正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵 第十七 恁麽 註解(聞書・抄)

   正法眼蔵 第十七 恁麽 註解(聞書・抄)

 

雲居山弘覺大師は、洞山の嫡嗣なり。釋迦牟尼佛より三十九世の法孫なり、洞山宗の嫡祖なり。

詮慧

〇「洞山宗の嫡祖也」と云うは、「宗」と云えば、五家の内、洞山宗と聞こゆ。不可然。都て「宗」と云う事、仏家に不可云事也。天台宗真言宗などと云うには異なるべし。是は只洞山一人の宗とする所を挙ぐるなり。

経豪

  • 五家を立つる事不可然、之由先々事旧了。今「洞山宗」と云う事、必ずしも立宗の分にあらず。只其の人を賞翫する時も、「宗」と云う詞を付ける事有之歟。今の詞(は)其の義にあたるべき歟。

 

一日示衆云、欲得恁麼事、須是恁麼人。既是恁麼人、何愁恁麼事。いはゆるは、恁麼事をえんとおもふは、すべからくこれ恁麼人なるべし。すでにこれ恁麼人なり、なんぞ恁麼事をうれへん。この宗旨は、直趣無上菩提、しばらくこれを恁麼といふ。この無上菩提のていたらくは、すなはち盡十方界も無上菩提の少許なり。さらに菩提の盡界よりもあまるべし。われらもかの盡十方界の中にあらゆる調度なり。なにによりてか恁麼あるとしる。いはゆる身心ともに盡界にあらはれて、われにあらざるゆゑにしかありとしるなり。

詮慧

〇「欲得恁麼事」と云う「欲得」は、思慮念度にはあらず。「直趣無上菩提」の欲得と心得べし。「尽十方界も無上菩提の少許也」と云う(は)、「菩提の尽界よりもあまるべし」と云う。「我等もかの尽十方界の中にあらゆる調度」と云う。「身心共に尽界にあらわれて、我にあらざるゆえに」とあれば、身心尽界なるべし。尽界又無上菩提なるべし。「少許と云い調度」などと云えば、その物の内に孕(はら)まれたる調度とも、少許とて聊かなる物、一を指すにてはなし。諸法実相と云う実相は真如也、仏性なり。十如是を挙げては、唯仏与仏と、すでにあらわる始め、如是性一を挙ぐる時、十あるべきものの、まづ一とは心得まじ。如是性に漏れたる諸法、不可有。相・体・力・作・因縁等の九残りたると云うべからず。少許と云うも、調度と云うも、たとえばこれ程なり。仏の調度は法、法の少許は仏などと云わんが如し。

〇此の「恁麽時」は、仏性沙汰のとき事旧ぬ。又『仏性』第二段に欲知仏性義、当観時節因縁とありし心地に、聊かも不可相違。引き合わせて可心得なり。「仏性」も今の「恁麽」(も)何と其の体差がたし。将錯就錯の詞も同じ。「直趣無上菩提」の詞も同じかるべし。「直趣」と云えばとて、趣向の義にてはなし。此の「直趣」は「無上菩提」の面目と也。悟上得悟の漢、迷中又迷の漢も同じ詞なり。声色身心も恁麽也。

〇「此の宗旨は、直趣無上菩提、しばらくこれを恁麼と云う。この無上菩提のていたらくは、すなわち尽十方界も無上菩提の少許」と云う、非我可取無我、衆生所々著、引之令得出と云うも、所詮無余涅槃也。こなたには生滅法、併無上菩提の法に運ばるる也。いたづらに、ただ無我と云うにあらず。

〇「恁麽(事)と恁麽(人)を得んと思う人と、二つの物あるに似たり。これは不承師なり、不可各別。

〇「不対縁而照、不触事而知の知也。無其体とつかうべし。「得」の字(は)恁麽人と云うが如し。得も字も不用得まじ。「無上菩提」の大小の詞は、不可準世間也。大小に拘わるべからざるゆえに。

〇「既是恁麼人、何愁恁麼事」と云う事。

〇「さらに菩提の尽界よりもあまるべし」と云う、此の「あまる」と云う、尽界と云わん上、何か余るべきぞと覚ゆれども、是は空は地に余り、地は空に余るなり。地に倒るる物、空に起き、空に倒るる物、地に起くと云う。此の空与地の間を云えば、空は地に余り、地は空に余る也。是を「尽界よりも余る」とは可仕。「欲得恁麼事」の詞に、地に倒る物は地に因りて起くと云う詞も、又地に倒る物は依空起くと云う。道理も等しき詞と心得る時、尽界よりも余ると云う詞出で来るなり。能々心をしづめて可了見也。

経豪

  • 「恁麽」という事、古き経教等には此の詞いと不見歟。新渡書籍等に此詞見歟。所詮「かくの如し」と云う詞也。「直趣無上菩提、しばらくこれを恁麼と云う」とあれば、今は以無上菩提名恁麽歟。然者今の示衆の詞は、欲得無上菩提、須是無上菩提也。既是無上菩提也、何愁無上菩提と云う道理也。尤有其謂。
  • 無上菩提と、尽十方界と非相違法。尽十方をしばらく無上菩提と云う歟。「少許也」とは云わるるなり。尽十方界を無上菩提と云い、無上菩提を尽十方界と云うを、しばらく余るとも不足とも仕うなり。今「我等も彼の尽十方界の中に、あらゆる調度也」と云う、我等は恁麽の我等也。非吾我の我。已下文に見えたり。

 

身すでにわたくしにあらず、いのちは光陰にうつされてしばらくもとゞめがたし。紅顔いづくへかさりにし、たづねんとするに蹤跡なし。つらつら觀ずるところに、往事のふたゝびあふべからざるおほし。赤心もとゞまらず、片々として往來す。たとひまことありといふとも、吾我のほとりにとゞこほるものにあらず。

経豪

  • 此の詞は無常を観ずる小乗の詞に似たり。是は生老病死の姿(を)、我と云うべきにあらず。老も病も死も皆、私の進退にあらず。時節に被転もてゆく道理を、凡夫の上、世間の法猶如此。況や仏法の上に我を不可立と云う道理を、云わん料り也。能々可心得事也。
  • 「片々として往来す」とは、光陰にうつさるる事を云う歟。「まことありと云うとも、吾我の見に留まるべからず」と云う也。

 

恁麼なるに、無端に發心するものあり。この心おこるより、向來もてあそぶところをなげすてて、所未聞をきかんとねがひ、所未證を證せんともとむる、ひとへにわたくしの所爲にあらず。しるべし、恁麼人なるゆゑにしかあるなり。なにをもつてか恁麼人にてありとしる、すなはち恁麼事をえんとおもふによりて恁麼人なりとしるなり。すでに恁麼人の面目あり、いまの恁麼事をうれふべからず。うれふるもこれ恁麼事なるがゆゑに、うれへにあらざるなり。又恁麼事の恁麼あるにも、おどろくべからず。たとひおどろきあやしまるゝ恁麼ありとも、さらにこれ恁麼なり。おどろくべからずといふ恁麼あるなり。これたゞ佛量にて量ずべからず、心量にて量ずべからず、法界量にて量ずべからず、盡界量にて量ずべからず。たゞまさに既是恁麼人、何愁恁麼事なるべし。

詮慧

〇「上人」(寂光?談義座での人物?)義云、既不恁麽人也と云いたがるべし。此の恁麽始終は恁麽不恁麽、惣て不得と云う事もあれども、不恁麽人と云う詞あるべしとあり。

〇「仏量にて量るべからず」と云うは、今云う「仏量」は、猶教家の心地也。此方(こなた)には、仏量とも不可云。すべて量不可有ゆえに、又量を嫌うのみならず。恁麽の時節には、仏をも法をも不可用。

経豪

  • 「無端に発心する物あり」とは、「発心」と云うは、いかにも物一つを縁として、発心する也。此の発心は非縁起歟。尽界を指して「発心」と談ず。全於身彼が発心するとは不云也。ゆえに「無端に発心する」とは云わるるなり。「此の心おこるより、向来もてあそぶ所をなげすつ」とは、仮令三乗の教を説く学者、小乗権門の族、乃至世俗塵労に心を染むる人、如此「心(所?)をなげすてて、所未聞を聞かん、所未証を証せんと」、求むる人の事を如此云うなり。所詮法を聞き、私の所為にあらず。是併宿善開発する恁麽人なりと云う心なり。尤憑敷事也。已下如文。
  • 如文。「驚と云うも、怪しむ」と云うも、皆恁麽也。ゆえに如此云わるる也。
  • まことに此の「恁麽」の道理、「仏量・心量・法界量にて不加量也。只既是恁麼人、何愁恁麼事なるべき」也。「仏量にも心量にも法界量にも不可量」とは、只一物に滞る所を、如此被嫌なり。是れ則ち説似一物即不中の道理也。

 

このゆゑに、聲色の恁麼は恁麼なるべし、身心の恁麼は恁麼なるべし、諸佛の恁麼は恁麼なるべきなり。たとへば、因地倒者のときを恁麼なりと恁麼會なるに、必因地起の恁麼のとき、因地倒をあやしまざるなり。

詮慧

〇「声色恁麽」と云うは、すでに声色恁麽人也。何ぞ声色に愁わんと云わんが如し。

経豪

  • 前には、仏量・心量・法界量・尽界量等に量ずべからずとあり。今は「声色の恁麼は恁麼なるべし、身心乃至諸仏の恁麼は恁麼なるべし」とあり、打ち替えたる様に聞こゆ。是は例え一物に不滞すぢ一つ又、其の下に声色の恁麽は恁麽。身心諸仏の恁麽は恁麽なるべしと云う道理あるなり。如常、さればこそ説似一物の道理なれ。一物にも中(あた)らぬ道理が、又一物にも中る道理なるべし。
  • 是は所詮「倒」も地、「起」も地。「地」の上の倒起なれば、共に怪しむべからずと云う也。

 

古昔よりいひきたり、西天よりいひきたり、天上よりいひきたれる道あり。いはゆる若因地倒、還因地起。離地求起、終無其理。

 いはゆる道は、地によりてたふるゝものはかならず地によりておく、地によらずしておきんことをもとむるは、さらにうべからずとなり。しかあるを擧拈して、大悟をうるはしとし、身心をもぬくる道とせり。このゆゑに、もし、いかなるか諸佛成道の道理なると問著するにも、地にたふるゝものの地によりておくるがごとしといふ。これを參究して向來をも透脱すべし、末上をも透脱すべし、正當恁麼時をも透脱すべし。大悟不悟、卻迷失迷、被悟礙、被迷礙。ともにこれ地にたふるゝものの地によりておくる道理なり。これ天上天下の道得なり、西天東地の道得なり、古往今來の道得なり、古佛新佛の道得なり。この道得、さらに道未盡あらず、道虧闕あらざるなり。

詮慧

〇「若因地倒、還因地起。離地求起、終無其理」と云う、此の心は全倒全起なり、全空全地なり。「倒る」と云う事、「起く」と云う事、人の起倒の事を述ぶるにあらず。空与地の間を釈する也。但如此云えば、又倒者は漏れたるに似たり。能々了見するに、所詮空与地倒者と、又「倒者」と云う詞も、「起」と云う詞も、ただ一なる事を示すなり。是こそ恁麽の道理も直趣無上菩提の理(ことわり)も明らかなれ。迷悟は無上菩提の上に置いて解く。迷は衆生、悟は仏と聞こゆれども、生仏(衆生と仏)一如と説く全の心なり。

〇「如何なるか是れ諸仏成道の道理」と問わんに、やがて諸仏成道の道理と、押し返し答えせん如くなるべし。「倒地依地起」と云うは、空に倒者依空起と云う詞なし。又空倒空に起、地倒地と云う詞なし。又倒れば不起、又起きたる者不倒と云う詞なし。是等の詞は皆可同、其離同じゆえに。

経豪

  • 是は梵王(の)詞也。此の因縁は仏入滅後一百年の後、優婆毱多(商那和修弟子)出現して、化衆生給うに、魔縁彼化導を妨げんとて伺う程に、或る時蹔く眠り給いけるを見て、最上の隙也とて、魔縁華縵を尊者の御頸に懸けたり。尊者眠り覚えて見給うに、はや天魔の所行也と思うて、或る時魔王に悦びて、此の替わりに、汝に瓔珞を与えんと種々飾りたる華縵を頸に被懸けたり。魔縁悦びて帰りて見れば、人狗蛇の頭也。如此不浄の物共を編み連ねて被懸けたり。臭く汚(けが)らわしき事無限。欲取之以神力被懸けたる上は、なしかはぬくべき。総不被取、周章之余参梵王、歎申程に我不可叶、十力の弟子の所行をば、輙(すなわ)ち難取。何度も仏弟子の所行をば、仏弟子に参じてこそ歎じ申しさめてと、其の時此の詞を以て被訓、付此教、又参優婆毱多、難じ申す程に、さらに汝如此此の魔心を懺悔帰伏して、受五戒之後、此の華縵をを被取棄了。此の梵王(の)詞は欲得恁麽事、須是恁麽人。既是恁麽人、何愁恁麽事の詞に不違なり。只恁麽(の)詞、与地詞の替わり目許り也。已下如文。
  • 是は「地に倒るもの、地に依りて起くる」道理、いづれもあたるべき也。其の故は「いかなるか諸仏成道の道理なる」と問著するも、諸仏ならぬ物ありて成道するにあらず。諸仏の諸仏なる道理にて、「諸仏成道」とは云わるる也。是れ則ち「地に倒るもの、地に依りて起くる」道理にあたるべし。迷を転じて悟と成すと云うも、迷は悪しく、悟りは忌みじ(すぐれたの意・注)と、思い習わしたりつればこそ、迷悟各別には覚ゆれ。迷悟已に差別なからん上は、迷を転じて悟に成ると云うも、「地に倒る物、依地起」道理也。故に「大悟不悟、却迷失迷、被悟礙、被迷礙」とも云わるるなり。「被悟礙、被迷礙」とは、全迷全悟と云わんが如し。全迷なる理が被迷礙とは云わるるなり。

 

しかあれども、恁麼會のみにして、さらに不恁麼會なきは、このことばを參究せざるがごとし。たとひ古佛の道得は恁麼つたはれりといふとも、さらに古佛として古佛の道を聞著せんとき、向上の問著あるべし。いまだ西天に道取せず、天上に道取せずといへども、さらに道著の道理あるなり。いはゆる地によりてたふるゝもの、もし地によりておきんことをもとむるには、無量劫をふるに、さらにおくべからず。まさにひとつの活路よりおくることをうるなり。いはゆる地によりてたふるゝものは、かならず空によりておき、空によりてたふるゝものは、かならず地によりておくるなり。もし恁麼あらざらんは、つひにおくることあるべからず。諸佛諸祖、みなかくのごとくありしなり。

 もし人ありて恁麼とはん、空と地と、あひさることいくそばくぞ。

恁麼問著せんに、かれにむかひて恁麼いふべし、空と地とあひさること十萬八千里なり。若因地倒、必因空起、離空求起、終無其理。若因空倒、必因地起、離地求起、終無其理。

 もしいまだかくのごとく道取せざらんは、佛道の地空の量、いまだしらざるなり、いまだみざるなり。

詮慧

〇「恁麽会のみにして、不恁麽なき」と云うは、地に倒る者依空起と云わんがため也。起を褒め倒を嘆く詞にてはなし。三世諸仏すべて、正覚已後不可起とも習うべからず。

〇「空与地相い去る事十万八千里也」と云う、空と地との間は、ある物か、なき物か。又空(は)地と同じなる物か、別なる物か。「十万」の詞如何、西方浄土は、従是西方過十万億土、名日極楽世界と云う。但広大無辺際とも云う、仏土に成りぬれば無圭礙歟。然者「十万」の詞、更に数にも不拘、遠近にも拘わるべからざる者歟。頗不中用万なるべし。

〇「もし人ありて恁麼問わん、空与地と、相い去ることいくそばくぞ。恁麼問著せんに、かれに向いて恁麼云うべし、空与地と、相い去ること十万八千里也」と云うは、此の草子に「若因地倒、必因空起、離空求起、終無其理。もしいまだ如此道取せざらんは、仏道の地空の量いまだしらざる也、いまだみざる也」とあれば、すべて量(はか)りがたし。所詮此の「十万八千里」は、遠しと不可心得、近しと不可心得。ただ空与空の間も、十万八千里と云うべき也。

経豪

  • 是は前に因地倒もの依地起、さらに離地起と求むるに無其理けんと云う道理、道未尽にあらず、道虧闕あらざる也と挙げられて、但此の一筋許りを非可談。会の所に不会の道理、即心是仏の上に、非心非仏の道理あるが如く、この詞の上に、又云うべき道得ありと云う心也。是は左に可被挙也。
  • 是は因地倒物は、必ず因地起という道理許りを心得は、猶不足あり。此の詞の響く所が、因空起と云う道理が甚深なる也と、先師被釈之也。因空起(の)詞は、先師(の)御詞なり。空与地只一物、非相違法ゆえに如此云わるる也。天地懸隔などと云いて、世間には不相応事に仕う詞なり。是は凡見也。不足為証、大唐国裏に、一人の不悟者を求むるに難得也と云いしを、一人半人の中に、大唐国裏を求め、心むべしと云いし程の道理なり。
  • 空与談ぜん時は全空、地と談ぜん時は全地なるべし。是を「空与地と相い去る事、十万八千里」とは云うなり。此の「十万八千里」の詞も、丈尺等に拘わるべからず。無縫塔の高さを、七尺八尺と云いしが如し。世界の闊さ一丈等と云う程の丈也。
  • 是は空与地(の)、親切なる道理を書き表わさるるなり。

 

第十七代の祖師、僧伽難提尊者、ちなみに伽耶舎多、これ法嗣なり。あるとき、殿にかけてある鈴鐸の、風にふかれてなるをきゝて、伽耶舎多にとふ、風のなるとやせん、鈴のなるとやせん。伽耶舎多まうさく、風の鳴にあらず、鈴の鳴にあらず、我心の鳴なり。僧伽難提尊者いはく、心はまたなにぞや。伽耶舎多まうさく、ともに寂靜なるがゆゑに。僧伽難提尊者いはく、善哉々々、わが道を次べきこと、子にあらずよりはたれぞや。つひに正法眼藏を傳付す。

 これは、風の鳴にあらざるところに、我心鳴を學す。鈴のなるにあらざるとき、我心鳴を學す。我心の鳴はたとひ恁麼なりといへども、倶寂靜なり。

 西天より東地につたはれ、古代より今日にいたるまで、この因縁を學道の標準とせるに、あやまるたぐひおほし。

るなり。親 伽耶舎多の道取する風のなるにあらず、鈴のなるにあらず、心の鳴なりといふは、能聞の恁麼時の正當に念起あり、この念起を心といふ。この心念もしなくは、いかでか鳴響を縁ぜん。この念によりて聞を成ずるによりて、聞の根本といひぬべきによりて、心のなるといふなり。これは邪解なり。正師のちからをえざるによりてかくのごとし。たとへば、依主隣近の論師の釋のごとし。かくのごとくなるは佛道の玄學にあらず。

 しかあるを、佛道の嫡嗣に學しきたれるには、無上菩提正法眼藏、これを寂靜といひ、無爲といひ、三昧といひ、陀羅尼といふ道理は、一法わづかに寂靜なれば、萬法ともに寂靜なり。風吹寂靜なれば鈴鳴寂靜なり。このゆゑに倶寂靜といふなり。心鳴は風鳴にあらず、心鳴は鈴鳴にあらず、心鳴は心鳴にあらずと道取す切の恁麼なるを究辦せんよりは、さらにたゞいふべし、風鳴なり、鈴鳴なり、吹鳴なり、鳴々なりともいふべし。何愁恁麼事のゆゑに恁麼あるにあらず、何關恁麼事なるによりて恁麼なるなり。

詮慧

〇第十七代祖師、僧伽難提尊者。

「あるとき、殿に懸けてある鈴鐸の、風に吹かれてなるを聞きて・・善哉々々、我が道を次べきこと、子に非ずよりはたれぞや」、我心を以て心得は、鈴も風も心也と云わんは、これ邪見也。やがて鈴を心と仕い、風を心と仕う(は)、仏道の習いなるべし。諸法は心が所作と云う事あり。以心為根本、心なくば不可鳴と思う(は)、世間の了見也。然而三界唯心の道理にて可心得也。

〇やがて鳴る物をも心と云うべし。風を心と云い、幡をも心と云う也。風の鳴るは非心と云う義(に)あらず。心の鳴は非心とも云う義もあるべし。風も心也、心も心なり。鈴も心也と云う時こそ、俱寂静とも云わるれ。

此の僧伽難提尊者と、伽耶舎多との問答(は)、世間の如くに心得る時は似無詮。風の鳴ると云いたらんも、鈴の鳴ると云わんも、心の鳴ると云わんも、大方仏法の詮と不聞。俱寂静と云う時こそ、仏法なるべけれ。ゆえに汝にあらずよりは、誰ぞやと褒めらる。三界唯心也。風も鈴も別也と云うべからず。地水火風識同じかるべし。所詮念を心と不可思也。一心不生万法無咎などと云えば鳴と思う心こそ本なれ、などと談ずる(は)、附仏法の外道と云いつべし。近代仏法は有とも思うべからず、無とも思うべからず。又思うべからずとも思うべからず。などと云うも、慮知念覚を離れざる見なり。

〇「依主隣近」と云うは、法相宗の名目也。喩えば山近ければ山家と云い、水近ければ水郷と云わんが如し。心が主なれば、鈴をも風をも心とこそ云わめと云う(は)、法相の心なるべし。不可然。

〇「親切の恁麽なるを究辦せんよりは」と云うは、後を勝りたると云わんとするに非ず。親切の恁麽ならん時より後は、「風鳴・鈴鳴・吹鳴・鳴々と云うべし」となり。

〇「親切の恁麽なるを究辦せんよりは、さらにただ云うべし」と云うとあれば、親切の恁麽なるを究辦せしより、この方と心得也。さればこそ吹鳴・鳴々と云う詞も、易く云わるれ。究辦とは心得まじ。

〇「何愁恁麼事のゆえに恁麼あるにあらず」と云うは、欲得恁麽が恁麽人とも既是恁麽とも、今何愁とも云わるる時は、何愁と云うより、恁麽と心得べからずと也。

〇「何関恁麼事」と云うは、会不会恁麽ならずと云う事なし。その上は実に何をかあづからんとなり。又「関」とあるは、風鳴・鈴鳴・心鳴などと云うを挙げて、「何関恁麼事」とも云うべし。

経豪

  • 是は今の問答を打ち任せて、「西天東地古代よりあやまる」と云うは、風鈴を吹く響きありとも、心に縁ぜずは、いかでか是を聞くべき。然者心の根本を指して如此答すると心得たり。是を邪解也と嫌う也。所詮、風も鈴も心も寂静も「無上菩提、正法眼蔵」を指して云うなり。此の上「風」と談ずる時は全風、「鈴」と談ずる時も全鈴、「心」も如此。此れを「寂静」とは云う也。さらに「心」の一法を取り出して為根本。彼が是に縁ずるなどとは不可心得。以此道理「俱寂静」とは云う也。響く所が、又「風鳴・鈴鳴・吹鳴・鳴々とも云うべし」とあり。能々可了見事也。委見于文。
  • 是は「何愁恁麼事」と云えば、只一筋に恁麽なれば、なんぞ恁麽の事を愁えんと許り、云いたるように聞こゆるを、「何関恁麼事なるによりて恁麼なるなり」とは、風鳴なるべきか、鈴鳴なるべきか、心鳴なるべきか、いづれに預かるべきぞと、蹔く受けたる詞也。非不審、「何」の字(は)如例いづれにもあたるべき也。説似一物即不中(の)理也。

 

第三十三祖大鑑禪師、未剃髪のとき、廣州法性寺に宿するに、二僧ありて相論するに、一僧いはく、幡の動ずるなり。一僧いはく、風の動ずるなり。かくのごとく相論往來して休歇せざるに、六祖いはく、風動にあらず、幡動にあらず、仁者心動なり。二僧きゝてすみやかに信受す。

 この二僧は西天よりきたりけるなり。しかあればすなはち、この道著は、風も幡も動も、ともに心にてあると、六祖は道取するなり。まさにいま六祖の道をきくといへども、六祖の道をしらず。いはんや六祖の道得を道取することをえんや。爲甚麼恁麼道。

 いはゆる仁者心動の道をきゝて、すなはち仁者心動といはんとしては、仁者心動と道取するは、六祖をみず、六祖をしらず、六祖の法孫にあらざるなり。いま六祖の兒孫として、六祖の道を道取し、六祖の身體髪膚をえて道取するには、恁麼いふべきなり。いはゆる仁者心動はさもあらばあれ、さらに仁者動といふべし。爲甚麼恁麼道。

 いはゆる動者動なるがゆゑに、仁者仁者なるによりてなり。既是恁麼人なるがゆゑに恁麼道なり。

詮慧

〇「一僧云く、幡の動ずる也。一僧云く、風の動ずる也。六祖云く、風動にあらず、幡動にあらず、仁者心動也」、凡そは聊かも仏法の心あらん物の、この論話あるべき様なし。風吹けば幡動ずる事は、縁生の法ぞ、或いは又衆縁和合ぞ、などと云いて事ふりたり。今は風も幡も心も三無差別の事を明かさんと也。

〇「仁者心動」と云うは、仁と心とを置きて云えば、仁は能、心は所と成りぬべし。心と動とも又能所と聞こゆ。しかにはあらず、仁者動と云い、鳴が鳴也と云うは同事也。

〇「仁者心動は、さもあらばあれ、さらに仁者動と云うべし」と云うは、すでに六祖の仁者心動の道に依りて、印度(これ中天竺なり)の二僧は信受すと云えども、明らむる所の詞不聞。而今先師永平寺和尚に、「心」の字を不加、「仁者動」とあり、明らむる所也。教の参学にも動執生疑と聞こゆ。領解述成いまだしきを、永平寺和尚の「仁者動」の道、すでに述成也と云うべし。

〇問、「仁者心動」の「心」の字を略して、「仁者動」とある事如何。答、「仁者心動」と云うまでは、身と心と各別に心得る。迷人も在りぬべき所を、身心一如と体脱せん為に、「仁者動」と云う也。仁与心(は)同じなるゆえに。

経豪

  • 「六祖未剃髪の時」と云えば、未伝法(の)只尋常人なりし時を指して云うかと覚えたり。已に在俗の昔(に)伝法伝衣し御しき。其れ已後(の)事也。伝法已後出家也。一僧の心地は、いかに風吹けども、幡なからんには不可動と云う歟。一僧の心地には幡ありとも、不被吹風、争か可動と云うか。是を六祖は、「非風動、被幡動、仁者心動也」と被仰は、前の風鳴鈴鳴を心鳴と有りしが如く、幡動も風動も心の念起也と、六祖は被仰と心得は邪見也。六祖の如本意、心得たりけるが、ここには不分明。おぼつかなし。
  • 已下如文。
  • 是は六祖の仁者心動の道を聞きて、此心が動ずると思いて、「仁者心動と道取するは、六祖を不見、六祖を知らず、法孫に非ず」と嫌う也。実に六祖争か凡夫所具之妄心を、仁者心動の心とは可被仰。勿論事也。
  • 六祖の御心地の、仁者心動とはとて今義を被述。是は方丈(の)御詞也。所詮「仁者動と云うべし」とは、仁者心動と云えば、猶心を所具の法と心得ぬべき分も在りぬべきを、「仁者動」と云えば、仁を動と談ずれば、心より縁起すると云う僻見は止む也。此の「動」(は)又彼が是を動ずると云う義にあらざれば、「動者動」と云う道理也。この理なるゆえに、「仁者仁」なるべし。風も幡も、仁者心動も、只一法の上の道理なるべし。

欲得恁麽事、須是恁麽人、既是恁麽人、何愁恁麽事と云う。既是恁麽人なるゆえに、右に所挙の道理が如此云わるる也。

 

六祖のむかしは新州の樵夫なり。山をもきはめ、水をもきはむ。たとひ青松のもとに功夫して根源を截斷せりとも、なにとしてか明窓のうちに從容して、照心の古教ありとしらん。澡雪たれにかならふ。いちにありて經をきく、これみづからまちしところにあらず、佗のすゝむるにあらず。いとけなくして父を喪し、長じては母をやしなふ。しらず、このころもにかゝれりける一顆珠の乾坤を照破することを。たちまちに發明せしより、老母をすてて知識をたづぬ、人のまれなる儀なり。恩愛のたれかかろからん。法をおもくして恩愛を輕くするによりて棄恩せしなり。これすなはち有智若聞、即能信解の道理なり。

 いはゆる智は、人に學せず、みづからおこすにあらず。智よく智につたはれ、智すなはち智をたづぬるなり。五百の蝙蝠は智おのづから身をつくる。さらに身なし、心なし。十千の游魚は智したしく身にてあるゆゑに、縁にあらず、因にあらずといへども、聞法すれば即解するなり。きたるにあらず、入にあらず。たとへば、東君の春にあふがごとし。智は有念にあらず、智は無念にあらず。智は有心にあらず、智は無心にあらず。いはんや大小にかゝはらんや、いはんや迷悟の論ならんや。いふところは、佛法はいかにあることともしらず、さきより聞取するにあらざれば、したふにあらず、ねがふにあらざれども、聞法するに、恩をかろくし身をわするゝは、有智の身心すでに自己にあらざるがゆゑにしかあらしむるなり。これを即能信解といふ。

詮慧

〇「古教ありと知らん」と云う、是は古教照心という古き詞あり。近代の禅僧は祖師の言句を、推度する事はあるべからず。始めて我れと云う(は)、尤も古教照心の義には背くべし。仏の言句祖師の語話をこそ、よくよく校合了見すべけれ。不然者経論すべて無詮。

〇「五百の蝙蝠」とは、商人夜宿の所にて、阿毗達磨を唱うるを聞きて、身心を忘れて、落入火死、即生天上。参仏所、五百羅漢となる。是有智若聞即能信解なり。「十千游魚」とは、聞法の聖者過浜、杖の先に当りて生天上。参仏所、得脱す。知は人に不学、又自ら起こすにあらずと云う。たとえば此義なり。

〇「東君の春に会うが如し」と云うは、「東君」とは日をも云う、春をも云う也。東を春の方と取る。春の来たること、東より来たると云う。但春を能とせず、東を能とせず。春を所とせず、東を所とせざるなり。

経豪

  • 是は六祖の有り様を被述也。実に樵夫の業をせられしかば、青松の下に功夫する事はありとも、争か「明窓の内に従容して」、かかる甚深殊勝の仏法ありと知らん。「澡雪たれにか習う」と云う也。已下如文。六祖の御行状を被明也。
  • 是は酔酒而臥之時、懸けし珠を知らざりし喩え也。
  • 「有智若聞、即能信解」の『法華』の文を、打ち任せて人の心得る様は、有智の人、若し聞けば、即ち能く信解すと云う。是は智ある人は、此の経を聞いて能く信解すと云う歟。今所談の「有智」と云うは全智也。以尽界談智、智の外に無余物道理なるゆえに。「棄恩」の姿も、別の物を置きて、棄恩とは不可談。此の「棄恩」の道理「有智若聞」の道理は、智が智を棄恩し、智与智を若聞し、「信解」する也。かかりけるゆえに、智ならぬものか。別に有りて起こしける智にてはなきなり。全智なる道理なるゆえに、恩愛をも逃れ、発心修行の心地も出て聞ける也と云うなり。
  • 全智なる道理、尤如此云わるる也。
  • 游魚も、智したしき身にてあるに依りて、非縁因にあらねども、聞法すれば、もとより智なりつるゆえに、「即解する也」と云う也。
  • 「東君」とは春を云う歟。心は春が春に会うと云う心也。別物の不交所を如此云う也。
  • 「如文。実に此の智(は)、有無大小等の論にあらざるべし、勿論(の)事也。
  • 是も如前云う、「仏法いかなると知らねば、聞取するにあらざれば、慕うにも願うにあらざれども」、もとより此の身心有智の身心なるによりて、自己にあらざるゆえに、聞法すれば恩をも軽くし、身心をも忘るる也。此の道理を「即能信解」と云う也。

 

しらず、いくめぐりの生死にか、この智をもちながら、いたづらなる塵勞にめぐる。なほし石の玉をつゝめるが、玉も石につゝまれりともしらず、石も玉をつゝめりともしらざるがごとし。人これをしる、人これを採。これすなはち玉の期せざるところ、石のまたざるところ、石の知見によらず、玉の思量にあらざるなり。すなはち人と智とあひしらざれども、道かならず智にきかるゝがごとし。

 無智疑怪、即爲永失といふ道あり。智かならずしも有にあらず、智かならずしも無にあらざれども、一時の春松なる有あり、秋菊なる無あり。この無智のとき、三菩提みな疑怪となる、盡諸法みな疑怪なり。このとき、永失即爲なり。所聞すべき道、所證なるべき法、しかしながら疑怪なり。われにあらず、徧界かくるゝところなし。たれにあらず、萬里一條鐵なり。たとひ恁麼して抽枝なりとも、十方佛土中、唯有一乘法なり。たとひ恁麼して葉落すとも、是法住法位、世間相常住なり。既是恁麼事なるによりて、有智と無智と、日面と月面となり。

 恁麼人なるがゆゑに、六祖も發明せり。つひにすなはち黄梅山に參じて大滿禪師を拝するに、行堂に投下せしむ。昼夜に米を碓こと、僅に八箇月をふるほどに、あるとき夜ふかく更たけて、大滿みづからひそかに碓坊にいたりて六祖にとふ、米白也未と。六祖いはく、白也未有篩在と。大滿つゑして臼をうつこと參下するに、六祖、箕にいれる米をみたび簸る。このときを、師資の道あひかなふといふ。みづからもしらず、佗も不會なりといへども、傳法傳衣、まさしく恁麼の正當時節なり。

詮慧

〇「無智疑怪、即為永失」と云うは、「十方仏土中、唯有一乗法」と聞く時、疑怪永失はいづれの所に置きべきぞ。「唯有一乗法」と聞くや、やがて有智若聞の者にてあるなり。有智若聞の面目を尋ぬれば、「無智疑怪」のものとて、「永失」と世間に思うが如くはあるまじ。不悟至道すと心得んが如し。「無智」の「無」は仏道の無也。世間には習わざれ。

〇「石の玉を包めるが、玉も石に包まれりとも知らず、石も玉を包めりとも知らざるが如し」、是は石与玉、能所各別を云うにあらず。玉とも不知の道理許りを取らんがため也。

〇「米白也未(よねはしらけたりや)」と云うは、是は打ち聞く所、仏法は明らめたりや、いまだしやと云う問いに似たり。「米」と云う詞は、碓坊にしてえ問答あるゆえと聞こゆ。但是は仏法の得否、迷悟を問うにてはなし。ただ仏法の上にしら(白)けたるとも、いまだしとも云うなるべし。

〇「白也未有篩」と云うは、未達の義を答するとは心得まじ。たとえば仏は仏也。然而未成仏と云いや、また眼は眼也。但不見などと云わんが如し。いまだと云えばとて、糟糠(かすぬか)の残りたるとは云い難し。

〇「臼を打つこと三下」と云うは、白しと云う心地か、いまだしと云う心地か。これ三世不可得と云う程の事也。

〇「箕に入れて米を簸る」と云うは、米白の上の面目也。不簸つる先は未達、簸つれば、達と云わんとにはあらず。

〇「自らも知らず、他も不会也」と云うは、米白の時節には、自他の知と云うにも不及ものなり。「石の珠を包む」と云う事、此の詞を聞いて、打ち任せて真如仏性などとを、具足したる。我等悟らぬ程は、知らず知らねども、有りなんと心得ぬべし。不然、ここにはただ、玉(は)不知石、石(は)不知玉(の)事許りを明かす也。欲得恁麽事、須是恁麽人、既是恁麽人、何愁恁麽事の道理也。

〇「米白也未」と云うは、又仏性を明らめたりや、いまだしやと云うに似たり。

〇「白也、未有篩在」と云う、是又仏法をば、知り得たれども、いまだ爽やかならず、などと云う程なり。「大満つえして、臼を打つ事、三下す」と云うも、師匠重ねて仏法を催し、示す心かと覚ゆ。「六祖、箕に入れる米を三たび簸る。此の時を、師資の道相い叶うと云いつる」時に、これ又残る糠糟もなく仏法を正伝す、などと心得ぬべし。是等は教家の心地、世間に仏法を談ずる姿也。今は不然。「米白也未」と云うも、「白也未有篩在」と云うも、仏成仏すやと云うも、或いは坐禅作仏すやとも、塼豈鏡と成ること得てんや、などと云う程の丈にて、碓坊の習いなれば、米の事をも、箕の事をも云うにてこそあれ。米の白き時を悟り、黒米は迷いなどと、悪しく分くる事なし。応無所住の文を聞きしより、初発心して、二僧風幡の論ぜし時、仁者心動と云い、悟りも現われき、今は一向悟りの上の語也と可心得。

経豪

  • 是は人与智のあわい、石与玉の如しと、喩えに被引き出す也。
  • 『法華』の文に「有智若聞、即能信解。無智疑怪、即為永失」(「薬草喩品」「大正蔵」九・一九c一二・注)とあると心得には、有智人なれば若聞すれど、即能信解す。無智の人なれば、聞いては互い怪しむ故、即為永失と被嫌也と。多分取捨の詞に、此文をば心得たるなり。今義更非爾。先ず不審なる事は、法華は諸仏出世の本懐也。衆生成仏の直道也。已爾前の教をば置いて、仏の已に証を交り物なく被説顕。経に有智無智ぞ、永失ぞなどと凡夫の思い付きたる、取捨の法を働かせて談ぜんや。能々可了見事也。此義曾て不可有事也。然者此の智に有無の義あるべからざれども、「春松なる有あり、秋菊なる無あり」とは、只しばらく春松を有と云い、秋菊を無と云う程の有無なるべし。ゆえに「無智の時、三菩提皆疑怪となる、尽諸法皆疑怪也」と云うは、此の有智無智(は)、善悪勝劣の法にあらざるゆえに、「無智の時、三菩提皆疑怪となる」とは云う也。「尽諸法」(も)又同前。かるがゆえに、「永失即為」と云う。即為永失と云えば、猶失を致すに似たり。永失が即為と云う時は、取捨善悪の心地は離るるなり。如此談ずれば、今の『法華』の「有智若聞」の文は、惣て善悪取捨の法とは不被心得。只同心也と談ず也。ゆえに今は被嫌と心得つる。「疑怪」の詞が、「所聞の道、所證の法」を皆「疑怪」と談ず。日来の所談に大いに違するなり。仏法の所談如此。
  • 如文。「徧界かくるる所なけさば、非我」道理顕然也。「だれにあらざれば、万里一条鉄」と云わるる、尤有其謂。
  • 「抽枝」は春、「落葉」は秋か。所詮抽枝と云うも落葉すと云うも、「十方仏土中、唯有一乗法(「方便品」「大正蔵」九・八a一七・注)也」、「是法住法位、世間相常住」(「前同」九b一〇・注)程の事也。只同程の心也と云う証拠に被出なり。
  • 既是恁麼人、何愁恁麽事の道理なるゆえに、「有智、無智、日面、月面」(の)、只一物なる道理なり。已下如文。
  • 是は五祖与六祖問答を被明也。法性の真如ぞなどと云えば、仏法と覚ゆ。今(の)問答などとは無風情、世間世情の無何そぞろ事を、口に任せて云いたる様に聞こゆ。されば祖師の法は、無何いたずら事、児が「わう」、めのと(乳母)が「わう」、雀の「ちうちう」、からすの「かうかう」などと云う程の事ぞなどと、究竟長老共とかや。此の説ぞ堅固の従事なる、おのれが理に暗からんからに、仏法を破るべきにあらず。罪業の至り、可怖可怖、この問答能々可了見事也。抑も祖師の仏法にいたずらなる詞、又無何そぞろ事と相い交りなんや。先ず此の事を、能々可心得居事也。仏祖の用いる「米白也未」の詞、いかにと可心得ぞ。定んで子細あるらんと心を付けて可参学なり。法性・真如・三昧・陀羅尼と云わんに、聊かも不可有勝劣。『法性』の草子にも「著衣喫飯、言談祗対、六根運用、(一切施為)、尽是法性」とありき。今の「米白也未」の「米」も、真如仏性を指してや被仰つらん、覚束なし。「六祖の白也、未有篩在」の詞も、会仏法の上に不会仏法の理あり。即心是仏の道理が、非心非仏と云わるる理をもや具足すらん。いかさまにも、祖師の仏法を無何詞ぞとて、いたずらに閣事、返々倉卒の至り也。不見正師之所地致也。可恥可恥、可恐可恐。

三斤たび簸る姿、諸法を表す義にてもやあるらん。五祖与六祖(の)あわい、凡慮難測也。実(に)此の義、「自らも不知、他も不会なれども、伝法伝衣の時節」すでにここに極まりぬ、可貴可貴。

 

南嶽山無際大師、ちなみに藥山とふ、三乘十二分教某甲粗知。嘗聞南方直指人心、見性成佛、實未明了。伏望和尚、慈悲指示。

 これ藥山の問なり。藥山は本爲講者なり。三乘十二分教は通利せりけるなり。しかあれば、佛法さらに昧然なきがごとし。むかしは別宗いまだおこらず、たゞ三乘十二分教をあきらむるを教學の家風とせり。いま人おほく鈍致にして、各々の宗旨をたてて佛法を度量する、佛道の法度にあらず。

 大師いはく、恁麼也不得、不恁麼也不得、恁麼不恁麼摠不得。汝作麼生。

 これすなはち大師の藥山のためにする道なり。まことにそれ恁麼不恁麼摠不得なるゆゑに、恁麼不得なり、不恁麼不得なり。恁麼は恁麼をいふなり。有限の道用にあらず、無限の道用にあらず。恁麼は不得に參學すべし、不得は恁麼に問取すべし。這箇の恁麼および不得、ひとへに佛量のみにかゝはれるにあらざるなり。會不得なり、悟不得なり。

 曹谿山大鑑禪師、ちなみに南嶽大慧禪師にしめすにいはく、是什麼物恁麼來。

 この道は、恁麼はこれ不疑なり、不會なるがゆゑに、是什麼物なるがゆゑに、萬物まことにかならず什麼物なると參究すべし。一物まことにかならず什麼物なると參究すべし。什麼物は疑著にはあらざるなり、恁麼來なり。

詮慧

〇此の「三乗十二分教粗(あらか)た知れりとも云い、通利せり」などと云えば、三乗十二分教と、今の大道とを、無各別と心得合すべし、などと云うにてはなし。教の仏法は昧然なし、大道を指示せよとなり。

〇「恁麼也不得、不恁麼也不得、恁麼不恁麼総不得」と云うは、総不得に留まるべからず。惣得もあるべし。さてこそ恁麽の道理は残らぬ。

〇地に倒るるものは、依地起と云い、因空起とも云う程の詞也。又仁者動也、動者動也と云う程の詞なり。

〇「仏量のみに拘わるにあらず」と云う、これは「会不得なり、悟不得なり」と云わるるなり。「有限にあらず、無限にあらず」と云う、此の有無は仏の上に置く、有仏無仏、性相常然と云う。是は性常然、世間にも心得べし。相常然はいかなるべきぞ、但性相を各別にだんずればこそあれ。性相常然の詞(は)不可違也。

〇六祖段。「是什麼物恁麼来。この道は、恁麼はこれ不疑なり、不会なるがゆえに」と、ある時に、恁麽来と不審したるにてなし。上(かみ)に恁麽して抽枝也とも、十方仏土中、唯有一乗法なり。たとい恁麼して葉落すとも、是法住法位、世間相常住也とあり。顕然の道理なり。「是什麽物」とあらん。次の詞には説似一物即不中と可有かと覚えれども、「是什麼物なるがゆえに、万物まことに必ず什麼物なると可参究。一物まことに必ず什麼物なると可参究」とあれば、尤も「什麼物は疑著にはあらざるなり、恁麼来也」と云う、御詞その謂われ逃れ難し。

経豪

  • 是は無風情、「無際大師に薬山問、三乗十二分教某甲粗知、嘗聞、南方直指人心、見性成仏、実未明了。伏望和尚、慈悲指示」給えと被仰、如文。
  • 「薬山は本は講者なり、三乗十二分教は通利せりける也。然者、仏法更に昧然なきが如し。昔は別宗、未だおこらず、十二分教を明らむるを、教学の家風とせり。今の人多く鈍致にして、各々の宗旨を立て、仏法を度量する、仏道の法度にあらず」と、云々。
  • 此の詞難心得。何とあるべしとも不聞。但此の詞は一向以不得道理、法を被述歟。凡そ仏法の道理、得不得に拘わるべからざるゆえに、或る時は以得道理、仏法を説き、或る時は以不得理法を示す。今は不得の道理にて、大師薬山に被示也。恁麽の道理、尤不得なるべし。「汝作麽生」の詞、又不得の道理に不可違歟。尽法界皆不得の道理なるべし。
  • 何事を指して恁麽と云うべきにあらず。始めに無上菩提、蹔く是れを恁麽と指して云うも、猶能所あるように聞ける所を、「恁麽は恁麽を云う」とあれば、惣て交る物なく、恁麽の全体なる道理聞ける也。此の上は有限無限の沙汰に不可及。恁麽と不得とのあわい、親切なる道理か。「恁麽は不得に参学すべし、不得は恁麽に問取すべし」とはある也。此の「恁麽(は不得)に参学すべし」とある、参学の姿(は)、恁麽なるべし。
  • 此の「恁麽と不得のあわい、仏量にかかわらず、会不得悟不得也」とは、此の道理が仏量に拘わらず、又恁麽と不得と許りに限るべからず。会不得も悟不得もあるべし。万物無尽に、不得の道理あるべしと云う心地なり。
  • 是は六祖与南嶽(の)問答(の)詞也。此の「是什麼物恁麼来」の詞、『恁麽』の草子の潤色に、尤被引出たよりありぬべし。此の六祖の御詞の、「是什麼物恁麼来」を、不審の詞とのみ思い習わしたり。非爾、只法の道理を被示也。一切の諸法(は)只是、「是什麼物恁麼来」の道理の外不可有故、「恁麽はこれ不疑也、不会なり」とある也。万法の理(は)「是什麼物」なるゆえに、「万物まことに必ず是什麼物なると可参究」とはあるなり。

恁麽(終)

 

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。

 

2022年4月擱筆(タイ国にて)