正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵王索仙陀婆

正法眼蔵 第七十四 王索仙陀婆 

一 

有句無句、如藤如樹。餧驢餧馬、透水透雲。すでに恁麼なるゆゑに、

大般涅槃經中、世尊道、譬如大王告諸群臣仙陀婆來。仙陀婆者、一名四實。一者鹽、二者器、三者水、四者馬。如是四物、共同一名。有智之臣善知此名。若王洗時索仙陀婆、即便奉水。若王食時索仙陀婆、即便奉鹽。若王食已欲飲漿時索仙陀婆、即便奉器。若王欲遊索仙陀婆、即便奉馬。如是智臣、善解大王四種密語。

この王索仙陀婆ならびに臣奉仙陀婆、きたれることひさし、法服とおなじくつたはれり。世尊すでにまぬかれず擧拈したまふゆゑに、兒孫しげく擧拈せり。疑著すらくは、世尊と同參しきたれるは仙陀婆を履践とせり、世尊と不同參ならば、更買草鞋行脚、進一歩始得。すでに佛祖屋裏の仙陀婆、ひそかに漏泄して大王家裏に仙陀婆あり。

この巻は六話頭の拈提構成で、前巻『他心通』巻は大証国師を中心に据えての提唱であったのに対し、約三ヶ月(寛元三年七月四日―同年十月二十二日)の歳月があり資料収集にも余裕があり、また夏安居を終え来年は大仏寺から永平寺に改称される事も胸中にあり、大仏寺での提唱はこの巻で終了の意図は『永平広録』上堂回数からも裏づけられます。

寛元三年の上堂回数は十五回に対し寛元四年大仏寺上堂回数は三十五回という数字からも、提唱と云う形式での接化法は『王索仙陀婆』巻を以て終講との心持ちが有ったと思われます。

最初に掲げる話頭の出典は『大般涅槃経』九・如来性品(「大正蔵」一二・四二一・中)からのもので、原文「如是四法、皆同此名」を「如是四物、共同一名」と改変される程度で文意は変わりません。

さて本論の注釈に移りますが「有句無句、如藤如樹。餧驢餧馬、透水透雲」の解釈ですが、経豪和尚による『御抄』(「註解全書」九・四九)では「有句無句のことばを談ずるは、如藤如樹に於いても、有なれば全有、無なれば全無なるべし。餧と驢とは共に馬なり、只一体也。透水透雲の義も、雲水の差別あるべからず、水と談ずる時は水の一法なり、雲と談ずる時も又同じく、有句無句の道理の下に、皆この道理あるべきなり」と註し、詮慧和尚『聞書』(「同書」九・六四)では「善解大王四種密語を有句無句と云う、是は有無の義なしの言葉なり。有句無句も如藤如樹とあれば能所はなく、仏見の方には索仙陀婆でないものは無し。衆生見と仏見は異なるように談ずるが、他心通の義も此の如し」と解し、前巻と通脈する旨を述べられます。

また酒井得元老師提唱に依ると「有句無句、如藤如樹。餧驢餧馬、透水透雲」は相即不離と解し、人生上欠かす事の出来ない状態を云うもので、また標題の仙陀婆との連関性で「四物共同一名」の如く、仏法は一ツに限定される事を嫌う為に有句無句等四句を列記し、四句目には透という字面で以て解脱の意を表意したものだとの提言です。

なお筆者が三十年以上前に遊学したカトマンドゥ盆地に住するネワール語を母国語とする人々の言語にも四物共同一名的ことば(雨・来る・籾・歯)があり、すべて「ワ」の一語で言い表した事を記憶している。因みに仙陀婆はサンスクリット語の音写語であるが、ネワール語はチベットビルマ語に属し、サンスクリット語はインド・アーリア語に属するものである。

次に経文を訓読にすると、

大般涅槃経中に、世尊のたまわく、譬えば大王が諸の群臣に仙陀婆来ると告げるが如し。

仙陀婆とは一つの名にして四つの実あり。一つには塩、二つには器、三つには水、四つには馬なり。是の如くの四物は共に同一の名なり。有智の臣下はよくこの名を知れり。

若し王が洗(顔)時に索仙陀婆するに、即便ち水を奉る。若し王が食事に索仙陀婆するに、即便ち塩を奉る。若し王が食後に漿(飲み物の総称)を飲まんと索仙陀婆するに、即便ち器を奉る。若し王が(外)遊せんと索仙陀婆するに、即便ち馬を奉る。

是の如くの智臣は、善く大王の四種の密語を解す。

「この王索仙陀婆ならびに臣奉仙陀婆、来れる事久し、法服と同じく伝われり」

王索と臣奉は師匠と弟子(師資)の関係を表意し、法服と同じく伝来する一心同体を言うものです。

「世尊すでに免かれず挙拈し給う故に、児孫繁く擧拈せり」

この場合の世尊は人格称を云うものではなく、世々に正伝される師資・王索臣奉の関係をこのように表現されます。

「疑著すらくは、世尊と同参し来たれるは仙陀婆を履践とせり、世尊と不同参ならば、更買草鞋行脚、進一歩始得。すでに仏祖屋裏の仙陀婆、ひそかに漏泄して大王家裏に仙陀婆あり」

「疑著すらくは」を斧山玄鈯による『聞解』では「疑い究めて篤と分別して見れば」(「註解全書」九・四八)と注解しますが、云い換えれば着眼して見ればとも解せられ、禅語に於いての疑は疑うばかりを云うのではなく、疑をも尽十方界に包含する法語として現成させるものです。

ここで言う世尊は法身としての形容詞であって歴史上の釈迦牟尼仏ではありません。ですから「世尊と同参し来たる」とは法身つまり尽十方界と同時参入する事が、仙陀婆と云う時処に応じて修行が実行(履践)でき、次に「世尊と不同参ならば」とは先程の逆で、法界と一身一体になれないならば、更に草鞋を買って行脚する事によって、一歩を進めて始めて(仙陀婆)わかるだろう、と説かれます。

仙陀婆の啐啄同機的行法が密かに在俗である大王の家中にも伝播されたと。

 

    二

大宋慶元府天童山宏智古佛上堂示衆云、擧、僧問趙州、王索仙陀婆時如何。趙州曲躬叉手。雪竇拈云、索鹽奉馬。

師云、雪竇一百年前作家、趙州百二十歳古佛。趙州若是雪竇不是、雪竇若是趙州不是。且道、畢竟如何天童不免下箇注脚。差之毫釐、失之千里。會也打草驚蛇、不會也燒錢引鬼。荒田不揀老倶胝、只今信手拈來底。

先師古佛上堂のとき、よのつねにいはく、宏智古佛。

しかあるを、宏智古佛を古佛と相見せる、ひとり先師古佛のみなり。宏智のとき、徑山の大慧禪師宗杲といふあり、南嶽の遠孫なるべし。大宋一國の天下おもはく、大慧は宏智にひとしかるべし、あまりさへ宏智よりもその人なりとおもへり。このあやまりは、大宋國内の道俗、ともに疎學にして、道眼いまだあきらかならず、知人のあきらめなし、知己のちからなきによりてなり。

宏智のあぐるところ、眞箇の立志あり。

趙州古佛、曲躬叉手の道理を參學すべし。正當恁麼時、これ王索仙陀婆なりやいなや、臣奉仙陀婆なりやいなや。

雪竇の索鹽奉馬の宗旨を參學すべし。いはゆる索鹽奉馬、ともに王索仙陀婆なり、臣索仙陀婆なり。世尊索仙陀婆、迦葉破顔微笑なり。初祖索仙陀婆、四子、馬鹽水器を奉す。馬鹽水器のすなはち索仙陀婆なるとき、奉馬奉水する關棙子、學すべし。

前段は仙陀婆についてのイントロダクション(前置き)的説明でしたが、これからは個別具体的拈提に入ります。

本則は『宏智広録』巻四(「大正蔵」四八・五一・下)からの引用典籍で原文とほとんど同文です。素読すると

大宋の慶元府(寧波)天童山の宏智古仏が上堂示衆に云う、

挙す、僧が趙州に問う、王索仙陀婆の時如何。

趙州は曲躬して叉手す。

雪竇が拈じて云う、索塩奉馬。

師(宏智)云く、雪竇は百年前の作家、趙州は百二十歳の古仏。趙州が是なら雪竇は不是、

雪竇が是なら趙州は不是。且らく道え、畢竟如何。

天童(宏智)は箇の注釈を下す事免れず。毫釐も差あれば、千里を失う。

会すれば草を打って蛇を驚かす、不会ならば銭を焼いて鬼を引く。

荒田を揀(えら)ばず老倶胝、ただ今手に信(まか)せて拈じ来る。

と読み下され意味する処は、

南宋の寧波(慶元府)天童寺の宏智正覚(1091―1157)が上堂して云うに、

僧が趙州従諗(778―897)に質問する、王索仙陀婆の時は如何と。

趙州は腰を曲げて叉手する。(『趙州古尊宿語録』(「続蔵」六八・七八・中)では「驀起打躬叉手」とする)

雪竇重顕(980―1052)が(王索仙陀婆を)拈じて云うには、索塩奉馬だと。

これについての宏智の拈提では、雪竇は自分から見ると百年前の師家であり、趙州は寿命が百二十歳の古仏である。趙州を是とするなら雪竇は不是になり、逆に雪竇を是とするなら

趙州は不是になる。さあ云え、結局はどうだ。

天童(宏智)が一つ注釈を付けよう。少しでも違えば千里(南宋時代は一里は四、五百メートルで四、五百キロメートル)も隔たってしまう。

理解するとは草刈りをして蛇を驚かすような事(証悟は、ふいに覚るの喩え)であり、理解しないのは(葬式で行う)紙銭を焼いて鬼(死霊)を招き出すような事(迷いの喩え)である。

(南嶽系統に列する)俱胝(生没年不詳)和尚の接化法は、善悪関わらず一指頭を拈じるだけである。

宏智の説かんとする要略は、主客分別を超克した次元では会も不会も仙陀婆の仏法に同化され、悟も迷も同等だとの意味だと思われます。

「先師古仏上堂の時、世の常に云わく、宏智古仏。

しかあるを、宏智古仏を古仏と相見せる、ひとり先師古仏のみなり。宏智の時、径山の大慧禅師宗杲と云うあり、南嶽の遠孫なるべし。大宋一国の天下思わく、大慧は宏智に等しかるべし、余りさへ宏智よりもその人なりと思えり。この誤りは、大宋国内の道俗、ともに疎学にして、道眼未だ明らかならず、知人の諦めなし、知己の力なきによりてなり」

これから本則に対する拈提ですが、先ずは自身が尊敬する如浄(1162―1227)を先師古仏・宏智も同等に古仏と並称し、宏智(1091―1157)と同時代に生きた大慧宋杲(1089―1163)を取り挙げますが、言及する箇所は此の処だけで熾烈なる批評はありません。

猶「先師古仏上堂の時、世の常に云わく、宏智古仏」の語は『古仏心』巻(寛元元(1243)年六波羅蜜寺示衆)に説く「先師いはく、与宏智古仏相見」からのもので、出典は『如浄語録』巻下での天童寺晋山での説法の様子だと考えられます。

「宏智の挙ぐる処、真箇の立志あり。趙州古仏、曲躬叉手の道理を参学すべし。正当恁麼時、これ王索仙陀婆なりや否や、臣奉仙陀婆なりや否や」

宏智が取り挙げた古則には、仏道に於ける真摯な志が顕れていると評価されて、趙州古仏が示した曲躬叉手の意を参学せよと言断されますが、趙州に対し「古仏」の形容詞を付した道元禅師の心底が察せられる文言です。

曲躬叉手の意を王索仙陀婆か臣奉仙陀婆かと二者択一の問いのように聞こえますが、索奉同等の道理をこのように表現されます。

「雪竇の索塩奉馬の宗旨を参学すべし。いはゆる索塩奉馬、ともに王索仙陀婆なり、臣索仙陀婆なり。世尊索仙陀婆、迦葉破顔微笑なり。初祖索仙陀婆、四子、馬塩水器を奉す。馬塩水器のすなはち索仙陀婆なる時、奉馬奉水する関棙子、学すべし」

次に本則に云う王索索仙陀婆に対する雪竇が答話の「索塩奉馬」の主旨を参究せよと言い放ち、「塩を要求されているのに馬を差し出す」行為は王索仙陀婆であり臣索仙陀婆との拈語ですが、意味する処は馬というのは四物である塩・器・水をも包含した仙陀婆であり、また塩に対し塩を奉じたのでは概念化(カテゴライズ)される危惧を解消する為に、索奉・王臣の関係を解体し臣奉とする処を臣索と語拈されたと解します。

次に本則には無い拈提部で、世尊と迦葉との拈華破顔微笑の関係。また達磨と道育・道副・尼総持・慧可との皮肉骨髄を馬塩水器に置き換えての拈提で、先程の雪竇は索塩奉馬と説かれましたが道元禅師は奉馬奉水と答話され、索のなかに四物さらには全物が包摂されるを要点(関棙子)として参学せよとの言明です。

 

    三

南泉一日見鄧隱峰來、遂指淨甁曰、淨甁即境、甁中有水、不得動著境、與老僧將水來。峰遂將甁水、向南泉面前瀉。泉即休。

すでにこれ南泉索水、徹底海枯。隱峰奉器、甁漏傾湫。しかもかくのごとくなりといへども、境中有水、水中有境を參學すべし。動水也未、動境也未。

次に南泉普願(748―834)と鄧隠峰(生没年不詳)との話頭が本則として拈提されます。

『景徳伝灯録』巻八・五台山隠峰禅師章(「大正蔵」五一・二五九・中)には「師到南泉。覩衆僧参次、南泉指浄缾云、銅缾是境、缾中有水。不得動著境、与老僧将水来。師便拈浄缾向南泉面前瀉。南泉便休。」

多少字句は相違しますが、浄缾を区別するもの(境)で、心と云う水を貯えているモノと仙陀婆との連関を問う設定です。

本則の読みは

南泉はある日鄧隠峰が来るのを見て、遂に浄缾を指して云った。浄缾は即ち対境であり、缾の中に水がある。境を動かさず、老僧(南泉)に水を将ち来たれ。

鄧隠峰は遂に缾の水を、南泉の面前に向かって瀉いだ。

南泉は休した。

この話頭は南泉に缾の中の水を動かさずに持って来なさい。これに対し鄧隠峰は「不得動」を無視した態度で南泉の面前に水をぶちまけた行為は、南泉は「境と水」の一如を示そうとするが、幼若不慧の鄧隠峰には南泉の問題設定すら解体する処に禅の極みがあるのです。

「すでにこれ南泉索水、徹底海枯。隠峰奉器、甁漏傾湫。しかもかくの如くなりと云えども、境中有水、水中有境を参学すべし。動水也未、動境也未」

南泉の索水は全海を象徴し無限の喩えを云い、隠峰の奉器とは缾より湫(沼地)に水を傾ける程瀉ぐことで、ともども解脱の境地を説かんとするものです。

さらに境中有水・水中有境つまり缾の中に水があり、水の中に缾があると。主客を入れ換えての喩えで以て境と水との無差別なる世界を仏法と言わんとするものです。同じ道理を動水いまだしや、動境いまだしやと考究せよとの拈提です。

 

    四

香嚴襲燈大師、因僧問、如何是王索仙陀婆。嚴云、過遮邊來。僧過去。嚴云、鈍置殺人。

しばらくとふ、香嚴道底の過遮邊來、これ索仙陀婆なりや、奉仙陀婆なりや。試請道看。

ちなみに僧過遮邊去せる、香嚴の索底なりや、香嚴の奉底なりや、香嚴の本期なりや。もし本期にあらずは鈍置殺人といふべからず。もし本期ならば鈍置殺人なるべからず。香嚴一期の盡力道底なりといへども、いまだ喪身失命をまぬかれず。たとへばこれ敗軍之將さらに武勇をかたる。おほよそ説黄道黒、頂眼睛、おのれづから仙陀婆の索奉、審々細々なり。拈柱杖、擧拂子、たれかしらざらんといひぬべし。しかあれども、膠柱調絃するともがらの分上にあらず。このともがら、膠柱調絃をしらざるがゆゑに、分上にあらざるなり。

本則話頭は『碧巌録』九十二則(「大正蔵」四八・二一六・下)雪竇重顕の頌に対する圜悟克勤による評唱のなかの「只如僧問香厳、如何是王索仙陀婆。厳云、過這辺来。僧過。厳云、鈍置殺人。」からの引用ですが、次に「又問趙州、如何是王索仙陀婆。州下禅床、曲躬叉手。」の先程の本則の原文が頻出されます。

本則の読みは

香厳襲灯(智閑)大師、因みに僧が問う、如何なるか是れ王索仙陀婆。

厳云く、こちらへ来なさい。

僧は行ってしまった。

厳云く、人を馬鹿にしたな。(鈍置とは頭を上げられなくする事、虚仮にする事。殺人の殺は鈍置に係る助辞で強めるものです。)

「しばらく問う、香厳道底の過遮辺来、これ索仙陀婆なりや、奉仙陀婆なりや。試請道看」

これから我々を討論にさせる問いの設定で、香厳が王索仙陀婆に対して云い放った過遮辺来(こっちへ来い)は索の仙陀婆か奉の仙陀婆か試みに道って看よと叱咤されます。

「因みに僧過遮辺去せる、香厳の索底なりや、香厳の奉底なりや、香厳の本期なりや。もし本期にあらずは鈍置殺人と云うべからず。もし本期ならば鈍置殺人なるべからず。香厳一期の尽力道底なりと云えども、いまだ喪身失命を免かれず」

僧が過遮辺去・過ぎ去ったのは、香厳が索めたのか、香厳が奉まつったのか、香厳の本心(本期)なのかと問いかけ、もし本期でないなら「鈍置殺人」などとは云うはずはなく、もし本心であったなら「人をバカにした」などとは云うはずはない。と矛盾した言い様ですが、仏法の仙陀婆では索塩奉塩でも索塩奉馬であろうと尽十方界での一表情であるわけです。

これは香厳一代(一生)の力を尽くした道(過遮辺来)であったとしても、喪身失命を免かれずと香厳個人に責を負わせるのではなく、一切仏祖の尽力道底とも云い換えられ、香厳を認めたコメントです。

「喩えばこれ敗軍之将さらに武勇を語る。おほよそ説黄道黒、頂眼睛、おのれづから仙陀婆の索奉、審々細々なり。拈柱杖、挙払子、たれか知らざらんと云いぬべし。しかあれども、膠柱調絃する輩の分上にあらず。この輩、膠柱調絃を知らざるが故に、分上にあらざるなり」

これまでの本則の拈提を例え話に置き換え、仏道での仙陀婆とは戦いに敗れた武将が武勇伝を語り、黄色を説明するのに黒色を示し、登頂を指しながら眼睛だとの拈提ですが、世間では全く論理破綻で受け入れられるものではありませんが、仏法では主賓・能所と云ったカテゴライズせず尽十方界と云った一元論法に言及する為、このように説くわけです。

しかし、誰でもが仙陀婆の索奉に合致するわけではありません。膠柱調絃する輩のように

琴柱を膠で固定し毎回同じ旋律を奏でる者の如く、融通性がなく固着思考の学人は仙陀婆の分上にあらずと言断されます。

 

    五

世尊一日陞座、文殊白槌云、諦觀法王法、法王法如是。世尊下座。

雪竇山明覺禪師重顯云、

列聖叢中作者知  法王法令不如斯

衆中若有仙陀客  何必文殊下一槌

しかあれば、雪竇道は、一槌もし渾身無孔ならんがごとくは、下了未下、ともに脱落無孔ならん。もしかくのごとくならんは、一槌すなはち仙陀婆なり。すでに恁麼人ならん、これ列聖一叢仙陀客なり。このゆゑに法王法如是なり。使得十二時、これ索仙陀婆なり。被十二時使、これ索仙陀婆なり。索拳頭、奉拳頭すべし。索拂子、奉拂子すべし。

しかあれども、いま大宋國の諸山にある長老と稱ずるともがら、仙陀婆すべて夢也未見在なり。苦哉々々、祖道陵夷なり。苦學おこたらざれ、佛祖命脈まさに嗣續すべし。たとへば、如何是佛といふがごとき、即心是佛と道取する、その宗旨いかん。これ仙陀婆にあらざらんや。即心是佛といふはたれといふぞと、審細に參究すべし。たれかしらん、仙陀婆の築著磕著なることを。

この本則も前段同様『碧巌録』九十二則からの転用です。

本則に当たる箇所の訳は、

世尊がある日法座ののぼられた。文殊が槌を打って、法王(世尊)の法を諦らかに観よ、法王の法は是の如しと云うお、世尊は法座を下座した。

陞座は上堂と同義で、白槌とは槌を叩いて合図する行為で、儀式や会議の前後に列席者に注意を喚起するもので、「諦観法王法、法王法如是」は始めに法筵竜象衆、当観第一義を唱え説法終了時に唱えるもので、始まったらと思ったら、無言のまま終わった事で一字不説の境地を云うものです。(『現代語訳碧巌録』下・二三〇参照)

次に説く頌は先の本則に対する雪竇の評で、列聖の叢中で作者(禅者)知る、法王法令斯くの如くならず。衆中に若し仙陀婆(作者)有らば、何ぞ必ずしも文殊は一槌を下さん。と評を下されますが、これから道元禅師による拈提です。

「しかあれば、雪竇道は、一槌もし渾身無孔ならんが如くは、下了未下、ともに脱落無孔ならん。もしかくの如くならんは、一槌すなはち仙陀婆なり。すでに恁麼人ならん、これ列聖一叢仙陀客なり。この故に法王法如是なり」

先の雪竇の頌の云わんとする処は、文殊が使用した槌それ自体が仏法を表象しているのであるから、槌を下げても下げなくても(下了未了)何ら障得はなく、槌―仏法―仙陀婆との一体性を更に法王(世尊)の法(ダルマ)はこのように一切を包摂した完全無欠を言うとの道元禅師による雪竇評です。なお世界で使う槌には柄を通す孔があるが、寺院で使う槌には孔がない事から無孔と云う。

「使得十二時、これ索仙陀婆なり。被十二時使、これ索仙陀婆なり。索拳頭、奉拳頭すべし。索払子、奉払子すべし」

索奉仙陀婆が一体と成る時には槌=仏法そのものと場を説かれましたが、さらに時そのものが師学賓主の位を超えて索奉仙陀婆と一物となり、さらに日常必需の拳・払子を持ち来たし現成現物を仙陀婆と説かれるものです。

十二時の用例は同じ大仏寺での『虚空』巻では「被十二時使、および被得十二時これ証得虚空時なり」・興聖寺での『大悟』巻では「大悟現成し、不悟至道し、省悟弄悟し、失悟放行す。これ仏祖家常なり。挙拈する使得十二時あり、抛却する被使十二時あり」・さらに『心不可得』巻では「使得十二時の渾身、これ不可得なり」と標題に掲げた巻名と時空との連関的関係性を説く論述です。

これで雪竇頌に対する拈提は終わり、仙陀婆のまとめに入ります。

「しかあれども、今大宋国の諸山にある長老と称ずる輩、仙陀婆すべて夢也未見在なり。苦哉々々、祖道陵夷なり。苦学怠らざれ、仏祖命脈まさに嗣続すべし。たとへば、如何是仏と云うが如き、即心是仏と道取する、その宗旨いかん。これ仙陀婆にあらざらんや。即心是仏と云うは誰と云うぞと、審細に参究すべし。たれか知らん、仙陀婆の築著磕著なることを」

道元禅師の在宋当時は「大宋には臨済宗のみ天下にあまねし」(『辦道話』)の状態であった事からの見解で、自悟禅に明け暮れる長老衆には啐啄同機的機智のないことを、夢也未見在と言い悲しいかな仏祖道が衰えた(陵夷)と嘆かれ、仏祖の命脈を持続させる為には祖録等に慣れ親しむ苦労を怠ってはいけないとの叱咤言霊です。

最後の結論は、如何是仏に対する即心是仏―仙陀婆の連関性を苦学して参学究明しなさいと。その時おのづと心も仙陀婆も法界に遍満する真実態として打著する状況を築著磕著と言われ当巻を終講されます。

七十五巻正法眼蔵はこの巻を以て実質的に終わり、冒頭でも指摘したように提唱の舞台は法堂上堂という形態に変更されます。