正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵恁麼

正法眼蔵第十七 恁麼

 

 雲居山弘覺大師は、洞山の嫡嗣なり。釋迦牟尼佛より三十九世の法孫なり、洞山宗の嫡祖なり。

 一日示衆云、欲得恁麼事須是恁麼人既是恁麼人、何愁恁麼事

 いはゆるは、恁麼事をえんとおもふは、すべからくこれ恁麼人なるべし。すでにこれ恁麼人なり、なんぞ恁麼事をうれへん。この宗旨は、直趣無上菩提、しばらくこれを恁麼といふ。この無上菩提のていたらくは、すなはち盡十方界も無上菩提の少許なり。さらに菩提の盡界よりもあまるべし。われらもかの盡十方界の中にあらゆる調度なり。なにによりてか恁麼あるとしる。いはゆる身心ともに盡界にあらはれて、われにあらざるゆゑにしかありとしるなり。

 身すでにわたくしにあらず、いのちは光陰にうつされてしばらくもとゞめがたし。紅顔いづくへかさりにし、たづねんとするに蹤跡なし。つらつら觀ずるところに、往事のふたゝびあふべからざるおほし。赤心もとゞまらず、片々として往來す。たとひまことありといふとも、吾我のほとりにとゞこほるものにあらず。恁麼なるに、無端に發心するものあり。この心おこるより、向來もてあそぶところをなげすてて、所未聞をきかんとねがひ、所未證を證せんともとむる、ひとへにわたくしの所爲にあらず。しるべし、恁麼人なるゆゑにしかあるなり。なにをもつてか恁麼人にてありとしる、すなはち恁麼事をえんとおもふによりて恁麼人なりとしるなり。すでに恁麼人の面目あり、いまの恁麼事をうれふべからず。うれふるもこれ恁麼事なるがゆゑに、うれへにあらざるなり。又恁麼事の恁麼あるにも、おどろくべからず。たとひおどろきあやしまるゝ恁麼ありとも、さらにこれ恁麼なり。おどろくべからずといふ恁麼あるなり。これたゞ佛量にて量ずべからず、心量にて量ずべからず、法界量にて量ずべからず、盡界量にて量ずべからず。たゞまさに既是恁麼人、何愁恁麼事なるべし。このゆゑに、聲色の恁麼は恁麼なるべし、身心の恁麼は恁麼なるべし、諸佛の恁麼は恁麼なるべきなり。たとへば、因地倒者のときを恁麼なりと恁麼會なるに、必因地起の恁麼のとき、因地倒をあやしまざるなり。

 古昔よりいひきたり、西天よりいひきたり、天上よりいひきたれる道あり。いはゆる若因地倒、還因地起。離地求起、終無其理

 いはゆる道は、地によりてたふるゝものはかならず地によりておく、地によらずしておきんことをもとむるは、さらにうべからずとなり。しかあるを擧拈して、大悟をうるはしとし、身心をもぬくる道とせり。このゆゑに、もし、いかなるか諸佛成道の道理なると問著するにも、地にたふるゝものの地によりておくるがごとしといふ。これを參究して向來をも透脱すべし、末上をも透脱すべし、正當恁麼時をも透脱すべし。大悟不悟、卻迷失迷、被悟礙、被迷礙。ともにこれ地にたふるゝものの地によりておくる道理なり。これ天上天下の道得なり、西天東地の道得なり、古往今來の道得なり、古佛新佛の道得なり。この道得、さらに道未盡あらず、道虧闕あらざるなり。

 しかあれども、恁麼會のみにして、さらに不恁麼會なきは、このことばを參究せざるがごとし。たとひ古佛の道得は恁麼つたはれりといふとも、さらに古佛として古佛の道を聞著せんとき、向上の問著あるべし。いまだ西天に道取せず、天上に道取せずといへども、さらに道著の道理あるなり。いはゆる地によりてたふるゝもの、もし地によりておきんことをもとむるには、無量劫をふるに、さらにおくべからず。まさにひとつの活路よりおくることをうるなり。いはゆる地によりてたふるゝものは、かならず空によりておき、空によりてたふるゝものは、かならず地によりておくるなり。もし恁麼あらざらんは、つひにおくることあるべからず。諸佛諸祖、みなかくのごとくありしなり。

 もし人ありて恁麼とはん、空と地と、あひさることいくそばくぞ。

恁麼問著せんに、かれにむかひて恁麼いふべし、空と地とあひさること十萬八千里なり。若因地倒、必因空起、離空求起、終無其理若因空倒、必因地起、離地求起、終無其理

 もしいまだかくのごとく道取せざらんは、佛道の地空の量、いまだしらざるなり、いまだみざるなり。

まずは「恁麽」の定義付けから始めましょう。

  • 恁麽という言葉は、ソンナ・コンナという、今ある事実を指し示す宋代の口語(水野八穂子)㈡恁麽と云う事、かくの如しと云う詞也(御抄)㈢恁麽とは如是に俚諺(聞解)㈣恁麽とは、その・この・そんな・こんな・そのように・このようにの意。話題にしている事物の状態を指して云う近称の指示語。与麽と同義(曹洞宗関連用語集・インターネット)

「雲居山弘覚大師は洞山の嫡嗣なり。釈迦牟尼仏より三十九世の法孫なり、洞山宗の嫡祖なり」

弘覚とは大師号ですから、諱つまり法名は道膺です。山号の雲居とは、江西省の南昌の北西にある雲居山に三十年在住したので、親しみを込めて雲居と呼ばれるわけです。

「洞山の嫡嗣」

『景徳伝灯録』第十七を見ますと、洞山良介の法嗣の弟子は二十六人とあり、雲居道膺・曹山本寂・龍牙居遁・華厳休静等々の名が列記してありますが、今日(道元在宋時点)まで曹洞宗の法脈として現存するのは、この雲居道膺を以てしかありませんから、洞山の嫡嗣と言われたのです。

釈迦牟尼仏より三十九世の法孫」

普通、この文章からの算出法は、釈迦を(一)とし雲居道膺までをカウントすると(四十)になります。『仏祖』巻にも記されてありますが、世代のカウントは摩訶迦葉を第一とします。以外と見落としがちな事です。

「洞山宗の嫡祖」

この洞山宗と云う語句は、宗派を否認された道元禅師の言動に矛盾すると揶揄されるのですが、ここでの「宗」を『新選漢和辞典』・小林信明編では㈠おおもと ㈡頭として尊びあがめる ㈢祖先の中の有徳者とし、解字の欄では、「宗」は先祖の霊を祭った「みたまや」の意味から、「尊い」・「おおもと」・「本家」を表す。と解説があるように、宗派の意味での「洞山宗」ではありません。また『御抄』では、「洞山宗と云う事、必ずしも立宗の分にあらず、只その人を賞翫する時も宗と云うことばを付ける事あり」と註釈があります。

「一日示衆云、欲得恁麽事、須是恁麽人。既是恁麽人、何愁恁麽事。いはゆるは、恁麽事をえんとおもふは、すべからくこれ恁麽人なるべし。すでにこれ恁麽人なり、なんぞ恁麽事をうれへん」

この段は雲居の四恁麽についての提唱ですが、『景徳伝灯録』・十七巻・雲居章の後半部にある古則です。「いはゆる」以下は道元禅師の訓読法で、第一句の「欲」を「おもふ」とよまれています。

「この宗旨は直趣無上菩提しばらくこれを恁麽といふ」

恁麽=菩提と策定し、「しばらく」の意は『古語例解辞典』・北原保雄編によると、㈠とりあえず ㈡かりそめに、と説明されます。ちなみに、『義雲頌著』では、恁麽=直趣と頌し、「我如是汝亦如是、此土西天雲与水、鷲嶺月光少林蕊、恁麽人作恁麽事。と著しています。

「この無上菩提のていたらくは、すなはち尽十方界も無上菩提の少許なり。さらに菩提の尽界よりもあまるべし。われらもかの尽十方界の中にあらゆる調度なり。なにによりてか恁麽あるとしる。いはゆる身心ともに尽界にあらはれて、われにあらざるゆゑにしかありとしるなり」

「無上菩提」とは上が無い菩提とありますが、限定された範囲ではありません。

「ていたらく」は、為体と書き姿・様子と解し、一般的にはよくない様子を云いますが、様子を見下す意は近世(江戸以降)以後のことです。

「尽十方界も無上菩提の少許」とは、無上菩提と尽十方界に優劣があるかのようですが、「少許」とはたとえば言葉を換えてと云う事で、尽十方界と無上菩提は同義語としての説明です。

「われらもかの尽十方界の中にあらゆる調度なり」

ここに云う調度は、日用雑貨品を飛び越え、宇宙と人間との関係性を「調度」と言われます。

「なにによりてか恁麽あるとしる」

先に説いた「尽十方界―無上菩提―われら―調度」の連関性と恁麽との関係性を「身心ともに尽界にあらはれて、我にあらざるゆゑにしかありとしるなり」と言い、尽界での身心は個人は考慮されず、前項での尽十方界と無上菩提が、われと地続き状態を「恁麽」という別語で説かれるものです。

「身すでに私にあらず、命は光陰に移されてしばらくもとどめ難し。紅顔いづくへか去りにし、訪ねんとするに蹤跡なし。つらつら観ずる所に、往事の再び逢ふべからざる多し」

この語句は『修証義』第一章に出てくるもので、前後の句に「無常たのみ難し露命いかなる道の草にか落ちん」(重雲堂式)、「無常たちまちに到るときは」(出家功徳)と、如何にも道元禅師の言行録のようですが、『恁麽』巻本文から云うと、身すでに云々の解釈は尽十方界の実態を述べたものです。

「赤心もとどまらず片々として往来す。たとひまことありといふとも、吾我のほとりにとどこほるものにあらず」

「赤心」とは辞書等にも「まごころ」とありますが、『眼蔵』を通底する解釈としては、「真実・事実」が適当で、「たとひまことあり」の「まこと」も同様に「真実・事実」と置き換えた方が理解し易いように思われます。ここで云う要旨は、赤心・まごころ=恁麽は動的平衡を維持しつつ現成している事を云うものです。

「恁麽なるに無端に発心する者あり。この心起こるより向来もてあそぶ所を投げ棄てて、所未聞を聞かんと願ひ、所未証を証せんと求むる、ひとへにわたくしの所為に非ず。知るべし恁麽人なるゆゑにしかあるなり。なにをもってか恁麽人にてありとしる、すなはち恁麽事を得んと思ふによりて恁麽人なりと知るなり」

「無端に発心する」とありますが、無端とは、はしがない事で出発点がない発心と云うことです。普通、発心するとは期日を設けて思い定めるように考えますが、『御抄』に於いては「尽界を指して発心と談ず」と云い、「まったく身に於いて彼が発心するとは云わず」と述べ、ですから道元禅師は「無端に発心する」と言うと経豪和尚は註解されます。

「この心起こるより向来もてあそぶ処をなげすてて」はそのままの意で、「この心」とは無端に発心する心で、「もてあそぶ処をなげすてて」の何を投げ棄てるのかと云うと㈠三乗の教(声聞・縁覚・菩薩) ㈡小乗権門の教 ㈢世俗塵労の心を諸捨せよと『御抄』は指摘されます。

「所未聞を聞かんと願ひ所未証を証せんと求むもひとへに私の所為にあらず」

このような菩提を願い求める心とは、吾我の行為では出来ないと。

「知るべし恁麽人なるゆゑにしかあるなり。なにをもってか恁麽人にて有りと知る、すなはち恁麽事を得んと思ふによりて恁麽人なりと知るなり」

この文章難なく一般的解釈にて、恁麽人(無上菩提と直結している学人)であるから前項の如くに所未聞・所未証をも探究する事が出来、とりもなおさず恁麽事を思うこと自心が恁麽人なのです。

「すでに恁麽人の面目あり、今の恁麽事を愁れふべからず。愁ふるもこれ恁麽事なるがゆゑに、愁へにあらざるなり。又恁麽事の恁麽あるにも、驚くべからず。たとひ驚き怪しまるる恁麽ありとも、さらにこれ恁麽なり。驚くべからずといふ恁麽あるなり」

此処も通読すれば難なし。喜怒哀楽すべてが恁麽(真実)と言われています。

「これただ仏量にて量ずべからず、心量にて量ずべからず、法界量にて量ずべからず、尽界量にて量ずべからず。ただまさに既是恁麽人、何愁恁麽事なるべし」

此処は恁麽の取り扱い方を述べるものです。「仏量」・「心量」・「法界量」・「尽界量」と云った一ツの概念に滞る所を嫌い、恁麽の道理を別に道得するとすれば、「説似一物即不中」に云い換え得るとは『御抄』の見方です。

「このゆゑに、声色の恁麽は恁麽なるべし、身心の恁麽は恁麽なるべし、諸仏の恁麽は恁麽なるべきなり。たとへば因地倒者の時を恁麽なりと恁麽会なるに、必因地起の恁麽の時因地倒を怪しまざるなり」

「声色の恁麽」の声色とは、見るもの聞くものと解し、「身心の恁麽・諸仏の恁麽」とは一切合財を恁麽に帰着させます。

「因地倒者・必因地起」には次のような因縁談があります。

世親と無著との法戦話

「世親は小乗から大乗、無著は最初から大乗に帰依していたのを、世親は大乗を謗った罪を負うて舌を切ろうとした処を、兄の無著が「地に因って倒るる者は地に因って起る」と。つまりは自分自身で罪を作ったのだから、己自身が善根を積めとの事です。」

優婆毱多と波旬との説話

梵天王が波旬に云った。汝、心を尊者(優婆毱多)に帰すれば即ち能く除断す。若し地に因って倒るれば還って地に因って起く。地を離れて起きんことを求むるも終に其の理無けん。」(景徳伝灯録第一章参照)

つまり云う処は、地面に倒れて後再び地面から起き上がる。この当たり前の行為を疑う人はいない、との説法です。

「古昔より云ひ来たり、西天より云ひ来たり、天上より云ひ来れる道あり。いはゆる若因地倒、還因地起。離地求起、終無其理」

「西天より云ひ来たり」と云うのが先の世親と無著の因縁話です。「天上より云ひ来たり」と云うのが優婆毱多と波旬との故事です。

ちなみに「還」の字の訓みですが、ここでは「かえって」とありますが、他に「また」とも読ませ、最近の研究論文では「はた」と読ませています。

「いはゆる道は、地によりて倒るる者は必ず地によりて起く。地によらずりて起きんことを求むるは、さらに得べからずとなり」

先程からの繰り返しの言です。

「しかあるを挙拈して大悟を得る端とし、身心をもぬくる道とせり。このゆゑにもし、いかなるか諸仏成道の道理なると問著するにも、地に倒るる者の地によりて起くるが如しといふ。これを参究して向来をも透脱すべし末上をも透脱すべし正当恁麽時をも透脱すべし。大悟不悟、却迷失迷、被悟礙、被迷礙」

ここで唐突に「大悟を得る端」と云うように「大悟不悟」も「地に倒るる者の地に因りて起くる道理」に結びつけての提唱ですが、此巻に於いてはここだけの文言で違和感がありますが、用語の説明としては「大悟を得る端」の「はし」 とは手がかりと解し、「身心をもぬくる」の「もぬくる」とは「もぬける」で解脱の意です。「向来」は従来の自己・「末上」は将来の自己と解します。

「ともにこれ地に倒るる者の地に因りて起くる道理なり。これ天上天下の道得なり、西天東地の道得なり、古往今来の道得なり、古仏新仏の道得なり。この道得さらに道未尽あらず、道虧闕あらざるなり」

先に云う「大悟不悟、却迷失迷、被悟礙、被迷礙」は「因地倒者、必因地起」に収斂せられ、具体的ことばを列記するなら、「天上天下」・「古仏新仏」と表現され、これらの表現は云い尽くされない処がなく、云い欠けた処はないとの自信に溢れる文体です。

「しかあれども恁麽会のみにして、さらに不恁麽会なきは、この言葉を参究せざるが如し。たとひ古仏の道得は恁麽伝はれりと云ふとも、さらに古仏として古仏の道を聞著せん時、向上の問著あるべし。いまだ西天に道取せず天上に道取せずと云へども、さらに道著の道理あるなり」

「恁麽会のみにして、さらに不恁麽会なきは、このことばを参究せざるがごとし」の論法は、『大悟』巻に見る「しばらく臨済に問すべし、不悟者難得のみを知りて、悟者難得を知らずば未足為足なり、不悟者難得をも参究せると云ひ難し」の文体と同様である。先程「大悟を得る端」が唐突にと指摘したが、示衆年月日を見ると『大悟』は仁治三年(1242)正月二十八日、『恁麽』は仁治三年(1242)三月二十六日との奥書で見るかぎり、「大悟不悟」・「恁麽会不恁麽会」の論法は明らかに『大悟』の影響を受けてのものであると思われます。

「たとひ古仏の道得は恁麽つたはれりといふとも、さらに古仏として古仏の道を聞著せんとき向上の問著あるべし」

ここで云う「恁麽伝はれり」の恁麽は「若因地倒・還因地起・離地求起・終無其理」を指すと思われ、学人であるならば「さらに向上の問著」を成しなさいと言われ、西天つまりインドで優婆毱多がすでに述べ終わったけれども、「さらに道著」と向上の道理を説かれます。

「いはゆる地に因りて倒るる者、もし地に因りて起きんことを求むるには、無量劫をふるに、さらに起くべからず。まさにひとつの活路より起くることを得るなり。いはゆる地に因りて倒るる者は、必ず空に因りて起き、空に因りて倒るる者は、必ず地に因りて起くるなり」

これより道元禅師の新たな解釈です。これまでは、「地に因りて倒るる者は必ず地に因りて起く。地に因らずして起きんことを求むるは、さらに得べからず」の提唱でしたが、道元禅師の解釈は「さらに得べからず」を書き換えて「無量劫をふるに、さらに起くべからず」とされ、さらに先程の「地に因りて起く」から「空に因りて起き」と、「地に因らずして起きんことを求むるは、さらに得べからず」から「空に因りて倒るる者は必ず地に因りて起く」と言うように、「空」なる概念を導入した新たな法解釈です。「空」は般若又は真実と云ってもいいでしょう。

「もし恁麽あらざらんは、つひに起くることあらばからず。諸仏諸祖、みなかくのごとくありしなり」

もしもこのような「空」というハタラキがなかったならば、起きることはできない。「諸仏諸祖」も「空」のハタラキが備わっていたからこそ、諸仏諸祖と云われるのです。

「もし人ありて恁麽問はん、空と地とあひ去ること幾そばくぞ。恁麽問著せんに、かれに向かひて恁麽云ふべし、空と地と、あひ去ること十万八千里なり。若因地倒、必因空起、離空求起、終無其理。若因空倒、必因地起、離地求起、終無其理。もし未だかくの如く道取せざらんは、仏道の地空の量、未だ知らざるなり、未だ見ざるなり」

「もし人ありて恁麽問はん」とは、興聖宝林寺に雲集する学人に対する問答で、先程云った「空」と「地」との距離はどれ程離れているかを、問うてみよとの丁々発止の感さえ有る場面です。

このように問われたならば、空と地との距離は十万八千里あり、

若因地倒、還因地起。離地求起、終無其理。に対しては、

若因地倒、必因空起。離空求起、終無其理。

さらに

若因空倒、必因地起、離地求起、終無其理。

と云うように説明しなさい、との道元禅師の提案です。

「十万八千里」と云うのは、インドから中国までの距離であるとか、先程の無量劫に対比したものとか、果ては不即不離の関係性を表し、絶対に混じり合わない事を云ったものと様々なことがことが云われます。

「もし未だかくの如く道取せざらんは」とは、

「地によって倒れた者は必ず空によって起き、空を離れて起きることを求めても終に其の離はない。もし空によって倒れた者は必ず地によって起き、地を離れて起きることを求めても終に其の離はない。」と理解しなければ「仏道」の「地」・「空」わからないだろう。との意で、暗に世親・無著・優婆毱多等のインド仏教を批判しているのでしょうか。

この第一段にて『恁麽』の概念を述べられ、次からは古則を引用し具体的に参究するものです。

 

第十七代の祖師、僧伽難提尊者、ちなみに伽耶舎多、これ法嗣なり。あるとき、殿にかけてある鈴鐸の、風にふかれてなるをきゝて、伽耶舎多にとふ、風のなるとやせん、鈴のなるとやせん。伽耶舎多まうさく、風の鳴にあらず、鈴の鳴にあらず、我心の鳴なり。僧伽難提尊者いはく、心はまたなにぞや。伽耶舎多まうさく、ともに寂靜なるがゆゑに。僧伽難提尊者いはく、善哉々々、わが道を次べきこと、子にあらずよりはたれぞや。つひに正法眼藏を傳付す。

 これは、風の鳴にあらざるところに、我心鳴を學す。鈴のなるにあらざるとき、我心鳴を學す。我心の鳴はたとひ恁麼なりといへども、倶寂靜なり。

 西天より東地につたはれ、古代より今日にいたるまで、この因縁を學道の標準とせるに、あやまるたぐひおほし。

るなり。親 伽耶舎多の道取する風のなるにあらず、鈴のなるにあらず、心の鳴なりといふは、能聞の恁麼時の正當に念起あり、この念起を心といふ。この心念もしなくは、いかでか鳴響を縁ぜん。この念によりて聞を成ずるによりて、聞の根本といひぬべきによりて、心のなるといふなり。これは邪解なり。正師のちからをえざるによりてかくのごとし。たとへば、依主隣近の論師の釋のごとし。かくのごとくなるは佛道の玄學にあらず。

「第十七代の祖師、僧伽難提尊者―中略―僧伽難定尊者いはく、善哉善哉、わが道を次(つぐ)べきこと、子(なんぢ)にあらずよりはたれぞや。つひに正法眼蔵を伝付す」

摩訶迦葉から数えて十七代目が僧伽難定で『景徳伝灯録』第二・僧伽難提章によると、紀元前113年に宝荘厳王の子供として生まれ、紀元前74年に薨ずと有りますが、もちろん史実ではありません。

これは十七代僧伽難提と十八代伽耶舎多との問答ですが、先の『景徳伝灯録』よると当時伽耶舎多は年端もいかぬ年齢だったようです。問答自体は難なく読め、師匠が鈴鐸(れいたく)の鳴るのを聞き弟子に対し、風が鳴るか鈴が鳴るかと問うと、伽耶舎多はそれに対し風・鈴が鳴るのではなく我が心が鳴ると答え、すかさず師匠は心とは什麽と問い、弟子は俱寂静と答えて、正法眼蔵が単伝されたとの内容です。

ここでの要旨は、心とは何かに対しての「俱寂静」です。『正法眼蔵講話』(恁麽・沢木興道述・以下沢木本と略す)によると俱寂静とは、「薪は薪の法位に住して、先あり後あり、前後ありといへども前後際断せり(『現成公案』)との注解です。

「風の鳴にあらざる処に我心鳴を学す。鈴の鳴るにあらざる時我心鳴を学す。我心の鳴はたとひ恁麽なりといへども、俱寂静なり」

前にも云ったように、風の鳴は風の鳴のみ、鈴の鳴も同様で、我心と風・鈴を対比させ、どちらかに決めつけるから邪解が起こるわけです。

「西天より東地に伝はれ、古代より今日に至るまで、この因縁を学道の標準とせるに、誤る類い多し」

インドから支那(宋)に正法眼蔵(仏法)が伝法された因縁は「俱寂静」であるが、多くの学人は曲解する者が多い。

伽耶舎多の道取するー中略―といふは能聞の恁麽時の正当に念起あり、この念起を心といふ―中略―聞の根本と云ひぬべきによりて、心のなると云ふなり」

ここで云ふ解釈(心の鳴)は「能聞の恁麽時の正当に念起あり、この念起を心と云ふ」と云う事が「邪解」と云われるものです。「能聞」とは聞くはたらきの意で、風が鳴る鈴が鳴っているという時に耳をそばだてる、そこに正当念(心のはたらき)が起き、この状態が「心」という解釈です。

「この心念もしなくは、いかでか鳴響を縁ぜん。この念によりて聞を成ずるにー後略―」

聞くと云う意識がなかったら、鳴るとか響くといった事象とは無関係である。「心のなる」との説明で、心という主宰者がいて、それが鳴っているのであって、風や鈴は「伴」と云ったら理解しやすいかも知れません。

「これは邪解なり。正師のちからをえざるによりてかくの如し。たとへば依主隣近の論師の釈の如し。かくの如くなるは仏道の玄学にあらず」

先の解釈は仏法的解会ではなく、それは教える人がいないからで、「依主隣近の論師の釈」とあります。依主隣近の説明。

「依主釈と隣近釈―複合語における上下の語の関係を六種に分けて説いた六合釈(りくがっしゃく)のひとつ。依主釈は王の臣を王臣と云うように、上の王という語が下の語の主になっている場合。隣近釈は、河畔のように、下の畔が上の河という語の部位をあらわす場合。(水野八穂子校注・正法眼蔵岩波文庫

「依主・隣近というのは六離合釈(りくがっしゃく)・八転声(はってんしょう)という学問で、依主というのは、これは私のコップであるというように、だれか持ち主のあるものが依主・依主釈と云う。隣近というのは、近いもので云う。あなたはどこですかと聞かれ、松岡の人は福井ですと答える。近い所の名高い名前をあげて、だれにでもわかりやすいように云う。これが隣近釈です。(『沢木本』)

このように説明され、文法的観念論者の如しという意です。

 

 

しかあるを、佛道の嫡嗣に學しきたれるには、無上菩提正法眼藏、これを寂靜といひ、無爲といひ、三昧といひ、陀羅尼といふ道理は、一法わづかに寂靜なれば、萬法ともに寂靜なり。風吹寂靜なれば鈴鳴寂靜なり。このゆゑに倶寂靜といふなり。心鳴は風鳴にあらず、心鳴は鈴鳴にあらず、心鳴は心鳴にあらずと道取す切の恁麼なるを究辦せんよりは、さらにたゞいふべし、風鳴なり、鈴鳴なり、吹鳴なり、鳴々なりともいふべし。何愁恁麼事のゆゑに恁麼あるにあらず、何關恁麼事なるによりて恁麼なるなり。

仏道の嫡嗣に学しきたれるにはー中略―このゆゑに俱寂静というなり」

仏道を学んでいる学人ならば「無上菩提正法眼蔵」=「寂静」=「無為」=「三昧」=「陀羅尼」という道理は納得でき、一法(部分)が寂静であれば万法(全体)も同じく寂静という道理が成り立ち、同じく風吹寂静の時はそれのみ、鈴鳴寂静も同様です。

「心鳴は風鳴にあらず、心鳴は鈴鳴にあらず、心鳴は心鳴にあらずと道取するなり」

何回も同じような事を言われますが、「心」というのは学校教育で教え込まれた者は、「精神」とか「こころ」を連想しがちですが、仏法上の「心」とは、解釈され得るものではなく、眼前にある真実を「心」というわけですから、真実全体は風が鳴っている一場面ではないはずです。次の「心鳴は鈴鳴にあらず」も同様です。さらに「心鳴は心鳴にあらず」とは、はじめの「心鳴」は今述べた真実の「心」であり、あとの「心鳴」は俗にいう「こころ」の鳴ると理解すればいいでしょうか。

「親切の恁麽なるを究辨せんよりはー中略―何関恁麽事なるによりて恁麽なるなり」

「親切」とは、したしく・親密という意で、上記の恁麽を究めるよりは、「ただ」そのまま云った方がよく、「風鳴」・「鈴鳴」・「吹鳴」・「鳴鳴」とも言いなさいと。

「何愁恁麽事」は訓読では「なんぞ愁えん恁麽の事」と云った方がわかりやすいでしょう。どんなに心配しても、「恁麽」という固定化したものはなく、どのように関わっても「恁麽」だと云う結論です。

 

 第三十三祖大鑑禪師、未剃髪のとき、廣州法性寺に宿するに、二僧ありて相論するに、一僧いはく、幡の動ずるなり。一僧いはく、風の動ずるなり。かくのごとく相論往來して休歇せざるに、六祖いはく、風動にあらず、幡動にあらず、仁者心動なり。二僧きゝてすみやかに信受す。

 この二僧は西天よりきたりけるなり。しかあればすなはち、この道著は、風も幡も動も、ともに心にてあると、六祖は道取するなり。まさにいま六祖の道をきくといへども、六祖の道をしらず。いはんや六祖の道得を道取することをえんや。爲甚麼恁麼道。

 いはゆる仁者心動の道をきゝて、すなはち仁者心動といはんとしては、仁者心動と道取するは、六祖をみず、六祖をしらず、六祖の法孫にあらざるなり。いま六祖の兒孫として、六祖の道を道取し、六祖の身體髪膚をえて道取するには、恁麼いふべきなり。いはゆる仁者心動はさもあらばあれ、さらに仁者動といふべし。爲甚麼恁麼道。

 いはゆる動者動なるがゆゑに、仁者仁者なるによりてなり。既是恁麼人なるがゆゑに恁麼道なり。

「第三十三祖大鑑禅師―中略―二僧聞きて速やかに信受す」

大鑑禅師・慧能についての概略を述べると、生没は638年―713年で本籍が范陽(河北省)の盧氏出身であるために、盧行者(あんじゃ)とも呼ばれる。弘忍の法をうけた、数十年間は広東省で未剃髪のまま在俗生活をしていた時の話です。猶この広州法性寺は涅槃宗の寺だそうです。本則にある機縁から、以後兄弟子の印宗より具足戒を受け比丘となり、曹谿宝林寺に住したとのことです。

この則は、先段と同じく「風鳴」が「風動」、「鈴鳴」が「幡動」、「我心鳴」を「仁者心動」に置き換えたものです。

「この二僧は西天より来たりけるなり。しかあれば即ち、この道著は風も幡も動も、共に心にてあると六祖は道取するなり。当に今六祖の道を聞くと云へども、六祖の道を知らず。云はんや六祖の道得を道取することを得んや。為甚麽恁麽道」

これより本則に対する拈提です。

「二僧は西天より来たる」とある「西天」を普通はインドから来たとしますが、「西域から来た」と云う方が適宜な気がします。

風・幡・動・を「心」という一ツの概念に固定化することを嫌うもので、為甚麽恁麽道つまり「いづれもが恁麽と道(い)える」が、道元禅師の云わんとする処です。

「いはゆる仁者心動の道を聞きて、即ち仁者心動と云はんとしては仁者心動と道取するは、六祖を見ず六祖を知らず六祖の法孫にあらざるなり。今六祖の児孫として六祖の道を道取し六祖の身体髪膚を得て道取するには恁麽云ふべきなり。いはゆる仁者心動はさもあらばあれ、さらに仁者動と云ふべし。為甚麽恁麽道」

ここで云う旨は、「仁者心動」をオウム返しに仁者心動とは云わず、六祖の児孫の気概があるなら、「仁者動」と言いなさいとの提言で、結語で前句と同様「為甚麽恁麽道」と「何から何まで恁麽(そのように)道(い)える」との事です。

「いはゆる動者動なるがゆゑに、仁者仁者なるによりてなり。既是恁麽人なるがゆゑに恁麽道なり」

動は動それしかなく、仁者は他の者に置き換えられない。「既是恁麽人」生来の恁麽人であるから恁麽(そのように)道(い)うのです。

 

六祖のむかしは新州の樵夫なり。山をもきはめ、水をもきはむ。たとひ青松のもとに功夫して根源を截斷せりとも、なにとしてか明窓のうちに從容して、照心の古教ありとしらん。澡雪たれにかならふ。いちにありて經をきく、これみづからまちしところにあらず、佗のすゝむるにあらず。いとけなくして父を喪し、長じては母をやしなふ。しらず、このころもにかゝれりける一顆珠の乾坤を照破することを。たちまちに發明せしより、老母をすてて知識をたづぬ、人のまれなる儀なり。恩愛のたれかかろからん。法をおもくして恩愛を輕くするによりて棄恩せしなり。これすなはち有智若聞、即能信解の道理なり。いはゆる智は、人に學せず、みづからおこすにあらず。智よく智につたはれ、智すなはち智をたづぬるなり。

「六祖の昔は新州の樵夫なり。山をも極め水をも極む。たとひ青松のもとに功夫して根源を截断せりとも、何としてか明窓のうちに従容して照心の古教ありと知らん」

これからしばらく、六祖の人となりの説明に入ります。

「新州」は広東省にかつて設置された州。現在の雲浮市及び江門市一帯に相当。南北朝時代、梁により広州より分割設置された。六〇五年(大業元年)隋朝により廃止され、管轄県は広州に統合される。(フリー百科事典・インターネット)

山中に於いて樹の切り出しをしていたわけですから、山をも極め水をも極めと云い、青い松の木の根元で功夫坐禅)したとしても、明窓(屋内)の下で従容(ゆったり)し、禅録などは読まなかったであろう、との意です。

「澡雪たれにか習う。市にありて経を聞く、これみづから待ちし処にあらず、他のすすむるにあらず。いとけな(幼稚)くして父を喪し、長じては母を養なふ」

「澡雪」とは修行のことで、㈠頭に降りかかる雪を払うような絶え間ない行為。㈡心の染汚を洗いすすぐこと。

「知らず、この衣にかかれりける一顆珠の乾坤を照破することを。たちまちに発明せしより、老母を棄てて知識を訪ぬ、人の稀なる儀なり。恩愛のたれか軽からん」

「ころもにかかる一顆珠」とは、『法華経』・五百弟子品に依る衣裏宝珠の喩えの事で、知らずしらずの内に衣裏珠の功徳で乾坤(天地)が照り輝いたのも知らずに居たのである。

「発明」とは発心して心地を明らめてからは、老母を置いて五祖を訪ねたことは常人では出来ぬ儀(手本)であり、恩情・愛情は軽いものではない。因みにこの場合は「老母をすてて」とありますが、別本では『金剛般若波羅蜜経』を唱えていた旦那が、母親の養い代として金銭を六祖に渡したとか、いろいろなバリエーションがあります。

「法を重くして恩愛を軽くするによりて棄恩せしなり。これすなはち有智若聞、即能信解の道理なり。いはゆる智は人に学せず、みづから起すにあらず。智よく智につたはれ、智すなはち智をたづぬるなり」

「法を重くし恩愛を軽くするによりて棄恩」とは、能所の関係ではなく、棄恩とは別の物を置いての棄ではありません。

「これすなはち有智若聞、即能信解の道理」

この語は『法華経』・薬草喩品偈文にある言句ですが、「智あるもの若し聞かば、即ち能く信解す」と訓みますが、今云う所の「有智」は「全智なり、尽界を以て談じて、智智の外には余物は無き道理」お『御抄』では註解されます。

「いはゆる智は人に学せず、みづから起こすにあらず。智よく智に伝はれ智すなはち智をたづぬるなり」

『沢木本』によると、「智」を別語で「仏性」とも「実相」とも「仏智慧」とも云い、「智よく智に伝はれ」を「唯仏与仏」とも表現し、「智すなはち智をたづぬるなり」の「智」は「阿弥陀仏」とも「法性真如」とも云う。

 

五百の蝙蝠は智おのづから身をつくる。さらに身なし、心なし。十千の游魚は智したしく身にてあるゆゑに、縁にあらず、因にあらずといへども、聞法すれば即解するなり。きたるにあらず、入にあらず。たとへば、東君の春にあふがごとし。智は有念にあらず、智は無念にあらず。智は有心にあらず、智は無心にあらず。いはんや大小にかゝはらんや、いはんや迷悟の論ならんや。いふところは、佛法はいかにあることともしらず、さきより聞取するにあらざれば、したふにあらず、ねがふにあらざれども、聞法するに、恩をかろくし身をわするゝは、有智の身心すでに自己にあらざるがゆゑにしかあらしむるなり。これを即能信解といふ。しらず、いくめぐりの生死にか、この智をもちながら、いたづらなる塵勞にめぐる。なほし石の玉をつゝめるが、玉も石につゝまれりともしらず、石も玉をつゝめりともしらざるがごとし。人これをしる、人これを採。これすなはち玉の期せざるところ、石のまたざるところ、石の知見によらず、玉の思量にあらざるなり。すなはち人と智とあひしらざれども、道かならず智にきかるゝがごとし。

「五百の蝙蝠」の説話は『西域記』・三に出づ。

「南海の浜に一つの枯樹有り。五百の蝙蝠、中に穴居す。諸のる商人有り、此の樹下に止まる。時に風寒にして皆飢え凍えたり。木々を集積し火を枯樹の下にし、火焔盛んにして枯樹遂に燃ゆ。時に商人の中に一人の客有り。夜分に阿毘達磨蔵を誦す。彼の諸の蝙蝠、火煙に苦しむも、法音を愛好し忍びて去らず、此処で終命す。業に随い生を受け、俱に人身を得る。家を捨てて修学し、法の声を聞くに乗じて、聡明利智なり。並びに聖果を証して世の福田となす。近頃カニシカ王、脇尊者と共に五百の賢聖を召集して、カシミール国に於いて毘婆沙論を作る。賢聖はかつての枯樹の中の五百の蝙蝠なり。賢聖とは羅漢のことで、智(実相・法性・仏性)のハタラキにより身をつくり、智のほかには身なし心なしと、先の「有智若聞即能信解」の具体例を説くものです。

「十千游魚」の説話は『金光明経』・四・流水長者品に出づ。

「流水長者は旱魃で死にかかっていた一万匹の魚に水と食糧を与え、さらに十二因縁と宝勝如来の名号を聞かせた。流水長者が帰宅した間に、地震が起こり一万匹の魚は同日に終命したが、十二因縁と宝勝如来の名号を聞いた功徳で、忉利天に生まれ、恩義を感じ流水長者の家に四万個の真珠の瓔珞と無数の曼荼羅華を雨ふらした。釈尊成道の後は、一万人の天子として金光明経の会座に加わった。

これが「十千游魚」の説話の概要で、こう云った教えが仏教圏内のタイ・ビルマ等にも放生(ほうじょう)という行持として受けつがれています。

この一万匹の魚には智(実相・法性・仏性)が親密に身体に具足する為、十二因縁・原因によらなくても仏法を解することができると云うための「十千游魚」の比喩です。

「来たるにあらず入にあらず、たとへば東君の春にあふがごとし」

いま云う処の「智」は出入りするような、また出来るものではありません。「東君」というのは「春の神」の意で、別に「太陽」という意味もあるようですが、この場合は、春の神である東君が自分自身に出会うようなものである。つまりは去来に蹤跡なきを喩えて東君の春と云い、『御抄』では「別物の交らわざる所をこのように云う」と註解します。

「智は有念にあらず智は無念にあらずー中略―聞法するに恩を軽くし身を忘るるは、有智の身心すでに自己にあらざるがゆゑにしかあらしむるなり。これを即能信解といふ」

この処は文の如くで難なし。「六祖のむかしは」の拈提で、「有智若聞、即能信解」に対する「有智」と「信解」の関係性を述べたものです。

「知らず、いくめぐりの生死にか、この智を持ちながら、いたづらなる塵労にめぐる。なほし石の玉をつつめるがー中略―これすんはち玉の期せざる処、石の待たざる処、石の知見によらず、玉の思量にあらざるなり。すなはち人と智と相知らざれども、道かならず智に聞かるるがごとし」

この文章も一般的理解で解し易く難なし。

「なほし」とは「たとえて云うと」の意で、『御抄』では「人と智の間(あわい)、石と玉(ぎょく)の如しの喩え」との事ですが、ややもすると「本覚論」的解釈に陥り易い説き方のような気がする。

 

無智疑怪、即爲永失といふ道あり。智かならずしも有にあらず、智かならずしも無にあらざれども、一時の春松なる有あり、秋菊なる無あり。この無智のとき、三菩提みな疑怪となる、盡諸法みな疑怪なり。このとき、永失即爲なり。

「無智疑怪、即為永失」は先の「有智若聞、即能信解」に続く『法華経』・薬草喩品の語句です。それぞれ対句を成すものです。

「智必ずしも有にあらず智必ずしも無にあらざれども、一時の春松なる有あり秋菊なる無あり」

「智」には決まった形態がないことを「有にあらず無にあらず」と表現し、春の景色を「春松なる有」と云い、秋の景色に「秋菊なる無」と名付け、もちろん春の有に対する秋の無の関係ではなく、それぞれが独立した「恁麽」の表現です。

「この無智のとき三菩提みな疑怪となる、尽諸法みな疑怪なり。この時永失即為なり」

ここで云う「無智」は、「智が無い」ではなく「智」の一形体の無智という意で、「三菩提」も「尽諸法」も「疑怪ぎり」との解釈ですから、「無智疑怪を智無きは疑怪す」とは読まず、「無智は疑怪なり」又は「疑怪は無智なり」でも成り立つとの解釈ですから、本来は「即為永失」が「永失即為」に置き換えられるのです。

 

所聞すべき道、所證なるべき法、しかしながら疑怪なり。われにあらず、徧界かくるゝところなし。たれにあらず、萬里一條鐵なり。たとひ恁麼して抽枝なりとも、十方佛土中、唯有一乘法なり。たとひ恁麼して葉落すとも、是法住法位、世間相常住なり。既是恁麼事なるによりて、有智と無智と、日面と月面となり。

「所聞すべき道、所証なるべき法、しかしながら疑怪なり。我にあらず徧界かくるる処なし。たれにあらず万里一条鉄なり」

「所聞すべき道」も「所証なるべき法」も、先に云う「三菩提みな疑怪」と解きますから、当然「しかしながら疑怪なり」となります。本来は此処で段句切りをつけるべきだと思われます。その「疑怪」という恁麽は我の一部でもなく、世間全体に隠れることのない事実で、われ・かれにあらず万里(徧界)一条鉄(欠けることなし)である。

「たとひ恁麽して抽枝なりとも、十方仏土中、唯有一条法なり。たとひ恁麽して葉落すとも、是法住法位、世間相常住なり。既是恁麽事なるによりて有智と無智と、日面と月面となり」

「抽枝」・「葉落」を恁麽に喩えて、先に春松・秋菊の例がありましたから、この場合も抽枝を春に葉落を秋に喩えての説明で、「既是恁麽事」からすると「抽枝」・葉落」・「十方仏土中唯有一乗法・是法住法位・世間相常住」も「有智・無智」・「日面・月面」も同程の心との拈提です。

 

恁麼人なるがゆゑに、六祖も發明せり。つひにすなはち黄梅山に參じて大滿禪師を拝するに、行堂に投下せしむ。昼夜に米を碓こと、僅に八箇月をふるほどに、あるとき夜ふかく更たけて、大滿みづからひそかに碓坊にいたりて六祖にとふ、米白也未と。六祖いはく、白也未有篩在と。大滿つゑして臼をうつこと參下するに、六祖、箕にいれる米をみたび簸る。このときを、師資の道あひかなふといふ。みづからもしらず、佗も不會なりといへども、傳法傳衣、まさしく恁麼の正當時節なり。

「恁麽人なるがゆゑに六祖も発明せり。つひにすなはち黄梅山に参じて大満禅師を拝するに行堂(あんどう)に投下せしむ」

真実を体認する人であったから、六祖も発心して心地を明らかにでき、五祖の黄梅山に参じ拝し、行堂(寺域で俗体のまま諸事に係わる行者のいる所)に居るよう命じた。

「昼夜に米を碓(つく)こと、僅(わづか)に八箇月をふる程に、ある時夜深く更(こう)たけて、大満みづから密かに碓坊(たいぼう)に至りて六祖に問ふ、米白也未と。六祖いはく、白也未有篩在と」

「夜ふかく更たけて」とは三更・四更(午後⒑時すぎから午前3時頃)人気(ひとけ)の無い時処にて師資相伝が行われた事に注意を要す。

「大満つゑして臼(うす)を打つこと三下―中略―まさしく恁麽の正当時節なり」

五祖が臼を三下し、六祖が三度米を簸(ひ)る。まさに啐啄同時の妙である。ここに於いて「伝法伝衣」が行持され、仏道上での「恁麽」の「正当時節」で六祖の恁麽の拈提を終わらせ最後の段に入ります。

 

 

南嶽山無際大師、ちなみに藥山とふ、三乘十二分教某甲粗知。嘗聞南方直指人心見性成佛、實未明了伏望和尚、慈悲指示。

これ藥山の問なり。藥山は本爲講者なり。三乘十二分教は通利せりけるなり。しかあれば、佛法さらに昧然なきがごとし。むかしは別宗いまだおこらず、たゞ三乘十二分教をあきらむるを教學の家風とせり。いま人おほく鈍致にして、各々の宗旨をたてて佛法を度量する、佛道の法度にあらず。

大師いはく、恁麼也不得、不恁麼也不得、恁麼不恁麼不得。汝作麼生。

これすなはち大師の藥山のためにする道なり。まことにそれ恁麼不恁麼不得なるゆゑに、恁麼不得なり、不恁麼不得なり。恁麼は恁麼をいふなり。有限の道用にあらず、無限の道用にあらず。恁麼は不得に參學すべし、不得は恁麼に問取すべし。這箇の恁麼および不得、ひとへに佛量のみにかゝはれるにあらざるなり。會不得なり、悟不得なり。

「南嶽山無際大師、ちなみに薬山とふ。三乗十二分教某甲粗知。嘗聞南方直指人心、見性成仏、実未明了。伏望和尚、慈悲指示」

この古則は『聯灯会要』・十九・薬山章に出典があり、「南嶽山無際大師」とは石頭希遷のことですが、先の『聯灯会要』には南嶽石頭希遷禅師と記載され大師号ではありません。猶この古則のあとに、『有時』巻に説かれる「有時教伊揚眉瞬目」の古則が引用され、連関性が窺われます。また「三乗」とは声聞乗・縁覚乗・菩薩乗。「十二分教」は散文・重頌等、経典を形式内容で十二に区分したものです。

「これ薬山の問なり。薬山は本為講者なり。三乗十二分教は通利せりけるなりー中略―今の人多く鈍致にして各各の宗旨を立てて仏法を度量する、仏道の法度にあらず」

此処の文も難なく読めるが、「今の人多く鈍致にして各各の宗旨を立てて」との拈提で、道元禅師の生きた時代には、曹洞・臨済五家七宗なるものが存在したが、石頭・薬山時代の中唐時には、宗派ではなく「三乗十二分教」という括りでの仏法会得で、『仏教』巻提唱での「三乗十二分教は仏祖の法輪なり」との提唱からも、仏道の今昔観が窺われる。

「大師いはく、恁麽也不得、不恁麽也不得、恁麽不恁麽總不得。汝作麽生」

この語は先の『聯灯会要』の続きの言句です。『恁麽』巻冒頭の古則は、雲居道膺による「欲得恁麽事、須是恁麽人。既是恁麽人、何愁恁麽事に」対する拈提から始まりましたが、この石頭希遷の言句は雲居とは全く逆方向からの説法方式です。

「これすなはち大師の薬山の為にする道なり。誠にそれ恁麽不恁麽總不得なるゆゑに恁麽不得なり。有限の道用にあらず、無限の道用にあらず。恁麽は不得に参学すべし不得は恁麽に問取すべし。這箇の恁麽および不得、ひとへに仏量のみにかかはれるにあらざるなり。会不得なり悟不得なり」

「恁麽は恁麽を云ふなり」までは文の如くですが、ここで云う「不得」を「不可得」に云い換えても構いません。

「恁麽不恁麽」という表現は、有限・無限を道(い)うのではなく、「恁麽」という真実体は「不得に参学すべし」と。「不得」とは、得る・得られないと云った主客の関係ではなく、「不思量」の解釈同様「不」が全体を表す時点で「得」に相転移すると考えたら如何でしょうか。次の「不得は恁麽に問取すべし」は「恁麽は不得に参学」の裏返しの云い様です。

「這箇の恁麽および不得ひとへに仏量のみに関はれるに非ざるなり。会不得なり、悟不得なり」

『沢木本』での注釈は、「恁麽」は別名「空」であり、「色空」→「不可得」=畢竟空―「恁麽」→「会不得」=「悟不得」=「空」とのことですが、第一段での終わりの拈提で「仏道の地空の量いまだ知らざるなり、いまだ見ざるなり」の語句からの事でしょうが、道元禅師の拈提からは「恁麽」と「空」との関係性はわかりません。

 

曹谿山大鑑禪師、ちなみに南嶽大慧禪師にしめすにいはく、是什麼物恁麼來。

この道は、恁麼はこれ不疑なり、不會なるがゆゑに、是什麼物なるがゆゑに、萬物まことにかならず什麼物なると參究すべし。一物まことにかならず什麼物なると參究すべし。什麼物は疑著にはあらざるなり、恁麼來なり。

 

爾時仁治三(1242)年壬寅三月二十日在于觀音導利興聖寶林寺示衆

  寛元元(1243)年癸卯四月十四日書冩之侍者寮 懷弉

この六祖と懐讓との「是什麽物恁麽来」の語は余りにも有名で、一言で仏法の極意と聞かれたら此語に尽きる。読み方は是(これ)什麽物(なにもの)が恁麽来(どのようにきた)と訓み、『仏性』巻冒頭にも次のように拈提されます。「世尊道の一切衆生悉有仏性は、その宗旨いかん。是什麽物恁麽来の道転法輪なり。あるいは衆生といひ群生といひ群類といふ」

「この道は恁麽はこれ不疑なり」以下は文の如く解せられるが、この「是什麽物恁麽来」の拈提は極めて簡潔ですが、還って道元禅師の趣向が窺われる提唱の結論です。