正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

ともに生きること     徳林寺住職  高 岡秀 暢

     ともに生きること

                      徳林寺住職 高 岡 秀 暢

 

ナレーター:     名古屋市にある曹洞宗(そうとうしゆう)の禅寺徳林寺(とくりんじ)。去年の春開かれた花まつりの様子です。四月八日とされる釈迦の誕生日を祝う祭りです。

 

住職の高岡秀暢さん。伝説によると釈迦の母マーヤーが釈迦を妊る時、天から舞い降りた白い象が自らの胎内に宿る夢を見たと言います。お目出度い白い象に目を入れ、釈迦の誕生を祝います。この花まつりは、一年の間で高岡さんが一番大切にしている行事です。祭りには、日本人はもちろんアジア各地からさまざまな人たちが集まります。アオザイベトナム語:正装として着用するベトナムの民族服である)を身にまといお詣りするのは日本で暮らすベトナム人の女性たちです。高岡さんと一緒に中国人とベトナム人の僧侶が法要を営みます。祭壇には百八つの燈明が置かれます。一人一人の願いや祈りを炎に託し、お釈迦様に届けます。境内ではさまざまなグループがイベントを開きます。ネパール料理を作っているのは、毎年この祭りのためにネパールからやってくる一家です。高岡さんが花まつりを始めた頃は、このような賑わいはありませんでした。年を追い、祭りを重ねるごとに参加者の輪が広がり、今ではこのような盛大な祭りに育ちました。参加する人それぞれが、思い思いのスタイルで春のひとときを過ごします。高岡さんにとってみんなが集い楽しむこの花まつりは仏教の真髄そのものだといいます。

 

高岡:  楽しいということがまず基本的に大切で、よく冗談で私話すけれども、『般若心経(はんにやしんぎよう)』の中で「色即是空(しきそくぜくう)空即是色(くうそくぜしき)」という、とても高い、究極的な思想をもっているように、『般若心経』を我々読むけども、実は最後のとこで、「掲帝(ぎやてい) 掲帝(ぎやてい) 般羅掲帝(はらぎやてい) 般羅僧掲帝(はらそうぎやてい) 菩提僧莎訶(ぼじそわか)」という言葉がありますね。その「掲帝(ぎやてい) 掲帝(ぎやてい)」というのは「共に歩きましょう。さぁ歩いているこそが彼岸ですよ。そして歩いていれば彼岸に至っているんだよ」と書いてあるんだから、それは「共に生きている、共に生きていることこそが、我々は楽しいことであり、生き甲斐なんだ」。だから私の宗教は「掲帝掲帝教ですよ」なんて、冗談を言って、いかにも自分が翻訳したようなふりしているけども。まぁ大体少しこう意訳をしているといいますか、そういうとこがありますけども。

 

取材者:  それはそうすると、もっと意訳して広げていくと、楽しい楽しいみたいな。

 

高岡:  まさに今一緒にいるということだけが本当に楽しい。特に子どもたちを見てますと、ともかく子どもたちが集まると一緒にいたいんですね。一緒のことをしていたい。 一人が走り出すと、みんなわぁっと走り出すんですね。それが本来私たちの命の姿かなと。一緒にということは、「共に生きる」と言った方がいいですかね、共に生きることだ。ともにあればどんなに苦しくとも耐えられるし、生きていけると言えると思います。

 

ナレーター:   名古屋市の住宅街の一画にある相生山(あいおいやま)。その頂上に徳林寺があります。高岡さんは、この寺を舞台に、自らが考える仏教の実践に取り組んできました。境内にはさまざまな人が集まり、各人各用の活動をしています。境内には幼稚園があります。

 

高岡:  今日は。何してるの?

 

ナレーター:     この幼稚園は、高岡さんが作ったわけではありません。二十四年前、自然の中でのびのびと子どもを育てたいという地元の方の願いに応えて境内の一画を提供しました。

 

高岡:  この「風の子幼児園」を作ったのは仁藤さん(仁藤清司)さんという方でね。その方がここに幼稚園を作りたいと。彼のイメージの幼稚園を作った。子どもたちが自分たちが一人ひとり好きなように自由にこの自然の中で育てるというんですかね、その子の赴くままをできるだけサポートするという。こちらはこの境内の中に子どもたちがいるだけで、十分達成された。

 

ナレーター:     本堂の裏手には、チェーンソーで木を切っている人がいました。数年前にたまたま寺を訪ねたことをきっかけに、寺の仕事を手伝うようになったといいます。

 

高岡:  それは枝を切って、これは全部薪を作ってくれてる。これぐらいの中で、ちょうど薪になる大きさです。本来は電気屋さんです。

 

松沢秀俊:         ここはね、和尚さんの人徳でね、みんな集まってくる。どうしても頼まれると断れないのね、和尚さんに。ついつい手が出てしまう。

 

高岡:  いろんな人がきていますよ。

 

松沢秀俊:         そうそう。いろんな人が来てね。やっぱり見てやれないというか。何もできないのにやろうとするから、そこに人が集まってきてやってくれるという。その徳がいま人の良い使い方だね。

 

ナレーター:     境内には畑も、以前、徳林寺に滞在していた僧侶が作りました。

 

高岡:  アメリカ人のお坊さんがいるんです。もともと荒れ地だったんですけれども、石をどんどん取り除いて、開墾しましてね、山から木の葉を集めて来て、畑を作ってくれたから、何とか作ってくれたんだから、あと続けなきゃということでいろんな工夫しながら、何とか畑地として残っている。だからここは「トーマス農園」というんです。今から種蒔きの時ですから、これからいろいろ夏野菜を作るんですけど。

 

ナレーター:     畑の片隅には、熱心に雑草を抜いている人がいました。

 

取材者:  こんにちは。ちょっとお聞きしてもいいですか。今草むしりされていましたけども、こことはどういうご関係でいらっしゃるんでしょうか?

 

井上康之:         ある人に連れてきてもらって、ちょっと浮浪者みたいな状態になっちゃって、夜連れてきてもらったんです。

 

取材者:  浮浪者みたいな?

 

井上康之:         ちょっともう親も亡くなったり、弟も亡くなったり、ペットもなくなって、いろんなことがあって、心が…

 

取材者:  それでこちらに来られたわけですか?

 

井上康之:         はい。

 

取材者:  こちら住んでおられる?

 

井上康之:         住んでます、今。十月の中ぐらいに、去年の。もう行く所もないで、心が病んじゃって…すいません。

 

高岡:  ここらが工具店並みにいろんな道具がありましてね。木材加工、それからコンクリートの仕事も、水道の仕事も、大体のことができる場なんですよ。今いっぱいあるでしょう。木材がいっぱいあるでしょう。大工をやらない人たちが全部くださるんです。

 

取材者:  自然に集まってくる?

 

高岡:  そうそう。図って作ってるんじゃなくて、図らずもできてるという世界なんですね。

 

高岡:  ここが宿坊なんですね。

 

ナレーター:     高岡さんは三十年ほど前から、行き場所に困っている人たちを受け入れてきました。それが評判を呼び、役場や市民団体の紹介でアジアやアフリカからの難民や留学生が、次々と寺を訪れるようになりました。この宿坊は寺に集まる仲間たちと一緒に廃材を利用して手作りで建てたもの。「みんなの家」と名付けました。一人一部屋、全部で十六部屋あります。ネパール人、ベトナム人アメリカ人、そして日本人、さまざまな国からやってきた百人以上が、徳林寺で人生のひとときを過ごし旅立っていきました。

 

高岡:  正直言ってね、どんな人というのを、私は説明できるだけの…その人のどういう存在か知らないのね、実はね。その人のもちろんこんな感じの人だ―社会的な存在じゃないんですよ。その人の持っている心というのか、性質というのか、そういう意味では一人ひとりバラエティーを感じてお付き合いしているんだけども。実はどこで何をしているか。この近くにいるのか、遠くにいるのか、それも知らなくてお付き合いしているという感じですよね。

 

ナレーター:     高岡さんは徳林寺に身を寄せる人たちに対して根掘り葉掘り身上を質すことは控えてきました。何も聞かずにその人を受け入れ、ただ一緒に暮らしてきたと言います。

 

高岡:  この人をお世話しているんだとか、お世話になってるんだとか、そういう意識はあんまり持たないし、なんか自然にただいるからお付き合いしている、そういう感じですね。やっぱり自分の心の底の中に人寂しいからね、誰か居て欲しい。誰かと一緒にこういないと自分の生活が、あるいはできない。それが負であるとか、プラスであるとかね、そういう意味ではなくって、何らかの人がいないと自分の行動というのかな、自分の心が刺激されないので、あんまり動きが悪くなる、自分自身のね。人がいると、その人の動きによって私も動けるというとこもあるので、私はこれがしたいとか、あれをしたいとか、ということで生きているんじゃなくて、なんか人と一緒にいると何か自分の心がそれに対応して動ける。ちょっと活発になるというのかね、そんなことじゃないかと私は思ってますけど。

 

ナレーター:     食卓には畑でとれた野菜が並びます。この日の昼食は寺で暮らすベトナム人の留学生が作りました。

 

 

留学生:  これはネパールの高菜。ここの畑で収穫した。

 

高岡:  これはネパールの高菜のような野菜なんだけど、それは独特の味があって、それを食べると、あ、ネパールだという。

 

ナレーター:     高岡さんは、昭和十八年徳林寺の長男として生まれました。しかし、すんなりと僧侶になったわけではありません。高岡さんが父の跡を継ぐ決意し、得度したのは三十七歳。そこに至るには紆余曲折がありました。高岡さんは昭和三十八年名古屋大学の機械工学科に入学します。カメラを作ることが夢でした。

 

高岡:  小さい頃からレンズが好きだったのじゃないかと思うんですね。小学校の頃考えると、幻灯器、そういったものを作ったり、望遠鏡を作ったり、高校時代になるとそのカメラに至るわけですけども、どうも気に入るカメラがない。じゃあ自分で作りたいなと思って、それで精密機械工学、そういうものを目指そうと思ったんです。ところが私のとこ貧乏だったからね、もうやっぱり名古屋から離れるのはちょっと難しいかなと思って、それで機械工学にしたんですね。

 

ナレーター:     高岡さんは写真部に入部。カメラを作るより仲間と一緒に写真を撮ることに熱中していきます。ところが間もなくベトナム反戦運動などをきっかけに、学生運動が盛んになっていきます。世の中は高度経済成長の最中、そうした潮流は、高岡さんに大きな影響を与えます。高岡さんは写真を通して社会の問題に目を向けるようになりました。

 

高岡:  当時は安保闘争というのがあったんですね。そしてもう一つは、外ではベトナム戦争があったんですね。そういう問題は絶えず学内では問い掛けられるんですね。私は非常にノンポリ(英語の「nonpoliticalの略で、政治運動に関心が無いこと、あるいは関心が無い人。そのような集団をノンポリ層とも呼ぶ)で、そういうものはかなわないなと思って逃げる方だったんですけれども、やっぱり心の方はやっぱり追及されているような気がしましてね。写真のテーマに、例えばゴミの問題とか、それから公害の問題とか、それから看護婦とか、そういう問題に自然的に入って行ったんですね。それによってだんだんと考える人間になっていくというのか、社会に対する疑問というのか、自分が社会に出るのが、ちょっと辛い気持ちが出てきた頃でした。どこに悩みが自分にあったのかわからないけども、自分の臆病さが、社会に出ていく臆病さがなしたものだと思いますけどね。

 

ナレーター:   高岡さんは産業社会との結びつきが強い機械工学から、人の営みを探求する美学・美術史学科へ転部します。そして人間を見つめる写真を撮り続けます。

 

 

取材者:  何かを求めていたんでしょうか。何を探しておられたんですか?

 

高岡:  そうですね。自分の人生をもう一度振り返ってみると、というようなことが頭に浮かぶと、思い出す一つの大きな記憶というんですかね、残っていることがあってね、学生の頃そういう写真を撮ったりとか、旅行したりするのが好きだったので、ある日東京の方から名古屋へ帰るときに、夜行列車で隣に酔っ払いが座ってきて、しきりに私にこういろんな自分のことを話すんですね。その方が「俺は飯場から逃げてきたんだ」と。「給料もなかなかくれんし、タコ部屋(第二次大戦前に、北海道・樺太の炭鉱などでみられた労働者の宿舎。過酷な労働を強い、ここに入ると蛸壺の蛸のように出られなくなるところからいう)でとんでもない生活させられたから、もう逃げて来たんだ」というような話をしてくれて、いろいろそういう話をしながら、私聞くばかりだったんだけども、その時に嫌だなと思いながら聞いてたんですけども、後の自分の感想というんですかね、後から感じるのは、〈自分がそういうものと闘ってきてないな、この人生きることに闘ってるな〉そういうことを感じて、自分の生きる気持ちというのか、姿勢というのか、刺激を受けたというのか、自分が愕然としたというのかね、自分の生き方に。節々で自分を思い出すと、その人のことを思い出す。そんなところから卒業したら、どこか家出をしてみようと。親に「ちょっと家出したいんだ」と。公認の家出をさせてもらって、仙台のほうに行ったんですね。小さいソニーの下請け工場に入って、寮みたいなところに入れてもらって住んでいると、いろいろ若い子たちが―当時はまだたしか高校生で、中学出で就職する方も多かったですから、住んでいるわけですね。そうすると、一部屋四つか五つのベッドのあるとこの部屋ですから、毎日その人達とお付き合いでしたからね、非常に楽しかったんですね。しかし、会社の方は、「どうだ、うちの会社に正社員にならないか」と言われて、急に私は「そんなことしておれない。まだ自分はたまたま旅で―発作的に―いやぁ僕インドへ行くんですよ。インドに行ってちょっと旅をしたいんです」という話をしてたんですね。この社会から脱落しようというような、なんか気持ちが働いてたように思いますけども。

 

ナレーター:     昭和四十五年、高岡さんはアジアへと旅立ちます。インドからパキスタン、そしてネパールへ、気ままな貧乏旅行。道中高岡さんに強い印象を与えたのは、ネパール人との出会いでした。当時はネパール最後の王朝の頃、人々は宗教に深く根ざした暮らしをしていました。その姿に魅せられ、高岡さんは結局十年間ネパールにとどまることになります。

 

高岡:  カトマンズに入ったら、ずーっとこう気持ちが軽くなるような風景だったんですね。日本における自分を問われる社会生活ですか、「あんたどうやって行くんですか? どうやって何をするんですか? どんなことを責任を果たしていくんですか?」というような質問がいつも自分に与えられているけども、ネパールに行くとそういう質問は全くないわけですから、そういうものから一切解放された。まず田園風景の中に囲まれている都市ですからね、カトマンズの当時は。緑が多くて、そして人たちの対応が優しいですね。そういうのに自分の気持ちが癒されたと思うし、確かに貧乏な風景なんですけどね。明るさとか、人の生活の風景の、安心できる風景といいますかね、意味があるというんですか、町の中にたくさんのお堂とかね、いろいろありますね。そういったところに行くと、絶えず人が祈っている風景があったわけですけども。当時はまだ温暖化の影響はなかったので、夜なんかは結構寒くなるんですね。寒くなると盆地というのは霧が立ち込めてちゃうんですね。そういう街を歩いてますとね、お盆にお供え物などを載せて、辻道ごとにお詣りしながら歩くんですね。霧が出ているから、急にその姿がスーッと現れるんですね。とてもそれが印象的ですね。そういう人たちの信仰の風景というか、姿が非常に魅力的だったように思います。

 

ナレーター:     ネパール人の優しさと、篤い信仰に触れ、高岡さんは改めて仏教の素晴らしさに目覚めていきます。ネパールで知り合った日本人の仲間たちとともに、高岡さんが魅了された仏教徒たちの姿を撮り始めました。ネパールで暮らし始めて間もないある日、高岡さんは生涯の師に出会います。

 

高岡:  アモーガ・ヴァジュラ ヴァジュラーチャーリヤといいますね。「ヴァジュラーチャーリヤ」というのは、日本でも「金剛阿闍梨(こんごうあじやり)」という言葉が日本の翻訳なんですけども。

 

ナレーター:     アモーガさんは当時ネパール屈指の教養を身につけ、僧としても祭や儀式を司るなど、人々から深い尊敬を受けていました。

 

高岡:  先生について学ぶということはとても楽しいことでしたから、その百八観音さんに非常に興味を持った。観音様の講義を受ける。ネパールに伝わる観音物語、先生が知っている限りお聞きできた。ある日、「儀式を見に行きますか?」と言われたから、「はい、ぜひ行きます」と言って付いていった。そこがジャナ・バハというお寺なんですけども。

 

ナレーター:     ジャナ・バハ寺は、ネパールの仏教徒の間で最も親しまれ、際立った信仰を集めている観音霊場の一つ。百八種類の観音菩薩が祀られています。その中でもご本尊は、「白観音(しろかんのん)」と呼ばれています。毎年年末から正月にかけて行われる沐浴祭。僧たちが観音様を洗い清めたあと、八日間かけて化粧直しをします。白観音を念じると、不慮の死を免れる功徳があるとされています。ネパールでは観音菩薩は「慈悲なるもの」と呼ばれています。悩み苦しむものが観音を念じ、その名を唱えるだけで必ず救いに来てくれると信じられてきました。観音菩薩は救いを求める相手に応じてさまざまな姿で現れます。人々が苦しみを訴えるたびにその姿は増え、百八種類になったと言われています。

 

高岡:  儀式というのは、日本の儀式と違って、日本の儀式は非常にしめやかにというか、整然として行います。ところが向こうでは非常に雑然と行うんですね。

 

ナレーター:     満月の夜、僧たちの手で生まれ変わった観音様は、人々に披露され、盛大な法要が営まれます。

 

高岡:  儀式を指導するのはもちろんお坊さんなんですけども、儀式の途中に準備不足もものどんどん加えていくし、子どもたちはそこの周りをぐるぐる回っているし、子どもたちもお坊さんたちもとてものんびりと気楽に楽しくやっているような感じ。あ、こういう形で仏教は伝わっているんだ、ということを理解できたのは非常に印象でしたね。何か一つになっているな。確かにやっていることはバラバラのように見えるけども、一つになっているな、ということをよく感じるんです。「繋がる」ということは、どこからきたのかな、と時々想像するんですね。仏教はどういうふうにつながっているかな。諸仏教と言ってね、中国仏教もある、台湾の仏教もある、日本仏教、タイの仏教もありますけども、どの仏教でも必ずあるのは「仏法僧に帰依する」という言葉があるんですね。その「仏法僧に帰依する」というところの「仏法僧」という時、日本では大方の人が多分「仏と教えと僧に帰依する」というふうに理解する人が多いと思うんですけども、実は「僧に帰依する」というところは、もともとは「僧伽(そうが)」―中国語で「僧伽(そうが)」と訳した言葉がある。「僧伽」というのは、実は向こうでは「サンガ」という言葉なんですね。「サンガ」というのは「教団」という意味とか、「共に」という意味なんですね。ネパール語なんかで「一緒に行きましょう」という時は「サンガイジャン」というんですね。「サンガイ」という言葉ですね。その「一緒に」というところが仏教の重要な教えかなと。だから儀式をする時、「まずみんな一緒に祝うんだ」という、その表現が実に肉体的形としてね、みんな繋がる。一つになってその時こそお坊さんが祈るんです。だからその部分には非常に感銘するものがあったし、ここに一つの仏教の真髄があるんじゃないかというようなところも、自分は良く感じましたね。ネパールの仏教の特色は「ともに生きる」ということを大切にするんですよ。その中に具体的な実践としては「グティ」と言って日本における「講」とか「結」とかような社会的な組織を作るところのグループのことを「グティ」というんですけども、それぞれの人が一人ひとりに聞くと、「私はこのグティとこのグティとこのグティ」と、四つか五つのグティに、必ずグループに参加している講人なんですね。その講を通して社会生活を送ってるということは、必ず社会の中に生きる、社会的なグループを作って生きて助け合っているということがよく感じられます。

 

ナレーター:     高岡さんはともに生きる仏教を体得させてくれたアモーガさんたち仏教徒。彼らはネパールの中でも少数民族のネワール族です。言葉もネワール語という独自の言語を使ってきました。

 

高岡:  アモーガ先生としての言葉というのは、ネワール語という別の言葉ですね。全く文法体が違うんです。ただ抽象名詞はサンスクリットなんですね。

 

ナレーター:     サンスクリットとは、日本仏教の経典を生み出した古代インドの言葉です。ネワール族はサンスクリット語で記された経典を日々唱え、代々守り伝えてきました。そしてその多くは世界の他の国には残されていないものでした。ところがサンスクリット語を理解できる僧侶は年々減り、経典の価値を知る人はわずかしかいませんでした。高岡さんは、貴重な経典が外国人に二束三文で売り捌かれていることを知ります。

 

高岡:  サンスクリット仏教というのは、実は滅びたと言われていたんですけどね、かつて。ところが実は小さな盆地、ネパールのカトマンズ盆地にはサンスクリットの経典として行われている仏教があったわけですね。残っていたということで。しかし、アモーガ先生から聞いた、そのことをもちろん理解していくわけですけども、そのアモーガ先生は、そのサンスクリット仏教の衰退ということに大きく悩まされた。「サンスクリット理解する人がいないんだと。しかもそれを伝えるために弟子を育てるより、弟子が見つからないだ」と、そういうことを大変悲しまれていたんですね。私なんか青二才ですね。何も理解できない。何もお話しされるそれは非常に自分にとっては感銘というのか、辛い思いで聞くということがありましたね。

 

ナレーター:     高岡さんたちはネパール仏教を守る手助けをしようと考えました。

 

高岡:  テープレコーダーとかスライドとか、これはDVDなんですけども。

 

ナレーター:     経典を買い集めるお金はありませんでしたが、代わりに写真で記録を残すことにしました。

 

高岡:  ネワール語なんですが、古文書館にある写本がこの一枚に入っているというわけですね。最近やったのは、こういうマイクロフィルムですね。

 

ナレーター:     高岡さん達が撮影した写真は、学問的にも価値が高く、今ではネパールの博物館に収められています。さらに人々の暮らしの中で伝えられてきた祭りや儀式の映像も記録しました。

 

高岡:  祭りの場面ですね。これはねいよいよ石の粉でマンダラというのか、神様の座を作るんですね、これはね。今座っている方、この方は七十七歳のお祝いに家族が揃ってみんなでお祝いしている。この方「ヴァジュラーチャーリヤ」―金剛阿闍梨で、家族で七十七歳をお祝いしている、という。こういう非常に見ているとおかしいようなことをやっているんですね。非常に真面目で、かつ神聖なものなんですけども。本当に非常に近い関係で、みんなでプレゼントの服装をみんなで替えてあげる。非常に近い家族の関係という感じられますね。しかもこうしておじいさんとか、尊敬してやっていますので、だんだんと体の機能は衰えてきながらも、家族の中で中心的な存在という。非常に幸せなことだと、私は思うんです。こういう本を作っているわけですね。

 

ナレーター:     高岡さんは出版も手がけました。これは仏教徒たちが信仰している百八種類の観音菩薩をすべて網羅した版画集です。

 

高岡:  木版にしましてね、一つ一つ木版を残す。これは馬頭観音ですけども。六道(りくどう)―六つの道、我々は生まれ代わるのは「天上・人間・地獄・畜生・阿修羅・餓鬼」の世界をぐるぐる生まれ変わるんだよ、というふうに言われている。その全て丸ごと救ってくれる観音さんなんだと。これは日本でいう聖観音(しようかんのん)様ですね。この蓮を持って、ここに与願印(よがんいん)という、願いを与えるという姿なんですね。これ観音様は願いを与える、これはアモーガ先生が出版に当たって、こちらにも監修してくれた。一つの悲しみというものを共有するというのか、伝えていくということが、文化というのは諸先輩、自分たちの先祖たちが、時々の悲しさとか、苦しみというものを伝えていく作業なんだと。それはアモーガ先生から頂いた心だったし、だから知識を受け継ぐというよりも、悲しみを受け取るということが自分にとっては何か強く自分の中に心働いていて、何か自分が生きる中に先生の悲しみをどうやって生きていくか、というのが、こうあったように思います。

 

ナレーター:     昭和五十五年、高岡さんは帰国。改めて仏教を修行し直し、翌年三十七歳で得度しました。以来、高岡さんはネパールで学んだ「共に生きる仏教」を名古屋の地で実現しようと、さまざまな取り組みを続けてきました。その歩みとともに、日本人はもちろん世界各地から仲間たちが徳林寺に集うようになりました。

 

取材者:  おはようございます。

 

高岡:  おがようございます。

 

ナレーター:     三月半ば、新型コロナウイルス感染症が拡大する中、高岡さんは車椅子でも本堂に上がれるようにバリアフリーの工事を進めていました。

 

高岡:  リーダーとしては、車椅子の方がリーダーなんだけど、私はバリアフリーだと思って、これを作ったんですよ。これではバリアフリーにならない。これは車椅子の人がとても上がれるスロープではなくて、もっと二十分の一から十五分の一ぐらい、最近でも十二分の一の坂にしなければいけないというんですね。これだと多分八分の一とか、四メートルで六十センチだから、八分の一ぐらいかな、八分の一ではダメだと。急過ぎるわけだ。十二分の一までスロープを作らなければいけないというんですね。じゃ作りましょうということで作ることになって、みんな素人でやるんですよ。なかなか大変。例えばバリアフリーの問題がある。バリアというのはその障壁というものなわけですけども、人間において障壁を取り去ろう。人間が差別されてはならないんだというのは、仏教のテーマですからね。バリアをみんなで取っていこうじゃないかというテーマが出てくると、そうしたら、あ、これだったら共有できるなと。自分たちの生きている環境すべてが、自分たちの繋がり合える場としての風景、そういったものを作っていくようなことをお寺がしたらいいんじゃないかと。

 

ナレーター:     本堂では今年の花まつりの準備が始まりました。祭りのシンボルになっている大きな白い象の製作です。中心になっているのは、名古屋の竹林を手入れするボランティアのグループです。なんとか今年も祭りを行いたいとの思いで集まりました。

 

高岡:  鼻はこれから作るの?

 

ボランティア: そうです。

 

ナレーター:     花まつりを彩る仏具やお供えは、すべて高岡さんの仲間たちが手作りします。準備に駆けつけたダン・ホアン・ダンさん。名古屋の企業で働くベトナム人のエンジニアです。エリック・ムシャンガルサさんは紛争の絶えないコンゴ民主共和国から逃れてきた難民です。去年来日し、難民申請をして徳林寺に身を置いていました。今年就労許可を得て寺を出たばかりです。

 

エリック:         ここ平和。ここは私のハウス―徳林寺。

 

ダン・ホアン・ダン: でも私はキリスト教仏教徒ではない。でも時々…大丈夫。

 

取材者:  住職の高岡さんはどんな人ですか?

 

エリック:         高岡さん、強い強い、親切な、私の父―お父さんだ。

 

取材者:  今日はそれで手伝いに来たわけですね。

 

エリック:         そうそう。

 

ダン・ホアン・ダン: 僕は仏教だから土曜日と日曜日、休みならここに来て、先生に、何かやることはありませんか。あればみなは集まって、先生に一緒にやりましょう。その時は楽しいです。自分の気持ちです。

 

ナレーター:     国籍の違い、宗教の違い、職業の違い、さまざまな背景を持った人たちがこの寺に集まり、同じ時間を共有します。

 

高岡:  そういえば仏教というのは「泥池に咲く蓮」というような表現があるじゃないですか。その泥池に咲く花―花というものに多くの人は注目して、仏教文化という―仏教というかもしれないけども、実は泥池に咲く蓮というのは、実は泥池も含めてこう生まれてくる蓮。だから蓮だけがこう美しいとして仏法ではなくて、その土台である泥池もすべて含めて仏教ですから、我々衆生というのは絶えず欲があり、怒りがあり、苦しみがある…の中に生きている。そこにこそ蓮は咲くわけですから。我々は生きているというのは、泥池ですから、その生きた仏教というのは、我々共に語り合い、そして共に食べ、そして共に語り、そして共に心を伝え合うということができますからね。そちらは「ともにある」ということの方に、むしろ私にとっては喜びであるし、実践であるように思いますから。

 

ナレーター:     三月下旬、新型コロナウイルスによる感染症が収まらず、花まつりは延期を余儀なくされました。その頃ベトナムからやってきた留学生グェン・タンニョンさんは部屋で論文に取り組んでいました。グェン・タンニョンさんは仏教の比較研究をしています。インド、ネパールからチベット、中国、そして日本へ、国境を越えて教えは一つであることがわかると言います。

 

グェン:  私は今『根本一切経破僧事』、これはちょっと古い日本語ですね。これ漢文から翻訳しましたけども、それはもともとはサンスクリットとかチベット語チベット語も全部残っている可能性が高いですので、サンスクリットチベットと漢文の対照している、そういうのは目的でして。

 

ナレーター:     四月四日、グェンさんは一組の日本人の結婚式の先導を務めました。新郎新婦は、この寺で出会い、去年の花まつりの頃に付き合い始めました。ちょうど一年目の記念日にあたるこの日に式を挙げました。参列したのは徳林寺で知り合った仲間たちです。

 

ナレーター:     二人は感染症の広がりにより、式を延期すべきか悩みました。結局両親を初め参列者を招かず、二人だけの式を挙げることを決意。それを知った仲間たちが祝いに駆けつけました。高岡さんは、いつもは自分が入れる象の目を二人に描いてもらいました。

 

高岡:  どうもおめでとう!

 

新郎新婦:         ありがとうございました。

 

新郎:  本当は二人だけでここでやろうかというのがあったから、こんだけあったかい人たちに見守られてできたのは本当に幸せに思ってます。ほんと今日やれてよかった。和尚さんの計らいでご先祖にもちゃんとご挨拶もできたから、それよかった。

 

高岡:  なかなか社会では、お金とかね、社会的地位というのか、競争社会ですからね。競争すると、どうしても他者と自分というものを分けていかなければいけないですから、そういったものを少し取り除くと、みんな自然につながっていくんじゃないかなと思って、私は単なる場を提供しているだけみたいなもんですけども、いつも私はいうんだけども、「ここのお寺、とても面白いんですね」というから、「あなたが来たから面白いんですから、もっと楽しんでください」と、そういうんですね。だから「私はここの場を提供するかどうかについては、いろいろと考えるけれども、後はそちらにお任せですから」という話をいたしますね。いろんな人が来てここに来ると、その人のいるおかげでとてもいい文化・学びをさせていただくんですね。だからその人がいるからここの徳林寺ができてくるという、そういうところはありますね。

 

     これは、令和二年五月十日に、NHK教育テレビの

     「こころの時代」で放映されたものである 。

 

http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-mokuji.htm ライブラリーよりコピーし一部改変ワード化したものである。