正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

東洋の心を語る ⑪和の精神    中 村 元

     東洋の心を語る ⑪和の精神

                      東方学院院長 中 村  元

 

                      法隆寺執事長 高 田  良 信

 

ナレーター:     奈良斑鳩(いかるが)の里。世界最古の木造建築、法隆寺の伽藍(がらん)が並んでいます。五重塔や金堂のある西院(さいいん)を過ぎると、参道の先には夢殿のある東院(とういん)があります。西院伽藍の近くにある聖霊院(しょうりょういん)。インド哲学の権威であり、仏教学者である中村元さんは、聖徳太子の思想と行動に深い感銘を受け、これまで法隆寺をたびたび訪れています。国宝聖徳太子坐像。厨子の奥には、この度新しい障壁画が奉納されました。高さ八十四センチ、桧の寄せ木作りは平安彫刻の傑作と言われています。威厳に満ちたお姿は、四十五歳の時の太子を現したものと伝えられています。

 

中村:  こうして拝まして頂きますと、なかなかお厨子の中が非常に明るく映えてございますね。

 

高田:  はい。

 

中村:  前は太子のこのお像が、非常に聡明な眼差しで、何か私どもの心の中までも、じっと見通されるような、伝説によりますと、大勢の人の訴えを同時に聞いた、と言われますが、それを思い出して、心の奥まで見透かされるような、そういう気がしたんでございますが。今ここで拝見しますと、蓮の花でございますね、ほんとに明るくて、金泥に映えております。何か全然違った明るい浄土の中に太子さまがお坐りになっているような、そういうような感じを受けます。太子のお像をこう拝んでおりますと、お口元が何か話し掛けるように、言葉を発しておられるかのような印象を受けるんでございますね。これは三経(さんぎょう)をご講義なさったという、その事実と信仰から、ああいうお像を特別に造られたんでございましょうか。

 

高田:  そうです。そして大変厳しいお顔立ちと言いましょうか、厳しい中に何かジッとお会いしていますと、温かみがあるんでございますね。

 

中村:  厳しい中に温かみ、お慈悲の光が見られますですね。本当のまたとない尊いお像でございますが、また考えてみますと、世界でも類のないものだと思うんでございますね。南アジアのほうでもお経の講讃(こうさん)はなされますけれども、この世俗の高弟とか太子などが講義なさるということはないんでございますね。それから西洋のほうをみますと、キリスト教を盛んにしたのはコンスタンティヌス帝王と言われておりますが、コンスタンティヌス帝に対する信仰というのはないわけですね。教会へまいりましても、コンスタンティヌス帝のお像というのは、端っこのほうにあるんですね。ところがこちらでは、こうして聖霊殿が特別設けられまして、みなさんお詣りになっておられましょう。そして、太子がこの世俗の統治者でありながら、しかもこの仏教を世の中に生かすのに一番適当だと思われました『勝鬘経(しょうまんぎょう)』『維摩経(ゆいまきょう)』『法華経(ほけきょう)』を特に選んでご講讃になられたということですね。これは、私などの浅はかな想像でございますが、仏教の精神を世俗の生活の中に生かそうと、身を持って示して下さっている、そういう理想がこのお像にも具現されているような、そんな気がするんでございます。美しい見事な宝冠がお像の頭部にございますね。これもやはりインドの彫刻なんかを見ますと、古い時代のお仏像にはなくて、むしろクシャーナ王朝以後、世俗の長者がああいう飾りをしていたのだろう、と。それが菩薩像に移されるようになったと、学者は考えているんでございますがね。そのお姿がまた日本人独特の仕方で生かされているような気が致します。太子のご理想が改めて、じかに目に訴えてくるという、そんな感じがするんでございます。

 

ナレーター:     インドから中国に伝えられた仏教は、六世紀の半ば、朝鮮半島から日本に渡り、奈良に到りました。それからわずか数十年の後、仏教の教えに基づいた理想国家の建設が、聖徳太子の手によって始められます。しかし、それまでには幾多の困難な道を越えなければなりませんでした。新しい思想を持った仏教、それを受け入れようとする蘇我氏(そがし)と反対する物部氏(もののべし)が激しく対立し、朝廷を二分する争いとなりました。この激動の中に、太子は少年期、青年期を過ごしたのです。推古(すいこ)元年(西暦五九三年)、推古女帝の即位とともに、二十歳の若さで太子は摂政(せっしょう)となります。

 

高田:  先生、ご承知のように、古い時代からこの太子さまの体内には救世観音(くせかんのん)さまがお入りになっておると、

 

中村:  伺っておりますが。

 

高田:  そういう記録がございますし、明治の時の修理の時にも、それを確認したという記録と写真が残っているんです。それを拝見しますと、ごく寺の一部の方と、また修理の関係者の方、そういうほんの一部の方がその秘仏をお詣りしておられるというふうな記録がございましてね。そこで我々一番心配致しましたのは、それ以来全然中を確認しておりませんので、どのような状態で安置がされ保存なっておるかと、非常に関心事でございました。ちょうど法隆寺は、現在「法隆寺昭和資財帳作り」ということで、法隆寺のいろんな寺宝類をきちっと整理し修理して、将来へ伝えていきたいということの一貫と致しまして、この修理の時にレントゲン写真で中の状況を―これから将来もこのような状況でいいのかどうかということがございますので―確認をさして頂きました。ちょうど現在ではお腹の胸の辺りに、正面に救世観音が安置されている。それの近くに、「勝鬘経」「維摩経」「法華経」の三経が―平安時代の写経でございますけれども、それも中に安置されておる、と。若干動いたりするものでございますからね、それでやはり将来のためには真っ直ぐ中の秘仏も安置をして、ということもございまして、この修理の時に、また再び一度秘仏をお出しをさして頂いて、我々寺の者も、関係者が集まりまして、体内仏をお出し致しましたところ、大変立派な救世観音像がお出ましになったんでございます。有り難いことで、大変感激したんであります。それで、私、考えたんでございますが、たまたま我々はこういう時期にお出し頂きましたお陰で、救世観音をお詣りすることができたわけでございまして、出来ればこの機会に広くみなさん一般の方々にお詣りを頂けば、これも聖徳太子のご講讃に繋がることじゃないかというふうに考えまして、その時ご開帳したんでございます。もう大変な人出でございました。みなさん方、長い方は四、五時間も列をくんでお詣りするために列んで頂いたというふうな、大変な盛況ぶりでした。そういう姿を見ておりまして、やはり聖徳太子に対するみなさま方のご信仰というのが、今なおきわめて篤いということをつくづく感じたんでございます。

 

中村:  そうでございましょうね。ご開帳のお伺いしておりました。その救世観音さまのお像というのは、夢殿のあのお像とは似ておりますか。

 

高田:  いや、また違うようでございます。

 

中村:  つまり救世観音というアイデアと申しますか、それが同じで、また違ったお姿なんでございますね。

 

高田:  ええ。ちょうど聖徳太子の伝記ができました頃に、このお像が出来上がっておりますので、伝記の中では救世観音の生まれ変わりという信仰がございまして、それを踏まえて、この太子さまの体内に救世観音を安置したんではないだろうか、と思われます。

 

中村:  そうでございますね。太子さまが救世観音の生まれ変わりであられるということは、いろいろ古い時代の本に出ておりますね。

 

高田:  それから私は特に法隆寺には小金銅仏―救世観音等はじめ、たくさん小さな仏像がお寺に伝わっておったわけでございますが、その大半が、現在献納宝物として東京博物館に安置されております。このお像の体内へ入れるべく、救世観音をどうして選ばれたのか、ということに、私は非常に興味がございます。たくさん小金銅仏がある中で、救世観音を特に選んでこの太子さまの体内に入れられたのだろう、と。

 

中村:  これは好奇心がございましょうね。

 

高田:  その頃、聖徳太子にはおそらく侍者がおられますが、そういう方たちが聖徳太子の念持仏であるということで、寺のほうでずーっと大事にしておった、という伝承があるんです。その像を選んでお入れしているんではないかな、というふうに思われるんです。そして体内の秘仏を拝んでおられた、ということをちょっと感じたんでございます。

 

ナレーター:  目をそっと閉じ深い瞑想に浸る柔らかなお顔、その表情は聖徳太子の理想である人々の安寧(あんねい)を願う心そのものです。体内仏の救世観音は、亀と不老不死の霊山、蓬莱山を象った上に立っています。当時の人々は仏像を拝むことによって、慈悲の精神を心に刻んだことでしょう。今、救世観音は再びその形で太子像の体内に納められています。

 

中村:  観音さまにはいろいろな修飾語がつくことがございますけれども、「救世観音」という言い方は日本だけなんです。しかも聖徳太子に関してだけ用いられているんですね。お隣の韓国なんかでは、やはり観音信仰は盛んです。中国でも盛んです。けれども、アジア大陸の国々では、「苦を救う観音」という言い方をする。「救苦(くく)」或いは「苦難」―難儀なことを救う観音さまという。似たようなことですけど意味がちょっと違うんですよ。苦しみを救うというのは個人的なことでしょう。例えば、観音経なんかにも出ていますけど、牢屋に捕らえられた者でも苦しみを受けているわけですが、観音さまを念ずれば解放されるなんて、そんなようなことをいわれるわけです。どこまでもそれの立場は個人的ですね。ところが、日本へ来ますと、世を救うという具合に受け取れる。自覚的にそうされたわけですね。世を救う観音さまであられると、人々が思ったわけですね。救世観音のお像というのは、聖徳太子の生き身のお姿を具現したものだと、モデルにしたものだと、そう言われております。そうすると、人々を救うという理想が、ここにはっきりと自覚的に表明されました。それがまたのちにずっと続くんですね。ことに悩める人々を救うということ、これが日本では一つの大きな伝統になっております。

 

ナレーター:     国宝救世観音。法隆寺夢殿の本尊です。記録によれば、鎌倉時代既にその全身に白布が巻かれてあり、その姿はすべて隠されていました。白布が解かれ、再びその輝く姿を現したのは、今から凡そ百年前、アメリカのフェノロサが夢殿を訪れた時でした。救世観音がいつ頃作られたか明らかではありませんが、聖徳太子の生存中か、あるいは亡くなったすぐ後に、太子を慕う思いから作られたと伝えられています。像は楠の一木作りで、足から頭までおよそ百八十センチ。幽かな微笑み、その昔、フェノロサモナリザを思い起こさせた微笑です。

 

中村:  いやぁ、改めてじかに拝みますといろいろ感じますですね。この救世観音のお像は、聖徳太子のお姿を模して作られたと言われておりますが、非常に生き生きと血が通っているという、そういう印象を受けます。非常に私どもにも親しい温かいお気持が伝わってくるような、そういう気がしますですね。それ以前は秘仏として、じかに拝むなんていうことはできなかったわけですが、しかしどうしても拝まして頂きたいという熱意を持って、岡倉天心が、フェノロサの希望も叶えるように二人でこちらへ伺って、それで見せて頂いたというんですが、それが明治十九年か、あるいは二十年過ぎての頃だろうと、こちらの高田執事長さまの最近のご研究によって判明したわけですが、その時の様子を岡倉天心が書いているんですね。誰も拝まして頂けなかった中へ初めて入れさせて頂いて、そして拝もうとしたら大変なことで、まあ木の葉が積もっている、塵がもう山のように、そしてそこからネズミが出てくる、果ては蛇が出てくるというような大変なことだったそうです。年来の願いを叶えて、それで拝まして頂いたというんですが、その感激は忘れることができないと、岡倉天心は書いていますし、またフェノロサもそのように人々に伝えた、ということが記されております。なぜ秘仏とされたか。最初はそれほどではなかったらしいんですが、年代の経過とともに、この観音さまを拝むと、雷が鳴って、雷鳴が轟くとか、あるいは仏師がこれと同じようなものを作りたいと思って、見せて頂いた仏師が即日急死すると、そういうような伝えがありまして、それで祟りを恐れて、それでもうどなたにもお見せしないということで秘仏になったんだろうと思うんです。それを敢えてお願いして見せて頂いた。またお寺のほうでも許されたということは、これは大きな意味があると思うんです。広く世の中の文明の進展という動きからみますと、ドイツ語では、エントツァウベルング(Entzauberung)と申しますが、呪縛(じゅばく)からの脱却ですね。呪術からの脱却ということが、近代思想の一つの特徴なんです。つまり中世までは、呪いと申しますか、呪縛というもの、それを恐れて人があえて近づかなかった。ところが、その呪縛から解放されることによって、近代文明が成立し発展したわけですね。まさにその動きに対応するものでして、呪縛からの脱却ということは、岡倉天心が見せて頂いたという、この事件に集約的に、象徴的に表現されていると思います。それによって、この素晴らしい仏さまのお姿が、日本人一般のみならず、外国にまでも知られるようになりました。日本の美術の素晴らしさというものを、外国に知らせるようになったというのは、岡倉天心の非常な功績があると思います。ここで救世観音を拝見したというその感激があったんですね。普く世の人々に伝わったわけです。その感激に基づいて、岡倉天心は『東洋の理想―とくに日本の美術について』という書物を書きました。これによって世界に日本美術の崇高な精神が伝えられるようになったわけです。これは日本の精神史にとっても、広く申しましたら、世界の精神史にとっても大きな事柄だと思いますね。さらに、これは彫刻の技術の点で専門家のお話を伺いたいと思いますが、実に丹念な彫りですね。後ろの後背なんかも、克明に細かな点まではっきりと刻まれています。当時の仏師の並々ならぬ打ち込んだ苦心と申しますか、それがひしひしと私どもに感じてまいりますですね。大したことだと思います。今から千何百年前に、これだけの技術が日本にあったということは驚くべきことだと思います。これは大陸にはこういうきめ細かな彫刻は残っていないと思いますね。インドに仏像はたくさん残っていますが、二つの点で比べ物にならないかと思うんですが、インドで多く仏像が発掘されていますけど、これは地中に埋もれていたものを発掘されたものですね、。ところが日本ではそうじゃないんですね。地上で人々が大事にして伝えられたお仏像なんですね。だから祖先以来の魂が籠もっているということができると思います。それから第二の点として、インドで見つかった立派な仏像はたくさんあるんですが、どれもみんなどっか欠けているんですよ。何故かといいますと、後代に西の方の民族の侵入を受けたわけです。宗教も違います。そうすると、仏像を片っ端から壊してしまったわけですね。ところが日本では、この救世観音を初めとしてなんら害(そこな)われることなく、そのまま伝わっている。これは我々の祖先が大事に伝えたということで、祖先の気持がここに具現されていると思いまして、余計尊いと思われるんでございます。

 

ナレーター:     八角円堂の夢殿は、法隆寺の中でも特別のたたずまいを見せています。夢殿の辺りはその昔聖徳太子の住んでいた斑鳩宮(いかるがのみや)のあったところで、太子ともっともゆかりの深い聖地です。屋根の上には太子の御霊(みたま)を祀る宝珠が置かれ、夢殿が太子の冥福を祈る場であることも示しています。聖徳太子が亡くなってからおよそ二十年後、斑鳩宮は蘇我入鹿(そがのいるか)によって焼かれ、太子の一族は滅亡します。やがて太子の生涯が世に広まるに連れ、太子を深く信仰する人々の聖地となって甦ったのです。

 

中村:  この夢殿というのはまったく独特でございますね。法隆寺の主な建物からちょっと離れたところに独立にあるわけです。これはまったく独特のものでございまして、インドにも独立の小さなお堂というものはたくさん残っておりますが、ことにヒンドゥーの寺院に多いんですが、ただそれは真四角な建物でして、中に神様を祀ってあるんですね。こういう形のものはインドにはないと思います。これはどうしても東アジアのスタイルだと思うんです。ことに韓国には八角円堂というものが今でもたくさん残っておりますが、それから中国にもあったと思いますが、ただあちらでは深い意味は持っていない、せいぜい亭屋(あずまや)というほどの意味ですね。ところがそのスタイルがこちらへ移されまして、独特の夢殿が作られました。形は明らかに大陸のものを模して発展させたものですが、しかしこの建物はまた素晴らしいですね。ことにこの基壇なんか堂々たる立派なもので、よくあの時代にこういうものを作られたと感嘆するんでございます。そして伝説によりますと、聖徳太子がここで禅定(ぜんじょう)に入られて、精神統一をされて、そして夢をみて感得された事柄があるということです。非常にロマンティックだと思います。禅定に入って何を思われたか、ということですね。のちの禅になりますと、無念無想ということを説きますけど、しかしもともと仏教の伝統で、「念ずる」というのは、心に一つのことをずーっと思って、心を統一するということです。例えば「念仏」と申しますが、後代は南無阿弥陀仏と称えることになりますけれども、もとは仏を思うということなんです。私どもは始終心が散っておりますね。心が散らないように、仏さまのお姿、その優れた徳をじっと心に思うというのが念仏ですね。おそらく聖徳太子も仏さまのお姿を念ぜられたと思うんです。それに連れて、「念法」「念僧」ということをいうんです。「法を念ずる」「僧を念ずる」と。「法を念ずる」というのは、人間としての理、道理ですね、それをじっと心の思うということです。そしてそれを実行している人々の集い、集まりを「サンガ」と申しますが、元は集まり、集いという意味です。心を共にして、人々が集まって、尊い人間の真理を実践する、その人々です。だから人々のことを太子は思われたと思いますね。それが政治に伝わってくるわけです。具体的な政治のことまでここで思われたかどうか、それは私にはよくわかりませんけど、道理の上ではそのように連絡がつくわけなんであります。後代の人は、ここに聖徳太子のお姿を模した救世観音のお像を安置し、また聖徳太子にゆかりのある方々のお像も置いてあるということですが、太子の徳を思うて追想するという。これは独特だと思いますね。日本ではほかに榮山寺(えいざんじ)にも八角円堂があり、藤原氏の祖先を追想しているということを聞きましたけれども、そういう精神を込めての八角円堂というのは、これは日本独特だと思うのです。これは祖先に対する追憶、思慕であるとともに、また祖先のなされた功績に対する感恩報謝と申しますが、恩を知る。知恩ですね。これは仏典にも出ている言葉ですが、その精神がことに夢殿には具現されていると思います。だから太子の精神がこのお堂をもとにして何か私どもにまで及んでくるという、そういう感じがするんであります。

 

ナレーター:     国宝行信僧都(ぎょうしんそうず)坐像。行信は天平(てんぴょう)時代夢殿の建立にもっとも力を尽くした僧です。吊り上がった目や大きく左右に張った耳、高く鋭い鼻が行信の人柄を偲ばせます。国宝道詮律師(どうせんりっし)坐像。道詮は平安時代の初期一時寂(さび)れた太子信仰を再び復興させました。穏やかな中に厳しさを漂わせています。二人の像は永遠に夢殿を見守るかのように堂内に坐しています。仏教の教えを政治の場において実現しようと願う聖徳太子は、自ら経典の講義をし、注釈を施しました。『三経義疏(さんきょうぎしょ)』として今に伝えられているものです。そこには当時の日本の実情を踏まえた太子独自の見識と考え方が込められています。

 

中村:  これは世俗の人として、世俗の指導者として仏教を生かされた、という点だと思いますね。アジア大陸の仏教は大体出家者の仏教でした。ところが日本へ入ってきまして、聖徳太子によって具現された仏教は、世俗の生活の中に生きる仏教でありました。第一、聖徳太子自身が世俗の人だったわけですね。家庭の人であり、お子さんもあり、それで大勢の臣下を統御し指導しておられたわけですから。ですから説かれたところも、世の人々を導くのにもっとも適切であると思われた経典を選ばれたわけです。三つの経典を選んで講義をされました。それについての注解書も著されました。『三経義疏(さんきょうぎしょ)』というんですが、それは『勝鬘経』『維摩経』『法華経』であります。『維摩経』から申しますと、これは世俗の長者が実業生活を行いながら人々を導き救う、というテーマになっているんですね。『勝鬘経』は、国王の后である勝鬘夫人(しょうまんふじん)が―仏典では「しょうまんぶにん」と読みますが―その方が釈尊の前で教えを説くと、釈尊がその通りだと言って承認される、という筋書きになっているわけです。これは二重の意味で非常に例外的なんですね。何故かと申しますと、勝鬘夫人という世俗の人が教えを説く。第二に、女人(にょにん)―女の人が教えを説いた、ということですね。非常に珍しい経典です。それから第三の『法華経』は、これはアジア大陸全体で普く崇敬(すうけい)されておりますが、その根本の趣旨は何かということになるとなかなか難しいんですが、しかし日本人が受けとりました『法華経』というものは、「一切の治生産業(ちしょうさんぎょう)みな仏法である。この一切の生活を治め、産業を奮い起こす、それがみな仏教の実践である」という趣旨であると説かれ受け取られたわけです。その三つの経典を聖徳太子はお説きになった。ここに日本仏教の出発点があったわけですね。この法隆寺は、聖徳太子のその精神の基礎を確立するための学問寺です。昔から学問を中心として活動してこられました。だから、宗派の別を問わないで、諸宗の人々がみな法隆寺に学問のために伺ったわけであります。ここで研鑽された聖徳太子の精神、学問が、それがとびとびでありましたけれども、後代にも実践されていた、ということは、我々としては忘れることのできないことだと思うんですね。案外日本人が気付かないことですけれども、西欧でも苦しんでいる人々を救う施設というものはございますが、社会福祉施設が最初に作られたものは、西欧では、南ドイツのアウグスブルクにある施設です。これはフッゲライというんですが、フッガーという金持ちの実業家が作ったものですが、それは一五一九年に作られたと言われております。今も残っていますが、それが世界で一番古い社会救済施設だと言われている。ところが日本では、苦しみ悩んでいる人々を救うという施設、またその為の活動は、相当古い時代から行われているんですが、ことにドイツのフッゲライといわれる施設より二百年ぐらい前に、鎌倉時代ですが、日本には忍性律師(にんしょうりっし)という偉いお坊さんが出まして、素晴らしい社会救済施設を作られたのです。一々数え切れないほどでありますが、この奈良の土地の北の方に般若坂(はんにゃざか)というところがあります。そこに北山十八間戸(きたやまじゅうはっけんど)という建物が今日なお残っております。それは十八のアパートメントができているわけです。そこに昔のハンセン氏病の患者を収めまして、それで病の治療に当たった。そこは坂の上で眺めのいいところなんですね。だから興福寺五重塔とか、遠くは法隆寺の塔までも見える眺めのいい、景色のいいところなんです。そこに作って、そして忍性律師は病人を肩に担いで奈良の町まで買い物に行った、と。その他西大寺にもそういう施設を作られました。それから鎌倉では「養病房(ようびょうぼう)」―病人を収容して看護する建物。人間のためのみならず馬のためにも作ったんですよ。それから親のない子、捨て子などを収めるような施設も作りました。あと旅人が苦しむことがあれば、旅人の苦しみを救ってやるための堂舎を作るとか、疫病が流行れば疫病に対する対抗策をとるとか、忍性律師の活動は大したものでして、その恩恵を受けた人は数万人に達すると、その伝記に記されております。比べ物にならないほど大きなことを、日本ではなされていた。しかも、ドイツの世界で初めてと言われているフッゲライの施設では、若干の制限がありまして、そこへ収められる人はフッガー家の使用人であった人でなければいけない。カトリック教徒でなければいけない。年齢は五十八歳以上。それから収入は少ない人、そういう制限があったわけですね。ところが、忍性律師はそんな宗派なんていうことは一切言わないで、悩み苦しんでいる人はみんな自分の元に収容して保護し看護したのです。忍性律師とほぼ同時代に西洋では、聖フランチェスコ(フランチェスコ修道会の創立者。イタリア中部アッシジの生まれ。謙遜と服従、愛と清貧との戒律によって修道生活の理想を実現した:1182-1226)がおりました。聖フランチェスコのことは案外よく知られていて、かえって日本の祖先のことが忘れられているような気がするんですが、聖フランチェスコは偉い人ではありましたけどね、病人の福祉施設というものは作らなかった。つまりああいう収容団体を作ったというところに大きな意味があるんですが、それを思いますと、忍性律師の仕事というのは大したものだと思います。ところが、忍性律師が何故そういう志を起こしたか、と言いますと、これは聖徳太子の精神に激発されたというんですね。現に、忍性律師は聖徳太子の作られました四天王寺にお詣りして、その感化を受けております。あそこの別当もしていたこともあるというんです。聖徳太子の精神をじかに生かしたいと思った、ということは、彼の伝記にも書かれているんです。それで聖徳太子がどういうものを作ったかと申しますと、「敬田院(きょうでんいん)」―これは収容の施設です。「療病院(りょうびょういん)」―これは病院ですね。「施薬院(せやくいん)」―お薬を人々に与える建物。「悲田院(ひでんいん)」―これは困っている人々を収容する施設、こういうものを聖徳太子がお作りになった。それを受けて、のちの聖徳太子の寺院では、四天王寺など諸方面で四つの施設―四院(しいん)が作られた。その精神を忍性律師は受けているわけなんです。ただ残念ながら、日本ではその伝統がある時期に途絶えてしまったような気がするんです。これは現在今生きている我々日本人としては、祖先の業績の後を振り返って考えてみまして、改めてその精神を受け継ぐ、生かす、ということが必要じゃないでしょうか。

 

ナレーター:     新しい国作りの理想に燃える太子は、冠位十二階の制度を定めて、人材の登用を図り秩序を求めました。さらにその翌年には日本最初の成文法十七条の憲法が成立しました。それは部族同士の争いを克服して、これからの国の進むべき道を指し示そうというものです。

 

一に曰(いわ)く、和をもって貴(とうと)しとし、忤(さから)うことなきを宗(むね)とせよ。人みな党(たむら)あり。また達(さと)れる者少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず。また隣里に違(たが)う。しかれども、上和(かみやわら)ぎ、下睦(したむつ)びて、事を、論(あげつら)うに諧(かな)うときは、事理(じり)おのずから通ず。何事か成らざらん。

 

中村:  今の我々日本人でも、「和をもって貴しとなす」ということは、よく平生(へいぜい)申しますですね。そういう実践的な理解というものは、もう祖先以来のもので、遡れば聖徳太子にまで辿るものでございます。或いはそれ以前の文献には記されていない日本人の心というものが元になって、それが聖徳太子の十七条憲法にはっきりと明文化された、ということも考えられるのでありますが、これは日本人の生き方の根本を示して下さっていると思います。「人みな党(たむら)あり。また達(さと)れる者少なし」と。人間はどうかすると偏執(へんしゅう)があって、つい狭い仲間だけを作ってしまう。けど、それではいけないのだ。高い立場から道理を見なさいということを教えられているのでございます。

 

ナレーター:     一条に対して、十七条で太子を話し合うことの大切さを説き、恣意(しい)的な独裁を戒めています。

 

十七に曰く、それ事はひとり断(さだ)むべからず。かならず衆とともに論(あげつら)うべし。少事はこれ軽(かろ)し。かならずしも衆とすべからず。ただ大事を論うに逮(およ)びては、もしは失(あやまち)あらんことを疑う。ゆえに衆と相弁(あいわきま)うるときは、辞(こと)すなわち理を得ん。

 

中村:  自分一人で断定して行ってはならない。必ず他の人々とともによく話し合い、というんですね。過ちがあってはならないという気づかう心を始終持っていなければいけない。みなとお互いに話し合って決定するならば、自ずから道理に叶うようになるであろう、と。自ずから適当と思われるところへ落ち着く、ということが、もっとも望ましいと思うのであります。

 

 

ナレーター:  さらに太子は、和の精神を生きたものとなるための具体的な方法にまで触れています。中でも十条は、寛容の心に触れ、太子の精神が強く反映しています。

 

十に曰く、こころのいかり〈忿〉を絶ち、おもてのいかり〈瞋〉を棄(す)てて、人の違うことを怒らざれ。人みな心あり。心おのおの執(と)るところあり。かれ是(ぜ)とすれば、われは非とす。われ是とすれば、かれは非とす。われかならずしも聖にあらず。かれかならずしも愚にあらず。ともにこれ凡夫(ぼんぷ)のみ。是非の理、?(たれ)かよく定むべけんや。あいともに賢愚なること、鐶(みみがね)の端(はし)なきがごとし。ここをもって、かの人は瞋(いか)るといえども、かえってわが失(あやまち)を恐れよ。われひとり得たりといえども、衆に従いて同じく挙(おこな)え。

 

中村:  「心のいかりを絶ち、おもてのいかりを棄てて、人の違うことを怒らざれ」と。人と意見が違うこともある。目指す方向の違うこともある。けれども、怒ってはならない。「人みな心あり、心おのおの執るところあり」と。人は誰でもめいめいの心のある、自分の良しとするところがある。「かれ是とすれば、われは非とする。われ是とすれば、かれは非とする」と。自分はこれがいいなと思っても、他の人は、いや、そうじゃない、ということがある。自分一人が聖者なのではない、また他の人が必ずしも愚かなのではない。ともに凡夫に過ぎない。良いとか悪いとかという理は、誰が決めるであろうか。お互いに人間だ。足りないところもあるだろう。ちょうど輪の端を解いても、その端をとらえることはできないでしょう、ずーっと繋がっていますから。そのようなものだ、と。その心持ちが、この聖徳太子の十七条憲法のうちに表現され、我々に呼び掛けてくださるのであります。

 

ナレーター:     十七条憲法は、そのすべてに和の精神が貫かれており、仏の教えを現世に生かそうとする聖徳太子の悲願そのものとも言います。

 

中村:  改めて今日ゆっくりとお詣りさせて頂きまして、ことに聖霊殿に新たに障壁画が納められた。その背景のもとに太子像をもう一度拝まして頂きますと、改めて感懐を深く致します。ここに日本の宝がある、と。そして地域は限られていますけど、ここに日本の伝統の起こりがあり、何かの形で今の我々に伝えられているわけですね。聖徳太子の説かれた和の精神、あるいは実際の生活の中に仏教の精神を生かすという態度、こういうものは何かの形で我々に受け継がれている。たとい気付かなくともそこに生きていると思いまして、ほんとに尊いことだと思いました。これはただ過去のものとして終わらせるのではなくて、今の我々が改めて反省し、評価して、それで将来のグローバルな世界に生かせるものはまたそれぞれ生かしていきたいと、そういう思いを新たにしました。

 

     これは、平成元年二月二十六日に、NHK教育テレビの

     「こころの時代」で放映されたものである。

 

http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-mokuji.htm ライブラリーよりコピーし一部改変ワード化したものである。