正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

吉峰寺に関する論考

吉峰寺に関する論考

    一

                 二谷 正信

はじめに

道元禅師に関わる著作・論文等は、これまで先輩諸氏等によって数限りなくといっていいほど発表・刊行されていて、あえて私などが論ずる事もなさそうに思われるのですが、特に入越後に於ける動静について禿筆を執ってみたいと思います。

  •    吉峰寺・禅師峰・波著寺各寺のよび名及び・るびについて

先ず大久保道舟氏著、『道元禅師伝の研究』中に収められている箇所を引用すると、「第八章北越入山の真相、第二節永平寺僧団の創設、第一項吉峰寺掛錫と禅師峰行化中」には、

正法眼蔵の奥書によると、その移錫の当初一時吉峰寺に掛錫し、また禅師峰(やましぶ)にも行化せられたことが見えているが、この両寺の創立由緒に関しては全く明らかではない。中について吉峰寺は、卍山が『越前州吉峰寺略記』(卍山広録第二十八)一篇を書いているが、その草創由来に関しては何事も触れていない。しかし正法眼蔵密語・嗣書・大悟・大修行などの奥書には「吉峰古寺草庵」「吉峰古寺」「吉峰古精舎」等と見えているから、その伽藍が禅師入山以前から存したことは疑いない。而してこれは吉峰寺(きっぽうじ)と読むのではなく「よしみねでら」と訓読すべきである。それは『正法眼蔵梅華』の奥書に「吉嶺寺」と識されているのを見ても明瞭である。ところでその名称は公的なものかといえば、恐らく土地の名を冠した私称であったと思う。即ち吉峰(よしみね)なる地名に因んで古寺の名を呼ばれたので、公然たる寺名ではなかったと想像する。然らばそれは何宗に属していたかというに、この志比荘が東寺最勝光院の荘園であった点から推測して、だいたい真言宗系統の山寺―(中略)―しかし禅師にはこの吉峰寺在錫中、寛元元年十一月より翌二年正月にいたる約三箇月の間、一時禅師峰にも行化せられたことがある。同処は現今勝山街道に沿って荒川の奥に位置し、大野群下庄村に属している。面山はその創立に関し、訂補に「禅師峯ハ天台平泉寺ノ近所ニテ、古ハ山師峯と書ス、山法師ノ居スル峯ト云意カ、後ニ禅師峯と書ス、今モ禅師峯村と云フ、祖師モト叡山ノ僧ナレバ、コノ禅師峯ニ天台ノ僧侶多キユヘ、聞法ノ為ニ請セシナルベシ」と記しているが、その天台宗との関係云云は一概に信じられないと思う。」

また同書「後篇第一章原始僧団と日本達磨宗との関係、第二項永平寺僧団の開設と懐鑒の慫慂」に於いては

「若し想像の自由を許されるならば、これは懐鑒の本據たる波著寺と同系統の真言寺院ではなかったかと考える。」

と記され、波著寺については「同篇四一六頁」に

「波著寺の所在については根本的な史料がないので正確なところはわからないが、(中略)ともかく本来は泰澄の開基であるが、後真言宗に属し、特に観音の霊場(波著観音)として知られていた。」

と以上のように述べられて居ります。

次に私は平泉澄氏による道元禅師観なるものを掲示いたします。御承知かも知れませんが両博士ともに越前生まれの碩学でありまして、年齢もほぼ同じであります(最終頁にて略歴記す)。

先ずは『父祖の足跡』第二十深山雪夜の段であります。

「(前段略)禅師は京に生れて京に育ち、支那から帰って後も、京都または其の附近に居ったが、寛元元年その四十四歳の秋七月、北国越前に入った。その冬、禅師は初めて北国の深雪を経験した。『正法眼蔵梅華』の巻の奥書に「爾時日本国仁治四年癸卯十一月六日、在越州吉田県吉嶺寺、深雪三尺、大地漫漫」とある。仁治四年は、春二月二十六日改元あって、寛元元年となった。後嵯峨天皇、前年正月践祚あり、三月即位あって、一年後に代始めの改元となったのである。しかるに其の事、禅師の耳に入り、承知されたのであらうに、十一月になっても、仁治四年と記された事は、道を行じ、道を説くに専心して、俗界との交渉に無関心であった事を語るものであらう。吉田県とあるのは、即ち吉田郡であって、本来からいふ郡は無かったのが、平安時代の末から、一郡として独立したのであらう。吉嶺寺とあるのは、即ち吉峰寺であるが、之を吉峰寺と書かないで、吉嶺寺と書かれてある事は、頗る注意に値する。といふのは、吉峰寺は、後世すべて之を音読してキッポウジと呼んでいるが、古い時代には音読ではなく、訓読してヨシミネデラと呼ばれていた事が、之によって知られるからである。もともと此の吉峰寺は、同年に道元禅師が止住し説法した禅師峰と共に、白山平泉寺の境内に近く、わづかに其の境内四至のはづれに在って、完全に其の勢力圏内、もしくは其の影響下に在った。禅師峰は、白山社の四至の一隅ある禅師王子の峰つづきであった。その白山関係の諸霊場は、大抵訓読であった。たとへば大谷(おほたに)寺、豊原(とよはら)寺、大滝(おほたき)寺の類である。平泉寺がひとり音読で例外であるやうに見えるが、是も古くは平清水(ひらしみづ)と呼ばれた証拠がある。そして寺とはいふものの、是等はいづれも神を祀り、社殿をその本来の中心としたものであって、寺といふは、単に霊場といふ意味に解すればよい。道元禅師の生涯に深い関係のあるのは、白山の神であって、その入宋に際しても、「仏法大統領白山妙理大権現」に祈願を籠めたといふ。―中略―かねて信仰する白山権現の因縁もあり、且つまた先師如浄が支那越州の人であった関係もあって、越の地をなつかしく思ったのであろう。」

平泉澄氏は述べられて居ります。音読・訓読について今一つ同氏の解説付き『泰澄和尚伝記』を紹介いたしましょう。「略註十五」では

「三外往生伝に、天承二年に長逝した勝義大徳の伝を記して、「越前国山麓、平清水之常住也」とあるのを見れば、古くは平清水または平泉とよばれていたのであらう。大谷にしても、豊原にしても、泰澄大師の関係のある所は、多く訓読せられ、又必ずしも寺号を称しないのを特色とするのである。」

と解説しているところからも、吉峰寺に於いても泰澄大師開基と伝えられて居るところから、やはり訓読が適切に思われる。

さらに同氏による『明治の源流』では百八頁に於いて次の如く示されて居られます。

道元は帰朝後の四年を京の建仁寺で、次の十二三年を宇治の興聖寺で送ったが、今や方向を転じて僻地遠境に入り、深山幽谷の中に在って一箇半箇の開悟を志すに至った。之を案内したのは義重であったが、之を招いたのは白山権現であったらう。道元はかねてより白山の神を信仰し、「仏法擁護の大統領」と称していた。そして越前に入るや、義重によって永平寺が創立せられるまでの一年半は、或は禅師峰に在り、或は吉峰寺に住して、法を説いた。禅師峰は、白山社の境内(四至)、東北隅に虚空蔵、東南隅に荒神、西北隅に観音、西南隅に禅師王子を祀った。その禅師王子の鎮座によって山を禅師峰と呼んだのであり、一方吉峰寺は白山平泉寺の末寺であったのであるから、二つながら白山社との関係が深い。(後段略)」

と考へて居られる平泉澄氏に基を置き、吉峰寺・禅師峰・波著寺各寺のよび名、及びるびについての私なりの結論を導く段の前に、波著寺について郷土資料とも云うべき二つの資料を採りあげてみましょう。

先ず『帰鴈記』(二二)に

「福井の西なる愛宕権現は、本地勝軍地蔵にてまします。羽明明神(はあかりみょうじん)は薬師を安置す。又当山に七面(ななおもて)の社あり。波着寺(なみつきでら)・松尾寺といふには観世音を安置す。天魔が池といふも此山にあり。

と、るびが附してあります。波着の着は著が正しいと思われます。

今一つ、山田秋甫氏の『泰澄大師の恩徳』を参考本としてみる事に致します。先程の波著寺に関しては同書三六頁に、越前国中卅三所観音廻礼詠歌の一覧表があり、丹生郡坂井郡・大野郡・福井・吉田郡・足羽郡・南條郡各地域の寺院の名があげられています。

十八番 波着寺

  ふだらくや彼岸もちかき波着寺

    舟ならねどもいたるなりけり

と詠われています。明らかに、「はぢゃく」とは云へず、「なみつき」と呼ばれていたことが伺われます。因みに先程紹介した平泉澄氏著『父祖の足跡』にみるところの大谷寺、豊原寺、についても書き記してみましょう。

 六番 大谷寺

    恵み来る功徳はここに大谷寺

      数の仏に縁をむすびて

 十番 豊原寺

    紫の雲のこちいに豊原寺

      あかのながれやくすりなるらん

と詠われて居ります。

 これら『越前国中三三所観音廻札所詠歌』・『帰鴈記』・『父祖の足跡』・『明治の源流』・『泰澄和尚伝記註解』・『道元禅師伝の研究』で以て結論づけるには、あまりにも貧弱すぎるのではありますが、とりあえず云い放ちまと、

吉峰寺・禅師峰・波著寺・それぞれ元来的にはよしみねでら、やましぶ、なみつきでらと呼ぶことが正しく思われます。ただし元来的と附記したように、現代から八百年近く前の事であり、言葉はもともと「ことだま」と云われたように時々変遷するものでありますから、吉峰寺も私などは、「きっぽうじさん」と呼び親しんでいるのですが、いざまとまった論文やその他附随したものを口述または書す場合に於いては、はっきりと当時は「よしみねでら」であったようです。と述べるなり、るびを附すべきと考えられます。人名に於いても然りであります。道元禅師に関連した人物では、藤原定家源通親を例にとってみますに、一般的に定家はていかと呼び親しんでいますが元来的と云うか本名はさだいえであり、当時の民衆が「さだいえ」と呼び捨てにするには抵抗感があり尊敬の念も含めて、「ていか」と呼ばれていたことが八百年近く過ぎても、私共も「ふじわらていか」と呼び親しんで居る事実であります。源通親にしても然りで、今では「みちちか」と呼んでいますが、当時は「とうしんのきょう」と云われた如くであります。今のことばで云ふなら愛称・つまりニックネームを本名の如く思う人を思うと、るびの重要性をつくづく考えざるをえません。

(二)吉峰寺・禅師峰に於ける正法眼蔵奥書についての考察

ただいまから述べる考察は、鴻昭社発行、本山版縮刷『正法眼蔵』が基底である。

先ず吉峰寺・禅師峰両寺に於ける道元・懐弉による正法眼蔵奥書を列記す。       

一  三界唯心 爾時寛元元年癸卯閏七月初一日在越宇禅師峰頭示衆

二  一顆明珠 寛元元年癸卯閏七月二十三日書写于越州吉田郡志比荘吉峰寺院主房侍者比丘懐弉

三  説心説性 爾時寛元元年癸卯在于日本国越州吉田県吉峰寺示衆

四  仏道   爾時寛元元年癸卯九月十六日在越州吉田県吉峰寺示衆

五  諸法実相 爾時寛元元年癸卯九月日在于日本越州吉峰寺示衆

六  密語   爾時寛元元年癸卯九月二十日在越州吉田県吉峰古精舎示衆

七  嗣書   寛元癸卯九月二十四日掛錫於越州吉田県吉峰古寺草菴 華字

八  仏経   爾時寛元元年癸卯秋九月菴居于越州吉田県吉峰寺示衆

九  無情説法 寛元元年癸卯十月二日在越州吉田県吉峰寺示衆

一〇 坐禅箴  爾時同四年癸卯冬十一月在越州吉田県吉峰精舎

一一 法性   于時日本寛元元年癸卯孟冬在越州吉峰精舎

一二 陀羅尼  爾時寛元元年癸卯九月二十日在越于吉峰寺示衆

一三 洗面   寛元元年癸卯十月二十日在越州吉田県吉峰寺示衆

        建長二年庚戌正月十一日越州吉田郡吉祥山永平寺示衆

一四 面授   爾時寛元元年癸卯十月二十日吉峰精舎示衆

一五 坐禅儀  爾時寛元元年癸卯冬十一月在越州吉田県吉峰精舎示衆

一六 梅華   爾時日本国仁治四年癸卯冬十一月六日在越州吉田県吉嶺寺深雪三尺大地漫漫

一七 十方   爾時寛元元年癸卯十一月十三日在日本国越州吉峰精舎示衆

一八 見仏   爾時寛元元年癸卯冬十一月朔十九日在禅師峰山示衆

一九 徧参   爾時寛元元年癸卯十一月二十七日在越于禅師峰下茅菴示衆

二〇 眼睛   爾時寛元元年癸卯十二月十七日在越州禅師峰下示衆

二一 家常   于時寛元元年十二月十七日在越于禅師峰下示衆

二二 龍吟   于時寛元元年十二月二十五日在越于禅師峰下示衆

二三 春秋   于時寛元二年甲辰在越宇山奥示衆逢仏事而転仏麟経祖師道衆角雖多一麟足矣

二四 授記   寛元二年甲辰正月二十日書写于越州吉峰寺侍者寮

二五 大悟   而今寛元二年甲辰正月二十七日駐錫越宇吉峰古寺而書示於人天大衆

二六 祖師西来 爾時寛元二年甲辰二月四日在越宇深山裏示衆

二七 優曇華  爾時寛元二年甲辰二月十二日在越宇吉峰精藍示衆

二八 発無上心 爾時寛元二年甲辰二月十四日在越州吉田県吉峰精舎示衆

二九 発菩提心 爾時寛元二年甲辰二月十四日在越州吉田県吉峰精舎示衆

三〇 如来全身 爾時寛元二年甲辰二月十五日在越州吉田県吉峰精舎示衆

三一 三昧王  爾時寛元二年甲辰二月十五日在越宇吉峰精舎示衆

三二 菩提分法 爾時寛元二年甲辰二月十四日在越宇吉峰精舎示衆

三三 転法輪  于時寛元二年甲辰二月二十七日在越宇吉峰精舎示衆

三四 自証三昧 爾時寛元二年甲辰二月二十九日在越宇吉峰精舎示衆

三五 大修行  爾時寛元二年甲辰三月九日在越宇吉峰古精舎示衆

三六 摩訶般若 爾時寛元二年甲辰三月二十一日在越宇吉峰精舎侍者寮書写之

  • まずは吉峰寺に対する呼称について

吉峰精舎―14回・吉峰寺―8回・吉峰古寺―2回

吉峰古精舎―1回・吉峰精藍―1回

  • 同日提唱奥書きの違い

一三 洗面―吉峰寺示衆

一四 面授―吉峰古精舎示衆

  • 懐弉による奥書き

二 一顆明珠―吉峰寺院

三六摩訶般若―吉峰古精舎

これらの奥書き表記から読みとれることは、入越当初は②に示す如くに、「吉峰寺・吉峰精舎」を並記呼称していた事実。を示し、時間経過と共に吉峰寺→吉峰精舎にと変遷する事実は、③に示す懐弉の奥書きからも確認できる。

  • 禅師峰について

この④             禅師峰の呼び名も恐らくは俗称であり、禅師王子に聯関するものであろう。「一 三界唯心―禅師峰頭」は誤記と思われる。禅師峰での提唱は「一八見仏から二二龍吟」、期間は「寛元元年(1243)十一月十九日から同年十二月二十日」の約一か月と限定されたもので、川向に位置する白山神社境内に南谷(清僧6000坊)北谷(妻帯僧2400坊)を擁する天台系列に属する学徒への特別集中講義とも位置づけられる。呼称については①禅師峰山②禅師峰下③禅師峰下茅菴。と三種の表記が確認できるが、現地調査(1999年頃)を通しての実感では、現在地に位置し明治期に創建された禅師峰寺福井県大野市西大月)周辺に茅菴のような小舎が在ったものと想像される。

これら列記した示衆から特に「一六梅華奥書き」について考察する。

まず「日本国仁治四年癸卯冬十一月六日」の記述であります。前章に於いても紹介した平泉澄氏著『父祖の足跡』では、「仁治四年は、春二月二十六日改元あって、寛元元年となった。―中略―十一月になっても、仁治四年と記された事は、道を行じ、道を説くに専心して、俗界との交渉に無関心であった事を語るものであらう」と指摘されるが、「一〇坐禅箴」でも「仁治四年癸卯冬十一月」と十一月に何がしかの意図が内在するもの歟。

次に「吉田県」について考察する。結論から云うと、吉田県なるものは無いと云う事である。『古今類聚越前国誌』の郡界並旧地では、「倭名類聚鈔日、北陸郡第六十三越前国管六敦賀(都留我)丹生(爾不)今立(伊万太千)足羽(安須波)大野(於保乃)坂井(佐加乃井)越前古五郡なり弘仁十四年(823)丹生郡を分て今立郡を置六郡となれり、三代格延喜式の文上出す、後南条・吉田二郡を割て八郡とす、時代未だ詳ならず。吉田郡―旧坂井郡後に割て一郡とす、大野郡の西にあり、南足羽郡に界し西北坂井郡に至る」

因みに吉田郡なる名が始めて資料に登場するのは建久元年(1190)の事である。

何故「吉田県」に固執するかについて小拙の愚説を披瀝する。

先ず入越までの正法眼蔵つまり葛藤の巻までを見ると、「一顆明珠―雍州宇治即心是仏―雍州宇治仏祖―雍州宇治心不可得―雍州宇治看経―雍州宇治阿羅漢―雍州宇治柏樹子―雍州宇治夢中説夢―雍州宇治葛藤―雍州宇治」と書き記される。

次に正法眼蔵本文には、「有時―葉県の帰省禅師は・仏性―杭州鹽官県斉安国師・行持―漢州十方県人」と当時の宋の地名を表している事から察して、正法眼蔵執筆当初は彼の留学地での想い、呼び習わし・習慣・習俗等々さまざまの要因が折り重なり宇治県と書き表わされ、後に本来の宇治郡と記したと考えられる。こういう観点からみてくると、入越後の吉峰寺示衆にだけ吉田県を記し後に永平寺山門に見られるように宝治二年には「越前國吉田郡志比庄傘松峯從今日名吉祥山」と書し、「一三洗面」に於ける奥書きでも建長二年示衆では吉田郡とし、この事からだけしても禅師の息づかいが窺われる。つまり吉峰寺・禅師峰それぞれの説法には禅師の意気込みが伝わり、前述するように敢えて吉田県と奥書きしたのには、帰朝当初の心意気・魂の雄叫びにも似た情感さへ感ぜられる筆法である。勿論そこには京から越前に至る原因である諸々の事情があったからこそ、一新更なる気構えが起こったのであろう。

次に同じく『梅花』巻に見られる「吉嶺寺」なるものに注目してみる。

『新選漢和辞典小林信明編)によると、嶺―レイ・リョウ・みね・やまみち・さか・やまなみ・連山、峰―ホウ・フ・みねー山の頂上・高い山・峰はとがったものの意味がある・山の突端をいう、峯・峰の正字とあります。

興聖寺での著述に於ける峰・嶺の各字体を見てみる。

辦道話―大白一顆明珠―雪有時―高古鏡―雪行仏威儀―雪山、仏向上事―巌頭雪行持―三庵、海印三昧―高頭、授記―雪光明―少室道得―雪葛藤―雪。以上十二巻で「峰」の字が使われる。

一顆明珠―出仏性南人、行持上猿啼、光明―烏石古仏心―大庾。五巻で確認される。

因みに懐弉『光明蔵三昧』に於いては、「雪」亦『義雲和尚語録偈頌』山居二首では「吉祥頭人間」と記される。さらに『泰澄和尚伝記』原文では峯と嶺を次のように区別しています。「和尚於越知、白山高、常念攀登彼雪

以上御覧いただいてもわかるように、本来的には「よしみねでら・吉嶺寺」と訓読せしむるようにの字面を『梅華』の奥書きでは使用するが、他の諸巻の奥書きでは通字としてのの書体を使用したと思われるが、山門の額には正字であるを書き記されたものと考察するものである。

最後に『梅華』奥書きに示された「深雪三尺大地漫漫」なる詞に注目してみよう。奥書に気象要件が書き添えられた巻は、『光明』『梅華』の両巻のみである。

百錬抄寛元元年(1243)十一月五日条には「五日丁未。今朝深盈尺。豊年呈瑞。去承元五年(1211)以後無如此之雪云々」と記録され、京の都では承元五年以来三十二年ぶりの大雪に見舞われ、翌日の六日には線状降雪帯が嶺北永平寺周辺に移動し、三尺ものドカ雪を眼前にした驚きを、『梅華』奥書きに記録されたのであるが、雪雷を伴うような身の危険をも感じさせる豪雪は、恐らく始めての経験であったろうと推測されます。

このような状況にて、奥書きに「吉田県・吉嶺寺・深雪三尺」の情報を後世の我々学徒に示された御恩は測り知れない仏徳の賜物である。

 

(三)白山神社(平泉寺)と吉峰寺との関係

まずは白山神社(平泉寺)と書いた事から説明する。平泉澄氏著『南越五六号』では「平泉寺・白山神社について」なる論考を紹介する。

「平泉寺といいますと、いかにも寺のように聞こえます。しかし本来の平泉寺は寺ではありませぬ。それは白山神社の別号といってもよく、又は白山神社を本体とし、しの神社に奉仕している人々をも包含して称したものといってもよいのであります。神社でありながら、平泉寺というのは、不思議なゆでありますが、それは神仏混淆の世には随分多かった事で、昔としては必ずしも不思議ではなかったのであります。寺であるか、神社であるか、を決定するものは仏を安置してあるか、神が祀られてあるか、という点でありますが、平泉寺では、本堂にに当たりますのが、白山の本社であり、本尊に当たりますのが、伊弉冊尊であります。そして拝殿には白山平泉寺という額が今もかけられています。それ故に明治維新の際、神仏分離の断行せられますと共に政府がはっきりと之を神社であると認定せられたのは、当然の事であります。」

と説明せられ、同様に田中卓氏著『神社と祭祀』に於いても次の如く述べられる。

「中央の史料で、白山の麓の「平清水」といふ名が早く見えるのは、、『三外往生記』である。これは平安時代の末期に沙弥蓮禅によって編纂された異相往生人の伝記集であるが、その中に「勝義大徳」(1063―1132)のことを述べて、「越前国山麓平清水之常住也」と記してゐる。これによると、「平清水」といふ地名が、勝義の常住した場所といふことになるが、この「平清水」は前述の白山神社境内の御手洗の池のことで、そのあたり一帯が当時、「平清水」の名で呼ばれてゐたことが知られよう。それだけではない、この頃にはまだ「平泉寺」といふ寺名は確立してゐなかったらしい、といふことが推量せられる」(三〇三頁)

さらに同書三〇七頁では

「「平泉寺」と書いても、これを当初から「へいせんじ」と訓んだのではなく、もともとは「ひらいづみでら」と呼んでゐたと思はれることは、平安時代末期の編纂とせられる『伊呂波字類抄』の部類立てでは、「平泉寺」が「部」(ヘ)の項には見えず、「比」(ヒ)の条下に収められてゐることによって明らかである。逆に遡って、長寛元年(1163)の成立とみられる『白山之記』(白山比咩神社叢書)にも、「越前馬場」や「越前下山七社」の名称はあっても、「平泉寺」とは出てこない。また保安二年(1121)藤原敦光撰の『白山上人縁起』(本朝続文粋)にも「平泉寺」の名は現れない。さらに天徳元年(957)の撰述とせられる『泰澄和尚伝記』を検討しても、その文中に「平泉寺」はない。要するに、久安三年(1147)以前の確実な史料に、「平泉寺」の寺名は見当らないのである。以上によって、元来は「白山神社」であったのが、社領の一部の平清水に僧侶が住みつき、平安時代の末以降、恐らくは比叡山との本末関係が出来た後に、「平泉寺」と呼ばれるようになったが、その名称も、当初は平清水(ひらしみづ)に因んで「ひらいづみでら」と呼ばれてゐたことが知られよう。」

このように平泉氏の直弟子である田中氏は、詳細に白山神社と平泉寺との関係性を解き明かされます。

次いで白山社と吉峰寺との関わりを四氏の論考で考察する。

平泉澄『明治の源流』一〇八頁

「禅師峰は、白山社の境内(四至内)、東北隅に虚空蔵、東南隅に荒神、西北隅に観音、西南隅に禅師王子を祀った。その禅師王子の鎮座によって山を禅師峰と読んだのであり、一方吉峰寺は白山平泉寺の末寺であったのであるから、二つながら白山社との関係が深い。」

平泉洸氏著「平泉寺の白山神社」『我等の郷土と人物』第二巻・七一頁

「禅師と白山とは深い関係にあり、禅師が越前に入られて最初に移られた禅師峰にしても、吉峰寺にしても皆当時は平泉寺の末寺であり、入宋の時に白山神を祈念された事といい、恐らく禅師のお若い時代の修養信仰と関係があると考えられるのであります。」

竹内道雄氏著『孤雲懐弉禅師伝』一九六頁

「おそらく道元禅師は、北越入山に当たっての白山天台の勧誘と厚意に応え、かつまた自己の正伝の仏法の立場と入山の意義を宣布すべく最初の説法の場所として禅師峯頭を選んだのであろう。(中略)ところで道元禅師を中核とした僧団が北越入山後早々に厳修した冬安居は、吉峯寺と禅師峯の両方において修行することが予め計画されていたようである。すなわち寛元元年の十月十六日の結制から十一月中旬までの最初の一ヵ月間は吉峯寺を中心にし、十一月中旬以後十二月までの一ヵ月半は禅師峯を中心にし、翌寛元二年一月十五日の解制までの最後の半月は吉峯寺を中心にして修行したと思われる。このように冬安居の修行道場を禅師峯をいれて二ヵ所に置いたことは、道元禅師が多分に白山天台を意識したためと推測される。」

守屋茂氏著道元禅師と北越移錫の真相」『道元思想大系』第三巻所収

「寛元元年七月末道元が志比荘に着かれてから、約一年有半の間の活動は、常識では何としても理解のつきかねる事柄が多い。こうしたことは夙に故平泉澄博士が、「歴史に於ける実と真」(『我が歴史観所収)に於いてふれておられるように、文献的に二様以上の史料であることもあろうが、文献による合理主義的な対象的解釈だけでなく、仏教者としての道元の全人格的な視点を無視したなら、最早真の道元その人を見ることは出来ないということにもなろう。道元の只管打坐に対し、白山天台の推移、もと達磨宗所属の僧衆、乃至は延暦寺末寺院の動きなど、概念的には直ちに諒解出来るものではなく、是等のものは、何等かの共通した、強い絆にて結ばれているであろうことに注目しなければならない。」

以上四氏の論考をみてきたのであるが、いずれも白山神社と吉峰寺との繋がりは述べては居られるが、具体的地域名等は挙げておられない。それは後述するとして、その前に前述の『歴史に於ける実と真』での要所を捉え、史家のありように迫ってみたい。

「歴史的真を得る為には、史家はその人物の性情を理解して之に同感し得ると共に、それ以上に出でて高処よりその人物や事件の意義を把握しなければならない。(中略)信なくして歴史は成り立たない。もし信を除外してひとえに実を漁る時は、父も果たして父なりや、母も果たして母なりや、誰か之を証明し得よう。父母を父母とするは信により、信あってそこに徳の実現を見、やがて我が家の歴史の成立をみる。」

と、かくの如く歴史を学ぶ者に対しての態度がうたわれてある。

さて、いよいよ白山神社(平泉寺)と吉峰寺との関係の段に踏み込む事としよう。

上志比村史』吉田森氏編「白山天台教圏の志比庄への拡散」(二八二頁)から興味深い項を紹介する。

「寛元元年(1243)七月一日京都深草観音導利興聖宝林寺から平泉寺の禅師王子に到着し、直ちに吉峯寺に仮住した時、ここには圓了坊が居住していて道元一行を迎えたという事実である。(中略)竹原村と藤巻村との間を北流する北河内川の竹原集落より上流部を午谷川と呼ぶ。この谷の左右両山麓は平泉寺末坊多く並び、右岸入口には多珍坊・東輪坊、その奥には辰ノ坊、その南西谷底に福千坊、及び多繁坊、谷の口には地蔵坊と並んでいた。左岸には福千坊の北西部に弁財天堂、その北に二つの小坊が存在し(中略)、多珍坊は、現場には庭石のみ残しているのみであるが、平泉寺末坊最後の坊主教然が、真宗本願寺顕如に帰依し(云々)」

と現地踏査の模様を記されるが、吉峯寺周辺に残る多くの坊舎跡の遺構は筆者自身も確認した次第であるが、残念ながら圓了坊なる人物に関しては、編纂者である吉田森氏はすでに亡くなり(平成12年時点)、村史関係者に聞き及ぶも出典籍などに関しても、何らの情報も得られず余念を残す結果となる。

光明寺白山神社の由来記』早津良規氏著「若越郷土研究」

「波多野志比地頭の花谷館も安全性の一部を光明寺で守り得た。平安時代末治承年中(1177―1181)平清盛が、平泉寺に志比庄を寄進したことが見えて、その後平泉寺の第一関門とした。それ以後光明寺白山神社は平泉寺の支配下に入り、毎年の例祭には祈祷を勤めていた。この別当寺が光明寺で、現在は廃寺になってその跡さえ不明である。」

『平泉寺史要』(五〇六頁)に於いても

吉田郡下志比村光明寺は治承年中平清盛、厚く白山社に帰依し、吉田郡志比の庄三里を寄附したる時、光明寺は一の関門を置かれし所にして、現今の上志比・下志比両村は平泉寺領たりしなり。」

このように吉峰寺と白山社とは親密なる関係にある事がわかる。

これまでは吉峰寺周辺と白山神社(平泉寺)との関係をみてきたが、次に平泉寺領について考察する。

福井県の歴史』白山信仰の一大拠点―平泉寺」(二九〇頁)

室町時代の平泉寺は「九万石、九千貫の神領、四八宮、三六堂甍を並べ、僧坊六千(内妻帯者三千人)」(明和四年1767)「北国白山並越前国大野郡白山中宮平泉寺由緒書」といわれた。平泉寺の四至は丑寅(うしとら・北東)の虚空蔵、辰巳(たつみ・南東)の荒神石、未申(ひつじさる・南西)の禅師王子、戌亥(いぬい・北西)の比島観音を結んだ範囲である。この四至内は、近世を通じ上高島村・下高島村・下毛屋村・猪野毛屋村・若猪野村・井野口村・北市村を四至内七か村と呼んだことからして、この地域が直接支配の平泉寺領であったとみて差し支えないと思う。天文八年(1539)の「平泉寺賢聖院々領所々目録」によれば(中略)、現在の勝山市域と大野市域の坂谷地区と下庄地区の大半は、平泉寺の院房の所領であったと推定できる。」

などと地域名が確認できる。

『日本の神々(神社と聖地)』足立尚計氏著(一六一頁)には

「県内における白山信仰の分布は、各郡ごとの白山神社の数によって知ることができる。白山神社と称する神社は、福井県神社庁所管の全神社数一七〇三社中三〇三社あり、全体の一八%にも及んでいる。それも白山に近い勝山市では全体の半数、大野市では四〇%が白山神社であり、この割合は大野盆地から遠ざかるにつれて減少し、武生(越前市)・鯖江など南越では一二%、若狭の三方郡では二%、最も遠方の大飯郡ではゼロになっている。このように、白山信仰は越前の最も代表的な神社信仰と考えてよいであろう。」

 

これらの諸資料を包括的に検討してみるならば、おのずと道元禅師の入越時に於ける白山神社(平泉寺)の勢力範囲が知られよう。結論としては入越当初の吉峰寺は、白山社の末寺あるいは末坊であったと断定してよいと思われる。

最後ではあるが、吉峰寺に入寺されるに当たっては波多野義重や波著寺関係者たちが、額汗されたであろう事項には論じられなかった。今後の課題にし擱筆とする。

追記

この論考は2000年(平成12)に永平寺の機関誌である「傘松」に掲載されたものを一部改変し提供するものである。

あわせて「泰澄和尚」「泰澄の伝記について」も併読されたい。

平泉澄―1895年(明治28)2月16日―昭和59年(1984)2月18日帰幽。

大久保道舟―1896年(明治29)7月1日―平成6年(1994)9月5日遷化。

殊に平泉博士の場合には、戦後歴史学の立場からは蛇蝎の如く嫌われ、その

影響からか道元研究者からも無視される存在であったが、今谷明氏による「

平泉澄と権門体制論」(『中世の寺社と信仰』)に説示される『中世に於け

る社寺と社会との関係』は、道元研究に於いても必読書であろう。

大久保博士の場合には、なんと言っても『道元禅師伝の研究』は半世紀以上

前の著作ではあるが、いまだ色褪せない名著であり、一度は熟読すべき古典と

もいうべき研究書である。