというこの事実が正法なんですね。本当の正法をそのまま本当に受け継ぐのが坐禅ですね。実践するのが坐禅だと、こういうわけです。私たちはあまり人生に引きずり回されていますからね、人生に引きずり回されていて、自分の得手勝手なことばっかりやっていまして、本当のことを忘れているんですね。得手勝手なことをやっていますから、そこへどうしても私たちは仏さまのご慈悲を一つ頂く。ほんとにまともに頂こうというところから、坐禅が始まるわけですね。だから一切坐禅というものは、自分勝手は致しません、というところが坐禅ですね。ですから道元禅師は、「身も心も放ち忘れて仏の家に投げ入れて、仏の方より行われる」とおっしゃっていますね。一切の坐禅は、自分の得手勝手は致しません、というのが身構えですね。それだからして、自分のことは致しません、というところから、「只管打坐(しかんたざ)」という言葉が出てきたんですね。それと同時に、自分勝手なことをしようと、自分勝手なことをやっていることを称して「染汚(ぜんな)」と申します。汚れるということですね。「不染汚(ふぜんな)」汚れないような坐り方、これが坐禅の原則ですね。

 

松村:  ただ坐って姿勢を正すことによって、そういう気持に達せられるという考え方なんですか。

 

酒井:  そうです。正身打坐がすべてです。正しく坐るということが坐禅はすべてなんです。正しく坐るということは、つまり生活姿勢を止めた、ということですね、人間の。人間の生活姿勢を一切止めてしまって、仏の姿勢に還るというところから、「正身端坐(しょうしんたんざ)」ということが出てきたんですね。つまり正身端坐の基本というものは、私たちのこの身体というものは、重心が一番大事でしょう。重心が一番低いということが大事でしょう。それには坐るということが一番いいのね。真っ直ぐに背骨を伸ばして、真っ直ぐに坐っている時に、重心が一番低いところにいくわけですね。それが一番安定ですよ。ですからこう傾いたりという時には、曲がった姿勢を維持するためにかなり身体は努力していますよね。余分なエネルギーを使っていますよ。そのエネルギーの消耗が一番少ないというのが、この正身端坐ですよ。自然とこう真っ直ぐになっていますから。そうすると重心が一番下の方にありますから、下の方にあるのは一番安定でしょう。そうするとエネルギーは一番消耗率は少ないですよ。だから自然と呼吸というものも少なくなるし、脈拍も正身端坐の時は一番少ないそうですね。実験者がそんなことを言っていますよね。

 

松村:  そうすると、頭でいろいろ難しい経文を読んだりしなくても、正しい姿勢で坐れば、それでいいんだというのは、どういうお考えなんでしょうか。

 

酒井:  つまり私たちの生きているということは、どういうことかと申しますと、尽十方界(じんじっぽうせかい)(宇宙・大自然)の真実を生きている。どんなものでも。仏法というものは思想じゃありませんよ。宇宙の真実が仏法なんですよ。それからこうきているんですね。つまり私たちの身体はこうやっておりますけれども、自分で、この人間の身体をこんな恰好して努力してじゃありませんよ。自然にこういうふうな形を作って頂いているわけだ。目が見るし、耳も聞こえるのも、それから胃袋でもって消化しているのも、自分で一つもやっていませんものね。つまり私がものを考えるのも、実は自分が考えているんじゃありません。考えさして貰っている。そうでしょう。つまりその事実は何かというと、その事実が「尽十方界の真実」ということですね。だから身体は、「尽十方界真実人体(じんじっぽうかいしんじつにんたい)」という言葉があるのね。「尽十方界真実人体」。だから身体というものが一番最高の真実なんですね。その中で私たち人生を送っている。嬉しかったり、悲しかったりしているのは、みな身体の中の風景ですよ。人生というものは、結局私たちにとってはすべてですけども、これは身体の中での私たちの一つの風景ですね。こういうふうなものですね。だから真実を本当に修行するということは、「尽十方界の真実を修行する」。ですから人間の人生というものは、朝から晩まで満足の追求ばっかりでしょう。不満を追求する人は一人もいませんよ。満足しよう、満足しようと、朝から晩まで努力しているでしょう。それで満足のし損ないをするとガックリするでしょう。満足すると喜ぶでしょう。そればっかり繰り返しているでしょう。そのために一生懸命やっているのが人間ですよ。自分の満足の追求、これが人生ですよ。この人生で、「俺のもの、俺のもの」ということをやっていますけど、これを「不染汚(ふぜんな)の行(ぎょう)」という。これはほっとけばいいんですよ、人間は。人間はほっといても必ずそういうふうに人間性に暴走することになっていますから、それは何の強制も要りません。何でもそうやる。坐禅はそういうふうに流されてしまったら、つまりこの普通の人間は満足することがすべてなんですよ。そして尽十方界の真実を忘れていますよ。本当の姿を忘れていますよ。だから本当の姿を一つ実践しよう、真実を実践しようというところから坐禅が始まるわけですね。それで一切の得手勝手は致しません、というところから、手を組んだり、足を組んだりする。いわゆる人生を「さようなら」した相(すがた)が、つまり棚上げしてしまった相(すがた)が坐禅の相(すがた)ですよ。

 

松村:  「尽十方界真実人体」というのは、全宇宙の真実が身体であるということですか。

 

酒井:  そう。

 

松村:  その場合の身体というのは、心も含んだ身体なわけですね。

 

酒井:  勿論そうですよ。心と言いましても、私たちの道元禅師は、「身心不二(しんじんふに)」と言っていますよ。体ということの「身」と、心の「心」とは一つなんです。不二です。「一如(いちにょ)」とも言っていますね。言うなれば、私たちは身体の中で精神生活を送っているわけなんです。身体が生きているという一つの身体の生命現象の一つの現れが精神現象でもあるわけだ。だから身体が衰えていると頭はものを考えることができませんよ。歳とってごらんなさい。呆けちゃうから。呆けるということも、身体全体が衰えたからですよ。頭の働きも衰える。当然のことでしょう。寝ている時に、私たちはものを考えたことないでしょう、一服しているから。目が覚めてくるというと、「あ、これはこうするんだ、ああするんだ」そのことばっかり夢中になっているでしょう。これが人生でしょう。人生が私たちすべてですからね。身体のことは考えたことがない。そうでしょう。人生が私たちすべてと思っていますよ。そうじゃない。人生というものは、ちゃんと身体というものによって養われているわけだ。裏方さんの方が大きいんです。ちゃんと寝ている間でもちゃんと身体の方は一服なしにやっていますからね。それで本当の真実をすっかり忘れている。忘れてしまって、だから私たちは、我が儘の暴走にもう夢中になっていますからね。ガックリきた時には、「俺の人生ない」なんて言うでしょう。よく自殺あるでしょう。あの自殺なんていうのは人間だけじゃないですか。どうも私は動物の連中が自殺したことを見たことがないですがね。猫やったことないでしょう。犬やったことないでしょう。人間だけでしょう。人間は要するに、私は、人間が一番我が儘の暴走族じゃないかと思っていますね。自分が理想のためなら何でもかまわん。身体なんか死んでもいい。もっとも死んでもいいというのはのぼせですね。あれほどのぼせも、のぼせが下がったら自殺できなくなるからね。面白いでしょう、あれは。日延べしたら自殺できませんよ。下がったら元へ帰りますからね。どんな悩みでも、悩みも波が立つようなものですよ。どんな苦しく悩んだって、ある程度までいきますと下がってしまいますよ。元の波のようなもので、波はどんな大きな波でも、波がなくならなければ収まらないものね。そうでしょう。あれと同じだ。必ずどんな悩みでもなくなってしまいますよ。喜びもそうですよ。悲しみもそうだよ。ちゃんとそれからまた始まりますからね。必ず一定の状態にまで必ず戻るものですよ。

 

松村:  そうすると、喜びとか悲しみ、いわゆる煩悩に囲まれて暮らしているわけですが、坐禅することによって、そういう煩悩を取り払って、

 

酒井:  取り払うんじゃないのね。取り払いはできませんよ、これは。生理現象だから。必ずそういうものは元へ戻るに決まっていますからね。逃げたり隠れたりしませんよ。ちゃんとわかっていますから。全部承知の上で坐禅人はやっています。それは無理にこの悩みを無くしようとか、この喜びをうんと増やしてやろう、って無理がありますからね。これも我が儘の暴走でしょう、結局は。そうすると、異常な心理状態になったりなんかするわけですね。

 

松村:  そうすると悟りを得たいと思って坐禅するんじゃないということですか。

 

酒井:  勿論そうですよ。悟りを求めて坐禅をしたらいけません。それは我が儘の暴走になります。悟りは欲しい。大抵悟りということを、特別な異常な精神状態のように考えている人があるね。素晴らしい精神状態なんだ。結局素晴らしい精神状態と言いましても、尽十方界の真実の中のある時の風景に過ぎません。どんなに素晴らしいことをやっても、生きているという生命現象の中の一つの景色(けいしょく)に過ぎませんよ。それを見抜いていますからね。ちょうどお天気みたいなものだと思ったらどうです。本当のお天気って、一体どれですか。晴れですか。晴れたり、曇ったり、雨が降ったり、風が吹いたり、これが本当のお天気じゃないですか。これこそ本当のお天気でしょう。どのような素晴らしい状態であっても仮の姿でしょう。悩みだって。それから喜びだって、そんなもんですよ。どんな大きな喜びにしたって一時的なものですからね。必ず冷めるに決まっている。そうじゃなくって、こういうような状態を保ちながら生きているというのは大自然ですよ。この大自然の事実が尽十方界の真実。この尽十方界の真実を通して、人生を眺めてみるというと、一つの景色(けいしょく)に過ぎませんよ。重大事件ないでしょう。これが一番大事だ。それで本当の真実は一体どういうものであるかということを身に付けていることが大事だ。それで私たちはうっかりしましてね、尽十方界の真実を全然考えたこともない。見たこともない。肌で感じることできない。そうでしょう。私たちがものを考えるというのも、尽十方界の真実によってものを考えさして貰っている。だからどんな肌触り、どのような状態、どういうような心境、そんなものありませんよ。だからどうしても私たちは坐禅を実践しなくちゃならなくなる。一切の人生というものをみんなお返ししてしまうわけだ。お返ししてしまったところが坐禅ということになりますね。だから足を組んだり、手を組んで姿勢を正すというのはそこからくるんだよ。

 

松村:  もう一度伺いますが、何のために坐禅をするんでしょう。

 

酒井:  「為(ため)」はないんですから。為の時には、我が儘ですよ。自分の目的ですよ。目的があるからやるでしょう。自分の満足を得たいためにやるんでしょう。満足することが本当の救いじゃありません。人生やっぱり景色に過ぎません。満足したからって、永久に満足できませんよ。いつも満足したら変なものでしょう。腹一杯飯(めし)を食って満足するでしょう。あれ、腹が減るからいいけどね。腹が減らなかったら気分悪いですよ。腹減った。飯食いたい。そこで気分がよくなるじゃない。夕べ食った飯がまだ消化しないでそのまま残ってごらん。こんな気分の悪いことなんでしょうが。腹減るからいい。その代わり場合によっては、腹減った時に、後に食う物がない時に寂しいもんだ。後でまた思う存分食えると思うからして腹減って食べたら美味しいものだ。人生ってこんなものですよ。

 

松村:  いろいろな欲望とか目的とか、そういうものからまったく自由になるために、敢えて言えば坐禅を組む。

 

酒井:  超越することだな。否定することじゃないですよ。否定することじゃなくて、押さえつけずに超越することだね。これは大人だね。子どもというのは自分の欲しいもので夢中になるでしょう。あれを私は、「幼児性」と言いますね。欲しいと思うとデパートなんかへ行って、子どもたちがオモチャ欲しいでしょう。オモチャが欲しいから、「これ買って!」と言うでしょう。そうするとお母さんが、懐の具合があるから買えないでしょう。そうすると、「買って!」って。「買っちゃいけない。ダメだ!」。余計怒るわね。終えにとうとう床に寝ちゃって、バタバタして、「買ってくれなきゃ動かない!」なんてやるでしょう。ところがそこで女店員なんか来て、「坊や坊や、そんなよりもっとこっちの方が良い」。安いもの持って来て、「この方が良いわよ。こっちの方がこんなに良いわよ」というと、騙されて、ああ、そうか、ということになると収まる。人間というのは、頭の中でこうなると夢中になるもんですよ。これを私は、「幼児性」という。大人じゃないな。仏法というのは大人の修行ですよ。大人を修行をすることだ。仏というのは大人ですよ。「絶学無為(ぜつがくむい)の閑道人(かんどうにん)」なんてそこからくるんです。ガタガタ人生に引きずり回されない。人生を否定するわけにいきませんね。人生というものにちゃっと私たちは生まれついてそういうふうになっている。自分で勝手にやっているものじゃないもの。みんなそういうふうに、できるように私たちは生まれついているんです。して貰っているんだから。悩むのも悩まして貰っている。喜ぶのも喜ばして貰っているんだから。自分でやっているような気持ですけど、自分でやっているんじゃないですよ、みんなね。

 

松村:  そういう一つひとつの、いわば人生の景色の中に真実を見付けていこうというのが、坐禅の思想ですかね。

 

酒井:  真実というのは、これが真実というものはありませんよ。全部真実だもの、世の中のものは。悩むということも真実。苦しみというのも真実。その時その時の悩みだって、勝手に悩んでいるんじゃないですよ。そういう時に悩むように、というふうに、私たちは作られているから、それで悩んでいるんだから。喜ぶ時も、こういう時には苦しむよ、というふうにちゃんとなっていますから。その通りやっているだけの話だね。スケジュールはこっちじゃない、向こうさんにちゃんとできているんだから。

 

松村:  そこで先生、具体的な坐禅の組み方をお教え願いたいと思うんですが、まず心構えですが、坐禅の心構えと言ったら、まずどういうことですか。

 

酒井:  坐禅は、先ほど申しました通りに、自分の目的をもってやるんだったら我が儘の暴走になります。坐禅というものは個人の修行じゃありません。仏を修行する。「仏行(ぶつぎょう)」と言いますね。だから坐禅することを「行仏(ぎょうぶつ)」とも言いますね。ですから坐禅の仕方はこういうふうにやるわけだね。道元禅師は、

 

夫れ参禅は静室(じょうしつ)宜しく、飲食(おんじき)節(せつ)あり。 諸縁を放捨(ほうしゃ)し、万事を休息して、善悪を思わず是非を管(かん)すること莫(なか)れ。心(しん)意識の運転を停(や)め、念想(ねんそう)観の測量(しきりょう)を止めて、作仏(さぶつ)を図ること莫れ。豈坐臥(ざが)に拘(かかわ)らんや。

 

こういうふうに『普勧坐禅儀』に示されていますね。つまり坐禅するところは、静かなところでなければいけない。刺激があったらいけませんからね。同時に「飲食(おんじき)節(せつ)あり」というのは、身体の調子が悪くちゃいけませんからね。ですから坐禅人はいつでも身体を調節していなければなりません。腹一杯飯食ったりとか、ということをしないようにね。それから「諸縁を放捨(ほうしゃ)し」ということは、あっちの方に用事があり、こっちの方に用事がありというような世間的な環境整理が大事だね。自分自身にあるんですから。環境整理をまずやる。この環境整理が「諸縁を放捨(ほうしゃ)し」ですよ。

 

松村:  「環境整理」というのがちょっとわからなかったんですが、いろんな欲望を捨てるということですか。

 

酒井:  そういうようなものに目が触れないように―音楽が聞こえるとか、いろんな、ああいうものありますと邪魔になりますから。そっちの方に奪われないようにということ。それから「諸縁を放捨(ほうしゃ)し、万事を休息する」一切のことは一切止めてしまう。やらない。あれやろう、これやろう、と一切やらない。これが万事を休息して、「善悪を思わず是非を管(かん)すること莫(なか)れ」というのは、「善悪を思わず」、これは『普勧坐禅儀』に善悪を思わずと書いてありますけど、他には「不思善不思悪」と書いてある。つまり頭の働きはそのままにしておけ、ということだ。善悪というのはね。人間の頭の働きというのはプラス(+)マイナス(-)というように働いているわけだ。明るいものを考えられたり、暗いというものを考えたりして、肯定的なものが頭に考えられてきたり、否定的なものが考え出されてきますでしょう。そういうようなものに引っ張り回されずに、そのままにしていけ、と。これは自然と頭の働きというのは自然と出てくるものですよ。黙っておっても、生きているから。寝ておったらダメですよ。黙っておったら、必ず次から次へ、次から次へと頭の働きというものは湧いてくるもんです。呼吸していると同じだよ、これは。

 

松村:  そのままほっとけということですか。

 

酒井:  ええ。そのまま。そうすれば自然に消えるもの。波みたいなもんだから。それでそういうふうに引きずり回されたものが、「心(しん)意識の運転を停(や)め」だ。つまり「心(しん)意識の運転」というのは、どういうような心理状態になってやろうか。どういうことを考えてやろうか、というのが心意識の運転だね。そういうことをやらないのね。起こってきたらそのままほっとけば、消えるから。つまりいうと、波が立つでしょう。波が立ったようなもんですからね。人生というものは、結局思い付かなきゃ人生起こりませんよ。思い付いたところ掴まえて、あれからこうしよう、これからこうしょう。ああしよう、こうしよう、というところからいろんなこと、思索が始まる。そこで人生というものはおっぱじまる。それをやらないのが「心(しん)意識の運転を停(や)め」、それから「念想(ねんそう)観の測量(しきりょう)を止める」ということは、結局頭の中でいろんなことを考えることだね。例えば観音さん考えてみたり、それから不動さん考えてみたり、頭の中で描くでしょう。「瞑想(めいそう)」と言いますね、これは。瞑想は止めちゃえ。瞑想はしないことだね。瞑想ということになりますと、考えるということと同じことだから。個人のことなんだ、これは。どういうふうにやってやろうか、ということでもって、いろんなことを想像するんだ。想像するというのも個人の仕事ですからね、個人の仕事を止めるということが、「念想(ねんそう)観の測量(しきりょう)を止め」、即ち坐禅は瞑想ではない、ということだね。瞑想したら一つの仕事になりますよ。ああ、一つの観音さんになってやろう、ってね。だから私たちの坐禅堂には一切そういうものはありません。マンダラ掛けたりなんかするということはありません。ただ壁に向かって坐禅する。面壁(めんぺき)坐禅。面壁―壁に向かって坐禅する。しかも何にもしない。只管打坐(しかんたざ)。坐ることだけ。坐ることだけということは、要するに流されないようにする。従いまして、「作仏(さぶつ)を図(はか)ること莫れ」一切仏になろうということをはかっちゃいけないんだ。俺は成仏してやろうと思ってやったら、それはどういうことか、と。お前さんの得手勝手じゃないか。そうでしょう。仏さんになってやろう。それは好みの坐禅であります。好みの仏さんである。決して人間の望むところ、自分の好きな仏さんにしかならないよ。これも一種の言葉を換えていうならば、我が儘の暴走が作仏を図(はか)ることになる。それで言葉も棒読みにしまして、「莫図作仏(まくづさぶつ)」と言っていますね。「莫図」一切そうものを図らないのが仏という。そういうふうに読んでみて、「作仏(さぶつ)を図ること莫れ」を「莫図作仏」と読んでいい。これが成仏だ。一切図らないで一切任してしまう。個人の一切の我が儘やらない。これが「莫図の作仏」である。だから坐禅は、坐ることによってのみ、それができあがる。成り立つわけだ。坐らなきゃ、それができませんからね。坐るということは、一切を仏さまにお任せした、というのが坐禅の姿勢だ。だから手を組んで足を組んで、それだから「ああしたい、こうしたい」と思いましても、足も動かすこともできない、手も動かすこともできないし、正身端坐していますから、一切行動に移しません。それで「豈坐臥(ざが)に拘(かかわ)らんや」というのは、坐禅は、いわゆる「坐臥」というのは、人間の生活姿勢には「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)」とあるでしょう。「行」は行くでしょう。「住」はとどまる、行って、とどまって、坐って、寝るでしょう。四つの姿勢があるでしょう。四つの姿勢の中の「坐」じゃないのね、これは。だから「豈坐臥(ざが)に拘(かかわ)らんや」つまり坐禅するということが絶対的な行なんです。それで絶対的な姿勢だな。「絶対姿勢」と言ってもいいな。これより他には、私たちには、尽十方界の真実ということを実践する道がないですよ。それで道元禅師は、「打坐は即ち正法眼蔵涅槃妙心なり」とはっきり言われた。そこからくるね、これは。

 

松村:  それで坐禅のいろいろ厳しいいろいろな坐り方の決まりとか、そういうものがあると思うんですが、具体的な坐り方をちょっと教えて頂きたいと思うんですが。

 

酒井:  坐禅は今申しました通り、個人の仕事じゃありません。全部を仏さんに委せてしまったから、それで坐るということも厳格になるんです。自分の自由な坐り方やっちゃいけない。仏さんから示された通りやれ、というところから、この作法というものが喧しく言われるわけです。

 

松村:  先ず坐り方なんですけれども、

 

酒井:  こういうふうに坐って頂きましょうか。坐禅するのには、必ず場所が大事ですからね。ところが僧堂では、両方ともに坐っていますからね、両方の人たちにも挨拶しなければならない。そこでまず一番最初に壁の方に向かって合掌してお辞儀をする。それで右回りをして―なぜ右回りをするかというと、これを「順行」と申しまして、太陽がこういうふうに回るでしょう。あの方向に回ればいい。それで「順天」と言いますね。こういうふうに回れまして後ろ向きになって、お辞儀する。それから坐蒲(ざふ)(直径三十四センチ、厚さ十一センチくらいの丸く作ったもの)を持ちまして、これは「蒲団(ふとん)」と言いますね。蒲団(坐蒲)は夜具のことではない。「蒲団」の「団(とん)」は丸いということで、これがもとですよ。そして腰を下ろす。尻を下ろす。ちょうど坐蒲の真ん中に背骨がいくようにする。そして足を組むんです。

 

松村:  そこまで『普勧坐禅儀』にそういう坐り方を説いた部分がありますので、それに添ってちょっとお話を伺いたいと思うんですが、

 

尋常(よのつね)坐處(ざしょ)には厚く坐物(ざもつ)を敷き、上に蒲団(ふとん)を用う。或は結跏趺坐(けっかふざ)或は半跏趺坐(はんかふざ)。謂(いわ)く結跏趺坐は先ず右の足を以て左の腿(もも)の上に安じ、左の足を右の腿(もも)の上に安ず。 半跏趺坐は但だ左の足を以て右の腿(もも)を圧(お)すなり。

 

寛(ゆる)く衣帯(えたい)を繋(か)けて斉整(せいせい)なら令(し)むべし。次に右の手を左の足の上に安じ、左の掌(たなごころ)を右の掌の上に安(あん)じ両(りょう)の大拇指(だいぼし)面(むか)いて相(あい)?(さそ)う。 乃(すなわち)ち正身(しょうしん)端坐(たんざ)して左に側(そばだ)ち右に傾き前に躬(くぐま)り後(しりえ)に仰ぐことを得ざれ。耳と肩と対し鼻と臍(ほぞ)と対せしめんことを要す。舌上の顎(あぎと)に掛けて唇歯(しんし)相著(あいつ)け、目は須らく常に開くべし。 

 

鼻息(びそく)微(かすか)かに通じ、身相(しんそう)既に調えて欠気(かんき)一息(いっそく)し、左右揺振(ようしん)して兀兀(ごつごつ)として坐定(ざじょう)して、箇(こ)の不思量底(ふしりょうてい)を思量せよ。不思量底如何(いかん)が思量せん。 非思量(ひしりょう)。此れ乃ち坐禅の要術なり。

 

(註:「腿」の漢字は、原文は「月+(「比」の下に「土」)」の字で、音ヒ、もも腿・股)の意)

 

酒井:  「尋常(よのつね)坐處(ざしょ)には厚く坐物(ざもつ)を敷き」というのは、「尋常」即ち通常、坐禅する場合には、厚い「坐物」即ち座褥(ざにく)(座布団)を敷いて、その上に蒲団(坐蒲(ざふ))を置いて坐る。お尻に敷くというのは、お尻のクッションではありませんね。お尻を高くするのが目的だ。正身端坐の正しい姿勢を保つための補助だ。だから坐禅において一番大事なものはこれですよ。姿勢を正しくする。そのためのもんです。足の組み方は、「結跏趺坐或いは半跏趺坐」とありますね。結跏趺坐というのは、先ず右の足をもって左の腿(もも)の上に載せる。左の足を右の腿(もも)の上に載せる。半跏趺坐は、ただ左の足をもって右の腿(もも)の上に載せる。あんまり負荷をかけちゃいけません。なるべく浅く掛けて、両膝がピッタリ下につくようにする。二等辺三角形みたいなものです。背骨を中心にして、真っ直ぐに。初めての人で結跏趺坐(けっかふざ)ができない場合は、半跏趺坐(はんかふざ)ですればいい。慣れれば結跏趺坐(けっかふざ)ができるようになる。

 

「衣帯」即ち着衣は窮屈でなく、しかもだらしなくならないように整えて着る。肩の力を落とす。腰に決まりをつける。どこにも力を入れない。

 

次に右の手を仰向けにして、左の足の上に置き、左の掌を右の掌の上に置く。両方の親指の先が一直線になるように軽く触れるようにする。これが坐禅する時のバロメーターになる。というのは、疲れている時、眠っている時、ものを考えている時には一直線が崩れて、ここがお留守になる。正念を保つためには、親指と親指を向かい合わせた先がちょうと臍に対するように、きちっとなっていることが一番大事だ。そうすると身体の真ん中にいくわけだ。臍は身体の真ん中にあるそうですからね。中心になるでしょう。

 

こうして正身端坐をするのであるが、左に傾いたり右に傾いたり、前かがみになったり、後ろへ反りかえったりしてはならない。耳と肩とが対し、鼻と臍とが対するようにする。ということは、一直線に垂直になるように。

 

舌は上顎に付け、唇も歯も上下合わせて閉じる。要するに背骨を真っ直ぐにすれば、自然を顎を引くことになる。顎を引けば自然に舌が上のアギトにつくものですよ。口を塞いでいますから。

 

目は普通に自然のまま開く。目は見ているんじゃない、開けているんですよ。開けているだけ。目線は四十五度ぐらいの前方、下の方を見る。

 

呼吸は、道元禅師はこういうことを教えていらっしゃる。打坐の時は、「直に須く正身端坐を先と為(す)べし」まず第一に、正身端坐が第一だ、と。「然る後に調息(ちょうそく)致心(ちしん)す」息を調え、心を調えるということですね。それで呼吸の調え方―調息というのは、小乗仏教にもありますが、言うのは呼吸を数えるんですね、数息観(すそくかん)と申しましてね。それからもう一つは、「致心(ちしん)」というのは、これは「不浄観」です。そういう考え方を持てというんですね。というのは、結局どういうことかと言いますと、道元禅師はそれを非常に禁止していますね。これは自分ででっち上げる。こういうような気分になろう。こういうような考え方になろう。こういうようにでっち上げますから、こういうことをやっちゃいけない。それは私のさっき言った言葉でいうと、「我が儘の暴走」になりますね。そういうことを一切やっちゃいけないよ、ということだ。そしてそれでは大乗の方は、どういうふうに呼吸するかと言いますと、大乗の方では、呼吸(息)というものは、私たちが決めるわけじゃありません。身体がやることだ。だから本当の呼吸というものは、短いことでもなければ、長いことでもない。道元禅師のお師匠さんの天童(てんどう)(如浄(にょじょう)禅師)はこう言っていますよ。「息は鼻からそのまま入ってくる。そして臍下丹田(さいかたんでん)までいきますね。それから臍下丹田から―臍の下ですよ―臍の下まで入っていく。入っていったものがそっくりそのまた鼻の穴から出ていく。そういうふうにして、そして長いとか短いとかないのね。呼吸はそのままにして。それから空気も、その辺の空気がズウッと入ってくる。出ていく。空気もどこへ出ていったんじゃないな。そのままスーッと出ていって、スーッとまた入って、また出ていく。こういうような要領ですね。だから自然の呼吸ですね。こういうようにするんだ、こうある。ところが道元禅師になりますと、今度はどういうふうにやるか、と。道元禅師は、わしはそんなふうにやらない、と。どういうふうにやるかと言いますと、そうすると「非長非短(ひちょうひたん)」と言いますね、短からず、長からず、こういう呼吸だな。つまりいうと、吸った空気がどこまで入っていくとか、どこから出ていく、そんなことないのね。つまりいうと、呼吸は結局、私は一番最初にこんなことを言いましてね、「正身端坐を先と為(す)べし。然る後に調息致心す」と言いましたね。つまり身体というものが、本当の正身端坐した時に、一番その人自身の本当の身体の根本のリズムがそこにあるわけですね。従って消耗率もありませんから、一番その人の正身端坐した時は、呼吸が一番少ない、と。酸素供給量が少ない、というのは、それですね。その時身体が一番調子が調っていますから、あなたの本当のリズムというのは、そこにありますね。本来の姿って、そういうことですね。本当の根本の生き方がこれだ。これを元にして、私たちは人生を送っているんですね。結局人生というものは、根本を元にして人生を送っていますから、根本を実践するというのは、正身端坐しかない、ということだね。だから正身端坐で、「打坐は、即ち正法眼蔵涅槃妙心なり」という言葉がありますけどね、他の人はそんなことを言っていませんよ。道元禅師だけですよ、これは。「打坐は、即ち正法眼蔵涅槃妙心なり」如何にこの打坐ということが重要であるか。打坐という正身端坐することが、仏法のすべてじゃないか。打坐することによって、私は正法涅槃妙心という宇宙の真理だね、宇宙の真実を実践することができるじゃないか。こういうわけですね、これは。

 

「鼻息(びそく)微(かすか)かに通じ、身相(しんそう)既に調えて欠気(かんき)一息(いっそく)し」とありますね。「鼻息(びそく)微(かすか)かに通じる」ということは、鼻の穴を通って空気が流通している。呼吸に別に、吸った、吐いた、吸った、吐いたするんじゃありませんよ。黙ってこうして、自然と調えていれば、自然と私たちの身体全体が本来のリズムになりますから、本来のリズムに任せておけ、ということです。「身相(しんそう)既に調える」と言いますけど、私たちは坐禅する前に、いろんな行動をしているでしょう。あっちへ行ったり、こっちへ行ったり。だからいきなり坐ってこうやるわけにいかんでしょう。それで先ず左右に身体を動かしましてね、揺らせをだんだんと小刻みにしていくわけです。いつのまにやら収まるように、こうしていくわけだ。呼吸もそうだね。呼吸も走って来た人もあるし、急いで来た人もあるでしょう。その度毎に呼吸はその時の活動に応じて呼吸があるわけですから、だから一番初めに呼吸を調える時には、「欠気一息」というのは、大きな息を、はぁーとする。それから八分目ほど出す。また吸う、また吐くということで、だんだんとこういうふうに静めていきまして、自分の本当の呼吸のリズムにもっていくわけですね。

 

松村:  最初は大きく息を吸い込んで、吐いて、それをだんだん自分の調子に、

 

酒井:  元の位置にもっていくわけだ。

 

松村:  姿勢も同じで最初こういうふうに揺らせながら、

 

酒井:  そうそう。やっていく。

 

松村:  それで静まるところに落ち着くわけですね。

 

酒井:  全部一緒。そうすることによって、私たちは坐禅の行(ぎょう)が行われる。坐禅の行はこういうことですからね、我が儘行(ぎょう)は一切やりませんよ。一切の自分の目的をその中に持ち込んじゃいけませんよ。本来の姿を実践する。だから坐禅の行は、「仏行」というのはそこからくるんだね。個人の修行じゃありません。個人の満足する修行じゃありません。だから仏を行ずることだ。そこで「左右揺振(ようしん)して兀兀(ごつごつ)として坐定(ざじょう)して」ということがありますね。「兀兀(ごつごつ)」ということは、不動の形を兀兀(ごつごつ)と言いますね。動かないようにこうする。それから「箇(こ)の不思量底(ふしりょうてい)を思量せよ。不思量底如何(いかん)が思量せん。 非思量(ひしりょう)。此れ乃ち坐禅の要術なり。」ということがありますね。この「不思量底を思量する」とか「不思量底如何(いかん)が思量」ということは、実は薬山惟儼(やくざんいげん)(745-828)禅師の話の中にこれがあるんです。薬山禅師の言葉です。「不思量底を思量する」不思量底の「不」ということは、どういうことかと言いますと、「不」ということは、思量しないということじゃないんです。「不」は否定の言葉じゃありません。私たちがどうすることもできない自然の事実を「不」と言いますね。これはつまりいうと、私たちの身体そのもののあり方が「不」ですね、本来の姿が。そのままに任せることですね。そのままを努力することが、「不思量底を思量する」こと。つまり私たちは黙って坐禅するでしょう。一切ものを考えちゃいけませんからね。考えないでしょう。浮かんできたら、浮かびっぱなしにしておくんですよ。自然と私たちは生きていますからね。頭の働きというものはしょっちゅう新陳代謝していますから、次から次へ次から次へ、とんでもないことが浮かんでくることがありますよ。浮かんでこなかったら私たち何もできませんよ。浮かんでくるから、それを掴まえて、ああしよう、こうしよう、というところに人生が始まるんですから。浮かんできたらそれを取り上げないのね。人間というものは、簡単に流されますよ。これ人間性だな。人間性に流されないように努めることが、「不思量底を思量せよ」ということだ。それから今度はもう一遍、じゃ一体「不思量底を思量せよ」というけども、そうあんたおっしゃいましたけども、これは薬山禅師がこういうことを言いました、「箇の不思量底を思量せよ」それに対して、坊さんが質問していますよ。「不思量底如何(いかん)が思量せん」一体どういうふうに思量したらいいんですか、と聞きましたね。その時の言葉が「不思量底如何(いかん)が思量せん」。ところがこれは質問ですけど、これは本当のことを言っている。禅では、疑問詞ということは非常に重要なことですよ。「不思量底如何(いかん)が思量せん」ということは、「如何が思量だな」。つまりこうこうこういうふうに思量せよ、ということじゃないということです、「如何が思量」は。不思量底は不思量底に任せておけ、ということだ、結局は。こういうふうにしよう、ああいうふうにしよう、と言ってやることじゃございませんから、「如何が思量せん」。質問ですけどね、質問じゃない。答えみたいなもんだね。「如何が思量せん」。

 

松村:  難しいですね。この辺は。

 

酒井:  ウン。それが面白いところだ。「如何が思量せん」。その「如何が思量せん」というところを、「非思量」という言葉で、薬山さんが表した。素晴らしい言葉だ。「非思量」の「非思量」は、「思量に非ず」というふうに読まないで、つまり「非思量」というのは、自然のあり方が私たちにどうすることもできない、自然のあり方を「非」という言葉だね。「非の思量」思量に非ずというのじゃない。「非の思量」ということで、こうと。「非思量」自然のままに委しておけ、と。

 

松村:  思量は考えるということですね。ですから考えるな、ということですか。

 

酒井:  そうじゃない。自然のまま。頭の中に浮かんでくるでしょう。浮かんできた儘にしておけ、ということだ。頭の中に浮かんでくるのは、あなたが一つ思い浮かばせようと思って浮かんでくるんじゃないでしょう。黙ってこうしていれば、次から次へと次から次へ頭の中に浮かんでくるでしょう。あの浮かんでくるのを、あなたはやっていますか。やっていないでしょう。それが非思量だね。そのままにしておけ。自然の儘だ。これが坐禅の要訣だ。

 

松村:  雑念とか妄想とか、

 

酒井:  雑念というのはないのね、本当は。雑念というのは、それを取り上げていろいろ考えるから雑念になる。自然の状態のままだ。これが正念だ。次から次へ取り上げるから邪魔になるから雑念ができるんだ。一つ俺は精神統一してやろうとか、無念無想になってやろうか、というところで一生懸命やるでしょう。また浮かんでくるでしょう。浮かんでくると、また浮かんで来やがった、この野郎、ということでね、それでまた仇みたいな感じだよ。それが雑念だよ。あ、此奴(こいつ)、雑念だから一つ此奴は起こってこないように、此奴を押さえつけよう、と一緒に頑張る。一種の異常な精神状態を作るでしょう。またやる、起きてきたのをまたやる。そういうことをやったらいけないんじゃ。それは我が儘の暴走でしょう。あなたの得手勝手でしょう、これは。自然のままじゃないでしょう。非思量にならんでしょう。また起きてきやがった、というのは、あなたの勝手でしょう。あなたが気に入らんからやるだろう。また起きてきやがった。そこには気に入る、気に入らんということは抜きにしなきゃ。気に入る、気に入らんということは人生だよ。人間だよ。そうじゃなくって、人生以前の姿、自然の姿というものが非思量だよ。これを実践する。だからそのためには、正身端坐の坐禅しか非思量のことはできませんよ。結局坐禅というものは非思量の修行だよ。

 

松村:  随分自然体ですけれども、それでいいんですか。

 

酒井:  自然体だ。本当の自然体だ。全部自然体だ。つまり人生、人間流されないように努力する。私たちは、自然体と言いましても、自然体というのは、自分の思った通り行動することを自然体というでしょう。あれ我が儘の暴走だよ、結局は。俺は自由にやって、俺はお前の我が儘の暴走でしょう。そうじゃないのね。それ以前だ。俺は考えることは何でもやるんだ。俺の自由だというのは、結局我が儘の暴走ですよ。我が儘の暴走以前だ。

 

松村:  しかしそれにしても大変足が痛くて考えるところじゃないんですけれども、これで慣れるもんですか。

 

酒井:  慣れればいい。人間というのは、身体というのは慣れるから大丈夫だ。要するに坐らなきゃいけませんよ。坐るように訓練することが、何か一つ、人間というものは正しいことをやろうと思ったら、それを志したらいいじゃないですか。やったらいいじゃないですか。私らも初めできなかったけどね、だんだん坐れるようになったんですから。

 

松村:  これは一日どのくらい坐ったらいいでしょう。

 

酒井:  そんなに時間決めなくてもいいでしょう。ある時間を決めておいて、その時に坐って、足が痛くなったら止めるようにすればいいじゃないですか。それからまた毎日やっていると、身体がだんだん慣れてきますよ。もともとそんな坐り方やったことがないのが、初めてやれば坐れないのが当たり前のことだ。

 

松村:  それでまた最初に返るんですけれども、そういうふうな坐禅を通して、どういう境地に至るというのを目標においてやったらいいんでしょうか。

 

酒井:  目標があっちゃいけません。目標はない。大体は目標というと、小さな人生になっちゃう。私たちの身体には、目標はありませんよ。尽十方界の真実だから。真実人体だから。その中の意欲活動だ。意思活動だ。意欲活動でもって決めるんだから。意欲活動ってすべてじゃないですよ、これは。そして得手勝手な方向に進むから。得手勝手を捨ててしまわないというと、本当の真実は行ぜられないじゃないですか。徹底的に真実を行ずるというのが坐禅です。

 

松村:  ただこういう境地になるまでやりたいというのが、

 

酒井:  それはいけません。それは境地になったらいけません。酔っぱらったことになる。そうでしょう。あ、良い気持ちだ、というのは酔っぱらいじゃないか。あなたの気分で、あなたが非常に感激して喜ぶということは正法じゃありません。片寄りがありますね。本当のあり方というものは、お天気のように、どれが本当のお天気ってないでしょうが。いろんなのがあってこそ初めてお天気じゃないか。風が吹いたり、雨が降ったり、寒かったり暑かったり、これが本当のお天気でしょう。これこそ本当の今の状態が、もっとも正常なお天気、そんなものないでしょう。それと同じだよ。

 

松村:  そうすると、ただ坐り続ける、

 

酒井:  坐るということによって、初めて正法が行ぜられる。正法は思想じゃありませんですよ。私たちのこうして生きている尽十方界の真実が正法ですよ。正法というのは、自分が惚れ込んじゃって、「あ、素晴らしいな、これこそ正法だ」というものは、あなたが気に入っただけの話だ。そういうものじゃないのね。それが普通の人たちの通じないところだね。普通の人たちは、みんな自分の気に入ることばっかりを求めておりますからね。それ以外自分の気に入らんことを求める人はないでしょう。それで自分の気に入ったことになると大いに感激するでしょうが。そういうものじゃありません。それを超越したところのもの。本当の私たちの生きている真実を一つ実践するというところが坐禅ですよ。

 

松村:  目的がないんですね、坐禅には。

 

酒井:  目的を持ってはいけない。

 

松村:  その坐禅そのものが実践なんですね。

 

酒井:  坐禅は修行ですよ。修行ですけども、真実を実践するんだよ。それで大抵の修行というのは、目的があって、そのために一生懸命やることを修行と言いますよね。ところがこの坐禅の修行は、目的がないんです。要するに、真実を実践することが修行だ。だから「修証(しゅしょう)」という言葉になる。修行と悟りの証という言葉と一緒になって、「修証」という言葉が道元禅師にある。修行してから悟りに到達することじゃなくって、坐禅することが、真実を実践することだ。実証することだ。あなたがどんなに考えてもそんなことかまわない、これは。そうじゃなくって、坐禅のみが真実を実践することだ。こういう意味だね。だから「修証不二」という。修行と証―悟りというものは一緒だという。だから私は、悟りということは、心理状態じゃないというのは、そこからくる。精神状態というのは一時的な歓喜するものじゃない。素晴らしい状態、そんなものありはしない。

 

松村:  すべて仏さまにお預けした恰好と、先生おっしゃいましたけれども、こういう恰好をずっと続ける。つまり続けることによって、少しでも仏さまの境涯に近づく、

 

酒井:  境涯じゃない。仏さまを修行していることだ。

 

松村:  仏さまを修行する、

 

酒井:  だから足が痛くなったら止めたらいい。

 

松村:  どうも有り難うございました。

 

     これは、昭和六十一年五月二十五日に、NHK教育テレビの 「こころの時代」で放映されたものである。

 

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