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現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵 第十二 坐禅箴(聞書・抄)

詮慧・経豪 正法眼蔵 第十二 坐禅箴(聞書・抄)

薬山弘道大師、坐次有僧問、兀兀地思量什麽。師云、思量箇不思量底。僧云、不思量底如何思量。師云、非思量。大師の道かくのごとくなるを証して、兀坐を参学すべし。兀坐正伝すべし、兀座坐の仏道につたはれる参究なり。兀兀地の思量、ひとりにあらずといへども、薬山の道は其一なり。

詮慧

〇「坐禅箴」箴と云うは則なり、坐禅の様也。坐禅箴は父母未生の節目なり、やがて今の坐禅を指すなり。

〇父母未生前と云うは、仏向上の義也。下に対する上に非ず、父母所生に対したる未生前にあらず。坐禅之面目、非衆作業之故に、坐禅は人間界にあるべき事ならず。坐禅の時は坐禅の我にてこそあれ、日来の我にてはなき也。

坐禅をやがて坐仏と云うが、今の脱落にてはある也。脱落を以て葛藤しもてゆく喪身失命と云うも、我が坐禅の時節なり。

〇この兀坐の思量を以て一切善悪都莫思量と云う也。但善悪に対して思量せざるには非ず、兀坐の時の思量は皆都莫思量也。

坐禅は人の坐禅するに非ず、兀坐に人は被坐禅也。兀坐の思と云うは端坐なり。蒲団也、手足を重ねて組む也。一念二念と云い、一山河大地を重ねて念と云うべき也。此の時尽十方界真実人体とも云う也、又坐断十方とも云うべき也。

〇「兀兀地思量ひとりに非ず」と云う、ひとりは諸人の見解を挙ぐる心也。又宗門に付けても非一る心もあるべし。諸人の見解非一と云うは、凡夫二乗菩薩等の思量なるべし。又今禅宗と号する輩も非一人也。

〇宗門の見解に非一と云うは、一山河を見て思量とし日月星辰を以て思量とする也。又磨

塼を以ても思量し、作鏡を以ても思量する故なり。此の思量等は、雖非各々義、しばらく其の一とは挙ぐるなり。

〇「薬山の道は其一なり」と云うは、二に対したる一にあらず、独一也。但独と云えばとて、又縁覚の独覚と云わるる義にてはなし。たとえば不触事而知の心なるべし。

〇唯独自明了余人所不見と云う、此経文非自解義。此の自明了は、尽十方界の自己の明了也。可対他人なき故に、余人所不見とは云う也。所詮自も不見也、不見これ自なるが故に。

経豪

箴 おしえ、しるし、わかつ、誨(おしえ)、箴のくむなり。

坐禅箴談十一段事、第一薬山弘道大師与僧問答、兀兀地思量什麽事。第二江西南嶽問答、図箇什麽事。第三磨塼作鏡事。第四如人駕車、車若不行事。第五南嶽如学坐禅為学坐禅事。第六若学坐禅、禅非坐臥事。第七若学坐仏、仏非定相事。第八汝若坐仏即是殺仏事。第九若執坐相非達理事。第十宏智禅師坐禅箴事。第十一永平寺和尚坐禅箴事。

  • 此の問答を心得ぬべき様は、「兀兀地」と云うは、今の坐禅の姿を云う也。坐禅しては何事を思量するぞと、たづねたる返事に、不思量を思量するぞと被答たるを、僧重ねて又不思量をば何と思量するぞと尋ね申すに付けて、師又非思量と被答たるように聞こゆ。今の問答更に非爾。所詮今の坐禅の姿が、思量とも不思量とも云わるる也。此の道理なる故に思量とや云うべき、不思量とや云うべき、非思量とや云うべき、故に如何の詞あるなり。以此道理、大師の道、此くの如くなるを参学して、「兀坐正伝すべし」とは云うなり。
  • 此の詞には二の心あるべし。一には坐禅の儀を説かるる事は、祖師等多く其の義を被述べたれども、今の薬山の思量箇不思量の詞、抜群したりと被讃たる詞也と云う義一.又薬山の道の出現する時は、自余の祖師等の詞は皆薬山に蔵身し打ち取れて、薬山の道ばかり也と云う義もありぬべし。

 

いはゆる思量箇不思量底なり。思量の皮肉骨髄なるあり、不思量の皮肉骨髄なるあり。僧のいふ、不思量底如何思量。まことに不思量底たとひふるくとも、さらにこれ如何思量なり。兀々地に思量なからんや、兀々地の向上なにによりてか通ぜざる。賎近の愚にあらずば、兀々地を問著する力量あるべし、思量あるべし。

詮慧

〇「思量の皮肉骨髄なるあり、不思量の皮肉骨髄なるあり」と云うは、此の詞不審なり。但世間の詞を超越しぬる時に、如此談ず。

〇「思量」と云うは、思量を置いて、不思量非思量と云う心地歟、世間に同ず。しからば不の字も似無詮思量の意識にあらざる事を知る時、皮肉骨髄となる。其の時は思量去らず捨てず、兀坐の面目は思量也。

坐禅の思量と世間の思量と各別なるべし。今仏道を談ぜんには、世間の詞不可用。但思量もあるべし、吾我とも云うべし、是は仏法の上の詞なるべし。

〇思量の非心意識道理よくよく可心得。『坐禅儀』に心意識の運転を止めと云う、此の心意識世間の心意識と聞こゆ。是を止めんと営むと心得ば、邪見也。又公案を疑いたる所が、いづくに就くと云う事なければ、疑いが禅の心にあたるべしと云うやからあり。大疑の下に大悟あり、などと 云う証據に引く、これまた非爾。坐禅すればやがて心意識を止むる也。此の時の心意識・思量・不思量・非思量と仕う故に、坐禅の上に心意識とも仕わんずるは、思量・不思量・非思量を以て可心得。然者不止とも止むとも云うべきにあらず。心意識という詞も、運転と云う詞も、能々心得べきを参学疎かなる時は、心意識の詞も、運転の詞も、日来存じつるが如く、心得て今此の証據に引く云われなきなり。凡そ祖師の言句を無理会語などと云いて、只疑えなどと云う、能々可思合事也。 不思量底を思量すとは、不悟大悟すと云い、悟上得悟の漢と云う程のことなり。

〇三世の不可得を教家に談ずるには、過去已去又見在不住、未来いまだきたらず、仍って不可得と云う義あり。亦三界唯心と云う三界を一心と談ずるには、三世あるべからずと、是までは教に談ず、宗門に談ずる所は心不可得と云う。三世は心に対してこそ云わるれ、心不可得と談ぜんには、三世あるべからず。又心に三世を建立せん時は、先に談ずる三世にあらず。過去心と談ずる時、見在に対するにあらず。去も不変異所なるが故に、見在心と談ずるとき過去・未来に対するに非ず、従無住法立一切法なるが故に。未来心と談ずる時、過去・見在に対するに非ず。今の坐禅の時節を、父母未生前の節目と云う故なり。三世の心を以て不思量と仕う。此の心地は三世をば、心なりと云えども、心には三世なき故なり。此の三世と云うは、世間に常に談ずる三世を指すなり。常の三世と云うは、我に対したるなり。我を離れたるを仏法と云うべし。

〇「思量」を皮肉骨髄と宗門には談ずべし。

〇什麽「思量の皮肉骨髄」と云わば、答うべし今の坐禅の面目これなりと。什麽「不思量の

皮肉骨髄」と云わば、答うべし今の坐禅の面目これなりと、什麽非思量の皮肉骨髄と云わば、答うべし今の坐禅の面目これなりと。

〇「不思量底たとひふるくとも」と云うは、不思量底を改めんとにもあらず。やがて不思量を置きて思量と仕う故に。ふるくともさらにこれ如何思量なりと云う。此の「ふるくとも」と云うは、古今に拘われぬ古さなり、全体の古きなり。

経豪

  • 「いわゆる思量箇不思量底なり」とは、この詞の旨を殊(に)被挙也。又思量と云う事は心意識に仰せて云う詞なり。皮肉骨髄は身に仰せて是を談ず。しかるに思量の皮肉骨髄とある詞、大いに不被心得。但今坐禅の姿をすでに思量と談ずる上は、坐禅の皮肉骨髄にてあるべきなり、今更非可驚。
  • 「不思量底たとひふるくとも」と云うは、不思量底はしばらく、さて置くと云う心地也。其れはさて置く、「更にこれ如何思量」と云う也、不思量底の道理はさて置く。「如何思量」と云うは、不思量と云うべきか、思量と云うべきかの道理を如何とは云う也。是れ則ち不思量にもあたり、思量にもあたり如何にもあたる也。
  • 実に争か「兀々地に思量なかるべき、兀々地の向上何によりてか通ぜざるべき、賎近の愚に非ずば」と云うは、今の仏祖の坐禅の儀に暗き人を指す歟。「兀々地を問著する力量あるべし思量あるべし」とは、仏祖の坐禅の理を参学する人を云う也。

 

大師いはく、非思量。いはゆる非思量を使用すること玲瓏なりといへども、不思量底を思量するには、かならず非思量をもちゐるなり。非思量にたれあり、たれ我を保任す。兀々地たとひ我なりとも、思量のみにあらず、兀々地を挙頭するなり。兀々地たとひ兀々地なりとも、兀々地いかでか兀々地を思量せん。しかあればすなはち、兀々地は仏量にあらず、法量にあらず、悟量にあらず、会量にあらざるなり。

詮慧

〇「非思量を使用するに玲瓏なりと云えども、不思量底思量するに、かならず非思量を用いる」と云うは、心不可得の上残る一法なけれども三世を置くように。

〇皆、思量・不思量・非思量、坐禅の面目一なれども、是等の詞あるべき故を云うなり。

〇「非思量にたれあり、たれ我を保任す」と云うは、非思量の外に誰あるべからずと云えども、不思量並(びに)思量を置く。思量・不思量を置くと云えども、ともに非思量の面目なるべき故に、誰我を保任すとは云う也。たとえば諸法を実相と云わんが如し、誰れ誰を保任す、我れ我を保任すと云わんが如し。不思量と思量とを誰とは指すなり。「誰我保任す」と云うは、非思量の我と、不思量との誰を合わせて保任するなり。

〇「兀々地たとひ我なりとも、思量のみにあらず、兀々地を挙頭す」と云うは、ただ兀々地ばかりを挙する心地也。坐禅の姿なり、坐禅(は)坐禅也とも思量のみにあらず。不思量も非思量もともに兀々地の面目なる故を挙ぐ故に挙頭すなりと云う也。たとえば実相すなわち実相と云わんが如し。「挙頭」と云うは、挙ぐと云う詞まり、頭の字は無別義なり。

〇「兀々地たとひ、兀々地いかでか兀々地を思量せん」と云うは、思量・不思量・非思量ふさねて、兀々地ならんには、いかでか兀々地と思量すべきと云う也。

〇「兀々地争か兀々地を思量せん」とは、兀々地ただ兀々地なるが故に、兀々地いかでか非思量せんとも、不思量せんとも云う也。思量のみには限らず。

〇塼を磨いて塼を得、鏡を磨いて鏡を得んと云わんが如し。

〇兀々地の思量は即兀々地也。故に思量と兀々地との面目を、如何はとは説くなり。如何と説く道理は兀々地が思量なる故なり。

〇又一方は教に談ずる量、無には非と云う心地一あれども、実には兀々地いかでか兀々地を思量せんと結しぬる時に、すべて思量・不思量・非思量いづれも必ず非可用、又非不可用と云う心とも聞こゆ。又一にはあらずと挙ぐる所がやがて、兀々地の量一にも可心得也。たとえば入の一字も不用得とは云えども、又入の一字如非棄也。

経豪

  • 「非思量を使用すること玲瓏なりと云えども」とは、非思量の玲瓏なる姿、透き通りて隔てなく、残物なしと云えども、不思量地も思量も皆、非思量と一なる故に、「必ず非思量を用いる也」とはある也と云う也。非思量・不思量地・思量、此の三不可有差別也。坐禅の姿を指す故に。
  • 「非思量にたれあり」と云うは、不思量地と思量との二をしばらく誰とは指すなり。「たれ我を保任す」とは、不思量地と思量とが非思量を保任する也。不思量地思量は誰にあたる、我と云うは非思量にあたる也。「兀々地たとひ我也とも、思量のみにあらず」と云うは、兀々地の時は、思量とは云わず只「兀々地を挙頭するなり」。
  • 兀々地の重なりたる事は、坐禅たとい坐禅也とも、坐禅争か坐禅を思量せんと云う詞也。坐禅究尽の道理如此云わるるなり。兀々地仏量法量等にあらざる条勿論事なり。

 

薬山かくのごとく単伝すること、すでに釈迦牟尼仏より直下三十六代なり。薬山より向上をたづぬるに、三十六代に釈迦牟尼仏あり。かくのごとく正伝せる、すでに思量箇不思量底あり。

〇如此「単伝する事すでに釈迦牟尼仏より直下三十六代」と云いて、末(すえ)に又如此「正伝せる、すでに思量箇不思量底」と云う。是は相伝の故ばかりを顕わす義ならば、先の単伝の詞に顕然也と云えども、重ねて正伝と云うは、直下は不思量也、不思量の向上は思量也。故に思量は釈迦牟尼仏、不思量は薬山と可心得也。直下向上思量不思量也と云えども、その上下の蹤跡は、直下も三十六代と算ればただ思量不思量と顕わるる也。向上も三十六代也、百尺竿頭上下する程の三十六代也。思量不思量を仏与薬山にあてて、三十六代をば置く也。思量箇不思量は、烈焔互天には仏説法、互天烈焔には法説仏と云う程の義也。

〇三十六代を非不可算、然而三十六代を差し置いて仏与薬山に相伝と云う義もあるべし。

〇以思量為釈迦牟尼仏と、以非思量可為薬山、以思量為薬山以非思量可為釈迦牟尼仏と不思量を思量すと云う事は、以不悟大悟すと云う程の事也。

経豪

  • 釈尊与薬山、向上向下の代々を挙す。是は次第次第に思量箇不思量底の正伝したる様に聞こゆ、出義もなかるべきにあらず。然而如此談ずれば、人与法各別なるように聞こゆ。釈尊には薬山蔵身し、薬山には釈尊蔵身す、この時はあまた代を重ぬなどと難算歟。又思量箇不思量底は釈尊与薬山あたるべきか、釈尊与薬山のあわい思量箇不思量底にあたるべき也。

 

しかあるに近年おろかなる杜撰いはく、功夫坐禅得胸襟無事了、便是平穏地也。この見解、なほ小乗の学者におよばず、人天乗よりも劣なり。いかでか学仏法の漢といはん。見在大宋国に恁麼の功夫人おほし、祖道の荒蕪かなしむべし。又一類の漢あり、坐禅辦道はこれ初心晩学の要機なり、かならずしも仏祖の行履にあらず。行亦禅坐亦禅、語黙動静体安然なり。ただいまの功夫のみにかかはることなかれ。臨済の余流と称するともがら、おほくこの見解なり。仏法の正命つたはれることおろそかなるによりて恁麼道するなり。なにかこれ初心、いづれか初心にあらざる、初心いづれのところにかおく。しるべし、学道のさだまれる参究には、坐禅辦道するなり。

詮慧

〇「便是平穏地也」と云うは、得胸襟無事了の上は善悪の法なし、故に平穏地とは云うなり。「行亦禅坐亦禅、語黙動静体安然」と云うは、已上二の詞は、上の便是平穏地也は、坐禅の時の意を指す。次の行亦禅等の詞は、必ずしも坐禅せずとも行住等皆禅也と云い、邪見を被出也。仍って共に可不用歟、もし是等の詞を蹔く許して心得、亦禅語黙動静等、皆仏法の上に置かん時は、此の行はありくとは不可心得。仏行也、仏行なる坐禅也。此の坐(は)今の坐禅也。只いたづらに坐するを禅也と云わず、坐禅なり。語黙動静又皆以仏威儀を指すなり。いたづらに衆生の語黙動静と不可思。「黙」と云うも仏の無言説程の事也。「動」も諸法を動じて実相と云う程の事也。「静」も実相を実相と云う程の事也。「語黙」と云うも、其の義非一とも云いつべし。然而是等の詞を被引く心は彼の邪見破せんがためなり。一向用いざらんよし。

〇意の止観、口の説黙、身の威儀などと立つ。身の威儀に付けて、常行常坐半行半坐三昧と云う。此の行とは心得まじ、この坐とは心得まじ。仏行仏坐遥かに異なり、事にわたりて分々あるなり。証を説くにも分証とて、一分二分わかつ。初地より十地までも、分々の証あるべし。この証は不可然也。

〇「なにかこれ初心いづれか初心にあらざる、初心いづれの所にか置く」と云うは、三界唯一心と談じぬる上は、初心後心置かれず、何所と分き難し。初発心時便成正覚と云う、これ初発心の時、正覚の功徳を具足すと云うと聞こゆ、然にはあらず。便成正覚は初発心の時也と云う也。

経豪

  • 如文。所詮胸の内に物なく、きらきらとある所を「便是平穏地也」と云う也。此の見解を如此被嫌なり。
  • 如文。「坐禅を初心晩学の要機と嫌いて、行も禅坐も禅、語黙動静体安然」と云う事を被嫌なり。是は坐許りにてもあるまじ。行も住も禅なれば、必ず坐して無其詮と云う心地を嫌うなり。況や又今の我等が行住坐臥等を指して如此云わんは、又弥沙汰の外事也。已下如文。
  • 此の詞は「坐禅は初心晩学の要機也」と云う詞を被釈なり。抑も初心とはいかなるを可云乎、法界唯心とも三界唯心とも談ぜん時の初心は、何の所に置くべきぞ。何か初心にあらざる、初心と談ぜん時は法界悉く初心なるべし。更に初心の置き所あるべからず。

 

その榜様の宗旨は、作仏をもとめざる行仏あり。行仏さらに作仏にあらざるがゆゑに、公案見成なり。身仏さらに作仏にあらず、籮籠打破すれば坐仏さらに作仏をさへず。正当恁麼のとき、千古万古、ともにもとよりほとけにいり魔にいるちからあり。進歩退歩、したしく溝にみち壑にみつ量あるなり。

詮慧

〇「入仏入魔の力あり」と云うも、坐禅也。仏祖を超越したるを入仏入魔と仕う、入之一字は不用得なるべし。

〇「進歩退歩」と云うは、進み退く歩み也。百尺の竿頭を進歩退歩する進退異なれども、百尺の上の事也。坐禅作仏と云うも、坐禅の一面の上に説く理、たとえば如此竿頭の上を歩むにはあらず。やがて竿頭を歩とするなり。此の道理に落居すべき也。

〇「溝にみち壑にみつ量」と云うは、入仏入魔と云う程の詞なり。所詮みちたる心也。

経豪

  • 今の坐禅「作仏を不求行仏あり、行仏更に非作仏」道理なるべし、作仏の公按見成也。行仏の公按現成なるべし。
  • 仏に成ると云えば、必ず先に身を差し出だすなり。身仏と云わん時は、一向身仏なるべし、身仏外に余仏あるべからず。身仏を作仏すと不可思。「籮籠打破」とは、今先に云う行仏作仏身仏等のくさぐさとある詞共を打破しつれば、坐仏さらに作仏すと云えども、さらにさえずと云うなり。所詮此の心地は至極解脱の理に至りぬれば、身が作仏すると云うも何と云う詞も、礙えぬなりと云う也。
  • 此の籮籠打破の正当恁麽の時は、仏に入り魔に入ると云い、魔も進も退も皆円満満足の義也。故に「溝にみち壑にみつ量あり」とは云う也。

 

江西大寂禅師、ちなみに南嶽大慧禅師に参学するに、密受心印よりこのかた、つねに坐禅す。南嶽あるとき大寂のところにゆきてとふ、大徳、坐禅図箇什麼。この問、しづかに功夫参究すべし。そのゆゑは、坐禅より向上にあるべき図のあるか、坐禅より格外に図すべき道のいまだしきか、すべて図すべからざるか。当時坐禅せるに、いかなる図か現成すると問著するか。審細に功夫すべし。

詮慧

〇「南嶽問、大徳坐禅図箇什麼」と云うは、この図は坐禅の図也。坐禅の向上にあるべきかと問う。この図格外に図すべき道の未だしきかと云うも、この図すべて、不可図歟と云うも、此の図、「当時坐禅にいかなる図か、見成すると」云うも、此の図箇什麼は、薬山の段に兀々地思量什麽と云う同じ詞也。図什麽なるが故に。

〇「格外」と云うは、内に対したる外にあらず。又たとえ内と説くとも、不可対外也。此の「外」字は坐禅の外也。但外と云うは坐禅を指すか、行仏をさすか。恁麽ならば坐禅作仏あいさること如何。坐禅の外とは向上程の事也。

〇「坐禅より向上にあるべき図のあるか、当時坐禅せるに、いかなる図か現成すると問著するか」と云う、此の歟々と云う詞の下に皆坐禅坐禅と云う答の詞を付けて可心得。非不審之歟也。

経豪

  • 此の「功夫参究すべし」と云う言も、不審なきにあらず。其の故は汝が坐禅しては何事を図るぞと、尋ぬる言あながちに、不審なるべしとも覚えぬを、此の問い能々功夫参学すべしとあり。知りぬ我等が心得たる問いの言にてなしと云う事を。
  • 此の「図箇什麼」の言を如此被釈也。打任図と云う言を心得るは、物を一置いてこれを捨つるぞ、是を図るぞなど云う。是はすでに坐禅を以て図と仕う上は、別の物に非ず、今の図は坐禅なるべし。図箇什麼の言、例の不審の詞にあらず、自坐禅向上に可有図のあるが、当時坐禅するにいかなる図か現成すると問著するかと云う言どもが、図箇什麼の言にはあたるなり。所詮是等皆坐禅の道理なるべし。

 

彫龍を愛するより、すすみて真龍を愛すべし。彫龍真龍ともに雲雨の能あること学習すべし。

詮慧

〇「彫龍真龍の雲雨の能を学すれば」ともに彫龍真龍二の面目がなくなるなり。但是は雲雨に付きたること也。又彫と真とを云うにも、雲雨の能あること前蹤あり。ともに雲雨の能ありと云えば、図箇什麼の図いづれも捨てざるが如く、彫も真も共に雲雨の能と取る也。所詮彫も真も善悪勝劣なしと可心得、三界の火宅を出ずとも云う、只三界を厭とも云う(二乗の不生を願うこれなり)。三界を一心とも体脱す、彫龍は未脱のとき真龍は解脱の時などとは扱うべからず。解脱与繋縛立て分けて際を置くまでは更に非正法。三界を一心とも諸法を実相とも云うこそ解脱真実の大乗の法なれ。

経豪

  • 是はあまりに龍を愛して絵にも書き、木にも作りていくらも龍を翫びけり。此の志に答えて真(まこと)の龍が現われたりける時、恐怖して走り去りぬ。是の喩えを今被引き出す也。これは坐禅与作仏のあわい(間)を此の真龍彫龍に被喩也。其の故は坐禅は今の作業、此の作業の力によりて成仏得道すと、打ち任せては心得也、今の坐禅非爾。坐禅作仏只差別不可有。坐禅をば彫龍に喩え作仏をば真龍に喩う。詮は彫龍も真龍も一なりと心得る仏祖相伝坐禅の道場なるべし。作仏を待たざる坐禅なるが故に、彫龍真龍共に雲雨の能あることを学習すべしと被決也。

 

遠を貴することなかれ、遠を賎することなかれ、遠に慣熟なるべし。近を賎することなかれ、近を貴することなかれ、近に慣熟なるべし。目をかろくすることなかれ、目をおもくすることなかれ。耳をおもくすることなかれ、耳をかろくすることなかれ、耳目をして聡明ならしむべし。

詮慧

〇耳目貴賎又以同尽十方界真実人体と談じ、尽十方界沙門一隻の眼などと云う程の耳目なるべし。いかさまにも声を耳にて聞き、境を眼に見んは世間の法なるべし。眼処聞声せんこそ仏道の習いと云わんも中(あた)るべからず。耳を眼に取り替えたらんばかりは無詮、吾我を離れて上の事なり。相対の法あるべからざる故に。

〇「目を軽くする事なかれ、耳を重くする事なかれ」と云うは、目をも耳をも可心得かたあり。古き詞には機見不同同聴異聞と云う詞あり、但異聞のみならず同聴不同とも云うべし。華厳の会には聞者不聞者斉肩、又見の不同と云うは仏にも四教の仏不同也。又大乗の学者と云う者も、還りては只応仏を執す。『法華経』の心地には仏不入滅。霊山には四衆に被囲繞て説法おわしますと云う。浅機のものは不用、力なき事也。梵網瓔珞の戒品を引いて大乗戒と云えども、説の詞は併ら小乗権門の心地なり、応仏を執するも是程の事也。

〇「耳目をして聡明ならしむべし」と云うは、三世諸仏立地聴法するぞ、今の聡明にてもある。

経豪

  • 遠は作仏にあたり、近は坐禅にあたるべきか。遠近共に作仏也坐禅也。何を貴し何を賎しむべき道理あるべからずと也。又「目をかろくする事なかれ、目をおもくする事なかれ」と云うは、世間にも千聞は一見にしかずとて目を重んずる事もあり、又一見より耳にて聞くこそ親しけれなどと云う義もあるが、是等皆一は捨てらるる道理あり。今の坐禅作仏のあわい総て一を用い、一を捨つると云う、勝劣取捨の義にあらず。故に一を重くし一を軽くする事不可有。坐禅も法界を尽くし、作仏も法界を尽くす。以此道理「耳目をして、聡明ならしむべし」とは云う也。

 

江西いはく、図作仏。この道、あきらめ達すべし。作仏と道取するは、いかにあるべきぞ。ほとけに作仏せらるゝを作仏と道取するか、ほとけを作仏するを作仏と道取するか、ほとけの一面出両面出するを作仏と道取するか。図作仏は脱落にして、脱落なる図作仏か。作仏たとひ万般なりとも、この図に葛藤しもてゆくを図作仏と道取するか。しるべし、大寂の道は、坐禅かならず図作仏なり、坐禅 かならず作仏の図なり。図は作仏より前なるべし、作仏より後なるべし、作仏の正当恁麼時なるべし。

詮慧

〇図は作仏大徳坐禅の図なり。図坐禅と云う詞の洩れたる様に聞こゆ、然而顕然なり。その故は図は作仏より前なるべし、後なるべし、正当恁麼時なるべしと云う。この前後並正当恁麼時皆禅也と可心得。先々の詞も、皆如此く説かるるを、参学眼未だしき時、禅の字のなき心地はあるなり。

〇打破と云う時は未打破あるべしと聞こゆ。「脱落」と云う時は未脱落あるべき心地あり。然而未打破未脱落の時刻は不可有。もし未打破未脱落を仕うべくは、打破脱落にかさみたる詞に仕うべし。未打破未脱落は前後正当恁麼時に拘わらぬ未打破未脱落なるべき故に。凡夫の見るには、未の字を置きつれば、未解脱時刻と思うは迷いなり。

〇「葛藤」と云う詞出で来ぬれば、依椅の心地なる、非爾。只葛藤しもてゆくとこそあれ、椅樹とも云わず、たとい依椅と心得る事ありとも、葛藤葛藤に依ると可心得也。

〇「図作仏は脱落にして、脱落なる図作仏か」と云うは、何事のいかにとて云う事のなき故に、図作仏は脱落にして、脱落なる図作仏とも云う也。世間には多く小乗の心地を控えて、三僧祇百大劫の修行にて、作仏するを信ず。例えば又一声一念の名号にて成仏すると心得るも、作仏の丈なるべし。又三界唯心は心を作仏するか、心に被作仏か但心外無別法と云う故に、仏の外に別の仏なからんには如此可心得。悟にさとらるるを被作仏にてあるべき。さればとて作仏せられぬ先は、何とありけるぞと覚る所を、仏を作仏するかとも云う也。「一面出両面出」と云うを聞いては、作仏せらるるぞ、作仏するぞなどと云うを両面と云いならんと心得、これも猶の来たる見なるべし。両面の両の字不用得也、ただ一仏出なるなり。

経豪

  • 江西南嶽に大徳坐禅図箇什麽と被問いて、図作仏と被答。是は無風情仏とならんずる事を図するぞと被答えたるように聞こゆ、非爾。此の図がやがて作仏にてある也。此の図作仏の道理が仏に作仏せらるるを、作仏と道取し、仏を作仏するを作仏と道取するやと云う、道理にてある也。又「仏の一面出両面出」と云うは、一仏二仏と云う言也、一仏二仏を道取するかと云う也。此の図作仏の道理が、是等の義にあたる也。坐禅作仏のあわい、如此親切なる道理なるべし。
  • 「図作仏は脱落、脱落は図作仏」、只同じ詞を打ち替えて云う也。是は坐禅作仏のあわい如此被云也。「作仏たとひ万般なりとも、この図に葛藤しもてゆく」とは作仏の道理あまたなりとも、只此図の道理也。此の道理は葛藤葛藤を纏う、坐禅坐禅を纏い、作仏作仏を纏うと云う道理也。図は作仏より前、作仏より後なりと云うも、只図作仏の上の前後なるべし。

 

且問すらくは、この一図、いくそばくの作仏を葛藤すとかせん。この葛藤、さらに葛藤をまつふべし。このとき、尽作仏の条々なる葛藤、かならず尽作仏の端的なる、みなともに条々の図なり。一図を迴避すべからず。一図を迴避するときは、喪身失命するなり。喪身失命するとき、一図の葛藤なり。

経豪

  • 「しばらく問すとて、此の一図不幾(いくそばく)の作仏を葛藤すとかせん」とは、此図が作仏なる時に此図に作仏せられぬ、作仏あるべからずと云う心地也。坐禅作仏のあわいを、葛藤葛藤を纏うと心得る上は、「作仏を葛藤すとかせん」の詞は、此の心にあたるべし。故に葛藤さらに葛藤を可纏と云い、尽作仏の条々なると云うは、、此の作仏の道理がともかくも被云心地なり。「尽作仏の端的なる」とは、此の作仏の道理なににもあたりたる心地也。故に皆共に条々の図なりとは云う也。
  • 此の一図の道理が或る時は不可回避とも云われ、或る時は回避すとも云わるる也。回避せざる時も、作仏回避するも作仏の道理なるべし。此の作仏を以て「喪身失命す」と云い、此の坐禅の道理を以て「喪身失命する時、一図の葛藤也」とは云うなり。尽十方界真実人体と回避するこそ喪身失命の至極なれ。

 

南嶽ときに一塼をとりて石上にあててとぐ。大寂つひにとふにいはく、師作什麼、まことに、たれかこれを磨塼とみざらん、たれかこれを磨塼とみん。しかあれども、磨塼はかくのごとく作什麼と問せられきたるなり。作什麼なるは、かならず磨塼なり。此土他界ことなりといふとも、磨塼いまだやまざる宗旨あるべし。自己の所見を自己の所見と決定せざるのみにあらず、万般の作業に参学すべき宗旨あることを一定するなり。しるべし、仏をみるに仏をしらず、会せざるがごとく、水をみるをもしらず、山をみるをもしらざるなり。眼前の法さらに通路あるべからずと倉卒なるは、仏学にあらざるなり。

詮慧

〇「南嶽ときに一塼を取りて石上にあててとぐ」、古仏心は牆壁瓦礫と云う。然者古仏心を磨すとも心得ぬべし、三界仏身と聞く。諸法を実相と云えば、三界を磨すとも心得べし、実相を磨すとも云いつべし。

〇「誰か磨塼と見ん」と云うは仏見にやくす。磨塼の始終に暗き故に「誰か磨塼と見ざらん」と云うは、衆生の見を指す。磨塼と見る故に但如此云わば、頗る非本意。仏法の談に衆生の見不可用也。故に見と云うも見ざらんと云うも共に仏見を談ずべし、誰か見ざらんと云う義、始終の本意也。道理に叶(わず)故に仏道には都て不見と云う事不可有。誰か見んと云うも又道理也。磨塼とは見ゆべからざる故に兀々坐とも、作仏とも坐仏とも見るべき故に、今は坐仏と見るべし、作鏡と見るべし。故に「たれか磨塼と見ん」とは説かるるなり。

〇「依経解義三世仏怨離経一字如同魔説と云う文を、悪しく凡夫の了見せんずる所を、云いならんとをとしゆるなり、是は一重の義非本意。仏の仇と云うも、世間の仇に心得合わすべからず。魔説と云うも、世間の魔にてなし。仇と云うも不悟至道すと談ずる不悟、又諸法仏法なる時節の迷、或る将錯就錯ほどのあやまりと可心得。若至既至不至などと云う分也。魔と云うは入仏入魔の魔、鬼窟裏などと云う鬼程に可心得。磨塼見不見に定まらば、作什麽とは云うべからず。

〇「誰か磨塼と見ざらん」と云う心は、磨塼の外誰なき故なり。誰か見んと云うは、誰なき故に不可見と云う心なり。此の二の義ある故に、作什麽と被云也。是によりて作什麽なるは必ず磨塼也と云う。

〇「万般の作業に参学すべし」とは、作業は作什麽の法を指すなり、いたづらに凡夫の作業には非ず。万般につきたる作業也。自己の所見の徒らなる所を顕わすに仏を見るに仏を知らず、水を見るをも不知、山を見るをも不知と云う也。

 

南嶽いはく、磨作鏡。この道旨あきらむべし。磨作鏡は、道理かならずあり。見成の公案あり、虚設なるべからず。塼はたとひ塼なりとも、鏡はたとひ鏡なりとも、磨の道理を力究するに、許多の榜様あることをしるべし。古鏡も明鏡も、磨塼より作鏡をうるなるべし、もし諸鏡は磨塼よりきたるとしらざれば、仏祖の道得なし、仏祖の開口なし、仏祖の出気を見聞せず。

詮慧

〇「南嶽云、磨作鏡この道旨あきらむべし」と云うは、磨作鏡と見たり。しかれば鏡を砥いで作鏡と心得るあたらざるにあらず。故に「塼はたとい塼也とも鏡はたとい鏡也」ともと云う、何れも磨の力究也。許多の榜様ありとも如此心得ぬれば、磨塼作鏡とも云うべし。坐禅はたとい坐禅也とも、作仏はたとい作仏也とも云う心なり。

経豪

  • 大寂に師作什麽と被問いて、南嶽磨作鏡と被答えたり。是は問いて鏡と成さん料りと被答る様に聞こゆ。塼は土くれを焼き固めたるもの、いたづら物なり。鏡は銅万像を写す宝なり。如此凡夫は思い付きたるによりて、塼と鏡とのあわい軽重となれり。今の磨作鏡の道理非爾。塼いかに説くとも、鏡と鏡と成るべからず、大略徒事也。是程の塼ならば又説かずとも鏡と成りなん旁不審也。但以鏡磨と仕う、以塼鏡と談ず。更に塼と鏡と別の物にあらず、坐禅作仏のあわいも如此なり。この道理ある故に、磨作鏡は道理必ずありとは云うなり。又見成の公案あり、「虚設なるべからず」とは云うなり。
  • 是は塼は塼にてもあれ、鏡は鏡にてもあれ。「磨の道理が力究するに、許多の榜様有る事をしるべし」とは、塼鏡をがしばらくさて置く。磨の道理を尽くすとき許多の品々あるなりと云う也。
  • 是は塼の道理を能々可参学心地也。。所詮塼はいたづらなる物、磨するは作業と思いつる自見を返々被嫌也、磨則坐禅、塼則坐禅なるが故に。

 

大寂いはく、磨塼豈得成鏡耶。まことに磨塼の鉄漢なる、他の力量をからざれども、磨塼は成鏡にあらず、成鏡たとひ聻なりとも、すみやかなるべし。

詮慧

〇「大寂云、磨塼豈得成鏡耶」と云うは、成鏡不可叶詞に似たれども、さにはあらず。磨塼と云う所にやがて成鏡の道理はある也。故に「磨塼の鉄漢なる、他の力量をからざれども」と云う。「磨塼は成鏡に非ず」と云うは、やがて成鏡なれば、磨塼にはあらずと云う也。故に「成鏡たとい聻なりとも、すみやかなるべし」と云う、すみやかなると云うは、これ磨塼に待たるる成鏡にあらざる故也。

〇所詮坐禅仏也と談ずる上は、塼が鏡に成らずと云うべからず。すでに牆壁瓦礫古仏心也と談ず。瓦仏心ならば、鏡に成さんと疑う所にあらず。磨塼作鏡の道理如此、磨塼は作鏡の図なり。

経豪

  • 前には磨塼作鏡と云われ、斯(ここ)には又「磨塼豈得成鏡耶」と云う。是相違の詞に聞きたれども、非相違義。其の故は此の磨作鏡の道理の上に、磨塼作鏡とも云われ、磨塼豈得成鏡耶とも云わるるなり。
  • 「磨塼の鉄漢なる」とは、磨塼の独立の姿歟。実に磨塼究尽の道理、他の力量をかるべきにあらず。「磨塼は不可成鏡」とは、例の磨塼成鏡は成鏡なるべき道理也。「成鏡たとい聻なりとも、すみやかなるべし」とは、塼を砥ぎて鏡と成すと云えども、強為して成すべきにあらず。塼がやがて鏡なる所を、聻也ともすみやかなるべしとも云う。

 

南嶽いはく、坐禅豈得作仏耶。あきらかにしりぬ、坐禅の作仏をまつにあらざる道理あり、作仏の坐禅にかかはれざる宗旨かくれず。

詮慧

〇「坐禅豈得作仏耶」と云うは、磨塼豈作仏せんや、菩提豈菩提ならんやなどと云わんが如し。坐禅豈得作仏やと云うは親切の義なり。

経豪

  • 坐禅豈得作仏耶」の詞は、坐禅与作仏あわいが如此云わるる也。坐禅与作仏至りて親しき時の理なり。坐禅とやせん、作仏を不待。坐禅なる故に如此被云也、故に「坐禅の作仏を待に非ざる道理あり。作仏の坐禅に拘われざる宗旨かくれず」とは云うなり。

 

大寂いはく、如何即是。いまの道取、ひとすぢに這頭の問著に相似せりといへども、那頭の即是をも問著するなり。たとへば、親友の親友に相見する時節をしるべし。われに親友なるはかれに親友なり。如何即是、すなはち一時の出現なり。

経豪

  • 是は南嶽は坐禅豈得作仏耶とて坐禅して、仏に成るを被不審たる詞を、いかなるか即是と大寂云いたる様に心得ぬべし非爾、努々非不審詞、いかなるも作仏と云う詞也、作仏ならぬ道理不可有。故に「這頭の問著に相似せり」とはある也。此の「如何即是」の詞が、又「那頭の即是をも問著する」道理なる也。
  • 此の「親友」とは坐禅与作仏の親しき所を親友とは云うなり。
  • 此の「如何即是」の詞が、只疑う詞にてはなくして、一時の現成公案となる也。此の「一時」と云うは、作仏の一時なるべし、無辺際の一時也。

 

南嶽いはく、如人駕車、車若不行、打車即是、打牛即是。しばらく車若不行といふは、いかならんかこれ車行、いかならんかこれ車不行。たとへば、水流は車行なるか、水不流は車行なるか。流は水の不行といふつべし、水の行は流にあらざるにもあるべきなり。しかあれば、車若不行の道を参究せんには、不行ありとも参ずべし、不行なしとも参ずべし、時なるべきがゆゑに。若不行の道、ひとへに不行と道取せるにあらず。打車即是、打牛即是といふ、打車もあり、打牛もあるべきか。打車と打牛とひとしかるべきか、ひとしからざるべきか。世間に打車の法なし、凡夫に打車の法なくとも、仏道に打車の法あることをしりぬ、参学の眼目なり。

詮慧

〇「南嶽云、如人駕車、車若不行」と云うは、人の車に駕すると云うは、『法華経』の大白牛車の心なり。是一乗なり世間の車にはあらず。

〇「車若不行」の若の字は、仏性の時節若至の若の如く可心得なり。仍って偏(ひとえ)に不行と道取するにあらずと心得るなり。不行の行は常の歩に不可準。山流水不流に習うべし。山の行は動ぜざるを行と云いつべし、水は流れざるを行と云いつべし。仏の行は流転を止めるを行とすれば、必ず(しも)行を行とすべからず。祖門の行は東西の馳走を止めて、端坐坐禅を行とす、車の行不行未だ知らざる所なり。

〇「人の車に駕す」と云う、人と車とは鏡与塼の如く也、人与車一二の論に不及也。車与牛又是も鏡与塼同程の義なり。故に「車を打つも是れ牛を打つも是也」と云うは、塼を砥ぎて鏡と成すと云う同程の義也。人与車牛と三を各別せば、坐禅作仏坐人の喩えになるべからざるが故也。

〇「不行ありとも参ずべし、なしとも参ずべし」と云うは、参学の参事也。「時なるが故に」と云うは、善悪は時也、時は善悪に非ずと云う心地也。時々随うが故に不行の有無は時に随うべきが故に。

〇「車の不行と云えばとて、行(ありく)べきか、ありかざるとは不可心得。車の全面始終を行と仕う時は行も行也、ありかざるも行也。車に不行を用いん時は、東西に馳走すとも不行なり。故に打車打牛は往かしめんが為にはあらず。

〇「車を打つ」と云う打と云う詞は、世間に打ち任せてなどと云う詞に習うべし。杖を以て物を打つとのみは心得まじ、牛を打つに等しからざる也。世間に牛を打つ法あれども、車を打つ法なし。仏道には車を打つ、牛を打つともにあり。然而世間に打つには異也、世間には打車法も、打牛法も如無。仏道には鞭打を不用、故に仏道の鞭打は異なるべし。世間の鞭とはふちとすはえとの事也。

〇「打車即是、打牛即是」は坐禅をや貴ぶべき作仏をや貴ぶべきと云わんが如し、車を打つは牛も可進と云いぬべし。張公喫酒李公醉と云う詞にも心得合すべし、又張公喫酒李公醉と不可云とも可心得合、自他なき故に。

坐禅の義を談ずるに薬山与僧問答あり、思量の義也。次(に)南嶽与江西有問答、図の詞也。次に磨塼成鏡の問答あり、次に「如人駕車」の詞あり。今坐禅の義に喩うるに、「人の車に駕する」と云う詞は、大徳坐禅図箇什麽にあたるべき歟、この義次第に可心得合也。先の義を以て思うには、坐禅必行也と不可定。「車若不行」の詞は、坐禅行ならず云い、一遍を挙ぐるか。「打車即是、打牛即是」の詞、坐仏作仏程の義也、如何即是等の詞也。故に打車も即是、打牛も即是なる道理也。磨塼も即是、成鏡も即是と云わんが如し。思量兀々地、非思量も兀々地、若行も坐禅、若不行も坐禅也。この故を葛藤すとも説くなり。

〇又車の下には無寸土とも可心得。車の行をもや判ずべからん、難一定。行の時は車も牛も行ずべし、不行の時は車も牛も不行也。故に「打車即是、打牛即是」と云う也。又大寂無対は、打車即是、打牛即是也。

経豪

  • 大寂の如何即是の言に付けて、南嶽今重ねて「如人駕車」の言を被示也。如何即是の言は、いかなるも作仏と云う心地に付けて、車牛行不行の言を重ねて示すに付けて、今大寂の如何即是の言に付いて被述也。実にもいかならんも、作仏なるべからんには車牛洩るべきにあらず。但如此草子、「車若不行いかならんかこれ車行、いかならんかこれ車不行」と能々心を付けて可参学也。世間に人の乗車の其の牛を懸けて、行うなどと心得んには、今仏祖所談の車牛には、大いに相違すべきなり。『法華経』三乗の車を設く、三乗の車の上に大白牛車を説く、是れ大いに我等が思いたる車に変わる。仏道の牛車、倉卒に不可心得是を被釈に。是は如文は「水流」は誠(に)車行にあたるべし、「水不流」は車不行にこそあたるべきに、水不流は車行也とあり、文の面不被心得様に見ゆ。但流をば行と心得、不流をば不行と心得、此の流不流凡見を謝せんが為とも心得つべし。其の上此の水流水不流、我々が眼前の法と不可心得。坐禅与作仏の面目を水流水不流共に車行とあり、是は流不流に拘わらず、車行車不行も只水流水不流程に心得べき也。流は水の不行と云いつべし。打ち任せて思うにはみな上より水は流るるを流と云い、車の行をば行と心得などとするを、仏法には水の流の上に不流の道理あり、不流なる上に流の道理あるべし。車の行不行の如此なる道理を云う也。又「車若不行道を参究するには、不行ありとも不行なしとも参ずべし」とは、行不行に拘わらぬ道理なるべし。「時なるべきが故に」とは、此の行不行と一時の公按現成するを、時なるべきが故にとは云うなり。
  • まことに不行の道を、偏に我等が不行と心得てはあたるべからず。「打車即是」と云う言にて我々が不行なるべからずと云う言は被心得ぬべし、仏道打車と云う言談すべきなり。打車は仏法の上に使う言、打牛世の常の我々が思い習わしたる打牛と不可心得。打車も打牛も只同言同心なるべし。

たとひ打車の法あることを学すとも、打牛と一等なるべからず、審細に功夫すべし。打牛の法たとひよのつねにありとも、仏道の打牛はさらにたづね參學すべし。水牯牛を打牛するか、鉄牛を打牛するか、泥牛を打牛するか。鞭打なるべきか、尽界打なるべきか、尽心打なるべきか、打迸髄なるべきか、拳頭打なるべきか。拳打拳あるべし、牛打牛あるべし。

経豪

  • 是は打牛は打牛、打車は打車なるべき所を「一等なるべからず」と云うなり。又此の道理の下には、打車打牛等なるべと云う道理も可有也如常。
  • 此の「水牯牛・鉄牛・泥牛」等の言、是は皆古き詞共を引き寄せて被書きたるなり。所詮水牯牛・鉄牛・泥牛などと云えば、何事ぞやと覚えたり。是は皆水牯牛も鉄牛も泥牛も仏と云う也。水牯牛打、鉄牛打、泥牛打とぞ云うべきを、皆牛牛の詞下に付けたるは聊か子細あるべし。其の故は只打の詞許りを付けて云えば、猶人ありて打つべきように、能所ありて聞こゆ。牛の字を面々に付ければ、能所を離れ、人ありて牛を打つと云う見解を離るる也。「鞭打なるべきか」とあり、是は世の常なる詞に聞こゆ。但此の車即是を打つべき、鞭はいかなるべきぞ。只法界を法界が打つ程の道理なり。仍って「尽界打(是は三界唯心の心の事なり)打迸髄なり(是は髄を以て打心なり)拳打拳あるべし」と云う。打ち任せたる打牛の心地に変わるべき条顕然なり。この落居する道理を決せらるるに「拳打拳、牛打牛」と云う此の道理なるべし。

 

大寂無対なる、いたづらに蹉過すべからず。塼引玉あり、回頭換面あり。この無対さらに攙奪すべからず。

詮慧

〇「拋塼引玉」と云うは、磨塼作鏡程の事也。磨塼と云えばとて賎しむるに非ず、引玉と云えばとて貴ぶに非ず。坐禅の身心脱落すると云うも、身心脱落すればやがて坐禅の体也。塼を投ぐるはやがて引玉の心地也。

〇「攙奪すべからず」と云うは、対すべき事のあるを「無対也」と心得ん、則ち是を攙奪と云うべき也。「攙奪すべからず」と云うは、無対なるべきを無対と是する故なり。

経豪

  • 南嶽の如人駕車の言の後、大寂無対なり。此の無対は至極此の南嶽の言を答えられたる無対と可心得。只徒らに云うべきを云わず、閉口したる無対にはあるべからず。故に「徒らに蹉過すべからず」と被云也。「拋塼引玉あり」とは、かわらをなげて玉を引くと云う因縁あり。「回頭換面」とは、かしらをめぐらして面に換う、と云う只同じ事也。所詮坐禅作仏、打車打牛の心のあわい、回頭換面程の心なり。「攙奪」とは、市にて商人が心もゆかぬ物をして買う事を云う、是非道なり。今の無対、僻事ならぬ心なり。

南嶽、又しめしていはく、汝学坐禅為学坐仏。この道取を参究して、まさに祖宗の要機を辦取すべし。いはゆる学坐禅の端的いかなりとしらざるに、学坐仏としりぬ。正嫡の児孫にあらずよりは、いかでか学坐禅の学坐仏なると道取せん。まことにしるべし、初心の坐禅は最初の坐禅なり、最初の坐禅は最初の坐仏なり。

詮慧

〇「南嶽示日、汝為学坐禅・為学坐仏」是は坐禅がやがて坐仏なる道理を述べられたり。

〇すべて四威儀は皆仏が、何ぞ必ずしも坐を本とするやと云う疑いありぬべきを、四威儀の中に坐はこれ大安楽の法也などと云う事はあたらざる詞也。仏法には善悪勝劣を立て、能所彼此の差別なし、いかでか四威儀の内に勝劣あるべき。坐禅坐仏なりと云う時、此の凡夫の思うが如くの、行住坐臥にはあらねば、無限の坐臥と云う也。

経豪

  • 是は無殊子細、如文。坐禅は作業とのみ思之、しかるに坐禅を坐仏と知る事を、正嫡の児孫に非ばと云わるるなり。

この草子に初心晩学の要機とて、坐禅必ず(しも)不可用などと云う人もあり。此の邪見なる様を被出なり、初心と云う詞を被嫌なり。坐禅に初心後心あるべからず、縦い初心後心あるべくとも坐禅の上の初心後心なるべし、前後に不可拘也。

 

坐禅を道取するにいはく、若学坐禅禅非坐臥。 いまいふところは、坐禅坐禅なり、坐臥にあらず。坐臥にあらずと単伝するよりこのかた、無限の坐臥は自己なり。なんぞ親疎の命脈をたづねん、いかでか迷悟を論ぜん、たれか智断をもとめん。

詮慧

〇「若学坐禅々非坐臥」と云うは、此の禅は坐禅の禅なるが故に坐臥にあらず、この坐臥は世間の坐臥の故に坐禅の禅にあらず。坐禅は坐臥にあらずと単伝するよりこのかた、無限の坐臥は自己也。此の「無限の坐臥」と云うは、仏法の上の坐臥なり。故に無親疎・無迷悟・無智断也(これ父母未生の心地なり)。坐禅の坐臥にあらず処得ぬ先には、無限の坐臥あらわれざるが如し。「若学坐禅禅非坐臥」と云う、いま坐禅にあらずと云えば悪しき坐の、また別にあるにはあらざるべし、やがて非定相仏と心得る也。今の坐禅は戒光の如しと可心得。其の故は、戒光口より出づ、縁あり因なきにあらず。青黄赤白黒に非ず、非色非身非有非無非因果と云う。これ縁ぞ因ぞ、青黄赤白色身有無を劣にして嫌い捨つるをあらずと仕うにてはなし。戒光をやがて、縁とも因とも青黄赤白色身有無とも仕うべきなり。「無限の坐臥」と云うは、世間の坐臥を離れたるを無限と云う也。「自己也」と云うは、この自己は坐禅の自己也。「坐臥無限なるが故に。なんぞ親疎の命脈を尋ねん」と云うは、無限の坐禅坐禅の自己となりぬる上は、親疎の命脈すべて尋ぬべからずとなり。「智断をもとめん」と云うは、智慧を発して煩悩を断ずる事也。今の坐禅には智断をもとめずと也。

経豪

  • 是は坐禅と談ぜば一向坐禅なるべし、坐禅の外に坐臥と云う事不可有。あまりに坐禅の道理の外に、余物交わらぬ所をせめても云わん料りなり。「無限の坐臥は自己なり」とは、坐臥なるべくは坐臥の脱落、無限の坐臥と云われぬべし。然者我等が思い付きたる行住坐臥の臥にあらず。此の自己は無限の坐臥を自己と指すなり。実に此の無限の坐臥の上は、「親疎の命脈、迷悟、智断」の義不可有。又此の草子の初めに、行亦禅坐亦禅語黙動静安然と云う、此の行も坐も禅も無限と心得るは、今の道理に不可違。

 

南嶽いはく、若学坐仏、仏非定相。 いはゆる道取を道取せんには恁麼なり。坐仏の一仏二仏のごとくなるは、非定相を荘厳とせるによりてなり。いま仏非定相と道取するは、仏相を道取するなり。非定相仏なるがゆゑに、坐仏さらに迴避しがたきなり。しかあればすなはち、仏非定相の荘厳なるゆゑに、若学坐禅すなはち坐仏なり。たれか無住法におきて、ほとけにあらずと取捨し、ほとけなりと取捨せん。取捨さきより脱落せるによりて坐仏なるなり。

詮慧

〇「若学坐仏、仏非定相」とは、この仏非定相はたとえば、若学大海と云わば不宿死屍と云わんが如く、坐禅を学するは仏非定相と云わるるなり。

坐禅の禅は定なるべし。故に坐禅を坐仏と云う時は、仏は定と聞こゆる故に、仏必ず定にあらざる所を顕わさん為に、仏非定相と云う。たとえば四句の不同を云うに、有門(三蔵教)、無門(通教)、亦有亦空(円教)と立つるを、今は有も無も非有非空も皆仏と取る、これ有仏無仏、亦有亦空仏、非有非空仏と云わんが如し。「非定相仏」と云うは、仏にあらずと心得れば当たらざるなり、ただ非定相仏なり、仏の名と可心得。「定」と云うをば禅定とのみ人は心得、禅定は外道も修す。天上にも四禅と談ず、是等の禅は今の禅にあらざるべし。

〇従無住法立一切法という事あり。道場を不立して威儀を法界に徧すなどと云う、これを法界定と云うべき歟(仏の定なり)。大方は懺悔を説くに、一切業障海皆従妄想生と云う(普賢経文)。この文を云うに一切の業障は妄想より生ずと云う。妄想は又いづくより生ずるぞと云うを、実相を尋ぬるに諸法実相と体脱する時に、実相より先の本あるべ可らず。ただ実相也、実相は唯仏与仏也、坐禅これ也。実相は端坐、端坐は坐仏也。又端坐思実相と云えばとて、実相の外に思いを置く事不可有。欲知仏性義と云えばとて、仏性の外に欲の字も知の字も置く事なき也。実相と説く時、唯仏与仏乃能究尽と云えば、仏の実相と云う事をば知りて衆生は不可叶様に覚ゆ、非爾。諸法実相と云う時に、実相より外に衆生も不可有、凡夫外道ももあるべ可らざれば、唯仏与仏のみ也と云うなり。

〇「一仏二仏」と云うは、已前に仏の一面出両面出と云いし、程の事也。何を一仏と云い、何を二仏と云うには非ず。全体仏の事也、千仏万仏とも云うべし。

経豪

  • 此の詞は「仏非定相」の非を打ち任せたる是非の非に心得る邪見なり。坐仏の仏は定まれる相なしと心得ん、僻見也、坐仏与非定相を一仏二仏と云う歟。今の「非定相を荘厳とせるによりて」と云えばとて、打ち任せたる仏の天蓋・瓔珞・宝冠などの様なる荘厳と云うにはあらず。唯非定相と云う仏のあるべきを、坐仏と非定相とを一仏二仏とは云う也。故に「仏非定相と道取するは、仏相を道取するなり」とは云うなり。
  • 前段には唯非定相と許りあり。ここには已非定相仏なるが故にとある時に、非定相が仏なる条、顕然に聞こゆ。非定相仏と云う道理にて、行仏とも殺仏とも、無尽に云わるべき道理ある故に、「坐仏も迴避すべからず」と云わるる也。実(に)なにとしてか、坐仏が此理に洩るべき勿論事也。又前段には坐禅の上に非定相を荘厳とし、今は「仏非定相の荘厳」を坐禅の荘厳とせり。打ち替えたれども只同心なるべし。是は南嶽の詞に、於無住法不応取捨の詞の釈なり。実(に)於無住法の時節、誰ありて仏也とも仏に非ずとも取捨せん、さらに取捨すべき人なし。「取捨さきより脱落せり」とは、今の取捨と云うも脱落の上の取捨なるべし、故に如此云也。

 

南嶽いはく、汝若坐仏、即是殺仏。いはゆるさらに坐仏を参究するに、殺仏の功徳あり。坐仏の正当恁麼時は殺仏なり。殺仏の相好光明は、たづねんとするにかならず坐仏なるべし。殺の言、たとひ凡夫のことばにひとしくとも、ひとへに凡夫と同ずべからず。また坐仏の殺仏なるは有什麼形段と参究すべし。仏功徳すでに殺仏なるを拈挙して、われらが殺人未殺人をも参学すべし。

詮慧

〇「汝若坐仏、即是殺仏」と云うは、坐すれば仏也。仏を待つに非ず、故に殺仏也。磨塼作鏡の詞に作りて見るに、坐仏磨塼なり。磨塼せられて鏡となるべ可らず、やがて磨塼作鏡也。故に坐すれば仏は殺さる也、更に作仏を待たざる故に。

〇「殺」と云う事、物の終わりに付けて云う。又殺は生命不殺などと云う時に罪障に付けたり、但仏法修行の上には不然。生死輪転の命を止めれば是をも殺と仕うべし。仏は無明塵沙の父母を云うべし殺すとも云うべし、仏は入涅槃し御わすこれも殺の心なるべきか、又涅槃と云うにもまちまちなるべし。二乗の涅槃はまだ可生業のなきを涅槃と云う。凡夫の方には死と云う、外道は断とす、大乗の涅槃は生死の二を解脱す。以三界唯心とするこれぞ、仏の涅槃なるべき不可似世間死。殺仏と云う事始めて聞く(は)驚きに似たれども、即心是仏と云う時、又非心非仏と云うこれ殺仏也、珍しからぬ事也。たとえば一方を証すれば一方は暗しと云うも、是程の事にてこそあれ、仏は衆生を殺し、衆生は仏を殺すとも云いつべし。此の義は実に謂あり、然而今坐禅に向かいて坐禅すれば、則ち殺仏と云う詞が何につつきたりとも聞こえぬ様に覚ゆ。如何、答日此義は猶愛惜棄嫌の心地なり。これ仏与衆生を能所と心得歟。ただ仏は仏を殺、衆生衆生を殺すと云うべし。その時は坐禅・坐仏・殺仏などと分くべからずと云々。

〇「有什麼形段」と云うは、この形段三界唯一心也、唯有一乗法なり。

〇「殺人未殺人」と云うは、いま人を殺すと云う、人は坐禅人なり。坐禅すれば坐仏なる故に、人を重ぬべからず。この時、人を殺すと云う。未殺人と云うは、坐禅人と云わん時、人現前する故に、未殺人と云う。坐人の時は殺仏也。未殺人とは、一心即三界なりと云わん、未殺人なるべし。たとえば殺未殺の相違、三界唯一心と、一心即三界と程の替わり也。

経豪

  • 「坐仏即是殺仏」の詞、大いに驚耳目様に聞こゆ。但仏は更に殺を受け給うべからず。五逆の罪の中にも出仏身血罪なり、殺仏と云う事名目より不可有。仏在世にも仏を奉殺とせしかども、終に不叶。提婆達多磐石を投じたりしに、石のかけら仏の御足にあたりて、血たりたりし事ありき。是則ち達多が五逆の内の髄一也。今の「殺仏」の詞は、坐禅の姿を殺仏と仕うなり。坐の外に又物なき道理が殺仏と云わるる也、至りて坐禅の親切なる道理が殺仏と云わるるなり。故に「坐仏の正当恁麼時は殺仏也」とも云う。「殺仏の相好光明は、尋ねんとするにかならず坐仏なるべし」とも云う也。
  • 実(に)「殺」の言、凡夫の殺と争か同ずべき勿論也。「又坐仏の殺仏なるは有什麼形段と参究すべし」とあり。此の有什麼形段とある詞、やがて坐仏なるべし、殺仏なるべきか、此の道理が有什麼形段と云わるる也。何(れの)義にもあたるべき形段也。
  • 是は此の「殺仏の道理を拈挙して、我等が殺人未殺人をも可参学」云々、如文可得意。今の我等が坐禅の姿こそ殺人の至極なる、坐禅の外余人なき故に。

 

執坐相、非達其理。 いはゆる執坐相とは、坐相を捨し、坐相を触するなり。この道理は、すでに坐仏するには、不執坐相なることえざるなり。不執坐相なることえざるがゆゑに、執坐相はたとひ玲瓏なりとも、非達其理なるべし。恁麼の功夫を脱落身心といふ。

詮慧

〇「若執坐相、非達其理」(この執の詞不可嫌、不悟至道の悟なるべし、非達の非なるべし)、所詮執坐相を以て坐禅と説く、非達其理を以て坐仏の荘厳とすべきが故に、今の執は執心・執着などと云う同じ文字なり。但殺は執に当たる非達は今の未殺人に当たる。所詮一方にあつべくは、殺人ただやがて未殺人なり。非達は又達と体脱すべきなり、此の執を捨するにも可仕、触するにも可仕。

〇「不執坐相」と云うは、執坐相を嫌うに似たれども、「不執坐相なることを得ざるゆえにと説く、故に執坐相たとい玲瓏也とも」云わるる也。「非達其理」の詞は、其理に達せずと聞こゆれば、達其理は取るべきに似たれども、是又しかあらず。「非達其理」と云うは、執坐相玲瓏なるに可達。いまだ達せざるが故に、非達其理と云うにあらず。たとい玲瓏なる執坐相なりとも、執坐相を嫌いて非達其理と云うには非ず。たとえば坐仏ひとつ頭に非達其理とも云わんが如し、達其理とも云わんが如し。非達其理とも云わん、仮令ば大悟底人・不悟底人などと云わんが如し、すべて嫌うべきなし。非達其理とて劣になさんは執坐相にてあるべき也。

〇南嶽問答能々可了見。汝為学坐禅・為学坐仏と云う、是は坐禅がやがて坐仏なる道理を述べらる。若学坐禅・禅非坐臥と云う、是は坐臥とは心得まじ、坐臥の自己即坐仏なる故に。若学坐仏・仏非定相と云う、是は定相を嫌うにあらず、やがて非定相仏也。汝若坐仏・即是殺仏と云う、是は坐禅すれば殺仏なる義なり。若執坐相・非達其理と云う、是は執坐相を嫌いて非達其理と云うにはあらず、達其理も非達も同じかるべし。

経豪

  • 此の「若執坐相、非達其理」の詞は被嫌たる詞かと聞こゆ。更非其義、次文に聞こえたり。
  • 抑も「坐相を執す」とは何物かありて可成執乎。非定相仏を是非の非にはあらずと云うが如し。今は「不執坐相なる事、えざるが故に、執坐相はたとい玲瓏也とも、非達其理なるべし」とは、執坐相が透き通りて隠るる所なくとも、非達其理なるべしと也。執坐相の姿が非達其理なる也、人を置きて其理に達ぞ不達ぞと云うにはあらず。

 

いまだかつて坐せざるものにこの道のあるにあらず。打坐時にあり、打坐人にあり、打坐仏にあり、学坐仏にあり。ただ人の坐臥する坐の、この打坐仏なるにあらず。人坐のおのづから坐仏仏坐に相似なりといへども、人作仏あり、作仏人あるがごとし。作仏人ありといへども、一切人は作仏にあらず、ほとけは一切人にあらず。一切仏は一切人のみにあらざるがゆゑに、人かならず仏にあらず、仏かならず人にあらず。坐仏もかくのごとし。

詮慧

〇「坐仏・仏坐に相似也と雖も」と云うは、人作仏・作仏人と云う事を相対したる訓なり、たとえば磨塼作鏡の如し。「人作仏」と云えばとて、人が仏になるとは不可心得。やがて人が作仏にてある也。

〇「一切人は作仏にあらず、仏は一切人にあらず」と云うは、作鏡磨塼の如し。是は仏与人勝劣を判ずるにてはなし。執坐相は作仏を待たずと云うが、執坐相にてある也。坐を執して作を待たざる故に、其理の外の人なければ、達ぞ不達ぞと云うべきなし。

経豪

  • 是如文。実(に)今の坐禅の理に洩るるもの不可有。然而坐せざる者には実(に)此道あるべからず。打坐時・打坐人・打坐仏・学坐仏等の上の道理あるべしと也。
  • 是は「人の坐臥する坐」と云うは、打ち任せたる人の坐を云うなり。此の坐は「打坐仏なるに非ず」と被嫌也、非坐仏故也。「人坐のおのづから坐仏仏坐に相似也と云えども、人作仏あり、作仏人あるが如し」と云うは、坐の姿は似たれども、此の道理を参学する人に取りてこそ、「作仏人・人作仏」とは云わるれと云う心也。此の理を得ずして、只いたづらに坐する人の上には実にも「一切人は作仏にあらず」と云わるべき也。「仏は一切人にあらず、一切仏は一切人のみにあらざるがゆえに」とは、仏は仏・人は人の心地也。「人かならず仏にあらず、仏かならず人にあらず」と如前云、但如此云えばとて、一向非すべきにあらず。人が仏・仏が人と云う道理、又此の下には有るべき也。

 

南嶽江西の師勝資強、かくのごとし。坐仏の作仏を証する、江西これなり。作仏のために坐仏をしめす、南嶽これなり。南嶽の会に恁麼の功夫あり、薬山の会に向来の道取あり。しるべし、仏々祖々の要機とせるは、これ坐仏なりといふことを。すでに仏々祖々とあるは、この要機を使用せり。いまだしきは夢也未見在なるのみなり。

詮慧

〇「薬山の会に向来の道取あり」と云うは思量・不思量・非思量事也。

経豪

  • 是は如文。「坐仏を作仏と証するは、江西作仏を坐仏と示す南嶽是也」云々、只同事を打ち返られたり。抑も又南嶽江西は祖師にて、此の詞を被示と可心得歟。今の南嶽与江西のあわい坐仏なるべし、如此可心得なり。
  • 「恁麼の功夫」とは南嶽の詞を指し、「薬山の会」とは、最初の兀々地思量・什麽思量箇不思量底等を指す也。是以下詞如文。仏祖の光明に照臨せらるると云うは、此の坐禅を光明と云う也。日月珠火等の光を光明と不可心得也。

 

おほよそ西天東地に仏法つたはるゝといふは、かならず坐仏のつたはるゝなり。それ要機なるによりてなり。仏法つたはれざるには坐禅つたはれず、嫡々相承せるはこの坐禅の宗旨のみなり。この宗旨いまだ単伝せざるは仏祖にあらざるなり。この一法あきらめざれば万法あきらめざるなり、万行あきらめざるなり。法々あきらめざらんは明眼といふべからず、得道にあらず。いかでか仏祖の今古ならん。こゝをもて、仏祖かならず坐禅を単伝すると一定すべし。仏祖の光明に照臨せらるゝといふは、この坐禅功夫参究するなり。おろかなるともがらは、仏光明をあやまりて、日月の光明ごとく、珠火の光燿のごとくあらんずるとおもふ。日月の光耀は、わづかにこれ六道輪廻の業相なり、さらに仏光明に比すべからず。仏光明といふは、一句を受持聴聞し、一法を保任護持し、坐禅を単伝するなり。光明にてらさるるにおよばざれば、この保任なし、この信受なきなり。しかあればすなはち、古来なりといへども、坐禅坐禅なりとしれるすくなし。いま現在大宋国の諸山に、甲刹の主人とあるもの、坐禅をしらず、学せざるおほし。あきらめしれるありといへども、すくなし。諸寺にもとより坐禅の時節さだまれり。住持より諸僧ともに坐禅するを本分の事とせり、学者を勧誘するにも坐禅をすすむ。しかあれども、しれる住持人はまれなり。このゆゑに、古来より近代にいたるまで、坐禅銘を記せる老宿一両位あり、坐禅儀を撰せる老宿一両位あり。坐禅箴を記せる老宿一両位あるなかに、坐禅銘、ともにとるべきところなし、坐禅儀、いまだその行履にくらし。坐禅をしらず、坐禅を単伝せざるともがらの記せるところなり。景徳伝灯録にある坐禅箴、および嘉泰普灯録にあるところの坐禅銘等なり。あはれむべし、十方の叢林に経歴して一生をすごすといへども、一坐の功夫あらざることを。打坐すでになんぢにあらず、功夫さらにおのれと相見せざることを。これ坐禅のおのれが身心をきらふにあらず、真箇の功夫をこころざさず、倉卒に迷醉せるによりてなり。かれらが所集は、ただ還源返本の様子なり、いたづらに息慮凝寂の経営なり。観練薫修の階級におよばず、十地等覚の見解におよばず、いかでか仏々祖々の坐禅を単伝せん。宋朝の録者あやまりて録せるなり、晩学すててみるべからず。

詮慧

〇「還源返本の様子」と云うは(本流逆流と云う事あり)流転を返心なり、還作衆生と談ずる義あり。「息慮凝寂の経営」と云うは、小乗に談ず胸襟無事了程の事也(般若には仏果空と云う事もあり)。

〇「十地等覚の見解に不及、いかでか仏々祖々の坐禅を単伝せん」と云うは、息慮凝寂の詞を世間の禅僧と云うだけ、「観練薫修の階級、十地等覚の見解に不及」。但今の坐禅の心地には又観練薫修の階級、十地等覚の見解も不可及也。故は十地の菩薩を立てる時同じ、十地の菩薩ながら、初地菩薩は二地の菩薩の挙足下足を不知と云う、況や仏祖の坐禅をや。但等覚の菩薩等をいたづらに探るにあらず。我が祖門の義にあらざる所を挙げて知らんやと云う也。十地等は地々の階級を連ねて妙覚の位を待つ、無明の悪の不断あり、法性の現れざるあり。祖門には行不待、証々不待行。位の浅深を不立ゆえに、これを超仏超祖の談と名づく、仏向上の事と云う。

経豪

  • 是等は皆不可用と被嫌也。
  • 是は彼等が所集とは、右に所出之坐禅銘・坐禅儀・坐禅箴等、伝灯普灯両録に所載の事也。彼所集の心地は六塵の妄を止みぬれば、息慮凝寂坦然として還源返本する也と云えり、此の心地を被嫌也。仏祖の坐禅非爾、実にも録は俗の録する也。然者録も強ち不可決定事歟。

 

坐禅箴は、大宋国慶元府太白名山天童景徳寺、宏智禅師正覚和尚の撰せるのみ、仏祖なり、坐禅箴なり、道得是なり。ひとり法界の表裏に光明なり、古今の仏祖に仏祖なり。前仏後仏この箴に箴せられもてゆき、今祖古祖この箴より現成するなり。かの坐禅箴は、すなはちこれなり。

経豪

  • 已下如文。只宏智の坐禅箴を被讃嘆なり。

 

 坐 禅 箴           勅謚宏智禅師 正覚 撰

仏々要機、祖々機要。不触事而知、不対縁而照。不触事而知、其知自微。不対縁而照、其照自妙。其知自微、曾無分別之思、 其照自妙、曾無毫忽之兆、 曾無分別之思、其知無偶而奇。曾無毫忽之兆、其照無取而了。水清徹底兮、魚行遲々。空闊莫涯兮、鳥飛杳々。いはゆる坐禅箴の箴は、大用現前なり、声色向上威儀なり、父母未生前の節目なり。莫謗仏祖好なり、未免喪身失命なり、頭長三尺頸長二寸なり。仏々要機。仏々はかならず仏々を要機とせる、その要機現成せり、これ坐禅なり。祖々機要。先師無此語なり。この道理これ祖々なり。法伝衣伝あり。おほよそ回頭換面の面々、これ仏々の要機なり。換面回頭の頭々、これ祖々の機要なり。

詮慧

〇「宏智禅師坐禅箴」、この箴を「大用現前」と云う。此の大用は大の外に用をもちいるにあらず、大がやがて用にてあるなり。又「大用」と云うは、やがて坐禅の用を指すなり。「現前」と云う、又やが」て現わるる所を指すなり。「用」と云う事、教にも談ず。但其れは大小用を立てて日月の光は大用、星辰の光は小用などと云う。今の義には異なり。

〇「莫謗仏祖好」と云うは、別の謗の詞あるべきにはあらず。ただ坐禅の時節は莫謗仏祖好と云わるるなり。好は善しと云う也。

〇「未免喪身失命」と云うは、坐禅人は必ず喪身失命すると心得る也。その故は坐禅すれば日来の身心脱落する故に、喪身失命する也。

坐禅すでに坐仏也。人間界にあるべき事にて坐禅はなき故に。たとい声色と云うとも、向上の声色なるべし。日来の見に不可準、父母未生前と云う謂われたり、人間界を離れたる坐禅なる故に。莫謗仏祖好と云う、又其の謂いあり。今の坐禅仏祖を謗ずることなき故に、莫謗なる所を好と云う善きなり。「未免喪身失命」と云う、坐禅坐仏なれば喪身失命すと也。「頭長三尺頸長二寸」と云う、これ又かかる物のあるべきにあらず。今の坐禅人が世間の凡夫に異なる所を云う時、如此云わるるなり。但又頭と云うも、頸と云うも、世間の人体に相対して云う時こそ驚け、かかる人のある世界もあらば、其の国の人は驚くべからず。又三尺と云うも、二寸と云うも、世間の丈尺と不可心得。もし尺よりは寸は長しと知る習いもあらば、あながちに不可驚。

〇「仏々祖々」の間(あわい)は、要機・機要の替わり程也。仏は仏を要機とする也、要機の現成は坐禅也、坐禅は坐仏也。要機・機要は烈焔互天の心地也、この機は、やがて仏を機とは取るなり。

〇機は可発を以て機とすと云う。物の起こるを始めをこそ、機とは取るを、今の要機は仏の機を仏なりと云う。時に可発とも不可云、これ作仏を不待ゆえなり。「祖々機要」と云う機と要と前後し、各別すべきならねば機要とも要機とも云うなり。

〇「先師無語」と云うは、今の坐禅と云う事が師の教えに依りてすることにてはなし、故に師の語なしとは云うなり。仏法を説き法仏を説くと云う程の義なり。

〇「法伝衣伝」と云うは、人の伝えるにてはなし、法が伝え衣が伝える也。是は打ち任せては伝法伝衣と云うを打ち替えて、法と伝と能所なき所を、法伝衣伝と云うなるべし。

経豪

  • 坐禅箴の箴」の心地は如右註。「用」と云うは水体を置きてあたたかなるは用也と云う、今の用非爾。今の用は以坐禅為用故「大用現前」と云う也。「声色向上威儀」と云えばとて、声色の上に又別の威儀あるべしと云わず、やがて声色を以て向上の威儀と取るべし。「父母未生前の節目」と云うは全生の姿是也、則ち今の坐禅の姿(が)父母未生前なるべし。「莫謗仏祖好」も坐禅の姿を指すなり。「未免喪身失命」今の坐禅こそ喪身失命なれ。「頭長三尺頸長二寸」などと云えば、さる異形なる者の有らんずる様に聞こゆ、非其義。今の坐禅の上の頭長何程なるべきぞ。三尺二寸の詞、非尺寸。無縫塔の高さ七尺八尺と云い、世界の広さ一丈などと云いし程の丈尺なり。凡見の寸尺に不拘尺寸道理なり。
  • 「機」は可発の義也と云う。「機」と云うは仏に成るべき機を置きて、此の機(は)万行万善を修すれば成仏すと心得也。祖門に機を談ずるにはやがて以仏為機也。故(に)「仏々は仏々を要機とせり」とはある也。其の要機又坐禅なりと云う也。
  • 三世諸仏六代祖師不云詞ありとて、如三世諸仏説法之儀式、我今亦如是説無分別法と先師被仰、此文正しき経文也。今御詞大いに不審に聞こゆ。然而先師被出此詞時は、三世諸仏六代祖師等皆先師に蔵身す、故に此道理あり、以此謂先師無此語と被云也。先師祖師等の詞も道理の響く所にてこそ此の道理は被云うとも、今宏智の此の詞出で来る時は、先師無此語の道理現前する也。「法伝衣伝あり」と云々、先師無此語の道理に同じ也。
  • 是は回頭換面、換面回頭(は)只同事也。打ち替えたる許り也。仏々要機、祖々機要は、只回頭換面、換面回頭程の理也と云う也。只同事也。

 

不触事而知。知は覚知にあらず、覚知は小量なり。了知の知にあらず、了知は造作なり。かるがゆゑに、知は不触事なり、不触事は知なり。遍知と度量すべからず、自知と局量すべからず。その不触事といふは、明頭来明頭打、暗頭来暗頭打なり、坐破嬢生皮なり。

詮慧

〇「不触事而知」と云うは、仏の正遍知也。「知は不触事也、不触事は知也」と各打ち替えて云わねば、不触事が猶各別なるように聞こゆ。知をやがて不触とは可心得也。此の「不触事而知」を達磨宗の如く、談ずるには了々常知と談じて、境に拘わらざる知也と云う。境に拘わらざると云うは、白と知り黒と知る於境雖有黒白、知の体は一也。故に此の知境に拘わらずと云う、今はしかにはあらず。一知現前のとき事として可触なし、たとえば三界唯一心、心外無別法と云う時、唯心の道理現前せん時は、三界に触せずと云わんが如し。

経豪

  • 「知」と云う事、打ち任せば世間には能知所知を置いて是を談ず。境を不置して知と云う事は不被談也。今の「不触事而知の知」は非爾。故に「知は覚知にあらず、覚知は小量也、了知の知に非ず、了知は造作也」と被嫌也。今の知は不触事を以て知と談ず、故に不触事は知也と被釈也。「遍知と不可度量、自知と不可度量」と是を被制也。
  • 此の詞は普化禅師と云いし人、此の文を通して鈴を振りて歩きし也、其の詞也。此の文の心地は、明の時は悉く明、暗の時は法界悉く暗也と云う也。此の法文の所談、一切皆此の道理なるべし。「坐破嬢生皮」の心地は母の生れたる皮を破るとなり。今の坐禅の姿、坐破嬢生皮の道理也。父母未生前などと云う詞(は)同心也。

 

不対縁而照。この照は照了の照にあらず、霊照にあらず、不対縁を照とす。照の縁と化せざるあり、縁これ照なるがゆゑに。不対といふは、遍界不曾蔵なり、破界不出頭なり。微なり、妙なり、回互不回互なり。

詮慧

〇「不対縁而照」と云う、教には観照と云う事あり、寂照と云う事もあり。但何れとも云え事理の二法を立て云わんは、こなたには取り難し。寂にして照也、照にして寂なりと云うも、二法を不離なり。不対縁なるを、やがて照と云うべし。

〇「破界不出頭」と云うは、頭の字は無別要、只不出なるなり。境を定むる時、入出の義あるべし。世界を坐破しぬる上は不出頭と云わるるなり。

〇証(照?)は回の義なれども、不対縁の証(照?)なる故に不回互なり。

経豪

  • この「照」又能照所照と談ずる一物をも不置して、照らすと云う事難談。故に「照了の照にあらず霊照にあらず」と被嫌。「霊照」などと云えば、神変などにて照らす様なる事も有りぬべけれども、いかにも談ぜよ今の照の義には、似るべからず。今の照は不対縁を以て照と談ずる也。縁これ照なるが故に、照の縁と化せざる有とは被釈也。

 

其知自微、曾無分別之思。思の知なる、かならずしも他力をからず。其知は形なり、形は山河なり。この山河は微なり、この微は妙なり、使用するに活なり。龍を作するに、禹門の内外にかかはれず。いまの一知わづかに使用するは、尽界山河を拈来し、尽力して知するなり。山河の親切にわが知なくば、一知半解あるべからず。分別思量のおそく来到するとなげくべからず。已曾分別なる仏々、すでに現成しきたれり。曾無は已曾なり、已曾は現成なり。しかあればすなはち曾無分別は不逢一人なり。

詮慧

〇「龍を作するに禹門の内外にかかわらず」と云うは、事に不触、不対縁なる心地なり。禹門に登らざる時も龍なり。禹門には三重の浪(たき)あり、これを蛇若しくは魚類登りて龍となると云う。先より龍を作れば、禹門の沙汰あるべからず。坐禅如此。

〇「一知わづかに使用す」と云うは、此の知は我等が見かと覚えたれども不然。「一知」とは不触事なる所を一と云うなり。「一知半解」と云う知は、先の一知を指す也。凡夫の慮知に非ず、全体知より外に物なき故に一知と云う。

〇「分別思量おそく到来す」と云うは、日来の分別思量には非ず、山河尽界を指すなり。故に「已曾分別なる仏々の現成也」。「曾無分別」と云う無は、已曾なり。故に已曾現成すれば、曾無分別也。すべて逢うべき物なし、不逢一人と云う。「已曾分別」とは、山河を以てする也、曾無已曾也。「不逢一人」は大用現前也。

経豪

  • 此の詞は「曾無分別の思いなき心地を知とするぞ」と心得て、分別の思いと云えば、嫌うべき詞なしと云えば、此の思いを除きたる善き知と心得ぬべし、非爾。思いの知なる必ずしも他力を借らずと云う。分別の思いを知と談ずる上は、取捨の詞に非ざる条顕然也。此の思い知なる道理の上は、又他力を借るべからず条勿論也。此の知の形は山河なりとあり。山河を以て今は知と談ず。『仏性』の草子にも一山河大地、二山河大地を以て仏性と談ぜしかば、此の知の形の山河なりとある、初めて非可驚。「此の山河は微なり、微は妙也」とあり、如文。「使用するに活鱍々也」とあるは、使用とは此の道理を使うにと云う道理なり。使用する時は、活鱍々也と云う。活鱍々とは生きたる心地、解脱の心地也。何処(いづく)までも透りたる心地也。
  • 蛇は禹門に登りて移る時必ず蛇となる也。登り外(はず)しつれば、龍とは成らずして死するなり。今の坐禅は蛇なる時も坐禅、龍なる時も坐禅、禹門に登時も不登時も、皆共坐禅也。ゆえに「禹門の内外ににかかはれず」とはあるなり。「今の一知わづかに使用するは、尽界山河を拈来し、尽力して知する也」とは、所詮尽界山河を以て知と談ずると云う心得也。「山河の親切に我が知なくば、一知半解不可有」とは、山河を以て知と談ずる間、此の道理が山河の親切とは云わるる也。我と云う我は山河也、知也。この外は一知半解不可有也。
  • 是は知の外に一知半解不可有と上には云う。然而此の上は分別思量は有るまじきかと覚ゆる所を、分別思量はなど無かるべきぞなれば、尤も分別思量有るべき也。其の分別思量はいかなるぞと云えば、「已曾分別なる仏々すでに現成しきたれり」とあり。「已曾分別」とは、今始めて出で来たる義に非ず、無始無終などと云う心地也。所詮以仏々已曾分別とは云う也。「曾無」と云えば、無の詞かと覚ゆるを曾無は已曾也とあり、現成の詞也。「曾無分別は不逢一人」とは曾無分別の外、又交わる物なき所を、不逢一人とは云う也。

 

其照自妙、曾無毫忽之兆。毫忽といふは尽界なり。しかあるに自妙なり、自照なり。このゆゑに、いまだ将来せざるがごとし。目をあやしむことなかれ、耳を信ずべからず、直須旨外明宗、莫向言中取則なるは、照なり。このゆゑに無偶なり、このゆゑに無取なり。これを奇なりと住持しきたり、了なりと保任しきたるに、我却疑著なり。

詮慧

〇「其照自妙、曾無毫忽の兆なし」と云うは、毫忽則山河也。尽界なる故に兆なしとは云う。

〇「いまだ将来せざるが如し」と云うは、将来とはもち来たるとなり。不対縁なればもち来たるものあるべからず。

〇「直須旨外明宗、莫向言中取則」と云う旨外明宗とは、世間の旨外明らむべしとなり。旨外は仏法なる故に、「向言中取則することなかれ」と云うは、言語に滞らざれと云う心地也。

〇「我却疑著也」と云うは、日来の執見を離るると云う事也。疑うべき事のありて、疑うにはあらず、坐禅を坐仏と疑う程の事也。此の「疑著」は如何是仏と云う程の事也。如何是仏の詞は、問いに似たれども、やがて答えとなる。如何是大用現前と云わん(と)同じかるべし。ここの疑著は、其照妙なる所を疑と云うべし、自妙なるべし。疑煩悩と云う事あり。今の疑には異なるべし、不悟至道程の疑なるべし。

経豪

  • 「毫忽」と云うは、わづかの小分のことに思い習わしたり。毛端などと云いて、少なき事に習わしたるを、今は「毫忽とは尽界也」とあり。大いに旧見に相違す「自妙也自照也」とあり。此の照いづくより如何に来たれりと云う事なし、故に「将来せざるが如し」と云う也。
  • 是は所詮我々が「目を用い、耳を信ずべからず」と被嫌詞也。げにも此の坐禅所談の前、今の照の道理の上に、争か我等が六根六境を用いる事あらん。此の「直須旨外明宗、莫向言中取則なるは、照也」とあり、莫向言中取則の詞、非嫌たるに似たり。只旨外明宗も莫向言中取則も、皆照の道理也と取るべき也。此の道理が「無偶なり、無取也、奇也と住持しきたり、了なりと保任しきたる」とは云うなり。
  • 此の「疑著」の詞、疑うにあらず、什麽物恁麽来の疑著なるべし、説似一物即不中の道理なるべし。坐禅とや云わん、坐仏とや云わん、思量とや云わん、非思量とや云わん、仏性とや云わん、蚯蚓とや云わんの疑著なるべし。此の下には坐禅にも坐仏にも思量にも非思量にも仏性にも蚯蚓にも皆あたるべきなり。ゆえに受けらるる詞と心得べし、我々が物を置きて是非取捨する非疑著。「直須旨外明宗、莫向言中取則」は古き詞也。

 

水清徹底兮、魚行遅々。水清といふは、空にかかれる水は清水に不徹底なり。いはんや器界に泓澄する、水清の水にあらず。辺際に涯岸なき、これを徹底の清水とす。うをもしこの水をゆくは行なきにあらず。行はいく万程となくすすむといへども不測なり、不窮なり。はかる岸なし、うかむ空なし、しづむそこなきがゆゑに測度するたれなし。測度を論ぜんとすれば徹底の清水のみなり。坐禅の功徳、かの魚行のごとし。千程万程、たれか卜度せん。徹底の行程は、挙体の不行鳥道なり。

詮慧

〇「水清徹底」と云うは、底なき岸なきを云う也。物に対して論ずべきに非ず、ゆえに坐禅也。「徹底の行程挙体」なる故に、魚の行く事遅きなり。魚の行事遅きと云う心地は、坐禅人喪身失命する義也、魚行急なりとも云うべし。

〇「徹底の行程は挙体の不行(挙体の不行問う時に今は行なき也)鳥道也」と云うは、所詮

徹底清水は、やがて徹底清水ながら行なり。不触事不対縁を以て清水徹底と也、知与照を以て鳥魚と云わんが如し。ゆえに魚の行く事遅しとも、また不行鳥道とも云う也。「挙体」は全体の義也。挙はこぞってと云う義也、残さざる也。たとえば世こぞってなどと云う心地也。不行は余りに広く際なくなれば、行とも云い難きを不行と云う。

〇清水無魚と云う俗の詞あり。清水を談ずる時、珠を入れば水澄む、象入れば水濁るなどと云う事あり。是等は世間の事也。底に泥集まる故に象入れば濁るなり。今の「水清徹底」は、底なし岸なし。濁り何の所より来たるべき、我却疑著ぞ、徹底清水なるべき也。此の「清水」には徹底と云う詞も無詮とも、不行鳥道と結する故に如此云う也。法身遍法界、三界唯心、徹底清水同じかるべし。

経豪

  • 如文可心得。打ち任せて日来我々が心得つる水を、「水清の不徹底」とは不可心得。その「徹底の清水」とは如何にあるべきぞと云えば、辺際涯岸なきを清水の徹底と云うばし。「魚の水を行くは、まことに行なきにはあらず」。但この行、「幾万程なく進むと云えども不測なり不窮なり。測る岸なし、浮かぶ空なし、沈む底なきが故に、測度するたれなし。測度を論ぜんとすれば徹底の清水のみなり」とあり。是れ則ち水与魚一体なる心地也。皆文に聞こえたり、故に「坐禅の功徳、彼の魚行の如し」と云うなり。
  • 徹底の行程を云わば、挙体の不行と云いぬべし。この行は不行の道理あり、「挙体」は全体の義也。行程の不行は会不会程の心なり。鳥道は無跡なり、解脱の心地に仕うなり。

 

空闊莫涯兮、鳥飛杳々。空闊といふは、天にかかれるにあらず。天にかかれる空は闊空にあらず。いはんや彼此に普遍なるは闊空にあらず。隠顕に表裏なき、これを闊空といふ。とりもしこの空をとぶは飛空の一法なり。飛空の行履、はかるべきにあらず。飛空は尽界なり、尽界飛空なるがゆゑに。この飛、いくそばくといふことしらずといへども、卜度のほかの道取を道取するに、杳々と道取するなり。直須足下無糸去なり。空の飛去するとき、鳥も飛去するなり。鳥の飛去するに、空も飛去するなり。飛去を参究する道取にいはく、只在這裏なり。これ兀々地の箴なり。いく万程か只在這裏をきほひいふ。

詮慧

〇「空闊莫涯兮、鳥飛杳々」と云う空与鳥は、坐禅坐仏程なり。飛鳥は飛鳥なり。

〇「足下無糸去」と云うは、足の下に踏む所なきを云う。ゆえに不触事而知不対縁而照と云うなり。

〇「只在這裏をきをい云う」は、何事を云わんも只在這裏の道理に不可背、此の上にきをい云う。不触事も只在這裏(這裏は坐禅裏なるべし)、不対縁も只這裏。

経豪

  • 如文。是又凡見の「空闊」の見を嫌う心地なり。此の『坐禅箴』の「空闊」とは「隠顕に表裏なき」足を空闊と云うなり。その理分明也。
  • 鳥与空のあわい、先の水と魚との如く可心得。鳥の空を飛ぶは飛空の一法なり」、この「飛空の行履、はかりしるべきにあらず。飛空は尽界なり、尽界飛空なるが故に。この飛空いくそばくと云えども、卜度の外の道取を道取するに、杳々と道取する」とは、只世の常に遠とも遥也ともなどと云えば、尋常の卜度に似たり。此の我々が思慮分別「卜度の外の道取を道取するに、杳々と道取する也」とは、只打ち任せて辺際なきなど云う道理を超越したる、杳々なるべし。故に如此云也。
  • 是は解脱の詞に仕うなり。
  • 此の詞にて飛去の道理も空鳥の道理も能々可心得。「空の飛去する」とは、此の空を空と云う。「鳥の飛去」とは、此の飛去を鳥と云う。此の道理にて鳥の飛去するに、空も飛去する也とは云うなり。
  • 「飛去」とは此処より彼処へ飛び、彼処より此処へ去るを云う。此の飛去の道理は只在這裏也。「只在這裏」とは、ただこのうちありと也。飛去とも云い尽界也、飛空とも云う、只々在這裏の道理也。只在這裏と云えばとて、只我々が思うが如くなる、此裏などとは不心得尽十方界只在這裏也。故に「いく万程か只在這裏をきほひいふ」とあり、如文可心得。

 

宏智禅師の坐禅箴かくのごとし。諸代の老宿のなかに、いまだいまのごとくの坐禅箴あらず。諸方の臭皮袋、もしこの坐禅箴のごとく道取せしめんに、一生二生のちからをつくすとも道取せんことうべからざるなり。いま諸方にみえず、ひとりこの箴のみあるなり。先師上堂の時、よのつねにいはく、宏智、古仏なり。自余の漢を恁麼いふこと、すべてなかりき。知人の眼目あらんとき、仏祖をも知音すべきなり。まことにしりぬ、洞山に仏祖あることを。いま宏智禅師より後八十余年なり、かの坐禅箴をみて、この坐禅箴を撰す。いま仁治三年壬寅三月十八日なり。今年より紹興二十七年十月八日にいたるまで、前後を算数するに、わづかに八十五年なり。いま撰する坐禅箴これなり。

 坐 禅 箴

仏々要機、祖々機要。不思量而現、不回互而成。不思量而現、其現自親。不回互而成、其成自証。其現自親、曾無染汚、其成自証、曾無正偏、曾無染汚之親、其親無委而脱落。曾無正偏之証、其証無図而功夫。水清徹地兮、魚行似魚。空闊透天兮、鳥飛如鳥。宏智禅師の坐禅箴、それ道未是にあらざれども、さらにかくのごとく道取すべきなり。おほよそ仏祖の児孫、かならず坐禅を一大事なりと参学すべし。これ単伝の正印なり。

経豪

  • 是より已下の文、宏智禅師を讃嘆せらるる御詞也。無殊子細、如文心得。此の宏智禅師は、紹興二十七年十月八日これを被撰、今先師この坐禅箴を見て被撰(する)坐禅箴は、仁治三年壬寅三月十八日也。其の前後の年記八十五年とあり。先師坐禅箴を奥に被書、文字少々宏智の坐禅箴と相替許也。其理是同、仍不及問答略之。凡そ仏祖の一大事尤も坐禅を励み営むべき事也。

坐禅箴(終)

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。