正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

泰澄の伝記について

             泰澄の伝記について 『福井県史』通史編より抜書(一部改変)

  白山信仰の開創者として、奈良時代に活躍したとされる泰澄については、諸本に種々の伝記が残されている。そのうち最古の成立とされ、泰澄の行状について最も具体的な内容の知られるのは『泰澄和尚伝記』である。この奥書によれば、天徳元年(九五七)のころ、三善清行の子で、白山で修行した経歴を有する天台宗の僧浄蔵の口授した内容を、その門人で大谷寺の寺院仏法興隆の根本の人とされる神興が筆記したものとされている。正中二年(一三二五)という最も古い書写の年紀を有するのが金沢文庫本の『泰澄和尚伝記』(『資料編』一)で、このほか同系統の写本として、大永年間(一五二一~二八)ころの書写と考えられる勝山市白山神社所蔵の平泉寺本、南北朝期ころの書写といわれる石川県尾口村の密谷氏所蔵の尾添本、貞享二年(一六八五)書写の水戸彰考館本、明治以降に書写された石川県鶴来町の白山比神社所蔵本などがある。このほか元和五年(一六一九)書写の奥書をもつ朝日町の越知神社所蔵本が二種類伝わっている。また、泰澄や白山のことが掲載されている史料としては、平安後期に成立した『大日本国法華験記』や『本朝神仙伝』、鎌倉末期に成立した虎関師錬による仏教史書元亨釈書』、江戸期の『本朝高僧伝』などが存在する。ここでは、金沢文庫本『泰澄和尚伝記』(以下『伝記』)にしたがって、「泰澄和尚伝」の要旨を確認しておこう。

  (1)泰澄は、越の大徳または神融禅師ともいい、越前国麻生津の三神安角を父、伊野氏の

      女性を母として、天武天皇の白鳳二十二年六月十一日に生まれた。

    (2)幼いころから一般の児童とは異なり、泥で仏像を造ったりしていたが、持統天皇七年(

      六九三)にこの地を訪れた道照(昭)が神童であることを見抜き、両親にその旨を伝え

      た。

  (3)一四歳の時に十一面観音の夢告を受け、越知峰の坂本の岩屋に通い、後年この峰に

      篭もって修行に励んだ。

  (4)大宝二年(七〇二)には伴安麻呂が勅使として遣わされ、泰澄は鎮護国家の法師とな

      った。

    (5)この年、能登島より小沙弥が訪れ、やがて泰澄の身の回りの世話をするようになり、臥

      行者とよばれた。

    (6)臥行者は北海の行船から米を徴収し和尚に供していたが、和銅五年(七一二)中央の

      政府に納める米を運搬して出羽よりやってきた船の船頭神部浄定はこれを断った。臥

      行者が怒ると、船の米は飛んで越知峰に来集したため、仏徳の不思議を見て浄定は

      和尚に謝った。そして米を返してもらい、これを中央に届けたのち和尚の弟子となって

      側に侍した。

    (7)和尚は霊亀二年(七一六)に貴女(白山神)の夢告を受け、養老元年(七一七)四月一

      日その母のゆかりの地である白山の麓の大野隈苔川東伊野原に来宿した。

    (8)この東の林泉に貴女が現われ、自分は伊弉諾尊(伊弉尊の誤記か)で、妙理大権

      現と号すと語った。

    (9)さらに和尚が白山天嶺の禅定(霊山の頂上)に登ると、緑碧池の側で最初九頭竜王

      、次に白山神の本地仏である十一面観音が現われた。

    (10)また左孤峰で聖観音の現身である小白山別山大行事、右孤峰で阿弥陀の現身の大

      己貴を感得し、和尚はこの峰に居した。

    (11)のち養老六年には浄定行者とともに都に赴いて元正天皇の病の治療にあたった。そ

      の効あって和尚は護持僧として禅師の位を授けられ、諱を神融禅師と号した。

    (12)また神亀二年(七二五)七月には白山妙理大権現に参詣した行基と出会い、行基

      質問に答えて種々の現瑞などを語り、行基は極楽での再会を誓った。

    (13)ついで天平八年(七三六)に都に出て玄に会い、十一面経を授けられた。

    (14)翌九年には当時大流行していた天然痘の鎮撫のため、勅を受けて十一面法を修した

      。その功によって大和尚の位を賜わり、また諱を泰澄と号した。

    (15)その後、天平宝字二年(七五八)からは越知峰の大谷仙窟に蟄居し、ここを入定の地

      と定めたが、この間神護景雲元年(七六七)には一万基の三重木塔を勧進造立し、勅

      使吉備真備に付けて奉った。

    (16)同年三月十八日和尚は予言どおり結跏趺坐し、大日の定印を結んで八六歳で遷化し

      た。その遺骨は石の柩に入れ、大師房に葬った。

       『泰澄和尚伝記』の検討

 先にみた『伝記』の要旨である(1)~(16)の内容について、それぞれに説明を加えながら具体的に検討してみよう。

    (1)泰澄の生まれたとされる麻生津は、「朝津」「浅水」とも表記され、その故地とみられる

      福井市三十八社町には、泰澄の開創と伝える泰澄寺が現存し、本堂・大師堂などの伽

      藍や、産湯の井戸と伝える井戸など泰澄ゆかりの遺跡が残っている。一説には、泰澄

      の父三神安角がこの近辺の日野川水系で船頭を営んでいたとの伝承もあり、白山信

      仰を水運と結び付ける一つの論拠とされている(山岸共「泰澄伝承」『白山信仰』)。

      また泰澄の生年である白鳳二十二年については、平泉寺本などの写本には同十一年と

      ある。いずれにしても、『伝記』 中のほかの年代の表記と泰澄の年令から逆算して、天

      武天皇十一年(六八二)に該当することになる。

   (2)道昭は白雉三年(六五三)に入唐し、日本に法相宗を伝えたとされる高僧で、法興寺

      飛鳥寺)の禅院に住した。和銅三年の平城遷都後、全国を周遊したという。ただ、持統

      天皇七年に彼が越前に来たという形跡は、ほかの史料には存在しない。

    (3)越知山は、福井市丹生郡朝日町・織田町の境にある海抜六一三メートルの山で、『

      伝記』にいう坂本の岩屋と伝える金堂とよばれる小さな洞窟が、その麓の朝日町に存

      在する。越知山は、明治初年の神仏分離まで修験の行場として栄えたが、分離ののち

      越知神社となった。白山の遥拝所としての性格を有し、白山と同様に三所の神を祀り、

      奥之院には臥行者の修行の場と伝える遺跡も存在する。また、もとこの別当寺であっ

      た朝日町の大谷寺(天台宗)は、泰澄入定の地と伝え、十五世紀には白山中宮平泉寺

      に対し本宮と称し、一一院三二坊を有する大寺院であった(本川幹男「越知山修験道

      の展開と変遷」『白山・立山と北陸修験道』)。現存する大谷寺大長院には泰澄の廟と

      いわれる石造九重塔があり、この石塔には、「元亨第三 癸亥 三月四日 

      願主金資 行現 大工平末光」という銘が残っている。元亨三年(一三二三)の年紀をもつこの石塔は国の重要文化財に指定されている。このほか、同寺には白山の本地仏で最古の遺例という十二世紀後半の木造十一面観音坐像・同阿弥陀如来像・同聖観音像や、明応二年(一四九三)五月二十六日の銘のある泰澄大師・臥行者・浄定行者の三尊像など、白山・泰澄関係の文化財が多数伝わっている。

  (4)伴安麻呂すなわち大伴安麻呂は、大伴長徳の子で、歌人として有名な大伴旅人の父にあたる。大宝二年の段階では、彼は従三位式部卿の地位にあったが、彼が勅使として越前に赴いたという記録は『伝記』以外には存在しない。

  (5)小沙弥(のちの臥行者)の出身地能登島は、能登半島の東側、内能登の七尾湾に浮かぶ四七・五平方キロメートルの島で、現在石川県鹿島郡能登島町となっている。ここには、須曾蝦夷穴古墳という高句麗形式の古墳が現存し、古くから朝鮮半島との関係が指摘されている。高句麗といえば、泰澄の祀った白山比神を「高句麗姫」とみなし、白山信仰高句麗の信仰が移入されたものとみる見解も存在する(玉井敬泉「白山信仰の祭神と信仰」『白山信仰』)。

 (6)神部浄定(のちの浄定行者)の運んできた米俵が空を飛んで越知山に至ったという説話については、種々の観点からその意義づけが試みられている。一つは、出羽から中央に輸送される税としての米という理由で神部浄定が施入を拒んだところ、米が越知山へ飛び去ったという点について、これを地方に住む人びとの中央の行政、とくに課税に対する反抗の姿勢を示すものと受け取る見解がある(浅香年木「『泰澄和尚伝』試考」『古代文化』三六―五)。あるいはまた、これに類する米の飛行の説話、たとえば播磨の法華山一乗寺の法道仙人と船師の藤井、信貴山寺の命蓮と富豪との話など共通した説話の内容から、「飛鉢法」は水上輸送された官米の掠奪の実態を象徴しているとされる見解や(田中久夫「能登法音信仰」『観道仙人と十一面観音信仰』)、山林修行者がその糧を得るために修した「飛鉢法」が、その行者の偉大さを潤色する要素となったとするもの(長坂一郎「『泰澄和尚伝』と越知山」『福井県立博物館紀要』一)などがある。

 (7)泰澄が来宿した苔川東伊野原の「苔川」は、他本には「筥川」とあり、かつて「箱ノ渡」と

   よばれた渡し場のあった九頭竜川のことと考えられている。その東の伊野原は、現在の勝山市猪野と推定され、この北の下毛屋の地に室町時代ごろのものと思われる泰澄の母の供養塔が立っている(平泉澄「泰澄和尚伝記考」『白山信仰』)。

 (8)伊野原の東の林泉が、のちに越前馬場の中心として栄えた中宮平泉寺の地で、神仏分離白山神社となっているが(写真148)、その境内にはこの林泉と伝えられる御手洗池が存在する。平泉寺は平安時代から中世にかけて、北陸で屈指の勢力を有した天台宗の大寺院で、六千の坊があったというが、天正二年(一五七四)一向一揆の焼討ちを受け、一山灰燼に帰した。白山信仰の中心地として栄え、ここから白山に至る禅定道が続いていた。現在南谷・北谷の坊跡の地域で発掘調査が進められ、坊の規模や構造、掘割りなどが明らかになりつつある。

 (9)ここにみえる九頭竜王の出現については、『白山之記』や『白山上人縁起』など(『資料

編』一)、これにふれない伝も存在する。その理由について、もともと白山神の本地垂迹の伝承は、貴女すなわち伊弉尊から十一面観音、九頭竜王から十一面観音という二つの型があったが、後者がより古いものと考えられ、平安中期には両方の型を合わせて貴女から九頭竜王、さらに十一面観音という展開が伝記に表現された。しかし、のち中央の神仏習合思想の影響を受けるなかで、九頭竜王(竜形の神)の存在がしだいに軽視されるようになり、やがてこのことにふれぬ伝もできたもので、またこのことは、人びとから畏怖の対象とされた竜形の神から農業神である女神(貴女)へ、さらには神仏習合本地仏へという白山信仰の性格の変遷の順序を表わすものであるとする見解が出されている(下出積與「庶民層における神の形態の意味」『古代日本の庶民と信仰』)。

  (10)白山最高峰の御前峰(海抜二七〇二メートル)に対し、左孤峰が別山(海抜二三九九メートル)、右孤峰が大汝峰(海抜二六八四メートル)で、御前峰―伊弉尊―十一面観音、別山―小白山大行事―聖観音、大汝峰―大己貴―阿弥陀如来という垂迹神本地仏の関係をもち、三所権現を構成する。ただ、十世紀初めの『延喜式』には白山比神しかみえないことから、もともと白山の神はこの一神であったと考えられている(下出積與「泰澄伝承と白山信仰」『山・立山と北陸修験道』)。

 (11)養老六年の七月から八月にかけて、泰澄は弟子の浄定行者と上京し、天皇の看病にあたったとあるが、『続日本紀』には、この年に元正天皇が重病となったといった記事はうかがわれない。「護持僧」というのも平安期になってから用いられるようになった呼称で、この時代にはふさわしくない。

 (12)神亀二年白山を訪れた行基と出会ったとされるが、これもまた『続日本紀』や行基伝の類にも裏づけとなる記事は見あたらない。

 (13)玄は天平七年に唐より帰朝し、経論五千余巻を将来した。この中には、密部の十一面観音関係の経典が含まれ、以後この経典が多く書写され、十一面観音信仰の隆盛に大きく影響したといわれる。その意味では、玄帰朝の翌年に上京した泰澄が玄から十一面経を授けられたというのは、ありえないことではない。

(14)玄の帰朝と時を同じくして、北九州より天然痘の流行が始まり、天平九年にはついに都に伝わって、当時政権を担当していた藤原武智麻呂ら四兄弟を相次いで死に至らしめたというのは、著名な事実である。ただ、この時泰澄が平城京で疱瘡終息のため十一面法を修したという記録はほかにみえず、また大和尚位を授かったとあるが、具体的な僧位の規定がなされたのは二〇年ばかりのちの天平宝字四年のことである。

(15)ここにいう三重木塔一万基とは、天平宝字八年の藤原仲麻呂の乱後、重祚した称徳天皇が、乱で没した人びとの冥福を祈るため発願した百万塔の一部のことと考えられる。神護景雲元年には、たしかにその製造事業が進められていたが、それは平城京でのことであり、また当時吉備真備は右大臣の任についており、彼が勅使となったという記録もない。

 (16)先に述べたように、泰澄は越知山にて八六歳で遷化したといい、大谷寺にはその供養塔が残っている。この『伝記』以外の泰澄伝に『伝記』にない内容がうかがわれるものもあるが、ここではとりあえず『伝記』を主たる材料として検討を加えることにしたい。

     『泰澄和尚伝記』の性格

この『伝記』については、これまで種々の観点から分析が加えられている。そこに述べられた個々の事実については、具体的な年次が示されてはいるが、泰澄という人物の存否はさておいても、伝記の内容そのものが完全に後世の作とみなされたり、かなりの部分に後世の潤色が加わっているという見方が有力である。なかには『伝記』奥書の天徳年間の成立を疑問視し、その成立年代を鎌倉時代にまで引き下げるもの、天徳年間の成立を認めながらも、それが成立した時点ですでにかなりの潤色が加わっているとするもの、それがまた、現存する最古の写本である正中年間書写の金沢文庫本が成立する以前に改変が加えられたとするものなど、その見解も研究者によってさまざまであり、定説どころか、いずれが最も有力な見解であるかもすぐには判定できないのが実情である。

もっとも、後世の潤色は否定できないものの、まったくの後世の述作とみなすのはいささか無謀で、泰澄が生存したとされる奈良時代の段階で、やはり伝の基盤となった何らかの事実は存在したと受け取るべきであるように思われる。たしかに、道昭・玄・行基といった著名な僧が、年代的にも矛盾なく登場するにもかかわらず、逆にこれらの僧の伝記や『続日本紀』などの史書に泰澄の名がまったくみえないことからすれば、泰澄の伝記作成の際に、ほかの文献をもとに潤色されたとみなされてもやむをえないものといえる。しかし、『伝記』に述べられたできごとが後世の人により泰澄の権威、ひいては白山の崇高性を標榜するための所為であったにせよ、泰澄あるいは白山信仰とまったく無縁の人物を登場させたとは考えられない。やはりそこには、信仰の体系や人物像などの面で、これらの僧と泰澄との直接の接触を説いても、疑いなく受け容れられるだけの余地が存在すると考えられたからこそ、このような伝が残されたと推測されるのである。